進化の意味論、意味論の進化 | Accel Brain

進化の意味論、意味論の進化

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派生問題:偶発性定式の社会的文化的進化は如何にして可能になるのか

機能システムにおける偶発性定式社会機能は、問題を設定することが問題の解決策となり、潜在化しているパラドックスを暴露することがコミュニケーション活性化させるという等価機能主義的な社会システム理論観察によって、今や明快となった。一方で偶発性定式は、その意味論において、歴史に左右されないほどの抽象を獲得したことで一般化している。他方で偶発性定式は、個別具体的なコミュニケーションの如何なる文脈であっても、その文脈に応じた意味構成することができている。そして偶発性定式は、解決可能パラドックス主題化することで反復的な問題設定可能にすると共に、その主題貢献することが必然的であるかのような認識を普及させることができている。

しかし、偶発性定式に関するルーマンの洞察は、彼自身も認める通り、二つの理由で未完に終わっている。このことが、以下での問題設定となる。

その第一の理由は、全体社会との関連にある。ルーマンは、偶発性定式が全体社会に対して如何なる影響を及ぼすのかについて、結論を出せずにいた。この点から言えば、社会進化の岐路に立たされた全体社会に対して偶発性定式如何にして関わるのかという派生問題を設定することができるようになる。偶発性定式偶発性必然性というパラドックス脱パラドックス化として機能することを前提とするならば、偶発性定式としての諸概念が主題となるのは、このパラドックスが顕在化している場合である。この状況は、必然的な偶発性社会構造を攪乱することで、変異を増大させていることを意味する。言い換えれば、社会進化の契機にこそ、偶発性定式意味論的に動員される可能性が高まるのである。

しかしこの関連から、ルーマンの偶発性定式に関する洞察が未完である第二の理由についても、我々は留意しておかなければならない。それは偶発性定式の記述の問題と関わる。我々はルーマンが取り上げた主題以外にも偶発性定式があり得るのではないかと懸念しなくてはならないのだ。上述した各種の偶発性定式は、あくまでルーマンが社会構造意味論観察して記述したことで探索的に発見した成果である。それ故に、別のあり方でもあり得る方法理論を採用すれば、また別様の偶発性定式抽出できるかもしれない。

偶発性定式の発現が社会的文化的進化の兆候であるとするならば、社会構造意味論を前提とした進化論的に長期的な展望からこの主題コミュニケーションを分析することが、別のあり方でもあり得る偶発性定式発見探索可能にする。その際、社会構造意味論を前提とした社会文化進化において、言語というメディアには、相対的に時間的に制約された意味の貯蔵庫として、特殊な有用を認めることができる。ルーマンも認めているように、ある社会構造に対応する意味論は、何よりも言語的な形式によって保持される。多くの言語の変遷を読み取ることで、意味論如何にして活用されているのかを読み取ることができる。無論その全ての意味論言語社会理論として有用である訳ではない。問題を設定し、その主題における貢献として機能するか否かは、その都度の観察によって区別しなければならない。

ここで鍵となるのは、「進化(evolution)」の意味論だ。専ら進化論という主題において注目されてきたのは、ダーウィニスト、ネオ・ダーウィニスト、そして社会ダーウィニストによる貢献である。しかしこれらの進化論は、等価機能主義的な社会システム理論における社会進化論とは、全くの別物となる。ルーマンの社会進化論創発との関連から記述されている。創発的な進化とは、社会構造意味論変異していく現象を意味している。

問題解決策:ダーウィニズムにおける進化の意味論

元来ダーウィニズム(Darwinism)は、チャールズ・ロバート・ダーウィンが生物界の変異を説明する際に提唱した進化の概念を意味していた。したがって、ダーウィニズム進化論は、厳密には同じではない。進化論が進化に関わる諸概念を整理した理論であるのに対して、ダーウィニズムとは、進化如何にして実現し得たのかを指し示す意味論であったのだ。

進化意味論は、ダーウィン以前から語り継がれていた。彼の業績は、進化に関連する多くの証拠を纏め上げた点にある。ダーウィンによると、進化とは生物における質の累積的な変化を意味する。そしてこの進化という現象は、本質的に三つの原理の相互作用によって成立する。それは「突然変異(mutation)」、「遺伝(heredity)」、そして「生存闘争(strggle for existence)」だ。そもそも生物の個体には、たとえ同じ種であっても、それぞれ様々な変異を兼ね備えている。そうした変異の中には、世代から世代へと受け継がれることで遺伝する変異もある。更に遺伝する変異の中には、生存闘争における生存確率を高める変異や、繁殖力を高める変異も含まれている。結果的に、生存や繁殖に有利となった個体はその質をより多くの個体に伝えることができる。反面、不利となった個体の子は減少していく。

この進化の三原理における根幹を成しているのは、ダーウィンがアルフレッド・ラッセル・ウォーレスと共に提唱した「自然選択(natural selection)」の仮説である。この説によれば、生物に生起する変異は、厳しい生存闘争の舞台となる自然環境によって選択される。生存闘争は所与の自然環境に最も上手く適応した個体群に対して有利に働く。自然選択における選択肢となるのは、希少な資源を奪い合う個々の生物遺伝子(gene)である。進化という現象は、この自然選択によって方向付けられている。

問題解決策:ネオ・ダーウィニズムにおける進化の意味論

ダーウィンは自然選択進化の中核に位置付けた。彼は色や形や諸々の器官をはじめとした「形質(character)」の遺伝進化の要因であると考えていた。しかしダーウィンの後、動物学者アウグスト・ヴァイスマンが生殖質の独立説を唱えた。ヴァイスマンによると、遺伝情報は次世代の出発点となる配偶子を生成する生殖細胞にあるのに対して、身体構成する体細胞に生起した変異の効果が次世代に受け継がれることはない。つまり体細胞変異遺伝は無関係なのである。ヴァイスマンによれば、遺伝する質を世代から世代へと伝承していく生殖質は、身体の他の部分の変異と関わりなく不変である。遺伝する変異は、雄雌の生殖質が両混合されることによってのみ生じる。この変異自然選択が伴うことで進化が実現する。これによりヴァイスマンは「自然選択万能」の仮説を提示した。

ここからネオ・ダーウィニズムが始まる。ネオ・ダーウィニズムでは、ダーウィニズムにおいて信頼されていた混合遺伝説が否定される。混合遺伝説とは、両親の中間的な質が子の形質として受け継がれていくという仮説だ。だがこの混合遺伝説では、形質変異連続性を肯定することになる。事実ダーウィンは、自然が跳躍しないことを主張していた。その思想は、進化という概念を漸進的連続的進歩として捉える進歩史観に結び付いていく。しかしながら、これでは全ての個体の形質がいずれ平均化されてしまう。それは個体間の差異が消失することを意味する。これを問題視したネオ・ダーウィニストたちは、形質離散性を指摘するグレゴール・ヨハン・メンデルの粒子遺伝説を導入することによって、ダーウィニズムに伴う問題を乗り越えようとした。

粒子遺伝説は、同時代の専門たちが見過ごしていたメンデルの秘めたる業績であった。それは混合遺伝説とは真っ向から対立する仮説である。メンデルによれば、形質(character)にはその元となる粒子状の要素(element)がある。形質遺伝する場合、この要素が次世代へと受け継がれていくのである。粒子遺伝説が言い表しているのは、一対の染色体(chromosome)における対立形質に関する対立遺伝子(allele)が減数分裂的に離散することで別々の細胞に分配されるということである。尤もメンデルは、「遺伝子」という用語を使っていなかった。彼は単に遺伝的な要素を説明していただけであった。しかしこのメンデルの研究によって、遺伝子に言及する分子生物学が発展することになった。メンデルが論じた遺伝的な要素は、現代の「遺伝子」とほぼ同義であると言えよう。

分子生物学的に言えば、遺伝情報を伝達するメディアとして機能しているのは、デオキシリボ核酸(DNA)に他ならない。DNAは、アデニン(A)、シトシン(C)、グアニン(G)、そしてチミン(T)の4種類の塩基と1種類の糖とリン酸から構成されている。DNAにおける構成単位となるのは、これら4種類の塩基の中の一つを含んだヌクレオチドだ。DNA分子構造は、ヌクレオチドが結び付いた2本の鎖による二重螺旋構造になっている。DNAを介して伝達される遺伝情報は、このA、C、G、Tの一次元配列に格納されている。この配列によって、遺伝コード構成される。如何にして生物のたんぱく質を構成するのかは、このコードによって規定される。たんぱく質を構成するのはアミノ酸だ。遺伝コードは、このアミノ酸の接続を規定することによって、生物のたんぱく質を構成しているのである。だがDNAの塩基が4種類であるのに対して、アミノ酸は20種類ある。1個の塩基に1個のアミノ酸を対応させていては、たんぱく質の構成が限定されてしまう。したがって遺伝コードにおいては、1個のアミノ酸に3個の塩基が対応するように設定される。つまり3個の塩基による4^3=64通りの組み合わせによって、20個のアミノ酸の接続を可能にしているのである。この3個の塩基によって1個のアミノ酸を規定するためのコードをトリプレット・コドンと呼ぶ。たんぱく質におけるアミノ酸配列は、複数のコドンが連鎖することで構成される。こうして構成されたたんぱく質が酵素として機能することで、生物形質が規定される。それ故に遺伝子は特定のたんぱく質を合成するDNAの部分列となる。細胞システムにおけるDNAの大多数は特に細胞分裂時に核内に発現する染色体に局在する。それ故この染色体構造DNAの担い手であると考えられている。

ネオ・ダーウィニズム分子生物学と共に発展してきた。進化生物学者クリントン・リチャード・ドーキンスは、この遺伝子利己的な側面を強調して論じている。ここでいう「利己的(selfish)」であるというのは、自己の生存率と繁殖率を他者の生存率と繁殖率よりも高めることを意味する。逆に利他的であるというのは、他者の生存率や繁殖率を自己の生存率と繁殖率よりも高めることを意味する。例えば子供を守り育てる親の行動は、一見して利他的である。この場合、親は自己の生存率を犠牲にすることで、子供という他者の生存率を高めようとしているのだ。しかしながらドーキンスによれば、自然選択の単位は遺伝子だという。生物の行動が選択されるのではなく、遺伝子こそが選択されるのだ。たとえある遺伝子によって方向付けられた行動が一見して利他的であったとしても、その行動が遺伝子それ自体の複製可能性を高めるのならば、以後その遺伝子はその行動を頻繁に促進するようになるのである。事実子供を守り育てる親の行動は、親から子供へと受け継がれた遺伝子を守り通すという点で、遺伝子それ自体の生存率や繁殖率を高めることに貢献する。こうした行動は、生物個体の視点でれば利他的であっても、遺伝子の視点でれば利己的なのである。彼の遺伝子中心視点によれば、生物個体は遺伝子によって利用される乗り物に過ぎない。遺伝子は、親の身体から子供身体へと乗り換えていくことによって、自己の生存と繁殖を維持しているのである。

問題解決策:社会ダーウィニズムにおける進化の意味論

ドーキンスは、彼の進化生物学を社会的文化的進化にも適用しようとしている。その発端となるのが、彼自身が提唱した「ミーム(meme)」の概念だ。ミーム社会的文化的進化における遺伝子に相当する比喩である。ミーム理論によれば、社会文化進化は、ミーム自然選択によって生じてきた。コミュニケーションにおいて発生する情報や行動は全てミームによって方向付けられている。マスメディアウェブ上で伝達されるデータの洪水にもミームが絡んでいる。我々の行動様式やアイディアや概念規定は、全てミームによって予め限定されている。ただしミームは、自己を正確に複製する訳ではない。それ故にある行動様式、アイディア、概念のミームは、他の行動様式、アイディア、概念のミーム結合することや、互いに修正し合うことができる。こうして新たなミーム構成される。個々のミームの中から選択されたミームがより効率的に自己を複製するミームとして生存していく。我々が現在自明視している諸々の行動様式、アイディア、概念規定は、こうして生き残ったミームによって規定されているのである。

ミーム理論社会ダーウィニズムにも影響するところ多大であった。だが元々の社会ダーウィニズムは、自然選択説を人間社会に応用することで、弱肉強食の生存闘争社会において必然であるという見解を正当化するために持ち出された説であった。しかしながらハーバート・スペンサーのような社会システム理論たちは、この社会ダーウィニズム進歩の原理としても位置付けている。スペンサーは生存闘争を強調するだけではなく、競争社会は最終的に闘争の無い社会に到達するという思想も展開していた。事実スペンサーの社会ダーウィニズム進化論とキリスト教の融和を目指す理論でもあった。彼の進化論は、 無神論を強調するドーキンスのそれとは全く別物なのである。

これは社会ダーウィニズムではない

ドーキンスに由来するミーム社会進化論は、比喩に頼り過ぎている。生物界の進化概念を社会的文化的進化を説明する比喩として用いれば、新たな発見も確かに得られるだろう。しかしルーマンが指摘しているように、比喩を用いた分析方法では、類似していれば何でも結び付けて構わないという誘惑に駆られてしまう。例えば社会ダーウィニズムが弱肉強食の生存闘争を正当化するために利用されていたのは、こうした誘惑に魅了されてしまった者たちがいたためだ。

もとよりルーマンも、進化のみならず、オートポイエーシス構造的な結合など、生物を言い表す様々な概念を社会学に導入してきた。だが彼がこうした概念を援用していたのは、ただ単に類似していたためではない。彼の概念の抽象化による機能的再利用可能性の確保から始まる等価機能分析比較観点かられば、進化オートポイエーシス構造的な結合は、生物に限らず、普遍的な現象なのである。もとより生命システム細胞システム神経システムにおける進化オートポイエーシス構造的な結合と、意味システム心理システム社会システムにおける進化オートポイエーシス構造的な結合との間には、差異もあるだろう。それぞれのシステムは、それぞれ別様の形式で、進化オートポイエーシス構造的な結合を実行しているのである。だからこそルーマンは、比喩による分析方法ではなく、等価機能分析方法を実践したのだ。進化オートポイエーシス構造的な結合は、それぞれのシステムの作動を「比較」するための概念であるという点で、機能的に等価である進化オートポイエーシス構造的な結合という概念を援用することによって、等価機能主義的な社会システム理論たちは、諸々のシステムの「異同」を観察することができるようになるのである。

以下からは、専ら等価機能主義方法によって、社会進化という社会システムの現象を観察していくことになる。ただしこれは、社会ダーウィニズムではない。我々は全く別の様相から社会進化論に接近していくことにする。

問題解決策:スペンサーの「適者生存」

社会学の創始者の一人であるハーバート・スペンサーは、最も早期に社会進化論に取り組んだ者の一人である。スペンサーは、有機体の隠喩を採用することで、社会を「システム」として把握していた。彼の社会学は、この社会システムを維持のシステム、分配のシステム、そして規制システム区別することで、社会システムの「構造」と「機能」を分析する方法を提起している。系譜の遡及に拘る者たちならば、この社会有機体説を構造機能主義の先駆けとして位置付けるだろう。

スペンサーは、自然生物のみならず、社会文化宗教もまた進化するものとして捉えた。スペンサーが論じた進化とは、単一から多数への変異、単純から複雑への変異、あるいは同質から異質への変異抽象的に描写した概念である。こうした彼の社会進化論は、自由放任と有機体的社会特徴付けられている。社会進化の初期の段階では、戦争が生活するための事業となっていた。だが教会が支配的となった時代になると、戦争以外の選択肢が増大することで、次第に自由度が拡張されていく。教会の支配の時代では、社会進化知識や知的能力で成立していた。

ところが近代社会に突入すると、産業化によって、更に自由度が増していく。この段階になると、社会に様々な産業能力が広まる。産業の制度化は、この能力に対応するように構築された。スペンサーが指摘した進化とは、分業による協働の進展を意味する。だが多数、複雑、そして異質が増大していけば、社会文化に混沌が這い寄る。そこでスペンサーは、社会文化がこうした混沌に対処するためには、「適者生存(survival of the fittest)」の自然選択が必要であると考えた。例えば職業の自然選択は、多数、複雑、そして異質の増大に対応する社会組織を成立させる礎となった。このようにスペンサーは、あくまで社会構造自然変異として進化を捉えていた。そこに人間中心主義的な発想は無い。そのため彼は、人類の「進歩(progress)」ではなく、社会構造進化(evolution)を強調したのである。

問題解決策:パーソンズの「二重の偶発性」

スペンサーの社会進化論は、言わば社会における弱肉強食を承認するために有用となる理論である。ここでいう強者とは、適者生存による生き残りである。パーソンズは、こうした社会進化論を提唱したスペンサーの批判者として現われた。パーソンズによれば、アメリカ社会はもはやスペンサーの社会進化論が適用される状況ではない。アメリカ社会は、社会の外部に位置する境地(Frontier)を目指して自己拡張させても、社会の内部における矛盾した対立関係を解消できる訳ではなくなった。地平の彼方にあるとされた境地は、今はもう無い。境地が無くなれば、既存の大地を巡る競争に打ち勝つことで生き残るしかない。社会の内部の矛盾した対立関係は、いつまでも解消されないのだ。

パーソンズによれば、この状況は「ホッブズ的問題」を生み出す。つまり、限られた利益を巡り個々人が功利的に自己利益を追求する場合、社会的な秩序は如何にして可能になるのかという問題が発生するのである。個々人が互いに相手の出方次第で選択を変えるようになれば、その混沌とした状況は、「二重の偶発性(Double contingency)」を生み出す。パーソンズは、この問題を共通の価値や規範を受容することで解消しようとした。ここでいう受容は、二つの要因で成り立つ。第一に、個々人が共通の価値や規範を自身のうちに内面化することである。そして第二に、共通の価値や規範を具体的に制度化することである。パーソンズは、この価値や規範を巡る内面化と制度化によって、二重の偶発性という問題を乗り越えようと考えたのである。

パーソンズが想定する社会システムは、地位と役割システムである。地位の構造に帰属された個々人がその地位に相当する役割を演じることによって、社会的な秩序は安定的に維持される。個々人が社会構造に方向付けられる形で社会の安定貢献する機能を担うことで、社会構造もまた維持されるのである。

パーソンズの構造機能主義方法から記述された社会システム理論には、動態的な社会が欠けているという批判が殺到した。だがその実、彼は社会システムを静態的な社会としては捉えていなかった。彼もまた社会進化を論じていたからである。パーソンズによれば、これまでの社会進化は原始、中間、近代へと進展していた。原始社会から中間社会への進化は、主に言語によって実現した。中間社会から近代社会への進化は、規範的な秩序を制度化した法システムをはじめとしたコードによって果たされる。とりわけ原始社会から中間社会への進化において鍵となったのは、書き言葉である。書き言葉で記述された記録は社会システムの安定化に貢献する。記述された記録は、文化の累積的な発展を基礎付ける。書き言葉社会システム文化システム分化を促進させることで、文化システムの射程を拡張した。文化内容は、書き言葉で記述されることによって、相互行為時間的な文脈空間的な文脈に左右されずに表現されることになる。

近代になると、社会進化は専ら機能的分化したサブシステムの再配列によって果たされるようになった。パーソンズによれば、様々な要因から進化することへの圧力を受けると、社会システムは内的に分化する。言い換えれば、進化しようとする社会システムは、役割機能的分化させるのである。この機能的な分化によって、それぞれの役割はそれぞれの専門分野の問題解決に特化することになる。それが結果として社会全体の問題解決能力の増大に資するという訳だ。しかし、機能的な分化によって、既存の社会的な秩序もまた変異することになる。この秩序の変異を放置しておけば、社会は混沌した状況で分裂していくことになる。そこで社会システムは、恒常性を発揮することによって、社会の外部へと分裂していくそれぞれの機能システムを改めて再配列する。それにより、社会システムはそれぞれの機能システム社会の内部に包摂しようとするのだ。この包摂に成功すると、社会システムは新しい価値や規範を共有できるようになる。個々人に内面化されるべき価値や規範も変わる。価値や規範を具体化する制度もまた変化する。こうして一旦混沌と化した社会システムが安定化することで、一先ず社会進化の決着が付くのである。

問題解決策:ルーマンの「前適応的な自然漂流」

しかし、これまでのシステム理論たちの社会進化論では、複合性偶発性で満ちた環境の中で、如何にして特定のシステムが存続し得るのかを十分に説明できない。組織システムであれ運動システムであれ、どのようなシステムも環境の複合性を縮減することで存続している。生存能力を持つシステムが環境から選択されるという視点を導入しても、システムの環境への適応という概念を導入しても、別のあり方でもあり得る進化形式の中から特定の形式だけが選択される理由を説明したことにはならないのである。

ルーマンは社会についてのシステム理論の視点から、この進化の問題を論述している。だがその進化論は、従来の社会進化論とは明確に区別されている。ルーマンの抽象的な定義によれば、システムの「進化」とは、生起する見込みのないことが高い確率で起こり得るようになるべく、構造変異していくことを意味する。ここでいう「変異(Variation)」は、コミュニケーションにおける否定や誤解や意図的な誤解により意味形式が変容した場合に生じる。例えばそれは、的紛争やテロ行為などのようなコミュニケーションによって生じるのである。この意味の変容が特に期待の不安定化に関わる場合、構造は不安定化する。この状況は「破局(Katastrophe)」の状況だ。システムオートポイエーシスを維持するには、この災禍の如き不安定化を招いている意味形式複合性を縮減しなければならない。そのためには、これらの意味形式の中から意味論として機能し得る形式を規定する必要がある。こうして特定の意味形式が採用されることを、ルーマンは進化における「選択(Selektion)」と名付けている。選択された意味論の候補が実際に意味処理規則として機能し始めると、不安定化した意味形式正常化する。この正常化をルーマンはシステム構造の「再安定化(Restabilisierung)」と呼ぶ。

このように、社会システム進化変異選択再安定化区別で説明されている。ただし、進化により変異するのは構造である。進化では、社会それ自体は変化しない。近代社会は、進化しても、近代社会のままである。社会システムはそのままなのだ。と言うのも社会システムは、構造上の変異が生じた場合に、全体社会の内部で機能的分化しているサブシステムモジュールを再配列するからである。これにより、構造上の変異から派生した複合性を縮減することに特化した機能的なサブシステムを改めて用意することが可能になる。

このサブシステムとしての機能システムが再配列されるのは、意味論による影響である。社会システム構造上の変異から改めて意味論選択されると、その社会システムコミュニケーションは、その意味論が貯蔵する主題における適切な貢献へと機能的に方向付けられていく。特定の意味論に依拠する社会システムは、その意味論で指示し得る特定の主題を前提とした特定の貢献しかできない。だからその貢献世界の部分への貢献に過ぎないのである。依拠する意味論が異なるそれぞれの社会システムは、それぞれ別様の機能的な方向に特化した社会システムへと分化していく。これが全体社会のサブシステムである機能システムとして再安定化していくのである。

前適応的な自然漂流

こうしたルーマンの社会進化論には、目的論的な自然との接点が無い。システムは、何らかの目的を達成するために進化しているのではないのだ。環境はあくまでも不確定である。システムは、その都度環境の不確定に見合うように構造を組み替えている。故にその進化もまた偶発的に引き起こされる。ただしその変異は、決して外部の環境への「適応(adaptation)」なのではない。何故なら自己言及的オートポイエーシス的なシステムは、作動の閉鎖性を有しているからだ。ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが述べたように、進化における変異は、「自然漂流(natural drift)」として生じる。すなわち、システムシステム自身でその構造コードを組み替えることによって、進化が成り立つのである。

ここでいう進化(evolution)は、進歩(advances)ではない。それは段階的な過程を通じて進展していく発展とは別物である。むしろルーマンの進化概念は、創発の概念に直結している。この意味進化には飛躍が伴う。ただしここで注意しなければならないのは、進化の前提となり得る条件が全く無いという訳ではないということだ。実際、生物進化の中には、しばしば他の機能を担っていた形質進化の前提となる機能に転用されることで成り立つ進化もある。よく引き合いに出される仮説が示しているように、爬虫類から鳥類への進化には、こうした機能の転用が伴っていた。単に鳥類を爬虫類の進化形態であると考えるだけでは、この進化はあまりにも起こりそうもない現象と思えてしまうために、到底信じられなくなる。だが、元々爬虫類が羽毛を有していたと考えれば、この進化も無理なく受け入れられるようになる。この場合、爬虫類の羽毛は体温調節のために機能していたと推論できる。そして、この羽毛が飛翔するための機能として転用されることによって、空を飛ぶ鳥類の進化が本格的に現実化するようになったのである。

進化論においては、こうした既存の機能の転用による進化を「前適応(preadaptation)」と呼ぶ。この前適応による進化は、社会システム進化においても十分に起こり得る現象である。例えば元来コンピュータは、アメリカ政府の国勢調査におけるデータを処理するために機能していた。コンピュータ・ネットワークは、国防総省の情報管理のために機能していた。大型のコンピュータは、専門組織によって事実上独占されていた。しかし後に1970年代のハードウェア関連のハッカーたちやUnix関連のハッカーたちが一般市民を前にしても機能するツールを設計したことによって、社会構造Webを利用する一般市民を背景変異したのである。ハッカーたちによるパーソナル・コンピュータやLinuxの設計は、かくして社会進化を引き起こしたのだ。

「前適応」の用語法

ルーマンは「前適応」を指して「前適応的進歩(preadaptive advances)」という用語を使用していた。だがこの用語では、システム理論における進化が「適応」や「進歩」に結び付いてしまうという誤解を与え兼ねない。そのためここでは、一先ず「前適応」という用語を使うだけに留めて置いた。

社会構造の変異

構造は、選択肢を限定する選択として機能するのであった。構造が予め選択肢を限定しているからこそ、システムは限られた選択肢を冗長的に選択し続けることが可能になる。それによりシステムオートポイエーシスを維持できるようになる訳だ。しかし、環境が突如偶発的構造が前提としている選択肢とは別のあり方でもあり得る選択肢を突き付けてきた場合、構造機能不全となる。この危機を乗り越えるには、構造を組み替える必要がある。その結果として意味論再構成が始まる。かくしてシステム構造進化するのである。

ルーマンによれば、社会進化におけるシステム分化の進展は、メディア形式の新しい差異を導入することに関わっている。と言うのも、従来の歴史的な拘束や制度的な拘束から自化できる新しいメディア構成することによって、そうした拘束から解放された形式構成することも可能になるためである。だとすれば、進化における「破局」と各システム分化が伴う時、新しいメディア如何にして設計するのかが、社会進化を成立させる鍵となる。

機能的等価物の探索:社会進化の知覚メディア

従来の歴史的な拘束や制度的な拘束から自化できる新しいメディアを設計することが、社会進化を成立させる鍵となる。この点、マーシャル・マクルーハンのメディア論は、社会進化メディアの関連を明示する理論として読み取れる。マクルーハンによれば、メディアを契機とした社会進化は、「感覚比(Sense Rations)」の変異を経由することで実現する。感覚比とは、五感の配分率である。活字メディアが中心となっていた時代では、視覚的(visual)な感覚の配分率が高まっていたのに対して、電子メディアの時代では触覚的(tactile)な感覚が優位となる。

この論点はベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』で展開される知覚メディア美学とも関連している。ベンヤミンが論じる触覚は手続き記憶的にパターン化された知覚の反復による習慣形成へと結実していくのであった。マクルーハンの場合は、電子メディアの触覚は「パターン認識(pattern recognition)」へと結実していく。また双方は、過剰刺激に対する全身での享受を意味するという点で一致している。実際マクルーハンは、活字メディアが単一感覚的な知覚をもたらすのに対して、電子メディアは複合感覚的で同時多発的な知覚をもたらすと述べていた。この描写は、ベンヤミンが論じたショック作用が至近距離から感覚器官へと四面楚歌の如く流れ込む事態の言い換えである。

歴史的裏付け:グーテンベルグ銀河系

マクルーハンは、ヨハネス・グーテンベルグが15世紀に活版印刷術を発明したことに多大な関心を抱いていた。彼によれば、この複製技術の登場は、写本文化終焉意味していた。確かに活字の印刷が可能になったことにより、写本の筆写者や修道士たちが職を失った。だがそれよりも重要なのは、印刷技術の社会的な影響力である。マクルーハンによれば、グーテンベルグの発明書き言葉機械化を招いた。そして、民族主義と民族語を確立へと導いたという。

大量の本が複製することが可能になると、印刷という新しいメディアは、人々に私的なアイデンティティの念を形成させた。それにより人々は、言語の標準化をそれまで実現不可能であった水準で強制されることになった。印刷された書き言葉は、「正しい」綴りや読み書き(literacy)の尺度となったのである。

文章という旧いメディアは衰退しなかった。グーテンベルグ銀河系意味論では、むしろそれが強化されるに至る。マクルーハンによると、アルファベットが登場する以前の時代では、人間たちのコミュニケーションは全ての五感を同時的に駆使していたという。というのも、何かを物語るためには、話し言葉のみならず、<ボディ・ランゲージ>によって、全身を動かすと共に、視ることと聴くことの両方が求められたからである。マクルーハンはこの関連から、書き言葉が普及される以前の時代では、話し言葉に対応した聴覚空間(acoustic space)が広がりを見せていたという。

ところがアルファベットという書き言葉メディアとして普及すると、話し言葉に携わる者たちが受ける同時多発的な感覚は、「視覚」という単一の感覚へと縮減されることとなった。聴覚空間には、方向や地平が無い。だが書き言葉が普及すると、その空間有限で線的な秩序で構造化された合理的空間へと変異することになった。このことによりマクルーハンは、グーテンベルグの活字出版が線的で連続的思考を我々に強制するようになったと指摘している。

マクルーハンに倣えば、このグーテンベルグ銀河系の線的な連続性は、その後の社会進化に多大な影響を与えている。視覚が強化され、視覚の感覚比が高まると、聴覚は脇に追いやられた。この感覚比変異によって、文字文化意味論言語的なコミュニケーションを超えて社会システムへと影響を与えることとなった。例えば経済の領域では、工場や鉱石類の短距離輸送で使用されてきたベルトコンベア・システム象徴されるように、産業を線的で連続的な秩序で特徴付けてきた。学問の領域では、アイザック・ニュートンやルネ・デカルトなどのような観測者たちが、物理的な現象を空間時間の中に位置付けることによって、宇宙を線的に捉えようとしてきた。芸術の分野では、遠近が開発されている。また文学の分野では、時系列という線的な構造によって物語を進める形式が自明視されていた。

しかしながら電子メディアが普及すると、この線的で連続的な秩序が破綻することになる。電子メディアメッセージは複合感覚的で同時多発的なショック効果を生み出す。電子メディアのユーザーの感覚比は、あらゆる感覚を総動員するべく変異する。とりわけその中でも重視されるのが、ベンヤミンも注目していたように、触覚なのであった。もはや活字メディアで集中的に動員されていた視覚は、五感のうちの一つに過ぎなくなる。

電子メディアの代表作はテレビである。マクルーハンはテレビの映像を二次元平面的なモザイクに喩えている。モザイクは不連続で非線的である。活字メディアのユーザーとは異なり、テレビモザイクを閲覧するユーザーは、その映像を線的に視認することができない。テレビモザイクは、連続性を持たないのである。だから視覚の感覚比が相対的に高まることもない。マクルーハンはむしろ、テレビは触覚の感覚比を高めるという。確かにテレビは眼で視るツールだ。だがそこには音声が伴う。そして、例えば映像に映し出される公民権運動のデモ行進の参加者たちの主張や身振り素振りを族と談話しながら視聴することができていたことから察するに、テレビのユーザーは全感覚を総動員している。

マクルーハンはテレビの歓迎者ではない。ブラウン管に釘付けのまま育ったテレビっ子たちは、触覚の感覚比を高める一方で、視覚の感覚比を相対的に低めてしまう。視覚の感覚比の低迷は、従来の活字メディアに対する対応能力の低下を意味する。それ故にテレビを見続ければ、それだけ教科書や論文を集中して熟読する能力が衰えていくのである。だからマクルーハンは、テレビ教育への「影響」を阻止するためには、活字メディアも併用しなければならないと考えていた。

知覚メディアを背景とした構造的な結合の歴史における「共進化」

こうした社会システムメディアを見渡してれば、ヴァレラが述べている認知システム外部環境構造的な結合歴史進化背景にしているということが、これまで以上に明確化してくる。と言うのも、マクルーハンやベンヤミンが取り上げる知覚メディアが我々の認知システム変異形式的に方向付ける一方で、我々の認知システム再安定化がまた別の新しいメディアの設計へと社会システムコミュニケーションを方向付ける可能性があるからだ。

認知システムは、この意味で、単に外部環境による刺激に適応するために進化してきた訳ではない。言わば認知システム外部環境前適応自然漂流によって「共進化(co-evolution)」してきたことになる。そしてこの進化は、「意味」構成するシステム神経システム生命システムが共に偶発性に曝されている以上、今後も起こり得ることになる。

参考文献

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