実定法の社会構造と進化の意味論 | Accel Brain

実定法の社会構造と進化の意味論

Accel Brain; Console×

問題再設定:法の自己記述は如何にして可能になっているのか

近代社会社会的文化的進化による社会構造の加速的な変異は、保守的なイデオロギーと進歩的なイデオロギーの単純な闘争を無効化するばかりか、左翼右翼との間で主題の交換を生じさせてきた。文化的悲主義、科学技術批判、手段としての国家への訴えなど、かつては保守的な主題であった問題が、気が付けば左翼陣営で議論される、などといったことも起こり得ている。こうした主題の交換が言い表すのは、イデオロギーによって心に参照されている諸問題が具体的に何であるのかが、さほど重要ではないということである。そうした具体的な事柄は、より抜本的な闘争に資するだけである。社会的文化的進化による社会構造変異は、「何を主題にするのか」という主題を巡る闘争を引き起こしているのである。

この事態は、とりわけ様々な社会問題を「政治的な問題」に還元することにより、社会の中で社会代理表象しようと目論む「中心人物」たちにとっては、スキャンダルである。中心や頂点を喪失させた全体社会は、もはや一体の理性によって制御される訳ではない。機能的な分化を遂げた近代社会では、様々な機能的なサブシステムがそれぞれに固有の問題設定から問題解決策を実行している。それ故に、ある機能的問題領域における主題が別の機能的問題領域における主題によって棄却されることは間々ある。異議を唱えられることの無い代理表象は、もはやあり得なくなっているのだ。社会の全体が今眼前に完全に存在するなどということは、決してあり得ない。結局のところ、代理表象という概念は、政治的な概念として再構成されるしかないのかもしれない。代理表象は、政治という機能的なサブシステムコミュニケーション上の主題として格下げすることでしか成り立たなくなったのである。

「この」問題は、近代社会の「自己記述(Selbstbeschreibung)」の問題である。自己言及的システムとしての社会は、自己自身を観察することができる。だがシステムは、自らの複合性システムの目的を達成するための手段として利用することができない。何故ならシステムは、自らの複合性システムの内部に導入することが不可能であるためである。それは、本来の複合性反射させて、倍加させ、超複合的(Hyperkomplex)なものにしてしまう。それ故、システムの内部におけるシステムに関連するあらゆる自己言及とそのコミュニケーションは、自己自身を単純化させる装置を必要とする。それは自己自身の複合性の縮減可能にする機構である。つまり、システムの「自己同一性(Sichselbstgleichheit)」の機構が求められるのである。

システムは、自らの自己同一性を描出するために、根本的な差異図式を用いる。そうすることで、自己言及的システムは、自己同一性貢献するように、自己自身の作動を統制することを可能にする。自己観察は、確かに様々な理由から生じ得る。それ故にシステムは、多種多様な区別を導入することができる。しかし、自己観察をその都度個別の状況に全面的に委ねるのではなく、構造的な傾向を通じて自己観察を統制する必要が生じる場合には、我々はシステムの「自己記述」を主題にすることができるようになる。

記述は、構造テクストを固定することで、それに基づいた観察可能にする。そうした観察は、より体系的で、より容易に記憶され、そしてより容易に伝達され得る。更にそうした記述は、記述されたもの同士の相互連結をより適切に可能にする。自己記述比較観点に曝されれば、そうした自己は、社会的文化的進化の過程で吟味される可能性が高まる。あるいはそれは、新たな文化意味処理規則主題として貯蔵されるようになるかもしれない。

以下ではまず、先に取り上げた法システム社会構造との関連を再び取り上げることにより、社会進化の過程から機能システムにおけるテクストを介した自己記述如何にして可能になったのかを分析していく。

問題解決策:言語と構造の区別

メディア形式区別を導入するなら、言語単語とその使用規則を緩やかに結び付けるメディアである。言語使用規則は、如何なる言明が意味を有するのかについても、またその意味構成を通じて如何なる記憶が想起可能になるのかも確定しない。言語が特定の意味を獲得するのは、発話や記述においてのことである。つまり言語というメディアは、発話や記述の形式の刻印を可能にしている。

メディア形式区別を前提とするなら、メディアとしての言語形式化させ得るメディアもあり得るという発想を持つことができる。仮にそのメディアの一つを単語であるとするなら、言語単語配列メディアとした上で形式化され得ると考えられる。

メディア形式区別に関して自己論理的推論すれば、更にメディアメディアを遡及することも不可能ではないことがわかる。単語は、生じては消え去る音素(phoneme)というメディアに、有意味と無意味区別形式が刻印されることによって、漸く構成可能になる。音素の組み合わせが単語として有意味になるか否かが区別される時、初めて単語形式化され得るようになるのである。

言語単語とその使用規則を緩やかに結び付けるメディアであるという先の記述からも明らかな通り、言語メディアとして形式化され得るのは、単語の組み合わせによって構成される文や文である。文は、文によって規定された品詞によって構成される。言語というメディアの中では、無意味な音素から区別された形式としての単語が、文的か否かを区別する形式を刻印するメディアとなる。

構造の固定化

このメディアとしての言語形式としての言語は、しばしば社会システムの「構造(Struktur)」を固定化させる上で用いられている。ここでいう「構造」とは、言語学における構造主義が記述している構造概念とは全く異なる等価機能主義的な社会システム理論の概念である。社会システム理論的に言えば、構造は「期待(Erwartungen)」によって構成されている。期待は、システム外部環境認知する際の機構である。世界には無数の外部言及対象が遍在している。期待は、そうした対象を取捨選択することで、対象についての選択肢を限定する。システムが何らかの対象に期待を抱くということは、既にそのシステムは、それ以外の対象を選択する可能性を捨象しているのである。構造構成期待構成再帰的に関わっている。構造が芽生えるのは、特定の期待冗長的に利用可能になる場合である。それ故に構造機能は、選択可能選択肢を予め限定することで、特定の選択肢を冗長的に選択することを可能にすることにある。

メディアとしての言語形式としての言語システム構造を固定化させるという分析は、この構造がそもそも可変であることを前提としている。情報理論が言い表すように、冗長性の対概念は変異である。システムが有する選択肢が変異した場合に、システムは全く新しい対象への期待を有することが可能になる。その場合、システム外部言及対象も変わり得る。こうした状況こそが、先に示したような、等価機能主義的な社会システム理論を前提とした社会進化論における<構造変異>を意味する。

したがって単純化して言えば、言語は、社会システム進化に対して言わば逆向きの方向付けとして機能する。この機能は、社会構造の安定化に貢献しなければならない機能的問題領域においては、とりわけ重宝されている。先に示したように、法システム社会的な機能は、期待の反事実的な安定化に他ならない。法システムは、合法違法区別許可禁止区別を導入することによって、全体社会選択可能選択肢を予め限定しなければならない。それが、法システムに求められる遂行となる。

しかし、法システムが全体社会構造的な安定を提供するためには、まずは自己自身の社会構造を安定化させなければならない。言い換えれば、法システムはまず作動の閉鎖性を保持しなければならない。そうすることで、他の機能的問題領域に対して開放的な遂行が可能になる。この意味でもまた、言語による社会構造の固定化は、法システムの内部において重要となる。

問題解決策:法の文字

今も昔も、法システム社会構造の安定を損なわせていたのは、的な妥当性根源に対する眼差しである。複雑高度な文化が成立する以前において、既に<法律>が、文字によって形式化されていた。それは、十戒を思い越せばわかるように、逐語的に固定されていた。しかし、そうした文字観察されるたびに、どうしてもそれが妥当する文字であるか否かが疑問視されていた。妥当性根源は、到達不可能な、あるいは少なからずもはや回帰することもできない過去に位置する。そうした到達不可能性は、宗教社会構造との関連で言えば、超越意味論によって記述できる。故に古代のテクストの中には、宗教意味論が付随的に差し込まれることになる。しばしば古代のが、創設神話のような宗教的意味論に言及していたのは、妥当性根源に対する解答を記述するためなのである。

社会的な記憶としての文字

に限定せずに分析するなら、文字機能は、知識選択可能性機能的再利用可能性を確保することにある。文字社会的な記憶として機能する。しかも予見不可能で、選択の幅がある形で利用可能知識を用意するという長所を備えている。

文字発明される以前の時代の社会でも、記憶機能していた。そうした社会では、専ら個人の心理的な記憶のみが利用されていたと、しばしば安易に想定されている。しかしこの想定は誤りである。解釈学(Hermeneutik)、弁証論的対話術、修辞学を区別する古典的な教義による観察観察すれば、その理由がわかるであろう。こうした協議の盲点となっているのは、書き手と読み手の社会的な関係である。これらの教義は、テクストを介したコミュニケーションを何らかの精神行為に還元できるということを暗に自明化するあまりに、そうしたコミュニケーションコミュニケーションとして分析する視点を欠いているのである。

ルーマンによれば、むしろ社会的な記憶は、知の伝承というコミュニケーションによって担われていた。それは、心理的な記憶作業の利用を、時間的に遅延させることで成り立つ。あるいは、記憶を順次想起することによって成立するとも言える。

知の伝承というコミュニケーションもまた、時間が過ぎ去ったとしても知識を維持することを可能にしている。しかしこの記憶形式はあくまで一時的なものに過ぎない。それは、異論の余地の無いはずの知の複合的な状況に関して、不確実性紛争を除去しなければならない場合には、機能不全に陥る。この記憶機能不全は、専ら宗教的な預言やの領域で顕在化していた。これらの領域では、比較的早い段階で、知を貯蔵する文字形式への移行が生じている。

メディアとしての文字と形式としてのテクストの差異

文字は、物理現象と、知覚する意識と、コミュニケーションとの間の構造的な結合可能にする。文字こそが、物理的現実、心理的現実、そして社会的な現実の間の構造的な結合点となるのである。口頭のコミュニケーションもまたこうした構造的な結合を担う。だがこのコミュニケーションは極めて儚く、生じては直ぐに消え去る。これに対して文字は、単に内容表現するだけではない。文字において特筆すべきなのは、それによってテクストが分出するということである。

テクストは、様々な意見の<差異>を形成するための<同一>の基礎となる。その前提となるのは、マークされ得る領域やマークされた領域の無限の地平であって、空白の空間である。言い換えれば、文字形式化するためには、文字として整えられたマークされていない領域が必要になるのである。マークを生成するということは、区別構成するということである。マークされた領域へと移行するためには、まずはマークされていない領域が必要になる。マークを可能にするメディアの内部で初めて、マークが可能になる。メディアが、マークを組み合わせることで、形式としてのテクスト構成されるのである。

この物理的なメディア形式差異によって、文字は持続をも備えるようになる。その持続は、コミュニケーションにおける利用からは独立している。利用されていなくても、文字文字として持続している。さもなければ文字は、物理的には解体していることになるであろう。

物理現象であるという点では、文字は、コミュニケーションから構成されている社会システム外部環境に位置する。したがって文字は、社会システム構成要素とはなり得ない。社会システムは、文字情報として処理する。ただしそれは外部からシステムの内部へと入力されるのではない。社会システムは、一種の「意味」構成するシステムとして作動することにより、外部環境に位置する文字情報システムの内部に「再導入(re-entry)」する。文字についてのコミュニケーションは、文字に対するコミュニケーションによる外部言及ではある。だがその外部言及は、システムの外部に言及している自己への言及である。

時間次元かられば、文字によって、コミュニケーションは伝達が為される時点から独立する。それによりコミュニケーションは、社会次元において、伝達者の意図からも大幅に独立することになる。コミュニケーションが伝達者の意図に反する方向へと突き進んでいくのも、このためである。伝達者の意図が問われるべきか否かは、解釈(Auslegung, Interpretation)の問題として設定される。コミュニケーションを左右するのは、伝達者の意図や置かれている状況の明確などではない。言明の明確解釈の方向こそが重要となる。

法と預言の差異

文字は、コミュニケーションのために利用されるよりも遥か以前から、記憶するに値する情報を書き留めるために機能していた。ルーマンによれば、におけるコミュニケーションは、文字発達とその利用によって利益を享受できていた最も早期の事例の一つである。ただしこのことは、今でいうところの制定にも該当する訳ではない。制定の概念は、文字文化の中で初めて成立したためである。しかし少なからずに関連したあらゆる交渉は、文字によって利益を得ていた。義務の貫徹、契約、遺書など、的な妥当性を担保するためのあらゆる的概念が、文字による社会的な記憶に準拠していたのである。

ルーマンはこの関連から、初期の文字と預言との関連も指摘している。預言は、多種多様な生活形態について、未知の事柄についての問いに答えようとする試みであった。文字は、預言の解釈という形式を固定することで基礎付けられていたとも考えられる。あるいは、古代メソポタミア文明における表音化の影響背景とした上で、預言との関連の中で利用されることによって、文字は初めて全体社会の規模で通用するようになったのだとも考えられる。

かつてのの問題は預言の問題として登場していた。預言は、超越的なショック体験に対する「何が起こったのか」という分析的な観点においても、あるいは有と無を如何に判決するべきなのかという実践的な観点においても、期待される状態を類推によって明快にする機能を担っていた。言わば古代のは、預言という宗教的な目的のために築き上げられた複合性合理性に則った上で、鑑定の専門職として機能していたのである。

文字宗教と密接に関連していた当時のの記録を保持するために役立っていた。だからこそ、現在判明している旧き文字の記録であるハンムラビ典は、近代社会で想定されている機能的分化したではなかったのである。ハンムラビ典は、法律によって妥当であると見做されている権利を書き留めた記録ではなかったのである。それは、まさに「AならばBである」という条件プログラム的な形式において、預言の規則と照応していたのである。こうした文脈から、文字は、事件や事案として顕在化している問題の解決策として機能すると共に、裁判の実践にも役立っていたのである。

こうした背景から、古代の宗教の多くが預言の意味論と関わっていた。だがこれに対して、テクストに差し込まれた宗教意味論は、別様の意味処理規則を提供している。<既知なるもの>の中に<未知なるもの>を探ろうとするのが預言であるのなら、<未知なるもの>を<既知なるもの>で再記述するのが、テクストにおける宗教意味論である。ここでいう<未知なるもの>とは、妥当性である。この意味論においては、人間行為が、の意思によって計られることにより、受容されるか否かが規定される。こうした宗教にとっての文字は、世俗世界の交わりで利用される場合とは異なり、信頼に足るテクスト形成する。そしてそのテクストでは、信頼可能なものを信頼可能なものとして、非知の秘密を既知の啓示として、そして何よりも超越的なものを内在的なものとして、象徴的に、というのはつまり統一的に再記述することを可能にする。

不文法の文字

古代社会における宗教の関連は、政治との関連から区別される。むしろテクストを介した宗教の関連は、政治の関連と競合しているようにも視える。アテナイの民主主義のように、<政治的>な法律における文字の固定化は、進化の後の段階における事後的な産物である。ここで前提とされているのは、固定化を正統化する手続きである。テクストを記述したからといって、それをとして利用可能であるか否かは未規定に留まる。この未規定は、まさに政治的な法律が固定化されることによって可視化されてしまう。だからこそ、かのソロンの立法との関連では、より高い水準にある不文についての学説が発展してきたのである。そしてこれに連なり、より高い水準にある、というのはつまり制定の上位に位置するの根拠を探究する長期的な伝統が生じてきたのである。

尤も、文字の拒否が可能なのは、文字があるからこそである。口頭による伝承が如何に高く評価されるべきであったとしても、そうした主張が登場するのは、文字存在するようになったからこそである。実際、不文においても、文字への依存は容易に見て取れる。不文もまた、多種多様な文字による記録、裁判での弁論記録、裁判記録、鑑定記録などを生み出しているのである。

つまり、文字と口頭の区別が導入されるようになったからこそ、口頭を優先するという選択可能になったという訳だ。この限りでは、口頭による伝承を如何に強調しても、あるいは典化してみても、それは文字を利用する社会による歴史の回想に過ぎない。例えばトーラーの口頭部分は、タルムードが遡及されて投影された記憶なのである。

文字には、逸脱を認識可能にするという、大きな利点がある。一方、口頭のコミュニケーションによって激しい口論が展開される場合には、大多数の逸脱は、騒音によって掻き消されてしまう。そうした衝突があるからこそ、的業務では逸早く文字が採用されていたのであろう。

口頭のコミュニケーション文化記憶を貯蓄するためには、知の伝承の反復が必要であった。尤もその反復は、集団が同じ知を伝承し続けているという虚構の前提が必要となっていた。儀式や通過儀礼のような宗教的コミュニケーションは、このためにも機能していた。一方、文字によるコミュニケーションは、予見不可能な状況を処理するためのより大きな自由を与えてくれる。テクストはそれ自体として理解可能でなければならない。また同時にテクストは、解釈の及び得る範囲を予め限定しておかなければならない。そしてテクストは、矛盾を避けて、十分な一貫を保持するように配慮しなければならない。

進化上の獲得物としての文字

文字という形式妥当して通用するようになったという出来事は、それ以前の口頭のコミュニケーションが支配的であった社会にとっては、破局のような出来事であった。ここに、古代社会構造変異の兆候が伺える。つまり、社会構造の安定が崩れ、別のあり方でもあり得る構造へと変異し始めたのである。この社会構造変異に伴って、あらゆる意味論も抜本的に変異した。中でも宗教は、新たに偶発性を遮断する上での意味論やその偶発性を許容するための意味論として利用されるようになったという点は特筆すべきである。

ルーマンは、こうした社会構造変異を、古代の環節的な分化から前近代の階層的な分化への移行として記述している。この社会構造変異は、文字の利用と並行して発生している。またルーマンは、この構造変異によって、文字の利用が促進されたということも指摘している。ただしここでいう促進とは、階層の上位や中心への集中を意味する。そして、文字の利用が上層へと集中したことに伴って、象徴的な資源もまた、統治官僚機構をはじめとした上層部に独占されることとなった。

しかしこの階層的な分化への移行だけでは、法システム分化が達成されたことにはならなかった。の問題が預言と関連付けられた古代社会の過程をればわかるように、この構造変異の時期から都市形成、階層形成、帝国形成、階層内部での同族結婚が生じたということを指摘する程度では、特殊な法システムが分出する十分な根拠を記述したことにはならないのである。ルーマンによれば、法システム分化が生じたのは、ローマ民以来、中世においてが体系化された後のことである。

文字アルファベットのような語や音声によって容易に理解される形式で利用されるようになると、に特有のメディア構成される。そのメディアによってテクストは、他のテクストから分化したのである。この時に初めて、は自化することが可能になった。ここでいう自化とは、単に文字を利用することではなく、他から区別され得る特殊なテクストに依拠しているという意味である。が成文化されることによって何が得られるのかをより詳細に分析するためには、こうした歴史的には後になってから生じてきた状態を念頭に置いておかなければならない。

派生問題:法のテクストは如何にして可能になったのか

テクストを他のテクストから区別することが可能になったとしても、妥当性根源への疑念が払拭される訳ではない。単に宣誓証人が多数いようとも、彼らが党派を組んでいようとも、それだけでは、そこに妥当があるとは結論付けられないのである。における文字機能は、文字という記号それ自体ではなく、単に表現に過ぎないということを、誰もが見抜いているという点に準拠している。この時代におけるテクストは、意味内容から明確に区別されていた。そして更に、この差異こそが妥当性の疑念を強化していたのである。

意味内容は、文字によって固定されると共に、反復的な判読の過程に委ねられる。つまり、意味圧縮されて、拡張されるようになっているのである。文字という記号のみならず、その判読こそが、拡張された構造形成する。拡張された構造は、記号とそれに対応する一定の形式の反応から成る。この反応に基づいた構造拡張こそが、構造変異に始まる社会的文化的進化の核心である。

いずれにせよ文字によって、へのアプローチは拡張されると同時に制限され、集中化されもする。だからこそ文字化が生じて以来、とその妥当性を「誰が決定するのか」が問われてきたのである。

こうした階層的分化社会におけるテクストの関連を観察すると、によるテクストの利用が偶発的な帰結であったようにも思える。つまり、文字とは別のあり方でもあり得る選択肢があったにも拘らず、どういう訳か文字選択されたのである。そうなると、テクストの関連は、等価機能主義的に観察し直すしかない。つまり、別のあり方でもあり得る機能的等価物があり得たにも拘らず、テクストの関連が選択されるという事態が、如何にして可能になったのかを問わねばならないのである。

問題解決策:複合性の縮減とその保存

ルーマンによれば、における文字は、規範に典型的な問題との関連から機能している。記憶と同様に、文字は逸脱の予見と関連している。逸脱が予見されることによって、初めて期待規範的にコミュニケートする契機が生じてくるのである。もし逸脱が何も予見されないのなら、そもそも規範は必要にならない。

逸脱の予見は、時間差異を前提とする。規範が提示されてから、逸脱が切実な問題となる時にはいつでも、期待に合致するか否かを示す情報が、反復的に働かなければならない。だから、例えば取引上約束された報酬が給付されたということが文字で記録されれば、少なからず形式上は、後からそれが為されたのかという疑問の余地など無くなるのである。

制定もまた、情報として何度も反復的に利用されるという形式機能する。通常、情報は反復的にコミュニケートされることでその価値を低下させていく。だが制定における情報はその価値を失わない。ここに期待の中でもとりわけ規範的な期待特徴が浮上してくる。規範的な期待は、不確実であるにも拘わらず反事実的に安定化するという負担を背負い込む。そして、文字という形式がこれを埋め合わせているのである。一般的に、期待が成就するか否かは非知である。また逸脱に遭遇した場合に、認知的に学習しつつ譲歩することは良しとされないのもまた、一般的な事情であろう。だからこそ、何が正当であるのかに関する情報を、必要に応じて喚起することが求められるのである。

しかし、文字記号としての安定を取り上げたところで、社会システムの安定を説明したことにはならない。その程度で記述を満足させるようでは、言語学の構造主義的な観察からこの分析を区別することができなくなってしまう。文字は極めて容易に複製することや抹消することができる。だから、記号という人工物は、社会構造化するにはあまりにも取り止めが無さ過ぎるのである。

文字こそがの確実を保証しているという結論は、否定される。そもそも確実という条件の下では、進化などあり得なかったはずだ。システムの作動は動態的な質を持つ。そこでは、意味の安定それ自体は関心の対象にならない。問題は、同一の情報に対する関心が反復的に浮上してくることが推論される点にある。規範においては、単に持続的なものの方が一過的なものよりも優れているなどという訳では断じてない。規範においては、現在と未来の結合が必要となる。一方、文字認知的な期待のために利用されるようになるのは、文字規範的な期待のために利用され始めた時期に比べて、かなり後になってのことである。

規範的な期待が未来においても成就するか否かは不確実である。この不確実性解消され得ない。システム可能なのは、そうした不確実性を変形させることだけである。文字もまた、それを新たな形式として置換することしかできない。つまり、改めて記号意味区別を導入することで代替していくしかないのだ。文字によるテクストが有意味コミュニケーションという文脈の中で判読引用の対象になる時、そのテクストが為し得るのは、ただ参照可能意味を開示することで、組織化することである。つまりテクストは、意味形式として、複合性の縮減とその保存を実行するだけである。

複合性の縮減とその保存は、メディア形式区別によって展開される。例えばテクスト解釈(Auslegung, Interpretation)の区別形式や、テクスト文脈(context)の区別形式、字義的な意味思考された意味区別形式として展開されることになる。

これらの区別の導入が言い表しているのは、文字として固定されたテクストによって、を新たな区別を利用して常に反復的に観察する契機が得られるということである。こうした区別によって、テクスト解釈という問題が限定的に設定される。

妥当性は、この形式の中で考慮される。例えば守るべき期間や期日を解釈によって変更することはできないように、十分に明確に規定されている意味には解釈の余地が無い。だが、当の観察されている意味が十分に明確に規定されているか否かは、解釈の対象となり得る。それ故にルーマンは、解釈が、自己制限的に主権を有しているという。解釈の総体に及び得る。不明確にしか規定されていない事柄だけが解釈の対象になる訳ではない。明確と不明確の差異こそが、不明確なのである。

問題解決策:解釈と論証の区別

したがって、文字によって固定されたあらゆるは、解釈(Auslegung, Interpretation)されるべきである。だからこそ的なコミュニケーションにおいては、テクスト権威付けることが要求される訳だ。例えば、解釈する際には誰を如何に引き合いに出すべきなのかが問われるのである。まさにこの<誰>と<如何にして>の選択によって、進化的な揺らぎを備えるのである。固定されたテクストに関しても、成文立法で変更する場合に関しても、同様である。

現に妥当しているあらゆるテクストは、全て解釈の対象となる。そしてテクストは、解釈という文脈の中でこそテクスト足り得るのである。その限りでテクストは、そのテクストに関連する解釈の総体という新たなメディア構成している。

解釈に次ぐ解釈というテクストを巡る的なコミュニケーションは、妥当性の変更を迫ることがある。この妥当性の変更というコミュニケーションは、テクスト結合点とすることで、的論証(Argumentation)のコミュニケーション構造的に結合している。言い換えれば、テクストというメディアの中で、解釈的論証の形式が刻印される。法システムはこの形式に準拠することで、自己自身の構造によって自己自身を調節する契機を得るのである。しかも法システムは、まさにテクストで固定化された構造に準拠することで、予めどの作動を選択するのかを未規定に留めることができる。それは、予めどのテクスト引用や注釈の対象にするのかを未規定にできるということである。

法システムが先に示した偶発性定式としての正義主題化し続けられるのも、こうした構造があってこそである。つまり、テクストによる構造の固定化があってこそ、等しい事例には等しく決定が下されなければならないという形式正義要求し続けられるのである。他ならぬ正義理念こそが、的論証が妥当性に関連しているということを指し示している。それ故に的論証にとって、の条文をはじめとしたテクストは、特別な意味を持つ。

テクストは概念ではなく客体である。無論、<テクストという概念>を記述することもできるであろう。だが概念が成立するのは、テクストとの交流の中においてである。つまり概念は、区別それ自体が区別されることによって成立するのである。

論証においては、まさにこうした<区別区別>の過程によって概念が成立している。特定の観点において<問題になること>が、<問題にならないこと>から区別される。そして<問題にならないこと>は、<その他全て>なのではなく、問題についての別の理解、別の解釈、別の決定規則なのである。そうした事柄からは、別の的帰結が生じてくるであろう。

通常の決定過程における法システムは、自身を「システム」として観察しない。むしろ法システムは、自身を相互に参照し合うテクスト集合体として捉える。だが周知のように法律たちは、この集合体をやはり「体系(System)」と呼んでいる。いずれにしても、何がテクストとして考慮されるのかは、システムの中でシステム代理表象するという機能に従って判断される。言い換えれば、テクストは、法システム自己記述によって構成される。しかしながら一方で、そうした自己記述構造的に安定化させ得るのも、テクストである。テクストによって、法システムは、単純化された自己言及可能にする。それは法システム自己同一性形式化に資する。

この点で言えば、制定や制定の注釈は、無論テクストである。一方、判決もまたテクスト化され得る。慣用化している実務の記録についても同様である。IT企業のプラットフォーマーたちが提示する「利用規約」さえ、テクストの一種となる。これらは全て、実定法社会構造を前提とした法システム自己言及によって成立している。

判決に関連するテクスト発見するためには、専門的な知見が必要になる。それは的能力の中枢に位置する。しかし、解釈と論証が可能になるのは、そもそも関連するテクストが既に発見されていることが前提となる。

ファーストオーダーの観察とセカンドオーダーの観察の差異

解釈の対象となるのは、テクスト同一性である。テクスト同一性によって、解釈差異が生まれる。解釈とは、旧いテクストから新しいテクストを産出することであるとすら理解されている。あるいは解釈とは、基礎となるテクスト拡張することであり、その際、出発点に位置するテクストは、参照点として機能するに過ぎないとされる。いずれにせよ、解釈によって、更なるテクストが確立される。

こうしたテクストは、観察結果が同一であることを保証する訳ではない。しかし規範的なテクストを特化させれば、テクストそれ自体の変更を考慮するだけの理由があるのは如何なる場合なのかが認識可能になる。つまり、システムがその作動を完全に制御している訳ではなくとも、関連する攪乱に反応することで、構造変異させるか否かを選択することが可能になるのである。

解釈は、ファーストオーダーの観察セカンドオーダーの観察の双方の段階で生じる。テクストを記述する営みは、ファーストオーダーの観察によって実践される。これに対して、既に記述されているテクスト解釈においては既に、セカンドオーダーの観察が実践される。それは、テクストが如何なる意図から記述されたのかという問題設定によってである。その場合、テクストは、すなわちコミュニケーションとして認識される。そして、探索されるべきテクスト合理性は、テクストを創出した意図の合理性であると仮定される。

一方、論証は、セカンドオーダーの観察の段階で生じる。セカンドオーダーの観察において初めて、テクストコミュニケーションの中で如何にして取り扱われるべきなのかという問題が浮上してくるためである。セカンドオーダーの観察において初めて、例えばテクストは単に文字通りにではなく意味に即して理解されるべきであるといった規則が設定され得るのだ。

問題解決策:形式としての法的概念

セカンドオーダーの観察においては、観察観察される。すなわち、自己や他者のテクストに対する判読判読される。そしてそこから疑念が生じてくる。多くの場合、疑念の契機となるのは、テクストの中に見出された決定から望ましくない結果が生じてくる場合である。自己利害が保障されない場合もあれば、決定の帰結がテクストの起草者が望んでいたことではない場合もある。

根拠付けが必要となるのは、まさに不都合が到来しようとしている場合である。その場合、より多くの可能性の中から説得力のある根拠付けを求めなければならない。理由、つまりテクストの根底にある決定規則を発見して、それを根拠付けなければならないのである。

的論証における根拠は、テクスト可能解釈として提示されなければならない。そしてそのテクストは、疑念の余地の無い妥当性を引き合いに出せなければならない。あらゆる的論証は、それ自体が現行と整合しているということを証明しなければならない。そして、その時々に適したテクストを踏まえることによって、初めてその論証は根拠の特質を活用できるようになる。そしてそれによって初めて、論証の結果包摂論理の形式表現することが可能になるのである。

的論証は的概念から演繹されるとは限らない。むしろ的論証こそが、的概念を生み出す場合もある。とりわけそれは、その都度異なる決定の状況の中で、何度も反復されることによって成立する。概念を利用することによって、区別を貯蓄することが可能になる。概念を用いるシステムは、区別を数多くの決定のために利用することができる。言い換えれば概念は、情報圧縮することで、システムにおいて必要とされる冗長性を産出する。

法システムは、こうした概念に基づく冗長性を利用することで作動する。そしてそのためには、固有の概念が必要となる。発達した諸概念を利用する文化の下では、新たにテクストを定式化しようとする場合に、概念の上で正確に起草せよという圧力の下に置かれることになる。さもなければ、誤った理解を避けることができなくなるためである。かくして言語は、通常の言語からますます区別されることとなる。

したがって的論証を介した的概念は、に固有の水準で算出された新たな区別組織化する。その結果として、契約の取り消しと契約の解除は、異なる条件の下で可能となり、また異なる効果を持つ。また、占有と所有権、故意と過失、違法責任は、それぞれ区別されなければならない。それらを区別してこそ、条件と帰結とを、様々な形で組み合わせることができるようになるのである。

的論証からは、根拠と帰結が反復的に生じてくる。あらゆる反復の場合と同じように、これもまた、区別を確証して再利用するのに役立っている。的概念によって、既に確証されている区別を、殊更選択することなく利用される。反復の中でその区別が確立されてくる過程を、遡及して確認する必要は無い。

概念とは、歴史的な人工物である。的概念は、的な事件や事案を巡る歴史経験を再び取り上げるために機能する的概念を利用する的論証もまた、歴史的論証ということになる。たとえ過去の古いテクストが参照されていない場合であっても、それは歴史的な概念を利用していることになる。故に概念法学とは、歴史法学でもあるという訳だ。この点において、概念法学機能は、冗長性を強化することにあると言える。

問題解決策:時間から抽象化されたテクスト

において重要となるのは、観察関係を組織化するために、規範的なテクストを利用することである。それは、時間から抽象化されたテクストとなる。そうしたテクストは、あらゆる観察者の観察形式が同一であることを保証する訳ではない。しかしそうしたテクストは、特殊な諸形式を適用することによって、十分な情報差異を創出することができる。それによってテクストは、恣意、偶然、あるいはエントロピー排除することが可能な状態にある。

しかしこのような規範的なテクストでは、もはや作動の具体的な経過までを見通すことはできなくなっている。ルーマンはこの状態にある時間から抽象化されたテクストを複合的なコンピュータプログラムの場合と同一であると述べている。このルーマンの表現には、単なる比喩以上の意味がある。と言うのも、構造を固定化させるテクストプログラムのように記述されているという事態は、法システム自己記述を担う法理論と無縁ではないためである。反省理論は、プログラムとしてのテクストインターフェイス仕様と関わるのである。

時間から抽象化されたテクストによって構造化されている的なコミュニケーションは、個々の事案に即して、テクストを具象化させることで成り立っている。テクストは、それこそプログラムのように、個々の事案を値として代入する変数として記述されている。そうした変数の扱い方は、オブジェクト指向プログラミングのように、型がある。一つ一つの変数には、代入できる事案もあれば、代入できない事案がある。例えば契約の変数に対して、交通事故の全てを代入することはできない。

重要なのは、時間から抽象化されたテクストプログラムとして記述する場合、それがSystem of Systemsになるということだ。変数の型は無数にあり得る。言わば法律憲法の条文は、個々の事案を入力して的な決定を出力として受け取るプログラムの如きテクストとなる。そうしたテクスト主題とした反省理論は、言うなればAPI(Application Programming Interface)の仕様書となる訳だ。尤も、その文書のページ数は膨大となる。尚且つそれは、法律憲法の条文と共に、しばしば相互に参照し合う間テクスト形成する。法理論は、テクストについてのテクストとして、法律憲法複合性の縮減とその保存を可能にするテクストにならなければならない。

成文憲法はいずれも自己論理的(autologisch)な推論に基づいたテクストになっている。憲法は、自己自身をの一部として予定している。それはの<規範化の規範化>という再帰性規範化する規範である。だが憲法特徴的なのは、それが自身を新は旧を破るという規則の例外的な存在として位置付けるという点である。言い換えれば憲法は、の修正可能性制御する。だがここでいうところの「」には憲法それ自体も含まれる。故に憲法は、自己自身の修正可能性自己自身で規定するのである。いわゆる「憲法改正」の手続きもまた、憲法によって規定される。「憲法改正」の手続きそれ自体を改正する場合にも、「憲法改正」の手続きに従わなければならない。この意味憲法自己論理は、「憲法改正」に対しても適用されることになる。

かくして憲法は、の一種として、規範化を規範化する。それと同時に、憲法自己論理は、自己言及の一種として、自己自身を規範化する。こうして憲法は、自己論理的に、自己自身がそうすることによって、法システム法システムの内部においてその責任を全うしなければならないということを、規範的に示すこととなる。

参考文献

  • Foerster, H. V. (1989). » Wahrnehmung wahrnehmen «in: Ars Elektronica (Hg.): Philosophien der neuen Technologie.
  • Heider, Fritz. (1959) “Thing and Medium,” In On Perception, Event Structure, and Psychological Environment: Selected Papers, New York: InternationalUniversity Press, pp1-34.
  • Luhmann, Niklas. (1968) Vertrauen. Ein Mechanismus der Reduktion sozialer Komplexität, Stuttgart.
  • Luhmann, Niklas. (1972) Rechtssoziologie, 2 Bde. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt.
  • Luhmann, Niklas. (1975) Macht, Stuttgart.
  • Luhmann, Niklas. (1977) Funktion der Religion, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (1981) “Erleben und Handeln.” Soziologische Aufklarung 3. VS Verlag fur Sozialwissenschaften, pp67-80.
  • Luhmann, Niklas. (1982) Liebe als Passion: Zur Codierung von Intimität, Suhrkamp. (英語版:Love as passion: the codification of intimacy, Harvard University Press, 1986.)
  • Luhmann, Niklas., Schorr, Karl Eberhard. (1982) “Das Technologiedefizit der Erziehung und die Pädagogik,” In dies. (Hrsg.), Zwischen Technologie und Selbstreferenz: Fragen an die Pädagogik, Frankfurt, S.11-40.
  • Luhmann, Niklas. (1984) Ökologische Kommunikation, Wiesbaden: Westdeutscher Verlag.
  • Luhmann, Niklas. (1984) Soziale Systeme, Frankfurt am Main : Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (1987) “Strukturelle Defizite. Bemerkungen zur systemtheoretischen Analyse des Erziehungswesens,” In: Oelkers, J., Tenorth, H. E. (Hrsg.): Pädagogik, Erziehungswissenschaft und Systemtheorie, Weinheim, S.57-75.
  • Luhmann, Niklas. (1988) Die Wirtschaft der Gesellschaft, Frankfurt am Main, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (1988) The third question: the creative use of paradoxes in law and legal history. Journal of Law and Society, 15(2), 153-165.
  • Luhmann, Niklas. (1990) Die Wissenschaft der Gesellschaft, Frankfurt am Main, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (1990) Essays on self-reference, New York : Columbia University Press.
  • Luhmann, Niklas. (1992) “Kommunikation mit Zettelkästen: Ein Erfahrungsbericht”. In Kieserling, Andre. ed, Universitat als Milieu. Bielefeld: Haux Verlag, S.53-61.
  • Luhmann, Niklas. (1993) Das Recht der Gesellschaf, Suhrkamp Verlag, Frankfurt.
  • Luhmann, Niklas. (1995) Die Kunst der Gesellschaft, Suhrkamp Verlag, Frankfurt.
  • Luhmann, Niklas. (1997) Die Gesellschaft der Gesellschaft, Frankfurt/M, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (1997) “Globalization or World Society?: How to conceive of modern society,” International Review of Sociology March 1997, Vol. 7 Issue 1, pp67-79.
  • Luhmann, Niklas., Schorr, Karl Eberhard. (1999) Reflexionsprobleme im Erziehungssystem, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (2000) Die Politik der Gesellschaft, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (2000) Die Religion der Gesellschaft, Suhrkamp.
  • Luhmann, Niklas. (2000) “Familiarity, Confidence, Trust: Problems and Alternatives”, In Gambetta, Diego. ed, Trust: Making and peaking Cooperative Relations, electronic edition, Department of Sociology, University of Oxford, chapter 6, pp. 94-107.
  • Luhmann, Niklas. (2002) Das Erziehungssystem der Gesellschaft, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main.
  • Luhmann, Niklas. (2004) Die Realität der Massenmedien, VS Verlag.
  • Parsons, Talcott. (1951) The social system, Free Press.
  • Parsons, Talcott. (1964) Social structure and personality, Free Press of Glencoe.
  • Weber, Max. (1920) Gesammelte Aufsätze zur Religionssoziologie, Tübingen..