実定法の社会構造と免疫学の意味論 | Accel Brain

実定法の社会構造と免疫学の意味論

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問題再設定:「問題設定は如何にして可能になるのか」という問題

先述したように、偶発性に曝されている近代社会では、各機能的問題領域における問題設定如何にして可能になるのかが問題となる。パラドックスを孕んだ言い方をすれば、問題を設定できないことが、問題となる。

は、この問題に対する問題解決策として、特筆すべき事例を提示している。と言うのもは、立法手続き裁判手続き区別を導入することで、「問題」として起こり得る紛争を予め先取りしているためである。しかしその先取りは、しばしば誤った問題設定として実現している。特にテクノロジーに起因した前例の無い「問題」となれば、は適切な理解を示せなくなる。先述した「チャットボット」に限らず、様々な機能を有した人工知能が開発されるようになれば、の無理解はより顕著となっていくであろう。

は、テクノロジーに対して無理解であっても、テクノロジーの「的な」問題を設定することを可能にしている。こうしたの作動の実態を観察すれば、誤解や無知は、問題設定の妨げにはならないということがわかる。以下では、このことを明快にするために、ソフトウェアに対する観察観察していくことにしよう。

問題設定:Librahack事件

2010年にLibrahack氏が巻き込まれた愛知県岡崎市立図書館の公式Webサイトの事件は、WebクローラWebスクレイピングの開発者が的な紛争に巻き込まれた有名な事例として知られている。しかしこの事件で問題視されていたソフトウェアの機能は、下手をすれば、API(Application Programming Interface)を介したcURL通信をはじめとするシステム連携の機能として一般化することもできる。

Librahack氏はこのサイトの新着図書一覧ページが使い難かったために、1秒間に1回の間隔で、1日2000回の接続を試みるプログラムを開発した。そしてこのプログラムが稼働していた同時期に、図書館のシステムが度々ダウンするようになった。最終的に、どういう訳かこれが警察沙汰となり、Librahack氏は逮捕された。

だが実際、その後Librahack氏は不起訴となっている。その理由は、Librahack氏に強い意図が証拠上認定できなかったためであった。1秒間に1回で、1日2000回の接続というのは、サーバ負荷でも何でもない。そもそも問題があったのは、図書館のシステムの側の不具合であることも判明している。それを改修したところ、システムはダウンしなくなった。

この事件の状は「威力業務妨害」であった。これは暴力等を使って他者の業務を妨害した者に課せられるだ。過失で妨害してしまった場合には適用されない。故に意図があったか否か、作為か不作為かが論点となる。いわゆる「未必の故意」という的問題も関係してくる。

最終的に不起訴になったとしても、Librahack氏が法的紛争に巻き込まれたのは事実である。個人であれ企業であれ、こうした紛争と相対すれば、金銭的あるいは時間コストを支払わざるを得なくなる。場合によっては、手にしたデータも手放さなければならなくなるであろう。

故にWebスクレイピングやWebクローリング、API連携に基づくマッシュアップ的なソフトウェアのアーキテクチャを設計する際には、事前に法的紛争の回避が如何にして可能になるのかについても考えておかなければならない。

問題解決策:法的妥当性の根拠付けとしての著作権法

Googleの検索エンジンればわかるように、Webスクレイピングやクローリングはそれ自体違法として観察されていない。しかし、幾つかの「但し書き」はあるようだ。実際、「送信可能化された情報の送信元識別符号検索等のための複製等(旧著作権法第47条の6)」と「情報解析のための複製等(旧著作権法第47条の7)」は、WebスクレイピングやWebクローリングの合法を根拠付けていると考えらえれている。

ただしこれらが違法ではないとされるのは、「送信可能化された情報の収集、整理及び提供」を政令で定める基準に準拠して実施している場合に限られる。ビッグデータ分析を目的としたWebスクレイピングやWebクローリングであっても、文章や画像の場合には法的紛争に巻き込まれるリスクは少ないと言える。しかし、音声や動画の場合は、「海賊版」に注意しなければならない。海賊版を収集してしまう可能性を十分に認知できていた場合には、リスクが伴う。ECサイトなどのような会員登録が伴うWebサイトのデータ収集に本格的に動き出す際にも、注意が必要だ。旧著作権法第47条の6を読むと、次のような記載がある。

「当該著作物に係る自動公衆送信について受信者を識別するための
情報の入力を求めることその他の受信を制限するための手段が講じられている場合にあつては、
当該自動公衆送信の受信について当該手段を講じた者の承諾を得たものに限る」

このため、会員登録してログインすることによって閲覧可能になるWebページについては、そのデータを収集する前にその運営者から許可を貰わなければならない。

更に付け加えておけば、一度データを収集したからといって、安堵に浸ることもできない。旧著作権法施行令第7条の5によれば、アクセス制限などによってデータ収集を阻止する処置が採られた場合には、収集元データ所有者の意向次第で、既に収集済みのデータも含めて削除しなければならなくなるだろう。

尚、2018年に改正された新著作権法では、「軽微利用」に限っては、WebクローリングやWebスクレイピングの自由度が増している。実際、改正著作権法第47条の5の「電子計算機による情報処理及びその結果の提供に付随する軽微利用等」では、「当該公衆提供提示著作物のうちその利用に供される部分の占める割合、その利用に供される部分の量、その利用に供される際の表示の精度その他の要素に照らし軽微なもの」に限って、旧著作権法第47条の6で記述されていた「自動公衆送信の送信元を識別するための文字、番号、記号その他の符号」を意味する「送信可能化された情報に係る送信元識別符号」のみならず、「検索情報」や「情報解析」の結果の他、「電子計算機による情報処理により、新たな知見又は情報を創出し、及びその結果を提供する行為であつて、国民生活の利便の向上に寄与するものとして政令で定めるもの」もまた合法として扱われるようになった。

ただし、「軽微利用」であれば、すなわち適であるという訳ではない。条文には、「当該公衆提供提示著作物に係る公衆への提供又は提示が著作権を侵害するものであること」を知りながら「軽微利用」している場合は、この限りではないとも記載されている。その「軽微利用」の文脈次第では違法になる場合もある。「軽微利用」と述べた場合の「軽微なもの」の定義もまた、その都度の的論争の文脈に左右される。単なる一例に過ぎないであろうが、「国外で行われた公衆への提供又は提示にあつては、国内で行われたとしたならば著作権の侵害となるべきものであること」については、特に注意が必要であろう。

派生問題:ソフトウェアの著作権紛争

企業で開発するエンジニアたちが法的紛争に巻き込まれることによる時間的な損失を気にするだけなら、WebクローラWebスクレイピングなど開発せず、「利用規約」による合意形成に準拠したAPIのシステム連携に取り組んだ方が無難であるとも考えられる。しかし、その配慮は無駄に終わる場合もある。APIを主題とした的なコミュニケーションは、しばしば著作権紛争を派生させる傾向にあるためだ。例えば2018年ごろまで続いたGoogleとOracleのJava APIを巡る紛争は、ソフトウェア・アーキテクチャ著作権紛争として知られている。OracleはGoogleがライセンス料を支払わずにJava APIを利用することでAndroidを開発しているとして訴えていた。これに対して米連邦裁判所はそのAPIの使用を「フェア・ユース」に相当すると判断していた。

もしこの判決が覆されていたなら、ソフトウェアの開発は根本的に変異することになる。しかし「フェア・ユース」の議論は理論的な意味で周回遅れであるとも言える。憲法学者のローレンス・レッシグの述べるところによれば、著作権侵害に対する「フェア・ユース(fair use)」の主張はそれ自体もはや時代錯誤だという。特にシステム開発やデザインにおいては、著作権制度は創作の自由の阻害要因になっている。

周知のように、著作権には著作者人格権として公表権や氏名表示権が絡み、著作財産権としては財産的利益を保護する権利が絡む。著作権は、著作物ができた時点で自動的に権利が発生するという「無方式主義」で成り立つ。そのため安易に成果物を公共の場で公開するものなら、すぐさま著作権法による縛りを与えてしまうことになる。それ以降は、他人がその成果物を著作者の許諾を得ないまま改変しただけで、直ちに権利侵害となる。

現行著作権法は、したがってまず初めに著作物に権利を発生させた上で、その利用を規制するという発想に準拠している。だがレッシグも主張するように、こうした複数の権利の自動的付与は、複数の複雑な制約事項を設けるが故に足枷となる。むしろ一部の著作物にしか規制を認めないという発想に転換していくべきなのだろう。こうして著作権法を変えていかなければ、過去の著作物をリミックス(Remix)することで新しいモノを創作する自由がなかなか得られない。

問題解決策:クリエイティブ・コモンズ

既に1889年には日本もベルヌ条約に加盟しているため、この的制約は海外の成果物を対象とした場合でも同様に適用される。勿論現行のも、「電磁気的計算機」たるコンピュータ複製技術的な側面を注視している。プログラムの移植のための改変やバージョンアップなどによる改変には同一性保持権は適用されないなどといった配慮も欠かしてはいない。特にソフトウェアにおいてはレッシグを筆頭に、「クリエイティブ・コモンズ・ライセンス(Creative Commons license)」が提唱されてもいる。

クリエイティブ・コモンズを導入したコンテンツでは、著作者自身が予め自身の権利に制約を加えることによって、他の制作者がその著作物を継承・改変したコンテンツを制作し易くなる。だがクリエイティブ・コモンズを後押ししているのは、オープンソースに対するハッカー的な精神だ。このライセンスを守ることに、経済的なインセンティブは見受けられない。故に商業的な観点では、このライセンス運動に与するほどの価値は無いはずだ。例えば「コミックマーケット(コミケ)」で提出される「二次創作」には、作品の「世界」や「キャラクター」を拡張したいという欲望のみならず、それを文字通り「マーケット」で売り捌きたいという欲望も介在している。そうした「二次創作」の担い手にとって、現行著作権法クリエイティブ・コモンズも、さして魅力的には映らないだろう。

ゲーム市場は既に数々の事例を突き付けることで現行著作権法の限界を指し示している。例えば2005年にゲーム開発のプラットフォームとして誕生したUnity3Dは、独自のライセンスを展開することで現行を攪乱している。ユニティ・テクノロジーズ・ジャパン合同会社は『初音ミク』で著名なクリプトン・フューチャー・メディア株式会社の「ピアプロ・キャラクター・ライセンス(Piapro Character License: PCL)」をヒントとして、「ユニティちゃんライセンス」を公開している。

改めて指摘するまでもないことだが、『初音ミク』の成功要因は現行著作権法に対する有力な代替案を提供した点にある。「ピアプロ・キャラクター・ライセンス」によれば、『初音ミク』によって製造された音源は、自由に公開して販売することができる。「宣伝や広告のために二次創作物を使うこと」や「他の人の作品を、自分のものだと偽って使うこと」など、一部利用に制約があるが、最大の制約事項となるのは「キャラクター」であろう。つまり、「キャラクターの価値を下げるような使い方をすること」を避け、あくまで「キャラクター」を守りながら拡張するなら、どのようにも成果物を設計することができる。

問題解決策:ユニティちゃんライセンス

このライセンスをヒントとして手掛けられた「ユニティちゃんライセンス」は、同様に著作権法盲点を突いている。『ユニティちゃん』は、誰でも気軽に改変できるプログラムとなっている。『ユニティちゃん』として配布されているのは、キャラクターの3Dモデルモデルを動かす20種類以上のアニメーション、ポーズ、音声、そして何よりそれを動的にコントロールするためのスクリプトだ。誰でも気軽に改変できる背景には、『ユニティちゃん』と著作権との関わりがある。『ユニティちゃん』の著作規定は「ユニティちゃんライセンス」で記述されている。「ユニティちゃんライセンス」は、著作権の範疇を一部制約することによって、他の開発者たちが「二次創作」し易いように制度化されている。商用であるか非商用であるかは問わず、前年度の売り上げが1000万円以下の個人やサークルによる二次創作が容認されている。『ユニティちゃん』を前提としたゲーム開発の他、書籍やコスプレ衣装など、様々な横展開可能だ。

「ユニティちゃんライセンス」は、知的財産権の一つである著作権を守るというよりは、むしろ『ユニティちゃん』の「世界」や「キャラクター」を保護する上で機能している。本来『ユニティちゃん』はUnity3Dによる個人のゲーム開発を活性化させるために設計された。だがそれだけでは、公序良俗に反する利用政治的な応用を回避できない。そのため「ユニティちゃんライセンス」では、著作権保護による制約を一部取り払う代わりに、「世界」や「キャラクター」を守るべく条件が記述されている。こうした抽象的概念を「継承」するのであれば、誰であれ二次創作が認められるという訳だ。

「ユニティちゃんライセンス」は「ピアプロ・キャラクター・ライセンス」に比して商業利用への制約が緩い。これが双方の決定的な差異になる。二つのラインセンスの差異は、そのまま二社の戦略上の差異を反映していると言える。

『初音ミク』の場合であれば、キャラクター準拠の創作物を公開しているコンテンツは確かに散見される。だが『初音ミク』のキャラクター準拠のゲーム商売にはライセンス契約が必要になる。周知のように、もともと『初音ミク』はクリプトン・フューチャー・メディア株式会社が「歌声合成ソフト」を販売するために用意したキャラクターだ。二次創作は、クリプトン・フューチャー・メディア株式会社かられば、あくまで派生的な社会現象に過ぎない。そのためPCLはそうしたユーザー向けに設計された後付けのライセンスであったと言える。

これに対し、ユニティ・テクノロジーズ社の大元の目的は「ゲーム開発の民主化」だ。Unityというプラットフォーム上で、デベロッパがよりゲームを開発し易くなる工夫の一つとして、ユニティちゃんは位置付けられている。Unityで開発されたアプリはアップストアなどのようなプラットフォームで販売される可能性がある。そうなると、端からPCL的なライセンスを設定しておくと、ゲーム開発を阻害してしまう。

「ユニティちゃんライセンス」は、こうした問題意識から設計されている。確かに公序良俗に反するような使い方をされてしまう危険もあるだろう。しかしそうした違反を抑止するのが、「キャラクター」という抽象的概念の機能となる。「ユニティちゃんライセンス」は現行著作権法の煩わしさを大部分払拭してくれる。またこのライセンスならばクリエイティブ・コモンズと思想を共有させる必要も無い。「キャラクター」や「世界」を機能的に共有することで、どのようなゲーム開発においても、それを拡張することができる。このラインセンスにより、個人のゲーム開発者側はより低コストでより高品質のゲームを開発する権利を得て、『ユニティちゃん』の提供元は自社の宣伝にもなる。

派生問題:法の学習は如何にして可能になるのか

現行の著作権法クリエイティブ・コモンズ、そして「ユニティちゃんライセンス」の競合や矛盾に対して、アーキテクトシステム監査人は無関心ではいられない。こうした事例が指し示しているのは、決定不確実性である。アーキテクトは、Librahack事件のように、アーキテクチャとしては何ら問題の無いはずのソフトウェアを設計したとしても、誤解から始まる法的紛争に巻き込まれる可能性がある。一方、現行著作権法の「フェア・ユース」を巡る議論のように、テクノロジーの発展が追い付いていないことは、今やシステム監査の実務を円滑に進めるために留意すべき既成事実として扱わざるを得ない。アーキテクチャやテクノロジーが決定を攪乱しているのではなく、誤解や無知に基づく決定こそが、その後の決定を攪乱しているのである。

しかしこの誤解や無知の問題を立法者や法曹責任として帰属させたところで、有益な発見は得られない。何故なら、立法者や法曹には、恣意的な決定を実践することが不可能であるためだ。立法者や法曹決定は、規範によって期待されている選択可能選択肢の中からの選択として成り立っている。仮に立法者や法曹の誤解や無知を改善したとしても、彼らの決定前提における誤解や無知が解消される訳ではない。規範が誤解や無知に塗れていれば、それを決定前提とした決定もまた、誤解や無知に塗れる可能性がある。

したがって、アーキテクチャやテクノロジーに対する誤解や無知に基づいた決定如何にして可能になっているのかを知るには、まず実定性観察しなければならない。この観点は、が「意図的な」誤解によって濫用される場合や、<無知ゆえの無力>に終わる場合を、暗に自明視した観点である。「法学(Jurisprudenz)」では、この観点での分析を進めることができない。司解釈論が主題にしているように、確かにアーキテクチャやテクノロジーにおいても、利益衡量や価値判断について論じることは不可能ではないであろう。だが利害には、しばしば的ではなく政治的なスキーマが関連してくる。その一方で価値は、異論の余地の無いものや疑い得ないものに準じた決定を実践するために必要となる。しかし価値の必要が強調されるのは、決定が下される前のことである。いざ決定が下されれば、その後強調されるのは、価値の偶発性だ。つまり、決定前には特定の価値だけが頼りにされていたとしても、決定後になると、むしろ別のあり方でもあり得る価値の方が注目を集めるようになる。それは、決定文脈や過程のみならず、決定の被影響者や他の権力保持者たちの利害関係に従って、様々な結果を派生させ得る。だからこそ、価値に準拠すれば、価値の衝突は避けられない。価値は、それが必要とされる紛争が勃発したまさにその時点で、無力と化す。司解釈論が統一見解として記述できることがあるとすれば、それは、利害や価値がどのような結果をもたらすのかについては未知に留まるという統一見解のみである。

問題解決策:実定法の社会構造と法社会学の意味論

マクス・ウェーバーの貢献が示すように、アーキテクチャやテクノロジーに対する誤解や無知に基づいた決定如何にして可能になるのかという問題設定では、法学ではなく「法社会学(Rechtssoziologie)」が有用になる。ウェーバーは、社会学的な分析を法学的な分析から区別することで、双方の認識利得差異を明らかにしている。法学規範決定する学であるのに対して、社会学としての法社会学は、事実や社会的な現実観察と記述に徹する学なのである。そのため法社会学は、たとえ誤解や無知が決定を不確実化させているという事実や社会的な現実として観察されたとしても、のままであり続けることが如何にして可能になっているのかを記述することを可能にしている。

ウェーバーの法社会学意味論は、1910年代の社会構造を前提としている。この時代における法学の主流は、法学の近代主義である。それは、体系の自己完結を前提とした形式論理的な操作を重視してきた実証主義的な「概念法学(Begriffsjurisprudenz)」を批判する自由論や利益法学(Interessenjurisprudenz)のように、の「概念的無欠缺(begriffliche Lückenlosigkeit)」を否定する理念である。概念法学は、主に19世紀ドイツにおいて、体系の安定化を要請する市民社会に応じる形で機能していた。だがその機械的なの適用にはしばしば具体的な妥当性内容が欠落していた。概念法学否定するの近代主義は、したがって反形式主義的な発展を志向することとなる。ウェーバーはこの傾向を「実質的合理化(materiale Rationalisierung)」と名付けた。つまりウェーバーにおいて近代の法学実務は、成熟した形式主義の合理性から反形式主義的な合理性への転換したのである。

尤も、ウェーバーの記述は形式主義的な合理性と反形式主義的な合理性とを観察して比較しているだけである。つまりいずれか一方の側がより合理的規範であると決定している訳ではない。ウェーバーの法社会学が説明しているのは、一方の合理性から他方の合理性への転換が、あくまで決定に基づいてではなく、社会的な背景との関連から駆動されていたということである。

<法の批判理論>と<法のシステム理論>の差異

ドイツにおける法社会学の研究プログラムは、社会の実態となる犯、刑罰、司裁判などを主題とした社会科学として発展した。1960年代から1970年代の猫も杓子も「改革」が叫ばれていた時代においても、法社会学は「運動」のための旗印として機能していた。言わば法社会学は、ある種の<についての批判理論>の到来として期待されていたのである。しかし、法社会学は無条件に受容されてきた訳ではない。法社会学社会学の一種に過ぎず、法律学ではない。それはの適用のための学ではなく、社会工学的な政策のための学に過ぎないと非難されてもいる。

法社会学の転換期となるのは、こうした運動と改革の時代ではなく、その後のマルクス主義の崩壊の直後の時代である。マルクス主義の穴埋めとして登場したユルゲン・ハーバーマスは、ウェーバーの法社会学批判的に分析したコミュニケーション的行為理論を記述することで、単なる社会運動による改革とは一線を画す<批判理論>を提供した。一方ほぼ同時代にハーバーマスの論として現れた社会学者ニクラス・ルーマンは、単なる社会工学的な政策論とは一線を画す等価機能主義的な社会システム理論観点から法社会学を再記述した。

法化、あるいは「システムによる生活世界の植民地化」

ハーバーマスは、ウェーバーの法社会学に潜む盲点を明確に指摘している。ウェーバーは、近代における発展の中に形式主義的な合理化と実質的な合理化の対立が組み込まれていると考えた。しかしウェーバーは、実証主義による合法的なの支配の空洞化が派生させる正統性危機近代社会の合理化のモデルとの関連から整合的に説明することは無かった。ハーバーマスによれば、それはウェーバー自身が実証主義的な観点に囚われていたためであるという。

ハーバーマスのコミュニケーション的行為理論で記述される機能は、矛盾した二つの側面を有している。確かに近代市民治主義は、自由の保障と正義の実現という役割を担ってきた。だが一方で社会は、自由なコミュニケーション可能にする生活世界形式的に制限してしまう。それはシステムによる生活世界の植民地化を招く。機能との関連で言えば、この植民地化は特に「法化(Verrechtlichung)」と呼ばれる。マルクス主義的に言えば、法化は近代資本主義における物象化の兆候である。コミュニケーション的行為理論の用語で言い換えるなら、法化とは貨幣権力のような制御メディアによって制御された経済国家という二つの社会のサブシステムが、生活世界象徴的再生産介入することで生じるシステムによる生活世界の植民地化である。

ハーバーマスは法化歴史的な転換としても記述している。法化はまず、フリードリッヒ・ヘーゲルが述べるところの市民社会の成立時期から始まる。秩序と国家権力合法を独占した反動から、生活世界は、権力貨幣のような制御メディアに侵されながらも、むしろ自らの要求を提起する存在へと変異した。ハーバーマスによれば、これにより生活世界は、正統性の認証基盤となったという。19世紀ドイツ社会立憲国家としての制度が導入されると、形式としての合法と手段としての官僚制しか持ち得なかった国家に、憲法による規範化という制度が追加されることとなる。これにより近代国家は、国家としての自らの権力を持ち合わせて、生活世界に基礎付けられた正統性の認証基盤としての地位を獲得することになる。そしてフランス革命以来、民主主義的な政治文化が醸成されることで、ワイマール時代から戦後ドイツへと、民主主義的な国家が受け継がれていく。最終的に法化が進んだ社会では、政治的あるいは経済的な自由が保障されると共に、システムへの参加が保障される。だが参加するということは、システムによる介入を許すことと表裏一体の関係にある。こうしてシステムによる生活世界の植民地化の具体例としての法化は、自由の保障による自由の剥奪というパラドックスとして結実する。

実定性と再帰性の差異

ルーマンもまた、ウェーバーが導入している<形式的>と<実質的>の区別棄却している。近代社会であり続けることの前提にあるのは、の「実定性(Positivität)」と「再帰性(Reflexivität)」である。ルーマンが記述する実定性とは、ヘーゲルの哲学的な実定性概念の派生として記述できる。ヘーゲルは、実定性を、が定立されていることとの関連から記述している。実定性とは、が定立されていることを意味する。 それは<定立する機能>である憲法制定権力と、<定立されている存在>を包含する概念である。<定立されている存在>とは、定立の客体である。それがとなる。は確かに、その制定の過程においては個別的な意志を内包している。だが他方では、<定立されている存在>であるために、自立した体系となり得る。

ルーマンが記述する実定性は、このヘーゲル的な記述に決定の要素を加えて際立たせた構成となる。定立とはもとより、複数の選択可能選択肢の中からの選択なのだ。近代社会は、決定によって定立されるだけではなく、決定によって可変的に妥当し続けることも前提としている。実定性とは、決定によって、妥当性の枠組みの中で変異され得るものであることを意味する。こうした妥当性可能にしているのは、再帰性である。再帰性機能は、当の過程がそれ自体あるいは同様の過程に適用されることで獲得される。決定事項を規範化することができる。における再帰性は、更にこの規範化それ自体を規範化の対象になるように決定することを可能にする。<規範化の規範化>という再帰的な機構構成するには、他の過程による干渉に対して防衛的にならなければならない。言い換えれば、としてあり続けるには、機能を、例えば政治経済、科学・学問、教育マスメディア芸術宗教医療などのような他の機能から区別し続ける必要がある。は、機能的問題領域に特化することによって、その再帰性可能にする。この特化を特に機能的な分化と呼ぶ。機能的な分化再帰性可能にする一方で、再帰性自己自身の問題領域への継続的な選択と集中を可能にするという意味で、機能的な分化可能にする。

規範的な期待と認知的な期待の差異

規範化の規範化>という再帰性は、「すべき」という当為要求制裁の正当化などといった概念からは区別される。規範の当為の根本要件として観察することは、一見自然な認識のように思える。だがそれだけでは分析は不十分である。当為の意味を問うことも、更にその機能を分析することも、不可能ではない。確かに、当為や制裁の概念から規範を定義したとしても、自己言及的な概念を抽出することは不可能ではないのかもしれない。だがそうした定義は、自己言及的な対象についての理論は与えてくれない。ルーマンは、規範概念をこうした当為や制裁から区別する上で、「規範的な期待(Normative Erwartungen)」と「認知的な期待(Kognitive Erwartungen)」の区別を導入している。この区別は、システム理論という、自己言及的な対象の理論を提供する。

規範的な期待システム学習しない傾向を指し示すのに対して、認知的な期待システム学習する傾向を指し示している。学習するか否かの選択が問われるのは、システムが一貫を欠いた出来事を体験した場合である。ある体験期待と一致しなかった場合、システムはその事実を受け入れて、自身の期待を変更することができる。だが一方でシステムは、逆にその体験自体を逸脱的な出来事、稀な例外、誤った選択として片付けることもできる。こうした体験は、日常茶飯事である。期待を変更するか否かという問題は、ハーバーマスのいう生活世界における日常生活でも繰り返し起こり得る。

システムは、もし体験期待が一致しなかった場合に、規範的な期待認知的な期待のどちらを優先するのかについて、予め態度を決めておくこともできる。認知期待区別存在と当為の区別は、こうした態度の選択に対して意味処理規則を提供する。これらの意味形式を用いることで、システム認知的な期待規範的な期待区別する。そしてシステムは、期待外れが生じた場合に期待を変更するか否かを予め定めておくことで、自身を拘束することも可能にする。

システムは、こうした期待意味論に準拠することで、期待期待構成することも可能になる。すなわち、システム規範的な期待認知的に期待することも、認知的な期待規範的に期待することも可能になる。期待期待は、再帰的な期待である。通常の期待は決して再帰的にならない。再帰的な期待は、認知的な期待規範的な期待の間での選択が問題になる場合にのみ、引き起こされる。再帰性とは、言わば一次的な期待の水準で選択が迫られることに依存しているのである。

再帰的な期待理論自己言及的システム理論に結び付いている。社会システム一般コミュニケーションによるコミュニケーション再生産過程を制御する構造として、期待意味形式を用いている。規範的な期待質は、学習に対する抵抗である。規範的な期待に特化している。故には、もとより学習に抵抗する傾向を持つ。だが法システムは、ここに再帰的な期待の概念を導入することで、規範的な期待認知的な期待区別をこの区別の内部に「再導入(re-entry)」することも可能にしている。その結果として法システムは、認知的な期待規範的に期待することによって、学習する傾向を有した立法を制度化している。逆に言えば、規範的な期待規範的に期待しているのは、裁判の制度である。

このように、認知的な期待規範的な期待を一旦区別した上で組み合わせるシステム構造は、一般的な水準と個別的な水準の区別展開される。一般的な水準では、システムは条件付けという基礎的な機構で作動する。システム内部における行為決定のような出来事は、ある他の出来事が現実に生起した場合にのみ発動される。それ故に、的なコミュニケーションは事前にプログラムされた情報によって条件付けられている。条件付けによって、認知規範を一旦区別した上で再び組み合わせるという可能性が与えられる。条件となるプログラムそれ自体が規範として宣言されることもあり得る。その場合、その規範は、逸脱行動を期待することで無効化される訳ではない。一方、プログラムを適用するためには、認知的な作動が必要となる。つまり法システムには、情報を取り扱い、一定の事実が観察できたか否かを判別する能力が要求される。しかし未来に観察する情報内容は未規定である。故にそうした情報は、変数として扱われる。つまり、コンピュータプログラムと同じように、情報観察は未規定を前提に設計される。こうしたある種の計画的な未規定が、出来事の長い連鎖を可能にする。連鎖の各ステップは、それ以前のステップに依存する。全てのステップが、それ自体およびそれ以外のステップ妥当性に依存しながら、長い連鎖が形成される。

この意味で、条件プログラム法システム社会構造の中核を為した意味論である。あらゆる規範条件プログラムである。仮に「AならばBである」という命題で言語化されていなかったとしても、それらはIf thenの形式で再記述することができる。しかしこれは、未来の状態に対して、妥当性という意味を付与することを困難にする。だが、未来予測が外れたとしても、つまり期待期待外れに終わったとしても、決定やそれに基づくあらゆる作動がその妥当性を喪失させる訳ではない。決定は、現在の情報に基づいた推論に依存している。妥当性は、ハーバート・アレグザンダー・サイモンが言うところの「不確実性の吸収(absorption of uncertainty)」を可能にするために用いられる。つまり妥当性は、意思決定における選択可能選択肢の限定として機能する。それは妥当選択肢を予め絞り込むことによって、選択負担を軽減する。

システム合理性とコミュニケーション的合理性の差異

規範化の規範化>という再帰性は、自己言及意味する。この概念は、ウェーバーが近代的な形式主義として記述した法学実務を自己言及的システムとして再記述した場合に獲得される概念である。自己言及的システムとしてのという概念は、先述した著作権法に関わる事例に象徴されるように、外部環境に位置するサブカルチャーの社会運動政治的運動法律を変えられるという期待を一掃する概念でもある。が準拠するのはだけだ。の外部にの根拠がある訳ではない。システムとして閉じている。法システム作動の閉鎖性を保持する。は、法律の条文を象徴化し、抽象化し、一般化する。だからこそは個別具体的な事例に左右されず、「の下の平等」を成し遂げることを可能にしている。はその抽象化された法律現実を照らし合わせることによって、いずれにせよ「合法」と「違法」の差異構成していく。はあくまで<「合法」と「違法」の区別>を「合法」的に導入し続けるのであって、そのシステム作動の実態は自己言及的再帰的、つまるところ閉鎖的となる。

このに関する社会システム理論的な観察を前にすれば、近代法学の主導的差異構成してきた概念法学利益法学区別は、棄却しても構わない区別となる。法学られる概念法学から利益法学への転回は、自的なから応答的なへの転回として記述されている。システムとして観察する観点かられば、この動向は、確かに閉鎖的なシステムから開放的なシステムへの展開として把握できるかもしれない。は、自身の概念構成にのみ追従する自己完結的なの作動から、より幅広い社会的な利害関心の調整への期待に応じるべきであるという訳だ。しかし、利益法学の外部に存在すると想定している利害関心とは、的に保護されると期待される利害に限定される。そうした利害関心は、純然たる外部環境存在するあらゆる利害関心なのではなく、ただ的なコミュニケーション主題化されている利害関心に限られる。この意味利益法学として可能になっている法システムの開放は、あくまでも法システム自身の作動の閉鎖性を前提として成り立っている。利益法学的な外部言及は、外部に言及している自己への言及に他ならない。概念法学利益法学区別は、法システム自己言及外部言及区別が、それ自体自己言及的に、法システムの内部へと「再導入(re-entry)」されることで構成されているのである。

が真に合理的になり得るとするなら、それはというシステムが、<システム>と<外部環境>の区別システムの内部に「再導入(re-entry)」した場合に限られる。この場合の合理性は特に「システム合理性(System- rationalität)」と呼ばれる。システム合理性が言い表しているのは、システムが、その作動の閉鎖性を前提とした上で、<外部環境>に対して開放的になっているということである。言うなればそれは、規範的な閉鎖認知的な開放を併存させた状態である。それは自己言及的システムが、<システム>のみならず<外部環境>も含めた全体を俯瞰した状態を意味する。つまりシステム合理性を成立させているシステムは、<システム>に対する自己言及と<外部環境>に対する外部言及を同時的に実行することで、通常よりも幅広い視野で全体を観察できるのである。

一方ハーバーマスは、このルーマンのシステム合理性概念に対抗して、ウェーバーの合理性に対する別の代替案を提示している。ハーバーマスによれば、ウェーバーの法社会学の問題点は、社会行為としての社会システムの合理化を目的合理性というただ一つの合理性概念から分析したことにある。この合理性概念を前提とするだけでは、近代社会の過程において、単にルーマンが述べたようなシステム合理性には限定されない合理性の複合的な様相を記述することができなくなる。つまりハーバーマスは、ウェーバー流の目的合理性だけでは、生活世界における合理性を説明することができなくなるという。

ハーバーマスによれば、ウェーバーの社会学は資本主義的な経済システムの成立過程が近代化の過程と同一視される。だがその一方でウェーバーは、資本主義的な経済システムの体制がもたらす社会病理的な副作用も視野に入れた分析を十分に実践できていない。これでは形式合理性の諸相を十分に把握したことにはならないという。

法化された近代社会では、成文が増大する傾向にある。ハーバーマスはシステム生活世界区別観点から、近代社会機能的なサブシステムとしての形式的に組織化された行為領域として記述すると共に、生活世界言語行為を介した規範的な合意形成によって統合されている領域として記述する。これに対して、システムによる生活世界の植民地化の具体例としての法化は、それまで規範的な合意形成によって統合されていた領域を、「AならばBである」というルーマンが言うところの条件プログラム形式によって制御することになる。それは、言語行為者たちにとっての自由を保証するはずのが、むしろ自由を剥奪してしまうというパラドックスを生み出す。

は、それが貨幣権力のような制御メディアとして機能する限り、形式的に組織化された言語行為の領域に影響を及ぼす。そうした領域は、それ自体が直接的に市民的な形式構成された領域である。これに対して、制度としてのには、構成する力が無い。それは精々規制する機能を有しているに過ぎない。の制度は幅広い政治的・文化的・社会的な文脈の中に埋め込まれている。それ故にハーバーマスは、が、倫理的規範連続して、コミュニケーション的な構造を有した行為領域をも歪めてしまうという。

ハーバーマスは、専門組織としての文化生活世界における日常生活の実践文化を架橋する領域に「コミュニケーション的合理性(Kommunikative Rationalität)」を見出している。コミュニケーション的合理性とは、相互主観的了解と承認を志向する理性意味する。コミュニケーション的合理性が生じるためには、文化的な生活における自明な事柄、直観的に把握できる集団的な連帯感、そしてこうした自明や連帯感をノウハウ(know-how)として包括している社会化された個人の能力が必要となる。コミュニケーション的合理性相互主観的結合力を可能にするために兼ね備えているのは、言語行為の状況ごとに特化した生活世界の「資源」である。ここでいう資源は、妥当性要求における知識の貯蔵としての文化人間関係や連帯感を生み出す正統に秩序付けられた社会、そして相互了解過程で同一性を確保する能力を兼ね備えた人格意味する。

専門家と顧客の差異

ハーバーマスによれば、コミュニケーション的合理性は、その資源に準拠した上で、合理性の査定を可能にする。合理性を査定することになるのは、責任能力を持つと共に、相互主観的な承認を志向した妥当性要求に準拠する能力を持つ相互行為の関与者たちである。コミュニケーション的合理性は、この査定水準を命題の真理性規範的正当、誠実、そして的な調和を直接的あるいは間接的に論証するその手続きに求めるという。こうして査定されるコミュニケーション的な合理性は、強制なき自由な合意形成の力を兼ね備えている。

だが専門組織日常生活の実践とを区別するハーバーマスの認識は、偏見に満ちている。専門組織に属するのが弁護士や検事のような専門であるのならば、日常生活の実践者たちは「顧客」ということになる。この観点において中心的な問題となるのは、法システムが如何に顧客の要望に応えるのかである。こうして観察される法システムへの批判は、より良きサービスに対する要求として引き起こされる。そしてその先にあるのは、精々のところ、脱法化、脱専門化、そして脱形式主義化である。これらの問題解決策は、官僚的で専門的な問題解決策に対する代替案として提示される。

しかし、的なコミュニケーションを分析する上では、専門と顧客の区別も、専門と素人の区別も、官僚と一般人の区別も、役に立たない。法システムの「顧客」であるためには、法システムの中でコミュニケートしなければならない。つまり、一般人が顧客たり得るには、機能的問題領域で主題となる的問題を認知しなければならないのである。そしてそれに応じて、「顧客」としての状況を的なコミュニケーション文脈で定義しなければならない。素人であれ一般人であれ、的に訴訟を起こすことを決意する必要がある。少なからずそれを主題としたコミュニケーション展開されなければならない。顧客も、素人も、一般人も、自身の活動に的な意味を付与するために、法システムに言及しなければならない。それによって彼ら彼女らは、法システムに参加するのである。

法システムの顧客も、素人も、一般人も、専門組織や専門との差異を前提としている時点で、それは的なコミュニケーション構成物となる。生活世界における日常生活的な問題を扱うために、「的な枠組みを使用しない」と決定することすら、法システム内部の決定となる。実際、法システムにおける専門と顧客の差異は、役割動機、活動、期待差異として構成されている。これらの差異は、法システム構造によって規定されている。つまりこれらの差異は、法システム内部で区別が導入されることで構成されている。法システムは、法システムの作動形式に言及することによって選択されたあらゆる行為と不作為を包摂する。脱法化、脱専門化、脱形式主義化という戦略は、法システムの内部で構成された、法システムの再構築についての提案の一つに過ぎない。

問題解決策:手続きによる正統化

伝統的に「正統性」概念は、「正当」とは区別され、決定内容の「真理性」や「正義」に対する「信頼」との兼ね合いから定義されてきた。君主制においては、とりわけ階層的頂点から発せられる命令が決定の受容を担保していた。しかし現代における「正統性」概念は、決定内容の正当、真理性正義からは厳密に区別されなければならなくなっている。市民革命以来、民主主義が普及した現代では、決定が下されたからと言って、それが拘束力を有するとは限らなくなった。正統性が成立したと言えるのは、本来その通りには決定するはずが無かった人々が、実際にその通りに決定した場合であろう。

伝統的な正統性概念を前提とするなら、立法や行政や裁判での決定は利己とは無関係に正統な決定として受容されていた。それは普遍主義的な正義や真理を根拠としていた。しかし、近代化と共に合理主義的な人間が増えてくると、他者が普遍主義的な正義や真理を根拠とした決定によって利益を得ているにも拘らず、自己がその同じ決定を受容しても利益を得られない場合には、異議が唱えられるようになった。One for All, All for Oneの決定は、少しでも自己が他者よりも不利益を被る場合には、否定される傾向になった。かくして普遍主義的な決定は拘束力を喪失させた。正しい決定だから従えと言ったところで、否定するのは容易い。故に近代化を果たした社会システムは、一般市民が決定を受容する機能を必要とした。それが手続きである。

自律性と自足性の差異

ルーマンによれば、手続きとは、他の社会システムとは相対的に分化した上で、自的に独立するに至った社会システムの一種に他ならない。とはいえ、社会システムは自的であるものの、自足的ではない。自給自足は外部環境から遮断された世界でも完全に独立して生き長らえることを意味する。しかしシステムが自的であるためには、外部環境からの影響に対して、システム自身でその影響を「如何にして」受容するのかを構造的に決定できていなければならない。つまりシステムシステム自身において影響の受容のノウハウを構造化することによって、自を達成する。逆に言えば、手続きというシステムは自足的であってはならない。

分業が進み、専門化が進み、機能的な分化が進んだ社会は、徹底的に脱中心化されている。決定の受容において、幅広く再利用可能抽象的な制度はもはや無い。そこで一般市民は個別具体的な決定機関のユースケースにおいて、手続きというコミュニケーションシステムに参加することになる。手続きというシステムは自的であって、だからこそ自由度を有する。その手続き外部環境から観察する市民にとって、手続きはある種の不確定要因となる。手続きは自由参加を選択可能にする。また手続きはその決定における責任の帰責も可能にする。だが手続きシステム作動自体は不確定であるが故に、決定の受容を「保障」する訳ではない。

故に社会システム理論的にれば、手続きというシステム自己決定自己責任のような概念と相が良い。それは、正義や真理などといった錯覚では決定を正統化することが不可能であるということだ。法システム合法違法差異に準拠した上で、規範によって規範構成し続ける自己言及的な作動を展開し続けている。

法的決定と決定前提の差異

上述したように、実定性とは、決定によってヘーゲル的な意味で定立されているのみならず、決定によって可変的に妥当し続けることも意味する。これによりの実定化が明確化されることとなると同時に、と共に正当の概念も再定義されなければならない。そこにおいて正当とは、究極的な価値や規範によって基礎付けられる訳ではない。ましてハーバーマスの語る生活世界のような、の<外部>によって根拠付けられる訳でもない。正当とは、「<決定の対象となったものは全て規範化されたものに対して認知的な期待を取るべきである>ということが、 第三者によって規範的に期待される」ということを、誰もが期待することによって成り立つ。

実定性形成法システム機能的な分化に対応する。法システム機能的な分化構造は、の適用を司る裁判の過程との制定を司る立法の過程の分離をもたらした。機能的分化が完了すると、法システムは自を獲得し、実定性決定によってのみ妥当し、決定によってのみ変更され得るようになった。規範的な決定の諸前提に存するのであって、これらの前提もまた同様に決定の対象になり得る。

あらゆる決定と同様に、立法者や法曹による決定もまた、社会的に所与とされる選択肢を前提とする。決定を方向付ける規範的な期待はとりわけ決定前提として観察される。この決定前提は、「AならばBである」という条件プログラム的な構成要件を前提とする。言い換えれば、裁判官の判決は、条件プログラム化された決定前提に方向付けられた決定となる。しかもここにおいて参照される決定前提は、妥当なものとして認識されていなければならない。一方、立法者の決定は、法曹決定を方向付ける条件プログラムそれ自体の決定である。それは条件プログラム可変性可能にしている。ただし立法者の決定にも決定前提がある。それが憲法をはじめとした実定法体制である。実定法が特殊なのは、まさにこの妥当決定前提という枠組みにおいて、合法的にの変更が可能になる点である。

立法者や法曹決定機能は、の創造機能ではなく、規範を拘束力を伴わせたとして選択して、象徴的権威化させることにある。決定によって定立される。しかしそれ自体は無から創造されるのではない。立法者の決定は、既存の規範的なものの中から、決定によって選択するに過ぎない。選択可能選択肢は、既に規範的な期待によって絞り込まれている。

決定は、手続きを通じて正統化される。ここでの手続きは、裁判手続き立法手続き区別される。この手続きの過程を通じているか否かが、当該妥当するか否かを区別する。立法者や法曹決定は、規範的に期待されている選択可能選択肢の中からの選択としての決定である。故に立法者や法曹は恣意的に決定することができない。実定法が恣意的な規とはなり得ない理由もここにある。

問題解決策:象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての法律

ここまでの等価機能主義的な社会システム理論を前提とすれば、立法者や法曹決定合理性を評価することは、実り多き発見可能にしないどころか、誤謬をもたらすことがわかる。ウェーバーとハーバーマスの共通盲点となっているのは、<社会合理性>と<社会的な行為>の差異である。ウェーバーの法社会学は彼自身の社会理論の一種であるが故に、法社会学もまた彼の社会理論同様に、の分析を「社会行為(soziales Handeln)」から開始してしまっている。同様にハーバーマスも、法化に対する嫌感からか、言語行為の源泉となる生活世界化するあまりに、コミュニケーション的な「行為」に執着してしまった。だが、<社会的な行為>の合理性が、すなわち<社会合理性>に直結する訳ではない。理性的主体たちによる合意形成が、理性的な合意形成になるとは限らない。<社会的な行為>が合理化されたとしても、社会が合理化されるとは限らない。

このウェーバーとハーバーマスに共通する盲点を回避するには、社会行為によって構成されているという発想を粉砕する必要がある。だからこそルーマンの社会システム理論は、社会システム行為ではなくコミュニケーションによって構成されているということを、殊更強調しているのである。コミュニケーション行為ではない。行為とは、コミュニケーション構造的な複合性機能的に単純化された場合に把握される概念に過ぎないのである。社会システムは、コミュニケーションの総体である。社会システム構成するのはコミュニケーションであって、コミュニケーション構成するのもコミュニケーションである。したがって、社会システムのサブシステムとして機能的分化した法システムは、立法者や法曹行為によって構成されている訳ではなく、的なコミュニケーションによって構成されている。的なコミュニケーション構成するのは、的なコミュニケーション以外の何物でもない。この社会システム理論的な記述は、の専門によって成り立っているという認識も排除することを可能にしている。的なコミュニケーション構成するのは的なコミュニケーションのみである。人間ではない。立法者や法曹のような人間は、社会システムではない領域、すなわち社会システム外部環境に位置する。したがって、法システムの作動を分析するには、的なコミュニケーションを分析しなければならない。そして的なコミュニケーションを分析するには、それを専門や顧客の「行為」に還元するのではなく、ましてそうした「人間」たちに帰属させるのでもなく、ただ的なコミュニケーションそのものとして分析しなければならない。

あらゆるコミュニケーションは、それがコミュニケーションとして理解されることを成立条件としている。コミュニケーションが成立するか否かは、それが受容されるか拒否されるかの分岐に対応している。この分岐が設定されることで、それ以降のコミュニケーションは異なる道筋を辿ることになる。だがいずれの場合も、社会システムの状態は、コミュニケーションによって変化する。受容されたコミュニケーションは、更なるコミュニケーションの前提として機能する。一方、拒否されたコミュニケーションにおいても、受容されたコミュニケーションと同様に、システムに何らかの痕跡を残す。システムは、二度とその拒否されたコミュニケーションが実行される前の状態に回帰することはできない。システムは、純粋無垢な状態には回帰できないということである。システムは、そうした拒否されたコミュニケーション記憶を想起することで、「その拒否されたコミュニケーションは差し控えるべき」などといった具合に、以降のコミュニケーションの前提を構築する。他方、受容するか拒否するかという問題を未定にした状態で、まさにこの受容と拒否の問題を主題としたコミュニケーションが生起する可能性もある。この場合のコミュニケーションは、<コミュニケーションについてのコミュニケーション>という反省的な自己言及となる。だがこれは受容と拒否の決定を先延ばしにしているに過ぎない。コミュニケーション時間有限であるために、やがて受容と拒否の決定が下されることになる。

こうした受容と拒否の差異は、的なコミュニケーションにおいても生じ得る。だが立法条件プログラム化や裁判での判決が拒否されてしまえば、妥当性が通用しなくなってしまう。だとすれば法システムは、的なコミュニケーションが拒否され難くなる機構を必要としていることになる。社会システム理論的に言えば、的なコミュニケーションの受容の可能性を高める上で機能しているのは、コミュニケーション・メディアとしての「象徴的な一般化(symbolisch generalisierte)」を果たした法律である。

象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは、コミュニケーションの受容と拒否の分岐に対応するために構成されている。それは、あるコミュニケーションの受容が社会的に機能すると認識される場合に、にも拘らずそのコミュニケーションが拒否される可能性否定できない場合に構成される。社会的に機能するというのは、社会における問題を解決するということである。近代社会はそれぞれの機能的問題領域で機能的分化しているのだから、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアもまた、この各機能的問題領域に対応する形で構成されている。例えば科学・学問の機能システムには「真理(Wahrheit)」が、政治システムには「権力(Macht)」が、経済システムには「貨幣(Geld)」が、システムには「愛(Liebe)」が、宗教システムには「信仰(Glaube)」が、それぞれ対応している。そして法システムにおいては、まさに法律の条文が、コミュニケーション・メディアとして象徴的に一般化されているのである。こうしたコミュニケーション・メディアは、コミュニケーションの接続における「選択(Selektion)」と「動機(Motivation)」を予め方向付けることで、コミュニケーションの成果の不確実性を埋め合わせるべく機能する法律の条文が指し示されれば、誰もがその規範に従った期待構成した上で、的なコミュニケーションが継続されていくと、期待されるのである。

コミュニケーション・メディア論の制約

ルーマンは、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアが何故真理や権力をはじめとした諸概念であるのかに関する根拠については明確にしていない。と言うのも、この社会システム理論等価機能分析によるヒューリスティックな発見探索結果として記述されているからだ。これは演繹的でもなければ帰納的でもない。発見があればそれで良しとする。

尤も、ルーマンは機能システム象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアを獲得する条件を明記してもいる。学問、政治経済族、宗教などのようなサブシステムがそれぞれコミュニケーション・メディアを利用することができているのは、これらの機能システムが、あくまで自己自身に準拠する過程としてコミュニケーション構成しているからだ。言い換えれば、コミュニケーション・メディア機能が満たされるのは、あるコミュニケーションにおける選択が後続のコミュニケーションにおける前提となる過程に限定される。

逆に言えば、物理的であれ、化学的であれ、生物学的であれ、あるいは意識精神に関与する営みであれ、システムシステム外部環境変異させることを問題設定とした機能システムにおいては、コミュニケーション・メディアは獲得され得ない。ある社会システムにおけるコミュニケーション・メディアはあくまでもそのシステムの内部で構成されている。決してコミュニケーション・メディアは、あるシステム外部環境を接続させるインターフェイスなのではない。だからこそ、医療などのような領域では、コミュニケーション・メディア発見されないのである。医療は、社会システム外部環境としての人間身体心理システム変異させる機能を担っている。医療という機能システムは、コミュニケーション・メディアによる負担軽減に肖ることなく、医療的な問題を解決していかなければならない。

メディアと形式の差異

このコミュニケーション・メディア論は、専ら近代社会機能的な分化を記述する際に用いられていた。ところが晩年のルーマンは、その大作である『社会の社会』で、このコミュニケーション・メディア論と期待意味理論を明示的に結び付ける概念を導入している。それは、ゲシュタルト心理学者のフリッツ・ハイダーに由来するメディア形式区別である。

このメディア形式区別は、メディア形式の双方が高度に抽象的な関係概念であることを言い表している。端的に言えば、ここでいうメディア(medium)とは、比較的緩やかに関連付いている諸要素の集合である。これに対して形式(form)とは、メディアが提示する諸要素の集合の中から、相互依存比較的高い関係にある諸要素を選択することで、緊密に関連付いている諸要素を指し示す。

形態の融解性

更に抽象化して言えば、メディアは、「形態(Gestalt)」が有する凝固した形状を受容する能力と共に、その高度な融解によって特徴付けられる。このことが意味するのは、メディアが、その形態の範疇において、特定の諸要素から構成されているということである。そしてこの諸要素は、相互に緩やかに結合されている。例えば空気は、気体を緩やかに結び付けているメディアである。空気は、それ自体ではノイズを凝縮する訳ではない。だがノイズを伝達することはできる。我々が時計の規則的な音を耳にすることができているのは、空気自体がその音を鳴らしている訳ではないためである。

これに対して形式は、諸要素の依存関係を集中的に濃縮することで成立する。それは、メディアによって提供される諸要素の選択と集中によって成り立つということである。メディアが緩やかに諸要素を結合するのに対して、形式は緊密に諸要素を結合する。先に例示した空気というメディアに対して、音は形式として構成されていると言えよう。例えば時計の規則的な音は、「リズム」として形式化されていると言える。

<マークされている領域>と<マークされていない領域>の形式

形式を導入するということは、何らかの区別をマークするということである。この「何らかの区別」の選択候補となり得るのが、メディアから提供された諸要素なのである。形式を想定するということは、<マークされている領域>と<マークされていない領域>の差異を前提にするということを意味する。それは、諸区別区別することで、特定の区別選択するということでもある。言い換えれば、形式はマークされることなしに潜在化している別のあり方でもあり得る区別盲点として位置付けている。

このことは、形式メディア区別にも適用される。形式メディア区別は、それ自体形式としてマークされている。故にこの区別は、何らかの第三項を排除している。しかしながら、この形式メディア区別自己論理的(autologisch)な推論は、メディアにおいても適用される。形式メディア区別は、メディアとして機能することで、様々な区別形式として導入することを可能にする。実際このメディア形式区別を応用したルーマンは、このメディアによって、知覚メディア言語メディア、そしてコミュニケーション・メディア理論を導入している。これらの理論は、彼自身が記述しているように、別のあり方でもあり得る理論盲点として位置付けることで可能になっている。彼はこれらの理論形式としてマークしていたのである。

象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとの接続

忘れてはならないのは、ルーマンの場合のメディア概念は、形式よりも先行して存在している訳ではないということだ。むしろ双方は「差異化」によって同時的に構成される。例えばコンピュータ広告などといったメディアは、確かに形式可能コミュニケーションを限定する。しかし、そうしたメディアそれ自体がコミュニケーションを形作る訳ではない。「アーキテクチャ」や「アドテクノロジー(Ad Technology)」がメディアの一つであるとしても、それら自体がコミュニケーションを生み出せるはずがないのだ。逆にコミュニケーションの方が、そうしたメディアに「型」を押し込んでいると言える。

それは「地面」と「足跡」の関係と同じだ。「地面」が無ければ「足跡」は付かない。「足跡」は「地面」に依存している。だが「地面」という範囲では、「足跡」は自由に付けられる。そして、「地面」と「足跡」の関連は、「足跡」が付けられて初めて成立している。「足跡」と非「足跡」の「差異」が構成されると同時に、「足跡」と「地面」の「差異」が構成される。そしてこの「差異」こそが、「足跡」と「地面」の関連を保証しているのだ。

実際、この比喩を裏付けるかのように、『社会の社会』においてルーマンは、このメディア形式区別に依拠することで、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアや、『社会システム―― 一般理論綱要』で登場した情報知識の普及や伝達を可能にする「伝播メディア(Verbreitungsmedien)」を、期待概念や構造概念と関連付ける図式で再整理していた。

「我々が『コミュニケーション・メディア』と言う時には、常に作動におけるメディアの回路基板(medialem Substrat)と形式の『差異』を使用するということを述べている」。
Luhmann, Niklas. (1997) Die Gesellschaft der Gesellschaft, 1 Bande Frankfurt/M, Suhrkamp, S.195.

ルーマンのいう象徴的な一般化の概念を取り上げるならば、この晩年の図式を見過ごすことはできない。

問題解決策:組織システムとしての企業

象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア>をメディアとして抽象化するなら、このメディアに対応する形式となるのは、組織システムである。実際、ルーマンが晩年に導入していた<象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア>と<組織システム>の区別は、このメディア形式区別に対応している。形式としての組織システムは、メディア形式を刻印する。例えばその組織システム株式会社であるのならば、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての貨幣投資を受けることになる。その際この組織システムは、その内部における決定連鎖構造において、<メディアとしての貨幣>から<形式としての予算配分>や<形式としての給与>を構成する。

階層構造を前提とするなら、この形式化の決定前提となるのは、経営陣や人事部の意思決定である。故にこれらの形式は、組織内部に、地位を形式化させる上でのメディアとして機能する。この<形式としての地位>がメディアとして機能する時、そこに刻印される形式となるのは、権力である。回り回って組織システムは、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての貨幣を、同様のメディアである権力へと変換しているのである。つまり、ある<象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア>によって形式化されている組織システムは、別の<象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア>を形式化させるメディアとして機能することで、ある機能的問題領域から別の機能的問題領域への緩やかな結合可能にしていることになる。

このメディアとしての<象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア>と形式としての<組織システム>の関連を前提とすれば、<組織システム>は、機能的問題領域と他の機能的問題領域が遭遇する領域であるということが明確化する。あらゆる法システム実定法であると記述するルーマンは、それが制定である必要は無いとも解説している。つまり、判例契約によって構成されたコミュニケーションもまた、的なコミュニケーションになり得るのである。例えば企業間で結ばれる基本契約や事業主と従業員との間で結ばれる雇用契約などは、組織システム形式で実践されている的なコミュニケーションの一種となる。よりIT事業に特化させた企業の事例で言えば、プラットフォーマーとユーザーとの間で結ばれる「利用規約」のような条文を介したコミュニケーションすら、的なコミュニケーションの内部に位置付けることができるのである。

組織システムとして観察するなら、企業株式会社のような組織システムの内部に立法府裁判所のような組織システムが導入されている訳ではない。しかし機能システムとしてのは、組織システム形式の内部と外部の双方に位置付けられている。それは、組織システム外部環境区別機能システム外部環境区別が、相互に独立して導入されているためである。それ故、機能的問題領域が企業株式会社のような組織システムの外部のみならず内部にまでが構成されているのは、何ら矛盾しない。これらの組織システムの作動は、予算配分をはじめとした経済的な機能的問題領域や階層構造の意思決定連鎖を司る政治的な機能的問題領域を、機能的問題領域に接続させることを可能にする。配分された予算額が雇用契約で約束される報酬額を左右することは間々ある。「利用規約」を条文化するには、組織の上位に立つ管理者たちの承諾が必要になることも間々ある。だが一方で的なコミュニケーションは、こうした契約や意思決定連鎖における決定前提として機能し得る条件プログラムを配備することを可能にしている。労働基準は、たとえ経営者たちによって遵守されるという期待期待外れに終わる場合があるとしても、妥当なものとして規範的に期待され続ける。

組織における的なコミュニケーションは、常に政治的なコミュニケーションと隣り合わせの状態にある。サイモンが述べたように、組織の存続が要求されるのは、我々が「限定合理性(bounded rationality)」の状況下に置かれているためである。つまり、我々が意思決定に費やすことのできるリソースには限りがあるために、発揮し得る合理性にも限界があるということだ。限定合理性の下では、分業や専門分化、あるいは集権化や分権化のような組織的な制度を導入した方が、目的を追求する上では効率的となる。そのため組織内では、複数の意思決定者が併存することになる。意思決定者は、他の意思決定者の意思決定を前提とした上で、自らの意思決定を実践に移す。しかし複数の意思決定内容が相互に矛盾する場合、その矛盾解消するための意思決定が必要になる。組織において、そうした矛盾解消策として導入されるのは、通常は階層化された構造である。つまり地位や職位の形式を導入することで、組織意思決定の確実を高める訳だ。その際組織システムは、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての権力背景とした政治機能的問題領域を構成することで、集合的な拘束力を有した意思決定を実行に移すことになる。しかしながら、そもそもの意思決定候補となり得る選択可能選択肢は、既に「不確実性の吸収」として機能する妥当性によって絞り込まれている。

問題解決策:構造的な結合

機能的分化したそれぞれの機能システムは、相互に無関連に作動している訳ではない。これらの機能システムは、言わばインターフェイスを介して「構造的な結合(Strukturelle Kopplung : Structural coupling)」の状態にある。構造的な結合とは、複数のシステムが互いにメディア形式差異で関連付いている状態を意味する。例えば、法システム政治システム構造的に結合しているのは、法システム政治システム形式化させるメディアとして作動していると同時に、政治システムもまた法システム形式化させるメディアとして作動しているということである。システム構造は、外的環境に位置する別のシステム構造と潜在的に関連している場合がある。その関連は緊密である場合もあれば、緩やかである場合もある。専らその関連が顕在化するのは、双方のシステムが相互に刺激し合う場合だ。

構造的な結合は、機能的分化している近代社会のサブシステム間でも起こり得る。例えば、経済システム法システムとの間には「所有権(Eigentum)」や「契約(Vertrag)」が、法システム政治システムの間には「憲法(Verfassung)」が、政治システム経済システムの間には「租税(Steuern)」や経済指標や調達資金などのような数値が、政治システムマスメディア・システムの間には「世論(Öffentliche Meinung)」が、それぞれ構造的な結合結合点となる。とりわけ株式会社のような企業組織システムは、こうした結合点を主題とした意思決定コミュニケーション形式化させることで、複数の機能的問題領域の結合可能にしている。

法システムと経済システムの構造的な結合点:所有権と契約

法システム経済システム構造的な結合点である所有権は、所有者の区別という特殊な区別に基づいて対象を観察する形式である。所有権意味するのは、合意形成を不要にする点にある。所有権を巡るコミュニケーションにおいて重要となるのは、当の所有者の同意なのであって、他の誰かの同意など問題にならないのである。こうした特化したコミュニケーション内容を定めるのは、所有権である。所有権者を区別するための要件となるのは、所有物を実力行使で奪うことを規制されていることと、必要であれば的な制裁が科せられることである。だがこれだけでは、所有権を特定の的概念として規定できる訳ではない。所有権は、むしろ法システム経済システムの双方において、異なる観察形式を許すのである。所有権が双方のシステム構造的な結合可能にするのはこのためだ。

所有権構造的な結合点とすることで、法システム経済システムは相互に刺激を呈示し合う。だが双方のシステム作動の閉鎖性は保持される。経済システムは、法システムによって制限された条件の下で、収益や利潤を上げられる投資を追求し続ける。一方法システムも、経済システムによって制限された条件の下で、十分に一貫した判決を下す。

所有権は出発点を構成する区別に過ぎない。あらゆる経済的な取引においては、取引の事前と事後で、所有権の状態を区別できなければならない。取引は、区別区別要求する。つまり、所有者の区別に対する時間的な区別の導入が要求されるのである。しかもこの区別区別は、時間的な区別であるにも拘らず、それ自体は時間に抵抗して安定化できなければならない。と言うのも、取引の事前と事後との間で構成される所有者の差異は、取引後の時間の経過の中でも冗長的に確定されていなければならないためである。通常、この安定化を保障するのは、法システム経済システムの第二の構造的な結合点となる契約である。

経済の用語で言い換えるなら、契約とは交換である。とりわけその交換の対象となるのは、経済システムにおいて象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての貨幣である。所有権はあらゆる取引の前提となる。だがこの所有権もまた貨幣によって評価される。所有と非所有区別経済システムの第一の二値コードとして機能するものの、貨幣経済発達したことで、この二値コードが第二の二値コードである貨幣支払いと非支払い区別によって評価されるようになったということである。今や所有権は、取引によってどの程度の貨幣で換金され得るのかという観点から評価されるようになる。所有権とは、投入された資本が一時的に流動を喪失させた状態で固定化された概念であると見做されるようになっているのも、所有と非所有区別支払いと非支払い区別によって評価されているためである。

契約法システム経済システム構造的な結合に適しているのは、契約では平等が重視されないためである。契約においては、当事者の給付内容を評価する際に、当事者の不平等は考慮されない。契約妥当性は、この場合の平等からは独立している。ルーマンによれば、契約もまた全体社会歴史においては重要な意義を持つ進化上の獲得物の一つである。契約が無ければ、経済的かつ経営的な取り組みが「企業」という形式分化することもあり得なかった。経済的な合理性を他の意味での合理性から区別することを可能にしたのも、契約という形式である。契約は、他のあらゆるものに対する無関心を背景に、時間の中で具体的な差異(spezifische Differenz)を安定化させる。契約の当事者は、その契約に関与していないあらゆる人々や組織を無視することができる。これこそが契約が提供する観察形式である。

契約の自由の制度を前提に、経済的な取引が実施される際には、可能契約の類型の範囲は何処までなのかといったことが考慮される訳ではない。経済的なコミュニケーション的な問題が主題になるとしても、その主な関心は、あくまでも的に禁止されていることの遵守か、その回避である。逆に、その分だけ法システムも自由を得ている。その自由とは、契約締結者の意思を事後的に解釈することで、的なコミュニケーションオートポイエーシスを継続する自由である。例えば、留保が明確化されていなかったにも拘らず、それを契約意味として暗黙裡に判読することも不可能ではない。ドイツ民のように、補充解釈に関する諸要素を契約の中に導入することも、またそれを公序良俗に反するものとして排除することも、不可能ではない。

一部の契約書には、物品やソフトウェアの成果物などの所有権がどの時期に移転し得るのかが記述される。こうした民等では明確に規定されていない事柄に関しては、それを主題の一つとして取り上げた契約によって規定していかなければならない。組織における一連の契約は、生活世界の日常を占める馴れ合いなどではなく、所々結社主義的に実施される。それは、職場の同僚や取引先を大切にせよと述べている訳ではない。機能的問題領域が関わってくるのは、紛争を先取りする場合のみである。所有権という制度が設計されるのは、経済的なコミュニケーション主題となる財や貨幣事物希少性を前提とした上で、そうした希少な対象を所有することに伴う紛争が予測される場合だ。ある事物所有できるのは、その事物についての所有権を有している者だけのはずである。所有権紛争が勃発するのは、所有権を持たない他者がこの事物所有している場合である。このように所有権という制度は、所有と非所有区別を導入するだけで、容易に法的紛争の先取りを可能にしているのである。

観点かられば、契約はあくまで債務が成立するための形式であり続ける。法的紛争が生じた場合には、この形式が吟味の対象となる。一方、経済観点の下では、取引という形式で、経済的なコミュニケーションの状態が変化していく。そこから生じる帰結を的に制御することはほぼ不可能である。まして制御することなどできはしない。

経済システム法システム構造的な結合は、双方のシステムにおける基底的な構造を変化させた。と言うのは、故意に引き起こされた損害に対する責任を規定している法律では、とある例外が設定されているためである。つまり、それが経済的な競争の枠組みで生じた損害であるなら、はそれを許可するのである。これはある種の特権である。純粋なコミュニケーションだけでは、こうした事態は生じない。他者に損害を与えることが許されるのは、経済システムが競争の上に成り立っているためである。

構造的な結合がもたらすのは、双方の分離と再結合である。このことは、経済システム法システム所有権契約の関連に対して異なる扱い方をしていることからも、よくわかる。経済システムにおける所有権の価値とは、交換価値である。それは貨幣経済の条件下で成立している。所有権が価値を持つのは、取引の中で使用されてこそなのである。これに対して法システムは、習慣的に、所有権から生じる法律上の請求権と、契約から生じるそれとは、相互に分離していると考える。この分離を破棄すれば、あるいは民を転覆させることになり兼ねない。

法システムと政治システムの構造的な結合点:憲法

法システム政治システム構造的な結合点となる憲法は、企業組織システムの内部に位置している訳ではない。法システム経済システム構造的な結合点となる契約所有権は、民や商などのような私領域のコミュニケーションと関わっている。これに対して、法システム政治システム構造的な結合点となる憲法は、公領域のコミュニケーションとして位置付けられる。そのため憲法は、企業ではなく、国家という組織システムの内部に位置付けられている。

国家概念の歴史意味論との関連から観察してみれば、憲法は、立憲国家社会構造との関連から18世紀後半に構成された意味論に他ならない。それは、政治的な観点から観察することを可能にすると共に、政治的な観点から観察することを可能にする意味処理規則である。しかしその機能は、通俗的な憲法論の主張に反して、むしろ政治の双方の自由度を強化することにある。憲法は、一方が他方を制御するために機能するのではなく、双方の機能システムとしてのオートポイエーシスを保つために機能する政治は、憲法という構造的な結合点を介してしか、相互に刺激を呈示できない。だが結合点が制約されているからこそ、双方はむしろ活発に刺激を呈示し合える。それが結果的に相互のシステムの自由度を強化しているのである。別の言い方をするなら、法システム政治システムの相互依存は、憲法という意味形式によって、予め予測された水路へと限定される。そうして結合点を限定することにより、相互に刺激し合う可能性を高めている。

成文憲法はいずれも自己論理的(autologisch)な推論に基づいたテクストになっている。憲法は、自己自身をの一部として予定している。それはの<規範化の規範化>という再帰性規範化する規範である。だが憲法特徴的なのは、それが自身を新は旧を破るという規則の例外的な存在として位置付けているという点である。言い換えれば憲法は、の修正可能性制御する。だがここでいうところの「」には憲法それ自体も含まれる。故に憲法は、自己自身の修正可能性自己自身で規定するのである。いわゆる「憲法改正」の手続きもまた、憲法によって規定される。「憲法改正」の手続きそれ自体を改正する場合にも、「憲法改正」の手続きに従わなければならない。この意味憲法自己論理は、「憲法改正」に対しても適用されることになる。

かくして憲法は、の一種として、規範化を規範化する。それと同時に、憲法自己論理は、自己言及の一種として、自己自身を規範化する。こうして憲法は、自己論理的に、自己自身がそうすることによって、法システム法システムの内部においてその責任を全うしなければならないということを、規範的に示すこととなる。

憲法自己論理は、政治システムの作動の前提にもなっている。憲法が想定しているのは、統治対象としての国家である。政治的なコミュニケーションでは、専らこれが憲法制定権力として期待される。政治システムは、憲法における権力観察観察することによって、権力保持者や主権者が誰であり、憲法が守られなかった場合の制裁が何であり、それ故に権力の行使が如何にして可能になっているのかについて、規範的に期待することが可能になる。それは、政治システムが、を、政治的な目的の達成のために、<象徴的>に利用し得るということなのである。これにより、権力関係における闘争は、政治システムに委ねられることになる。一方で法システムは、的な紛争の処理に注力することが可能になる。こうして政治は、国家の中で、互いの機能差異を曖昧化することなく、絶えず遭遇し続けているのである。

問題解決策:法の免疫学

にせよ公にせよ、機能的問題領域が構成されるのは、紛争闘争が先取りされる場合である。紛争闘争が成り立つのは、争う主題が共有されている場合である。「争うこと」ができるのは、「同じこと」についてのみである。「同じこと」についてしか争えないのだから、紛争闘争にも「統合」の機構存在していることになる。故に、紛争闘争もまた一種のコミュニケーションなのであって、社会システム以外の何物でもない。

法システム闘争紛争を如何に処理し得るのかを理解するには、機能の「遂行(Leistung)」を区別しなければならない。遂行とは、ある機能システムが他の機能システムに対して為すことを指す。社会的な機能は、規範的な期待認知的な期待区別によって可能になる期待再帰性に対して、<規範化の規範化>の再帰性を織り交ぜることによって、期待することそれ自体に対して期待することを可能にする点にある。皆が交通ルールを守れば、高齢者が運転する自動車に轢かれることはまず考えられない。こうした期待可能なのは、その背後で法システム機能しているためである。他の機能システムは、こうした機能を前提とした上で、期待構成している。法律で定められている通りに行動が制御され得るという期待が無ければ、経済システム法システムとの間には、所有権契約のような結合点は構成され得ない。

それぞれの機能システムは、闘争紛争解決においても、法システムの遂行に依存している。全体社会では多くの場合、闘争紛争が勃発した際に、法システムによる介入可能でなければならないと認識されている。だがその一方で、法システム紛争闘争を無条件で解決する訳ではない。法システム解決するのは、あくまでも法システム構成あるいは再構成した闘争紛争のみである。例えば日常生活で起こり得る小競り合いや、親密な関係にある者同士のドメスティック・バイオレンスの全てに対して、法システム介入する訳ではない。だがそうした暴力沙汰が殺人事件にまで発展すれば、法システム介入せざるを得なくなる。別の言い方をするなら、法システム解決するのは、機能的問題領域で構成あるいは再構成されている法的紛争のみである。構成が「あるいは再構成である」というのは、ドメスティック・バイオレンスのように、当初は的ではなかった紛争が後に的な紛争として再構成される場合があるということを意味する。

したがって、全体社会に遍在している闘争紛争というのは、二つに大別することができる。一つは、的な紛争である。これは法システム機能的問題領域で問題視される闘争である。もう一つは、非的な闘争である。双方は異なる社会システムである。法システムの作動を観察するだけでは、後者の闘争観察したことにはなり得ない。この関連から視点を移してると、ルーマンが記述した免疫システム理論は、大きな手掛かりを残している。この免疫システム理論の視点かられば、紛争闘争のようなコミュニケーションは、免疫機能によって果たされる。元来免疫システム理論は、危機的状況におけるオートポイエーシス如何にして可能になるのかという問題設定の下で導入された理論だ。ルーマンが提唱した社会システムの「免疫機能(Immunfunktion)」を担う「免疫システム(Immunsystem)」という抽象的な概念は、法的紛争との関連においても重要な手掛かりとなる。

免疫機能システムオートポイエーシスを脅かす問題に直面した場合に動員される。とはいえ、この免疫機能をタルコット・パーソンズが言う意味での「機能要件(functional requisite)」と混同してはならない。機能要件はシステムの存続に必要不可欠な機能を含意する。しかし免疫システムは、予め構造が仮定されているシステムの存続に携わるというよりも、むしろシステム危機に対する適応的な構造変動に携わることで、存続の負担を軽減しているのである。

念のため付言しておくと、ルーマンの社会システム理論における「免疫システム」という概念は、類推隠喩として導入された概念ではない。等価機能主義方法では、そもそも類推隠喩は採用されない。こうした概念操作では、類似するものばかりを関連付けようとする誘惑に駆られてしまうからだ。ルーマンによれば、生命システムに限らず、免疫機能普遍的な現象である。それが偶然にもこれらのシステムの作動において早期に発見されたというだけのことなのだ。それ故にルーマンは、免疫システムという概念を抽象化することで、生命システムにおける免疫機能社会システム心理システムにおける免疫機能比較しているのである。

心理システムの免疫システムとしての情動

社会システム免疫システムは、心理システム免疫システムとしての「情動(Gefühle)」と比較することで、より判明となるだろう。例えば生存の危機に直面すると、心理システムオートポイエーシスも継続不能になり兼ねない。その時、断末魔の恐怖や不安は、心理システム免疫機能を担う情動の一例となる。これ以外にも、例えば愛への没入が該当する。それは、不意に他者への自己献身を方向付ける。だが、他者は心理システムの環境に位置する。故に他者へ没入した心理システムは、システム自身と環境との差異を確保できなくなる。それは、自己言及で成り立つシステムオートポイエーシスを継続し得なくなることを言い表している。

システムオートポイエーシスを継続するためには、こうした危機適応しなければならない。つまり、通常のシステムから自身を脅かす危機に対処するシステムへと変異するために、改めてシステムと環境の差異を有意味的に再構成する必要があるのだ。

しかし、ここで問題となるのは、この区別偶発的であるという点だ。システムには、多種多様な意味選択することができる。だが選択肢が過剰であれば、視野狭窄に陥る。存続の危機が目前に迫る状況では、意味選択肢を吟味している余裕は無い。何よりも時間が足りないのだ。そこで、予め選択肢を限定しておくことが必要となる。つまり、存続の危機に陥った場合に「意味」選択肢を限定するために機能する構造」が必要となるのだ。それが免疫機能となるのである。

構造的な選択肢の限定によって、オートポイエーシス危機に立たされた心理システムは、膨大な選択肢に迷わず速やかに「特定の情動」を発動させることができる。この「特定の情動」が、危機的状況における「特殊な心理システム」となる。言い換えれば心理システムは、オートポイエーシスを破綻させる寸前に、心理システムとしての情動と環境の差異構成する「意味」を即座に付与することによって、それまでパラドックス化していた差異隠蔽するのである。危機的状況が治まるまで、免疫システム心理システム機能的等価物となるのだ。

構造期待意味形式再帰的に関連しているのであった。「特定の情動」を発動させるべく構造を変動させるためには、期待という限定技術形式を駆使して膨大な選択肢を捨象しなければならない。また「特定の情動」に見合う構造変動が済まされると、新たな構造は既存の期待意味形式影響を与える。何故なら構造機能するからこそ、特定の期待冗長的に選択し続けることが可能になるからだ。したがって、ある心理システム免疫システムとしての情動を発動させた時、その心理システムが依拠できる期待意味形式は、「特定の情動」の構造を前提とした場合に冗長的に選択できる期待意味形式に限定される。言い換えれば、この時心理システムが依拠できるのは「特定の情動」に対応した期待のみなのである。

依拠し得る期待意味形式が限定的であるこの情況は、システムオートポイエーシスを尚不安定にする。何故なら、依拠した期待期待外れに終わる可能性があるからだ。通常の意味構成システムならば、たとえ期待外れに陥っても、規範的な期待認知的な期待構成することができる。だが免疫システムを発動させている場合、依拠し得る期待が限られているために、期待外れ隠蔽することができなくなる。そうなればシステムオートポイエーシスを途切れさせて終い兼ねない。免疫機能が不要になって初めて、システムは平常のオートポイエーシスを再開できるようになる。

心理システムにおけるこの情況は、しばしば社会システムにも影響を与えることがある。双方のシステムは確かに自的だ。しかし、期待構造に依拠する「意味」構成するシステムであることに変わりは無い。もし社会システムがこうした「特定の情動」に対応した期待のみに依拠して外部言及を敢行したのならば、心理システム同様に、その社会システムもまた不安定化するだろう。

それ故、心理システム免疫システムを発動せざるを得ない情況に直面した場合、しばしば社会システムもまた免疫システムを発動せざるを得ない情況に直面する。無論この逆の連鎖もあり得る。一個人が生存の危機に陥り恐怖や不安の情動を発動させている時に、その周辺に位置する社会システムが平常なコミュニケーション構成できているとは考え難い。また同じように、ディス・コミュニケーションが伴っているにも拘らず、誰も怒りや悲しみのような情動を発動させないというのも考え難いのである。

社会システムの免疫システムとしての闘争

心理システム免疫システムとしての情動に関する等価機能分析は、社会システム免疫システムとしての「闘争(Konflikt)」を観察する上でも妥当する。社会システムは、オートポイエーシス危機に立たされると、予め構造として準備していた特定の免疫システムを発動させる。ルーマンによれば、社会システム免疫機能を担う代表的なシステムは「闘争」である。その具体例は、論争や競争や紛争だ。その一方で、過度な闘争によって社会システムオートポイエーシス危機的状況に陥った場合には、法システム免疫機能を担うという。

ルーマンに倣い大別するならば、闘争が生じるのは二つの場合である。第一に、先行するコミュニケーション矛盾するコミュニケーションが生じた場合である。そして第二に、矛盾についてのコミュニケーションが生じた場合である。ここでいう「矛盾(contradiction)」とは、パラドックスではない。矛盾パラドックスは別物である。単純化して言えば、矛盾とは、両立不可能な命題が二項対立を引き起こしている状態を意味する。例えば「redは日本語である」という命題は、単に矛盾しているだけである。一方パラドックスには、矛盾に加えて、無限後退のような循環性自己言及も帯びている。「この文は間違いである」となれば、矛盾のみならず、パラドックスも派生する。

ヘーゲルの弁証法との差異

この闘争の前提となる矛盾という概念は、『精神の現象学(Phänomenologie des Geistes)』を記述したヘーゲルの弁証法で把握される「テーゼ(these)」と「アンチテーゼ(antithese)」の関係を描写しているように思えるかもしれない。実在は対立物との矛盾によって定義される。故にその実在を考察するには、対立物との関係を考慮しなければならない。それが弁証法的な方法だ。この点で言えば、矛盾に基づいて闘争を把握するルーマンの姿勢は、ヘーゲルのそれに一致しているかのように思える。しかしヘーゲルの弁証法進歩史観に基づいていることを背景として言えば、両者は全くの別物である。

念のために付言しておこう。ヘーゲル以前の哲学が観念論的に理想を追求し過ぎていたのに対して、ヘーゲルはより現実を直視しようとしていた。それは彼が生きた当時のプロイセンが弱小国であったという経緯と聊か関わってくる。それまでのドイツ観念論者たちは、固定的で、整合的で、念的な存在として人間を描いてきた。だがヘーゲルの目に映ったのは、むしろ理性的ではない単なる伝統や慣習が蔓延している現実世界であった。それについてヘーゲルは、決して悲視することなく、今この現実の状態は途上なのだと解釈した。そこで彼が導入したのが、時間の経過と共に変異していく「歴史(Geschichte)」の概念であった。基本的に彼は、人間の本質は「精神(Geistes)」の自由であると考えた。他者から阻害されずに独立することができるという点で、精神は自由だと彼は考えたのだ。ただし人間はこの本質を未だ達成していない。そこで彼が引き合いに出したのが、「歴史」なのである。ヘーゲルは、歴史とは精神が自由を達成していく過程なのだと言う。

ヘーゲルが言う場合の「歴史」とは、単なる時系列的な物語の編成を意味するのではない。それは近代に向かう社会進歩や、あるいは近代を徹底する社会進歩意味する。世界歴史は自由の意識進歩であると考えるヘーゲルは、ドイツ観念論の完成を決定付けたとされる有名な弁証法によって、歴史の進展を記述した。つまりヘーゲルにとって歴史とは、「テーゼ」、「アンチテーゼ」、そしてこれら双方が「止揚(aufheben)」されることで成立する「ジンテーゼ(synthese)」の三段階を経て発展していくのである。

ヘーゲルはこの弁証法道徳に適用させることで歴史の進展を記述している。彼によれば道徳とは、個人の精神が達成すべきものなのではなく、むしろ国家によって達成されるべきものである。道徳は主的だ。一方、国家が設定するは客的である。ヘーゲルはこの両者の統合体を「人倫」と名付けた。人倫もまた、テーゼアンチテーゼ、そしてジンテーゼの三段階で発展していく。人倫におけるテーゼに該当するのは「族」である。一方アンチテーゼに該当するのは「市民社会」だ。そして両者が止揚された際のジンテーゼに該当するのが、「国家」である。ここでいう族とは、共同体の最小単位だ。族の各構成員は「愛情」によって結び付いている。しかし族では、個人の独立が阻害されてしまう。それ故に「自由」も見当たらない。そこで族のアンチテーゼとして市民社会が登場する。市民社会は、個々人が自由意志で結び付いている状態だ。ここで愛情は、端的に否定される。代替的に、自由が得られる。しかしながら愛情を否定することには喪失感が伴う。それ故に「人間幸福」とは何なのかという疑念が生まれる。そこでこのテーゼとなる族とアンチテーゼとなる「市民社会」を止揚したジンテーゼとして、国家が導入されることになる。

ヘーゲルにとって、国家族と市民社会矛盾した対立関係が止揚されることによって完成するものであった。彼は国家市民社会族よりも高次元の絶対的な存在として解釈していた。こうして国家が完成すれば、人倫も達成されることになる。それ故もはや道徳を追求する必要もなくなる。個人の道徳の達成よりも国家を重視する姿勢には、恐らくは、当時のプロイセンが弱々しい国であるが故に、周辺国の外圧に常に脅かされていたという歴史的な背景が絡んでくるのであろう。そうしたヘーゲルにとって、国家市民社会差異は自明であった。彼は市民社会を「欲望の体系」と呼んでいる。それは、自己自身の目的を達成するために他人を利用する社会意味する。こうした個々人の欲望が衝突している市民社会に対して、国家は個々人の利益と全体の利益が一致すると言う。この進歩史観を前提とすれば、近代とは目指すべき場所である。誰にとって目指すべき場所なのかと言えば、それは日本のように近代化に乗り遅れた国にとってだ。

テーゼアンチテーゼの関係は、ルーマンの言うように、矛盾した対立関係に他ならない。この点で言えば、ヘーゲルとルーマンの出発点は類似している。つまり両者の理論は共に「差異」から始まるのだ。しかし、ルーマンの言う意味矛盾した対立関係にある二つのシステムは、必ずしもジンテーゼへと止揚される訳ではない。対立する二つのシステムは、それぞれ偶発的に作動している。止揚される以前に闘争を取り止めてしまうこともあり得るだろう。双方が共倒れになる場合もあり得る。双方のシステムは、必ずしもジンテーゼに部類するシステムへと同一化される訳でもなければ、統合される訳でもない。差異差異のままである。

二項対立の形式としての矛盾

矛盾パラドックス差異を前提に言えば、闘争の発動には互いに否定し合う二つのコミュニケーションが必要になる。その否定外部言及だ。よってその否定対象の限定にも期待意味形式が関与している。だが片方のシステムにのみ適用可能意味形式では、相互に否定し合う関係を構成できない。故にこの結び付けに特化した意味形式が必要になる。

この要請に応じるのが、矛盾という意味形式なのである。例えばシステムAとシステムBが矛盾していることを指し示す意味αβがあるとしよう。この矛盾としての意味αβは、システムAが依拠する意味αとシステムBが依拠する意味βを二項対立関係として統合する「象徴」に他ならない。この意味αβは、システムAとシステムBの二項対立関係を構成する一方で、第三項を排除する。つまり矛盾には、排除されし第三項を細部として捨象する「一般化」の機能も帯びているのだ。

この意味αβは、したがって「システムAとシステムBの矛盾した関係」を現実性として顕在化させると同時に、それ以外の否定対象や肯定の余地を可能性として潜在化させる。この矛盾を指示する意味αβに依拠して自己言及を敢行するのが、システムAとシステムBにおける闘争という免疫システムなのである。

この場合の免疫システムは、あくまでシステムAに他ならない。だがこれに伴い、システムBもまた免疫システムとしての闘争を発動させる可能性が生じる。この理由は三つある。第一に、意味αβが構成されたことにより、システムBが意味αβに依拠することが可能になるためである。第二に、システムAの免疫システムとしての闘争が、システムBのオートポイエーシス危険に曝すからである。そして第三に、システムAに否定されることで、システムBが認知的な期待の契機となる期待外れの瞬間に立ち会うことになるからである。例えば一国の政治システム危機に直面すると、他国の政治システムに先制攻撃を仕掛けることがある。これも免疫システムとしての闘争である。すると、その先制攻撃を受けた政治システムも、危機的状況に立たされる。それは極端なまでに期待外れな状況であろう。その政治システムは、自己保全のために、免疫システムとしての闘争を発動させるだろう。こうして戦争が実現するのである。

意味論的に言えば、意味αβが構成されると、意味αと意味βは、互いに機能不全に陥る。何故なら意味αβが現実性として顕在化させているのは、意味αの現実性意味βの現実性が両立不可能であるという現実だからだ。意味αがある限り、意味βを選択することは負担である。それは、意味βに依拠するシステムBのオートポイエーシス負担になるということだ。かくしてシステムBも、免疫システムを発動せざるを得なくなる。システムAが免疫システムを発動させ続ける限り、意味αβも構成され続ける。結果的に、システムAによる闘争システムBを巻き込むのである。

対立するシステムを考察する上で注意しなければならないのは、闘争とはシステム内での出来事だということだ。それぞれのシステム自己言及的システムである。確かにシステムAは、システムBと対しているだろう。システムBもまたシステムAに意を向けているのかもしれない。だが、システムAが認識するシステムBは、システムAの内的環境に位置付けられた<システムB>に過ぎない。システムBが認識するシステムAも、システムBの内的環境に位置付けられた<システムA>なのだ。実際に闘争する相手がいる場合にも、システムは<仮想>と闘うのである。

したがって矛盾という意味αβに依拠するシステムAは、内的環境を舞台として、<システムB>との矛盾した対立関係を構成する。システムBについても同様である。この動向により、双方のシステムは不安定化する。それはいずれか一方が自身の<仮想>との闘争に敗れてオートポイエーシスを瓦解させるまで続く。仮に双方が同時的に<同士討ち>となった場合も、その余波が残存する場合もあるだろう。例えば国家Aと国家Bの核戦争という闘争が双方の全滅という形で終結を迎えたとしても、その放射能汚染によって、他の国家も巻き添えとなる可能性もある。巻き添えとなった国家かられば、それは外的要因による破壊であるかのように思える。しかしそういった場合でも、「社会」という包括的な社会システムの内的な出来事であるという点では変わりはない。システムはいずれにせよ、「外」と闘う訳ではないのである。

社会システムの免疫システムとしての法

免疫システム理論的に言えば、法システム社会システム免疫システムとしての機能も引き受けている。闘争を先取りする上でも、法システムは、未来で起こり得る事例が現在や過去の事例と等しく扱うには如何にして制度や規範を整備すべきなのかという問題設定と常に関わりを持つ。法システム免疫機能は、とりわけ免疫システムとして機能している闘争社会システムオートポイエーシスを脅かすようになった場合に動員される。だから、例えば抗議デモが人を出すような暴動へと変わってしまった場合などは、社会システムコミュニケーションが途絶えないようにするために、しばしば国家警察などによる的なコミュニケーションが伴うのである。

免疫システムは、外部環境についての知見を持たずに作動する。免疫システム観察して記憶するのは、システム内部における闘争紛争、競合、矛盾のみである。そして、次々と生起するそうした諸問題に対して、一般化され得る問題解決策構成していく。つまり、未来の事件についての剰余能力を確保していくという訳だ。言わば免疫システムは、外部環境探索しない代わりとして、自らの体験一般化するのである。外部環境についての知見を持たずに作動する以上、免疫システムは、あらゆる外部環境による攪乱に対して盲目的に作動することになる。だが、攪乱の発生源が未知であるにも拘らず、システム内部で構成された体験は、そうした攪乱の目印として観察される。その際システムは、特化された高度に選択的な構造的な結合に準拠する。そうすることで、別のあり方でもあり得る選択肢を無視することを可能にする。ルーマンによれば、予測不可能な攪乱を受容して中和できる免疫システムが成立し得るのは、ただ構造的な結合においてのみである。

免疫システム機能は、攪乱を調整することにあるのではない。免疫システムは、構造的なリスク緩和することに対して機能する免疫システムとしての法システムの遂行によって、全体社会は、社会構造複合性によって宿命的に条件付けられたリスクとして、恒常的に再生産される紛争闘争に折り合いを付けられるようになる。免疫システムは、社会システムがそうした闘争で満ちた外部環境適応するために形成されているのではない。逆である。そうした適応を放棄した場合にこそ、免疫システム形成されるのである。

派生問題:法「の」免疫

以上のような免疫システム理論は、外部環境に対して盲目的に作動しているはずの法システムが、如何にして学習可能にしているのかについても、我々の理解を促進させている。答えは容易である。法システムは、闘争紛争を契機として学習するのである。闘争紛争が無ければ、法律が成立することも、法律が改正されることも、あり得なくなる。闘争紛争が無ければ、はただ忘却されるであろう。

しかしこの容易な解答は、難解な派生問題を伴わせている。免疫システムとしてのという概念は、立法手続き免疫機能との関連から記述することを可能にする。立法府が記述する条件プログラムは、例えば福祉国家民主主義的な政治文化で貯蓄されている意味論として既に主題化されている過去の諸問題に限らず、未来で起こり得る諸問題をも想定して設計される訳だ。そうした諸問題は、<矛盾したコミュニケーション>や<矛盾についてのコミュニケーション>によって構成されている闘争として観察される。しかし、このような免疫学は、すぐさま自己論理的(autologisch)な推論の対象となる。つまり、免疫システム理論的な諸問題の先取りもまた、<矛盾>の対象になり得るのだ。議員提出の法律案と内閣提出の法律案が相互に矛盾したとしても、の背後に位置する政治コミュニケーションを前提とすれば、何ら不思議なことではない。両議院の議決が異なれば、両院協議会が、闘争の舞台となる。

しかし、法律の制定手続き可能となる闘争紛争の先取りには限度がある。法システムがその統一性を維持するためには、裁判における判決との学説における変異が統合されている必要がある。だが新たな的概念の発明や新たな解釈学上の規則が導入されるのは、それを促進させる事件が発生した場合である。様々な事件が、幾つかの的な問題設定として整理されて記述されるのは、概念の意味論的な発展が十分に実践された時である。そのためには時間が必要になる。確かに法律制定は、そうした所要時間を短縮させることを可能にするであろう。しかし法律制定が頻繁に実施されれば、新しい法律裁判の伝統や学説の発展が追いつけなくなる。こうした事態は、法システムの内部で立法府が優先されているということを表している。そしてそれは、法システムが、規範的な期待よりも認知的な期待を優先していることを意味する。

ルーマンによれば、18世紀末までの法システム複合性を増大させていたのは、法律同士の論争と、解釈法学説を巡る延々とした議論であると考えられていた。これに対して立法は、の単純化、明確化、透明をもたらすものとして讃されていた。しかしルーマンは、今や事態が逆転したと述べている。立法は、法システムにおける複合性の主要な発生源となった。この逆転は、法システム機能的な分化と、システム内部の<学習する傾向>と<学習しない傾向>の双方に対する圧力が強まったことに関わる。そしてこれは、社会進化によって不可逆的に進行した。

立法法システム複合性を高めているのは、それが政策の実践であると同時にの実践でもあるためだ。だが、如何に洗練された形式でも、それが乱用されることで、立法者が意図しなかった結果も生み出す。こうした期待外れ法システムフィードバックされれば、立法はまたもや学習することになる。それ故、立法立法を促進する。結果観察することは、の変化を意味する。条件の変化が、変化を条件付けるのである。

こうした変化は、法システムがその認知的な期待によって次々と学習していく傾向を指し示している。だがその結果として法システムは、まさに法システムの内部で構成され得る様々な紛争主題とすることで、自己自身の免疫システム複合性を増大させてしまう。これはルーマンの意図に反する比喩的な表現になってしまうであろうが、こうした事態が指し示しているのは、元々社会システム免疫システムとして構成されていたが、宛ら「アレルギー反応」の如く、自己自身を殲滅してしまうようなものである。

問題解決策:法の自己記述

このような錯綜した状態に対し、解釈学としての原理や決定規則を構成したところで、立法が優先される事態に歯止めを掛けることにはならない。何故なら、そうした歯止めを掛けようとする取り組みそのものが、立法との<矛盾したコミュニケーション>として構成されるためである。は、立法との競合すら、免疫システム理論的に、的な問題として設定するであろう。

それ故にルーマンは、の学説にできることがあるとするなら、それは反省を専門とした「法理論(Rechtstheorie)」と一体化することであると予見する。の「反省理論(Reflexionstheorie)」の対象領域は、法システム自己観察自己記述である。それぞれのシステムは、自らの複合性システムの目的を達成するための手段として利用することができない。何故ならそれぞれのシステムは、自らの複合性システムの内部に導入することが不可能であるためである。それは、本来の複合性反射させて、倍加させ、超複合的(Hyperkomplex)なものにしてしまう。それ故、システムの内部におけるシステムに関連するあらゆる自己言及とそのコミュニケーションは、自己自身を単純化させる装置を必要とする。それは自己自身の複合性の縮減可能にする機構である。つまり、法システムにおけるある種の自己同一性(Identität, identity)を可能にする機構が求められるのである。そして、法システムにおけるこの自己同一性(Sichselbstgleichheit)の機構を担うのが、反省理論なのだ。

トートロジーとパラドックスの差異

ルーマンは、「同一性」という概念に関する極端思考を採り入れることによって、反省理論自己言及理論として展開している。その際、ルーマンは「同一性」を記述する形式を「トートロジー(Tautology)」の形式と「パラドックス(Paradox)」の形式区別している。いずれの形式も、「同一性」に関する自己記述如何にして可能になるのかという問題設定に対して、具体的・概念的・規範的な合意形成を提供する機能は無い。トートロジーパラドックスは、問題解決策としては不毛な形式である。そのために観察者は、いずれの形式選択するべきなのかを判断することができない。しかし観察者は、これらのトートロジーパラドックスが如何に処理されるのかを観察することによって、自己記述の問題が如何にして無害化し得るのかを知ることができる。

観察者は、トートロジーパラドックスを「展開(Entfaltung; developing)」によって回避する。それは、トートロジーパラドックスに関わる肯定的あるいは否定的な「循環性(Zirkularität; circularity)」が中断されて、それが最終的には説明し得ないある種の不当なやり方で「解釈(interpretiert; interpreted)」されるということだ。これらの展開の過程が成立するためには、観察者にとっての機能と問題の「不可視性(Invisibilisierung; invisiblity)」が必要になる。すなわち、トートロジーパラドックスとはならない自己記述は、個人的な計画や意図に準拠しているのではなく、観察それ自体の過程と作動が潜在的である場合にのみ可能となるのである。

この展開理論は、トートロジーパラドックス観察と記述に関する論理的に等価な形式として参照している。だが、もしトートロジーパラドックスの特殊事例として捉えるならば、この論理的な等価に対する仮定は問題を孕んでいることになる。確かにトートロジーパラドックスになる。しかし、逆はあり得ない。トートロジー区別形式である。だがトートロジーそれ自体は区別を実行しない。トートロジーは、トートロジー形式によって区別される対象が実際に差異構成するということを明示的に否定する形式である。トートロジー観察を遮断させる作用を持つのは、このためである。トートロジーは、常に二重の観察形式に基づいている。すなわち、あるものは、それがあるようにある(something is what it is)という形式だ。しかしながら、この命題は措定された二重否定すると共に、「同一性」を主張する。このようにトートロジーは、そもそもトートロジー可能にしているものを否定するために、否定それ自体を無意味にする。

これを前提とすれば、もはや我々はトートロジーパラドックス、そして脱トートロジー化と脱パラドックス化機能的に等価であると考えることができなくなる。トートロジーパラドックス化し得る。だがパラドックストートロジー化し得ない。故に脱トートロジー化の機能よりも、脱パラドックス化機能を分析する方が、実り多き発見可能にする。自己記述の問題は、脱パラドックス化の問題として設定されなければならない。すなわち、不健全ではなく生産的な展開としての脱パラドックス化は、如何にして可能になるのかである。この脱パラドックス化意味論は、パラドックスを無害化させることによって、それを<創造的な循環>として認識することを可能にする。パラドックスが「循環」として認識されるのは、この脱パラドックス化が失敗したことで、機能不全に陥っている場合である。

<自然的な制限>と<人為的な制限>の差異

社会の中には、観察されない作動は存在しない。社会システムオートポイエーシスを維持し続けるコミュニケーションは、コミュニケーション観察の双方で利用される区別によって、常に観察される。これを前提とすれば、作動と観察差異普遍的である。社会システムが存続する限りにおいて、この差異は永続的に再構成され続ける。社会システムオートポイエーシスは、観察に関する新しい可能性を同時に構成しなければ、継続されることはあり得なくなる。無論、社会システム観察それ自体は、社会システムオートポイエーシス的な作動、すなわちコミュニケーションとしてのみ可能となる。したがって観察とは作動の一種である。作動を特化させた概念が観察となる。

この作動と観察区別は、自己言及の<自然的な制限>と<人為的な制限>の区別によって展開される。自己言及的システム自己言及パラドックス解消する場合、しばしばシステムはその自己言及中断している。そうした中断が、当のシステムによって、その作動が可能になるための必要条件として認識される場合、その中断は<自然的な制限>となる。一方、自己言及の<人為的な制限>は、別のあり方でもあり得る偶発的選択として結実する中断である。意味論的に言えば、自己言及の<自然的な制限>は、自己言及トートロジーパラドックスの隠蔽技術形式となる。それは自己同一性に関する自己記述パラドックス隠蔽してくれる。これに対して、自己言及の<人為的な制限>は、パラドックス隠蔽を許容するものの、代わりにパラドックス解消を要請する。

自然的>と<人為的>の区別は、社会構造変異システム学習から影響を受ける。もしシステムがその自己記述による自己同一性脱パラドックス化に有用な新しい意味論発見することができたなら、それまで必然的であると観察されていた意味論は、偶発的意味論として再記述される。<自然的>と<人為的>の区別は、それまで疑う余地の無いものと信じられていた意味論が、社会進化を介して如何に突然偶発的なものではないかと疑われるようになるのかについても、有力な手掛かりを与えている。その分析方法等価機能主義的となる。等価機能分析として言えば、疑う余地の無いものとして信じられている意味論は、観察対象となるシステムにとっては自然必然的なものとして選択される。そうした選択は、機能的に等価別のあり方でもあり得る意味論排除によって顕在化している。セカンドオーダー・サイバネティクス風に言い換えれば、自然必然的なものに対するファーストオーダーの観察セカンドオーダーの観察の対象になることで、それまで潜在化していた選択肢が偶発的別のあり方でもあり得る選択肢として顕在化することになる。ファーストオーダーの観察者は、視えないということが視えないということが、えていない。セカンドオーダーの観察者は、<自然的>と<人為的>の区別を導入することで、これをえるようにするのである。

自然的>と<人為的>の区別においてより重要となるのは、この区別が、観察と作動との関連を明確化することで、システム反省自己記述の関連を明確化している点にある。自己言及的システム観察者は、自己言及的システムパラドックスの孕んだ方法構成されているということを理解できる。しかしながらこうした認識それ自体は、システムに対する観察を不可能にする。何故なら、システムに対する認識は、「観察の対象となるシステム自己言及的システムでありながらもその自己言及が妨げられていること」を仮定するためである。それ故、純粋で無制限の自己言及という想定からシステム観察すれば、システムにおける自己言及パラドックスという問題は、観察パラドックスの問題として再設定される。そして自己言及の<自然的な制限>と<人為的な制限>の区別は、まさにこの観察パラドックス脱パラドックス化する。かくして自己言及的システム観察者は、自己言及的システムパラドックス脱パラドックス化すると同時に、自らの観察それ自体も脱パラドックス化する。

ルーマンは、以上のような作動と観察区別を究極的な真理として主張している訳ではない。ルーマンはあくまで、別のあり方でもあり得る自己記述選択肢の中から、如何なる自己記述こそが適切な自己記述として立証され得るのかを決定する理論の出発点として、作動と観察区別から<自然的>と<人為的>の区別展開しているのである。

メディアとしての構造的な結合

自己言及的な作動と自己言及パラドックスは、それぞれのシステムごとに異なる様相を呈している。ルーマンによれば、それぞれの自己言及的な作動とそのパラドックス展開は、構造的な結合機構媒介される形で進む。それらの展開問題解決策は、それぞれのシステムの内部で観察できるような、メタ規制や論理的解決に依存しているのではない。例えばルーマンは、法システム政治システム構造的な結合点である憲法が、自己言及の諸問題に対する政治的な問題解決策を創出すると共に、政治自己言及の諸問題に対する的な問題解決策を創出するという。ここでいう憲法とは無論、国家憲法である。ここでは、統治されるべき現実的な対象としての国家が想定される。法システム政治システム構造的な結合点となるのは、憲法テクストではない。立憲国家こそが、この結合を担う。国家構成して規定する憲法は、それぞれのシステムで異なる意味を持つ。法システムにとっての憲法は、最上位のであり、基本である。一方政治システムにとっての憲法は、政治の道具である。この政治の道具という表現には、二重の意味がある。つまり、状況を変化させるための道具的な政治と、状況を変化させない象徴的政治である。たとえ仮象――特に真なる仮象――に過ぎないとしても、政治にとっては、まさに憲法象徴的に利用することによって、恰もによって政治が制限されているかのように振る舞うことも可能になる。

仮象の下で、実際に生起する出来事は、法システム政治システムが相互に刺激を呈示し合う関係であることによる歴史である。政治システムは、立法府でのコミュニケーションによって、の変化を引き起こすという可能性観察することで、自己自身に対して自己言及的に刺激を呈示する。の実定化という外部環境的な出来事があるからこそ、政治的な決定行為可能性が増大していく。そして政治は、そうして選択可能となった選択肢の選択に常に関与するようになる。の変更が引き起こされるのならば、それはすなわち政治であるということになる。しかしそれは、法システムという外部に言及している自己への言及に他ならない。同様に法システムの側でも、構造的な結合歴史は生起する。裁判における判決と解釈学的な一貫の検証は、政治システムとの構造的な結合を前提とした上で、変化していかざるを得なくなる。憲法解釈は、解釈学的な検証ではもはや政治的な出来事には追いつけなくなった場合に導入される埋め合わせとして機能する憲法解釈という主題は、恰も政治的な決定に対する的なコミュニケーションである。だがそうした法システムの作動も、政治システムという外部に言及している自己への言及に過ぎない。法システムは、自己自身に対して刺激を呈示しているのである。

同様のことは、法システム経済システム構造的な結合においても成立する。所有権契約観察形式は、自己言及の諸問題に対する経済的な問題解決策を創出すると共に、経済自己言及の諸問題に対する的な問題解決策を創出することを可能にする。決して的なコミュニケーションには現れない経済的な競争に対する観察は、法システムにおける自己言及パラドックス経済的なコミュニケーション脱パラドックス化することを可能にする。一方、経済システム自己言及によって構成されている金融市場が不安定化した場合には、金融規制に基づく規制などを主題とした的なコミュニケーションが、経済システムにおける自己言及パラドックス脱パラドックス化する。

派生問題:「問題設定は如何にして可能になるのか」という問題

反省理論は、こうした構造的な結合機能に対して、両義的な認識を持たなければならない。一方で構造的な結合点となる憲法所有権契約のような意味論は、反省理論主題として記述される必要がある。だが他方でこれらの構造的な結合点を主題とした理論は、しばしば法システム外部環境差異を曖昧化させてしまう。例えば法システム反省理論となるのが法理論であるのに対して、経済システム反省理論となるのは経済学である。経済システムの作動は支払いを通じたコミュニケーションであって、それを構造化するのは価格である。したがって経済システム自己記述としての経済学反省理論は、価格という言語理論を記述しなければならない。あらゆる自己観察自己記述がそうであるように、反省理論区別の導入による差異構成に準拠する。経済システム経済学の場合は、価格比較価格の増減などのような、価格差異構成に準拠することになる。経済学経済システム経済的なコミュニケーションの一種なのだから、経済学的な自己記述は、そうした価格の変動を単なる事実として語るのではなく、それを評価し、説明し、変更しようと試みる。しかしその代償として、反省理論としての経済学は、他のあらゆるものに対する無関心を前提とした上で、理論の対象となるシステム機能的問題領域を形式化する。そうすることで、反省理論は、当のシステムの感受を鈍化してしまう。

こうした事態は、経済システムにおける経済学に限らず、他の機能システム反省理論においても該当する。法システム法理論においても同様である。反省理論による上述した副作用に対して、積極的に構造的な結合点を主題にしたところで、外部環境に対する外部言及形式次第では、当の反省理論がもはやその機能システム理論ではなくなってしまうという陥穽が生じ得る。例えば法理論法システム反省理論として記述するためには、法システム外部環境区別をあくまでも前提とした上で、あくまでも合法違法区別や合憲と意見区別についての理論を記述しなければならない。法理論は、教育システムが導入する<より良い成績>と<より悪い成績>の区別マスメディア・システムが導入する情報非情報区別政治システムが導入する与党野党区別経済システムが導入する所有と非所有区別支払いと非支払い区別などのような意味論に対しては、中立を維持して