古代律令制の社会構造と記紀神話の意味論 | Accel Brain

古代律令制の社会構造と記紀神話の意味論

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派生問題:この日本

ヨーガ歴史意味論から原始仏教瞑想意味論へと至るこれまでの記述では、専ら原始仏教によって提供されていたマインドフルネス瞑想意味論を再記述することに終始していた。だがこれだけでは、その後の時代、例えばこの日本において、仏教如何にして普及し得たのかが不透明に留まる。

意味論如何にして普及し得たのかを分析するためには、意味論によって提供される諸概念が尽く「歴史的な」概念であるということを、まずは弁えなければならない。歴史的な概念とは、単に歴史の中で使用されてきた概念を意味するのではない。歴史的な概念とは、その意味論がその時代の社会構造との関連から構成されている概念であると同時に、それ自体が社会構造を方向付ける概念である。

社会構造(Soziale Struktur)との関連を抜きに、意味論を分析することはできない。社会構造変異意味論変異は、相互に連動している。社会構造との関連で言えば、意味論(Semantik)とは、有意味な指示対象を持つコミュニケーションのための主題の貯蔵庫であると同時に、意味処理規則の貯蔵でもある。それはまず、主題を設定することで、コミュニケーション可能にする共通主題構成する。それと同時に意味論は、未知なる不確定な対象に「意味」を付与する際の規則を提供する。意味論に依拠するコミュニケーションは、そうした対象を解釈することを可能にする。未知なる不確定な対象は、既知の類型的なパターンによる秩序付けや習熟されている主題に喩える隠喩を利用することで処理される。こうした諸形式の総体が、意味論なのである。

社会構造意味論区別の導入から出発する記述の方法は、「行為」の動機付けの水準に適った方法ではない。またこの方法は、因果的な説明を提供する方法である必要も無い。意味論は、連続性と非連続性が緩やかに混合された状態を形成している。ある主題についての意味論は、別の主題についての意味論とは異なる時間的なリズム構成することもある。主題の貯蔵としての意味路は、既に古びてしまった概念や理念を継続して利用することによって、社会構造変異が急速かつ極端に生じた場合に、それを覆い隠すこともある。例えば、「市民社会(Civil society)」などといった概念は、18世紀まで使い続けられていた。そしてよくよく考えてれば、こうした概念の利用は今日まで続いていることがわかる。

意味処理規則の貯蔵としての意味論は、区別の貯蔵でもある。しかしそれは、既にある区別をそのまま流用し続ける規則なのではない。意味論はしばしば、それこそ社会構造変異と共に、それまで利用されてきた区別を再記述することがある。その際意味論は、区別における反対概念や対概念となる対象を、別の対象へと置き換えることがある。例えば、自然と技術の区別自然恩寵区別に関わる意味処理規則においては、しばしばこれらの区別の一方の側だけを取り換えることで、新たに自然と文明の区別が導入されることがある。一方、意味処理規則としての意味論は、複数の区別を一つの区別へと融合させることもある。例えば私的と公的の区別と秘密と公開の区別は、しばしば政治社会構造との関連から、一つの区別として統合される傾向がある。こうしたトリックを利用することで、意味論は、持続を強く印象付けることもできれば、変化したという印象を弱めることもできる。こうしたトリックが駆使されたのが、とりわけ18世紀の旧いヨーロッパの時代のことであった。

したがって、今日しばしば「文化(Kultur)」と呼ばれている事柄は、社会構造変異に先んじている場合もあれば、その変異の後追いに過ぎない場合もある。また社会構造変異を予見することもあれば、その変異の記録を留めるに過ぎない場合もある。こうした「ケースバイケース」に対して、「文化とは何か」などといった騒々しい議論に参加する必要は無い。何故なら、こうした議論そのものもまたコミュニケーションであるためだ。あらゆるコミュニケーションは、それまで構成されていた社会構造意味論区別影響下にある。一方で社会構造は、「分化(Differenzierung)」という形式を取る。何故なら、社会構造を方向付けている意味論には、そもそもあらゆるコミュニケーション主題を包括的に統合することなど不可能であるためだ。そして他方で意味論は、分化した個々の社会構造に対応する形式で、個々の社会構造に応じた意味処理規則を提供する。こうして社会構造は、意味論との相互連関によって、自己自身を区別するようになる。

近代社会の社会構造は、「機能的分化した社会(der funktional differenzierten Gesellschaft)」として構造化されている。ここでいう「機能(funktion)」とは、問題解決策に他ならない。つまり機能的分化した社会とは、問題解決策ごとに区別された社会構造意味する。だが問題解決策ごとの区別の前提にあるのは、問題設定区別である。政治の問題、経済の問題、の問題、科学・学問の問題、教育の問題、族の問題、宗教の問題、芸術の問題、医療の問題、マスメディアの問題などのように、問題設定という名の主題分化しているからこそ、それに応じた社会構造もまた、問題解決策ごとに分化することになったのである。

これを前提とすれば、近代社会で記述される意味論は、専ら問題設定としての主題の貯蔵庫として形式化していることがわかる。哲学や社会科学で記述されてきた「分業(Division of labor)」や「疎外(Alienation)」などといった諸概念は、まさにこうした社会構造主題とした意味論であった。個々の主題に対して多種多様な「貢献(Beitragen)」があり得るのと同じように、個々の問題設定に対しては、複数の「機能的に等価(funktionell äquivalente)」な問題解決策があり得る。機能的に等価であるというのは、特定の問題設定解決に同様に資するということである。それは、同様に有用で、役立ち、利点があるということである。

だが注意しなければならないのは、異なる問題設定に対する問題解決策機能的等価物として観察することは不可能であるということだ。それは、主題に接点が見受けられない諸概念同士は、そもそも機能的比較することができないということである。しかし、こうした 諸概念が歴史的な概念であるとするなら、現代の観点からは接点が無いように思われるような諸概念同士でも、かつては関連している場合もあり得る。歴史的な概念を遡及することは、諸概念同士のまだ視ぬ比較可能性探索することに等しい。

尤も、この等価機能分析という方法は、類似しているものならば何であれ関連付けるような方法なのではない。しばしば「日ユ同祖論」の記述形式られるように、文化儀礼形式類似性が見受けられるからといって、それを過度に重視する理由にはならない。類似性を重視した方法では、類似しているものの全てを関連付けようとしてしまう。類似性ばかりを探索すれば、際限の無い発見が得られるだけだ。これに対して、等価機能主義は、まず以って「比較(Vergleich)」を重視する。「比較」するというのは、それらの同一性共通性を強調するというよりは、むしろそれらの「差異」を記述することを意味する。等価機能分析が重視するのは、同一性の記述ではない。等価機能分析はむしろ、<差異>と<同一性>の差異を重視することによって、類似性を過度に重視する記述形式から自らを区別しているのである。

機能的等価物同士の比較可能性探索に準拠した意味論を分析していくとなれば、自ずと複数の経験的な史料に目を通すことになる。確かに資料の選択は、偶然に左右されないとは言い切れない。膨大なテクスト存在するなら、それは避けられないことである。だがその埋め合わせとして、可能な限り多くのテクストに目を通し、更には二流のテクストをあえて一流のテクストとして用いることで、一般的な諸概念として流布している意味論発見できるようにすることも不可能ではない。むしろ、元々一流として知られている著作者たちに専念してしまえば、統制の効かない選択効果が生じる可能性がある。著者たちの個々人について厳密な解釈を施し続けていけば、コミュニケーションをその人物の人格に帰属せざるを得なくなるかもしれない。しかしそれは、事柄に即した正当な方法ではない。

むしろここで重要となるのは、この日本という社会が、選択された諸主題に関するコミュニケーション如何にして可能にしてきたのかを探索することである。こうした方法は、通常ならば二次的な文献として見做されているものにはそぐわないであろう。またそれ故に、それぞれの時代についてよく知っている概念史の研究者たちや専門の歴史たちとの間で、意見の不一致を招くことにもなるであろう。

しかし、ここで実践することになる等価機能分析による歴史意味論の記述には、具体的な<方法論>がある訳ではない。と言うのは、<方法論>を記述するまでもないためである。等価機能分析は、理論を基礎に据えた場合に自ずと浮上してくる一種の方法である。この方法においては、著者たちの人格によってコミュニケーションが規定されるというよりは、コミュニケーション意味論構成されるからこそ著者たちの人格が規定されると考える。つまり等価機能分析とは、著者たちの人格が、コミュニケーション意味論による人工物に他ならないと考える方法なのである。

問題再設定:「古神道」の歴史的意味論

6世紀ごろに百済を介して日本に伝来した仏教は、当時まで日本列島に存在していた日本固有の宗教である「神道」との関連を前提とした上で、徐々に古代日本の大和朝廷の社会構造に普及することとなった。一般的に神道は、日本固有の民族宗教であると考えられている。神道は、仏教やキリスト教のように、他国から渡来した世界宗教の一派ではない。神道は日本列島で育まれてきた自然宗教なのである。神道仏教儒教影響も受けている。特に言語、記述の形式の問題においては、中国文化からの影響も受けてきた。と言うのも、3世紀以降、日本は文字や文章の概念を他国の文化から学び取ってきたためである。

神道意味論歴史的に社会構造変異によって方向付けられてきた。仏教渡来以前に定着していた「古神道」、仏教影響を受けた「習合神道」、陰陽道などを総合して形成された「吉田神道」、鎌倉後期に主仏従として唱えられた「伊勢神道」などを経て、明治維新後には「国家神道」が、更に戦後には「神社神道」が、それぞれ形成された。神道意味論歴史的に社会構造影響を受けながら方向付けられてきた。特に政治的な作為を被っていない神道意味論を探るためには、「古神道」の歴史まで遡ることが有用となる。

問題解決策:神道と西洋宗教の区別

神道意味論は、西洋の宗教における意味論とは異なり、教祖や教義、戒や崇拝対象を有していない。神道象徴や偶像を崇拝しないのである。西洋の宗教は、民族の抗争や大規模な戦乱など、社会構造の変動の中で生まれた。そうした闘争の状況では、対外的に自らを主張する必要がある。他の文化圏や民族の人々に対して、明確に自らの思想を宣伝する必要もあった。一方、日本列島は、四方を海に囲まれ、長期間平和を保っていたとされる。勿論、当時の中国や朝鮮半島との抗争が無かった訳ではない。だが異民族による大規模な侵入や支配を受けることは無かった。こうした日本列島と西洋における社会構造差異が、神道と西洋の宗教との間の意味論上の差異に反映されているのである。

神道においては、仏教における仏陀やキリスト教におけるイエスのように、具体的な教祖が言及されることは無い。この意味神道は創唱宗教から区別される。神道意味論は、日本列島を生きた名も無き人々の間で育まれてきたのである。神道が個別具体的な個人による教示を重視しないのは、訓えは人間に由来するとは考えないためでもある。言うなれば、神道にとっての教祖とは、人間ではなく「自然」なのである。神道意味論は、自然史に秘められている神秘法則に対する深い洞察、そこに感じられる奇妙なものへの畏敬と感謝の念を、神話や祭祀によって叙述している。自然超越的な存在として観察するという意味では、神道もまた、超越内在二値コードに準拠した宗教であると考えられる。

教祖を持たない神道は、教祖の教訓を体系化した教義も持たない。神道には、神道全般に渡る絶対が無いのである。神道が準拠する『古事記』や『日本書紀』もまた、教義を記述した聖典としては認識されていない。これらの書物の中では、史実、神話学が複合的に関連付いている。政治的な脚色や文学的な装飾も含まれている。それ故、一字一句の全てが聖なるものなのではない。例えば神社の祭式を形式化させているのは「清め」や「祓い」の思想である。だがこれらは教義ではない。神道思想の基礎的な概念である「敬崇祖」や「清明正直」もまた教義としては記述されていない。同じように、山陰神道における「一霊四魂」もまた教義ではない。

神道の間では、自然自然史に関する統一見解は形成されていない。神道はそれぞれ異なる観点から自然観察する。それ故、そうして説かれる哲理も一致しない。言い換えれば、神道の記述は、別のありあり方でもあり得る。そこに必然は無く、ただ可能な認識が複数あり得るという点が強調される。様相論理学的な用語で表現するなら、神道は、自らの認識が偶発的な認識であるという前提に立っている。

教義を持たない神道は、基本的に絶対的な戒も持たない。一般に、戒は禁戒と勧戒に区別される倫理的なコードである。部族、部落、国家などのような前提となる社会構造次第で、このコード意味論変異する。一方、神道には、ユダヤ教やキリスト教とは異なり、人間の行動を事細かに規定する厳密なコードとしての戒が無い。確かに「敬崇祖」のような歓戒はある。だがこうした戒は、人間の行動を細かく規定する訳ではない。や祭式の穢れを忌む「白不浄」や血の穢れを忌む「赤不浄」などのような禁忌も、職や祭祀役が守るべき禁戒も、霊との交渉を目指す祭りの特殊な場合にのみ設けられる。

宗教的意味での戒には、院生活のための戒もあれば、一般的な民のための戒もある。特別な時期や状況に特化した戒もあれば、日常生活における戒もある。ユダヤ教では、一般信者に対しても極めて繊細な戒が設けられている。それを破るということは、救済されなくなることを意味する。キリスト教はユダヤ教の極端な戒重視の姿勢に対する代替案として位置付けられる。だがそうしたキリスト教においても、その発展の過程で、修道院を中心とした戒が設けられた。ユダヤ教やキリスト教における戒意味論は、救済を前提としている。いずれも唯一の裁きと人間の「原罪」が根本にある。人間はただの赦しを願いながら戒を守ることで、を償う存在でなくてはならない。こうした戒は、言わば「罪の文脈(der Schuldzusammenhang des Lebendigen)」を形成しているのである。

西洋の宗教との特徴的な差異となるのは、神道は、救済を説いていないということである。神道は「罪の文脈」とは無縁なのである。救済を説かない神道特徴は、仏教との差異観察する上でも特筆すべき点となる。神道仏教に比して現世主義的である。仏教一切皆苦意味論によって、現世はに満ちているという前提に立つ。多くの仏教徒は、来世の救済を求める傾向を有している。これに対して神道は、現世に対して肯定的である。現世の自然環境で肉体を持って生きることは、意義深いことであると考える。しかし神道は、現世のみが実在であって、不可視世界存在しないなどとは考えない。

多くの宗教には崇拝対象となる形象物がある。例えば仏教は仏像を有している。キリスト教には十字架や聖母像がある。とはいえ「偶像」という表現は忌み嫌われる傾向にはある。仏教徒ならば、仏像は仮の方便と考えるであろう。キリスト教徒ならば、偶像崇拝の禁止を建前としているために、十字架は象徴に過ぎず、聖母像は祈りの手掛かりに過ぎないと考えるであろう。だがこれに対し神道は、基本的に偶像を持たない。拝むための象徴も無い。確かに歴史神道では、中世の一時期に仏教影響から像が造られたこともあった。民間では、信仰されている小さな々が像で表されることもあった。だが神道が崇拝するのは自然である。鏡、殿、岩巫を拝むことはあっても、それらは抽象的象徴なのであって、像ではない。

問題解決策:形式としての「神々」

神道は日本人が自然の摂理を記述する意味論として発展した。神道たちは、天地万物に霊魂を見出し、自然構造を知ろうとした。彼らが叙述する概念の理念となるのは、自然には「」が宿るという発想である。ここでいう「」とは、最上級の敬意を意味する「様様」である。例えば天照大御神という名は、「偉大なる御方である天照様」を意味する。『古事記』の冒頭に登場する天御中主は、「天の中心にいるヌシ様」を意味する。こうしてれば、「」とは、その存在への最大の敬意の表現である。しかし、この「」という概念に代入する内実は、未規定である。それは、別様にもあり得る。「」とは、威、格、霊、霊威、霊格を創唱して包括する形式なのである。

本居宣長は、『古事記伝』において、「」という概念は「尋常ならず、優れたる徳のありて可畏きもの」であると定義した。そこでは、偉大なるものが、如何なるものでも、「」になる可能性があることが示唆されている。言い換えれば、如何なるものであっても、畏怖や敬意を以って祀ることにより、「」となるのである。「」は、いわゆる「融通無碍な存在」として、多種多様な々の形式を含んでいる。したがって、偉大なるものならば何であれ「」となり得るのだから、至る所に「」が遍在していることになる。こうして増殖した「々」の総体が、「八百万の々」と呼ばれるようになる。

欧米の人々にとって、「」は全知全能である。その世界歪みは無い。そして、人間可能な限り「神の世界」に近付こうとして、城や庭園など、対称的な形状の人工物を設計してきた。一方、自然に「」が宿ると捉える神道たちにとって、「神の世界」は歪み世界である。自然は対称的ではない。富士山のように対称的な形状の山もあるが、ほとんど全ての自然は歪んでいる。「八百万の」に象徴されるように、日本には多数の「々」や仏が存在している。日本の「」は「唯一」ではない。

問題解決策:「禊ぎ」と「祓い」の区別

神道がユダヤ教やキリスト教が前提とする「罪の文脈」とは無縁であるのは、双方が想定する「」の概念に差異があるためだけではない。多くのユダヤ教やキリスト教とは異なり、神道意味論は、そうした「罪の文脈」の浄化可能性を積極的に記述しているのである。このことは、古神道で伝承されてきた「禊ぎ」と「祓い」の区別を導入することで、明らかとなる。

形式としての「禊ぎ」

神道根源にある思想の一つは「清明正直」である。清明とは「穢れ」の無い状態を指す。正直とは、行や科を犯さないことを意味する。清明を保つためには、自らの心を浄めなければならない。この浄化は、基本的に水で浄めることで可能になる。その他にも、祓い物によって身を浄める場合もあれば、穢れた霊との交渉を切る場合もある。しかし禊の原義となるのは、あくまで水で浄めることである。

禊ぎ」は、生活形式としては、水浴する行事として知られている。もともと「禊ぎ」という用語も水浴を意味している。神道における「禊ぎ」の典拠となるのは、『古事記』の伊弉諾尊の禊祓の条である。伊弉諾尊は、妻である伊邪那命が亡くなったことを悲しみ、黄泉の国へ訪ねていった。そこで彼は変わり果てた妻の姿を見る。蛆が湧いたその様に、伊弉諾尊は、そのさを指摘してしまう。それを見られた伊邪那命は、激怒し、伊弉諾尊を追い回した。漸く逃れられた伊弉諾尊は、いわゆる「筑紫の日向の橘の小戸」で、黄泉の国の「穢れ」を浄めようと、海と川の交わるところで「禊ぎ」を実施した。その時、多数の「々」が生まれた。天照大御神、月読命、須佐之男命もこの中に含まれていたという。

禊ぎ」は、神道の祭祀に必須の儀礼である。平安時代の京都では、七か所の河原で「七瀬の祓い」が行われていた。鎌倉時代には由比ヶ浜で将軍やその夫人が禊ぎをしていたとされる。紀州の天野宮などでは、輿が海辺に渡御して、海水を被って禊ぎをしている。今でも海水の方が浄める力は強いとする説もある。「塩をまく」というのもまた、「禊ぎ」の思想である。

禊ぎ」に最適な場所は、海に川が流れ込む場所であったとも言われる。伊弉諾尊の「禊ぎ」によって生まれた「々」の中には、底津綿津見、中津綿津見、上津少童命、底筒小野琴、底筒男命、中筒男命、上筒男命の六がいた。それらの「々」を祀る「住吉神社」は、大阪、福岡などの古社をれば、いずれも川が海に流れ込む河口に位置する。山蔭神道第79世の山蔭基央によれば、川は淡水で、男象徴であり、海は海水で、女象徴である。その二つが交わる河口は、男女交合の象徴である。伊弉諾尊と伊邪那命は、「みとのまぐわい」をされて、多くの「々」を生み出した。この「みと」は水戸で、二つの水が合わさることを象徴しているのかもしれないという。そして山蔭基央は、伊弉諾尊が「禊ぎ」をして数多の「々」が生まれたという神話は、この「禊ぎ」にも男女交合と再生象徴が含まれているのだという。

禊ぎ」は単に身体を水で浄めることを意味するのではない。水により浄化されることによって、心もまた浄化されていく。神社に詣でる前に手水を使うのは、水の神秘的な浄めに加えて、けじめを付けて、心の持ち方を変えるためでもある。そして、穢れを落とし、心を清らかにして、清明正直の心で霊と交流することが最大の目的となる。

形式としての「祓い」

神道は、「祓いに始まり祓いに終わる」とされるほど、「祓い」を思想の中核に位置付けている。一説によれば、「祓い」の原義は、「晴れ合う」や「晴らし合う」の意味の複合語である。それは、事の度合いに応じてに物を差し出し、科を晴らすことを意味する。同音の「払い」は綺麗になるように払い落とすという意味であった。これが転じて、代償となる贖物を出して科を晴らすという意味から、「祓い」と混同されるようになったという。一方、「祓い」は「張る霊」に由来するという説もある。「春」が生命力の拡張意味する「張る」であるように、霊魂に活力や勢いを与えることを意味するという。いずれにせよ、「祓い」の意味論は、科や穢れを祓い落して清らかになるための意味処理規則となっている。それは、贖物を差し出すことで可能になる。そしてそのことを通じて、自己の心身の活力を更新することが含意されている。

祓い」の意味論は、古くから「天の祓い」、「地の祓い」、「人の祓い」に区別されてきた。それぞれの「祓い」は、「罪の文脈」の浄化如何にして可能になるのかで分類されている。

「天の祓い」

「天の祓い」は、「霊の霊光」や「言霊」、「音霊」を賜って、浄めを受ける。「霊の霊光」による祓いは、霊を礼拝して、その聖なる波動を賜って浄めを受けることである。この祓い一般化したのが、祓い幣による修祓である。これは、伊弉諾尊が禊ぎをされた時に生まれた祓戸大の聖なる浄めの力を請い仰ぎ、心身を浄めていただくことを意味する。

「言霊」という概念は、聖書における「初めに言葉ありき」という概念に近い。つまり言霊とは万物創世の理とも見做せる。神道における「言霊」の代表例となるのは、「大祓詞」である。大祓詞は、神道の「息長」という腹式呼吸のような呼吸を反復することで奏唱する。一心不乱に暗唱すれば、余分な雑念は消えて、無念無想状態になる。神道たちは、大祓詞により、身体の内に潜む邪気が浄められると考えた。

「音霊の祓い」は、音楽による浄めを表す。神道では祈願の日に太鼓を鳴らす。太鼓が表現しているのは、波の打ち寄せる音である。神道では、このリズムや振動が浄めの力を持つと考えられている。

「地の祓い」

「地の祓い」は、「水の祓い」、「土の祓い」、そして「塩の祓い」に区別される。「水の祓い」は、「禊ぎ」の儀礼を表す。「土の祓い」は、神社の境内の土や海浜の砂などを屋敷の中に敷き詰めることで「祓い」として用いられる。「塩の祓い」は、葬式帰りに持つ塩、力士が土俵に撒く塩、料理店の入り口に置かれている塩などのように、生活の様々な場面で利用されている。

神道たちの間では、塩は海水の主成分で、海は生物根源であることからも、塩の重要が指摘されている。塩は調味料としても用いられ、また腐敗を防止する力も持つ。多種多様なユースケースを有する塩は、普遍的に利用されているツールでもある。実際、思えばユダヤ教でも、「塩の祓い」は実用化されていた。

「人の祓い」

「人の祓い」には、「型代の祓い」や「忌比の祓い」などがある。型代とは人型の形象意味する。草や樹皮、金属によって製作されることもあるが、古くは紙によって製作されていた。型代は、象徴でもある。と言うのも、神道の思想的背景においては、と人は同型であるためである。もともと型代とは、古代社会の「身代祓」に由来している。それは、人の身代わりとして、祈念や祈祷、時には呪詛の対象として見做されていた。だが平安時代以降、人に象った紙に、穢れや邪気を依り憑けて、それを水に流すか火で燃やすことによって、浄化病気の治癒、厄災の消滅を図るという儀礼形式流行することになった。その一方で、人型を白紙で包み、そこに祈願を記述して、一定期間祈念をしてから焼き浄めることによって、祈願の成就を願う「祈念符」という用い方もある。例えば山蔭神道の間では、病気平癒、・土地の浄めは勿論、試験合格、良縁引き寄せ、人間関係の改善などさまざまな祈願にあわせた「型代祓い」の秘が伝承されているという。

浄化の道

祓い」の形式は、、科、そして穢れに関する神道の独特な意味論に準拠している。重要なのは、穢れのみならず科もまた、「祓い」によって打ち消すことが可能であるという点である。この点で言えば、神道はキリスト教的な「罪の文脈」とは全く異なる意味論を持っている。神道は、人間の内側にある霊魂は、からの賜物であって、無傷であると考える。人が仮にを犯したとしても、霊魂の髄は無傷なのである。人間の内側にある霊魂はからの賜物と考える神道人間概念は、キリスト教的な意味での「の子」に近しい。しかしキリスト教ではキリストだけが「の子」である。神道では皆が「の子」として位置付けられている。無論、人間がそれ自体として「」である訳ではない。人間の中には、創造神から分け与えられた「直日霊」がある。それはの分霊であって、植物の芽のようなものである。それを育むことによって、最終的には「になる」のが、人間課題となる。

人間は、科や穢れに染まることはあっても、それを反省して浄化することができる。無論、自然成長のままで「」になり得る訳ではない。そのために、「禊ぎ」をはじめとした修行が敢行される。行為それ自体にあるのであって、人それ自体にあるのではない。「禊ぎ」と「祓い」によって、「罪の文脈」は一掃できるのである。

したがって神道は、信仰による救済の約束とも無縁である。神道におけるとは、未熟な魂が行なう過ちである。故に、魂が修練を積めば、その浄化されるのである。神道における浄化とは、キリスト教的宗教における信仰による救済機能的等価物である。

問題解決策:瞑想としての鎮魂

神道意味論によれば、人間は皆「の子」である。我々の内部には、「直日霊」がある。それは、宇宙の創造新である大元霊の分霊である。しかし我々は日常生活の様々な出来事に煩わされて、この「直日霊」を見失ってしまう。心身は鎮まることが無い。これでは「内なる」が姿を現すこともあり得なくなる。ここでいう「直日霊」とは、「真我」とも呼ばれる。「真我」は本来的超越的な存在であるため、迷妄の中にいても厳然として穢れることも無い。しかしこの「真我」の声を、自我は聞くことができない。この声を聴取するためには、「瞑想の清聴」を実践しなければならない。この瞑想に基づいた聴取を、特に「鎮魂」と呼ぶ。この鎮魂によって初めて、自我は、「真我」と矛盾の無い表裏一体の関係となる。それを以って初めて、我々は「人合一」を成し遂げる。

人合一」とは、と人の精神的な融合を意味する。尤もこの概念は、単純に絶対人間とが一つになることを意味するのではない。山蔭基央によれば、「人合一」とは、人間の内奥にある「直日霊」が力強く輝き、その根源たると感覚的に照応し、その光が我が身の全体を満たす至福体験表現した概念なのである。

鎮魂」とは、者の霊を鎮撫する「レクイエム」のことではない。それは単に精神を静かにして坐ることでもない。神道たちは、「鎮魂」を、「禊ぎ」によって心身を浄めるところから始める場合がある。ここでの「鎮魂」は、あくまで神道意味論として把握されなければならない。

神道鎮魂は二つに区別される。正座と安座である。正座は、両脚を揃えて、握り拳二個ほど開け、足の指は重ねる。安座はいわゆる「あぐら」である。いずれにしても推奨されるのは、安定して、快適で、リラックスできる姿勢である。ただし、胸と頸と頭を直立させて、背筋を真っ直ぐ伸ばしていなければならない。このためには尻の下に座布団を二つ折りにして入れておくと良い。眼は微かに開いておき、少し上目遣いにし、瞼の裏から額の中央をるようにする。

「振魂の法」

山蔭基央によれば、山蔭神道では、鎮魂の前段階として、「振魂の」を導入する。この方法では、文字通り「魂を振るう」ことに力点が置かれている。魂を振るうことにより、魂を奮い起こすのである。この方法ではまず、立ち上がるか、安座の姿勢を取る。そして両手を組み、人差し指を伸ばして合わせる。それを胸の前に立てるようにして、肘を開く。そのまま両腕に力を加えていき、軽い振動を与える。神道たちの間では、修行を積んだ者や感応力の高い人間はそれだけで「自動的な運動」を引き起こせるという。この運動の最中は、激しく手が震え出す。それは一種の「憑りの状態」として観察されている。運動はやがて全身に及ぶ。あるいは勝手に跳ね上がること、奇妙な姿勢を作り始めることもあるという。

この激しい運動は長時間持続させる訳ではない。数分で心臓は高鳴り、呼吸は荒くなる。そしてもう続けられないところまで到達した際には、今度は「放心」の状態となる。その際、全身の緊張は一気に緩まるようになる。騒いでいた血も鎮まり、心も落ち着くようになる。この興奮状態と鎮静状態の双方を数回反復していくうちに、全身は発汗し、思考が明快になっていく。そして、この後に深呼吸をすれば、心身が統一状態に導かれるという。

この振動に対して山蔭基央は、記憶の想起と忘却に関わる、ある効果を見出している。激しい興奮から鎮静への落差を利用することで、心の中を発掘することを可能にするのである。それは、心の土壌に穴を開けるということだ。我々の心の中には様々な記憶が層を成して埋め込まれている。それを揺さぶり、穴を開け、次の鎮魂で行なう心の探索の前哨戦とするのである。

無念無想

神道でも呼吸が採用されている。ヨーガ仏教マインドフルネス瞑想でも採用されているような、止息なども採用されている。「鎮魂」における「内なる」との対話は、基本的に「自問自答」の形式を取る。神道は、自らの心の内奥に問い掛けることによって、大いなる英知を持った「内なる」、すなわち「直日霊」からの答えが必ず返ってくると考える。しかし通常、先に顕在化するのは「雑念」である。この雑念が、「内なる」との対話を阻害する。そこで雑念の処理が必要となる。この雑念に対する神道たちの問題意識は、瞑想中に悪魔が囁いてきたという仏陀の伝説とも相通ずる発想である。

山蔭基央は、この雑念を消去する簡単な方法として、次のようなノウハウを紹介している。それは、悪魔に対して、「汝と今の私に、何の関わりがあるのか」と問い掛けることである。悪魔に対して、自身との無関係さを主張するのである。

鎮魂も深い状態に入れば、まさに「無念無想」と呼ばれるような領域に到達し得る。しかし大多数の人々は、一挙にこの状態を成し得る訳ではない。故に神道たちは、まず心を「一念」に統一することを推奨している。心が無駄な雑念に振り回されないように、相応しい言葉を反復的に詠唱することによって、心を統一するのである。仏教では「真言陀羅尼」という短い呪文のような句を唱えるが、古神道では「天の数歌」という祝詞を唱える。時計の音や雨だれのような単純な反復音を用いて統一を図ることもある。装置が無くても、自分で周囲の雑音の中からそうした反復音を聴取することで、それに集中することもできる。「一念」に集中することが、心の統一可能にする。この「一念」とは、日常生活とは無関係な清浄な念を、一心に思うことである。

様々なやり方で心が統一されると、やがてふと瞬間、それが一秒間であれ、「無念無想」の境地が拓ける。「無念無想」とは、何も思わず感じないということではない。清明で何処までも透明で、しかも無限の叡智に充ちた領域である。如何に短い瞬間であっても、永遠に破滅しない清明界に触れることができるという。しかも、その一秒間に宇宙の全てがあるかのように感じられるのだという。

人合一」を成し得る上で最も重要なのは、人格が陶冶されているか否かである。この条件が満たされていなければ、如何なる神秘体験も霊能力も無意味である。この条件を満たすには、奉仕の生活への転換が必要となる。ここでいう奉仕とは、他人への奉仕を通じて自己科の消滅を求めるキリスト教的な奉仕とは異なる概念である。神道における奉仕とは、「」の如き存在となるために、「」の御心、御行ないを見習っていくということである。そしてまた、それは見えざる「」の働きに奉仕するという意味も持つ。

派生問題:古代律令制は如何にして可能になったのか

このように、神道仏教の間には、差異もあれば、類似性もある。例えば鎮魂の修行は、仏教におけるマインドフルネス瞑想の修行と酷似している。だが「禊ぎ」と「祓い」の区別をはじめとした諸々の意味論は、仏教には無い意味論だ。特に強調しておかなければならないのは、神道における神話の伝承というコミュニケーション形式が、そもそも仏教とは無縁であったという点である。

仏教の創始者である釈迦は、インド古来の伝承体系である神話や魔術や民間信仰否定する立場を取っていた。仏陀は、神話の伝承に準拠していた訳ではない。真理としての目覚めた人物こそが仏陀である。したがって、神道の伝承文化が記述してきた意味論仏教意味論との間には、本来接点は無いはずである。しかしそう視えるのは、双方の意味論だけを観察しているためだ。社会構造意味論の関連を観察すれば、神道仏教意味論上の接点も明らかとなる。

日本に仏教が根付き始めたのは、飛鳥時代の出来事である。古墳時代後半、都は三輪山周辺や飛鳥に位置していた。特に6世紀後半から藤原京が造営された7世紀後半ごろまでを飛鳥時代を呼ぶのは、天皇の住まいが飛鳥の地方に集中していたためである。538年に仏教が百済から伝来した後、物部氏と蘇我氏との間で、排仏・崇仏論争が勃発した。そして蘇我氏が勝利を収め、仏教が国政に大胆に採用されるようになった。

それ以来、日本には多数の「々」や「仏」が併存することとなった。それらは共に信仰の対象となった。こうした日本の特徴は、やがて「神仏習合」と呼ばれることになった。しかし、「神仏習合」という概念それ自体は、中国に由来する意味論である。この意味論だけでは、日本そのものの状況を中国や他のアジア諸国から区別できなくなる。重要なのは、他国から渡来した宗教影響を受けている日本の宗教が、他国の宗教との差異如何にして構成してきたのかである。中国大陸や朝鮮半島、日本列島に住まう人々が抱いていた信仰の原初形態は、自然界のあらゆる事物や森羅万象の全てを霊的な存在として認識するアニミズム的な形態である。アニミズムとは、欧米やイスラム諸国を含め、原始社会の各地で共通して見受けられた信仰形態であった。

問題は、日本列島に住まう日本人がこの歴史意味論如何にして伝承し続けたのかである。それを知るには、伝承を可能にしてきたコミュニケーション観察しなければならない。その伝承のコミュニケーションは、中国大陸や朝鮮半島のそれとは異なる様相を呈しているはずである。そしてその差異は、まさに「々」や「仏」の区別や「神道」と「仏教」の区別を反映させているはずである。日本と他国の差異を記述する上で重要となるのは、日本にのみ存在して、他の諸国には無い主題である。例えば神社という施設や信仰という信仰形態は、「類似性」ばかりに過敏に反応しがちな「日ユ同祖論」を抜きにすれば、日本に固有の主題として認められる。祇とは、天と地祓の略で、天から降りたや、もともと在地にあったを指す。こうした々を祀るのが信仰である。

社会構造意味論観点かられば、神道の成立時期や成立過程を観察するだけでは、神道に関わる社会構造意味論が、その後に何度か大きく変化していたことを見落としてしまう。日本列島の歴史意味論変異は、日本列島の社会構造の変動によって方向付けられてきた。表面的に考えてても、ユーラシア大陸と海を隔てて位置するという地理的な条件や縄文時代以来の日本列島独自の文化歴史を培ってきたという歴史的な経緯を考慮するなら、確かに諸外国による影響に対する日本の反応には一種のナショナリズムが含まれていたとも考えられる。だが事はそう単純ではない。神社信仰のような日本独自の宗教的コミュニケーションの特異は、まさにこの意味論社会構造の特異を反映させている。したがって、日本の神道を理解するには、日本史上における社会構造意味論の変化と関わらせながら、神社信仰に生じてきた「社会進化」を観察していかなければならない。

問題解決策:規範的な期待と認知的な期待の区別

社会システムがその社会構造変異させる場合、そのコミュニケーションは、新しい意味論主題意味処理規則学習していく傾向を示す。この社会構造変異質を分析する上で、等価機能主義的な社会システム理論は、「規範的な期待(Normative Erwartungen)」と「認知的な期待(Kognitive Erwartungen)」の区別を導入している。

規範的な期待は、所与の期待期待外れに終わったという事実を隠蔽する機能を持つ。それは期待それ自体を一般化させることによって、その期待期待外れに終わる可能性を些末な問題として捨象するのである。例えば、教師権威規範的に期待している生徒は、その教師の授業が期待外れでも、その教師権威期待し続けることができるだろう。規範的に期待されている秩序や規則は、しばしば反事実的に安定化している。

一方、これに対して認知的な期待は、期待外れとなった期待それ自体を隠蔽する。それと同時に、新たな対象への期待構成する。それは外部言及の対象を変更することで、しばしばシステムに方針転換や学習を促す。例えば期待外れ教師を垣間見た生徒は、その教師の授業ではなく予備校の講師に期待することができるだろう。こうして外部言及の方向転換を促すのが、認知的な期待なのである。

端的に言えば、規範的な期待システム学習しない傾向を指し示すのに対して、認知的な期待システム学習する傾向を指し示している。学習するか否かの選択が問われるのは、システムが一貫を欠いた出来事を体験した場合である。ある体験期待と一致しなかった場合、システムはその事実を受け入れて、自身の期待を変更することができる。だが一方でシステムは、逆にその体験自体を逸脱的な出来事、稀な例外、誤った選択として片付けることもできる。こうした体験は、日常茶飯事である。期待を変更するか否かという問題は、日常生活でも十分に起こり得る出来事である。

システムは、もし体験期待が一致しなかった場合に、規範的な期待認知的な期待のどちらを優先するのかについて、予め態度を決めておくこともできる。認知期待区別存在と当為の区別は、こうした態度の選択に対して意味処理規則を提供し得る。これらの意味形式を用いることで、システム認知的な期待規範的な期待区別する。システムは、期待外れが生じた場合に期待を変更するか否かを予め決めておくことで、自身を拘束することも可能にする。

システムは、こうした期待意味論に準拠することで、期待期待構成することを可能にする。すなわち、システム規範的な期待認知的に期待することも、認知的な期待規範的に期待することも可能にしている。期待期待は、再帰的な期待である。通常の期待は決して再帰的にならない。再帰的な期待は、認知的な期待規範的な期待の間での選択が問題になる場合にのみ、引き起こされる。再帰性とは、言わば一次的な期待の水準で選択が迫られることに依存しているのである。

問題解決策:環節的な分化と階層的な分化の区別

6世紀ごろに日本に伝来した仏教は、当初蘇我氏をはじめとした有力氏族によって受容された。寺院も各氏族の氏寺的な性格が濃厚で会った。そうした最中、天皇は大化の改新を契機として、それまでの豪族連合政権的な政治システムを解体して、中央集権的な国家体制を構築しようという志向を強めた。そしてその目的を達成するために、中国から律令制を輸入した。これにより、皇権の強化を制度化しようとしたのだ。この社会構造変異はやがて天武・持統期を経て、一応の完成を見た。

この社会構造変異は、日本列島における社会構造分化形態が「環節的(Segmentäre)」な分化から「階層(Hierarchische)」による分化へと社会進化したことを意味する。既存の社会構造観点かられば、社会進化は「破局(Katastrophe)」として認識される。しかし社会構造と関連付いている意味論は、しばしばこうした飛躍を「埋め合わせ(Kompensation)」する形式として機能する社会構造意味論の関連を観察すれば、一見無秩序で急進的な現象であるかのように思える社会進化に対しても、その観察と記述に徹することができるようになる。

意味論との関連で言えば、確かに古代律令制の導入による社会構造の階層的な分化は、全くの急進的な現象という訳ではなかった。国家形成は、稲作農耕の発展に伴う1世紀ごろの階級関係の発生を踏まえて、3世紀の邪馬台国の時代から徐々にその準備が進められていた。そして、古墳時代を通じて、その動きは一層加速した。しかし、こうした日本列島における自然発生的な国家形成とは別に、中国大陸における隋や唐の帝国の成立が、東アジアの情勢に決定的な影響を与えた。と言うのもこれらの帝国は、既に日本列島をも勢力範囲に含めようとしていたためである。

中国では既に、中央集権的な国家体制が整備されていた。そこには皇帝を中心とする中央集権的な国家権力機構と、それを支える高度に体系化された法システムが作動していた。当時の日本列島における「倭」では、既に6世紀ごろから、百済経由でこの中国の文明を部分的に導入することができていた。しかし、唐帝国の支配的な影響力に対抗するためには、中国の律令制に匹する国家の基盤を構築しなければならなかった。倭の存続のために、天武天皇から持統天皇の時期に改めて中国から律令制を体系的に導入することで、一挙に国家という組織システムが構築されることとなった。この「対中国」の動きが、日本列島における最初の本格的な国家の成立へと結実した。それこそ、「日本」の誕生の瞬間の出来事でもあった。

問題解決策:「皇帝」と「天皇」の区別

「倭」から「日本」への転換は、日本列島最初の国家の成立を象徴すると共に、日本列島における社会構造が環節的な分化から階層的な分化へと展開された社会進化をも象徴している。既存の社会構造破局となれば、その社会構造に方向付けられていた意味論もまた攪乱されることとなる。社会進化とは、それまでの社会構造破局なのであって、「進歩」ではない。社会進化は、連続的発展意味しない。そこには飛躍や競合が生じている。実際、日本列島で導入された古代律令制国家と日本列島の従来的な意味論との間には、まだ隔絶があった。それ故、国家成立後に生じたのは、既存の意味論と新しい社会構造との間の軋轢に対する埋め合わせである。

この埋め合わせによる問題解決策となったのは、中国に由来する律令制を日本の従来の意味論に応じて修正するという「再記述(Umschreibens; redescription)」の取り組みである。その際、意味論の主導的差異となったのは、中国の律令制象徴する「皇帝」と日本の律令制象徴する「天皇」との区別である。つまり、律令制の導入による社会構造の変動に対応するべく、「天皇」の意味論が「再記述」されたのである。その際、「天皇」の意味論機能が変化したことがわかる。つまり、律令制社会構造との関連で言えば、「天皇」の意味論機能は、中国の律令制と日本の律令制差異を確保することにある、という訳だ。

中国の「皇帝」と日本の「天皇」の意味論上の差異は、律令制社会構造に対する立場としても記述できる。中国の「皇帝」が律令制に基づいた頂点に君臨しているのに対して、日本の「天皇」は律令制それ自体を超越する存在として位置付けられている。日本の天皇は、妥当性それ自体に究極的な根拠を与える権威としての地位が与えられた。律令制との関連から言えば、天皇は、行政権や祭祀権を統括する。そうすることで、従来の日本列島に存在していた在地社会律令制との断絶を埋め合わせるメディアとして機能し始めたのである。

中国の国教としての「儒教」

石平は、日本思想と中華思想の比較観点から、同様の分析を展開している。中国の思想史は、とりわけ紀元前5世紀から紀元前3世紀にかけての春秋末期と戦国時代において、いわゆる「諸子百」と呼ばれる思想によって、「儒教」や「道教」として活発に記述されるようになった。しかし紀元前206年から始まる前漢王朝時代になる、「皇帝」の政治権力儒教だけを国家のイデオロギーとして祭り上げた。「儒教」だけが、中国の国教となったのである。それ以来2000数年の間、「儒教」の思想はほぼ例外なく支配的な地位を保持した。

儒教」の意味論機能は、「皇帝」の権力の後ろ盾として、「皇帝」の存在を正統化することにある。それは言わば「御用思想」として利用されるようになった。しかし厳密に言えば、「儒教」の意味論それ自体に、最初から政治権力を正統化する性格が兼ね備えられていたからこそ、儒教の思想は漢王朝の「皇帝」によって積極的に活用されるに至ったのである。

政治権力の正統化機能を兼ね備えた「儒教」の意味論は、「天命思想」として記述されている。この思想の世界では、「天」なるものが、森羅万象の絶対的な支配者として君臨している。それは自然界における「天空」であると共に、キリスト教圏における「」に相当する概念である。これに対し、人間世界は「天下」と呼ばれる。「天下」は常に「天」の支配下に置かれ、「天」に監視されている。

ただし、「天」は沈黙の支配者であって、自らの意思は何も語らない。「天」が「天下」を支配する場合、「天下」の人間の誰かを「天子」として選定し、その者に支配権を委譲する。そうして「天」の命を受けて「天下」を支配する者が、「皇帝」となる。「天子」に選ばれ、天命を下された者が、すなわち「皇帝」となるのである。委譲された支配権は、「皇帝」だけに限らず、その子孫にも受け継がれていくという。

こうして「天命思想」は、「皇帝」を「天子」として記述することで、その政治権力の正統化を企てている。しかし、「天」は「皇帝」による支配権の委譲に必ずしも賛成する訳ではない。その子孫に素質が無ければ、「天」はいつでも自らで「天子」を選び直すという。

「天」が支配権を握る「皇帝」に反し、その「天命」を別の人間に委譲した場合、「皇帝」は「天子」の資格を剥奪されることになる。中国における「革命」とは本来、この「皇帝」から「天命」を剥奪することを意味した。無論、そうした「革命」は、乱れた「天下」で、何者かが反乱を起こし、前王朝を潰すことで、新王朝を樹立するという手続きを踏む。

だが「天明思想」は、こうした中国の社会構造破局的な激変を、「天」の意思による「易姓革命」の実現として記述する。この「儒教」の意味論機能する限り、中国国内で如何に残酷な社会的動乱や内戦が発生しようとも、それは「天」の意思として再記述されるのである。

したがって「天明」を主題とする「儒教」の意味論は、一方では「皇帝」の政治権力の正統化を担うものの、他方では「皇帝」の政治権力の剥奪と権力者の交代が如何にして可能になっているのかを説明する意味処理規則でもある。このイデオロギーの支配下では、王朝と「皇帝」の権力は「天命」によって保証される。だが同時に、まさに「天命」そのものが、「易姓革命」を正当化しているのである。中国では、「皇帝」による人民の絶対的な支配が政治の基本原理となる一方で、同様に新しい「皇帝」の支配権を樹立する「易姓革命」もまた、政治の基本原理と化しているのである。

「天子」の相対化

石平が着目しているように、儒教仏教が日本に伝来されたのは、ほぼ同時期の5世紀から6世紀に掛けてのことである。儒教は確かに、当初大和朝廷の為政者たちや知識人階層の間で受容されている。604年には、聖徳太子によって、大和朝廷の官僚たちの心得となる「憲法十七条」が制定された。例えば四条の「礼を以て本とせよ」や九条の「信は是義の本なり」などのように、条文では儒教思想の徳目が言及されている。この時代、儒教思想は確かに大和朝廷における官僚教育主題となっていたのである。

しかし、古代日本における儒教の受容は、官僚の世界に限定されている。それは日本社会全体に広がる思想などではなかった。石平はこの関連から、大和朝廷が儒教思想を官僚養成の教育内容として採用しておきながらも、中国式の官僚制度の中核の一つである科拳制度を決して導入しようとしなかった点を取り上げている。それは隋の時代以来、中国における官僚制度の根幹を成していた。この制度では、儒教思想に関するペーパーテストによって官僚が選抜されていた。言わば儒教は、エリート教育の主要カリキュラムであったのだ。だが日本の大和朝廷は、中国から律令制を輸入していながらも、中国で既に確立されていた科拳制度は受容しなかった。その結果儒教が日本の支配的なイデオロギーとなることもあり得なかったのだ。

当時の大和朝廷は、儒教よりも仏教を積極的に受容していた。しかし、当時の日本には既に神道に由来した思想が存在していた。単に「天皇」の統治を正統化する上では、「仏」の思想に頼らずとも、「々」の形式を援用するだけで事足りていたとも考えられる。

しかし、そうであるにも拘らず、日本が仏教を積極的に採用したのは、日本における「天皇」と中国における「皇帝」の差異をより明確化するためであった。当時の大和朝廷は、中国の帝国からの圧力に対して、国家の独立が如何にして可能になるのかという政治的な問題設定に取り組んでいた。儒教思想を「憲法十七条」に取り入れた聖徳太子が、一方であれほどまでに仏教の振興に心であったのは、彼自身が中華帝国に対する日本の独立保持に注力していた政治の一人であったためだ。

聖徳太子の政治戦略においても、「天皇」と「皇帝」の区別が導入されている。周知のように、大和朝廷は600年に初めて隋王朝に使者を派遣した。そして607年、小野妹子を国史として隋王朝に遣わした。だがここで外交問題が生じる。推古天皇から小野妹子を介して隋の煬帝に宛てた国書には、「日出づる処の天子、書を日没するところの天子に致す、恙なきや」と記述されていた。これが、隋朝の第二代「皇帝」たる煬帝を激怒させた。と言うのも、儒教世界を自明視している中国人にとっては、「天子」は、この「天下」においてはただ一人、中国の「皇帝」以外に存在してはならないためだ。

皇帝」の政治権力の相対化へと向けられる聖徳太子の政治戦略は、当時の大和朝廷が儒教よりも仏教を積極的に受容していた理由も明らかにしている。国書を携えて隋王朝を訪れた小野妹子は、冒頭の挨拶において、隋の文帝と煬帝という二代の「皇帝」が、共に仏教の振興に心であったことに触れている。これは、暗に日本使節が中華帝国の軍門に下るつもりが無いということを告げている。中華王朝にとって、「天下」の中心に立つのは「皇帝」に他ならない。日本を含めた他の周辺国は、皆中華文明の「教化」を求めてくるというのが、中華帝国有史以来の正統念であった。しかし日本使節は、「皇帝」や中華文明そのものではなく、あくまでもインドに由来する仏教を訪問理由とすることで、この正統念を破ったのである。

機能的等価物の探索:「寺院」と「神社」の区別

当時の大和朝廷にとって、仏教は中華帝国の「皇帝」が準拠する儒教との差異を確保するために機能していた。しかし煬帝らが仏教の振興に心であったことからもわかるように、中国の律令制仏教とも親縁な関係にある。したがって、儒学仏教区別を導入することは、日本の「天皇」の側から中国の「皇帝」を牽制することはできても、日本版の律令制と中国版の律令制差異の確保を厳密に成し得る訳ではない。

皇帝」と「天皇」の区別は、律令制と従来の日本列島の社会システムとの断絶を埋め合わせると共に、中国の律令制との差異を確保するための意味論である。律令制の導入そのものが天武天皇によって駆動されていたとすれば、「天皇」の意味論のこの「再記述」は、早くから始まっていた天皇による天皇に対する「自己記述」であった。こうして自己言及があり得ていたということは、外部言及もあり得ていたと考えなければならない。と言うのも自己言及は、外部言及との差異を確保することで可能になるためである。

この関連からその一例として挙げられるのが、「神社」である。「神社」は、従来の日本列島の社会構造に関連付いていた神道意味論に準拠することで、仏教意味論に準拠している「寺院」との差異を確保する形式として機能していた。当時の中国社会における仏教の位置付けをれば、この「寺院」と「神社」の区別が、「皇帝」と「天皇」の区別機能的等価物であることがわかる。

中国の律令制仏教と親縁な関係にある。仏教はインドで生まれた。だが中央アジアを経て中国に伝来されると、その意味論は大きく変異した。その際、シルクロードでローマ文明の影響を受けつつ、インドには無かった仏像や寺院が創出されるようになった。また、中国の儒教や道教との習合関係によって、中国に固有の意味論も育んだ。中国では儒教、道教、仏教が相互補完的な形で機能していた。しかし、この中で体系的に日本に伝来されたのは、仏教のみである。儒教律令制理論的な基盤を成した。だがそれは宗教というよりは政治思想として位置付けられていた。宗教として機能していたのは、道教と仏教である。世界規模の帝国を謳う唐という国家にとって、壮大な宇宙展開する仏教の思想は、律令制による支配を正統化する上では、道教よりも有用であった。また仏教は、そもそも6世紀ごろには百済経由で日本に伝来していたとされる。仏教が積極的に律令制と共に伝来されたのは、こうした歴史背景から大まかな説明が付く。

仏教寺院は、当時の中国の象徴的存在であった。それ故に、中国の「皇帝」から区別される「天皇」の意味論は、中国版の律令制との差異を確保するだけに留めず、その象徴たる仏教寺院との差異も確保しなければならなくなった。つまり、仏教寺院から区別される宗教施設が要求されたのである。神社という宗教施設は、まさにこの「天皇」の意味論による埋め合わせの機能として実装されるようになったのである。

現代の視点かられば、神社寺院差異は、一見して曖昧である。確かに、双方を区別する標となるのは、鳥居、注連縄、鏡、あるいは白幣程度である。だが、仏教寺院が鎮守や護として神社を併設している場所もある。神社の建築様式も多種多様だ。目印となる千木や鰹木の無い様式も多い。こうして神社寺院が曖昧化する傾向にあるのは、神社歴史的に寺院に追従する形で建設され始めたことの表れでもある。中世の日本社会では特に、「神仏習合」の時代の影響から、神社寺院は建築上の類似性を避けられなかった。

埋め合わせとしての神道

神社寺院を追従する形で生み出されたとなれば、神社という概念は、律令制が導入された後に構成されたことになる。だがその理念には前史があった。つまり、律令制が成立する以前に存在していた「ヤシロ」、「ミヤ」、「モリ」、「ホコラ」などのような祭祀施設の概念との深縁を有しているのだ。しかしながら、律令制の導入による社会構造社会進化は、本来急進的な破局として生起している。故に、律令制以前のこれらの祭祀施設とその後の神社との間には、本来連続性は無い。しかし、その空白を埋め合わせるために機能したのが、神道意味論である。

形式的に言えば、神社とは、常設の殿を持つ宗教施設を意味する。常時そこに祭が鎮座している。神社では、こうした信仰の対象とすることで、様々な祭礼や儀礼展開される。こうした恒常的な殿を持つ施設こそが神社である。神社が成立する以前の神道たちは、精霊のような「々」が、人間にとって不可視存在であると考えていた。したがって、祭礼や儀礼のたびに、例えば依代への憑依させることで、を招き降ろす必要があった。これは、アニミズム的な信仰形態においては、「」が遍在するという想定に立つためである。「」は元来、何処か一定の場所に留まる訳ではない。

これに対して、神社成立後においては、祭が常時本殿に鎮座する存在として認識されている。つまり「」は遍在している訳ではないのである。これは、従来の神道たちの認識からは明確に区別されると同時に、本尊を祀ることでそれを信仰の対象とする仏教寺院と同類の信仰形態となる。この偶像崇拝的な信仰形態は、自然発生した訳ではない。それは社会構造の変動によって方向付けられた人為的な政策による現象である。実際、681年から始まる律令政府は、何度も神社を造営するように命じている。神社という施設は、律令政府の国家的な政策によって運営されていたのである。

と地祓の々を祀る神社を造営せよというのが、天武天皇の命令であった。これが天皇による外部言及である。つまり、天皇の命令によって造営された常設殿を持つ施設が、成立期の神社であった。神社は当初から、国家の管理と保護の枠組みで育まれた人工物に他ならなかった。神社は日本国家の成立と「天皇」の意味論歴史的に不可分の関係にある。神社国家宗教施設として成立していたのである。

盲点としての神道

律令制の導入と「天皇」の意味論の「再記述」は、日本の神仏習合の起点にもなっていた。神仏習合とは、と仏、神社寺院が融合して一体化することを指す。したがって神仏習合神社の成立という現象から区別される。だが、中国の「皇帝」支配に基づく律令制象徴していたのが仏教で、それに対抗する象徴として神社が設立され始めたことを踏まえるなら、既に日本版の律令制が導入された時点で、仏教神道区別が導入されていたことになる。区別するということは、双方を同時的に指し示すということでもある。日本に律令制が導入された時点で、既に仏教神道差異構成されていたのである。

尤も、神社仏教寺院に対する形式として導入された点も、見逃してはならない。形式として導入されたということは、その外部があるということである。神道仏教区別を導入するということは、その排除された第三項が潜在化しているということでもある。その第三項として潜在化しているのは、神道仏教区別が導入される以前の神道である。神社という常設殿にはが鎮座していると想定されているにも拘らず、依然として神道たちは、「」は不可視であるという想定を棄て切らなかった。祭礼のたびに楽などによって「」を招き降ろすための儀礼が必要とされているのは、このためである。

律令制の成立に伴って成立した神社は、確かにそれ以前とは大きく異なる。しかし、人々の「々」との具体的な関わり方、あるいはその信仰内容観点かられば、そこには連続性もある。祭を祀るための常設殿が設けられ、常時ここに「」が鎮座するとされるにも拘わらず、依然として「」は不可視存在とされている。祭礼のたびに楽などによって「」を招き降ろすための儀礼が必要とされた点は、最もわかり易い事例となっている。

問題解決策:記紀神話

古代律令制社会構造においては、「天皇」が超越的な存在として期待されている。この期待規範的な期待として形式化するためには、「天皇」の権力を正統化しなければならない。記紀神話意味論は、この正統化の意味処理規則としても機能していた。天皇の祖先である天照大御神をはじめとする天皇神話上の「々」が、天地祓として神社の祭とされたことにより、神社という宗教施設それ自体が天皇神話と一体的な関係にあるものとされたのである。

記紀神話は、高天原から天降りしてきた天つの子孫、すなわち天皇の先祖の物語である。その先祖たちは、「葦原中国」や「豊葦原瑞穂国」と呼ばれる日本を統治する使命を担った。そして、様々な困難に直面しながらも、部族間の闘争と絆の締結を果たすことで、日本統治を果たしていくのである。そのため、これらの神話群は、個々の部族や氏族によって伝承されてきた部族神話とは異なり、統合された国家神話として叙述されている。そこには古代の大和朝廷の政治的な理念、すなわち政治神学が含まれている。

その国家政治神学主題は、国家形成如何にして可能になったのかという「国生み」の神話から始まる。そして誕生した国家が如何に配分されたのかを叙述する三貴子分治神話や天岩戸神話叙述される。また、土地が如何に開発されたのかを叙述する出雲神話へと接続され、統治の約束が如何にして可能になったのかを示す「国譲り」の神話叙述されている。いわゆる「天孫降臨神話」は、これらの神話背景としている。この神話は、「日向神話」や「武東征伝承」と同様に、日本国家の支配が如何にして可能になったのかを叙述している。

だが「天孫降臨神話」そのものが強調しているのは、「」の人格化が如何にして可能になったのかである。と言うのも、元来日本人は、先祖を「」として捉えてきたためである。地域によっては、邇邇芸命らを天皇として捉える向きもあった。だが国家の公式見解となる『古事記』と『日本書紀』では、天皇が初代天皇となる。したがって、天照大御神から天皇に至るまでの系譜の中で、邇邇芸命は人間の中間に位置付けられることになる。が人へと急変した訳ではない。その人格化には過程があった。それを物語として記述したのが「天孫降臨神話」である。言わばこの神話は、人間の埋め合わせを担っている。天皇人格化を果たした初めての天皇である。ただし重要なのは、これを神話として信仰することではない。あくまでもこの神話が指し示しているのは、「先祖を敬え」という規範的な期待なのである。

これを前提とすれば、「天皇を敬え」という正統化の意味処理規則は、「先祖を敬え」という規範的な期待背景としていることがわかる。「天皇」の正統化の意味処理規則は、先祖の正統化の意味処理規則なのである。それ故、天皇構成には、「」が含まれることになる。例えば初代天皇とされる天皇の皇后は、比売多多良伊須気余理比売あるいは富登多多良伊須須岐比売命という。比売多多良伊須気余理比売は国つの代表である大国主の奇魂・幸魂とされる大物主の娘であった。大物主は古代日本の首都となった大和の土着の代表的なである。初代天皇は、その人間の娘との間に生まれた「の子」であると同時に「半半人」である娘を初代皇后として迎えたのである。

天皇が大和のの娘を妻に迎えることによって、古代日本の国家政治的にも宗教的にも正統化することが可能になった。天皇は「天」のの子孫であった。その「天」のの子孫が「地」のの子孫と結ばれることで、天と地を統合を象徴したのである。

『古事記』と『日本書紀』の差異

古事記』と『日本書紀』で叙述されている神話は、「記紀神話」として総称されている。だがこの二つの神話は、その伝承の内容に大きな差異がある。『古事記』が主題としているのは、神話や英雄伝説である。特に古代の伝説を叙述した「旧辞」と天皇の事績を記述した「帝紀」に焦点が当てられている。これらの主題は、稗田阿礼が口承で伝承していた内容を太安万侶が纏め上げたとされている。

古事記』の物語は、伝承が強く、一貫も強い。上巻、中巻、下巻に分かれ、最後は推古天皇の世の帝紀で終わる。一方『日本書紀』は、日本の公式文書である。中国や朝鮮半島のような東アジア情勢を意識して記述された日本最初の公式文書なのである。それ故、「日本」という国柄を強く意識して記述されている。『日本書紀』は「日本」の成り立ちと現代への展開に焦点が当てられている。全体は三十巻に分かれ、巻第一と巻第二は、「代 上・下」となっている。最終巻の巻第三十は、女帝持統天皇の事績で終わっている。

古事記』と『日本書紀』の冒頭では、それぞれ宇宙開闢のが言及されている。しかしそのの名は異なる。『古事記』に登場するは、天の中心のを表わす「天之御中主」であるのに対して、『日本書紀』に登場するは、国の中心のを表わす「国常立尊」である。『古事記』と『日本書紀』の間では、これらの中心に位置付けられる以外にも、冒頭に登場してくる様々な々に大きな差異が生じている。『古事記』の冒頭では、「天地初発」の時、「高天原」に、天之御中主、高御産巣日産巣日の三柱の々が、「独・隠身」として発現している。これに対し、『日本書紀』冒頭の「本文」では、「天地末剖」と「陰陽不分」の時に、国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊の三柱の聖が発現している。『古事記』の々が「主」となっているに対して、『日本書紀』の々は「尊」となっている。

古事記』の最後に記録されている天皇が推古天皇であるのに対して、『日本書紀』の最後に記録されているのは、持統天皇である。ここにも象徴的差異がある。「推古」は、文字通り、古代を推し量る意味を有している。一方「持統」には、代から現代までの持続統一性という意味がある。

自然史としての『古事記』

古事記』と『日本書紀』の間には、記述形式上の差異もある。『日本書紀』には、「一書に曰く」という記述形式で、複数の伝承が記載されている。一方、『古事記』には、このような記述形式は採用されていない。『古事記』は712年に太安万侶によって献上された。それ以来、この書物は現存する日本最古の歴史書として認識されている。『古事記』は釈迦の経典と同じように、真理を説くために記述された書物ではない。『古事記』が記述されたのは、島根県の出雲大社で祀られている大国主、愛知県の宮に祀られている草薙剣、三重県の伊勢宮に祀られている天照大御神や八咫鏡などのように、日本各地でそれぞれ広まっていた旧い伝承を物語として体系的に纏め上げるためであった。それは新たに創られた物語なのではない。とはいえ、『古事記』には真理が全く叙述されていない訳ではない。「これが真理だ」と直接的に強調することなく、自然体で描かれているのである。『古事記』に叙述されている真理とは、日本人が縄文時代から育み体感してきた、言うなれば自然史である。

天孫降臨神話」に象徴されるように、『古事記』では、初めに先祖を大切にするという信仰心や慣習があり、そこから物語叙述されている。『古事記』で叙述される天照大御神は、々の住む高天原の統治者である。太陽光は地球上全ての生き物のエネルギー源であると捉えられる。植物は光合成によって生き、その植物を食べることで動物が生きる。『古事記』が叙述しているのは、人間は結局、自然の中で「生かされている」のである。今でこそ近代科学の発展によって知ることのできていることでも、『古事記』をはじめとする宗教的意味論では、太陽を生命の源と考えていたのである。

このことは、天照大御神物語の随所によく表れている。天照大御神の弟である須佐之男命が高天原で乱暴を働くと、困った天照大御神は天岩戸に引き籠ってしまう。それにより、世界は闇に包まれ、様々な厄災が起きる。々は何とかしようとし、天宇受売名が岩戸の前で踊ると皆が大笑いする。外を見ようとした天照大御神を皆で外に引き摺り出し、世界に光が戻った。天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗くなると皆が困ったというのは、単に暗くなったためではない。それは、太陽が存在し無くなれば、生命の源が無くなってしまうためなのである。

その後、須佐之男命が高天原を追われて地上に降りた時、食物を司る女である大宜都比売に出逢うことになる。須佐之男命が食物を求めると、大宜都比売は、鼻や口や尻から食材を出し、それを料理して差し出した。須佐之男命はこれを見て激怒し、この女を切り殺してしまう。すると大宜都比売体から五穀が生じて、これが地上世界にもたらされる。鼻や口や尻から出る物質には、排泄物が含まれる。これは日本人が古代の時代において既に、食べ物を食べればやがては排泄物になり、その排泄物が食物を育てて、その食物を食べてまた排泄するという生命の循環構造を理解していたことを示している。

長らく西洋では、排泄物は廃棄物に過ぎなかった。「便」に霊など宿るはずはない。「厠」では聖なるものが顕現することもあり得ないとされた。一方、『古事記』には「厠」が何度も登場する。古代の日本人は、「厠」を聖視し、人間が結び付く場所として考えていたのだ。光合成や発酵や分解などといった科学的な知識が無くても、便が畑の肥料になることを知っていたのである。

『日本書紀』の多元視点

本居宣長は『古事記』の理念に大和魂を見出していた。『古事記』には高天原と天照大御神聖視する政治神学がある。一方『日本書紀』では、「本文」と「一書曰」が並列されている。そのため、『古事記』が有するような学的な一貫は損なわれている。多種多様な異伝を内包した『日本書紀』の全体像は複合性が高い。もし単に『日本書紀』が権力的なイデオロギーとして参照されていたとするなら、冒頭から読者を混乱させるような文書構成はむしろ不合理とすら思える。しかしこの多元視点的な記述形式は、むしろ日本古来の八百万の々の複合性可能な限りそれ自体として反映しようとする理念表現でもある。日本国家の「正史」は、一貫ではなく多元を重視した上で叙述されていたのである。

記紀神話に登場する多種多様な「々」の意味論は、神道意味論と無縁ではなかった。様々な「々」の中には、海や山、雷や地震などのような自然物や自然現象を対象とする自然もいれば、蛇や猪や鹿などのような動物を対象とする動物もいる。植物を対象とする植物もいた。あるいは英雄的存在を対象とした人間もいる。とは万物を万物たらしめ、それに命を吹き込む力の根源、生命力と創造根源とその諸相を指し示している。

律令制が導入された直後から、日本の階層的な分化は、記紀神話象徴される宗教によって規定されるようになった。天皇の祖先とされる天照大御神を祀る伊勢宮は別格の権威となる一方で、その周辺には、全国の神社を宮弊社と国弊社、更にそのそれぞれを大社と小社に区別することによって、伊勢宮を中心とする中央集権的な神社制度が導入されたのである。

派生問題:「神仏習合」の根源

律令制の導入前後の差異の埋め合わせとして機能していた「天皇」の意味論や「神道」の意味論は、万能ではなかった。『出雲国風土記』の宮社の中にも、殿を持たない事例が確認されている。したがって、日常的に神社を維持管理する専門の職集団が存在しないというのも、ごく一般的なことであった。宮社新館の宮中の新年祭への参加というのも、実際には当初から多くの困難を抱えていた。政府は再三この祀りに参列するように促さなければならなかった。これは、律令政府が掲げる理念や目標が形式としての導入された「建前」であって、社会構造の実態との間には、まだ実質的に摩擦が残存していたことを言い表している。

律令制の成立に伴う社会構造の変動の中で、租税や兵役などのような中央集権的な階層構造が支配的になると、その過酷な負担に耐えられずに脱落する民衆が散見されるようになった。律令制階層構造は、々の階層構造に対応している。故に、これらの脱落者たちは、彼ら彼女らを支えてきた共同体の々からも見放されることとなった。こうした民衆の苦悩苦痛を前にして、救済観点を有していた仏教徒たちは、これを機に、民衆を救済の対象として観察するようになった。当時こうした仏教徒たちは「私度」と呼ばれていた。律令政府は当初からこの動きを厳罰によって規制していた。しかし、律令制による支配が抱える矛盾解消されることはなかったために、仏教による救済が根絶されることは無かった。私度は次々と登場し、民間での活発な布教活動を展開した。それ故に奈良時代以降、仏教は急速に日本社会の中に浸透していったのである。

こうしてると、かの「神仏習合」の根源現象形態が浮き彫りとなってくる。一方で神社を中心とする神道は、中国版の律令制と日本版の律令制差異を確保すると共に、律令制の導入前後の差異の埋め合わせとして機能していた。だが他方でその中央集権的な階層構造から排除された人々の負担を軽減するために、仏教救済策として導入されるようになった。つまり仏教は、神道に準拠した国家形成の派生問題に対する問題解決策として機能していたのである。

ただしここでいう奈良時代以降の仏教は、もはや中国版の仏教から区別される。私度による仏教は、まさに日本列島の社会構造によって方向付けられた日本版の仏教意味論を記述するようになったのである。この時点の仏教は、もはや律令国家を飾るための儀礼装置という範疇から逸脱している。仏教意味論は、教義や思想として、日本の社会構造を方向付けるようにもなった。無論、神道仏教差異は、この時点でも顕在化したままである。伝統的なカミ祭りとしての信仰は、仏教教義とは明確に区別される。双方の信仰内容はむしろ競合している。まさにこの矛盾した関係こそが、「神仏習合」の根源なのである。

少なからず「神仏習合」の根源現象が生起した以降の仏教は、もはや中国版の仏教とは異なる新しい信仰形態を有し始めた。鎮護国家などのような世俗化されている仏教とも区別される、本来の仏教の修行のために、寺院や世俗社会から遠く離れた深山などに入って修行に励む山林修行者が多数登場した。後にいわゆる「修験道」と呼ばれる新しい信仰形態も、この時期に成立したと言われている。直接的な始祖とされるのは、奈良時代に活躍した役小角であるとされている。

問題解決策:「神宮寺」と「神社」の区別

神仏習合」は「」と「仏」、「神道」と「仏教」の同一化を意味するのではない。むしろ「」と「仏」の区別や「神道」と「仏教」の区別が導入されているからこそ、そしてその差異が顕在化しているからこそ、その習合が可能になったのである。とはいえ、「神道」と「仏教」の同一性を主張する「神仏習合」の象徴が無いという訳でもない。「神宮寺」と呼ばれる神社に付設された寺院が登場したのである。それと共に、仏教や私度などとの関連から、非宮社でありながら、大きな霊力と宗教勢力を誇る神社が登場してきた。宇佐宮から勧請された石清水八幡宮や陸奥国の塩釜神社などがその例である。

こうした神宮寺は、日本の々を宥め癒すために、神社に隣接して建設された。は煩悩にしむ衆生の一人として、仏教救済を求めていると信じられていたのである。ただしこの場合、主役はあくまでも神社に祀られたであった。寺院はまだ、を慰めるための付随的な施設に過ぎなかった。

これに対して、平安時代後半になると、神宮寺神社との力関係が逆転するようになる。王城鎮守として名高い格式を有した石清水八幡宮では、もともとこの付随寺院としての神宮寺に過ぎなかった護国寺が逆に神社を支配するようになる。それは九州の弥勒寺と宇佐八幡宮の関係についても同様である。これ以外にも、日吉社と延暦寺、春日社と興福寺の関係にも、逆転が発生している。伊勢宮を除いた大規模な神社の大多数が、寺の傘下に入ることになった。

表面的には仏教を忌避しているように視える宮ですら、鎌倉時代の末には供が置かれた。境内では仏教的な会が実施された。侶の社参が流行し始め、宮の祭儀仏教形式で実施されるようになった。

律令政府では、こうした新興の神社を含め、有力な神社に「名」の称号を与えることで、宮国弊社制と合わせて全国の神社を改めて掌握しようとした。しかしこの統制も機能しなかった。9世紀には神社階制に移行し、それがそれ以降の神社制度の基礎とされるようになった。

かくして「中世」には、どの神社においても、その主導権は侶の手に委ねられた。武の都である鎌倉の中心地となる鶴岡八幡宮を支配したのも、宮ではなく、天台宗と真言宗に由来する侶たちであった。

問題解決策:「顕教」と「密教」の区別

真言宗と天台宗は、9世紀に現れた空海と最澄によって伝来された。彼らは804年に中国を訪れ、当時の中国で最先端であった仏教として繁栄していた二つの宗派を、それを支える多数の仏典や書籍、具などと共に日本に持ち帰った。そして、それぞれ比叡山と高野山に拠点を構えた。

奈良時代における仏教は、仏教は朝廷や貴族をはじめとした上流社会でのみ普及していたために、一般の民衆にとっては縁遠い存在であった。当時は三論、成実、相、倶舎、華厳、の 六宗派から構成された「南都六宗」の侶たちが、国家の保護の下、国家の安泰を祈祷することを主題とした活動を展開していた。しかしその反面、民衆の救済という大乗仏教本来の理念は忘れ去られていた。南都六宗は、当時の政治権力と結託した保守勢力と化していた。空海と最澄の活動は、こうした既存の保守的な仏教に対する挑戦として観察することができる。

空海の『三教指帰』では、儒教、道教、そして仏教の代弁者として登場する三人の架空の人物を設定することで、各宗教理念を主張し合う論戦が描かれている。中国の国家的なイデオロギーである儒教や中国の土着信仰である道教よりも、世界的に受容されている普遍主義的な宗教である仏教が優れていることを指摘する。何故なら、「皇帝」の権力の正統化の意味論として機能してきた儒教や現世利益の追求を目的とする道教に対して、天下の万民の救済を目的とする仏教は「一切衆生」を説くためである。その気高く優れた理念社会的な役割においては、仏教に勝るものはないという訳だ。

最澄もまた、大衆救済理念とする仏教に着目した思想である。彼は中国から帰国した際、比叡山に「大乗戒壇」の建立を朝廷に上奏したものの、南都六宗の反対によって却下されてしまう。「戒壇」とは、尼になる者に戒を授けるための壇である。出家者たちは、ここで戒を受けて初めて正式な尼として認められることになる。それは仏門を志す者たちの通過儀礼形式として意図されていた。最澄がこの戒壇を上奏したのは、当時南都六宗によって独占され煩雑化してしまっていた尼の認定権限を手にし、その制度を簡素化することにより、一般大衆に開かれた制度として再構築するためであった。

空海や最澄の挑戦によって、天台宗と真言宗が日本社会に導入されると、仏教意味論に新しい区別が導入されるようになった。それは、「顕教」と「密教」の区別である。顕教とは、経典などによって可視化された釈迦の訓えを、経典の学習や討論などを通じて学問的に習得しようとする宗派である。日本に従来から存在していた三論、成実、相、倶舎、華厳、の六派は、いずれも顕教に位置付けられている。これに対して密教とは、不可視釈迦の訓えの真理を、修行や瞑想を通じて直観的に会得しようとする宗派である。

天台宗と真言宗は、顕教密教の双方の質を併せ持っている「顕密仏教」として位置付けられている。侶たちは、一方では従来の顕教仏教の経典と共に天台宗と真言宗の経典も学び取ると同時に、他方では密教の修行に励むことが不可欠な課題として考えていた。こうした顕密仏教の成立は、それを実現するための加持祈禱などのような神秘主義的で魔術的な手世界とも関わっている。

先に触れた「修験道」は、この密教仏教と深い関わりを持っている。平安時代の密教が盛んになると、その規模も飛躍的に拡大した。仏教徒たちは積極的に山岳に登り、修行を積んだ。そこで得た魔力や呪力によって、加持祈禱を実施していた。こうして、魔術的な宗教活動を専門とする仏教徒たちが登場したのである。

一方、10世紀以降になると、京都の都市発展によって、貴族社会を中心とした「陰陽道」と呼ばれる新しい宗教活動も発生した。これは、古代中国の陰陽五行思想に基づいて、災禍を説明し、易占などを実施する宗派である。日本版の「陰陽道」は、元々の中国版のそれに対して祓いや祭祀をはじめとした神道にも縁のある儀礼形式を追加することで、日本に固有の宗派として体系化された。

日本版の「陰陽道」の意味論が成立した背景にも、律令制に基づいた日本の社会構造がある。従来まで世俗社会超越した存在であった天皇が世俗社会の中心に位置付けられたことで、それまで世俗社会の中心に位置していた貴族たちは、言わば既得権を喪った。貴族たちは律令制の衰退によって、消極的で保身的に考える傾向を強めていた。「陰陽道」はこうした貴族たちの精神的な負担を軽減する策として機能していたのである。

問題解決策:「天皇」の意味論の「再記述」

南都六宗、修験道、陰陽道などのような様々な仏教の宗派が登場したことから、日本の宗教が異なる儀礼体系の複合体となったと解することもできる。しかし、これらの宗派を儀礼体系で区別するだけでは、それぞれの宗派の意味論社会構造の関連が不明確に留まる。社会構造意味論の関連を解き明かすには、等価機能主義に基づいて、これらの宗派の差異意味論上の差異として記述する必要がある。

実際、もし「天皇」の意味論が9世紀以降も変わらず完璧に機能し続けていたとするなら、中国版の律令制と日本版の律令制差異を確保する機能も失われていなかったはずだ。この古代律令制社会構造と「天皇」の意味論機能が維持されていたのならば、中国に由来した天台宗と真言宗が日本社会に普及することも、ありそうもない現象であったことになる。また、10世紀以降に栄えた「陰陽道」が、貴族中心の社会構造から天皇中心の社会構造へと移り変わったことへの埋め合わせとして発生していたと位置付けられる点も、「天皇」そのものの概念が、歴史的な概念として「再記述」されたことを言い表している。

事実9世紀には、天皇直轄の祭礼が成立している。これは、従来祓宮が中心となって進めていた祭礼に代わって、天皇の内廷官僚が直接天皇の命を受けて神社に奉幣を実施する制度である。天皇直轄の祭礼の成立は、「天皇」と「々」の意味論上の関連も変化させた。律令制成立期の天皇は、天の最も中核に位置する天照大御神直系の子孫として、律令のみならず世俗社会権力超越した絶対的な現人として位置付けられていた。それは先述した通り、世俗的な権力者とされた中国の「皇帝」から日本版の律令制を明確に区別するために「再記述」された「天皇」の意味論に準拠した社会構造に基づいている。祓宮を通じて々に班幣を実施するというのも、そうした天皇超越や絶対を前提とした儀礼に他ならなかった。

しかし、律令制による中央集権的な階層構造による支配が様々な派生問題を生み出したことで、当初掲げられた「天皇」の意味論も、またしても「再記述」せざるを得なくなった。神仏習合根源との関連からもわかるように、「天皇」の意味論機能は、仏の加護によって世俗的な政治システムの安定化を図る機能へと変化せざるを得なかったのである。聖務天皇が東大寺大仏の建立に際して、自らを「三宝の奴」と称したのは、これを象徴する出来事であった。

天皇直轄の祭礼が成立したのは、それが「神社」や「々」を主題とする「天皇」の意味論変異を言い表している。そしてこの意味論変異は、日本の社会構造変異にも対応している。班幣から奉幣、あるいは神社への天皇自ら祭礼する信仰形態の変化として現れたのだ。

しかし裏を返せば、祓宮ではなく天皇直轄の祭礼の成立は、日本版の律令制と中国版の律令制との差異を確保するための従来の「天皇」の意味論機能不全に陥ったことも意味する。これにより、日本版と中国版の差異が曖昧化することになる。天皇直轄の祭礼が言い表しているのは、天皇を中心とした律令制の再編成である。それは、天皇とは律令超越する的な存在であるという天皇自己記述が改められたということでもある。この意味では、この時期の「天皇」の意味論における「天皇」の自己記述は、中国版の「皇帝」の意味論における「皇帝」の自己記述に近付いたとも言える。

しかしこの「天皇」の意味論の「再記述」が、天皇を絶対的な権力者として位置付ける意味論を育むことは無かった。と言うのも、9世紀には既に、律令制の崩壊が始まっていたためである。人民個々人の完全なる人身把握を前提とする律令制支配は、民衆による公田の耕作放棄や逃亡などの抵抗を受けることで、9世紀後半にはいよいよその実施が困難となっていた。そうした状況下で、やがて国家律令制支配の根幹を成していた人別賦課方式を断念する代わりに、「名」を単位とした土地に対する課税方式へと、税制面での大幅な変更を余儀無くされた。端的にそれは、人の支配から土地の支配への転換を意味した。これにより10世紀には、「王朝国家」という新たな国家体制が出現した。古代国家から中世国家への緩やかな移り変わりが始まったのである。

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