仏教の社会構造とマインドフルネス瞑想の意味論

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問題設定:ヨーガの歴史的意味論

ヴァルター・ベンヤミンは、恐らく彼の最も成功した著作の一つである『一方通行路』において、「ヨーガ(yoga)」の「瞑想(Meditation)」における呼吸法を取り上げている。その呼吸の「リズム」が、瞑想を実践する精神における規範となっているのである。ベンヤミンが讃えるように、瞑想時の呼吸は「神経刺激(innervation)」の最高に緻密な調節技術として機能している。

実際、瞑想家たちが指摘する呼吸の「リズム」から学び取れることは多大である。呼吸は、まさに我々が日常的に享受している神経刺激であると共に、それ自体が非随意的な身体作動として潜在化している。瞑想家たちが呼吸に焦点を当てているのは、この非随意性を暴露する営みとも解せる。瞑想家たちは、呼吸の「リズム」をはじめとした様々な感覚や感覚対象をその細部まで明確に認識することで、神経刺激を享受することにより顕現した形象歴史上幾度と無く主題化してきた。

単に語源を遡るだけであれば、「ヨーガ」という言葉は、サンスクリット語のyogaの音写であることが直ぐわかる。また「家畜を車に繋ぐ」という用例に観られる通り、その概念が「結び付ける」という意味を持つyujに由来することもまた直ぐにわかるであろう。それは英語の「頸木」を意味するyokeと語源を共有している。

だが、こうした「ヨーガ」という用語が宗教思想として展開されるまでには、長い歴史的な意味論上の変異社会構造上の変異が生じている。ヨーガは単なる哲学的な対話の主題である訳ではない。それは心身の鍛錬法を主題とした一種の実践形式でもある。語源を遡るだけでは、ヨーガの概念の展開を把握することはできない。

インドにおけるヨーガは、特定の一点に思考を集中させることで精神力を緊張させて高めることを意味する。人々が古来より探求してきた解脱(Vimutti)のための修行がヨーガなのであった。仏陀もまたヨーガを通じて解脱に至ったとされる。仏陀はこの意味ヨーガの実践者であった。

ヨーガは、解脱に至るための心身のあり様を叙述する用語でもある。インドにその起源をもつ仏教においても、ヨーガによって解脱に到達しようという発想が想定されている。仏教に基づくヨーガは、紀元前5世紀から遅くても13世紀のインド仏教の衰退期までの間、インドのヨーガの主流であった。だが仏教で伝来されているヨーガは、ヒンドゥー教ヨーガから観れば、正統とは見做されない。インドの中心的なヨーガ概念はヒンドゥー教の古典ヨーガから成り立っている。この古典的なヨーガ概念は、紀元前6世紀ごろに成立されたとされる『ヨーガ・スートラ』に準拠している。一方、ヒンドゥー教以外の宗教においては、例えば仏教やジャイナ教にもヨーガは受け継がれている。また、イスラム教やキリスト教のような外来宗教によって取り込まれたヨーガもある。とりわけヨーガ瞑想を通じて形成された秘思想は、紀元前後には西ユーラシアに伝承されたとされる。また、仏教と共に日本を含めた東ユーラシア一帯にも広く伝承された。西ユーラシアでは、キリスト教や「旧ヨーロッパ」的な近代思想の根源の一つとされる新プラトン主義がインド思想の影響を強く受けているとも言われている。

ヨーガ概念には、宗派や学派による差異以外にも、その実践形式による差異も見出せる。一方では「ラージャ・ヨーガ(Rāja yoga)」のように、精神の統一を目指すことで理想の境地に到達しようとするヨーガもある。だが他方では、精神集中に補助的な方法や行為を導入する「クリヤ・ヨーガ(kriya-yoga)」も実践されている。例えば禁欲的な苦行、聖句や呪文の詠唱、への専心などが挙げられる。

だがインドにおいては、こうした実践形式によるヨーガ区別が如何に導入されているのかは、些末な問題とされる。と言うのも、それぞれの実践形式は密接に結び付いているからだ。後述するように、「坐法(Asana)」が「調気法(Pranayama)」の前提となるように、ある実践が別の実践に関連付くことは間々ある。インドにおいては、あくまでも解脱へ至る道全般が包括的にヨーガと見做している。

問題解決策:脱バラモン化

精神の内面を探究することでその制御と統一を図るヨーガの実践形式は、直ぐに当時のインド社会に普及した訳ではない。と言うのも、古代の魔術を前提とした社会構造では、専ら祭儀による信仰形式が支配的であったためだ。

ヨーガのとりわけ神秘主義的な思想においては、精神の統御による自我超越が、や法のような絶対的な存在者との同化の道であると考えられていた。だがこの神秘主義が成立するには、人間精神への確たる信頼と深い理解が必要となる。確かに当時のインダス文明からは、瞑想によって得られる魔力を重視する強い傾向が見受けられた。だがアーリアの遊牧民がインドを侵略した頃から、徐々にこの文明は歴史の表舞台から姿を消したとされる。そしてその代わりとして定着し始めたのが、『リグ・ヴェーダ』をはじめとした「ヴェーダ聖典」に他ならない。アーリア人は、苦行を意味する「タパス(tapas)」や変性意識状態トランス状態を形成する幻覚剤を意味する「ソーマ(soma)」など、独自の魔術的見解から精神集中の実践形式を導入している。それらもまた後のヨーガ概念に影響を及ぼした。と言うのも、ソーマの如き外的な神経刺激作用が、あくまでも精神内部の魔力の獲得を重視するインダス文明的な実践形式と混交されるようになったためだ。

アーリア的な信仰が色濃く反映されていた当時の多教的な世界観においては、魔術と精神集中の混交状態はむしろ社会構造上の優位性を確保していた。その融合は、ヴェーダ以来、現代のヒンドゥー教信仰実践にも反映されている。その苦行を通じて獲得される魔力は、あるいは々すら制御できると信じられていた。だがそれは魔術の万能性を過信する魔術中心主義的な保守思想でもあった。そこでウパニシャッドの脱伝統的な思想改革運動が始まる。それは魔術に依存しない個人の修行による人間精神の探求を改めて重視する視点であった。ヴェーダの時代では、特定のバラモンだけが執行できる祭儀で得られる魔力に皆が依存していた。一方ウパニシャッドにおいては、そうしたバラモンに依存した魔術よりも、個々人の宗教的な修行によって得られる魔術が注目されるようになる。そしてその魔力を獲得した上で、超越的な存在者との合一を可能にする極限的な智慧の獲得が目指されるようになった。

こうした背景から、インドの神秘主義的な思想におけるヨーガは、魔術や祭儀を中心とするバラモン階級によって伝承された諸概念とは区別される傾向にある。でもタパスが指し示すような苦行が実践される場合もあるが、それはヨーガの実践形式の部分に過ぎなくなっている。ウパニシャッド時代以降、逸早くこの個人的な修行による智慧の獲得の重要性に気付いたのが、仏陀(Buddha)である。バラモン階級が正統であるとするならば、ヨーガはむしろ異端の側に対して積極的に伝播されたと言える。

問題解決策:日常生活の智慧のヨーガ

仏教(Buddhism)とは、仏陀(Buddha)が説いたブッダになるための訓えに他ならない。仏教は、紀元前500年ごろにインドで生まれたとされる。それから紀元11世紀までにインドに残存していた。それと共に、他のアジア諸国に遍く広がったという。

仏陀には、「真理を悟った者」という意味がある。真理を悟った者ならば誰もが仏陀となり得る。ただし仏教の開祖である当の仏陀本人は、シャカ族の聖者を言い表す「釈迦」と呼ばれていた。

ヨーガという概念は多種多様な宗派や学派から叙述されてきた。だが当初の、つまり「出家(pabbajja)」直後の仏陀から観れば、当時のヨーガは概念的にも実践形式的にも不十分であった。と言うのもヨーガには、端的に日常性が欠落していたからだ。

仏陀出家は、「真実の追究」を現世を否定したいがための言い訳として掲げる現実逃避的な出家でもなければ、魔術の獲得による現世の利益を追求するための出家でもなかった。仏陀は、自己の利益のために出家した訳ではない。彼の出家は、「涅槃(nirvāṇa)」という抽象的で不変的な倫理観の下で他者を救済することが如何にして可能になるのかという問題設定を前提としていた。言い換えれば、彼は日常生活を如何に善く生きるかを追究していたのである。

しかしながら当時のヨーガには、宗教生活上の涅槃の世界と日常的な倫理の世界を結び付ける発想が足りていなかった。そこで仏陀は、ヨーガの修行によって獲得できる智慧を重視するようになる。その智慧は、世界の根本を貫く真実についての解脱に人々を導く知でなければならなかった。

「しかもこの智慧は、人間が現実生活のなかで、行の実践を通じて獲得するものでなければならなかった。呪術や儀礼によるものではなく、行者一人ひとりの行(ヨーガ)の実践、つまり身体性を伴ったものでなければならなかった。同時に、それが日常生活に生かされねばならなかった。だからゴータマ・ブッダは、瞑想中心の修行主義では真の智慧の獲得には至らない、生死の苦を脱することはできないと考えたのである。」
保坂俊司(2004)『仏教とヨーガ』東京書籍、p.117

それ故に仏陀は、それまで伝統的に実践されていた心や精神の鍛錬を中心とした瞑想ではなく、身体の鍛錬による瞑想ヨーガの修行として導入しようと考えたのだ。それは瞑想の脱観念論的な発想である。実際仏陀は、精神集中のみの修行から、身体を酷使することによる修行で解脱に至ろうとしていた。極限まで肉体に苦痛を強いることで、真の精神の解放とそれによる解脱を目指したのである。その苦行の中には、食事制限や気息の抑止などのような危険な営みも含まれていた。

仏陀ヨーガには、あくまで身体と心の調和によって解脱を追究する姿勢が貫かれている。身体精神を統一することで、その内省によって智慧を獲得するのだ。

問題解決策:『ヨーガ・ストーラ』

後期ウパニシャッドの時代になると、ヨーガ学派の聖典『ヨーガ・ストーラ』が制作された。『ヨーガ・ストーラ』は、単にヨーガ学派の思想を記述した聖典であるだけではなく、インドにおける様々なヨーガの集大成として制作されている。その冒頭では、ヨーガとは心作用の「止滅」することであると定義される。この止滅と訳される「ニローダ(nirodha)」は、仏教用語である。特に『ヨーガ・ストーラ』の第一章には、仏教の影響が色濃く反映されている。

仏陀言葉がほぼそのまま記述されているとされる『法句経』にも観られるように、仏陀は「ヨーガ」という概念を、仏教における精神集中や三昧(samādhi)の意味で理解していた。後の仏陀の後継者たちも、ヨーガの思想や行法を深化させて、既に幾つもの文献を遺している。

仏陀は、解脱するためには個人の行や励が重要であると説いた。仏陀が語る解脱への道は、初期ウパニシャッドの理想を追従していた。それは正統バラモン階級によって独占されていた祭儀や魔術的苦行を個々人に解放する革命論でもあった。

ヨーガ・ストーラ』における瞑想の実践形式は、身体感覚への神経刺激の有無という区別によって大雑把に分類することができる。例えば「読誦(Svadhyaya)」による声の振動、「坐法(Asana)」における一定姿勢の静止状態、また「調気法(prāṇāyāma)」によって派生する触覚や嗅覚、気道の摩擦などは、神経刺激による瞑想の好例となる。これらの実践形式では、身体感覚への神経刺激により、本来散乱し易い心を一点に集中させるように方向付けることが目指されている。

読誦とは、聖句の詠唱を通じて解脱への道を学習する営みとなる。聖典がテクストとなる。この営みは自在への祈念との関連からも重視されている。自在への祈念とは、煩悩や放逸などのような三昧の阻害要因に穢されていない「真我(purusa)」を讃える営みである。真我は、個々人に備わる意識性の根源意味する。通常、人間の「我」は煩悩や放逸によって汚染されている。これに対して自在解脱して独立している特殊な「我」という様相を呈する。正統派の古典的ヨーガでは、真我が無の境地に至ることを目的とする。

坐法は、座る際の足の組み方を意味する。この坐法は、瞑想手段ではない。だが、各種の瞑想の実践形式にはこの坐法が部分的に組み込まれる傾向にある。それは瞑想の必要条件とも言える。実際、坐法は本来散乱し易い心というものを内面へと集中させるための訓練として実施されている。仮に瞑想の実践そのものを目的とするのならば、数時間は座り続けることが要求される。安定した足の組み方で座らなければ、直ぐに静止状態に苦痛が伴ってしまう。逆に言えば、瞑想時に心の集中を成し得るためには、安定した坐法を身に付けなければならない。

調気法は、この坐法を習得して初めて実践できる呼吸の統御である。ベンヤミンが着目したヨーガ呼吸法とは、この調気法による呼吸の統御なのかもしれない。『ヨーガ・ストーラ』では、息の吐き方が心の散乱状態と密接に関わると想定されている。息が乱れていれば、それだけ心も乱れている。精神を集中できているのならば、自ずと呼吸も「リズム」を保つという訳だ。息を吐けば、触覚や嗅覚をはじめとした身体外部の感覚器官が神経刺激を受ける。また息を吸えば、気道や肺をはじめとした身体内部の感覚器官に神経刺激が呈示される。こうした神経刺激の「リズム」が乱れた際には、息を吸ってから吐くまでの束の間の瞬間で呼吸を静止させることで、安息を保ち、心の散乱を抑制することができるようになる。

派生問題:原始仏教の脱魔術化された瞑想の意味論

上述したように、仏陀はウパニシャッド時代の心の統一による理想の境地の追求という姿勢を継承することで、瞑想を中心としたヨーガの修行を敢行するヨーガ行者であった。このことから、『ヨーガ・ストーラ』をはじめとするヨーガ瞑想意味論仏陀仏教から再記述することも不可能ではないことがわかる。

インド仏教が最後まで魔術や祭儀への依存を打ち払うことができなかったのは、古代インドのバラモン的な精神世界から仏教が派生した歴史からも容易に推察できる。インド仏教は自らを脱魔術化できていなかった。確かに仏陀仏教は魔力の獲得を目指さなかった。だがインド仏教の最終段階は、どちらかと言えば仏陀の従来的な理性の方向性からは別離していた。最終的にインド仏教は、密教の観念論的な世界と現実とを象徴的に結び付けることを強調していた。そうした象徴制御が可能であるという思想から、極めて魔術的な世界観を展開していた。

歴史的には、瞑想を重視する度合いに応じて、仏教ヒンドゥー教的なヨーガとの結合度を高める傾向にある。近代のヒンドゥー教的なヨーガはこの結合によって成り立っていると言っても過言ではない。ヒンドゥー教の魔術的な世界観と仏教理性的な世界観の区別が、仏教理性的な世界観の内部へと再導入(re-entry)されてきた訳だ。

これは、宗派の区別を導入する観察者から観れば、パラドックスとして成立しているように観えるかもしれない。しかし、これは単なる理性パラドックスなどではない。「結び付ける」というヨーガ意味論から観察するなら、ヨーガ概念は、ヨーガ概念それ自体の結合を可能にする点において、「自己論理的(autologisch)」であり得た。それは、ヨーガ概念が別のあり方でもあり得るヨーガ概念を包摂していることを意味する。この自己論理性が、仏教的なヨーガ概念とヒンドゥー教的なヨーガ概念の結合を可能にした。そしてこれにより、仏教という宗教システムは、システム外部環境区別システムの内部で再導入することを可能にした。ヨーガの普及には、ヨーガを記述してきた宗教システムの「システム合理性(System- rationalität)」が関わっている。

しかしその代償として、ヒンドゥー教的な魔術的ヨーガとの混交状態から、脱魔術化されたことで誰であれ日常的に修行を通じて解脱を追体験し得るという仏陀の思想が視え難くなってしまった。当初の問題設定からすれば、我々はもう一度区別を導入しなければならない。そうすることで、仏教という宗教システムの内部から観察した場合の仏教的なヨーガ概念とヒンドゥー教的なヨーガ概念との差異を抽出する必要がある。さもなければ、我々は仏陀が追究した仏教的なヨーガにおける瞑想機能を見失うことになる。

この機能盲点となってしまっては、当初の問題設定に対する問題解決策を見失ってしまう。ヒンドゥー教とは異なり、仏教超越的な存在者であるを見出さない。ヨーガによって獲得された智慧は、言語によって記述される。それは理性的かつ論理的に検証可能でなければならない。そうすることで、智慧の実践的な再現性を確保する必要がある。別の言い方をするなら、「誰もが仏陀になれる」という仏教の思想は、仏教徒による仏陀の「模倣」の可能性物語っている。仏教徒たちは、ヨーガ瞑想を含めた日常的な修行を敢行することによって、仏陀の「模倣」を実現している。その修行は、心の統御のみならず、身体の苦行も含意している。故に仏陀模倣としての修行は、ある種の「模倣的神経刺激」である可能性が高い。

問題解決策:諸行無常

原始仏教の実践において最初に直面することになる問題は、人生は苦に満ちているという現実に対する認識であった。これを「一切皆苦(sabbe saGkhaaraa dukkhaa)」という。ここでいう「苦」とは、自分の思い通りにならないことを指す。人間は絶え間ない不安と苦しみの中にある。この不安と苦しみからは逃れることができない。生も、老も、病も、死も、全て苦だ。愛する者に会うことも苦であり、愛する者から離れることも苦となる。欲することを得られないこともまた苦に他ならない。

原始仏教がこうした問題設定を見出したことには、明確な理由がある。「因縁の訓え(Paticca Samuppâdo)」が物語るように、あらゆる事物は相互依存関係にある。それぞれの事物の変異は他のそれぞれの事物の変異を条件付けていく。ある事物が変われば別の事物も変わる。それはその複合的な事物間の関係をも変異させていく。そうして現実は常に変異し続けて、刹那の一瞬すら留まることを知らない。この万物が移り変わる過程を原始仏教では「諸行無常(sabbe saṅkhārā aniccā)」と呼ばれる。

諸行無常は万物の根源偶発性根源的無根拠性を言い表している。つまり、事物を根拠付ける事物があるとしても、「最終的な根拠付け」がある訳ではないということだ。我々がコミュニケーションの過程で最終的な根拠付けを発見し得たとしても、そうした最終的な根拠付けもまた他の事物によって条件付けられている。個々の事物は変異の過程にあるために、根底に位置付けられる本質的な実体など何処にも無い。

問題解決策:諸法無我

原始仏教一切皆苦の理由に諸行無常を据えたのは、生の苦の背景にある事物の儚さを訓えるためであった。この問題設定から原始仏教は、如何にしてこの苦を無害化できるのかを問おうとする。そのために提唱されたのが、「無我(anattā)」の概念であった。無我の訓えによれば、我々は何らかの事物を我が物として「所有」しようと執着してはならない。それ以前に、我が物として所有するという観念を捨て去る必要がある。諸行無常の現実がある限り、あらゆる所有物は常に変異していくばかりか、遂には儚く消え失せていく。

この諸法無我の説が主張するのは自己の所有という概念だけではない。原始仏教とほぼ同時期に発祥していたとされるバラモン教やジャイナ教が永久不滅の実体として捉えていた「自己」という概念それ自体もまた、無我説は否定していた。自己を構成すると考えられているものが精神的なものであれ、物質的なものであれ、機能的なものであれ、あらゆる事物が他の事物との相互依存関係で構成されている以上、明確に自己と非自己を区別する尺度を見出すことはできない。原始仏教の前にあっては、「自己」はその存在そのものが否定されるために、主観と客観の対立は無意義とされる。

尤も、無我説は形而上学的な概念としての自己を否定したのであって、自己そのものを否定していた訳ではない。原始仏教は自己の存在に関しては沈黙を守る一方で、客観的な世界で観察される如何なる実体も自己ではあり得ないという点を主張したに過ぎなかった。その代わりとして釈迦は、臨終の説法の一つとして、「自己に頼れ」と述べている。それと同時に釈迦は、「法に頼れ」とも述べていた。要するに釈迦は、法を実践するところに真なる自己が見出されると考えていた。

釈迦が想定していた「法(dharma)」とは、現実世界を現存するように在らしめる規範を意味する。仏陀とは真理を悟った者を意味している訳だが、ここでいうところの法は、真理と言い換えられることもある。釈迦は自己の形而上学的な実体性を否定する一方で、様々な複数の法を讃えていた。現実の世界では、諸行無常一切皆苦諸法無我などのように、様々な法が働いている。こうした法は、様々な規範として位置付けられていた。

中道への道

仏教では、最終的な根拠付けが認められない。一切皆苦となるのは執着心に動機付けられた盲目的な欲望だ。この苦からの離脱を達成するには、諸行無常無我説の理を悟ることで、「既成概念」や「定義」のような確実性を保証してくれる事物への執着を断つ必要がある。そのためには、厳格な戒律の中で修業に励むことで、禅定を修めなければならない。その先にあるのが離脱の境地だ。それは経験的で<内在的>な世界の概念では語り得ぬものだ。生死の差異であれ、有無の差異であれ、存在と不在の差異であれ、そこにあるものを語ることはできない<超越的>なものとなる。

そうした境地へと至るための過程として、仏教徒は「中道(majjhimâ patipadâ)」を貫こうとする。それは不苦不楽の中道だ。仏教徒の振る舞いは、快楽に没入する訳でもなければ、苦行の積み重ねともならない。仏教徒は快楽と苦行という極端な道を選ばず、その中道を進む。

問題解決策:輪廻の十二因縁

生成消滅する心の流れを説明する「輪廻(saṃsāra; wheel of life)」には、「十二因縁(dvādasaṅga-paṭiccasamuppāda; nidanas)」がある。十二因縁は、苦の原因が「無明(avijjā)」から始まり「老死(jarā-maraṇa)」で終わるという円環構造によって、ある瞬間から終生を、多くの生涯に渡る各期間の出来事を説明している。

十二種類の因縁は相互に依存する関連にある。そしてこの十二種類の区別は、その内部に再導入されることで把握される。つまり、十二種類に区別されている各種の因縁は、また再帰的に十二種類に区別される余地を残している。仏教徒ではなく、神経生物学者のフランシスコ・ヴァレラのようなシステム理論家から観れば、この十二因縁観察の尺度を変えても同様のパターンが発現しているように見受けられることから、ある種の「フラクタル(fractal)」のような性質を見出すであろう。

六処

とりわけ「六処(saḷāyatana)」や「触(phassa)」のような比較現在に位置する因縁は、知覚様相や感覚器官との関連で記述されている。

まず「六処」において、心身の意味が六種類の感覚にあることが説明されている。如何に些末な状況であれ、視る、聴く、味わう、嗅ぐ、触れる、考えるという六処の「識(viññāṇa)」がそれぞれ瞬間的に関連しているのである。

続く「触」では、六処を有するということが、その感覚対象との接触を意味することが説かれている。如何なる瞬間の「識(viññāṇa)」においても、感覚とその対象との接触が伴っている。「触」の無い感覚の経験などあり得ないのだ。

ヴァレラが補足しているように、「触」とは、心的であれ物的であれ、感覚と感覚対象が共感関係にあることを意味する。それは双方向的な接触となる。この双方向的な関連は、創発を生み出す動的な過程となる。言い換えれば「触」は、原因であると同時に結果でもある過程となる。「触」が原因であるのは、感覚とその対象、及びそれに対するアウェアネス可能性という三つの要素が、「触」において集約されるからだ。一方「触」が結果となるのは、集約されたこれら三つの要素から生じた共感関係として、感覚とその対象の接触が成立するからである。この双方向的な関連は、感覚でもなければ感覚対象でもなく、アウェアネス自体でもない。この関連は、三つの要素が創発的に結び付くことによって構成されている。

ヴァレラを驚かせているように、この「触」という概念は、触覚に限らず、視覚という現象にも適用され得る。循環的因果律、フィードバックフィードフォワード区別創発などのような科学的な概念や、自己言及性を伴わせた論理形式主義とも縁の無かった文化においては、創発的な現象を表現するには、「過程が原因でもあり結果でもある」という逆説的な叙述に頼るしかなかったのかもしれない。

初期の仏教では、相対的に全体的な水準での「縁起」と相対的に局所的な水準での「触」の双方において、創発の着想を育て上げてきた。この発展は、自我や自己という概念を分析する上でも極めて重要な要因となっていた。自我や自己と呼ばれている類のものは、瞬間から瞬間へと創発的に生成消滅し続ける歴史的な概念である。

この概念規定は、「六処」や「触」が準拠している「識」において見出される。「識」とは、あらゆる感覚ある存在における意識の始まり、ある任意の状況に依存した意識の最初の瞬間を意味する。ある特定の瞬間の「識」は、形態的に、過去因縁における「行(saṅkhāra)」によって条件付けられている。

「行」とは、「無明(avijjā)」から出発した人間があくまでも自己を基盤として活動することを意味している。このことが意味するのは、逆に無自己や無我の状態では自分なりの志向を持ち得ないということだ。無自己や無我の状態を知らないからこそ、人は自己に準拠した常習的で反復的な活動に執着してしまう。一方「無明」は、あらゆる因縁における因果作用の基盤となる。それは、積極的に解するならば「出発点」で、まだ心や実在の真理については何も知らないことを意味する。それは無知に由来した混乱状態であるという点で、困惑した情態でもある。

一切皆苦」と「諸行無常」という問題設定から考えれば、「無明」と「行」から始まる輪廻に条件付けられた人間経験の円環を、容赦無き因果律によって永久に回転し続ける不満足の歯車という形象で思い描くのは容易いはずだ。一説によれば、仏陀はこの十二因縁の連鎖を断ち切る方法探究した。だが、「無明」や「行」のような過去については、変えることができない。そして、生物として現在を生きている以上、「識」や「六処」や「触」を回避することも不可能だ。しかしながら、渇望によって生み出された執着を言い表す「取(upādāna)」については、不可避ではない。

問題解決策:マインドフルネスとアウェアネスの区別

一説によれば、でいうところのマインドフルネスアウェアネスの技術に対して仏陀が明確に言及したのは、まさにこの問題設定との関連からであった。日常生活を含めたあらゆる瞬間に、正しく鍛錬された瞑想を実行すれば、我々は自動的な条件付けの連鎖を断ち切ることができる。渇望ゆえの執着への自動的な移行を未然に防ぐこともできよう。そして、こうした常習的なパターンを断つことが、更なるマインドフルネスを派生させる。最終的に瞑想家、修行者たちは、心身をリラックスさせ、より解脱に近付き、経験される諸現象の生成消滅への洞察を深めることが可能になる。

瞑想は、この中道への道を進むために行なわれる修行だ。瞑想とは、一般的には心をある一つの事柄に集中させることを意味している。トランス状態を引き起こす解離した状態もまた、瞑想の一種と考えられている。宗教家の中には、より高次の実在や信仰対象が体験される秘的な状態になることを瞑想と呼ぶ者もいるだろう。

しかしヴァレラも解説しているように、こうした瞑想が定常的、非集中的、非解離的でより低次元の実在から逃避するために瞑想が用いられるという通俗的な解釈は、仏教では通用しない。仏教徒の瞑想は「マインドフルネス(Mindfullness)」と「アウェアネス(Awareness)」の修行によって達成される。瞑想目的となるのは、逃避ではない。瞑想目的はマインドフルな状態になることである。ここでいうマインドフルネスとは、心がこの時に集中して、身体と心が緊密に調整されており、自分が自分の心と共に在ることを指す。

止と観の差異

経典では、マインドフルネスになるための訓練として、二つの修行が取り上げられている。それは、心を鎮め抑える「止(śamatha)」と、洞察を深める「観(vipaśyanā)」だ。止は、単一の対象へ心を固定することで体得される精神集中技術を意味する。この技術を高めていけば、次第には没入状態になる。それは無我の至福感を引き起こすかもしれない。しかし、注意しなければならないのは、それが止の目的なのではないということだ。仏教において心を鎮め抑えるのは、心がそれ自体の性質と機能を把握できるように、一体化させるために他ならない。

止の実践は、観の前提となる。その観察対象となるのは、仏陀が訓えた法だ。観の実践者は、諸行無常一切皆苦諸法無我などといった法について、一つ一つ観察していくことになる。とりわけ大乗仏教においては、専ら「空(śūnyatā)」の体得が目指される。空とは、文字通り「無」を意味する。それは数学の「ゼロ」に相当する。しかしそれは、空虚感とは区別されなければならない。諸行無常の世界観が説くのと同じように、空とは一切の相互依存関係を示している。最終的な根拠や哲学的な基礎付けがあり得ないという意味で、空は「無」を意味する。

概念史的には、「観(vipaśyanā)」は二つの語源に由来する。「パッサナー(paśyanā)」は観察することを意味する。一方「ヴィ(vi)」には「ある特別な方法で」という意味がある。ここから転じて、「観(ヴィパッサナー)」は、対象を明確に観察し、諸要素を区別して明晰に観ることを意味する。

したがって「観(ヴィパッサナー)」瞑想は、ひとえに観察することを意味する。ただしこの場合にその対象となるのは、自己が出来事として体験するおよそありとあらゆる全てであると言える。その全ての中には、自己自身も含まれる。「観(ヴィパッサナー)」瞑想は、観察する自己自身に対する観察であって、観察観察という自己言及の営みになる。

観とトランス状態の差異

瞑想法の中にはトランス状態に入ることを目的にしている手法もある。「観(ヴィパッサナー)」瞑想は、そうした瞑想法とは明確に区別される。言い換えれば、無意識の状態になることがこの瞑想法の目的になるのではない。マインドフルネスアウェアネス差異を前提とするなら、またトランス状態を単に意識を失わせた状態であると定義するなら、「観(ヴィパッサナー)」瞑想トランス状態とは逆行することになるだろう。

「観(ヴィパッサナー)」瞑想では、自己自身の意識状態や感情の変異に敏感になることが目指される。日常で体験している以上に、明確に、精確に、自己を知るようになる。

確かに「観(ヴィパッサナー)」瞑想によって集中状態に入った場合に、それがトランス状態であるかのように体感することもあるだろう。だがこの場合のトランス状態は、あくまでも自己自身によって制御された状態であって、決して無意識の超自我や全くの赤の他人によって制御されているのではない。社会システム理論的に言い換えてしまえば、「観(ヴィパッサナー)」瞑想状態は、徹底して自己言及的な心理システムの作動によって構成されるのである。

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