目次
問題再設定:社会進化は如何にして可能になるのか
等価機能主義的な社会システム理論の観点から言えば、システムの「進化(evolution)」とは、生起する見込みのないことが高い確率で起こり得るようになるべく、構造が変異していくことを意味する。ここでいう「変異(Variation)」は、コミュニケーションにおける否定や誤解や意図的な誤解により意味形式が変容した場合に生じる。例えばそれは、法的紛争やテロ行為などのようなコミュニケーションによって生じるのである。この意味の変容が特に期待の不安定化に関わる場合、構造は不安定化する。この状況は「破局(Katastrophe)」の状況だ。システムがオートポイエーシスを維持するには、この災禍の如き不安定化を招いている意味形式の複合性を縮減しなければならない。そのためには、これらの意味形式の中から意味論として機能し得る形式を規定する必要がある。こうして特定の意味形式が採用されることを、ニクラス・ルーマンは進化における「選択(Selektion)」と名付けている。選択された意味論の候補が実際に意味処理規則として機能し始めると、不安定化した意味形式は正常化する。この正常化をルーマンはシステム構造の「再安定化(Restabilisierung)」と呼ぶ。
問題解決策:コードとプログラムの区別
等価機能主義的な社会システム理論は、社会構造の変異によって生じる社会進化の概念を明確化するために、「コード(Codes)」と「プログラム(Programme)」の区別を導入している。コードもプログラムも構造の一種であるという点では共通している。しかしコードが機能的問題領域を形式化させる構造である一方で、プログラムはシステムの構造の可変性を担っている。
先に示したように、法システムの構造においては、コードは「合法(recht)」と「違法(unrecht)」の二値コードとして形式化されている一方で、プログラムは「条件プログラム(Konditionalprogramm)」として構成されている。ゴットハルト・ギュンターの多値論理学に倣えば、二値コードは排除された第三項を前提とする。二値コードは区別に他ならない。区別するということは、区別される双方を同時に指し示すということである。指し示しはそれ故に二値となる。第三の値は排除されなければならない。この排除された第三項を前提とする限りにおいて、区別されている二つの値は、相互の否定によって代替可能となる。それら二値に何らかの<解釈>を代入する必要は無い。
ギュンターの多値論理学は、ルーマンの社会システム理論において再記述されている。システムの作動でこの排除が生じるためには、区別されている二値のいずれでもない第三項をシステムの「外部環境(Unwelt)」として構成しなければならない。したがってルーマンは、ジョージ・スペンサー=ブラウンの『形式の法則(Laws of Form)』とは異なり、区別の他の側は、特化を受け付けないマークされていない領域それ自体ではないと考える。むしろシステムは、そうしたマークされていない領域の中で、自己のコードを、というのはつまり二つの値から構成される形式としての主導的差異を設定するのである。それ故にシステムは、コードの形式の双方を特化させ得る。ただしそれは、あくまでも外部環境としての排除された第三項を前提とする。実にこの第三項の排除こそが、システムの内部に、システムによって特化されていない世界を<外部環境>として構成することを可能にしているのである。それは、システムの内部に「再導入(re-entry)」された外部環境である。
二値論理と多値論理の差異
コードの閉鎖性が実現するのは、一方の値から他方の値への移行が、すなわち境界の横断が容易になることによってである。例えば、合法性は愛情よりも違法性と密に結合する。 区別するということは双方を同時的に指し示すということである。故に合法性と違法性の区別が導入されている文脈では、合法性は愛情よりも違法性と共起する。
二値論理の構造は、システムが作動の閉鎖性の条件の下で開放的に作動するために最低限必要となる条件である。単一の値の構造では、この条件は満たされない。二値は正の値と負の値に区別される。第二の、負の値の側は、制御を実行する値である。一方、排除された第三項が可能にするのは、二値コードと対立することで、その二値コードを棄却する値を示すことである。
二値性は、決定を成し得るための条件でもある。決定もまた、単一の値でも、また多値性の値でも、不可能になってしまう。決定とは、ある選択肢を選択すると共に、それ以外の選択肢を排除することを意味する。決定はこの意味で、選択対象と非選択対象の<差異の統一>である。しかしそもそも選択肢として浮上してこなかった事柄は、全て排除された第三項として潜在化している。
問題解決策:トートロジーとパラドックスの区別
時間次元で観れば、コードは不変である。法システムはいずれにしても合法と違法の二値コードを導入する。もしこの二値コードの代わりに別のコードが利用されているのならば、そこは法システムではなく、別のシステムの内部であるということになる。コードは、システムがその固有の統一性を構成して再構成し続ける形式なのである。これに対して、事象次元から観れば、コードはトートロジーである。そしてこのコードが自己自身に適用された場合、トートロジーはパラドックス化する。
コード単独では情報を産出することができない。情報を産出するのは差異を構成する差異である。トートロジーが発生するのは、コードの値がそれ自体としては何も意味しない否定によって、もう一方の側と代替し得るということからである。合法は違法ではなく、違法は合法ではないという形にである。
しかしながら、否定の演算は、否定される対象の同一性を前提としている。この前提は変わらない。したがってコードは、選好される値を単純に二重化した形式としても記述することができる。つまりコードが指し示しているのは、合法は違法であってはならず、違法が合法であってはならないということである。
一方、パラドックスが発生するのは、コードがコードそれ自体に適用された場合である。つまり、合法と違法の区別がこの区別それ自体に適用されることで、合法と違法を区別することが合法なのか違法なのかと問われた場合である。法律家にせよ、論理学者にせよ、答えは単純に「合法である」ということであろう。しかしこの回答では、合法の対概念が何なのかが不透明に留まる。仮にこの問いに「違法である」と答えた場合でも、この不透明性は依然として生じ続ける。いずれにしても盲点となるのは、<差異の統一>に他ならない。
このパラドックスの展開に資するのが、コードとプログラムの区別である。コードはそれ単独では存在し得ない。ある作動がコードに準拠した上で生じたことで、それがシステムに帰属される場合には、二つの値のうちのどちらを割り当てるべきなのかという問題が必ず派生する。コード化されたシステムは、更なる観点からの探索を必要とする。そしてこの更なる探索こそが、システムがコード化に伴うトートロジーやパラドックスを回避する策となる。決して止まらず、区別を導入し、観察し、探索し続ける作動ことこそが、システムの生き残りの術となるのである。
逆に言えば、脱トートロジー化や脱パラドックス化のための作動は、如何なる観点から導入されても構わないということになる。しかしながら通常優先されるのは、システムが発見探索的に知り得てきた、社会構造と意味論によって構成されている歴史的な概念によって方向付けられてきた区別である。そうした基準が、プログラムを育んでいく。要するに、コードに準拠した作動が、次第にプログラムを構成していくのである。コードに準拠し続けるシステムは、コードと非コードを区別し続けていることになる。この区別の反復的な利用によって、コードの対概念が徐々に明確化していく。この明確化は、進化として進行していく。プログラムは、その字義的な意味合いに反して、計画的に設計される訳ではないのである。
進化上の獲得物としてのプログラム
社会進化論的に言い直せば、この非コードというメディアにプログラムという形式を刻印できたシステムが、「自然漂流(natural drift)」の中で「生存可能性(viability)」を確保するということである。逆にこの刻印に失敗したシステムは、トートロジーやパラドックスに巻き取られ、消滅していくことになる。コードとプログラムの区別の導入こそが、外部環境や未来について盲目的に作動していく、システムの生き残りの術に他ならない。
コードとプログラムの区別は、時間次元において不変であるはずのシステムが変異する外部環境への適応を如何にして可能にしているのかをも説明している。コードとプログラムは、確かに構造の一種である。だがコードは不変である一方で、プログラムは変更可能である。コードはシステムの自己同一性を担保する一方で、プログラムは構造の変異に対応して再記述することができる。
問題解決策:条件プログラムと目的プログラムの区別
法システムのプログラムは条件プログラムである。条件プログラムは、予め認識されている<自然>な因果性を補完する演算である。条件プログラムが可能にしているのは、より多くの原因が差異の構成のために利用することである。ただしそのためには前提が必要になる。つまり、当のシステムの分化を通じて「結果」が構成されるということが保証されなければならない。
法システムのプログラムが条件プログラムとして機能することで、法システムは自己自身が「トリヴィアル・マシン(triviale Maschinen)」であるかのように振る舞う。「トリヴィアル・マシン」はセカンドオーダー・サイバネティクスを提唱したハインツ・フォン・フェルスターの概念で、自己自身を外部からの入力に応じて副作用の少ない出力を返す<観察されるシステム>を意味する。無論、法が「トリヴィアル」であるというのは、法の自己記述に過ぎない。法の外部から法を観察する観察者ならば、そのオートポイエーシス的な自己言及的作動は、<観察するシステム>の挙動に他ならないと認識するであろう。法が「トリヴィアル」であるというのは、法の法に対するファーストオーダーの観察に過ぎない。セカンドオーダーの観察者ならば、法が「トリヴィアル」であるとは決して認めないであろう。だが条件プログラムは、自らが「トリヴィアル」であるという半ば錯覚にも近い自己言及を可能にしているのである。
法システムのプログラムが条件プログラム化すると、合法と違法の二値コードは、条件プログラムによって規定される条件に依存することとなる。条件プログラムの具体的な内容は、専ら行為を許容する規範として記述される。例えば紛争が生じた場合には、行為を許容する規範が如何に利用されていたことになるのかが、合法と違法の区別を左右する。規範的に許容されていない行為ばかりならば、それは違法となるという訳だ。しかし逆に言えば、規範的に許容されている行為について言えば、法は非常に多くの自由をも保障していることになる。この意味で、法は過去の伝統を束ねたルールブックなどではない。条件の選択に応じて、それは未来に開かれたプログラムにもなり得る。
こうした条件プログラムの特徴は、「目的プログラム(Zweckprogramme)」との差異によって際立ってくる。条件プログラムと目的プログラムの区別を導入すれば、条件プログラムが唯一排除している点についても明確化する。条件プログラムが唯一排除しているのは、合法と違法の区別を導入する際に、「そのいずれかを決定する時点では未確定の未来の事柄」が決定を左右する可能性である。この可能性を保証しているのは目的プログラムである。目的概念は、現在想定される未来における不確実性をリスクとして引き受けることを前提としている。目的プログラムは、リスクを冒すことによってのみ獲得される機会に言及する。一方、法システムのプログラムはリスクを冒す機能を持たない。何故なら法システムは、規範的な期待を構成し続けることで、未来において生じる期待外れを反事実的に安定化させるためである。リスクを冒すことで得られる機会など、法にとっては重要ではないのである。
法の決定過程は目的プログラムではあり得ない。目的プログラムは、それが自由に選択された目的であれ、所与の目的であれ、そうした目的に適した手段を要求してくる。そしてそこにおいて、当のプログラムに組み込まれている許容可能なコストや法的な制限を考慮するようにも要求してくる。しかし、そうした要求が常に法の主題となる訳ではない。法のプログラムが如何なる目的のために役立つのかが主題となるのは、法のテクストの解釈において問題が生じた場合である。そこにおいて初めて法システムは、目的を志向する。
妥当するテクストは、まずはif-thenの形式で記述される。たとえそのテクストがこの形式で記述されていなかったとしても、その内容はif-thenの形式で再記述することが可能である。こうした条件プログラムの形式は、未確定の未来の事柄から拘束されていない分、より自由な想像力を可能にしている。
派生問題:法の濫用
コードとプログラムの区別は、二値コードゆえに生じるシステムの根源的なパラドックスの脱パラドックス化を可能にしている。法律家たちは、法の規則に準拠することができる。その過程で、彼ら彼女らは二値コード化されている法システムの内部で作動しているということを意識せずに済む。しかし完全に忘却できる訳でもない。何故なら、二値コードにおける<差異の統一>というパラドックスは、いつでも記述できるためである。それまで脱パラドックス化できていたパラドックスが再度システムの内部で顕在化すると、そのパラドックスの顕在化が如何にして可能になるのかを問えるようになる。より具体的な問題として設定できるのは、法の濫用という問題である。
ルーマンによれば、法の濫用という問題には、法の主権の問題との関連から登場してくることから、深い事情があるという。それは法学の文献に記述されているような無規定性の問題からは区別される。もし無規定性が法の濫用を招くのならば、個々の事案を扱う中で、それを規則に関連付けさえすれば無害化できるであろう。法の濫用という問題は、その程度で解決できるほど甘くはない。この問題においては、法システムの<差異の統一>というパラドックスが、再び浮上してくるためである。
この根源的なパラドックスを無害化するには、合法と違法の区別がこの区別の内部に「再導入(re-entry)」されているということを認識しなければならない。合法と違法の区別に伴うパラドックスは、この区別の区別の内部への「再導入」によって、法的に扱うことのできる、法的なパラドックスとして加工される。
法律家が法を設定すれば、必然的に、それに対応して違法が生じてくる。法が無ければ、違法はあり得ない。その一方で、法の利用法が、法的に問題があるような事案も存在する。法の利用が違法であると指摘せざるを得ない事案もある。こうした法が利用される様々な状況を事前に全て見通すことは不可能である。それ故にこそ法の内部には、一定の可能性の剰余が、常に残存していなければならない。
この意味では、濫用されている法もまた、法によって承認された法であり続けるのである。このパラドックスの無害化に必要となるのは、ただ不都合に思われるような一部の法の利用の形態を排除することのみである。例えば、原則的に許容される利用と例外的な利用を区別するだけでも、このパラドックスは展開される。あるいは、目的によって正当化することさえできてしまうであろう。
尤も、このルーマンの例示する区別は、必ずしも法システムの二値コードの圏内で導入されるとは限らない。それは政治システムの「与党(Regierung)」と「野党(Opposition)」の二値コードやマスメディア・システムの「情報(Information)」と「非情報(nicht Information)」の区別によって導入される場合も容易に想定できる。その際、合法と違法の二値コードは、もはや棄却されている。合法と違法の区別は導入されていないのである。故に合法と違法の区別に伴うパラドックスも、潜在化され、不可視化され、無害化されている。これもまたパラドックスの展開の一種である。生真面目な法律家たちにとっては納得のいかないことかもしれないが、法の二値コードを棄却することもまた、法の濫用の問題解決策となるのである。
機能的に分化した近代社会においては、法システム以外にも、政治、経済、科学・学問、教育、マスメディア、芸術、医療、家族、宗教などのような機能的問題領域が構成されている。コードとプログラムの区別は、各機能システムにおいて固有に導入されている。したがって、法システムにおける法の濫用というパラドックスと同様に、二値コードに伴うパラドックスは各機能的問題領域にも見出せることがわかる。そして同時に、そうしたパラドックスがコードの棄却によって脱パラドックス化されている事例も、機能的問題領域ごとに発見することができる。幾つか例示して観よう。
派生問題:教育を棄却する政治
教育システムでは、「より良い(besser)」と「より悪い(schlechter)」の二値コードが試験や受験のような制度で形式化されている。しかし、そうした選抜が、<より悪い>制度によって設計されている場合、その選抜によって指定された<より良い>被教育者たちは、パラドックス化された人格となる。例えば一国の政治体制から観れば<より良い>選抜制度であっても、他国から観ればそれがまるで「洗脳」であるかのように思えるほど<より悪い>選抜制度であるかもしれない。この<より良い>と<より悪い>の二値コードに伴うパラドックスは、被教育者の評価制度を揺るがすことになる。しかしながら、そうした教育的な問題は、しばしば見向きもされない。この文脈ではむしろ、<より良い>と<より悪い>の二値コードに従う教育的なコミュニケーションが、与党と野党の二値コードや綱領のプログラムに準拠した政治的なコミュニケーションによって棄却される可能性があるためだ。他国の教育制度が自国の国益にかなわないと観察されるのならば、それは教育的な問題ではなく、政治的な問題として設定されるのである。
派生問題:政治を棄却する教育
教育システムが構成する「経歴(Lebenslaufs)」というメディアは、子供を対象とした公教育制度に限らず、社会の至る所で利用される。例えば経歴の一種である学歴は、しばしば企業の形式的な採用基準の一種として、人事の意思決定に伴う負担を免除するために利用されている。<より良い>経歴と<より悪い>経歴が区別されることで、<より良い>経歴の人格の選抜に注意を限定することが可能になるのである。政治家もまた、経歴に基づいた観察の対象となる。いわゆる「帰化議員」に対して世論が抱く疑念は、特定の政党に所属する議員たちの経歴に向けられている。「帰化議員」は<より悪い>経歴を持つ政治的人格であるという訳だ。議員の経歴の観察もまた、国益や政策を主題とした集合的に拘束力を有した意思決定を巡る議論において、どの政党、どの議員の主張を支持するのかという選択の負担を免除するであろう。それ故にメディアとしての経歴は、<より良い>と<より悪い>の教育的な二値コードを導入することによって、政治を棄却する可能性を有しているのである。
派生問題:マスメディアを棄却する政治
マスメディア・システムでは、情報と非情報の二値コードの導入が、「ニュース(Nachrichten)」をはじめとするプログラムによって方向付けられている。しかし、しばしば報道機関が主張する「報道しない自由」は、情報と非情報の区別を導入しているマスメディアそれ自体を非情報に位置付けるマス・コミュニケーションを構成する。例えばニュースサイトの「誤報についての訂正記事」に、検索エンジンからのキャッシュを回避するようなメタタグが仕込まれている場合、その訂正記事は検索されなくなる。情報と非情報の二値コードに従うマスメディアの組織システムが、情報と非情報を区別し続けている自己自身を非情報に位置付けているのである。しかしこのニュースサイトのパラドックスは、政治的な活動によって――少なくともそうした活動家たちの都合上は――正統化される。その際、情報と非情報の区別はやはり政治的に棄却されていると考えざるを得ない。しかしそうした棄却こそが、情報と非情報の区別に伴うマス・コミュニケーションのパラドックスを脱パラドックス化させている。ニュースサイトを運営するマスメディアの組織は、報道機関としてではなく、政治的活動家の組織として捉えれば良いのである。
派生問題:政治を棄却するマスメディア
政治システムにおける与党と野党の二値コードが導入される場合に前提となっているのは、既存の野党が将来的に政権を取ることを目的としていることである。野党に対して要求されるのは、与党の下す集合的な拘束力を有した意思決定に対して、別のあり方でもあり得る代替案を提示することである。マス・コミュニケーション向けの豊かなパフォーマンスで冗長的な批判を繰り返し、最終的には結局与党の主張に合意するだけの政党では、野党を与党から区別する意味が薄れてしまう。それは、与党と野党の区別が与党の内部に「再導入(re-entry)」されることで、この二値コードがパラドックス化してしまうということである。しかしこのパラドックスは、しばしばマスメディアによって脱パラドックス化されている。大衆と世論のマス・コミュニケーションで主題化される野党は、政治システムにおける政治の担い手としての政党組織なのではなく、テレビや報道機関の前で新奇性の高い情報をアピールするプレゼンテーションの担い手なのである。この時、与党と野党の二値コードは棄却されると同時に、情報と非情報の二値コードが支配的となる。マス・コミュニケーションが主題にするのはマス・コミュニケーションであって、政治ではない。
問題再設定:棄却の偶発性
相互に棄却し合う関連にあるのは、教育、政治、マスメディアに限られたことではない。あらゆる機能システムが、自己自身も含め、各機能システムの作動を棄却する可能性を有している。これは、二値コードを導入することによって、不可避的に排除された第三項が派生するためである。この相互の棄却可能性により、二値コードを導入する機能システムは、偶発性に曝されることになる。
注意しなければならないのは、こうした二値コードの導入が、社会システムの自己言及的な作動であるということだ。社会システムが二値コードを導入するということは、それが如何なる機能的問題領域の二値コードであれ、まずは二値コードと非二値コードの区別を導入しているということになる。この区別もまた二値論理である。したがって全体社会に汎化して観るなら、各機能システムの二値コードには、メタ水準での二値コードが存在していることになる。ルーマンは、ここでいうメタ水準の二値コードを「包摂(Inklusion)」と「排除(Exklusion)」の区別によって記述している。
問題解決策:包摂と排除の区別
包摂という概念は、いわゆる「人間(Mensch)」なるものに関わる概念である。包摂は、人間がコミュニケーションに有意味に関連している状態を言い表している。それは、コミュニケーションによって人間が成員として尊重されることを意味する。ルーマンは、包摂という概念を人間学的な伝統に照応させることで、「人格(Persönlichkeit / Person)」との結び付きを強調している。つまり、コミュニケーションの人格として考慮されることが、ある人間が包摂されることの条件となるのである。精確に言えば、包摂という概念において念頭に置かれているのは、社会システムが人格たちについて予め色々と試行錯誤しているということである。それが包摂の条件となる。その人格たちの地位の枠組みにおいて、人格たちは、期待に対して相補的に行為することを可能にしている。社会システムがそうした人格という位置を各人に割り当てる場合に、包摂が成り立つのである。ルーマンは、あえてロマン主義的な言い方で、各人格が相互に習熟し合っている状態を包摂と呼んでいる。
ここで誤認してはならないのは、社会システムに包摂されている人間が、社会システムの構成要素になるという訳ではないという点である。社会システムを構成するのは社会システムである。コミュニケーションを構成するのもコミュニケーションである。人間ではない。人間は、社会システムの内部に位置する訳ではない。人間は、あくまで社会システムの外部環境に位置する。人間が社会システムに包摂されるのは、社会システムの内部に、その人間についての人格が構成されている場合である。その人格は、社会システムによって構成されている形式なのであって、人間それ自体ではない。人間に対する言及は、社会システムの外部環境に対する外部言及となる。そうした外部言及が自己言及の内部に「再導入(re-entry)」されて初めて、人間は人格として観察される。こうして観れば、人間の全体が社会システムに包摂されることはあり得ない。人格として観察されている部分のみが、包摂の対象となる。ある特定の機能システムから観れば、人間は様々なシステムによって多元的に包摂されている形式となる。そうした意味で人格としての人間は、様々な機能的問題領域との関連から様々な可能性を生み出す複合性に満ちた外部環境として捉えられる。
一方、排除という概念は、包摂の否定を意味する。排除されている人間は、コミュニケーションに有意味に関連付くことができている訳でもなければ、成員として尊重されている訳でもない。社会システムは、排除されている人間を人格として観察するのではなく、ただ「身体(Körper)」として観察する。例えば、何らかの理由によって学校に通わなくなってしまった未成年の引きこもりは、教育システムから排除された身体として観察できる。教育を最後まで受けたという経歴を持たなければ、大学に進学して研究に勤しむことで科学・学問システムに包摂される機会も逃すことになる。就職するにも、経歴が無ければ労働市場で機会を手にすることもなくなるために、経済システムからも排除されるであろう。何らかの紛争に巻き込まれたとしても、貨幣収入が得られなければ、弁護士を雇うことすらも過剰な負担となるために、訴訟を起こす気すら起こらないかもしれない。この時、法システムさえも、この身体を排除していることになる。
機能システムと組織システムの差異
包摂と排除の区別の意味論は、近代社会の社会構造との関連から構成された意味処理規則である。近代社会の社会構造は機能的に分化した社会として形式化されている。それぞれの機能システムは、近代社会の理念として、あらゆる人間に平等と自由を保障していることになっている。あらゆる人間は、原理的に全ての機能システムにアクセスすることが許されているのである。前近代の階層的に分化していた社会においては、出自や家庭環境が各人の生涯を事実上規定していたために、こうしたアクセスは不可能であった。社会構造が機能的に分化したことによって初めて、人間はあらゆる社会システムに包摂される可能性を獲得したのである
尤も、ある機能システムに包摂されたからといって、それが他のあらゆる機能システムへの包摂をも約束する訳ではない。タルコット・パーソンズが想定したように、包摂と「社会化(Sozialisation)」は互いに強く条件付け合う関係にある。しかしだからといって、そこから社会の統合へと向かう訳ではない。社会化は家族の中だけで実施される訳ではなく、教育システムだけに委任される訳でもない。機能的に分化した社会では、それぞれの機能的問題領域ごとに社会化が実施される。包摂の形式は機能システム固有の諸問題に左右されている。例えば宗教システムでは、日常的な信仰が要求される場合に、偽りの信仰心の問題や申請の正直な信仰や真の救済の基準が欠如しているという問題が直ぐに派生してしまう。経済システムでは、成功と失敗に付き物であるように思われる貧富の差異により、経済という同一のシステムに双方を包摂することが疑わしくなる。貧民は、社会の部分である経済システムに包摂されているからこそ、自己自身を貧民として認識することができている。だがそうした事態は、同時に自己自身を他ならぬ社会から排除された人間として認識することも可能にしている。普遍的な権利によって保障される法システムへの包摂は、政治的な忠誠心まで保証することができていない。政治システムも、政教分離が原則化している以上、もはや宗教における社会化に頼ることができない。宗教による包摂は政治による包摂から区別されるのである。
あらゆる人間を包摂しようとする機能システムの作動は、組織システムの作動から区別されることで、より特徴的となる。組織システムは、それ固有の選択と意思決定によって選抜された構成員以外は、全ての人間を排除する。組織システムは、各人を構成員としては平等に扱う一方で、能力や経歴に応じては各人を人格として区別する。そうすることで組織システムは、包摂と排除の区別を積極的に導入しているのである。
このことをわかり易く例示してくれているのは、教育システムと関わる大学という組織システムである。原理的に大学は受験や編入試験に合格した人間だけを被教育者という人格として観察する。それ以外は、少なからず被教育者という人格の枠組みからは排除する。大学の被教育者たちは、4年経てば卒業することになる。全ての被教育者が卒業してしまえば、もはや大学の講義やゼミという形式で教育を実施することができなくなってしまう。それは教育システムの作動を停止させることになり兼ねない。故に大学は、受験の選抜試験を毎年実施することで、包摂と排除の区別を改めて導入し直すのである。こうして組織システムは、各人を人格として扱うと共に、各人を集合的に結合しては再結合し続けることで、機能システムの作動の継続に資するのである。
したがって、あらゆる人間を包摂しようとする機能システムの作動は、包摂と排除の区別を積極的に導入し続ける組織システムの作動を前提としていることになる。つまり、あらゆる人間を包摂しようとする理念が、実際には包摂と排除の区別に準拠してしまっているのである。それ故、排除が可能である場合に、包摂が可能になる。社会的な現実を直視するまでもない。包摂と排除が表裏一体であるのは、論理的な帰結なのである。包摂と排除の区別を導入するということは、包摂と排除の双方を同時的に指し示すということである。排除という事態が具体的に認識され得るのは、同様に包摂の諸条件が具体的に特定されている場合のみである。排除という概念は、包摂に対して対極にある構造として、包摂と同様に、社会的な秩序の形式や意味付け、あるいは根拠付けに役立っているのである。
派生問題:包摂と排除のパラドックス
包摂と排除は非対称である。一方で包摂は、緩やかな結合に留まる。例えば経済システムにおいて多分に包摂される裕福層は、それだけで政治的な権力を有する訳でもなければ、優れた科学論文の発表や芸術作品の制作を実践できる訳ではない。つまり、ある機能システムに包摂されているからといって、他の機能システムからも優遇されるとは限らないのである。これに対して、他方で排除は、緊密な結合となる。つまり、ある機能システムで排除された人間は、他の機能システムでも排除される可能性が高い。
ルーマンによれば、近代社会における排除は、複数の機能システムの否定的な結合という形式を取っている。つまり、ある一つの機能システムから排除された身体は、他の機能システムにもアクセスできなくなってしまうか、少なからずそれを困難としてしまうのである。例えば不法滞在の外国人が国家という組織システムから排除されているのは言うまでもない。そうした外国人たちは、居住地を確保するための賃貸の契約対象からも排除され、また言うまでもなく子供を就学させることもできず、まして選挙権すら無い。そうした外国人に肩入れする政治的活動家が国の内部に紛れ込んでいない限り、不法滞在の外国人にできるのは、精々<民主主義を謳うデモ>という名の社会運動によって、民主主義的な選挙制度によって規定されている国内の決定事項に抗うことだけに限られる。こうした外国人たちを観察すれば、国家という組織システムによる排除を起因として、経済、法、政治などのような様々な機能システムによって排除される結末を招いていることがわかる。
排除された身体からは、機能的問題領域のコミュニケーションが構成されない。機能的問題領域のコミュニケーションを構成するのは、包摂されている人格を前提としている機能システムだけである。それ故にルーマンは、この包摂と排除の区別が、個々の機能システムがそれ固有の二値コードに基づいて各人をコミュニケーションにアクセスさせていく前段階で、一種のフィルターとして機能していることを指摘している。つまり包摂と排除の区別は、各機能システムの二値コードを一段階抽象化させたメタ水準の二値コードとして機能しているのである。
二値論理構造として言えば、包摂は正の値である。排除は負の値だ。包摂と排除の二値コードは機能的に分化している全体社会の二値コードである。故に意味論的に言えば、排除は、全体社会の外部への言及となる。だから社会の中で構成されているコミュニケーションにおいては、排除が社会構造によって方向付けられているとは知覚され難い。排除は、何処か別の世界の出来事であるかのように語られるのである。ルーマン自身も認める通り、排除とはシステムがシステム合理性を保持したまま作動する際に、不可避的に派生してしまう。その際、システムの外部環境としての人間に何が起こるのかは、不透明に留まるのである。
包摂と排除のパラドックスは、伝統的なマルクス主義者たちが指摘してきたような階級支配や搾取の問題とは区別される。もし近代社会に階級支配が存在するなら、機能的な分化を超えた階層的な秩序が成立していることになるためだ。しかし、機能的な分化という社会構造が指し示しているのは、あくまで中心や頂点を喪失させた社会である。仮に政治や経済の問題領域で全体性を記述することができたとしても、それは全体社会の全体性ではない。あくまでもそれは、政治や経済という機能的なサブシステムにおける部分における全体性に過ぎない。
この包摂と排除のパラドックスはまた、単に人々をコミュニケーションに包摂すれば済む問題でもない。包摂を可能にするのは他ならぬコミュニケーションである。だが無論、排除を可能にするのもまたコミュニケーションに他ならない。ユルゲン・ハーバーマスのように、コミュニケーション的行為に基づく理性的な主体たちによる理性的な討議を展開したところで、全体社会への包摂が可能になるとは限らない。まさにそうした討議に<参加できる者>と<参加できない者>の差異が問題となるのである。巨匠ハーバーマスは、コミュニケーションを通じた人々の社会への包摂を主張する一方で、当のコミュニケーションそれ自体が排除している人々については、全く何も想定できていない。
現実を直視するまでもなく、包摂と排除の区別が全体社会の二値コードとして機能することによる帰結は、社会が全人類を包摂の対象として認識することはあり得ないということである。言うなれば、社会が機能する上で必要となる人間は限られている。排除無き包摂はあり得ない。人格として観察される人間の背後には、排除された身体が潜在化されている。あるいは、他者を積極的に排除することで漸く自身の包摂を可能にしている人格もあり得るであろう。人権擁護の利権団体にせよ、政治的活動家にせよ、社会的な弱者の代弁者たちにせよ、周期的に「ショック」を受けている人々にせよ、排除された身体を人格として包摂する如何なる取り組みも、特定の人間を排除する。誰かにとっての正義の英雄は、他の誰かにとっての敵となる。誰かを救うということは、別の誰かを救わないということだからである。
問題解決策:「包摂的な個性」と「排除的な個性」の区別
この問題の鍵となるのは、包摂と排除の対象となるのが、いずれも人間の個人であるという点である。包摂と排除の区別の意味論は、個人の意味論に準拠している。個人という概念もまた歴史的な概念である。この概念もまた、近代社会の社会構造に方向付けられる形で、近代的な個人概念として記述されるようになっている。ルーマンはこの関連から、「包摂的な個性(Inklusionsindividualität)」と「排除的な個性(Exklusionsindividualität)」の区別を導入することで、近代社会における社会と個人の関連を特徴付けている。
階層的な分化と機能的な分化の差異
包摂的な個性とは、前近代の階層的に分化した社会構造における社会と個人の関連を示している。階層的な分化という社会構造においては、出自や家庭環境が、その個人と社会の関連を全面的に方向付けていた。生涯に渡り個人は、階層的に分化した社会に包摂され続けていた。このように、包摂的な個性とは、かつて前近代社会の内部に包摂されていた人格の個性を指す。一方、機能的に分化した社会においては、まさにこうした関連を否定する排除的な個性こそが、社会と個人の関連を特徴付けている。包摂的な個性と排除的な個性の区別は、つまるところ階層的な分化と機能的な分化という社会構造の区別に照応している。故に排除的な個性は、社会構造によって方向付けられて進化した意味論の一つである。この社会構造と意味論の関連を前提とするなら、排除的な個性の意味論は、全体社会の外部に排除されている人間を記述することに特化した意味処理規則を提供している。
前近代の階層的な分化という社会構造を前提とした包摂的な個性の意味論は、個人を包摂された人間として記述してきた。それぞれの個性は、名前が知られ、仲間であり、権利と義務を有する、とりわけ「持ちつ持たれつ(Give and take)」の関係にあった。逆に言えば、よそ者(outsiders)には個性は無かったのである。社会構造は、社会の個性を記述するための意味論のみならず、社会と個人の関連を記述するための意味論も方向付けてきた。だが、社会構造と意味論の関連は、しばしば双方向的である。実際、階層的な分化という社会構造が包摂的な個性という意味論を方向付ける一方で、包摂による個人化の意味論は、階層的な分化という社会構造を基礎付けていた。これらの社会構造と意味論の関連を観察して初めて、社会階層、カースト制、あるいは広義の身分制度に基づいて、人々を如何に扱うべきなのかが規定されることとなる。
排除的な個性の意味論が指し示しているのは、階層的な分化から機能的な分化へと進化した近代社会においては、各個人が階層の頂点や中央に従属する形での包摂から自由になったということである。階層的な分化という社会構造は、常に様々な身分上の地位に就く機会を制限していた。この社会構造は、人材の配分の自由度や流動性を限定する一方で、その選択の負担から免除されてもいた。階層的な分化という社会構造では、それぞれの個人は、社会のサブシステムの一つに属することが自明化していた。ところが階層的な分化から機能的な分化への社会進化が生じると、もはやその自明性は通用しなくなった。個々人が社会の特定のサブシステムにのみ属するということが、もはや否定されることになったのである。
社会システムの外部環境としての人間
機能的分化社会を生きる個々人は、職業や専門職として、法システム、経済システム、教育システムなどに関与することができる。そうした個々人の社会的な地位は、職業として指し示された出世のコースを一定の形で辿ることになる。個々人は、特定の機能システムのみに属する形では、もはや生きていくことができなくなっている。社会システムは、その内部におけるシステムと外部環境の総体に他ならない。社会の内部に社会それ自体が全体として代表されることはもはやあり得ない。それ故に社会は、各人が<社会的存在>として存在し得る場所をもはや提供していないのである。
各個人は社会の外部環境でしか生きられない。そして各個人は、社会の外部環境に位置する独自のシステムとしてしか、自身を再生産できない。個人にとって、社会システムは自己の再生産に不可欠な外部環境となる。一方、社会から観れば、個人は到達不可能な超越性なのであって、未知なるものとなる。社会にとって各個人は、それぞれ自主的に動き、移ろい易く、それ故にブラックボックスとなる。
したがって、機能的に分化した社会では、個人が包摂によって定義されることがあり得なくなる。個人は排除によってのみ定義される。これこそが、個人と社会の関連という社会構造上の意味論なのである。尤も、個人が排除されているという問題は、機能的分化社会が生み出した訳ではない。近代化以前から、よそ者として排除された人間は存在していた。機能的分化社会の社会構造は、ただ個人が排除によって定義されるということを発見し易くしただけである。とはいえ、人間がただ単に人間であるというだけで社会の構成員として包摂されることが期待されるのは、近代に特有の現象である。包摂に対するこの近代に特有の期待があるからこそ、逆にその期待外れが、排除の認知を促しているのである。
個性はもはや社会による包摂によって定義されるのではなく、社会による排除によって構成されるというのが、社会システム理論的な命題である。この命題は、因果的な依存関係については何も述べていない。以前と変わらず、人間は社会的な関係の中でしか生きられない。近代社会においては、近代化以前よりも増してそうである。近代社会を生きる人間には多くの選択肢が与えられている。だが人間が依存する関係は膨大な数に膨れ上がっている。包摂的な個性から排除的な個性を区別する個性の意味論は、まるでこの依存関係を強化するかのように機能する。個人は、言うなれば主体性と独自性の中に逃げ込んでしまう。主体性と独自性は、如何なる経験的あるいは因果的な依存関係によっても疑問視されない記述概念である。依存関係の連鎖が増加して、複合性を高めた状況において、個人はかつてより徹底して個人と化す。
排除的な個性の意味論は、個々人が、社会から排除されるからこそ自由を得るという機能的分化社会の社会構造をあくまでも前提としている。機能的分化社会を生きる個々人は、自らの創意工夫によって、社会システムに包摂される努力を期待されることになる。この意味論は、近代化という社会進化によって、全人類が社会に包摂されているという状態が破局(Katastrophe)を迎えたという歴史を前提としている。排除されている人間としての個人は、少なからず近代社会の理念の上では、誰もが平等かつ自由に、各機能システムに参加することができる。もとより、そうした自由や平等は、抽象的な理念に留まる。それを具象化する存在として期待されるのが、今まさに排除されている人間なのである。こうした期待の構成は、機能的な分化という社会構造に方向付けられている。したがって排除的な個性の意味論は、各個人が近代社会の個人であり続けて、社会構造の中で包摂されるための不可欠な条件を指し示している。社会に包摂されるための努力という抽象的な条件を自ら具象化して実現することが、個人に突き付けられた包摂の条件なのである。
もとより、社会進化は社会構造の破局(Katastrophe)を伴わせる。包摂的な個性と排除的な個性が正反対の意味論であることからも、階層的な分化から機能的な分化への社会進化は、前近代とは正反対の帰結を近代社会に伴わせていることがわかる。前近代社会では、個性を包摂によって基礎付けていたために、社会の内部の分化を排除によって基礎付けなければならなかった。ある一つの家族に属しているのならば、別の家族からは排除されていなければならない。何故なら、そうしなければ奇怪な雑種の個性を生み出してしまうためである。これに対して、近代社会のように、個性を最初から排除された外部要因として想定する場合、全体社会の分化は様々な形式の個人の包摂に依存することになる。有権者、病人、出版物の読者、芸術作品の愛好家、音楽の聴衆などのように、包摂すべき個人は別のあり方でもあり得る形式を取る。だとすると、問題は既に個人化している個人の参加にあるということになる。各機能的問題領域では、それぞれ異なる参加の形式が提供されていなければならない。逆に言えば、近代社会で大いに危惧されてきた疎外のような現象が社会の基礎原理となることはあり得ないのである。
問題解決策:「要求的な個性」
ルーマンによれば、この排除的な個性の意味論は、次第に「要求的な個性(AnspruchIndividualität)」の意味論に移行していくという。要求的な個性の意味論は、排除的な個性として記述されている社会と個人の可能な諸関連の中で、理想や目標となる関連を指し示す意味処理規則である。それは各個人が社会の中で成し遂げようと欲する個人のあるべきあり方を追い求める意味論である。言い換えれば、要求的な個性は、現存する個人と理想や目標となる個人との間の差異を顕在化させる。そしてその上で、この差異を最小化するべきであるという期待を構成するのが、この意味論の機能なのである。
そうした最小化を果たすためには、最適化のアルゴリズムと同じように、探索が必要になる。要求的な個性の意味論に従う個人は、世界を要求という形式で観察する。この意味論は、自己自身のあり方を規定することを可能にする原理である。それは個人の欲求を生み出す原理でもある。だからこそ個人は、欲求を充足させるために、世界を探索しなければならない。要求という形式を利用すれば、その個人が現にそのようにあるのは、その個人の全貌ではないということが明確化する。ルーマンによれば、要求的な個性の論理の核心となっているのは、個性への要求以外のあらゆる要求が、要求的な個性における要求に含意されるということである。すると、個人にとって発見される自己同一性は、あらゆる事柄がそこに回帰する出発点としてではなく、あるべきあり方の個人でありたいという要求との関連を持たざるを得ない。
個性、個人、個人主義
「個性(Individualität)」とは、システムのオートポイエーシス的な自己再生産の循環的閉鎖性以外の何物でもない。それは自己論理的(autologisch)な概念である。つまり個性という概念は、概念それ自体に適用可能であり、適用されなければならない概念なのである。それ故、「何が個性なのか」という問題も、専ら個人にとっての問題なのだ。したがって個性とは、何らかの静的なモデルに落とし込まれた概念なのではなく、人間が社会との関連から構成する動的な過程それ自体を意味する。この関連から「個人主義(Individualismus)」という概念は、それぞれの人間がそれぞれに個人であるということが、イデオロギーとして反省された場合に記述される概念である。個人主義が標榜される場合、個人であるということ、個人として社会に要求を掲げるということが、所与の前提として社会に受容されることが前提となる。個人が社会システムから排除されるからこそ、個人の社会への再導入が、価値としてイデオロギー化され得る。そうして初めて、社会に関わるコミュニケーションが、個人と社会の区別に基づいて実行されることを要求できるようになる。
マクス・ウェーバーやエミル・デュルケムらが定式化してきた社会学の方法プログラムにおいては、長らく方法論的個人主義と方法論的集合主義の対立によって、個人主義という概念が記述されてきた。しかしルーマンによれば、個人主義と集合主義は、しばしば曖昧に区別されてきた。個人主義それ自体は、巧妙に偽装された集合主義に過ぎず、人間に対する集合的な観念の支配の表現に過ぎない。と言うのも、個人主義という概念それ自体が、誰に対しても該当する抽象的なモデルとしての個人を記述してきたためである。
等価機能主義的な社会システム理論は、こうしたモデリングに与しない。個人化は、個人化しようとする個人の自己言及によって構成される。だがその自己言及は社会構造と意味論によって方向付けられてもいる。この関連から重要となるのが、社会が<同一性を通じて個人化を方向付ける場合>と<差異を通じて個人化を方向付ける場合>との間に、差異があるということだ。あらゆる情報獲得と情報処理は、方向付けとなる差異を前提とする。グレゴリー・ベイトソンの有名な一句を引き合いに出すまでもなく、情報は差異を構成する差異である。差異を指し示すことによって、情報の性質を有した過程を進行させることが可能になる。
差異と同一性の差異
人間は、どのような状況の中でも、尊敬、注目、欲求充足、合意などを要求する自己自身の要求が充足されるか否かを観察する。そして各人は、そうした要求がどの程度充足するのかを経験する。人間は、こうした情報処理の文脈の中で、自己自身に同一性を帰属させることができる。それは、<自己自身の同一性>と<他者の同一性>との差異を自ら主題化することができなかったとしても、変わりはない。要求に準拠した情報を経験して処理するという問題設定では、同一性の意識という機能は、問題解決策として必要とはならない。個人であり、それに見合う固有の同一性を保持しているという「アイデンティティ」についての単なるアピールは、多種多様に生じ得る要求を満たす上では、役にも立たないのである。何故なら人間は、自己自身の同一性を用いて如何なる情報を獲得できるのかを知るために、差異を必要としているためである。人間は、差異である前に同一性である訳ではない。差異があるからこそ、差異と同一性の差異が可能となる。そしてこの差異があるからこそ、同一性が可能になるのである。したがってまず以って必要となるのは、同一性ではなく差異である。
個人が要求するということが意味するのは、個人が外部環境との差異を処理することで、これを非対称化するということである。言い換えれば、何かが現在の在り様とは別のあり方でもあり得るようになれというのが、要求なのだ。したがって要求は、システムと外部環境の差異を、個人が要求しているものと現にそうあるものとの差異によって補完するように仕向ける。この<要求しているもの>と<現にあるもの>の差異によって、個人は、自己自身のシステムと外部環境との差異を方向付けようとする。それによって初めて、システムと外部環境の差異が非対称化されるのである。
問題解決策:脱パラドックス化の形式としてのキャリア
要求的な個性は、差異があるからこそ、単なる同一性による個性よりも強く、また広く、社会的な生活と結び付く。要求的な個性は、自身が<現にそうであるようにある>というトートロジーの解決によってではなく、自身が<現にそうではないようにある>というパラドックスの解決によって現れるのである。要求は、人間がその要求を自ら否定する必要が無いということに支えられている。要求は外部を志向している。そしてそれは、あくまで外部環境で拒否され、制約される。その限りにおいて、個人化のために機能するこの要求的な個性という形式は、可能性を探索する敏感な道具となる。この道具は、例えば政治システムにおける福祉国家、経済システムとの関連から組織された企業労働、法システムのテクストなどのような社会システムを前提としている。こうした諸前提は同時に「キャリア(Karriere)」の形成を可能にする。人間は少なくとも通常の場合には、こうした諸前提に身を委ねている。
キャリアは、階層的な分化から機能的な分化への進化が成立した際の「埋め合わせ(Kompensation)」として導入された概念である。言わばキャリアは、近代化の代償として導入された意味論なのである。全体社会が機能的に分化したことによって、出生、家庭での社会化、そして階層ごとの状況は、もはや人生の通常の進路を予測可能にする十分な要因とはならなくなった。キャリアはこの埋め合わせとして生じている。キャリアにおいて問題となるのは、人生における計算不可能な事態や運命的な不意打ちなのではない。階層的な分化から機能的な分化へと進化した社会では、もはや外部の危険性から身を守るという問題は二次的なものとして格下げされる。人生における運命なるものは、その都度の、様々な重み付けによって配分された自己自身の選択と他者の選択の組み合わせによる選択的な出来事の連鎖として再記述されなければならなくなった。ルーマンは、この連鎖に相応しい時間次元のモデルを、操作的に「キャリア(Karriere)」と定義している。
個々人は、それぞれの機能的問題領域で固有の複合的なキャリアを形成していく。経済システムでは経営幹部のキャリアを有していても、医療システムでは病人としての役割を引き受けなければならない場合もある。各人のキャリアは、無論個々別々に形成される。故にキャリア形成は、社会化における同調圧力からの逸脱の可能性を高めていく。すると兼ねてより社会化に携わってきた教育システムは、こうした各人のキャリア形成を教育システムのメディアとしての経歴として再記述することによって反応することになる。
しかし、経歴が教育の機能的問題領域で構成されているのに対して、キャリアは各個人による全体社会の探索によって構成される。学歴や職業訓練の履歴だけがキャリアになる訳ではない。例えば医療の機能的問題領域では病歴が、法の機能的問題領域では犯罪歴が、それぞれキャリアを形成する。ある機能的問題領域におけるキャリア形成が、他の機能的問題領域のキャリア形成に有利に働くという保証は無い。ある機能的問題領域のキャリア形成に特化すれば、それだけ他の機能的問題領域におけるキャリア形成は疎かになってしまう場合もある。したがって、キャリア形成における逸脱は、兼ねてより逸脱を制御してきた法や宗教のような機能的問題領域だけでは、制御し切れない。
したがって、要求的な個性の意味論における要求という概念は、まず近代公教育の意味論の一つである発達段階論的な「アイデンティティ(Identity)」概念や「自己実現(self-realization)」の概念と同一視されてはならない。双方の意味論には差異がある。キャリアという概念は、教育システムのメディアとなる経歴から区別される。キャリアは、教育の機能的問題領域やこの領域で作動する学校のような組織システムの作動には収まらない普遍性を有している。
要求的な個性の意味論における要求概念は、政治的なコミュニケーションのスキーマとしての「利害(Interessen)」からも区別される。個人の要求は、利害関心だけでは説明の付かない概念である。例えば自分自身が納得し得る完璧な自画像を完成させるために、生涯を通じて一心不乱に作画し続けている芸術家ならば、政治的活動家たちが注視するような政治的な利害関心に構ってやる余裕は無いであろう。個人の要求という概念が普遍的であり得るのは、そうした利害関心を要求の一部として記述しているためである。そのために要求概念は、政治の機能的問題領域には留まらず、全体社会に照応するのである。
出来事の連鎖としてのキャリア
こうした機能的分化社会を背景とするなら、キャリア概念は広い意味で記述されるべきである。キャリア概念は、組織システムにおける職業的な地位の変化だけで記述されるべきではない。キャリアは出来事から構成されている。それらの出来事は、キャリア形成に都合の良い出来事であれ、逆に不都合な出来事であれ、キャリアの形成に影響を与える。キャリアの形成において重要なのは、出来事を後続の出来事へと連鎖させることである。言い換えればキャリアは、キャリアそれ自体がキャリアとしての価値を与える出来事から構成されているのである。
したがって、キャリア形成は出来事の反復性を前提としている。同様の出来事を更に可能にする出来事があって初めて、キャリア形成が成り立つのである。例えば、ある職業的な地位を獲得することが、将来的に更なる職業的な地位の獲得を可能にする。収入は、クレジットの前提となる。「インフルエンサー」として定期的に炎上し続けることは、マスメディアで更なる脚光を浴びるための嗜みとなる。前科に対する偏見は、前科者の社会復帰を遅延させ、結果的に再犯を招くかもしれない。したがってキャリアとは、ほぼ無前提に始まり、自己自身を可能にする歩みとして経験される。この意味でキャリアは、時間の中での個性の表現に役立つ。
全てのキャリア上の出来事は、<後続の選択>についての偶発的な選択である。いずれの出来事から観ても、前史は不可欠の前提となる。それに接続し得る未来が、その出来事の結果となる。したがって、キャリア全体は徹底的に偶発的な構造として構成されている。キャリアだけではキャリアの進行が保証される訳ではないということからも、この偶発性は明快であろう。内部要因のみならず外部要因、業績のみならず好都合な幸運が無ければ、キャリアを十分に進行させることはできない。しかしながら、この連関の基礎となるのは、あくまでもキャリアそれ自体なのである。その点で、キャリアはその内部では予測不可能に留まる。キャリアの未来を言い当てることはできない。キャリアの未来は確実に生じさせることのできない出来事として結実する。キャリアパスとは、幸運と不運の分岐点でもある。何故なら、如何なる機会であっても、それは既にキャリアそれ自体による選択の機会であるためだ。キャリアが不確実性に曝されているのは、それが外部要因と内部要因、幸運と努力、他者の選択と自己の選択の組み合わせに依存しているためである。
不確実性は、常にその時々の現在における不確実性である。不確実性によって、現在の意義が強調される。現在が現在における愉悦と退屈の瞬間として有意味になるだけではなく、キャリアの文脈の中でも有意味であるほど、ますます現在の意義が際立つ。人間は、後から振り返った時には取り戻せないものを取り逃がしてしまうかもしれない。人間が用意できる心構えだけでは、偶然の機会に対応することができない。そのため、出発点として、とりわけ教育の存在意義が過大評価される傾向にある。現在の意義を見逃さないための努力には、客観的な限界がほとんど存在しない。どれほど多くの準備を施しても、それが無駄に終わる可能性は常に残存する。
キャリア否定のキャリア
出来事の連鎖としてのキャリアという概念は、キャリアには累積効果があるということを明らかにしている。成功は成功を生む一方で、失敗は失敗を生む。最初は小さかった差異が、キャリアの進行によって増幅される。そうしてキャリアそれ自体が自己選択に入り込む。人間は、キャリアに都合の良い生活の歴史によって自信を強める。その逆の歴史に対しては自信を弱めることとなる。この意味でキャリアは、不平等を派生させる。キャリアは機会の配分に関して、不安定とはいえ、階層と同じような不平等を生み出すのである。
しかし、不平等性が伴うからといって、この近代社会を生きる我々がキャリアを批判することには意味が無い。無論、キャリア形成の競争から降りることも不可能ではない。だが、ゼロキャリアもまたキャリアである。そうしたゼロキャリアもまた、キャリアの機会を定義している。それは個人の歴史を不確実化している。ゼロキャリアもまた偶発的な選択の歴史である、それ故にゼロキャリアも、キャリア同様に、人間が後悔する瞬間が到来する可能性を排除し得ない。
これを前提とすれば、キャリアとキャリアの否定の区別は、キャリアの側に「再導入(re-entry)」されることで、自己論理的に普遍化することとなる。キャリアはまず、成功と失敗という形式を伴わせた意味論を記述する。そしてこの意味論は、成功や失敗の経験に対して、自己に帰属する行為と他者に帰属する体験の区別を可能にする。だがそれが全てではない。キャリアを巡る様々な普遍性は、ストレス、ドロップアウト、オルタナティブといった生活形態の意味論も包含しているのである。キャリア形成の競争から降りることにもキャリアが伴う。ノーキャリアやゼロキャリアを選択することもまたキャリアとなるのである。
要求可能性
各個人は、自己自身と自己の人生設計に必要な事柄を他者に要求することができる。そうした要求が、コミュニケーションの主題となる。各個人はコミュニケーションによって観察されている各個人の要求に対して、自己自身に関連する要求もあれば、無関係な要求もあるということを識別できている。あらゆる社会システムはコミュニケーション・システムである。その構成と境界設定は、実質的に要求を通じて実現する。そうした要求は、日常のコミュニケーションにおいて、主題として認識されている。個々人の要求は、それぞれの機能的問題領域における問題設定の候補を提供しているとも言えるであろう。何が社会的な秩序として最終的に成熟するのかを規制するのは、互酬性という基礎原則や道徳律の類のものではなく、要求可能性なのである。
「要求的な個性」の意味論においては、あらゆる個人が、他の何者でもない自己自身についてだけを他者に要求できる。あらゆる個人は、自己の要求を自ら定義できる。自身が何を望んでいるのかがわからない者でも、自分の望みを明らかにしたいという要求を掲げることは不可能ではない。だがそうしたあらゆる個人が定義できるはずの要求は、同じ自由を要求する個人に対する要求である。あらゆる個人は、あらゆる他の個人が、自己の世界、自己の利害、自己の愉悦は何であるのかを、当の個人が自らで決定することを承認しなければならない。人間は他者に対して自己決定の権利を否認できない。この意味であらゆる個人は、主権を有している。それは、他者の要求の承認と拒否のいずれか一方を選択することのできる主権である。
機能システムは、前述したように、原理的にあらゆる人間を包摂することになってはいる。これに対して、組織システムは包摂と排除の区別を導入する。全ての機能的問題領域への個人の包摂が組織によって媒介されなければならない。しかし組織の意思決定過程は、速度が遅く、誤りを犯し易く、コストを要し、見通しが利かない。個人は、自身の要求をそうした組織に投影せざるを得なくなる。その結果、個人が個性を要求するようになれば、それだけその要求が実現される条件は疎遠となる。
キャリアと要求は、個性を非対称化させるための異なる形式である。もしキャリアと要求を同一視してしまうなら、個性の非対称化の形式としては機能しなくなる。つまり、ただ一つのキャリアではなく、ありとあらゆる全てのキャリアを要求することになってしまう。要求についての肯定的な経験や否定的な経験は、どれほど積み上げたところで、キャリアとはならない。要求についての経験が生み出すのは、キャリアではなく要求である。例えばキャリアの文脈における公正な処遇、機会均等、人材選抜などにおける恣意性の排除などといった要求が生み出される。逆に、キャリアを積む上で生じる失望感を鎮めるような制度への要求が生まれることもある。
個人と社会の差異
「要求を自らで選択したい」という要求も含めて、あらゆる要求の基礎にあるのは、個人と社会の差異である。だが、社会それ自体が個人それ自体と統一体として対峙する場所は、何処にも無い。それ故に、双方の関連を非対称的に捉えることで、相互性の過程を破棄することが不可避となる。個人の同一性を構成する社会的な対応物も、<個人的>な同一性の尺度となる<集合的>な同一性も存在しない。集合的な同一性の構成と個人的な同一性の構成の関係は、社会化と包摂の関連の機能的な分化によって引き裂かれている。そのために、社会的に保証されている個人化のモデルも存在しない。それをコミュニケートする権威すらいない。
個人に与えられるのは、反省の手助けでもなければ、同一化のための参照点でもない。ましてイマニュエル・カントの「定言的命令(kategorischer Imperativ)」のような統一的原理などでもない。個人に与えられるのは、差異の経験である。要求の個別化は、共通あるいは類似の要求を抱く個人の比較を可能にする。とはいえ比較して観れば、個人は相対化される。ほとんどの人々は、何らかの比較の観点においては、他者よりも悪く、他者よりも劣るという結論に至ってしまう。個々人が自己自身と自己の置かれている状況に満足するか否かや、満足するために積極的に努力するか否かは、未規定である。
個人にとって、社会全体は見渡し難い複合性として顕現している。しかしながら、探索の方向付けが全く得られない訳でもない。学習が不可能である訳でもない。個々人は現在における自己同一性を逐一確認することもできる。むしろこうした社会システムの複合性は、個人を自己自身に立ち返らせて、自己と他者についての自己の要求を、状況を調査するための観測気球として利用することを促している。
機能的等価物の探索:スポーツの社会構造と身体の意味論
ルーマンは、機能的分化社会の社会構造と「要求的な個性」の意味論を記述するに際して、決してキャリアの意味論を記述するだけで満足していた訳ではなかった。キャリアによって可能になる問題解決は、包摂と排除のパラドックスの問題設定においても、また社会と個人の関連を記述する場合においても、十分に満足のいく問題解決ではないのである。キャリアの意味論は、包摂と排除のパラドックスという問題設定の枠組みには適合している問題解決策の一種に過ぎない。したがってルーマンが探索しなかった範囲には、キャリアの機能的等価物があり得る。ルーマンは、全体社会で生じた問題が、社会構造の発展によってその解決策の可能性が条件付けられる前に、まず個人の自己経験の中に導入されるという印象を受けている。「要求的な個性」の意味論を前提とすれば、この印象は真に迫っている。何故なら、「要求的な個性」が指し示す要求可能性とは、まさに全体社会の問題に対する問題解決策が、全体社会によって導入される以前に、個人によって導入されなければならないことを意味しているためである。
一つの機能的等価物として記述できるのは、スポーツである。端的に言えば、スポーツは、勝者と敗者の区別を導入することによって、その双方を参加者として包摂する。およそ公正にルールに従う限りにおいて、スポーツから排除されることはあり得ない。その一方でスポーツは、オリンピックの競技や部活動の大会などとは違って、ウェルネス(Wellness)やフィットネス(fitness)、エンハンスメント(enhancement)としても導入される。これらの主題は、医療の機能的問題領域と接点を持つ。スポーツは、医療システムを介して、個人の全体社会への包摂も可能にしているのである。
勝者と敗者の差異
勝者と敗者の区別は、様々な機能的問題領域で導入されている。無論、勝者の定義と敗者の定義は、それぞれの機能システムのコミュニケーションによって規定される。つまり、勝者と敗者の区別の意味論は、それぞれの機能システムの社会構造によって方向付けられているのである。しかし、各機能的問題領域で共通しているのは、この勝者と敗者の区別が、しばしば潜在化する傾向にあるということである。この傾向は、とりわけスポーツには見受けられない傾向である。
例えば政治の機能的問題領域においては、既得権益を勝ち取る過程そのものは公にすることができない。もし公にしてしまえば、対抗勢力に都合の良い情報を与えてしまう。あるいは政治システムの偶発性定式としての正統性が、問題として顕在化してしまう。経済の機能的問題領域においては、自らの収入が経済弱者を踏み台にして成り立つことをひた隠しにしなければならない。もしそこに焦点が当たれば、不平等や格差、あるいは経済システムの偶発性定式としての希少性が、問題として顕在化してしまう。同様に教育の機能的問題領域においても、一方では選抜のコードから高学歴と低学歴の差異を構造的に産出し続けるが、他方では学歴に拠らない人間中心主義的な教育思想や生涯学習の意味論などによって、大衆の学歴コンプレックスを鎮めていかなければならない。その際には、教育システムの偶発性定式としての教養を主題にすることで、「学校では習わない何か」がさも重要であるかのように語ることにより、大学のシラバスには載っていない学習の代替案を提示する必要がある。
このように、様々な機能的問題領域で、勝者と敗者の区別が潜在化する傾向にある。たとえ勝者と敗者の差異が明確に構成されていたとしても、そこから目を逸らすことが、しばしば社会構造の安定化を可能にしているのである。一方、これに対してスポーツは、極めて明確に、勝者と敗者の区別を導入する。スポーツは確かに、「参加することに意義がある」のだから、敗者であっても包摂され続ける。しかしより重要なのは、勝者の包摂である。スポーツの勝者は、より勝っているという形式で包摂され続ける。スポーツにおいては、勝ち続けても尚、徹底的に勝つことが許される。現実的に敗者を叩き潰す勝者が包摂されているからこそ、その埋め合わせとして、「参加することに意義がある」が活きてくるのである。もとよりこの一句は、規範的に期待されるだけで、現実を反映してはいない。実際、「第4位」という栄光に輝くオリンピック選手に対し、世論はほとんど関心を示さないであろう。
こうした勝者と敗者の区別を主導的差異としているスポーツでも、仲間意識や友情が重視される。だがそれは、スポーツがライバル意識の世界であるためだ。スポーツにおいては、極めて明確に勝者と敗者の区別が導入される。そのことで、実は人間関係が分断されてしまうのだ。だからこそその埋め合わせとして、友情や仲間意識が語られるのである。この意味で、友情や仲間意識とは、人間中心主義的な意味論なのではない。スポーツでは、他者の承認は自発的に実践される訳ではない。他者の承認は、ただ闘争においてのみ実践される。
その際重要となるのは、そうした闘争が、ゲームのルールによって設定されるということである。ここから、公正なスポーツという理念が育まれる。この理念は、倫理学的に考えるまでもなく明白だ。公式のスポーツがドーピングや八百長を規制していることがよく示しているように、スポーツでは、全員にとって、勝つことが原理的に可能でなければならない。原理的に必敗のゲームでは、公正性は成り立たないのである。スポーツの倫理は、カントの「定言的命令」を引き合いに出すまでもなく明快である。スポーツでは、実力主義的に、ただ正々堂々と闘うしかない。スポーツに参加する個々人は、正直に、誤魔化すことなく、ルールの枠組みの中で、徹底的に闘い続けることで包摂される。
身体の意味論
個人プレーであれ、チームプレーであれ、大抵のスポーツは、相互行為のコミュニケーションや組織のコミュニケーションによって構成されている。このスポーツが機能的に分化している全体社会と接点を持つのは、特に医療の機能的問題領域との関連からである。ウェルネス(Wellness)やフィットネス、エンハンスメントを主題としたスポーツの意味論は、医療の社会構造による方向付けを前提としている。ウェルネスの運動としてのスポーツは、予防医学の観点から導入される鍛錬として実践される。だが、如何なる病気を予防するのかは、未規定に留まる。つまり鍛錬の実践者は、その時点では未規定に留まる要求を果たすために、鍛錬を積むのである。社会進化論的に言えば、スポーツの実践者たちは、まさに<前適応>のための鍛錬を積んでいるということになる。
スポーツは、「要求的な個性」として生きる個々人にとって、要求可能性の複合性の縮減を可能にする意味形式である。それは、別のあり方でもあり得る無数の要求可能性の中から、特定の要求を選択する上での負担を免除してくれる。そうして選択された要求が、医療の機能的問題領域へと接続されるのである。健康志向として形式化された要求可能性は、個人の観点を、医療的な問題設定と医療的な問題解決策の必要性へと方位付ける。機能システムとしての医療の主題となるのは、身体に他ならない。したがってスポーツは、医療的なコミュニケーションを介して、個人の観点を身体へと固定する。上述したように、全体社会に包摂されている人間は、専ら人格として観察されるのであった。身体として観察されるのは、排除されている人間である。しかしながら医療は、この人格と身体の区別を人格の側へと「再導入(re-entry)」することで、人格を<身体を有した人格>として包摂することを可能にする。
スポーツの意味論が医療の社会構造に方向付けられている時、スポーツは、身体についての意味論を記述することになる。社会システム理論的に言い換えれば、スポーツとは、社会システムが有意味として定義した身体作動への退却を意味する。スポーツは、純粋な身体性の固有の複合性を提示することで、要求の主題を限定する。それは、近代社会では身体がそれほど重要な役割を担わない状況の埋め合わせとしても機能する。スポーツは、我々が自身の身体について取る態度を、身体それ自体の意味によって正当化する。
機能的等価物の探索:遂行志向の宗教
機能システムとしての宗教は、医療とは別の理由から、人間に対する高い包摂力を有している。脱魔術化され、徹底的に世俗化された近代社会では、宗教システムは「機能志向(Funktionsorientierung)」から「遂行志向(Leistungsorientierung)」へと移行することになる。ここでいう機能志向とは、機能システムが社会(Gesellschaft)との関連から自らの作動を営むことを意味する。一方で遂行志向とは、機能システムが他の機能システムとの関連から自らの作動を営むことを意味する。機能志向の宗教的なコミュニケーションを形式化するのは、伝統的に「教会(Kirche)」であった。一方、遂行の役割を担うのは「奉仕(Diakonie)」である。確かに1960年代になると、世俗化によって、社会の全体に対する教会の関与度が急激に低迷したとされている。これは教会という組織システムの構成員となる信仰者が減少したことに結び付いている。しかし宗教的なコミュニケーションは、途絶えることなく継続している。それは、教会の信仰者たちによるコミュニケーションの低迷が、社会奉仕のコミュニケーションによって埋め合わせられたことを表している。
宗教システムと宗教に関わる組織システムは、その手段と動機を社会的な援助へと集中させることができる。実際、貧困者に対する救済には宗派を超えて長い歴史がある。日本では「寄進」や「布施」などといった形式で「寄付」が奨励されてきた。貧困者の救済のための「寄付」という意味論は、イスラム教では「サダカ」や「ザカート」として語り継がれ、仏教では「喜捨」として知られている。キリスト教に基づいた「慈善団体」は、社会福祉の制度化に多大な貢献を果たしている。世俗化は、宗教を消滅させたのではなく、宗教的な救済の形式を組み替えたのである。
この世俗社会における宗教の新しい救済の形式は、政治システムの自己記述として成立した福祉国家の中で再記述されることになる。政治の機能的問題領域では、「寄付」の概念が「社会保障」や「生活保護」、あるいは「年金」として再記述される訳だ。こうした社会保障制度は、経済システムから排除された人間の政治的な包摂を可能にする。社会保障による弱者の救済を謳う左翼の政治は、包摂と排除のパラドックスが問題として顕在化し続ける限り、需要を失うことなく延命する。
左翼による救済約束は、対立を克服し、矛盾を融和させることを目的としている。つまり左翼の救済約束は、過去の階級対立、現在の差別意識、そして未来の文明の衝突に関して、およそ「区別すること」を止めることを目指す訳だ。「区別すること」を止めるということは、「区別すること」と「差別すること」を「区別すること」も止めてしまうということである。そうした観点から観れば、差異が溢れる世界は、全て「差別」で溢れる世界として再記述できる。この世界観では、任意の対象を「差別」の被害者として選択することを可能にする。しかしその時点で、左翼は「区別すること」を始めてしまう。つまり左翼は、救済対象と非救済対象の区別を導入してしまうのである。だがこのパラドックスは直ぐに脱パラドックス化される。と言うのも左翼は、「区別すること」を止めると共に、「区別すること」と「区別しないこと」を「区別すること」を止めるからである。
あらゆる救済約束と同じように、こうした左翼のユートピアもまた、希望とヒステリーを同時に産出する。そうした希望が政治的なるものによって期待外れに終われば、社会はヒステリーの面倒を見ることになる。
マクス・ウェーバーの宗教社会学が解き明かしたように、あらゆる預言は、統一性を有した有意味な態度決定を可能にする。そうすることで、宗教は「生き方」なるものを規定してくれるのだ。しかし、期待が期待外れに終わるように、大それた希望は大抵裏切られる。その結果として宗教の意味論は、その埋め合わせとして、黙示録の意味処理規則を提供することになる。黙示録的な定めが指し示すのは、終末論的な救済の手解きである。あまりにも否定的な未来予知に反論することは不可能だ。例えば、「100年後の中国大陸の気温は80度を超える」という地球温暖化の予言や、「我が国は人工地震の脅威に曝されている」などといった予言には、反論することができない。終末を語る者は、それ故に有利な立場に立つことができる。仮にその予言が外れたとしても、その予言者は、「自分のお陰で助かったのだ」と主張し続けることもできるであろう。こうした悲観主義は、規範的な期待として、反事実的に期待外れを隠蔽し続けることを可能にする。それと同時に、この黙示録的な警告者たちの意味処理規則は、既存の体制批判として応用することができる。かくして黙示録の意味論は、左翼のヒステリーを<批判的な意識>として形式化させることに成功したのである。
とはいえ、社会主義の崩壊以来、既に左翼の知識人は批判の対象を見失ってしまっている。彼ら彼女らはもはや、<批判的な意識>で貫くべき体制の急所を発見できなくなってしまった。それは、機能的な分化という近代化の過程から、全体社会の複合性が高度に増加したことと相関している。社会システムの複合性に対して抵抗することは不可能である。だからこそ左翼の知識人たちは、社会主義の崩壊以来、過去への憧憬を第三世界に向けようとしてきた訳だ。<まだ救済すべき弱者がいる>ということが、他ならぬ左翼にとっての救済となっていたのである。しかしそれは、社会主義に対する期待外れを埋め合わせるための単なる規範的な期待の一種に過ぎない。
現代の政治的活動家たちを観れば、かつての左翼が計画というものを重視していたと述べても、到底信じられないであろう。だが実のところ左翼は、まさに計画を重視してしまったこと自体について、傷付いてしまっているのである。機能的に分化した近代社会は、<一体の理性>として進歩していく訳ではない。それぞれの機能システムがそれぞれの二値コードに従って進化していくのである。政治的活動家たちも例外なく、極めて複合的な発展を予測できない無数のシステムの中で生きている。それ故に、各機能システムの環境変化に対して敏感に反応することが決定的に重要となる。それは、政治的な目標を掲げることよりも、そして社会の下位システムを制御することよりも、まず事態がどうなっているのかを観察して記述することこそが重要になるということである。
こうした社会的背景を考慮すれば、左翼の政治的活動家と知識人が同じ道を歩めなくなったのは道理である。とはいえそれは、知識人の右傾化を示す訳ではない。左翼の政治的活動家たちが「区別すること」を止めたがるのに対して、知識人は科学・学問システムの二値コードである真と偽の区別を導入し続けることになる。知識人は、真理を探究するという科学・学問的なコミュニケーション・メディアによる動機付けによって、むしろ機能的な分化という社会構造の複合性を気に掛けることになる。そうした知識人の観点から観れば、社会の下位システムを制御できるなどという幻想に対しては慎重にならざるを得なくなる。要するに知識人たちは、左翼を否定し始めたのではなく、ただ政治的なスキーマによって導入され続けてきた左翼と右翼の区別を科学・学問システムの二値コードによって棄却し始めただけなのである。
機能的等価物の探索:マスメディア
知識人から分断された左翼は、政治的対象を喪失させるばかりか、左翼の政治的活動家としての自己同一性をも喪失させ兼ねない事態に陥った。しかしながら、その個性の埋め合わせを発見するのは容易であったであろう。その持ち前のダブルスタンダード的な振る舞いが、左翼の社会システムへの包摂を可能にし続けたのである。例えば学生運動の戦争利得者たちや<批判的な意識>を教示し続けてきた教授たちも、年金生活者になって久しい。まさに左翼の政治的活動家たちが否定し続けた社会システムこそが、今の彼ら彼女らの延命に貢献しているのである。
体制批判や社会の否定は、今ではマスメディアが引き受けてくれている。マスメディアが機能システムの一種であることからも明らかなように、体制批判や社会の否定は、社会の内部で、社会に依存しながらでも、実践可能だ。実際、左翼の政治的活動家たちが繰り広げた体制批判とは、実は社会システムそのものの自律性の成立を立証する事例に過ぎなかったのである。例えば、コミュニストが教師になることや音楽の教科書の国歌のページにプリントが張り付けられるのは、体制批判が体制の内部に「再導入(re-entry)」されていることの実例に他ならない。左翼は体制から報酬を受け取ることで、体制批判の費用を賄ってきたのである。
こうしてマスメディアが関わることには、知識人と分断された政治的活動家たちにとって、もう一つの付加価値が伴っていた。マスメディアの二値コードは情報と非情報の区別なのであって、真と非真の区別ではない。それ故、テレビや新聞に登場してくる「知識人」は、真理の探究者である必要が無い。「偽」を記述しても構わないとすら言える。新奇性のある情報を提示できれば、どのようなプレゼンテーターでも構わないのである。実際、マス・コミュニケーションのプログラムにおいては、政治的活動家と「知識人」の区別が、「知識人」の側に「再導入」される。冷戦終結後の「進歩」的な知識人が、戦争責任をはじめとした「過去」を道徳的に蒸し返す「良心」的な知識人となったのは、マスメディアの社会構造があってこそなのである。
<体制依存者たちの体制批判>という左翼のパラドックスは、その<批判的な意識>をマスメディアに委ねることによって、脱パラドックス化されている。テレビや新聞に登場する<予言者>たちが世論の人気者となるのは、こうした背景があってこそである。福祉国家を背景とする民主主義的な政治文化において特徴的なのは、「危機」の警告者や少数派の代弁者、常に憤慨しているだけの人々や周期的に「ショック」を受けたと騒ぎ立てる「被害者ビジネス」の回し者が後を絶たないということである。いわゆる「ポリティカル・コレクトネス(political correctness)」という用語は、<弱者>や<被害者>として都合の良い人々を英雄に仕立て上げる魔法の言葉なのだ。人権主義の倫理学は、この魔法の言葉を応用した弁護士たちの商売道具に他ならない。彼ら彼女らは悲劇の物語を展開することで、全世界のあらゆる人々に対して責任を持つように主張する。しかしこうした他力本願の要求を満たし得る具体的な行動の実践が何であるのか、そしてそれが如何にして可能になるのかについては、全く不十分な説明に留まるのは言うまでもない。
こうした世論における政治的なコミュニケーションでは、しばしば道徳のスキーマを多用することで、政治問題の複合性が縮減される。「心配せざるを得ない」と主張されれば、少なからず科学・学問的な反論の余地は無くなる。不安を反証することなどできるはずもないのだ。道徳の形式は、様々な問題を人格の問題として単純化することで、かかる問題の複合性を極度に単純化してしまう。道徳的な主題が選好され易いのは、無知に留まりながら学習を放棄できるためである。道徳家たちは、別の意見の持ち主たちを<肯定的>であると見做すことで、自らは良心的になったつもりになる。だがこの認識は、またしてもパラドックスを隠蔽した状態で成り立っている。他人を<肯定的>であると見做すなら、自身は<批判的>であるということになる。しかしこの道徳的な意見の背景には、<批判的>と<肯定的>の区別が、全く<無批判的>に導入されているのである。
マスメディア・システムは、この<批判的な意識>の<無批判的>な導入というパラドックスを脱パラドックス化するために、日夜世界中から悪いニュースを取り寄せている。それによってマスメディアは、全体社会に対する否定主義を貫く。そうした否定主義は、道徳のスキーマによって補完される。道徳のスキーマは、社会問題を「人間」の問題として単純化することで、社会問題の原因を特定の――というのはつまり、そのメディアにとって不都合な――「悪い誰か」に帰責させることを可能にする。新聞とテレビは、特定の「悪い誰か」の名前や写真、映像を示すのだ。
無論、社会システムの複合性とは、「誰かのせい」にすれば済む事態とは正反対の状態である。この複合的な全体社会の中には、マスメディアそれ自体も含まれている。だからマスメディアが単純化している社会問題の中には、マスメディアの問題も含まれているのだ。したがってマスメディアは、マスメディアそれ自体を単純化してしまう。例えばマスメディアは、マスメディアそれ自体の世論に対する影響力について、過大評価してしまう。だから、単なるオールドメディアとして相対化されてしまっているテレビ局や新聞社は、未だに世論を「扇動」できると自己誤認している。この自己誤認は自己言及であって、パラドックスを孕んでいる。つまり、マスメディアが世論を「扇動」しているというよりは、マスメディアがマスメディアを「扇動」するようにと「扇動」しているのである。
こうして観ると、左翼の政治的活動家たちからその<批判的な意識>を譲り受けた左派のマスメディアは、十分「人間」の面倒を見ていることになる。新聞社やテレビ局は、道徳のスキーマに準拠することで、学習を放棄したまま、変わることなく「人間」の面倒を見てくれるのである。<体制依存者たちの体制批判>、<批判的な意識>の<無批判的>な導入、そしてマスメディアそれ自体の自己誤認のように、数々のパラドックスが孕んでいようとも、道徳のスキーマは学習の放棄を可能にする。左翼の政治は、無知であり続けようとする如何なる個性も弱者として包摂するであろう。
派生問題:人権のインフレーション化
機能的分化社会の社会構造と「要求的な個性」の意味論が指し示しているのは、この近代社会では、個人による自己決定への要求が、常に増大し続けているということにある。そこではもはや、古典的で「リベラル」な手段は、役立たなくなっている。個人は確かに法律に従うことができる。だが、あらゆる法律を守ることができる個人は、およそ存在しないのかもしれない。生活するということが、個人の自己決定に準拠して生きるということを意味すべきであるとすれば、法律違反は生活必需品であるということになってしまう。
ここで問題となるのは、法の非知が不可避的に生じてしまうという点だけではない。脱税や闇労働などのような領域の存在こそが、法律に抵触せずには生きていけないことの証明なのである。これは、特に順調にキャリアを形成できている人格にとっては、無関係なのかもしれない。だがルーマンは、経済的なコミュニケーションの全てが法を貫徹するとすれば、経済システムの重要な領域は軒並み麻痺してしまうことになると推論している。また政治システムの官僚制が、法を貫徹するプログラムで実施されるとすれば、個人が自己自身に意味付与する可能性の多くが奪われることになる。闇労働や密輸が無ければ、多くの個人は失業者になり得る。<票の買収>が無ければ、選挙に参加する個人がいなくなるかもしれない。労働組合においては、法を遵守することがストライキのプログラムとして機能する。そうした組織においては、法律違反こそが唯一の有意味な労働行為である場合もあり得る。刑罰をより効果的にしようとすれば、それだけ刑務所の管理者たちの負担を増大させてしまう。警察すら、法を厳格に遵守しようとすれば、それだけ自身の個人としての活動を制約することになる。
確かに、全体社会の社会構造と関わる意味論は、個人主義を高く評価している。解放、自己実現、自己同一性などといった概念は、「排除的な個性」の包摂を謳う運動を促進している。しかし、法に従うことが徹底される場合には、こうした意味処理規則を保持することができなくなる。法を遵守することからは、個人にとっては破壊的な副作用が派生し兼ねない。尤もこれは、個人が社会の中で生き抜くためには、犯罪者にならざるを得ないということを意味しているのではない。しかしルーマンは、個人の水準においても、機能システムの水準においても、社会的に満足できる状態に到達するためには、法律違反が不可避になる場合もあるということを強調している。それは恰も、全体社会が、法を利用することで、自己自身に反論しているかのようである。
こうした問題に対する問題解決策として、「リベラル」な法理論は役に立たない。「権利(Rechte)」という法の形式を法の恣意性を回避するための手段として用いるだけでは、矯正の方法としては不十分である。たとえ法が権利者たちに自己の権利に向けられた権利侵害を甘受することを許可しているとしても、権利は問題解決策として不十分に留まる。権利としての法の機能を自由を確保するための道具として定義したところで、解釈の上では有用にならない。同様に、「人権」概念を参照して、自由を確保するための道具としてそれを定義したところで、事は何も変わらない。人権という概念は、運動家や活動家たちの認識に反して、個々人が自由自在に取り扱うことのできる概念ではないのである。したがって、人権を「主観的」な権利として把握することもできない。人権は、近代個人主義の派生物の一つではある。しかしその意味論は、必ずしも法に従え得ることを保証する意味処理規則なのではない。
周知のように、人権の理念は、旧いヨーロッパの自然法が崩壊する中での埋め合わせとして、社会契約とも関連しながら成立した。契約概念は、18世紀以降も尚、自然権のパラドックスを脱パラドックス化する形式として機能していたのである。だが契約による脱パラドックス化は、新たなパラドックスを引き起こす。契約の拘束力は、自己論理的に適用される。契約は、その契約それ自体を例外にすることが許されない。したがって契約によって保障される妥当性は、パラドックス化された形で根拠付けられている。と言うのも、契約が拘束力を有するという規則もまた、契約によって根拠付けられているためである。しかしながら、まさにこのパラドックス化された根拠付けによって、契約は自然法よりも優位に立つ。何故なら、契約の妥当性は、契約の中では自然権が放棄されているということに準拠しなければならないためである。
社会的な秩序の根拠付けという問題が社会契約説的に解決されるようになると、契約締結のために必要とされる個人に恰も遡及的に自然的な権利を付与することが可能になる。すると残る問題は、市民的状態の中で、この権利が取り得る形を規定することだけになる。自然状態という出発点から諸個人の権利が再記述されると、生得的な人権の理念の崩壊が促されることになった。それに伴い、人権に関連した伝統的な区別の意味論は崩壊することとなった。もはや伝統的な貴族社会のように、尊厳を持つ人間と持たない人間が区別されることも無くなった。理念の上では、あらゆる人間が、尊厳ある人間として包摂されることになったのである。
18世紀後半になると、歴史意識も相まって、こうした契約的な構成は批判されるようになった。そしてその問題に対する解決策として、国家に先立ち存在している個人の権利を憲法のようにテクスト化することで、実定法に導入すれば良いのだと信じられるようになった。しかしこの問題解決策も、直ぐに機能不全に陥るか、あるいは良くて形骸と化した。何故ならこの策は、権利という超実定法的な概念を実定法として妥当させるというパラドックスを孕んでいたためである。確かに憲法をはじめとした権利に関するテクストは、テクストに即した解釈を実践するための基礎を構築している。しかしながら、テクストに即した妥当性という法的な装置の総体を世界社会の法システムの水準へと昇華させるのは困難である。それは不十分にしか成し得ない。それは精々、国際法や条約に基づく法に留まる。それ故に国家には、その領域内において、人権を尊重する政治的な責任を有することとなる。権利は、国家が権利としての法を設定してそれを貫徹すべきであるという要求として顕在化し続けることとなる。
しかし政治システムの自己記述としての国家は、与党と野党の二値コードによって、合法と違法の二値コードを棄却してしまう。そして政治システムは、あくまでも政治システムの社会構造との関連から、権利の意味論を再記述してしまう。第二次世界大戦後の福祉国家は、まさに人権という概念を際限無く拡張することとなった。既に述べたように、福祉国家とは危機的状況にある国家である。しかしそれは必ずしも絶望的な状況を問題視している訳ではない。と言うのも、福祉国家においては、弱者を擁護して保護する立場を表明することによって、自身の政治的な優位性を獲得すると共に、国家に政権交代のような変異をもたらすと期待できる国家でもあるためだ。もう少しアイロニカルに言い換えるなら、福祉国家とは、自らの権力を維持または増強しようとする者たちが、国家の危機的状況を願う国家である。したがって福祉国家は、弱者が受ける人権侵害という問題設定の下に、人権概念を拡張することとなる。とりわけ福祉国家における人権概念は、<給付を受け取る権利>も意味するようになる。それ以外にも、物質的な欲求、精神的な欲求、人格の発達、自己実現などのような目標を達成することが、すなわち人権を守ることとして記述されるようになる。こうして人権概念は、言うなれば「人間」の欲望を糧として、際限無く膨張していく。人権の意味論はインフレーション状態に陥り、イデオロギー化する危険を持ち合わせることとなる。
こうした問題設定を単なる実定法の盲点として記述する訳にはいかない。個々人の<法文化>の間に存在している規範と解釈の差異を記述する程度では、問題の解決には至らないであろう。それ故にルーマンは、観点を切り替えて、法律違反が構造的に生じてくるという事態を注視している。それは、法システムの社会構造が合法と違法の二値コードによって構成されていることからも、よくわかる。法システムが作動するからこそ、法律違反が生じるのである。近代社会においては、この法律違反こそが、様々な社会関係の指標として機能するのである。例えば、福祉国家における左翼の政治的活動家の問題を分析する場合、当の活動家たちがどのような犯罪と関連してきたのかを分析するのは、実り多き発見を促すであろう。
問題をこのような観点から設定する場合、人権概念のインフレーション化も遮断することが可能になる。国家によって企てられた拉致問題や国家によって承認された違法な逮捕や処刑は、人権侵害の典型的な事例である。こうした国家による人権侵害を目にすれば、今や法治国家が法治国家として機能しているという保証の方が、人権の承認の機能的等価物となっていることがわかるであろう。逆に言えば、法治国家として機能している国家においては、人権の承認が冗長的な問題解決策となる。国家が法治国家として機能せず、法治国家的な手段によって人権侵害を排除する能力や意思を持たない場合に限り、初めて人権侵害が生じるという訳だ。
だがこの策も、人権を口癖のように語る者たちを一時的に黙らせるだけで、不十分に留まるであろう。実定法は人権を擁護するために用いられることもあれば、人権侵害を擁護するために用いられることもある。実定法の名の下で、国際法に違反した誘拐を敢行することも不可能ではあるまい。しかし一方で、上述したように、権利を主観的な権利として主張することもまた不十分に留まる。そうした認識からは、権利の妥当性を主張するか否かは個人に委ねられるということになる。ところが政治的な決定連鎖の過程では、そうした決定を自由に下すことがそもそも不可能である。
誰もが何らかの法を犯している可能性があるにも拘わらず、グレーゾーンですらない明確な違反として語り得るのは、「人間」の尊厳と関連した違反についてのみである。自由と平等への権利が人権の名において制限されるのは、異常なことではない。むしろそれは不可欠であると見做される。だからこそ国家の法秩序には、大きな裁量を認めざるを得ないのである。ルーマンは、ここで根本的な問題となっているのが、理念や価値のような規範の統一性ではないという。むしろ問題となるのは、自由と制限の区別や平等と不平等の区別によって生じるパラドックスなのである。このパラドックスは、個々の法秩序の中で、多種多様な形式で脱パラドックス化され得る。
この多種多様な脱パラドックス化は、確かに尊厳ある「人間」たちの包摂へと結実する可能性がある。だがその一方でこの包摂には、一つの共通点が見受けられる。それは、役割の非対称性が逆転不可能な状態のまま包摂が進行するという点である。それは特に、人権が役割帰属の要因として使用される場合と関わる。経済における生産者と消費者の区別、法における裁判官との関係における原告と被告の区別、教育における教師と生徒の区別、医療における医者と患者の区別などのように、近代社会における役割の非対称性は、機能システムの内部でのみ受容可能になっている。
ルーマンは、この役割の非対称性が一般的に普及することで、構造的に不利益を被る者たちが現れているという。この不利益は、様々な機能システムを横断する形で貫徹されているというのだ。一つの機能システムからの排除が他の機能システムからの排除を誘発するかのように、一つの機能システムにおける役割の非対称性が、他の機能システムにおける役割の非対称性をも誘発してしまうのである。それはまるで、人権の名の下で社会に包摂された人格が、社会の内部で社会から排除されているかのようにである。そうなると、人権を旗印とした「被害者ビジネス」は、包摂と排除の区別を包摂の側に「再導入(re-entry)」する営みであるということになる。そうした人権侵害に対する<弱者の救済>が可能にしているのは、包摂と排除のパラドックスを、<排除的な包摂>と<包摂的な排除>というパラドックスへと変換することだけである。
上述した「排除的な個性」から「要求的な個性」への意味論的な変遷が言い表しているのは、近代社会を生きる人間は、社会から排除されることによって自由を獲得したということである。そして、元来排除されている人間が「要求的な個性」として社会を探索することで、社会から包摂される機会が偶発的に生み出されるのである。この個性に関する観点から観るなら、インフレーション化している人権概念を旗印として社会に包摂された人格は、非対称化した役割へと組み込まれることで、むしろ「排除的な個性」としての自由を喪失させることとなるであろう。そうして喪われる自由の中には、自らに不利益をもたらす非対称化した役割から脱却する自由も含まれている。
そうなると個人は、自身の自由のために、自身を社会から排除することを、社会に要求せざるを得なくなる。そしてその要求を達成するには、逸脱の可能性を探索しなければならない。ここでいう逸脱とは、社会構造からの逸脱に他ならない。逸脱の諸条件を探索するということは、社会進化の可能性の諸条件を探索することに等しい。
問題再設定:歴史的な概念としての「人工知能」
歴史的な概念としての「人工知能(Artificial Intelligence)」の記述から始まった我々の文脈では、この関連から「人間」と「人工知能」の区別が、社会進化を方向付ける重要な意味論の候補として浮上してくる。特に「人間」を模倣し、「人間」との機能的代替可能性を担保する「人工知能」は、「人間」をあくまでも主題としている包摂と排除の区別を棄却する可能性を高めることになる。包摂と排除の区別はあくまでも「人間」の個人についての区別に留まるためである。
「人工知能によって人間の職が奪われる」という想定は、この意味ではあまりにも楽観的であろう。と言うのも、もし「人工知能」と「人間」の区別によって包摂と排除の区別が棄却されるのならば、全体社会はメタ水準の二値コードを喪失させることになるためである。潜在的にこの「人工知能」と「人間」の区別というのは、全体社会の社会構造に変異をもたらす可能性が高い。そうなると、元々排除されていた人間が排除されたままに残存するのか、あるいは進化した社会構造によって包摂されることになるのかは、未規定に留まる。
尤も、社会構造により破局的な変異をもたらし得るのは、単に「人間」を模倣するだけの「人工知能」であるとは考え難い。むしろミシェル・ニールセンが定義した意味での「データ駆動型知能(data-driven intelligence)」としての「人工知能」の方が、社会構造からの逸脱の可能性の諸条件を探索する上では、有利に立つことができる。何故なら「データ駆動型知能」は、「意味を発見する(finding meaning)」という問題設定において、「人間」の知能を補完するためである。それは、「人間」によって可能になる意味処理規則とは別のあり方でもあり得る、コンピュータを用いた発見探索によって可能になる。そうした人工知能は、「人間」の知能では発見し得なかった意味の発見を可能にする。その点で言えば、この「データ駆動型知能」としての「人工知能」は、「人間」の知能を補完すると共に、「人間」の「盲点(Blinder Fleck)」を突き付ける存在になり得る。
参考文献
- Bolz, N. (1997). Die Sinngesellschaft. Econ.
- Foerster, H. V. (1989). » Wahrnehmung wahrnehmen «in: Ars Elektronica (Hg.): Philosophien der neuen Technologie.
- Habermas, Jurgen. (1962) Strukturwandel der Offentlichkeit, Luchterhand.
- Habermas, Jurgen. (1970) “Towards a Theory of Communicative Competence,” Inquiry, pp360-375.
- Habermas, Jurgen. (1973) Erkenntnis und Interesse, Frankfurt a.M.
- Habermas, Jurgen. (1981) Theorie des kommunikativen Handelns(TkH) Ⅰ,Ⅱ, Suhramp.
- Habermas, Jurgen. (1985) Der philosophische Diskurs der Moderne, Frankfurt aM: Suhrkamp.
- Heider, Fritz. (1959) “Thing and Medium,” In On Perception, Event Structure, and Psychological Environment: Selected Papers, New York: InternationalUniversity Press, pp1-34.
- Luhmann, Niklas. (1968) Vertrauen. Ein Mechanismus der Reduktion sozialer Komplexität, Stuttgart.
- Luhmann, Niklas. (1972) Rechtssoziologie, 2 Bde. Reinbek bei Hamburg: Rowohlt.
- Luhmann, Niklas. (1975) Macht, Stuttgart.
- Luhmann, Niklas. (1977) Funktion der Religion, Suhrkamp.
- Luhmann, Niklas. (1981) “Erleben und Handeln.” Soziologische Aufklarung 3. VS Verlag fur Sozialwissenschaften, pp67-80.
- Luhmann, Niklas. (1982) Liebe als Passion: Zur Codierung von Intimität, Suhrkamp. (英語版:Love as passion: the codification of intimacy, Harvard University Press, 1986.)
- Luhmann, Niklas., Schorr, Karl Eberhard. (1982) “Das Technologiedefizit der Erziehung und die Pädagogik,” In dies. (Hrsg.), Zwischen Technologie und Selbstreferenz: Fragen an die Pädagogik, Frankfurt, S.11-40.
- Luhmann, Niklas. (1984) Ökologische Kommunikation, Wiesbaden: Westdeutscher Verlag.
- Luhmann, Niklas. (1984) Soziale Systeme, Frankfurt am Main : Suhrkamp.
- Luhmann, Niklas. (1987) “Strukturelle Defizite. Bemerkungen zur systemtheoretischen Analyse des Erziehungswesens,” In: Oelkers, J., Tenorth, H. E. (Hrsg.): Pädagogik, Erziehungswissenschaft und Systemtheorie, Weinheim, S.57-75.
- Luhmann, Niklas. (1988) Die Wirtschaft der Gesellschaft, Frankfurt am Main, Suhrkamp.
- Luhmann, Niklas. (1988) The third question: the creative use of paradoxes in law and legal history. Journal of Law and Society, 15(2), 153-165.
- Luhmann, Niklas. (1989) Individuum, individualität, individualismus. Gesellschaftsstruktur und Semantik, 3, 149-258.
- Luhmann, Niklas. (1990) Die Wissenschaft der Gesellschaft, Frankfurt am Main, Suhrkamp.
- Luhmann, Niklas. (1990) Essays on self-reference, New York : Columbia University Press.
- Luhmann, Niklas. (1992) “Kommunikation mit Zettelkästen: Ein Erfahrungsbericht”. In Kieserling, Andre. ed, Universitat als Milieu. Bielefeld: Haux Verlag, S.53-61.
- Luhmann, Niklas. (1993) Das Recht der Gesellschaf, Suhrkamp Verlag, Frankfurt.
- Luhmann, Niklas. (1995) Die Kunst der Gesellschaft, Suhrkamp Verlag, Frankfurt.
- Luhmann, Niklas. (1995b) Soziologische Aufklarung 6: Die Soziologie und der ¨ Mensch. Opladen: Westdeutscher Verlag.
- Luhmann, Niklas. (1997) Die Gesellschaft der Gesellschaft, Frankfurt/M, Suhrkamp.
- Luhmann, Niklas. (1997) “Globalization or World Society?: How to conceive of modern society,” International Review of Sociology March 1997, Vol. 7 Issue 1, pp67-79.
- Luhmann, Niklas., Schorr, Karl Eberhard. (1999) Reflexionsprobleme im Erziehungssystem, Suhrkamp.
- Luhmann, Niklas. (2000) Die Politik der Gesellschaft, Suhrkamp.
- Luhmann, Niklas. (2000) Die Religion der Gesellschaft, Suhrkamp.
- Luhmann, Niklas. (2000) “Familiarity, Confidence, Trust: Problems and Alternatives”, In Gambetta, Diego. ed, Trust: Making and peaking Cooperative Relations, electronic edition, Department of Sociology, University of Oxford, chapter 6, pp. 94-107.
- Luhmann, Niklas. (2002) Das Erziehungssystem der Gesellschaft, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main.
- Luhmann, Niklas. (2004) Die Realität der Massenmedien, VS Verlag.
- Nielsen, M. (2012). Reinventing discovery: the new era of networked science. Princeton University Press.
- Parsons, Talcott. (1951) The social system, Free Press.
- Parsons, Talcott. (1964) Social structure and personality, Free Press of Glencoe.