近代西洋文明の社会構造と「独立自尊」の意味論 | Accel Brain

近代西洋文明の社会構造と「独立自尊」の意味論

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問題設定:「実学」は如何にして可能になるのか

啓蒙思想において重視されるのは、歴史的な現実に対する<批判的な意識>の内容である。福澤諭吉が啓蒙思想として観察される場合、彼は日本の社会病理に対する具体的な批判者として観察されていることになる。そうした観点かられば、福澤の哲学は明治初期の他の啓蒙思想と一括して扱われることになる。福澤諭吉とは、啓蒙主義的で、合理主義的で、功利主義的で、英仏の実証主義者であるといった具合に、片付けられてしまう。しかし、丸山眞男も述べているように、そうした福澤諭吉に対する観点では、彼の思惟の方法を捉え切れない。

福澤諭吉は哲学者ではない。故に彼の認識論が彼によって提示されたことはない。しかし丸山も指摘するように、彼の著作を子細に観察してれば、そこには共通観点がある。それは他の同時代の思想たちの観点とは単純に同一視できない。丸山が強調するように、そうした福澤の「哲学」こそが、彼の「独立自尊」の精神を基礎付けているのである。丸山の仮説が正しければ、福澤諭吉に対する「誤解」は、彼の学問の把握の仕方に根差している。この誤解を正すには、広く普及されている『学問のすゝめ』を「再記述」していかなければならない。

『学問のすゝめ』を記述した福澤は、「実学」を疎遠で迂遠な漢学や有閑的な歌学から区別する。漢学や歌学とは異なり、福澤は「実学」を人間日常生活に近しい学問として記述する。「実学」を主張するということは、福澤にとって、他人の労働に「寄生」する生活を前提とした学問からの解放の宣言を意味した。「実学」としての学問は、「自ら労して自ら食ふ」生活の中心に位置付けられるのである。

丸山が注意を促すように、福澤の「実学」としての学問を「実業」の「学」として捉えるだけでは、福澤の学問に潜在化する「革命」的な性格を見落とすことになる。そもそも福澤の「実学」としての学問が単に「学問の実用」を主張する程度であるのなら、それは決して斬新な発想ではない。「知行合一」を謳う儒教の一派となる陽明学や、「学問事業其の効を殊にせず」を学風としている水戸学などのように、観念論的な思惟を忌み嫌い、実践的必要から遊離された理論的完結のみを追究する姿勢に対して無関心なのは、日本においては決して珍しいことではなかった。

尤も、古学や水戸学は専ら武士階級を対象としていたのに対して、福澤の『学問のすゝめ』は庶民を対象としていた。この点で、双方には差異がある。だが庶民生活と学問の結合という観点においても、福澤が先駆的な立場にあった訳ではない。例えば石門心学の開祖である石田梅岩は、江戸時代において既に、業に疎い学問は学問ではなく、真の学問とは日常の人倫に他ならないと喝破している。こうした概念史を遡及するなら、福澤諭吉の思想は、決して彼がその<批判的な意識>を向けていた「旧体制」と非連続であった訳ではない。

丸山が指摘するように、福澤諭吉の「実学」における真の革命的転回の核心となるのは、学問と日常生活との結合にあるのではなく、その結合如何にして可能になるのかという問題設定にある。

問題解決策:「東洋」の儒教主義と「西洋」の文明主義の区別

実学」を記述する福澤諭吉の比較観点は、「東洋」の儒教主義と「西洋」の文明主義の区別によって構成されている。儒教主義と文明主義を比較する福澤は、「西洋」にあって「東洋」に無いものが、有形においては「数理学」であり、無形においては「独立心」であるという。福澤はこの「独立」の意味論を、長らく政治からの「独立」を果たせずにいた宗教と学問を主題に記述している。

福澤によれば、宗教人間の心の中で働く。故に最も「自由」で最も「独立」していなければならない。宗教精神は、決して外部からの支配を受けず、決して他の力にも頼らない存在としてあるべきだという。しかし福澤によれば、日本の宗教は「独立」から程遠い状態にあった。

福澤は、日本の宗教仏教神道であるという認識を批判している。神道は未だ宗教の体を成していなかった。たとえ古代に神道の思想があったとしても、それは既に仏教の中に吸収されてしまっているという。数百年間、本来の姿は現していない。福澤の時代における神道は、明治維新という後ろ盾を前提としていた。この時代の神道は、皇室の威光によって僅かに活動しているに過ぎない。そのため福澤は、神道宗教としては捉えていなかったのである。

一方で福澤は、仏教だけが、古来より日本で文明の一部を担ってきた宗教であるという。だが仏教もまた日本に初めて導入されて以来、統治者の側に立っている。仏教もまた常に統治者たちの権力を借りていたのである。名にせよ学にせよ、そのを広めるためには、大抵の場合、天皇や将軍の庇護を望み、その威光を借りる以外のことはしようとしなかったのだ。

日本の宗教には、教義はあっても、「独立」した組織は無かった。天平年間には聖武天皇が各国に国分寺を建て、桓武天皇の時代の延暦7年には最澄が比叡山を開いて根本中堂を建てて都を護り、嵯峨天皇の時代の弘仁7年には空海が高野山を開いて大伽藍を建てた。その他にも、奈良京都の寺院、鎌倉の五山、近世では上野の寛永寺など、全て政府の力に頼っている。また、歴代の天皇仏教に帰依し、あるいはになった親王も多い。福澤によれば、宗教の威勢の源となっているのは、宗教そのものの力ではない。宗教は、ただ政府の威光を借りているだけであって、結局世俗社会権力の一部に過ぎない。仏教が盛んであるとしても、その訓えは全て政治権力の中に取り込まれている。広く世界を照らしているのは、仏教の光明ではなく、政府の威光なのである。

政治から「独立」できていないのは、宗教だけではない。福澤によれば、日本の学問もまた政治からの「独立」を果たしていなかった。この点で日本の学問は、西洋の学問と大きく異なる。西洋の学問は「実験」を重視するのに対して、東洋の学問は孔子や孟子の「理屈」を重視する。西洋の学問が人民の間で生み出されたのに対して、日本の学問は政府によって起こされた。西洋諸国では、学問は既に学者の仕事になっていた。学問はただ学問の世界に属していた。一方、日本の学問は、統治者の世界の学問に過ぎなかった。それは政治の部分に過ぎない。

「其趣を形容して云へば、日本の学者は政府と名る篭の中に閉込められ、此篭を以て己が乾坤と為し、此小乾坤の中に煩悶するものと云ふ可し。幸にして世の中に漢儒の教育洽ねからずして学者の多からざりしこそ目出たけれ、若し先生の思通りに無数の学者を生ずることあらば、狭き篭の中に混雑し、身を容る可き席もなくして、怨望益多く、煩悶益甚しからざるを得ず。気の毒千万なる有様に非ずや。斯の如く限ある篭の中に限なき学者を生じ、篭の外に人間世界のあるを知らざる者なれば、自分の地位を作るの方便を得ず。只管其時代の有権者に依頼して、何等の軽蔑を受るも嘗て之を恥るを知らず。」
福沢諭吉(著)『文明論之概略』岩波書店(国立図書館コレクション、Kindle版)、1931 p178。

つまり福澤は、政治の内部に閉じ込められている学者に対し、政治の内外の区別を導入するように示唆しているのである。その意味論は、政治の外部に学問を位置付ける指摘であり、政治科学・学問機能的な分化を後押ししている。社会システム理論的に言い換えれば、福澤の「独立」概念は、政治システム科学・学問システム機能的な分化を促進する意味論でもあったのだ。

「東洋」の儒教主義に対する福澤の痛烈な批判は、この意味論との関連から理解されなければならない。確かに儒学者たちの中にも、専制政府は人間を束縛していると主張する者も少なくなかった。しかし福澤が述べるように、その議論が如何にして成立し得たのかを観察すれば、それは儒教それ自体が蒔いた種であることがわかる。誰が政府に専制政治を訓えたのかと言えば、それは儒学者たちの儒教なのである。たとえ政府そのものに専制政治へと向かう質があるにしても、その傾向を助長し、それを飾り付けてきたのは、儒学者たち自身の学問であった。古来より、日本の儒学者の中で最も能力があり、最も仕事をしたとされるのは、最も巧みに専制政治を行い、最も頻繁に政府に利用された者なのである。

「西洋」の学問を学んだ福澤は、人間の学問が日進月歩であると確信していた。発見と改革によって、子弟は父兄に勝り、後輩は先輩を超える可能性を持つ。経験の蓄積によって、学問は次第に盛大に進歩するという。しかし『論語』には、「後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや」などと記述されている。『孟子』にも、「舜何人ぞや。予何人ぞや。為す有る者亦た是の若し」や「文王は我師なり周公豊我を欺かんや」などと記述されている。

福澤が解説しているように、若者が末恐ろしいというのは、若者が勉学に励めば、今の人間に追いつけるかもしれないために、油断してはならないという意味である。これが正しいとすれば、後の人間が勉学で到達すべき頂点とは、辛うじて現代人の程度ということになる。加えて、その現代人もまた古人には及ばない時代の人間であるのだから、後の人間が現代人程度にまで成長したとしても、それほど頼もしい話でもない。

孟子が盛大にその志を述べた言葉も、数千年前の舜のようになるか、あるいは周公を証人として、恐れながらに文王を模範にするといった程度のことに留まる。福澤はその趣旨を、不器用な子供教師に習字の手本を貰い、そのお手本通りに字を書こうとして心している様に喩えている。初めから教師には及ばないという前提でていれば、どれ程子供が努力したところで、それは教師の劣化コピーに過ぎないということになる。子供教師を超える可能性など微塵も想定されていないのである。

「故に其道は後の世に伝ふれば伝ふるほどしく為りて、次第に人の智徳を減じ、漸く人の数を増し、漸く愚者の数を増して、一伝又一伝、以て末世の今日に至りては、疾く既に禽獣の世界と為る可きは十露盤の上に明なる勘定なれども、幸にして人智進歩の定則は自から世に行はれて儒者の考の如くならず、往々古人に優る人物を生じたることにや、今日までの文明を進めて、彼の勘定の割合に反したるこそ、我人民の慶福と云ふ可けれ。」
福沢諭吉(著)『文明論之概略』岩波書店(国立図書館コレクション、Kindle版)、1931、p180。

このような福澤の皮肉の効いた言い回しが言い表しているように、もし儒学者たちの思想が正しいとするなら、儒教意味論によって構造化されている社会では、後の世になればなるほど化していくことになる。次第に人々の智徳は減っていき、徐々に人と愚者の数が増していく。そうした社会は、最終的には「禽獣の世界」と化すであろう。

福澤が「西洋」から学び取った学問とは、社会を野蛮へと導いてしまう儒学とは明確に区別されている。福澤は、西洋の近代社会における学問の核心を「数理学」に見出した。ここでいう「数理学」とは、具体的には近世の数学を踏まえた物理学である。イギリスに焦点を定めるなら、それはとりわけニュートン力学意味する。福澤は、「西洋」と「東洋」の根本的な差異は、物理学に準拠しているか否かであるという。丸山によれば、物理学は福澤にとって、「学問の学問」であった。

この「西洋」の物理学と対比されるのが、「東洋」の旧体制における儒教的な倫理学である。ここでは、学とは「道」についての「教へ」であって、「道」の教学こそが学の本来的な在り方であるとされる。「道学」が一切の学問の根本となるのである。そしてその他の学問は、「道」を求めるという目的の手段として奉仕する場合に限り、その存在が容認される。

儒学朱子学、心学、水戸学における「実学」と福澤の「実学」を区別するのは、この「西洋」的な数理学と「東洋」的な倫理学の差異である。無論この比較は、旧体制の「実学」に自然科学的な性格が無かったことを意味する訳でもなければ、福澤の新しい「実学」に一切の精神的な性格が無かった訳でもない。実際、福澤の掲げた「独立自尊」の概念は、他ならぬ倫理の概念であった。

問題再設定:文明開化の「精神」は如何にして可能になるのか

福澤によれば、日本の近代化の問題は、何よりも文明の「精神」の把握の問題なのであった。だからこそ彼の『文明論之概略』は、文明の物質的な側面に囚われ、文明の精神的な側面を等閑視することへの警告として発せられていたのである。

福澤は「東洋」の思想の代表格であった儒教の「精神」に「西洋」の文明の根底にある主導的学問としての物理学を対置している。ただ、福澤が分析しているのは、「精神」に対する「物理」の優越ではない。つまりそれは、単なる「唯物論」ではない。問題となるのは、そうした西洋科学を産み出し得た「西洋」の「精神」が如何にして可能になっているのかである。

「東洋」的な倫理学に対して「西洋」的な物理学を対比させる福澤の観点は、「精神」を等閑視するためではなく、むしろ物理学的に記述し得る新しい「精神」を提唱するために導入されていた。繰り返すように、福澤が関心を持ったのは、「西洋」の自然科学そのものというよりも、その自然科学を産み出し得た「西洋」の文明の「精神」なのである。

問題解決策:実験精神

「東洋」の旧体制によって生み出された学問においては、倫理学が学問の原型を成していた。この学問は、決して自然認識を欠如させていた訳ではない。問題は、そうした自然概念が、倫理的な価値と不可分に結び付いていたために、自然現象の中に絶えず倫理的な価値判断が持ち込まれるという点にある。そこにおいて、自然人間に対立する外部的なものではなく、むしろ本質的に精神的なものと考えられる。そうして自然精神化されることは同時に精神対象化によって自然化され、客観的な自然世界のうちに離れ難く組み込まれるという帰結をもたらす。

こうした学問を基礎付けるのは、自然界からの類推である。社会的な秩序は自然現象の間に見出される整合との対応のうちに、その正当の根拠を有している。それは、自然の秩序と相即するが故に、まさに自然の秩序として観察されるのである。

この儒教的な倫理学の意味論においては、社会的な秩序を基礎付けるべき「自然」の中に、実は社会の秩序の価値が最初から忍び込んでいる。「天」は高く、「地」は低い。この「高い」と「低い」の区別は、予め天地の秩序を構成している。それ故に、人間社会も同様に「上下」貴賤の関係の中で秩序付けられるという訳だ。それは、空間的な上下関係を価値判断上の上下関係へと同一化させることで可能になる。

厳密に言えば、この観点可能にしているのは類推ですらない。それは、自然社会自然法則と人間規範との間の区別を放棄することによって可能になっている。それは、何らかの本来的に「一なるもの」の現象上の分化に他ならない、という訳だ。

こうした道学の代表格である儒教儒学は、この意味論の延長線上にある。儒教における「天人合一」は、朱子学においては「理」によって根拠付けられる。この理によって、人間社会自然はただ「一なるもの」に貫通されている。宇宙の秩序を成立させている「天理」は、人間内在することで、本然のとなる。そしてそれは、社会的な秩序に対象化されることによって、君臣、父子、夫婦、兄弟、盟友の「倫」となる。したがって、人間本来的な在り方は、そうした客観的な所与としての社会的な秩序に帰依する以外にあり得ない。

一方、そうした社会的な秩序は宇宙に連なることによって、永遠循環のうちに再生産される。言い換えれば、人間社会に束縛され、社会自然に束縛されるのだ。そしてこの三者の関係は、「誠は天の道なり」と言った具合に、「誠」という倫理性本来的に付与されているのである。

したがって道学は、「物理」を「道理」としてのみ顕現する概念として扱う。道学における社会は、人間によって主体的に担われるのではない。逆に所与としての社会的な秩序への「依存」こそが、人間本来的な在り方として規定されているのである。

ここで生活態度を規定するのは、外部環境としての秩序への順応の原理である。自己に与えられた環境から乖離しないことが、すなわち現実的な生活態度であるということになる。儒教儒学における「実学」とは結局、こうした生活態度を習得するための意味論でしかない。そこに学問の日常生活への機能があるとすれば、それは、客観的な環境としての日常生活に対する学問の隷属を意味する。

「物理」と「道理」の差異

福澤の「実学」は、道学が自明化していた同一性を打破するところから始まる。それは自然の「法則」と人間の「規範」を区別し、「物理」を「道理」から区別する。福澤は社会的な秩序の先天を一掃することによって、物理の客観的な独立を確保した。「皇帝」の意味論に準拠してきた儒教や君臣の「倫」をアプリオリとする朱子学に対する福澤の反論は、「物理」についての「精神」が、階層的に分化した社会構造への反逆無くして実現し得ないことを表している。

福澤にとっての日常生活とは、決して客観的な環境ではない。福澤によれば、「物理」の定則を把握することで、人間精神客観的な環境としての自然を切り拓くこともできる。そして、それを「技術化」することによって、自己の環境を主体的に構成することも可能なのである。旧体制の「実学」が学問を現実に隷属させていたのに対して、福澤の「実学」はむしろ学問によって現実を改変する可能性を指し示している。

福澤は実験精神理論現実媒介として記述している。故に彼の「実学」は「実業」のための単なる「現実主義」ではない。今現在現実に資する理論が無かったとしても、それは理論が不十分であること以上を意味せず、まして理論の全てが無用であることなど意味しない。丸山も主張するように、福澤の「実学」は、卑俗な日常生活の「ルーティン」に固着する態度ではなく、そうした日常を克服することで、未知の未来を切り拓く想像力によって絶えず培われるべきなのである。

福澤が模範とした近代物理学の体系は、客観的な環境に密着した日常的な具体からは決して産み出され得なかった。それは感的な制約を排除した自由な実験精神の所産であった。福澤は確かに「実利」主義者の一人であった。だが彼は一方で、その「実利」を得るためには日常生活に対する回り道も必要であることを理解していた。

理性の実験精神

既にルネサンス期以後、西洋の科学は、精神自然区別主観客観区別主体客体区別によって記述していた。ニュートン力学を実現させた近代科学の発展は、デカルト以来の主体的な理性の覚醒によって裏付けられている。

この近代科学の理性表現しているのが、「実験精神」である。理性は単に本質を想するだけではない。実験を通じて自然主体的に再構成しつつ、無限に新しい領域へと前進していく。それこそが近代科学の発展可能にした。福澤が西洋近代科学を学問の模範としたのは、この実験精神が学問的方法の中核に据えられていたためである。

客観的な環境の秩序への順応が人間本来的な行動様式になるという旧体制の「実学」は、経験的な機会主義を強める。自己に与えられた状況を「原則」に関連付けて処理するのではなく、逆にそうした状況に絶えず自己を適合させていこうとする。「道理」に基づくと述べたところで、結局のところそうした「道理」は、客観的な環境の秩序に対象化されている。故に具体的な行動の指針となるのは、専ら過去の経験の蓄積だけである。このことは狭い意味での倫理的行動に限られたことではなく、認識活動にも該当する。それ故に、旧体制の、東洋的な学問と技術の文化経験の尊重に特徴付けられると見做されてきたのである。

ここでいう「経験」とは、過去の事象である。それは主体客体から受け取る対象である。それは専ら受動的に把握される。だが日常生活経験を如何に累積しても、そこから法則が生み出されることは無い。法則は単なる客体からの経験の受動的な享受によって生み出されるのではなく、主体が「実験」を経て積極的に客体再構成した場合に成立する。近代的な「経験」概念は、こうした能動的な動きを含意している。したがってまた、過去の事象よりはむしろ未来の展望を重視する。錯綜した経験現実を実験を介して抽象化することによって、未来の予測と計量を可能にしていくのである。

福澤はこの関連から西洋医学と東洋医学を対比させる。西洋医学が法則によって抽象化されているのに対して、東洋医学は偶然の熟練に由来する。西洋医学が普遍性伝播を有しているのに対して、東洋医学は一代限りに終わる発展に乏しい事柄である。過去の受動的な経験の蓄積に留まる学問は、偶然の産物としてしか結実しない。

派生問題:実験精神は如何にして可能になるのか

福澤は実験精神を単に自然科学の領域だけではなく、政治や人文領域など、社会の至る所に徹底して適用した。固定的な教条、歴史的な伝統、アプリオリとして通用している諸価値は、実験精神の篩に掛けられることで、無慈悲にその権威の虚偽を暴かれることになる。丸山も述べているように、福澤の観点においては、事物であれ制度であれ、その人間生活にとっての「機能」の検証を待たずして、それ自体の絶対的な価値を主張し得るものは何も無い。

そこで福澤が重視したのは、「機能」的な比較観点である。この比較観点を貫くのが、西洋文明に準拠した実験精神なのである。福澤が『文明論之概略』の中で最も注力して記述した日本国の独立は、常にこうした相対的で条件的な観点の下で主張されていた。彼の実践的な課題国体の護持が如何にして可能になるのかであった。国体を保つということは、日本人が日本国の政治を最終的に決定するということである。

福澤によれば、如何に皇統が連続していても、もし政治的な決定権が日本人の手から離れたのならば、その時、国体は喪失されたと考えなければならない。彼は国際的な闘争の舞台において、日本の国民的な独立の確保が如何にして可能になるのかを問題視していた。

福澤にとって、西洋の近代文明は、この日本の置かれた具体的な状況下において、危機を処理するための不可欠な「機能」として要求された。福澤は単なる西洋文明の伝道者ではない。彼は西洋の近代文明を日本の対外的な独立のために「利用」したのである。

問題解決策:文明の意味論

西洋の近代文明は、文明の現在までの最高の発達段階であるという歴史によって規定される。福澤によれば、文明という概念は、それ自体相対的に規定されている。例えば<より野蛮>と<より文明的>の区別の導入は、文明が野蛮との差異を確保することで成立することを意味する。だが双方の差異は、相対的で条件的な区別によって構成されている。

「軽重長短善悪是非等の字は相対したる考より生じたるものなり。軽あらざれば重ある可らず、あらざればある可らず。故に軽とは重よりも軽し、とはよりもしと云ふことにて、此と彼と相対せざれば軽重善悪を論ず可らず。 斯の如く相対して重と定り諒と定りたるものを議論の本位と名く。」
福沢諭吉(著)『文明論之概略』岩波書店(国立図書館コレクション、Kindle版)、1931、p13。

このテーゼ意味するところは、丸山が分析する通り、価値判断の相対である。事物善悪、真偽、美醜、軽重などといった価値判断は、それ自体孤立して絶対的に下し得る訳ではなく、必ず他の事物との関連において、比較観点においてのみ可能となる。

福澤は、我々の前に具体的に与えられるのが、決して絶対的な真理やではないと主張する。そうした価値判断は、比較観点の下での選択に他ならない。我々の行為は、そうした不断の比較考量の上で成り立っている。したがって、価値は何らかの事物内在する固定的な質ではない。それは、事物の置かれた具体的な環境に応じて、それがもたらす実践的な効果との関連において初めて確定される。具体的な状況を離れて抽象的善悪や真偽を議論しても、それは空転するだけである。

セカンドオーダーの観察者としての福澤諭吉

時代や場所のような社会構造上の状況を観察せずして、意味論上の価値判断は実践できない。福澤は既にこのことを見抜いていた。福澤は、社会政治文化のあらゆる領域に渡る具体的な批判は、全てその時々の現実的な状況に対する処方箋として記述されているという。価値の意味論は、社会構造の具体的な状況から切り離しては理解できない質を持つ。

それ故にこそ福澤は、一方では儒教が如何なる時代の社会的な現実からも浮き上がった念的な教説であると批判しながらも、他方ではそれが周時代の社会的な構成に極めて良く照応していたことも強調している。それは、それ自身絶対的な事実の認識として観察するのなら、明白に相互に矛盾している。しかし福澤にとっては、それらは全て一定の実践的目的に規定された条件的な、言わば括弧付きの認識であって、それ故にいずれも正当なのである。

福澤が自由や独立を主張する場合、何に比して自由なのか、何に比して独立なのかを述べているに過ぎない。彼はこのことを自覚していた。彼は、あらゆる観察区別の導入に準拠していることを見抜いていた。彼は<観察の観察>を実践する<観察者の観察者>であった。

実際、福澤は一方では西洋の近代文明の烈な伝道者でありながら、他方ではそれを相対化する容易と余裕とを忘れなかった。その時々の具体的な状況に応じて、時には文明開化の盲目的な心酔者たちに対してはその批判者として現れ、逆に復古的反動の風潮が支配的になる場合には西洋の側に立っていた。福澤は単なる欧化主義者でもなければ、単なる国権主義者でもなかった。

福澤によるこの価値判断の相対の主張は、彼が相対主義者であることを言い表している訳ではない。もし福澤が相対主義を記述するのならば、<より野蛮>と<より文明的>の区別の導入と同じように、<より相対主義的>と<より非相対主義的>の区別を導入するであろう。

より社会システム理論的に福澤を観察するなら、彼の価値判断の相対の主張は、「何か(Was)」ではなく「如何にして(Wie)」を問う記述であると考えられる。彼の価値判断は、「ファーストオーダーの観察(Beobachtung erster Ordnung)」に対する「セカンドオーダーの観察(Beobachtung zweiter Ordnung)」として実践されているのである。このファーストオーダーの観察セカンドオーダーの観察差異は、<観察>と<観察の観察>の差異に対応している。ファーストオーダーの観察者は、マークされていない領域区別を導入する。そうして導入された区別は、<マークされている領域>と<マークされていない領域>の差異構成すると共に、<観察者自身>と<観察対象>の差異構成する。一方、これに対してセカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察観察していく。それはファーストオーダーの観察とそれ以外の全てを区別するということだ。セカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者観察のみを観点として絞り込むことで、ファーストオーダーの観察者による影響に敏感に反応すると共に、それ以外の対象との無関連を高める。

注意しなければならないのは、セカンドオーダーの観察者は「メタ」の観察者ではないということだ。セカンドオーダーの観察者もまた別のセカンドオーダーの観察者観察され得る。また、観察者自身の観察に対する自己観察もまたセカンドオーダーの観察となる。この意味で言えば、セカンドオーダーの観察も、ファーストオーダーの観察であることに変わりは無い。だがセカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者の限界を認識することができる。ファーストオーダーの観察者は、<マークされていない領域>から<マークされている領域>を区別することで、<マークされている領域>を認識するだろう。この場合、<マークされている領域>が観察者の観点となる。一方、<マークされていない領域>は、観察者の「盲点(Blindheit)」となる。ファーストオーダーの観察者にとって、盲点発見し尽くすことはできない。盲点発見するには、別の区別を導入する必要がある。だが別の区別を導入した時点で、別の盲点を派生させてしまう。

問題解決策:「進歩」の「精神」

重要なのは、福澤によるこの価値判断の相対の主張が、「精神」の主体的な能動の尊重と強く結び付いているという点である。価値をアプリオリに固定された概念としては把握せず、絶えず流動化し、相対化するということは、強靭で主体的な「精神」を以って初めて可能になる。それは個別的な状況に対して逐一状況判断を実践し続けることから始まる。そして、それに応じて一定の命題の下で行動基準を定位しつつ、しかも常にその特殊な観点に溺れることなく、一段階高い水準の観点から新しい状況の形成にいつでも対応し得る「精神」的な余裕を保留していなければならない。

逆に主体的な「精神」の弱い者たちは、個別具体的で特殊な観点に溺れ易く、「場」に制約された価値基準を抽象的に絶対化させてしまう。その結果、当初の状況が変化した場合や、あるいはその基準の実践上の前提が意味を喪失した後にも、その基準へと教条主義的に執着してしまう。

福澤は明確に主体的な能動の「強さ」と「弱さ」を区別する。福澤の区別によれば、固定的で絶対化された価値基準への依存や執着が主体的な能動の「弱さ」であるのに対して、価値判断を不断に流動化する心構えが主体的な能動の「強さ」に照応している。こうした「精神」の在り様は、福澤にとっては決して単に個人的な素質や国民の問題ではなかった。それはそれぞれの時代における社会的な「気風」に帰せられる。

社会構造における社会的な関係は、行動主体から独立して沈殿している。それは伝統や慣習という形式へと凝固することで、人間によって造られた形式でありながら、「自然」環境であるかのように人間を束縛する。ここにおいては、価値基準がそうした伝統や慣習によって予め与えられ、それが社会構成員に画一的に適用される。人々の思考様式は、自ずから類型的となる。観点も固定される。固定的な社会的関係が形成されている社会構造では、階層的な分化によって、権力が中心や頂点へと集中し易い。そしてまた、権力が集中するほど人々の思考様式が固定化される。

これに対して、主体的な能動の「強さ」が照応するのは、社会構造の「進歩」である。福澤が記述している社会の「進歩」とは、無限に推移する社会分化意味する。「進歩」は、社会的な関係の固定を打破する。これにより、人間コミュニケーション形式が多様化していく。状況の変異もますます加速化していく。同時に、価値基準の固定も破壊され、観点が多元的となる。したがって、それらの多元的な価値の判断を下すことがますます困難となる。知の試行錯誤による学的な活動はますます積極的に要求される。

言い換えれば、福澤にとっての社会の「進歩」とは、社会的な価値の独占からその分散への過程を意味する。丸山が簡潔に纏めているように、福澤の言う「進歩」とは事物の繁雑化に伴う価値の多面的分化である。それは、等価機能主義的な社会システム理論ならば「進化」として記述するような、社会構造の「機能的な分化」である。福澤によれば、この無限の「進歩」の過程こそが文明であって、それを「進歩」として信じることこそが、彼の思想の核心にあった。彼の思想は、社会構造複合性の増大による分化形態照応した意味論なのであった。

悪徳としての「文明」

福澤の「進化論的な」進歩史観は、直接的にはトマス・バックルによる思想的な影響の下で成立している。バックルは、歴史を一個の科学に昇華させると共に、統計の方法によって「文明」の「進歩」の法則を打ち立てることを期待した。人類の「進歩」は、「精神」の中の「知」と「徳」によって可能になる。だが、道徳は静止している。そのため、知識の変化こそが「進歩」を左右する。全体としてた人類の総体は、人類の有する知識の総体によって左右される。文明の「進歩」は、疑い極めようと欲する心に正比例し、既成の信仰と慣行とを吟味することなく維持しようとする「保護精神(protective spirit)」に反比例する。このバックルの思想は、福澤の有名な格言である「信の世界に偽詐多く、疑の世界に真理多し」へと直結している。

福澤は道徳知識のいずれも重視していた。しかし、古来より「東洋」の儒学者たちは、大方道徳を一方的に主張していた。福澤が「西洋」の文明論で知識を重点的に主張したのは、こうした儒学者たちに対する反動でもある。バックル同様、物事を疑うところから「進歩」が始まると考えた福澤が目指したのは、疑う「精神」の倫理化である。福澤が『疑心と惑溺』で述べているように、もしこの疑う「精神」が――例えば、とりわけ「東洋」の儒学者たちの教条主義的な道徳論に対する疑う「精神」が――道徳的に「」であるというのならば、「西洋」の文明は漏れなく徳の成果であることになるであろう。

歴史の「進歩」の源動力は、人間の内部から生じる合理主義である。文明の「進歩」とは、この合理主義によって、原則の支配する領分を拡張していくことを意味する。この拡張勅度合いを、福澤は「野蛮」、「半開」、そして「文明」の三段階の区別によって記述している。この限りで、福澤の「進歩」概念もまた「進歩史観」に位置付けることができる。つまり彼の「進歩」概念は、社会構造分化に着目している限りにおいては「進化」に近しいものの、創発的な秩序による進化概念には寄り添わないという意味では、線的かつ段階的に進展していく「進歩史観」へと接近しているのである。 

「自由の弁証法」

福澤における「自由」概念の規定は、「進歩」する社会を前提としている。政治的な絶対主義が価値判断の絶対主義を伴わせているのならば、政治的な権力者による価値基準が打破されることによって、価値判断の源泉が多元的となれば、そこには必ず「自由」が発生するはずである。福澤においても、他の多くの啓蒙主義者と同様に、人間の「進歩」とは自由な「精神」の「進歩」であった。しかし、その「進歩」は、いわゆる「進歩史観」が仮定するような、線的で段階的に発展していく意味での「進歩」ではない。福澤の「進歩」概念とは、価値の分化と多元化の過程でもある。だとすれば、福澤における「自由」の「進歩」は、単に「専制」の原理に対する「自由」の原理の勝利とは限らない。「自由」と「専制」の闘争関係それ自体のうちに「自由」があるのであって、「自由」の単一支配はもはや「自由」ではない。

福澤はこの文脈でも<観察の観察>を実践する<観察者の観察者>であった。彼はあらゆる観察区別の導入に準拠していることを見抜いていた。だからこそ、「自由」と「専制」の区別それ自体の「自由」度を問題視していたのである。こうした「自由」と「専制」の区別に対する<観察の観察>を、丸山は「自由の弁証法」と呼んでいた。もしこの「自由」と「専制」の区別それ自体が「専制」的に導入されていたのならば、如何なる「自由」も「自由」ではない。この区別が「自由」に導入されているか否かは、この区別意味論を方向付けている個別具体的な社会構造上の状況を観察しなければならない。「自由」と「専制」の区別が導入されている個別具体的な状況があるからこそ、「自由は不自由の際に生ず」るのである。

『学問のすゝめ』には、二つの原理があった。「平等」と「独立」だ。それは「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という言葉だけなら有名な一句に表れている。そこから個人の「自由独立」が正当化され、強調される。「独立」は、まず以って政治的な権力に対する「独立」である。これは「民権」の尊重の主張そのものである。一方、「独立」は国家の「平等」を前提とする。「自由独立」は、個人の「独立」のみならず、国家の「独立」も意味する。諸外国に接しながら「独立」を保つためには、日本人の「独立」の「気風」を、予め国内において養っておかなければならない。「独立の気力なき者は国を思ふこと深切ならず」とは、このことを意味する。「独立」の気力が無いことと、人民の権義がないことは、相伴うことである。人民に権義がなければ、責任も無い。先生の下では、国が人民のものではないから、その人民に、国のため身命を捧げることを期待することはできない。外に対して国権を護るためには、国内に民権を拡張しなければならない。

一方、『文明論之概略』にも二つの原理があった。「文明」と「独立」である。「文明」は国内問題であり、「独立」は国外問題である。「文明」とは、人民の智徳の「進歩」である。「独立」を保つための方法を「文明」の外に求めることはできない。国家の「独立」という問題設定の枠組みがあるからこそ、その問題解決策として、国民の「文明」という「機能」が要求されるのである。

福澤にとって、個人の「自由独立」、人と国の「平等」、そして「文明」の進展は、原則として国家超越し、国の「独立」にさえも先行する価値であった。だが特殊な状況においては、現実的に、事の急なる場合にだけ、国の「独立」を第一の目標に掲げることも止むを得ないという。

問題解決策:「天」と「蛆蟲」の区別

「東洋」の儒学批判者であった福澤は、その一方で儒教意味論でも記述されている「天」の用語を相次いで使用している。『学問のすゝめ』には有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」は福澤自身の言葉ではないが、その他にも「天与の自由」や「天は富貴を人に与へずして、これを其人の働に与る者なり」などのように、福澤の著作には「天」という用語が頻出している。

明治時代における旧士族の思想は、儒教教養として学んでいた。故に、この時代の日本を生きた福澤の思想にも儒教的な「天」の概念が根付いていたとしても、不思議なことではない。儒教の中にも、「天」を自然現象の必然として記述する老荘学派や、世界の「理」と同一視する宋儒のように、合理主義者たちもいた。しかし、福澤自身は儒教儒学批判者として立ち上がっている。これを前提とすれば、「天」の概念は、福澤の思想と儒教儒学の思想の共通性差異を考証する上での重要な要因となっていると考えられる。

福澤にとって「天」とは、学問によって知り、学問によって制する対象であった。それこそが彼の言う「実学」である。既に述べたように、「東洋」の儒教主義と「西洋」の文明主義を比較する福澤は、「東洋」の儒教主義に無いものが、有形にしては数理学としての物理学であり、無形においては独立心であるという。福澤によれば、儒学者たちは地獄や極楽に関する仏説を証拠の無い教説として退いていながらも、儒学者たち自身はこの数百年、眼前の自然現象をただ眺めているだけで、積極的にこれを支配する因果関係の理を探究しようとしなかったのは怠慢であるという。

このように、「天」を前にする福澤は、事物の理の探究を重視する。ガリレオやニュートンやワットなどのような物理学者たちによる発明発見は、常に偽の心によって真理の奥に達したことで実現した。福澤はこの事物の理の探究への姿勢を、自然科学から人間社会的な関係の領域へと転用する。ルターの宗教改革、フランス革命、アメリカの独立は、福澤にとってはやはり偽の心に基づく探究の成果である。

福澤における「天」の概念は、彼の「自由」や「平等」、そして何よりも「独立」の社会的な関係を成立させる意味論として機能している。それは森羅万象の自然法則としての「天」に相通ずると同時に、西洋文明における「自然法(Natural law)」の思想にも相通じている。明治初期の啓蒙時代を象徴した「天賦人権」という用語は、西洋の自然法に基づいた「自然権(the right of nature)」の略語であった。当時普及した人権の概念は、18世紀の西洋社会で広く認識されるようになったアメリカの独立宣言や、フランスの人権宣言の思想に源流を持つ概念であった。

福澤はこうした西洋文明を背景に、「独立」を「他人の厄介にならぬことなり」と定義する。ただしこの「独立」も、有形の「独立」と無形の「独立」に区別される。衣食住の需要を自力で充たすような姿勢は、有形の「独立」であると言える。一方、無形の「独立」とは、「精神」の独立である。それは、「独立自尊」の「精神」である。独立した「精神」とは、「他動」や「受動」ではなく、あくまでも「自発」の「精神」となる。

極めて微細な、「蛆蟲」としての「人間」

福澤の「独立自尊」の意味論は、決して理性に対する楽的な認識によって記述されていた訳ではない。福澤は常に森羅万象としての「天」との対比において、「人間」を観察していた。その特徴は『福翁百話』に色濃く反映されている。

「宇宙の間に我地球の存在するは大海に浮べる芥子の一粒と云ふも中々おろかなり。吾々の名づけて人間と稱する動物は、此芥子粒の上に生れ又するものにして、生れて其生るゝ所以を知らず、して其する所以を知らず、由て來る所を知らず、去て往く所を知らず、五、六尺の身體僅に百年の壽命も得難し、塵の如く埃の如く、溜水に浮沈する孑孑の如し。蜉雖蝣は朝に生れてタにすと云ふと雖も、人間の壽命に較べて差したる相違にあらず。蚤と蟻と丈くらベしても大象の眼より見れば大小なく、一秒時の遅速を争ふも百年の勘定の上には論ずるに足らず。左れぱ宇宙無邊の考を以て獨り自から觀ずれば、日月も小なり地球も徴なり。況して人間の如き、無智無力見る影もなき蛆蟲同様の小動物にして、石火電光の瞬間、偶然この世に呼吸眠食し、喜怒哀楽の一中、忽ち消えて痕なきのみ。然るに彼の凡俗の俗世界に、、貴賤貧冨榮枯盛衰などゝて、孜々経営して心身を勞する其有様は、庭に塚築く蟻の群集が驟雨の襲ひ來るを知らざるが如く、夏の青草に飜々たるばったが俄に秋風の塞きに驚くが如く、可笑しくも亦淺ましき次第なれども、既に世界に生れ出たる上は蛆蟲ながらも相應の覚悟なきを得ず。」
福澤諭吉(著)『福翁百話: 附百餘話』時事新報社、1924、p34。

このように、「人間」を極めて微細存在として記述する福澤の観点は、宇宙論的な観点から人間存在を相対化する仏教的な観点照応している。仏教的な「無」の概念から、達や無執着を「人間の安心」として採り入れることによって、福澤の「人間極端自己否定へと突き進む。しかしこの極端否定によって、逆説的にも、彼は「人間」の「自由」を獲得しようとした。福澤は「人間」の生を「蛆蟲」の戯れとして否定することで、その反動により、分不相応な覚悟を持つことが「自由」をもたらすと考えたのである。

福澤の「独立自尊」の意味論は、「人間」を「蛆蟲」と定める極端に悲的な記述によって、「自由」な「精神」の主体的な能動という極端に楽的な認識へと我々を方向付けている。「天」は、「蛆蟲」には何ら恵みをもたらさない。「天」はそれ自体としては何ら「人間」には有益とはなり得ないのである。だが「人間」は、「天」が隠し持っている無限無量の秘密を暴き出すことによって、必要な事物を手中に収め、漸進的に「人間」の領分を拡張していくことができる。このように、福澤の「人間は、極端な悲主義と極端な楽主義の両極において特徴付けられるのである。

丸山を驚かせているように、福澤のこの強靭な人間主義は、宇宙における人間存在の矮小という現実から目を逸らさず、それを真正面から受容する。そして尚且つ、逆にこの無力感を「精神」の主体をより強化させる契機にまで転回させている。生を「蛆蟲」の戯れとる福澤の人間は、決して人生が不真面目な成り行きでしかないということを意味するのではない。真面目な人生を恰も戯れであるかのように過ごす訳でもなければ、戯れの人生を恰も真面目であるかのように過ごす訳でもない。

「もし戯という面がそれ自体実在を帯びるとそこからは宗教的逃避や虚無的な享楽主義が生まれるし、真面目という面が絶対化されると、現在のsituationに捉われて自在さを失い易い。真面目な人生と戯れの人生が相互に相手を機能化するところにはじめて真の独立自尊精神がある。」
丸山眞男(著)、杉田敦(編集)『丸山眞男セレクション』平凡社ライブラリー、平凡社、2010、p124。

福澤が記述する「自由」の概念が、常に「分限」との関連から記述されていたのは、この「蛆蟲」としての「人間を前提としている。福澤の言う「分限」とは、「自由」に伴う責任である。「自由」とは、「天」によって規定されたに従う「分限」を超えない限りにおいて妥当する。しかしこのことは、決して「人間」の「自由」が「天」によって確定されていることを意味するのではない。「蛆蟲」としての「人間に表れているように、福澤の言う「自由」とは、達や無執着の「自由」さを意味する。「天」の森羅万象に比べれば極めて微細存在である「蛆蟲」としての「人間」は、「分限」を弁え、他人の妨げにならない限りにおいて、「自由」を成し得る。それは、「一身の好むままに事を為して窮屈なる思なき」ことであり、「我心のままに事を行ふ」ことである。

問題解決策:方法としての「統計」

福澤による「精神」の主体的な能動の尊重は、人間の心の動きの複雑を前提にしている。心の動きというのは、妖怪変化の如き可変性を有しているために、測り難い。他人の心を推測し難いのは勿論、夫婦や親子の関係であっても、心の変化を知ることはできない。それは決して心理学者たちが記述するような発達段階論には従っていない。何故なら、生涯における人間の心は、千段階にも万段階にも区別することができるためである。儒学者たちのように、古人を崇拝する者たちは、偉人たちの幼少時代のエピソードを伝説のように語ろうとする。幼少期に特殊な性格を有していることが、恰も大事を成すための条件であるかのように脚色する訳だ。

しかし福澤が批判するように、人間には志の低い者もいれば高い者もいる。それは生まれつきの性格であると共に、教育影響でもある。だが、大志があれば必ず大事を成す訳ではない。また、大事を成した者であっても、幼少期から成功が約束されていた訳ではない。たとえ志の方向が大部分規定されていたとしても、心と事業は、それぞれが進んでいくに従って、際限無く変化していく。そこに偶然が加わることで、遂に大事も成されるのだ。

こうした偶然も作用する人の心の動きは、しかし決して法則が無い訳ではない。文明を論じる福澤は、この変化を察するための方法を有している。

「蓋し其とは何ぞや。天下の人心を一体に視做して、久しき時限の間に広く比較して、其事跡に顕はるゝものを証するの、即是れなり。」
福沢諭吉(著)『文明論之概略』岩波書店(国立図書館コレクション、Kindle版)、1931、p63。

福澤はこの方法を「スタチスチク」、すなわち「統計(Statistics)」と呼んでいる。統計は、複雑な事象を一体のものと見做して、長期的に広く比較することにより、実際に観察できる対象を調査する方法である。福澤はこの統計を人心の分析に役立てようとする。一個人や一族についての心の動きを知ろうと思えば、そこに法則があるようには視えない。だが、広く一国について調べれば、様々なサンプルを比較することで、より精密な状態の分析が可能になる。

福澤が統計に関心を持ったのは、バックルによる思想的な影響に起因している。彼はこれを実証的に考える方法として取り上げている。天下の形勢を個々の事物によって判断してはならない。広く事物の動きを観察することで、それを一般化して観察可能にすることによって、比較観点が導き出される。そしてこの比較を実践しなければ、対象の状態は把握し得ない。上述したように、「機能」的な比較観点を貫く西洋文明に準拠したのが実験精神であるのならば、福澤にとって統計とは、まさに実験精神の具体的な実践例なのであった。彼にとっての統計は、未知の未来を切り拓く想像力を補佐する。統計は「実学」の一種として、理論現実媒介する実験精神を培うのである。

派生問題:日本の「独立自尊」は如何にして可能になるのか

福澤諭吉は首尾一貫して日本の「独立自尊」を追求していた。1860年代、三度の欧米視察を通じて、福澤は次第に確固たる世界を抱くようになっていた。帝国主義的な時代において、日本が亡国を免れるためには、「文明開化」以外に道は無いという信念を強めた。

しかし、この日本の国家としての「独立」と「自由」には、一つの足枷が存在していた。無論それは朝鮮である。朝鮮が旧体制に固執するなら、遅かれ早かれ清国やロシアの植民地になることは免れ得ない。福澤が朝鮮の文明開化に拘ったのは、決してそれが朝鮮にとって不可避の主題であったためだけではない。重要なのはあくまで、日本の自立である。日本の「独立自尊」のためには、朝鮮の文明開化が必要条件となっていたのである。

啓蒙主義者である福澤が、当初はむしろ東洋盟主論的な朝鮮進出と朝鮮改造論に走ったのは、致し方の無いことであった。1881年6月以来から、彼が創設した慶応義塾では最初の朝鮮人留学生となる兪吉濬が学んでいた。福澤は留学生を通じて当時の朝鮮の内情を知った。福澤によれば、当時の朝鮮は門地門閥によって身分が固定されていた。社会的な地位の上昇などあり得なかった。彼にとって朝鮮とは、30年前の日本であった。いつしか彼は、「門閥制度は親の仇」であるという自身の過去を朝鮮人留学生の中に見出してしまった。そして、朝鮮を救済することが自身の責任であると考えるようになった。

朝鮮の問題を門閥制度の問題として設定する福澤の観点は、決して彼個人の過去に基づいた偏見などではない。例えばモンゴロイドの特調査の一環として朝鮮旅行を敢行したイザベラ・バードは、その著『朝鮮紀行(Korea and Her Neighbours)』において、「東学党の乱」から日清戦争終焉時までの朝鮮を、官僚主義の弊がおびただしく蔓延している集団として記述している。そこでは職位や賞罰が商品と同じように売買され、政府が衰退していたにも拘らず、被支配者層を食い物にする権利だけは残存していたという。バードによれば、日本はこうした朝鮮の弊を是正しようとしていたと述べている。日本は朝鮮に改革の基本路線を授けた。バードは、日本人が朝鮮の政治システムを日本のそれに同化させることを目指したのは致し方の無いことであったとも述べている。

バードの言う朝鮮の官僚主義とは、朝鮮の支配階級である「両班」を中心とした社会構造を表している。そこでは、儒学国家試験の「科挙」に合格した一握りの秀才たちしか、「両班」になることは許されない。朝鮮の国家統治は、「両班」に囲まれた専制君主が、国王の意思を反映させる合議によって実施されていた。朝鮮の政治システムは、あらゆる権力をこの中央へと集約させることで成り立っていた。この政治体制は、李氏朝鮮の約500年を通じて厳守され続けてきた。

ところが、その社会システムの作動の実態は極めて不確実であった。中央集権が極度に追求された階層的に分化した社会構造では、多様な利益集団や競争原理が抑圧されるために、文明開化は進まない。李氏朝鮮に唯一残されていたのは、血族に準じて形態化している階層的な分化を保つことだけであった。当時の朝鮮では、父子関係を軸とした縦方向の血縁に準拠して、階層的な分化が維持された。これが支配階級の「両班」の基礎的な単位となる。この社会的な関係には、血族を横断的に結合させるコミュニケーション構造化される余地は無かった。

「非特権階級であり、年貢という重い負担を背負わされたおびただしい数の集団が、対価を支払わずにその労働力を行使するばかりか、借金という名目で無慈悲に取り立てる両班からの過酷な圧迫を受けているというのは、疑いようのないことである。商人や農民が、ある程度の余裕資金を貯蓄したという噂が広まれば、両班か官吏が借金を求めに来る。これは実質的に徴税である。その支払いをもし拒否すれば、その男は偽の負債をでっちあげられて、投獄される。そして本人か身内の関係者が要求額を支払うまでの間、毎日鞭で打たれる。そうでなければ、彼は差し押さえられ、実際に金銭が出てくるまでは、両班ので粗食のまま投獄される。」
Bird, I. L. (1905). Korea and Her Neighbours: A Narrative of Travel, with an Account of the Vicissitudes and Position of the Country (Vol. 1). John Murray., p114.

李氏朝鮮においては、あらゆる富や名誉が政治的な権力によって可能となっていた。それ故に各血族は、中央に集約された権力を求めて、「科挙」に基づいた権力闘争を繰り広げていた。しかしその闘争は武力の闘争ではない。朝鮮は文治社会であった。そこでは、儒学解釈を巡る論争が、権力闘争へと直結している。つまり、自らの血族が正統で、他が異端であるというイデオロギー論争こそが、朝鮮の権力闘争の内実であった。

グレゴリー・ヘンダーソンの『朝鮮:渦巻の政治(KOREA: The Politics of the Vortex)』では、朝鮮の王朝は平静を装いながらも、興奮と論争に明け暮れていたという。朝鮮における政治システム力学は、社会的活動のあらゆる「分子」を、権力の中心へと吸い上げる一つの強力な「渦巻(Vortex)」に喩えられる。この力学法則においては、ただ中心と周辺の区別が導入され続けるだけである。中心による周辺への圧力は垂直的な圧力であって、そこには反作用が加わらない。と言うのも、「渦巻」を形成する力学法則に抗い、「渦巻」の形成を妨げることのできる地方や独立集団が存在しないためである。

ヘンダーソンが指摘するこの「渦巻」の力学には、歴史的な背景がある。朝鮮は日本や欧州のような封建制の社会構造経験していなかった。朝鮮には、日本や欧州の社会構造特徴付けてきた武具師、染め物師、商人や専門化、位階制組織などで構成された城下町やギルド、商港、商人社会は確立されていなかったのだ。それ故、朝鮮の社会には、西洋的な意味での「中産階級」が発達しなかった。朝鮮には「中産階級」は存在しなかった。朝鮮の社会構造は基本的にあらゆる権利を有した支配者層とあらゆる義務を背負わされた被支配者層との二極化社会であった。中央とは独立した文化や商業主義的な価値を有した中産階級という西洋や日本の概念は、朝鮮の社会には存在しなかった。

李氏朝鮮時代の朝鮮は、清国を宗主国として、自らを属国に位置付けることで、清国との君臣の関係を維持していた。朝鮮が中華の礼式に服していたのは、この服属の証である。朝鮮社会は、「天」から王の称号を与えられた朝鮮の権力者が、民の統治を委ねられるという形式の下で構造化されていた。いわゆる「冊封」とは、こうした称号による儀礼を前提とした社会構造意味する。朝鮮の社会構造は、この「冊封」を前提とすることで、「皇帝」の意味論の支配下に置かれていた。

朝鮮と「天」の「皇帝」との関係は、明確に主従関係として形式化されていた。朝鮮の王は、中華の「皇帝」に対して、「朝貢」という貢物を献上する。そしてその見返りに、「皇帝」が王に恩賜を与えるのである。

中華帝国と周辺諸国の関係は、中心と周辺の区別で規定されていた。礼に基づいた価値の序列において頂点に位置するのが清国である。中華の支配力は、中華の漢人が住まう地域を中心として、同心円状に広まっていく。中華から遠ければ、それだけ価値の序列は低い。この中心と周辺の区別で規定された国際社会の社会的な秩序を、特に「華夷秩序」と呼ぶ。

この「華夷」の社会システムにおいて、日本は外部環境であった。この社会システム外部環境差異は、単に地理的な距離の度合いを反映させた差異なのではない。より重要なのは、「華夷」の社会システムと日本の社会システム意味論的な差異である。「華夷」の社会構造儒教儒学意味論や「皇帝」の意味論に準拠して構造化されていたのに対して、日本の社会構造は、西洋文明の意味論や「天皇」の意味論に準拠して構造化されていた。

意味論社会構造差異は、しばしばコミュニケーションに軋轢を派生させる。1867年、対馬藩の老は明治新政府の樹立の旨を李朝の王に伝達し、釜山倭館に来航した。しかし、李氏朝鮮は日本側の新たな交流を求める国書の受け取りを拒否した。と言うのも、日本の新しい主権者が「皇上」と名乗っていたためである。日本の「皇上」は「天皇」の意味論によって記述されているのに対して、「華夷」の社会システムの内部に位置付けられた李氏朝鮮は「皇帝」の意味論の支配下にあった。もしこの日本の国書を受け取れば、中華の「皇帝」以外の者を「皇帝」として認めたことになってしまう。故に、李氏朝鮮にはこの国書を受け取ることが不可能であった。

朝鮮は清国を宗主国として、自らをその属国とする清韓宗属関係にあった。この関係が維持される限り、古代的な専制国家である清国から脱却することで文明開化を実現することはあり得なかった。朝鮮の清国からの自立は、日本にとっての自衛の道でもあった。この意味で朝鮮は、日本にとっての防波堤であったのだ。

そこで日本国内では、李氏朝鮮を「華夷」の社会システムから脱却させようとする「征韓論」が提唱されるようになる。しかし李氏朝鮮はこの日本の最初の外交攻勢に対して排他的となることで、ますます「華夷秩序」の中に自らを封じ込んでしまった。日本国内でも征韓論には賛否両論が生じており、それが明治政府内の政争へと発展してしまう。結果、征韓論派は敗れ、その筆頭となった西郷隆盛や板垣退助らをはじめとする多くの官僚や軍人が辞職するという結末を招いた。

しかし、清韓宗属関係を断ち切ることは、文明主義的に国体を護ろうとする日本にとっては、尚も外交戦略上の至上命題であり続けた。確かに、李氏朝鮮時代末期の朝鮮社会は、近代化の観点かられば絶望的な状況であった。だが、朝鮮の中にもこの社会構造を改革しなければ朝鮮は滅亡すると危惧する「開化派」も存在していた。朝鮮を文明主義の防波堤として位置付けていた日本が、この開化派による改革運動を後押ししたのは道理である。福澤はこの開化派の代表者である金玉均を支援することで、朝鮮の近代化とその自立を促そうとした。

問題解決策:「開化派」と「事大主義」の区別

1876年、日本は朝鮮と「日朝修好条規」を結んでいる。それは日朝の武力衝突として勃発した「江華島事件」を契機として、朝鮮が清国の「冊封」から独立した国家主権を有する独立国であることを明記する条規であった。

「日朝修好条規」は「華夷」の社会システムの内部に封じ込められていた李氏朝鮮にとって、初めての「外交」となった。しかしこの脈絡から、日本の明治維新に触発された閔氏一族が朝鮮の近代化を試みようとすると、大院君を擁する守旧派が反乱を引き起こす。すると清国がこの反乱に乗じて、兵力を朝鮮に派遣し、大院君を清国に連れ去った。この「壬午事変」と呼ばれる事件により、李氏朝鮮は清国の属領としての性格をむしろ強めることとなった。閔氏一族も清国の軍事力に圧倒され、清国に付き従う「事大主義」へと転じることとなった。

この流れに抵抗したのが、福澤が支持する金玉均らの「開化派」であった。事大主義者たちが「事大党」を結成したのに対して、「開化派」は開化党を結成する。そして1884年、ベトナムの植民地化を巡って勃発した清仏戦争は、「開化派」にとっての千載一遇の好機となった。つまり、フランスへと兵力を費やしているこの時点ならば、李氏朝鮮への圧力が相対的に減少すると見立てられたからだ。開化党は直ぐに混乱を扇動して、政権を奪取した。しかし事大党は直ちに清国に援軍を要請し、開化党を壊滅させた。金玉均は日本に逃れたが、その後清国の手配により暗殺され、その遺体は凌遅刑に処されてしまった。

「儒教の中毒症」

「開化派」による運動は、清国の介入によって失敗に終わった。このことに激怒した福澤は、「朝鮮獨立党の處刑」において、「開化派」に対する刑罰を指し、耐え難い地獄の世界が朝鮮に出現したと批判した。福澤によれば、朝鮮の現状は野蛮というよりは妖怪や鬼の世界であると言わざるを得なかった。また1897年、福澤は『時事新報』の社説「事実を見る可し」において、次のように述べている。

「本来朝鮮人は数百年来儒教の中毒症に陥りたる人民にして、常に道徳仁義を口にしながら其衷心の腐敗穢、殆んど名状す可らず。上下一般、共に偽君子の巣窟にして、一人として信を置くに足るものなきは、我輩が年来の経験に徴するも明白なり。」
『時事新報』明治30年10月7日、社説「事実を見る可し」より。

福澤の記述は怒りに満ちているものの、その意味論は首尾一貫している。彼は東洋の儒教主義の意味論から西洋の文明主義の意味論を絶えず区別し続けた。日本とは対照的に中国や朝鮮の近代化が進行しなかったのは、中国や朝鮮が「文明」としての日本から区別される「野蛮」の国であるためである。既に述べたように、中国と朝鮮は共に「儒教」の意味論に準拠した古代的で専制的な王朝の伝統を規範的に期待することで、「皇帝」に絶対的な権力集約させていた。その結果、日本の幕藩体制とは異なり、<周辺>に<中央>の機能的等価物を配備させる柔軟を与えず、西洋文明に対する認知的な期待の機会を奪った。

「本来朝鮮人は数百年来儒教の中毒症に陥りたる人民にして、常に道徳仁義を口にしながら其衷心の腐敗穢、殆んど名状す可らず。上下一般、共に偽君子の巣窟にして、一人として信を置くに足るものなきは、我輩が年来の経験に徴するも明白なり。」
『時事新報』明治30年10月7日、社説「事実を見る可し」より。

元々朝鮮人は数百年の間、儒教主義に依存してきた。道徳仁義を口にすることで、道徳的なコミュニケーション展開するものの、福澤によれば、誰一人信頼できる相手がいない。

「既に従来の国交際上にも屡ば実験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自から実を収むるの外なきのみ。」
『時事新報』明治30年10月7日、社説「事実を見る可し」より。

問題解決策:「文明」と「野蛮」の区別

「日朝修好条規」以降も、朝鮮は清国を宗主国とし、自らはその属国とする宗属関係の中に身を置いた。この関係を断つことで、自立的に開国し、近代化へと向かう「気風」は、朝鮮にはまるで無かった。清国の力が半島に及ぶことは、半島を文明主義の防衛線として位置付けていた日本にとっては脅威であった。それ故に日本は、清韓宗属関係を断ち切ることで、朝鮮の近代化を試みようとした。

だが「日朝修好条規」が結ばれた後の清国は、日本に対して曖昧な態度を取り続けた。清国は、朝鮮の内政も外政も李氏朝鮮の自主的な活動に任せていると述べている。故にその責任は李氏朝鮮自身にあるという。しかし、その一方で清国は、朝鮮を属国として扱っている。一個の独立した王国として認める訳にはいかないという。清国は、宗主国としての権利を主張してい置きながら、その政治には何ら責任を持たないという訳だ。

当時の外務大臣であった陸奥宗光は、清国のこうした非論理的な態度を貫くようであれば、日本としては朝鮮を一つの独立国家として認識し続け、朝鮮の問題の一切の責任は朝鮮にあるという方針を貫かなければならないと主張した。そこで日本は1885年に、清国に対し、「天津条約」の締結を要求することになる。清仏戦争の勃発を契機として、その事後処理と緊張緩和という名目から、日本は清国に条約締結を認めさせることができた。この条約により、日本と清国の双方は、共に朝鮮半島から完全に撤兵し、これ以降出兵する際には相互に照会することが義務付けられた。しかし、こうした条約締結の過程でも、朝鮮を属国として位置付ける清国と朝鮮の近代化を主張する日本との間で、合意形成されることは無かった。

この意見差異が生じ続ける限り、日清はいずれ開戦を余儀無くされる。陸奥はそう直観していた。それ故にこそ日本は、開戦を事前に予測することで、その布石を打っていた。日清戦争が勃発するにしても、第三国に介入と干渉の余地を与えてはならない。何故なら、日清戦争に勝利すれば、それだけ日本が、その事後処理として、領土争いに挑む列強諸国の介入に悩まされることになるからだ。だが現実的に第三国の介入は避けられない。そこで陸奥は、まず日本に対する第三国の介入を阻止するために、あくまでも日清戦争が清国によって引き起こされたという建前を用意する必要があると考えた。日本はあくまでも止むを得ず戦争に対応したという姿勢を取ることで、戦争の主動者を清国であるという前提を造り上げる必要があったのである。

日清戦争は1894年に朝鮮で勃発した甲午農民戦争、いわゆる「東学党の乱」を契機に勃発したとされる。しかしより厳密に言えば、日清戦争を引き起こす直接的な引き金となったのは、日本がこの反乱が収束した段階で提出した「日清共同内政改革提案」である。それは、財政、官僚組織、治安維持などのような諸々の政治的問題を「文明開化」によって解決するという提案であった。無論、清国がこの提案を受け入れる見込みは無いことは、日本も予め承知の上であった。日本は、あえて自身の合理的な提案を拒絶されるという状況を造り上げることによって、日清間の開戦を正当化するという巧みな外交戦略を展開していたのである。

このような戦況下において、福澤は日清戦争を「文野の戦争」として観察していた。すなわち、文明と野蛮の戦争である。言い換えれば、日清戦争とは朝鮮の近代化を求める戦争なのであった。確かに日清戦争は日本と清国の双方の間で生じた。だがその根源にあるのは、文明開化を図ろうとする者と、それを妨害しようとする者の競合であった。

この意味では決して、日清戦争は日清間の戦争ではない。日本にはもともと、清国に対する直接的な恨みなど無かった。福澤によれば、日本はただ清国に対し、人間社会における「普通の交際」をして欲しいと要求しているだけであった。しかしながら、彼らは「頑迷不霊」であるが故に、「普通の交際」と述べたところで、その道理など弁えもしない。他ならぬ清国の側から、文明開化への「進歩」を妨げるべく、意を向けてきたのだ。それ故、「止むを得ずして事の茲に及びたるのみ」なのである。

派生問題:帝国主義の時代

幕臣であった福澤は、政権獲得に参加しなかった者は政権に入る資格が無いと考え、明治維新を傍者として観察していた。彼は文明国や野蛮国のみならず、日本政府に対しても、セカンドオーダーの観察者であり続けた。だが日清戦争以来、福澤諭吉が啓蒙主義者として提供した「独立自尊」の意味論は、徐々に日本社会を方向付ける機能を喪失していった。と言うのもこの戦争以来、日本の社会構造は本格的に帝国主義国家社会構造へと変異せざるを得なくなったためである。例えば日清戦争から日露戦争までの経緯を福澤のように記述することはできたとしても、それは一つの記述可能文脈に過ぎない。これらの戦争は、帝国主義の時代の文脈からも記述することができる。

例えば、次のようにである。帝国主義の時代では、武力が正義であり、武力が全てであった。武力を持たない国は、直ぐに淘汰されてしまう。こうした時代において、半ば強引に開国を迫られた日本は、白人の主権国家の植民地になるのか、それとも黄色人種初の帝国主義国家に生まれ変わるのかという、究極の選択を迫られていた。日本が選択したのは後者であった。帝国主義国家として生まれ変わるということは、福澤の言葉で言い換えるまでもなく、国家の「独立」と「自由」を守り、「国体」を護持するということである。だが上述したように、この日本の国家としての「独立」と「自由」には、一つの足枷が存在していた。それが朝鮮である。朝鮮の宗主国を自称しながら、朝鮮の責任を負おうとしない矛盾した態度を取る清国とは、確かに福澤が述べるように、文明主義として対決せざるを得なかった。日清戦争は文明と野蛮の対決であったのだ。しかし、日清戦争と関連していたのは、文明と野蛮の区別だけではない。帝国主義の時代では、文明の側に立つ西欧諸国との対決も、避けられるものではなかったからだ。帝国主義の時代では、文明と文明の対立も既に発生していたのである。

実際、日清戦争に勝利した日本は、朝鮮半島を日本の保護国として扱った。しかしこの情勢に対し、ドイツ、フランス、そしてロシアが介入してくる。いわゆる「三国干渉」により、日本が清国から租借した遼東半島をはじめとした領土が奪い取られてしまった。「三国干渉」によって最も多大な利益を得たのは、地理的に最も近いロシアであった。大陸に対する日本の影響力を弱体化させることに成功したロシアは、満州や朝鮮半島を植民地にしようと動き出す。清国の抵抗は微弱であったが故に、ロシアはその軍隊を満洲のみならず朝鮮半島にまで送り込むことに成功した。帝国主義国家同士の領土を巡る争いが再び勃発することとなったのだ。

帝国主義の時代の多文脈性は、もはや福澤諭吉の影響力を相対化してしまっていた。しかし日本が「三国干渉」後の臥薪嘗胆の只中に置かれていた時も、福澤の洞察力は衰えなかった。日露戦争が勃発する約10年前には、既に福澤は日英同盟の可能性を論じていたのである。

「独り英国は大陸列国の紛争に関らず常に物外に超然として自から守るのみならず、其海上の勢力は他国の遠く及ばざる所なれば、今日の場合に於て日本の為めに同盟国を求るときは、先づ指を英国に屈せざるを得ず。」
『時事新報』明治28/1895年6月21日、社説「日本と英国との同盟」より。

福澤は元来、文明国の「自利主義」をよく知る者であった。だからこそ彼は、英国が必ずや日本の要求に応じると確信していた。何故なら、英国が自国の利益を守るためには、まずロシアの南進を、南の海浜に顔を出すことを防ぐことが優先されるためである。英国の外交政策はこの一点に集中していたと言っても過言ではない。実際、その後締結された日英同盟によって、日本はドイツとフランスを牽制しながら、ロシアに挑戦し、これに勝利した。

しかしその後の日本に、福澤の面影は無い。日本の社会構造を動かしたのは、「独立自尊」の意味論ではなく、帝国主義の論理であった。日露戦争に勝利した日本は、その後「対華21カ条要求」を通じて、大陸の懐深くまで侵入していった。しかし、この動きが、中国への勢力拡大を目論む米国との関係を化させることになる。そしてワシントン海軍軍縮条約を契機に、日英同盟の破棄も余儀無くされた。日本は日露戦争の勝因となった英米勢力の支持を失い、中国というユーラシア大陸の中心部で、自滅の道を辿ることとなった。

参考文献

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