マスメディアの社会構造と記憶の意味論 | Accel Brain

マスメディアの社会構造と記憶の意味論

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派生問題:隠蔽された諸問題の再発見は如何にして可能になるのか

前述したように、心理学的社会という概念は、近代社会の社会構造を方向付ける意味論として機能してきた。この社会構造に準拠した社会システムは、心理学的問題設定を顕在化させる一方で、非心理学的問題設定を潜在化させる。これにより近代社会は、心理学的問題解決策が有用であるという社会的な認識を反復的に強化させてきた。

確かにこれは一種のマッチポンプである。だがこのマッチポンプは普遍的ではない。実際この心理学的社会という概念は、密かに近代公教育進歩史観によって培われてきた歴史意味論とも関連してきた。近代公教育社会構造発達心理学意味論は、一方では確かに心理学的社会を普及させてきたものの、他方では教育的な問題設定を顕在化させてもいる。これにより、機能システムとしての教育による問題解決策が有用であるという社会的な認識もまた反復的に強化されているのである。

社会システムの作動の実態を抽象的観点から観察するなら、この近代社会機能的分化した社会構造構成されていることがわかる。機能的分化した社会では、科学・学問的な問題領域や教育的な問題領域に限らず、政治的な問題設定経済的な問題設定的な問題設定宗教的問題設定などといったように、様々な機能的問題領域が開拓されている。この問題領域の問題解決策展開するのが、機能システムコミュニケーションである。

それぞれの機能システムは、自身の問題領域に固有の問題設定を顕在化させると共に、その問題解決策展開している。これにより各機能システムは、自身が展開している問題解決策が有用であるという社会的な認識を普及させている。心理学的社会公教育意味論は、この機能システムのマッチポンプ的な作動の具体例に過ぎない。

機能システムは、外部環境かられば、文字通り「ブラックボックス」である。それぞれの機能システムは、それぞれの機能的な問題領域に固有の論理で問題解決策展開しているが故に、他の機能システムによる干渉を受けない。仮に干渉を受けたとしても、如何にその干渉に対応するのかは、その機能システム自身で決定される。故にそれぞれの機能システムは、他の機能システム制御できる訳ではない。それぞれの機能システムは、相互に構造的に結合しているインターフェイスを介して、ただ利用し合うだけである。

これを前提とすれば、全ての機能システム統一するメタ水準の機能システム存在しないことになる。等価機能主義的な社会システム理論によって記述される「社会システム」という概念は、全ての機能システム統一させた概念なのではなく、汎化した概念であるに過ぎない。しかしこの抽象化は、あらゆる機能システム共通するコミュニケーション質を浮き彫りにする。何度も述べるように、それぞれの機能システムは、それぞれの機能的問題領域に固有の論理で、自身の問題設定のみを主題化させる。つまり各機能システムは、他の機能システム問題設定には盲目的に作動しているのである。

したがって、政治経済、科学・学問、教育宗教などのような機能的な問題領域に追従しているだけの観察者にとって、これらの機能システム主題化しない問題設定は潜在化したままになる。言い換えれば、機能システムに準拠しているだけの観察者は、別のあり方でもあり得る問題設定忘却してしまう訳だ。この潜在的な問題の忘却は、それ自体ある種の問題である。と言うのも、この近代社会忘却された問題を想起させることが如何にして可能になるのかという問題設定もまた、一つの機能的問題領域を構成しているのである。社会システム理論観点かられば、この領域の機能システムとして構造化されているのは、「マスメディア(Massenmedien)」である。マスメディア・システム社会的な機能は、隠蔽されて忘却されている問題を想起させることなのである。

注意しなければならないのは、このマスメディア・システムもまた一つの機能システムに過ぎないということだ。だからマスメディアもまた、他の機能システムと同じように、他の機能システム問題設定には盲目的な状態で、自らに固有の論理を展開していることになる。だがマスメディア社会構造には、社会システムを問題の想起へと優先して方向付ける意味論が対応している。それは専ら、マスメディア期待構造となるプログラムとの関連から記述できる。社会システム理論的に言えば、マスメディア・システムプログラムとなるのは、「ニュース(Nachrichten)」と「ルポルタージュ(Berichte)」、「広告(Werbung)」、そして「娯楽(Unterhaltung)」である。これらのプログラムが、「情報(Information)」と「非情報(nicht Information)」という、マスメディア・システム二値コードを方向付けている。マスメディア社会的な機能は、この二値コードプログラムの関連を比較することで観察することができる。

問題解決策:プログラムとしてのニュースとルポルタージュ

ニュースルポルタージュプログラムの場合、コード化される情報は驚きをもたらす新しい情報でなければならない。それ以外は非情報である。ここでいう驚異とは、<標準>をまず前提としている。つまりその標準から逸脱した出来事や標準から飛躍した出来事が、驚異的な情報となるのである。この標準は、視聴者を適切な貢献へと方向付けるように、主題を貯蓄させた文化意味処理規則を貯蓄させた意味論マスメディアなりに構成することで設定される。マスメディア・システムは、まず標準を設定した上で、そこから逸脱した出来事や飛躍した出来事を情報として選択しているのである。だから諸々の矛盾に満ちた闘争法システムにおける規範的な期待を裏切る犯やテロは、マス・コミュニケーションを潤わせていると言えるだろう。

ニュースルポルタージュというプログラムによって構造化されているマスメディア・システムは、被害者や被抑圧者を主題化することで、当事者意識や憤慨を誘発させようとする。機能的分化したマスメディアという機能システムにとっては、機能的な分化という近代の社会構造に対立するはずの社会運動すら価値のある情報となってしまうのである。

ニュースルポルタージュ構造化されたマスメディア・システムは、主題を設定する機能を持つ。しかしこれだけがマスメディア機能なのではない。マスメディアは、ニュースのような番組を通して意見を表明することもある。偏向報道に対する抗議デモに対して、「嫌ならテレビを見るな」を反論することも可能であろう。

こうしたニュースルポルタージュプログラムにおいては、真理や真実に基づいた情報提供が価値あるものと見做される。しかしマスメディア・システムは、真と非真という二値コードとは全く無縁である。このコードに従い得るのは科学・学問システムだけだ。確かにマスメディア・システムは、このコードに基づいた科学・学問システムの作動を前提として位置付けることができる。だからこそ3.11との兼ね合いでは、御用学者たちがカメラの前で原発安全神話を唱えていたのである。

ただしマスメディア・システムは、あくまで情報非情報区別する。マスメディア区別するのは、<情報価値のある真理>と<情報価値のない真理>なのだ。故に御用学者たちが<情報価値のある安全なデータ>だけを<真理>として提示する可能性は十分にあり得る。

問題解決策:プログラムとしての広告

広告は、ニュースルポルタージュとは異なるプログラムである。とりわけ流行商品などに関するしいバナー画像やテクスト装飾された広告は、広告を提示する者が広告観察する者たちの動機付けを調達することを可能にする。こうした広告による動機付けにおいても、やはり鍵となるのは情報だ。広告は、人々の動機情報という形式で弾みを付けている。

広告を事業展開テンポを作り出す原動力となるべく用意された技術は多聞に及ぶ。逆説的な言葉遊びによって広告提示者の目論見を不透明にするというのも、広告の技術の一種だ。例えばお金を支払うことで「節約する」ことを強調する広告、明らかに不特定多数に向けられた広告でありながらも「貴方だけに特別の商品を展示します」と豪語する広告などは、この典型と言える。支払いすべき対象を直ぐに知らせないのもまた広告の技術の一つである。Web上ではオンライン・ゲームの課金システムにこの傾向が見られる。ゲームの最も魅力的なコンテンツを有料にしておきながら、ゲームのトップページやバナーには「無料」であることを強調する一文が記載されている。クリス・アンダーソンが紹介した「フリーミアム(Freemium)」という事業戦略においても、広告は重要な位置付けにある。

ルーマンによれば、広告機能の一つは、趣味のい人々に趣味を授けることである。教養を換金することはできない。だが金を教養に変えることはできるかもしれない。例えば芸術についての教養がなくとも、術展の広告を視れば、高く評価されている芸術にあり付ける。その広告観察者は、その広告に従うことで、教養があるかのように振る舞いながら、術展を選ぶことができるのである。こうした広告においては、装飾芸術と同様に、表層を以って深層を匂わせる技術が駆使される。広告提示者には、広告を視る観察者が何を考え、何を感じ、何を欲しているのかがわからない。それを制御することも不可能だ。それでも広告提示者は、その期待される成果を計算し、その対価が自分に支払われるようにする。この意味広告経済的なコミュニケーションでもある。

しかし厳密に言えば、経済的な成功を収めることが、広告機能なのではない。マスメディア・システムプログラムとしての広告において、その重要な機能となるのは、日常の文化における重複と多様の関係を安定化させることである。ルーマンによれば、ここでいう重複とは、宣伝した商品がより多く売れることで生み出される。一方ここでいう多様は、宣伝した商品市場で見分けることができるようになることで生じる。

この説明不足にしか思えない説明からルーマンの意を汲み取るなら、次のように補足できる。複製技術で大量に生産された商品の全てを限られた少数の消費者たちで買い取ることは絶望的に不可能である。そこで、より幅広い消費者層に向けて商品を宣伝するための広告が必要となる。ただし改めて宣伝するとなれば、既にその宣伝しようとしている商品を購買した消費者たちに向けても、同じ商品を「重複」して宣伝することになってしまう。そこで広告に求められるのは、旧い商品を新しく魅せるような演出である。スマートフォンはスマートフォンのままだ。だが新しい機能やコンテンツを搭載したことを広告で強調すれば、旧いスマートフォンと新しいスマートフォンの差異を明示することが可能になる。結果、消費者たちにとって、市場には「多様」なスマートフォンが陳列していることになる訳だ。

問題解決策:プログラムとしての娯楽

娯楽もまた上述した二つのプログラムとは全く別様のプログラムである。ルーマンも例示しているように、娯楽を考えるには、ゲームの考察が役立つ。ゲームを構築するには、時間の区切りが必要になる。ゲームは出来事の連鎖だ。それに一時的に従事することになっても、ゲームは参入離脱可能な営みである。だが現実ゲームの前後にしかないという訳ではない。つまり現実が停止すると同時にゲームが開始され、ゲームが終了すると同時に現実が再開する訳ではない。むしろ現実ゲームは同時に存在しているのである。と言うのも現実ゲーム区別するということは、双方を同時に指し示しているということだからだ。このことは、マスメディアもまた「意味」構成するシステムであることを念頭に置けば明らかであろう。

ゲーム現実区別に役立つのは、ゲームのルールだ。このことは集団的なゲームにも該当する。もとよりそのルールは予め合意されたルールなのではない。ルール違反もあり得よう。ただしルール違反があり得るのは、それがルールの枠組みで修正される限りにおいてである。全く修正される見込みの無いルール違反が伴えば、そもそもゲームの継続が難しくなる。違反者にはゲームから退場して貰わなければならない。

視聴覚的な現実のシーンもまた、ゲーム現実区別に役立つ。そのシーンは、知覚メディアを介した知覚刺激である。ゲームをはじめとした娯楽における虚構の現実世界は、このシーンによって自由を手にする。と言うのも、そうしたシーンの配列次第で、虚構の現実世界を柔軟に「設定」することができるからだ。

娯楽の参加者は、本当の人生とは違って、その最初と最後を観察することができる。娯楽の開始時は、生まれたばかりの赤ん坊なのではない。娯楽の終了時は、に逝く途中なのではない。娯楽の参加者は、ゲームの開始時と終了時を明確に観察することができる。だからこそ参加者は、娯楽時間日常生活時間から区別することができるのである。

現実的な現実から虚構的な現実への境界横断を可能にするのは、こうした時間に基づく出来事の区別である。テクストや映像の内側には、現実的な現実など無い。想像的な世界だけが広がりを見せる。この想像的な世界では、社会的に行動を調整することの必要が無い。と言うのも、視聴覚的な現実のシーンを主題とした知覚刺激を受けるのは、社会システムではなく、心理システムだからだ。想像的な世界とは、他ならぬ心理システム構成した出来事なのである。それ故にこうした想像的な世界においては、ゲームそれ自体とは異なり、ルールという社会的な形式存在しない。しかしながら、心理システム知覚刺激を呈示しているのはマスメディアという社会システムである。だとすれば、やはり情報が必要となることになる。つまり、心理システム知覚刺激として呈示する情報が必要となるのだ。

ここで是非とも念頭に置いておきたいのは、娯楽の全てが虚構である訳ではないということである。登場人物や舞台背景は実在する場合がある。コナミデジタルエンタテインメントの『実況パワフルプロ野球』シリーズや『ウイニングイレブン(Winning Eleven)』シリーズなどのように、実在するスポーツ選手同士が衝突するゲームが、この具体例となるだろう。娯楽とはこの意味で、既存の知識を強化する効果があると言える。娯楽における実在する登場人物や舞台背景は、ニュースにおける<標準>のように機能する。しかし娯楽は、ニュースルポルタージュのように、教示や伝達を目的としている訳ではない。むしろ娯楽が既存の知識活用するのは、娯楽自身をそうした既存の知識から際立たせようとするためなのである。それは、とりわけ娯楽主題が、娯楽に参加する視聴者や享受者たちの経験の範囲を超える場合に言えることだ。『実況パワフルプロ野球』で現役の選手とOB選手を対決させた場合を想定してみて欲しい。全く異なる時代を生きた野球選手同士が闘った場合に、どのような名勝負が展開され、どのような物語が生み出されるのかなど、通常の日常を生きる我々には中々計り知れない。だからこそ『実況パワフルプロ野球』のプレイヤーは、ゲーム展開中になることができるのだ。

パイディアとルドゥスの差異

伝統的に「ゲーム(game)」という概念は、「遊戯(play)」の概念から区別されることによって認識されていた。この区別の前提にあるのは、社会学者ロジェ・カイヨワが提唱した「パイディア(Paidia)」と「ルドゥス(Ludus)」の差異である。

パイディアとは、戯れること、気晴らし、あるいは暇潰しを意味するギリシア語である。一方のルドゥスとは、競争、試合、あるいは闘技を意味するギリシア語だ。パイディアとは異なり、ルドゥスには明確なルールがある。ルドゥスの参加者たちは、勝利条件や禁止事項などを共有した上で参与しているのである。これに対して、パイディアには、こうしたルールは無い。ルドゥスには報酬をはじめとした外発的な動機付けが伴う傾向にある。だがパイディアにはこれが無い。パイディアの参加者たちは、あくまで自発的に戯れている。

遊戯とゲームの差異

カイヨワは、この区別遊戯ゲーム差異に対応させた。遊戯パイディアの如く、ゲームルドゥスの如く、それぞれ相反する質を持っている。例えばプロ野球は草野球に比してルドゥス的である。プロ野球には明確なルールがある。草野球のお遊びのように、飽きても途中で抜け出すような真似は許されない。プロ野球の場合、選手登録していない部外者が途中から介入することも許されない。プロ野球の場合、致命的な反則を繰り返せば、次の試合には出場できなくなる場合がある。だが草野球であれば、多少の反則を繰り返しても、その反則者を排除するような社会的な圧力は働かない。少なからずプロ野球と比べれば、草野球の自由度は高い。だがその代わりとして、プロ野球には金銭的な報酬が伴う。プロ野球選手は、その報酬に見合った活躍を示さなければならない。一方草野球には、そうした報酬は無い。あくまで草野球は、やりたい者がやる遊戯だ。

この遊戯ゲーム区別は、単純な識別に役立つだけではない。何はともあれ、遊戯ゲームを方向付けている。発達段階論進歩史観を盲信している者たちならば、草野球で遊んでいた子供がその技能を高め、甲子園に出場し、その後はプロ野球から大リーグへと成長していくサクセス・ストーリーを唱えるだろう。

しかし遊戯ゲームの関係は、こうした物語物語るような直線的な右肩上がりを指し示している訳ではない。パイディアとしての遊戯根源にあるのは、気晴らしと気儘な振る舞いへの欲求、即興と陽気に対応した原初的能力に他ならない。それは、それ自体としては何も生み出さない冗長的な活動である。それは機能的分化した社会の有用には還元されない無用な活動だ。それ故、何も生み出さないパイディア的な活動からルドゥス的な活動が生まれるという想定に、我々は疑問を持たなければならない。こうした気晴らしと気ままな振る舞いに対応している遊戯から厳密で明確なルールで構造化されたゲームが生じるまでの間には、ある種の飛躍が伴っている。それは進歩主義や発達段階論では説明の付かない創発的な飛躍である。

問題解決策:マスメディア・システムの社会的な機能

ニュースルポルタージュ広告、そして娯楽のようなマスメディアコミュニケーションの意義は、後続するコミュニケーションへと接続する際の諸前提を構成することにある。そうした諸前提は、同時にコミュニケートする必要の無い主題である。例えば価値、ライフスタイル、流行、時代遅れ、趣味の良しし、あるいはニュースの記事を主題とした2ちゃんねるの「まとめサイト」などにも該当する。このような背景から言えるのは、マスメディア社会的な機能となるのが、その「記憶」にあるということだ。

社会システムにおける記憶機能とは、情報の統合や情報の保存にあるのではない。むしろその機能は、特定の現実についての前提を既知の前提として取り扱うことを可能にすることなのである。社会システムのあらゆるコミュニケーションは、このマスメディア社会的な機能を享受することができる。マスメディア・システムは、社会的な記憶の処理に特化することによって、他のシステム社会的な記憶を改めて主題化させることの負担を軽減しているのである。

記憶は、あらゆるコミュニケーションにおいて機能する。それは既知の世界を参照しながら機能するシステムは、その都度観察している出来事が有意味か否かを区別している。そしてシステムは、あまりにも行き過ぎた情報を不確実な情報として却下していく。その際システムの拠り所となるのが、記憶なのだ。

ただしここでいう記憶は、絶え間なく更新されている。記憶は過去の状態や出来事の保存を意味しない。記憶機能は、忘却と想起の差異の絶え間なく更新させることにこそある。システムの許容量に余力が生じると、システムはより必要とされる意味をより多く処理することができるようになる。システムの許容量に余力があるということは、文化意味論に貯蓄されているより多くの主題意味処理規則再利用することができるということである。それは、文化意味論の貯蓄物をより多く想起できることと等しい。

故に想起としての記憶は、システムの反復的で重複的な作動を可能にする。しかしながら、システムの許容量には限界がある。もはや余力が無い場合には、システム内部に包摂している諸要素を排除しなければならない。想起として記憶に対して、忘却としての記憶は、まさにこのために機能するシステムは、既存の諸要素の一部を忘却することによって、新たな想起を可能にしているのだ。故に記憶は、それ自体システム作動の閉鎖性の一環でありながら、システムの新しい諸要素に対する継続的な開放可能にしている。また記憶は、常に更新されながら刺激され易くなっている状態を維持している。

これを前提とすれば、社会的な記憶の処理に特化した機能システムとしてのマスメディアは、情報記憶している者から情報記憶していない者へと情報を伝達する機能を持っているのではない。そうではなく、マスメディアという機能システムは、社会システムの諸要素を想起と忘却形式で整理しているのである。マスメディア・システム社会的に機能することによって、社会システムはその許容量が許す限りで文化意味論の貯蓄物をより多く想起することが可能になる。またマスメディア・システム社会的に機能することによって、社会システム現実的に不要となった文化意味論の貯蓄物を忘却することができるようになる。この想起と忘却循環させることで、社会システムはより状況に適合し得る意味処理規則意味論から引き出すことも可能になる。マスメディア・システムがこうした機能を順調に全うしているのならば、社会システムは新しい状況に向けて開放的になることもできるだろう。

マスメディア批判のパラドックス

したがって、機能システムとしてのマスメディアが偏向報道をはじめとした「情報操作」に着手していると批判することは、不適切である。そうした批判コミュニケーションである以上、社会的な記憶の処理というマスメディア機能に依存していることになる。マスメディアによる「情報操作」が無ければ、コミュニケーションは円滑に進まなくなるのだ。

動画配信サイトやソーシャルメディアマスメディア批判するタレントやタレント教授は、この関連からパラドックスに陥っている。彼らはテレビ局の外から「報道社の責任」を指摘することで、マスメディアに対する期待外れ意識を表明している。テレビ局新聞社に対する期待外れを露わにし、「テレビでは言えない真実」をあえて主題にすることによって、マスメディアは本来「真実」を報道する洗練された機関であるべきだという規範的な期待を突き付けたい訳だ。

だが実際は、多くの大衆が彼らをフォローしている。動画配信サイトやソーシャルメディアは、今や立派なマスメディアとなった。ただテレビ局新聞社のような組織システムが連携してないだけであって、彼らのコミュニケーションそのものは、機能システムとしてのマスメディア機能的等価物となっている。実際、「テレビでは言えない真実」を主題にすれば、テレビ局組織システムが潜在化してきた問題を顕在化する程度には、マスメディア的に機能するだろう。マスメディア批判者たちは、マスメディア機能的問題領域の問題設定を自明視すると共に、マスメディア・システムによる問題解決策が有用であるという社会的な認識の普及に貢献しているのである。

しかしながら一方で、近代社会外部環境に位置する運動というシステムはーーかなり好意的にればの話だがーーこのパラドックス脱パラドックス化する潜在能力を有している。社会運動は、マスメディア・システム機能に依拠することで近代社会忘却することとなった主題を改めて再び問題として主題化することができる。だが、社会運動が如何に忘れられた主題を問題として展示しても、それだけで近代社会がその主題を想起するとは限らない。近代社会社会運動によって突き付けられた問題を主題として想起するためには、マスメディア・システムの作動が必要になる。それ故、マスメディア・システム社会運動要求忘却された主題として却下し続ければ、近代社会社会運動要求を無視し続けるということになる。

こうしてれば、運動というシステムにおけるオートポイエーシス不確実性が浮き彫りとなってくる。運動という社会システムもまたコミュニケーションである。社会運動機能的な分化という近代の社会構造に徹底的に抗うというのならば、無論マスメディア・システム社会的な機能にも依拠してはならないということになる。この意味社会運動は、マスメディア・システムが軽減してくれるはずの負担を背負い込まなければならなくなる。つまり社会運動は、想起と忘却形式で自らの諸要素を自らで整理し続けていかなければならないのだ。そうすることによって、社会運動対抗文化に見合う主題意味処理規則を自的に調達していかなければならない。この過剰な負担に耐久し得たとしても、社会運動が成果を生み出す見込みは限られている。何故なら皮肉なことに、運動の成功はマスメディアの「情報操作」に左右されてしまうからだ。

派生問題:政治システムの中

社会運動自己矛盾は、それが機能的な分化を遂げた近代社会の社会構造否定しているにも拘らず、その運動が社会構造に依存して成立している点にある。しかしこの自己矛盾は、いわゆる政治的活動には適用されない。既得権益や集合的な拘束力を伴わせた権力者を否定するという意味では、確かに社会運動政治的活動共通している。だが政治的活動否定しているのは、近代社会の社会構造ではない。政治的活動の主導的差異は、近代社会の内部と外部の区別から構成されている訳ではないのである。

政治的活動は、国家社会区別から主導的差異構成している。政治的活動は、あくまでも「社会」の側から、既存の「国家」を否定しているのである。したがって政治的活動は、近代社会近代社会に対する自己言及的コミュニケーションとして構成されている。その機能的問題領域は政治に他ならない。政治システムは、近代社会機能的分化したサブシステムの一種である。

政治的活動政治システムの作動である以上、政治的活動は、政党議会における政治コミュニケーションと同じように、マスメディア・システム構造的な結合を結実させていると考えざるを得ない。政治的活動による国家に対する否定は、マスメディアを介して構成される世論を通して形式化される場合もある。また、政治的活動を担う各人格が、政党をはじめとする組織システム構成員になることも、何一つ不思議なことではない。

重要なのは、こうした政治システムとしての政治的活動テレビ局新聞社のようなマスメディア・システム構造的な結合を成り立たせている場合には、社会的な記憶を司るマスメディア社会的な機能が、国家社会区別によって単純化されてしまうということである。この状態では、さも「社会」の諸問題の原因責任が「国家」にあるなどといった具合に、問題設定の認識の範囲を予め狭めてしまうことになる。言わば「国家」の概念は、政治的活動を成立させるための「仮想」程度の概念へと単純化されるのである。その結果、いざ既存の政権を否定し続けてきた政党構成員に政権が委ねられたとしても、「国家」の否定しかできていなかった者たちによるその後の「社会」政策は陳腐な水準に留まる傾向にある。既存の国家否定しかできない活動から機能する代替案が生み出されると期待するのは、彼らと同じ理想を共有する者たちだけであろう。

これを前提とすれば、まず「国家」と「社会」の区別棄却して構わないことがわかる。社会システム理論は、この区別棄却の手掛かりを提供している。近代社会の社会構造社会システム理論的に分析するなら、「国家」は「社会」の内部に、とりわけ政治システムの中に位置することが判明する。それどころか、近代「社会」の内部に位置する政治的活動が近代「社会」の内部に位置するはずの「国家」を「社会」の外部に位置するかのように観察することが、如何にして可能になっているのかも明確化してくれる。

問題解決策:政治システムの自己記述としての国家

15世紀から18世紀のヨーロッパでは、「国家(state)」はラテン語の「スタトゥス(status)」のように、財政、軍事的資産、対外的かつ対内的な諸関係などを含めて、単に現状の政治的権力の状態を意味していた。しかし、19世紀に至るまでの概念史では、この国家という概念は、「政治的なるもの(des Polotischen)」の概念から分断されてしまっている。これらの概念は互いに接点を見失っているのである。これに対して社会システム理論は、この国家政治的なるもの差異社会構造意味論の関連から整理した上で、再記述することを可能にする。社会システム理論では、まずは政治的なるものが、「システム」として記述されることになる。

政治システムという概念は、主に政治学や社会学で主題になっている。一方、少なからずヨーロッパの的言説では、国家の概念の方が政治の概念よりも好まれる傾向にある。社会システム理論的に政治システムを記述する場合、それは経済システム、科学・学問システム教育システム法システムなどのような様々な社会機能システムの一種として位置付けられることになる。一方、的言説における国家意味論では、全体社会機能的な分化という区別ではなく、国家社会区別が導入される。この区別が導入される場合、国家社会を構築する素材構成する私的欲求や私的利害関心とは区別される。国家人や集合行為者であると認識される。この区別が、にとっての、的帰責に関連する条件となるのである。無論この想定は、社会科学の観点かられば、構成した一種の虚構であることになる。社会的な現実における国家とは、公的官僚制以外の何物でもない。それは議会、裁判所、学校、そして公共サービスが担当区域となる一方で、政党、インタレストグループ、政治的目標を追求する社会運動、あるいは有権者さえも、国家の領域からは排除される。これらの存在は、国家の外部から国家に入力(input)を与えるという訳だ。こうした存在政治システム存在を認識するのは、政治的な権力の中心として国家が言及される場合に限られる。

社会システム理論は、こうした国家の内外の区別をまず棄却している。そして、単純な入出力関係は容認しない。政治システム社会システム理論的に観察する場合、国家とは、政治システム自己記述として構成された概念となる。複合的な諸システム、System of Systemsは、社会システムにおける進化の所産である。社会システム理論的に言えば、社会進化とは、システム分化の増大を意味する。それは、社会分化することで、その複合性の縮減を実現していることを意味するのではない。むしろ社会は、分化することで更にその複合性を増大させている。自己言及的システムは、自らの複合性を利用する能力を次第に喪失していく。そして外部環境に対する如何なる適応的な機構も構築できないとなれば、システムは瓦解することになるであろう。

それぞれのシステムは、自らの複合性システムの目的を達成するための手段として利用することができない。何故ならそれぞれのシステムは、自らの複合性システムの内部に導入することが不可能であるためである。それは、本来の複合性反射させて、倍加させ、超複合的(Hyperkomplex)なものにしてしまう。それ故、システムの内部におけるシステムに関連するあらゆる自己言及とそのコミュニケーションは、自己自身を単純化させる装置を必要とする。それは自己自身の複合性の縮減可能にする機構である。つまり、政治システムにおけるある種の自己同一性(Identität, identity)を可能にする機構が求められるのである。そして、政治システムにおけるこの自己同一性(Sichselbstgleichheit)の機構を担うのが、国家なのである。

このシステム自己同一性は、システム自己記述によって可能になる。複合的なシステム自己記述によって実現するのは、自己自身の分化の増大と分化した各サブシステムにおける複合性の増大を背景に、自己単純化装置としての概念の意味論展開することである。

これを前提とすれば、国家は、政治システムのサブシステムではない。それは政治の部分ではないのである。国家は、公的官僚制でもなければ、それぞれの決定が帰責される集合人格という的な虚構に尽きる訳でもない。それは政治的な行為参照点として、政治システムに再導入(re-entry)された政治システムである。

このような政治社会システム理論的な記述は、国家歴史意味論政治システム社会構造との関連を明確化する。この理論的な視点かられば、立憲国家(Verfassungsstaat)が政治システムの一つの特殊ケースであることの意味が明確化する。この観点は、福祉国家(Wohlfahrtsstaat)に関連した諸問題を設定して、政治の中核的な機能である集合的な拘束力を有する意思決定に潜むパラドックスを解明する。

問題解決策:歴史的な概念としての国家

中世までのヨーロッパ社会では、政治の単位は人格集合体を超えるものではなかった。それは未だ、経済から独立してはいなかった。それが中世後期になると、徐々に政治の単位が人格から領土へと移り変わっていった。宗教改革を待つまでもなく、教会の公的な方針に対すると味方の区別は、政治の単位の一つとなっていた。そしてこのと味方の区別によって、政治宗教分化が促された。結果的に政治組織は、固定的な境界の内部で国々を統治することで、独立した絶対的な主権を維持しようと試みた。だが政治システムは、それ故にますます複合性を増大させた。そしてそれ故に政治システムは、それ自体の統一を表す代表を必要とした。

フリードリッヒ・ヘーゲルにとってすら、君主は不可欠な象徴となっていた。君主は必ずしも強力な人格であると認識されていた訳ではない。しかし、その人格に備わる不可分によって、君主は複合的なシステム統一代理表象する概念として認識されていたのである。

以上の事態は、システム分化の増大が各システム複合性を増大させる事態の一例である。そして当初の政治システムにおいては、統一象徴としての君主の概念が、自己記述複合性の縮減可能にしていた。しかしながら、自己記述可能にする概念は、社会構造意味論に方向付けられる形で、次第に変異していくことになる。

もとより、国家が発現したのが中世後期なのか16世紀なのかは議論の余地がある。しかしいずれにせよ、意味論的な概念の形式化は、社会構造変異に対して相対的に遅れて到来する。特別な国家理性に関する議論は、ルーマンによれば、火よりも煙を生じさせるものであった。煙として振り撒かれたのは、特定の情勢、特定の責務、特定の公益が、や道徳による制限を如何にして免除され得るのかという問題である。言い換えればそれは、中世に由来する「特例(derogation)」の問題である。

この「特例」の問題を解決することの難易度は、後に「国家緊急権(ius eminens)」と呼ばれる事象との関連から増大している。それは、特例と非特例区別する上での可能性の諸条件を整理することが困難になったことを意味する。これは君主の私的利害関心と公共の福祉の配慮とを強く分離することが困難になったことの表れでもある。それは、少なからず即座に政治システム自己記述可能にする上では、阻害要因となった。

国家概念の意味論は、この関連から変異した。それまで国家は、他の何かの状態を形容する概念であった。しかしそれは間も無く、それ自体の目的を表す用語となる。それは、政治的目標と活動の多様統一する概念となった。

尤も18世紀は、尚も旧い市民社会意味論を保持していた。それ故この時代における新しい国家意味論は、非常に広い意味での「政治的なるもの」から区別されていた。19世紀は、その帰結として、政治国家に関連する事柄の全てであると規定されるようになる。

かくして、国家歴史的な概念となった。それは、それぞれの時代の社会構造との関連から、その意味論変異させる概念である。それは歴史において差異を生む。それによりその意味論は、社会構造変異を方向付ける。しかし、近代社会における各時代の国家意味論は、取りも直さず、近代国家の概念についての意味論である。それ故にこの国家意味論は、後続の近代社会の社会構造との関連からも、国家の概念を方向付けることになる。

問題解決策:脱パラドックス化の形式としての立憲国家

システム自己記述は、システム自己同一性形式化する。しかしながら、自己同一性は、差異を設定することによってのみ成り立つ。同一性とは、差異同一性差異によって構成されているためである。したがって、自己同一性に関わる概念の歴史意味論は、様々な<区別区別>の概念史となる。古代における市民社会では、ポリティア(politeia)とポリツァイ(Polizery)の区別が、非文明的な野蛮状態との差異を前提としていた。18世紀は、分業の導入によって成立した自然状態と文明の区別によって、市民社会形式可能にする差異再構成していた。かくしてヨーロッパ社会は、自己自身を自然状態から文明へと進歩していく存在として記述することを可能にしてきた。

これらの<区別区別>に基づく記述は全て、全体社会自己記述である。国家の概念は、この全体社会自己記述との関連から形式化され続けた。そしてこの進歩史観における国家意味論は、新しい位置関係を得る。それはもはや政治社会それ自体として想定されるのではなく、国家社会区別を主導的差異として扱う。市民社会における伝統的な意味論比較すれば、それはもはや対外的な差異ではなく、対内的な差異となる。対内的であるというのは、システムシステム内部に対してのことである。要するに対内的であるというのは、自己言及的であるということなのだ。この意味で、この意味論によって形式化される国家概念こそが、政治システム自己記述として機能することになったのである。

この国家概念の意味論的な変異は、「立憲国家」の土台を築き上げた。政治神学的な言い回しを借用するなら、憲法主権を自ら限定するという奇跡を演出する形式として仮定された。この意味憲法とは、一つの文書の中で、制限と非制限の双方を結び付けるパラドックス化した制度である。憲法は、<制限している/制限されているもの>と<制限していない/制限されていないもの>を緩やかに結び付けるメディアとなる。

しかしこの憲法パラドックスは、君主憲法を授与しなければならない都合から、論理的な不可能性として認識されるのではなく、ただ政治闘争の産物として理解されてきた。つまり、憲法が原理的にパラドックス化しているからこそ、この問題に向き合う機能システムが必要となるという訳だ。そうした機能システムは、まさに自らが専門とする問題が解決可能であることを以って存続する。問題を解決するためのシステムは、問題が残存し続けることを糧として延命するのである。こうして、パラドックスを抱え込む憲法の営みそのものが、政治的問題領域の可能性とその諸条件を規定する一つの政治的なコミュニケーションとして認識されるようになったのである。

こうした機能システムとしての政治におけるコミュニケーションでは、憲法国家の属として認知される。国家はその憲法によって識別し得る一つの実体として参照されるようになる。国家憲法はこの限りで相互に補完し合う存在となった。政治の場において、パラドックスという論理的な問題が実際上有害な問題となることは無い。それはむしろ政治的な抵抗を遮断する上で機能した。その帰結が、いわゆる「民主主義的な」政治的権力機構なのである。

派生問題:憲法は如何にして可能になったのか

ここまでの記述は、ありふれた歴史認識を社会システム理論的に再記述した内容に過ぎない。我々の問題との関連で言えば、まだ疑問は残っている。それは、国家政治システムの再組織化に利用することが如何にして可能になったのかである。この国家概念という政治システム自己記述が、基本的人権権力分立の抵抗、公職選挙などを含めた複合的な憲法の諸規定の枠組みを如何にして構成し得たのかが、まだとして残されている。

問題解決策:政治システムの再導入

これに対する問題解決策となるのは、「再導入(re-entry)」という論理学概念である。システムは、システム外部環境差異システムの内部に再導入することによって、自らを観察して記述することを可能にする。システムは、システム外部環境区別に方向付けられることによって、情報を処理することを可能にする。システムは、システム外部環境差異境界を知るだけではなく、その差異システム内部に導入された区別として、その差異同一性を利用することによって制御することもできる。

この再導入という概念を前提とするなら、国家社会区別は、憲法とその解釈のための前提の重要な要素となった。政治システムは、<社会の内部>に位置しながら、<政治システム自身の自己記述としての国家>を<社会の外部>に位置するかのように記述することで、<社会システム外部環境区別>を<社会システムとしての政治システムの内部>に再導入する。立憲国家は、この作動上のパラドックスに対する形式となる。

しかし政治システムの作動を安定化させるには、このパラドックス脱パラドックス化されなければならない。脱パラドックス化は、区別を導入することで実現する。つまり、一方と他方を区別することで、パラドックス化しているのは一方であり他方ではないという形式的な境界線を引くのである。だが、問題を派生させない問題解決策があり得ないように、パラドックスを派生させない脱パラドックス化もあり得ない。脱パラドックス化とは、パラドックスを別様の形式に変換することを意味する。国家のそれ自体パラドックス化されている憲法の制度は、この意味で、政治システムに再導入された国家というパラドックス脱パラドックス化するために機能していたと考えられる。

派生問題:マッチポンプとしての福祉国家

後にこの立憲国家は、政治システムの――進歩ではなく――進化が進行したことによって、福祉国家へと変異することとなる。これは、国家がその憲法を維持できなくなったということを意味するのではない。無論、国家憲法を必要としなくなったことを表すのでもない。立憲国家から福祉国家への移行が意味するのは、憲法規範では解決可能な新しい諸問題が生起したということである。

この立憲国家から福祉国家への移行は、政治システム自己記述意味論変異が生じたことも言い表している。既に述べたように、立憲国家的な外観と再導入のパラドックスを抱えて作動している。このパラドックスを絶えず脱パラドックス化し続けることで、立憲国家の表層が保たれている。一方、福祉国家はこのパラドックス脱パラドックス化の関連を展開して、そこに新しい形式を導入している。

通常、福祉国家が記述される場合は、国家責任歴史的に強まっているという経緯が主題となる。福祉国家で描かれる我々の日常生活は、増大する財政負担、官僚制度と制度、そして国家制御された諸々の決定に依存しているとされる。福祉国家として記述された国家では、進歩の是非は問わずとも、その発展無限に持続する訳ではないという現実を前提とした上で、進歩に組み込まれた危機的状況が主題となるのである。

言い換えれば、福祉国家とは危機的状況にある国家である。しかしそれは必ずしも絶望的な状況を問題視している訳ではない。と言うのも、福祉国家においては、弱者を擁護して保護する立場を表明することによって、自身の政治的な優位を獲得すると共に、国家に政権交代のような変異をもたらすと期待できる国家でもあるためだ。

もう少しアイロニカルに言い換えるなら、福祉国家とは、自らの権力を維持または増強しようとする者たちが、国家危機的状況を願う国家である。

しかしこの指摘は、立憲国家に対する先の分析とは異なり、パラドックス発見に資する訳ではない。社会の<持続する成長>とは、パラドックスではなく、単に不可能なだけだ。ルーマンも述べているように、ここで問題となるのはむしろ、社会システムとその外部環境に対する政治システム影響力が増大している点である。政治システムが関与する主題が増えれば、それだけ政治的な問題解決策展開される領域を広げることになる。問題が解決策をもたらすのならば、解決策は新たな問題を派生させる。しかしそうした派生問題は、政治的な政策の帰結でもある。それは副作用として、政治システムフィードバックされる。しかも政治システムは公約をはじめとした既存の目標を維持し続けなければならない。政治社会的な機能である集合的な拘束力を有した意思決定は、決定者自身をも拘束する。だからこそ、この派生問題のフィードバックは物事をより困難にしていく。

リスクと危険の差異

ルーマンのこの問題意識は、彼自身が導入している「リスク(Risk)」と「危険(Danger)」の区別によって展開することができる。このリスク危険区別は、社会システム理論の主導的差異であるシステム外部環境区別を前提としている。社会システム理論的に言えば、外部環境との差異構成することで自己言及的に作動するオートポイエーシス的なシステムにとって、福祉国家が想定する諸問題は外部環境による刺激の一つとなる。その刺激の内容はどうあれ、その刺激はシステムの状態変化を伴わせる。ただし、システムが如何にその刺激の影響を被るのかは、システムそれ自体が自己言及的に規定することである。システムの状態変化がシステム自身に帰属される場合、システムはその状態変化をシステム自身の「行為(handlung)」による状態変化として意味付ける。一方、その状態変化が外部環境に帰属される場合には、システムはその状態変化を外部環境の「体験(erleben)」として意味付ける。

この「行為」と「体験」の区別を前提とすれば、リスクは、自らの意思決定という「行為」によって派生する諸問題である。その一方で危険は、そうした自らの判断とは無関連に「体験」せざるを得なくなる諸問題である。通常ならば我々は「リスク」と「安全」を区別している。だがルーマンのこの区別が言い表すのは、<より顕在的な問題>としてのリスクと<より潜在的な問題>としての危険差異である。我々がリスクを顕在的な問題として発見できるのは、その時には発見することのできない潜在的な問題に盲目的になっているためである。全ての問題を一時に発見し尽くすことなどできはしない。発見可能な問題と発見可能な問題を何処かで線引きしなければ、リスク観察など不可能なのである。しかし、あるシステム意思決定が「リスク」を取る「行為」となる時、他のシステムはその意思決定影響を被ることによって、その「危険」を「体験」せざるを得なくなる場合がある。だがその「体験」に関わるシステムもまた、その「危険」に相対するための意思決定を下すことができる。その時、意思決定者としてのシステム決定の被影響者としてのシステムは、立場を相互に入れ替えることになる。「リスク」を取る「行為」を選択していたシステムが、今度は「危険」を「体験」することになるのだ。こうして、意思決定の「行為」に関わるシステムが複合化すれば、<より顕在的な問題>と<より潜在的な問題>の様相もまた複合化する。

このリスク危険差異行為体験差異を前提とするなら、政治的問題領域が拡大していく福祉国家の傾向は、まさに福祉国家の諸問題を解決しようとする政治システムそれ自体のリスクを孕む意思決定行為」によって、政治システム外部環境に位置する人間が「危険」を「体験」せざるを得なくなっていることがわかる。そうした「危険」の「体験」は、たとえそれまでは個人の「リスク」と見做すことも可能であった諸問題をも、福祉国家の諸問題として再記述することを可能にしていく。怪我、病気、出産、失業をはじめとした生活上の諸問題も、今や貧困者を対象とした社会保障制度の解決すべき諸問題として再記述されている。

したがって福祉国家とは、以上のようなマッチポンプによって、政治的問題領域の肥大化を促進する国家意味する。その際、福祉国家救済されると想定されている貧困者たちは、<より潜在的な問題>となる危険に曝され続けることになる。彼ら彼女らは意思決定主体ではない。むしろそうした決定の被影響者であり続ける。問題が問題解決を生み出し、問題解決が問題を生み出すという図式は、以上のようなマッチポンプによって形式化される。

脱パラドックス化の形式としての時間

こうしたマッチポンプ的なパラドックスは、主に時間によって脱パラドックス化されている。それぞれの意思決定時間区別すれば、それぞれの意思決定によって派生する問題の発生時間差異化することができる。すると意思決定者たちは、「危険」と隣り合わせであるように思える意思決定を先送りすることもできるようになる。あえて意思決定を先送りにすることは、その意思決定によって派生する危険な諸問題を回避することを可能にする。「リスク」を冒さず時間を稼ぐ意思決定者の振る舞いは、決定の被影響者たちを「危険」に曝させないための重要な戦略となり得る。問題を解決しようとしないこともまた、一つの問題解決策として機能し得る訳だ。

だが社会システム理論的に言えば、脱パラドックス化は、また別様のパラドックスを派生させる。この場合、あえて意思決定を先送りにすることもまた、一つの意思決定として機能してしまうという点に、パラドックスが孕んでいる。あえて意思決定を先送りにするという意思決定によって派生する「危険」は、政治における意思決定の遅延の問題として派生する。それは、今まさに危険に曝されている者たちの救済の瞬間を逃すことに結び付いてしまうのである。

問題解決策:政治問題と社会問題の区別

以上のマスメディア政治におけるシステム作動の実態を確認するなら、「国家」を否定し弱者の救済を願う政治的活動たちが主題化する社会問題は、概ね現代が福祉国家であるが故に設定された問題に過ぎない。繰り返すように、福祉国家とは危機的状況にある国家である。しかしそれは必ずしも絶望的な状況を問題視している訳ではない。と言うのも、福祉国家においては、弱者を擁護して保護する立場を表明することによって、自身の政治的な優位を獲得すると共に、国家に政権交代のような変異をもたらすと期待できる国家でもあるためだ。福祉国家とは、自らの権力を維持または増強しようとする者たちが、国家危機的状況を願う国家である。

したがって、政治的活動たちが取り上げる問題は、話半分に聞いておくのが丁度良い。そうした活動たちは、福祉国家ゆえに可能となった政治問題を全体社会の問題であるかのように誇張する。しかし、そうした諸問題を全体の問題として設定する必然性は、何処にも無いのである。むしろそうした活動たちの声は、政治とは区別される他の機能的問題領域に潜在化している諸問題を聴取する上で、雑音となってしまう。

政治問題主題にすることは、選択可能ではあるものの、必然的ではない。この意味政治問題主題設定は、偶発的選択となる。むしろ社会システム理論が記述する機能的な分化という社会構造との関連から、関連する諸概念の歴史意味論社会進化論的な長期的展望から観察することの方が、社会の諸問題に関する実り多き発見可能にするであろう。

参考文献

  • Anderson, Chris. (2009) Free: The future of a radical price. Random House.
  • Luhmann, Niklas. (1990) Essays on self-reference, New York : Columbia University Press.
  • Luhmann, Niklas. (1997) Die Gesellschaft der Gesellschaft, Frankfurt/M, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (2000) Die Politik der Gesellschaft, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (2004) Die Realität der Massenmedien, VS Verlag.