中世仏教の社会構造と鎌倉新仏教の意味論 | Accel Brain

中世仏教の社会構造と鎌倉新仏教の意味論

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問題再設定:「神国」としての「日本」は如何にして可能になったのか

先に取り上げた『神皇正統記』は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷の正統性を述べた歴史書である。この序文では、初めに「日本」が「神国」であると高らかに宣言した上で、「日本」が世界の全体の中で如何に位置付けられているのかを論じている。

神皇正統記』はまず、この世界の中心には須弥山という山があるとする。そして、須弥山の四方には、四つの大陸が広がっている。そのうち、南にあるものを「贍部」と呼び、その大陸の中央に位置するのがインドに相当する「天竺」であるという。一方、中国に対応する「震旦」という地方もあるものの、それは「天竺」に比べれば小国に過ぎないという。そして、「日本」はその大陸を離れた東北の海中にあると言われている。

既に述べたように、日本では平安時代後期から、同時代を末の世と考える「末法思想」が流行し始めている。末法思想とは、仏の訓えが釈迦入滅後の正、像、そして末という三段階を経て、次第に衰退していくという思想である。末とは仏人間救済する力を喪失してしまう時期を意味する。その時、この世は救済に漏れた人が充満する暗黒時代と化すという。

末法思想流行に伴って、平安時代後期にはそれ以外の様々な仏教意味論も普及していた。仏教は我々の住まう世界に関して独特の世界や宇宙を有している。世界の中央には、須弥山という高山がそびえている。それを同心円状に取り巻く幾重もの山脈の外側には、東西南北四つの大陸が広がっていた。この世界かられば、「日本」は南の大陸の東北の海中にある、世界の一部に過ぎない。「日本」を釈迦の生まれたインドから遥かに隔たった辺境の小島と見做すこうした理念も、平安時代後期には社会一般に共有されるに至る。

こうした辺土意識を克服するために機能したのが「神国」の意味論である。したがって鎌倉時代初期の段階では、「日本」を末法辺土国であるとする「自虐史」的な認識が広く普及していた。端的に言えば、人々は現世を人が蔓延る世界として、毛嫌いしていた。それ故、後に理想の浄土への往生を目指す浄土信仰も、こうした社会背景に基づいて支持を受けるようになった。『方丈記』や『平物語』といった文学作品にせよ、「地獄草紙」や「餓鬼草紙」といった絵巻物においても、無常なる現世に対する否定的な意識が浸透していた。末法辺土自己認識は、文学芸術、思想をはじめとする中世前期のあらゆる文化に深い影を落としていたのである。

問題解決策:「神道」と「仏教」と「儒教」の区別

この経緯を確認すると、一方では「神国」思想を説いて日本を神秘化した代表作として観察されている『神皇正統記』が、しかし他方では「神国」思想が克服したはずの仏教的な世界も受容していることが判明する。それ故、「神国」思想の歴史意味論を辿るためには、単に仏教的な世界から神道的な世界への移行として記述することが誤りであることがわかる。むしろ、仏教的な世界神道的な世界が相互に矛盾した相容れない関係にあるという発想を、破棄しなければならない。むしろ「神国」の意味論は、この「神道」と「仏教」の区別を、「神道」の側へと「再導入(re-entry)」することで、「神道」にその外部となる「仏教」の観点を導入していたのである。

神皇正統記』には、我が国が「神国」であると定義する一方、「万世一系」の「天皇」についても、重要な観察展開している。『神皇正統記』によれば、たとえ「天皇」であっても、その言動に誤りがあれば、凋落の運命は免れないという。例えば「玉」であったが故に皇統が断絶した武烈天皇、乱れた政治原因となって後継者亡きまま去した称徳天皇、やはり「玉」であるが故に皇位から引き摺り下ろされた陽成天皇を、それぞれ例示している。

神国」の思想が流行する鎌倉時代後期は、日本に儒教の徳治主義が本格的に輸入された時代でもあった。その理念においては、「天」という絶対的な権威が実在し、人々の行為に対して道徳的な立場から厳格な応報作用を下すと考えられた。人は、常に「天」から「監視」されている。そのため人々は、身を慎み、徳に適った言動を取るように求められていたのである。

儒教意味論における「天」の威力は、全ての人々に対して「平等」に及んだ。「天皇」もまた例外ではない。「天皇」の地位に就いた者であっても、「天」の意志に反して政を実施してしまえば、その地位も安泰ではなくなる。不当な政治で民衆をしませてしまえば、失脚の憂き目に遭うことすらあり得たのである。

神皇正統記』は儒教の徳治主義的な意味論に準拠している。『神皇正統記』は、一方では「日本」を天照大御神の子孫が君臨する「神国」と規定しているものの、しかし他方では「神国」の中心に位置する「天皇」は儒教意味論が記述する「天」によって、その命運を左右される存在なのである。それ故、『神皇正統記』における「天皇」とは、聖不可侵な「現御」ではなかったのである。

神皇正統記』における「天皇」の意味論では、<徳のある天皇>と<徳に欠ける天皇>の区別が導入されている。親房は、「十の戒力によって天子とはなられても、代々のご行状は善悪さまざまである」と記述している。仏教では、国王となる条件として、前世に十の行を実践すべしという十戒を保つことが必要であると考えられていた。中世「日本」の「天皇」がしばしば「十の帝王」と呼ばれていたのは、このためである。

神皇正統記』における「天皇」の意味論では、「天皇」の持つ権威や聖が、儒教の徳治主義や仏教の十帝王説に準拠して記述される。その「神国」思想は、「天皇」が君臨する「神国」としての「日本」を、仏教儒教のような外来宗教の要素をむしろ包摂することで特徴付けている。この論点は、「神国」思想が外来宗教に対立して発展したという通俗的な歴史盲点となる。「神国」の思想は仏教儒教排除していないのである。

問題解決策:寺社相論

「日本」を「神国」と見做す思想は蒙古襲来を契機として生み出された訳ではない。「神国」の思想は、蒙古襲来以前から様々な史料で記述されていた。例えば院政時代の「寺社相論」を巡る社会運動観察すれば、随所に「神国」の意味論内在していることがわかる。

平安時代後期になると、大寺院や有力な神社が積極的に土地を集めることで巨大な荘園領主へと成長していた。だが、荘園領主制社会構造は、一度巨大なシステムを配備すれば万事が上手く運ぶ仕組みではなかった。むしろ重要なのは、集めた荘園の経営が如何にして可能になるのかであった。皇室をはじめとする有力貴族や大寺社が皆一様に荘園獲得のための競争に参加している状況下では、少しでも隙を見せれば、直ぐに近隣領主たちによる侵犯を受けてしまう。また、国家の出先機関であった国衙も、荘園を没収する機会を虎視眈々と狙っていた。たとえ荘園を領有したとしても、その住民たちは、何かと理由を付けて、年貢を出し渋り、事あるごとに減免を要求していた。

こうした状況の中で、円滑な荘園支配を持続させるために必要となったのは、経営と年貢徴収を実施する組織の整備であった。また同時に、他の領主による侵略を防止して、住民の犯行を抑止する強力な武力を保持することも、不可欠と考えられた。それ故にこそこの時代には、寺の武装化が徐々に進行していった。しかしこれにより、強力な武力には付き物の問題が派生することとなる。彼らはやがて「」と呼ばれる集団へと結実したのである。

院政期に勃発した社会運動は、大寺院たちによる強訴として勃発していた。白川、鳥羽、後白河の三代の間に為された強訴は60回を超えていた。たちは事あるごとに木や輿を押し立てて、京都に押し寄せた。彼らは不合理な要求でも力尽くで押し通そうとした。

寺社勢力が猛威を振るった背景にあるのは、競争原理に曝された寺院の経営問題だけではない。更にもう一つの理由となったのが、王権の存続という問題設定における宗教機能である。中世日本の宗教的意味論を主導していたのは、仏である。仏こそが世界根源であると考えられていた。「」や「仏」の意味論は、「天皇」や王権を中心に階層的に分化した社会構造を持続させる上で、有用な問題解決策として機能していた。仏の助力があってこそ、王権の存続が可能になると考えられたのである。むしろ、「天皇」が「天皇」たり得るのは、仏の加護があってこそなのである。

寺社勢力が無理難題を突き付けたのは、その背景仏の意味論があったためでもある。比叡山をはじめとする寺院とその仏は、鎮護国家社会構造を維持するための有力な意味論を提供していた。寺院侶たちは、様々な国家守護の会の担い手でもあった。それ故、侶たちが朝廷に対して強気に歯向かったのは、不自然な出来事ではない。寺社勢力による強訴に直面した朝廷の権力者たちが、その鎮圧に及び腰になるのも道理であった。

南都北嶺の寺社勢力による強訴が頂点に達したのは、院政期から鎌倉時代の初期の間の出来事である。そしてこの時期、寺社勢力の横行が続く切迫した状況の中で、権力者は徐々に「神国」を記述するようになった。実際1123年になると、日吉の輿に対して暴力的に騒ぎ立てる延暦寺の強訴に頭を痛めた白河皇は、石清水八幡宮に祈願の告文を捧げ、の鎮静化を祈願した。この告文の中で白河皇は、自身が「三代帝王の父祖」として、70歳を超える年齢に至ったことを、まずは「」に感謝した。そして、比叡山のをはじめとする寺社勢力の構成員たちの辣ぶりが日々激化していくことを主題として取り上げて、こうした勢力が騒ぎ立てるのも、朝廷が彼らの要求を安易に受容してしまうためであると主張した。その上で白河皇は、自国が「神国」であって、「」は非礼を受け入れない存在であると述べた。白河皇は、「」の力を以って、衆徒の中の暴な者たちを懲らしめ、平穏な国土を実現して欲しいと祈願するのである。

注意しなければならないのは、白河皇は決してたちの一掃を祈願した訳ではないという点である。白河皇は侶が主導権を握る比叡山そのものを否定してはいない。むしろたちの心が和らぐことで比叡山が本来の姿に戻り、その力で国土の豊饒が実現することを期待していた。同様の動向が、1113年の鳥羽天皇宣命からも見受けられる。興福寺と延暦寺の間での訴訟が激化し、人や衆徒の横暴が目に余る状況を嘆いた宣命は、八幡に対して、彼らの事を止めさせるために、その威力を発揮するよう求めた。1236年にも、石清水と興福寺、春日社との間で勃発した紛争において提示された「藤氏長者宣」は、自国が「神国」であると主張した上で、代において、天照大御神、八幡、春日の三が力を合わせて子孫と国家を守護することを誓ったという伝説を取り上げ、対立する両勢力に対して、停戦と和解を求めた。

有力神社を巻き込んだ激しい紛争は、それらの権門寺社が国家精神的支柱としての役割と、護国の機能を担う存在であった。それだけに、支配層に深刻な危機感を抱かせた。国家を守り、人々を救済すべきであるはずの宗教的な勢力が率先して武力衝突を繰り返すことは、社会的な秩序を根底から覆し兼ねない危険を孕んでいた。そのため院政期では、寺社の強訴関連事項は、審議機関である朝議において、最優先に解決すべき国家水準の問題として設定されていた。

問題解決策:鎌倉新仏教批判

神国」が活発に言及されるようになったのは、鎌倉時代の初期のころである。その一方で、いわゆる「鎌倉新仏教」と呼ばれる仏教の新潮流が、鎌倉時代を特徴付ける思想的運動として成立した。然をはじめ、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍といった人物たちが、次々と独自の信仰世界を切り拓いていった。これに対抗して、伝統的な仏教の側からも優れた思想や学が出現した。歌人としても知られる『愚管抄』の作者慈円、解脱上人の貞慶、明恵上人の高弁らは、その代表格である。

しかし注意しなければならないのは、鎌倉時代は新仏教だけの時代ではないということだ。むしろ比叡山延暦寺をはじめとする南都北嶺の伝統的な仏教の方が、思想的には圧倒的に多数派であった。これらの伝統的な仏教は、単に宗教世界で大きな力を発揮していただけではない。平安時代後期には、権門寺社が自ら荘園領主へと成長して、巨大な世俗的な権威を身に付けるようになった。その過程で、有力寺社は貴族の子弟を積極的に受け入れるようになった。貴族層に加えて、院政期ごろからは皇族出身者の入寺が目立つようになった。大寺院は第二の公社会とも呼ぶべき社会システムへと発展していたのである。

鎌倉新仏教は、社会的勢力としては少数派であった。そればかりかこの新仏教は、既存の伝統的な仏教側からは異端として批判されていた。然の「専修念仏」のように、場合によっては弾圧を被ることもあった。例えば1204年、比叡山延暦寺の衆徒が、然の専修念仏に対して反対の声を上げ、その活動の停止を訴えた。翌年、今度は興福寺の衆徒が専修念仏の禁止を朝廷に求めた。こうした事例は、新仏教国家権力によって弾圧されていたことを示す実例である。

伝統的な仏教と結託した支配者層から弾圧を受けたのは、然だけではない。禅宗の系譜に連なる栄西と道元も延暦寺の圧力を受けていた。一度は京都を離れることを余儀無くされている。また華経の至上を標榜することで、その題目となる妙蓮華経の専修を説いた日蓮は、伊豆と佐渡への二度の流経験し、竜ノ口では危うく斬首されるところまで追い詰められた。

神国」の意味論は、こうした支配者層と既存仏教による鎌倉新仏教に対する弾圧の背景とも関わっている。比叡山延暦寺をはじめとする伝統的な仏教が念仏の禁止を朝廷に要求した際、その奏状には「神国」の概念が表れている。1224年に専修念仏の禁止を朝廷に要求した際に提出された延暦寺の解状には、一向専修の党類が「明」に背を向けるのは誤りであると記述されている。我が国は「神国」であって、「神道」を敬うことを国の務めとしている。謹んで「々」の根源を尋ねてれば、一つとして諸仏の「垂迹」ではないものなどいない。つまり、「仏」の「垂迹」を「神国」の根源とする中世的な「神国」概念が、この奏状にも通底しているのである。

神国」の意味論に準拠した場合、伝統的な仏教鎌倉新仏教を問題視した理由も明快になる。伝統的な仏教徒たちによれば、専修念仏者は、念仏を口実として、「明」を敬おうとしていなかった。それは国の礼を失する行為である。それは「」の咎めに値する非礼なのだ。そうした念仏者たちによる「」をも冒涜する行は、「神国」のに反する行為である。だからこそ念仏者たちは、国家による処罰の対象になったのである。「々」の威光は、「仏」や「菩薩」の「垂迹」であることを根源としている。故に、「々」への礼拝を拒否する専修念仏者たちは、「神国」の儀礼に背く存在なのである。

荘園領主制の社会構造

伝統的な仏教と支配者層による鎌倉新仏教批判は、日本が「神国」であることを根拠としている。しかしこう述べただけでは、「々」を敬わないという理由だけで新仏教批判されたという事態が如何にして可能になったのかがわからない。このことを理解するには、「神国」の意味論と当時の社会構造、すなわち荘園領主制との関連を観察しなければならない。と言うのも、この新仏教批判背景にあるのは、仏の社会的な機能であったためだ。

律令制支配の解体に直面した寺院神社は、国家の支援に代わる新たな財政基盤として、荘園を集めていた。その際、寺社は自らの領土支配の正統性を主張するために、その荘園をしばしば「」や「仏」の所有する聖なる地に準えた。そうした土地は、しばしば「仏土」や「領」と名付けられた。例えば東大寺では、寺領荘園が「大仏御領」と呼ばれている。その上で、荘園に居住する住人たちが年貢を拒否した場合や、俗人が寺社領を侵略した場合には、仏の「罰」に値する非道な行為とみなされ、処罰の対象となっていた。

仏」の権威を利用した支配体制の展開は、寺社領の荘園に限られたことではない。この時代の荘園は、その支配体系の頂点に位置する本の下で、領と在地荘官をはじめとした重層的な支配形式が採用されていた。そのため、天皇や摂関をはじめとした本職を持った場合でも、寺社が領職とされる例は多かった。荘園の中央には必ず鎮守の寺社が勧請され、住民に睨みを利かせていた。中世日本の社会構造は、まさに「仏」を頂点とした荘園領主制の階層的に分化した構造形成していた。

したがって、中世日本の階層的に分化した社会構造を維持していたのは、「仏」の意味論である。これに対して、然、親鸞、日蓮らは、究極的な救済のためには「々」への礼拝が不要であると主張していた。礼拝が不要となるのは、「」だけではない。仏像や聖人もまた不拝の対象となった。彼らは「」、「仏」、聖人などのような既存の宗教的象徴否定していたのである。

法然の観察の観察

鎌倉新仏教の代表格である然の新仏教は、まさに荘園領主制社会構造の階層的な分化否定する意味論を提供していた。その特徴は、救済に不可欠の役割を果たすと信仰されていた「垂迹」を救済の体系から完全に排除した意味論を提供したことにある。彼の新仏教では、念仏を唱えることで、身分や階層とは無関係に、誰もが本地の弥陀の本願に乗じて平等に極楽浄土に往生できることを主張した。誰もが彼岸の阿弥陀仏と直接的に円を結ぶことができる以上、その媒介となる宗教的象徴は、真の救済においては有害とすらされていた。

もとより然自身には、既存の支配体制となる階層的に分化した社会構造否定するつもりはなかったはずだ。そこに政治的な意図は無かったと考えられる。しかしながら、その意味論政治的に機能した。何故なら、身分や階層を否定するということは、「仏」を頂点とした階層的な分化否定することを意味するためである。それは、既存の伝統的な仏教の存続を可能にしている社会構造否定をも意味してしまう。彼の意味論は、「垂迹」の権威を用いた荘園領主制の支配においては、不都合な意味処理規則となり得たのである。

阿弥陀の選択

然は当初、天台宗のとして、源信に深く傾倒していた。その思想は天台教学の枠組みの中で規定されていた。その意味論の主導的差異となるのは、念仏に対する「念」と「称念」の区別である。「念」が想の念仏であるのに対して、「称念」は称名の念仏である。浄土教の「念声是一」では、念よりも称念を重視する。そこでは阿弥陀仏の相をずることを「仏」と呼び、その名を称えることを「念仏」と呼ばれる。天台教学の中では、称名念仏は多くの往生行のうちの一つに過ぎず、しかもそれは愚者を導くための方便として位置付けられていた。しかしそうした中で然は、自らに相応しい行として、称名念仏へと次第に心を傾けることになる。それと同時に然は一つの大きな疑問に行き着く。それは、源信の『往生要集』が口称の念仏を力説していながらも、称名と念を共に重視する立場に規定されている点である。源信の訓えに従うだけでは、称名念仏のみによって確実に往生できる保証が十分に得られない。然の専修念仏に対する探究は、この疑問から始まった。

然は、阿弥陀が専修念仏を往生の本願として選択したことを、専修念仏を選ぶことの理論的な根拠としている。称名は因位の衆生救済を誓った阿弥陀によって選択された。それ故に然は、原理上如何なる者であっても、専修念仏を実践することにより、仏願に乗じて等しく往生が可能になると考えたのである。ここで然は、いわゆる「本願念仏期」の段階へと至ることになる。『往生要集』からの離脱と専修念仏への帰入という然の回心は、1175年の出来事であるとされる。だがこの回心は、直ちに然の最終的な到達点とされる「選択本願念仏説」への回心を意味するのではない。この「選択本願念仏説」は、1190年の三部経釈を経た『選択本願念仏集』が登場して初めて完成したのである。

選択本願念仏集』において然は、末法思想を根拠に、「選択本願念仏説」を聖道仏教の代替案として主張している。この文脈でも、説の根拠となるのは阿弥陀の選択であった。然は阿弥陀が一切の諸行を選捨することで、ただ念仏一行のみを選択し、それを往生の本願としたの述べている。そして然は、阿弥陀が念仏を選択した理由として、優劣と難易度の観点から補足している。念仏は他の行よりも勝っており、かつ簡易に実践することができるという訳だ。念仏は、他の行に比して勝っているが故に、阿弥陀によって選ばれた。そして阿弥陀によって選ばれたが故に、念仏は余行とは隔絶された絶対的な威力を有する。加えて念仏は、原理上如何なる者であっても実践することができるという点で、簡易に実践可能である。それは衆生においても適用可能であって、決して阿弥陀のみぞ実践可能とする訳ではない。然はこのように、優劣と難易の区別を導入することで、念仏を正統化したのである。

法然と念仏聖の差異

然がそれまで愚者を導く方便に過ぎなかった称名念仏を重視するに至る理由を知るには、然と同時代を生きた念仏聖との比較観点を導入するのが得策である。然の念仏信仰の源流となっているのは、平安時代の民間布教者とされる聖の信仰であった。念仏聖の活動が活発になるのは、院政期に入り、各地に数多くの別所が形成されてからのことである。叡山の別所大原における天台宗ので、融通念仏宗の開祖とされる良忍の活動は、この代表例となる。彼らは単に世俗世界から隔絶された領域で隠居生活を営んでいた訳ではなく、むしろ世俗世界に出向くことで積極的に念仏講を実施していた。

しかしこうした聖の念仏講は、独自の教理教学を前提に実施されていた訳ではない。それは然の活動とは違い、仏教意味論全体における念仏の位置関係を問い直す試みではなかった。聖の実践は、あくまでも既存の正統派とされる顕密仏教の延長線上の論理として結実していた。彼らの念仏の意味論は、『往生要集』で説かれているように、念仏を愚者を導く方便として位置付けていたのである。そのため、聖の主張が如何に専修化されようとも、伝統的な仏教意味論の枠組みに収まるが故に、既存の社会構造の反発を受けることも無かった。実際、確かに平安期の往生伝では、称名念仏の専修化による往生者の例を取り上げることがあっても、諸行による往生者を決して主題から排除されはしなかった。

聖の活動が顕密寺院に基づく旧仏教社会構造に方向付けられていたのに対して、然の活動は聖道門を含めた仏教意味論全体における念仏の位置関係を再定義することを意味した。『選択本願念仏集』において、道綽の聖と浄の二門を立てる道綽の説に対して、「浄土宗」の立宗を論じたのは、こうした意図の表われである。そしてその結果として然は、浄土門こそが末時に相応しい訓えであって、その中でも称名念仏が阿弥陀の選択した最も勝った行であるという結論に達したのである。この文脈から、従来顕密仏教の諸行に比べれば方便に過ぎなかった称名念仏は、立場を逆転させ、諸行を凌ぐ位置を占めることとなる。

然は確かに、無意味な難行に取り組む顕密聖道門徒を冷ややかな眼で観察していた。だが然は決して直接的にも明示的にも聖道仏教批判していた訳ではない。しかし然の「選択本願念仏説」の意味論は、念仏一行のみを肯定すると共に、他の行や聖道仏教は肯定の対象外としていた。この意味論においてはあくまでも、阿弥陀の一仏に対する専修念仏の信仰に帰入することだけが規範的に期待されていた。一を選ぶということは、他を選ばないということだ。然が如何に直接的かつ明示的な批判を避けていたとしても、その然の観察観察する観察者たちにとっては、彼の意味論が有する否定機能を論理的に認識することができたはずだ。

「融和」と「選択」の差異

仏教による専修念仏の排撃は、各宗派に固有の教義に準拠することで念仏を教理的に批判するという形を採っていた訳ではなかった。その批判は、既存の諸行や仏を肯定する立場が、一仏のみに執着して他の仏排除する念仏者の偏狭批判するという形を採っている。ただしこの<批判的な意識>は、特定の、一なる仏選択するということが、我に囚われているということを指し示している訳ではない。実際、旧仏教による批判は、我の執着という原始仏教から伝われる仏教意味論に準拠しているというよりは、むしろ荘園領主制社会構造との関連から方向付けられている。専修念仏の排撃は、諸大寺院が同時に国家権力を分割統治する荘園領主であったという、中世における権門寺社に固有の社会分化形態に依存した現象であった。つまり、中世日本の階層的に分化した社会構造があったからこそ、専修念仏の排撃が駆動されていたのである。

仏教は、しきりに「融和」を主張した。荘園領主制社会構造においては、まず以って様々に異なる仏背景に住民の支配を実施している諸寺に対して、荘園領主という支配階級としての自覚を促すことが求められた。そうすることにより、相互の対立を抑制することが必須であったのだ。そして、共同で民衆の支配を円滑に遂行していくことが要求された。それと共にこの「融和」の意味形式は、荘園領主制という階層的な分化構造化させる意味論としても機能した。この意味形式は、複数の教行の間に階層的な序列を設定することで、それを修しての証果の内容に差別を措定していた。そうすることによって、称名念仏をはじめとした「易行」を実践する被支配民衆を、この階層的に分化した社会構造の枠組みの中に組み込むことが可能になる。こうして旧仏教は、重層的な社会的秩序を構造化していたのである。

この意味で、然が「易行」としての念仏を重視したという事実は、旧仏教にとっては不都合極まりなかった。旧仏教社会構造を前提とすれば、念仏は愚者にも実践可能な「易行」に過ぎなかった。逆に、「易行」としての念仏しか実践できない愚者たちは、相対的に低い階層に位置付けられたのである。それ故に、逆に念仏を重視する然の意味論は、旧仏教社会構造矛盾する意味形式を提供してしまう。旧仏教による専修念仏の排撃は、「融和」の意味形式と「選択」の意味形式矛盾を前提としていたのである。

親鸞の観察の観察

然没後、尚も専修念仏を展開していた門徒たちの大半は、専修念仏という信仰形態を保持しながらも、徐々に「選択」よりも「融和」の意味形式を優遇することで、既存の教団との共存を目指すことになった。しかし中には親鸞のように、多くの門徒たちとは異なり、むしろ逆に然の「選択」の論理を極端に推し進めた者もいた。特に親鸞は、然同様に末の思想に準拠した上で、現世では如何なる人間もその資質を低下させることになるために、従来の如何なる聖道的な実践にも耐えることができないと考えた。

親鸞は首尾一貫して然を継承している。だが彼は新たな区別を導入してもいる。まず親鸞は釈迦に由来する原始仏教を「聖道」と「浄土」に区別する。そして親鸞は、末滅思想を末における聖道仏教の隠没であると明示する。そうすることで、親鸞は、伝統的な顕密仏教が時代遅れの訓えであるとして排除しようとした。そしてその代替案として、「選択」本願の念仏こそが唯一残された真の仏であると説いたのである。この関連から言えば、親鸞の思想は然の思想を極限まで推し進めていることがわかる。実際、然が聖道仏教に対する直接的かつ明示的な批判を避けていたのに対して、親鸞はむしろより徹底して聖道仏教批判していた。親鸞によれば、聖道門の諸行は無意味な「難行」に過ぎないという。親鸞の思想は、その<批判的な意識>に基づいたラジカリズムを以って、称名念仏一行の専修という然の思想を極端に推し進めた思想であるということなる。

親鸞の意味論において念仏者は、現世における自力での努力が全く無駄なことであると悟った上で、現世利益の追求を断念することが求められた。そうした外面的な体裁を顧みず、ひたすら来世の浄土の信仰没入することが求められたのである。聖道仏教かられば、一行に没入する然の専修念仏の「易行」は、一仏に執着する理念の表われであった。だが親鸞にとっては、むしろ「難行」である聖道門への没入こそが執着であった。末の時代における真なる念仏者の呼称に値するのは、そうした無意味な努力を放棄すると共に、一切の自力の計らいを棄てて、ありのままの姿で念仏する者なのであった。

親鸞のこうした<批判的な意識>は、やはり然同様に、荘園領主制社会構造それ自体に向けられている訳ではない。親鸞もまた、然同様に、その意味論上の主張を念仏者個々人における信仰純化の論理に留め、門徒がそれを既成仏教の排撃に用いることは決して許さなかった。しかし親鸞の観察観察する我々は、親鸞の意味論に基づいた親鸞の認識と親鸞の意味論機能とを、区別しなければならない。親鸞がたとえ決して既成仏教の排撃を許容しなかったとしても、親鸞が記述した意味論は、そのように機能していたためである。何よりも、「選択」を「融和」よりも重視する親鸞の意味論は、荘園領主制社会構造との矛盾した思想を構成するという点で、然の意味論機能的等価物であった。「選択」の論理を採用する限り、他の宗派との対立は避けられない。そうした矛盾した関連は、「融和」の関連と矛盾するのである。

問題解決策:蒙古襲来

以上のように、「神国」の意味論は既に蒙古襲来以前から記述され続けていた。しかしいずれもその記述は、「日本」国内における「日本」国内への言及に留まっている。「神国」としての「日本」の自己記述が、外部環境の諸外国を意識して再記述されるようになったのは、確かに蒙古襲来以降の流れとなる。

13世紀前半、ユーラシア大陸を攻め取った蒙古が、次に狙いを定めたのが日本であった。1268年、高麗の使者によって、日本の服属を要求した蒙古の国書が届けられた。幕府を通じてこの国書に接した朝廷は、当初はそれを黙殺していた。しかし、外国による事実上初となる本格的な侵略が始まろうとしている最中、朝廷は危機感を募らせていた。

幕府は最初に、諸国の一宮と二宮、国分寺などのような主要寺社に対して、蒙古の屈伏を目的とした異国降伏の祈祷を命じた。朝廷も、王城鎮守の二十二社に対して、蒙古調伏の祈祷を実施させた。「仏」への祈願は、これ以降も蒙古襲来危機が遠のくまで、繰り返し実施された。1281年、二度目の蒙古襲来が目前まで迫っていた時期には、西大寺の叡尊が石清水八幡宮に赴き、蒙古の軍船を本国に吹き送るように祈願している。

中世日本では、「仏」の存在は自明化していた。それはこの世界根源であった。そのため、現実社会の流れを変えるには、まず「仏」の力を動員することが不可欠であると信じられていた。だから蒙古襲来という問題設定においても、具体的な問題解決策として展開されたのは、「仏」のコミュニケーションであったのだ。

1274年と1281年、二度に渡る蒙古襲来は、結局のところは奇跡的な偶然によって退けられることとなった。特に二度目の襲来時には、博多湾に集結していた軍船が、一夜にして、暴風によって壊滅させられることになった。中世の日本人にとって、それは「」の御業以外の何物でもなかった。「仏」がこの世界根源であるためだ。「仏」が根源的に現世の流れを規定しているという理念こそが、この蒙古襲来によって、図らずも「実証」されたと考えられるようになったのである。

蒙古襲来の時代には、「日本」を「神国」とする意味論が、至る所で記述されていた。菅原長成は、天照大御神の時代から当時の「天皇」に至るまで、「天皇」は常に「々」の加護の下にあって、それは「々」の百王鎮護の制約に基づいている。そのため、周囲の異民族も反乱を起こすことはなく、それ故にこそ「皇土」を「神国」と称するのである。菅原長成は、「々」が護る「神国」たる「日本」に対して、人智や人力では対抗できるはずがないのだと主張している。

蒙古襲来の時代には、仏教界からも、「日本」を「神国」とする意味論が提供されている。例えば蒙古襲来後に八幡の功績を顕彰するべく発表された『八幡愚童訓』という著作は、この秋津島では、三千余座の祇が百王守護を実行しているために、誰も「神国」を傾けることはできないと主張している。

これはナショナリズムではない

通俗的な理解によれば、蒙古襲来という外国からの未曽有の侵略に対して、日本国内ではナショナリズムが強化されたとされる。曰く、国難に対する危機意識が、民の団結を促し、その勢いが日本を「神国」とする理念増幅させていったのだ。鎌倉時代後期に生み出された「伊勢神道」も、ナショナリズムの高揚を背景としているという。

しかしこのような歴史認識には、「神国」や「神道」の意味論が、常に「日本」の社会構造との関連から方向付けられているという観点が欠落している。そもそも蒙古襲来を迎える鎌倉時代後期の時代は、中世日本の荘園領主制社会構造が深刻な矛盾を露呈し始めた時代でもあった。荘園領主制は、全体が国家と「天皇」による一元的な支配体制であった国土を、有力な権門勢が荘園に分割して私的に所有することで構造化されていた。一度成立した荘園は、それぞれのを単位として、相伝されていった。しかし、複数の子女に対して所領や職務を反復的に分割譲渡していくと、その分散化が進行し、貴族層を中心に階層的に分化した社会構造の弱体化が顕在化することになる。

幕府は繰り返し御人の保護政策を展開した。武士自身もまた庶子による分割相続から長子単独相続へと相続の形式を変更することによって、この危機を打開しようとした。しかし蒙古襲来に備えた負担の増大により、御人層は一層貧困へと追いやられてしまった。追い詰められた者たちの間で、限られた利益を巡る対立が激化した。権門勢の内部や権門同士による相続をめぐる紛争も頻発した。武士による荘園への侵略も相次いだ。それ故、武士や寺社にとっては、ある意味蒙古襲来が、手柄を立てて恩賞を得ることで自身の立場を優位にする好機でもあった。

社会システム理論的に言えば、蒙古襲来はそれ自体、中世日本の階層的に分化した社会構造の競合、矛盾パラドックス解消する上で「機能」した。その際、社会構造の競合、矛盾パラドックスの隠蔽技術形式として機能したのが、まさに「神国」の意味論である。この意味処理規則があるからこそ、「日本」という社会システムは、自己自身を「神国」として自己記述する自己言及可能にした。自己言及可能になっているということは、自己言及外部言及区別の導入が可能になっているということでもある。つまり、蒙古という外部のが、「日本」という社会システム外部環境として構成されることにより、「日本」という社会システムは、その荘園領主制社会構造が不確実化している最中でも、極めてありそうもないその作動の持続を実現したのである。

こうして社会システム理論的に整理しておけば、もはや中世「日本」における「神国」の思想が蒙古襲来を起点に発生したナショナリズムなのだという通俗的な誤った歴史認識も粉砕することができる。蒙古襲来以前の問題として、既に院政期や鎌倉時代前期にも、「日本」を「神国」として記述する意味論機能していた。そしてそこでは、無論、「神国」の概念が対外的な要因とはほとんど無関係に強調されていた。寺社の横暴に対する鎮静化を願う宣命や、念仏の非を糾弾する奏状には、諸外国を意識した記述は見受けられない。そうした外来的な要因が先立っているのではなく、まず「日本」という社会システム自己言及的な作動があるからこそ、「神国」の意味論が記述され続けてきたのである。

派生問題:「神国」の天皇制は如何にして可能になったのか

神国」の意味論に準拠した社会構造が、「天皇」を中心とした国家形成したと考えるのは誤りである。確かに古代日本では、「天皇」は紛れも無なく中心的な存在であった。だが中世における「神国」としての「日本」では、「天皇」の存在感はむしろ希薄化している。「天皇」の安泰が「神国」の意味論の至上命題となっていた古代日本とは異なり、中世日本では、「天皇」は「神国」としての「日本」を維持するための手段と化していた。それ故、「神国」としての「日本」に相応しくないと観察された「天皇」は、速やかにご退場いただくというのが、当時の支配層の共通認識であった。

長らく「神国」の意味論は、孫為君、すなわち孫としての「天皇」の君臨を主題としてきた。しかし「天皇」を主題とした場合であっても、「神国」の意味論を正確に理解するには、各時代における「日本」の社会構造との関連から分析していかなければならない。古代から中世にかけての天皇制が如何に構造化されているのかを観察しない限り、それを主題としている「神国」の意味論の正確な把握も不可能となる。

問題解決策:神秘化と脱神秘化の区別

10世紀を転機とする古代律令制国家の解体は、「天皇」のあり方にも決定的な転換をもたらした。それまで頂点に君臨していた天皇は、この時代を境に、次第に政治的な実権を喪失させた。そしてそれ以来、天皇に代わって権力を掌握したのが、摂関や院・武であった。しかし、政治権力の喪失にも拘わらず、「天皇」は、中世を通じて、形式的には一貫して最高次の統治権能を保有した「国王」として観察されていた。国政の実権から疎外された中世の「天皇」が、形式上とはいえ「日本」の国王であり続けたのは、「天皇」の「権威」が社会的に機能していたためである。つまり、政治的には無力な「天皇」が、遂に国王の地位を追われることがなかったのは、他の如何なる権力も代替できない独自の権威を有していたためなのである。

中世の「天皇」が担った権威として考えられるのは、諸説あるものの、佐藤弘夫が注目しているように、やはり宗教的権威と考えるのが自然であろう。と言うのも、中世の「天皇」は、ある意味で、現御であった古代の「天皇」以上に濃厚な宗教神秘を身に纏っていたのである。

「大嘗祭」の形式、<容器>としての「天皇」

古代から中世に至るまでの「天皇」には、連続した宗教的権威を見出すこともできる。その際、折口信夫の『大嘗祭の本義』で解説されているように、「天皇」に権威を付与する最も重要な儀式として注目されているのは、「大嘗祭」であった。

折口は「大嘗祭」の舞台となる悠紀殿・主基殿に寝所が設置されている点に着目することで、これを天孫降臨の折に皇孫である瓊瓊杵尊/邇邇芸命が包み込まれていた真床襲衾であると解釈した。折口によれば、「大嘗祭」の秘儀とは、新天皇がこの寝床に引き籠って物忌みをすることによって、新たに「天皇霊」を身に付ける行為であるという。

この儀式における「天皇」の身体は、「魂」の<容器>として観察されている。この<容器>としての「天皇」の身体が、物忌みの儀式を通じて、皇祖天照大御神の「マナ」である「天皇霊」によって満たされた時、「天皇」は初めて「天皇」としての聖なる資格を得られるのだという。

歴史的な概念としての「天皇」

しかしこのように皇祖との関連から「天皇」の意味論を記述するだけでは、「天皇」という概念が歴史的な概念であったという点が盲点となってしまう。つまり「天皇」という概念には、各時代において別様の形式を以って構成されていた可能性が視えなくなるのだ。

実際、形式としての「天皇」の内容は、「」との関連のみならず、「仏」との関連から「再記述」される場合もあった。例えば11世紀から13世紀にかけて行われていたとされる「即位灌頂」と呼ばれる密教儀式においては、「天皇」が即位する際に、手に印を結び、口に真言を唱えるという儀式が実施されていた。中世にはこうした仏教色の強い儀式も実践されていたのである。この「即位灌頂」の目的は、「天皇」が最も根源的な「仏」である大日如来に変身することにあると考えられている。「即位灌頂」を通じて、「天皇」はあらゆる「仏」、そしてあらゆる宗教的権威超越する至高の存在へと上昇していくのだという。

この「即位灌頂」の事例が「天皇」の概念の「再記述」であることは、かつての「天皇」と仏教の関連を観察すれば、よくわかることだ。かつて仏教は、護国のとして、「天皇」の身体を外部から守護する存在であった。中世以前の「神国」においては、「天皇」が自ら仏を修することが、原則的に許されない行為として観察されていた。それが中世になると、仏教は「天皇」自身の実践を通じてその身体の内部に深く内包されるようになる。中世「神国」における仏教は、「天皇」の存在をその内部から神秘化させる機能を有していたのである。

「天皇」の人格化

しかし「天皇」の神秘を自明視する観点には、疑いの余地もある。益田勝実は、摂関・院政期以後の「天皇」が、様々な禁忌から解放されたことで、その神秘を喪失させたと指摘している。更に石井進は、院政期には院に纏わる多くの人間的な物語主題になることを取り上げ、それと同時に「天皇」に対する容赦無き批判が寄せられるようになった点も指摘している。

それ故院政期以降の「天皇」の意味論は、その脱神秘化と人格化として整理することもできる。「天皇」の概念は、様々な禁忌から解放されると同時に、「現人」から「人」へと移り変わったのである。この観点かられば、「天皇」はもはや形式的な「」ですらない。それは精々のところ、「日本」の政治的なコミュニケーションが回帰的に何度も主題とする<形式としての人格>に過ぎなくなる。

問題解決策:「超越」と「内在」の区別

しかし一方で、「仏」の加護に依存した「天皇」という概念もまた、説話や伝承を通じて、中世の人々の間に普及していった。例えば白河院の皇子である堀河天皇の誕生は、山門延暦寺の力に準拠した現象であると言われている。白河院はそれ以前に三井寺の頼豪を頼み、世継ぎの出生を祈ったことがあった。祈祷は功を奏し、無事に敦文親王を得ることができたという。

ところが白河院は、報償として約束していた三井寺への戒壇の建立を反故にしてしまった。このことから、激怒した頼豪は誕生した親王を呪殺してしまう。堀河天皇の誕生は、その後を受けた山門の祈祷の結果であった。「天皇」の後継者の生誕や去でさえ、「仏」の力によって、いとも容易く左右されてしまうと信じられていたのである。

在位中の「天皇」が超越的な力によって失脚した説話も、決して珍しい話ではなかった。例えば、後冷泉院と後三条院の病没は、いずれも他人の呪詛に原因があるとされた。また、安徳が平と共に「壇ノ浦」に沈んだことや、「承久の乱」における後鳥羽の敗北と三上皇配流も、仏対した罰であるとする説が主張されてもいた。

いずれにしても共通しているのは、その罰の担い手が誰であれ、「天皇」とこの世の背後には、何らかの超越的な存在が潜在化しているという点である。そして「天皇」は、超越的な存在からは区別された、内在世界の住人に過ぎなかった。本来孫である「天皇」すら、こうした超越的な存在に逆らえば、失脚や滅亡を余儀無くされた。「天皇」は、まさに宗教二値コードである「超越(Transzendenz)」と「内在(Immanenz)」の区別意味論として主題化され続けていたのである。

問題解決策:埋め合わせとしての正統化

中世日本では、「天皇」の新たな権威付けが模索される一方で、その脱神秘化が進んでいた。例えば「即位灌頂」をはじめとした新たな儀礼が、古代社会における現人としての神秘権威からの凋落という期待外れ規範的に期待するために導入された形式であることは、容易に想像が付く。それは埋め合わせ(Kompensation)の形式なのである。

平安時代後半には、「天皇」はもはや他の人間から隔絶された聖なる存在ではなかった。「天皇」は、「仏」に支えられ、その命運を左右される存在と化していた。そうした状況の下で、国王としての「天皇」の存在を正統化するためには、時代に相応しい新たな意味論儀礼形式を構築することが不可欠となった。

その際、「仏」をはじめとする現世の権威を凌ぐ超越的な存在が広く認められた中世では、「天皇」もまたそうした超越的な存在との関連において、自らの地位の正統性を主張せざるを得なかった。自身が担う内在世界での権威によって君臨することのできた古代の「天皇」に対して、中世の「天皇」は仏などの外的な権威の力を借りることができなければ、もはやその地位を正統化することができなかったのである。

外的な権威との提携を模索することによって、「天皇」の意味論は、中世日本の社会構造において圧倒的な地位を占めていた仏教へと接続されることになった。「即位灌頂」をはじめとした「天皇」を正統化する様々な儀礼形式は、こうした問題設定の下で導入された王権の正統化の意味論として機能していたのである。

尤も、「天皇」の宗教的権威が前提としている儀式や理念が、実際にどの程度日本社会に受容されていたのかについては、疑わしい面もある。例えば「天皇」が宇宙の最も根源的な「仏」である大日如来に変身するという「即位灌頂」の儀式は、「天皇」を神秘化させる中世的な儀式として、長らく注目を集めてきた。この儀式は、大日如来としての「天皇」という理念が、そのまま中世日本社会の人々に受け入れられ、その「天皇」の地位の正統化を可能にすると考えられてきたのである。

しかし、「天皇」の失脚や滅亡が当たり前のように語られていた中世日本において、「天皇」が究極的な聖なる存在として顕現しているというその理念は、むしろありそうもない偶発的な認識として結実していたかのようにも思える。もしこのような儀式による「天皇」の神秘化が成立していたとするなら、それが如何にして可能になっていたのかがわからない。

ここで注意しなければならないのは、中世日本における大日如来とは、人間と一体の存在として記述されていたという点である。中世日本における大日如来とは、そもそもが絶対的な存在ではなかったのだ。大日如来とは、全ての人間に等しく内在する悟りの本を擬人的に表現した概念なのである。したがって、大日如来とは、人間と隔絶した超越的な存在ではない。それは、超越世界から内在世界救済する「」の如き存在ではなかったのだ。それ故に、「天皇」が大日如来に変身するというのは、「天皇」が超越的な存在と化すことを意味する訳ではなかったのである。

問題解決策:埋め合わせとしての人格概念

中世日本における「天皇」は、必ずしも積極的に民衆の前に姿を現し、その神秘を誇示していた訳ではなかった。「即位灌頂」も、表立って誇示されていた訳ではない。それもそのはずだ。この儀式は秘儀である。それを巡る言説は、「口伝」、すなわち口頭での伝授という形式でしか、コミュニケーション主題とはならなかった。「天皇」が大日如来に変身するとしても、それは秘密裏に実践されていたことになる。

中世日本に記述されるようになった新たな「天皇」の意味論は、そもそも一般民衆への普及を念頭に置いた意味論ではなかったとすら考えられる。それは、「神国」としての中世日本における「天皇」の意味論機能が、中世日本の社会構造に対応する形で、民衆の前に君臨していた時代とは別種の機能へと移り変わったことを意味する。

古代律令制社会構造の下では、「天皇」の意味論は、「天皇」をその支配体制の頂点に位置付けるように機能していた。「天皇」は、律令に縛られることもなく、逆に律令の実効を根拠付ける究極的な権威として機能していた。国家において「天皇」は、唯一の代表であった。そしてその国家の目的となるのは、「天皇」の身体を守護することであった。

天皇」の意味論と古代律令制社会構造を前提とすれば、「天皇」は、その保身のために、あらゆるものを動員する権力を有していた。「神国」の思想もまた、この目的を実現させるための手段として活用された。古代日本における「神国」の意味論は、「天皇」の存在を前提とした上で、その存続を正統化するために機能していた。「神国」とは、孫、現御としての「天皇」の君臨する国家に他ならない。そして「々」が護るべき国家とは、在位中の「天皇」の身体に他ならなかった。

しかし、古代から中世への社会構造の変動によって、「天皇」の意味論も「再記述」された。律令制に組み込まれていた国家の寺社は、律令制社会構造破局を迎えるにつれて、そこから「天皇」の概念が変異し始めたのである。そうして、自立した荘園領主の権門寺社が新たな社会構造として構成されると、それに応じて、「天皇」の意味論もまた変異したのである。

一方、古代から中世への社会構造の変動の過程で、「天皇」の脱中心化が伴った。「天皇」はもはや至上の権力権威を併せ持った全国土の支配者ではない。「天皇」は、独自の荘園群を保有する天皇という一権門の代表へと相対化されることになった。権門という点からすれば、天皇も、巨大寺院も、同格の存在となったのである。

<非人格的な>機関としての「天皇」

古代から中世への社会構造の変動は、「天皇」の意味論変異させる結果を招いた。その主導的差異となったのは、「天皇」の身体国家区別である。天皇はもはや国家そのものではなくなった。それは、荘園領主制の支配体制を維持するために、国家構成する諸権力によって、祀り上げられた存在であった。

中世の「天皇」は、国家体制を維持するための<非人格的な>機関として機能することとなった。この社会構造を前提とした「天皇」の意味論は、とりわけ「天皇」の作を細かく記述した『禁秘抄』をはじめとした儀式書から伺うことができる。そこには、「天皇」の作に関する過去から蓄積された先例が記述されている。中世日本の社会構造要求したのは、こうした作形式的に遂行する「天皇」の貢献である。

中世の「天皇」は、幼少時に即位し、元服前には位を降りることが一般化していた。いわゆる「幼童天皇」である。例えば12世紀後半に続けて即位した六条天皇、高倉天皇、安徳天皇らの即位年齢は、それぞれ2歳、8歳、3歳であった。何故「幼童天皇」が生まれたのかについては、様々な解釈可能である。しかしその背景にあるのは、紛れも無く「天皇」の形式化であったことは、間違いない。形式化しているからこそ、まだ判断力が備わっていない幼童でも「天皇」として機能し得たのである。

こうしてれば、「天皇」の人格化を「天皇」の脱神秘化と結び付ける分析は、不十分である。むしろ、社会構造が「天皇」を<非人格的な>存在として、つまりは形式的な機関として記述する意味論を育んだからこそ、その一方では、「天皇」個人の資質や資格を主題とした議論が活性化することになったのだ。つまり、「天皇」の非人格的な形式化があるからこそ、その埋め合わせとして、天皇の人格が主題となったのである。

問題解決策:「天皇」と「国家」の区別

中世の「神国」思想でも、「々」は国家を守護する存在と規定されていた。だがその「国家」とは「天皇」それ自体ではない。「天皇」が国家存続の手段と化した中世では、「々」が守護すべき国家とは、天皇をその構成要素の一つとして組み込んだ支配体制全体を指す概念であった。

ただし、中世の「天皇」が形式化し、二次的な権威と化した存在であったとしても、分権化の進行する時代における諸権門の求心力の焦点としての機能を果たすためには、ある程度は聖別された形式を取ることが必要となった。特に国家が体制全体に波及する規模の危機的状況に直面した場合には、「天皇」は支配秩序の体現者として、衆生の前に、真正なる外観を示すことが求められた。

権門寺社同士の闘争が頂点を迎える院政期に「天皇」の存在を顕在化させた「神国」の思想が高揚し、孫の君臨や「々」の国土の擁護が強調されるようになるのは、こうした歴史文脈を前提に理解されなければならない。そしてこの後も、孫としての「天皇」を戴く「神国」としての「日本」の理念は、支配秩序全体に関わる危機が到来する度に顕在化するのである。

「天皇」の代替可能性

古代日本における「天皇」の場合、「天皇」が孫であることが取りも直さず「現人」としての「天皇」個人の聖化と絶対化に直結していた。一方、中世の孫為君の論理は、国王としての「天皇」の正統性を支持していても、その位にある個別の「天皇」を即時的に神秘化している訳ではなかった。中世の孫為君説は、在位中の「天皇」が終生その位にあることを決して保証する訳ではなかった。

それは、「天皇」の権威が、古代のように個々の「天皇」自身の長久を目的とした訳ではなかったためである。むしろ中世における「天皇」は、国家支配の維持のための政治的な手段であった。中世の国王としての「天皇」は、王の出身者に限定されていたものの、その国王の言動が支配権力全体の意向にそぐわない場合には、いつでもその首がすげ替えられる余地が残されていた。

問題解決策:自己正統化としての正統化

孫為君説」は「天皇」という位を聖化することはあれど、その位にある個々人の「天皇」を正統化させる機能は持たなかった。鎌倉時代後期のように、皇統が持明院統と大覚寺統に分裂したことで、常に複数の皇位継承者が競合しているような状況では、現役の「天皇」が自己自身の在位を正統化すると共に、あるいは「天皇経験者である院が自らの皇統からの即位を要求するためには、「孫為君説」だけでは不十分であった。

持明院統の花園上皇は、後醍醐の皇太子となっていたその甥、後の光厳天皇に与えた『誠太子書』において、「皇胤一統」すなわち孫為君の論理に準拠することを戒め、国王としての徳を涵養することの重要を指摘している。言い換えれば、「天皇」もまた道徳を身に付けることが不可欠であると考えられていたのである。ただしそれはあくまでも個々人の振る舞いに関する道徳である。「天皇」自身が徳治主義的な理想で政治を実施するということを意味しない。

こうした道徳の導入もまた、「天皇」が<非人格的な>存在であるからこそ、その埋め合わせとして導入されていると考えられる。王の出身者であれば誰もが形式的に「天皇」になり得るからこそ、他の皇位継承者たちとの差別化のために、道徳的優位性が語られたのである。

一方、大覚寺統の後醍醐天皇は、天皇位にありながらも、自ら倒幕の祈禱を実施したとされている。後醍醐は「天皇」としての自己自身の立場を正統化するために、躊躇なく仏教の力を利用しようとしていた。こうして仏教意味論もまた、人格化や道徳化と同様に、埋め合わせとして導入されることとなる。

このような例にるに、「天皇」の正統化とは、常に自己正統化であったことが伺える。だとすると中世における「即位灌頂」も、「天皇」の神秘化の儀式として導入されたというよりは、特定の皇統による自己正統化の試みの一環として導入されたと捉える方が自然であろう。

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