近世幕藩体制の社会構造と明治維新の意味論 | Accel Brain

近世幕藩体制の社会構造と明治維新の意味論

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目次

派生問題:天下統一は如何にして可能になったのか

遅くても鎌倉初期には構造化されていた中世日本の社会構造は、その後鎌倉後期から南北朝・室町時代を経て戦国時代へと至る間に、更に変動することとなる。最も重要な変化点の一つとなるのが、禅宗の発展である。禅宗は6世紀前半に菩薩達磨によってインドから伝来し、中国で仏教の一宗派として確立された。日本に伝来されたのは、鎌倉時代初期のことである。禅宗は、中国の先進文明を反映した意味論として、日本においても特に、南北朝時代の内乱を経て権力基盤を拡大していた公や武によって大きな関心を集めた。禅宗は、仏教社会構造の体制強化の一翼を担っていたのである。

中世顕密仏教社会構造は、天台宗と真言宗に南都六宗を加えた「顕密八宗」として構成されていた。この構成が禅宗の導入によって変化することになる。禅宗が導入された背景にあるのは、権門体制としての国家基盤の変化である。まず、室町幕府が京都に開設されたことによって、国家権力の主要部分が武権門によって掌握されることとなった。また、各地域に設けられていた守護の権限もまた強化されたことで、地域支配権力が中央集権の国家から自立する度合いが増していた。それ故に諸国一宮の社会構造も変動することになる。つまり一宮による各地域の守護への依存度が高まったのである。

その一方で同時期には、三教一致説が浮上することで、儒教仏教、道教がそれぞれ本質は同一であるという思想が浮上してくる。中国では早くから、特に唐の時代から盛んに論じられていた。宋の時代に新たな儒学が成立したことで、排仏論が激化した。三教一致説はこれに対抗するために改めて強調された。日本に禅宗が伝来された際には、こうした中国での緊張関係も伝えられた。そして日本はこの三教一致説を儒教仏教神道の三者の一致説として再記述することで導入した。

この三教一致説は、まさに神道意味論形式化に貢献したと考えられる。禅宗の勢力が拡大されることにより、儒学思想がそれと一体を成す形で影響力を強めたことで、神道儒教仏教と対比させる形で、一個の自立した宗教であるという認識が強化されたのである。つまり、儒教仏教との差異が確保されることで、神道同一性に対する認識が強化されたのである。

諸国一宮の社会構造は、その後の戦国大名による両国支配体制が導入されたことにより、徐々に解体することになった。「公儀」の権力として両国内に絶対的な権威と勢力を誇る戦国大名の権力により、諸国一宮の宗教勢力としての自立否定されることとなったのである。この時点で諸国一宮は、大名の権力装飾以上の意味を持ち得なくなった。両国支配の影響力は、それまでの諸国一宮における各地の分散した「国」としての秩序を形骸化させることとなった。それ故に「国鎮守」も機能不全に至った。

こうした社会構造上の変異背景に、鎌倉時代に民衆への普及が進んだ仏教は、室町時代から戦国時代にかけて、次第に政治的な勢力を伸ばすことになった。その権威は、「応仁の乱」以降、徐々にその影響力を喪失させていた室町幕府に肉薄するほどであった。この政治宗教闘争は戦国時代まで続く。織田信長は北陸の「加賀一向一揆」や石山本願寺との間で、壮絶な戦を余儀無くされた。豊臣秀吉も、紀伊国の雑賀で発生した一向一揆の対処に手を焼いていた。徳川康もまた、三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、そして伊賀越えを経て、臣の半数が対勢力たる一向宗に寝返るという痛手を被っている。

武装した一揆勢力を軍事的に壊滅することは不可能ではなかった。だがそれだけでは、宗教に由来する勢力を根絶やしにすることができない。とはいえ宗教的な勢力を野放しにしておけば、いずれは幕府を転覆させ得る存在発達してしまう。それ故、当時「天下統一」を成し遂げようとしていた戦国武将には、戦略的な仏教対策が求められた。

問題解決策:儒教の意味論

そこで武将たちは、まず神道仏教や仏の対抗勢力として掲げることとなる。織田信長は安土城の一郭に總見寺という寺を建立し、「盆山」という石を御体として配置した。豊臣秀吉は後自ら「」と化すことで豊国大明として祀られるようになる。徳川康もまた、後は東照大権現と化して東照宮で祀られている。特に豊臣秀吉と徳川康の御体は神道手続きに準拠した上で正統化されている。奈良時代の鎮護国家仏教と強固に結び付いていたのに対して、戦国時代の鎮護国家神道と強固に結び付いていたのである。

徳川康が「寺請制度」を導入したのは、神道に準拠した仏教対策の一環である。寺請制度とは、禁制されているキリスト教や日蓮宗不受不施派 などの信徒ではないことを証明するために、個々人を檀那寺に「檀」として登録させる制度である。住居の移転や結婚、旅行などにおいても、檀那寺から発行される寺請証文が要請された。檀那寺とは、言わば戸籍を管理して住民票を発行する役所のような機能を果たしていた。そこには国民の大半の情報が登録されていた。寺院は、「檀」からの収入によって、経営的に安定化することとなった。これにより徳川康は、仏教寺院を幕府の体制の中に埋め込むことで、仏教を旨く飼い慣らそうとしたのである。

徳川幕府の特徴は、その社会構造が、神道のみならず儒教意味論によっても方向付けられていたという点にある。その政治システムの制度化において、徳川康は儒教を対仏教のイデオロギーとして利用していたのだ。

平安時代までの儒教は、朝廷の官僚養成機関において必修科目として一定の地位を維持していた。しかし鎌倉時代と室町時代になると、政治権力儒教とは縁遠かった武士の階級に移されることとなり、儒教は用済みとなっていた。この時代の儒教は、禅たちの教養の一つとして学ばれる程度の存在であった。ところが江戸時代になると、徳川康が、儒教意味論を禅寺から抽出して、政治の領域に導入させることになる。彼が儒学者である林羅山を御用学者として起用したのはこのためである。元々林羅山は京都の建仁寺で禅宗の修行に励んでいたが、後に相国寺の禅であった藤原惺窩の下で儒教を学んだことで、儒学者へと転身している。林羅山は封建教学に基づく制度を樹立したが、その背景にあったのは、儒教意味論である。

徳川康の後、林羅山は続く三代将軍、秀忠・光・綱の侍講も務めた。将軍光の時代には、林羅山は実質上将軍の政治顧問の地位に就任していた。幕府体制の要となる「武度」の制定にも関わった。その一方、光から土地を下賜され、後の湯島聖堂の前身である先聖堂や私塾を建て、それを幕府の儒教教学の本拠地にした。江戸中期になると、幕府は儒学の学問所となる「湯島聖堂」を開設することで、儒教社会的な普及を推し進めた。またこの時期には松平定信の主導下で、幕府は「寛政異学の禁」を発布することで、儒教の「朱子学」以外の学問の講義と研究を禁じることとなった。

新儒学としての朱子学

儒学とも呼ばれる「朱子学」は、中国南宋時代の思想である朱熹によって提唱された思想の体系である。石平が詳解しているように、朱子学儒学の中でも最も硬直したイデオロギーを有している。それは最も激しい原理主義的な特徴を持つ学問であった。

孔子が儒教を中国で生み出したのは紀元前5世紀の春秋時代である。だがこの儒教意味論政治的な権力の正統化の意味論として機能し始めたのは、その数百年後となる前漢王朝の漢の武帝の時代であった。そして更に約700年後となる581年に成立した隋王朝の時代に科挙制度が導入されたことで、儒学の経典が必修の試験科目として規定された。

しかし、孔子によって儒教が創始された春秋時代から科挙制度が導入された隋王朝時代までの約1000年間、儒学は学問的に大きな進展を見せなかった。孔子の談話集である『論語』にせよ、孔子によって編集された歴史書となる『春秋』にせよ、儒学が成立した当初の経典は、隋王朝時代にも再利用され続けた。だがこれらの経典は、言わば談話集のようなもので、儒教意味論理論的に体系化されている訳ではない。1127年の南宋王朝の時代になって漸く、朱熹により、儒学の思想の体系化が試みられた。そうして再記述された儒学が、新儒学としての朱子学である。

朱子学意味論は、「理」と「気」の区別を導入するところから始まる。「理」は「天理」であって、森羅万象を貫く基本原理である。一方、自然の万物を形成するためには、その材料となる原資が必要になる。それが「気」である。朱子学意味論では、万物は全て「理」と「気」の結合によって成り立っていることになる。

朱子学意味論では、人間もまた、「理」と「気」の区別で記述されている。人間構成している「理」は、人間の心に宿る「天理」である。この「天理」が、人間理性や真理であるという。心の中に「天理」があるのだから、人間は皆正しい理性道徳を有しているという。だが一方で、人間の中には「気」もある。「気」から生み出されるのは、肉体的な欲求やそれに基づいた名誉欲や金銭欲である。したがって人間の内面では、「理」に基づく理性と「気」に基づく欲求とが競合していることになる。一部の「聖人」を除いた他の人間たちは、「理」による理性を保ちながらも、「気」による欲求に突き動かされてしまうことで、私利私欲に走り、愚昧の大衆となってしまう。その結果、国が乱れ、天下が不安定になるという。

したがって朱子学意味論では、「理」による理性目覚め、「気」による欲求を切り捨てることを推奨する。そうすれば、誰もが完璧な聖人君子になれるのだという。そしてその結果として、天下はの満ちた社会になるという訳だ。いわゆる「存天理、滅人欲」は、このような理性を重視したスローガンなのである。

何処か旧いヨーロッパのキリスト教における禁欲主義的な世界類似しているこの思想は、「存天理、滅人欲」を目指すための「進歩史観」的な発達段階論展開している。第一段階となるのは、「格物致知」の段階である。それは、人間が「理」に目覚めようとするなら、まずは外部の事物を研究し、物事の中にある「理」を理解しなければならない。「格物」と「致知」はそれぞれ、この研究と理解を意味する。物の道理を弁えた後、次の段階にやるべきなのは、自分自身の内面に目を向けて、様々な工夫で心を鍛え、「理」に目覚めていくための修行である。その具体的な方法となるのが、「誠意」、「正心」、「修身」である。これらの方法共通して、自らの欲求や欲望を徹底的に撃退することで、正しき「理」を得ることを道理としている点である。最終的に、エリートの立場になった者が実践すべきなのは、「斉」、「治国」、「平天下」である。を整え、国を統治し、天下を平和へと導くのである。

このように、朱子学意味論は、「理」と「気」の区別を主導的差異とすることで展開される発達段階論的な実践哲学である。それは「格物」と「致知」から始まり「斉」、「治国」、「平天下」で終わる8段階の進歩を経て、人間と国にを宿らせる過程を記述している。しかしその理念は、単に理性を至上の存在として崇めることで、原理主義的に人間の欲求や欲望を拒絶する概念を提示している。そしてその上で朱子学意味論は、「格物」と「致知」から「誠意」、「正心」、「修身」までの個人の発達段階を、「斉」、「治国」、「平天下」という社会発展へと直線的に結び付けている。恰も「人間」が変われば「社会」も変わることを自明化するかのような論理的な飛躍を伴わせていた思想が、中国を代表する新儒学としての朱子学の内実なのである。

要約するなら、新儒学としての朱子学は、「社会」の発展を「人間」の発達に帰責する「他人任せ」の政治思想に過ぎない。

反朱子学

幸いなことに、こうした思想的陥穽を孕んでいた儒教は、日本社会の全体に普及したとは言い難い。確かに、徳川康が儒学を幕府の政治的な理念として採用した時期には、朱子学が東アジアで圧倒的な支持を得ていた。林羅山も朱子学者であった。それ故、徳川幕府が採り入れた儒学もまた、飛鳥時代に日本に伝来したような伝統的な儒学ではなく、新儒学としての朱子学であった。徳川幕府は当時の流行を踏襲したのである。しかし、当時の日本社会の民間では、既にや親鸞をはじめとする鎌倉新仏教も周知されていた。人すら含め、誰もが成仏できると謳う親鸞のような仏教徒の訓えを知る日本人にとって、欲求と欲望の尽くを否定する朱子学の原理主義的な禁欲は、受け入れ難い思想であった。

幕府が建立した「湯島聖堂」のような儒学の学問所も、実際には林羅山の子孫たちが司る林の「私塾」という位置付けにあった。また幕府の「寛政異学の禁」の影響力も限定的であった。それは民間には及んでいない。江戸の儒教はあくまでも武社会における思想に過ぎなかった。江戸や大阪をはじめとした商業都市や各藩の城下町のような町人社会では、武社会によって統治されていた訳ではなく、自治管理が徹底されていた。幕府は町人の思想を統制していなかったのである。

この関連から石平も着目しているように、江戸時代の日本社会には中国や朝鮮の科拳制度が存在しなかった。中国や朝鮮の場合、知識人の目指すべき科挙試験は儒学主題としていた。どの階層の出自であろうと、エリートになろうとする者ならば、皆まず儒学を学ぶしかなかった。しかしこれに対して日本には、町人たちは無論、武社会の人々も、科挙とは無縁であった。日本の社会構造は、儒学を強制する制度を構築していなかったのである。

古義学

朱子学への思想的な反論も無かった訳ではない。古義学派の創始者である伊藤仁斎は、新儒学としての朱子学が記述する諸概念が、『論語』にも『孟子』にも記述されていないことを指摘している。「格物」と「致知」から「誠意」、「正心」、「修身」までの個人の発達段階にせよ、「斉」、「治国」、「平天下」のような社会発展にせよ、孔子や孟子によって言及されてはいなかったのだ。つまり、朱子学の原理主義とその実践形式は、あくまでも朱熹の見解に過ぎず、従来の儒教意味論との間には大きな差異があることを伊藤仁斎は見抜いたのである。

伊藤仁斎は、朱熹が儒学に誤った解釈を付加したと考えていた。朱熹の『四書集注』は朱子学主題とした主著であるものの、その内容儒学の古典に対する彼自身の注釈で埋められている。伊藤仁斎によれば、それは儒教に対する曲解に基づいた解説であった。

朱熹の方法に問題を見出した伊藤仁斎は、儒教本来の思想に回帰すべきとする「古義学派」を立ち上げることで、朱子学による注釈を一掃した上で、『論語』や『孟子』などのような古典の言葉を本来の意味で熟読すべきであると考えたのである。

朱子学は「理」と「気」の二元論に傾倒していた。だがこれは『老子』にも『孟子』にも存在しない性格だ。伊藤仁斎によれば、朱子学の「理」は残忍酷薄の心の生じる根源であると共に、「理」に準拠する人間は結局「寛裕仁厚の心寡なし」という。これに対し伊藤仁斎は、「天理」とは対極を成す「愛」の原理を掲げる。「理」を論じる朱子学人間の外部から人間の心を絶対的な原理で支配しようとしているのに対して、「愛」を主題とする儒学は、君臣や族や盟友などのような具体的な人間関係において、内発的に動機付けられた生身の人間の心を重視する。

古文辞学

伊藤仁斎を批判的に継承した荻生徂徠もまた、朱子学は朱熹による憶測に過ぎないと喝破した。そして彼は、伊藤仁斎の「古義学」と同じように、古代中国の古典を判読する方法論として、「古文辞学」を確立した。

荻生徂徠によれば、真の儒教とは、朱子学にある訳でもなければ、儒教創始者である孔子にある訳でもなかった。孔子の学問もまた、一儒教者の個人的な見解に過ぎない。むしろ儒教の根幹を成しているのは、孔子自身と後世の儒学者が崇拝してきた古代の「聖王」や「先王」である。それは、伝説上の人物とされる尭、舜、禹、そして古代王朝の創始者たちである湯王、文王、武王、そして周公によって構成される、儒学者たちが理想的な統治者として推奨する中国古代王朝の7人の君主のことである。儒教世界では、この7人の王が、最も賢明にして最も偉大なる「聖王」として崇拝されているのである。

荻生徂徠が儒教の原点として回帰したのは、この「聖王」たちである。荻生徂徠は、彼自身の研究に基づき、「聖王」たちの認識の共通項が、古代中国の国家秩序を維持するために機能していた「礼楽刑政」の意味論にあるという結論に到達する。それは、礼節、音楽刑罰、政令という、社会的な秩序と平和を維持するための政治制度の全てである。

荻生徂徠は、儒学髄は言葉文字で語られるような理論にあるのではなく、儒教自身が崇拝する「聖王」たちによって造り上げられた「礼楽刑政」という実態的な政治制度の仕組みや体系こそにあるという。それ故、後世の儒学者たちの記述は、所詮は「礼楽刑政」に対する儒学者たちの解釈に過ぎず、現実政治制度の理論化に過ぎない。しかも荻生徂徠によれば、「礼楽刑政」に対する正しい解釈があり得たのは、精々のところ孔子までであったという。後世になればなるほどその解釈は実態から離れていった。そして朱子学になると、その解釈は単なる曲解に過ぎなくなった。

尤も、歴代の儒学者たちの記述が単なる解釈に過ぎないと喝破する荻生徂徠自身の記述もまた、単なる解釈に過ぎない部分が無い訳ではない。荻生徂徠が強調する「礼楽刑政」の正当は、「聖王」たちの賢明によって保証されている。だが、「聖王」たちの賢明が何によって保証されているのかについて、荻生徂徠は何も述べていない。荻生徂徠にとって、「聖王」の賢明は自明の理であったのだ。しかしこの自明が通用するのは、儒教意味論の枠組みの中でのことである。別のあり方でもあり得る、例えば神道仏教観点かられば、荻生徂徠もまた単なる儒学者の一人に過ぎなくなるのだ。

問題解決策:吉田神道

仏教意味論として着目すべきなのは、やはり儒教ではなく、神道なのである。実際戦国大名の登場と相まって、室町時代から吉田兼倶によって体系化された「吉田神道」が大きく発展することとなる。これにより、「」と「仏」、神道仏教の表裏一体の関係が否定されることにもなった。

顕密仏教、荘園公領制、そして諸国一宮の社会構造が実態を喪失すると共に、寺社の宗教勢力と世俗社会政治権力を担う公と武の相互補完的な関係を前提とした「仏相依論」の意味論も崩壊することになった。そして宗教勢力は、世俗社会政治権力に従属せざるを得なくなった。だがこれに対して吉田神道論は、神社神道仏教神道のようなそれまでの神道とは区別される独自の意味論を提供していた。吉田神道論においては、中世成立期以来の神道意味論を「本迹縁起神道」と「両部習合神道」に区別している。そしてこの双方が共に誤っていたと主張することで、代替的に「唯一神道」を提唱している。「唯一神道」とは、天地の根源、万物の霊の権限である大元尊に準拠し、卜部の祖先天児屋命を経て現在まで伝承されてきた唯一至高の「神道」である。まさにこの唯一至高が、インドに由来する仏教や中国の儒教とは区別される日本固有の神道であるという。

顕露教と隠幽教の差異

吉田神道論は宗教的教義のみならず実践的な儀礼形式も提供していた。兼俱は、「唯一神道」が具体的には顕露教と隠幽教の二面をもつとし、前者が『古事記』『日本書紀』などに依拠する「神道」教説であるのに対し、後者は「天元妙経」「地元妙経」「人元妙経」にもとづいて立てられた究極秘奥の教えであるとした。そして、後者に対応する十八神道三元三妙三行の加持祈禱が創出され、それを実践して内外の清浄を実現することこそ重要だと強調された。

ここにいう顕露教と隠幽教との区別と連関というのは、仏教でいう顕教密教との関係になぞらえたものである。隠幽教の教典とされた三書も、ともに道教や密教思想などにもとづいて創作された架空のもので、実際には存在しなかった。また、兼俱は仏教とは異なる葬祭という独自の葬送儀礼を考案し、来世の魂のゆくえをも視野に収めた、仏教に対抗できる宗教儀礼の独自の体系化に努めた。

組織システムとしての教団

吉田神道は、少なからず日本の神道においては、歴史上初めて社会的な宗教組織、「教団」の確立を目指して構築された。教団とは、特定の仏や教義信仰する信者を、恒常的な体系を持つ社会集団として編成した宗教組織である。これは、それまであった典拠となる仏教経典やその解釈差異に基づいて成立する「宗派」とは異なる概念である。

その先陣を切ったのは、一向宗の蓮如である。蓮如は念仏の教義を書簡形式でわかりやすく説いた「御文」を配布し、持続的で固定的な信者を獲得した。その一方で、山科本願寺や大坂石山本願寺などを創建して、全国の信者の組織統一を進めた。やがてそれは、「天下統一」を目指していた信長・秀吉との「石山合戦」を通じて、より強固な教団組織へと発展していった。

こうした動きを受けて、華宗や曹洞宗を始めとする他の諸宗派でも同様の動きが拡散した。吉田神道が一個の宗教教団の構築を目指したというのも、仏教側におけるこうした動向を踏まえてのことであると考えられる。尤も、吉田神道の場合は職層の組織化こそが目的であって、その影響が信者にまで及んでいた訳ではなかった。この点では、一向宗などの仏教側の動きとの間には差異もあった。

派生問題:近世幕藩体制は如何にして可能になったのか

織田信長や豊臣秀吉の思想は、この吉田神道意味論に準拠している。とりわけ豊臣秀吉の切支丹政策の中には、吉田神道意味処理規則を見て取れる。吉田神道の思想を後ろ盾として、「日本」は「神国」なりという「神国」の意味論に準拠していた豊臣秀吉は、「神国」に相反する訓えとして、キリスト教を排除していったのである。

1582年に京都本能寺で没した織田信長の遺志を継ぎ、豊臣秀吉の手で天下統一が進められた。そしてそれに続く形で徳川康が1603年に江戸幕府が開かれた。これにより近世日本の幕藩国家構造化された。この中世から近世への社会構造の転換は、約1世紀半にも及ぶ長期間の戦国争乱の結果として生じた一種の社会進化であった。この社会構造の変動により、神道仏教に関わる宗教意味論もまた変異することとなる。

しかし豊臣秀吉と徳川康が準拠した神道意味論にも差異があった。徳川幕府は、吉田神道と天台の山王一実神道の勢力争いによって構造化されていた。と言うのも、吉田神道を支持した者は豊臣秀吉を支持したことになるためだ。徳川康はそうした派閥とは一定の距離を置こうとしていた。この派閥の争いの仲介役を担っていたのが、天台宗の政である天海であった。天海は山王一実神道を設計することで、徳川康を東照君として祀った。これが、かの日光東照宮の始まりである。

豊臣秀吉は吉田神道で祀られていた。彼の後の号は「明号」であった。これに対して、天海は徳川康に「東照大権現」という「権限号」を与えることで、豊臣秀吉との差別化を図った。権限号は、天台神道の教学に準拠した形式である。

江戸の幕藩体制では、神道におけるこの二つの派閥の鋭い対立に留まらず、更には垂加神道のような儒学系の神道流派や国学復古神道、そして皇室との関連では白川神道が次々と展開された。近世の宗教は基本的に全て徳川幕府の権力体制を支えることで承認されていたものの、無論各宗派の競合が全く無いという訳ではなかった。

世界史的にも、近世における日本の社会システムは、新たな外部環境に接することとなる。中世までの段階では、イスラム社会や中国が先進文明の中心に君臨していた。これに対し近世の時代では、欧州諸国が15世紀松のイベリア半島におけるレコンキスタ(Reconquista)を完遂させると共に、太平洋の先に新大陸を発見することになり、いわゆる大航海時代が展開されていた。この影響から「日本」は、16世紀中盤に鉄砲の伝来やキリスト教の伝来など、西洋の影響を被ることとなる。

問題解決策:社会システムとしての「鎖国」

近世日本の社会は、組織化された軍事力を背景として武士階級が国家権力の主流を担う武士中心の構造構成していた。兵農分離と主従制で結ばれた武士による武力の独占が、戦国大名の武力制圧を前提とした平和秩序の実現の背景を成していた。キリスト教の禁制を名目として進められた海禁政策、すなわち「鎖国」は、世界史的な外部環境変異に対応する策であった。近世日本の社会構造は閉鎖的な空間の中で秩序を構成していたのである。そしてその社会的な秩序は、様々なシステムとして観察できるほど、複合性を高めていた。

  • 政治システムとしてれば、近世日本の社会構造は成熟した封建制社会様相も呈していた。小農民経営は高い生産を発揮していた。その農民が納める年貢や諸役は、生産物地代制により、全て公的に規定された土地生産高で示された。年貢納入制度は村落の自治を前提とした農民の自己責任によって運用されていた。また武士の軍役など、社会的な役割は身分制度として形式的に規定されていた。権力関係では、相対的な自立を有した地域支配権力としての藩と、中央集権的な国家権力としての幕府との相互依存関係の中で、国家が作動することとなった。こうした幕藩制の権力が「公儀」として機能する上で、「天皇」が固有の役割を担っていた。
  • 経済システムとしてれば、江戸、京都、そして大阪を中心として、全国の城下町を結び付ける形で構成された領主のための全国規模の流通市場と、水陸両面に渡る流通と交通のネットワークが整備されていた。
  • 法システムとしてれば、近世日本の社会構造は徹底した治主義に準拠していた。こうした治主義は、幕府、藩、村などのように、重層的な体系として整備されていた。
  • 宗教システムとしてれば、近世日本の宗教はキリスト教の禁制を背景とした価値の一元化として形式化していた。このシステムとしての宗教は、キリスト教という外部環境との差異を確保することで構造化されていた。キリスト教をはじめとした西洋文明との遭遇は、中世を通じて支配的な位置付けにあった仏教世界を相対化する結果を招いた。中世の社会構造構成していた顕密仏教の体制崩壊を伴わせた最も大きな原因の一つは、キリスト教の伝来に他ならなかった。

問題解決策:仏教の社会構造と吉田神道の意味論

しかし、近世日本の社会構造においても、仏教は依然として日本の社会構造を方向付ける意味論を提供し続けた。尤も、この仏教意味論機能し続けたのは、そもそもの日本の社会構造が「鎖国」を前提に構成されていたためでもある。言い換えれば、「鎖国」の政策を前提とした場合にのみ、幕藩制の権力を維持することが可能であった。それ故に近世の仏教は、「鎖国」の政策を展開する幕藩制に言わば依存し、服従せざるを得なかった。

鎖国」へと依存し始めた仏教社会構造は、幕藩制に基づいて再構成されることになった。戦国期に宗教教団として組織化された仏教は、「高野山度」などのように、幕府が宗派ごとに本寺末寺制度を通じて全国の寺院侶を統括する方針を提示したことで、その近世的な寺院制度に従事することとなった。一方、幕府は本山の許可を得ていない寺院である「私寺」の建立や、新しい宗派の確立を禁止した。

幕府の宗教統制は、仏教のみならずキリスト教にも及んだ。これに関する解説は、いわゆる「踏絵」を例示すれば事足りるであろう。しかし神道に関しては、積極的な禁止の対象とはならなかった。近世になっても、吉田神道の優位は揺るがなかったのだ。勿論、神社に関しては、1665年に諸宗寺院度と共に諸社禰宜度の五か条が発令されたことで、全国の神社職に統制が加えられた。この令は、有力神社以外の中小神社が建立する場合には、吉田許可証が必要ににあるという内容であった。

江戸幕府は、吉田神道を公認することで、その吉田職の本所と規定することによって、神社職の掌握と統制を図った。吉田が代々「祓管領長上」を名乗っていたのも、吉田神道を代表する存在であると幕府が公認していたからに他ならない。

江戸幕府は寺院を中心とすると共に、本山・本所から末寺・末社という階層的に分化した構造によって宗教を統制しようとした。尤もこれは形式的な統制に過ぎず、民衆の信仰心を制御する政策ではなかった。故に支配者層かられば、民衆を統制し続けることが課題であり続けた。特に、ただ単に支配に従うだけではなく、民衆の側から主体的かつ積極的に社会的な秩序を担うことが期待された。中世の時代から成長を遂げた民衆は、今や日常道徳の実践主体として観察されるようになっていた。それ故に、彼ら彼女らの主体や能動社会的な秩序の維持へと動員することが必要不可欠と見做された。

一連の問題設定問題解決策として利用されたのが、宗教機能である。仏教儒学神道の三つの宗教は、共にこの問題設定に対する機能的に等価問題解決策として展開されている。

問題解決策:儒学と神道の区別

鈴木正三の職分仏行説は、被支配身分である農民、職人、商人をはじめとした民衆を対象とした仏教意味論を提供している。鈴木正三は、天道の原理に基づいて、身分や職を絶対的な不変のものとして、支配秩序の不変を記述している。その一方で鈴木正三は、現世の職に励むことがそのまま来世への保障となる仏行となると主張することで、民衆の内面的な主体形成に言及する。こうして鈴木正三は、職を通じて社会的な秩序に主体的に貢献することを主題化して促している。

鈴木正三の論は、儒学による排仏論や仏教無用論に対抗して提起された。鈴木正三は、仏なくして世も実行され難いと主張することで、幕藩制の国家が直面する思想的な問題の解決策として、仏教の必要を説いた。

これに対し、儒学では、仏教と相対する主張が展開された。松永尺五をはじめとした儒学者たちは、現世が無ければ後生も無いという観点から、仏教思想に対抗する形で、儒学思想に基づく天道理念を独自の意味論として記述したのである。天道は、現世と来世を共に支配する道である。そして現実の支配関係は、この天道の秩序が現世に発現した絶対的な関連である。人間は、この天道が指し示す道を誠実に実行することによってのみ、来世の安寧を得るという。あくまで世俗社会を基点とした倫理を提案することで、儒学意味論仏教意味論から自らを区別したのである。

近世日本では、儒学神道は一体の関係で発展している。と言うのも神道もまた、仏教とは異なり、世俗社会を基点とした意味論を提供しているためである。中世末期の吉田神道は、「唯一神道」を記述することによって、一つの自立した思想として神道意味論を記述した。しかし吉田神道において重視されたのは、神道理論の体系化というよりも、仏教に対抗できる独自の宗教組織を構築することであった。それ故、この時点での神道理論は、まだ体系的な理論としては不十分な完成度であった。

神道理論の体系化が進捗したのは、近世日本の社会構造儒学発展影響によってである。つまり、社会的な秩序の維持という問題設定の枠組みの中で、機能する問題解決策として、神道意味論が記述されるに至ったのである。

神道意味論の再記述として口火を切ったのは、林羅山である。林羅山は、「唯一神道」が「道の訓え」に反していると批判することで、儒学思想に基づいた新しい儒合一論としての「理当心地神道」を展開した。これに対し、吉田神道の間でも、吉川惟足が儒学神道の側に包摂する儒一致の神道説である「吉川神道」を提唱した。度会延佳も儒学思想を神道に採り入れることで、「伊勢神道」を近世化した。この貢献により、中世伊勢宮の「神社神道」は、「伊勢神道」として再記述されることとなった。

一方、儒学から自らを区別する神道意味論存在していた。山崎闇斎の「垂加神道」はこの典型である。神道社会的な秩序の維持機能を確固たるものとしたのは、この「垂加神道」であったとも考えられている。こうして、社会的な秩序の維持という問題設定の下で神道意味論が再記述されたことで、吉田神道は存続していたとはいえ、いわゆる「神道」とは専ら社会的な秩序の維持機能であるという認識が、社会的に普及するようになった。しかもそれは中世における神道とは異なり、天皇や将軍による統治を正統化する意味論として結実していたのである。

派生問題:中国漢文明の衰退

とりわけ「垂加神道」に始まるいわゆる「神道」が「天皇」の正統化の意味論として認識されるに至った背景にあるのは、日本の社会システム外部環境の関連である。日本の南北朝時代に成立して、その後300年ほど存続していた中国漢族の国家である明に代わり、異民族である満州族の征服王朝である清が1644年に中国全体を支配することとなった。

兼ねてより先進的な文明国である明に対抗する形で自国中心主義を提唱してきた日本の幕藩制の社会構造の支配者層の眼には、清王朝の成立は中国漢文明の衰退として映った。まさにこの中国文明との差異を確保することで形式化していた日本固有の宗教としての神道は、その自己同一性を不安定化させることになった。しかしそれと同時に、同じく中国に由来すると捉えることのできる儒教儒学の地位も、神道に比して相対的に低下させる結果を招いた。

問題解決策:神道の意味論の自己記述

そこで正統化の意味論としての「神道」の意味論は、その自己記述を改めることになる。荒野泰典や井上寛司が述べるところの「日本型華夷秩序」は、この神道意味論自己記述から成立した。それは、武力を背景とする海禁政策、すなわち「鎖国」を踏まえた古代の「小帝国主義」の近世版として位置付けできる。

そこでは、「鎖国」としての日本から外部の国際社会へと接続される接点が四つに区別される。つまり、蝦夷地を「異域」、琉球を「異国」、朝鮮を「通信国」、そしてオランダと中国を「通商国」などと称して、それぞれ区別することにより、江戸を中心とする日本を強大な一個の自己完結した世界として記述したのである。こうして神道意味論は、日本社会の内外の差異を明確に記述することによって、中国の影響も含まれる神道と日本固有の神道差異を確保したのである。

しかしこの神道意味論による日本社会の内外の区別の導入は、儒学と合一していた神道意味論との矛盾した関係を派生させた。17世紀末から18世紀までの日本は、八代将軍徳川吉宗が実施した「享保の改革」に象徴されるように、幕藩制の社会構造政治的にも経済的にも様々な矛盾を抱えていたことで、その支配体制を抜本的に再構築することが期待されていた。

この社会的な要請に対して、またしても宗教機能が求められた。儒学の分野からは荻裕徂徠が、中国明代の新しい学問方法である古文辞学を六経の解釈に応用する意味論を提供した。この意味論においては、真の道となるのは聖人が造り上げた治国のための制度や文化であることが強調されている。この発想に準拠することで、荻裕徂徠は自国中心主義的な垂加神道を痛烈に批判した。それは、日本固有の「神道」に対する痛烈な批判意味した。荻裕徂徠の目論みは、儒学思想が有する普遍的妥当性を以って幕藩制の社会構造を再構築することであったのだ。

問題解決策:「復古神道」としての「国学」

しかし日本固有の「神道」を重視する立場かられば、この荻裕徂徠の主張は到底容認できない。日本固有の「神道」を主張する者たちは、儒教の訓えが、世を正す聖人の訓えを押し売りであると考えて、日本には改めてそれを導入する必要は無いと反論した。つまり日本固有の「神道」を重視する者たちにとっては、儒教の訓えに耳を傾けるまでもなく、日本には既に世を正す質が備わっていると考えたのである。いわゆる「国学」や「国体論」は、こうした日本の質を記述する意味論として機能していた。

国学」は、儒学における古文辞学の成立とほぼ同時期に提唱された。それは日本の古典や古代史についての新たな思想として記述されている。それは「復古神道」と呼ばれる新たな「神道」の意味論として成立した。「国学」を牽引した本居宣長は、「神道」は日本に固有の「の道」であると主張した。本居宣長によれば、「神道」とは、日本社会に固有の習俗として生活規範形式化してきた意味論なのである。その日本固有の「神道」は、確かに「道」として認識されてはいなかった。だが歴史上、諸外国の宗教から区別するために、「の道」という名が付与されたのだという。

それ故に、ただ単に中国のような先進文明に感化されて宗教を記述するだけでは、「の道」を正しく理解することができない。むしろそうした諸外国の文明との差異観察することで、「神道」を記述していくことが必要となる。だからこそ「国学」の意味論では、古より伝来されてきた『古事記』をとりわけ重視することになる。そして国学者たちは、『古事記』の注釈書となる『古事記伝』を完成させた。

国学」は、その中国に対する排他的な記述から、儒学仏教などのような外来宗教からの自立化を一挙に成し遂げることとなる。元々儒学の思想と接近していた神道意味論は、ここにおいて、儒学からも自らを区別するようになったのである。こうして「国学」は、神道意味論を、「日本の神道」の意味論として再記述した。これに伴い、「国学」的な「神道」の意味論は、その後の日本の社会構造を方向付ける中心的な意味論として機能するに至った。

本居宣長の成果を継承した平田篤胤は、「国学」的「神道」の意味論を更に展開した。平田はその展開において、霊魂の救済という観点から後の安寧を「国学」的な「神道」に関連付けた。平田は、後大国主命の主宰する幽世に行き、そこで大国主命の審判を受けると考えた。そして天之御中主を主とする造化三を万物の生成消滅の根源として捉えた。注目すべきなのは、平田の時点で、「国学」は後という超越的な世界を明確な主題として掲げるようになったということである。平田以降の「国学」的「神道」の意味論は、「超越」と「内在」の区別を導入することによって、自らを宗教意味論として再記述したのである。

そしてこの「国学」的な「神道」の意味論宗教化によって、「神道」は、宗教意味論に準拠した政治的支配思想として機能するようになった。実際、平田以降の「国学」的な「神道」の意味論は、地方の豪農層や官の間で普及したことで、幕末の尊王攘夷運動に多大な影響を与えたとも言われている。

「国学」的な「神道」 VS 吉田神道

国学」的な「神道」の意味論観点かられば、吉田神道の「唯一神道論」もまた批判の対象となっていた。「国学」的な「神道」に比べれば、吉田神道の「唯一神道」は、まだ仏教や道教の影響排除し切れていなかった。それ故、真正の日本固有の「神道」であるとは認められなかった。

しかしこの吉田神道意味論は、神社祭祀や信仰を日本固有の「の道」と結び付ける意味処理規則であるが故に、神社祭祀や信仰をそれ自体として体系化する記述を否定する意味論でもあった。むしろ、この吉田神道意味論によって、それまでそれ自体として記述できていた神社祭祀や信仰が、「天皇」の統治の範疇で再記述されるようになったのである。これは、神社祭祀や信仰をはじめとした従来の神道が、日本固有かつ天皇統治下の「の道」として展開されたことを意味する。

尤も、吉田神道は幕府によって公認されていたために、吉田職の本所としての地位は揺るがなかった。しかしながら、「国学」的な「神道」の意味論に触れた吉田の唯一神道論は、その後変容することになる。吉田は「国学」的な「神道」の意味論を受容することで、天照大御神の道こそを「の道」であると、考えを改めたのである。それ以来、吉田神道の間では、祓祭祀を主体とした「祓道」を「神道」であると主張されるようになった。この主張は、「国学」的な「神道」の意味論と同様に、日本固有の「の道」を重視する観点から投げ掛けられている。

問題解決策:「国体」

国学」的な「神道」の意味論が普及した背景にあるのは、18世紀末から19世紀の日本の社会構造である。「寛政の改革」や「天保の改革」の失敗、幕藩の財政危機や災害飢餓、一揆や打ちこわしの勃発などに表れているように、幕藩制の社会構造は多くの攪乱要因を抱えていた。外部環境においてはロシアをはじめとした列強諸国が日本に押し寄せてきたことで、門戸開放政策を迫られることとなった。幕藩制の社会構造は既に存続が危ぶまれていたのである。国体の思想は、こうした日本の社会構造の内外の危機に対する問題解決策として導入されたのである。

国体」の思想は、日本の社会構造の内外におけるそれぞれの危機に対応する形で導入された。「国体」という用語は中国に由来する。それは、国家組織形態、対外的な体面を意味する。しかし、単に単語の由来を探るだけでは、歴史的な概念の関連を見落とすことになる。18世紀後半の日本の社会構造においては、この用語が、「天皇」の意味論との関連から記述されるようになった。「国体」という概念は、日本に固有の民族的な特殊を言い表す概念として定着したのである。

後期水戸学における「尊王攘夷」の意味論

天皇」の意味論が提供する意味処理規則においては、「国体」という概念の起源は、「記紀神話」にあるとされる。「天皇」の意味論における「国体」の思想とは、日本の尊厳と優越を主張する思想を意味する。この思想の背景にある理念は、主に水戸学によって叙述されている。水戸学とは、江戸時代後期の水戸藩で生じた国家主義的な思想である。「水戸学」という用語は、広義の意味では水戸藩の学問全体を指していた。しかし狭い意味では、19世紀以降に水戸藩で発達した固有の学風を指す。一般的に「水戸学」という概念は、後者の狭い意味で規定されている。水戸学は、江戸時代では、「水府学」や「天保学」とも呼ばれていた。「水戸学」という用語で統一されたのは、明治維新以後のことである。それは天保年間以降のことで、この頃から水戸学意味論の固有が認識されるようになっている。

水戸藩で学問が発達したのは、第二第藩主である徳川光圀が学者を招集して『大日本史』の編集に着手したことに由来する。ただし、徳川光圀の時代を中心とする前期水戸学と具体的に「水戸学」と呼ばれるようになった後期水戸学との間には、大きな差異がある。前期水戸学が主に儒教朱子学を思想上の基盤とした歴史学的な性格を有していたのに対して、後期水戸学は荻生徂徠の唱えた新しい思想と国学の思想の影響の下に独自の理念として形態化した現実政治的な問題解決策として記述されている。確かに、前期水戸学は後期水戸学の源流ではある。だが双方の間に意味論上の連続性は認められない。

水戸学理念に対して最初に明確な表現を与えたのは藤田幽谷である。水戸城下の古着商のに生まれた藤田は、幼少の頃から儒学の分野で頭角を現し、やがて『大日本史』の編修に携わる。その後藤田は政治的な問題に対しても積極的な姿勢を見せた。彼の論文の『正名論』では、君臣の上下関係の名分を正しく規定することが、社会的な秩序を維持するための基礎となることを説いた。これが後の「尊王」思想に多大な影響を与えることになる。

藤田の思想は門人の会沢正志斎らによって継承された。会沢の『新論』では、1825年に幕府が異国船打払令を公布したことを契機として、政治改善と軍備の拡充の具体案が記述されている。ここで注意しなければならないのは、単に技術的な意味での軍事拡充だけでは意味が無いということだ。むしろ重要なのは「民志を一にす」ることで、国民意志を統合することである。国民意志を統合することによって、国家の目的に対して自発的に協力させるのである。その民心統合のための手段として提唱されたのが、「尊王攘夷」の概念である。「尊王」と「攘夷」は、それ自体が目的ではなく、国家体制を強化するための手段としての意味論であった。

尊王」の意味論と「攘夷」の意味論を記述したのは会沢が初めてではない。だがこれら二つの意味論を統合して一つの意味論として記述し、それを「国体」の社会構造へと関連付けたのは、会沢が最初である。

18世紀末以降における常陸水戸藩第九代藩主である徳川斉昭を中心に発展した後期水戸学派の会沢安は、日本の社会構造における内外の危機的状況を「内憂外患」として問題視した上で、「記紀神話」に基づいた建国理念を記述した。会沢は、この理念を守り続けることで「国体」を維持してきた歴代の日本人の道義に準拠することで、「天皇」が統治する日本の有意性を主張した。会沢の「国体」思想は、「天皇」を中心とした「国体」による日本の国家統一理念と、それを実現するための祭政教一致を説く意味処理規則となっている。

資本主義の精神

国体」の意味論は、日本の社会構造の内外の危機的状況に相対する意味論である一方で、それ自体が幕末から明治維新までの社会構造の近代化の過程から影響を受けて記述されている。特にこの近代化の過程で生じたのが、資本主義的な経済システム発展である。つまり「国体」の意味論が記述された時点で、既に前近代社会から近代社会へと、社会構造変異が生じていたのである。近代社会の社会進化の只中で生み出されたのが、「国体」なのである。

周知のように、この資本主義的な経済システムに立脚する社会では、大航海時代以降の歴史を歩んできた西洋諸国のキリスト教的な価値が支配的であった。兼ねてより日本における幕藩制の社会構造は、こうした外来宗教に対する抵抗としても展開されてきた。資本主義的な経済システム発展により、日本の社会構造は、この宗教的な外の脅威により一層曝されるようになった。

上述したように、外来宗教への抵抗は近世日本の社会構造において既に始まっていた。「儒学神道」は「復古神道」へと展開された。これにより、会沢の国体思想が記述された時点で、既に日本の社会構造は「天皇」中心主義的な様相を呈していた。会沢の祭政教一致論は、「天皇」の祭祀を頂点とした国家的な儀礼体系を整備した。この意味論においては、「々」への崇拝と国家への帰属が、共に日本の「国体」を維持保全するための宗教的儀礼体系として機能していたのである。

しかし、この「国体」はあくまでも形式として導入された概念である。形式的であるというのは、その対概念があるということでもある。実際、当時の日本国内に存在していた既成宗教は、皆幕藩制の社会構造における政治権力への従属を強いられていた。国家体制を補完する機能としてしか動員されていなかった当時の諸宗教は、現世の難儀な諸問題に苦悩する民衆の問いに応える意味論は提供できていなかった。

それ故、1800年代初期には、この現世の苦悩に関する「埋め合わせ(Kompensation)」として、様々な宗教が相次いで登場した。例えば尾張国の一尊如来きのによる如来教、備前国の官黒住宗忠による黒住教、大和国の農婦中山みきによる天理教、そして備中国の農民赤沢文治が、それぞれ開かれた。これらの新宗教は、いずれも「生き」を信仰の対象とした現世中心主義的な宗教であった。「生き」の信仰においては、生きた人間として崇めることになる。それは帰属や武士ではなく民衆自身がとして崇められるということである。これら新宗教共通問題設定となっていたのは、現世の病理である。これらの新宗教では、この現世の病理が、「生き」たる仏や布教者への信仰によって回復できるという意味論を記述していた。

派生問題:明治維新は如何にして可能になったのか

江戸時代の日本は、世界でも類を見ない封建制度を確立していた。日本はこの制度に基づいて、200以上の藩が割拠し、各藩主によって全国が分割統治されていた。中心に位置していたのは徳川藩である。一方、周辺では地方政府が自立的な統治を展開していた。この幕と藩の区別によって構成されていたのが、徳川の幕藩体制であった。

江戸時代の日本では、徳川幕府が中央政府として支配的な地位に位置付けられいたとはいえ、原理的には徳川藩もまた藩の一つであった。幕府の令は、天領においてのみ施行された。それが他藩に及ぶことはなかった。各藩は独自の法律を制定していた。そこには各藩固有の行政権、徴税権、裁判権が導入されていた。

それ故に各藩にはそれぞれ独自の文化が成立していた。その文化は各藩に特化した産業政策や祭礼、学問などに各藩固有の主題を提供していた。したがって、幕藩体制では、社会構造のみならず意味論の水準においても、藩ごとに自立した発展を遂げていた。

無論、各藩の反体制的な運動は厳しく制限された。各藩の軍事力は、幕末に至るまでは、幕府の統制下にあった。この意味で、幕藩体制社会構造は、<幕府への権力集中>と<地方への権力分散>という相反する二つの性格を有していた。幕藩体制権力は、<幕府への権力集中>と<地方への権力分散>の区別を<幕府への権力集中>へと「再導入(re-entry)」することにより、「自己論理的(autologisch)」であり得たのである。

しかし、幕府の権力が衰退することとなった幕末期には、薩摩や長州をはじめとした地方の藩が集結することで、倒幕も不可能ではなくなった。明治維新により、新政府の樹立が可能になったのは、幕藩体制社会構造構成されたことで、<幕府の権力>のみならず<地方の権力>もまた発展していたためでもある。明治維新が実現したのは、中国や朝鮮のように、権力を一元的に集中させるのではなく、<権力集中>と<権力分散>の区別をその社会構造の内部に導入していたためである。この区別が導入されていたからこそ、幕府が衰えた暁には、旧体制から新体制へと、政府の「機能的な代替」が可能になったのである。

日本が主権国家として観察されるようになったのは、幕末の混乱期から明治維新にかけてのことである。江戸時代の日本は、世界でも類を見ない封建制度を構造化していた。その地方分散的で多元的な徳川幕藩体制破局をもたらし、最終的に日本の近世幕藩体制終焉させる時期となるのは、19世紀後半となる。直接的な契機となるのは、アヘン戦争により、大国清国が敗北したことであった。そして決定的な出来事となったのが、1853年、アメリカ東インド艦隊司令官マシュー・カルブレイス・ペリーが黒船四隻を率いて浦賀沖に来航し、「開国」を求めるアメリカ大統領の国書の突き付けたことである。これにより、幕末の混乱期が始まる。

日米の軍事力の間には歴然たる格差があった。国書を受け取ったとはいえ、幕府にはこれに対処する能力は無かった。諸大名に意見具申を求めても、諸藩による衆議では、開国と攘夷の対立が深まるだけであった。1854年、七隻の黒船を従えて再度来航したペリーに対し、幕府は日米和親条約を結ぶこととなった。かくして、「鎖国」の社会システム終焉を迎えることになる。

問題解決策:「尊王」と「攘夷」の区別

日本における近世から近代への社会進化は、1853年にペリーが開国を要求したのを契機に始まった。翌年3月に幕府の譜代大名井伊直弼が天皇の勅許を無視して日米和親条約に調印して開国したのを契機に、尊王攘夷主題とする政治運動が活発化した。更に1864年、1865年の幕長戦争とその失敗を契機として、この運動は尊王討幕運動へと展開していった。

井伊直弼は、米総領事タウンゼント・ハリスとの間で、領事裁判権と関税自主権を認められない不平等条約、日米修好通商条約に、天皇による勅命を得ることのないまま調印した。オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約締結を余儀無くされた。すると条約締結に激怒した水戸藩と薩摩藩を脱藩した志士たちに井伊は殺害され、幕府の権威は急速に低下した。代わりに、朝廷を新たな権威にしようとする尊王攘夷派の攘夷志士たちが運動を展開するようになる。

しかし、攘夷志士たちの戦いは敗北に終わった。薩摩藩に対する「生麦事件」の報復として勃発したいわゆる「薩英戦争」において、薩摩軍は戦したものの、列強の背後に存在する強力な軍事力を思い知らされた。長州藩は下関を通過するイギリス、アメリカ、フランス、オランダの艦船に攻撃を加えた。だが後に四国連合艦隊の報復を受け、下関砲台は占拠された。こうした状況で、特に薩摩軍は、攘夷などそもそも不可能であることを痛感したという。

そこで薩長は、「尊王攘夷」に対する期待外れを埋め合わせるために、そのスローガンを「尊王」として再記述した。薩長はいずれも、「尊王攘夷」を規範的に期待した訳ではなく、「尊王」と「攘夷」の区別を導入することによって、「尊王」に対する認知的な期待可能にしたのである。この新しい倒幕の意味論は、坂本龍馬をはじめとした仲介者たちの動向も相まって、倒幕を求めた両藩の同盟へと結実した。ここに岩倉具視を中心とした朝廷が加わることで、討幕の密勅を手にした倒幕軍が編成されることとなった。

尊王意味論と倒幕のために編成された同盟の社会構造に対して、幕府は「大政奉還」という先手を打った。だがこれに対して倒幕軍は、政変によって、「王政復古の大号令」を発する。これにより倒幕軍側は、天皇親政の新政権を展開した。幕府軍は尚も抵抗した。倒幕軍はいよいよ江戸への総攻撃を決意する。だがその寸前のところで、西郷隆盛と勝海舟の会談により、「無血開城」が成り立った。

ここで重要となるのは、幕府軍と倒幕軍の区別ではない。むしろ注意を引くのは、その背後にある日本の国内と国外の区別である。実際この時、幕府側にはフランスが、倒幕軍側にはイギリスが、それぞれ「支援者」として名乗り出ていた。しかし無血開城までの一連の流れは、これら列強の介入が尽く排除された状態で進められた。明治維新は、樹立された新政府が、各国代表に王政復古と条約遵守を宣言すると共に、新国家の方針を内外に告げることで結実した。

問題解決策:「天皇」と「皇帝」の区別

維新政府は幕藩制支配からの解放政治的な改革を求める民衆の圧倒的な支持を得た。だが軍事的にも財政的にも、旧幕府の勢力には圧倒的に劣っていた。日本の外部環境ても、先進諸列強からの政治的かつ軍事的な圧力により、植民地化の危機に対応できる近代的な国民国家建設が必要となっていた。

維新政府がこの問題に対して導入した問題解決策は、「国体」の意味論に基づいた「天皇」の意味論である。政府は「明治維新」を「武の創業」の再現、そしてそれに対する復古としての「王政復古」と称した。政府は古代律令制に準拠した太政官制度を整備すると共に、祭政一致の政治展開しようとした。しかしながら維新政府は、古代の律令制をそのまま導入した訳ではない。維新政府が展開した祭政一致は、初期の律令制における天皇祭祀権の掌握から区別されなければならない。つまり維新政府の祭政一致は、国家的な儀礼形式としての祭祀と政治統一意味している訳ではないのである。維新政府の祭政一致とは、「天皇」が自ら宮中で皇祖を祀り、その直系の子孫という地位によって政治展開していくということなのである。

この「国体」の意味論と「天皇」の意味論は、明治維新以前の日本の社会構造によって育まれてきた意味論である。日本の社会構造特徴は、とりわけ中国の社会構造との比較によって際立ってくる。中国の社会構造は封建制度ではなく郡県制に準拠していた。それは、国土全体を複数の郡に分割し、その郡を更に無数の県に細分化する構成である。だが各地方の統治は中央から派遣された官僚によって実施された。つまり権力は一元的に集中していたのである。依然として中国では、「皇帝」を中心とした官僚政治体制を踏襲していた。その権力構造に、<権力集中>と<権力分散>の区別が「再導入」されることはあり得なかった。中国に日本と同様の自己論理が芽生えることなどあり得なかったのである。

こうした社会構造上の差異は、意味論上の差異にも反映されている。中国が「皇帝」の意味論の支配下に置かれているのに対して、日本は「天皇」の意味論を記述している。確かに徳川の時代、武の集団である幕府による統治下においては、朝廷の存在意義は薄らいでいた。しかしながら、その幕府が朝廷に武力を行使することはあり得なかった。むしろ幕府は、古代からの系譜を引く「天皇」を戴く朝廷の承認を受けることで、初めて世俗世界における真の権威と名誉を手にすると考えた。

だからこそ明治維新も「王政復古」の形式を取ったのである。そうすることで新政府は、古代に系譜を引く「天皇」による治世に復帰するという正統性を獲得することが可能になる。かくして明治維新以降、新政府は、政治権力のみならず、「天皇」の意味論に準拠した権威と名誉をも手に入れたのである。

問題解決策:「尊王攘夷」と「衛正斥邪」の区別

王朝としては中国のコピーに過ぎなかった朝鮮もまた、列強から「開国」を要求されていた。開国要求に対する反応についても、日本と朝鮮との間には、ある程度の類似性が認められる。日本が「尊王攘夷」を掲げたように、朝鮮もまた「衛正斥邪」という排外主義を掲げていた。その意味論は、正邪の二値コードとして形式化されている。すなわち、「衛正斥邪」の意味論は、朝鮮の儒学を「正」として、その外部を「邪」とする意味処理規則を提供しているのである。

尊王攘夷」を掲げていた日本は、相次ぐ黒船来航や薩英戦争のような敗戦の体験を介して、「尊王攘夷」に対する期待外れを認識することになった。だがこれに対して日本は、直ぐに「尊王」と「攘夷」の区別を導入することで、「攘夷」は無謀であるものの、「尊王」は不可能ではないという認識を可能にした。

日本が実行していた意味処理は、再び「規範的な期待(Normative Erwartungen)」と「認知的な期待(Kognitive Erwartungen)」の区別を導入することで、明解となる。端的に言えば、日本は規範的な期待のみならず認知的な期待を実践することで、学習する姿勢を維持できていたのである。

規範的な期待は、所与の期待期待外れに終わったという事実を隠蔽する機能を持つ。それは期待それ自体を一般化させることによって、その期待期待外れに終わる可能性を些末な問題として捨象するのである。例えば、教師権威規範的に期待している生徒は、その教師の授業が期待外れでも、その教師権威期待し続けることができるだろう。規範的に期待されている秩序や規則は、しばしば反事実的に安定化している。

一方、これに対して認知的な期待は、期待外れとなった期待それ自体を隠蔽する。それと同時に、新たな対象への期待構成する。それは外部言及の対象を変更することで、しばしばシステムに方針転換や学習を促す。例えば期待外れ教師を垣間見た生徒は、その教師の授業ではなく予備校の講師に期待することができるだろう。こうして外部言及の方向転換を促すのが、認知的な期待なのである。

規範的な期待システム学習しない傾向を指し示すのに対して、認知的な期待システム学習する傾向を指し示している。学習するか否かの選択が問われるのは、システムが一貫を欠いた出来事を体験した場合である。ある体験期待と一致しなかった場合、システムはその事実を受け入れて、自身の期待を変更することができる。だが一方でシステムは、逆にその体験自体を逸脱的な出来事、稀な例外、誤った選択として片付けることもできる。こうした体験は、日常茶飯事である。期待を変更するか否かという問題は、日常生活でも十分に起こり得る出来事である。

システムは、もし体験期待が一致しなかった場合に、規範的な期待認知的な期待のどちらを優先するのかについて、予め態度を決めておくこともできる。認知期待区別存在と当為の区別は、こうした態度の選択に対して意味処理規則を提供し得る。これらの意味形式を用いることで、システム認知的な期待規範的な期待区別する。システムは、期待外れが生じた場合に期待を変更するか否かを予め決めておくことで、自身を拘束することも可能にする。

システムは、こうした期待意味論に準拠することで、期待期待構成することを可能にする。すなわち、システム規範的な期待認知的に期待することも、認知的な期待規範的に期待することも可能にしている。期待期待は、再帰的な期待である。通常の期待は決して再帰的にならない。再帰的な期待は、認知的な期待規範的な期待の間での選択が問題になる場合にのみ、引き起こされる。再帰性とは、言わば一次的な期待の水準で選択が迫られることに依存しているのである。

日本の社会システムは、認知的な期待規範的な期待区別を実に巧く組み合わせていた。相次ぐ敗戦の体験から、日本は、「尊王攘夷」への期待を直ぐに捨て去り、「尊王」への認知的な期待構成した。そうすることで、敗戦という事実を無視してまで「攘夷」を敢行するなどという無謀な策を予め回避できたのである。それは亡国に直結してしまう懸念から、日本は直ちに学習したのであった。そして、むしろ列強を列強たらしめている西洋の文明を学習し、受容していくことに注力していった。それこそが、日本の主権国家への道を切り拓いたのである。

一方、これに対し、朝鮮の「衛正斥邪」はそうではなかった。列強による「開国」の要求に対して、朝鮮の「衛正斥邪」はむしろより一層先鋭化してしまった。1863年、11歳の高宗が国王となると、その父である大院君が実権を握った。この時期から、朝鮮の社会構造は既存の専制君主制に対する規範的な期待構成することとなった。1860年にはロシア艦隊に国交を求められたが、朝鮮はこれを拒否した。また同年にはフランス人宣教師たちを逮捕し、処刑もしている。フランス艦隊がこれに抗議する形でソウルに来航した際にも、朝鮮は撃退に躍り出た。1866年には、アメリカの商船シャーマン号が来航し、通商を要求した。しかしこれに対しても、朝鮮は砲撃で応じた。

大院君の政策は徹底的な中央集権的な「鎖国」政策であった。支配者層の派閥割拠の拠点であった書院を廃止し、これを中央政府の管理下に置くことで、権力の集中を図った。また特権的な位置付けにあった門閥貴族たちも追放することで、周辺には自身に忠誠を誓う官僚のみを配置した。

こうした列強に対する排外主義と中央集権的な「鎖国」政策により、「衛正斥邪」に対する期待外れの認識は、顕在化することなく隠蔽され続けることになった。朝鮮の体制は、排外的かつ排他的な政策と思想によって、「衛正斥邪」への規範的な期待のみを構成し続けたのである。こうした背景から、大院君は「衛正斥邪」の思想こそが朝鮮の理想であると確信し、中華帝国の属国であることが誤りではないとも確信することとなった。

一見すれば、日本と朝鮮は、共に「王政復古」を成し遂げている。この意味では一見、双方は共通しているようにも思える。しかし、その内実と結果は全く異なる。日本は西洋文明に対する認知的な期待により新しい概念の学習可能にしたのに対して、朝鮮は旧体制を強化し続けることになったのである。ここに、日本と朝鮮の決定的な差異がある。日本だけが近代化を成し得た理由も、ここにある。柔軟な方針転換と学習こそが近代化を可能にしたのである。

日本とは対照的に、中国や朝鮮の近代化は進行しなかった。双方の国は共に古代的で専制的な王朝の伝統を継承することで、「皇帝」に絶対的な権力集約させていた。権力の資源は全て中央に集中していたために、日本の幕藩体制とは異なり、<周辺>に<中央>の機能的等価物を樹立することが不可能であった。朝鮮の場合は事は更に深刻であった。朝鮮は中華王朝を宗主国として認識していた。朝鮮の自己記述は、朝鮮とは中国の属国に過ぎないという前提の上で成り立っていたのである。朝鮮は、中国と自己自身の差異を確保し切れず、しばしば中国との関連から自己同一性を喪失しかけてすらいた。

その中国も、近代化には失敗している。アヘン戦争に敗北し、西洋文明に関するショック体験を受け止めた清国も、この敗北を契機として、開明派の洋務派官僚が勢力を伸ばし、「洋務運動」と呼ばれる近代化の社会運動展開されるようになった。その時期は明治維新の時期と重なっている。しかし、その運動の背景にある思想は、あくまでも中華の伝統を保持することに向けられていた。中国における近代化の運動とは、西洋の学術や軍事力を、あくまでも伝統保持のために利用することを意味した。だから中国は、そうした学術や軍事力を生み出した背景にある西洋の文明に関しては興味を持たなかった。

更に日清戦争に敗北すると、中国は列強による中国分割の危機に陥った。この時点で漸く中国は、明治維新模倣した議会制を中心とする立憲君主制を導入することになる。いわゆる「変自強」の運動である。皇帝の詔を得て、この運動が展開されようとしたその時に、政変により、指導者は国を追われることとなった。また同時に、義和団による宗教運動もまた、王朝末期の清国をしめた。

追い詰められた中国に残されたのは、王朝打倒を目指す革命のみであった。確かに、孫文による辛亥革命が、最終的には王朝を倒すことになる。しかし、その後に政府の「機能的な代替」を可能にする新しい国家建設されることは無かった。王朝に対する期待外れは、期待外れのままであった。そこに新しい学習可能にする認知的な期待構成されなかった。そもそも規範的に期待し続ける対象になるような王朝が打倒され、「機能的な代替」を可能にする新政府が直ぐに樹立しなかった以上、中国はこの時点で既に、規範的に期待認知的な期待区別を導入する機を失っていたのである。

問題解決策:「前適応」による「自然漂流」としての近代化

明治維新における日本の社会システムは、認知的な期待規範的な期待区別を導入できる状態にあった。この区別の導入は、旧体制との「機能的な代替」を可能にする新体制への認知的な期待構成する一方で、旧体制がそれまで準拠してきた意味論への規範的な期待構成する形式によって実行された。勿論、闇雲に新しい事柄を学び続け、方針転換ばかりを繰り返せば、社会構造は瓦解してしまう。単に認知的な期待を反復するだけでは不十分なのだ。重要なのは、認知的な期待規範的な期待区別を導入することである。区別するということは、双方を同時的に指し示すということだ。それは、双方への観点を維持しているということでもある。実際、日本において、西洋文明に対する認知的な期待と対を成す規範的な期待可能にしていたのは、やはり「国体」と「天皇」の意味論である。

等価機能主義的な社会システム理論観点かられば、明治維新で実行された「機能的な代替」による社会構造の一新は、社会進化論意味論に準拠することで記述することができる。社会進化論的に言えば、そうした「機能的な代替」は、「前適応(preadaptation)」による「自然漂流(natural drift)」によって可能になっている。近代化は、決して段階的な発展に基づく「進歩(advances)」ではない。近代化とは、社会構造変異に伴う進化である。社会システム進化は、社会システムそれ自体が自らの構造コードを再記述するという、自然漂流によって成り立つのである。

生物進化の中には、しばしば他の機能を担っていた形質が深化の前提となる機能に「転用」されることで成り立つ進化もある。よく引き合いに出される仮説が示しているように、爬虫類から鳥類への進化には、こうした「機能の転用」が伴っていた。単に鳥類を爬虫類の進化形態であると考えるだけでは、この進化はあまりにも起こりそうもない現象と思えてしまうために、到底信じられなくなる。だが、元々爬虫類が羽毛を有していたと考えれば、この進化も無理なく受け入れられるようになる。この場合、爬虫類の羽毛は体温調節のために機能していたと推論できる。そして、この羽毛が飛翔するための機能として「転用」されることによって、空を飛ぶ鳥類の進化が本格的に現実化するようになったのである。進化論では、こうした既存の「機能の転用」によって可能になった進化を「前適応」と呼ぶ。

前適応に基づく自然漂流とは、創発の概念に直結している。この意味進化には飛躍が伴う。ただしここで注意しなければならないのは、進化の前提となり得る条件が全く無いという訳ではないということだ。

実際、上述したように、明治維新における近代化は、<権力集中>と<権力分散>の区別をその内部に「再導入」する幕藩体制社会構造を前提に進行した。この前提が構築されていたからこそ、新体制から旧体制への「機能的な代替」が可能になったのである。だがこの「機能的な代替」は、薩摩藩や長州藩をはじめとした地方の組織システム機能や、兼ねてより系譜を引く「天皇」の意味論や「国体」の意味論機能を「転用」することで成立している。

問題解決策:神仏分離令

日本の社会システムは、西洋文明のあらゆる対象を認知的に期待した訳ではない。例えば「国体」の意味論に基づいた国家理念にとって、全く別様の世界を有したキリスト教は、依然として禁制の対象であり続けた。西洋文明の観察は、キリスト教禁止令に対する期待外れを生じさせたものの、「国体」の意味論は、尚も禁制への規範的な期待構成し続けたのである。

一方、維新政府の最初期の政策は「神仏分離」であった。明治天皇は、京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集めて、維新政府の基本方針を天地明にお誓いになられた。その三日後の1868年3月17日、維新政府はそれぞれの神社の別当や社官化を命じると共に、神社から仏具や仏像を除去するように命じた。これを「神仏分離令」という。

神仏分離は全国の神社展開された。更にこれを契機として、一部では平田派の「国学」などの影響を受けた職や地方官を中心に、寺院や仏堂を破壊する激しい廃仏運動が勃発した。しかしこの運動そのものの動きは維新政府の狙いではなかった。政府の狙いはあくまでも、宗教としての仏教それ自体の否定が狙いなのではなく、あくまでも「」と「仏」の区別を導入することであった。

神仏分離は、「天皇」を中心とした国家建設観点から、「復古神道」の理念現実化した政策である。その狙いは国民の思想的な統合に他ならなかった。「」と「仏」の区別を導入したのは、双方の関係を断つためである。破壊するためではない。関係を断つのである。維新政府の狙いは、神社を、仏教が日本に伝来される以前の「々」の祀りの場として再整備することなのであった。

しかしながら、神仏分離令を受けた民衆の側は、元々幕藩体制からの解放を願っていた。そうした民衆からすれば、仏教幕藩権力を強化する役割を担っていた。それ故に、時に政府の意図を超えて、廃仏運動という過激な行動を供わせた。

脱パラドックス化の形式としての「神々」

しかし神社という常設殿は、そもそも仏教寺院存在を前提とした日本における「神仏習合」を具象化した人為的構成物である。それ故、神仏分離令パラドックス的な政策である。神社は、神仏習合意味論の下に、仏教との差異を確保することで成立していた。神社は、神道仏教区別を、神道の側に「再導入(re-entry)」することによって、初めて自己記述可能にしていたのである。だが神仏分離は、仏教を徹底的に排除することによって、仏教との差異を確保することで成立していた神道意味論すらも曖昧にしてしまう結末を招くことになる。

神仏分離は、単なる「」と「仏」の分類を意味するのではなく、民衆の兼ねてよりの不満を利用しながら、寺院仏教神社信仰に代替することで、体制を強化する宗教として再編成することを意味した。「国体」の意味論や「天皇」の意味論を広く国民の間に浸透させることにこそ、神仏分離の狙いがあった。

無論、神仏分離令パラドックス脱パラドックス化されたのであって、解決された訳ではない。仏教との関係を断たれた神社信仰は、実際には国家や世俗社会への従属を強いられることになった。神道仏教区別神道の側に「再導入」し、と仏の区別の側に「再導入」することで自己記述可能にしていた神道は、仏教との関係を絶たれることによって、宗教として不安定化することとなった。

この不安定に対する解決策として、吉田神道機能しなかった。吉田神道仏教からの自立を強調する意味論を提供していた。だが後期近世に吉田神道批判が強まったことで、吉田神道に準拠する道も絶たれていた。

神仏分離令パラドックス脱パラドックス化していたのは、「」の区別である。と言うのも神仏分離によって分離されたのは、全ての「々」ではなく、「記紀神話」の「々」をはじめとした限られた範囲の「々」であったためだ。これにより、日本史上初めて、神社記紀神話体系への統合が可能になったのである。加えて、皇族と国家の功臣に由来する新たな「々」も創案されることで、「々」を主題とする神社に基づいた神道意味論そのものが「天皇」を中心に再記述されることとなった。結果的に神仏分離によって、「天皇」の意味論が、神社信仰教義となったのである。

この「天皇」の意味論は、決して古代律令制社会構造における「天皇」の意味論とは同一視されてはならない。古代日本の社会構造神社が成立して以来、確かに上層部の限られた範囲の神社の中には、「天皇」の意味論に準拠した神社存在していた。だが民衆の信仰対象となる中小神社や零細神社は、こうした「天皇」の意味論とは無縁のままであった。一方、維新政府の神仏分離令影響力は、中小神社や零細神社と関わる民衆の全体にまで及んだ。神社の祭は原則的に全て皇祖をはじめとした「天皇神話上の「々」に準拠することになった。

問題解決策:「神道」と「宗教」の区別

とはいえ、神社神道宗教としての自立を喪失したと考えるのは、早計である。神道国家儀礼形式的に執行する場となった訳ではない。神社政治的なツールとなった訳でもない。宗教の代替物となるのは、宗教だけである。政治宗教に取って代わる訳ではないのだ。確かに神道は国教化した。神道を「国家公認の宗教」として規定することで、それを国民に進行させ、日本の国家統合が進捗したのである。

しかし政府が記述していた「神道」の概念は、日本固有の宗教としての「神道」ではなく、「国体」の意味論に準拠した「天皇」中心主義的な日本の国家統治の機構としての「神道」であった。むしろ政府が記述していた「神道」の概念は、宗教的な概念から積極的に区別されるべき概念であった。政府によれば、日本国民は個人的に如何なる宗教信仰していても、皆日本国民の一人として、「天皇」への崇敬の念を持つべきであるとされた。

尤も、この神道国家の関連付けは、近代化を進める日本の社会構造に独特の影響を与えた。西洋諸国の近代化が政教分離特徴としているのに対して、日本の近代化においては、国家神道が、政治宗教が、より緊密に結び付くことになった。しかし、政府の神道国教化に対して、列強諸国はキリスト教の禁制を撤回するように圧力を掛けてきた。1873年にはこの圧力を受けてキリスト教を解禁せざるを得ない状況にまで追い込まれた。

<宗教としての神道>と非<宗教としての神道>の差異

したがって神道の国教化は、現実には成就せず、あくまで規範的に期待されるだけであった。日本の近代化が政教分離を満たしていないというのは、この反事実的に安定化した期待に準拠した認識に過ぎない。神道の国教化が社会的な現実を捉えていない以上、これを根拠とする政教「未」分離という認識もまた、虚構となる。実際には、日本の社会構造の近代化において、政治宗教機能的問題領域は緩やかに分化し始めていたのである。そしてこの分化形態は、後に<宗教としての神道>と非<宗教としての神道>の差異を顕在化させることになる。

その後1874年ごろには、神道の国教化の問題は、「神道」と「宗教」の区別を導入することによって、展開されることとなった。つまり日本国家は、キリスト教をはじめとする「神道」ではない「宗教」を受容する一方で、「宗教」から区別される「神道」を尚も徹底しようとしたのである。この「神道」と「宗教」の区別の導入は、同時に<宗教としての神道>と<非宗教としての神道>の区別の導入も含意していた。明治政府がこれまで整備してきたのは、あくまで<非宗教としての神道>として、純粋な「神道」として、再記述されることになったのである。一方、仏教との神仏習合の関係から自己記述可能にしてきた従来の仏教は、<宗教としての神道>ということになる。

神道を国教化するにも拘らず、その一方でキリスト教をはじめとした外来宗教を受容するというパラドックスは、「神道」と「宗教」の区別を導入することで脱パラドックス化された。だが神道そのものが<宗教としての神道>と<非宗教としての神道>に区別されたことから、「神道」という概念それ自体の複合性が増大することになった。

それまで天皇の正統化のために動員されていた官たちも、例えば新築された殿の祭に何を祀るべきなのかという主題一つを取っても、頻繁に対立が発生していた。実際、全国の神道官たちは、伊勢派と出雲派に分裂していた。伊勢宮の大宮司であった田中頼庸らは、高天原に最初に発現された天之御中主、高御産巣日、産巣日の造化三天照大御神を加えた四を祀るべきであると主張する一方で、出雲大社の大宮司である千高福らは大国主命を併せて祀るべきであると主張していた。この論争は収拾が付かなくなり、1881年の明治天皇の勅裁によって漸く解決することとなった。

問題解決策:自己論理的な展開としての『教育勅語』

神道の国教化を巡る紛争が発生してきた時期は、丁度日本の近代公教育の制度化が進捗した時期と重なる。富国強兵による近代化を目指していた明治政府は、1872年に、小中学校と大学の設置を制度化した。「学制」の制定によって小学校が義務化されると、従来教科の中心にあった儒教は廃止され、欧州の学問が教科の主題となった。

だがその一方で欧州の近代思想は、板垣退助らによる民選議院設立の建白書に影響を与え、更には自由民権運動の高揚を招いた。すると明治天皇は1879年に、「学制」の「仁義忠孝ヲ後ニシ徒ニ洋風是競フ」欧化主義を憂慮し始めた。それと共に、儒教的な道徳教育を軽視していた教育を転回することで、教育儒教意味論によって記述されている「仁義忠孝」を据えるべきであるという「教学聖旨」を文部卿の伊藤博文と内務卿の寺島宗則に提示された。この「教学聖旨」を起草したのは、元田永孚である。

元田は1871年に藩命と大久保利通の推挙によって、宮内省の侍読、つまりは天皇教師になった。彼は当時18歳であった若き明治天皇に『論語』を講義している。彼が皇室の権威を得たのはこの時からである。1879年、元田は明治天皇の意を受けた主旨の「教学聖旨」を発布することで、明治維新以後の教育が「智識才芸」のみを重視した内容であると批判している。

しかしこれに対して伊藤博文は、内務大書記官であった井上毅と共に「教育議」を提出することで、政治的な議論で混乱をもたらす自由民権運動の活動たちについて、「蓋シ現今ノ書生ハ、大抵漢学生徒ノ種子二出ヅ」という。儒教は学校に対して、学問ではなく政談を導入してしまう。伊藤と井上は、学校教育ではそうした政治的な道具と化してしまう儒教よりも、「工芸技術百科」を学ばさせねばならないと考えた。元田はこれに対して「教育議府議」を提出することで、「四書・五経」を主とする修身教育の必要を強調して反論したものの、議論は平行線を辿ったという。

だが双方の認識は、いずれも富国強兵と天皇制の強化を目指しており、自由民権運動を処理しなければならないと考えていた点では共通していた。特に井上と元田の間には、前提となる思想にも共通点があった。日本の朱子学は、日本の歴史を重視する水戸学のみならず、海外からの学びを重視する熊本儒学も含まれる。元田と井上は、共に諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した藩校の「時習館」に在籍しており、熊本儒学を学んでいる。

元田は時習館で藩長の横井小楠の下で学び、「実学党」と呼ばれる組織を結成している。ここでいう「実学」とは、朱子学の一流派を指す。この時代の「実学」の概念は、様々な儒学者たちによって使用されている。横井たちは諸外国を意識した上で、この概念を攘夷思想に接続させている。したがってこの「実学」概念は、明治時代に福沢諭吉が主張した実用的な学問としての「実学」から区別される。と言うのも福沢諭吉は、実学の一環として、儒教批判展開していたためである。

一方、井上は1867年には江戸遊学を命じられ、フランス学を学ぶこととなった。そして江戸遊学後の井上は、1875年にドイツのプロイセン憲法を『王国建国』として翻訳している。この過程から井上は、儒学の思想における「仁」が歴史法学的に重要な位置付けにあると考え、急進的な文明開化よりも漸進的進歩を主張するようになる。

元田と伊藤の関係が変化したのも、憲法制定との関連である。伊藤はプロイセン流の憲法制定を準備すると共に、日本文化の近代化にも取り組んだ。その一環として伊藤は、宮内卿として、宮内の改革にも取り組む。そこで彼は元貴族や高官たちの娘たちが学ぶ華族女子高を設置した。そして、文部省で翻訳教科書作成に注力していた西村茂樹が文学の顧問として宮中に採用されると、元田が儒教を中心に叙述していた『幼学綱要』の続編として、西洋、日本、中国の歴史上の女主題とした『婦女鑑』が1887年に製作された。この宮中改革により、政治的に対していた伊藤と元田は急速に接近することになる。これにより、儒教意味論における道徳と西洋の意味論における道徳が合わせて語られるようになったのである。

1890年に山県有朋首相の下で制定された「教育勅語」には、富国強兵と天皇制の強化を目指すと共に自由民権運動への危機意識を共有する元田、井上、伊藤の理念が反映されている。確かに、「教育勅語」の原案を起草したのは中村正直である。しかし実際に採用されたのは、井上毅と元田永孚が起草した案であった。

山県によって文部大臣に任命された芳川顕正は、東京大学の教授である中村正直に草案の起草を要請した。中村は幼少期から儒学を学んでおり、10歳で江戸幕府の最高学府であった昌平坂学問所の儒教経典の試験に合格している。1862年には、彼は江戸幕府から公認された儒教の教員を意味する「御儒者」になっている。中村は更に儒学者として元昌平坂学問所に勤めながらイギリスに留学している。そしてロンドンで「大政奉還」を学んだ中村は、帰国後にサミュエル・スマイルズの『自助論(Self-Help)』を1870年に翻訳し、人気を博した。この時、元儒学者としての中村は、1872年に『学問のすすめ』を発表している福沢諭吉と同様に、文明開化の主導的な立場として脚光を集めることになった。

このようなキャリアを持つ中村にとって、儒教意味論における「天」は、キリスト教の意味論における「」に近しい概念であると認識することは容易かった。そして、教育とりわけ道徳教育の基本は『自助論』的な個人の完成として結実するという理念の下に、彼は「教育勅語」を起草する。それは「忠孝ハ人倫ノ大本」から始まり、「天意ニ叶フコトヲ務メヨ」で終わるとされる。しかしこれに対して井上は、宗教的性格が色濃く反映されていた中村の草案が宗旨上の紛争を招くために、「教育勅語」には相応しくないと考えた。そして井上は、元田の助力を受けて、自ら草案を起草した。

「心ヲ一ニシテ」

教育勅語』は天皇が臣民に語り掛ける叙述形式を採っている。最初の主題は「国体」であった。皇祖は太古の昔に国を始め、「徳」に満ちた国を創った。この「徳」が、天皇の偉大さを物語るという。しかし明治天皇のこの語りは、単に天皇を賛する叙述なのではない。臣民が「心ヲ一ニシテ」天皇の治世を支えてきたことこそが偉大なのである。臣民の支えがあったからこそ、「日本」という国は二千年以上も存続できたのである。

この『教育勅語』の叙述は、当時近代化に失敗していた中国や朝鮮の「皇帝」と比較すれば、如何に日本固有の認識なのかがわかるであろう。あくまでも「皇帝」を中心とした階層的に分化した旧体制の社会構造を頑なに保持しようとする彼らの国から、「民の支え」などという発想は生まれるはずもなかった。つまり『教育勅語』は、近代化に成功した日本の「天皇」の意味論と、同時代に近代化に失敗していた中国や朝鮮における「皇帝」の意味論との差異を反映しているのである。

「徳器ヲ成就シ」

教育勅語』では、このように民の支えを讃えた上で、今後臣民の一人一人が如何にして身を立てるべきなのかを提唱している。まず以って重視されたのは、親孝行や兄弟との親交である。次に、学問を修め、手に職を付けることを説いている。これにより、臣民の一人一人も「徳器ヲ成就」するようにと促されている。そして、更に公共利益を広めて世の事業を興して、常に国の憲法を尊重して法律を遵守し、「一旦緩急アレハ義勇公二奉」するべきとされる。

ここでいう「徳器」とは、道徳的な徳目を意味する。「徳器ヲ成就」するとは、父母や兄弟姉妹や夫婦や友人との人間関係から、博愛や学問や知能の啓発を通じて、徳目を完成させることを意味する。そして「一旦緩急アレハ」は戦争をはじめとした非常事態を表し、「義勇公二奉」は、「義を見て為ざるは勇無き也」という『論語』に準えて考えれば、徴兵制による貢献に徳目を見出す理念を表していることがわかる。

「祖先ノ遺風ヲ顕彰ス」

こうした道徳的な徳目の理念の先にあるのは、「天壌無窮ノ皇運」に他ならない。「天壌無窮」とは、『日本書紀』にて天照大御神が皇室の祖先になる天津彦彦火瓊瓊杵尊に下して発した天壌無窮の勅に由来している。それは「無限」を意味する。そして「皇運」とは、皇室の運命である。文字通り「天壌無窮ノ皇運」とは、無限に続く皇室の運命を表わす。これを前提とすれば、『教育勅語』にある「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とは、臣民による道徳的な徳目の理念の完成が、無限に続く皇室の運命を手助けすることに結び付くという理念表現している。

だが一方で『教育勅語』では、こうした理念表現が、明治天皇や現在の臣民に限定されず、「爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン」という。徳目を養うことが、現在の臣民一人一人に限らず、過去の臣民が遺した風の数々も顕彰することになるのである。『教育勅語』が「徳」のある人間を推奨するのは、天皇のためではなく、臣民一人一人のためである。臣民一人一人の先祖が良き伝統を残してきたからこそ、現代の日本がある。故に臣民一人一人がこの勅語を実践するのは、臣民一人一人の祖先の遺訓を顕彰することになる。

「皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」

教育勅語』の第5文には、上述した道徳的な徳目が、天皇の祖先である「々」や歴代天皇の遺した教訓であることが記述されている。それは、「皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所」であって、天皇の子孫も臣民も共に守り従うべき教訓である。国内のみならず国外の道徳と照らし合わせても、過去から現在を通じて、この教訓に誤謬は無い。この第5文では、『教育勅語』が言及する徳目が普遍的妥当することが告げられている。

この普遍的妥当性は、続く第6文によって保証されている。「朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」。つまり天皇は、臣民と共にこの徳目を習得することにより、臣民と共に皆でその道徳を一つにすることを期待しているのである。

ここで決定的に重要となるのは、この『教育勅語』の記述の中に、この勅語の内容天皇自身も実践すると述べられている点である。天皇自らが率先して実践されることで、臣民の一人一人も共にこの「道」を歩んで欲しいというのが、『教育勅語』で述べられている天皇期待なのである。

要約するなら、『教育勅語』の普遍的妥当性は、この「他人任せ」を否定する天皇の振る舞いにこそある。天皇自らが勅語の内容を実践するという『教育勅語』は、「国体」の意味論普遍性を宿らせたのである。

意味論が真に普遍的となるには、その意味論の言明が、当の意味論それ自体にも適用可能でなければならない。確かに『教育勅語』は、冒頭から「天皇」と「臣民」の区別を導入している。だが天皇期待されていたのは、道徳的な徳目の理念の完成に向けられる実践を通じた<差異統一>である。『教育勅語』の第5文以降、この<差異統一>は、天皇による「天皇」への自己言及天皇による「臣民」への外部言及の<差異統一>として構成されている。それは、自己言及外部言及区別自己言及の側へと「再導入(re-entry)」すると共に、「天皇」と「臣民」の区別を「天皇」の側へと「再導入(re-entry)」する記述であった。それによりこの勅語の内容は、「臣民」だけに適用されるのではなく、他ならぬ「天皇」自身にも適用された。この意味で『教育勅語』は、「国体」の意味論を「自己論理的(autologisch)」に展開させることを可能にしたのである。

宗教、政治、そして教育の機能的な分化

明治維新には二つの理念があった。一つは文明開化で、西洋をはじめとする諸外国の文明を積極的に取り入れることである。もう一つは、武建国の精神へと回帰することである。だが明治天皇は、開花ばかりに注力することで、日本の古き良き理念無常化することを問題視していた。『教育勅語』は、西洋文明に対する認知的な期待と対を成す規範的な期待可能にする意味論であったのだ。

教育勅語』の理念からは、近代日本における社会構造において、宗教政治、そして教育機能的な分化が緩やかに進行していることが判読できる。例えば『教育勅語』では、国を始めたのが「皇祖皇宗」であると記述されている。ここで重要なのは、「皇祖」と「皇宗」の差異である。哲学者井上哲次郎が文部省の依頼を受けて起草した『教育勅語』の解説書には、「皇祖」と「皇宗」の区別が、「天照大御神」と「天皇」の区別に対応すると記述されていた。だが大日本帝国憲法と『教育勅語』を起草した井上毅は、これに反論し、「皇祖」と「皇宗」の区別が「天皇」と「歴代天皇」の区別に対応していると指摘している。そして、大日本帝国憲法と『教育勅語』では、天孫降臨をはじめとする神話は一切言及されていない。

大日本帝国憲法と『教育勅語』に神話を導入しないという理念は、双方の起草者である井上によって徹底されていた。井上は、天皇による統治の形而上学的な根拠付けを回避していた。大日本帝国憲法と『教育勅語』は、歴史的なものとして設定されていたのである。それは、天皇を巡る宗教的な論争を予め回避する意図で設定された。仮にそうした論争が発生したとしても、天皇や政府がそれに巻き込まれないようにする計らいであった。

天皇による統治の根拠は、神話に由来するのではない。例えば天照大御神が瓊瓊杵尊に「天壌無窮」の勅を下したことが天皇の地位の由来であるという発想は、誤りである。天皇の地位は、初代天皇から代々受け継がれてきた歴史の事実に由来するのである。近代社会における天皇の地位は、勅に準拠している訳ではない。

日本書紀』には確かに天皇の子孫である旨が叙述されている。だが、そのことが天皇の地位を根拠付けている訳ではない。天皇が八百万のの中でもとりわけ天照大御神を祀るのは、天照大御神天皇の地位を根拠付けているためではなく、先祖を敬うという思想に拠る。先祖の天皇を敬うのならば、そのまた先祖となるとされるを敬うのもまた道理なのだ。天照大御神を敬うからこそ歴代天皇も敬うのではなく、歴代天皇を敬うからこそ天照大御神も敬うのである。

機能的等価物の探索:「国家神道」と「教派神道」の区別

「徳」を重んじる『教育勅語』を契機として、<非宗教としての神道>という消極的な神道概念に、積極的な輪郭が与えられることとなる。すなわち、「道徳」という形式である。一方、伊勢派と出雲派の闘争解消されたことを契機として、近代日本の社会構造における宗教構造もまた規定されることとなった。伊勢宮と出雲宮は1882年、官国弊社の官や教導職を分離させると共に、それぞれ宮教と大社教という宗教団体を成立させた。これにより、国家祭祀を掌握する伊勢宮や出雲大社とその下位に位置する一般的な神社と、宗教団体として活動する「教派神道」とが、明確に区別されるようになった。

教派神道」は、明治政府公認の神道系の民間宗教意味する。主に創唱宗教の黒住教、天理教、金光教、山岳信仰の実行教、扶桑教、御岳教、そして独立派の禊教、理教、神道修成派、神道大成派など、数多の宗派から構成された。これらの諸宗教は、浄土真宗をはじめとした仏教の各宗派と肩を並べる。そしてその共通点としては、上位に「国家神道」が位置しているという点である。「国家神道」は<非宗教としての神道>に他ならない。「教派神道」は<宗教としての神道>である。つまり<非宗教としての神道>である「国家神道」が、<宗教としての神道>である「教派神道」を統制する形で、宗教政治に関わる日本の社会構造形式化させたのである。

しかしこの「国家神道」と「教派神道」の区別は、緩やかに政教分離を開始した日本の全体社会によって導入された区別なのではない。この区別は、あくまでも政治システム観察によって導入されている。それは宗教システム観察によって導入された区別なのではない。「国家神道」と「教派神道」の区別は、政治システム自己言及によって構成されている。政治システムの「中」で自己言及的構成されたのが「国家神道」であるのに対して、政治システム外部言及によって構成されたのが「教派神道」である。日本の政治システムは、「国家神道」と「教派神道」の区別を導入することによって、自己言及外部環境区別自己言及の側に「再導入」した。それにより、維新政府は、その作動に自己論理を宿らせたのだ。この意味で「国家神道」と「教派神道」の区別は、「国体」に自己論理を宿らせた『教育勅語』の機能的等価物であったと考えられる。

問題解決策:水戸学の意味論

教育勅語』の意味論観察する上で、上述した後期水戸学との関連を見過ごす訳にはいかない。江戸時代の「藩政改革」が実施された頃には、藤田派が改革を推進する上で優勢となっていた。特に1841年に開設された藩校弘道館では、その教育理念叙述した『弘道館記』が、水戸学精神要約した内容として起草された。後に東湖がこの文書の解説書として『弘道館記述義』を著して、『新論』と共に、水戸学を代表する文献として位置付けられるようになる。特徴的なのは、『新論』が政治的な問題解決策に言及していたのに対して、『弘道館記述義』は道徳に注力している点である。この文献では、後の明治以降に「国民道徳」として記述される概念の根源が示されている。

「弘道」という用語は、『論語』に由来する。しかしながら「弘道館記」の理念においては、記紀神話に始まる日本の歴史に即して「道」が説かれている。それ故にこの理念が指し示そうとしていたのは、日本社会に固有の道徳であったということになる。この理念が表しているように、水戸学意味論では、学問と政治的な実践の一致が重視される。したがってその学問の内容は、従来の日本儒学とは異なり、現実への応用を重視する内容であった。「文武岐れず」とはこのことである。日本固有の思想である神道国学儒教意味論が接続されたのも、このためだ。道徳理念抽象論では留まらず、具体的な歴史事象との関連から記述されたのである。

元々水戸学は、一藩の政治的な問題のみならず、国家全体の政治的な問題も重視していた。これは水戸藩が御三の一つであったことから、幕府との運命共同体の如き位置関係であったためであると考えられる。この社会構造と照らし合わせれば、水戸学が記述した尊王意味論は、決して反幕府の意味論ではなかった。その理念が指し示していたのは、天皇の伝統的な権威を後ろ盾とすることで、幕府の権力を強化し、幕府を中心とした国家体制の強化を図ることであった。

しかし社会構造意味論の関連は双方向的である。意味論社会構造変異を方向付けることもあり得れば、逆に社会構造意味論内容を規定することもあり得る。水戸学意味論も、当時の社会構造によって方向付けられていた。水戸学は決して中央政府の擁護者の思想ではない。それは単なる保守的な政治思想ではなかった。現に水戸学が目指したのは、現状維持ではない。それは幕府を中心とした政治改革であった。改革によって、対外的あるいは対内的な国家危機を乗り越えることこそが、水戸学本来の目的であった。実際、開国後に幕府が水戸学理念照応しなくなった暁には、尊王攘夷意味論は、反幕府の形式を取ることになった。水戸学意味論そのものには変化が無くとも、外部環境社会構造が変われば、その意味論機能変異するのである。

水戸学が近代日本社会における国家主義思想の根源的な位置付けにあるのは間違いない。実際この意味論は、水戸学影響を受けていた吉田松陰らを通じて明治政府の主導者たちに継承された。そして『教育勅語』をはじめとした天皇国家の教化政策を方向付けた。明治維新以後の「国体」概念も、水戸学を抜きに論じることはできない。

派生問題:「排除された第三項」

尤も、これ以上に注意しておかなければならないのは、『教育勅語』が可能にした「国体」の普遍性は、あくまでも「天皇」と「臣民」の区別の枠組みにおいてのみ通用するという点である。論理学的に言い換えれば、この普遍性は、「天皇」と「臣民」の二値論理構造の内部に限定される。したがって、この二値論理によって「排除された第三項」にとっては、普遍的ではない。例えば「臣民」を今日的な「国民」に言い換えれば、このことは現実味を増してくる。実際、「日本国民」から区別される「日本市民」や、日本から区別される諸外国にとっては、日本の「国体」は普遍的ではないはずだ。多値論理学的に言えば、そうした外部からの観察者は、この二値論理構造を「棄却(Rejektion)」することができる。「否定(Negation)」ではなく、「棄却」である。

否定」と「棄却」の区別を導入した場合、否定とは二値コードの一方の側から他方の側へと境界を横断する作動を意味する。これに対して棄却とは、ある二値コードや二項図式に基づいて導入された問題設定を別の区別観察することを指す。この時、既存の区別によって指し示された選択肢の中からどれを選択するのかという問題は保留となると同時に、新たな区別による別様の選択肢が浮上する。

この棄却という観察は、近代社会における日常茶飯事である。例えば合法違法二値コードに従う法システムは、支払いと非支払いという経済システム二値コードを暗に棄却している。貨幣支払いと非支払いのいずれかを選択したところで、合法違法の判決が下される訳ではない。多値論理学者ゴットハルト・ギュンターが述べているように、求められている選択を許容しない値は、いずれも一つの「棄却値(rejection value)」となる。

天皇」と「国民」の区別に対して「排除された第三項」に位置する観察者は、この区別棄却することにより、「天皇」と「国民」の区別可能にする「国体」の意味論観察せず、あえて主題にしないという選択可能にする。歴史教科書の検閲や、そもそも単一の国民国家に収まらない「グローバル資本主義」的なものは、この「排除された第三項」による棄却観察の具体例と言える。

このような背景から尚も『教育勅語』に準拠した「国体」の意味論普遍的であり得るとするなら、それは尚も「天皇」と「国民」の区別を導入し続けることであえて主題にし続けるコミュニケーションが継続している場合に限られる。だがそうしたコミュニケーション可能になるのは、「天皇」と「国民」の区別が、「排除された第三項」に位置する観察者が導入する別様の区別から、区別される場合だけである。「天皇」と「国民」の区別別のあり方でもあり得る区別から区別し続けるには、「天皇」と「国民」の二値論理によって構造化されている日本の社会システムが、尚もシステム外部環境区別を導入し続けていなければならない。そのためには何よりも、「国体」の意味論に準拠している社会構造が、そのシステム作動を継続していることが前提となる。つまり、日本による日本の自己記述展開され続けていなければならない。

このように、「国体」の意味論は日本の社会システム社会構造を方向付ける一方で、「国体」の意味論意味論として機能するためには、その社会構造に依存しなければならない。つまり、「国体」の意味論が日本の社会構造の前提となると共に、日本の社会構造が「国体」の意味論の前提となる。この意味で、この社会構造意味論の間には――無論、それは日本に限らずあらゆる社会システムに言えることだが――無限後退パラドックスが潜んでいる。日本の社会構造が存続するか否かは、このパラドックス脱パラドックス化可能にする意味論如何にして可能になるのかに懸かっている。あらゆる社会システムがそうであるように、日本社会もまた、脱パラドックス化意味論を記述し続ける必要がある。日本における「国体」の意味論は、脱パラドックス化機能を引き受けなければならない。

同様のことが、「国家神道」と「教派神道」の区別にも当てはまる。「国家神道」と「教派神道」の区別が導入されれば、この二値には収まらない「排除された第三項」が派生する。あらゆる社会システムがそうであるように、政治システム自己言及は、第三項排除に準じている。八百万の象徴されるように、各地にはまだ、その土地に固有の信仰形式存在していた。各地の実力者の中には、「氏」という独自の「々」もいた。政治システム観察する<宗教としての神道>だけが、「宗教としての神道」なのではない。政治システムから区別される宗教システムコミュニケーションの中には、政治システム観察盲点となる別様の神道もあり得たのである。そうした神道にとって、「国家神道」と「教派神道」の区別の「自己論理的(autologisch)」な展開可能にした明治維新普遍性も、無縁であった。

事実、「国家神道」と「教派神道」の区別の枠組みには収まらない「排除された第三項」の中には、天理教や大本教のように、シャーマニズム的な神道による宗教運動も派生している。それは、根本から世を立て直さなければならないという<批判的な意識>に基づく学的な運動であると共に、新しい神話形成運動でもあった。そこで語られる神話は、近代日本における<国家神話>と<民衆の神話>の区別によって展開されている。そうした<民衆の神話>は、<国家神話>に対するアンチテーゼである。

これら神道系の新宗教は、弾圧を受けてしまう。天理教や大本教は、近代国家理念に対する<批判的な意識>を内在していた。それは民衆の支持を十分に得ていた。教団勢力としては申し分ないほどである。だがそれは逆に、国家が治安を維持していく上では脅威となり得る集団でもあった。国家構成した<国家神話>は、究極的には憲法に帰着する。だが天理教や大本教は、<国家神話>から逸脱しているために、原理的に棄却する可能性を有している。それは合法否定しているのではなく、合法違法区別棄却しているのである。

以上の「排除された第三項」と「棄却」の作動に関する多値論理学は、戦後の日本と神道が直面した諸問題を設定する上で、有用になると考えられる。これについては、直ぐに示す。

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