仏教の社会構造とマインドフルネス瞑想の意味論

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問題設定:脳神経は瞑想状態を如何にして可能にしているのか

ヴァレラは、瞑想マインドフルネスアウェアネスの心的な出来事構成するという点を充実した書籍で解説していた。しかし、それが脳神経機能として如何にして可能になるのかについては、十分には説明していない。アンドリュー・ニューバーグとユージーン・ダギリらの報告は、この論点を補足する内容になっているようだ。

ニューバーグとダギリらによれば、「瞑想(Meditation)」を実践している宗教家の脳内では、上頭頂葉後部の「求心路遮断(deafferentation)」なる現象が起きている。

上頭頂葉後部の機能は、物理的な空間上で自己自身を位置付けることにある。それは上下左右の距離や角度を常に計算し続けている。このことから推論されるのは、頭頂葉後部が<自己自身>と<外部環境>の差異を明確に区別できているということである。意識が<自己自身>と<外部環境>の差異を認識できるのは、この頭頂葉後部のシミュレーションが常に機能し続けていることが必要条件となるだろう。

しかしながら、瞑想している最中、その瞑想家の脳内では、この部位の作動が沈静化しているという。つまり瞑想時には、この上頭頂葉後部への刺激の入力が塞き止められることになる。だとすると、瞑想時の意識は<自己自身>と<外部環境>の差異を明確に構成することができていないことになる。ならば瞑想時の意識は、如何にして自己自身の思考を認識することを可能にしているのかが問題となる。<自己自身>と<外部環境>の差異は、かくしてパラドックスと化す。

問題解決策:受動的な瞑想と能動的な瞑想の区別

ニューバーグとダギリらは、脳内の求心路遮断瞑想の機構を関連付ける理論的な補助線として、「受動的な瞑想(passive meditation)」と「能動的な瞑想(active meditation)」の区別を導入している。受動的な瞑想は、心から余分な雑念を排除することで成立する瞑想だ。一方、能動的な瞑想とは、一つの注意対象に集中することで成立する瞑想である。

この区別は、丁度「観(vipaśyanā)」の瞑想と「止(śamatha)」の瞑想差異に対応している。観の瞑想は瞬間ごとに生起している事物をありのままに観察していく瞑想である。一方、止の瞑想は一点に集中する瞑想である。確かに、観の瞑想にも集中という要素はある。例えば呼吸観察する場合、観の瞑想家はただ呼吸のみに集中する。しかし、観の瞑想家は純粋に観察するだけで、それ以上の余分な概念的思考を心から排除する。この意味では、観の瞑想受動的な瞑想に位置付けられるだろう。

観の瞑想をはじめとした受動的な瞑想によって上頭頂葉後部への刺激の入力が塞き止められているのは、海馬体が水門の如く機能しているためである。観の瞑想家が瞑想に着手する場合、その瞑想家は純粋に観察することに徹して、それ以上の思考を意図的に心から締め出そうとする。この時、瞑想家の脳内では、主に右半球の前頭前野が活性化している。

余分な情報の流れを抑制せよという前頭前野による指令は、視床を介して、海馬体に伝達される。海馬体には、脳内の情報の流れを制御する水門の如き機能がある。と言うのも、脳内の活性化が高まった場合に、この海馬体が脳の安定を維持するべく動員される手筈になっているからだ。

海馬体は、脳全域の様々な情報過去記憶に基づいて処理していく。この部位が情報の流れを抑制するように作動すれば、脳内の様々な部位に影響が波及していく。上頭頂葉後部への情報送信が塞き止められることで成立する求心路遮断は、直接的にはこの海馬体の情報抑制に起因する。

求心路遮断により行き場を失った神経インパルスは、海馬体同様に大脳辺縁系の一部である視床下部に流れ込む。視床下部は自律神経制御している。言い換えれば視床下部は、交感神経による興奮と副交感神経による抑制のいずれをも制御しているのだ。

この視床下部に流入した神経インパルスが抑制系を司る部分を刺激すると、瞑想に着手する仏教徒の心を静める作用を生み出す。この時に生じた抑制系の神経インパルスが再び前頭前野に伝達されると、前頭前野は更に海馬体に抑制系の指令を出す。この抑制系の循環によって、海馬体は上頭頂葉後部の求心路遮断を継続していくことになる。

極限の体験

心から雑念を追い払うことから始まる受動的な瞑想ではなく、一つの注意対象に焦点を絞り込むことから始まる能動的な瞑想は、仏教徒ならば止の瞑想やマントラの詠唱に没入することで実践するだろう。

こうした瞑想家たちの脳内では、心から雑念を追い払う場合とは異なり、注意連合野によってむしろ情報の流入が促進されることになる。そして、この大量の情報が視覚連合野と接続されている右半球の上頭頂葉後部に押し寄せていくことにより、極限の集中状態が形成される。この状態が続くと、右半球の注意連合野から神経インパルスが発せられる。このインパルスは大脳辺縁系を経由して視床下部に到達する。するとこのインパルスが興奮系をつかさどる部位を刺激することによって、心地良い興奮状態が引き起こされる。極度に集中した状態が続くことで、視床下部に達する神経インパルスもその強度を増していく。やがて視床下部の興奮機能極限の状態に達する。

この時、この極限の興奮作用が抑制系そのものまでも活性化させることにより、脳内では興奮系と抑制系が同時的に活性化するという逆説的な状態が形成される。視床下部では神経システムの作動が不安定化すると共に、何度も激しくインパルスを発するようになる。このインパルスは過剰刺激となり、大脳辺縁系を経由して、再び注意連合野を襲うことになる。結果的に注意連合野の作動が極度に活性化されることになる。

<自己自身>と<外部環境>の差異の曖昧化

集中力が増強されると、両半球の上頭頂葉後部がこれによる重大な影響を受けることになる。左半球の上頭頂葉後部においては、心から雑念を追い払う受動的な瞑想の場合と同じように、海馬体が情報の流入を制限しようとすることにより、上頭頂葉後部は求心路遮断状態となる。

これにより、まず<自己自身>と<外部環境>の差異に対する感覚が曖昧化する。一方、右半球の上頭頂葉後部に対しては、受動的な瞑想の場合とは異質な影響が与えられる。

能動的な瞑想の場合、注意連合野が右半球の上頭頂葉後部に働き掛けることによって、注意対象に集中させていたのであった。だが興奮系と抑制系が同時的に活性化した状態においては、注意連合野の作動も極限の状態にある。この注意連合野の過剰な活性化によって、瞑想家の意識は極端なほどに対象へと没入することになる。

すると注意連合野は、この極端な集中状態を維持するために、注意対象とは無関係な全ての情報を右半球の上頭頂葉後部から除外してしまう。元来、上頭頂葉後部が計算しているのは、空間時間における自己の位置付けなのであった。しかし上頭頂葉後部がこの時に扱えるのは、その注意対象に関する情報だけである。それ故に上頭頂葉後部は、注意対象しかない世界に自己を位置付けることになる。

機能的等価物の探索:側頭葉癲癇と自動症

とりわけ電気刺激によるショック効果は、マインドフルネス瞑想における脳神経の状態と同様に、神経システムの過剰な発火を伴わせる。このことについては、「癲癇:てんかん(Epilepsy)」の研究に携わっていたワイルダー・ペンフィールドの実験報告まで遡ることで確認することができる。

癲癇の宗教的な観察

ヒポクラテスがこの症状を聖なる病として記述していたという有名な逸話が指し示す通り、長らく癲癇という情態は、宗教的な現象として観察されてきた。例えばユダヤ教も、この情態をによる報復としての病に位置付けていた。ユダヤ教徒においては、あらゆる病気人間たちのを罰する聖なる処罰であると考えられてきた。病に陥るということは、身体の中に悪魔が潜んでいることを意味していたのである。

一方、新約聖書との関連では、神経症に苦しむ人々によって容認された幾つかの「奇跡」と結び付いている。イエス・キリストは、不透明な精神を駆り立てることによる発作に陥った人々を治癒したと言われている。旧約聖書を読むユダヤ教においてもそうであったように、新約聖書を読んできたキリスト教においても、癲癇悪魔と密接な関係にあった。癲癇がハイセン病(leprosy)と結び付けられて語られてきた聖典によれば、この双方の症状を伴わせている家族を持つ女性と結婚することは禁止されていたという。癲癇とハイセン病は、人間関係の破局の引き金となっていたのだ。これらの病は非常に危険視されてきた。周囲の人間も、こうした病人とは関わろうとはしなかった。

周知のように、初期キリスト教は身体の調和を重んじるギリシア・ローマの文化から強い影響を受けている。これに対して癲癇発作は、しばしば意識の喪失を伴わせることから、否定的なイメージを生み出した。それは身体の調和を乱す崩壊を象徴するようになっていたのである。

癲癇の科学的な観察

しかし19世紀になると、この癲癇に対する宗教的な観察脱魔術化されることになる。ジョン・ヒューリングス・ジャクソンが「側頭葉癲癇(Temporal lobe epilepsy)」の概念を定義したことで、近代科学の間でもこの症状が主題化されるようになったのだ。その科学的な観察によれば、癲癇とは、ニューロンの過剰な発火(Spike)によって引き起こされる反復性の発作を意味する。側頭葉癲癇は、「側頭葉(Temporal lobe)」から放たれた異常な放電によって引き起こされる癲癇であるということになる。

癲癇に関する当初の科学的な観察は、主に脳内への直接的な電気刺激によって実施されていた。この実験を主導していたのがペンフィールドであった。ある時彼は、この側頭葉癲癇の患者の発作を外科的に治療していた。彼はその治療の最中に思わぬ発見に遭遇した。側頭葉の記憶を司る部位に電気刺激を加えた時、かつてジャクソンが取り上げていた<夢を見ているかのような状態>に、その患者は没入していた。

側頭葉には、言語機能を司る機能の他に、現在経験過去記憶に照らし合わせて解釈する機能を担う部位があるという。ペンフィールドはこの部位を「解釈皮質(interpretive cortex)」と呼んでいた。ペンフィールドによれば、解釈皮質に電気刺激を与えることで、癲癇発作を物理的に引き起こすことが可能だという。

記憶のフラッシュバック的な想起

ただしその際に患者が垣間見ることになるのは夢ではない。それは過去記憶形象(image)となる。つまり解釈皮質に電流を流された患者は、恰も映画フラッシュバックの映像(image)の如く、過去を再体験していたのである。

癲癇発作は、大抵の場合、意識を維持するために不可欠な部位である上部脳幹の灰白質で起こる。いずれの癲癇も、灰白質の一部に限定した局在的な焦点性の放電によって引き起こされる。側頭葉癲癇のような発作においては、側頭葉と前部前頭葉に癲癇性の放電が流されると、過剰な発火によるニューロンの興奮が上部脳幹の灰白質に波及していく。一時的であれ、上部脳幹の灰白質が機能不全に陥れば、その者の意識は喪失する。恐らく、癲癇発作時特有の<夢を見ているかのような状態>は、この意識が喪失する直前の現象なのであろう。

電極から大脳皮質に電流が流されると、その部分の灰白質は正常な作動を妨げられることになる。その過剰発火の波及効果は離れた場所にも及ぶ。例えば大脳皮質の運動野における手の挙動を司る部位に電流を流すと、その部位の細かな運動機能が一時的に失われる。するとその患者は、まるで幼児のように、掌の開閉を素朴に反復するようになるという。これは、電流を受けた部位に限らず、この部位の過剰発火による波及効果を受けた脊髄の灰白質が二次的な中継地として過剰に興奮しているためである。過剰発火の連鎖は、電流を流した部位から離れた場所でも起こり得るのである。

癲癇発作においても、過剰発火は離れた場所にその影響を波及することがある。側頭葉癲癇発作の過剰発火もまた、脊髄の灰白質に波及する場合がある。つまり癲癇発作が身体運動に影響を与える場合もあるという訳だ。そしてその身体挙動は、しばしば無意識的に実行される。

この関連からペンフィールドは、側頭葉癲癇に伴う「自動症(automatism)」に興味を注いでいた。それは自覚的に意識して行為している訳でもなく、目的があって行為している訳ではない行動を意味する。ある行動の最中に自動症が発症すれば、その者は無意識的にその行動を続けていくという。ただしその者の行動は過去記憶を拠り所としている。前例の無い決定は下せない。尚且つその者には、自動症を発症させている最中の出来事記憶することができない。こうした不随意に起こる自動的な行動を自動症と呼ぶのである。

記憶のフラッシュバック体験の意味論

注意しなければならないのは、こうしたペンフィールドの認識が、歴史的な制約を受けていたということである。このペンフィールドが前提としていた記憶概念は、社会構造意味論変異によって、既に旧い概念となってしまっている。実際、ペンフィールドの記憶論は、普遍的妥当性の観点から、その後の神経科学者たちによって疑いの目を向けられた。イスラエル・ローゼンフィールドも指摘しているように、ペンフィールドは同様の実験操作を1000回以上は実行していた。その結果は期待するほど壮大ではなかった。その90%の患者は記憶フラッシュバック体験しなかったのである。それでも尚ペンフィールドは、記憶フラッシュバックを生起させた残りの10%の患者については、記憶想起させたと確信していた。

1970年代になると、患者が記憶フラッシュバック体験する条件がより明確となった。その条件とは、電気刺激の影響が大脳辺縁系に及ぶことである。この時点で大脳辺縁系は、情動の発動のために不可欠な脳の部位として知られていた。随意的な記憶は、何らかの情動的な要素が無ければ、明らかに不可能であるとされた。更にペンフィールドが信じていたように、患者が幼少期の出来事想起しているかのように思われたのは、実際には手術の途中で実行された観察の回想によって組み立てられ得る可能性も示されるようになった。言い換えれば患者は、過去出来事を追体験している訳ではなく、過去体験構成していたのである。その上で患者は、そのフラッシュバックが本当の記憶であると確信していた訳だ。

記憶フラッシュバック体験に対するペンフィールドの誤認は、その背景にある伝統的な記憶意味論による影響を受けている。19世紀後半になると、神経科学者たちは、脳を「ファイル(file)」の隠喩によって説明しようとしていた。それによれば、脳とは慎重に配列された「ファイル」に記憶を記録しているという。それ故に脳の損傷は、特定のファイル、あるいはそれらの断片を破壊することを意味すると考えられていた。例えば言語中枢を損傷した患者は、特定の言葉の「記憶画像」が破壊されることによって、特定の言葉を言い表すことができなくなっているということになる。

だが患者が特定の言葉の使用できなくなっても、言葉の一般的な理解には影響が無いという発想は、むしろ奇妙な発想である。喩えるなら、色のために言葉を使用することができなくなった患者は、色を問題無く命名できる我々の世界の性質とは全く異なる概念を有していたに違いない。

ところが19世紀の神経科学者たちは、こうした問題を意に介さなかった。彼らは記憶が連合野と関連していることを自明視していた。連合野は、特定の記憶を別の記憶と関連付ける機能を持つ。ある色は、その色を有した事物に関連付けられる。もし色に関する言葉を喪失したとしても、その患者は、その事物の性質に関する理解を変える訳ではない。当初の神経科学的な実験報告は、こうした神経科学者たちの単純な発想を後押しする証拠であるかのように思われた。例えば「運動ホムンクルス(the motor homunculus)」や「感覚ホムンクルス(the sensory homunculus)」のような概念が物語っているように、記憶は局在する機能が「関連付けられた(associated)」概念として把握されていたのである。ある記憶機能的な喪失は、他の機能にはほとんど、あるいは全く影響を及ぼさなかった。

しかしその後の研究によって、この運動野や感覚野のホムンクルスは、時間の経過と共に変異することが判明した。それ以来、徐々に脳という概念に関わる意味論が修正されることとなる。脳は、ニューロンのネットワークである訳だが、それは自己自身のモデルを修正するネットワークと見做されるようになったのである。更に遅くても1970年代ごろからコンピュータが普及すると、ネットワークという概念とコンピュータという概念が密接に絡み付くようになった。とりわけ認知科学者たちは、脳をコンピュータの隠喩として説明しようと躍起になっていた。こうした社会的背景も影響することで、1980年代には、ペンフィールドが想定していたような古典的な脳の概念は否定されることとなった。

脳を自己修正的なネットワークとして記述するなら、脳の各機能は、まず静的(static)ではないということになる。記憶もまた同様である。それは静的でもなければ固定的でもない。記憶は、独立して記録される画像(image)の集合なのではない。ローゼンフィールドの言い回しを借りるなら、記憶は、「進化し続ける手続きの連続体(a set of ever-evolving procedures)」である。だからこそ我々は、過去出来事を精確に想起することが許されない。また、ペンフィールドが信じたように、脳の特定の部位を刺激すれば特定のフラッシュバック反応が得られるとは信じられないのである。

機能的等価物の探索:変性意識状態とトランス状態

どうやら癲癇発作を瞑想状態の機能的等価物として記述して観ると、その派生問題として、神経システム複合性を目の当たりにすることになるようだ。この派生問題には、「機能局在論では説明の付かない」という程度の難易度は帯びている。これに対して、等価機能主義的な社会システム理論家ならば、オートポイエーシス概念や神経現象学を引き合いに出すことによって、この問題に相対することができるであろう。しかしその前に、瞑想状態の機能的等価物の探索を続けることにしたい。そして、各機能的等価物の派生問題の難易度を比較する観点を切り拓こう。もし別のあり方でもあり得る機能的等価物の方が有用であるのならば、これ以上癲癇発作に関して踏み込む必要は無くなる。

現代の神経科学者たちは、瞑想状態にも類する心的な異常状態を、「変性意識状態(altered state of consciousness)」や「トランス状態(trance state)」などといった概念で詳述している。神経科学者ピーター・ブラウンによれば、とりわけトランス状態は、レム睡眠時の夢見の状態と幾つかの共通点を持つという。たとえば、情動が過激で流動的になることについて、両者は一致する。感覚器官の閾値が変容することによって、様々な情報の過剰刺激を無批判的に受け入れてしまうことも、これらの共通点の一つだ。そしてまた、意識が一旦通常の状態に戻ると、その特異な体験の詳細を説明することが困難になることについても、両者は類似している。

神経生理学的に言えば、個人が夢を見る時、大脳皮質が活性化すると同時に、感覚器官における閾値が変容する。これにより、神経システムはより活性化し易い状態で作動することになる。刺激を感受し易くなった脳は、外部環境から知覚した情報過去想起内容に関する情報現在の欲求や願望に関する情報、そして馴化した習慣が指し示す情報など、様々な情報による過剰刺激を受けることになる。これに伴い、脳幹と側頭葉に接続される視床下部の自律神経系が作動を展開し始める。一連の結果から、夢見る個人は、より頻繁に情動を発動させるようになる。

トランス状態もまた、夢同様に、神経システムが活性化し易い状態から展開される。ブラウンによれば、この活性化は後に沈静化へと向かうという。この活性化から沈静化までの過程は、神経生理学的に形式化されている。すなわち、まず毎秒10000000ビット以上もの情報を処理することができる神経システムを、毎秒30~40ビット程度の情報しか処理できない意識には到底対応できないほどに、<ビジーな状態>を保つ。これにより、意識環境による刺激に随意的に反応する余裕を持たせず、意識に出番が回らないように仕向ける訳だ。神経システムがビジーな状態となるのは、過剰刺激の四面楚歌を受けている場合に他ならない。

活性化の次は沈静化だ。そのためには、このビジーな状態を可能な限り維持したまま、脳幹網様体(Reticular Formation)の作動を沈静化させなければならない。脳幹網様体は、知覚のフィルタリングとして機能する部位だ。つまり、外部環境による過剰刺激の中から、意識構成する上で重要となる情報を選択する。

網様体の中でも、とりわけ網様体賦活系(Reticular activating system ; RAS)の機能は、個人の注意力や知覚の「アウェアネス」を方向付けることにある。したがって、脳幹網様体を沈静化させるということは、余分な刺激に対する知覚を抑止するということになる。それにより、内外による刺激が神経システムの作動を拘束しないように設定することが可能になる。

内外の刺激に左右され難くなるということは、一旦ビジー状態と化した神経システムが後に沈静化へと方向付けられる可能性が低まるということだ。かくして神経システムがビジー状態を維持し続ける可能性は、高まることになる。意識に出番が回らない状態が長引く。

ここで、神経システムのビジー化を担うのは、青斑核となる。青斑核はノルアドレナリンを分泌する部位だ。この部位からノルアドレナリンが分泌されると、それまで抑制されていた脳の部位が突発的に活性化する。ノルアドレナリンは、通常の作動を拘束している内外の刺激から神経システムを解放することで、質的にも量的にも、その作動の形式変異させる。例えばレム睡眠が形成されるのは、身体が休息状態にある最中にノルアドレナリンがリリースされることで、抑圧から解き放たれた神経システムが活性化するためである。

この活性化がトリガーとなることで、情動性のストレス反応が惹起される。ノルアドレナリンの使用がその分泌量を上回れば、より過激でより流動的な情動が発動するだろう。これは、上述した神経システムのビジー状態を意味する。

神経システムの活動電位

通常、神経システムの作動は、主に神経システムの内外におけるカリウムイオンとナトリウムイオンの濃度変異によって実行される。神経システムの内外は、細胞膜によって区別される。この細胞膜の内外には電位差が生じている。内部の電位の方が比較的マイナスとなる。この内外の電位差は、神経システムにおける濃度変異や各イオンの組み合わせによって構成されている。

通常の神経システムは、カリウムイオンだけを通過させるチャネルを開け放っている。だが神経システムが興奮している場合、ナトリウムイオンの通過を可能にするチャネルが約1ミリ秒間開かれる。この一瞬に、外部環境のナトリウムイオンがシステムの内部に浸食してくる。すると神経システムの内部では、プラスの電位を持ったイオンの濃度が高まることになる。尤も、これは一瞬の出来事に過ぎない。約1ミリ秒後には、ナトリウムイオンのチャネルは閉じられる。そして再びカリウムイオンのチャネルだけが開かれた状態となる。電位差は元通りになる訳だ。

一連の電位差の変異は、「活動電位(action potential)」と呼ばれている。一個の神経システムだけを観るならば、この電位差の変異は些細な出来事だ。しかしこの一瞬の出来事こそが波紋を呼び起こすことになる。個々の神経システムはネットワークとして構造化されている。ネットワークを形成させている神経システムの一つで活動電位が生じると、その神経システムの位置におけるイオンはプラスに偏ることになる。するとその神経システムと隣接した周囲の神経システムもまた、電位をプラス側に移行させることになる。周囲の神経システムにおける電位の変異が大きければ、その神経システムにおけるナトリウムチャネルも開放されることになる。

したがって、ある神経システムにおける活動電位は、周囲の神経システムにおける活動電位を派生させる可能性がある。とはいえ、個々の神経システムが縦横無尽に共鳴し合うことでネットワークが暴走してしまうようなことは無い。一度活動電位を発生させた神経システムは、約3ミリ秒間は沈静化したままになる。この沈静化したままの期間は特に「不応期(refractory period)」と呼ばれている。

電位の変異は、神経システムの「軸索(axon)」を介して伝播される。軸索は、情報を伝達する電線のようなものだ。神経線維が太ければ太いほど、軸索における伝達速度が大きくなる。軸索を通じて伝播された情報は、神経システムの「シナプス(Synapse)」に伝達される。情報を受信した神経システムは、それに応じて、様々な「神経伝達物質(Neurotransmitter)」を放出する。この神経伝達物質が周囲の神経システムの細胞膜にある受容体に結合すると、電気信号から情報が伝達されることになる。

遅い神経伝達物質と速い神経伝達物質の差異

神経伝達物質とその受容体の分類法の一つとして、速いか遅いかの区別を導入する方法がある。例えばグルタミン酸もGABAも隣接するニューロンから放出されると素早く電気的変化を引き起こす。その作用は1000分の1秒単位だ。この反応は、孔構造(pore structure)を持つ受容体(receptor)が神経伝達物質結合することで引き起こされる。この種の受容体に神経伝達物質結合すると、形が微妙に変化する。するとイオンチャネルが開く。信号を受け取ったニューロンの内外を荷電粒子が行き来するようになる。特にカルシウムイオンやナトリウムイオンが通過すると、その細胞は興奮し易くなる。グルタミン酸はこうしてスパイクの発火を促進することから「興奮性神経伝達物質(excitatory neurotransmitter)」と呼ばれている。これに対して、同様の作用をもたらすGABAは、受容体がこれと結合すると塩素イオンを通すイオンチャネルが開かれる。これにより電気的にスパイクを抑える効果をもたらす。このためGABAは「抑制性神経伝達物質(Inhibitory neurotransmitter)」と呼ばれる。

一方、ドパミン、セロトニン、ノルアドレナリンなどのような数百ミリ秒から数十秒間電気的変化が持続する遅い伝達物質と結合する受容体には、イオンチャネルが組み込まれていない。これらは伝達の遅い生化学的な信号を送り出す。この信号を受け取ったニューロンは、電気的な作動に間接的な影響を与える。この間接的な影響は、しばしば複雑な過程で成り立つ。単純に興奮性と抑制性を区別することができない。

交感神経と副交感神経の差異

脳内のビジー状態を担保するノルアドレナリンは、交感神経系(Sympathetic nervous system)の作動を活性化させる。その一方で、次いで脳幹網様体の作動を沈静化させる役目を担うのは、主に副交感神経系(Parasympathetic nervous system)となる。つまり、仮にブラウンの定式化に従うならば、レム睡眠やトランス状態に到達するためには、交感神経を活性化することで脳内をビジー状態にした直後に、交感神経の反作用となる副交感神経を活性化させる必要がある。

視床下部前部(Anterior hypothalamus)によりモジュール化された副交感神経が活性化すると、交感神経制御しているRASの作動が抑圧されると同時に、脳幹に位置するレム睡眠を引き起こすコリン作動性ニューロン(Cholinergic neurons)が活性化することになる。典型的にこの過程は、RASの沈静化による覚醒レベルの低下に伴う睡眠作用に関連して、徐々に活発化する。そして、RASが抑制される。結果的にこの抑制により、視床正中(median thalamus)と中隔野(Septum)から海馬体(Hippocampus)までの回路を発展的に活性化させることになる。

この副交感神経と夢の関係は、変性意識状態トランス状態にも共通する性質であると言える。このことを理解する上での補助線となるのが、脳波だ(補助線程度にしかならないのも脳波だ)。脳波の度合いは、神経システムにおける興奮の度合いにある程度比例する。神経システムを興奮させる作用を持つのは、ノルアドレナリンだ。

ノルアドレナリンを分泌するのは、RASに近接する青斑核である。つまり青斑核駆動のRASには、脳波の設定する機能がある訳だ。目覚めている状態にある時、RASは、ノルアドレナリンを分泌する青斑核と連動する形で、脳波をより速い振動数である「ベータ波(Beta Waves ; 14~20Hz)」や「ガンマ波(Gamma Waves ; 20~40Hz)」として設定する。

ブラウンはトランス状態変性意識状態情動と関連付けて強調的に論じていたが、これもまた理由の無いことではない。往々にして情動は、生態的な危機の局面において、状況の感知能力を高める。とりわけRASは、交感神経-副腎神経内の分泌システムに連関する視床下部の自律神経系に神経インパルスを伝達することで、ノルアドレナリンのみならず、「カテコールアミン(Catecholamines)」と「アドレナリン(adrenaline)」の分泌を制御している。カテコールアミンは、外部環境変異適応しようとする身体に伴う負担を軽減する。それは、変異に伴うストレスの負担を軽減する。

一方でアドレナリンとノルアドレナリンのバランスは、「闘争か逃走か(fight or flight)」の形式で挑戦内容没入するための好スタートを担保する。RASによる神経インパルスは、同様に、「コルチゾール(Cortisol)」を分泌する下垂体-副腎系内の分泌システムへも伝達されている。こうした生理学的な機能を前提とすれば、網様体は、ショック体験におけるストレスの知覚を左右する重要な部位であることがわかる。つまり網様体知覚したストレスから、意識的なストレス反応が構成され始めるのだ。

だとすれば、体内の神経システムを沈静化させるには、逆に脳波を低く保つ必要がある。脳波が低まるということは、神経システムの沈静化が進行しているということなのだ。視床正中核は、この段階で機能する。つまりこの部位は、通常の青斑核駆動のRASを抑制するのである。この抑制効果は、中隔野から海馬体までの回路に波及する。沈静化された海馬体は、「シータ波(Theta Waves ; 4Hz~7Hz)」の範疇まで振動数を低めることになる。通常、意識の覚醒レベルの調節を担っているのは、RASだ。だが意識が目覚めから夢見の状態へと移行する過渡的な段階やその逆の過程においては、RASの付近に位置する視床(Thalamic)が、RASの機能的等価物として、意識の覚醒レベルの調節を担うことになる。

視床の機能

視床もまたRAS同様、意識の活性化に関わる部位として位置付けられる。専ら視床が担うのは、意識が自己以外の外部に言及する際に実行される神経システムの「放電」だ。つまり視床は言わば、大脳皮質が環境情報にアクセスするための「入り口(gateway)」として機能することで、意識の外部言及を可能にしている。

大脳新皮質が感知する情報は皆、視床を経由している。視床は、環境情報を受信する網様体と大脳新皮質の<境界>で作動している。我々の考察との関連で言えば、大脳新皮質が視床を介して検出できるのは、40ビットというスポットライトが照らす範疇に限定される。残りの範囲は、<意識>が現実世界の情報知覚する段階で、<無意識的に>捨象されている。

通常ならば、視床はRASと連動している。この場合、RASの影響から活発に機能している大脳新皮質は、視床を介して、より多くの外部言及を遂行しようとする。より多くの外部言及が遂行されるということは、外部に言及する心理システム構成する神経システムが活性化する度合いや頻度が高まるということだ。それはつまり、神経システムが全体として活性化するということである。

脳波の構造

一方で、上述したトランス状態変性意識状態の兼ね合いからRASが沈静化された場合、RASに比して、視床が強調的に作動することになる。この場合、最終的には、逆に神経システムが全体として沈静化されることになる。ここでの抑制効果は、脳波を補助線として用いることで、通常時と明確に比較することが可能だ。視床が機能する限り、大脳新皮質が刺激をあるがままに受け取ることは無い。大脳新皮質が視床を介して受信するのは、通常ならば<中程度>の刺激になっているはずだ。

ベンジャミン・キーシンをはじめとする神経科学者たちは、この<中程度>の度合いで展開される作動を具体的に「アルファ波(Alpha Waves ; 8~12Hz)」の振動数として観察している。青斑核駆動のRASが機能している通常の場合ならば、ノルアドレナリンの興奮作用により、脳波はベータ波以上となる可能性が高い。故に大脳新皮質の神経システム比較的活発に作動していることであろう。だが視床が積極的に機能している場合、ノルアドレナリンの大脳新皮質に対する影響は低減する。故に中隔野から海馬体までの回路も、過剰に興奮することの負担を軽減している。視床は、変性意識状態トランス状態にある場合に、基調脳波を抑制しているのである。

キーシンによれば、ノルアドレナリン駆動のRASが沈静化すると、両半球の活性度が減少するという。それは上述したように、視床がRASに比して積極的に作動することで、脳波が低下するためであろう。ただし、両半球が一律に沈静化されるのではない。RASが沈静化されると、左半球に比して、相対的に右半球が顕在的に作動するというのだ 。その理由は、通常の意識状態における左半球優位の作動形式にある。

通常の意識状態においては、全ての神経システム意識構成に携わっているとは限らない。言い換えれば、我々が日常生活を送る時、脳の全てが活用されている訳ではない。ショックに振り回されない状態で順調に作動している場合、脳には多大な未活用部分がある。少なからずその作動の活性度には、部分ごとに落差がある。

例えばジェリィ・レヴィらの報告によれば、通常両半球は相互作用を引き起こしつつ作動を展開している。ただし左半球の神経システムは、右半球の神経システムに比して、意識言語的で概念的な観察を遂行する場合に、相対的に活性化する。これに対して右半球の神経システムは、瞬間的な再認識や視覚的な形態記憶に特化した上で、意識による前言語的な観察が遂行された場合に、相対的に活性化するという。

右半球の構造

通常の意識状態は、左半球から多大な影響を受けている。裏を返せば、通常の左半球は、自ら顕在的に作動することによって、右半球の作動を潜在化している。この潜在化を「抑圧」と置き換えて考えて観れば、RASの沈静時に右半球が顕在化する理由も明らかとなるだろう。両半球が沈静化するということは、右半球の作動を「抑圧」している左半球の作動が沈静化されるということだ。右半球が左半球による「抑圧」から解放されるということは、両半球が沈静化している最中でも、左半球に比して、右半球が活性化するということになる。それは、左脳優位の状態から右脳優位の状態への移行を可能にする。

定式化して言えば、変性意識状態トランス状態は、相対的に右半球を活性化させた状態から構成される意識に他ならない。変性意識状態トランス状態にある時、レヴィらが取り上げた「瞬間」的な再認識や視覚的な形態記憶に特化した前言語的な能力を向上させることが可能になる。

機能的等価物の探索:脳内麻薬

情動の活性化において重要な機能を担う神経システムの代表例は、動機付けに関与している「ドパミン(dopamine)」だ。

神経生理学的に言えば、ドパミン作動性ニューロンのA10神経核は腹側被蓋野から大脳皮質に投射されている。このA10神経核は、報酬系として、動機付けの機能を担っている。A10神経核は、情動との関連から、他の脳内の様々な部位に接続されている。特にA6神経核の青斑核に対応するアドレナリン作動性ニューロンとは、相互に刺激し合う関係を持つ。

アドレナリン作動性ニューロンとの兼ね合いから言えば、いわゆる「ノルアドレナリン(noradrenaline)」は、神経システムの全体を活性化させる機能を持つ。この脳内状況に触発されて、ドパミンもまた活性化することになる。この時A10神経核は、脳幹の神経核から視床下部に至るまで、様々な部位を刺激する。その中には、欲求の制御や体温の調節を司る部位も含まれる。これらの中枢を経た後は、活性化の影響は中隔核、扁桃体、海馬体などの大脳辺縁系にまで至る。最終的には意識や認知や記憶などと関わりを持つ前頭連合野や側頭葉へも刺激を与えることになる。この間、A10神経核は情動や動機付けに関わる部位であれば何処であっても、ドパミンを放出する。すると脳内の様々な部位で、快楽に紐付いた情動が発動する。

パラドックスとしての「脳内麻薬」

したがって、ドパミンの分泌と脳内の過剰な活性化は、相関していることになる。そしてこの過剰な活性化状態は神経システムに負担を強いていることを意味する。これに対して神経システム構造は、この負担軽減として、ドパミン受容体の個数を制御している。実際、ドパミン報酬系としての動機付けや行動を駆動するほどの情動は、放出されたドパミンドパミン受容体と接続することで初めて成り立つ。そしてこの動機付けや情動の強さは、ドパミン受容体に接続されたドパミンの割合に比例する。神経システム構造的にドパミン受容体の個数を増やせば、逆に受容体に接続されているドパミンの個数は相対的に減る。つまり受容体の個数を制御すれば、ドパミンによる動機付けや情動の強さも制御できることになる。

しかしこの方法神経システムにとって諸刃の剣となっている。何故なら、一度ドパミン受容体を増やせば、神経システムはそのことを学習してしまう。度は、受容体を埋め尽くすために、より多くのドパミンを放出するようになってしまう。そのため、受容体を増やした後は、それまでよりも大量のドパミンが放出されることが常となってしまう。そうなれば、またしても神経システムは過剰な活性化の負担を強いられることになる。だから神経システムは、また構造上の対策として、ドパミンの受容体を増やすことになるだろう。だがこれではいつまで経っても埒が明かない。ドパミンが大量に放出されれば、それだけ受容体の個数も増大する。だが受容体が増えれば、逆にドパミンの更なる大量放出を招いてしまう。まさにこのパラドックスこそが、ドパミンの「脳内麻薬」としての効果を物語っている。

「報酬を予期させる刺激」に対する「報酬探索活動」

脳内麻薬」としての性質から観れば、ドパミンによる動機付けは反復的な行動を駆動する。この行動反復は手続き的な順化による習熟の形成に結び付いている。だがこうした過剰な活性化は、心理状態にも影響を及ぼす。だがそれは負担過剰となる。その末路の一つが「脳内麻薬」による「依存症(addiction)」だ。依存症に陥った人間心理システムは、異常な執着心や近視眼的な衝動に悩まされることになる。

習熟化されるほどに反復されるような行動を成立させた際には、その報酬象徴するように、脳内で快感を伴わせる肯定的な情動が発動する。このことは、「脳内麻薬」という用語からも連想できるかもしれない。

しかしながら、神経科学者ウォルフラム・シュルツによれば、ドパミンによる動機付けは快感を伴わせる肯定的な情動からは厳密に区別されなければならない。例えば腹側被蓋野におけるドパミンの放出は、確かに報酬目的とした行動を駆動させる。だがその行動は、必ずしも快感を伴わせるような行動とは限らないという。

行動の生起可能性や反復可能性を高める「強化刺激(reinforcer)」を受けた時、たとえそれによって駆動される行動から「痛み」などのような否定的とも捉えられる結果が連想される場合であっても、ドパミンによる動機付けは成立するのだ。シュルツによれば、むしろこの文脈におけるドパミン機能は、そうした強化刺激に対する注意を向けさせることになるのだとも言える。確かに、たとえ「痛み」を伴わせたとしても、その代償として報酬が得られる可能性があるのならば、我々はその行動を選択するかもしれない。

これを前提とすれば、ドパミンが発動するのは、何も行動の結果となる快感のような報酬効果としてだけではない。ドパミンは、未来において期待できる報酬へと注意を向けさせる際にも機能している。シュルツの用語を借用するなら、ドパミンは「報酬を予期させる刺激(reward-predicting stimuli)」を受けた際にも発動していることになる。だからシュルツは、一部のドパミンの放出が大脳基底核や扁桃体の機能によって構成される「報酬探求活動(reward-detection activity)」にも関連付いていると推論している。

β-エンドルフィンの作動

こうして観ると、ドパミン依存症を主導しているかのように思える。しかし依存症は、ドパミンのみならず、様々な神経伝達物質の複合的な作動によって成立している現象だ。とりわけその陰の立役者として作動しているのは、「β-エンドルフィン(beta-endorphin)」であると言われている。

β-エンドルフィンは、阿片から造られるモルヒネ(Morphine)と類似した化学構造を有していながら、モルヒネの10倍程度の鎮痛作用を持つ。β-エンドルフィンもまたドパミン同様、鎮痛作用と共に快楽を引き起こす。この快楽もまた依存症の引き金を引くだろう。ただしここでいう依存症には、精神的な依存のみならず、身体的な依存をも含まれている。と言うのもβ-エンドルフィンは、脳内のみならず消化器系をはじめとした神経システム内でも分泌されるからだ。

ドパミンがそれ自体快楽を引き起こす作用を有しているのに対して、β-エンドルフィンの快楽作用は間接的であるという。と言うのもβ-エンドルフィンは、ドパミンを相対的に活性化させることによって、快楽を引き起こしているためだ。ドパミンには毒性がある。ドパミンが過剰に分泌されてしまうと、身体に毒が回る。故にその過剰分泌は抑制されなければならない。そのために機能しているのが、「γ-アミノ酪酸(gamma-aminobutanoic acid ; GABA)」だ。この神経伝達物質ドパミンをはじめとした興奮系に対する抑制系として機能する。γ-アミノ酪酸がドパミンによる興奮を抑えることによって、身体にリラックス効果を与える。しかしながらこのγ-アミノ酪酸作動性ニューロンの末端には、エンドルフィンの受容体が多数存在している。この受容体に接続されたエンドルフィンは、ドパミンの抑制系として機能しているγ-アミノ酪酸作動性ニューロンそれ自体を抑制することになる。この<抑制の抑制>によって、結果的にドパミンが活性化するという訳だ。

プロトタイプの開発:バイノーラルビート

バイノーラルビート(Binaural Beat)」は、より直接的に瞑想状態を誘発する音響刺激として知られている。バイノーラルビートとは、「周波数同調反応(frequency-following responses)」によって脳波制御する音響刺激を意味する。

両耳のそれぞれに異なる周波数の音響刺激をヘッドフォン越しに送信した場合、それら二つの音が空気中で交差することはあり得ない。しかし、それらの音を知覚した人間は、この二つの音とは異なる第三の「うなり(beat)」のような音を感受する。こうした知覚構成されるのは、入力した二つの音が持つ周波数の「差異」が脳内で検出されるためだ。例えば、左耳から100Hzの周波数を入力し、右耳から105Hzの周波数を入力した場合、脳は5Hzの「うなり」を検知する。生物物理学者のジェラルド・オスターの検証によれば、こうした「うなり」を検出している時、知覚した脳の基調脳波は、この第三の周波数に同調するという。「うなり」が5Hzならば、脳波も5Hzになる訳だ。この基調脳波制御を「周波数同調現象」と呼ぶ。

情報過負荷に曝された時の特徴振動数

バイノーラルビートに関するこうした実証的な報告から、例えば脳波をアルファ波やシータ波に誘導することで、リラックス感や没入感を引き起こせると考える科学者たちもいる。疑似科学で商売しているマーケターたちの間では、極端なことに、このツールは「幽体離脱装置」としても語り継がれているようだ。

一方、こうして情報が錯綜する中でも比較信頼できるのは、集中力、没入感、あるいは注意力が増大するという報告である。バリー・グリーンとティモシー・ゴールウェイによると、意識や脳に「過負荷(overload)」となる刺激を呈示した場合、忘我状態が引き起こされ、集中力が増すという。脳が過負荷な情報の処理に追われビジー状態になると、刺激と反応の間に余分な自己意識を介在させる余裕を失うからだ。余分な自己意識が伴わない状態では、脳はその刺激の情報処理にほぼ全力を注ぐことができる。その結果、その人間は、その刺激の対処に集中することができるようになるという訳だ。

バイノーラルビートもまた、こうした過負荷となる刺激を呈示するツールとなる。視床の直前で周波数情報を処理している上オリーブ核、下丘、そして内側膝状体に位置する神経線維集合のそれぞれは、それぞれの周波数に特化した形式で、「特徴振動数(best of characteristic frequency)」を形成している。例えば100Hzの音響刺激を処理するニューロン群と、110Hzの音刺激を処理するニューロン群は、全く別物だ。これらの部位に位置する神経システムは、音響の周波数ごとに、機能的に分化している。

神経節細胞の同時的発火状態

通常、空気中から100Hzの音と110Hzの音が同時に伝送されている場合、この二つの音の合成音が音響刺激として知覚されることになる。よって、聴覚回路が処理する音の周波数は単一となる。つまり通常の聴覚刺激に対して発火する神経線維集合は、一つだけなのだ。しかしながら、バイノーラルビートはこの例外を引き起こす。音響刺激の周波数次第で異なる神経線維集合が放電するのだとすると、左右の耳に対して、それぞれ異なる周波数の音響刺激が同時に呈示された場合、別々の神経節細胞の繊維が同時的に発火することになる。バイノーラルビートという特異な刺激に対して、それぞれのニューロンが、自分の役割であると錯覚して、機能してしまう。

すると、同時的に発火した複数のニューロン群が競合することになる。両耳から伝送された情報を統合する役目を担う上オリーブ核においては、それぞれの神経システムのスパイク列が、左右の耳における刺激の相対的な位相の差異を反映して、何重にも重なり合うことになる。

それだけではない。上オリーブ核のみならず、特徴振動数を持つ下丘と内側膝状体においては、通常の聴覚刺激に比して、より多くの神経線維集合同時的に発火することになる。それ故、同時的に興奮することとなった各ニューロンは、衝突するように、相互作用を引き起こさざるを得なくなる。ニューロン・ネットワークは、通常の物理的空間における音源方向定位とは別様の異質な状態を構成することになる。その結果こそがまさに、周波数同調現象であると言える。

バイノーラルビートとモノラルビートの差異

バイノーラルビートは、脳内で構成される「うなり」として発現しなければならない。脳の外部の物理空間上で構成された「うなり」であっては、バイノーラルビートの要件は満たされないということだ。周波数同調現象はあくまでもこの脳内の「うなり」の同調を意味する。

しかし興味深いことに、オスターは物理空間上で構成された「うなり」にも脳波が同調し得る可能性を指摘している。これを特に「モノラルビート(Monaural Beat)」と呼ぶ。何故モノラルなのかと言えば、脳内で構成されるまでもなく、「うなり」は物理空間上で構成されているからだ。実際のところ、我々の中には騒音の公害によって気分を害している者たちもいる。バイノーラルビートなどといった技術を用いずとも、単なる音響刺激だけで人間の脳神経は攪乱できるのだ。この意味で、モノラルビートの特性自体は不自然ではない。

バイノーラルビートは、その特性上、イヤフォンやヘッドフォンを介して両耳の双方に正確に異なる周波数を送信しなければ成立しない。これに対して、モノラルビートの場合は、こうした制約条件が無いため、イヤフォンやヘッドフォンのようなインターフェイスは必要とはならない。

バイノーラルビートの接続可能性

以上の研究報告を前提とした上で、このWebサイトでは、バイノーラルビートモノラルビートの体感を可能にするライブラリやパッケージを提供している。こうした「うなり」に関する研究は、音響心理学神経生理学の関連では基礎的な聴覚現象として取り上げられている。だが、都市や室内、動画配信サイトやヴァーチャルリアリティで日常的に聴取されている音楽と組み合わせられた場合の機能については、十分には探究されていない。そこでこのWebサイトでは、バイノーラルビートモノラルビートを生成する機能ブラックボックス化したライブラリやパッケージを提供することで、これらの「うなり」と他の音楽との接続可能性を高める動きを図っている。

機能的等価物の探索:麻薬

麻薬神経システムに対するショック効果を呈示する。それは神経システムを過剰に活性化させる。これに付随するように、麻薬陶酔作用は、異常な意識状態を形成する。

無限の矛盾

阿片常用者の告白』の主人公は、楽園に向き合ったド・クインシー本人ではない。彼によれば、この物語の主人公となったのは、この楽園を可能にした阿片それ自体であったという。

物語の手始めにド・クインシーは、阿片の作用とアルコールの作用の差異を強調している。それによると、アルコールには快楽の持続性が伴わないのに対して、阿片には8時間から10時間程度の持続性があるという。この区別が言い表しているのは、いわゆる急性的快楽と慢性的快楽の差異である。例えば急性的快楽を伴わせるワインは、判断力を狂わせる。一方、慢性的快楽を伴わせる阿片は、精神的な秩序、規律、そして調和を実感させる。ワインが冷静さを喪失させるのに対して、阿片は冷静さを保たせるという訳だ。侮蔑、愛や憎しみに対する異常な興奮を与えるのがワインだとすると、平静と均衡を保つのが阿片の作用である。

しかしその一方でド・クインシーは、阿片の最たる効果が興奮であるとも述べている。この作用もまたアルコールによる「陶酔(intoxication)」作用とは異なっている。陶酔に浸る者たちは、人間の中の動物的な部分を曝け出している。その者はもはや動物的な支配下に置かれている。これに対して阿片は情緒を拡張させる。これもまた動物的な情動の発露に似ているが、決して動物的な発作ではない。興奮に浸る最中の阿片常用者たちは、自己の聖なる部分が優位に立っていることを直感している。阿片常用者たちは、道徳的に平静を保ち、自己が厳格な知性を発揮できていると信じているのである。阿片はこうした意味で、精神的な健康状態を治癒すべく機能すると観察されている。

こうした阿片の作用を単なる「幻覚」として片付けることはできない。ただしそれは矛盾に満ちている。例えばド・クインシーは、その心象風景において、都市部で勃発した騒動や熱病や闘争を目撃していた。だがそれらの出来事は、まるで静寂に流れ続ける海の如く「静止」していたという。ド・クインシーによれば、その光景は彼自身の精神と気質を適切に描写した形象である。ド・クインシーは、この「静止」が決して「緩慢(inertia)」な状態から生み出されたものではないと断言する。そうではなくそれは、「強烈で等しい二つのものの対立、すなわち無限の活動と無限の休眠の対立(mighty and equal antagonisms; infinite activities, infinite repose)」の結果として発現しているのである。

形象の大量生産

この「無限の活動」と「無限の休眠」の対立は、麻薬陶酔による夢見と通常の精神状態における目覚めの<境界>で生じている。この夢見と目覚めの区別は、文学的のみならず生理学的な区別でもある。ド・クインシーはこの<境界>に足を踏み入れたことによって、あらゆる形象が無数に現前してくる様に驚異を覚えた。特筆すべきなのは、形象の大量生産である。かのミーダス王があらゆる物を黄金に変えたことで身を滅ぼしたように、ド・クインシーは、あらゆるものを形象として映し出してしまう自身の創造的な「眼」を脅威として感じ取ったのである。こうした形象は全て、言語化して説明することが難しい類のものであった。ド・クインシーは、形象の深部に自身が没落していくのではないかと恐れていた。それは、自殺願望を伴わせる憂鬱気質にも似ていたという。

形象現前している最中では、空間の感覚も、時間感覚も、歪むことになる。阿片服用者は、幸福感に没入するあまり、時間の経過を忘却している。だが形象現前してくると、事情が異なってくる。それは幸福をもたらすものではなく、奇襲なのである。ド・クインシーは、やがて壮大な形象と化した建物や風景や事物に襲われることになる。周辺の空間無限に膨張している。時間もまた、無限拡張されていた。ド・クインシーにとっては、一晩が千年にも達するほどに、その時間感覚は歪んでいたのだ。それは、無限に続く奇襲による苦痛を体感せざるを得ない状況である。

羊皮紙の隠喩

この形象の大量生産との兼ね合いから更に特筆すべきなのは、記憶想起である。恐らくは、突発的な記憶想起による形象の奇襲が、彼を驚愕させたのであろう。例えばド・クインシーは、幼少時代の出来事を詳細に想起したことを告げている。だが彼自身は、それを現実に起こった出来事想起とは認めてはいない。しかし、目覚めと夢見の<境界>に位置した時点でのド・クインシーは、想起の脈絡から「新発見」したその内容を自らの記憶であると「再認識」していたという。それはどこか、シュールレアリスム的なショック体験した者がそれを現実とは認められない様に似ている。

この記憶想起に関する論考の延長線上の省察として、ド・クインシーは「羊皮紙(Palimpsest)」という隠喩で我々の思考記憶表現していた。羊皮紙とは、繰り返し上書きすることで、元々の写本が拭い去られてしまうある種の印刷技術のことである。中世において、それはいわゆる「魔術書」や呪術の「指南書」として扱われていた。植物の繊維を絡ませて製造される紙とは異なり、羊皮紙は、羊に限らず、牛や馬などの皮を用いて製造される。三次元的な立体構造のように絡み合った皮の繊維を二次元的な平面に引き伸ばすことによって、紙のような機能を得られるのである。羊皮紙は、紙に比して、インクや絵具の滲みが少ない。それ故、表面を削れば、また新たに再利用することができるのである。

ド・クインシーの巧みな表現によれば、人間の脳は羊皮紙なのだという。思考形象情動のような出来事が生起するたびに、その記憶が脳の上に次々と折り重なっていく。新たな出来事記憶は、既存の出来事記憶を埋没させてしまうかのように思える。しかし現実には、どの記憶も完全に消滅している訳ではない。羊皮紙の表面上では、新たな内容が記述された途端に、以前の内容は消え去ってしまうように見える。だがその痕跡は、羊皮紙の深部に残存している。同じように、脳においても、かつての記憶の痕跡が残存しているのである。

阿片の効果は、まさにこの残存する記憶の痕跡を形象として顕在化させることにある。したがって阿片を契機として発現した形象が言い表すのは、阿片の常用者が自身の羊皮紙としての脳に残存していたあらゆる過去記憶の痕跡と遭遇した状態なのである。顕在化した過去の諸々の形象が、ここの現在において、同時に共存している。だがこの非同時的な過去同時的な発現をド・クインシーは副次的な現象に過ぎないという。彼が秘的なものとして重視していたのは、過去の「蘇生(resurrection)」そのものだ。それ故にこそド・クインシーは、不老不死の薬にも匹敵する生命力で灰の中から孤独に復活を遂げていく不死鳥に魅せられていくのである。

阿片を常用していたド・クインシーは、脅威と驚異の振動を体験していたのであろう。その振動は、蘇生した過去形象が引き起こしていた。だがド・クインシーの形象に対する驚異と脅威の振動は、次第に脅威のみへと固定されていく。形象への感想が脅威として徐々に定着していったのである。そしてその脅威は、憎にも似た感情へと変わっていった。あらゆる恐怖、罰、そして閉塞感が無限に永続していくかのような想念が、狂気にも似た抑圧へとド・クインシーを駆り立てていったのである。

「人工の理想」と「自然の夢」の差異

ド・クインシーの麻薬哲学を継承したボードレールは、陶酔の特質が「無限の嗜好(Le goût de l’infini)」にあるという。それは、「人工の理想(l’Idéal artificiel)」を取得しようと欲する渇望を意味する。このボードレールの観察の主導的差異人工自然区別によって構成されているのは、その観察観察することで直ぐに判明する。だが彼が「人工の理想」の対立項として想定しているのは、単なる自然ではなく、「自然の夢(le rêve naturel)」である。このことには注視しておかなければならない。

形象の数

ド・クインシーと同じように、ボードレールもまた形象の大量生産に注意を払っていた。ボードレールによれば、麻薬の効果は形象の数を増やすことで時間を増やすことにあるという。形象が増えれば、時間もまた増える。それは時間の流れに加速度を与える。その結果、人間は驚異的な速度で生きているかのように、物理現象としては短いはずの時間の中で無数の生涯を謳歌しているかのように錯覚する。時計が示すそれぞれの「1分」の中に一つ一つの永遠が刻まれている。限られた人生の中で、麻薬陶酔者は、複数の人間の人生を体験することになる。

このようにボードレールにおいては、形象の大量生産が時間感覚の変容と強く結び付いている。時間という概念は拡張されることで、永遠の渦巻きのように回帰する概念となる。この関連から記憶力も変容する。ド・クインシーが述べたように、記憶の羊皮紙が展開されることによって、あらゆる記憶想起が可能になる。ある種の無意識の中で眠っていた記憶も例外無く想起の対象となる。想起された個々の記憶形象は、それ自体としては支離滅裂に思えたとしても、羊皮紙全体としては、論理的で不協和音の伴わない一つの合唱として構成されている。それは完全なる調和を形成しているという。

しかし一方でボードレールは、この時間感覚の変容状態が危険であるとも述べている。形象の数が増大するということは、認識すべき対象を一つに絞り込めないということである。故に麻薬自我意志を拡散させてしまう。麻薬陶酔者は、一つの対象への集中力を維持することができなくなるのだ。ボードレールは、日常的な「ここ」に対する集中を無限拡張された時間と同じように重視する。と言うのも、自我意志の拡散だけに身を委ねてしまえば、「想像力」に対する意志の不在を容認してしまうためである。それは自己自身であると同時に他者でもある力を放棄することを意味する。拡散するだけの陶酔状態でも、確かに複数の人間の人生を体験できるかのように、永遠を実感できるであろう。だがそれは、際限無く他者の人生だけを送るようなものなのである。

脳髄の真なる祝祭

繰り返すように、ボードレールはド・クインシーの告白を賛美している。だが彼は、麻薬を賛美している訳ではない。実際ボードレールは、どれほど麻薬を吸引しても、所詮人間は自らの肉体や道徳的な気質を完全に超克することができないと注意を促している。この主張は、ド・クインシーの些か神秘主義に傾斜した言明を脱魔術化する洞察であるかのように観える。だがド・クインシーもまた、阿片の作用が本来その人間が歩んでいる道においてしかその人間を刺激しないということを踏まえていた。麻薬が奏でる形象は、服用者が歩んできた過去の「蘇生」である。故にその形象の範疇は、服用者が人間として歩んできたその人生に制約される。この意味で、ド・クインシーとボードレールの麻薬論は一致している。

ボードレールによれば、阿片が五感に及ぼす効果は、「自然の全体(la nature entière)」を「超自然的な関心(intérêt surnaturel)」で覆うことである。阿片機能は、この超自然的な関心によって、より深く自発的かつ専制的に自然の事物たちに意味を付与するように我々を仕向ける点にある。しかし一方でボードレールは、この超自然的な関心による意味付与には必ずしも阿片が必要になる訳ではないとも述べている。阿片に依存せずとも、こうした意味付与による認識が可能になる瞬間があるのだ。その瞬間とは「脳髄の真なる祝祭(véritables fêtes du cerveau)」の瞬間である。この瞬間において我々は、自然に対する研ぎ澄まされた知覚力によって、響き渡る印象を感じ取り、透明性を増した青い空の無限の深淵に沈み込み、無数の音が音楽的に鳴り響き、様々な色が語り出し、香りは観念の世界を物語るようになる。一口に言ってしまえば、我々は皆自然に対する「超高感度の神経(des nerfs ultra-sensibles)」を持ち得るのである。

しかしながらこの超自然的な関心が可能となる瞬間は、誰もが到達し得るにも拘らず、通常であれば制御不可能である。面白いことに、この関連からボードレールは、上述した美的瞬間を「恩寵(grâce)」と見做そうとする。超自然的な関心という異常な心理状態は、人間が自身が最良であると見做してしまうような「魔術的な鏡(miroir magique)」なのだ。確かにこの「脳髄の真なる祝祭」の瞬間は、いつの時代にも、誰にとっても、人間の最上の宝のように思われたはずである。だからこそ人類は、身体を毒するリスクを冒してまで、即時的な快楽に浸る方法自然科学や薬学、あるいは酒や香水の中から発見しようと奮起し続けてきた訳だ。それは人類が一挙に楽園を奪取する願望を表象しているかのようだ。そしてこの「恩寵」に対する飽くなき探究心こそが、人間内在する「無限の嗜好」の存在証明してしまっている。

機能的等価物の探索:世俗的啓示

ド・クインシーから多大な影響を受けたボードレールの考察は、後にベンヤミンの人間学的唯物論美学に対して多大な影響を及ぼすことになった。ベンヤミンは直接自らの身体にハシッシを注入することによって、その陶酔体験叙述しようとしていた。その実験は、遺された手記を確認する限りでは、1920年代から1930年代の間、友人のベルリンの医師たちや盟友エルンスト・ブロッホの監視下で行なわれている。手記の内容は、『パサージュ論』を彷彿とさせる不連続で断片的な叙述に満ちている。細部の断片を見極めるベンヤミンの批評形式と同様に、麻薬陶酔体験は驚くべき諸発見を可能にしていた。その発見への衝動は、事物への認識衝動である。彼は実験の最中に、丁度葡萄酒が葡萄から造られているように、事物から直接事柄を記述しようとしていた。それは純粋に濾過された知的収穫物への衝動であったのだ。

ベンヤミンによれば、麻薬は<その場の光景>と<寓意的な意味>を交差させたような形象を引き起こす。眼前の光景と寓意的な意味の重ね合わせは、外見上の類似性によって把握される。通常の意識状態であれば、言わば常識や固定観念がその関連付けを制約し得る。だが陶酔状態の場合は、こうした歯止めが利かない。陶酔の世界では、関連性が無限拡張していく。時には相互に矛盾する相反的な形象同士が互いに指し示し合うこともあるという。陶酔状態に浸る者は、それ故に際限の無い形象の洪水を目の当たりにする。ただしそれは自由連想的な関連付けと言う訳ではなく、形象同士が相互に浸透し合うことで関連付いているのだという。

尤もベンヤミンは、麻薬陶酔に伴う「孤独(Einsamkeit)」という否定的側面についても指摘していた。実際ベンヤミンは端から麻薬陶酔による現実逃避には関心を持っていなかった。むしろ彼の眼中にあったのは唯物論的弁証法に基づいた覚醒と匹敵する代替案である美的経験や啓示であった。より厳密に言い換えれば、麻薬陶酔は「世俗的啓示(profane Erleuchtung)」に親和した陶酔作用を実現する。世俗的啓示とは、人間学的唯物論における霊感である。この霊感は、決して超越的な理想や夢に望みを託す宗教的な啓示なのではない。それはむしろこの内在的な世界で習熟されている事物を援用した啓示なのである。

だが麻薬陶酔は百発百中ではない。世俗的啓示は儚くも不発に終わる場合がある。そうした失敗から、麻薬陶酔者は、自身が箱の中に閉じ込められたかのように思うかもしれない。だが自らが孤独の部屋に住んでいるという自己形象は、確かに当の麻薬陶酔者を脅かしながらも、実際には当人が自ら創造した形象でもある。そこでベンヤミンは、麻薬陶酔による孤独の形象がそれ自体「濾過器(Filter)」としても機能すると考えた。孤独の形象は、まさに他の事物から独立して凝固することで、恰も酵母や原料粕などのような濁りを葡萄酒から取り除くかのように、形象の洪水を間引く形式となるのだ。

「翌日ノートに記したことは、その時々の記録以上のものであった。麻薬陶酔の記憶は、夜のうちに、日常的な体験に対して、美しいプリズム上の縁取り(schönen prismatischen Rändern)によって際立つ。そうすることで、それは通常よりも記念すべきものとなっていた。言わば、一度収縮することで、花形を形成したのであった」。
Benjamin, Walter (1985) “Protokolle zu Drogenversuchen,” In: Gesammelte Schriften Bd.6, Frankfurt am Main., 1991, S.558–618. 引用はS.584より。

孤独の形象が濾過器として機能するという発見、次いで美しいプリズム上の縁取りという形式の発見が可能となったのは、この手記が表す通り、翌日である。そして、美しいプリズム上の縁取りは日常体験に対して際立つとも述べられている。このことが言い表しているのは、麻薬陶酔体験の「波」である。麻薬陶酔は、日常体験的な孤独という否定的な側面と記念日であるかのような花形の体験という肯定的な側面とが「リズム」を奏でるかのように生起し合うのだ。日常体験の沈殿物としての形象を抽出するには、この「波」の「リズム」に身を委ねなければならない。この関連からベンヤミンは、否定的な側面として「孤独」を描写する一方で、肯定的な側面としては「幸福(Glück)」を取り上げている。そしてこの両極の「リズム」を、彼は「アリアドネの糸(Ariadne-Faden)」の比喩によって叙述している。

「陶酔の幸福(Rauschglücks)の謎に迫るには、今一度アリアドネの糸(Ariadne-Faden)について考える必要がある。糸玉を解していくという単純な行為の、何という悦び(Lust)であろうか。この悦びは制作の悦びと同様に、陶酔(Rauschlust)にも関連する。我々は前進する。しかし、進んで行く洞窟の中で発見するのは、その曲がり角だけではない。この洞窟の探索の悦び(Entdekkerglück)を、糸玉が解れていくリズミカルな至福(rhythmischen Seligkeit)と共に味わうのである。我々が解していく巧みに巻かれた糸玉による確実性――これは制作、少なからず散文の制作における至福ではないであろうか。ハシッシの陶酔の中に位置する我々は散文の本質の最高度の享受者である。」
Benjamin, Walter (1985) “Protokolle zu Drogenversuchen,” In: Gesammelte Schriften Bd.6, Frankfurt am Main., 1991, S.558–618. 引用はS.584より。

ハシッシの吸引は、形象の洪水の中の探索を可能にする。それは、一方では孤独に耐え忍びながらも、他方では夢を解しを解く至福への没入意味する。ベンヤミンの人間学的唯物論において、この「リズム」こそが、世俗的啓示の道標として機能する。

機能的等価物の探索:遊歩・探究・ギャンブル

まさにこの関連からベンヤミンは、ド・クインシーやボードレールが主導的には踏み込まなかった論点にまで着手していた。ベンヤミンによると、街を歩き回る遊歩者たちが目にするような「街路名(Straßennamen)」にもまた、我々の知覚を押し上げ多層化してくれる陶酔作用があるという。

街路名とは、言わば一般市民が街について知るためのユーザー・インターフェイスである。それは市民が街を感じ取るための唯一の感覚性なのだと、ベンヤミンは洞察する。と言うのも、我々は街、仕切り石、道路の構造などについて、精密に調査したことなど無いからである。街路(Straße)は道(Weg)ではない。道に迷うことは恐怖である。だが名を与えられた街路を歩く者たちは、単調ではあるものの魅惑的に延びていくアスファルトの帯に方位付けられていく。そうして街中を徘徊し続ける者たちは、次第に「遊歩者(flâneur)」としての特質を持つことになる。遊歩者が街を徘徊する時、追憶としての陶酔の状態に陥る。その陶酔素材となるのは、感覚だけではない。この場合の陶酔はしばしば、単なる知識を、誇りの被った資料さえも、自ら経験した出来事や活き活きとした出来事であるかのように吸収し尽くす。19世紀以降になると、それまで口頭で継承されていたこうした知識が、大量の文献の中で語られるようになった。ベンヤミンは、こうした文献を研究することが、夢見ることに没頭すべく用意された第二の人生のようなものだという。

悪しき無限、あるいは悪魔主義の根源

麻薬による陶酔街路名による陶酔と同等に扱うベンヤミンは、更に都市街路を徘徊する遊歩者たちを「探究者(student)」や「ギャンブラー(Spieler)」と同列に扱っている。探究者は、決して探究に終わりなど無いと考える。ギャンブラーは、これで十分であるとは決して考えない。遊歩者は、まだ見るものが必ずあると考える。

彼らの一見無為にも見える活動は、無限に続く欲求に駆り立てられている。ベンヤミンは、彼らの自発性が、猟師の自発性に一致するのではないかと指摘している。例えば探究者からすれば、文献のテクストは、その中で読者が猟師となる森である。着想が獲物の足音なのであり、引用が獲物への攻撃となる。文献の著者こそが獲物なのだ。しかし、たとえ獲物を捕らえたとしても、狩猟が終わることは無い。その探究者にとって、知るに値することの蒐集は基本的に完結不可能である。蒐集した知の利用可能性は偶然に左右される。

ベンヤミンは、こうした遊歩探究ギャンブル模倣として叙述している。無為に過ごす者たちは、遊歩者として遍在的となり、探究者として全知となり、ギャンブラーとして全能となる。ベンヤミンによれば、こうした模倣は、いずれにせよ完結不可能であるという点において、ヘーゲルが述べた意味での「悪しき無限(schlechte Unendlichkeit)」を形成すると共に、ボードレールの悪魔主義における根源を成すという。

冷静沈着な精神の現在性

ギャンブルにおいても同様に、偶然性と完結不可能性が際立つ。ギャンブルは、ギャンブラー経験する出来事ショック体験に変換している。そのショック効果は、とりわけ「破局(Katastrophe)」を生み出す。ギャンブルでは、金銭的な損失を埋め合わせるために、賭け金がより増大していくことになる。それ故ギャンブラーは、一発逆転の希望と絶対的な破滅のリスクの<境界>の位置で闘争していることになる。

ベンヤミンが指摘するギャンブルの傾向は、三つに大別される。

  1. そのゲームに「一発勝負」としての要素が露骨に現われている。
  2. 一つのゲームの戦況における戦略の組み合わせが少ない。
  3. 戦略の組み合わせの流動性が加速的である。

つまり一発勝負の性質が色濃く反映されているのならば、次の瞬間には勝敗が決してしまうほどに、そのゲームの戦況は加速的なのである。こうした特徴は、賭け金は可能な限り最後の瞬間に賭けるというギャンブラーの習慣を反映させたものだ。この最後の瞬間には、反射的な反応の余地しか残されていない。この場合の反応とは優れて生態的な反射作用となる。その反応の形式は、ハンマーで叩かれた膝が「膝蓋腱反射(patellar reflex)」を引き起こすかのような、生態的な知覚形式となる。そこではベンヤミンの洞察通り、運を解釈している余裕は無い。運の良ししが区別されるのは、事後的なのである。この勝敗の分かれ目の「瞬間」に限っては、リスク計算する猶予など無いのだ。

こうしたギャンブラー知覚力は「冷静沈着(Geistesgegenwart)」と形容される。それは「ここ」の危機的状況に対するマインドフルネス的な集中状態を指し示す。それと同時にベンヤミンにとって重要となるのは、この知覚力が身体能力であるということである。世俗的啓示世俗社会の中での神学内容を表わすのならば、このギャンブラー身体能力は、身振りの中での精神を表わす。「精神現在性(Gegenwart des Geistes)」を生み出し得るのは、身体に限られるからである。

精神は、ゲームにおける戦況の配置関係(Konstellation)と身体との極めて密接な関連性を前提に構成される。冷静沈着な精神とは、精神によって規定された現在ではなく、現在において機能するべく構成された精神なのである。別の言い方をすれば、冷静沈着な精神とは、「ここ」の危機の瞬間に没入することを意味する。何故なら、精神現在という時点と場を示すのは身体であるためだ。ギャンブラーは、危機の瞬間に対して末梢神経を張り巡らせることによって、冷静沈着に、前兆予感合図のようなサインを判読しようとする。

機能的等価物の探索:フロー理論

フロー理論(Flow Theory)」を提唱したミハイ・チクセントミハイのような社会心理学者たちは、「フロー体験(flow experience)」という概念によって、無為の活動に対する定量的な評価を可能にしている。遊歩探究ギャンブルのような無為の活動には、「フロー状態(Flow state)」と化している参加者たちが散見される。フロー状態にある者は、内発的に動機付けられた情態で、活動に没入している。それは忘我の情態とも言える。我を忘れると、恰も活動と一体化しているかのような感覚が芽生える。それと同時に、時間感覚歪み始める。フロー状態にある者は、活動の最中に時間が停止しているかのように感じ取る。だがフロー状態が終了すると、フロー化していた者は、時間が一瞬で過ぎ去ったかのような感覚を覚えるという。

フロー状態の発動条件

チクセントミハイによれば、このフロー化には特定の条件がある。それは二つに大別できる。

第一に、「挑戦水準(Challenge level)」と「能力水準(Skill level)」が高次元で釣り合うことである。挑戦水準とは、言わば体感難易度のようなものだ。それは活動を通じて目的を達成するために必要となる能力の度合いを意味する。一方で能力水準とは、体感能力値であると要約できる。つまりそれは挑戦者が発揮できていると実感している能力の度合いを意味する。フロー化の条件の一つは、これら双方の水準が共にその平均値以上を保ちながら釣り合うことなのである。

一方、第二の条件は、その活動が「最適経験(optimal experience)」となることである。最適経験は、活動の目的が明確であると同時に、その活動の結果として伴うフィードバックが過不足無く即時的である場合に実現する。我々は、日常的な活動よりも高い難易度を持つ活動において、明確な目的を持った状態で高い能力を発揮すると共に、自分がその活動を通じて明確に目的へと近付いているというフィードバックを認知することによって、フローを経験するのである。

フロー状態の調査方法

チクセントミハイがフロー経験の調査に用いている方法は、Experience Sampling Method(ESM)と呼ばれている。それは言わばリアルタイムのアンケート調査のようなものだ。

ESMでは、まず調査対象者にポケットサイズの「ESF(Experience Sampling Form)」と連絡可能なポケットベル(この方法を実践するなら携帯電話やスマートフォンでも良いだろう)を常備して貰う。調査対象者には、通常の日常生活を営んで貰うことになる。実際の調査では、調査対象者に日常生活における体験標本を依頼する信号を1日に8回、1週間で計56回送信するところから始まる。信号を受信した対象者には、予め用意したESFに活動時間、場所、活動内容、挑戦水準、能力水準、動機の内発性、充実感、幸福感などの心的側面を記録して貰うことで、対象者の日常生活における主観的な経験観察していくことになる。

ESMの方法においては、調査対象者が信号を受信した瞬間に取り組んでいた活動内容に関連して、その活動の挑戦水準とその活動を実行する上での能力水準を10段階や7段階のリッカート尺度で自己評価して貰うようにしている。ESMでは、このようにして得られた一週間分のESFを観察することによって、調査対象者のフロー状態、行動パターン、そしてその経験の質を見極めていくのである。

ESMでは、挑戦水準と能力水準が高い水準で釣り合うことでフロー経験が発動すると見立てられている。ESMの方法では、ESFで記録された双方のレベルにおける1週間分の加算平均を求めた上で、その加算平均を上回る得点を高次の水準として取り扱っている。つまりESMの方法においては、挑戦水準と能力水準が同時に平均値以上になった瞬間にフロー経験が発動していると、形式的に確定しているのである。

動機の内発性に関する調査もまた自己評価である。調査の実施者によって多少の差異はあるが、例えば「何故それをしたのですか?」といった単純な質問に応接して、「やりたいから」、「やらなければならなかったから」、「やりたくなかった」などといった単純な三択の回答がESFに表記されている。そして、専らフロー経験が発動している場合に「やりたいから」が選択されている時、その時点での活動は内発的に動機付けられたと考えられている。

ESMの調査で得られたデータから、調査対象者がいつ何処でどのような活動でフロー状態になっているのか/なっていないのかを割り出す。その手順は以下のようになる。

  1. 各調査対象者ごとに、挑戦水準の加算平均値を求める。
  2. 各調査対象者ごとに、能力水準の加算平均値を求める。
  3. 各時点の活動における挑戦水準と挑戦水準の平均値をそれぞれ比較する。
  4. 各時点の活動における能力水準と能力水準の平均値をそれぞれ比較する。
  5. 挑戦水準がその平均値よりも高く、かつ能力水準がその平均値よりも高い時点で行なわれていた活動で、調査対象者はフロー状態になっている。

フロー状態の発動可否は、上述した挑戦水準と能力水準を突き合わせることで計測する。挑戦水準は、言うなれば体感難易度を意味する。能力水準は体感能力値を意味する。いずれも「体感」した概念で、主観的な報告になっても構わないとされる。フロー理論においては、このChallenge levelとSkill Levelの均衡関係が重要な指標となるため、これを特にChallenge-Skill balance(CS balance)と呼ぶことが多い。

情報エントロピーに対応した神経伝達物質

フロー理論によれば、没入感と内発的な動機付けは密接な関連にある。神経科学の側では、脳を内発的に動機付けるコンテンツとして、例えばギャンブルのように、報酬を獲得できる可能性が不確実となるゲームが取り上げられている。神経伝達物質ドパミンの研究の第一人者であるウルフラム・シュルツらの報告によれば、不確実性(Uncertainty)は報酬への期待を増大させるという。脳は、不確実性に曝された場合に、より強く持続的にドパミンを駆動させるようになるというのだ。

ドパミンは快楽を司る神経伝達物質として知られている。ある行動時にドパミンが分泌されている場合、その者はその行動に強く動機付けられているという相関が指摘されている。

この神経システム機能は、人間が不確実な自然環境でも生き抜くために獲得した進化上の成果である。不確実性に曝された生物が生き延びるためには、新たな刺激や新たな行動から何かを学び取らなければならない。ドパミンが放出されるのは、こうした学習を促進させるためである。ここで学習の目標となるのは、動機付けとなり得る出来事に対する期待の正確性を高めることである。如何に不確実な刺激に曝され続けても、そこから報酬を見出せるとは限らない。例えばアドベンチャー・ゲームを攻略するには「フラグ(flag)」に敏感にならなければならないのと同じように、生物は報酬の手掛かりに敏感にならなければならない。そのためには、学習報酬から生じる未来予知にすら相対し得るほどの情報収集能力が必要になる。

ドパミンが作動すれば、人間は不確実性を志向するようになる。その不確実な刺激に注意を向けることで、それに対処しようとする。だから不確実性に曝された生物たる人間は、よりリスキーな選択へと駆り立てられる。注意しなければならないのは、ただ不確実性に曝されれば動機付けが形成されるという訳ではないということだ。その不確実な刺激は、いずれにせよ報酬への期待が含意されていなければならない。報酬の手掛かりとなる情報が全く含まれていないようでは、幾ら人間が学び続けても、報酬期待することはできなくなるだろう。

シュルツらによれば、ギャンブラーギャンブルへの強い動機付けを調達するのは、ギャンブルによって得られる報酬が不確実性に満ちているためである。ギャンブルは、ゲームの戦況という不確実な刺激の中に、勝利することで報酬を得るための様々な手掛かりを含意させている。ゲームに参加するギャンブラーたちは、必ず報酬が得られる訳でもなければ、必ず報酬が得られない訳でもない。仮にもし必ず報酬が得られるのであれば、そのゲームの「結果(outcome)」は、「報酬が得られた」という常に同一の情報となる。それは確認するまでもない冗長的な情報となるだろう。無論必ず報酬が得られない場合についても、同様のことが言える。

シュルツらによれば、ドパミンが最も持続的に活性化し得るのは、この報酬が得られる確率Pが0の場合でもなければ、1の場合でもないという。実にP=0.5の場合に、ドパミンは最も持続的に活性化し得るのである。平均的に観て、報酬が得られる確率Pが0.5の場合、そのゲームの結果は最大の情報量を兼ね備えていることになる。と言うのも、P=0.5の場合、報酬が得られ易いというパターンも、報酬が得られ難いというパターンも、見出すことができないからだ。P=0.5という確率からは、冗長的な情報は形成され難い。P=0.5の時、不確実性は最大となる。クロード・シャノンの情報理論の視点から観ても、この報告は頷ける内容指し示している。<報酬が得られるという出来事>と<報酬が得られないという出来事>が0.5という等確率で生起するのならば、その情報エントロピーは1bitという最大値を示すからだ。

神経科学的な情報理論とフロー理論の抽象化

抽象化すれば、この神経科学的な情報理論フロー理論との共通点を有している。<報酬が得られる確率>と<報酬が得られない確率>が0.5で均衡している状態というのは、挑戦レベルと能力レベルが均衡している状態に対応しているとも言える。挑戦レベルの高さは報酬獲得の期待値に反比例するのかもしれない。逆に能力レベルの高さは報酬獲得の期待値と比例するとも言えるだろう。

実際チクセントミハイは、フロー状態を描写する上で、「心理的エントロピー(psychic entropy; psychological entropy)」という概念を何度か取り上げている。フロー状態に達した者の心理的エントロピーは下がり、逆に秩序形成を意味する「ネゲントロピー(Negentropy)」が成立しているという。だがこのエントロピーの低減の前提にあるのは、事前にエントロピーの高い状況が「挑戦」すべき問題として発生していたということだ。その上で、そのエントロピーを処理するほどの「能力」をネゲントロピーとして構成することができた時、人はフロー状態に達するのだと考えられる。そして、挑戦すべき問題に伴うエントロピーが最大である場合、その者はネゲントロピーとしての「能力」を最大限発揮するべく強く動機付けられると言える。

機能的等価物の探索:「情報理論に基づく意識の現象学的モデル」

チクセントミハイが自身の理論を「情報理論に基づく意識現象学的モデル(Phenomenological model of consciousness based on information theory)」として再記述する時、彼は意識に関する分析を現象学的に実践している。それは、出来事や現象を、それらを成立させている解剖学的構造神経化学的過程、あるいは無意識的な目的から説明する方法ではない。彼の方法現象学的であるのは、むしろ我々が実際に経験して解釈する通りに、出来事や現象を直接的に取り扱うという意味においてである。この方法は無論、意識が生物学的進化の過程から生み出された中枢神経系の電気化学的な変換の結果として構成されているという見解を否定する訳ではない。しかし現象学は、精神的な出来事や現象は特定の専門分野の観点から観察するよりも、実際に経験される通りに観察することによって、最も良く理解されるという仮定に立っている。

ただしチクセントミハイの現象学は、方法論的に異分野の理論を意図的に排除する純粋な現象学ではない。ここでの現象学情報理論から幾つかの原理を採用した方法となっている。ここでいう原理の中には、例えば感覚データを巡る注意と記憶の動態的な側面が含まれている。

意識の限界

「もし意識で包含できる範囲を無限に拡張することが可能であるなら、人類の最も基礎的な夢の一つが実現するであろう。それは、永遠の生命を持つこと、あるいは全知全能であること、要するに神のようになることにほぼ等しい。そうなれば我々は、全てを考え、全てを感じ取り、全てを行ない、瞬間瞬間を豊かな経験の蓄積で満たす大量の情報を読み取ることができるであろう。」
Csikszentmihalyi, M. (2013). Flow: The psychology of happiness. Random House. 引用はp.28より

残念なことに、神経システムが一定時間内に処理できる情報量には限りがある。それは精々毎秒40bit程度に限定されている。チクセントミハイの「情報理論に基づく意識現象学的モデル」は、まさにこの意識の限界を参照問題としている。

行為と意識の融合

ある情況の下で挑戦目標を達成するためにあらゆる能力が発揮されなければならない時、注意は完全にその活動に向けられている。全ての注意は、必要な刺激の情報へと集中しているんである。その結果、最適経験が生じる場合には、その活動者は、自分が実行している内容に対してあまりにも深く没入することになる。それは、その活動が自然発生的(Spontaneous)でほとんど自動的(automatic)になるということを意味する。するとその者は、現在実行している行為から区別された自己自身を意識することができなくなる。

ある行為でフロー状態にある者は、文字通り、流れるようにその行為を続けようとする。フローの目的は、流れ続けることである。フロー状態を発動している最中は、意識も滑らかに働く。一つの行為は次の行為へと滞り無く続いていく。それは、し方自分が行なっている行為への懐疑的な問い掛けが全く無いということを意味している。

「フロー状態にある時は、その行為は魔術(magic)のように我々を前進させる。そのため、その行為を反省する必要が無いのである。」
Csikszentmihalyi, M. (2013). Flow: The psychology of happiness. Random House. 引用はp.54より

フロー状態にある者がこうして完全に没入できるのは、目標が常に明確で、かつ即時的にフィードバックが得られるためである。例えばチェスのようなゲームのプレイヤーにとって、相手よりも先にチェックメイトしなければならないという明確な目標がある。プレイヤーは、一手ごとに、自分がその目標に近付けたか否かを戦局から把握することができる。

制御の感覚

日常生活では、他者とのコミュニケーションなどによって、我々は必ずしも情況を制御できている訳ではない。これに対してフロー体験は、制御(control)の感覚が伴った体験である。チクセントミハイに倣い、より正確に表現するなら、フロー状態にある者は、日常生活で典型的に見受けられる制御の感覚の喪失それ自体が喪失しているのである。

フロー状態にある者の制御の感覚は、制御しているという現実に準拠している訳ではない。そうではなく、フロー状態にある者が知覚しているのは、制御可能性への感覚なのである。それは、制御されているという感覚なのではなく、制御しているという感覚なのである。確かに、ゲームのプレイヤーがそのプレイでフロー状態になったとしても、必ず勝利できるという訳ではない。こうした制御可能性をチクセントミハイは「完全性(perfection)」とも表現している。

「チェスのプレイヤーは負けるかもしれないし、絶対に優勝できないかもしれない。しかしフローの世界(world of flow)では、完全性(perfection)は少なからず原理的には達成可能なのである。」
Csikszentmihalyi, M. (2013). Flow: The psychology of happiness. Random House. 引用はp.60より

自己意識の喪失

ある活動に完全に熱中している場合、過去未来出来事や、あるいはその瞬間の行為とは無関係な他の刺激に対して十分な注意を払う余裕を失う。その時、意識からは様々な情報が失われる。とりわけチクセントミハイが詳述しているのは、この時に喪失する「自己(Self)」に関する情報である。自己の感覚が喪失した時、瞑想や禅のような感覚が芽生えるのである。

自己意識は、周囲の世界から自己を区別する。この自己意識が喪失すると、しばしば環境と融合する感覚が伴う。日常生活では、環境に驚異を感じることもある。我々が何かに怯えている場合には、常に自己自身の形象(image)を意識に取り込まなければならない。そうすることによって、我々はその怯えの重大性を計ろうとする。その重大性次第では、自己が対応すべき課題も変わるはずだ。しかし、フロー状態にある場合、自己を吟味する余裕がない。フロー化を可能にする楽しい活動には、明確な目標、規定されたルール、そして能力に適合した挑戦対象がある。そのため、自己が脅かされる機会はほとんど無い。

意識から自己意識が喪失するのは、フロー状態にある者が自身の心理的エネルギーの制御を放棄しているためではない。フロー状態にある者は、自身の身体や心の中で起きていることがわからなくなっている訳でもない。実際、これらの正反対の状態になっている。最適経験には自己の積極的な貢献が含まれている。例えばチェスのプレイヤーは、これまでの駒の配置や過去の組み立ての記憶から意のままに引き出せなければ、ゲームを楽しむことができなくなるであろう。

それ故にチクセントミハイは、「自己意識の喪失(Loss of self consciousness)」と「自己の喪失(Loss of self)」と「意識の喪失Loss of sconsciousness)」を区別しているのである。「自己意識の喪失」とは、<自己という意識の喪失>に他ならない。閾上から滑り落ちていくのは、<自己という概念>である。<自己という概念>とは、<自分が誰であるのかを自分に示すために利用できる情報>である。フロー状態にある者たちは、自分が誰であるのかを一時的に忘却しているのである。それは、一心不乱に、無我夢中に楽しむための条件である。

「自己に心が奪われていない時、我々は実際に自分が誰であるのかについての概念を拡張する機会(a chance to expand the concept of who we are)を持つ。自己意識の喪失によって、自分という存在の境界が押し広げられたという感覚に至るように、自己超越(Self transcendental)がもたらされるのである。」
Csikszentmihalyi, M. (2013). Flow: The psychology of happiness. Random House. 引用はp.64より

自己目的的人格

最適経験の基本的な要素となるのは、その経験を生み出す活動それ自体が目的になるということである。たとえ最初は外発的な報酬によって動機付けられた活動であっても、我々を無我夢中にさせる活動は、次第に内発的な報酬を伴わせるようになる。こうしたある目的を追求するための活動それ自体が目的として捉える人格を、チクセントミハイは「自己目的的(autotelic)」な人格と呼んでいる。

自己目的的(autotelic)という用語は、ギリシア語の「自己」を意味するautoと「目的」を意味するtelosに由来する。自己目的的な活動は、自己充足的な活動に他ならない。自己目的的にある活動に没入している者は、その活動がもたらす将来的な報酬期待しない。そうした者たちにとって、その活動それ自体が既に報酬となっているのである。

我々が行なう活動の大多数は、自己目的的な活動と外発的な報酬に動機付けられた活動が混合した状態になっている。例えば一見して労働は、金銭的な報酬という外発的な動機付けに駆動された活動であるかのように思える。だが労働者次第では、上述したフロー状態の条件を満たすことで、仕事をすることそれ自体を報酬であるように認識する。そうした人格は、しばしば「ワーカホリック(workaholic)」として観察される場合もある。

チクセントミハイによれば、自己目的的フロー状態は、生活の流れを異なる水準に変異させる。疎外は参与に取って代わる。退屈であったことは次第に楽しくなる。無為感は制御感覚へと切り替わる。しかしチクセントミハイは、こうした自己目的的な状態の副作用を指摘している。フロー状態には事実、我々を「依存症(addiction)」にする効果がある。ワーカホリックがその一例となろう。チクセントミハイは、最適経験がエネルギーの一形態であると表現することで、それが時に破壊のために利用することも可能であると述べている。フロー状態は、道徳的な意味で「善い」とは限らない。より広い意味でも、フロー状態が「良い」とされるとは限らないであろう。チクセントミハイは、この判断は社会によって下されるべきであると考えている。

スポーツ

自己意識の喪失を可能にするフロー状態の発動条件を「情報理論に基づく意識現象学的モデル」によって記述するチクセントミハイの分析は、比較的抽象の度合いを高めている。しかしフロー状態やその体験は、極めて個別具体的な活動に伴う。チクセントミハイは、身体が生み出すほとんど無限の楽しみが、多くの場合未開発の状態に留まっているという。ポジティブ心理学者らしい彼の発想では、身体で可能な活動の全ては楽しい活動になり得るのである。そして彼は、フロー状態を発動させるための身体的な鍛錬を積めば、生活の質も向上させることができるようになるという。

身体の一つ一つの感覚器官や運動機能のそれぞれは、皆フロー状態を生み出すために有用となる。身体は、視る、聴く、触る、走る、泳ぐ、投げる、掴む、登る、下りるなど、様々な活動を可能にする。チクセントミハイによれば、これら全てがフロー体験に結び付くという。あらゆる文化身体可能性に適合する楽しい活動を生み出してきた。「走る」という単純な身体機能すら、挑戦の機会や必要な能力を規定するルールが、明確な目標とフィードバックと共に実践すれば、それはフロー体験を生み出し得る。

こうしたフロー状態の発動条件を満たし得る身体活動として例示できるのは、スポーツである。チクセントミハイは、近代オリンピックのモットーとして知られているラテン語の「より高く、より速く、より強く(Altius, citius, fortius)」に準えて、スポーツにおけるフロー状態が如何にして可能になるのかを記述している。身体活動のより良い結果を追求するのは、あらゆるスポーツの基本原理である。スポーツの最も純粋な形態は、身体で達成可能な限界を超越することである。

身体能力の行使によるフロー状態の発動条件は、競技者たちの妙技によってのみ満たされる訳ではない。体力や技術の有無を問わず、より高く跳ぼうとし、より速く走ろうとし、そしてより強くあろうとすれば、誰であれ身体の限界を超える喜びを体感する機会を手にすることができる。単純な身体挙動においても、チクセントミハイによれば、次の手順を踏むことでフロー状態を発動させられるという。

  1. 全体的な目標設定すると共に、現実的に実行できる複数の下位目標を設定する。
  2. 設定した目標に対する進捗を計測する方法を見付けておく。
  3. 実施していることに対する注意集中を維持しつつ、その活動に含まれる様々な挑戦対象を更に細分化して区別する。
  4. 利用し得る挑戦の機会との相互行為に必要な能力を発達させる。
  5. その活動に退屈を覚えるようになった場合は、挑戦難易度を高める。

チクセントミハイが示すこの方法の好例は、歩行行為である。歩行は、最も単純な行為であると共に、複合的なフロー活動にもなり得る。それは、ほとんど芸術的な形態にまで高めることができるという。我々は歩行のための多くの細分化された目標を設定することができる。例えば、何処に、どの道筋を辿り進むのかという徒歩による旅行計画である。遊歩の道中では、何処で立ち止まり、何を見物するのかを選択することができる。身体を効果的に動作させる方法を考案することで、自分にとっての理想的な歩行スタイルを作り出すことも目標となり得るであろう。目標達成状況の進捗は、歩行速度や歩行距離などのようなメトリクスで測定することができる。これ以外にも、目的としていた風景をどの程度鑑賞できたのか、歩行中にどの程度の新しいアイディアを思い浮かべられたのかなど、様々な目標を設定することが可能だ。

ゲーム

こうしたスポーツの性質は、ゲームのそれと機能的に等価である。チクセントミハイは、ゲームにおけるフロー体験を「文化(culture)」との類似性によって説明している。チクセントミハイによれば、文化はカオスに対する防衛的な構築物である。それは経験の無秩序が与えるショックを軽減するように設計されている。その設計の方針は、言わば選択可能性の限定である。文化はこのために、目標設定や手段、注意すべき対象を限定する。社会システム理論的な文化概念に照応させるならば、まさに経験複合性を縮減することが文化機能である。

ゲーム文化類似しているとチクセントミハイが指摘しているのは、この点においてである。ゲーム文化は、曖昧さを低減させた目標とルールから成立している。チクセントミハイによれば、ゲーム文化差異があるとすれば、それは規模であるという。文化は生に対して包括的な枠組みとなる。それは我々の人生の筋書きを記述している。一方ゲームは、この筋書きの合間を埋め合わせる。文化が限定していない選択可能性に直面する時、我々はそれを自由な時間として認識する。ゲームは、この自由に対して、明確な目標と規定されたルールを導入する。そうすることで、ゲームは集中すべき対象を限定してくれる。

こうしたゲーム文化類似性が顕在化するのは、その文化が魅力的で、その文化の範疇で生きる人々の能力に適合した目標やルールを発展させることができている場合である。言い換えれば、文化的な行為がフロー状態の発動条件を満たしている場合に、ゲーム文化は接近することになる。

人生というゲーム

このゲーム文化類似性の背景にあるのは、チクセントミハイが論じる「意味(meaning)」概念である。チクセントミハイの「意味」概念は、自己自身の能力を発揮するに相応しい挑戦的な目標(goal)を意味している。人生に意味が有るというのは、こうした目標が有るということなのである。チクセントミハイによれば、目標は、秩序と一貫性を有した統一性のある目的(purpose)を意味する。したがって、チクセントミハイの観点から観れば、意味を付与するというのは、目的を形成することに等しい。

「多くの人々の生活の中に、日々の営みを正当化する統一的な目的――人々の心理的エネルギーを引き付ける磁石のような目標、全ての下位目標が従う目標――を発見することは可能である。この目標は、人々が生活をフロー活動に変換するために取り組まなければならない挑戦対象を規定する。このような目的が無ければ、最大限に秩序化された意識であっても、意味を喪失することになる。」
Csikszentmihalyi, M. (2013). Flow: The psychology of happiness. Random House. 引用はp.218より

個人の生活は、人間が成長するに連れて変化する。それにより、異なる目標や挑戦課題が生まれる。生活は、こうした能力発達と挑戦課題で構成された一連の異なる「ゲーム(game)」として成立している。ただし、挑戦難易度と体感能力値が釣り合わなければ、フロー状態の発動条件が満たされることは無く、そのゲームは陳腐な設計になる。人生というゲームを楽しむには、自身の能力に見合う「複合性(Complexity)」が必要になる。

「複合性を獲得するには、我々が生得的に有している能力を発達させて、自律的になり、自己信頼を得て、自己の独自性と限界を意識するようにエネルギーを投入しなければならない。それと同時に、我々は自己自身の個性の境界を超えた諸力に適応する方法の認識、理解、発見にエネルギーを投入しなければならない。」
Csikszentmihalyi, M. (2013). Flow: The psychology of happiness. Random House. 引用はp.223より

目的は、個人の努力目標を方向付ける。ただしそれは、生活を容易にするとは限らない。挑戦の難易度次第では、我々は易々とその目的の追求を断念してしまう。より簡単に達成できてしまうような目標を選択してしまう者も多いであろう。逆境に遭遇する度に目標設定を変更していては、より楽しく快適な生活を営めるようになるかもしれない。だがその実、最後には空虚感や意味喪失状態が待っている。

しかし外部環境に目を向けた時に待ち受けているのは、あまりにも多くの要求、選択可能性、挑戦課題である。社会システムやその文化複合性が増大したことによって、あまりにも多くの目標が併存することとなった。その結果、どの目標がエネルギーを投資するに値するのかを判断することが困難になったのだ。こうした選択肢の豊富な状態は、個人の自由を拡大する。だがそれは一方で、目的の不明確性を際立たせる。自由は生活の意味の洗練には役立たない。むしろ逆なのだとチクセントミハイは主張する。人生というゲームであっても、ルールが柔軟過ぎては集中は薄れてしまう。フロー状態を発動させるには、選択の機会はむしろ少ない方が良いのである。

この関連からチクセントミハイは、有意味なライフテーマを持つことが重要であるという。フローを体験するために遵守すべきルールが事前に規定されている一つの「ゲーム」のように、ライフテーマは何が存在を楽しませるのかを規定する。ライフテーマがあれば、日常生活の全ては意味を持つようになる。人生に明確な目標があれば、日常の全ては、その目標に向けた前進か後進かのいずれかに区別することも可能になる。あらゆる営みには、その目標達成に向けたフィードバックが含まれる。ライフテーマの設定は、生活の全てにフロー状態の発動条件を埋め込むことで、言わば人生のゲーミフィケーションを可能にする。

無論、ライフテーマの設定によるあらゆる生活の有意味化は、肯定的な帰結のみをもたらす訳ではない。チクセントミハイはこのことを「発見的ライフテーマ(discovered life theme)」と「受容的ライフテーマ(acceptive life theme)」の区別を導入することで補足している。前者は自己自身の経験と選択から行為の筋書きを設定するのに対して、後者は他者の筋書きから既定の役割を抽出する。発見的ライフテーマは個人の判断基準に左右されるために、社会的な正統性に欠ける。その多くは新奇性が高く特異であるために、他者からの理解を得るのも難しい。一方、受容的ライフテーマの場合は、逆に社会システム文化が健全に営まれていることが前提となる。もし健全ではない場合、それは脱社会的に逸脱した目標へと人を導いてしまう。

チクセントミハイによれば、意識の秩序や心の調和を可能にする複合的なライフテーマが単なる個人的な問題への反応として定式化されることは稀である。そうした挑戦課題は、人間全般に一般化される目標設定になるという。例えば貧困の問題を解決することをライフテーマとしている者にとって、その目標は、全ての貧困家庭と関連付くであろう。自己自身の問題設定のために編み出した問題解決策は、他者にとっても有用となり得るのである。つまり、解決方法利己的ではなく利他的に一般化することが、ライフテーマ設定の重要な条件になるということである。

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