中世荘園領主制の社会構造と本地垂迹説の意味論 | Accel Brain

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中世荘園領主制の社会構造と本地垂迹説の意味論

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派生問題:「荘園公領制」は如何にして可能になったのか

一説によれば、日本における「古代」から「中世」への転換は、11世紀末から12世紀初頭の院政期に勃発したとされる。この歴史過程は、古代国家の成立の場合とは異なり、表面上は連続性を保ちながら、実質的にはその構造内容が大きく異なるという非連続性をもたらしている。

連続性観点で言えば、世俗社会国家の頂点に「天皇」が位置付けられていることをはじめとする律令制以降の中央集権的な国家権力機構は、中世以降も維持されていた。中間的な支配層としては、各国単位の行政支配機構機能していた。

これに対して、不連続性観点で言えば、支配層の中に、かつての貴族に加えて、新たに武や寺社が登場した点を指摘できる。貴族を意味する公が、武や寺社と共に、国家権力を分有し始めたのである。これら三者は、相互補完的な形で、国家を作動させる仕組みを造り上げた。

いわゆる「中世」への移行は、日本における封建制の成立も意味している。「古代」の日本社会では、班田農民に代わり、基本的には自立した経営の担い手である百姓たちが生産の基本を担うようになった。百姓たちは大土地所有者である荘園領主や在地領主に支配されていた。その支配の階層構造は、大土地所有者が中央政府の承認で成立した荘園と、地方支配機関の承認によって成立した公領とで構成されていたことから、中世の日本社会は「荘園公領制社会」とも呼ばれている。

荘園領主は、政機関や下層の在地領主層と連携することで、自らの財政基盤を確保することを可能にした。その財力を背景として、国政の一翼を担い、政治権力を有することになった。天皇をはじめとする公国家の運営に必要な政治、学問、文化などの諸分野を司った。将軍以下の武は軍事、警察、外交などの治安維持機能を発揮していた。そして比叡山延暦寺や東寺、石清水八幡宮をはじめとした寺社は、社会宗教的機能を担った。そして天皇は、この全体を形式的に統括し、代表することとなった。

中世の「天皇」は、国家権力機構の頂点に位置する「国王」である。しかし実際の政治機能は、基本的には天皇も包含した諸権門によって担われていた。したがって中世の「天皇」の意味論は、封建領主層全体を象徴する存在として再記述されたのである。

やがて日本の中世国家は、民衆の歴史的な発展や荘園公領制社会の抱える矛盾が激しさを増す中で、それらの問題と直接向き合っている地域支配権力自体の公権力化と、中央国家権力からの一層の自立化を促す。それが戦国の争乱である。織田信長と豊臣秀吉の天下統一は、こうした地域の小国家を一個の中央集権的な統一国家に再編成することに他ならなかった。中世の権門体制国家から近世の幕藩体制国家への転換は、このような背景から実施された。

問題解決策:「仏法王法相依論」

古代から中世への移行に伴って、宗教を前提とした日本の社会構造変異した。律令制支配の衰退によって、寺院神社に対する国家の公的な保障が大きく後退した。権力者たちは厳しい財政状況に直面せざるを得なくなった。公に対して、10世紀以後、荘園領有の国家による公認が実施されるようになる。そして11世紀から12世紀にかけて中世的な荘園公領制も成立することになった。しかし、寺院神社がそうした公的な保障を得るには、それに相応しい固有の理論武装が必要になった。こうした課題に応じたのが、顕密仏教に基づいた「仏相依論」である。それは、仏と王は対立するのではなく、両者が並存して調和することで国家社会が守られるという思想である。

律令制の崩壊は、その財政基盤を律令制的な収取に全面的に依存していた宮寺仏教にとっては、致命的な打撃であった。律令制支配が終焉を迎える10世紀を契機として、国家に公認されていた寺院は次第に従来の形式での公的な給付を受けることが困難となった。遅くても12世紀になる頃には、ほぼこの制度は廃絶されるに至る。ここにおいて各寺院は、次の時代を生き残るために、それまでの国家による援助に代わる新たな経済的な基盤を模索せざるを得なくなった。

寺院が次に着目した基盤が荘園領主制の経営と勧進活動である。ただし、国家寺院としての古代寺院が荘園支配と勧進を基盤とする中世寺院へと転回していく道程は、決して平坦ではなかった。荘園支配を確立するとなれば、まず王朝国家の下での国家支配権を委任されることでその統制を強めていた国司や配下の勢力の排除如何にして可能にするのかという問題が派生する。この時期、国司は荘園整理領を背景として寺による土地の集積を抑制することで、事あるごとにその収公を試みている。それ故、寺が安定した荘園経営を実現するためには、何をおいてもそうした動きを事前に封じておかなければならなかった。

しかし、たとえ国司による収公の危機を乗り切ることができたとしても、すぐさま荘園経営が軌道に乗った訳ではなかった。国家の収取に依存できなくなった今、荘園を自らの経済基盤に恒常的に取り込むには、そこから年貢や公事の収納を領主自身の実力によって確保しなければならなかった。そのためには、各寺が独自に支配体系と収取機構を整備して強力な荘民編成を推し進めていくことが不可欠であった。実際、中世に入ると、南都七大寺と並び称された宮寺の中でも、興福寺や東大寺が宗教領主として蘇る一方で、独自の土地支配機構を構築することのできなかった元興寺、大安寺、そして西大寺などの諸寺は、この課題を克服しないまま、古代国家の解体と共に、凋落の運命を余儀無くされたのである。

「仏相依論」は、こうした破局的な社会構造の状況下で諸宮寺の生き残りの術として記述された意味論である。佐藤弘夫も分析しているように、従来この「仏相依論」は二つの相反する観点から観察されていた。そのうちの一つは、この論を律令仏教の系譜を継承した「古代的」な論理として捉える立場である。それによれば、仏相依論はこれ以降主に南都北嶺によって説かれ、しばしば「新仏教」を排撃する論理として用いられた。一方、これとは全く異なる観点として導入されているのが、中世日本の社会構造荘園領主制として捉える立場である。この観点ではまず、中世日本においては傍流であり、新仏教によって克服されるべき対象として見做されていた南都北嶺の顕密寺院を、荘園領主として再生した中世仏教の主流として位置付ける。そしてその上で、「仏相依論」をそうした荘園領主制支配の成熟と寺院の封建領主化を背景に新たに成立した「中世的」な理念と見做す訳だ。

しかしこれら二つの見解は、その意味論それ自体を分析した記述にはなっていない。佐藤弘夫が指摘するように、むしろそれぞれの仏教史研究者たちが想定する中世の仏教社会に引き連れて結論を導き出した記述となっている。等価機能主義観点に立ってても、そうした姿勢では、事柄に即した分析とはなり得ない。それ故、この意味論そのものの社会的な機能を分析するには、先行研究の結論から離反すると共に、「仏相依論」の意味論がどのような歴史社会構造背景に成立し得たのかを観察する必要がある。

「仏法」と「王法」の差異

「仏」と「王」の区別が導入されるようになったのは、10世紀の末のころである。公費の横領は勿論、租税調庸の不な増徴や官物の京宅への運送など、数々の非を繰り返した藤原元命は、988年、有名な「尾張国郡司百姓等解文」を介して、郡司や百姓らから31カ条に渡る状を訴えられた。それは一貫して、茜部荘の荘司や住人らが、寺に対して、荘園の不輸不入を公認するために記述された。

「仏」と「王」は、本来不可分の関係であった。それは車の両輪の如く、一方が欠ければ他方も成り立たない関連にあった。だが国司たちは、目先の利益に囚われ、荘園を没収し、官物を徴収することに血眼になっている。それは荘園と仏の滅亡をもたらす。それはやがて王の衰退をも招く。故に、王の安泰を実現したいのならば、まず寺領荘園を安泰なものとしなければならない。

このように、「仏」と「王」の区別が導入されるようになったのは、この区別された双方を同時的に指し示すことによって、双方の相互依存関係を際立たせるためであった。政治的な権力関係としてるなら、この背景にあるのは、「仏」側の「王」側に対する劣勢である。古代的な国家構造変異したことにより、従来のような国家による支援を得ることが不可能になった諸宮寺は、それに代わる新たな財政基盤として、荘園の経営に注力し始めた。だが国家寺院としての古代寺院荘園領主制の大土地所有を基礎とする中世寺院へと転回するためには、是が非でも寺領に対する国司の干渉を排除する必要があった。そのためには、寺領荘園の自的な経営を正統化する意味論が必要となる。そのための形式として導入されたのが、「仏」と「王」の区別なのである。

「仏相依論」は、天皇によって代表される世俗的な政治権力は、仏教が提示する意味論に支えられることで初めて安定化する一方で、逆に仏教もまた聖俗権力の保証を得て初めて十分な機能を発揮するという、意味論である。つまりこの意味論は、社会構造意味論の関連を記述した意味論となっている。この意味論が指し示しているのは、中世の仏教が、国家権力と癒着した関係にあるということだ。中世の時点で既に、仏教は世俗化を果たしていた訳だ。中央の大寺社のみならず、地方の有力寺社もまた、それぞれ中世的な所領を保有することで、封建領主として機能するというのが、中世の寺社の一般的な形であった。

有力寺社は多数の兵や人を抱え、公や武に対抗し得る独自の所領支配を実施していた。更に、中央の大寺社は宗教的コミュニケーションを通じて、末寺や末社を組織化することで、全国規模のネットワークを構成していた。そうした宗教的コミュニケーションが、中世の日本社会の基盤を構築していたとも言える。

問題解決策:「本地垂迹説」

「仏相依論」は、顕密寺院の立場から記述された仏教意味論である。この意味論は、神社にとっては極めて重要な意味を有していた。と言うのもこの意味論は、「」と「仏」、神社寺院との一体的な関係を論じた「本地垂迹説」の成立と表裏一体の関係にあるためだ。「本地垂迹説」とは、日本固有の信仰施設とされる信仰神社が、実は仏教の日本におけるその具体的な表現に過ぎなくなることを言い表している。つまり、神社の祭は、人間の手の届かない彼岸の世界住む絶対的な存在としての仏が姿を変えて此岸に顕現したに過ぎず、その実体は仏であるということなのである。

神社寺院との一体化が進行する平安時代には、既により積極的な形で、「」の意味論に「仏」が関わることになっていた。その際、最も重要な思想の一つとなったのが、「本地垂迹説」だ。それは、仏が日本の人々を救済するためにへと姿を変えて出現した存在であるという説である。「本地垂迹説」で言うところの「垂迹」とは、「」として発現した「仏」である。この説が主張しているのは、「」と「仏」は本質的に同一であるという点である。

インド・中国と日本の差異

実在の全てを「仏」の仮象とする「本地垂迹説」それ自体は中国に由来するという説もある。既に古代の時点で日本には伝来されていたものの、具体的な意味論として記述されるようになったのは中世においてであった。「仏」と「」、寺院神社、そして仏教神道を表裏一体であるという認識は、しかし一方で、これら双方を区別するべきであるという思想とも表裏一体の関係であった。と言うのも、これら双方が表裏一体の関係にあるという認識は、まずそれ以前にこの両者を区別していることが前提となるためである。一般にこの双方を区別するべきであるという思想は、「仏隔離」という。もともと神社信仰寺院仏教に対抗して構成されたことから考えれば、神道仏教の間に差異があるのは明らかである。だが、顕密仏教や「本地垂迹説」が導入されたことで、この差異が曖昧化することになった。そこで、改めてこの区別を原則として再導入する気運が発生したのである。

しかし、起源を追い求めることに執着したところで、「本地垂迹説」の意味論と中世日本の社会構造の関連が明確化する訳ではない。それはしばしば無用な観察となる。例えば「本地垂迹説」は、しばしばインドの仏が日本にとして仮現した存在であると指摘されている。そして、本地垂迹説は日本とインドを直結させることによって、中国を相対化する機能を有していたとも言われる。しかし、佐藤弘夫の『神国日本』でも解説されている通り、これは誤解である。本地の仏とインドに生誕した釈迦仏は、全く別次元の存在であるためだ。

『沙石集』の著者である無住は、『聖財集』という別の説話集の中で、インドの釈迦、中国の孔子と老子、日本の々、そして聖徳太子は皆、仏の慈悲の方便としてこの世界に派遣された存在であると主張している。日本の「々」に限らず、歴史的人物としての釈迦もまた、他界から派遣された「垂迹」なのである。「本地垂迹説」は、インドと日本とを接続させる意味論として機能している訳ではない。我々には知覚できない遠い浄土の「仏」が、末世の人を救済するために、様々な形態でこの娑婆世界に出現するという思想であった。それは、この内在世界の二つの地点を結び付けているのではなく、普遍的な真理の世界という「超越」をこの現実の「内在」に結び付ける意味論なのである。

末法思想

中世日本の社会構造歴史的な概念観察するならば、「本地垂迹説」の布石は奈良時代の末期に見受けられる。この時期から、宇佐八幡宮などにおけるに対して、「菩薩」の称号が奉ぜられるようになった。またその後平安時代になると、筑前国筥崎宮、尾張国神社、吉野金峯山などでは、祭が「権現」の称号で呼ばれた。権現とは、仏や菩薩がの姿で現世に発現したことを意味する。それは「本地垂迹説」の理念構成していた。「神仏習合」の理念が深化されたことで、信仰に関する神道意味論は、仏教意味論によって「再記述」されることとなった。山王神道や両部神道は、仏教的な信仰意味論を記述している。また同時期、垂迹曼荼羅や像彫刻などのような習合芸術発展している。

しかし「本地垂迹説」の意味論機能的問題解決策として社会構造に関連付いたのは、平安時代後期であったと考えられる。日本では平安時代後期から、同時代を末の世と考える「末法思想」が流行し始めていた。末法思想とは、「仏」の訓えが釈迦入滅後の正、像、そして末という三段階を経て、次第に衰退していくという思想である。末とは仏人間救済する力を喪失してしまう時期を意味する。その時、この世は救済に漏れた人が充満する暗黒時代と化すという。

末法思想流行に伴って、平安時代後期にはそれ以外の様々な仏教的な理念も普及していた。仏教は我々の住まう世界に関して独特の世界や宇宙を有している。世界の中央には、須弥山という高山がそびえている。それを同心円状に取り巻く幾重もの山脈の外側には、東西南北四つの大陸が広がっていた。この世界かられば、日本は南の大陸の東北の海中にある、世界の一部に過ぎない。日本を釈迦の生まれたインドから遥かに隔たった辺境の小島と見做すこうした理念も、平安時代後期には社会一般に共有されるに至る。

浄土信仰

本地垂迹説」の背景にあるのは、10世紀ごろから「末法思想」と共に急速に進展した「彼岸」の概念と浄土信仰流行である。後の世界の概念は、太古の時代から存在していた。平安時代前半までは、民衆の主な関心は専ら現世の生活に向けられていた。来世や彼岸などのような概念は、あくまでも現世の生活の延長線上に位置付けられた。これに対し、平安時代後期には、次第に彼岸の概念が強調されるようになる。12世紀になると、遂に現世よりも彼岸の方が強調されるようになった。これは、民衆の現世に対する認識に変化が生じたためである。現世は所詮仮象に過ぎないという認識が普及したのである。そしてこの流れから、来世の浄土こそが真なる世界なのであって、現世の生活の全ては往生の実現のために振り向けられなければならないと信じられるようになる。したがって、現世と隔絶した後の世界としての高い浄土という概念が定着することで、古代的な世界に対する、他界と此土の二重構造を有した中世的な世界構成されたのである。

往生の対象としての彼岸世界を代表したのは、浄土信仰の代名詞とも言える「西方極楽浄土」である。それは、遥か西の彼方に位置すると信じられていた。しかし、これ以外にも、音菩薩の補陀落浄土、弥勒菩薩の兜率浄土、薬師仏の浄瑠璃世界釈迦仏の霊山浄土などといった多種多様な他界浄土が、往生すべき地として記述された。「垂迹」としての「」が現世に発現する理由は、末法辺土の衆生を正しい信仰に導き、最終的には彼岸の浄土に送り届けるためであった。したがって、「垂迹」の存在する霊地に足を運んで帰依することが、往生への何よりの近道と考えられるようになった。かつて後の救済は、「」の任務ではなく、「仏」の役割であった。だが中世では、「」こそが霊魂を浄土に送り届ける役割を担っていた。それは「」を末法辺土救済者と捉える当時の一般的な認識を前提としていた。

中世日本における諸国一宮の社会構造は、それぞれの地域の解釈に基づいて日本神話を再記述すると共に、またその祭をいずれも「天皇神話と結び付けることによって、国家における公的な神社としての地位を確立した。それは、顕密仏教における「仏相依論」の意味論が、諸国一宮という神社社会構造を方向付けていたということでもある。

顕密仏教における「仏相依論」の意味論が、諸国一宮という「神道」の社会構造を方向付けると、中世の「神道」の意味論もまた変異することとなった。とりわけ象徴としての「」の概念に大きな変化が加わっている。古代「神道」の「」がアニミズム的な意味論によって記述されていたのに対して、中世の「神道」における「」は、「天皇」の神話との関連から再記述されたのである。例えば八幡大菩薩とは、奈良時代にはじまる「神仏習合」によって生じた称号である。この八幡仏教によって護られている。しかし「天皇神話との関連で言えば、石清水八幡宮の祭八幡大菩薩となって現れたのは、応天皇である。奈良時代から平安時代の期間には、応天皇こそが八幡と習合し始めたという訳だ。

神社の階層的な分化

古代日本の宗教仏教信仰、修験道、陰陽道などのように、異なる儀礼が併存する状態であった。人々は時と場合に応じて、それらの形式を使い分けていた。それらは統一されていた訳ではない。これに対して、「本地垂迹説」は「」と「仏」の本質が同一である前提から、顕密仏教思想を基盤に全ての信仰形態統一化した。こうして、あくまで仏教社会構造との関連から、信仰や修験道をはじめとした古代の宗教意味論が再記述されることとなった。日本社会は、仏教共通の前提としながら、時と場合に応じて神道儀礼展開しつつ、究極的には仏教的な意味での救済を得ようという特有の宗教を確立した。言わば「神仏習合」はこの時点で、「仏隔離」の思想を採り入れることによって、「」と「仏」、神道仏教の<差異統一>を体系化したのである。

中世の神道意味論は、この神仏習合によって構成された社会構造によって方向付けられることとなった。例えば神社も、「本地垂迹説」に基づく本地仏の設定に準拠して、新たにその本地仏を祀る神宮寺が全ての神社境内やその周辺部に設けられることになった。また、経蔵や三重塔などのような仏教施設も神社境内に建設されるようになった。神宮寺をはじめとする多数の侶は、これに伴い、「社」として神社の祭礼と運営の重要な一翼を担うことになった。祭礼もまたそれに伴って事と仏事とを組み合わせて実施するように構造化された。

中世の神社の制度には、中世に特有の新しい階層構造が導入された。公的な有力神社は地域支配権力を含む国家権力の一翼を担った。中小神社は個々の領主権力と手を結び、民衆支配の一翼を担った。更に下部の組織として、その他の零細な神社が民衆の素朴な信仰対象となった。

神社は、個々人の救済を目的とする仏教寺院とは異なり、共同体をはじめとした特定の社会集団の共同利益を擁護する点に特徴を有していた。神社の階層化が意味するのは、その共同利益を擁護する社会集団の階層構造を前提としている。すなわち、中央と地方の国家権力、荘園公領制の支配権力、そして村落のような民衆の生活に対応する形で、神社が階層的に分化したのである。この神社の階層的な分化は、「仏隔離」との関連からも生じている。つまり、階層の頂点になればなるほど、「」と「仏」が明確かつ形式的に区別されるようになったのである。

派生問題:末法辺土

上述した末法思想と相通ずるような「世も末」という認識は、いつの時代にも存在していた。鎌倉時代の初期の段階では、日本を末法辺土国であるとする否定的な認識が広く普及していた。端的に言えば、人々は現世を人が蔓延る世界として、毛嫌いしていた。それ故、後に理想の浄土への往生を目指す浄土信仰も、こうした社会背景に基づいて支持を受けるようになった。『方丈記』や『平物語』といった文学作品にせよ、「地獄草紙」や「餓鬼草紙」といった絵巻物においても、無常なる現世に対する否定的な意識が浸透していた。末法辺土自己認識は、文学芸術、思想をはじめとする中世前期のあらゆる文化に深い影を落としていたのである。

当時の日本は末世であって、絶望的な状況下に置かれていた人々のために、「仏」や「菩薩」はわざわざ卑しい姿で発現し、「」として日本に出現したと信じられていた。人々は、彼岸の「仏」や「菩薩」の「垂迹」である「」に縁を結ぶことによって、自己自身の安寧と国土の平和を実現することが可能となるというのである。こうした主張の背景を成しているのが、釈迦が来世の衆生を救済するために「」の姿で発現することを説いた『悲華経』である。日本が末法辺土国であることは、本地である「仏」が「」として「垂迹」するための必須の前提条件であった。

しかし、この「自虐史」的な末法辺土自己意識を克服したのは、純粋に仏教的な意味論などではなかった。辺土意識を克服したのは、他ならぬ「神国」の意味論であったのだ。一般的に日本を選別された聖なる国土と見做す「神国」の思想は、逆に絶望的な現世の無常を主張する末法辺土の思想を否定する意味処理規則となっている。そのため、この「神国」の思想の機能は、末法辺土思想が流行している状況を克服することにあると考えられる。

問題解決策:「神国」の意味論

一見すると、末法辺土という仏教理念に基づく問題設定が、「神国」思想という神道的な問題解決策によって解決されたかのように見受けられる。このように分析するのは容易いであろう。しかし実際は、「神国」の意味論によって記述されている「」の概念は、既に「本地垂迹説」の影響下にあった。「神国」の意味論における「」もまた、「仏」が「」として「垂迹」した存在であったのだ。

本地垂迹説」によれば、「垂迹」は多様な形態で遍在している。「」とは、あくまでその形態の一種に過ぎない。それは別のあり方でもあり得る。「垂迹」が「」の形態を取る必然性は全く無い。日本が「神国」であるのは、垂迹が「」の形態を取っているためである。逆にインドが「神国」ではなかったのは、仏が「」ではなく「釈迦」として垂迹したためである。

中世日本の社会構造は、「本地垂迹説」を前提とした「神国」の意味論の内部に末法辺土の思想を組み込むべく方向付けていた。日本が末法辺土国であったからこそ、「仏」は強烈な威力を有する「」として顕現しなければならなかった。末法辺土の思想があるからこそ、「時期相応」の姿で「垂迹」した「々」に準拠することが、救済への最短経路となったのである。それ故、末法辺土国としての「日本」を強調する「自虐史」的な論理があるからこそ、「日本」を「神国」として記述することも可能になったのである。末法辺土の思想は、決して「神国」の思想と相容れない訳ではない。それは中世の「神国」の思想を成立させる必須要素であったのだ。

この意味で、中世における「神国」の意味論は、日本を無条件に神秘する意味処理規則を一切提供していない。末法辺土国という現実的な問題設定があるからこそ、その問題解決策として、「本地垂迹説」が機能したのである。

「神国」の根源としての『日本書紀』

奈良時代初期に完成した『日本書紀』からは、既に「神国」概念の根源判読することができる。『日本書紀』の背景には、日本を「神の国」と見做す意味処理規則機能していたのだ。その「功皇后紀」の一説では、新羅の王の口から、「日本」が「神国」であると規定されている。その前後の文脈では、功皇后とその軍団が「々」の庇護の下にあることが執拗に強調されている。つまり「」の守護こそが、「日本」の「神国」たる所以であると考えられていたのである。

7世紀後半から、日本列島では天皇を中心とする強力な統一王権が形成されていた。その天皇権威を支える役割を担っていたのが、皇祖である天照大御神である。『古事記』や『日本書紀』には、天照大御神が柱として再編された「々」の世界叙述されていた。したがって、そこに天皇と国土の守護者としての「」の概念が濃厚に見受けられるのは、ある意味では自明であった。これを前提とすれば、『古事記』や『日本書紀』で叙述されている「々」の理念は、単なる自然発生的に習熟されてきた「々」を物語化したものとして叙述されている訳ではない。この二つの書物は、天皇を中心とする新たな統一王権の社会構造が、「々」の意味論に対応させるために編成されていたのである。

仏教無き「神国」

一方、日本列島の社会構造は、外部環境との関連からも構成されていることも、見過ごしてはならない。数世紀に渡り、新羅、百済、高句麗の産国が覇権を握っていた朝鮮半島では、唐と結んだ新羅が台頭し、660年には両国の連合軍の攻撃を受け、百済の王都が陥落した。天智天皇は百済からの要請により朝鮮半島に出兵した。だが663年、白村江の戦いで唐、新羅連合軍に大敗し、百済再興のは絶たれてしまった。その後、高句麗もまた唐によって滅ぼされ、朝鮮半島では新羅と唐との対立が顕在化することとなる。こうした国際情勢の中で、672年に即位した天武天皇は、唐と新羅の軍事力に対して如何に対抗していくかという政治的な問題に直面した。特に唐の勢力を半島から駆逐して統一を成し遂げた新羅は、日本にとって深刻な脅威と見做された。それ故、『日本書紀』の新羅討伐の件も、そこに登場する「神国」の理念も、新たに朝鮮半島の覇者となった新羅を強く意識して、それに対抗するために創作されたのである。

尤も、日本を「神の国」と称する意味論は、8世紀初期に『日本書紀』が記述された段階では、まだそれほど表面化することはなかった。「神国」という概念がより積極的に言及されるようになったのは、9世紀後半の清和天皇の時代においてである。清和天皇に時代に「神国」の意味論が積極的に言及されるようになったのは、「神国」の意味論問題解決策として必要とする問題が発生していたためである。869年、新羅のものと思われる船が筑前に来航して、略奪を行なうという事件が発生した。国内でもこの年は、各地で地震や風水害が相次いでいた。朝廷は、この危機的状況に対して軍事的な対策を講じる一方で、「仏」の助力を得るために、諸国の寺院に対して、仏教経典の転読を命じた。また、諸国の「々」に奉幣を行なうと共に、伊勢や石清水、宇佐などの有力神社に告文を奉ることで、国土の安泰を祈願した。これらの告文では、「明の国」や「神国」という概念が言及されている。それ故、「神国」の意味論問題解決策として機能したのは、単に新羅のような国外の問題のみならず、風水害をはじめとした国内の問題も発生していたためであると考えられる。

明の国」や「神国」と述べた場合の「国家」や「国」という概念は、歴史的な概念である。それは、近代社会における「国家」や「国」からは区別される。それは抽象的意味での国土一般を指す訳でもなければ、そこに住まう人々を「国民」として記述する概念でもない。古代日本の社会構造における「国家」や「国」の意味論は、基本的には「天皇」個人の「身体」を意味していた。確かに文脈次第では、「国家」という概念が国土と百姓を言い表す場合もあり得た。だがそれは、国土の混乱や人民の困窮が、すなわち「天皇」の支配に基づく社会構造の変動をもたらす危険がある場合に限られた。それ故、人民の安全が、すなわち「護国」を意味する訳でもなかった。日本国内外の諸問題に対する「護国」とは、「天皇」の身体の護衛を意味していた。この時代における「神国」の意味論問題解決策として動員したのは、「天皇」の支配に基づく社会構造の変動そのものであった。

この時代の「神国」の意味論特徴は、「神国」の概念に仏教的な諸要素が含まれていない点にある。6世紀に日本へ仏教が伝来して以来、伝統的な日本の「々」を外来の「仏」や「菩薩」と如何にして関連付けられ得るのかという問題は、支配層や知識人にとって避けられない問題となっていた。この問題設定に対する問題解決策となったのは、「」を「仏」によって救済されるべき煩悩具足の衆生と位置付ける説と、を仏の守護者と見立てる護説であった。先述したように、これらの説が、やがて上述した「本地垂迹説」へと発展していくのである。

一方、古代日本の社会構造では、「」と「仏」を分離する「仏隔離」の意味論が徹底されてもいた。日本の社会システムによる自己記述がこのことを自覚的に主題とし始めたのは、平安時代に入ってからであった。平安時代に記述された典や儀式書では、月次祭や新嘗祭をはじめとした「天皇」関連の宮中祭祀が実施される場合に、侶が内裏へ参入することが禁じられている。「天皇」が軽々と仏教に接することは、基本的には禁忌とされていた。事が実施される場合、仏教は強く禁止されていたのである。

日本書紀」欽明紀の仏教崇排論争における排仏派の主張の根拠は、「天皇」が「王」足り得るのは、天地の「々」を四季折々に祀っていることにある。『大宮諸雑事記』における仏教排撃の意味論は、この排仏派の主張を継承して再記述したものであることは、容易に推論できる。日本の「々」と外来の「仏」は、本来的に異質な存在である。排撃するか否かはともかくとしても、双方を明確に分離しておくべきであるというのが、古代日本の社会構造における「神国」の意味論の通底を成していた。

「日本」の自己記述の形式としての「神国」

日本列島に登場した最初の「神国」は、天照大御神を頂点とする「々」の序列を前提に、「神国」の内部から仏教の諸要素を可能な限り排除しようとする思想であった。「神国」の意味論の主導的差異は「」と「仏」の区別神道仏教区別によって構成されていた。「神国」の意味論は、「神の国」たる日本が、日本の内部において、「神国」としての日本とその外部環境区別を導入することで成り立っていた。

しかしこの古代日本の社会構造で記述されていた「神国」の意味論は、そのまま現代に至るまで変わらず継承されてきた訳ではない。日本列島の社会構造が変動するにつれて、「神国」の意味論もまた徐々に「再記述」され続けてきたのである。その第一の変異の兆候として見て取れるのは、院政期ごろ、つまり日本を「神国」として自己記述する表現が急速に増加した時期である。この時期から増幅し始めたのは、正史や天皇や皇族の日記などのような支配者側の記録に留まらず、多種多様な媒体において頻繁に主題となり始めたのである。

神国」としての日本の自己記述は、「日本」による「日本」への自己言及である。それは「日本」の社会システムが、「日本」の社会システムとその外部環境区別を導入することで成り立つ。「日本」を「神国」として自己記述する意味論は、古代から中世に向けて、変容しつつ成熟していく様相を呈していた。最初に「神国」概念が登場する『日本書紀』では、「神国」としての「日本」の外部環境を成していたのは、朝鮮半島の新羅に限られていた。新羅との差異を確保することによって、「天皇」が君臨して「々」が守護する「神国」としての「日本」の国家領域が規定されていたのである。

7世紀末になると、律令制の導入によって、国土の階層的な分化が進行した。この社会構造では、「天皇」によって統治されるそれらの国郡が、「神国」の領域を形式化させていると考えられていた。律令制国家の構築によって、「神国」の意味論を方向付ける具体的な社会構造が規定されたにも拘らず、遅くても奈良時代までは、「日本」という社会システムとその外部環境差異は、まだ十分には明確化されていなかった。「日本」と外部の境界が明確に確定した時期を挙げるとするなら、それは平安時代中期となるであろう。

1184年、木曽義仲を打ち破り畿内を支配下に収めた源頼朝は、後白河皇に対し、四か条から成る政治方針の実施を申し入れた。その第三条である「諸社の事」には、まず日本国が「神国」であるという自己記述展開されている。そして、往古の「領」に相違があってはならず、かつ、それぞれに「領」が新たに加増されるべきであるという旨が記述されている。この第三条は、「神国」と「領」の区別を導入している。「神国」が国土全体に関する概念であるのに対して、「領」はそれを構成する個々の々が占拠する社領荘園を意味する。その「領」の加増が指示されているということは、この「領」という概念は、既にこの時代において定量化されていたことになる。それは、個別具体的にその内外を区別できる形式として導入されていたのである。「領」の概念が定量化された形式として導入される一方で、「神国」は、この有限とは言え大量の「領」によって構成されている概念として記述されるようになった。逆に言えば、「領」という構成要素を有さない領域は、全て「神国」としての「日本」の社会システム外部環境であるということになる。

鎌倉時代に入っても、「神国」の意味論は続々と「再記述」されている。13世紀前半に伊賀守橘成季によって編纂された説話集『古今著聞集』では、日本が「神国」として、大小祇、部類・眷属、権化の道、感応遍く通ずる存在として記述されている。またこの同時代に仏教説話を集約した『私聚百因縁集』では、日本国が「神国」であると共に、「」の利生は「あらかた」であるとされている。また、東国を中心に普及していた「々」の伝説を叙述した『神道集』によれば、日本国は「神国」であって、百八十柱の「」をはじめとした一万三千七百等の「」が存在するという。こうした書物に共通してられるのは、「神国」を構成するのが、国家を鎮護する数多の「々」であるという点である。一見すればこれらの時代の「神国」は、前代の「神国」を継承したようにも思える。しかし、「神国」を構成する個々の「々」の概念と、「鎮護国家」の社会構造に目を向ければ、「神国」の意味論が、その時代における「」の意味論と日本国家社会構造によって方向付けられる形で「再記述」されていたことがわかる。

問題解決策:二十二社・一宮の社会構造

神国」としての「日本」の自己記述が急速に増加した院政期という時代は、二十二社・一宮の制度が確立した時代でもある。国家が「々」の秩序を社会的に保証するという古代律令制社会構造は、古代国家の解体に伴って終焉を迎えた。もはや朝廷には「々」の面倒を見る余裕は無かった。それに代わり、平安時代半ばから整備されていくのが、中央における二十二社と地方における総社・一宮の制度である。

二十二社制度とは、伊勢、石清水、賀茂、松尾など、畿内とその周辺の有力神社二十二社を選び、王城鎮守の役割を担う存在として特別な待遇を与えた制度である。特定の有力社への奉幣は、10世紀から伊勢をはじめとした十六社に対して、祈雨や止雨などを目的として開始されるようになったとされる。その後何度か新たな神社が付け加えられ、院政期には二十二社の体制が確立することになった。一方、一宮とは、国ごとに選定された有力な鎮守を表している。その成立はやはり院政期初期であると考えられている。総社は、一宮以下の多くの寺院を一か所に勧請した神社である。それは中央政府の出先機関である国府内部かその近辺に設けられた。一宮と総社の制度は、ほぼ並行して形を整えていったと推定されている。

二十二社の制度が言い表しているのは、日本全域の「々」に奉幣する力を失った朝廷が、日本全体の神社の統括を断念したということである。それは全体性の喪失を意味する。その上で国家は、畿内近辺の、しかも天皇や摂関に深い関わりを持つ神社に焦点を絞って、新たな体制を構築しようとしたのである。

二十二社という新しい祇秩序への移行がほぼ完了する院政期以降も、伊勢宮は、少なからず建前としては「国家の宗廟」としての特権的地位を形式上保持し続けていた。伊勢宮が朝廷の公的信仰の中心的な地位を他の「々」に譲ることはあり得なかった。しかし宮は、もはや古代のようには、国家に保障された存在ではなかった。完璧に荘園領主へと変貌した延暦寺や興福寺をはじめとした権門寺院に比べれば不十分であるとはいえ、御厨や御園などといった領を主要な基盤とする荘園領主としての性格を強化していった。

「神々の競争」

一方、律令制による統制から逃れることとなった他の有力神社は、その社会的な地位を相対的に向上させることが可能になった。だがそのためには、神社界隈全体に波及した自由競争で生き残る必要があった。それぞれの神社が「勝ち組」への仲間入りを目指して競い合ったために、それは「々の競争」という様相を呈することとなった。

神社界隈の自由競争の原理は、伊勢宮とて無縁ではなかった。急激にその地位を向上させてきた複数の有力神社の中で、伊勢宮は埋没することになった。それは、伊勢宮を頂点とした祇によって構造化されていた階層的な分化が、「々の競争」の「勝ち組」を頂点とした階層的な分化へと移行したことを意味した。二十二社制度は、「々の競争」が招いた「」の意味論変異を固定する社会構造として機能した。祇制度の全面的な崩壊は、国家にとっても、神社側にとっても、不都合な出来事であった。両社の思惑の中で、二十二社制度は古代律令制の「埋め合わせ(Kompensation)」として機能したのである。

古代律令制の時代では、天照大御神実質的な至高であるという主張には、異論を挟む余地が無かった。しかし中世に入ると、それぞれの有力が口々に自身の優位を主張するようになった。特に、最大の宗教権門である比叡山を後ろ盾とした日吉山王神社は、既存の秩序に反旗を翻した。「々」の自己主張は、伊勢宮の内部でも波及している。伊勢は、「内宮」と「外宮」という二つの神社区別される。双方はそれぞれ天照大御神と豊受大を祀っている。内宮の祭天照大御神天皇の祖先である。天照大御神は本来日本の「々」の中で頂点に位置付けられる存在であった。それに対して外宮の豊受大は、天照大御神に食物を捧げる役割を与えられた「」である。

本来なら、双方の「」の格の違いは歴然たるものであった。しかし平安時代後半からは、社会構造変異に伴い、「々」の格付けの意味論にも変異が加わる。外宮は御師などの活躍によって次第に力を付け、内宮を凌ぐような経済力を持つようになった。これを背景に、外宮側は宗教的権威においても、自らを内宮と対等以上の地位にまで向上させることを目指した。そのため、外宮官の渡会主導で形成された伊勢神道では、従来天照大御神の下位に置かれていた豊受大が、立場を逆転させて、天照大御神の上位に位置付けられているのである。

かくして天照大御神には、かつてのような特権的な地位を維持するための絶え間ない努力が求められるようになった。しかしこの状況の変化は、伊勢宮と天照大御神にとって、決して影響ばかりをもたらす訳ではなかった。古代における天照大御神は、「々」の頂点に位置付けられていた。そのため、天皇以外の人々が参詣や幣帛を行なうことは許されなかった。頂点に君臨していたはずの天照大御神は、存外にも当時の民衆の間では知名度が低かったのである。律令制の崩壊以降、天照大御神は、単に天皇の祖先としてだけではなく、民衆とも関わる存在になった。御師は日本列島を徘徊することで、人々に土地の寄進と宮への参詣を勧めた。そうした努力が実を結び、中世社会における天照大御神は、民衆の祈願に気軽に耳を傾けてくれる「」となった。天照大御神は、人々の私的な願いを聞き届ける開かれた「」へと変貌したのである。結果的に一般庶民の間では、天照大御神の知名度が飛躍的に向上した。

一般庶民へと接近したのは天照大御神だけではない。程度の差こそあれ、有力神社の多くは、特定の氏族と絆を有していた。その関係は、春日社と藤原氏のように、基本的には中世まで継承された。一方、どの「」も、特定の氏族の枠を超えて、一般庶民の間で幅広く新たな信者層の獲得を目指した。かくして「々」は、氏族の占有する氏としての性格を薄め、大衆に共有される「国民」と化したのである。

「神領」と「仏土」の差異

々の競争」の過程で国家の傘下を離れて自立の道を探索することになった「々」が次に成そうとしたことは、自らが主権者として特定の領域に君臨し続けて、そこを排他的かつ独占的に支配しようとすることであった。11世紀ごろから神社は、自身の社領や御厨を「」の支配する土地を意味した「領」であると主張するようになった。それは国家からの様々な課税を忌避しようとする目論見から発せられていた。例えば1112年の「鳥羽天皇宣旨案」は、春日大明威を後ろ盾として氷馬役を免除されることを願う春日神社による要望に対応している。領荘園は「」の君臨する聖なる土地である。故に世俗社会での権力に税を納める必要は無いと主張していたのである。

既にこの時代から、寺領荘園でも、そこを「仏」の土地、すなわち「仏土」とする主張が散見されるようになる。大寺院はその主権者としての本尊仏の存在を強調することによって、国家の課税を拒否すると共に、寺領の保全と近隣領域の囲い込みを試みていた。寺院もまた神社同様、その支配する領地が「仏」の聖なる土地であることを強調することによって、自らの荘園支配を安定化させて、そこから年貢をはじめとした様々な負担を軽減させようとしていたのである。

ここで、「」の意味論に新しい「」の特徴が追加されていることが見て取れる。ここでの新しい「」は、恰も領主が自らの領地を支配するかのように、外部からの妨害を排除しながら、自身の意思で社領の支配を遂行していくのである。社領が「」の君臨する聖なる土地であるのならば、そこに土地を寄進することは行として観察される。逆に、この聖なる土地への侵略行為は、公然たる行であって、行為に他ならなかった。つまり、古代律令制の崩壊により、自由競争の原理が働いたことで、社会構造が変動すると、それに伴って「々」の意味論変異したのである。ここでの「々」の意味論は、競争社会の生き残りの術として動員された。「々」の意味論機能は、領内外の区別を導入することによって、排他的に領地内を安定化させることにあったのである。

領」の概念が強調されるようになると、寺院における荘園としての「仏土」の概念も活発に観察されるようになる。「領」と「仏土」は、文字通り領土争いとして、時には激しく対立することもあった。だが一方で、社領荘園を不可侵の聖地とする「領」の意味論が、「仏土」の意味論の成熟を促進していた。双方の概念は、同じく律令制崩壊後の社会構造によって方向付けられる形で社会進化したのである。言い換えれば、領地内部を排他的に安定化させるという競争社会の派生問題に対して、「仏土」は「領」の機能的等価物として設計されたということだ。

ある一定の領域を聖なの地と見做す発想は、古代社会にも見受けられた。古代の社会では、日本列島に住まう人々は、自然の中の様々な対象に「」を見出していた。山や岩石のようなランドマークに対しては霊が宿るとされた。それ以外にも、海や川など、あらゆる自然に「」が存在していた。しかし、そうした聖なるものが顕現する場所は、あくまでも念的な境界線によって区別されていた。中世の「領」の場合は、そうではない。それは現実の競争に打ち勝つための、具象的で可視的な境界線によって区別される場所である。「領」の定義やその侵犯を巡る神社と周辺領主との対立は、古代社会では起きていない。そうした対立が中世で起こり得たのは、律令制崩壊後の、競争の原理が働く社会構造があってこそである。したがってまず、社会構造差異が、古代と中世を決定的に区別する参照点となる。

しかしより決定的な差異を生み出していたのは、何よりも「」それ自体の意味論である。古代社会ではそもそも、「」は常に一定の場所に鎮座している訳ではなかった。「々」は我々が会いたいと願っても、人間の側の都合だけで会うことはできなかった。基本的に、「」は祭りの時期や限定された期間中にしか顕現しない。そうした時期が終われば、「」も去っていく。「」が特定の場所に常駐するという概念が広く普及したのは、精々のところ、律令制の制定以降の出来事である。これに対して中世の「」は、もはや遍在する存在ではなくなっている。常時殿の奥深くに存在して、鋭い眼差しで現世を監視し続けている。一旦神社やその領地が侵犯されれば、「」は直ちに行動すると考えられたのだ。

問題解決策:メディアとしての「神」と形式としての「天皇」の区別

この「々」の意味論変異は、自由競争を激化させた社会構造変異に対応している。ここで無視してはならないのは、この「々」の意味論変異が、またしても「天皇」の意味論の「再記述」を伴わせているという点である。

律令制の成立期から、「」は一つの神社に定住しているという認識が次第に支配的となっていく。かつて「々」は定まった姿を持たず、気ままに遊行を繰り返す遍在的な存在であった。「」は祭祀の祈りの時にだけその場に現れる。そしてそれが終われば、「」はまた何処かに立ち去ると考えられていた。しかし、律令国家形成されたことにより、もはや「」に遊行の自由は与えられなくなった。「」は常に都の主人である「天皇」の傍にあって、常に身体を守護することを求められるようになったのだ。王権は、「」がそうした機能を果たすことができるように、王城内部やその近辺に殿を建設して、定期的な奉仕と祭祀を保証した。かくして「」は、恰も仏殿に鎮座する仏たちの如く、神社に常駐して天皇の立ち居振る舞いに目を配ることを義務付けられたのである。

9世紀になると、「」の身の上にもう一つの新しい変化が発生した。列島各地で、仏像に倣い、像が広範に制作されるようになったのである。かつての「々」は、遍在的で、不可視存在であった。これに対して、像の制作は、「」の固定化と可視化を実現した。社殿に常駐することで王権を守護する「」の形象は、像の出現によって、一層確固たる概念として記述されるようになったのである。

」の形象の固定化と可視化に伴い、「」の性格にも変化が加わる。古代以前の社会では、「々」が人間に対して起こす作用は、しばしば「祟り」として観察されていた。その際、どの「」が、いつ、どのような内容の「祟り」を下すのかについては、通常の人間にとっては非知であった。「祟り」は、内在世界にとっての超越的な現象として観察されていた。「祟り」は、「」から人間に対する一方的な作用であって、指示であった。だがほとんどの場合、その「祟り」が発せられる理由は論理的に説明可能なものではなかった。人間が「」の意思の是非を詮索することは許されなかった。「祟り」を鎮めるためには、如何に不可解で不合理な命令であっても、「」の要求に対して無条件に従うしかなかったのである。

平安時代中盤になると、「」と人間の関係は、「天皇」によって形式化されることになった。とりわけそれは、「天皇」による神社行幸と返祝詞の制度に表れている。一見、「天皇」と祇は、古来より密接不可分の関係にあるように視える。だが10世紀になるまでは、「天皇」自身が神社に足を運ぶことは無かったとされる。「天皇」による神社行幸が成立したのは、承平・天慶の乱が鎮定された後の942年以降の出来事である。その際、神社行幸に伴って、賀茂社や石清水神社において、「返祝詞」と呼ばれる新たな儀式制度が確立された。この儀式では、神社行幸に伴い、天皇の使者が前で宣命奉上を実施する。これに対して「」は、祝の口を通じて、返答の祝詞を読み上げるという。その祝詞とは、奉献された品々を確かに納受したという謝辞と、その返礼として、王権守護の確約である。

この「」と「天皇」の関連は、「メディア(medium)」と「形式(form)」の区別によって整理できる。この区別社会システム理論の概念である。それはゲシュタルト心理学者フリッツ・ハイダーに由来する概念である。このメディア形式区別は、メディア形式の双方が高度に抽象的な関係概念であることを言い表している。端的に言えば、ここでいうメディア(medium)とは、比較的緩やかに関連付いている諸要素の集合である。これに対して形式(form)とは、メディアが提示する諸要素の集合の中から、相互依存比較的高い関係にある諸要素を選択することで、緊密に関連付いている諸要素を指し示す。

更に抽象化して言えば、メディアは、「形態(gestalt)」が有する凝固した形状を受容する能力と共に、その高度な融解によって特徴付けられる。このことが意味するのは、メディアが、その形態の範疇において、特定の諸要素から構成されているということである。そしてこの諸要素は、相互に緩やかに結合されている。例えば空気は、気体を緩やかに結び付けているメディアである。空気は、それ自体ではノイズを凝縮する訳ではない。だがノイズを伝達することはできる。我々が時計の規則的な音を耳にすることができているのは、空気自体がその音を鳴らしている訳ではないためである。

これに対して形式は、諸要素の依存関係を集中的に濃縮することで成立する。それは、メディアによって提供される諸要素の選択と集中によって成り立つということである。メディアが緩やかに諸要素を結合するのに対して、形式は緊密に諸要素を結合する。先に例示した空気というメディアに対して、音は形式として構成されていると言えよう。例えば時計の規則的な音は、「リズム」として形式化されていると言える。

形式を導入するということは、何らかの区別をマークするということである。この「何らかの区別」の選択候補となり得るのが、メディアから提供された諸要素なのである。形式を想定するということは、<マークされている領域>と<マークされていない領域>の差異を前提にするということを意味する。それは、諸区別区別することで、特定の区別選択するということでもある。言い換えれば、形式はマークされることなしに潜在化している別のあり方でもあり得る区別盲点として位置付けている。

メディアが関連付けの候補を提示するのに対して、形式はその関連付けを遂行している。そしてこのメディア形式は、常に同時に再生産されている。例えばコミュニケーション形式化させるメディアとして、言語を想定してみよう。言語は、大量の語と、語の結合規則となる文から成立している。だがこの場合、語そのものはメディアとしての言語から構成される形式なのではない。語は、言語というメディアの諸要素である。それは、メディアとしての言語使用する場合に、もうそれ以上解体されない部品として前提化されている。

忘れてはならないのは、このメディア概念は、形式よりも先行して存在している訳ではないということだ。むしろ双方は「差異化」によって同時的に構成される。例えば言語というメディアは、形式可能コミュニケーションを限定する。しかし、そうしたメディアそれ自体がコミュニケーションを形作る訳ではない。言語メディアであるにしても、言語それ自体がコミュニケーションを生み出す訳ではないのである。むしろ形式としてのコミュニケーションの方が、メディアに「型」を押し込んでいるのである。それは「地面」と「足跡」の関係と同じだ。「地面」が無ければ「足跡」は付かない。「足跡」は「地面」に依存している。だが「地面」という範囲では、「足跡」は自由に付けられる。そして、「地面」と「足跡」の関連は、「足跡」が付けられて初めて成立している。「足跡」と非「足跡」の「差異」が構成されると同時に、「足跡」と「地面」の「差異」が構成される。そしてこの「差異」こそが、「足跡」と「地面」の関連を保証している。

」と「天皇」の関連は、まさにこのメディア形式の関連に対応する。メディアとしての「」に、形式としての「天皇」が刻印されているのである。古来より「神道」と「神国」が想定してきた「々」が言い表すように、「」は別のあり方でもあり得る。それは、「」の概念が緩やかに結合していることの表れでもある。一方、「天皇」が遂行する儀式は、「」の諸要素を緊密に結び付ける働き掛けとなる。「」は、「天皇」の行為に対して、明確に、可視的に、その身体の護持を約束している。「」はもはや一方的に人間に不合理な服従を要求する存在ではなくなっている。この儀式の枠組みでは、言葉行為によって、「天皇」をメディアとした「」とのコミュニケーション可能になっているのである。

罪と罰の二値コード

々」による「天皇」の護持という発想は、既に『日本書紀』においても明確に記述されていた。だがこの時点ではまだ、「」は不可視の意思を有した予測不可能な「祟り」を突発的に下す神秘的な性格を保ち続けていた。返祝詞の主体である賀茂もまた、平安初期までは「天皇」の身体に度々「祟り」を為していた。歴史上、返祝詞の成立が意味するのは、当初は非合理的な振る舞いを繰り返していた「々」が、次第に合理的存在へと変貌していく様なのである。

々」の合理化の事例は、これだけではない。と言うのもこの時期から、「」の作用を形容してきた「祟り」という概念は、次第に「罰」として記述されるようになったのである。例えば12世紀から膨大に作成され始める起請文は、中世文書を代表する様式である。そこでは、誓約の監視者として必ず「々」が勧請される。だが、それらの「」の作用は全て「罰」として記述され、「祟り」としては記述されない。

平安時代の後半を転機として、「」は「祟り」を下す存在から「罰」を与える存在へと変貌を遂げる。「罰」という概念は、「賞罰」という用語にも表れているように、「賞」と「罰」の二値コードとして記述されている。「」は「罰」を下すだけではなく、場合によっては「賞」を与える存在でもあった。その際、「」が賞罰を下す基準は、「」それ自体とその守護する仏に対する「信」と「不信」であった。「不信」は、しばしば「罰」に対応する。正しい信仰こそが、「」が人間に求めることなのである。「」は、まず正しい信仰要求してくる。そしてそれに背く人間には「罰」を与え、正しく進行してくれる人間には「賞」を与える。「罰」は未だ超越的な作用ではあるものの、完全に不合理ではなくなった。そこには一定の合理性があるのである。

問題解決策:メディアとしての「本地垂迹説」と形式としての「神」の区別

平安時代後期に進行した々の性格の合理化とも言うべき現象が発生したのは、「本地垂迹説」の定着に伴う仏の一体化として観察できる。彼岸の「仏」たちは、此土の人間救済することを目指していた。だが西方浄土の阿弥陀仏をはじめとする「仏」たちは、濁の現世を生きる衆生にとって、余りにも縁遠い存在であった。末人に、不可視の別世界の「仏」を信じよと伝えたところで、到底受け入れられなかった。そこで「仏」は、衆生の救済のために、仮象の姿でこの現世に出現する。そしてその霊験を行使することにより、衆生に仏との縁を結ばせようとした。そうして可視化されるようになったのが、日本の「々」である。

注意しなければならないのは、現代の観点からた場合と異なり、「本地」と「垂迹」の区別は必ずしも「仏」と「」の区別に対応している訳ではなかったという点だ。むしろ、救済を使命とする彼岸の「仏」と、賞罰権を行使する此土の「」、「仏」、「聖人」などといった区別が、当時の人々の実感に即した冥界の区別であったのである。

一見、専ら「」の機能を記述する上で取り上げられる「罰」という概念が、日本ではもともと「仏」に関連する概念であったという点も、見逃してはならない。「垂迹」の機能は、衆生を真の信仰目覚めさせ、仏へと結縁させることによって、救済へと導くことにあった。「垂迹」と「」は、それ自体が至高の存在なのではなく、仏を広めるために、この現世に派遣されたのである。したがって、その威力も、恣意的な力ではなく、人々を覚醒させるために用いられるべきであった。「」は、人々の態度に応じて、時にはその行為を賞し、時には厳しい罰を下すことで、人々を正しい方向へと導こうとしていたのである。

本地垂迹説」を前提とすれば、日本の「々」がしばしば、恐ろしい姿や狐や蛇などのような動物の姿で現れていたことにも説明が付く。それは全て「仏」の慈悲の心に基づいている。それら個々の「々」は、究極的には宇宙に遍在する唯一の真理である身仏の顕現に他ならない。そこにおいて、一切の「」の背景には、共通の真理の世界存在するのである。

本地垂迹説」の意味論は、社会構造の秩序の前提でもあった。この「本地垂迹説」があるからこそ、「々」の競争が激化した時代の中で、にも拘らず一定の秩序で「々」の世界が保たれていたのである。「々」が際限なく分裂して対立し続けることなく、調和を可能にしたのも、この意味論があってこそである。

本地垂迹説」の機能は、競争を激化させる「々」を結合させることにあった。それは「」の形式が刻印されたメディアなのであった。つまり、メディアとしての「本地垂迹説」と形式としての「」の区別が、メディアとしての「」と形式としての「天皇」の区別の前提として導入されていたのである。

問題解決策:「神国」としての「日本」のシステム合理性

本地垂迹説」には更にもう一つの機能がある。それは、日本の「々」が世界全体の中で占めるべき「位置関係」を指し示すことであった。その位置関係は階層的な分化に対応している。仏教的な世界像によれば、我々の住むこの内在世界の中心には、須弥山という高山がそびえ立ち、その上空から順に下に向かって梵天、帝釈天、四天王が住まう世界があるとされた。ここではこうした重層的な諸天の序列の下に、祇冥道、すなわち大仏、八幡という形で、日本の「々」や国内の仏像が位置付けられているのである。

『神皇正統記』の世界観

例えば『神皇正統記』は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷の正統性を述べた歴史書である。この序文では、初めに「日本」が「神国」であると高らかに宣言した上で、「日本」が世界の全体の中で如何に位置付けられているのかを論じている。

神皇正統記』はまず、この世界の中心には須弥山という山があるとする。そして、須弥山の四方には、四つの大陸が広がっている。そのうち、南にあるものを「贍部」と呼び、その大陸の中央に位置するのがインドに相当する「天竺」であるという。一方、中国に対応する「震旦」という地方もあるものの、それは「天竺」に比べれば小国に過ぎないという。そして、「日本」はその大陸を離れた東北の海中にあると言われている。

上述したように、日本では平安時代後期から、同時代を末の世と考える「末法思想」が流行し始めている。こうした辺土意識を克服するために機能したのが「神国」である。この経緯を確認すると、一方では「神国」思想を説いて日本を神秘化した代表作として観察されている『神皇正統記』が、しかし他方では「神国」思想が克服したはずの仏教的な世界も受容していることが判明する。それ故、「神国」思想の歴史意味論を辿るためには、単に仏教的な世界から神道的な世界への移行として記述することが誤りであることがわかる。むしろ、仏教的な世界神道的な世界が相互に矛盾した相容れない関係にあるという発想を、破棄しなければならない。むしろ「神国」の意味論は、この「神道」と「仏教」の区別を、「神道」の側へと「再導入(re-entry)」することで、神道世界仏教という外部の観点を導入していたのである。

日本の「々」は聖なる存在であっても、世界全体かられば、小さな存在であった。それは「神国」としての「日本」の社会システムに、自己言及外部言及区別の導入を促す意味論である。しかし社会システム理論的に言えば、この「日本」の社会システムが導入している自己言及外部言及区別は、自己言及の側に「再導入(re-entry)」されている。つまりシステム外部環境区別が、システムの内部へと「再導入」されているのである。ここに、「神国」としての「日本」の自己記述様相が表れている。実際、中世の世界構成していた盟衆は、仏教の守護と日本の祇に限られていた訳ではない。閻魔、五道大、泰山府君など、道教と関わりを持つ中国遠来の「々」も登場している。閻魔は、インドから仏教と共に中国に伝来した「」である。その後道教に取り入れられることで、主要な「」となった。五道大はその眷属である。泰山府君は中国の東岳泰山を格化した概念である。それは人間の寿命を司る「」として観察されていた。

システム合理性

このように、「日本」の社会システムの内部には、様々な外部環境の諸概念が記述されている。システム外部環境区別は、システムの内部へと「再導入」される。システムは、システムの内部へと再導入された<システム>と<外部環境>の双方を参照することで、自己言及的に作動する。自己言及的システムという概念が意味するのは、システムが必要とする全ての構成要素が、そのシステムそれ自体によって産出されるということである。「本地垂迹説」の意味論可能にしているように、「日本」の内部に「再導入」された「日本」国内の諸概念もまた、「日本」の産物である。それらの諸概念は「日本」の外部環境に位置する。論理的には、それは「日本」に対する「否定」の演算子によって指し示される。だが、その「否定」を構成しているのは、「日本」そのものなのである。

このように、システムシステムそれ自体についての「否定」をそれ自体のうちに含み込んでいる場合、システムは厳密な意味で自的となる。言い換えれば、システムが自的に作動し続けるには、自己自身を「否定」する場合の意味論も、自らで調達できなければならないのである。しかしながら、これはパラドックス形式でしか起こり得ない。つまり、システムによるシステムの「否定」が、システムの内部に「再導入」されることでしか成り立たないのである。

しかし一方で、このシステムパラドックス化された形式は、システム合理的な作動を可能にしている。何故なら、システム合理的な作動が可能になるのは、システム外部環境差異というシステム構成している形式が、肯定されると同時に否定される場合に限られるためである。肯定される場合であるというのは、そうでなければ、肯定と否定という区別を実行できるシステム存在しなくなってしまうからである。一方、否定される場合であるというのは、システム外部環境の相互関係と独立関係が、そのシステムにとっては、予見し得ないものになっているからである。

システムは、基本的には、その外部環境に対しては無関心な形で発現せざるを得ない。だが、考慮しなくても良いという形で排除されていたものの多くが、そうであるにも拘わらず注目すべきものである場合や将来的に注目されるべきものとなるかもしれないということを、システムは決して排除する訳にはいかない。とはいえ、現存する諸々の事物や出来事の一切を考慮に入れた世界構想として、このシステム合理性形式化される必要がある訳でもない。システム合理的に作動できるのは、そのシステムが考慮できるよりも多くの外部環境についてのデータを、そのシステムが考慮しておける場合だけである。

この関連から等価機能主義的な方法を前提としている社会システム理論は、システムの作動上の合理性を「システム合理性(System- rationalität)」として観察することになる。システム合理性形式化するのは、外部環境との差異を確保することでその作動を継続しているシステムが、<システム>と<外部環境>の区別システムの内部に「再導入」する場合である。それは言い換えれば、システムが<システム>と<外部環境>の双方を一括して同時的に観察するということだ。自己言及的システムは、世界を<システム>と<外部環境>に区別することによって、<システム>として存続するのであった。故に外部環境とは、世界におけるシステム以外のあらゆる領域である。逆に言えば、<システム>と<外部環境>の統一体は、<世界全体>だということになる。

これを前提とすれば、<システム>それ自体に対する自己言及と<外部環境>に対する外部言及を同時的に遂行する場合、システム世界を通常よりも幅広い視野で眺めていることになる。「神国」としての「日本」が「本地垂迹説」の意味論に準拠することで「日本」内部の仏のみならずインドや中国の仏をも観察する場合、「神国」としての「日本」は、決して「日本」に閉じ籠る閉鎖的な観点のみを持つのではなく、諸外国にも開かれた観点も有しているのである。

しかし社会システム理論的に言えば、システム合理性は理想郷に過ぎない。何故なら、システム世界全体を観察することは不可能であるためだ。世界全体はあまりにも複雑過ぎる。世界全体をシステム観察するには、<システム観察する世界全体>と<その盲点となる世界全体>を区別しなければならない。システムは、<盲点>に盲目的になるからこそ、<観点>の認識を可能にしているのである。あらゆる観察は必ず盲点を派生させる。

盲点無き観察はあり得ない。区別を導入すれば、<差異統一>というパラドックスが派生する。しかしシステム合理性を追求する姿勢は視野の狭いコミュニケーションを回避することを可能にする。この意味で「本地垂迹説」の意味論は、「神国」としての「日本」の社会構造の合理化に貢献していた。「神国」としての「日本」は、決して聖化された「日本」などではない。そうなると、次に取り組むべきなのは、「神国」としての「日本」の社会システムにおける合理的な作動の実態が如何にして可能になっていたのかである。

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