仏教の社会構造とマインドフルネス瞑想の意味論

スポンサーリンク

問題再設定:マインドフルネス瞑想は如何にして可能になるのか

マインドフルネスアウェアネスは、予め規定された時間内に端座瞑想することで訓練される。そうした時間を設定するのは、心を可能な限り単一化させて、一体化させ易くするためだ。

この時、瞑想者は、背筋を伸ばし、身体を動かさないでいる。そしてその注意の対象として設定されるのは、例えば呼吸だ。瞑想初心者は呼吸のみに注意しようとするが、しかし心には雑念が紛れ込んでくる。

初心者はマインドフルになることの難しさに驚かされることになる。瞑想体験することで、初心者は心と身体が如何に一体化していないのかを認知することになる。たとえ身体は停止していても、雑念、感情、眠気、思考など、様々な事柄に心が奪われる。仮に呼吸に集中できたとしても、呼吸主題とした思考展開してしまっているかもしれない。これでは心と身体が一体化したことにはならない。身体と心が一体化するということは、心が身体としてあるということだ。身体についての心があるというのとでは訳が違う。

最終的に瞑想家は、俯瞰的な幅広い視野を得るという。これがアウェアネスの状態だ。マインドフルネスが一つ一つの言葉であるのならば、アウェアネスは文章全体を言い表す。

ヴァレラが繰り返し協調しているように、身体と心は一体化できる。身体と心が完全に協働している状態は、習慣化され得る。アウェアネスの技術的な成果は、瞑想者自身が認知し得るだけではなく、他者からも観察されることがある。完全なアウェアネスの状態にある時、その活動には活力が吹き込まれている。その精確性と優美性が、まさにアウェアネスの状態にあるということを他者に告げる。ヴァレラも述べているように、そうしたアウェアネスの状態は、運動選手や音楽家をはじめとした熟練者たちの成果に匹敵し得る。

尤も、マインドフルネスアウェアネスの修行においては、心と身体を一体化し得る瞑想の達人になることを目的として実施されている訳ではない。何故なら、そうした目的意識はむしろ目的の達成を阻害するからだ。将来瞑想の達人になるという未来展望は、この時への注意を逸らしてしまう。だから仏教では、訓練が実施されても、それが瞑想家になるための訓練であることが明かされないことが多いという。

仏教において最も重視されるのは、日常的には自明視されているはずの自己の概念が、反省の時にはその自己を発見し得ないことから伴う緊張感に他ならない。これは、ある種の「ショック体験」と呼んで良いのかもしれない。大抵の人間が日常的に自明視しているはずの「自己」という概念が、実は根源的には偶発的で無根拠であるというのは、中々にショッキングだろう。

一切皆苦諸行無常に気付かずに自己の感覚や所有物への我を通そうとするために生じる。仏教徒は、諸法無我を学ぶことによって、ますます心の探究に勤しむ。瞑想家たちは、この時のこの瞬間は如何にして生起するのか、その条件は何か、それに対する我の反応の本質は何処にあるのか、我の心の経験はどのように生じるのか、などといった諸々の参照問題を黙考していくようになる。

問題解決策:座る瞑想と歩く瞑想の区別

観(vipaśyanā)の瞑想、「マインドフルネス瞑想(mindfulness meditation)」において、「坐る瞑想(Seated meditation)」は瞑想の鍛錬として位置付けられている。それは、音楽家が音階を弾き、プロ野球選手が素振りをするのと同じように、基礎的な鍛錬となっている。しかし、こうした基礎を適用させる実践の場は日常生活にある。実生活に応用されない瞑想では、良い実を結ばない。

観の瞑想が目指すのは、自身の感覚と経験の全てを抜本的に――またこう言って良ければ、極限的に――変革させることに他ならない。その範疇は生の経験の全体に及ぶ。そのために新しい習慣を少しずつ心に植え付けていくために、瞑想家は、日々の内のある一定の時間に、座る瞑想を実践する。だがこうした基礎的な鍛錬が日常生活とは完全に別離した無関係な内容になってしまっては、継続的な瞑想への動機付けを調達し続けることが難しくなる。日常生活から遊離した無関係な営みは、中々習慣化されず、意味が見出され難い。

それ故、瞑想を日常生活に接続させる試みが必要不可欠となる。確かにマインドフルネスアウェアネス体験し続けていけば、それが自然と日常生活に活かされる場合もあるだろう。日常生活のある瞬間に、およそ無意識のうちに瞑想状態に至る場合もあり得る。長期間注意深く育ててきたアウェアネスが自動的に機能していることに気付ければ、瞑想家は自身の瞑想の効果を実感するであろう。しかし、この恩恵は能動的に瞑想を日常生活で活かそうとしない限り、十分に得られないまま終わってしまう可能性がある。

瞑想において最も重要な瞬間となるのは、座る瞑想が終わった直後、座布団から立ち上がる時である。瞑想を終えた時、全てを切り替えて、瞑想とは無関係な日常生活に舞い戻るか、あるいはその瞑想状態を可能な限り日常でも継続していこうとするのかによって、その後実感し得る瞑想の効果の度合いは全く違う。観の瞑想マインドフルネス瞑想は、単にアウェアネスを育て上げることだけを意味しているのではない。育て上げたアウェアネスを活用することまで考慮しなければ、瞑想を実践したことにはなり得ない。

これを前提とすれば、観の瞑想マインドフルネス瞑想座る瞑想としてのみ実行することには、何ら必然性が無い。皿洗いをしている時でも、シャワーを浴びている時でも、ゲームをプレイしている時でも、プログラミングを実施している時でも、ブログを記述している時でも、原理上瞑想は実行可能である。

問題解決策:歩く瞑想の機能

日常生活の大半、我々は身体を動作させている。これに対して、座る瞑想を実施している最中は、身体はほとんど動かさない。身体を完全に静止させた姿勢は、少しでも動けば壊れるほどに脆弱だ。如何に微小な動きであっても、座る瞑想においては、心の静けさや明晰さを阻害してしまう。

ここで問題となるのは、日常生活と座る瞑想の間にある乖離である。この乖離は、身体挙動の有無という両極端の差異として成立している。座る瞑想で失敗してしまうのは、この乖離の激しさ故の問題なのだ。

「準備運動」としての歩く瞑想

そこで仏教徒たちは、「座る瞑想(Seated meditation)」と「歩く瞑想(Walking Meditation)」の区別を導入している。

歩く瞑想は、この乖離の埋め合わせとして機能する。つまり歩く瞑想は、日常生活から座る瞑想への移行に伴う負担を軽減する中間層として位置付けられる。歩く瞑想は、座る瞑想の「準備運動」とも言えるであろう。

歩く瞑想とは、「動作の中の瞑想(meditation in motion)」に他ならない。この瞑想は、特に心の落ち着きが欠けている場合に有用となる。一時間ほど歩く瞑想を実施すれば、心の静けさが徐々に確保されていく。そうした状態からであれば、瞑想家は冴えた明晰な状態で座る瞑想に移行することができる。

問題解決策:「動作の中の瞑想」

歩く瞑想は、歩ける場所であれば何処でも実施できる。そのノウハウは原始仏教の時代から蓄積されている。そうした歴史を遡り、個別具体的なノウハウのそれぞれを列挙するのは簡単だ。だがそれだけでは実り多き発見には至らない。そこで以下では、歩く瞑想が「動作の中の瞑想」であるという観点から、「歩行」という動作を抽象化し、別のあり方でもあり得る動作においても歩く瞑想のノウハウが機能的に再利用可能であるか否かを観察していきたい。

空間の確保

歩く瞑想を実施する場合、直線で少なくても5歩から10歩程度の一人の空間が必要になる。その空間の中で、非常にゆっくりとしたペースで歩くことになる。

歩く瞑想の動作は、まず空間の端に立ち、「立っている」ということに対する気付きを得ることから始まる。それから、息を吸いながら片方の足の踵を上げ、息を吐きながら足の爪先を下ろす。歩行の最中は緊張してはならない。緊張しているようであれば、直ぐに止まり、緊張を解した方が良い。また、モデルのように美しく綺麗に歩く必要は無い。歩く瞑想は、体操でもダンスでもない。歩く瞑想はあくまでアウェアネスの実践に他ならない。

こうして空間上を端から直線的に歩き進めていけば、最終的には反対側の端へと到着する。その時、再度そこで立ち止まり、「立っている」ということに対する気付きを確認する。そして、ゆっくりと身体の向きを変えて、また端から端へと同様に歩いていく。歩く瞑想は、この過程の反復となる。

感覚の差異

歩く瞑想時は、基本的に歩行方向を向き、首はリラックスさせておく。目は身体のバランスを維持するために開けておく必要がある。だが、特別に何らかの対象を視る必要は無い。全てのアウェアネスは足の感覚へと向けられなければならない。双方の足が動く度に、可能な限り多くの感覚を認識するように努めるのである。歩行時の感覚を純粋に感じ取り、その動作の微妙な差異の全てからアウェアネスを得られるように集中しなければならない。

歩行という動作は、一見してスムーズな動きに見える。だが実際その挙動は複雑で、非常に細かい多くの動作から成り立っている。それ故、動作の微妙な差異の全てに対する観察を可能にするには、その動作を区別し、その複合性を縮減する必要がある。

歩く瞑想においては、とりわけ足の動作を幾つかの諸要素に区別することになる。歩行時、双方の足には、次のような動作が伴う。

  • 足を上げる。
  • 足を前へ運ぶ。
  • 足を床に付ける。

歩く瞑想では、まずはこの区別から各要素に対応する動作を逐一観察することから始めることが推奨されている。上記の三つの区別は、始まり、中間、そして終わりの区別に対応している。言い換えれば、歩行という動作には順序があるのだ。こうして動作を順番に把握することが、それを見逃さないノウハウとなる。

初めは、上述した三つの区別に対応するそれぞれの動作を意識的に言語化して観察することになる。だが常時生じてくる無数の細かな感覚に気付けるようになると、次第に意識的に言語化して確認する余裕が無くなる。意識的な思考を介さずに、ただ足の挙動に途切れることなく気付き続けることになる。その時、歩く瞑想家は流れているかのような感覚(the sensations as they flow)を観察することになる。

観の瞑想における歩く瞑想の技術は、意識を単純な動作の感覚で充満させることを目指して設計されている。歩く瞑想の最中、その他の対象は意識の外に排除されている。余分な物事について考える余裕は無い。また、感情が芽生える余地も無い。瞑想家は、ただ「触覚感覚と運動感覚(tactile and kinesthetic sensation)」に没入している。その体験は「生の経験無限の変化し続ける洪水(an endless and ever-changing flood of raw experience)」として知覚される。こうして歩く瞑想家は、現実から逃避するのではなく、むしろそのありのままの姿を学ぼうとする。

派生問題:「無我」のパラドックス

原始仏教の重要な意味論の一つである「無我」は、「我」の全否定意味する訳ではない。厳密に言えば、それは「我」への執着の否定意味する。繰り返すように、無我説は形而上学的な概念としての自己を否定したのであって、自己そのものを否定していた訳ではない。原始仏教は自己の存在に関しては沈黙を守る一方で、客観的な世界で観察される如何なる実体も自己ではあり得ないという点を主張したに過ぎなかった。

しかし非仏教徒の観点から素朴に考えるだけでも、この「我」への執着の否定パラドックスを招くことは容易に見て取れる。つまり、「我」への執着を否定するのは良いとしても、「我」への執着を否定する「我」への執着が派生してしまえば、無我の実践は台無しとなる。恐らくこの非執着への執着というパラドックスは、多くの仏教徒たちを悩ませてきたはずだ。このパラドックスは、解脱が簡単には成し得ないとされる理由の一つであると推論できる。

問題解決策:五蘊論

五蘊論には、自己感覚の生起が如何にして可能になっているのかについて検証する意味論が組み込まれている。それは「我とは何か」という問題パラドックスを招くことを指し示すと共に、そのパラドックス脱パラドックス化を試みている。その形式身体を表わす「色」、感受作用を表わす「受」、識別と衝動を表わす「想」、形成作用を表わす「行」、そして認識を表わす「識」から成る「五蘊」の区別によって構成されている。この五蘊のそれぞれは、統一体として個人を構成することにより、経験の各瞬間を構成する心身の複合体として現出している。

身体的なものと心的なものの差異

五蘊論(pañcak-khandha)では、身体を表わす「色」との関連から、まずは心的なものと身体的なものの区別が導入される。「色」が身体的で物質的であるのに対して、残りの四つは心的なものとなる。「色」は身体と物理的な外部環境を表わす。だが厳密に言えば、この「色」が指し示しているのは、六つの感覚器官とその対象物の感覚である。それは、眼と視えるもの、耳と音、鼻と匂い、舌と味、身体と触れるもの、そして心と思考である。ここでいう感覚器官とは、外部の器官それ自体ではなく、知覚の物理的な機構を意味する。心と思考区別がここで取り上げられているのは、我々が視えるものを眼で知覚するのと同じように、思考を心で知覚すると考えられているためである。

「色」はこの心的なものと身体的なものの差異を明確化すると共に、身体が「我」なのか否かを問い掛ける概念である。確かに我々は、自分の身体を我そのものであるかのように扱っている。肉体を傷付けられれば、自分が危機に直面したかのように、感情的な反応を示してしまう。スポーツやトレーニングで肉体を育む者たちは、自分自身を養っていると考えている。確かに、身体は感覚が位置する場所である。我々はこの身体を介して世界を観察している。

「色」と「受」の差異

しかし、身体の同一性と「我」の同一性は、必ずしも一致する訳ではない。確かに、長髪の男が急に丸坊主してしまえば、その身体特徴の激変によって、その者の人格に何らかの変異が伴ったのではないかと困惑するかもしれない。だがそれによって「我」の同一性が破壊されたとまでは思わないはずだ。

それ以前の問題として、細胞の代謝回転(metabolic turnover)やオートポイエーシスによって、身体構成要素は構造的な変異や生成消滅を繰り返している。明日の身体日と同じであるとは限らない。「私は身体です」とは誰も言わない。だが、「私は身体を所有している」とは言うかもしれない。だがそう述べたところで、私の所有物が何なのかが判明する訳ではない。実際、我々の身体は、同時に微生物の住処でもある。だとすると、我々は微生物をも所有しているということになる。これは奇妙な考え方だ。

「色」の観点から身体的なものや物質的なものを観察するだけでは、「我」が何なのかが明確化する訳ではない。すると身体的なものから区別される心的なものに観点を移すことが求められる。一方で「受」は、我々の感受作用を表している。あらゆる経験には、快と不快、そしてそのいずれでもない経験へと区別できる。我々は絶えず快楽を求めると共に、不快な苦痛を回避しようとする。感情が自己や自我と関連しているのは、確かであろう。激しい感情に駆動されている者は、自分自身を感情の塊であるかのように認識する。

「受」と「想」の差異

しかしながら、感情の同一性もまた、「我」の同一性から区別されなければならない。身体と同様に、感情もまた時々刻々と変異しているからだ。感情は「我」に影響を与える。それは、あるいは「我」への執着を伴わせる。だが感情がそれ自体「我」である訳ではない。感情を分析したところで、感情が影響を与えている「我」が何なのかが明らかになる訳ではない。

ならば、感情の影響を受けた「我」の振る舞いの方に観点を移して観れば、また違う発見が得られるかもしれない。「想」では、感情をはじめとした様々な影響を被った際に、最初の瞬間における認識とその反応が着眼点となる。マインドフルネスアウェアネスの修行では、瞬時の経験において、識別と衝動を同化させることが重要となる。その際、この衝動は三つに区別される。それは、望ましい対象への熱情や欲望、望ましくない対象への攻撃や怒り、そして無関係な対象への幻滅や無視である。「我」への執着を習慣化している者たちは、何らかの影響を被った最初の瞬間においても、その外的な刺激をあくまで「我」との関連から識別しようとする。単純化すれば、それは「自意識過剰」な情態とも言えよう。「我」に執着する者たちは、輪廻によって、そうした反応を自動化するように条件付けられているのである。

「想」と「行」の差異

だが、こうして「我」に執着する「我」を描写したところで、その「我」が何者なのかが浮かび上がる訳ではない。そのため、最初の瞬間の衝動的な反応のみならず、より長期的な展望から、影響を受けた際の知覚思考人格にも観点を拡張しなければならない。

この関連から「行」では、言わば「我」の習慣形成に着眼を置く。我々は、自身の人格を褒められた場合や行動を好意的に評価された場合に、恰も自分自身が承認されたかのように錯覚する傾向にある。しかしながら、そうした人格や行動を熟慮して観れば、またしても確信は揺らいでしまう。確かに、我々の人格や行動のパターンは、自己の同一性が担保された状態で、「我」が歴史的に連続していることを前提としている。しかしこの想定からは、そうした連続性の正体は何者なのかというが派生する。

「識」の経験

「識」は五蘊の最後に位置付けられる。端的に言えば、それは意識を言い表している。だが実はこの概念が最も初心者を悩ませている。「識」は、他の四つの蘊と共に進行する心的経験である。それは各感覚器官とその感覚対象との接触に由来する感情、衝動、習慣のような経験を含意している。ここにおいて意識とは、経験者と経験対象、そして双方を接続させている関連から成る二元論的な経験の感覚を意味する。

意識が「行」を包含していることからも推測できる通り、この「識」によって描写される意識もまた連続性を前提としている。意識がいつ如何なる時でも発生し得るのは、それがあらゆる経験に起因しているためである。「識」で描写される心的な意識は、意識をその対象へと結び付ける関係を意味する。「識」には「受」、「想」、「行」が心的な要因として含まれている。常にあらゆる瞬間において、これらの心的要因が、意識と対象とを結び付けている。心と対象との間には、接触、感情、対象の識別、対象への志向、あるいは対象への関心が生じている。これらは併存する場合もあれば、相互に排他的な関係となる場合もある。

しかし、経験者や経験対象、そして双方の関係を特定したところで、「我」の定義が規定される訳ではない。と言うのも、経験対象や経験との関係は、絶え間なく流動的に変異し続けているからだ。こうした変異性を前提とすれば、経験する者の同一性もまた揺らぐことになる。経験者の「我」は、経験との関係にある限り、固定的で不変的な同一性を確保することができない。「我」は、永続的でもなければ一貫的でもない。それは連続した経験の流れに過ぎない。それは過程であって事物ではない。

「我」と「空」の矛盾

重要なのは、この連続的な流れとしての経験を分析してみても、精々のところ、感情、知覚、動機付け、アウェアネスの不連続な瞬間しか発見することができないということだ。確かに、「識」には「受」、「想」、「行」という心的な要因が含まれているのであった。だが意識をこれら三つの要素に区別したところで、問題が解決されたことにはならない。感情にせよ、衝動にせよ、習慣にせよ、それらの同一性を観察したところで、また最初の問題に舞い戻るだけだ。「色」を再度手掛かりにしたところで、心的なものと身体的なものの差異が、堂々巡りを引き起こす。身体観察したところで、「我」の同一性は視えてこない。

ヴァレラは、こうして五蘊の一つ一つを取り上げることで、それぞれの何処にも「我」を見出すことができないということを、我々に諭すように解説している。五蘊区別しても「我」の発見に至らないとなると、度は逆に五蘊の全体を「我」と見立てる欲求が芽生えるかもしれない。それは、五蘊のそれぞれが一体化することで、「我」が構成されるという着眼である。ヴァレラはこの発想が魅力的であるという。五蘊のそれぞれは、単独では束の間の出来事で、瞬間的にしか生起しない。だがそれらが一体化すれば、永続的で一貫性のある「我」として認識することが可能になる。ヴァレラの推論によれば、恐らく「我」と呼ばれているものは、五蘊から創発された特性なのである。

だがヴァレラは、この創発的秩序に基づいた「我」の定義の有用性を否定している。そうした自己組織化や協働的な現象の機構は、経験的には明白ではないからだ。そして更にヴァレラが注意を促しているのは、我々が自らの「我」に執着する場合に、その執着の対象となるのが、創発した「我」という抽象概念ではないということである。五蘊物語るのは、我々が執着している「我」ではない。五蘊指し示しているのは、端的に、我々が実体として認識している「我」は無いということである。

五蘊における「我」の探索は、堂々巡りの如く、始まりへと回帰せざるを得ない。だが始まりにあったのは、何も無いことを表わす「空」なのであった。だとすればこの探索は、始まる前には既に終わっていたことになる。だがそれでも五蘊の訓えから学ぶ意欲を失わない者たちは、自分が見出せなかったものが何であるのかを想起しようとするであろう。

五蘊探究者たちは、物理的な身体を捉え損なってしまう訳ではない。だが、目の前にある身体を「我が身体」として認識することには何の必然性も無いのであった。五蘊を辿っていけば、自分の感情や感覚を適切に位置付けることができないことも判明した。だが、感情や習慣、行動のパターンが見出されなかった訳ではなかったはずだ。五蘊探究者たちが遂に発見に至ることのできなかったのは、真に存在している「我」なのである。

しかしながら、より注目すべきなのは、五蘊探究によって経験が見出されたことであるとヴァレラはいう。経験があるにも拘らず、実際上は「空」を痛感せざるを得ない。我々がこのように感じてしまうのは、実体としての「我」という決して存在しない対象を把握しようとしたためである。この執着は常に続いている。それは輪廻の如く、我々の行動の全てを条件付けている。五蘊とはこの意味で執着の集合体に他ならない。我々は、実体としての「我」が無いにも拘らず、「我」が実体化しているかのように、五蘊に執着してしまう。「我」は「空」であるにも拘らず、五蘊経験で充満している。

一見すると、これは「空」と「我」の矛盾である。しかしながら、ここでいう経験は、決して永続的で一貫的な概念なのではない。経験もまた生じては消え去る。それは生成消滅の無常な反復である。これを前提とすれば、五蘊経験で満ちていることと「我」が無いことは矛盾しない。経験が無常であるからこそ、「我」は無いのだ。逆に、固定的で不変的な「我」が五蘊に組み込まれているとすれば、経験者と経験対象の関係もまた固定的で不変的な形となる。これでは新たな経験が生起し得ない。「我」が無いからこそ、経験が可能になるのだ。

問題解決策:肯定すべき「我」と否定すべき「我」の区別

繰り返すように、無我説は「我」の存在を全否定しているのではない。無我説は、「我を有さない」という訓えなのではなく、「我ではない」という訓えに他ならない。実際、原始仏教聖典においては、肯定的な用語としての「無我(anattā)」と否定的な用語としての「無我(anattā)」が厳密に区別されている。この差異に無頓着では、「五蘊だけが我である」などといった誤った解釈を引き起こしてしまう。

多くの仏教学者たちを困惑させてきたように、原始仏教聖典には、確かに「我」の存在否定する「無我」の訓えと「我」の存在を肯定的に表現する訓えとが共存している。諸法無我五蘊論は、確実に「我」の存在否定しているであろう。しかしその一方で、釈迦の最後の説法は、「自帰依自灯明、法帰依法灯明」であったはずだ。元来仏教とは、他人を拠り所とするのではなく、まさに「我」こそを拠り所するべき訓えを展開してきた。「我」を否定しつつ「我」に準拠せよという訓えは、確かに一見矛盾している。しかしながらこの矛盾は、肯定すべき「我」否定すべき「我」区別を導入することによって、事実上解消される。

諸法無我によれば、一切の事物は「我」ではない。この観点から一切を観る者は、「苦」を遠ざけることができる。五蘊に「我」はなく、五蘊は「我」ではない。この観点から一切を観る者は、「我」ではないものを「我」ではないものとして、すなわち「空」として理解することを可能にする。諸法無我五蘊論との関連から「我」が否定的に表現されるのは、一切の事物も五蘊も「我」ではないという観点においてである。

ここで決定的に重要となるのは、否定すべき「我」は、「観(vipaśyanā)」の語源の一つである「パッサナー(paśyanā)」との関連から叙述されているということである。それは観察することを意味するのであった。無我説が否定的な用語としての「無我」を導入した場合、それによって実践されているのは、「我」ではないものを「我」から区別する観察なのである。

したがって、否定すべき「我」が指し示された場合、原始仏教聖典はまた肯定すべき「我」をも暗示していることになる。正確を期するために言い換えるなら、原始仏教は、両者の区別を導入することで、否定すべき「我」肯定すべき「我」の双方を同時指し示している。

尤も、原始仏教肯定すべき「我」に対して積極的な「定義」を与えている訳ではない。それはあくまでも、否定すべき「我」との「差異」によって暗示されている。「これが我である」という「定義」を与えれば、一見「我」の「同一性」が得られるように思える。しかしながら、それは「我」として客体化された対象に過ぎない。それこそ無我説が否定すべき「我」として記述してきた実体である。例えばドイツ語圏ならば、このニュアンスはむしろ伝わり易いかもしれない。元来「対象(Gegenstand)」とは、字義通り、「対抗して(gegen)」「立つ(stehen)」ということだ。「我」が客体化した「対象」と化した時点で、それは「我」そのものではなくなる。それは「我」の外部に位置する。それは「我」ではない。肯定すべき「我」は、あくまも否定すべき「我」との「差異」によって観察されているだけである。

かくして仏教徒たちは、決して「定義」の「同一性」によって明示された「我」に縋り付くことなく、むしろその明示的な否定すべき「我」との「差異」によって暗示された肯定すべき「我」に帰趨を見出している。固定的で一貫的な対象とした客体化された「我」は仮象に過ぎない。それを認めるのは執着となる。真に肯定すべき「我」は、むしろその執着の盲点に位置する。無我説は、「我とは何か」という観察観察することによって、その盲点を露呈させる。そしてそれが錯覚に過ぎないことを暴露する。それと同時に、そうした執着から本来肯定すべき「我」を護り、浄め、そして修養することを求めるのである。

スポンサーリンク