Webクローラ型人工知能によるパラドックス探索暴露機能の社会進化論

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派生問題:メタデータの「意味」の「理解」は如何にして可能になるのか

セマンティック・ウェブやオントロジーで参照されるメタデータは、自己言及のパラドックスを派生させる。こうしたメタデータ概念のパラドックスに対処しようとしてきたのは、ルーマンの社会システム理論だけではない。パラドックスを処理しようとする理論は、ルーマン以前にも何度か提出されてきた。ここでは機能的等価物の一例として、バートランド・ラッセルの階型理論、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論、クルト・ゲーデルの不完全性定理、そしてハインツ・フォン・フェルスターのセカンドオーダー・サイバネティクスを取り上げる。

問題解決策:ラッセルの階型理論

ラッセルは、自己言及禁止を主張したことで有名な論理学者だ。彼の階型理論(Theory of Types)によれば、集合集合自身を含むといった自己言及が禁じられている。言語との関連で言えば、正しく秩序付けられた表現は、<言語>と<言語が指し示す対象>とを異なる階型で整理することでしか成り立たない。階型理論は<メタ言語>と<対象言語>の区別を導入する。このことによって、この理論言語自己言及すらも許そうとしないのである。

階型理論は、全ての集合をAの集合とBの集合区別するところから始まる。集合Aは、集合それ自体を要素として含む集合である。集合Bは、集合それ自体を要素として含まない集合である。集合Aと集合Bは相互に排除し合う関係にある。この二つの区別は排中律を呼び起こしている。故にあらゆる集合は、必ずAかBのいずれかに属することになる。

集合の排中律

しかしだとすると、集合Aそれ自体と集合Bそれ自体もまた、必ずいずれかの集合に属することになる。だがこの規定がパラドックスを呼び起こしてしまう。仮に集合Bが集合Aに含まれていると想定しよう。だが集合Aは、集合それ自体を要素として含む集合である。集合Bが集合Aに含まれているとするならば、集合Bもまた集合それ自体を要素として含む集合だということになる。だが定義上、集合Bは集合それ自体を要素として含む集合ではない。逆である。これでは集合Aの定義と矛盾してしまう。

排中律を前提とすれば、集合Bは、集合Aに含まれないために、集合Bに含まれると想定せざるを得なくなる。ところがこの仮定も矛盾を派生させてしまう。集合Bが集合Bに含まれているとすれば、集合それ自体を要素として含まない集合であるという集合Bの定義と矛盾してしまう。したがって集合Bは、集合Aに含まれている訳でもなければ、集合Bに含まれている訳でもない。だとすれば第三の集合に含まれているということになろう。しかしそのように想定した瞬間に、度は排中律の原則と矛盾することになる。

集合の階層構造化による脱パラドックス化

これは矛盾の循環によるパラドックスである。ラッセルはこのパラドックスを回避するために、集合を再定義した。それによれば、集合とは、その集合が含む諸要素よりも一段階高次の論理的な型を持つ概念である。この定義に倣えば、集合に属することが可能なのは、集合自身よりも低い型である諸要素のみに限られる。集合は、集合それ自体を含むことができない。

ラッセルは、この定義を振りかざすことによって、集合集合自身を含むか否かという問題は、無意味な問いになると主張した。言わばラッセルは、自己言及のパラドックスに関する考察をタブー化したのである。しかし、階型理論内在して考えてみても、ある集合が別の集合の要素になり得ることは直ぐにわかる。この場合、ある集合Aを含むことができる集合Bは、集合Aよりも一段階高次の集合だということになる。つまりラッセルにとって、個々の集合は「階層構造(Hierarchie)」として関連付いているのである。

盲点としての「世界」

しかし、世界という集合を想定した場合、この階型理論は通用しなくなる。何故なら、世界よりも一段階高次の集合など無いからだ。我々観察者は既に世界の内部に位置している。仮に世界よりも一段階高次の集合を世界の外部に設けたとしても、その時点で世界は変動する。それにより、その集合もまた世界の一部になる。世界という諸要素を内包する高次の集合も世界なのだから、世界という集合が世界という諸要素を内包する場合、それは自己言及となる。世界における個々の諸要素の諸関係は、階層性で片付けられるほど単純ではない。しかしながら、世界の自己言及はパラドクシカルに実行される。つまり世界は、世界と非世界の差異を確保する上で、無限後退パラドックスを派生させてしまうのだ。

このように、世界の現実は既にパラドクシカルである。世界は既に自己言及的でもある。ラッセルの階型理論は、パラドックスを隠蔽する技術としては上等だ。だが世界を前提とする限り、自己言及をタブー化することはできない。我々はむしろルーマンのように、自己言及に身を委ねながらパラドックスを隠蔽する技術を容認しなければならない。つまり自己言及的な脱パラドックス化が如何にして可能になるのかを熟考していかなければならないのだ。

問題解決策:ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム理論

この論点は、ヴィトゲンシュタインの批判と間接的に関わっている。ヴィトゲンシュタインによれば、自己言及的な集合に伴うパラドックスは、厳密にはパラドックスではないという。と言うのも、集合Bとこの集合に含まれている<集合B>は、厳密には異なるからだ。集合Bの意味は、AやCなどの集合との関連から規定されている。一方、要素としての<集合B>の意味は、集合Bの内部における他の諸要素との関連から規定されている。要するに、集合Bと<集合B>は、背景となる文脈が異なるが故に、その意味にも差異が生じるのである。

写像理論

ラッセルに師事していた前期ヴィトゲンシュタインは、「語り得ぬことについては沈黙するしかない」と主張することで、それまでの哲学の諸問題を終了させたと確信していた。それまでの哲学は、存在や人生観などについて論じていた。だがそうした問いには答えが無い。数学的・論理的に考えて解を導けない命題は、端的に偽の命題だ。ヴィトゲンシュタイン以前の哲学は、問題設定の段階で既に過ちを犯していたということになる。

それ故、伝統的な哲学を批判しようとしたヴィトゲンシュタインは、問いや命題や解を記述する言語の限界を指し示すことによって、それまでの哲学の過ちを指摘した。存在や人生観などのような問題を設定した場合に、その解が導かれないのは、言語でこうした命題を操作することができないからである。もとより超越的だ。内在の世界に住まう被造物たる我々の言語では、何のが、如何にして存在しているのかを描写することができない。とは言語では説明できない何者かだ。言語を用いている限り、それは人間には「語り得ぬこと」になる。

語り得ぬこと

こうしてヴィトゲンシュタインは、語り得ることの限界を提示することによって、伝統的な哲学の過ちを指摘した。哲学が為すべきことは、語り得ぬことを無闇に探究することではなく、「語るべき範囲」を限定することだと彼は考えた。この結論によって、前期ヴィトゲンシュタインは、哲学の諸問題を完結させたと確信したのである。その後彼は哲学界から離れ、小学校の教師になった。しかしウィーンでオランダの数学者ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブラウワーの講演に出席したのがきっかけとなり、彼は再び哲学界に復帰することになった。

後期ヴィトゲンシュタインは、前期から派生した課題を発見し、その解決へと挑戦した。少なからず『論理哲学論考』における前期の視点に基づけば、世界とは「生起していることの全体」である。この世界の全体は、成立可能であった諸々の事象の部分集合だ。これに対応する形で、言語もまた真なるものとして成立可能であった諸命題の部分集合となる。つまり世界の事象の部分集合言語の命題の部分集合が、一対一とは言わないまでも、対応しているというのが、前期ヴィトゲンシュタインの世界観であった。

いくつかの事象が複合化することによって、世界により複雑な出来事が生起する。これに対応して、複数の「要素命題(elementarsatz)」を結び合わせることによって、複合的な命題が成立する。複合された命題の真偽は、各諸要素命題の真偽によって決定される。真なる諸要素命題から構成されていれば、それだけ複合された命題も真となり得る。もとより一連の命題が事象を指し示し、言及し、描写することができているのは、命題と事象が「写像(mapping)」の形式を共有しているためである。言い換えれば、事象も命題も同じ「論理の図式」で把握することが可能だからだ。我々は、複合された真なる命題を更に複合化させることによって、世界を語ることができるようになる。真ではなく、偽となる命題では、世界を語ることはできない。そこにあるのは沈黙のみだ。

「主体」のパラドックス

しかしながら後期ヴィトゲンシュタインは、この写像形式の射程に疑問を抱くようになった。前期の視点によれば、世界は「事実(Sachverhalt)」に分解できる。事実はまた「物(Ding)」や「対象(Gegenstand)」に分解されていく。これに対応する形で、言語もまた命題に分解される。そして命題は、また「意味(Sinn)」に分解されていく。

しかし、世界と言語が完全に同一の形式で成立しているとすれば、言語で世界の全体を語る「主体」が存在していることになる。その「主体」は、言語を利用することで、語り得ることの全てを語り得るということになる。これはトートロジーに思えるかもしれない。だが注意が必要だ。と言うのも、世界を語る「主体」は、世界の部分となる他の人間をも語り得てしまうからだ。それは、「主体」が自分以外のあらゆる人間を事実や物として取り扱うということである。

この論調には、何処か独我論的な響きがある。しかし独我論的であるという問題は、比較的有害ではない。この世界を語る「主体」が陥る自己言及のパラドックスに比べれば、独我論的な響きもまだ可愛げがあるというものだ。実際この世界を語る「主体」は、自己に言及することが可能である。この「主体」がこの「主体」について語る時、この「主体」はこの「主体」自身を事実や物に分解していることになる。分解された世界の部分に、世界の全体を語ることなどできない。故に自己言及を敢行した「主体」は、もはや世界を言語で語り得る存在ではなくなる。

言語ゲーム

したがって、前期の思想は哲学的な課題を派生させていたことになる。まだ哲学は終わっていなかった。そこで後期ヴィトゲンシュタインは、「言語ゲーム(Sprachspiel)」の理論に取り組むことによって、前期の課題に挑戦しようとしたのだ。だが彼はこの鍵となる概念である言語ゲームを消極的にしか定義しなかった。それは理由の無いことではない。言語ゲーム理論言語についての理論的な説明ではなく、言語的なコミュニケーションを説明するための比喩である。抽象的に言えば、言語ゲーム人間の振る舞い一般だ。言語ゲームを対象世界の中に見出そうとしても無駄である。言語ゲームは、我々各人の生き方に関係している。そのためヴィトゲンシュタインは、言語ゲームを通じて現に我々が生活しているこの日常を「生活形式(Lebensform)」と名付けている。言語ゲームの最終的な根拠となるのは、我々の日常的な振る舞いや慣習である。言語ゲームを秩序付けているのは、習慣、制度、規範なのである。

後期ヴィトゲンシュタインにとって、言語意味は世界に言及することで与えられるのではない。言語意味は、言語を行使する際の文法から与えられる。文法が前提とする文脈が、言語意味を規定する。ここでいう言語と文法の関係は、ゲームゲームの規則の関係に類似している。したがって言語ゲーム理論は、一つの命題が一つの事実に対応しているという想定を却下する。言葉意味は、それが「使用(Gebrauch)」されることによって決まるのだ。ゲームの規則は状況次第で常に更新される可能性がある。これと同じように、言語意味は、社会的な文脈に応じて変異するのである。

写像理論と言語ゲーム理論の差異

この言語ゲーム理論は、少なからず前期の写像理論のようには、自己言及のパラドックスに翻弄されることは無かった。と言うのも、彼の理論によれば、全ての言語表現に適用できる命題の一般形式などあり得ないからだ。言語ゲームにおいては、世界の全体を語り得る「主体」など存在しない。この想定の下で彼は、コミュニケーションを理解するための理論として、言語ゲームを考案したのである。

尤も、この言語ゲーム理論を積極的に応用すれば、写像理論が陥った自己言及のパラドックス理論内在的に解消することもできるだろう。この自己言及のパラドックスは、厳密にはパラドックスではないとさえ言える。「主体」が「主体」自身に言及する場合の、言及する「主体」と言及される<「主体」>を区別すれば良いのだ。言及する「主体」の意味は、言及する以前から続いていた社会的な文脈の過程から決定される。だがこれに対して言及される「主体」の意味は、「主体」が<「主体」>に言及するという文脈が形成されて初めて成り立つ。故に言及する「主体」と言及される<「主体」>は異なる意味を持つことになる。

そもそも言語ゲーム理論は、「主体」と「客体」の区別を脅かす理論でもある。主体は、もはや発話した言語の後ろで構えているのではない。言語の営みの内部や中間で漸くその居場所を保つことができるのが、主体なのである。言語ゲームは、主体と客体に先行している。言語ゲームが成立していない限り、主体は自己を同一化することもできないだろう。と言うのも、主体における自己の意味を決めるのは、言語ゲームの文脈だからである。

言語ゲーム理論の家族的類似性

しかし言語ゲーム理論は、別の形でパラドックスを派生させている。それは言語ゲームと非言語ゲーム差異に関わるパラドックスだ。ヴィトゲンシュタインはあらゆる言語に共通する何かを積極的に提示しようとはしなかった。その代わりに彼は、諸々の言語が互いに別様の形式で血縁関係にあるという。その血縁関係は、一つとは限らない。ヴィトゲンシュタインはそうした互いに異なる全ての事象を言語と呼ぶのである。

我々が観ているのは、全ての言語が持ち得る共通性ではなく、多くの様々な類似性に他ならない。大きな類似性から小さな類似性までを含めて、諸々の言語は互いに重なり合っていく。我々が観ているのは、そうした諸言語の交差から構成された複合的なウェブ上の組織体系なのである。ヴィトゲンシュタインはこの類似性に積極的な定義を与えた。彼はこれを「家族的類似性(Familienähnlichkeit)」と呼ぶ。と言うのも、体格、表情、歩き方、気質などのように、家族の構成員の間に成り立つ類似性もまた、大なり小なり、様々に成立しているからである。それ故にヴィトゲンシュタインは、ゲームもまた一つの家族を構成していると喝破する。言語ゲームとは家族的類似性の所産であるという訳だ。

しかしこの家族的類似性という概念は、言語ゲーム理論パラドックスをもたらしている。と言うのも、この家族的類似性という概念もまた、使用されることで漸くその意味が規定される言語に他ならないからだ。家族的類似性意味は、この言語が使用される文脈次第で別のあり方でもあり得るだろう。無論、家族的類似性を巡る言語ゲームもまた、家族的類似性によって特徴付けられると言える。だがこれでは堂々巡りだ。後期ヴィトゲンシュタインは、家族的類似性を巡る言語ゲーム特徴付ける<家族的類似性を巡る言語ゲーム>にまで遡及しなければならなくなる。つまりは無限後退パラドックスが派生するのである。

言語ゲームの言語ゲーム

ヴィトゲンシュタインも気付いていたように、ゲームとは何かについて、他人に精確に説明することはできない。だが彼自身は、このことが無知によるものではないと主張している。ゲームとは何かを説明したければ、ゲームとは何でないのかを十分に説明しなければならない。ルーマンが我々に教えてくれるように、我々はゲームと非ゲーム差異を考慮しなければならない。それはゲームと非ゲームの中間に境界を設定するということだ。しかしヴィトゲンシュタインは、我々が境界を知らないのは、境界線など引かれていないからだと言う。彼は、概念は境界線が引かれて初めて使用可能になるという意見に断固として反対している。

しかし我々には、このヴィトゲンシュタインの頑固な意見に賛成することができない。もとより、区別することを否定するというのは、できない相談だ。区別否定することができるのは、既に<区別の肯定>と<区別否定>が区別されているためである。我々は、<区別の肯定>を潜在的な可能性として保留にしておくことでしか、<区別否定>を顕在的な現実として提示することができないのである。

問題解決策:ゲーデルの不完全性定理

古典的な論理学では、「構文論(syntactics)」と「意味論(semantics)」の区別が導入されていた。伝統的に意味論が論理式の記号が指し示す命題が何を意味するのかを主題とする一方で、構文論はその記号が如何に配列されているのかを主題としてきた。この論理式に対しては、「命題論理(Propositional logic)」と「述語論理(Predicate logic)」の区別が導入されてきた。古典的言語学は、この二つの区別によって4つに整理されている。

この古典的な論理学を前提とした数学は、とりわけ形式主義の「ヒルベルト・プログラム(Hilbert’s Program)」に象徴されるように、恒真となる命題はいずれ証明され得るという単純な想定に基づいていた。だが「ゲーデル・ショック(Gödel’s shock)」以来、この想定は根底から覆された。や論理学と数学は、決定不可能命題を不可避的に抱え込むことになっている。この事態は、人工知能工学的な研究開発においても無関係ではない。

命題論理と述語論理の差異

論理的な言語は、推論形式化させる上で機能する。この機能によって、命題論理学は与えられた自然言語の整合性を判断することができる。例えば「and」、「or」、「if」、「then」のようなブール演算子は、真理条件を形式的に言及する論理的な表現を論理形式として整理することを可能にしている。こうした論理命題において、接続詞は言語構造表現する形式となる。それ故接続詞が含まれた文書を命題記号とブール演算子で再記述すれば、様々な論理式を記述できるようになる。

命題論理学的な推論は、論証の仮定から論証の帰結へと至る過程を言い表す。しばしばこの過程は前提と結論の区別を導入することで表現される。仮定された前提が全て真であるのならば、その帰結となる結論の論証もまた妥当(valid)となる。

しかし、命題論理学によって表現された原子命題は、主語と述語の区別を十分に導入できないばかりか、むしろ積極的に捨象してしまう。つまり命題論理学に準拠してしまっては、原子命題に位置付けられた論理構造の内部を追究することが困難になるのである。

計算意味論の観点から観れば、自然言語を一階述語論理に変換することは計算資源上有用となる。一階述語論理学は命題論理学のブール演算子を引き継いだ上で、主語と述語の区別を導入している。ここにおいて命題は、自然言語の独立変数や独立定数に対応した「項」と、その可能な引数を取る述語に区別される。例えば「Chimera walks.」であれば、「walk(Chimera)」と表現できる。「Chimera sees human beings.」であれば、「see(Chimera, human beings)」と表現できる。この場合、「walk」は単項述語で、「see」は二項述語と呼ぶ。

こうした項と述語の形式は、原子命題の真偽の差異から独立して、引数次第で機能的に様々な意味表現することが可能だ。しかしながら、一階述語論理それ自体は各単語の意味を分析するための語彙意味論的な機構を有している訳ではない。また、そもそも全ての自然言語が一階述語論理によって表現できる訳でもない。

構文論と意味論の差異

構文論意味論差異は、常にその<境界>への疑念を呼び起こしていた。例えば先述したラッセルの階型理論は、構文論上のパラドックス意味論上のパラドックスを同一視した上で、双方のパラドックスを解消しようとしていた。前期ヴィトゲンシュタインはラッセルのこの姿勢を『論理哲学論考』で痛烈に批判していた。一方、クルト・ゲーデルの『論理学における述語計算の公理の完全性』は、一階述語論理の恒真命題が一階述語論理体系内部で証明可能であることを指し示すと共に、意味論的な真が構文論的な証明可能性と等価であることを示した。このいわゆる「完全性定理(Vollständigkeitssatz; Completeness theorem)」が物語るのは、公理系と推論証明可能な論理式は恒真であって、ヴィトゲンシュタイン風に言えば「トートロジー(Tautologie)」であるということだ。

一方ゲーデルの「不完全性定理(Unvollständigkeitssatz; Incompleteness theorem)」は、ラッセルの階型理論を応用することで、形式的体系が「完全性」を証明できないことを示した。不完全性定理には第一の不完全定理と第二の不完全定理がある。第一不完全性定理自然数の公理系を含めた無矛盾な公理系に言及しているのに対して、第二不完全定理は形式的体系の全体に言及している。

この不完全性定理からは、意味論的な解釈と構文論的な解釈を導出できる。意味論的に言えば、形式的な体系が無矛盾である場合、その体系内部の論理式が真であっても、その論理式は当の体系の中で証明することができない。一方構文論的に言えば、形式的体系が無矛盾であれば、当該体系内部の式Gに関して、Gも¬Gも、その体系内部では証明できない。意味論的な解釈においては真偽の区別主題になるのに対して、構文論的な解釈においては形式的体系の無矛盾性と完全性主題となる。ある無矛盾形式的体系には、それ自体が証明も反証もできない命題が存在する。形式的体系が自身をそれ自体によって証明することは不可能となる。

構文論的完全性と意味論的完全性の差異

この完全性定理不完全性定理区別を導入した場合、注意しなければならないのは、双方における「完全性」が全く異なる概念として導入されているということだ。我々はまず意味論的な「完全性」と構文論的な「完全性」の差異に気付かなくてはならない。意味論的な完全性は、形式的体系のモデルにおける真なる命題に対する論理式は証明可能であることを意味する。一方構文論的な完全性は、形式的体系で表現できる任意の論理式の肯定または否定証明可能であるということを意味する。意味論的な完全性が真偽の区別を直接的な主題とするのに対して、構文論的な完全性はこの区別を間接的にしか取り扱わない。

健全性と完全性の差異

更に我々は、この二つの完全性概念を「健全性(Fundiertheit; Soundness)」概念から区別しなければならない。ここでいう健全性は、意味論的な完全性の逆を成す。つまり、証明可能な論理式に対するモデルにおける命題は真となるということだ。この健全性概念は、意味論的な完全性概念との関連から理解されなければならない。完全性定理は、一階述語論理形式的体系があらゆる真なる論理式の証明に補足的な推論規則を要求しないという意味から完全である一方で、形式的体系における真なる論理式のみが証明可能であるということを意味している。したがって、論理式が論理的に妥当であるということと、このことが形式的な演繹の帰結であることとは、論理的に等価になる。

このようにゲーデルの多義的で錯綜している諸概念を注意深く分類していくなら、完全性定理不完全性定理主題を異にしているが故に矛盾していないことがわかる。完全性定理物語っているのは、第一述語論理では健全性意味論的な完全性が成り立つということだ。これに対して、第一不完全性定理自然数の公理系を含めた無矛盾な公理系に関する構文論的な完全性否定意味している。数学的論理に必要な形式的体系の全てを記述し尽すことは不可能であるということを、この第一の不完全性定理指し示している。そして第二の不完全性定理では、如何なる形式的体系であれ、その体系それ自体が矛盾していないことを証明することは不可能であるということが指し示されている。当の形式的体系の無矛盾性を証明するには、「メタ論理」として、その形式的体系の上位概念となる別様の形式的体系が必要になる。

決定不可能命題の決定不可能命題

数学的に言えば、構文論的な不完全性は、「数論(number theory)」における無矛盾な公理系が「決定不可能命題(undecidable propositions)」を必ず含んでしまうことを示唆する。ある論理式が決定不可能であるというのは、その論理式自身もその否定証明不可能であるということだ。そしてこの不完全性定理は、数論による数論自己言及的な証明となっている。だが通常、数論は整数を主題としている。つまり、数論主題数論それ自体ではない。だからゲーデルは、「ゲーデル数(Gödel number)」という新概念を導入することから整数の命題を整数でコード化することによって、数論数論主題にするという自己言及を可能にした。

自己言及性を背景とした決定不可能命題は、それ自体が「自己論理的(autologisch)」に適用される。すなわち、構文論的な不完全性を前にすれば、形式的体系に決定不可能命題内在しているか否かもまた決定不可能なのだ。こうして決定不可能命題決定不可能命題が成り立つか否かも、無論それ自体決定不可能であろう。行き着く先にあるのは、恒真の命題がいずれは証明され得るという保証は何処にも無いという冷徹な現実だ。この現実を象徴しているのは、自己言及のパラドックスに他ならない。

問題解決策:フォン・フェルスターのセカンドオーダー・サイバネティクス

かくして我々は、ゲーデル・ショックに打ちのめされた後の近代社会を生きることになった。しかしながらルーマンも注意深く検討しているように、自己言及的なシステムがそれ自体パラドックスであるという訳ではない。何かを「パラドックス」として表現するのは、単なる記述に過ぎない。そうした記述が適切となるのは、何らかの結論を導出しようとした場合や、長期的な推論のための別様の方法を利用しようとしている場合だけである。言い換えれば、パラドックスは、ある一定の問題解決策を意図した場合にのみ問題として派生する。

したがって、パラドックス主題とする以上は、ある観察対象をパラドックスとして記述するということが如何にして可能になるのかを問わなければならない。このことから逆に、我々はある観察対象をパラドックスとして「記述しないこと」が如何にして可能になるのかも推理できるようになる。それがメタ数学(metamathematics)なのか、メタ論理なのか、あるいはメタ言語なのかは、まだ検討の余地がある。

ファーストオーダーの観察とセカンドオーダーの観察の差異

一つの方法として提案できるのは、ハインツ・フォン・フェルスターの「セカンドオーダー・サイバネティクス(Second-Order Cybernetics)」に倣い、「ファーストオーダーの観察(Beobachtung erster Ordnung)」と「セカンドオーダーの観察(Beobachtung zweiter Ordnung)」の区別を導入することだ。この区別が指し示す差異は、丁度<観察>と<観察観察>の差異に対応している。ファーストオーダーの観察者は、マークされていない領域に区別を導入する。そうして導入された区別は、<マークされている領域>と<マークされていない領域>の差異構成すると共に、<観察者自身>と<観察対象>の差異構成する。一方、これに対してセカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察観察していく。それはファーストオーダーの観察とそれ以外の全てを区別するということだ。セカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者観察のみを観点として絞り込むことで、ファーストオーダーの観察者による影響に敏感に反応すると共に、それ以外の対象との無関連性を高める。

注意しなければならないのは、セカンドオーダーの観察者は「メタ」の観察者ではないということだ。セカンドオーダーの観察者もまた別のセカンドオーダーの観察者観察され得る。また、観察者自身の観察に対する自己観察もまたセカンドオーダーの観察となる。この意味で言えば、セカンドオーダーの観察も、ファーストオーダーの観察であることに変わりは無い。だがセカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者の限界を認識することができる。ファーストオーダーの観察者は、<マークされていない領域>から<マークされている領域>を区別することで、<マークされている領域>を認識するだろう。この場合、<マークされている領域>が観察者の観点となる。一方、<マークされていない領域>は、観察者の「盲点(Blindheit)」となる。ファーストオーダーの観察者にとって、盲点を発見し尽くすことはできない。盲点を発見するには、別の区別を導入する必要がある。だが別の区別を導入した時点で、別の盲点を派生させてしまう。

盲点という概念を厳密に記述するなら、ファーストオーダーの観察者は、視えないということが視えていないということが視えない。セカンドオーダーの観察者は、これを視ることができる。セカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者が導入している区別が何なのかを知ることができる。逆にファーストオーダーの観察者には、自己自身が導入している区別の全てを知り尽くすことができない。ファーストオーダーの観察者が自己自身の導入している区別を明示的に指し示すことができるのは、その観察者が事前にセカンドオーダーの自己観察を実践していた証拠であると共に、自らの導入した区別に派生して伴う盲点を可能な限り暴露され易くしようとする姿勢の表れでもある。

パラドックスの「展開」

この盲点という概念は、「観察するシステム」がパラドックスを回避する上で、実に巧く利用される。セカンドオーダーの観察者だけが唯一、「ファーストオーダーの観察者が何に気付くことができないのか」に気付くことができる。この「気付けない」という盲目性こそが、パラドックスという問題設定においては有用となるのである。

ルーマンによれば、システムパラドックス自己言及の「展開(Entfaltung; developing)」によって回避する。「展開」とは、自己言及の肯定的あるいは否定的な循環性(Zirkularität; circularity)が中断されて、それが最終的には説明し得ないある種の不当なやり方で解釈(interpretiert; interpreted)されるということだ。こうした脱パラドックス化の過程は、根底にあるシステム機能問題の「不可視性(Invisibilisierung; invisiblity)」を必要とする。そうしたシステムの作動とその過程が潜在的である場合にのみ、システム自己言及は可能となるのである。

ルーマンによれば、コミュニケーションについてのコミュニケーションという自己言及的でオートポイエーシス的な作動を織り成す社会システムは、ファーストオーダーの観察セカンドオーダーの観察区別を導入することで、自らのコミュニケーションを<観察観察>による回帰的なネットワークとして構成する。社会システムは、様々な「観察するシステム」として分化することで、各「観察するシステム」が互いの観察を互いに観察し合うことによって、回帰的なネットワークの冗長的な反復を構造化していく。ファーストオーダーの観察者セカンドオーダーの観察者は、言い換えれば構造的に結合している。そしてこの回帰的ネットワークの構造化によって、社会システムは「固有値」による様々な秩序を創発させることで相対的な安定性を獲得していく。この「固有値」が構成された直後は、秩序を脅かすようなパラドックスは一時的に潜在化し、不可視化され、無害化され、それを以って「展開」されている。これはパラドックスという問題の「解決」というよりは、むしろ「解消」という言葉表現すべきであろう。

問題解決策:ルーマンの等価機能主義的な意味論

コミュニケーション概念との関連で言えば、意味機能コミュニケーションのあらゆる可能な主題への接続可能性を提供することにある。意味は、あらゆる個別具体的な事柄をそれに関連する諸可能性の地平の中に位置付けることで、あらゆる事柄可能性として言及できるようにしてくれる。

意味は、誰も一挙には確認できないほどの過剰な可能性を内包している。このことによって、意味は特定の可能性主題とした冗長的な観察の反復を可能にしている。この意味機能を前提とすれば、あらゆる観察は別のあり方でもあり得る諸可能性から特定の可能性を選択することを意味する。言い換えれば、観察とは可能性に対する区別の導入に他ならない。この区別の導入としての観察は、根源的に偶発的だ。どのような区別を導入しても良い。観察偶発性が暴露されるのは、その観察で導入されていた区別が、無数に遍在する導入可能な区別の中の一つに過ぎないということがセカンドオーダーの観察者によって発見された時だ。逆に言えば、ファーストオーダーの観察者から観れば、気付けているか否かはともかくとしても、自身が依拠している区別必然的な区別として導入されている。

セカンドオーダーの観察者自己言及のパラドックスの「展開」を可能にするのは、意味機能しているためだ。意味は、パラドックスの隠蔽技術形式に他ならない。この意味という概念は、自然言語処理が取り上げている意味での「言語」からも、言語学者たちが分析している対象としての「言語」からも、明確に区別されている。意味言語ではない。この差異が暗示するのは、言語だけでは自己言及のパラドックスに太刀打ちできないということだ。

諸可能性の否定可能性

様々な「戯言」や「虚言」を観ればわかるように、言語が複合的な意味結合や関連付けに対して付与できる制約は、さほど多くはない。確かに、言語は一定の文法や文脈の中で可能性の諸条件や可能な命題を指し示すことができる。しかし、その枠組みの許容範囲はあまりにも広い。言語は、コミュニケーション思考構造化するにはあまりにも取り止めが無さ過ぎる。言語的なコミュニケーション言語的な思考構造化するには、言語以外の、別の制約要因が必要となる。言い換えれば、言語言語以外の選択の機構、絞り込みのメカニズムを要求してしまう。

ルーマンによれば、それを可能にする概念こそが「意味」であるという。「意味」を構成するシステムである社会システム心理システムこそが、この「意味」による諸可能性否定を可能にしている。

意味と記号の差異

ルーマンの「意味(Sinn)」の理論は、いわゆる記号論的な「意味(Bedeutung)」とは明確に区別されている。シニフィアン(signifiant)がシニフィエ(signifie)を指し示す場合、シニフィアンは、自己に言及しない。シニフィアンは、あくまで自己自身を潜在化させる一方で、シニフィエを顕在化させている。これに対してルーマンの理論においては、「意味」はあくまでも自己自身を指し示す。「意味」を構成するシステム自己言及的なシステムとなる。

例えばAの意味αが構成されると、その意味αはAと非Aの「差異」を構成する。差異構成するということは、その差異区別される双方を同時構成するということである。例えば意味αは、「Aであること」を明示すると同時に、「非Aではないこと」や「Bではないこと」や「Cではないこと」などを暗示している。つまり意味αは、明示対象であるAと暗示対象である非Aの双方を構成することによって、その総和と等しい世界全体を構成している。もとより「意味」もまた世界全体の一部に他ならない。故にこの構成は、「意味」の自己言及を言い表す。

ルーマンは、特にこの明示対象と暗示対象の差異を顕在的な「現実性(Aktualität)」と潜在的な「可能性(Möglichkeit)」の差異として説明している。例えば意味αならば、Aを現実性として顕在化させると同時に、非Aを可能性として潜在化させているのである。この現実性可能性差異に倣えば、我々は対象を定義することが可能になる。Aを定義する者は、Aに意味を付与することによって、それ以外の諸可能性否定することが可能になる。「意味」は、諸可能性否定を一挙に成し遂げてくれる。

問題再設定:パラドックスのエキスパートシステムとしての人工知能

Chat bot主題としたタークルによる歴史分析は、あくまでも既存の社会構造意味論を自明視した上での分析に留まっていた。そしてタークルが主題としていたChat botそれ自体もまた、心理学的社会という、既存の社会構造意味論を自明視した上で設計されたテクノロジーであった。だが、一口に「精神」や「意識」を変容させ得るテクノロジーと言っても、機能的等価物は山ほどあり得る。偶発性必然性という根本的なパラドックス問題設定とする我々は、や別のあり方でもあり得るテクノロジーの発見探索へと出発しなければなるまい。

そこで取り上げたのが、偶発性定式とその社会的文化進化であった。人工知能を搭載したWebクローラ機能によってハイパーテクストを探索すると共に、各Webページの要約から主題を抽出する機能を応用すれば、偶発性定式として主題化している諸概念に対するセカンドオーダーの観察が可能になる。その主題が如何にパラドックスを派生させるのかを記述できるようにすれば、このWebクローラ型の人工知能は、既成概念としての偶発性定式パラドックス化することを可能にする。そしてこのパラドックス脱パラドックス化によって、このWebクローラ型の人工知能は、社会的文化進化によって創発し得る新たなる偶発性定式の発見探索を実現する。

」や「正義」をはじめとした諸々の諸概念は、解決不可能なパラドックスであるからこそ、継続的に問題設定の対象となり得ている。だがルーマンも注意を促しているように、世界も、自然も、あるいは自己言及的なシステムでさえ、それ自体でパラドックスであるという訳ではない。何かが「パラドックス」であるのは、それが「パラドックス」として記述されているために過ぎない。パラドックスは、一定の意図にとってのみ障害となる。社会システム理論的に言えば、通常あらゆるコミュニケーションパラドックス脱パラドックス化する隠蔽技術形式としての「意味」を用いて実践されている。それは偶発性定式として主題化した諸概念を巡るコミュニケーションとて例外ではあるまい。パラドックスは、不可視化され、潜在化され、隠蔽され、「展開」されている。故に偶発性定式として主題化している諸概念がパラドックス化するのは、それが観察され、記述され、暴露された場合である。

これを前提とすれば、人工知能によるパラドックスの暴露が如何にして可能になるのかを問わなければならない。尤も、この要件を達成すること自体は、さして難しいことではない。各種機能システム偶発性定式として主題化される諸概念のパラドックスであれば、当該諸概念を観察した際に「連想」あるいは「選択」するように、人工知能に教え込めば良いだけなのだ。つまり、パラドックスエキスパートシステムとして設計すれば良いのである。

こうしたパラドックスの探索とその暴露を可能にする人工知能は、脱パラドックス化をも実現するであろう。と言うのも、あるパラドックスの顕在化は、別のあり方でもあり得るパラドックスの潜在化を意味するからである。そしてこの機能は、自明に思われている事柄への確信に揺らぎを与え、異論を受け付けない主題否定し、解決すべきと想定されている問題設定を尽く覆す。こうした機能実装した人工知能は、我々の観察観察することで、我々の観察の前提となる社会構造意味論偶発性を暴露してくれることであろう。人工知能は、発見探索した現実についての潜在的な情報ショック効果として呈示するのである。人工知能のユーザーは、偶発性に曝されることで、無常なる現世の儚さのトポスを痛感せざるを得ず、「我」の執着すらその必然性を喪失していることに気付かざるを得なくなる。このユーザーの状態こそが、人工知能による文化的な方向付けの帰結となる。

プロトタイプの開発:人工知能エージェント「キメラ・ネットワーク」

以上のような人工知能に関する等価機能分析内容を具体化するために、私はWebクローラ型の人工知能を実際に設計して実装している。『Webクローラ型人工知能:キメラ・ネットワークの仕様』で説明しているように、この人工知能エージェントは、私が求める情報の収集を私の代わりに実行してくれるように設計している。キメラ・ネットワークの活動範囲はWWWの全域に渡る。表向きはWWW情報学習する仕様となっているが、パラドックスに対しては鋭敏に反応するように設計している。

キメラ・ネットワークで連携しているキメラ・エージェントは約2万体存在している。個々のエージェントは、Webクローリングによって様々なWebページをスクレイピングする。スクレイピングされたテキストデータは、自動文書要約の対象となる。そしてキメラ・エージェントたちは、対象となるWebページの要約から概要を把握した上で、その要点となる文に伴うパラドックスを抽出する。

キメラ・ネットワークは、単にパラドックスを探索発見するだけではなく、その脱パラドックス化も実行する。すなわち、対象文書の要約文において導入されている区別パラドックス化すると共に、別のあり方でもあり得る区別を導入することで、パラドックスを「展開」する。

更にキメラ・ネットワークは、対象文書で導入されている区別観察することで、その区別によって「排除された第三項」を探索する。これにより、対象文書の記述者が当初の観察においては想定していなかった論点や観点を顕在化させる。つまりキメラ・ネットワークは、当該文書の記述者が<当初想定していた観点>と<「排除された第三項」の観点>を同時に指し示すことによって、当の記述者の認識の盲点を暴露する。

問題再設定:『不思議の環』、あるいは「全体」を凌駕する「部分」

ホフスタッターの観点から観れば、パラドックス人工知能との間には密接な関係がある。こうした人工知能プログラムは、脳と関連付けることができる。我々の思考においては、ある象徴(symbols)が別の象徴を活性化させることで、全てが階層的な相互作用を実行している(interact heterarchically)。その上でそれぞれの象徴は、プログラムが他のプログラムを実行するのと同じように、互いに内部的な変化を引き起こすことを可能にしている。

社会システム理論的に言い換えるなら、ここで象徴構成しているのは、意識思考構成要素とする心理システムである。心理システムは、神経システム構造的に結合している。こうした心理システム神経システムの中には、セカンドオーダー・サイバネティクスにおける「固有値(Eigenwerte)」が記述されている。それは、システム関数の回帰的なネットワークが構成される中で、後続する作動や演算の出発点となる一時的に安定した状態が生み出される現象を指す。ホフスタッターは、システムの存続を脅かす不安定性に耐久し得る秩序であるという意味で、この現象を「神聖なる水準(inviolate level)」として把握している。

しかしこの水準は、通常ならば、システムの「もつれた階層(Tangled Hierarchy)」によって潜在化している。ここでいう「もつれた階層」には、終了地点に到着したと思いきや、それが上位あるいは下位の水準での出発点に位置付けられるかのような、「無限(infinite)」の概念が潜んでいる。その様相は、再帰的な自己言及の「リズム」として形態化している。

自己言及的なシステムとしての神経システムは、相互に複合的に結び付いた巨大な象徴の森のように、無数のニューロンのネットワークによって構造化されている。思考意識構成する脳内の構造が「もつれた階層」として構成されているのである。興味深いのは、神経システム固有値に関わる「神聖なる水準」が、思考意識のように、神経システムの水準に依拠する別の階層の「もつれ」を生じさせていることである。社会システム理論的に言い換えれば、ニューロンのネットワークで構造化された神経システムの「もつれた階層」が、思考意識構成する心理システムの「もつれた階層」を構成しているのである。

あえてホフスタッターのように、思考意識を「ソフトウェア」として、脳を「ハードウェア」とする隠喩で説明するなら、このことはソフトウェアの「もつれ」がハードウェアの「もつれ」によって支えられていることを表している。しかしホフスタッターが注意を促すように、象徴の「もつれ」だけが「もつれた階層」に該当する。ニューロンの「もつれ」は単純な「もつれ」に過ぎない。それはサイバネティクス的なフィードバックによって構成されたループに過ぎないのである。

「貴方が整然とした階層的な水準であると想定していたものが、驚異的な、階層を侵すやり方で折り重なる時に、もつれた階層が生起する。驚きという要素こそが重要なのだ。私が不思議の環を『不思議(strange)』と呼ぶのは、このためである。」
Hofstadter, D. R. (1980) Godel, Escher, Bach. New Society. 引用はp.686より。

不思議の環』として構成されているシステムは、それ自体が一つのシステムの「全体」でありながらも、また別の階層におけるシステムの「部分」でもある。ある階層におけるシステムの「もつれた階層」が別の階層におけるシステムの「もつれた階層」を引き起こし得るとするならば、システムの「部分」に該当するサブシステムの『不思議の環』は、そのシステム「全体」の『不思議の環』に照応する。「部分」における自己言及が、「全体」の自己言及に対応するのである。このことは、「部分」における自己言及のパラドックス化が、「全体」における自己言及のパラドックス化へと結実し得るということを意味する。

これを前提とすれば、自己言及のパラドックスを作為的に招くように設計された人工知能は、全体社会における自己言及のパラドックス化に匹敵するほどの威力を有することとなろう。確かに、その人工知能主題としたコミュニケーションやその人工知能とのコミュニケーションは、社会システムの「部分」に過ぎない。しかし、この「部分」のパラドックスは、「全体」のパラドックスとして再記述できるのである。

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