マスメディアの社会構造と記憶の意味論 | Accel Brain

マスメディアの社会構造と記憶の意味論

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派生問題:隠蔽された諸問題の再発見は如何にして可能になるのか

前述したように、心理学的社会という概念は、近代社会の社会構造を方向付ける意味論として機能してきた。この社会構造に準拠した社会システムは、心理学的問題設定を顕在化させる一方で、非心理学的問題設定を潜在化させる。これにより近代社会は、心理学的問題解決策が有用であるという社会的な認識を反復的に強化させてきた。

確かにこれは一種のマッチポンプである。だがこのマッチポンプは普遍的ではない。実際この心理学的社会という概念は、密かに近代公教育進歩史観によって培われてきた歴史意味論とも関連してきた。近代公教育社会構造発達心理学意味論は、一方では確かに心理学的社会を普及させてきたものの、他方では教育的な問題設定を顕在化させてもいる。これにより、機能システムとしての教育による問題解決策が有用であるという社会的な認識もまた反復的に強化されているのである。

社会システムの作動の実態を抽象的観点から観察するなら、この近代社会機能的分化した社会構造構成されていることがわかる。機能的分化した社会では、科学・学問的な問題領域や教育的な問題領域に限らず、政治的な問題設定経済的な問題設定的な問題設定宗教的問題設定などといったように、様々な機能的問題領域が開拓されている。この問題領域の問題解決策展開するのが、機能システムコミュニケーションである。

それぞれの機能システムは、自身の問題領域に固有の問題設定を顕在化させると共に、その問題解決策展開している。これにより各機能システムは、自身が展開している問題解決策が有用であるという社会的な認識を普及させている。心理学的社会公教育意味論は、この機能システムのマッチポンプ的な作動の具体例に過ぎない。

機能システムは、外部環境かられば、文字通り「ブラックボックス」である。それぞれの機能システムは、それぞれの機能的な問題領域に固有の論理で問題解決策展開しているが故に、他の機能システムによる干渉を受けない。仮に干渉を受けたとしても、如何にその干渉に対応するのかは、その機能システム自身で決定される。故にそれぞれの機能システムは、他の機能システム制御できる訳ではない。それぞれの機能システムは、相互に構造的に結合しているインターフェイスを介して、ただ利用し合うだけである。

これを前提とすれば、全ての機能システム統一するメタ水準の機能システム存在しないことになる。等価機能主義的な社会システム理論によって記述される「社会システム」という概念は、全ての機能システム統一させた概念なのではなく、汎化した概念であるに過ぎない。しかしこの抽象化は、あらゆる機能システム共通するコミュニケーション質を浮き彫りにする。何度も述べるように、それぞれの機能システムは、それぞれの機能的問題領域に固有の論理で、自身の問題設定のみを主題化させる。つまり各機能システムは、他の機能システム問題設定には盲目的に作動しているのである。

したがって、政治経済、科学・学問、教育宗教などのような機能的な問題領域に追従しているだけの観察者にとって、これらの機能システム主題化しない問題設定は潜在化したままになる。言い換えれば、機能システムに準拠しているだけの観察者は、別のあり方でもあり得る問題設定忘却してしまう訳だ。この潜在的な問題の忘却は、それ自体ある種の問題である。と言うのも、この近代社会忘却された問題を想起させることが如何にして可能になるのかという問題設定もまた、一つの機能的問題領域を構成しているのである。社会システム理論観点かられば、この領域の機能システムとして構造化されているのは、「マスメディア(Massenmedien)」である。マスメディア・システム社会的な機能は、隠蔽されて忘却されている問題を想起させることなのである。

注意しなければならないのは、このマスメディア・システムもまた一つの機能システムに過ぎないということだ。だからマスメディアもまた、他の機能システムと同じように、他の機能システム問題設定には盲目的な状態で、自らに固有の論理を展開していることになる。だがマスメディア社会構造には、社会システムを問題の想起へと優先して方向付ける意味論が対応している。それは専ら、マスメディア期待構造となるプログラムとの関連から記述できる。社会システム理論的に言えば、マスメディア・システムプログラムとなるのは、「ニュース(Nachrichten)」と「ルポルタージュ(Berichte)」、「広告(Werbung)」、そして「娯楽(Unterhaltung)」である。これらのプログラムが、「情報(Information)」と「非情報(nicht Information)」という、マスメディア・システム二値コードを方向付けている。マスメディア社会的な機能は、この二値コードプログラムの関連を比較することで観察することができる。

問題解決策:プログラムとしてのニュースとルポルタージュ

ニュースルポルタージュプログラムの場合、コード化される情報は驚きをもたらす新しい情報でなければならない。それ以外は非情報である。ここでいう驚異とは、<標準>をまず前提としている。つまりその標準から逸脱した出来事や標準から飛躍した出来事が、驚異的な情報となるのである。この標準は、視聴者を適切な貢献へと方向付けるように、主題を貯蓄させた文化意味処理規則を貯蓄させた意味論マスメディアなりに構成することで設定される。マスメディア・システムは、まず標準を設定した上で、そこから逸脱した出来事や飛躍した出来事を情報として選択しているのである。だから諸々の矛盾に満ちた闘争法システムにおける規範的な期待を裏切る犯やテロは、マス・コミュニケーションを潤わせていると言えるだろう。

ニュースルポルタージュというプログラムによって構造化されているマスメディア・システムは、被害者や被抑圧者を主題化することで、当事者意識や憤慨を誘発させようとする。機能的分化したマスメディアという機能システムにとっては、機能的な分化という近代の社会構造に対立するはずの社会運動すら価値のある情報となってしまうのである。

ニュースルポルタージュ構造化されたマスメディア・システムは、主題を設定する機能を持つ。しかしこれだけがマスメディア機能なのではない。マスメディアは、ニュースのような番組を通して意見を表明することもある。偏向報道に対する抗議デモに対して、「嫌ならテレビを見るな」を反論することも可能であろう。

こうしたニュースルポルタージュプログラムにおいては、真理や真実に基づいた情報提供が価値あるものと見做される。しかしマスメディア・システムは、真と非真という二値コードとは全く無縁である。このコードに従い得るのは科学・学問システムだけだ。確かにマスメディア・システムは、このコードに基づいた科学・学問システムの作動を前提として位置付けることができる。だからこそ3.11との兼ね合いでは、御用学者たちがカメラの前で原発安全神話を唱えていたのである。

ただしマスメディア・システムは、あくまで情報非情報区別する。マスメディア区別するのは、<情報価値のある真理>と<情報価値のない真理>なのだ。故に御用学者たちが<情報価値のある安全なデータ>だけを<真理>として提示する可能性は十分にあり得る。

問題解決策:プログラムとしての広告

広告は、ニュースルポルタージュとは異なるプログラムである。とりわけ流行商品などに関するしいバナー画像やテクスト装飾された広告は、広告を提示する者が広告観察する者たちの動機付けを調達することを可能にする。こうした広告による動機付けにおいても、やはり鍵となるのは情報だ。広告は、人々の動機情報という形式で弾みを付けている。

広告を事業展開テンポを作り出す原動力となるべく用意された技術は多聞に及ぶ。逆説的な言葉遊びによって広告提示者の目論見を不透明にするというのも、広告の技術の一種だ。例えばお金を支払うことで「節約する」ことを強調する広告、明らかに不特定多数に向けられた広告でありながらも「貴方だけに特別の商品を展示します」と豪語する広告などは、この典型と言える。支払いすべき対象を直ぐに知らせないのもまた広告の技術の一つである。Web上ではオンライン・ゲームの課金システムにこの傾向が見られる。ゲームの最も魅力的なコンテンツを有料にしておきながら、ゲームのトップページやバナーには「無料」であることを強調する一文が記載されている。クリス・アンダーソンが紹介した「フリーミアム(Freemium)」という事業戦略においても、広告は重要な位置付けにある。

ルーマンによれば、広告機能の一つは、趣味のい人々に趣味を授けることである。教養を換金することはできない。だが金を教養に変えることはできるかもしれない。例えば芸術についての教養がなくとも、術展の広告を視れば、高く評価されている芸術にあり付ける。その広告観察者は、その広告に従うことで、教養があるかのように振る舞いながら、術展を選ぶことができるのである。こうした広告においては、装飾芸術と同様に、表層を以って深層を匂わせる技術が駆使される。広告提示者には、広告を視る観察者が何を考え、何を感じ、何を欲しているのかがわからない。それを制御することも不可能だ。それでも広告提示者は、その期待される成果を計算し、その対価が自分に支払われるようにする。この意味広告経済的なコミュニケーションでもある。

しかし厳密に言えば、経済的な成功を収めることが、広告機能なのではない。マスメディア・システムプログラムとしての広告において、その重要な機能となるのは、日常の文化における重複と多様の関係を安定化させることである。ルーマンによれば、ここでいう重複とは、宣伝した商品がより多く売れることで生み出される。一方ここでいう多様は、宣伝した商品市場で見分けることができるようになることで生じる。

この説明不足にしか思えない説明からルーマンの意を汲み取るなら、次のように補足できる。複製技術で大量に生産された商品の全てを限られた少数の消費者たちで買い取ることは絶望的に不可能である。そこで、より幅広い消費者層に向けて商品を宣伝するための広告が必要となる。ただし改めて宣伝するとなれば、既にその宣伝しようとしている商品を購買した消費者たちに向けても、同じ商品を「重複」して宣伝することになってしまう。そこで広告に求められるのは、旧い商品を新しく魅せるような演出である。スマートフォンはスマートフォンのままだ。だが新しい機能やコンテンツを搭載したことを広告で強調すれば、旧いスマートフォンと新しいスマートフォンの差異を明示することが可能になる。結果、消費者たちにとって、市場には「多様」なスマートフォンが陳列していることになる訳だ。

問題解決策:プログラムとしての娯楽

娯楽もまた上述した二つのプログラムとは全く別様のプログラムである。ルーマンも例示しているように、娯楽を考えるには、ゲームの考察が役立つ。ゲームを構築するには、時間の区切りが必要になる。ゲームは出来事の連鎖だ。それに一時的に従事することになっても、ゲームは参入離脱可能な営みである。だが現実ゲームの前後にしかないという訳ではない。つまり現実が停止すると同時にゲームが開始され、ゲームが終了すると同時に現実が再開する訳ではない。むしろ現実ゲームは同時に存在しているのである。と言うのも現実ゲーム区別するということは、双方を同時に指し示しているということだからだ。このことは、マスメディアもまた「意味」構成するシステムであることを念頭に置けば明らかであろう。

ゲーム現実区別に役立つのは、ゲームのルールだ。このことは集団的なゲームにも該当する。もとよりそのルールは予め合意されたルールなのではない。ルール違反もあり得よう。ただしルール違反があり得るのは、それがルールの枠組みで修正される限りにおいてである。全く修正される見込みの無いルール違反が伴えば、そもそもゲームの継続が難しくなる。違反者にはゲームから退場して貰わなければならない。

視聴覚的な現実のシーンもまた、ゲーム現実区別に役立つ。そのシーンは、知覚メディアを介した知覚刺激である。ゲームをはじめとした娯楽における虚構の現実世界は、このシーンによって自由を手にする。と言うのも、そうしたシーンの配列次第で、虚構の現実世界を柔軟に「設定」することができるからだ。

娯楽の参加者は、本当の人生とは違って、その最初と最後を観察することができる。娯楽の開始時は、生まれたばかりの赤ん坊なのではない。娯楽の終了時は、に逝く途中なのではない。娯楽の参加者は、ゲームの開始時と終了時を明確に観察することができる。だからこそ参加者は、娯楽時間日常生活時間から区別することができるのである。

現実的な現実から虚構的な現実への境界横断を可能にするのは、こうした時間に基づく出来事の区別である。テクストや映像の内側には、現実的な現実など無い。想像的な世界だけが広がりを見せる。この想像的な世界では、社会的に行動を調整することの必要が無い。と言うのも、視聴覚的な現実のシーンを主題とした知覚刺激を受けるのは、社会システムではなく、心理システムだからだ。想像的な世界とは、他ならぬ心理システム構成した出来事なのである。それ故にこうした想像的な世界においては、ゲームそれ自体とは異なり、ルールという社会的な形式存在しない。しかしながら、心理システム知覚刺激を呈示しているのはマスメディアという社会システムである。だとすれば、やはり情報が必要となることになる。つまり、心理システム知覚刺激として呈示する情報が必要となるのだ。

ここで是非とも念頭に置いておきたいのは、娯楽の全てが虚構である訳ではないということである。登場人物や舞台背景は実在する場合がある。コナミデジタルエンタテインメントの『実況パワフルプロ野球』シリーズや『ウイニングイレブン(Winning Eleven)』シリーズなどのように、実在するスポーツ選手同士が衝突するゲームが、この具体例となるだろう。娯楽とはこの意味で、既存の知識を強化する効果があると言える。娯楽における実在する登場人物や舞台背景は、ニュースにおける<標準>のように機能する。しかし娯楽は、ニュースルポルタージュのように、教示や伝達を目的としている訳ではない。むしろ娯楽が既存の知識活用するのは、娯楽自身をそうした既存の知識から際立たせようとするためなのである。それは、とりわけ娯楽主題が、娯楽に参加する視聴者や享受者たちの経験の範囲を超える場合に言えることだ。『実況パワフルプロ野球』で現役の選手とOB選手を対決させた場合を想定してみて欲しい。全く異なる時代を生きた野球選手同士が闘った場合に、どのような名勝負が展開され、どのような物語が生み出されるのかなど、通常の日常を生きる我々には中々計り知れない。だからこそ『実況パワフルプロ野球』のプレイヤーは、ゲーム展開中になることができるのだ。

パイディアとルドゥスの差異

伝統的に「ゲーム(game)」という概念は、「遊戯(play)」の概念から区別されることによって認識されていた。この区別の前提にあるのは、社会学者ロジェ・カイヨワが提唱した「パイディア(Paidia)」と「ルドゥス(Ludus)」の差異である。

パイディアとは、戯れること、気晴らし、あるいは暇潰しを意味するギリシア語である。一方のルドゥスとは、競争、試合、あるいは闘技を意味するギリシア語だ。パイディアとは異なり、ルドゥスには明確なルールがある。ルドゥスの参加者たちは、勝利条件や禁止事項などを共有した上で参与しているのである。これに対して、パイディアには、こうしたルールは無い。ルドゥスには報酬をはじめとした外発的な動機付けが伴う傾向にある。だがパイディアにはこれが無い。パイディアの参加者たちは、あくまで自発的に戯れている。

遊戯とゲームの差異

カイヨワは、この区別遊戯ゲーム差異に対応させた。遊戯パイディアの如く、ゲームルドゥスの如く、それぞれ相反する質を持っている。例えばプロ野球は草野球に比してルドゥス的である。プロ野球には明確なルールがある。草野球のお遊びのように、飽きても途中で抜け出すような真似は許されない。プロ野球の場合、選手登録していない部外者が途中から介入することも許されない。プロ野球の場合、致命的な反則を繰り返せば、次の試合には出場できなくなる場合がある。だが草野球であれば、多少の反則を繰り返しても、その反則者を排除するような社会的な圧力は働かない。少なからずプロ野球と比べれば、草野球の自由度は高い。だがその代わりとして、プロ野球には金銭的な報酬が伴う。プロ野球選手は、その報酬に見合った活躍を示さなければならない。一方草野球には、そうした報酬は無い。あくまで草野球は、やりたい者がやる遊戯だ。

この遊戯ゲーム区別は、単純な識別に役立つだけではない。何はともあれ、遊戯ゲームを方向付けている。発達段階論進歩史観を盲信している者たちならば、草野球で遊んでいた子供がその技能を高め、甲子園に出場し、その後はプロ野球から大リーグへと成長していくサクセス・ストーリーを唱えるだろう。

しかし遊戯ゲームの関係は、こうした物語物語るような直線的な右肩上がりを指し示している訳ではない。パイディアとしての遊戯根源にあるのは、気晴らしと気儘な振る舞いへの欲求、即興と陽気に対応した原初的能力に他ならない。それは、それ自体としては何も生み出さない冗長的な活動である。それは機能的分化した社会の有用には還元されない無用な活動だ。それ故、何も生み出さないパイディア的な活動からルドゥス的な活動が生まれるという想定に、我々は疑問を持たなければならない。こうした気晴らしと気ままな振る舞いに対応している遊戯から厳密で明確なルールで構造化されたゲームが生じるまでの間には、ある種の飛躍が伴っている。それは進歩主義や発達段階論では説明の付かない創発的な飛躍である。

問題解決策:マスメディア・システムの社会的な機能

ニュースルポルタージュ広告、そして娯楽のようなマスメディアコミュニケーションの意義は、後続するコミュニケーションへと接続する際の諸前提を構成することにある。そうした諸前提は、同時にコミュニケートする必要の無い主題である。例えば価値、ライフスタイル、流行、時代遅れ、趣味の良しし、あるいはニュースの記事を主題とした2ちゃんねるの「まとめサイト」などにも該当する。このような背景から言えるのは、マスメディア社会的な機能となるのが、その「記憶」にあるということだ。

社会システムにおける記憶機能とは、情報の統合や情報の保存にあるのではない。むしろその機能は、特定の現実についての前提を既知の前提として取り扱うことを可能にすることなのである。社会システムのあらゆるコミュニケーションは、このマスメディア社会的な機能を享受することができる。マスメディア・システムは、社会的な記憶の処理に特化することによって、他のシステム社会的な記憶を改めて主題化させることの負担を軽減しているのである。

記憶は、あらゆるコミュニケーションにおいて機能する。それは既知の世界を参照しながら機能するシステムは、その都度観察している出来事が有意味か否かを区別している。そしてシステムは、あまりにも行き過ぎた情報を不確実な情報として却下していく。その際システムの拠り所となるのが、記憶なのだ。

ただしここでいう記憶は、絶え間なく更新されている。記憶は過去の状態や出来事の保存を意味しない。記憶機能は、忘却と想起の差異の絶え間なく更新させることにこそある。システムの許容量に余力が生じると、システムはより必要とされる意味をより多く処理することができるようになる。システムの許容量に余力があるということは、文化意味論に貯蓄されているより多くの主題意味処理規則再利用することができるということである。それは、文化意味論の貯蓄物をより多く想起できることと等しい。

故に想起としての記憶は、システムの反復的で重複的な作動を可能にする。しかしながら、システムの許容量には限界がある。もはや余力が無い場合には、システム内部に包摂している諸要素を排除しなければならない。想起として記憶に対して、忘却としての記憶は、まさにこのために機能するシステムは、既存の諸要素の一部を忘却することによって、新たな想起を可能にしているのだ。故に記憶は、それ自体システム作動の閉鎖性の一環でありながら、システムの新しい諸要素に対する継続的な開放可能にしている。また記憶は、常に更新されながら刺激され易くなっている状態を維持している。

これを前提とすれば、社会的な記憶の処理に特化した機能システムとしてのマスメディアは、情報記憶している者から情報記憶していない者へと情報を伝達する機能を持っているのではない。そうではなく、マスメディアという機能システムは、社会システムの諸要素を想起と忘却形式で整理しているのである。マスメディア・システム社会的に機能することによって、社会システムはその許容量が許す限りで文化意味論の貯蓄物をより多く想起することが可能になる。またマスメディア・システム社会的に機能することによって、社会システム現実的に不要となった文化意味論の貯蓄物を忘却することができるようになる。この想起と忘却循環させることで、社会システムはより状況に適合し得る意味処理規則意味論から引き出すことも可能になる。マスメディア・システムがこうした機能を順調に全うしているのならば、社会システムは新しい状況に向けて開放的になることもできるだろう。

マスメディア批判のパラドックス

したがって、機能システムとしてのマスメディアが偏向報道をはじめとした「情報操作」に着手していると批判することは、不適切である。そうした批判コミュニケーションである以上、社会的な記憶の処理というマスメディア機能に依存していることになる。マスメディアによる「情報操作」が無ければ、コミュニケーションは円滑に進まなくなるのだ。

動画配信サイトやソーシャルメディアマスメディア批判するタレントやタレント教授は、この関連からパラドックスに陥っている。彼らはテレビ局の外から「報道社の責任」を指摘することで、マスメディアに対する期待外れ意識を表明している。テレビ局新聞社に対する期待外れを露わにし、「テレビでは言えない真実」をあえて主題にすることによって、マスメディアは本来「真実」を報道する洗練された機関であるべきだという規範的な期待を突き付けたい訳だ。

だが実際は、多くの大衆が彼らをフォローしている。動画配信サイトやソーシャルメディアは、今や立派なマスメディアとなった。ただテレビ局新聞社のような組織システムが連携してないだけであって、彼らのコミュニケーションそのものは、機能システムとしてのマスメディア機能的等価物となっている。実際、「テレビでは言えない真実」を主題にすれば、テレビ局組織システムが潜在化してきた問題を顕在化する程度には、マスメディア的に機能するだろう。マスメディア批判者たちは、マスメディア機能的問題領域の問題設定を自明視すると共に、マスメディア・システムによる問題解決策が有用であるという社会的な認識の普及に貢献しているのである。

しかしながら一方で、近代社会外部環境に位置する運動というシステムはーーかなり好意的にればの話だがーーこのパラドックス脱パラドックス化する潜在能力を有している。社会運動は、マスメディア・システム機能に依拠することで近代社会忘却することとなった主題を改めて再び問題として主題化することができる。だが、社会運動が如何に忘れられた主題を問題として展示しても、それだけで近代社会がその主題を想起するとは限らない。近代社会社会運動によって突き付けられた問題を主題として想起するためには、マスメディア・システムの作動が必要になる。それ故、マスメディア・システム社会運動要求忘却された主題として却下し続ければ、近代社会社会運動要求を無視し続けるということになる。

こうしてれば、運動というシステムにおけるオートポイエーシス不確実性が浮き彫りとなってくる。運動という社会システムもまたコミュニケーションである。社会運動機能的な分化という近代の社会構造に徹底的に抗うというのならば、無論マスメディア・システム社会的な機能にも依拠してはならないということになる。この意味社会運動は、マスメディア・システムが軽減してくれるはずの負担を背負い込まなければならなくなる。つまり社会運動は、想起と忘却形式で自らの諸要素を自らで整理し続けていかなければならないのだ。そうすることによって、社会運動対抗文化に見合う主題意味処理規則を自的に調達していかなければならない。この過剰な負担に耐久し得たとしても、社会運動が成果を生み出す見込みは限られている。何故なら皮肉なことに、運動の成功はマスメディアの「情報操作」に左右されてしまうからだ。

派生問題:政治システムの中

社会運動自己矛盾は、それが機能的な分化を遂げた近代社会の社会構造否定しているにも拘らず、その運動が社会構造に依存して成立している点にある。しかしこの自己矛盾は、いわゆる政治的活動には適用されない。既得権益や集合的な拘束力を伴わせた権力者を否定するという意味では、確かに社会運動政治的活動共通している。だが政治的活動否定しているのは、近代社会の社会構造ではない。政治的活動の主導的差異は、近代社会の内部と外部の区別から構成されている訳ではないのである。

政治的活動は、国家社会区別から主導的差異構成している。政治的活動は、あくまでも「社会」の側から、既存の「国家」を否定しているのである。したがって政治的活動は、近代社会近代社会に対する自己言及的コミュニケーションとして構成されている。その機能的問題領域は政治に他ならない。政治システム(politisches System)は、近代社会機能的分化したサブシステムの一種である。

政治的活動政治システムの作動である以上、政治的活動は、政党議会における政治コミュニケーションと同じように、マスメディア・システム構造的な結合を結実させていると考えざるを得ない。政治的活動による国家に対する否定は、マスメディアを介して構成される世論を通して形式化される場合もある。また、政治的活動を担う各人格が、政党をはじめとする組織システム構成員になることも、何一つ不思議なことではない。

重要なのは、こうした政治システムとしての政治的活動テレビ局新聞社のようなマスメディア・システム構造的な結合を成り立たせている場合には、社会的な記憶を司るマスメディア社会的な機能が、国家社会区別によって単純化されてしまうということである。この状態では、さも「社会」の諸問題の原因責任が「国家」にあるなどといった具合に、問題設定の認識の範囲を予め狭めてしまうことになる。言わば「国家」の概念は、政治的活動を成立させるための「仮想」程度の概念へと単純化されるのである。その結果、いざ既存の政権を否定し続けてきた政党構成員に政権が委ねられたとしても、「国家」の否定しかできていなかった者たちによるその後の「社会」政策は陳腐な水準に留まる傾向にある。既存の国家否定しかできない活動から機能する代替案が生み出されると期待するのは、彼らと同じ理想を共有する者たちだけであろう。

これを前提とすれば、まず「国家」と「社会」の区別棄却して構わないことがわかる。社会システム理論は、この区別棄却の手掛かりを提供している。近代社会の社会構造社会システム理論的に分析するなら、「国家」は「社会」の内部に、とりわけ政治システムの中に位置することが判明する。それどころか、近代「社会」の内部に位置する政治的活動が近代「社会」の内部に位置するはずの「国家」を「社会」の外部に位置するかのように観察することが、如何にして可能になっているのかも明確化してくれる。

問題解決策:政治システムの自己記述としての国家

15世紀から18世紀のヨーロッパでは、「国家(state)」はラテン語の「スタトゥス(status)」のように、財政、軍事的資産、対外的かつ対内的な諸関係などを含めて、単に現状の政治権力の状態を意味していた。しかし、19世紀に至るまでの概念史では、この国家という概念は、「政治的なるもの(des Polotischen)」の概念から分断されてしまっている。これらの概念は互いに接点を見失っているのである。これに対して社会システム理論は、この国家政治的なるもの差異社会構造意味論の関連から整理した上で、再記述することを可能にする。社会システム理論では、まずは政治的なるものが、「システム」として記述されることになる。

政治システムという概念は、主に政治学や社会学で主題になっている。一方、少なからずヨーロッパの的言説では、国家の概念の方が政治の概念よりも好まれる傾向にある。社会システム理論的に政治システムを記述する場合、それは経済システム、科学・学問システム教育システム法システムなどのような様々な社会機能システムの一種として位置付けられることになる。一方、的言説における国家意味論では、全体社会機能的な分化という区別ではなく、国家社会区別が導入される。この区別が導入される場合、国家社会を構築する素材構成する私的欲求や私的利害関心とは区別される。国家人や集合行為者であると認識される。この区別が、にとっての、的帰責に関連する条件となるのである。無論この想定は、社会科学の観点かられば、構成した一種の虚構であることになる。社会的な現実における国家とは、公的官僚制以外の何物でもない。それは議会、裁判所、学校、そして公共サービスが担当区域となる一方で、政党、インタレストグループ、政治的目標を追求する社会運動、あるいは有権者さえも、国家の領域からは排除される。これらの存在は、国家の外部から国家に入力(input)を与えるという訳だ。こうした存在政治システム存在を認識するのは、政治的な権力の中心として国家が言及される場合に限られる。

社会システム理論は、こうした国家の内外の区別をまず棄却している。そして、単純な入出力関係は容認しない。政治システム社会システム理論的に観察する場合、国家とは、政治システム自己記述として構成された概念となる。複合的な諸システム、System of Systemsは、社会システムにおける進化の所産である。社会システム理論的に言えば、社会進化とは、システム分化の増大を意味する。それは、社会分化することで、その複合性の縮減を実現していることを意味するのではない。むしろ社会は、分化することで更にその複合性を増大させている。自己言及的システムは、自らの複合性を利用する能力を次第に喪失していく。そして外部環境に対する如何なる適応的な機構も構築できないとなれば、システムは瓦解することになるであろう。

それぞれのシステムは、自らの複合性システムの目的を達成するための手段として利用することができない。何故ならそれぞれのシステムは、自らの複合性システムの内部に導入することが不可能であるためである。それは、本来の複合性反射させて、倍加させ、超複合的(Hyperkomplex)なものにしてしまう。それ故、システムの内部におけるシステムに関連するあらゆる自己言及とそのコミュニケーションは、自己自身を単純化させる装置を必要とする。それは自己自身の複合性の縮減可能にする機構である。つまり、政治システムにおけるある種の自己同一性(Identität, identity)を可能にする機構が求められるのである。そして、政治システムにおけるこの自己同一性(Sichselbstgleichheit)の機構を担うのが、国家なのである。

このシステム自己同一性は、システム自己記述によって可能になる。複合的なシステム自己記述によって実現するのは、自己自身の分化の増大と分化した各サブシステムにおける複合性の増大を背景に、自己単純化装置としての概念の意味論展開することである。

これを前提とすれば、国家は、政治システムのサブシステムではない。それは政治の部分ではないのである。国家は、公的官僚制でもなければ、それぞれの決定が帰責される集合人格という的な虚構に尽きる訳でもない。それは政治的な行為参照点として、政治システムに再導入(re-entry)された政治システムである。

このような政治社会システム理論的な記述は、国家歴史意味論政治システム社会構造との関連を明確化する。この理論的な視点かられば、立憲国家(Verfassungsstaat)が政治システムの一つの特殊ケースであることの意味が明確化する。この観点は、福祉国家(Wohlfahrtsstaat)に関連した諸問題を設定して、政治の中核的な機能である集合的な拘束力を有した意思決定に潜むパラドックスを解明する。

問題解決策:歴史的な概念としての国家

中世までのヨーロッパ社会では、政治の単位は人格集合体を超えるものではなかった。それは未だ、経済から独立してはいなかった。それが中世後期になると、徐々に政治の単位が人格から領土へと移り変わっていった。宗教改革を待つまでもなく、教会の公的な方針に対すると味方の区別は、政治の単位の一つとなっていた。そしてこのと味方の区別によって、政治宗教分化が促された。結果的に政治組織は、固定的な境界の内部で国々を統治することで、独立した絶対的な主権を維持しようと試みた。だが政治システムは、それ故にますます複合性を増大させた。そしてそれ故に政治システムは、それ自体の統一を表す代表を必要とした。

フリードリッヒ・ヘーゲルにとってすら、君主は不可欠な象徴となっていた。君主は必ずしも強力な人格であると認識されていた訳ではない。しかし、その人格に備わる不可分によって、君主は複合的なシステム統一代理表象する概念として認識されていたのである。

以上の事態は、システム分化の増大が各システム複合性を増大させる事態の一例である。そして当初の政治システムにおいては、統一象徴としての君主の概念が、自己記述複合性の縮減可能にしていた。しかしながら、自己記述可能にする概念は、社会構造意味論に方向付けられる形で、次第に変異していくことになる。

もとより、国家が発現したのが中世後期なのか16世紀なのかは議論の余地がある。しかしいずれにせよ、意味論的な概念の形式化は、社会構造変異に対して相対的に遅れて到来する。特別な国家理性に関する議論は、ルーマンによれば、火よりも煙を生じさせるものであった。煙として振り撒かれたのは、特定の情勢、特定の責務、特定の公益が、道徳による制限を如何にして免除され得るのかという問題である。言い換えればそれは、中世に由来する「特例(derogation)」の問題である。

この「特例」の問題を解決することの難易度は、後に「国家緊急権(ius eminens)」と呼ばれる事象との関連から増大している。それは、特例と非特例区別する上での可能性の諸条件を整理することが困難になったことを意味する。これは君主の私的利害関心と公共福祉の配慮とを強く分離することが困難になったことの表れでもある。それは、少なからず即座に政治システム自己記述可能にする上では、阻害要因となった。

国家概念の意味論は、この関連から変異した。それまで国家は、他の何かの状態を形容する概念であった。しかしそれは間も無く、それ自体の目的を表す用語となる。それは、政治的目標と活動の多様統一する概念となった。

尤も18世紀は、尚も旧い市民社会意味論を保持していた。それ故この時代における新しい国家意味論は、非常に広い意味での「政治的なるもの」から区別されていた。19世紀は、その帰結として、政治国家に関連する事柄の全てであると規定されるようになる。

かくして、国家歴史的な概念となった。それは、それぞれの時代の社会構造との関連から、その意味論変異させる概念である。それは歴史において差異を生む。それによりその意味論は、社会構造変異を方向付ける。しかし、近代社会における各時代の国家意味論は、取りも直さず、近代国家の概念についての意味論である。それ故にこの国家意味論は、後続の近代社会の社会構造との関連からも、国家の概念を方向付けることになる。

問題解決策:脱パラドックス化の形式としての立憲国家

システム自己記述は、システム自己同一性形式化する。しかしながら、自己同一性は、差異を設定することによってのみ成り立つ。同一性とは、差異同一性差異によって構成されているためである。したがって、自己同一性に関わる概念の歴史意味論は、様々な<区別区別>の概念史となる。古代における市民社会では、ポリティア(politeia)とポリツァイ(Polizery)の区別が、非文明的な野蛮状態との差異を前提としていた。18世紀は、分業の導入によって成立した自然状態と文明の区別によって、市民社会形式可能にする差異再構成していた。かくしてヨーロッパ社会は、自己自身を自然状態から文明へと進歩していく存在として記述することを可能にしてきた。

これらの<区別区別>に基づく記述は全て、全体社会自己記述である。国家の概念は、この全体社会自己記述との関連から形式化され続けた。そしてこの進歩史観における国家意味論は、新しい位置関係を得る。それはもはや政治社会それ自体として想定されるのではなく、国家社会区別を主導的差異として扱う。市民社会における伝統的な意味論比較すれば、それはもはや対外的な差異ではなく、対内的な差異となる。対内的であるというのは、システムシステム内部に対してのことである。要するに対内的であるというのは、自己言及的であるということなのだ。この意味で、この意味論によって形式化される国家概念こそが、政治システム自己記述として機能することになったのである。

この国家概念の意味論的な変異は、「立憲国家」の土台を築き上げた。政治神学的な言い回しを借用するなら、憲法主権を自ら限定するという奇跡を演出する形式として仮定された。この意味憲法とは、一つの文書の中で、制限と非制限の双方を結び付けるパラドックス化した制度である。憲法は、<制限している/制限されているもの>と<制限していない/制限されていないもの>を緩やかに結び付けるメディアとなる。

しかしこの憲法パラドックスは、君主憲法を授与しなければならない都合から、論理的な不可能性として認識されるのではなく、ただ政治闘争の産物として理解されてきた。つまり、憲法が原理的にパラドックス化しているからこそ、この問題に向き合う機能システムが必要となるという訳だ。そうした機能システムは、まさに自らが専門とする問題が解決可能であることを以って存続する。問題を解決するためのシステムは、問題が残存し続けることを糧として延命するのである。こうして、パラドックスを抱え込む憲法の営みそのものが、政治的問題領域の可能性とその諸条件を規定する一つの政治的なコミュニケーションとして認識されるようになったのである。

こうした機能システムとしての政治におけるコミュニケーションでは、憲法国家の属として認知される。国家はその憲法によって識別し得る一つの実体として参照されるようになる。国家憲法はこの限りで相互に補完し合う存在となった。政治の場において、パラドックスという論理的な問題が実際上有害な問題となることは無い。それはむしろ政治的な抵抗を遮断する上で機能した。その帰結が、いわゆる「民主主義的な」政治的権力機構なのである。

問題解決策:与党と野党の区別

18世紀初期まで続いていた国家類型の学説は、18世紀後半になると、憲法によって明示的に規定された権力分立の問題へと移り変わっていった。この問題設定の枠組みでは、旧来の国家概念に対して自由な意味付けが可能になった。とりわけその主導的概念となったのは、「民主主義(Demokratie)」である。民主主義的であるということは、国家という形式構成され、国家として承認されているあらゆる人工物に対する規範的な要求となった。この関連から、「選挙(Wahlen)」が実践されているのは、民主主義的な国家が実現していることの表れとして観察されるようになった。

この社会構造変異は、階層的な分化から機能的な分化への変異として進められた。政治システム機能的分化する際に導入されていた二値コードは当初、権力上の優位(macht überlegen)と劣位(macht unterlegen)の区別によって構成されていた。その際、政治機能的問題領域に導入されたのは、如何なる場合にも権力上の優位構成することが如何にして可能になるのかという問題であった。権力分立、そして機能的な分化による社会構造の脱中心化によって、政治システムにおける最上位の権力は弱体化を余儀無くされた。それは、尽く欠点として、あるいは不確実性の契機として、権力保持者を失脚に追いやる試みとして認識される傾向にあった。だが公職者たちだけは例外的に、こうした不確実性とは距離を取ることを可能にしていた。その結果、公職者の権力の所在が顕在的な状態になった。だが権力の顕在化は、対抗権力の顕在化を招く。権力保持者たちは、自らを危険に曝すという代償を支払うことになった。

民主主義意味論は、こうした社会構造上の問題を再設定する機能を有してきた。民主主義意味論は、これまで政治システム社会構造に導入されていた二値コードである権力上の優位と劣位区別を「与党(Regierung)」と「野党(Opposition)」の二値コードで再記述することを可能にした。民主主義化は、まさに中心として重要な意思決定が下されるからこそ、システムの中心を周辺へと接続させる際の出発点と見做せる。民主主義的な決定は、中心と周辺の区別を中心の側へと再導入(re-entry)することによって、<現在中心として統治している権力保持者が考慮される場合>と<それ以外の周辺の権力保持者が考慮される場合>の双方を同時に指し示すことを可能にした。民主主義的な制度が可能にしているのは、この中心と周辺の接続を中心で実践することによって、危険な争いを回避した状態で職務執行の交代を成し遂げることなのである。

この<中心の権力保持者>と<周辺の権力保持者>という区別されている双方を同時に指し示すという形式は、専ら政治システム二値コードとして構造化されることとなる。すなわち、この民主主義の制度化によって、政治システム権力上の優位と劣位という二値コード与党野党二値コードに転換したのである。

与党野党二値コード選好を伴わせるコードである。つまり、野党よりも与党の方が集合的に拘束力のある意思決定を下せる公職に就くことが好まれる。野党は、批判や愚痴によって、政治的な意思決定必然性否定することで、その偶発性反省することができる。与党野党区別は、一方が他方を条件付ける関連にあることを示している。この区別だけが、それぞれの値に意味を付与する。あらゆる区別に言えることだが、区別が導入されているということは、双方が同時に指し示されているということである。たとえ一方のみを明示しているとしても、この二値コードが前提となる場合には、他方を暗示していることになる。

与党は、政治的に何らかの政策を実践する場合には、常にそれが野党にとってどのような可能性を生じさせるのか、どのような対抗する批判的な記述が提供されるのか、成功する可能性と失敗する可能性がどれほどあり得るのかを考慮に入れなければならない。野党政治は、こうした与党の政策活動に依存した状態で進められる。野党は、与党の政策実践が偶発的であるという前提から、別のあり方でもあり得る政策を探索する。野党は常に与党の注意力が不十分であることを考慮に入れた上で、与党の政策実践を否定する。

この社会システム理論的な記述が抽象的であるように思えるのは、与党野党二値コードが、そもそもにおいて抽象化されているためである。与党野党二値コード可能にしているのは、一方から他方への横断、あるいは一方から他方への転換を容易にすることなのである。それは丁度、非所有者から所有者へ、所有者から非所有者へと転換するためにはただ契約を結べば良いだけの経済システムとよく似ている。権力それ自体は、こうした相互の転換を容易にはしていない。主人が奴隷として振る舞うことも、奴隷が主人として振る舞うことも、容易ではないのである。これに対して、与党野党区別は、与党にとってのプラスが常に野党にとってのマイナスとなるという差異構成している。これらの正負の値に重み付けを与えるのが、二値コードプログラムとなる「綱領(Manifest)」である。プログラム二値コードの恣意を制限している。だからこそ、綱領を基点とすることで、与党の側と野党の側のそれぞれが逆方向でそれを評価することも可能にするのである。政権交代は、各値の正負を逆転させるだけで成り立つ。

民主主義の核心にあるのは選挙であるという発想は、選挙が人民による人民自身に対する支配を保証する形式であるという発想に基づいている。与党野党を相互に交替可能な概念として記述する社会システム理論は、これとは別の理由から、選挙機能を分析している。選挙は、公職権力の交替可能性を規定する。その際重要となるのは、選挙が、政治的には制御され得ないということである。選挙は、自由かつ秘密裡に実施される。故に選挙は、政治システムに未知の未来を突き付ける。つまり選挙機能は、政治システムに自らの不確実性構成する契機を呈示することなのである。ただしそれは、選挙政治制御できるということを意味する訳ではない。選挙は言わば、政治システム外部環境による攪乱となる。だがその刺激に対して如何に反応するのかは、政治システム自身が決めることだ。選挙期間中、政治システム外部環境の攪乱要因に対する外部言及を実行する。だがそれは、外部に言及している自己への言及なのである。あくまで選挙によって可能になる未知の未来に対する開放は、政治システムにおける作動の閉鎖性が確保されているからこそ可能になる。

派生問題:憲法は如何にして可能になったのか

ここまでの記述は、ありふれた歴史認識を社会システム理論的に再記述した内容に過ぎない。我々の問題との関連で言えば、まだ疑問は残っている。それは、国家政治システムの再組織化に利用することが如何にして可能になったのかである。この国家概念という政治システム自己記述が、基本的人権権力分立の抵抗、公職選挙などを含めた複合的な憲法の諸規定の枠組みを如何にして構成し得たのかが、まだとして残されている。

問題解決策:政治システムの再導入

これに対する問題解決策となるのは、「再導入(re-entry)」という論理学概念である。システムは、システム外部環境差異システムの内部に再導入することによって、自らを観察して記述することを可能にする。システムは、システム外部環境区別に方向付けられることによって、情報を処理することを可能にする。システムは、システム外部環境差異境界を知るだけではなく、その差異システム内部に導入された区別として、その差異同一性を利用することによって制御することもできる。

この再導入という概念を前提とするなら、国家社会区別は、憲法とその解釈のための前提の重要な要素となった。政治システムは、<社会の内部>に位置しながら、<政治システム自身の自己記述としての国家>を<社会の外部>に位置するかのように記述することで、<社会システム外部環境区別>を<社会システムとしての政治システムの内部>に再導入する。立憲国家は、この作動上のパラドックスに対する形式となる。

しかし政治システムの作動を安定化させるには、このパラドックス脱パラドックス化されなければならない。脱パラドックス化は、区別を導入することで実現する。つまり、一方と他方を区別することで、パラドックス化しているのは一方であり他方ではないという形式的な境界線を引くのである。だが、問題を派生させない問題解決策があり得ないように、パラドックスを派生させない脱パラドックス化もあり得ない。脱パラドックス化とは、パラドックスを別様の形式に変換することを意味する。国家のそれ自体パラドックス化されている憲法の制度は、この意味で、政治システムに再導入された国家というパラドックス脱パラドックス化するために機能していたと考えられる。

派生問題:マッチポンプとしての福祉国家

後にこの立憲国家は、政治システムの――進歩ではなく――進化が進行したことによって、福祉国家へと変異することとなる。これは、国家がその憲法を維持できなくなったということを意味するのではない。無論、国家憲法を必要としなくなったことを表すのでもない。立憲国家から福祉国家への移行が意味するのは、憲法規範では解決可能な新しい諸問題が生起したということである。

この立憲国家から福祉国家への移行は、政治システム自己記述意味論変異が生じたことも言い表している。既に述べたように、立憲国家的な外観と再導入のパラドックスを抱えて作動している。このパラドックスを絶えず脱パラドックス化し続けることで、立憲国家の表層が保たれている。一方、福祉国家はこのパラドックス脱パラドックス化の関連を展開して、そこに新しい形式を導入している。

通常、福祉国家が記述される場合は、国家責任歴史的に強まっているという経緯が主題となる。福祉国家で描かれる我々の日常生活は、増大する財政負担、官僚制度と制度、そして国家制御された諸々の決定に依存しているとされる。福祉国家として記述された国家では、進歩の是非は問わずとも、その発展無限に持続する訳ではないという現実を前提とした上で、進歩に組み込まれた危機的状況が主題となるのである。

言い換えれば、福祉国家とは危機的状況にある国家である。しかしそれは必ずしも絶望的な状況を問題視している訳ではない。と言うのも、福祉国家においては、弱者を擁護して保護する立場を表明することによって、自身の政治的な優位を獲得すると共に、国家に政権交代のような変異をもたらすと期待できる国家でもあるためだ。

もう少しアイロニカルに言い換えるなら、福祉国家とは、自らの権力を維持または増強しようとする者たちが、国家危機的状況を願う国家である。

しかしこの指摘は、立憲国家に対する先の分析とは異なり、パラドックス発見に資する訳ではない。社会の<持続する成長>とは、パラドックスではなく、単に不可能なだけだ。ルーマンも述べているように、ここで問題となるのはむしろ、社会システムとその外部環境に対する政治システム影響力が増大している点である。政治システムが関与する主題が増えれば、それだけ政治的な問題解決策展開される領域を広げることになる。問題が解決策をもたらすのならば、解決策は新たな問題を派生させる。しかしそうした派生問題は、政治的な政策の帰結でもある。それは副作用として、政治システムフィードバックされる。しかも政治システムは公約をはじめとした既存の目標を維持し続けなければならない。政治社会的な機能である集合的な拘束力を有した意思決定は、決定者自身をも拘束する。だからこそ、この派生問題のフィードバックは物事をより困難にしていく。

問題解決策:リスクと危険の区別

ルーマンのこの問題意識は、彼自身が導入している「リスク(Risk)」と「危険(Danger)」の区別によって展開することができる。このリスク危険区別は、社会システム理論の主導的差異であるシステム外部環境区別を前提としている。社会システム理論的に言えば、外部環境との差異構成することで自己言及的に作動するオートポイエーシス的なシステムにとって、福祉国家が想定する諸問題は外部環境による刺激の一つとなる。その刺激の内容はどうあれ、その刺激はシステムの状態変化を伴わせる。ただし、システムが如何にその刺激の影響を被るのかは、システムそれ自体が自己言及的に規定することである。システムの状態変化がシステム自身に帰属される場合、システムはその状態変化をシステム自身の「行為(handlung)」による状態変化として意味付ける。一方、その状態変化が外部環境に帰属される場合には、システムはその状態変化を外部環境の「体験(erleben)」として意味付ける。

この「行為」と「体験」の区別を前提とすれば、リスクは、自らの意思決定という「行為」によって派生する諸問題である。その一方で危険は、そうした自らの判断とは無関連に「体験」せざるを得なくなる諸問題である。通常ならば我々は「リスク」と「安全」を区別している。だがルーマンのこの区別が言い表すのは、<より顕在的な問題>としてのリスクと<より潜在的な問題>としての危険差異である。我々がリスクを顕在的な問題として発見できるのは、その時には発見することのできない潜在的な問題に盲目的になっているためである。全ての問題を一時に発見し尽くすことなどできはしない。発見可能な問題と発見可能な問題を何処かで線引きしなければ、リスク観察など不可能なのである。しかし、あるシステム意思決定が「リスク」を取る「行為」となる時、他のシステムはその意思決定影響を被ることによって、その「危険」を「体験」せざるを得なくなる場合がある。だがその「体験」に関わるシステムもまた、その「危険」に相対するための意思決定を下すことができる。その時、意思決定者としてのシステム決定の被影響者としてのシステムは、立場を相互に入れ替えることになる。「リスク」を取る「行為」を選択していたシステムが、今度は「危険」を「体験」することになるのだ。こうして、意思決定の「行為」に関わるシステムが複合化すれば、<より顕在的な問題>と<より潜在的な問題>の様相もまた複合化する。

このリスク危険差異行為体験差異を前提とするなら、政治的問題領域が拡大していく福祉国家の傾向は、まさに福祉国家の諸問題を解決しようとする政治システムそれ自体のリスクを孕む意思決定行為」によって、政治システム外部環境に位置する人間が「危険」を「体験」せざるを得なくなっていることがわかる。そうした「危険」の「体験」は、たとえそれまでは個人の「リスク」と見做すことも可能であった諸問題をも、福祉国家の諸問題として再記述することを可能にしていく。怪我、病気、出産、失業をはじめとした生活上の諸問題も、今や貧困者を対象とした社会保障制度の解決すべき諸問題として再記述されている。

したがって福祉国家とは、以上のようなマッチポンプによって、政治的問題領域の肥大化を促進する国家意味する。その際、福祉国家救済されると想定されている貧困者たちは、<より潜在的な問題>となる危険に曝され続けることになる。彼ら彼女らは意思決定主体ではない。むしろそうした決定の被影響者であり続ける。問題が問題解決を生み出し、問題解決が問題を生み出すという図式は、以上のようなマッチポンプによって形式化される。

脱パラドックス化の形式としての時間

こうしたマッチポンプ的なパラドックスは、主に時間によって脱パラドックス化されている。それぞれの意思決定時間区別すれば、それぞれの意思決定によって派生する問題の発生時間差異化することができる。すると意思決定者たちは、「危険」と隣り合わせであるように思える意思決定を先送りすることもできるようになる。あえて意思決定を先送りにすることは、その意思決定によって派生する危険な諸問題を回避することを可能にする。「リスク」を冒さず時間を稼ぐ意思決定者の振る舞いは、決定の被影響者たちを「危険」に曝させないための重要な戦略となり得る。問題を解決しようとしないこともまた、一つの問題解決策として機能し得る訳だ。

だが社会システム理論的に言えば、脱パラドックス化は、また別様のパラドックスを派生させる。この場合、あえて意思決定を先送りにすることもまた、一つの意思決定として機能してしまうという点に、パラドックスが孕んでいる。あえて意思決定を先送りにするという意思決定によって派生する「危険」は、政治における意思決定の遅延の問題として派生する。それは、今まさに危険に曝されている者たちの救済の瞬間を逃すことに結び付いてしまうのである。

問題解決策:政治問題と社会問題の区別

以上のマスメディア政治におけるシステム作動の実態を確認するなら、「国家」を否定し弱者の救済を願う政治的活動たちが主題化する社会問題は、概ね現代が福祉国家であるが故に設定された問題に過ぎない。繰り返すように、福祉国家とは危機的状況にある国家である。しかしそれは必ずしも絶望的な状況を問題視している訳ではない。と言うのも、福祉国家とは、弱者を擁護して保護する立場を表明することによって、自身の政治的な優位を獲得すると共に、国家に政権交代のような変異をもたらすと期待できる国家でもあるためだ。福祉国家とは、自らの権力を維持または増強しようとする者たちが、国家危機的状況を願う国家である。

したがって、政治的活動たちが取り上げる問題は、話半分に聞いておくのが丁度良い。そうした活動たちは、福祉国家ゆえに可能となった政治問題を全体社会の問題であるかのように誇張する。しかし、そうした諸問題を全体の問題として設定する必然性は、何処にも無いのである。むしろそうした活動たちの声は、政治とは区別される他の機能的問題領域に潜在化している諸問題を聴取する上で、雑音となってしまう。

政治問題主題にすることは、選択可能ではあるものの、必然的ではない。この意味政治問題主題設定は、偶発的選択となる。むしろ社会システム理論が記述する機能的な分化という社会構造との関連から、関連する諸概念の歴史意味論社会進化論的な長期的展望から観察することの方が、社会の諸問題に関する実り多き発見可能にするであろう。

派生問題:政治的な決定者の「合意形成」は如何にして可能になるのか

福祉国家における政治問題社会問題区別を導入した場合、福祉国家における「危機」は、偶発的な概念となる。福祉国家における「危機」が全体社会における問題から区別される場合、社会における問題設定は、福祉国家における諸問題とは異なり、別のあり方でもあり得ることになる。逆に言えば、政治問題社会問題差異を度外視することの利点は、問題設定についての「合意(Konsensus)」が得られるという点である。こうした盲目的な合意形成が達成されているのならば、社会は、もはや別のあり方でもあり得る問題に注意を払わなくても良くなる。しかしそうした合意形成もまた、選択の産物に過ぎない。それはリスク危険区別を前提とした意思決定でもある。

ユルゲン・ハーバーマスは、近代社会の共同体が「同一性危機(identity crisis)」に直面しているという問題設定から、システム統一社会統一区別を導入することで、福祉国家危機規範正統性危機として定義した。ハーバーマスはこの危機を彼のコミュニケーション的行為理論によって記述しようとする。

1970年代前半のハーバーマスによれば、「福祉国家危機」は二つの要素から構成されている。その要素はいずれも危機の要素である。第一の要素は、合理性危機である。福祉国家では、国家に過大な要求が課せられる。それは資本主義社会内部の階級的な対立を調停するための福祉介入として要請される。だがその代償として社会は、経済不況や財政危機に直面することになる。第二の要素は、正統性危機である。国家介入は、市民の自的な公共圏への侵食を意味する。市民の自が喪失するのは、国家の過度な介入が続くことによって、市民が国家無しに生き永らえなくなるためである。

一方、1970年代後半のハーバーマスは、論ルーマンの社会システム理論影響から、近代社会危機は単純には定義できないことに気付く。ルーマンによれば、社会システム危機存在しない。と言うのも、近代社会危機と呼ばれているのは、社会危機ではなく、社会理論危機であるためだ。そうした社会についての批判理論は、理論の失敗以上のことを指し示している訳ではない。批判的な意識とは、理解する前に騒ぎ立てる者たちの反応に過ぎないのである。

等価機能主義的な社会システム理論が記述するように、近代社会の社会構造機能的な分化している。それは<一体の理性>によって統一されているのではなく、様々な機能的問題領域のサブシステムによって構成されている。社会契約のように、システムを統合する「合意(Konsensus)」はあり得ない。社会機能不全は、それぞれの機能的問題領域における問題解決策の失敗で留まる。批判的な意識によって観察される機能不全は、全体社会機能不全ではない。全体社会機能不全を俯瞰する超越的な観点などありはしないのである。

この関連からハーバーマスは、社会システム統一があり得ないというルーマンの批判を迂回するかのように社会システム統一性から区別された規範正統性の概念を導入することになる。ハーバーマスによれば、システム機能するためには、生活世界を謳歌する人々が自己同一性社会的な秩序に対する信頼が醸成されていなければならない。人間は、意味に対する了解を抱くことで、社会システムを支える動機を得る。ところが、国家介入領域が拡大すれば、人々は経済や行政に消極的に従属するだけで、こうした動機が調達されなくなる。そうした動機付け無き受動化は、規範的な水準における正統性危機となる。

派生問題:マスメディアの公共性は如何にして可能になっているのか

近代社会機能的な分化という社会構造を前提にすれば、理性的合意による一体感を重視するハーバーマスは更に不利な立場に立たされる。そこでハーバーマスが目に付けたのは、マスメディアの「公共圏(Öffentlichkeit)」であった。それはコミュニケーション的行為における相互主観性拡張させる。そして、機能的分化した近代社会でも尚、マス・コミュニケーション共通意識形成する機能があるという。

ここでいう公共圏とは、了解志向のコミュニケーションが成立する場を意味する。そしてここでいう共通意識は、主題意見に基づいて分類され、集積される集合的な意識だ。この共通意識マスメディアを介して明示化されると、それ自体が他の公共圏に対して公的に開かれた公共圏を実現することが可能になる。社会には、ローカルな公共圏、グローバルな公共圏文学公共圏、科学的公共圏、あるいは政治公共圏など、様々な公共圏のネットワークが形成されるというのだ。

ハーバーマスは、こうしたネットワークの部分に位置するそれぞれの公共圏が包括的に交差することによって、社会の全体を把握する集団的な一体感が形成されると主張する。それにより社会全体は、社会それ自体を知ることが可能になるという。だがハーバーマスは、やはり理性的な合意形成中になっていたようだ。だからこそハーバーマスは、マス・コミュニケーションに通じる公衆公共圏啓蒙主義時代の出版ジャーナリズムに到底追いついていないという事態に、アレルギー反応を起こしてしまうのである。

ハーバーマスは、公共の場における合理的な対話から理性的な合意形成を志向する世論機能的分化社会形式的なコミュニケーション・メディアから構成されている機能システムとを区別しようとする。合意を等閑視するメディアは、世論として認められないのだという。しかしメディア世論の全体が合意形成の信者である必要は、全く無い。合意形成の信者になることへの合意形成されていない以上、「意見の不一致」はいずれにせよ伴うであろう。だから合意形成信者たちは現実に落胆する。そうなれば、もはや現存する世論は「意見の不一致」が避けられない不安定な社会を嘆くための要員でしかなくなってしまうだろう。

問題解決策:スキーマとスクリプトの区別

機能的分化した近代社会に対するハーバーマスとルーマンの「意見の不一致」は、近代社会の諸文化主題とした場合にも顕著になっている。ハーバーマスは、尚も合理的合意形成を目指した合理的コミュニケーション的行為によって文化を把握しようとする。これに対しルーマンは、「意見の不一致」が伴っても尚存続可能文化概念を意味論観点から提供している。だがハーバーマスは、このルーマンの形式主義的な意味論近代社会文化的な価値を一掃するほどの極端理論であると批判する。しかしながらハーバーマスの文化論では、例えば対抗文化やサブカルチャーのような既成の文化とは相容れない別様の文化を十分に説明することができない。

ルーマンによれば、コミュニケーションについてのコミュニケーションという自己言及機能的に方向付けてくれるのは、「主題(Themen)」と「貢献(Beitragen)」の差異である。あるコミュニケーション主題は、そのコミュニケーションが特定の貢献として成立するべく、そのコミュニケーションの連関を方向付けている。例えば「マスメディアの偏向報道」が議題として主題化すれば、コミュニケーションはその主題に対する意見提示へと方向付けられるだろう。無論それは、合意形成へと方向付けられている訳ではない。主題に該当するならば、意見を対立させても構わないのである。芸能人が「嫌ならるな」と主張するのも、「マスメディアの偏向報道」が主題化しているためなのだ。

この主題貢献意味論に倣えば、コミュニケーションの継続を可能にする上で、合意形成が必須となることはあり得ない。「意見の不一致」が伴おうとも、主題さえ冗長的に指し示されていれば構わないのだ。

ルーマンは、『社会政治(Die Politik der Gesellschaft)』において、認知心理学的な概念を社会システム理論的に再記述することによって、この主題貢献意味論記憶意味論へと拡張している。

社会システムが存続するには、コミュニケーションが不可欠となる。社会システムコミュニケーションによって構成されている。だがこう述べただけでは、「あの」コミュニケーションではなく「この」コミュニケーションこそが社会システム構成する諸要素となるという選択如何にして可能になるのかが未規定で留まる。社会システム理論が記述する機能的分化している近代社会の社会構造とその諸々の意味論は、プログラムコードメディア文化などのような諸概念を軸として、この「如何にして」を記述することを可能にしている。文化意味論は、コミュニケーション主題の貯蔵庫として機能することで、「あの」コミュニケーションではなく「この」コミュニケーションを優先するという貢献を方向付ける。「この」コミュニケーション選択負担免除することが、主題機能となる。

この選択負担となるのは、記憶の制約と関わる。既存のコミュニケーションについてのコミュニケーション構成するにしても、全てのコミュニケーション記憶に留めておくことは不可能である。故にこの負担免除は、記憶想起の選択と集中を可能にしている。社会システムは、認知システム心理システム神経システムがそうであるように、特定の事柄に関する完璧な記憶を保持するのではなく、限られた事柄を想起できる程度の記憶を持つ。

ルーマンは、認知心理学の概念を社会システム理論的に再記述することにより、こうした記憶想起を容易にする諸概念の集合スキーマ(schema)として分析している。スキーマは、同一の状況に対して反復的に利用することもできれば、異なる状況に対して転用することもできる。こうした利用形式化しているのは、スクリプト(script)である。ルーマンによれば、スクリプトは、システムが何を忘却して何を想起するのかを制御する記憶の働きである。

スクリプトは多くのスキーマを内蔵している。スクリプトは、その構成要素が状態ではなく出来事、あるいは行為としてスキーマ化されていることを前提としている。スクリプト構成されることで初めて、個々の諸要素が、そのスクリプトの中で、構成要素として機能するようになる。これらの諸要素は、一種の「意味」構成するシステムとして、複合性の時間化を前提としているのである。

スクリプト構成しているのは複数のスキーマである。典型的な構成要素としてのスキーマは、因果プランである。例えば政策を主題とした原因結果区別は、「補助金は失業を減少させる」、「失業は若者を暴力へと駆り立てる」、「労働市場の機会を供給すれば、若者の暴力を防止できる」などといった認識を可能にする。こうしたスキーマ意味処理規則を利用することで、政治的な決定者たちは、現実細部を視ている訳ではないという事実を隠蔽した上で、それでも現実叙述するための大枠の概念を手に入れる。無数に遍在する別のあり方でもあり得る原因」の一つがスキーマとして選択されれば、それにより別のあり方でもあり得る原因」との差異が確保される。それは境界設定が可能になるということである。これにより、スクリプトに然るべき輪郭が与えられる。失業の場合であれば、専ら統計的なデータから「原因」が選択される。

いずれにせよスクリプトは、政治的な決定における単純化に資する機能を持つ。そしてそれによって、スクリプトは、システム記憶を再記述していくことに貢献する。言わばスクリプトの効果は、それが真理であるか否かではなく、それが決定を方向付けるか否かに依拠している。

加えてスクリプトは、そのスクリプトに適合する動機を内包している。ここでルーマンが記述している動機とは、社会的に観察されようとするための、行為を根拠付ける形式である。注意しなければならないのは、これが心理学的な概念ではないということである。スクリプト動機が内包されているからといって、それによって心理的な過程が決定される訳ではない。決定構成しているのは、心理システムではなく社会システムである。スクリプト動機を内包しているのは、「あの」コミュニケーションではなく「この」コミュニケーションを、「あの」問題設定ではなく「この」問題設定を、「あの」主題ではなく「この」主題を――スクリプトによって――選択すれば、「何か動機があるはずだ」、「何の意味があるのか」と、説明が要求される。それが新たなコミュニケーションとなる。だがその後その動機意味について討議されたとしても、実際の心理システムがその動機を抱いているか否かが問われる訳ではなく、それを確かめる術も無い。

意味論時間次元との関連から言えば、スクリプトは、「時間の回路図(Schematismen)」である。決定コミュニケーションは、この回路図を必要不可欠としている。決定者は、未知の未来に対して然るべき対応を採るために、過去によって決定付けられてしまうような事態を解消するように努めなければならない。

記憶の働きとしてのスクリプトを前提とした場合、スキーマ記憶の想起と忘却の弁別を実行する。こうした弁別は、過ぎ去った作動の痕跡を抹消すると共に、変化した状況の下での新しい作動を実行するための許容力(capacity)を解放する機能を有している。これによりスキーマは、逸脱を認識可能にすると同時に、新しいものとして推奨される逸脱を生成することも可能にする。言い換えればスキーマは、期待意味論で記述されている認知的な期待機能と同様に、学習可能にするのである。

この時間次元意味論社会次元意味論として再記述するなら、スキーマ合意と不合意を「同時に」可能にする。例えば政治的な決定者は、バナナ商取引を促進することも抑制することもできる。だがその際に問題となっているのは、バナナ商取引なのであって、それについての政治的な決定が当のバナナ商取引に対する介入として、議論の対象になるということが前提となる。言い換えれば、スキーマは議論の主題を、すなわち議題を設定する。そうすることで、貢献合意と不合意形式で方向付けることもできるのである。そうした議論は、副次的なスキーマによって問題が再設定される場合もあれば、より一般化されたスキーマへと展開される場合もある。後者の場合は、例えば保護主義と自由貿易の区別が、合意と不合意形式を方向付けることになるであろう。しかし、そうしたコミュニケーションスキーマに準拠していることは疑いようのないことであるために、それ自体がコミュニケーションの過程で主題になることは無い。

問題解決策:想起と忘却の区別

自己言及的オートポイエーシス的なシステムは、次の作動を構成する際に、当のシステムが今現に置かれている状態から出発しなければならない。システムは、それ固有の未来に存在する訳でもなければ、それ固有の過去に戻ってしまう訳でもない。システムは、今ここにしか無い。システム記憶もまた、現在の現時点における顕在的な作動に対してしか貢献することができない。したがって記憶機能には、現在性(Aktualität)という制約条件が課せられている。

記憶の主要機能忘却である。それは、システムが現在の時間に関する情報を僅かしか持ち得ないことと関わる。言わば過去の出来事を抑圧(Repression)することで、僅かな情報処理能力のためのメモリを解放することこそが、記憶の主要機能なのである。この意味で、自己言及的オートポイエーシス的なシステムにおける記憶は、神経システムコンピュータにおける記憶類似した質を持つ。とはいえ、忘却が想起に対して例外無く優先される訳でもない。過去の抑圧は、それ自体を抑圧することもできる。この二重の否定によって、回帰的かつ反復的に、同一の対象を想起し続けることもできる。記憶システムに有用となっているかのように思われるのは、専らこうして記憶の想起が反復されることで、対象に関する――セカンドオーダー・サイバネティクスの用語で言うところの――固有値構成され、「記憶が保持されている」かのような認識が芽生えた場合である。しかし厳密に言えば、記憶機能しているのは、想起と忘却差異が関わるシステムのあらゆる作動に対してなのである。

記憶は、絶え間なく解放され続けるシステムの許容力の空いた隙間を埋め合わせ続けている。そして記憶は、その時点、その現時点で生起している出来事に準拠した上で整理される。こうしてシステムは、それ自体の作動の回帰結合可能性とを確保することを可能にしている。この許容力の隙間を埋める処理は、刺激を受容することも可能にしている。情報理論的に言い換えれば、システム記憶は、冗長性変異結合可能にしているのである。

だがシステムは、外部環境から刺激を転送される訳ではない。自己言及的システムは、作動の閉鎖性を保持する。さもなければ、システム外部環境との差異を確保できず、システムそれ自体の作動を環境の出来事ではなく自己自身の出来事であるとは認識できなくなる。この作動の閉鎖性は、記憶の成立条件でもある。何故ならシステム記憶を想起する場合には、「システムそれ自体が記憶を想起しているのだ」という自らの記憶もまた同時に想起しなければならないためである。したがって記憶の想起は、二重の自己言及なのであって、そもそも自己論理的推論に基づいている。

あらゆるシステム作動に関連している記憶機能が無ければ、システムは、過去と未来の区別を導入することができない。システムがこの双方の時間方向を選択することができるのは、記憶があってこそである。システムは、それぞれの時点における顕在的な現在を起点として、忘却する過去と想起する過去の区別を導入することができる。そしてシステムが如何なる区別を導入する場合でも、未来を前提にすることができる。この過去と未来の区別の前提にあるのは、ある区別の一方の側から他方の側へと移行することが可能であるという想定である。つまり、区別された双方の境界を横断することで、区別された双方の間を振動することが可能であるという想定だ。

システムの未来は、この振動の想定から記述される。自己言及的システムは、<システム>に対する自己言及と<外部環境>に対する外部言及区別システムの内部に再導入(re-entry)し続ける。システムオートポイエーシスが持続する限り、この再導入は未来になっても実行され続けている。それ故に未来のシステムは、この自己言及外部言及区別の双方の間を振動し続けることになる。この未来が振動という概念で記述されるのは、未来の各時点におけるシステムが、区別された双方のうち、どちらを選択するのかが未規定であるためだ。現在においてそれは、開かれた可能性として留保されているのである。

注意しなければならないのは、記憶は現在の現時点におけるシステム構成物であるということだ。記憶は、過去に潜在している訳でもなければ、未来に遍在している訳でもない。それは今ここにしかないのである。したがって、未来と過去の区別において、記憶排除された第三項となる。記憶は、過去と未来の区別を導入する観察者にとっての、それ自体が想起されることの無い盲点となる。

問題解決策:価値と利害の区別

ルーマンは、全体社会記憶政治システム記憶を明確に区別している。何故なら政治システムは、全体社会から分化したシステムであるためだ。それぞれの機能システム分化には、それぞれの機能的問題領域に特化された記憶構成も必要となる。そうした記憶が、それぞれのシステムの回帰的なネットワークを可能にする。そしてそれは、それぞれの機能システム固有値を形作る。政治システム記憶は、政治機能的問題領域における記憶として特化していなければならない。一方、全体社会記憶は、一般化された記憶となる。それは政治システムのみならず、他の機能的サブシステム記憶も視野に入れて抽象化されている。例えば初期メソポタミアにおける王政支配の記録は、社会政治的な記憶のようにも思われる。だが文字による記憶は、必ずしも政治的である訳ではない。特にグーテンベルクの活字出版技術が登場して以来、文字による記憶は、宗教経済教育族、医療、そしてマスメディアなどのような様々な機能的問題領域でも活発に運用されるようになっている。

こうした素朴に歴史を概するだけでも、単に社会システムによって構成されている記憶メディアを列挙するだけでは、政治システム記憶を分析し始めることはできない。重要なのは、その記憶メディアが如何に政治として特徴付けられるのかである。先述した記憶意味論を前提とすれば、単に同一の政治的な出来事を反復的に生起させ続けているからといって、それが政治に特化した記憶メディアであると考えてしまっては、単純化が過ぎてしまう。過去の想起のみならず、未来をそれほど強く規定させずに、多様な区別の間を振動する余地を残す記憶機構発見することが求められるのである。

ルーマンは、そうした記憶機構として、「価値(Werte)」と「利害(Interessen)」の区別を導入している。政治システムは、この価値と利害形式メディアとすることで、記憶機構形式として導入することを可能にしている。このルーマンの分析は、価値が「妥当」しているか否かといった問いや利害関係が「実際に」存在しているか否かといった問いとは無縁である。とはいえこの区別主観的に導入されている訳でもない。だが少なからず、政治的な決定者たちの行為の目的が、価値や利害意味論によって指し示されている諸概念と関連付いているのは確かである。

それ故にルーマンは、一種の現象学的還元として判断を保留することで、政治的なコミュニケーションが価値や利害と関連しているという観察を実践している。と言うのも、政治システム記憶の作動との関連から言えば、価値の妥当性利害関係の存在を記述するには、政治的なコミュニケーションが価値や利害に言及していることを確認すれば足りるためである。言い換えれば、政治的な観察者たちが、如何にして価値と利害区別を導入しているのかを観察すれば足りるのだ。

区別意味処理規則としての意味論は、社会構造との関連から方向付けられている。価値と利害意味論もまた、政治社会構造との関連から方向付けられている。価値の意味論においては、味方による肯定的な価値とによる否定的な価値の区別もあり得れば、既存の価値とより多様な価値の区別もあり得る。利害意味論においては、ステークホルダや関係する個々人の人格に応じて、様々な利害区別が導入される。したがって、ここで問題となるのは、それ以降の区別の導入の諸可能性を制約する枠組みである。区別の諸可能性が個別具体的に吟味されるのは、この枠組みが設定された後のことである。

これを前提とすれば、価値と利害意味論を記述する上で重要となるのは、それらが何に対抗して――何との差異を確保した上で――主張されているのかである。

政治システムのスキーマとしての価値

ルーマンによれば、遅くても18世紀以降の近代社会においては、価値は目的や選好から区別されて記述されている。目的や選好は、動機利害、そしてまさに価値を背景として初めて認識される。その際、価値は優先順位を規定するための観点として設定されている。しかし同時にそれは、承認への規範的な期待を容認されるための観点でもある。19世紀になると、価値にはアプリオリな妥当性があると認識されるようになる。価値の妥当性は明示的に主張されはしない所与の根拠から推定される。尤も、その価値の要求に異議を唱える必然性は無い。当の価値要求に対して、別のあり方でもあり得る価値要求を突き付けることも可能であるためだ。価値は、それ自体としては何も確定しない。決定が関わるのは、大方相互に排他的な二つ以上の価値が選択肢として浮上した場合である。

故に価値の機能は、何かを決定することにあるのではない。こうした未規定を孕むにも拘らず、価値が有用となるのは、まさに政治システム記憶との関連からである。価値は、優先順位を際立たせることで、政治システムが導入する記憶の想起と忘却区別を方向付けることができる。記憶の想起と忘却の弁別を実行しているという意味では、価値は政治システムスキーマとして機能する。例えば「弱者の救済」に価値を見出している観察者は、市場があまりにも「競争」を肯定し続けたことによって、「貧困層が度外視されてしまっている」と、率先して想起することができる。逆に言えば、「弱者の救済」に価値を見出していない観察者は、「弱者の救済」を声高らかに謳う観察者や選挙カーにでも遭遇しない限りは、「弱者の救済」を忘却したままの状態であり続け易い。

記憶の埋め合わせとしての利害

価値は政治システムスキーマとして機能している。自己自身を自己言及的再構成し続けようとする政治システム記憶の許容力を再度解放するために有用となるのが、価値である。それは忘却というコストを支払うことで、言わば想起に費やせるメモリ領域を拡張している。しかしながら、価値それ自体は、何が想起されるべきなのかを確定している訳ではない。それは開かれた未来における未規定として留保される。まさにそれ故にこそ、政治システム記憶機構は、未規定故に空いた許容力の隙間を埋め合わせる必要がある。

利害意味論は、この政治システム記憶における埋め合わせとして機能している。政治や官僚の関係に限ってても、ある決定者の決定が別の決定者たちに実害を与え得るという利害関係の可能性は、容易に想起されるであろう。いわゆる利権団体を想定してみても、既得権益に資する決定事項は、そうではない決定事項に比べて、忘却され難い。こうした利害関係がある限り、政治システム記憶は空白にならずに済む。

その一方で、明示的に他者へと伝達される利害もある。社会運動や抗議運動は、より豊富な利害スキーマ政治システム記憶に埋め込もうとする活動である。こうした運動は、「弱者の救済」や「平等」などといった価値と「不利に扱われている」利害とを接続させる。それは決定者たちの利害のみならず、決定の被影響者たちの利害をも顕在化させる。

こうして利害と接続された価値は、とりわけ規範的に期待され続ける。そうした価値に基づいた選好がたとえ期待外れに終わったとしても、容易には忘却されない。それは反事実的に安定化している。これに対して、利害は事実として参照される。ただし、大抵の既得権益が潜在的に扱われていることからも察せられるように、各関係者が有する利害の詳細を網羅的に確認できる観察者がいるとすれば、それはその本人たちだけである。

問題解決策:右翼と左翼の区別

価値と利害外部言及的なスキーマであるのに対して、右翼左翼区別は、自己言及的スキーマである。政治システムは、右翼左翼スキーマ内容を付与するためにも、記憶を有している。

歴史的には純粋に偶然出会ったとはいえ、フランス革命のラジカルな原理主義者は、議会場の左側に席を占め、旧体制の復興を目指す勢力は右側に席を占めていた。したがって右翼左翼スキーマは、19世紀前半においては、フランス革命に関する記憶の想起に役立っていた一方で、秩序の復活を目指す努力についての記憶の想起にも役立っていた。その際、左翼の側で忘却されていたのは革命主義がテロリズムに脱線したことである一方で、右翼の側で忘却されていたのは旧ヨーロッパの身分制的な秩序と王政が不可逆的に崩壊したことである。

19世紀が過ぎ去っていくうちに、こうした想起と忘却形式は薄らいでいった。その代わりとして、右翼左翼スキーマは、社会主義的な理念によって内容を付与されることとなる。この関連から右翼はその保守的な質を喪失し、市場経済の動態的な質に期待する福祉向上の代理人へと生まれ変わることになった。だがこうして右翼左翼スキーマを再配置する際にも記憶が必要になる。右翼左翼スキーマを何らかの内容によって満たすためにこのスキーマに準拠した区別を導入しなければならないのは、もはやフランス革命やその原理の宣言などのような歴史的な出来事ではない。むしろこれまで以上に、現在進行中の政治の一貫した方針こそが、区別による観察の対象とならなければならなくなったのである。左翼右翼に言及する場合に、何が念頭に置かれているのかに関する記憶が無ければ、このスキーマは、期待構成する上では機能しないであろう。このことは未来に対する期待にも該当する。記憶なしには、未来は記述し得ないのである。

政治記憶を有した政治システムは、常に新しい状況に直面し続けている。政治システム社会構造が既にそこに存在していても、その中に新しい経験が書き込まれなければならない。典型的な事例では、こうした出来事は記憶それ自体を変異させるであろう。しかし、まさに今この時の経験記憶と結び付ける新しい記述の契機を与えもするであろう。価値と利害スキーマにせよ、右翼左翼スキーマにせよ、新たに得られた印象如何にして処理するのかについては確定させていない。しかし一方で、こうしたスキーマが無ければ、新たな印象政治と如何に関わるのかを認識することはできないはずである。

問題解決策:メディアとしての世論

マスメディア社会的な機能社会的な記憶構成にあるとはいえ、これが直ちに政治システムが利用するスキーマスクリプト制御することを意味するのはない。さもなければ、政治マスメディア機能的分化しておらず、双方のオートポイエーシスは維持されなくなる。ある機能システムが別の機能システムを攪乱するのは、構造的な結合のインターフェースを介してである。この結合点にあるのは、「世論(Öffentliche Meinung)」である。

政治にせよ、マスメディアにせよ、あるいは他の機能的問題領域の記憶にせよ、社会記憶は、何もそこに居合わせている者同士で語り継がれている訳ではない。確かに、無文字文化形成していた部族社会においては、居合わせている者同士の相互行為だけが唯一のコミュニケーション形式であった。そこでは、コミュニケーション主題化する対象とそうではない対象について他者がどう考えているのかを想定するのは、比較的容易であった。

一方、都市化、郊外化、階層化、役割分業などにより全体社会複合性が増大すると、状況が変化していく。これは文字の導入とその普及に関わる。言語は、意見を固定化して保持することで、再利用可能な状態で保持することを可能にする。その際、<同一の主題>についての<異なる意見>の可能性も際立つようになる。それは、誰が嘘吐きで、誰が真理を述べているのかという問題とは無縁である。と言うのもこの問題は、真偽の区別ではなく、「エピステーメ(episteme)」と「ドクサ(doxa)」の区別によって記述されているためである。

エピステーメにおいては、真なる方法で別の意見を主張しようとすることは、誰にもできない。そうした意見は論破される。これに対してドクサにおいては、共通の見解が存在していたとしても、それは何らかの相応しい技術によって挑発される可能性がある。場合によっては、別の見解の余地を発見するために、あえて挑発されることもあり得る。古典古代の修辞学やルネサンス期の新古典派修辞学がパラドックス化の技術を発展させたのは、ドクサの領域においてである。パラドックス化の技術は、単なる言葉遊びではなく、異なる意見同士を互いに比較可能にするための概念整理として機能する。そしてそれは、標準的な共通理解(commun parere)から逸脱し、「パラ・ドクサ(para doxa)」を主張する意外を伴わせたテーゼを擁護する。

世論概念の歴史的意味論

近代初期における宗教の分裂を決定的な事象としたのは、ヨハネス・グーテンベルクの活版印刷にはじまる複製技術である。これにより宗教は、かつてであれば論争の余地のある見解に裁定を下す場合に想定されていた権威を縮減させることになった。これに抗う宗教たちは、一致した見解が未だあるのだという前提に立つことで、この傾向に抵抗しようとしていた。そうした宗教たちにとって、パラドックス化の技術は――学的には重要な要因であったとしても――邪魔な存在であると見做されていた。しかし印刷の複製技術は、こうしたパラドックス化の技術そのものも駆逐しようとしていた。パラドックス化の技術によって記述された言語をまさに複製することによって、印刷は、パラ・ドクサは平凡な日常の産物に過ぎないという認識を育んだ。言葉の複製や言葉遊びが、言葉そのものへの信頼感を低減させたのである。

理性形式主義と自我観念論の対立関係に象徴されるように、18世紀は意見矛盾や競合によって生き永らえていたにも拘らず、パラドックス化の技術は下火になっていた。この傾向は、哲学の領域のみならず、政治の領域にも見出せる。論争に決着を付けるための権威が脱落しているからこそ、その埋め合わせとして、君主が用いられる。だが君主が<公人>として承認する絶対君主制の政治の舞台では、公的な矛盾や競合を解消するために自らの権威を動員すれば、その権威リスクに曝すことになる。既にこの時代には、君主の絶対に対する対抗概念として、「公衆(Publikum)」が発現していた。公衆によって提示される公的な意見という概念は、個人の権利や自己決定的な利害などのような概念と同様に、旧来の身分秩序や派閥、社会的地位などといった概念に対する批判として機能していた。すると矛盾や競合の解消を担う主たちにとって、人民の中での自己の名声が統治を成立させる重要な要因となるという認識が強化されるようになった。宮廷が新聞を奨励し、外交上の伝達手段として観察し始めたのも、この時代である。

世論(Öffentliche Meinung)」は、以上のような印刷の複製技術背景とした政治社会構造を前提に、公衆や人民の意味論によって記述されてきた。意見矛盾や競合という状況からも明確な通り、世論合意形成を無条件に奨励している訳ではない。世論において重要となるのは、他者の意見に同意するか否かという問いに予め答える訳ではないということである。意見に同意するか否かは、公共の場におけるコミュニケーションが実践されることで初めて決定される。公共の場におけるコミュニケーションが外部からの影響を受けないが故に合理的に実践されるという希望も、<出版の自由>や<言論の自由>に対する規範的な期待も、このことを前提としている。合意形成意見の不一致が同様に交差する小集団における相互行為の条件が、大規模な集団の内部で複製される。世論に導入されるのは、専ら当の世論それ自体の中で議論されているコミュニケーションだけとなる。世論は、権威や伝統によって外部から導入された意見を許容しない。この限りにおいて既に、作動の閉鎖性可能性の過剰、自己組織化などのような、後にとりわけ機能システムにおいて現実化されることになる社会構造構成され始めているとも観察できる。

遅くても18世紀後半には、世論こそが隠れた主権者であるという認識が定着するようになる。そうした認識においては、世論とは政治システムの<見えざる手>なのだ。フランス革命の最中に、人々は選好が激化すると共に党派的になったために、<公共精神>や<オピニオン>について語られるようになる。この関連から世論という概念の意味論は、世論それ自体を政治化した概念として記述するようにもなる。そしてその主権に対する野心によって、世論概念は、ドクサから自らを区別することで、世論とは単なる意見(doxa)に過ぎないという旧来の軽蔑的な意味を払拭することとなった。代わりに世論は、理性を吟味するためには公共性が必要になるという理性主義の思想と融合することとなる。かくして世論は、政治機能的問題領域においては、真理の等価物となる。この時代に重要となっていたのは、主題貢献の一対一の関連のみならず、むしろ歴史的に吟味されて社交的に伝達される、議論によって裏付けられたエピステーメの貯蔵庫なのである。それは、更なるコミュニケーションを方向付けるコミュニケーションの成果と見做される。

しかしフランス革命は、世論と呼ばれるものの中に、一致した評価を見出さなかった。それ故に、世論が定着していくこの時代において既に、この概念は傷物になっていた。フランス革命以来、近代国家政治は中間的な権力を一層し始めた。故に世論は、実際に生活している諸個人の意見として把握されなければならなくなった。つまり世論とは、この時期において既に、出版によって構成された単なる人工物ではなかったのである。もしこうした認識が許されるのならば、政治的な正統性は瓦解するであろう。中間の埋め合わせとして導入されたのは、直接である。つまり、実際に生活している諸個人に対する関連付けによって、政治影響力は、中間的な権力を介さない直接的な影響力となったのである。したがって、政治システム機能的な分化による自の獲得と世論形成は密接な関係にある。世論との関連から政治システムは、一般意志として、国民の代表として、あるいは世論として政治的支配を基礎付けている諸個人に準拠しなければならなくなったのである。

尤も、19世紀になると、間もなく世論コミュニケーション理性的であるという主張は、説得力を持たなくなった。そしてこの埋め合わせであるかのように世論社会的な機能選挙との関連から記述されるようになる。選挙選挙の間には時間的な隔たりがある。この選挙が実施されない期間に統治を受け持つのが、世論である。同時に世論は、未来の選挙に対する見通しを可能にする。選挙の投票用紙は、ただ印を付けるか名を記述する程度のことしか保障しない。選挙が諸個人に可能にしているのは、精々のところ、いずれかの政党の擁護者としてそれなりに強い信念で投票対象を選抜する程度のことである。一方、政治観察という機能は、選挙結果となる投票数を数えるだけではなく、それを世論の中で主題にすることで、初めて成立する。

社会システムと心理システムの差異

世論の事実は、出版の自由に準拠した上で保証される必要がある。しかし理性に関しては、無条件に保証されなければならないという道理は無い。進歩と保守の区別は、しばしば<世論の保証>と<世論理性の保証>の差異を覆い隠してきた。ハーバーマスは理性を保証する公共性救済するために、<批判的な世論>と<制御された世論>という二重の概念に固執している。だが同時にハーバーマスは、社会には世論以外にも意見の主張者が存在し、それが社会心理学的に把握できるという想定からも距離を取っている。問題なのは政治理念なのである。しかしだとすれば、次のような派生問題が不可避となる。つまり、一体それは誰の理念なのかという問題だ。この問題は、批判的な公共性を重要視したところで、解決できる訳ではない。と言うのも世論は、不可避的に匿名化されているためである。

世論が諸個人に関連付けられているのは、世論が個々人の心理システムの総体であるためではない。まして個々の心理システムコミュニケーション的行為集合世論となる訳でもない。世論は、心理システム思考ではなく、社会システムコミュニケーションによって構成されている。社会システムは個々人の心理システムによって構成されているのではなく、ただコミュニケーションによって構成されている。コミュニケーション構成するのはコミュニケーションである。心理システムはただ、言語による構造的な結合によって社会システムを攪乱できるだけである。その攪乱を如何に受容するのかは、社会システム自らが決めることだ。コミュニケーション複合性はあまりにも多くのコスト時間を要する過程によって生起する。この過程は、個々人の注意力を必ず超えてしまう。そうしたコミュニケーションは、個々人の思考行為理念すらも置き去りにした上で突き進んでいく。

そうなれば、世論と諸個人の関連付けが意味するのは、その個々人が誰なのか、語られているのが誰の理念なのかなのではない。むしろそうした問題を隠蔽した上で、個々人を匿名で計り知れない存在として留めておくということが前提となる。個々人の意見は、世論形成には全く何の役にも立っていないのである。逆に言えば、世論を分析したところで、個々人の意識を分析したことにはならない。社会心理学的現実認識とは裏腹に、世論は、コミュニケーションとして分析され、コミュニケーションから分析されなければならない。世論心理システムによって構成されているという前提を一掃するのなら、世論は多かれ少なかれ統一的であるという前提もまた失われる。世論観察者にできるのは、世論統一性を分析することではなく、世論機能を分析することである。

メディアとしての世論

世論は、意見制御する機能を欠如している。個人の発言をある程度制御することは、統語論的にも意味論的にも不可能ではない。だが、見渡せないほど無数の人間社会システムが如何に共鳴するのかについては、制御できない。確かに世論は、注意を喚起することができる。だが見聞きしたことから人々が何を始めるのかについては、制御できない。コミュニケーションの成果が公衆なるものの態度を規定することで、その後のコミュニケーションに基盤を与えると認識される場合には、確かに世論が含意されている。その際、満場一致で共有されている意見や過半数が合意している意見などといった概念は、問題にしてはならない。分裂した世論もまた世論である。もし仮に統一見解があったとしても、観察者が異なれば、その共通意見はそれぞれの観察者ごとに異なる意義を持ち得る。それは、如何なる区別の導入によって観察されるのかによって、異なる帰結をもたらす。

世論概念の意味論上の問題は、それが様々な述語を結び付ける主語として利用される単数形の名詞であるという点にある。だからこそ世論は、ある意見を支持する主体や拒否する主体などといった統一的な概念であるかのように記述される。だが世論統一性を放棄して、世論機能を分析するのなら、この単数形名詞としての世論概念は、単数と複数区別を単数の内部に再導入(re-entry)した形式であることがわかる。すると世論という形式は、その単数形の身の内に、複数を包含していることになる。世論合意形成ではなく意見の不一致を前提とするなら、ここでいう複数とは、とりわけ意見の複数である。

しかし、世論概念が単数形として把握される事実は、世論が複数の意見意味するだけではないということも、含意している。世論は、同時に意見形成メディアでもある。世論は、世論として観察され記述されるものである。世論は、こうした公共的コミュニケーションによって構成される仮象として、あるいはコミュニケーションそれ自体が構成する<鏡>のようなものとして記述される。世論は恰も一つの客体であるかのように存在している眼前の意見であるという虚構を介して、このコミュニケーションは「固有行動(Eigenbehaviors)」を生み出す。それは、虚構が虚構であると見破られることに免疫を有したシステムの作動形式である。

一般的にコミュニケーション現実人間がある時点で現実に考えていることに影響を与える。だがこの固有行動に基づくコミュニケーションは、こうした影響を、自らの作動の系列に取り込もうとしない。コミュニケーションは、それが公共的コミュニケーションを惹起する場合に限り、公共的コミュニケーションと見做される。したがって世論は、言わば運動し続けるシステムのスナップショットとして記録された一つの状態である。過程として観察するなら、世論公共的コミュニケーションから生起しており、尚且つ公共的コミュニケーションの中で更に継続的に参照され続けている対象となる。

ファーストオーダーの観察とセカンドオーダーの観察の差異

したがって世論とは、それ自体が公共的コミュニケーションの中で構成されていながら、後続の公共的コミュニケーションを惹起させるメディアとなる。しかしそれが意見の不一致を容認する概念である以上、メディアとしての世論は、実行すべき行為を規定できる支配の形式なのではない。このメディアとしての世論機能を適切に分析するには、ハインツ・フォン・フェルスターの「セカンドオーダー・サイバネティクス(Second-Order Cybernetics)」が導入している<観察するシステム(Observing System)>と<観察されるシステム(Observed System)>の区別が有用となる。世論は単なる<観察されるシステム>ではない。それは<観察するシステム>でもある。<観察されるシステム>は、ノーバート・ウィナーのサイバネティクスで記述されていたような、機能要件や非機能要件が外部の環境から付与されている「他的なシステム」に過ぎない。これに対して<観察するシステム>は、そうした機能要件や非機能要件などといった動作の条件を自己自身で構成する自的なシステムと考えられる。

世論は、<観察するシステム>であると共に<観察されるシステム>である。これをメディアとして形式化される公共的コミュニケーションは、<観察>と<観察の観察>が接続されることで成り立つことがわかる。言い換えれば世論は、<観察>と<観察の観察>を引き合わせるメディアとなる。セカンドオーダー・サイバネティクス社会システム理論は、この<観察>と<観察の観察>の区別を「ファーストオーダーの観察(Beobachtung erster Ordnung)」と「セカンドオーダーの観察(Beobachtung zweiter Ordnung)」の区別で再記述している。ファーストオーダーの観察者は、マークされていない領域区別を導入する。そうして導入された区別は、<マークされている領域>と<マークされていない領域>の差異構成すると共に、<観察者自身>と<観察対象>の差異構成する。一方、これに対してセカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察観察していく。それはファーストオーダーの観察とそれ以外の全てを区別するということだ。

セカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者観察のみを観点として絞り込むことで、ファーストオーダーの観察者による影響に敏感に反応すると共に、それ以外の対象との無関連を高める。言い換えれば、セカンドオーダーの観察は、ある制限下に置かれている。それは任意の何かあるものを観察するのではなく、ファーストオーダーの観察者観察観察するという制限である。この制限は、システム作動の閉鎖性と関連している。システム外部環境は、それ自体が重要となるのではなく、システム内部に再導入(re-entry)された<外部環境>に関する観察情報構成する場合に限り重要となる。この情報が、そのシステムそれ自体において、それ以降に言及され得るようになる。

注意しなければならないのは、セカンドオーダーの観察者は「メタ」の観察者ではないということだ。セカンドオーダーの観察者もまた別のセカンドオーダーの観察者観察され得る。また、観察者自身の観察に対する自己観察もまたセカンドオーダーの観察となる。この意味で言えば、セカンドオーダーの観察も、ファーストオーダーの観察であることに変わりは無い。だがセカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者の限界を認識することができる。ファーストオーダーの観察者は、<マークされていない領域>から<マークされている領域>を区別することで、<マークされている領域>を認識するだろう。この場合、<マークされている領域>が観察者の観点となる。一方、<マークされていない領域>は、観察者の「盲点(Blindheit)」となる。ファーストオーダーの観察者にとって、盲点発見し尽くすことはできない。盲点発見するには、別の区別を導入する必要がある。だが別の区別を導入した時点で、別の盲点を派生させてしまう。

盲点という概念を厳密に記述するなら、ファーストオーダーの観察者は、視えないということが視えていないということが視えない。セカンドオーダーの観察者は、これを視ることができる。セカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者が導入している区別が何なのかを知ることができる。逆にファーストオーダーの観察者には、自己自身が導入している区別の全てを知り尽くすことができない。ファーストオーダーの観察者自己自身の導入している区別を明示的に指し示すことができるのは、その観察者が事前にセカンドオーダー自己観察を実践していた証拠であると共に、自らの導入した区別に派生して伴う盲点可能な限り暴露され易くしようとする姿勢の表れでもある。

潜在性と偶発性の差異

システムは、観察の水準において、その作動を循環的あるいは回帰的に構造化することができる。あらゆる観察は、セカンドオーダーの観察に曝される。ファーストオーダーの観察者は、自らの観察セカンドオーダーの観察に曝されることを期待しながら観察することができる。確かに、あらゆる観察が、他者が何を観察しているのかだけを観察している訳ではない。だがその観察コミュニケーションとして可視化されることによって、その観察観察されていることを考慮するようになる。メディアとしての世論の中で指し示されるあらゆる意見が、セカンドオーダーの観察に曝されることで、結果的に規化されるという帰結をもたらす可能性も確かにある。しかし、この可能性をハーバーマスの謳う理性的コミュニケーション的行為の拠り所にしようとすれば、過剰な要求となる。そうしたコミュニケーションは、恰も事実に即した指向を有しているかのような印象を生み出さなければならない。それと同時に、そうした印象を生み出す努力があえて為されているという印象は、生み出されぬように回避しなければならない。

これは、セカンドオーダーの観察が、ファーストオーダーの観察動機を暴露し得るという問題と関わる。確かにファーストオーダーの観察者は、自身が如何に純粋にコミュニケーション的行為を実践しようとしているのかについて、自己主張することができる。だがセカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者自己主張に伴う偶発性を認識することができる。セカンドオーダーの観察者には、ファーストオーダーの観察者自己主張を鵜呑みにすることもできれば、疑念を挟み込むこともできる。セカンドオーダーの観察者は、コミュニケーション的行為を貫徹しようとしているファーストオーダーの観察者が、実は自らの利害関係に動機付けられている可能性や、剰えそのために世論を操作しようとしている可能性についても、記述することが可能である。理性的と非理性的区別は、ここでは棄却されてしまう。「戦略的行為」と「コミュニケーション的行為」の区別すら通用しない。セカンドオーダーの観察者かられば、自らが理性的コミュニケーション的行為の担い手であると自己主張するファーストオーダーの観察者は、実際には自らの利害に不都合な対立意見に「非理性的である」というレッテルを貼ることで「戦略的行為」を有利に進めようとしているだけであると記述することもできてしまうのである。

世論メディアとしたセカンドオーダーの観察者たちは、世論を介して主題化されるファーストオーダーの観察者利害を追及している人格や集団として観察することを可能にしている。たとえファーストオーダーの観察者たちがそう自覚していなくても、セカンドオーダーの観察者たちは、ファーストオーダーの観察者身振り政党、イデオロギーなどの特徴からそれを推論することができる。たとえ政治自身が問題を解決することこそを重視していたとしても、世論におけるセカンドオーダーの観察者たちは、何故「あの」問題ではなく「この」問題なのか、何故「あの」主題ではなく「この」主題なのか、何故「あの」貢献ではなく「この」貢献なのか、そして何故「あの」決定ではなく「この」決定なのと、絶えず別のあり方でもあり得る選択肢との比較観点から、政治たちの動機に嫌疑を突き付ける。当の政治たちは、こうしてセカンドオーダーの観察者たちが突き付けてくる別のあり方でもあり得る選択肢の全てを事前に網羅的に吟味しているとは限らない。つまり世論メディアとしたセカンドオーダーの観察者たちは、当初政治たちにとっては潜在的な選択肢を顕在化させることによって、政治たちの観察偶発性を記述しているのである。

以上の分析は、次のように要約することができる。セカンドオーダーの観察の機能は、潜在性(Latenz)を偶発性(Kontingenz)に変換することなのである。セカンドオーダーの観察は、ファーストオーダーの観察者にとっては自然必然的であると思えるような形式を作為的で人工的な形式として再記述することで、それが別のあり方でもあり得る偶発的形式であることを暴露する。セカンドオーダーの観察者にとって、あらゆる事柄が別のあり方でもあり得る。しかしだからこそ、全ての事柄を現にある通りのままにしておくことも可能である。セカンドオーダーの観察形式は、確固たる世界像を粉砕することが可能で、また粉砕せざるを得ない。セカンドオーダーの観察者は、そうした世界像を、他者にとって方向付けとしての価値のある期待に代替する。とりわけ世論の場合には、それを道徳的な期待に置き換える。

マスメディアと世論における道徳の意味論

道徳的な主題選好され易いのは、無知に留まりながら学習を放棄できるためである。道徳たちの観点では、別の意見の持ち主たちを<肯定的>であると見做すことで、自らは良心的になったつもりになる。だがこの認識は、一つのパラドックス隠蔽した状態で成り立っている。他人を<肯定的>であると見做すなら、自身は<批判的>であるということになる。しかしこの道徳的な意見背景には、<批判的>と<肯定的>の区別が、全く<無批判的>に導入されているのである。これが<批判的>な意識パラドックスであって、道徳たちの盲点となっている。

だから批判的な意識道徳たちは、いつも自分が世の流れに逆らっているという気分を味わえる。だがそれも錯覚に過ぎない。と言うのも、世論道徳たちの中では、「危機だ」と警告する予言者、「ショックだ」と連呼する被害者ビジネスの代表者、非常事態だと主張する申立者、周期的に絶えず何かに憤慨している活動などのように、批判的な意識の持ち主たちこそが主流になっているためである。

こうした世論道徳たちに対して、憤慨するに値する主題を提供しているのが、マスメディアである。マスメディア世界中から「い」ニュースを探すことで、<全体>が間違っているという否定主義を保持している。皮肉なことに、ハーバーマスをはじめとするフランクフルト学派批判理論たちが挙って否定してきたマスメディアこそが、批判理論否定主義を継承しているのである。

い」ニュースを探し出すマスメディア道徳が蔓延る世論構造的な結合可能にしているのは、人格形式だ。道徳たちの意見は、様々な政治問題社会問題が単なる人格の問題として単純化されていることが前提となっている。この前提を提供しているのがマスメディアである。テレビ新聞は、特定の人物の顔写真と名前を取り上げ、当の問題の責任者として仕立て上げる。しかし、社会は高度に複合的である。複合的な社会の問題は、誰かのせいにすることで解明できる訳でもなければ、まして解決できる訳でもない。マスメディア世論は、全体社会の出来事を人格に帰属することによって、全体社会複合性を縮減している。全体社会複合性主題にして意見を表明するためには、人や人が必要となる訳だ。

こうしてマスメディア世論の記述に専念するなら、世論メディアとして提供する機能も限定的であることがわかる。世論は確かにセカンドオーダーの観察メディアとなる。だがこのメディアに刻印される形式は、マスメディア主題設定にも左右されてしまう。その結果世論メディアとして形式化される観察は、人格という形式に向けられる道徳的な観察と化す。それは<批判的>な意識の<無批判的>な導入というパラドックス隠蔽することで成立する観点であるために、世論を介して観察する者たちは、いつも何かについて、誰かのせいにすることで、憤慨していることが<標準>となる。

民主主義的な政治文化の意味論

マスメディアが提供する主題は、現在性(Aktualität)を失えば、瞬く間に消滅する。しかし状況が変われば、過去の主題が再度活性化する場合もある。例えば、新しい貢献可能になった場合や新しい合意形成可能になった場合である。逆に言えば、幾つかの貢献合意形成が視野に入っている場合にのみ、主題が新たに構成される。主題があるから貢献意見があるのではなく、貢献合意形成があるからこそ主題があるとされるのが、典型的なマス・コミュニケーションである。

民主主義的な政治体制では、とりわけこの主題貢献区別の導入が容易となる。何故なら、民主主義的な政治文化意味論においては、主題構成すること自体が既に、政治的な貢献として観察されるためである。しかもそうした意見は、必ずしもその主張者自身が実践しなくても良い意見である。例えば財源の目途が立たなくても、「高校無償化」などのような放言を繰り返すことも不可能ではない。いざ支持を集めた後には、「誰それが必要な財源を確保するべきだ」と主張するだけで、それが民主主義的な政治文化における貢献として観察されるのである。

通常、こうした貢献意見は、その通りには実現しない。主題そのものの現在性が失われることによって、解消されるだけである。世論はこうした傾向を既に自明視している。政治たちの提案や提言は、予め割り引いて受け止められる。だからこそマス・コミュニケーションでは、どれほどの誇張表現可能になる。如何に誇張したところで、最終的には達成されないのだから、大差無いのである。

世論の中の民主主義的なコミュニケーションの多くは、合意形成に至るためのサクセスストーリーであるかのように演出されている。あるいは少なからず、合意に至らない状況が問題となり、さもその解決策合意形成であるかのように演出される。つまり、民主主義体制における競合(Konflikt)は、心地良いものでなく、妙策でもなく、また一時的なものとされる。そうした対立は、最終的には合意へと到達すると期待される。闘争(Konflikt)はしたがって、あらゆる主題の出発点としても観察される。マスメディア闘争を積極的に報道するのはこのためでもある。合意形成への期待背景とした闘争の報道は、合意と不合意区別を顕在化させる。この顕在化が記憶の想起に対応するとすれば、代わりに忘却されているのは、政治システムがあらゆる問題に関する集合的に拘束力のある意思決定を配備するための合意形成の欠如を暴力(Gewalt)によって埋め合わせる機能を有しているという社会的な現実である。これに連なり、世論は、闘争を積極的に観察することによって、合意暴力区別を潜在化させると同時に、合意と不合意区別を顕在化させている。言い換えれば世論は、合意と不合意区別を積極的に導入し続けるあまりに、この区別盲点として、国家によって組織化された物理的暴力正統性排除された第三項に位置付けるのである。

民主主義のスキーマ

世論民主主義的な政治文化を関連付けているのは、決してハーバーマスが想定するような討議による理性的な合意形成なのではない。民主主義的な体制の原則は、合理性にあるのではなく、新しい機会や新しい制約条件を伴わせた決定状況のために、未定の未来の可能性を確保しておくことにある。このことを可能にするのは、世論スキーマである。

民主主義的な政治文化で頻繁に用いられてきたスキーマは、「危機」である。例えばエネルギー危機国家危機、エコロジーの危機、大学の危機、教会や宗教危機政党危機、科学的実験における再現危機などだ。この危機というスキーマによって指し示されているのは、特別な問題解決策が必要であるにも拘わらず、誰もそれができていない規模の問題である。こうした問題設定は、到来することのない救世主のためのスクリプトとなる。

危機」として指し示されている規模の状況では、その原因を探求することも、責任者を見付け出すことも、さして意味を成さない。そうした「危機」には、自己自身もまたその状況に関与してしまっていることが度外視される。「危機」に言及する者たちのアピールは、あらゆる人々に向けられ、だからこそ誰に対しても向けられない。

世論はこれ以外にも、観察者が如何に観察するかを観察可能にするスキーマを設定している。例えば「改革」というスキーマは、理念に実践的な意味を付与することを可能にする。このスキーマに準拠する観察者は、自己自身の企画を良き事柄への奉仕として記述することを可能にする。そしてそうした観察者は、具体的な実践内容や執行内容に注意を促すのは、他人任せにしておける。それは「改革」というスキーマ可能にする忘却形式なのである。

民主主義的な政治文化におけるスキーマ機能は、忘却することで確保された自由を活用することで、主題に対する具体的な貢献可能性を確保することである。それによりスキーマは、民主主義政治的なコミュニケーションにおいて、合意と不合意の双方を可能にする。世論民主主義的な政治文化は、こうしたスキーマによって関連付けられる。

規範」と「逸脱」のスキーマは、注意を喚起する機能を持つ。たとえ当の「規範」が周知されていなかったとしても、何らかの「逸脱」と意味付けられる問題のある出来事が観察されれば、遡及的に「規範」と「逸脱」の区別が導入されることで、「規範」が認識され始める。「規範」との差異として記述される「逸脱」は、直ちに制裁の対象になるとは限らない。だがこの「規範」と「逸脱」がスクリプトに埋め込まれると、その「規範」は「逸脱」が発生する以前から存在していたことになる。過去から存在していたことになった「規範」は、当初から当の「逸脱」を禁止していたと認識される。そしてこのスキーマは、「規範」からの「逸脱」をこれ以上許してはならないと主張し始める。例えば「人権」の問題は、こうした「規範」と「逸脱」のスキーマによって記述される。無論「人権」を飯の種にしている団体が活動を繰り広げたところで、政治システム法システム制御できる訳ではない。だがこうした後付けのように生じたスキーマも、スクリプトに埋め込まれると共に、例えば「人権」の団体が利権構造に根差していることが忘却されることによって、政治システムが新しい価値を想起させる機会を与える。

このように、民主主義的な政治文化におけるスキーマは、しばしば単純な解決策の無い問題へと、人々の注意を方向付ける。結局のところ世論の効果は、意見形成することで、行為の推奨や行為の阻止の可能性解放することにある。諸々の行為と結び付く感情や公共的コミュニケーション合意形成は、こうした警告の機能結果として表れるに過ぎない。選好、価値、懸念、不安、感情などのように、個々人が自身の私的な事柄であると想定している概念は、実際には社会的な構成物に過ぎないのである。こうした概念は、個々人が特定の主題に他者よりも強く没頭する可能性否定しない。個々人が自己自身の内発的な動機付けからこれらの主題に取り組んでいると自覚することも、勿論できるであろう。しかし、こうした個人的な動機は、世論において構成されているスキーマの付帯物である。これらの付帯物は、公共的コミュニケーション忘却の代償として生起している。それは、別のあり方でもあり得るスキーマ排除することで獲得されているスキーマなのである。それは複合性の縮減の相関物なのであって、システム歴史結果なのである。

派生問題:問題設定は如何にして可能になるのか

以上のような世論に関する社会システム理論的な記述は、政治も、マスメディアも、そして世論も、全体社会統一性を保証する機能を有していないことを示している。政治マスメディア機能的分化したサブシステムの一種に過ぎない。また世論は、政治システムマスメディア・システム構造的な結合結合点に位置している。したがって全体社会の他の機能システムには、世論とは区別される別様の、セカンドオーダーの観察メディア構成されていると推論することができる。ルーマンによれば、例えば経済システムでは市場が、科学・学問システムでは出版物が、法システムでは過去の判例が、それぞれセカンドオーダーの観察メディアとして機能している。各機能的問題領域におけるセカンドオーダーの観察はいずれも、潜在性偶発性に変換する機能を有する。この機能的等価物を前提とするなら、我々は世論それ自体に対して偶発性を見出すことができる。潜在性偶発性に変換する機能世論によって享受することもまた偶発的選択肢となるのである。

世論構成するスキーマスクリプト別のあり方でもあり得る。我々が問題を設定する場合、特定のスキーマスクリプトに準拠する必然性は何も無い。世論が提供する主題設定に準拠した問題設定もまた偶発的で、選択する必然性は無い。世論セカンドオーダーの観察メディアであるとしても、他の機能的問題領域におけるメディア探索が無用になる訳ではない。マスメディア政治機能的問題領域での問題設定に終始することもまた偶発的である。全体社会を見渡せば、他の機能的問題領域にも問題は潜在化している。

しかしそうなると、各機能的問題領域には、ファーストオーダーの観察セカンドオーダーの観察の回帰的なネットワークによって、様々な潜在性偶発性へと変換されていることになる。この偶発性が問題として参照される場合、この偶発性の問題は、問題設定それ自体にも適用される。つまり、「あの」問題設定ではなく「この」問題設定が採用されることは、偶発的選択となるのである。「この」問題設定を採用するのは、可能であるものの、必然ではない。問題設定それ自体が偶発的になる場合、機能的な分化という社会構造を有した近代社会の存続もまたありそうもないものとなってしまう。何故なら機能的な分化は、それぞれの機能的問題領域を設定することで成り立つためである。しかし、こうして機能的問題領域の設定が不確実になることもまた、一種の「問題」となる。あえてパラドックスを孕んだ言い方をすれば、問題を設定できないことが問題なのである。それは、偶発性に曝されている近代社会では、各機能的問題領域における問題設定が如何にして可能になるのかという問題として、設定することが可能であろう。

参考文献

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