目次
派生問題:戦争の終結は如何にして可能になったのか
東条英機政権時の日本では、「和平」を模索する活動は違法とされた。国内ではあくまで戦争での勝利が目指されていた。しかし1944年、昭和19年にサイパン島が陥落すると、この空気は一変する。サイパン島をはじめとするマリアナ諸島は絶対国防圏であって、日本の戦略上最も重要な場所であった。何故ならサイパン島が米国の手に落ちれば、日本列島全体が長距離爆撃機B-29の航続距離内に入るためである。そのため、東条はマリアナ諸島を死守するために、海軍の総力を結集させていた。だがマリアナ沖海戦での敗退により、サイパン島を失ったことで、日本は国策の変更を余儀なくされたのである。
絶対国防圏を崩されてしまった日本には、もはや既に挽回の手は無かった。この時点で日本は航空戦力の多くを失っていた。そのため反撃の余力は残されていなかった。それは、マリアナ諸島の奪還どころか、戦争を継続させることすら困難な状態であった。現実的には、この時点で既に、日本には「和平」以外の選択肢は無かったのである。この脈絡から東条内閣は絶対国防圏を突破された責任として総辞職した。サイパン島陥落以降の日本は、大東亜共栄圏建設の理想を捨て、如何に敗戦の損害を未然に防いでいくかに目標を定めざるを得なくなった。
日本が和平に動き始めたという情報は、世界中に張り巡らされていたアメリカの諜報網によって、直ぐにアメリカ政府へと伝達された。米国陸軍省が傍受した通信を大統領に報告する機密報告書、通称「マジック報告」では、日本が和平に動き出している事実が言及されている。この報告では、重光葵外相がソ連に和平交渉の仲介をする意思があるか否かを探るように、佐藤尚武大使に指示したことが正確に取り上げられている。つまり終戦の1年前の段階で既に、日本がソ連を通じて和平交渉を模索していたことを、アメリカは正確に把握していたのである。
これを前提とすれば、日本は早期講和を求めていたのだから、アメリカはその「お膳立て」を用意すれば、日本との戦争を早期終結させることができたはずだ。しかし、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は日本の「無条件降伏」に拘っていた。「無条件降伏」は、何らかの条件を定めることで終戦を実現させるのではなく、相手国が無条件に降伏するまで戦争を継続することを意味した。それは、アメリカが日本を徹底的に叩き潰すことを意味した。少なからず日本側は、そのように解釈した。つまりトルーマン大統領の「無条件降伏」という言葉が、むしろ日本が最後まで戦い続ける動機を強めてしまったのである。
「日本が無条件降伏を受容する際の最大の障害は、無条件降伏によって天皇が永久に排除され、国体が破壊されることになるのではないかという日本人の信念だ。」 Joseph C. Grew, Turbulent Era: A Diplomatic Record of Forty Years, 1904-1945, Vol. II, 1952, pp. 1429-1431.
尤も、トルーマン大統領自身は「無条件降伏」を「日本を叩き潰す」という意味で用いていた訳ではなかった。それは日本国民を皆殺しにする訳でもなければ、従属させることでもなかった。しかしながら日本政府と統帥部は「無条件降伏」をそのような意味では解釈しなかった。日本が認識していた「無条件降伏」とは、国体の解体、国民の奴隷化、そして天皇の処刑を意味した。それ故、当時の日本には「無条件降伏」を受け入れるつもりが無かった。日本が重視したのは、「国体の護持」であり、「天皇の地位の保障」であった。日本は「天皇の地位の保障」を条件とした戦争の終結を望んでいた。この条件が満たされない限り、日本の降伏はあり得なかった。
しかしながらアメリカ側の視点から観れば、この時点で「無条件降伏」を取り下げ、「天皇の地位の保障」を条件として追加することにはリスクがあった。ここでアメリカが宥和政策を採用すれば、日本側はアメリカが弱腰になっていると捉える可能性もあったのだ。そうなると日本内部から徹底抗戦を主張する軍の影響力が強化されてしまい、余計に終戦が遠のくという見方もあった。
アメリカ国内の政治的な問題もある。フランクリン・ルーズベルト大統領は、大恐慌の時代にアメリカを社会主義化するかのようなニューディール政策を強行したところ、それに失敗した。そこで、日本との戦争へと国民の目を逸らそうとしていたとも見受けられる。それ故その後のアメリカ政府は、国民の真珠湾攻撃への恨みを煽ることで戦争を進行させようとしていた。アメリカ国民は日本を恨んでいるために、大統領には日本を叩き潰すことを望んでいた。ルーズベルト亡き後、大統領に昇格したトルーマンはこの重荷を背負うことになる。もし大統領が完全なる勝利、すなわち日本の「無条件降伏」を目指さないのなら、国民からの支持を失うことになる。つまりトルーマン大統領は、完全なる勝利を望む国民と、最後の一人になるまで戦おうとしていた日本との間の板挟みになっていたのである。
問題解決策:天皇の地位の保障
元駐日大使で知日派として知られるジョセフ・クラーク・グルー国務次官は、早い段階で日本に降伏条件を公式に呼び掛ける連合国側の共同宣言を出すべきであると主張していた。グルーは共同宣言において、「無条件降伏」と「現皇統の廃棄」を明確に区別することで、日本の早期降伏が可能になると確信していた。グルーはこの点を宣言案として、1945年にトルーマン大統領に提出している。丁度ルーズベルト大統領が急死したために、トルーマンが副大統領から大統領へと自動的に昇進した直後の出来事である。
トルーマン大統領や各軍長官らは、この案に賛同していた。しかし沖縄戦の最中にこれを発すれば、日本に対しアメリカが軟化したという印象を与えてしまう。これではむしろ逆に日本の降伏が遅延する。この条件緩和策は、一種の宥和政策であって、国民が支持する「日本を叩き潰す」という意味での「無条件降伏」と相反するものであった。故に、時期を検討することになった。
ここで確認しておきたいのは、沖縄戦の時点で既に、アメリカは天皇を残すことを前提に議論を進めていたという点である。アメリカにとって、「天皇の地位の保障」は選択不可能な選択肢ではなかった。むしろアメリア政府にとって、天皇を処刑するか否かは些末な問題であったのだ。
アメリカが主張する「無条件降伏」は、ドイツ同様に、停戦交渉などせずに、相手国を徹底的に叩き潰すことを意味していた。だが、「無条件降伏」を主張するだけでは、日本が折れないこともわかっていた。当時のアメリカは日本外務省と日本海軍の暗号を解読していた。そのため日本の状況は詳細に把握できる立場にあった。そのため、天皇の地位が保障されない限りは日本の降伏はあり得ないことも、戦後日本の社会的な秩序のためには天皇が重要な役割を果たすことになることも、事前に予期していた。アメリカ政府の首脳は、日本に降伏させるためには、条件を修正する以外に方法が無いと認識していた。
機能的等価物の探索:原子爆弾の投下
だが、条件緩和策を展開する時期は、中々訪れなかった。確かにこの宥和政策は、日本に対しても、アメリカ国民に対しても、誤ったメッセージを伝達してしまうリスクがあった。当時トルーマン大統領に最も大きな影響を与える人物であったのは、当初から強烈な対日強硬路線を主張していたジェームズ・フランシス・バーンズ国務長官であった。大統領が完全なる勝利から宥和政策へと切り替えることで、国民から支持を失うことを危惧していたのも、バーンズ国務長官であった。また、大統領に助言を与える立場にいる高官たちの中で、宥和政策に反対であったのは、バーンズ国務長官ただ一人であった。そしてトルーマン大統領は最終的に宥和政策ではなく対日強硬派のバーンズの助言に従うことになる。
しかし、トルーマン大統領が宥和政策を退けた背景にあったのは、より決定的な別の理由があったためであると考えられる。それが、原子爆弾についての秘密計画である。原子爆弾を日本に対して使用することは、1944年のルーズベルト大統領とチャーチル首相の会談で合意済みであった。トルーマン大統領は前大統領の意思決定をそのまま継承し、自身の責任範疇では「どう使うか」を決定する権限を有していた。それ故、当時のトルーマン大統領にとって、直前まで進行していた原子爆弾の研究開発の報告が重要な意思決定基準となっていた。
マンハッタン・プロジェクト
ルーズベルト大統領が原子爆弾開発の予算を計上して議会を通過させたのは、日本の真珠湾奇襲攻撃の前日となる1941年12月6日の出来事である。この予算はやがて20億ドルにも膨れ上がり、2000人以上の学者や専門家を集めたロスアラモスや、放射性物質の濃縮化を目的としたワシントン州ハンフォードのクリントン研究所、また各種の理論的な研究や核爆発の起爆装置の研究を実施していたテネシー州オークリッジの研究施設などが構築された。
アメリカの原子爆弾製造計画はロスアラモスを拠点として展開された。原子爆弾発祥の地であるロスアラモスは、「マンハッタン・プロジェクト」と呼ばれる原子爆弾の製造計画の拠点となっていた。「マンハッタン・プロジェクト」という名称は、ロスアラモスや他の核兵器開発施設の工事などに関わっていたのがマンハッタンに総司令部を置いているアメリカ工兵隊で、軍が工事地区の名前を付与する慣習に倣って名付けられた。名付け親となったのは、総司令官に選抜されたアメリカ陸軍レスリー・リチャード・グローブス大佐である。
マンハッタン・プロジェクトの創設者であるレスリー・グローブス将軍や、ヘンリー・スティムソン戦争長官(Secretary of War)、そしてルーズベルト大統領は、原子爆弾を主題として、早い段階からニールス・ボーアとアルバート・アインシュタインをはじめとした物理学者たちとの交流を深めていた。アインシュタインは、第二次世界大戦が始まった頃から、ドイツに住んでいたものの、ルーズベルト大統領と交流があった。この頃からアメリカでは、エドワード・テラーをはじめとするヨーロッパの学者たちが、ナチスを恐れ、アメリカのユダヤ系であったオッペンハイマーと各種の委員会を造り上げ、ルーズベルト大統領のホワイトハウスと原子爆弾の開発について話を進めていた。
トリニティ実験
核分裂のような物理現象に関しては、世界中の学者たちが研究開発を進めていた。実際に核や放射能の存在に言及したのは、フランスの物理学者アンリ・ベクレルである。ベクレルが1896年に記述した理論を下に、キュリー夫妻が研究を進めた。1939年になると、非ユダヤ系のドイツ人物理学者を招集したドイツが核分裂の実験に成功する。また同年にイタリアの理論物理学者エンリコ・フェルミらがワシントンで核分裂と原子爆弾を解説し、ニールス・ボーアもまたコペンハーゲンで同様の実験結果を発表している。「原爆の父」であるイゴール・クルチャトフを率いるロシアもまた、同時期にウランの分離についての研究を進捗させた。一方、日本では核分裂や放射能について言及する者もいたが、爆弾を製造する計画を策定してはいなかった。このことは、ルーズベルト大統領の視点から観れば、日本に対して原子爆弾を投下したとしても、原子爆弾による報復を受けることは無いということを意味した。
1945年3月、ロスアラモスは三つの原子爆弾を造り上げ、5月には兵器として完成させた。そのうちの一つはニューメキシコ州の砂漠で、実験のために爆発させた。この人類初の核実験は、ロスアラモス研究所長のジュリアス・ロバート・オッペンハイマーによって、「トリニティ」と名付けられた。トリニティとは、キリスト教の三位一体説である。だが何故この名前なのかについて、オッペンハイマーは十分に説明していない。この実験は、アメリカの独立記念日となる7月4日に実施する予定で準備された。実験は約200人というごく少数の人数で実施されることになっていた。実験の準備は極秘のうちに行われた。しかし原子爆弾の製造は予定通りに進捗しなかった。最終的に実験は7月16日の早朝に行わることになった。
トリニティ実験は成功した。ルーズベルト大統領は1945年4月において既に、日本への原爆投下を指示している。だが実際に「いつ投下するのか」についての命令を下したのは、その後任にあたるトルーマン大統領であった。ルーズベルト大統領は1945年4月12日に死去したため、原爆実験の成功を知ることはできなかった。トルーマン大統領はトリニティ実験の成功を確認すると、直ぐに原子爆弾の投下という選択肢を選択する想定で動くことになる。
生前ルーズベルトは真珠湾に対する報復としての原爆投下を何度も主張していた。この主張はトルーマンも踏襲している。しかし厳密に言えば、ルーズベルトは日本の真珠湾攻撃以前の時期から、核兵器の製造を想定していたのである。
トリニティ実験の成功により、学者たちは理論が証明されたと確信した。この物理現象についての研究は世界中で展開されている。世界中の科学者たちが、この現象に注目していた。そこで学者たちは、ロスアラモスにおける原子爆弾の成功事例をアメリカ国内で独占するのではなく、この実験成果を世界中に共有するべきだと考えた。グローブス将軍らが原子爆弾を兵器として活用しようとしていたことには科学者たちも薄々気付いていた。だからテラーらは、原子爆弾を人間に対して使用することには反対していた。
しかし、科学者たちの主張は通らなかった。アメリカ政府は、原子爆弾を科学・学問の主題としてではなく政治の主題として観察していた。アメリカ政府にとって重要となったのは、原子爆弾の研究成果についての真理を共有することではなかった。事実、トルーマン大統領が原子爆弾の投下を命じたのは、彼が政治的に弱い立場にあったためである。トルーマンは、ルーズベルトが急死したために、後継者として大統領に昇格した。臨時の大統領の国民による支持率は極めて低かった。トルーマンが1948年の大統領選挙で再選されるためには、戦争に勝利しなければならなかった。トルーマンが原子爆弾の投下を選択したのは、次の選挙に勝利するためであったと考えることもできる。
「合衆国代表団草稿」と「合衆国代表団提出案」の差異
原子爆弾の投下をいつ実行するのかを決定しようとしていたトルーマン大統領は、あえて「天皇の地位の保障」という選択肢は採用せずに動いていた。もし「天皇の地位の保障」を日本に伝達すれば、日本は降伏してしまう可能性が高い。日本が降伏してしまえば、戦争は終結し、原子爆弾を投下する理由が無くなってしまう。確かにアメリカは既に、戦争にほぼ勝利していた。だが米軍が犠牲になっていたのも事実である。その死傷者数が増えれば、トルーマンも厳しく非難される。膨大な予算を投資して完成させた原子爆弾を使用しなかったならば、更に議会から厳しい批判に曝されることになったであろう。そのため、日本が原子爆弾を投下される前に降伏してしまえば、トルーマン政権は危機的状況に直面してしまうと予期されていた。
日本の降伏は、「トリニティ実験」の成否を見極める前に成立してはならなかった。トルーマン大統領の想定では、日本は原子爆弾の投下後に降伏すべきであった訳だ。それ故、「天皇の地位の保証」という条件は、直ぐには日本に開示されなかった。
イギリスがポツダムで戦後処理を議論する会談を開催するようにと再三要請していたにも拘わらず、アメリカは会計年度の関係で大統領と議会が多忙であるという口実により1か月以上もその開催を遅らせた。結局会談が7月15日まで延期されたのも、トリニティ実験が実施される予定があったためである。会談で相対することになるチャーチル首相とスターリン書記長は、いずれも経験豊富な国家指導者であった。自動的に大統領へと昇格したトルーマンにとって、少しでも有利な状況で会談に臨みたかったところであろう。原子爆弾の実験成功は、アメリカがアジアと太平洋戦線を終結させる主導権を握ることを意味した。だからトルーマン大統領は、トリニティ実験の成功が、自身の権力を強めると確信していたのである。
これに対しグルー国務次官は6月の段階で、沖縄戦終結時に降伏条件を緩和する声明を発表すべきであると、トルーマン大統領に再度進言した。だがその主張は採用されなかった。大統領は日本への声明をポツダム会談の議題に入れるようにと、グルーに指示した。ヘンリー・ルイス・スティムソン陸軍長官がグルーの宣言案に準じて草案を起草した。そして国務省や海軍省と擦り合わせ、「天皇の地位の保障」は、ポツダム宣言の「合衆国代表団草稿(United States Delegation Working Paper)」に採用された。天皇の地位が存続し得ることを明記したのが、声明文の中では最も重要な部分であった。この一文があれば、日本も受諾することが可能になると考えた。
ところが、ポツダム宣言の「合衆国代表団提出案(Proposal by the United States Delegation)」では、「天皇の地位の保障」の部分が削除され、そのまま調印され、発表された。その経緯は明らかにはなっていない。恐らくはバーンズ率いる対日強硬派が発表直前に巻き返しを図った結果であると推察されている。例えばアーチボルト・マクリーシュ国務次官補などのように、「天皇の地位の保障」はドイツに対する厳格な方針と矛盾するだけではなく、将来的に天皇の制度が悪用される危険があると指摘する者も存在していたからだ。
更に、この段階ではまだ原子爆弾を使用できていなかったことも関係しているのかもしれないと、邪推することもできる。もし「天皇の地位の保障」を指し示す声明を発表してしまえば、日本が降伏してしまう。そうなれば、日本に原子爆弾を使用する機会が失われる。だとすれば、米国は日本に降伏させるために原子爆弾を投下したのではなく、日本が降伏する前に、手続き的に原子爆弾を投下しようとしていたことになる。つまり米国には、あえて日本に一度ポツダム宣言を拒否させることで、原子爆弾を使用する口実を造り上げ、その後に「天皇の地位の保障」を宣言することで、日本に降伏させるというシナリオがあったと考えられる。
機能的等価物の探索:ソ連の参戦
ソ連がポツダム宣言の署名国になれなかったことは、スターリン書記長にとって誤算であった。当時ソ連と日本は中立条約を締結していた。ポツダム宣言にソ連が加われば、日本がこの宣言を拒絶した際に、中立条約が事実上無効となる。それは日本に戦争を仕掛ける正当な理由になり得た。ポツダム宣言の署名国になれなかったとなれば、ソ連は日本に攻め入る別の理由を用意しなければならなくなる。
トリニティ実験の成功の報告を受けてから、トルーマン大統領とバーンズ国務長官は、ポツダム宣言の署名国からソ連を除くように画策していた。ソ連はこのアメリカ政府側の動きを事前に察知できなかった。アメリカ側は、共同宣言にソ連を加えなかった理由として、ソ連が日本と戦争状態ではないため、巻き込む訳にはいかないという尤もらしい説明を加えていた。スターリン書記長がこれに納得するはずがない。アメリカはソ連の手を借りずに日本を降伏させるつもりであるという、その真の狙いに、スターリン書記長はここで初めて気付いたのである。
ソ連が参戦する前に日本が降伏してしまえば、戦後のアジア秩序にソ連が介入する機会が失われる。ヤルタ密約で承認されている領土を獲得することもできなくなる。ソ連としては、日本が降伏する前に参戦しなければならなかった。
トルーマン大統領とバーンズ国務長官によるアメリカ側の動きと、スターリン書記長によるソ連側の動きには、共通点と差異がある。共通点は、いずれも日本が一度ポツダム宣言を拒絶することを望んでいたということだ。だが双方の日本降伏への状況設定には差異があった。アメリカ側は原子爆弾の投下が完了してから「日本降伏段階」のステップへと進みたかった。一方ソ連は、あくまでソ連が参戦してから、そしてソ連が参戦することによって、「日本降伏段階」へと進むことを期待した。しかしトルーマン大統領とバーンズ国務長官の方が、ここでは一枚上手であった。共同宣言の署名国から除外されたことで、ソ連は日本への宣戦布告理由を別に用意しなければならなくなった。
それどころか、スターリン書記長の動きは、トルーマン大統領とバーンズ国務長官の掌の上であったとすら考えられる。もし原子爆弾の投下によって日本が降伏しなかった場合、アメリカ政府は国内からも国際社会からも、その責任を追及されることになる。だが原子爆弾の投下に加えてソ連が参戦すれば、日本が降伏する可能性をより高めることになる。言うなればソ連は、原子爆弾の投下を実行に移すアメリカにとっての「滑り止め(safety net)」のようなものとして利用されていたのである。
スターリン書記長に残された手は、アメリカが原子爆弾を投下して日本が降伏する前に参戦することであった。先手を打つことで、早々と日本の降伏を条件付けたかった訳だ。
ポツダム宣言は、建前上は日本の降伏により早期終戦を実現することを目指して発表された。実際、ポツダム宣言が発せられると、日本もソ連を仲介役とした和平実現に向けての動きを見せている。東郷外相はポツダム宣言にスターリン書記長の署名が無いことに着目し、ソ連に終戦の仲介役を依頼していたのだ。日本はソ連に天皇の特使として近衛文麿を派遣したいと申し入れたため、その受け入れの可否について、ソ連の返答を待った。
明治維新以来、日本はソ連を仮想敵国として認識してきた。実際にロシア時代には日露戦争で交戦してもいる。日本はこの段階で歴史的にて帰国であり続けたソ連を友好国として誤認することになる。
日本がソ連を介さず直接アメリカと交渉し始めていたなら、あるいは日本の早期降伏という選択肢もあり得たかもしれない。だが日本はソ連を交渉先に選んだ。原子爆弾の投下を目的として動いていたトルーマン大統領にとっては、日本の動向は好都合であった。一方、日本との戦争準備に着手していたソ連も、対応次第で日本に油断させる機会を得た。日本のソ連を介した和平交渉への動きは、ソ連にとっても好都合に働いていたのだ。
しかし、アメリカよりも早くソ連参戦を成し遂げるというスターリン書記長の目的は果たされなかった。広島への原子爆弾は、ソ連にもショックを与えた。トルーマン大統領がポツダム宣言にソ連を署名させなかったのは、ソ連に対する敵対行為以外の何物でもない。しかも、今こそ参戦しようとするソ連の目の前で、まるで当て付けのように原子爆弾が投下されたのである。
スターリン書記長は、広島に原子爆弾が投下されたことで、日本が降伏してしまうことを恐れていた。しかし日本は、原子爆弾を投下されても、直ちに降伏する動きを見せなかった。日本はソ連を仲介役とした和平交渉を望んでいた。スターリン書記長は、日本の交渉に応じるかのような素振りを見せておいて、日本の降伏時期を遅延させ、その間に参戦しようとした。
そして8月8日、佐藤大使がソ連のモロトフ外相から宣戦布告分を受け取る。翌日の9日には、極東に集結していたソ連軍が、日ソ中立条約を無視し、満州と朝鮮に進撃してきたのである。
派生問題:日本の民主主義は如何にして可能になったのか
トルーマン大統領にとって、「天皇の地位の保障」、「原子爆弾の投下」、そして「ソ連の参戦」は、日本の「無条件降伏」を実現する上での機能的に等価な問題解決策であった。しかしそれぞれの問題解決策は、トルーマン大統領とアメリカにとって、異なる逆機能を有していた。「天皇の地位の保障」を早期に伝達してしまえば、日本の早期の「無条件降伏」が実現してしまう。それでは「原子爆弾の投下」の政治的な機能を選択することができなくなる。だが一方で「原子爆弾の投下」の機能も確実ではない。「天皇の地位の保障」を第一に考えていた当時の日本政府と日本軍の勢力を観察してきたアメリカには、「原子爆弾の投下」によって速やかに「無条件降伏」を引き出せるという論理的な保証が見出せなかった。一方、「ソ連の参戦」は一見して確実に「無条件降伏」を実現し得た。しかし、「原子爆弾を投下」を第一に重視していたトルーマン大統領にとって、スターリン書記長率いる「ソ連の参戦」は「滑り止め」に過ぎなかった。
原子爆弾の投下を決定したトルーマン大統領は、「原子爆弾の投下」を、日本の国際法違反の悪行への対抗策として導入している。そして原子爆弾の投下は、戦争終結を早めたのだから、むしろ人命を救ったとされる。この2点があるからこそ、米国では、原子爆弾の投下は正当化されてきたのである。しかし実際は、「原子爆弾の投下」が戦争終結へと直結した訳ではない。広島に原子爆弾が投下された直後、日本は降伏の姿勢を見せなかった。日本が降伏したのは、時系列的には「ソ連の参戦」の直後である。だが「ソ連の参戦」もまた戦争終結には直結していない。実際に戦争終結へと直結したのは、「天皇の地位の保障」であったのだ。
アメリカ国内に対日強硬派の動きがあったとはいえ、最初から最後まで、アメリカ政府が天皇制の廃止を結論付けたことは無かった。事実として、結果的に天皇は廃止されなかった。またその方針が定まることも無かった。大統領と高官たちは、上述したように、和平に向けて動き始めた日本の動向を常に観察していた。そして天皇の地位を保障することを前提に議論を進めていた。当時ポツダム宣言で連合国が求めた条件は、大別すれば、軍国主義の排除、戦争遂行能力の喪失、そして戦争犯罪人の処罰であった。しかし「天皇の地位の保障」の項目が削除された結果、このポツダム宣言には、主権、天皇の統治、皇位継承、あるいは国体に関しても、何ら言及が無かった。そのため、ポツダム宣言受諾を巡る日本国内の議論では、国体が護持されるか否かが主題となった。
ポツダム宣言受諾の可否は、1945年、昭和20年8月10日に開かれた最高戦争指導会議の御前会議で議論された。この会議は、皇居御文庫付属室で、昭和天皇親臨の下で実施された。従来御前会議では、事前に出席者たちで合意形成を済ませておき、満場一致を以って天皇の裁可を仰ぐという儀礼的で形式的な会議であった。しかしこの時は、出席者たちが本気で意見をぶつけ合い、議論は平行線を辿った。議長役であった鈴木総理は、意を決して、天皇の聖断を仰いだ。天皇は外務大臣の意見に賛同した。外務大臣の案とは、ポツダム宣言が「天皇の国法上の地位を変更する要求を含まないということ」を前提として、ポツダム宣言を受諾するという内容であった。
その後日本はポツダム宣言受諾文において「天皇ノ国家統治ノ大権(the prerogatives of His Majesty as a sovereign ruler)」を取り上げ、日本の主権を問う記述を提示している。だがこれに対するバーンズ国務長官からの回答には、「権威(authority)」に関する記述はあっても、主権者(sovereign ruler)に関する記述は無かった。バーンズ国務長官の回答には、一方では強い言葉を使うことにより、「無条件降伏」を求める多数派に対する配慮が含意されているが、しかし他方では天皇の地位を認める意図も含まれていた。アメリカは日本に譲歩した訳ではない。だが天皇が最高司令官の下に置かれるという高圧的な表現は、逆に言えば、天皇を廃止しないことを暗示している。そして、「最終的ノ日本国ノ政府ノ形態」は、「日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決セラル」という。
それまでアメリカは、「天皇の地位の保障」についての声明を頑なに拒んでいた。だが原子爆弾を投下した後に日本から降伏の申し入れが届くと、直ぐに天皇の地位を保障すると読み取れる声明を発表している。上述したように、日本に降伏を要求するアメリカには、既に「天皇の地位の保障」を掲げれば日本が降伏してくれるというシナリオがあった。そして万が一、二つの原子爆弾を投下しても尚日本が降伏してくれないようでは、原子爆弾を使用したこと自体が、国際社会から非難される危険があった。アメリカが原爆投下直後に早々と「天皇の地位の保障」を明言し始めたのは、このためであろう。
まるでゲームのようだ。
しかし、ポツダム宣言やその後のバーンズ国務長官をはじめとしたアメリカ政府の見解に「天皇の地位の保障」が含意されるとするなら、終戦後の連合国が日本に「国民主権」の原理の採用を要求したという、戦後蔓延っていた通俗的な歴史認識が通用しなくなる。と言うのも、「天皇の地位の保障」を成立させるということは、ポツダム宣言が日本の「国体」を変更させる作用をもたらした訳ではないということになるためである。戦前から戦後への過程で、2000年以上存続してきた日本の国体の社会構造は、外圧によって変更された訳ではなかったのである。だとすれば、戦後日本の社会構造に近代的な「民主主義」が導入されたのは、アメリカによる押し付けによってではなく、あくまでも日本という社会システムの自己言及的な作動によって可能になったことになる。
問題解決策:日本国憲法
昭和20年10月4日、東久邇宮内閣で国務大臣を務めていた近衛文麿がGHQを訪れ、連合国軍総司令部ダグラス・マッカーサー元帥と面会した際に、憲法改正の必要性があると告げられた。この時、米国は日本に初めて憲法改正の必要性を明確に伝達したとされる。日本側では、ポツダム宣言受諾時の議論においても、憲法改正の必要性は主題にすらならなかった。ポツダム宣言によって憲法改正の責任が発生したとは考えられていなかったのだ。だが米国は、より自由主義的な要素を採り入れた憲法を導入する必要があると認識していた。
憲法改正を要求された日本政府は、憲法草案の作成に着手した。だが実際に出来上がった改正草案は、GHQにして観れば、明治憲法の字句を穏やかに修正した内容に過ぎなかった。そこでマッカーサー元帥は、単に既存憲法の言い換えに過ぎなかったその草案を拒絶するだけではなく、GHQ自らで憲法草案を作成することを決意した。
GHQの草案で重視されたのは、次の三つである。第一に、天皇は、国の元首の地位にある(at the head of the State)ということだ。第二に、天皇の世襲性である。そして第三に、天皇の職務と権能は、憲法に基づいて行使され、憲法に指し示された国民の基本的意思に応えるものとするということであった。
当時のGHQの動きは、1944年12月に米国で設置された国務・陸軍・海軍調整委員会(State-War-Navy Coordinating Committee:SWNCC)が提示していた『日本の統治体制の改革』、いわゆるSWNCC228文書の方針からすれば、不自然にも思える態度であった。この文書の結論では、最高司令官は、日本政府当局に対し、日本の統治体制が一般的な目的達成のために改革させるべきことについて、注意を喚起しなければならないとされている。最高司令官が諸改革の実施を日本政府に「命令(order)」するのは、「最後の手段(only as a last resort)」の場合に限定される。何故なら、そうした改革が連合国の命令によって強要された内容であると知られれば、日本国民は将来その内容を受容しなくなる可能性があるためだ。
GHQによる憲法草案の作成は、日本国民による受容可能性の喪失という明確なリスクを評価した上での意思決定であった。それはある差し迫った状況での決断であった。と言うのは、モスクワ外相会議の決定により、極東委員会が設置されるようになったためである。極東委員会が設置されれば、元帥の権限が縮小されてしまう。それだけではなく、極東委員会に加わるソ連とオーストラリアをはじめとした諸外国は、天皇制の廃止を強く要請してくることが予期された。マッカーサー元帥は、一刻も早く政府案を確定させることによって、議会での審議を開始させる意図があった。
マッカーサー元帥がこのような意思決定に至った背景にあるのは、昭和20年9月27日に開かれた昭和天皇との面談であったと推論されている。マッカーサー元帥は米国大使館で明治天皇と会談し、天皇の戦争責任を問うべきではないという想いを強くしたと言われている。昭和天皇がマッカーサー元帥の前に進まれた時に発せられたあの有名な言葉は、当時のマッカーサー元帥に衝撃を与えたという。マッカーサー元帥は当初、昭和天皇が命乞いに来るのだと考えていた。その責任を部下に押し付け、自分はアメリカとの戦争には反対であったのだと主張すると考えていた。
しかし昭和天皇は開口一番、マッカーサー元帥が想像しなかった言葉を発せられた。重臣や将兵たちは天皇の命で動いていただけであるため、この戦争の全ての「責任」は自分にあると述べられたのである。自分の命はどうなっても構わない。民を飢えさせないで欲しい。この昭和天皇の主張を受けたマッカーサー元帥は、昭和天皇の手を取り、「自分は初めて神のような帝王の姿を見た」と述べた。マッカーサー元帥にとって、昭和天皇は日本における「最上の紳士」であった。
当初は「天皇の処刑」と「皇室の廃絶」を想定していたマッカーサー元帥は、この出来事から考えを改めた。日本という国から天皇を奪えば大変なことになると直観したのである。天皇を告発すれば、日本国民の間に想像を絶する動揺が引き起こされる。その結果生じる事態を鎮めるのは不可能である。天皇を葬れば、日本国家は分裂する。連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の憎悪と憤激は、数世紀規模の復讐へと向かってしまう。そうなってしまえば、近代的な民主主義を導入する希望は尽く消え去ってしまう。
いざという時に国民を命懸けで守ることが、皇統の意志であった。一方、国民の側も、命懸けで天皇を護ろうとしていた。昭和天皇とマッカーサー元帥の会談後に開かれた東京裁判では、A級戦犯と称された東條英機をはじめとする者たちは、皆口を揃えて、天皇には「責任」が無いと主張していた。戦争を開始すること自体は、国際法上、違法ではない。しかし罪状として問われていたのは、戦争開始の罪であった。国際法上違法ではない罪によって死刑に処されてしまうという理不尽さを背負ってでも、天皇を護るためならば濡れ衣でも受け入れるという覚悟があったのである。
マッカーサー元帥は、昭和天皇との面談により、皇室の維持を強く意識するようになったとされる。GHQによる憲法草案の作成というリスクテイクは、天皇と皇室を護るために実施された意思決定であった。
日本国憲法成立の法理は、日本国憲法の正当性の根拠として観察されている。それはしばしば憲法の「国民主権」の原理や天皇に関する憲法学的な議論の前提としても位置付けられている。日本国憲法は、大東亜戦争が終結した直後の連合国による占領下という混乱期に、GHQが短期間で書き上げた草案を元に日本政府案を作成し、「大日本帝国憲法改正案」として、枢密院と帝国議会で審議された。その後若干の修正を施して成立し、天皇によって公布された。草案そのものはGHQが用意した。だが全ての憲法改正手続きは、大日本帝国憲法が規定していた憲法改正規定と関連法令を遵守して実施された。こうして極めて特殊な状況下で成立し、憲法制定権力や主権論に関わる主題であることから、日本国憲法成立の法理は、憲法学の主要な問題設定となっている。
ポツダム宣言第十項、「民主主義的傾向ノ復活強化」
日本国憲法は、ポツダム宣言第十項が求める「民主主義的傾向ノ復活強化(the revival and strengthening of democratic tendencies)」を実施することで成立した。着目すべきなのは、それが「復活強化」であったということだ。つまり米国側には、日本には既に民主主義が存在しているという前提があったのである。それは、ポツダム宣言が、「天皇主権」から「国民主権」への変更を要求していた訳ではないことを物語る。
当時の政治情勢を観れば、立憲主義が十分に実現していなかったのは事実であろう。戦前であれば、軍閥などが政治に関与することもあった。確かに大日本帝国憲法では、近代憲法の諸制度となる議会の制度、国務大臣の責任制度、裁判所の独立、国民の権利義務の保証などが採用されていた。そこには民主主義的な要素が含まれていた。しかしながら、この憲法は同時に民主主義を抑制する機能も有していた。
統治機構として設けられた帝国議会は、公選による衆議院の他に、皇族や華族や勅任された議員から成る貴族院を設けるという両院制によって構成されていた。帝国議会はこの両院を対等に扱うことで、衆議院に現れると予想された民主的勢力を抑制する役割を貴族院が担った。
こうした反民主主義的な要素によって、日本の民主主義が弱体化していたのは事実である。しかし、ポツダム宣言の要求は、全く新しい理念を日本に植え付ける内容ではなかった。「君主国」を「民主国」に変更するといった内容とは無関係であった。大日本帝国憲法においても、普通選挙は実施されていた。当時の日本では、不十分ながらも民主主義的な政治システムが機能していたのである。
これらの要因を前提とすれば、大日本帝国憲法から日本国憲法への憲法改正手続きにおいて、「根本規範」や「基本原理」が抜本的に変わったと捉えるのは、誤りである。日本国憲法成立の法理における重要な主題の一つである天皇の統治権は、まさにこのことを例証している。日本国憲法成立の法理が大日本帝国憲法から日本国憲法への憲法改正を巡る議論として展開されている以上、天皇の統治権を議論する前提として確認されているのは、大日本帝国憲法における天皇が如何なる存在であったのかである。このことを確認するためには、大日本帝国憲法成立以前の不文憲法にまで遡及する必要がある。日本国憲法は民主主義や自由主義に立脚する憲法だ。そのため、日本における民主主義や自由主義の政治理念が如何にして叙述されてきたのか、その歴史的な根源を見極めなければならない。
この考証では、一見すると日本の政治システムに「議会」が導入された明治期まで遡ることが奨励されるように思われる。確かにこうした理念は、明治維新の時代に「西洋」から導入されたと考えられている。しかし、神道と仏教を背景に「天皇」の意味論を記述してきた我々の主題との関連で言えば、我々は更に過去に遡ることが可能であることがわかる。「記紀神話」が訓えてくれるところによれば、日本国内には既に8世紀からこの理念や根源が芽生えていたのである。『日本書紀』には、「天の下では民族などに関係なく全ての人は平等である」という「八紘為宇」の理念が叙述されている。この理念は、歴史的に日本が国民本位の政治を実施してきたことを表現している。それは日本における一種の自由主義的な政治の根源であった。また『日本書紀』の仁徳天皇紀には、「天の君を立つるのは、是百姓の為なり」という、人民を中心に据える民主主義的な理念も叙述されている。このように、明治維新以前の日本にも、国民本位の国家を謳う自由主義や民主主義の理念が存在していたことがわかる。
「神話」と「歴史」の差異
「天孫降臨の神勅」を前提とすれば、一見大日本帝国憲法は、神勅に準拠しているが故に、天皇の地位の根拠は「神」であって、天皇は「神」として日本を統治していたかのように視えてしまう。この観点から観れば、大日本帝国憲法は「天皇主権」であったと考えられる。「皇権神授説」はこの前提から記述されている。しかし「記紀神話」は、天皇のみを「神」の子孫として叙述している訳ではない。『古事記』では、数百もの氏族たちが、遡れば「神」の系譜に辿り着くと記述されている。天照大御神の子孫ですら、歴代天皇や皇族には限られない。「神」の子孫が天皇や皇族に限定されない以上、「神」の子孫であることを以って、天皇の統治を妥当させることは不可能である。
同様に、天照大御神が孫の瓊瓊杵尊に「天壌無窮の神勅」を下したことも、大日本帝国憲法における天皇の統治を正当化していた訳ではない。明治維新における「王政復古の大号令」は、神武建国の精神に回帰する復古思想を目標として指し示していた。だがここで回帰されるべきとされたのは、記紀神話の天孫降臨神話や「天壌無窮の神勅」ではない。あくまでも神武創業、すなわち神武天皇の即位こそが、立ち返るべき点となっていた。これは、既に取り上げたように、日本における「天皇」の意味論と中国における「皇帝」の意味論との間の差異が、双方の社会構造上の差異へと反映されたことも関わっている。
このように、大日本帝国憲法は、日本の建国が天孫降臨をはじめとした神話ではなく、あくまで初代天皇の即位にあるという記紀神話の見解を踏襲していた。天皇の統治を妥当させてきたのは、神話ではなく、初代天皇以来連続的に受け継がれてきた「歴史」であったのだ。したがって、大日本帝国憲法を「天皇主権」として記述する根拠は瓦解している。天皇の地位の根拠は「神」であると断定してきた戦後憲法学の主流は一掃される。
統治としての「シラス」
大日本帝国憲法における「天皇主権」を語りたがる戦後憲法学者たちの盲点となっているのは、「記紀神話」が「天皇主権」の主張者にとって不都合となる意味論を提供してしまっていることである。日本における「神々」の意味論は、西洋の一神教における「神」の意味論とは異なる。日本の「神々」が森羅万象に「神」が宿るという「八百万の神」の発想であるのに対し、例えばキリスト教における「神」は宇宙の外に存在する全知全能の超越的な唯一神である。この複数性を前提とした日本の「神々」の意味論は、本来「専制君主制」の社会構造とは相性の悪い意味論である。「記紀神話」まで遡ればわかるように、天孫降臨に際しては、「神」は、「君」に対して統治を命じると共に、「臣」に対しても輔翼を命じられた。こうした神勅に基づいた天皇の「統治」が本質的に専制君主制の独裁に至ることはあり得ないことなのだ。確かに、「神」は「臣」のために「天皇」を立てたのだから、「天皇」とは「臣」のために存在しているということになる。
「記紀神話」では、高天原における意思決定過程が度々叙述されている。だが高天原の統治者である天照大御神が単独で政策を決定する場面は無い。「記紀神話」では、意思決定が必要な場面になると、「八百万の神」が招集され、合議によって意思決定が展開される。天照大御神は、詔を発する主体であっても、決して専制的に決定する主体ではなかった。その決定内容は、事前に「神々」のコミュニケーションによる合意形成によって規定されているのである。
何よりも天照大御神は、自らの意志で統治者になったのではない。『古事記』と『日本書紀』に叙述されているように、天照大御神は、伊奘諾尊と伊邪那美命の命によってその地位に就いた。その際、天照大御神が受けた命とは、具体的には「高天原を知らせ」であった。つまり天照大御神の使命は、高天原の状況を「知ること」であったのだ。
ここに、記紀神話に由来する「天皇」の意味論における「統治」の意味論の手掛かりがある。この意味論において「統治」とは、決して専制君主的な独裁に基づく統治ではなく、何よりも「知ること」が重視されるのである。「知ること」が、すなわち「治めること」であるという訳だ。天照大御神による高天原の「統治」とは、高天原を「知ること」であった。高天原に精通することが、高天原の「統治」に直結していたのである。
「記紀神話」が編成された8世紀初頭の日本の社会構造を観察すると、丁度当時の「統治」の形態も、記紀神話によって叙述されている「統治」の意味論に準拠していることがわかる。飛鳥時代には太政官が配置され、合議制によって政策が決定されていた。それ以前の大和時代においても、大和国は連合国家を形成していた。やはりこの時代も合議制による意思決定が重視されていたのだ。
天照大御神が瓊瓊杵尊に葦原中国の「統治」を命ずる場面でも、その神勅は「爾皇孫就きて治らせ(知らせ)」という内容であった。ここでも、やはり「シラス」の言葉が用いられている。憲法学者の竹田恒泰が強調しているように、天皇による「統治」の形態もまた、高天原における天照大御神の「統治」の形態と同様に、「知ること」に準じていたのである。それは、天皇が国の事情を広く「知ること」によって、自ずと国を束ね、人心を統合するという「統治」を意味していた。
天皇とは祀りの主である。その役目は、国の平和と民の安心を祈願することにある。天皇の立ち振る舞いや心得が記されている『禁秘抄』は、天皇の規範に関する手引書として、神事が他事より優先されるべきであると記されている。『日本書紀』においても、「先づ以て神祇紙を祭ひ鎮めて、然して後に応に政事を議るべし」という又蘇我石川麻呂の奉答が記されている。祀りの主としての天皇は、何よりも祈願を最優先すべきと考えられていた。
大日本帝国憲法においても、天皇の「統治」は同様に重視されていた。ここでは天皇の祭祀大権が代替不可能であると考えられている。それは、伝統的に天皇が政治の最終的な責任者を任命してきたことと対称的である。井上毅は明治20年、1887年春に、憲法草案を伊藤博文に提出した。憲法草案の第一条には、「日本帝国ハ万世一系ノ天皇ノ治ス所ナリ」とある。ところが、同年夏の修正により、「治ス」は、「統治ス」に変更された。これにより草案が確定してしまう。既に当時「シラス」は古語になっていたために、一般的になじみの薄い言葉であった。故に漢語の「統治」に置換することで、帝国憲法第一条が確定したのである。
井上は、憲法草案を西洋諸国の憲法の複製ではなく、不文憲法を成文化させた憲法であると述べている。井上の第一条草案は、井上が想定する日本の国体を明確化することで記述されている。井上は2000年に及ぶ国史の事実を探索することで、天皇の「統治」を熟考した結果、『日本書紀』や『古事記』が用いた「シラス」の言葉を、帝国憲法第一条に使用したのである。井上によれば、日本の国体とは、万世一系の天皇が治す国」であると定義していたのである。
このような帝国憲法第一条は、後に日本の敗戦を経て、日本国憲法第一条へと変異する。だが「シラス」という天皇の「統治」の有り様は変わっていない。確かに、日本国憲法の導入によって、天皇の法的権能の一部は変更された。だが天皇の「統治」それ自体が変わることは無かった。天皇の「統治」が機能しているからこそ、天皇が日本や日本国民の統合の「象徴」となる。天皇の「統治」が機能していなければ、この統合は瓦解してしまう。天皇の「シラス」という「統治」が機能しているからこそ、天皇が「象徴」となるのである。
政治に責任を持つ者たちが集まり議論を重ねることは、天皇が国の民の事情を知ることの一環であった。議会制民主主義の社会構造が高度に発達することと、天皇の「統治」の意味論を踏襲することは、決して矛盾しない。この無矛盾は、「国民主権」と天皇による「統治」が矛盾しないことを含意する。むしろ天皇の「統治」を実現させることは、民主主義を実現させることに等しいのである。
「国民」と「天皇」の差異
大日本帝国憲法から日本国憲法への変化によって「主権が天皇から国民へと移った」と認識するのは、日本の記紀神話に始まる理念と明治維新以来の政治の実態を同時に無視することを意味する。大日本帝国憲法における天皇の統治とは、「知ること」による統治であって、天皇の大御心と日本国民の総意は常に照応する関係にあった。「天皇主権」と「国民主権」は同じ原理に基づいている。「天皇」と「国民」は、対立概念にある訳ではない。
大日本帝国憲法における天皇は、「統治者」であり、「元首」であり、「神聖」な存在として記述されている。これだけを読めば、大日本帝国憲法における天皇は専制君主であるかのような印象を受けるかもしれない。しかしそうした印象は、明治維新期に関して先に取り上げた中国における「皇帝」の意味論にでも気触れていなければ、本来得られないはずの印象である。実際、大日本帝国憲法における天皇には、国政の内容に介入できる余地はほとんど無かった。
一方、日本国憲法における天皇には、国政に関する一定の機能がある。確かにその第4条には、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」とある。しかし、あらゆる法がそうであるように、憲法にも「原則」と「例外」の区別が導入されている。日本国憲法では、例外的に12項目の国事行為が列挙される。そこで取り上げられている天皇の機能の大半は、大日本帝国憲法から受け継がれている国事行為だ。つまり大日本帝国憲法と日本国憲法の間には、天皇の機能の面において、一定の連続性が形成されているのである。
「国民」と「天皇」の<差異の統一>
大日本帝国憲法と日本国憲法の連続性は、「主権」の概念と密接に関わっている。憲法前文には、「ここに主権が国民に存すること」が宣言されている。そもそも「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、祖の権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」と記述されている。権威にせよ権力にせよ、その担い手が「天皇」にあるとは記述されていない。しかし憲法の上論には、「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とも記述されている。また第一条の「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とも記述されている。
通俗的な解釈によれば、大日本帝国憲法から日本国憲法へと移り変わったことにより、「主権」の担い手もまた「天皇」から「国民」へと移り変わったとされる。つまり、「天皇主権」から「国民主権」へと移り変わったという訳だ。「主権」という概念が意味するのは、政治のあり方を決定する力である。その力が「権威」であれ「権力」であれ、いずれにせよ「主権」の担い手が実践するコミュニケーションは、政治における意思決定のコミュニケーションである。そして、「主権」の担い手にとって選択可能なのは、それ自体としては、「決定する」という選択肢と「決定しない」という選択肢のいずれかである。いずれにせよ、「決定」を選択することもできれば「非決定」を選択することもできる者こそが、「主権」の担い手ということになる。そして何より、「決定」と「非決定」の「決定」を可能にするという、反省的な<決定の決定>を可能にするのも、「主権」の担い手である。
こうして観ると、大日本帝国憲法が「天皇主権」の憲法であったとするなら、「天皇」は「決定」と「非決定」の「決定」を可能にしていたことになる。しかし、戦前に天皇が自ら政治的な決定を自由に実践できたという認識は、当時の日本の政治システムの作動の実態とは相容れない。大日本帝国憲法を発布したのは、確かに明治天皇である。だがその内容は、明治天皇の自由な――あるいは、旧いヨーロッパの意味論で言うところの「恣意的(willkürlich)な」――発想に基づいていた訳ではなかった。1876年、明治9年に明治天皇が元老院に発した「憲法起草の詔」には、大日本帝国憲法が単なる諸外国の憲法の模倣であったはならないと記述されている。その内容は、2000年に及ぶ「我建国ノ體」に基づいた内容でなければならない。大日本帝国憲法は明治天皇が憲法制定権を行使して制定された訳ではない。それは日本の不文憲法を成文化した内容なのであった。
明治天皇が憲法を発布することで、大日本帝国憲法は天皇の権威によって正当化された。だがその内容は、明治天皇の自由意思によって決定されたのではない。大日本帝国憲法はあくまで、枢密院で審議されることで可決された。だからこそ大日本帝国憲法の「告文」には、「此レ皆皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シタマヘル統治ノ洪範ヲ紹述スルニ外ナラス」と記述されているのである。
一方、「国民」が「主権」の担い手として想定される日本国憲法の内容は、「国民」のみによって決定された訳ではない。日本国憲法の草案は昭和天皇が枢密院へ諮詢した上で、帝国議会に提出された。その後、衆議院議員の総選挙を経て、帝国議会で議決され、それが日本国憲法として成立したのだ。したがって、日本国憲法の内容を決定したのは国民の代表である一方、その内容は天皇の意思として決定され、その裁可と発布は天皇によって為された。日本国憲法は、「国民」のみの決定によって成立したのではなく、あくまで「国民」と「天皇」の双方によって決定されたのである。
大日本帝国憲法が「天皇主権」に対応し、日本国憲法が「国民主権」に対応するというのは、国策においても非現実的な認識である。大日本帝国憲法の時代、天皇には政府や統帥部によって決定された国策を否定する権能が与えられていなかった。天皇には、議会を無視して法律を制定することもできなければ、予算を規定することもできなかった。立法のみならず、行政や司法においても同様であった。日本国憲法においても、天皇には、それ単体としては国策の内容を決定する権能が無い。
こうした実態を観察すれば、戦後憲法学が導入し続けてきた「天皇主権」と「国民主権」の区別は棄却せざるを得ないことがわかる。「天皇主権」と「国民主権」の区別は、「国民」と「天皇」が相反する矛盾した関連にあるという戦後憲法学の枠組みの中でしか通用しない。現実は、「天皇主権」と「国民主権」の区別を導入し続けてきた戦後憲法学の盲点に位置する。日本における「主権」は、「国民」と「天皇」が一体となることで初めて成立するのである。言い換えれば、日本における「主権」の担い手となるのは、「国民」と「天皇」の<差異の統一>である。
だが、<差異の統一>はパラドックスに他ならない。憲法は、パラドックスを脱パラドックス化した上で「解釈」される必要がある。実際、「国民」と「天皇」の<差異の統一>こそが「主権」の担い手である一方で、そうであるにも拘わらず、「ここに主権が国民に存すること」と記述されているのは、日本国憲法の意味論によって、「国民」と「天皇」の区別が「国民」の側に「再導入(re-entry)」され続けているためである。つまり、「国民」と「天皇」の区別やその<差異の統一>は、「国民」によって決定されるという訳だ。
自己論理的なテクストとしての憲法
「国民」と「天皇」の区別は、日本国憲法の中でも導入されている。そのわかり易い例が、「世襲」の概念だ。日本国憲法第2条には、皇位が「世襲」のものであると記されている。だがその一方で日本国憲法第14条1項には、「法の下の平等」が記されている。もし「世襲」を忌み嫌う日本市民たちの如く、「世襲」が「法の下の平等」に反していると主張するものなら、日本国憲法第2条は、憲法違反であるということになる。つまり憲法そのものが、憲法違反になるというパラドックスが派生する訳だ。
しかし、この程度の直ぐにでも思い付くような言葉遊びに、日本の法システムが無頓着であるはずがない。現に日本の法システムは、日本国憲法を前提とした上で、法的なコミュニケーションを展開し続けている。法は、法の機能的問題領域において、法として機能し続けている。それは、こうしたパラドックスが脱パラドックス化されているためである。法学において、矛盾は排除されなければならない。憲法として記述されたテクストの中には、矛盾やパラドックスが無いという前提で、法のコミュニケーションが成り立つのである。言い換えれば、憲法の観察者は、そこに矛盾やパラドックスが無いように「解釈」しなければならない。
具体化して言えば、法の下のコミュニケーションは、こうしたパラドックスを、「原則」と「例外」の区別を導入することで脱パラドックス化する。つまり、「法の下の平等」を「原則」に位置付けると共に、「世襲」を「例外」に位置付けることによって、第2条と14条1項との間の矛盾やパラドックスを遮断しているのである。こうして、「法の下の平等」と「世襲」の区別が、「国民」と「天皇」の区別に対応付けられることとなる。日本国憲法は、それ自体が「国民」と「天皇」の区別に基づく<差異の統一>によって決定されただけではなく、自ら「国民」と「天皇」の区別を導入し続けている。こうして日本国憲法は、自己論理的(autologisch)な展開を可能にするテクストとして構造化されているのである。
政治と法の構造的な結合点としての憲法
機能的に分化したそれぞれの機能システムは、相互に無関連に作動している訳ではない。これらの機能システムは、言わばインターフェイスを介して「構造的な結合(Strukturelle Kopplung : Structural coupling)」の状態にある。構造的な結合とは、複数のシステムが互いにメディアと形式の差異で関連付いている状態を意味する。例えば、法システムと政治システムが構造的に結合しているのは、法システムが政治システムを形式化させるメディアとして作動していると同時に、政治システムもまた法システムを形式化させるメディアとして作動しているということである。システム構造は、外的環境に位置する別のシステムの構造と潜在的に関連している場合がある。その関連性は緊密である場合もあれば、緩やかである場合もある。専らその関連性が顕在化するのは、双方のシステムが相互に刺激し合う場合だ。
構造的な結合は、機能的に分化している近代社会のサブシステム間で起こり得る。例えば、経済システムと法システムとの間には「所有権(Eigentum)」や「契約(Vertrag)」が、法システムと政治システムの間には「憲法(Verfassung)」が、政治システムと経済システムの間には「租税(Steuern)」や経済指標や調達資金などのような数値が、政治システムとマスメディア・システムの間には「世論(Öffentliche Meinung)」が、それぞれ構造的な結合の結合点となる。とりわけ株式会社のような企業の組織システムは、こうした結合点を主題とした意思決定のコミュニケーションを形式化させることで、複数の機能的問題領域の結合を可能にしている。
憲法の機能は、通俗的な憲法論の主張に反して、むしろ政治と法の双方の自由度を強化することにある。憲法は、一方が他方を制御するために機能するのではなく、双方の機能システムとしての自律的な作動を保つために機能する。法と政治は、憲法という構造的な結合点を介してしか、相互に刺激を呈示できない。だが結合点が制約されているからこそ、双方はむしろ活発に刺激を呈示し合える。それが結果的に相互のシステムの自由度を強化しているのである。別の言い方をするなら、法システムと政治システムの相互依存は、憲法という意味形式によって、予め予測された水路へと限定される。そうして結合点を限定することにより、相互に刺激し合う可能性を高めている。
日本国憲法のみならず、成文憲法はいずれも自己論理的(autologisch)な推論に基づいたテクストになっている。憲法は、自己自身を法の一部として予定している。それは、規範としての法それ自体にとっての規範として形式化されることで、<規範化の規範化>という再帰性を構成している。憲法は、法を規範化する規範なのである。だが憲法に特徴的なのは、それが自身を「新法は旧法を破る」という規則の例外的な存在として位置付けているという点である。言い換えれば憲法は、法の修正可能性を制御する。だがここでいうところの「法」には憲法それ自体も含まれる。故に憲法は、自己自身の修正可能性を自己自身で規定するのである。いわゆる「憲法改正」の手続きもまた、憲法によって規定される。「憲法改正」の手続きそれ自体を改正する場合にも、「憲法改正」の手続きに従わなければならない。この意味で憲法の自己論理性は、「憲法改正」に対しても適用されることになる。
かくして憲法は、法の一種として、法の規範化を規範化する。それと同時に、憲法の自己論理性は、法の自己言及の一種として、自己自身を規範化する。こうして憲法は、自己論理的に、自己自身がそうすることによって、法システムが法システムの内部においてその責任を全うしなければならないということを、規範的に示すこととなる。
憲法の自己論理性は、政治システムの作動の前提にもなっている。憲法が想定しているのは、統治対象としての国家である。政治的なコミュニケーションでは、専らこれが憲法制定権力として期待される。政治システムは、憲法における権力の観察を観察することによって、権力保持者や主権者が誰であり、憲法が守られなかった場合の制裁が何であり、それ故に権力の行使が如何にして可能になっているのかについて、規範的に期待することが可能になる。それは、政治システムが、法を、政治的な目的の達成のために、<象徴的>に利用し得るということなのである。これにより、権力関係における闘争は、政治システムに委ねられることになる。一方で法システムは、法的な紛争の処理に注力することが可能になる。こうして政治と法は、国家の中で、互いの機能の差異を曖昧化することなく、絶えず遭遇し続けているのである。
機能的等価物の探索:組織システムとしての検察
憲法の社会的な機能は政治システムと法システムの構造的な結合点になることであるという上述した社会システム理論的な記述は、憲法の機能的等価物に対する分析を可能にする。この日本という社会に限定して観れば、政治システムと法システムの構造的な結合点として機能しているのは、日本国憲法だけではない。とりわけ日本社会における政治システムと法システムの作動の実態を観察すれば、組織システムとしての検察は、憲法同様に、双方のシステム間の構造的な結合点として機能していることがわかる。つまり組織システムとしての検察は、憲法の機能的等価物であると考えられる。
近代司法制度の根源
組織システムとしての検察が日本社会で構成され始めたのは、明治維新期の出来事である。その根源は幕末にあると言っても、決して過言ではない。明治維新を主導したのは薩摩藩、長州藩、土佐藩、そして肥前藩である。その主要人物たちは、「元勲」、「明治の元勲」、あるいは「維新の元勲」と呼ばれている。だが肥前藩だけは、倒幕運動には積極的ではなかった。しかし肥前藩は、例外的に藩政改革が進んでおり、独自の近代化を推進していた藩であった。1808年、イギリス軍艦のフェートン号事件が発生して以来、肥前藩は自らの国防警備力と列強諸国の軍事力との歴然たる差を思い知ることとなった。それ故、その後の肥前は独自に科学技術開発を進捗させることで、富国強兵と殖産興業の道を進む先駆的な存在となっていた。
それまで佐幕に徹していた肥前藩は、倒幕には消極的であった。しかし1868年の「鳥羽・伏見の戦い」で「錦の御旗」が薩長に翻ることで大勢が決して以来、肥前藩も方針を転換することになる。結果的に肥前藩は、「薩長土肥」の「雄藩」の一藩として位置付けられ、明治政府の主要官職に多くの人材を供給することになった。その技術力の高さと人材の豊富さが認められたのである。尤も、薩長から観れば、肥前は単に「勝ち馬」に乗りに来た新参者であった。明治政府は薩長土肥の藩閥政府に他ならない。だが、倒幕のための闘争を生き抜いた薩長こそが、あくまでも主流派であり続けた。時流に便乗した新参者として観察された土肥は、明治の体制を補完するための勢力に過ぎなかった。
こうした背景から、明治時代の新政府で中心部を担ったのは、とりわけ薩長の主要人物たちで構成された大蔵省であった。しかし、大蔵省の所管事項は直ぐに広大となり、慢性的な業務過多の状態を招いた。そのため政府は、民部省と内務省を設立することで、税制と予算以外の業務を移管していくことになった。この結果明治政府では、大蔵省と内務省が行政を主導していくことになった。この二つの省は、薩摩閥と長州閥の牙城である。だが、この両閥の勢力間だけでも政争は絶えない。そこで、同じく肥前藩の出身者たちは別の場所に自らの拠り所を見出すことになる。それが、現在の法務省の前身である司法省であった。
司法省は、1872年から1874年にかけて、司法職務定制を規定した。これが日本の近代司法制度の根源となる。この制度により、従来それぞれの地方の地方官に任せられていた司法権が地方から分離されると共に、司法省の管轄下に再配置されることになった。この関連から司法省は、全国に司法省の裁判所を設置しようとした。司法省が司法権を強化しようとしたのは、国民の法的な保護のためである。列強諸国に相対するためには、日本を近代的な文明国へと発展させなければならない。軍事力を背景に迫り来る列強諸国と対等に渡り合うためには、富国強兵も必要となった。そのためにまず重視されるべきなのは、国民の権益保護の確立である。肥前出身の初代司法卿である江藤新平の言葉を借りるなら、「国民の安堵」のためには法的な権力が必要となったという訳だ。
司法権の独立
日本の「検事」という官職が現在の意味で運用されるようになったのは、1872年の司法職務定制が規定されてからである。当時の司法卿である江藤は、検事を「民の司直」であると考えた。現在の「検察庁」に該当する「検事局」を創設したのも、江藤である。江藤によれば、検事に求められる役割は二つに区別される。一つは、民事裁判にも立ち合い、裁判を受ける国民を助けることである。もう一つは、裁判で不正が起こらないように監視することである。この二つが、検事に求められた役割であった。検事とは「法の番人」であったのだ。
しかし、全国に司法省の裁判所を設置するという司法省の試みは、簡単には進捗しなかった。それまで地方では、地方官が司法権を掌握していた。知事にも、県の最高責任者として司法権の行使が許されていた。そこには既得権益が形成されていた。更に、この地方官らを監督していたのは、当時の大蔵省である。そのため、既得権益者たる地方官との対立は、すなわち薩長閥との対立を意味した。
江藤が司法省を去った後、国内法の制定は大日本帝国憲法を起草したことでも知られている井上毅を中心に進められた。井上は、派閥では伊藤博文に連なる。1875年には、現在の最高裁判所に当たる「大審院」が設置された。下級裁判所はこの下に配置されている。大審院はフランスの「破毀院」をモデルにしている。しかしフランスの「破毀院」と異なるのは、下級審の判決を破棄するだけではなく、大審院が自身で判決できる点である。「予審制」を取り入れたのも、フランスの司法制度に準じてのことである。刑事事件の審理は、検事の予審請求で始まり、予審を行う判事が捜査を実施する。その後は大審院以下の下級裁判所も整えられた。この法整備により、後の高等裁判所となる「控訴院」、地方裁判所、そして後の簡易裁判所に当たる「区裁判所」が構成された。
大日本帝国憲法下の大審院は、日本国憲法下の最高裁に比べて権限が弱かった。だが、時の政権の圧力に屈することのない運用が為されていた。しかし、「司法権の独立」については未発達であった。司法権の独立とは、如何なる権力も、裁判の内容に干渉してはならないということだ。日本国憲法第76条第3項には、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と明記されている。これを「裁判官職権行使の独立」という。仮に裁判官が権力者の圧力に左右されてしまえれば、公正な裁判はありそうもないものとなる。だが大日本帝国憲法時代の司法省には、何の政治力も与えられていなかった。事実上、司法省は時の政権の言いなりであった。江藤以来、薩長閥に反抗的であった司法省はもはや見る影も無かった。
刑事訴訟法制度の近代化
日本が日露戦争に勝利した時期、官僚組織の勢力関係も大きく変化することになった。明治維新初期は藩閥が主流であった。だが日露戦争以降は、学閥がこれに取って代わるようになる。軍では、陸軍大学校と海軍大学校の卒業生が高級幹部の地位を独占していた。文官でも東京帝国大学法学部の卒業生が官僚の地位に就いていった。だがこの時点でも司法省は、まだ大蔵省や内務省に一歩及ばない地位にあった。この司法省を強力な官庁に押し上げたのが、平沼騏一郎である。
日露戦争後には、新刑法の制定が進められた。明治39年の起草から翌年の議会審議まで、平沼は一貫して担当官を務めている。旧刑法の改正は日露戦争前からの懸案事項であった。だがそれは何度も審議未了で廃案となっていた。日露戦争後に起草された新刑法は、ドイツの刑法学を参照して起草されているとされる。尤も厳密に言えば、平沼らは、イギリス、フランス、ドイツのそれぞれの司法制度を観察することで、とりわけイギリスの制度を高く評価していた。同時に彼は、当時の予審制度についても改革の必要性を訴えている。平沼は、予審判事が有する広範な権限を警察と検事に振り分けることで、日本で運用されている刑事訴訟法制度を近代化することが必要であると主張していた。
従来の司法部と検察は、政治家や官僚の不正に対して無力であった。しかし1900年代になると、徐々に司法部と検察の権力が増大していくことになった。と言うのも、平沼らを中心とする検察が、政治家の汚職にメスを入れ始めたのである。政治献金を私的な利益のために利用すれば、それは政治家の汚職となる。そうした政治家は世論の反感を買うことになる。逆に言えば、政治家の汚職を摘発する検察と司法部は、世論からの支持を受け易い。そして、政治家の汚職に関わる刑事事件は、世論の注目を集め易い。こうした主題は、テレビ局や新聞社をはじめとしたマスメディア・システムの組織にとっても、都合の良い主題なのである。まさにこの世論の観察とマスメディアのコミュニケーションを介して、司法部と検察は自らの政治的な権力を強化していったのである。
政治家の訴追は、検察という組織システムの意思決定によって実施され始める。検察は、起訴するか否かを選択することができる。例えば議員辞職と不起訴をバーターにすることも不可能ではない。つまり検察はこの時期から、政治的な権力における切り札を手にしたのである。司法部と検察の権力が強化される最中、その中心にいたのは常に平沼であった。この司法部と検察の体制は、戦後のGHQによる戦後処理が実施されるまで続くこととなった。
<最上位>の法
ここで、我々の歴史に対する観点は、上述した日本国憲法制定期に追い付くことになる。
実際のところ、GHQによる「民主化」以降も、検察の政治的な権力は強化され続けた。例えば1948年にGHQの指導によって制定された政治資金規正法は、戦後の混迷期における政治システムの安定化を指向している。この法律の制定により、各政治団体は、政治資金収支報告書の提出が義務付けられるようになった。それは、政治献金や政治資金の流れを明確にすることで、その取り扱いを直接的に規制するためである。この規制に違反した場合には罰則も課せられる。
周知のように、検察官は独任制官庁である。検察官個々人に対して、法務大臣は指揮権を持たない。検察官は独立して捜査や起訴を実施することができる。そうしなければ、仮に政治家が不正を犯した場合に、政治家を訴追することができなくなるためだ。それ故、検察官にはある程度の独立性が与えられている。「ある程度」であるというのは、完全に独立させてしまえば、今度は検察側の不正に対処できなくなるためだ。それ故に法務大臣は、検察庁の頂点に立つ検事総長に対してだけは、指揮権を発揮することができるのである。
このように、法の機能的問題領域を前提に作動する組織システムとしての検察は、検察官の「ある程度」の独立性を担保することで、政治システムとの疎結合状態を可能にしている。この疎結合状態は、政治システムと法システムの双方に対して、それぞれの機能的問題領域の問題解決へと特化する余地を与えている。政治システムは、ただ政治の機能的問題領域で主題となった問題の解決へと注力するのみである。法システムもまた、法的な問題解決策を貫徹する。
法システムと政治システムが相互に刺激を与え合うとすれば、それは構造的な結合点を介してのことだ。まさにこの疎結合状態にこそ、構造的な結合の核心がある。構造的な結合という社会システム理論的な概念が言い表しているのは、相互の刺激を高めるためには、当の機構が排除効果を発揮しなければならないということである。何故なら、相互の無関連性があるからこそ、特定の面での相互依存を強化することができるためだ。法システムは、実定化で立法の可能性を備えることで、自身を政治的な影響力の下に置く。政治システムは、民主主義を通じて、政争や政局を変更するために法を変更する。だが、刑事訴訟法や政治資金規正法をはじめとした、組織システムとしての検察が関わる法は、こうして変更される法の候補からは排除される傾向にある。確かに双方の機能システムは、組織システムとしての検察のコミュニケーションを介して、互いの観察を観察し合う。だが、検察そのものを規定する法は、この相互観察の盲点として位置付けられているのである。
こうした面から観ても、この日本社会における組織システムとしての検察は、法システムと政治システムの構造的な結合点として作動していることがわかる。この二つの機能システム間の構造的な結合点であるという点で、検察は憲法の機能的等価物となる。だがこの機能的等価性は、双方のシステムにおいて、それぞれ異なる意味を持つ。法システムにとっての憲法とは、最上位の法であって、基本法である。検察が準拠する刑事訴訟法は、日本の法システムにおいては、まさにこの<最上位>の法の機能的等価物として意味付けられる。一方、政治システムにとっての憲法とは、政治の道具に他ならない。この政治の道具としての憲法は、政治的な状況を変異させる道具として機能すると同時に、にも拘らず状況を変異させないための<象徴>としても機能する。検察による政治家の訴追もまた同様に、政治の道具であると共に象徴としても機能する。と言うのも、政治家の訴追という法的なコミュニケーションの背景にあるのは、政治家の権力闘争という絶え間無い政治的なコミュニケーションであるためだ。ある政治家が汚職により失脚する可能性が高まれば、その空いたポストを巡る争いが生じるというのは、想像に難くないであろう。
このように、日本の政治システムは、まさに憲法と検察を象徴的に利用することによって、恰も法システムが政治システムを制限して刺激しているかのように振る舞うこともできている。権力関係の変異がたとえ政治家の訴追によって駆動されていたとしても、権力関係の変異そのものについては、政治の機能的問題領域に委ねておけば良いという訳だ。
政治的なコミュニケーションと法的なコミュニケーションは、構造的な結合点となる憲法とその機能的等価物としての検察の重要性を、それぞれ要求することができる。つまり、憲法にせよ検察にせよ、それは政治的に重要であると同時に法的に重要である対象として記述することができる。しかし、その対象の意味を同定しようとするなら、その前提と帰結を制限するコミュニケーションの回帰的なネットワークに準拠せざるを得ない。この社会システム理論的な観点から観れば、政治システムと法システムは根本的に区別されなければならない。憲法と検察を主題としたコミュニケーションが、この双方のシステムの差異を観察できなかった場合、そのコミュニケーションはただ混乱を生み出すだけとなる。
「検察官同一体の原則」と「検察官独立の原則」の差異
日本社会の法システムにおいて、検察庁ほど法の機能的な分化に貢献してきた歴史を持つ組織システムは他にない。検察とは、裁判の中で刑事裁判を提起する機関である。日本国憲法第76条は「すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する」と定める。司法権を司る裁判所は、裁判を実施する。その裁判は民事裁判と刑事裁判に区別される。民事裁判とは、基本的には金で解決できる事件を扱う裁判である。これに対し、刑事裁判とは殺人や覚醒剤の密輸などのような犯罪に関する裁判である。
刑事裁判で審査される内容は二つである。一つは被告人が法に違反する犯罪を実行したか否かだ。ここでは有罪と無罪の区別が導入される。もう一つは量刑である。ここではどの刑罰が妥当なのかが審査される。日本の法制度では、裁判所は法が定める以上の刑罰を科すことはできない。例えば覚せい剤を密輸した場合は覚せい剤取締法第41条で「一年以上の有期懲役」と規定される。それ故、覚せい剤を密輸した犯人に対しては、無期懲役の判決を下すことはできない。
裁判を起こすのが行政権力である検察官ならば、判決を下すのが司法権力である裁判官である。法システムの社会構造において、裁判を起こす権力と判決を下す権力は明確に区別されている。近代国家では、如何なる権力者であろうと、自分で起こした裁判の判決を自分で下すことは許されない。一方、判決を下す権限を有している者には、裁判を起こすことができない。これが権力分立の社会構造である。
三権分立の社会構造において、立法府と行政府の分立は厳密ではない。むしろ、イギリスで始まった近代憲法政治においては、総選挙で選定された衆議院の多数派が内閣を組織する立法府と行政府の「権力融合」の合理性が説かれてきた。この合理性は、世界の模範となっている。しかし、行政権に対する司法権の独立、特に裁判所と検察の分立は文明国の掟とされている。行政権に対する司法権の独立が必要となるのは、時の政権から独立していなければ、公正な裁判は実施されるはずがないためである。故に、如何なる権力者も法に従わなければならないのだ。
憲法で規定されているように、日本の検察業務を担っているのは検察庁である。検察庁は法務局の特殊な機関である。検察庁法第1条の通り、それは検察官の実施する事務を統括する。法務や検察の頂点に君臨しているのは、検察庁の検事総長だ。法務事務次官は、本省の事務方の長として、検事総長と並ぶ立場ではある。
日本の裁判制度は三審制である。最高裁判所、高等裁判所、そして地方裁判所という序列になっている。検察庁の構造もこの序列に応じている。検察庁は、最高検察庁、高等検察庁、そして地方検察庁の序列で構造化されている。検事総長と次長検事は、共に最高検察庁の次席と検察官である。検察庁法第15条では、検事総長、次長検事、高等検察庁の長である高等検察庁検事長は、内閣が任命し、天皇から認証を受ける認証官であると定義されている。法務事務次官は認証官ではない。それ故法務省における検察官の地位が高いことがわかる。
検察は、最高検察庁を頂点とした階層化された組織である。事件が観察された際には、検事総長以下一体となって捜査、公判にあたる。個々の検察官には検察権が与えられている。だが、捜査、起訴、公判を通じた法的なコミュニケーションは、検察庁が一体として動いていると認識される。これを「検察官同一体の原則」と呼ぶ。
「検察官独立の原則」というのもある。一人の検察官は、財務省や外務省などの官庁と対等であるという建前になっている。しかし実態としては、「検察官同一体の原則」が支配的となっている。そのため「検察官独立の原則」は有名無実となっている。
歴史的な概念としての刑事訴訟法
日本に最初に近代的な刑事訴訟法制度が成立したのは、1880年の治罪法によってであった。この法律は、フランスのギュスターヴ・エミール・ボアソナードの草案を基礎としている。したがってこの時点の日本の刑事訴訟法は、フランス法に判を取っていたことになる。ここでは、検察官のみが起訴を実施する起訴独占主義が採用され、予審制度も導入されている。公判は公開主義と口頭主義によって実施された。
大正11年、1922年になると、この刑事訴訟法が全面的に改正され、いわゆる旧刑事訴訟法が成立した。この旧刑事訴訟は、当時のドイツ法と1920年におけるドイツ刑事訴訟法草案を参照して制定された。ここでは、大正デモクラシーの時代潮流に準じて、強制処分に対する規制を強化しつつ、弁護権を拡充するなどといった自由主義化の傾向が見受けられる。しかし同時に捜査機関の捜査権や検察官の起訴裁量も拡充されたことで、公判前手続きの改革も進められた。
第二次世界大戦後になると、人権保障を基軸とする日本国憲法の制定に伴い、刑事訴訟法の改正も余儀無くされた。1948年、アメリカ法を大幅に取り入れた刑事訴訟法が制定された。これにより、まず予審が廃止された。そして令状主義が採用されたことで、捜査における糾問主義が破棄された。代わりに、弁護権の強化と黙秘権の確認、伝聞法則などのような英米型の証拠法則が採用されることになった。一連の流れは、全体的に人権保障を主題とした当事者主義の起訴構造が採用されることになった。
検察と警察の差異
刑事事件における捜査機関は、警察官と検察官である。第二次世界大戦前は、大陸法に準拠することで、検察官が捜査の主体となり、警察官はその補助者に留まっていた。大戦後は、捜査の主役は警察官で、検察官はその補助役に過ぎないと考えられている。それは、一方では警察の捜査能力が向上し、重要処分には令状主義の枠組みが採用され、他方では公判の論争主義化が進んだことで、検察官の活動が公訴や公判に集中すべきであると考えられるようになったためである。
捜査を実施するのが警察や地方検察庁であっても、その捜査方針や担当捜査官を決定する人事などは、法務や検察の首脳によって決定される。この点で、「検察官同一体の原則」は捜査において徹底されている。重要事件に関しては、検察首脳の全員一致の下でしか動かない。検察首脳会議の強制力は、警察にも及ぶ。
警察は行政機関としては別の組織である。しかし、検察庁が捜査を実施する事件については、警察が検察の指揮下に入る。警察が検察の指揮命令に従わない場合、当該警察官所属の長に対し、罷免や処分を要求する権限も、検事総長に与えられている。これは刑事訴訟法第194条で規定されている通りである。
警察は巨大官庁である。しかし、検察庁は警察を上回る権限を有している。警察に可能な捜査と逮捕は、検察にも可能である。だが起訴は検察にしかできない。警察が逮捕した被疑者を起訴するか否かは、検察の一存となる。
刑事訴訟法第203条第1項によれば、警察が犯人の身柄を拘束できるのは48時間以内である。その後は速やかに検察官に送致しなければならない。裁判への起訴を実施するのは検察官のみであることは、刑事訴訟法第247条で規定されている。こうした規定事項は、国家追訴主義や起訴独占主義などと呼ばれている。警察官が自分で逮捕した被疑者を起訴することはできない。
刑事訴訟法第191条の通り、犯罪の捜査を実行する権限は検察官にも認められる。検察庁法第6条は、「検察官は、いかなる犯罪についても捜査をすることができる」と規定している。警察の捜査を経ずに、検察庁が独自に捜査を開始する事件もある。
警察の捜査を経由した場合であっても、検察が受理した事件の全てが起訴手続きに進む訳ではない。例えば、被害者からの親告があることが成立要件となる親告罪であれば、被害者が親告を取り消した場合には、犯罪事実それ自体が成立しなくなる。そうした場合には、そもそも起訴に進むことができないのだ。
刑事訴訟法第248条は、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる」と規定している。検察官には、起訴が可能な事件について起訴猶予処分にできる裁量が認められている。これを「起訴便宜主義」と呼ぶ。
歴史的な概念としての「捜査」
捜査という概念もまた歴史的に変異してきた。戦前の捜査とは、捜査機関が一方的に被疑者を取り調べる職権主義的あるいは糾問主義的な手続きに過ぎなかった。それは、公判に引き継ぐための独自の調査段階であると考えられた。しかし戦後では、人権保障が主題となったことで、被疑者の人権も保障されるべきであると考えられるようになった。被疑者は単なる取り調べの対象ではなくなったのだ。また、公判こそが有罪と無罪の区別を明確化させるべき主要な手続きであるとも考えられるようになった。予審も無くなった結果、相対的に捜査の地位が下がったことで、捜査とは訴追側当事者が一方的に実施する起訴準備の活動に過ぎないとされるようになった訳だ。捜査もまた、当事者主義化したのである。
法律は、捜査が任意捜査を原則とする旨を明確に宣言している。強制処分は、特に法によって許容されている場合に限って、その規定通りの実施が可能になる。無論、任意捜査とは「何でも構わない」捜査なのではない。憲法第31条の適正手段の枠組み内でのみ許容される。法がこの任意捜査の例外として許容している強制処分は、逮捕、拘留、捜索、押収、検証などである。これらの強制処分は、原則的に裁判官の適正な令状が無ければ実施できない。
逮捕は、犯罪の相当な嫌疑がある場合に、検察官や警察官の請求により、裁判官が発布した逮捕状によって実施される。この原則の例外となるのは、現に犯罪が実行されている場合の現行犯逮捕と、重大犯罪で嫌疑の程度が高く、かつ逮捕状を請求する余裕が無い場合の緊急逮捕である。被疑者は警察官による逮捕の後48時間以内に検察官に送致される。
検察官の手元では更に24時間、合計72時間拘束される。検察官による逮捕の場合は48時間拘束される。この時間内に嫌疑が晴れれば釈放される。捜査が完了すれば起訴される。しかし多くの場合は捜査が完了しないため、次の拘束処分である勾留の請求が為される。勾留も裁判官の令状によって実施される。その際、逮捕の場合とは異なり、裁判官の被疑者に対する勾留質問の手続きが進められる。令状が発布されると、被疑者は10日間拘置される。必要に応じて更に10日間加算される場合もある。
捜査段階における被疑者の弁護権は、第二次世界大戦前に比べて最も変化した部分である。法は弁護人依頼権を保障し、逮捕、勾留されている場合については、これを憲法上の権利にまで高めている。これは憲法第37条第3項の通りである。依頼権それ自体が保障されただけではなく、被疑者と弁護人との自由な秘密交通権も認められている。尤も、捜査のための必要がある場合には、接見の日時や場所を捜査官が指定するという制度が採用されている。これには勿論、被疑者の防衛権を制限してはならないという留保が付けられているものの、実際にはこの指定制度によって、自由交通権の大部分が制約されている。
不起訴の抑制装置
公訴を提起する権能は国家機関である検察官が独占している。これを国家訴追主義あるいは起訴独占主義という。検察官は階層的に分化した全国的な組織システムである。そのため、この制度は運用次第で利点が増幅する反面、大きな弊害も生む可能性を孕んでいる。日本では緩やかな起訴便宜主義が採用されているために、検察官は広い訴追裁量権を有している。つまり、犯人の性格、年齢、境遇、犯罪の軽重、情状、犯罪後の情況などから、起訴の必要が無いと認め得る場合には、たとえ有罪の嫌疑が十分であっても、検察官は起訴を見合わせ、起訴猶予を選択することもできる。
そこで、この訴追裁量権をある程度制御するために、不起訴に対する二つの抑制手段が設けられている。一つは検察審査会で、もう一つは準起訴手続きである。
検察審査会はアメリカの大陪審を参照して設計されている。地方裁判所の管轄ごとに最低でも一つは設けられている。検察審査会の構成員は、くじで選抜された11人の国民である。日本の検察審査会にはアメリカの大陪審のように起訴権は有していない。しかし、検察官の不起訴処分を調査することで起訴相当か否かなどについて議決し、検察官の反省を促すことができるとされる。議決には拘束力が無い。それは単なる勧告に留まる。検察審査会の存在そのものは、公訴権の運用を妥当化させる機能を有していると、規範的に期待されている。
準起訴手続きは、訴追裁量権に対するある程度の制御を可能にする検察審査会の機能的等価物である。公務員の職権乱用罪などで不起訴処分があった場合、告訴をした被害者が直接裁判所に審判の開始を請求する手続きである。請求を認めた場合、裁判所は、起訴があった場合と同様に、訴訟法に基づいた手続きを開始することができる。
不当な不起訴のみならず、不当な起訴に対する検証も必要ではある。そのため大陸法では予審が導入されている。英米法ではまた予備審問や大陪審が機能している。だが日本ではこのいずれも存在しない。もし刑法に刑の宣告猶予や必要的免除の規定があれば、それらによって抑制することが可能になる。しかしそのような規定も日本の法律には無い。不当に起訴された被疑者を救済する手続きがあるとすれば、それは審理を急ぐことで早く無罪を勝ち取る以外に無いのである。
形式としての証拠
検察官が裁判所に事件を起訴する場合は、起訴状のみを提出して実施する。起訴状には、被告人の指名や被告人を特定するに足る事項、公訴事実、罪名を記載する。刑事訴訟法第256条第6項は、裁判官に事件についての予断を生じさせる資料を起訴状に添付することや、そうした資料を起訴状の中で引用することも禁じられている。刑事裁判とは、裁判官が起訴状を読み、その手続きの妥当性を審査することを意味する。
証拠の証明力は事実認定者である裁判官の自由心証に委ねられている。これを自由心証主義という。この自由心証主義に準拠した証拠法は、目撃証人や自白を要求する法廷証拠主義に対し、裁判官の合理的な理性に信頼を置く制度で、近代裁判の原則の一つである。唯一の例外は、自白に対する補強証拠の要求である。つまり本人の自白だけでは被告人を有罪にすることはできないということだ。
自由心証主義と並ぶもう一つの近代裁判の原則は、「無罪の推定」である。これは、「疑わしきは被告人の利益に」の原則である。この原則が指し示しているのは、挙証責任が常に訴追側にあるということだ。この点に関する根拠規定は存在しない。しかし世界人権宣言でも主張されている事柄でもある。罪の有無については一般的に検察官が挙証責任を負う。
証拠能力には幾つかの法的な制約がある。一つは、関連性や重要性である。争点にとってあまりにも遠い関連しかない場合には、証拠から排除される。もう一つは黙秘権の法則である。被告人については、一切の事実を黙秘する包括的な供述拒否権が認められている。第三者である証人について、どの範囲まで黙秘権が保障されるかが争われているが、直接的な犯罪事実あるいはそれとの密接な関連のある事実については、「自己に不利益な供述」として供述拒否権があるとされる。
一方、強制、拷問、脅迫などによる自白については、証拠能力は認められない。これはイギリスのコモン・ローに由来する。人権擁護に対する意識が強化される以前の時代には、こうした自白は嘘の供述である可能性が高いという認識から排除されるべきであると考えられていた。しかしとりわけ戦後の人権保障が重視されるようになってからは、こうした自白の強制は人権侵害であるとして退けられるようになっている。
伝聞法則もまた証拠能力の法的な制約として機能している。これは、反対証拠の吟味権を担保するための証拠法則である。反対尋問を経ていない証拠を原則として排除することを意味する。この法則により、又聞きの間接的な証拠や書証が排除される。当事者主義を基調とした公判中心主義が重視される訳だ。しかし、原始証人が死亡している場合や原始証拠が特に高い信用性の期待され得る情況の下に行われた供述である場合には、例外とされる。
刑事裁判とは、事件発生から裁判までの過程に不正が無いか否かを裁判官が審査する営みを意味する。刑事裁判は、検察官の起訴によって実施される。刑事裁判とは、検察官が起こした裁判を審査することを意味する。被告人が事件の真犯人であるとの立証責任を検察官が果たした時に、被告人は有罪となる。その際、自白だけでは有罪にはできない。物証が無ければならない。これは憲法第38条、刑事訴訟法第319条で規定されている。
法の適正手続き
検察官には、「合理的な疑いを差し込む余地のない程度の立証」が要求される。被告人と弁護人は、検察官の一点の誤り、すなわち「瑕疵」を証明できれば、それで無罪となる。言い換えれば、被告人は自らの無罪そのものを証明する必要が無い。逆に、検察官が完全に立証責任を果たさない限り、被告人を有罪にすることは不可能なのである。言い換えれば、刑事裁判で審査されるのは、被告人ではなく検察官なのである。この審査が仮に「裁き」であるのならば、裁かれるのは、刑事裁判の過程に不正があった場合の検察官なのだ。
この意味で、日本の刑事裁判は、組織システムとしての検察の自己言及的な作動によって実現している。日本の刑事裁判は、検察官による検察官への審査として結実しているのである。刑事裁判を始めるのも検察であり、「裁き」もまた検察の意思決定なのである。この自己言及性こそが、安定的な<有罪率>を可能にし、この自己言及性こそが、世に言う「法の適正手続き(due process of law)」の日本版となる訳だ。
派生問題:国家暴力のパラドックス
西欧の近代国家と同じように、日本社会における国家の概念を理解する上でも、やはり「暴力(Gewalt)」の概念が重要となる。国家の暴力が動員されるのは、国家以外に由来する暴力活動を阻止するためである。無論、上手く阻止できる場合もあれば、それほど上手くは阻止できない場合もあるだろう。だが、国家暴力がそれ以外の暴力を阻止してくれるという期待が構成されるのは、揺るぎない社会的な現実であるかのようにも考えられる。期待外れこそあれど、国家暴力は規範的に期待され続けているのである。
暴力は、他の暴力を阻止するという意味では、否定的な自己言及、すなわちパラドックス化された概念である。暴力は、暴力の追放のために役立つ。暴力という概念の中には、既に暴力の排除が組み込まれているのだ。暴力の概念は、<排除されたものの包摂>という形式を取っている。この限りで、この暴力という概念は、パラドックス化された概念なのである。
国家暴力という概念は、こうした暴力のパラドックスを脱パラドックス化する上で機能する。国家暴力という概念は、<正統な暴力>と<正統ではない暴力>の区別を導入する。その上で、国家暴力にのみ、正統性を付与するのである。これを前提とすれば、正統性は、如何に根拠付けられ、また如何に論争を招いた概念であっても、国家暴力という概念の一部なのである。
ここで問題となっているのは、討議や合意形成による根拠付けの形式などではない。正統性それ自体が重要という訳でもなければ、その正統性の規範的な根拠付けの確実性が重要なのでもない。決定的に重要となるのは、<正統な暴力>と<正統ではない暴力>の差異である。当の暴力が如何に潜在的な暴力であったとしても、それに対抗する暴力が無ければ、<正統な暴力>もあり得ない。国家暴力という概念もあり得ないであろう。そうであるにも拘らず、この二つの矛盾し合い競合し合う暴力の中のいずれの暴力が<正統な暴力>であるのかは、議論や文書資料によって可視化することもできる。ただし、この問題が設定されるのは、対抗する暴力が発現した場合だけである。
国家暴力の正統性は自動的に付与される。だがそれは、継続的な獲得努力を要する類の正統性である。国家暴力の正統性は、正統と非正統の区別の中で主張されなければならない。政治システムの作動の水準で言えば、国家暴力を駆使する組織には、規則への違反が生じても平然と放置しておくことができない。そうした組織は、その違反を指摘することで、その違反に反作用しなければならない。一方、国家暴力の意味論の水準で言えば、正統な暴力が何のために動員されるのかを説明する正当な根拠が記述されなければならない。それ故に暴力の正統化は、政治システムが継続的に取り組まなければならない問題となる。暴力の正統性は、政治の機能的問題領域に位置付けられるのである。
尤も、この政治の問題設定に対しては、根本的に自明性に準拠した問題解決策を導入することもできるであろう。旧来の全体社会であれば、政治体制はこの問題を政治的権威の宗教的な基盤によって解決しようと試みてきた。日本社会であれば、それが仏教や神道である。こうした宗教システムの意味論によって、政治的な権力が、詰まる所、社会関係の帰属にしか基づいていないということが、隠蔽されるようになっていた。つまり政治的な権力は、「権力がある」と信仰されている対象にしか基づいていなかったのである。しかし中世以降、宗教と政治の分離は、近代社会の機能的な分化の進行と共に、著しく顕在化することとなった。もはや正統性という政治的な問題に対して、宗教の意味論に基づく問題解決策を導入することができなくなる。政治的な問題に対しては、政治的な問題解決策を導入せざるを得ないのである。
だが、その政治的な問題解決策の一つとして機能している国家暴力は、一方では法システムとの構造的な結合を前提としている。その結合点に位置付けられるのが、日本社会においては、憲法とその機能的等価物としての検察である。法との関連で言えば、とりわけ「刑罰権(Strafgewalt)」は、一つの確立された国家暴力である。刑罰は、暴力の自己言及の表現である。つまり刑罰は、その刑罰の規定の無視に対して反作用するという可能性を、暴力に対して与えている。だがその際、刑罰は、刑罰規定の無視に反作用するというまさにそのこと以外の目的を何ら持つことがなく、規定の無視に反作用することができている。
ただし、この問題解決策は、国家領土内で決着を付けることのできる紛争についてしか妥当しない。国家横断的な紛争や不明確な領土関係を巡る闘争の場合には、暴力と暴力の衝突が裂けられなくなる。これが、いわゆる「戦争」である。とはいえその場合にも、国家が暴力行使の第一次的な対象となる。その国の国民にも被害は及ぶとはいえ、それは二次的で派生的な対象化でしかない。
「戦争」というコミュニケーションにおいて、ある国家の国家暴力は、他国の国家暴力を排除する。それ故、<排除されたものの包摂>という形式を取る否定的な自己言及としてのパラドックスは、暴力のみならず国家暴力という概念からも派生することになる。「戦争」においては、暴力の脱パラドックス化の形式としての国家暴力が、それ自体として同様のパラドックスに陥ることになるのだ。尤も、このパラドックスは、国家暴力に対する規範的な期待によって意味論的に隠蔽され得る。そうした期待を保持するのが、その国の法システムの務めとなる。しかし、国家暴力が規範的に期待され続けているということは、それが継続的に期待外れを派生させていることも意味している。機能的な分化という社会構造の社会進化が十分に達成できていない国々では、こうした法システムの作動も保証されていない。法が機能不全になるような国家では、依然として、国家暴力のパラドックスが問題として顕在化してしまう。
問題解決策:法治国家と非法治国家の区別
それ故に国際社会は、「暴力」と「国家暴力」の区別の導入による脱パラドックス化よりも、しばしば国家そのものの区別を優先する傾向にある。「暴力」ではなく「国家」を区別するのである。国家暴力との関連で言えば、ここで具体的な形式となるのは、法治国家と非法治国家の区別だ。国家によって企てられた拉致、国家による強制送還、国家に承認された違法な処刑、逮捕、拷問、あるいは政治的汚職や経済犯罪の被疑者や被告人の身柄拘束や長期拘留など、諸々の人権侵害の問題を参照すれば、この区別の枠組みが<正統な国家暴力>と<非正統な国家暴力>の区別に照応していることがわかるであろう。今や法治国家が名実共に機能しているという保証の方が、人権の承認に対する機能的等価物になっている。憲法が基本的人権の尊重を主張していても、法の機能的問題領域においては、人権の承認はある種の冗長な解決策なのである。その国で人権が侵害されるのは、法治国家が機能していないためであるからだ。
<正統な国家暴力>と<非正統な国家暴力>の区別の導入は、他国の人権侵害に対して口を挟むことを可能にしている。そうした人権侵害は<非正統な国家暴力>であるが故に、<批判的な意識>や「遺憾の意」を告げることも可能なのである。しかしこう述べた場合に忘れてはならないのは、<非正統な国家暴力>の影響力である。法治国家は「内政不干渉の原則」に準拠している。それ故<正統な国家暴力>は、あくまで国家の内部を指向している。これに対して、<非正統な国家暴力>は、より国際的な影響力を発揮できる。一国の要人が他国の人権侵害に口を挟めば、「内政干渉である」という反論を受けることになるかもしれない。国際法などお構いなしに、<非正統な国家暴力>の担い手となる非法治国家は、そうした反論提起を可能にしているのである。一方、それと同時にそうした非法治国家は、逆に他国への内政干渉を容易としている。マスメディア・システムによって構成される世論を介せば、デマゴーグやプロパガンダによって、他国の政治的なコミュニケーションに影響を及ぼし得るためである。
派生問題:民主主義のパラドックス
ここにおいて国家暴力のパラドックスは、民主主義に潜むパラドックスを引き摺り出すことになる。民主主義的な政治体制は、選挙を介した継続的な意思決定過程に他ならない。形式的に言えば、意思決定とは、選択可能な選択肢の中から特定の選択肢を選択する振る舞いである。だが民主主義的な政治体制では、継続的な意思決定過程が展開されるにも拘らず、別のあり方でもあり得る意思決定のために、可能な限り広範な選択肢を準備しておくことが望ましいあり方となる。何故なら、一度決定した内容を再考する余地を与える必要があるためだ。選挙に基づいた民主主義的な政治体制は、それが原理上取り返しの付かない意思決定であろうとも、それが国のあり方を決める権利の保持者たちによって決定された事柄であるなら、承認してしまう。だとすると、国のあり方を決める権利の保持者たちがそう望むのならば、民主主義的な意思決定過程は、国を民主主義を超越した社会へと導いてしまう可能性もある。つまり、民主主義を放棄する選択肢すら、民主主義的に選択することが可能なのである。
この民主主義の否定的な自己言及としてのパラドックスは、如何なる法治国家でも起こり得る。また、如何なる非法治国家も、持ち前のデマゴーグやプロパガンダを駆使することで、他国をこうしたパラドックスへと導くことができるであろう。主権概念との関連から「国民」と「天皇」の区別を導入できる日本の社会が、こうしたパラドックスを如何に無害化し得るのかは、やはり見物ではある。
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