哲学の機能的等価物としての仏教、一切皆苦の哲学的人間学 | Accel Brain

哲学の機能的等価物としての仏教、一切皆苦の哲学的人間学

Accel Brain; Console×

問題再設定:一切皆苦

神経瞑想状態を如何にして可能にしているのかという問題設定を前提とするなら、原始仏教瞑想機能的等価物を列挙することは容易い。しかしながら、これらの機能的等価物の多くは、その背景神経生理学や心理学を備えている。こうした観点から瞑想状態をた場合、瞑想状態の意味論社会構造の関連が盲点となってしまう。

とりわけ遊歩、探究、ギャンブルのように、心理学者たちが説明する内発的な動機付けによって駆動されている集中状態を瞑想状態の機能的等価物と見立てた場合、原始仏教が指し示す一切皆苦の問題との矛盾が生じてしまう。脳内麻薬麻薬による陶酔状態は、原始仏教徒からすれば、欲求に駆り立てられた「」そのものとなるであろう。

仏教神経科学や心理学と関連付けた場合の盲点となるのは、仏教の哲学的な側面である。確かに、仏陀は自身が哲学者であると公言したことは無い。マインドフルネス瞑想意味論も、どちらかと言えば生活実践の形式として機能する傾向があるように思える。だが一方で歴史上、仏教はある種の哲学として規範的に期待されてきた。とりわけ先述した「我」が主題になる場合には、仏教による観察は、哲学の観察として観察される。そして、仏教徒たちの観察観察する仏教学者たちは、彼ら仏教徒らが、哲学的な認識の理論とその実践を両立することができているという。

確かに、仏教教義が形而上学的な認識として観察される場合には、その教義が哲学として受容されることはあり得なくなる。哲学が概念、言語、そして意味論の分析であると考えるなら、一方で仏教教義はあくまで「治療的(therapeutic)」であり、「救済論的(soteriological)」であるということになる。それは本質的に哲学的であるとは見做されない。

しかし、このように哲学を仏教教義から区別したとしても、仏教学者たちは、この哲学と仏教教義区別仏教の側へと再導入(re-entry)している。しばしばデイヴィッド・セイフォール・リエッグのような仏教学者たちが指摘してきたように、仏教においては、救済論と認識論とが相互に密接に関連付いている。と言うのも、仏教学者たちが認識する仏教の「治療的(therapeutically)」な側面とは、「救済的でグノーセオロジー的な志向(salvific and gnoseological purpose)」を意味するからだ。

グノーセオロジー(Gnoseology, Gnosiology)」とは、知を意味する「グノーシス(Gnosis)」と「ロゴス(Logos)」に由来する知識の研究を意味する。仏教教義に潜む救済論的な性格は、このグノーセオロジーを介して、認識論へと接続される。だからこそ仏教歴史意味論は、哲学的ではないという批判を受け続けながらも、単なる生活実践上の対処療法などでは留まらなかったのだ。仏教教義では、救済されるべきなのは何なのかという問いが幾度と無く主題化されてきた。その背景には、現世の諸行無常一切皆苦がある。仏教徒たちは、この問いに答えようとする過程から、その問題解決策として、「哲学」と化した。等価機能主義的に言い換えれば、仏教歴史意味論は、グノーセオロジーを介することで、哲学の機能的等価物となる。

問題解決策:苦悩の意味論

マクス・シェーラーは、「哲学的人間学(Philosophische Anthroporogie)」の立場から、原始仏教の思想を展開している。元々はカトリック教徒であったシェーラーが仏教的な思想に接近したのは、「苦悩(Leid)」の本質を巡ってのことであった。

シェーラーの思想的・宗教的転回の背景にあるのは、世界史的経緯と人物史的経緯の双方である。シェーラーは、もともとはエドムンド・フッサールと共に現象学の分野で活躍していた。しかし晩年におけるシェーラーの目的は、従来の自然科学的人間学学的人間学を超えて、「人間とは何か」というイマニュエル・カントの問いに対する統一見解を生み出す哲学的人間学を構想することであった。それは、世界大戦という危機的状況に曝された人間存在破局に対する哲学的な反応であったと言える。一方、それ以上にシェーラーの思想を特徴付けているのは、彼自身の人生であったとも言える。彼は、自身が送った54年の生涯の中で、族関係には恵まれず、教会との確執も起き、また失職も経験していた。心臓を患っていたことも相まって、シェーラーにとって苦悩とは、目を逸らすことのできない問題であった。

因果法則と意味法則の差異

シェーラーの哲学において一貫しているのは、「情緒的生(emotionales Leben)」と理性の対比である。因果関係を法則として適用する理性的な洞察に対して、シェーラーは、情緒的作用の「意味法則(Sinnesgesetze)」を対置する。この区別によりシェーラーは、情緒的生経験が指し示す意味が、理性を重んじる伝統の盲点になっているという。と言うのも、もし現実の全てが因果法則によって成立しているとするならば、そこに意味など無く、したがって苦悩意味もまた無いということになる。だが実際には、少なからず感情的になった際には、そうした苦悩経験そのものにおいて、我々はある種の意味を見出そうとしている。そうした意味法則に突き動かされるように、我々は感情的に要求し、警告し、また脅かすのである。

シェーラーによれば、こうした意味法則影響下にいる場合でも、我々は感情に完全に没入している訳ではないという。仮に完全な没入状態にあるとすれば、我々はその感情に対して意味を見出すことはできないからだ。そのためシェーラーは、こうした感情の一段階上位に精神的な人格存在すると考える。この人格によって、我々は感情と感情的な経験に様々な意味を付与することができるのだという。

苦悩と犠牲の差異

感情を重視するシェーラーではあるが、客観的な法則としての意味作用を否定している訳ではない。実際、彼は苦悩が生命体にとっての客観的な意味を有すると主張している。快と不快の区別は、生命活動を駆動する主導的差異である。それは苦痛身体から遠ざけようとする区別の導入である。しかしこうして生物学的に苦痛を回避したとしても、苦悩を回避したことにはなり得ない。

ここでシェーラーは、快と不快の区別ではなく、苦悩と「犠牲(Opfer)」の区別を導入している。例えばは、各生命体が種の繁栄と保存のために負わなければならない犠牲であるのと同じように、あらゆる苦悩もまた、その形而上学的かつ最も形式的な意味からすれば、「全体」のための「部分」の犠牲なのである。ここでいう「全体」と「部分」の区別は、相対的な価値の優劣の区別とも言える。犠牲とは、相対的に価値の高い財の実現のための、相対的に価値の低い財の放棄として結実する。注意しなければならないのは、ここでいう犠牲が定量的に算出されるコストパフォーマンスの増減として計られる訳ではないということだ。放棄される側の経験意味を問うことによってこそ、犠牲犠牲であると把握されるのである。

シェーラーは、こうして犠牲概念を形式的に設定することによって、快楽と苦痛の打算的な洞察では把握し切れない苦悩意味を問おうとする。この犠牲概念を前提とするならば、苦悩とは、より高い価値の自己実現のために仕向けられるより低い価値の自己実現の放棄なのである。とはいえ、この価値の優劣は相対的な高低である。上には上がある。故に、ある価値の犠牲は、また別の価値のための犠牲でもある。しかしシェーラーの観察は、あくまでも「全体」と「部分」の区別を前提としている。彼の観察観察するならば、この「全体」という概念は、細胞や有機体を含めた生命統一体(Lebenseinheiten)やあらゆる精神的な人格統一体(Personakteinheit)を包含している。そしてこの概念は、個々人の精神的な人格が織り成す「社会」にまで拡張される。

こうして「全体」のための「部分」の犠牲として苦悩を把握すれば、この苦悩という現象が如何にして可能になっているのかも明確となる。シェーラーによれば、それは「全体」と「部分」の矛盾した対立関係によって可能になっている。彼はしばしば苦悩と「苦痛(Schmerz)」を区別している。犠牲概念を前提とするならば、この「全体」と「部分」の矛盾を感知することこそが、「苦痛」に他ならない。

苦悩への忍耐

カトリック教徒であったシェーラーは、キリスト教が仏教ほどには苦悩を重視していないことを認めている。信仰に基づいた苦悩の「浄化(Läuterung)」というキリスト教的な態度は、苦悩に対して積極的に抵抗する訓えである。だがシェーラーは、こうした抵抗よりも仏教的な忍耐力の方を高く評価している。それは、因果法則で説明されるような苦悩の「原因」を能動的に排除する闘争なのではない。そうではなく、一切皆苦問題設定を前提とする原始仏教の訓えは、苦悩を条件付けている「我」の非意図的かつ自動的な反応を可能な限り意識的に排除することによって、苦悩に対処することなのだ。

無論シェーラーも、この仏教的な態度を単なる受動的な姿勢であると誤認していた訳ではない。シェーラーによれば、仏陀苦悩をその「細部」に至るまで根絶しようとする能動的な力強い意志を抱いていた。その姿勢は、苦悩を生み出しているのが「全体」としての世界ではなく「我」そのものであるという観点に準じている。原始仏教徒が瞑想をはじめとする技で「全体」の「部分」に過ぎない「我」を見直すのは、苦悩それ自体ではなく、苦悩に対して衝動的に発せられる抵抗こそを根絶するためである。しかもその根絶は、欲求の消去に到るまで極限的に徹底された根絶なのである。

病の固有性

シェーラーの哲学的人間学の思想的背景にあるのは、一切皆苦問題設定に対する原始仏教的な問題解決策である。しかしシェーラーの観察を更に観察するなら、この苦悩意味論は、人間中心主義的な発想への執着を派生させていることがわかる。例えば病は、シェーラーの人生においても決定的な重要を有している。病を病として認識できるのは、人間だけである。確かに、動物もまた病む。だが病を人間の本質に根差して探究できるのは、人間だけなのであるという。

病がもたらす苦悩意味は、とりわけその病を体感したことのある者にしか見出すことができない。確かに医療的なコミュニケーションに基づけば、病人治療することも看護することも可能ではある。だがその病人苦悩意味を見出すことは、当人か同様の苦悩体験者にしかできないことである。病は、「私は誰にも理解されない」という苦悩を生み出す。だがこの苦悩は、「私の苦悩を理解できるのは私だけである」という言い換えでもある。病は、まさに他者による理解の欠如を以って、かけがえのない「我」の自覚を可能にするのである。

このかけがえのない「我」という概念は、しかし「我」の必然性や絶対を派生させる危険がある。シェーラーがこの危険を等閑視してしまったのは、病やそれによる苦悩意味を探究したがための盲点である。ここでシェーラーの哲学的人間学の基本に立ち戻るなら、人間精神を有した存在者だ。本来、そうした存在者は、環境に束縛されている訳ではなく、環境世界からの「自由(umweltfrei)」を得ている。環境に対して自由に振る舞う人間は、言わば無制限に行動し得る存在である。世界に対して塞ぎ込むことなく、むしろ自らを開示していく存在であることから、シェーラーは人間を「世界開示的(weltoffen)」な存在であるとも言い表している。

シェーラーの言う「世界開示性(Welt-Offenheit)」とは、環境世界精神によって志向的に対象化するだけに留まらず、より本質的な価値を有した領域としての世界へと到達しようとする人間精神を描写した概念に他ならない。先に取り上げた苦悩意味論との関連で言えば、この世界開示的な姿勢こそが、犠牲による苦悩可能にしているとも言えよう。そしてここでいう環境とは、あくまで有機体として存在する人間身体と相関する周辺世界意味する。したがって人間精神の自由度は、世界の全体に対して発揮される訳ではなく、身体と肉薄し得る範囲での世界に限定される。

しかし、身体に基づいた限定こそが、実際には偶発的な認識に過ぎないのである。このことはシェーラーの哲学的人間学の後史を確認するだけで、容易に理解できるであろう。

問題解決策:負担免除論

シェーラーの哲学的人間学の後史に位置付けされるのは、ヘルムート・プレスナーとアーノルト・ゲーレンである。プレスナーの哲学的人間学は最終的に宗教的な次元に準拠していくことになる。これに対してゲーレンの哲学的人間学は、あくまで生物学と生理学に準拠し続ける構想だ。ゲーレンは、あくまでもプレスナーと問題設定を共有している。だがゲーレンの問題解決策は、プレスナーのそれとは次元を異にする。

脱中心的位置性

ヘルムート・プレスナー流の哲学的人間学は、シェーラーの業績を別の観点から引き継いだ新しい人間を提示している。その姿勢は、ユルゲン・ハーバーマスをはじめとしたフランクフルト研究所の学者たちからは酷評を受けたものの、何処か社会学者ニクラス・ルーマンの社会システム理論を連想させる概念を指し示している。プレスナーによれば、あらゆる生命は、自らの周辺環境との「境界(Grenze)」を設定することで、外部環境との絶え間ない接触を図っている。これは無生物には無い特だ。プレスナーはこのことから、生命が外部環境との差異を介して獲得する位置性(Positionalität)から、生命と環境の関連を説明している。

プレスナーによれば、人間外部環境との差異を確保しようとする場合、他の動植物とは異なる質を見せるという。それは「脱中心性(Exzentrizität)」である。他の動物外部環境との差異を通じて獲得する位置は、その動物自身の本能的な意識を中心としている。それ故に動物は、外部環境に振り回されること無く、本能的な意識を核とした確固たる行動図式に依拠することができている。一方、人間にはこうした自己を中心として確定された行動図式は無い。確かに人間もまた動物の一種なのだから、ある程度の中心性(Zentralität)は有している。だがその一方で人間は、自己自身の外部を志向することができる。

この人間動物差異は、人間特徴を顕著に言い表している。他の動物の場合は、自己の位置こそを中心化してしまうが故に、どうしても「今ここ」という時間的な制約と空間的な制約を乗り越えることができない。しかし人間の場合は、自己時間的な位置と空間的な位置から距離を取ることができるが故に、この制約から解き放たれている。その結果として我々は、自己の位置とは別様の位置に立つことによって、逆に自己自身を志向対象にすることができる。こうすることで人間は、他者の自身に対する観察観察することが可能になる。他者の期待期待することで、より複合的なコミュニケーションを実行できるようになる。それ故にプレスナーは、この「脱中心的位置性(exzentrische Positionalität)」という特徴社会的な生物である人間特徴として説明したのである。

しかしこの脱中心的位置性という特徴には、背理もある。人間は、この質を持つがために、確定的な行動図式を持ち得なくなる。つまり人間は、自らの位置付けに自由度を与えているが故に、偶発性に曝されてしまうのである。人間は、本能の助けを借りずに、不安定な世界を生き抜かなければならなくなる。道具や言語をはじめとした文化は、プレスナーにとっても、欠落した本能的な機能の埋め合わせとして要請されることになる。人間は、文化的な行為によって、方向なき世界を切り拓いていく。そうすることで人間は、安定化した自然へと回帰せねばならない。

欠陥生物としての人間

ゲーレンもまた、プレスナー同様に、人間が確定的な行動図式を喪失した存在であるという認識から出発している。ゲーレンによれば、人間は生理学的な欠陥を抱えた存在だ。人間は、猿の胎児が進化を停滞させたことで発現した「欠陥生物(Mängelwesen)」である。言語や技術をはじめとした文化は、この人間生物としての欠陥を埋め合わせるために要請される。文化は、人間の生理学的な機能では到底処理し得ない世界を生きるという負担を「免除(Entlastung)」するための装置に他ならない。ゲーレンにとって人間とは、猿の胎児が文化的に教育された存在なのである。

ゲーレンは、この欠陥のある動物としての人間負担免除していくという観点から、人間衝動に焦点を当てた。それは従来の心理学に対する痛烈な批判にもなっている。ゲーレンによれば、心理学者たちがそれまで人間本能として分析してきた質は、実際には人間の可塑的な衝動エネルギーに対して外部環境から呈示された方向付けの結果に過ぎないという。ゲーレンの主張に即して考えるなら、人間本能的な衝動外部環境との関連から考察されなければならない。

ゲーレンは、人間という存在を、他の生物に比して自然環境に適応することのできていない欠陥生物として説明している。このゲーレンの見解は生物学や生理学に関する膨大なデータによって裏付けられている。ゲーレンによれば、生命体としての人間は、この欠陥を自身の生存に向けた努力によって埋め合わせ、その欠陥から伴う生存の負担自己自身で免除していかなければならない。したがってゲーレンにとっての人間は、その全行為負担免除に割り当てているのである。

人間が環境に適応し切れていないのは、やはり本能に方向付けられた確定的な行動図式を有していないためである。人間においては、生存に必要となる衝動エネルギー本能制御されている訳ではない。そうした不確実な状態は、本能の可塑と流動を高める。それと同時に、本能距離を取ることができている人間意識は、逆に本能それ自体を志向的に認識することができる。その結果として人間は、本能的な衝動を防止することや、その充足を延期させることもできるようになる。「今ここ」での衝動を延期することによって、その衝動とは別様の対象にも視点を向けることができるようになる。つまり欲求の充足とは無縁の対象にもあり余る衝動エネルギーを注ぐことができる訳だ。それ故にこそ人間は、他の動物に比して、生存の必要条件を満たすことの束縛から免れていることになる。人間は、他の動物に比して、外部環境を自由に志向することができるのである。

こうしたゲーレンの衝動理論は、従来の心理学に対する手厳しい批判となっている。従来の心理学者たちは、人間の行動からその人間質を読み取っていた。内部から外部へと表出されたものを抽象化することによって、心理学者たちは心理的な質を一般化してきたのである。心理学者たちが人間外部環境に目を向けるのは、こうした一般化の後である。つまり心理学者が心理的な質を観察する場合、まず環境の質を視野から捨象してしまうのである。そうした後に心理学者は、外部環境質を付加させていく。心理学者が環境を観察するのは事後的なのであって、当初は盲目的なのである。しかしながら人間本能的な衝動は、外部環境から絶えず刺激を受けながら表出している。衝動特徴付けるのは、言うなれば人間の内面と外部環境の相互作用なのである。故に衝動を知ろうとするならば、内面と外部環境を同時に観察しなければならない。

負担免除としての文化

実際、負担免除するために実践される人間行為は、文化的に条件付けられている。象徴的なもの、表象的なもの、有意味なものをはじめとする文化的な構成物が、人間の可塑的で流動的な本能衝動エネルギーを初めて方向付けてくれるのである。文化は、本能的に確定された行動図式を喪失させている人間にとって、確実の等価物となる。大胆に言い切るならば、文化本能機能的等価物なのだ。偶発性に曝されている人間は、文化に自らの行為を適合させることによって、安定した世界での生存を可能にする。我々は文化を介して初めて、方向を喪失させている衝動エネルギーに個別具体的な方向付けを付与することができるようになる。名誉、地位、金銭的な報酬欲などのようなエネルギーの対象は、人間本能が生み出した産物というよりは、むしろ文化的に意味付けられた対象なのである。

だからゲーレンの人間学は、行為と欲求の心理学的な関係を逆転させている。心理学的に言えば、欲求があるからこそ、その欲求を充足させるための行為が伴う。そうした行為を繰り返していくうちに、その行為に根差した文化が構築されるという訳だ。しかしゲーレンの人間学に基づくなら、文化的に方向付けられて行為するからこそ、我々はその行為を目指した欲求を持ち得るようになる。初めに本能がある訳ではないのだ。本能それ自体は、出発点にするにはあまりにも不確実である。文化がこの不確実性を軽減することで、初めて我々はこの本能に準拠することができるようになる。人間は本質的に「文化生物(Kulturwesen)」なのである。

この文化人間の「生活形式(Lebensformen)」として多様化する時、様々な「文化圈(Kultursphaere)」が構成される。ここでいう文化圏意味しているのは、動物にとっての確定的な行動図式である。つまり動物外部環境への本能的な適応を通じて確定的な行動を選択しているとするならば、人間はこの文化圏を通じてより確実な行動を選択しているのである。この文化圏の確実が、世界解放的に振る舞う人間偶発性を軽減してくれる。それは、見方を変えれば、自由が制限されているということだ。動物本能的に環境による拘束に従事しているのならば、人間文化圏による拘束を受けているのである。

問題解決策:僧

この文化的な負担免除機能は、原始仏教の時点で既に形成されていた可能性が高い。「三宝」の一つである「(saṃgha)」が指し示しているように、仏陀は既に集団的な生活による日常的な修行の実践を勧めていた。もともと仏教が創設されたのは、弟子たちが修行という特別な日常生活を正しく継続できるようにという仏陀の願いがあったためである。

」とは、インド語の「サンガ(saṃgha)」に由来する。その意味は「集団」である。「」とは、集団を指す総称なのだ。とりわけ「」を規定するのは、修行のために集まった四人以上の仏教徒が集団組織形成している場合である。「」の構成員は「侶」と呼ばれる。「」には特有の規則が設けられている。侶たちがその規則に従事した生活を送っている場合に、初めてその組織は「」と見做される。ここでいう規則を特に、侶たちは「(Vinaya)」と呼んでいる。

」を設立する場合にも、遵守すべき「」がある。「」を設立するには、まず四人以上の同侶が一つの場所に居合わせていなければならない。ここでいう場所とは、「」の内外領域を規定する区別の導入によって指し示された空間である。その広さは、約数十メートルから数百メートル四方と言われている。誰でも視認できる目印をその領域境界となる場所に付与することで、「」の内部を指し示すことができる。こうして設定された領域のことを特に「界」と呼ぶ。そして、この「界」を設定する区別手続きをとりわけ「結界」と呼ぶ。この「界」が建物によって指し示されている場合、その建物が言わば「御寺」となる。「」は、こうした一定の場所に居合わせた侶たちが日常的に顔を合わせながら生活していくことで営まれる。仏教では、この小規模な集団が各地に散在している。

同一の「界」で生活する侶たちは、「」の構成員として振る舞わなければならない。この場では、独的で利己的人格は許されない。「」は、こうした共同生活の規則も定めている。「」に属する構成員たちは、「」の規則に従った集団行動を優先しなければならない。例えば「」の中で「意思決定」が必要となった場合には、全員が集合して、議論の下に決議を取らなければならない。行を仕出かした侶には、「」の全員の決議によって、罰を与えなければならない。「」は、既存の「」による決定事項を前提とした上で、こうした決定コミュニケーション構成していく。この意味で「」は、一種の組織システムとして作動している。

」は、侶が順守すべき事項の他にも、禁止すべき事項も規定している。例えば殺人や窃盗は、「」においても重罰に科せられる。の重さ次第では、仏教界から永久に追放される場合もある。構成員と非構成員の区別は、「」においても重要な差異となる。

」では、侶たちが「」という一定の規則に従事しながら集団生活を営み、日常的に修行を敢行していく。侶たちは日常的に修行三昧の生活を送る。ただし、組織的な集団生活を営む以上、学級活動における「係」のように、役割分担が課せられる。炊事や洗濯などについては、当番制で運営される場合もあるという。

負担免除としての僧

仏教で「」という集団組織が必要とされたのは理由の無いことではない。それは有用観点から導入されている。まさに「」は、修行における負担免除のために導入される。実際上、修行中は心身共に疲弊してしまう。体の弱い侶や年老いた侶ならば、直ぐにリタイヤへと追い込まれる危険がある。一方、若手の侶たちにとって、瞑想をはじめとした修行やの習得は困難極まりない。身近に熟練の先輩侶がいれば、その模倣的実践や組織的な社会化によって、学習も捗るであろう。共同生活は、互いに助け合う点で有用となる。逆に言えば、集団的な日常生活を営むこと自体に宗教的な意義がある訳ではない。「」が四名という少数集団で営まれるのも、官僚制のような大組織を経営することの有用が無いと見做されているためである。

実際、「初転輪」において釈迦は、五人の弟子たちのうちの二人が釈迦の訓えを聞いている最中には、残りの三人に托鉢に廻るように指示し、その三人の弟子たちが釈迦の訓えを聞いている際には、残りの二人が托鉢に回るという役割分担を形成している。こうした営みからも、既に修行が集団的に実施されるべき行として想定されていたことがわかる。

問題再設定:極めて微細な心、あるいは「全体」を凌駕する「部分」

マインドフルネス瞑想を実践する人間欠陥生物であるという先述した哲学的人間学の基礎概念を前提とするなら、マインドフルネス瞑想意味論に求められるのは、神経生理学や心理学による瞑想状態の裏付けだけではないことがわかる。神経生理学や心理学による観察観察するなら、彼らの分析してきた質は、実際には人間の可塑的な衝動エネルギーに対して外部環境から呈示された文化的な方向付けの結果に過ぎない。衝動を知ろうとするならば、「我」の内面と外部環境を同時に観察しなければならない。

尤も、我々が注意を払っておくべきなのは、一先ずは心理学的な諸概念だけであると見做して良いのかもしれない。実際、仏教神経科学は、今や極めて近しい関係にある。仏教神経科学のコミュニケーションは、「我」の内面と外部環境を同時に観察することを可能にしている。このことは、ヴァレラとその周辺を観察すればよくわかるであろう。1987年10月、チベットの聖俗両世界指導者とされるダライ・ラマは、ヴァレラをはじめとする科学者たちを招き、心と生命を巡る会談を開催した。ヴァレラに限らず、この会談に参加した科学者たちは、皆心と生命に関する第一人者でありながらも、仏教への強い興味関心を抱いていた。

専ら会談の主題となったのは、仏教的な観点から叙述されてきた生命や心の概念が、神経科学的にも妥当するのか否かであった。種々の主題の中でも、とりわけ人工物に心が宿るか否かという主題は、生命や心の核心に触れる重要な問題設定となっている。

ここで引き合いに出されたのは、言うまでもなく「人工知能(Artificial Intelligence)」であった。ヴァレラは、西洋人が心や脳を理解しようとした際には、人工知能の研究成果を援用することで、自らの理論を裏付けようとしてきたという。確かに過去の物理学では、何らかの理論が得られたとしても、それによって何らかの未来を予見できなければ、その理論証明されたことにはならないと考えられてきた。一方、認知科学においては、この程度では済まされない。真に理論が正しいとするなら、その理論を裏付ける機械を造れるはずであると見做されているのである。こうした背景を見据えた上で、ヴァレラはダライ・ラマに、細やかな認知能力しか持たない人工物には心があるのかと訊いた。

ダライ・ラマの返答は明快であった。人工物には意識や認識があるとは考えられないという。何故なら、認識という概念は、事前の瞬間からの認識の連続としてのみ成り立つからである。それは事物から生み出されるものではない。ダライ・ラマは、このことを補足するために、「粗大(Grosser)」と「微細(Subtler)」の区別を導入している。この区別かられば、何らかの粗大意識微細意識とは無関係に生じることなどあり得ないという。ダライ・ラマによれば、事前の連続体と何の関係も無しに新しい認知作用が生み出される可能性は皆無である。意識は、実際には物質から生まれるのではない。意識を生み出すのは意識連続体である。言い換えれば、意識連続体を構成しているのは、意識連続体そのものであるということになる。もしコンピュータ意識を持ち始めるとするなら、それはこの意識連続体が物質の中に入り込んだ場合になるであろうと、ダライ・ラマは冗談半分で主張している。無論それは、コンピュータの物理的基盤が自ら意識連続性を受容する基盤として機能する能力を獲得した場合に限られる。人工物が実際にそうした能力を獲得できるか否かは、長期的な展望から見定めていく必要がある。

このダライ・ラマの説明は、意識連続体に起源や始源があるという想定を一掃している。意識が物質的な原因によって生み出されると科学者たちが考える一方で、仏教徒たちは、そうした物質が意識の本質的な原因にはなり得ないと考える。意識にとって物質とは、副次的な原因に過ぎない。この説明の前提にあるのは、仏教的な観点から記述された宇宙の進化論である。この進化論によれば、宇宙には始まりが無い。そしてこの世界には無限の宇宙が存在する。この進化論では、如何なる世界システムにおいても、粗大な物質の生成消滅が見受けられる。その創造と破壊には、始まりも無ければ終わりも無い。ただし、如何なる瞬間においても、そこには微細意識存在し続けるという。生命に心があるとするなら、それは限りなく微細な心になるという。それは、生々流転のあらゆる循環を通じて一貫して存在しているのである。

ダライ・ラマのこの説明は、ヨーガ・タントラによる分類に準拠している。つまり厳密に言えば、この粗大意識から区別された微細意識は、更に<微細な水準>と<極めて微細(very subtle)な水準>とに区別される。意識の水準がより粗大であればあるほど、それだけ身体に左右される度合いも大きくなる。意識微細であればあるほど、逆に身体に左右される度合いも少なくなる。そして極めて微細な水準となれば、その意識身体に左右されることは全く無くなる。

ここでいう<極めて微細意識>となるのは、仏教徒が見出す「光明」である。それは慈悲や智慧象徴する概念である。この光明には意識のあらゆる記憶が蓄積されている。この蓄積された記憶が、意識連続性可能にしている。それ故にダライ・ラマの洞察においては、記憶は単に脳に蓄積されている訳ではないということになる。粗大な水準の意識に基づく記憶身体に基づいた記憶は、忘却されることで、あるいは事物の生成消滅の過程において、既に消失している。しかしながら、微細記憶は残存し続けている。瞑想の中には、瞑想を実践することによって、より粗大な水準の心をより微細な水準へと深化することができる者たちもいるという。瞑想は、言わば微細な水準の意識活性化させることを可能にしている。そしてこの想起の営みによって、瞑想たちは、微細な水準で記憶されていた過去世の出来事までることができるという。

より粗大な水準の心が脳神経細胞や感覚器官によって生み出されるのは、元を辿れば、我々の中に<極めて微細意識>が潜在化しているためである。<極めて微細意識>から微細意識が、微細意識から粗大意識が生み出されることが生の営みであるとするなら、この逆の手順がの過程となる。つまり全ての心は、やがては<極めて微細意識>へと解体していくのである。したがって、ここでいう<極めて微細意識>とは、粗大な水準で心が生み出される際の「根源」となる。

ヴァレラは、この粗大微細区別が、西洋社会に蔓延る二元論のようなものなのではないかという。ダライ・ラマのこの説明では、微細な水準と粗大な水準とが如何にして連携し得るのかがわからなくなる。これに対してダライ・ラマは、微細な水準と粗大な水準は、本質的には同じであるという。あらゆる事物は他の事物によって生み出される。<極めて微細な水準>に対応するのは光明である。光明は常に一貫して存在している。生命の誕生の際には、この光明から微細意識が生み出される。そしてこの微細意識から物質的あるいは感覚的な意識が生み出される。ただし、この粗大微細区別は、相対的な区別に過ぎない。この区別は、この区別の内部へと「再導入(re-entry)」される。つまり、<極めて微細な水準>の内部において、また粗大な水準、微細な水準、そして<極めて微細な水準>の区別が導入されるのである。したがって、仏教徒が光明を見出すのは、この<極めて微細な水準>の中に<極めて微細な水準>を見出すという再帰的な区別の導入を前提としている。

マインドフルネス瞑想負担免除装置があり得るとするなら、それはこの再帰的に観察される<極めて微細な水準>の記憶を想起させるように機能しなければならない。この装置として機能する知覚メディア」があるとすれば、それは「拡大鏡(magnified glass)」のようなものであろう。これは実際に瞑想たちも利用している比喩である。

拡大鏡を使うことで、自分のことを恰も新聞写真かのようにるのだ。通常、肉眼で新聞写真を見る時は、そこに写されているものがそのまま視える。しかし拡大鏡を使ってれば、その写真は沢山の微細な点(dot)によって構成されていることがわかるであろう。これと同じように、鋭いアウェアネスを以って自己自身を凝視する時、『私』や『私がいる』などといった『我という感覚』は、固体を喪失し、分解され、無くなっていく。そして、智慧瞑想の核である存在の三つの特徴――無常無我――が、ありありと現われるのである。この時、生は無常であり、存在の本質がであり、『我』という実体は無いという真理を鮮明に体験する。無常無我をあまりにも如実に体験するために、欲や執着、怒りなどは空虚で無益であるということに気付くことになる。この明晰で純粋な深い目覚めの瞬間意識は変革する。固定的な『我』という概念が消え去る。残っているのは、相互に関連し合う実体無き無数の現象のみである。それらは条件によって成り立つ。また条件によって変異し続ける。欲は消え、重荷は降ろされる。抵抗も無ければ緊張も無く、も楽も無い流れ(flow)だけが残る。心に大きな安らぎが生まれる。造り物などではない究極の幸福となる涅槃(Nibbāna)が実現するのである。」
Gunaratana, Bhante. (2011) Mindfulness in Plain English: 20th Anniversary Edition, 20th Anniversary Edition, Wisdom Publications. 引用はpp.168-169より。

参考文献

  • Gehlen, Arnold. (1940) Der Mensch, seine Natur und seine Stellung in der Welt. Junker und Dünnhaupt, Berlin.
  • Gunaratana, Bhante. (2011) Mindfulness in Plain English: 20th Anniversary Edition, 20th Anniversary Edition, Wisdom Publications.
  • Gunaratana, B., & Gunaratana, H. (2011). Mindfulness in plain English. Simon and Schuster.
  • Luhmann, Niklas. (1977) Funktion der Religion, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (1990) Essays on self-reference, New York : Columbia University Press.
  • Luhmann, Niklas. (2000) Die Religion der Gesellschaft, Suhrkamp.
  • Newberg,Andrew., D’aquili,Eugene., Rause,Vince. (2008) Why God Won’t Go Away: Brain Science and the Biology of Belief, Random House Publishing Group.
  • Pérez-Remón, J. (1980). Self and non-self in early Buddhism (Vol. 22). Walter de Gruyter.
  • Plessner, Helmuth. (1972) “Der Mensch als Lebewesen für Adolf Portmann,” In Philosophische Anthropologie heute, C.H.Beck.
  • Plessner, Helmuth. (1985) Gesammelte Schriften IV (Ln). Die Stufen des Organischen und der Mensch. Einleitung in die philosophische Anthropologie, Suhrkamp Verlag KG.
  • Ruegg, D. S. (1995). Some Reflections on the Place of Philosophy in the Study of Buddhism. Journal of the International Association of Buddhist Studies, 18(2), 145-181.
  • Scheler, Max. (1923) “Vom Sinn des Leides”. In Moralia, Leipzig, 1923.
  • Scheler, Max. (1928) “Die Stellung des Menschen im Kosmos”. In Gesamte Werke, Bd. 9, Bouvier.
  • Varela, Franscisco J., Thompson, Evan T., Rosch, Eleanor. (1991) The Embodied Mind: Cognitive Science and Human Experience, MIT Press.
  • von Arnim, A., Brentano, C., & Gaab, H. (1963). Das bucklicht Männlein: aus des Knaben Wunderhorn. Eggebrecht-Presse.