Webクローラ型人工知能によるパラドックス探索暴露機能の社会進化論

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問題再設定:偶発性定式の社会的機能

社会構造意味論が告げるように、「」、「希少性」、「正統性」、「正義」、「制約可能性」、「教養」などの概念は、各機能システム偶発性定式として機能している。それは、偶発性必然性というパラドックスに直面した各機能システムが、それでも尚自身の領域での問題設定を可能にする際に用いる形式である。偶発性定式は、問題設定の不可能性を解消する。

故に偶発性定式によって指し示された問題は、容易に解決されることはない。仮に解決されてしまえば、その主題はもはや問題とはなり得ない。そのため各種の偶発性定式は、パラドックスを派生させることによって、解決不可能な問題として顕現する。以下では、このそれぞれのパラドックスを記述することによって、ルーマンが取り上げた偶発性定式がその機能を全うしていることを確認していく。

偶発性定式に対する等価機能主義的な社会システム理論が明かしているのは、問題を設定することが問題を解決することになり、パラドックス化することがコミュニケーションを活性化させるということである。したがってここでの確認事項となるのは、問題解決策としての問題設定脱パラドックス化されている対象のパラドックス化が如何にして可能になっているのかである。

問題解決策:宗教システムの偶発性定式としての「神」

ルーマンによれば、宗教システム偶発性定式は「」である。このの概念は、伝統的な神学の論争が物語っているように、宗教的なコミュニケーションによって構成されている。

神のパラドックス

ルーマンと共に、抽象化することで観察観察するなら、の参照問題もわかり易くなる。は、宗教の中心となることで、宗教象徴する。は特殊な地位に立つ観察者だ。人間とは異なり、盲点を必要としない。は、全知全能であるが故に、世界や人間観察する際に派生するはずの盲点をも知り尽くす。には、観点と盲点差異そのものに対する観点を持つことができる。言い換えればは、観点と盲点の双方を観察する。そして、観点と盲点の双方を観察することによって派生する盲点すら、観察し得る。同様にまた、更にこの盲点観察によって伴う盲点すら、観察できることになる。つまりは、観察盲点観察盲点観察の……盲点を全て観察し切れるが故に、論理学で言うところの「無限後退」を一挙に成し遂げられることになる。さもなければ、は全知全能ではあるまい。

更に形式的に言い換えるなら、は、あらゆる区別形式を、区別された双方の<差異>として実現すると共に、その<統一>として実現させることができる。それは<区別>と<非区別>の区別も含意する。そしてこのことは、観察の全てに該当する。観察の視点で観察するなら、それはパラドックスとしてのみ把握され得る。

これは超越的な観察だ。と言うのもは、パラドックスの隠蔽技術形式としての「意味」を必要としないまま、無限後退を解消しているからだ。これに対して、内在世界に住まう人間や社会は、このパラドックスを「意味」で隠蔽することで盲点として潜在化させない限り、観察を実行することができない。一方でには、そもそもこのパラドックスを隠蔽する必要が無い。

形式としての秩序

かくして宗教では、超越的な全知全能の存在として観察されている。それと同時に、宗教家たちは人間観察者として観察してきた。は、およそ人為の及ぼす世界の全てを知り尽くしている。しかしながら、は世界を未規定で決定不可能の、<閉じられてはいない偶発性>としては創造しなかった。は、世界の創造に際して、世界に様々な形式を与えることで、世界に対し、人間にも理解し得る秩序を与えた。人間は、その種々の形式に準拠することによって、自らの体験や行為を促すことができている。

形式というのは、繰り返すように、一方を明示すると共に他方を暗示する。形式は、片側に対しては否定的なのだ。は、形式を創造することで秩序を人間指し示した。このことが意味するのは、偶発性に曝された人間がその膨大な可能性に対処するためには、その可能性の多様性を否定するしかないということである。

しかし、膨大な可能性指し示しているのは、世界だけではない。それ自体もまた、その観察無限後退によって、過剰な偶発性を巻き起こしている。は、その無限後退を一挙に成し遂げる最中に、世界や人間に関する膨大な対象を観察し続けている。すると宗教家たちをはじめとする観察観察者たちの間では、「のみわざ」や「奇跡」、あるいは「聖なるもの」を目の当たりにしたとしても、一体「何を」、「誰を」観察したことによってそのような判断を下したのかという問題設定に関して、意見が分かれることになる。「天罰」がしばしば帰責先の問題として観察されるのも、このためだ。かくして観察は、宗教的なコミュニケーションにおいて、目を逸らすことが困難な問題として結実するのである。

問題解決策:経済システムの偶発性定式としての「希少性」

ルーマンによれば、経済システム偶発性定式は「希少性」である。この希少性概念は、貨幣の支払いを通じた経済的なコミュニケーションによって構成されている。

貨幣の象徴的な一般化

貨幣メディアとして形式化される支払いを通じた経済的なコミュニケーションとして経済システムを理解した場合、生産、交換、分配、資本、労働を全て派生的な事象として扱うことができる。経済システムにおいては、あらゆる出来事貨幣の支払いを通じたコミュニケーションとして認識される。経済システムにおける雇用者や消費者のような人格は、常に事前の支払いを考慮した上で貨幣を支払う。事前の支払いを加味することで、その人格は自身の支払い能力や支払いへの動機付けを認識できるようになる。それが後続の支払いにおける尺度として役立つのである。

貨幣の支払いの対象となるのは、経済システムの内部で構成された商品をはじめとする事物だけである。確かに経済システム外部環境にも、商品となり得る事物は溢れている。例えば大学の学費は教育という経済とは異なる機能システム構成されている。学費が支払われる時、経済システム教育システムに対する外部言及を実行していることになるはずだ。だが外部言及とは、外部に言及している自己への言及に他ならない。そこにおいては、期待という外部言及対象の限定技術形式機能している。経済システムにおける期待形式として挙げられるのは、価格だ。価格は単に支払われるべき貨幣の総量を言い表す記号なのではない。価格は、「量」を指し示す「数値」という形式で外部言及対象を限定しているのである。だから経済システム人格が大学の学費を支払う場合、その人格は、教育システムの全貌を眺めているのではない。その人格は、あくまで学費の価格によって描写された<教育システムの一部>にのみ言及しているのである。

貨幣の悪魔的な一般化

このように貨幣機能するのは、貨幣象徴的に一般化されているためである。しかしこの貨幣一般化象徴的であると同時に「悪魔的(diabolic)」でもある。貨幣未来への備えとして機能する。貨幣を貯蓄し過ぎても、食料品のように腐ることは無い。だから貨幣は、未来の欲求充足への備えとなる。しかし一方で貨幣は、新たなリスクを派生させてしまう。例えば物価が上がれば、貨幣を貯蓄する計画が崩れてしまう。保険に加入すれば、保険会社の支払い能力が劣化するリスクに直面するかもしれない。貨幣は、現在における未来への備えを可能にする一方で、未来における現在リスクを生み出すのである。

貨幣は、多種多様な財やサービスの交換を一元化してくれる。これにより、経済的なコミュニケーション偶発性を低めてくれるだろう。しかし、例えば店頭に展示されている価格だけしか観ないとなれば、その商品の出所に無頓着になってしまう。その結果として、汚染された作物を無自覚に摂取してしまうことにもなり兼ねない。貨幣は取引当事者の人格や動機や利害関心に左右されることなく交換可能性を高めてくれる。だから汚染された作物であることを知りながら、利益のために出荷する農業者が現われても、消費者は無頓着にそれを購入してしまう場合もある訳だ。その一方で貨幣は、貨幣の支払い能力を持たない人格を問答無用で一律に排除する。失業者などのように、排除された人格から観れば、これは痛手でしかない。市場経済が発展する以前の社会では、こうして排除された人格も相互扶助や宗教的な慈善によって救済されていた。しかしながら貨幣は、そもそも未来への備えとして機能することで、未来の不確実性や危険に対処しようとする相互扶助や慈善的な宗教の必要性を低下させてしまう。それ故に貨幣は、支払い能力を持たない排除された人格をいつまでも排除されたままにしてしまい兼ねないのである。

希少性のパラドックス

それ故に市場では、競争が絶えない。支払い能力や未来への備えを持ち合せていても、明日には排除された人格になり兼ねない。全ては財の「希少性(Knappheit)」に立脚している。ただしこの希少性という概念は、パラドックスの形で定着している。財の希少性は、常に個人にとってのみ発現する。社会システムから観た場合、財はむしろ過剰に遍在している。この過剰に遍在している財を如何にして配分するのかという複雑な問題に躓くからこそ、個人にとって財が希少であるかのように観えるのである。個人の水準で言えば、この希少性が消え去ることはありそうもない。ある個人による財の占取行動は、その個人にとっての希少性の減少に結び付く。だがそれは、同時に別の個人にとっての希少性を増大させることになる。つまり希少性の減少は希少性の増大を引き起こすのである。

経済システムがこの希少性パラドックスを解決することはあり得ない。と言うのも、このパラドックスが生じるからこそ、所有と非所有の差異の再構成が可能になるからである。もし全ての個人における財の希少性が一律にゼロへと近付いていくとすれば、もはや全ての人格が所有者となってしまう。それでは所有と非所有の差異が伴わない。故に希少性の解消が経済システム目的となることはあり得ない。それはあくまで、個々の取引当事者にとっての目的でしかないのである。

人格は常により多くの貨幣を所得しようとし続けることになる。市場の競争との関連で言えば、価格が方向付けているのは支払いだけではない。支払いが支払いと非支払いの差異によって構成される以上、価格は支払いと非支払いの双方を方向付けていることになる。分不相応なまでに高額な商品が中々購入されないのは、そのためである。それ故、市場における競争も価格の設定によって方向付けられている。競争相手となる企業よりも安い価格で商品を売りに出すことによって、競争相手が売りに出していた商品の価格という期待形式期待外れが伴うことになる。期待外れとなった価格の商品には、もはや貨幣は支払われない。消費者は期待外れが伴っていない商品を購入しようとするだろう。それ故に比較的安価で商品を売りに出したその企業は、より多くの貨幣を所得できるのである。

価格戦略だけが競争の特徴なのではない。経済システムとの接触を保つ企業という組織システムは、事業の規模を拡大することによって、より多くの顧客を獲得しようとする。例えば海外に進出するというのは、規模を拡大するという戦略の一例である。韓国のスターが日本に進出してくるのは、韓流ブームを巻き起こすことで日本人により多くの出費をさせるためでもある訳だ。これ以外にも、製品を差別化するという競争戦略もある。サービスやパッケージのデザイン、広告宣伝によって、自社の製品が他社の製品とは異なるということを演出する訳だ。とりわけ小規模な企業が独占的な売り手になるには、低価格化や規模の拡大だけではなく、他社の追従を許さない新製品を開発することが有用となるのである。

問題解決策:政治システムの偶発性定式としての「正統性」

ルーマンによれば、政治システム偶発性定式は「正統性」である。この正統性概念は、とりわけ政治的なコミュニケーションにおいて重要となる集団的な拘束力を有した決定の受容に関して問題視される。

正統性の意味論

伝統的に正統性概念は、正当性概念からは区別されていた。正統性概念は、決定内容の「真理性」や「正義性」に対する信頼との兼ね合いから定義されてきた。かつての君主制においては、とりわけ階層の頂点に位置していた者たちから発せられる命令が、決定の受容を担保していた。こうした階層構造を前提とするなら、頂点の決定はその利己性とは無関係に正統な決定として受容されていた。それは普遍主義的な正義や真理を根拠としていた。

しかし現代では、決定内容の正当性、真理性正義性が厳密に区別されなければならなくなっている。市民革命以来、民主主義が普及した現代では、決定が下されたからと言って、それが拘束力を有するとは限らなくなった。正統性が成立したと言えるのは、本来その通りには決定するはずが無かった人々が、実際にその通りに決定した場合だろう。だが近代化と共に合理主義的な人間が増えてくると、他者が普遍主義的な正義や真理を根拠とした決定によって利益を得ているにも拘らず、自己がその同じ決定を受容しても利益を得られない場合には、異議が唱えられるようになった。One for All, All for Oneの決定は、少しでも自己が他者よりも不利益を被る場合には、否定される傾向になった。かくして普遍主義的な決定は拘束力を喪失させた。正しい決定だから従えと主張されたところで、その正論を否定するのは容易い。

コミュニケーション・システムとしての「手続き」

したがって近代社会は、一般市民によって他者の決定が受容されることが如何にして可能になるのかという問題を設定することになる。ルーマンによれば、この問題設定に対する問題解決策となるのは、「手続き(Verfahren)」である。手続きは、他のコミュニケーションシステムとは相対的に分化した上で、自律的に独立するに至った社会システムの一種に他ならない。とはいえ注意しなければならないのは、手続きは自足的ではないということだ。自給自足は外部環境から遮断された世界でも完全に独立して生き長らえることを意味する。しかしシステムが自律的であるためには、外部環境からの影響に対して、システム自身でその影響を「如何にして」受容するのかを構造的に決定できていなければならない。つまりシステムは、システム自身によって、システムが影響を受容する仕組みを構造化することによって、自律性を達成する。逆に言えば、手続きというシステムは自足的であってはならない。

分業が進み、専門化が進み、機能的な分化が進んだ社会は、徹底的に脱中心化されている。決定の受容において、幅広く再利用可能な抽象的な制度はもはや無い。そこで一般市民は個別具体的な決定機関のユースケースにおいて、手続きというコミュニケーションシステムに参加することになる。手続きというシステムは自律的だ。だからこそ、このコミュニケーションは自由を有する。しかしこの自由度は、偶発性と表裏一体だ。その手続き外部環境から観察する市民にとって、その手続きはある種の不確定要因となる。手続きは自由参加を選択可能にする。また手続きはその決定における責任の帰責も可能にする。だが手続きシステム作動自体は不確定であるが故に、決定の受容を「保障」する訳ではない。

故に社会システム理論的に観れば、手続きというシステムは自己決定や自己責任と相性が良い。それは、正義や真理などといった錯覚では、決定を正統化することは不可能であるということだ。

正統性のパラドックス

偶発性定式としての正統性は、広く受け入れられた価値への準拠を可能にする。しかし正統性は、価値の競合を解決する訳ではない。闘争や対立を否定することに価値を見出すことも、確かに不可能ではない。しかし、まさにそうした日和見主義こそが、正統性パラドックスを暴露する。中立の立場や折衷案を表明する観察者も、その観察こそが一種の価値に準拠しているはずだと観察されることになる。価値の競合を否定すれば、価値の競合を否定する価値が、価値の競合を肯定する価値と競合することになる。

政治的な決定のように、集合的な拘束力を有した決定が必要なのは、まさに価値の競合が発生した場合だ。しかし、如何に美的に表現された価値も、その価値の競合の解決を見込んではいない。そうなると、決定力を持つのは政治的指導者とそのマニフェストによる大言壮語と大衆による人気であるということになる。より全うな解決案は、のところ見当たらない。長らく指摘されている政治不信の原因は、ここにあるのかもしれない。裏には闇の権力が潜んでいるのではないかという懐疑を掛けたくなるのも、無理は無い。

問題解決策:法システムの偶発性定式としての「正義」

ルーマンによれば、法システム偶発性定式は「正義」である。Let’s talk justive と話し掛けられれば、皆が口を挟みたくなり、正義主題としたコミュニケーションが活性化するという訳だ。

脱魔術化された理性法

正義を徹底的に論じたジョン・ロールズに対するユルゲン・ハーバーマスの批判は、このことの好例であろう。ハーバーマスは、大筋としてはロールズに賛同しつつも、あえて内輪の揉め事であるかのようにロールズに口を挟んでいる。ハーバーマスのロールズ批判の前提にあるのは、彼自身の論敵の一人であったルーマンの法社会学だ。元々ハーバーマスとルーマンのコミュニケーション理論は、共にマルクス主義の崩壊の直後に空いた社会理論の穴を埋め合わせるように登場している。マルクスの経済学批判以降、徐々に法は社会理論の主導的な問題設定から後退していった。法を遵守する名の知れた者たちによる結社主義的な理想論は、社会システムの匿名性の高い不透明な現実に塗り潰されている。ハーバーマスによれば、この法の相対化、すなわち社会科学における法の脱魔術化の終着地点となったのが、ルーマンの社会システム理論であるという。

ルーマンが観察と記述に徹した機能的に分化した社会は、法を近代社会の単なるサブシステムとして捉える社会観だ。ハーバーマスは、まずこの社会の像が、エドムンド・フッサールの超越論的主体がモナド的に閉鎖したシステムと化した結果と観る。システムによる生活世界の植民地化が相互主観的なコミュニケーション的行為の場を剥奪することで、理性的な意識を持った主体たちによる法的な社会統合は意味を失う。法が単に社会的な期待の安定化に貢献するだけの機能システムとなることで、一体化した主体たちによる理性の規範主義は必然ではなくなった。

システム機能主義批判

これに対してハーバーマスは、文化人格などのような生活世界構成要素が、あくまで日常的に使用されている言語の枠組みの範疇で成立すると主張する。日常的な言語こそがシステム生活世界の橋渡しを可能にするメディアなのであって、ルーマンが論じるように、徹底的に抽象化された等価機能分析意味論は、この役目を果たし得ない。ハーバーマスは、この生活世界の日常的な言語を大前提とすることで、法がシステム生活世界の蝶番のように機能するという。

この発想は、確かにハーバーマスが主張する通り、オートポイエーシス的なシステム理論とは相容れない。生活世界コミュニケーション的行為は、ハーバーマスによれば、機能システム制御メディアに触れることで、その循環を断ち切ってしまう。何故なら、制御メディアに準拠した機能的なコミュニケーションは、システム合理性の下で、日常的に使用されている言語とは異なる意味を有するからだ。そこで、生活世界機能システムとの間で、双方向的な翻訳システムが必要になる。ハーバーマスは、それこそが法であるという。法によってこそ、生活世界機能システムとの社会統合的なコミュニケーションが可能になるのである。

公正としての正義

ハーバーマスのロールズ批判は、理性の規範主義が相対化されているという現状認識を出発点としている。ロールズの正義に関する理論は、ルーマンの社会システム理論とは全く異なる。それは社会に対する理想論として記述されている。ロールズの「公正としての正義(justice as fairness)」は、自由かつ平等な契約者たちが同一の規則を守りながら社会を秩序付けていく構想になっている。それは効率性の観点から論じられてきた功利主義的な正義と対立する構想だ。ロールズは功利主義の目的論的な性格を批判する。功利主義的正義論は、合理的な欲望を成就させることで成し得る善き生活をまずは目指すべき目的として定めた上で、その最大化こそが公的な正義であると主張する。だがロールズによれば、こうした目的論を展開すれば、多様な善き生活のあり方が盲点となる。むしろロールズは、こうして功利主義が度外視してきた多様性こそが正義の基盤となると考え、契約論的な正義論を展開する。

近代社会で自由かつ平等人格である主体たちが公正な社会的生活を全うするには、社会とその構成員たちが何らかの規則に従事していなければならない。ロールズが正義論で基礎付けたのは、こうした規則であった。その規則は二段階の原理によって記述される。第一の原理は、各構成員が基本的な自由に対する平等の権利を有するべきであるという原理だ。そして第二の原理は、社会的で経済的な不平等が認められるのが、最も不遇な立場にある者たちの利益を最大にすると共に、公正な機会の均等という条件の下で全ての人間に開示されている職務や地位に付随するものでしかない場合に限定されるという原理である。

原初状態の盲点

ロールズは、正義の原理に人々が合意していく機構として、「原初状態(the original position)」という仮想的な状況を導入している。それは、正義の原理が導入される以前の状態を指し示している。原初状態は、まずは「無知のヴェール(the veil of ignorance)」という自分だけが有利となるルールを誰も提案できない目隠しされた状態から想定される。それは、自分の地位や富や自己同一性が絶対評価であれ相対評価であれ知り得ない状態を指す。そのため原初状態の社会契約者たちは、利害関心によって結び付いている訳ではない。そこに優越感や劣等感はあり得ない。それぞれの主体はただ合理性のみによって社会形成へと動機付けられている。当事者たちは、あくまでも自身の日常生活の条件を改善しようとするだけだ。ロールズは、こうした想定の下で、各主体が合理的に自己改善へとコミットすることによって、社会はより良く秩序付けられていくと主張した。ただし、合理的な主体が社会を形成していくとなれば、そこに理性的な議論は不可欠であるという。その際、それが公正であるには、各主体が皆その議論を方向付ける規則がどのような内実なのか予め了解していなければならないという。

このロールズの原初状態概念に対するハーバーマスの批判は、簡潔に纏めることができる。ハーバーマスからすれば、原初状態理性的主体という理論的概念はあまりにも仮想的過ぎた。日常的な言語行為讃える彼から観れば、原初状態の各主体を現実の日常生活を送る各市民と同一視することはできない。ロールズの正義論が目指す社会の自律的な安定化は、決して法による強制によってではなく、正しき社会的制度に準拠した日常生活による社会化によって成し遂げられなければならない。そうした社会化を保証する制度こそが、ロールズの正義論の妥当性の基盤となっているはずなのだ。しかしハーバーマスの見立てでは、ロールズの仮想的過ぎる仮説では、市民を納得させるに足る論証手続きとはなり得ないという。

公正としての正義が謳うところの権利を平等に分配していくためには、法規範に従事する者同士が自由かつ平等な主体として相互に承認し合っていなければならない。確かに権利は、財や機会の公正なやり取りを目的とする。だが権利それ自体は主体間の関係を制限する。それは事物ではない。だから権利が主体によって「所有」されることなどありはしないのだ。それ故ハーバーマスによれば、ロールズは、合理的な選択という有効な概念モデルを強調するあまりに、基本的自由という概念を基本的権利として構想するのではなく、それを予め「社会的基本財(the social primary good)」として再記述するという労力を強いられてしまっている。これに起因して、規範に帯びていた義務論的な意味が、選好される価値の目的論に内包されてしまっている。ロールズは、意図せずして双方の差異を曖昧化していたのである。

政治的正義と法的正義の差異

ロールズの視点から観れば、正義論が市民権を得るには、対立し合う諸主体に対して中立的である場合のみである。そうすることで、倫理的にも、宗教的にも、そして形而上学的にも、それぞれの世界観によってもたらされた文脈依存的な複数の解釈が「重なり合う合意(overlapping consensus)」を体言する。一方ハーバーマスは、理性的な主体たちによる合意形成の前提となるコミュニケーションは、特定の文化の特権に与することなく、コミュニケーション的行為の主体による相互承認の中に定着している道徳的観点を明示しているという。ただし、中立的判断と道徳的判断は、必ずしも一致しない。この観点からハーバーマスは、ロールズの姿勢を正そうとする。中立性と道徳性をハーバーマスほどには区別できていなかったロールズは、自身の正義論がよく響いた「政治」という名の文化に後ろ盾となる推進力を探し求め、その結果として憲法の伝統で特権化された文化領域を発見するに至ったのである。

このようにロールズの正義論の行く末を解説するハーバーマスは、ロールズの正義論では理想論的過ぎるが故に、社会的な現実を変え得る理論とはなり得ないと結論付ける。理論矛盾した社会的な現実というのは、諸主体の多元主義的な認識や世界観の多様性だけで指し示される訳ではない。それはルーマンが観察と記述に徹した社会的制度や手続きからも構成されている。確かにロールズも法治国家の法制度に言及している面はある。だがハーバーマスによれば、ロールズは法の正統化に没頭するあまりに、法制度の内実となる事実性と妥当性の緊張関係が盲点となってしまっているという。

これを前提とすれば、ロールズの正義論の盲点構成しているのは、政治的正義と法的正義区別であると言えよう。しかし、この盲点を指摘する当のハーバーマスのコミュニケーション理論もまた、政治的正義と法的正義差異に関わる別様の盲点を派生させてしまっている。ルーマンの社会システム理論指し示しているように、理性法的規範主義は既に脱魔術化されている。この社会的状況を前にして、ハーバーマスは法的秩序を再検討した上で、「コミュニケーション的合理性(Kommunikative Rationalitat)」を前提とした自由で平等な市民の社会統合力に望みを託そうとする。

平等の意味論

コミュニケーション的合理性とは、相互主観的な了解と承認を志向する理性だ。ハーバーマスによれば、このコミュニケーション的合理性専門組織文化と日常生活の理性的な実践の文化を架橋する境界で形成される。コミュニケーション的合理性が生じるためには、文化的な生活における自明な事柄、直観的に把握できる集団的な連帯感、そしてこうした自明性や連帯感をノウハウ(know-how)として包括している社会化された個人の能力が必要となる。コミュニケーション的合理性が相互主観的な結合力を可能にするために兼ね備えているのは、言語行為の状況ごとに特化した生活世界の「資源」である。ここでいう資源は、妥当性要求における知識の貯蔵としての文化人間関係や連帯感を生み出す正統に秩序付けられた社会、そして相互了解過程で同一性を確保する能力を兼ね備えた人格意味する。

コミュニケーション的合理性は、その資源に準拠した上で、合理性の査定を可能にするという。合理性を査定することになるのは、責任能力を持つと共に、相互主観的な承認を志向した妥当性要求に準拠する能力を持つ相互行為の関与者たちになる。コミュニケーション的合理性は、この査定水準を命題の真理性、規範的正当性、誠実性、そして美的な調和を直接的あるいは間接的に論証するその手続きに求めるという。こうして査定されるコミュニケーション的な合理性は、強制なき自由な合意形成の力を兼ね備えている。ハーバーマスによれば、この合理性を前提とした会話に参加する関与者たちは、もともと主観に囚われていた意見を合意形成へと合理的に動機付けられるために克服していくという。

しかしこのコミュニケーション的行為理論は、機能的に分化した社会機能的なサブシステムがそれぞれの社会構造に対応した異なる意味論展開しているというルーマンの指摘を度外視している。と言うのも、ハーバーマスの印象操作によれば、このコミュニケーション的合理性が生き永らえることのできる生活世界は、機能的な分化という近代の社会構造的な側面を、生活世界を植民地化し得るしき「システム」として一括した上で概念化されているからだ。

それ故にコミュニケーション的行為理論では、ハーバーマスとロールズが正義の基盤に置いていた平等の概念すらも、政治システム法システムの双方によってそれぞれ異なる意味論で記述されてきたという歴史を適切に捉えなくさせてしまう。政治的平等概念が市民の集合を等しく扱うべきとする期待一般化して記述されているのならば、法的平等概念は新しい事例が旧い事例と等しく扱うという個別的な関連から記述されている。この法的平等は、法システム構成された規範的期待による再帰的な期待を介して社会構造化される。法的なコミュニケーションにおいては常に、この社会構造意味論によって、<等しい事例>と<等しくない事例>の区別を導入するべく方向付けられているのである。

社会システムの免疫システムとしての法

一方、法システム社会システム免疫システムとしての機能も引き受けている。闘争を先取りする上でも、法システムは、未来で起こり得る事例が現在過去の事例と等しく扱うには如何にして法制度や法規範を整備すべきなのかという問題設定と常に関わりを持つ。法システム免疫機能は、とりわけ免疫システムとして機能している闘争社会システムオートポイエーシスを脅かすようになった場合に動員される。だから抗議デモが死人を出すような暴動へと変わってしまった場合などは、社会システムコミュニケーションが途絶えないようにするために、しばしば国家警察などによる法的なコミュニケーションが伴うのである。

一連の社会システム理論は、ハーバーマスが導入した「システム」と「生活世界」の区別とは異なり、ただシステム環境差異を記述する。法もまた自己自身と外部環境差異を自己自身で構成する自己言及的でオートポイエーシス的なシステムとして記述される。法は、開放的であると同時に閉鎖的なシステムである。法は自己言及的でオートポイエーシス的なシステムだ。その法システムから観れば、法の外部の環境に法を根拠付ける要因や起源は無い。からも、道徳からも、主権者からも、そして人間からも、法システムは自律的に作動している。こうした無根拠性は、しかし法システムの作動を可能にする条件でもある。何故なら、法の外部の環境に法の根拠を求めれば、世界の無限後退的なパラドックスに呑み込まれてしまうためだ。したがって法システムの作動は、無根拠でありながらも、絶えずその無根拠性を隠蔽し続ける営みなのである。このことは、他の「意味」を構成するシステムにも例外なく該当する。

法システムによる闘争の先取り

法システムの社会的な機能は、期待の確実性を高めることである。だが法システムは、期待が成就する可能性を高める訳ではない。いずれにせよ期待外れも伴うだろう。だから法システム期待することの確実性を高めるには、まず期待外れを隠蔽する必要がある。つまり期待することへの期待外れを隠蔽する規範的な期待が必要になるのだ。そこで法システムは、法律の条文を象徴化することによって、個別具体的な状況下で条文に対する期待期待外れに終わるリスクを捨象する。その上で、条文に対する期待一般化を可能にしている。法システムは、ある期待に対する規範的な期待形式化することで、条文が記述された法律を象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとして定式化しているのである。

法システムの社会的な機能は、期待外れの可能性を生み出す出来事が起こることで要請される。例えば否定、拒否、抗議、矛盾についてのコミュニケーション、そしてこれらのコミュニケーションを契機とした闘争が生じるからこそ、法システムの社会的な機能が必要とされるのである。言い換えれば、法システム合意形成の負担が増大した場合に要請される。

法システムが法律を象徴的に一般化するためには、可能な闘争期待する必要がある。法システムは、闘争を先取りするという視点に立つのである。この視点によって、無数に遍在する大量の期待の中から、闘争において有用となり得る期待を選択しているのだ。だが、もとより法システム未来を予知できる訳ではない。だから闘争を先取りする視点にも盲点が伴う。法システム闘争に対する期待もまた期待外れに陥る以上、実定法によって法規範を強化し続けていかなければならない。その脈絡から、法規範を記述した法典は徐々に複合化していく。より複合的な法典を用意することによって、法システムはより多様な闘争による期待外れに対処していくことが可能になる。つまり法システムは不測の闘争によって期待外れを突き付けながらも、その期待外れを隠蔽するための新たな法規範を再構成し続けることによって、システム複合性とその機能性を高めていくのである。

闘争の先取りにおける選択の決め手となるのは、期待の規範性に他ならない。そしてこの規範性の決め手となるのは、法システムにおける合法と違法の二値コードである。このコードにより、法システムは、合法的な<合法と違法の区別>と違法な<合法と違法の区別>を区別する。法システムが選択するのは、常により合法的な<合法と違法の区別>である。合法と違法の区別で重要となるのは、確かに規範的な期待だ。とはいえ、法システムであっても、認知的に期待することはできる。さもなければ、新しい手口の犯や突発的なテロのような闘争が不意に勃発した場合に、法システムは学ぶことができないことになってしまう。言わば法システムは、合法的な<合法と違法の区別>の盲点を突く闘争が勃発した場合に、認知的な期待構成するのである。しかし、法システムは常に二値コードに従う。だから法システム認知的な期待規範的な期待区別するなら、その区別もこの二値コードに対応している。この場合、認知的な期待は違法に、規範的な期待が合法に対応する。だが法システムは合法的な合法と違法の区別に従う。だから法システムの違法に対応した認知的な期待は、あくまで合法に対応した規範的な期待を前提とした上での、認知的な期待なのだ。法システムは、規範的に期待されている認知的な期待構成するのである。故に法システムは、無数に遍在する認知的な期待の全てを選択することはできない。他のシステムに比して、法システムが選択することのできる認知的な期待は限られている。

許可と禁止の二値コード

発展した社会における法システムでは、「許可(erlaubt)」と「禁止(verboten)」の区別が新たな二値コードとして補われる。この新たな二値コードによって、法システム矛盾制御することができるようになる。そして更に、法システム免疫システムという出来事もより正確に制御することが可能になる。ある行為は許可あるいは禁止矛盾し得る。例えばその行為が許可されている別の行為を妨げた場合は、許可矛盾するということになる。一方その行為が禁止された行為となれば、それは禁止矛盾する。こうして法システムは、許可禁止区別構成することで、矛盾意味付与を制御すると共に、免疫システムを方向付けることが可能になる。

故に法システムは、闘争を回避する場合に機能することもあれば、逆に助長する場合に機能することもある。法が回避しようとしているのは、暴力による闘争の決着のみである。暴力以外の闘争であれば、法はむしろその状況に適したコミュニケーション形式闘争に与える場合すらある。そうした闘争の典型的な舞台となるのが、裁判所という組織システムなのである。

実定法の機能

社会は常に動態的に作動している。だが法システムにおいては、常に一定の法規範が妥当し続けている。法規範は、異なる時間の異なる空間における個別具体的な状況に左右されることなく妥当する。それは象徴的に一般化されている。無論個々の状況次第では、法規範の妥当性に対する期待期待外れに陥ることもあるだろう。だが法システムは、この期待外れを隠蔽する形式を用意している。それが実定法だ。例えば日照権は、基本的人権に含意されるとは考えられていなかった。だが隣に高層ビルが建築されたことで日当たりのい住居での生活を強いられることになった住人たちが法的な手続きを取ると、法廷での闘争や法理論の再記述によって、日当たりの良い住居で生活する権利が基本的人権に含意されることになる。それ以降、日照権が恰も以前から尊重されるべきであった権利であるかのように規範的に期待されることになる訳だ。このように実定法は、既存の規範的な期待では隠蔽され尽くされずに発見された期待外れを隠蔽できるようにするために、既存の規範的な期待を強化していくのである。

この法システム自己言及的な作動は、自然法を一掃する。かつて自然法が想定していたのは、事物はその「本質」によって区別できるという前提であった。故に事物は、それ自体として、<等しい>と<等しくない>の区別によって認識することができていた。言い換えれば、自由な概念的操作で「本質」に対する認識を変えることはできないのである。こうした本質に対する認識は、ファーストオーダーの観察によって可能であるとされた。本質を誤認している観察者たちには、自身の誤認に気付かなくてはならない。したがって自然法において問題となるのは、誰の認識が誤っており、誰の意見が専門知識や権威によって擁護された正しい意見なのかを確認することであった。弁証法は、このための有用な方法を提供していたのであろう。

ルーマンによれば、近代の理性法も、自身を自然法であるかのように理解している。しかし理性法は既に伝統から断絶している。理性法は、自由と平等という権利を基本的で生得的な人権として記述する。これにより、個別化された各人の権利を一般化すると同時に一元化することとなった。もはや自然としての本性から自然内在する制約に関する情報を抽出することはできない。生得的な優劣は、これによって排除される。しかしこの原理は、妥当している法を解釈するには有用ではない。むしろそれは法的な秩序全体と矛盾する。そもそも法規範は、自由の制約として形式化されると共に、不平等な扱いを受ける契機としても形式化され得る。自由は必然性否定すると共に、偶発性を増大させる。だがそのためにはまさにそうなるべく秩序付けられた法システムが必要になる。法システムが自己をそのように規定する契機として用いるのが、平等という概念なのだ。

正義のパラドックス

こうして袋小路に立たされた理性法的な規範主義を眺めて、ルーマンはロールズやハーバーマスが試みたような社会の理想像としての正義論を主張しようとはしなかった。むしろルーマンは、正義法システムにとっての岐路として記述する。正義主題とした法的なコミュニケーションは、成し遂げるべき理想論の達成としてではなく、解決不可能なパラドックスに対する脱パラドックス化として遂行されるのである。

実際、正義論で参照されてきた自由と平等という概念は、共にパラドックスとなる。様相論理学必然性概念と同様に、あらゆる点で自由ならば、法の下の平等の対象となり得る事例や人格差異しか生み出さないだろう。一方、あらゆる点で平等であるのならば、事例や人格の同一性は「止揚」されるはずだ。しかしながら、<等しい>と<等しくない>の決定を下すには、その同一性こそが前提条件となる。かくして平等概念は、自己自身を不可能な概念として指し示すことになる。

正義は、等しい事例は等しく扱い、等しくない事例は等しく扱わないという二重化された指令によって、事柄の決定の一貫性を定義する。つまり正義という概念は、<等しい>と<等しくない>という観察形式を予め定めているのである。この形式によって、法的な観察者は、法システムの内部に正義に対する比較の観点を探索することに意味を見出す。しかしながら、その観点が如何にして発見されるのかについては、正義の概念は何ら明らかにしていない。

正義の観察の観察

偶発性定式としての正義は、したがって社会の理想像を掲げる大言壮語なのではなく、むしろ法的コミュニケーションに対する「仕切り直し」として機能する。それは<等しい>と<等しくない>という観察形式構成することによって、新たに正義概念やこれに付随する自由や平等などの概念に関するファーストオーダーの観察に着手することを可能にする。必然的に偶発性に曝されることになる近代社会で迷わずに進むには、このファーストオーダーの観察に対するセカンドオーダーの観察を実践することが有用な方法になり得る。

正義に関するファーストオーダーの観察者は、マークされていない領域に<等しい>と<等しくない>の区別を導入する。そうして導入された区別は、<マークされている領域>と<マークされていない領域>の差異構成すると共に、<観察者自身>と<観察対象>の差異構成する。一方、これに対してセカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察観察していく。それはファーストオーダーの観察とそれ以外の全てを区別するということだ。セカンドオーダーの観察者は、ファーストオーダーの観察者観察のみを観点として絞り込むことで、ファーストオーダーの観察者による影響に敏感に反応すると共に、それ以外の対象との無関連性を高める。それ故に、この観察観察は、他の偶発性定式が指し示すような多種多様な問題設定盲点として伴わせる一方で、正義についての強制無き討議をも再出発へと方向付けられるのである。

問題解決策:科学・学問システムの偶発性定式としての「制約可能性」

ルーマンによれば、学問システム偶発性定式は「制約可能性」である。この耳慣れない概念は、とりわけ学問的なコミュニケーションにおいて重要となる真理への肉薄において問題視される。

否定の余地による創造の余地

制約可能性は、ある概念を否定することが、同時に他の概念の肯定的な規定にも貢献するはずだという想定に基づいている。ある命題の否定は、全くの無意味なのではない。それは真理へと肉薄するために有用となることが前提となる。

別の言い方をすれば、学問の制約可能性は、研究に否定の余地を残すことによって後続の研究のための接続可能性を生み出さなくてはならない、ということを言い表している。否定可能性を、研究の成果そのものによって再生産しなくてはならないのである。

もしも研究成果に否定の余地が全く無いのならば、その研究成果は完璧に真理へと肉薄していることになる。しかし、一度否定の余地の無い成果が提起されると、少なからずその分野の学問は、途端に有意味体験構成し難くなる。完璧な真理が発見されれば、もはやその分野の研究は用済みとなる。その分野に新発見などあり得ず、何も発明され得ない。否定の余地が無い真理が見出されるということは、もはやそれ以上の創造の余地が無いということを意味する。したがって、学問的なコミュニケーションは、それまでの研究成果よりも優れた成果を探究しつつも、決して完璧な成果を提示してはならないということになる。

形式としての制約可能性

制約可能性は、形式として構成されている。それは<マークされている領域>と<マークされていない領域>の差異構成する一方で、<マークされていない領域>に区別を導入する。そうすることで、学問の可能性を切り拓くのだ。

制約可能性は、学問的なコミュニケーションによって<マークされている領域>のもう片方に、未だ探究すべき主題が残存している状態を生み出す。そうすることで、後続の学問的なコミュニケーションは、未だ観ぬ可能性を志向することができるようになる。

制約可能性が学問的なコミュニケーションに重大な影響を及ぼし得るというのは、この形式的な記述を科学史に当て嵌めることで具体化することができる。例えば完全性定理不完全性定理を記述したクルト・ゲーデルによる「ゲーデル・ショック(Godel’s shock)」は、当時、恒真となる命題はいずれ証明され得るという単純な想定に基づいていた「ヒルベルト・プログラム(Hilbert’s Program)」に対して強烈な「否定」を提示した。それ以来、論理学と数学は、決定不可能命題を不可避的に抱え込むことになった。この事態は、人工知能工学的な研究開発においても無関係ではない。

このゲーデル・ショックに対して、期待外れを隠せずにいた研究者も少なくはなかった。しかしながら、まさにこの強烈な否定こそが、むしろ学問的なコミュニケーションを活性化していたのである。典型的なのは、ダグラス・ホフスタッターによるゲーデルの証明に関する解説である。ホフスタッターは、高次元のシステムが低次元のシステムからは説明不能な能力を有しているというゲーデルの指摘を、心や脳を分析するための高次元の方法可能性探究へと結び付けている。心や脳には、確かにそれよりも低い次元の事物には現われない概念が含まれている。ホフスタッターはこの観点から、決定論と自由意志という哲学的な問題を解決しようと試みた。

ホフスタッターは、人間をさもプログラムであるかのように描いている。しかしホフスタッターによれば、そのシステムが決定論的か否かは問題ではない。我々がそれを自由意志論的な選択者と認識できるか否かは、プログラムが作動する際に構成される高次元の概念と自己自身を同一視できるか否かに懸かっているという。低次元のプログラミング言語を記述されたソースコードを読むだけでは、確かに素朴なアルゴリズムデータ構造しか見受けられないかもしれない。しかし、より集合性の帯びた高次元の水準では、直観、創造性、意識などといった性質が創発する可能性がある。

このホフスタッターの一例は、ゲーデル・ショックが学問システム偶発性定式として機能していたことを示している。ゲーデルの証明は、それまでのヒルベルト・プログラム的な形式主義に対する否定的なショック効果を浴びせる一方で、心や脳に関する創発的秩序の探究主題とした学問的なコミュニケーションをむしろ活性化させたのである。

制約可能性のパラドックス

制約可能性は、それ自体は学問システム偶発性定式として機能している。それは、否定の余地によって、探究の余地を切り拓く。しかしながら、まだ観ぬ世界を探究しようと志向するのは、学問システムだけではない。場合によっては宗教システムも、そうした世界を超越内在区別によって観察しようとする。だとすれば、学問システム偶発性定式としての制約可能性は、学問的なコミュニケーションのみならず、宗教的なコミュニケーションも活性化させ得る。これは、とりわけ脱魔術化された世界の近代科学の視点から観れば、パラドックスとして映るであろう。

ルーマンも認めるように、各機能システム偶発性定式の間には優劣の関係が無い。偶発性定式に関する各種の意味論は、機能的な分化という社会構造に方向付けられている。したがって、学問システム制約可能性宗教システムを追放できるという訳ではない。近代科学が否定したとしても、その否定によって<マークされた領域>のもう片側の領域に、また可能性構成されるかもしれない。恰も創造主なる否定する進化論がむしろ逆に創造論による強い反論を誘発してしまうように、否定するファーストオーダーの観察者は、を肯定するセカンドオーダーの観察者による観察に曝され続けるのである。

無論この観察観察の関連は、逆の場合も成り立つ。先述したように、全知全能であるは、観察盲点観察という無限後退的なパラドックスを隠蔽する必要が無い。しかし、だからこそは、学問による否定の標的となり得る。つまり、パラドックスの統一体であるが、学問的に構成された形式による脱パラドックス化の対象になり得るのである。否定することが、制約可能性という形式を導入する上で、有用な観点となるのだ。

かくして、制約可能性は、まるで回転扉のように登場してくる。近代の脱魔術化された世界は、脱魔術化による魔術化による脱魔術化による魔術化……された世界として、パラドックス化するのだ。

問題解決策:教育システムの偶発性定式としての「教養」

ルーマンによれば、教育システム偶発性定式は「教養」である。ここで「教養」を意味するドイツ語のBildungは、学習過程を強調する場合には「啓発」と訳されることもある。比較的結果として形成すべき状態を指し示す場合には、Bildungは「教養」と訳される。ここでは、特に断り書きない限り、この用語を「教養」と訳すこととしよう。

旧いヨーロッパの時代における教養の意味論

長らく古典主義(Klassizismus)に基づいた教養概念は、現行教育制度を批判する際の主題として参照されていた。曰く、教養の本質は人類の英知の結晶となる古典にある。曰く、それは先の見通しが立たない教育現場に本来の教育の在り様を示す。教養はかくして、教育の根本原理であると認識されていた。こうした古典主義は、原理原則として規定された基本を応用すれば問題を解決できるという発想に根付いている。古典主義的な教養概念は、古典の中に全ての教育問題を還元しようとしてきた。

古典主義的な教養意味論に影響を与えたのは、18世紀の啓蒙主義である。例えば当時ケーニヒスベルク大学で人間学と教育学を教えていたイマニュエル・カントは、人間性と教養教育を結び付ける「啓蒙(Aufklärung)」概念を提唱している。彼の語る啓蒙とは、「未成年(Unmundigkeit)」の状態から「成年(Mundigkeit)」の状態へと発達させる人間性の啓蒙であった。啓蒙の目標は、人間性の完成状態に他ならない。尤もカントは、個々人のそれぞれを個別に啓蒙するだけではなく、個々人が帰属する市民社会(burgerliche gesellschaft)をも啓蒙しなければ、この完成へは至らないと考えた。このカントの思想は、教養教育教育制度の双方に対する批判的な検討に勤しむ教育論者たちにとっては魅力的な発想となった。

一方、新人文主義(Neuhumanismus)によって賛美されてきた『一般的人間教育(allgemeine Menschenbildung)』のような教養教育論では、ドイツ語のBildungの語源を遡及することが常套手段となっている。ドイツ語のbildenという動詞が「形成」を意味することからもわかるように、Bildungは自らを形成する陶冶として解することができる。それ故に、とりわけウィルヘルム・フォン・フンボルト以来、教養概念は、教育による人間形成を自己形成として成し遂げる発想に強調して結び付けられるようになった。教養の獲得は自己形成的であるが故に、この発想は、個々人の個体性を尊重しなければならないという発想と親和性が高い。教養は個々人がその内面を磨き上げることで獲得される。それは、特定の社会的状況に対応した有用な技能とは区別される。教養教育は技能訓練(Ausbildung)ではない。精神の自己形成としての教養は、誰もが皆必要とする資質であると同時に、決して特定の社会的な状況に対する有用性には還元し得ない性質である。この意味教養は、個体性を尊重すると同時に、普遍性を成立させなければならない。技能訓練が特化した特定の状況に相対するのに対して、教養教育は世界の全体に相対するのである。

だがドイツでは、遅くても19世紀中期になると、「教養市民層(bildungsbürgertum)」と呼ばれる者たちが台頭してきた。新人文主義的な教養教育が大学の中で育まれたとすれば、教養市民層は大学の卒業者たちによって継承された教養概念であるとも言える。しかしフリードリッヒ・ニーチェが辛辣に批判していたように、教養市民層における教養概念は、専ら俗物的な概念であるとして過小評価される傾向にあった。ニーチェから観れば、教養市民層は単なる教養俗物(Bildungsphilister)である。彼の批判的な眼差しはその形骸に向けられる。教育市民層にとっての教養とは、文化芸術の古典を習得することを意味していた。この類の教養は、単に知的な満足感を覚えるための装飾物に過ぎない。しかし、当のニーチェ自身が論じる教養概念は、専ら古代ギリシアの都市国家ポリスの理想論に偏っていた。歴史哲学的に言えば、ブルジョワ的な教養の俗物化は、ニーチェ自身の理想が歴史的に無常化されていることを端的に指し示す近代社会の現実の一つである。

学習対象の自明性の埋め合わせ

教養問題設定の対象となるのは、誰も教養に関する統一見解を導き出せなくなった場合である。確かにこの社会には、学習すべき知識が山ほどある。だが、誰も何を学習すべきなのかを自明視することはできない。学習すべき知識は別のあり方でもあり得る。教養概念は、まさにこの学習すべき知識の必然性が喪失した場合の埋め合わせとして動員される。

教養は、教師と生徒の双方に能動性を要求する。これにより、教養は過程を問わず努力によって獲得すべきとされる。だからこそ、その埋め合わせとして、教育システム教養のために「何か」をしなければならないという問題設定を可能にする。この埋め合わせ論的な教養概念は、例えば書店に陳列されている「自己啓発」の書籍に没頭する社会人や大学生、あるいはいわゆる「学歴コンプレックス」に浸る者たちによる多種多様な「知」の再定義による代替案――すなわち、「学歴だけが『教養』ではない。例えば僕が見てきた現場では、数学や哲学なんて使わない」といった具合に、少々一般性や抽象性に欠ける主張を例示するだけでも、よくわかることであろう。

文明評論家のイヴァン・イリイチが告発した「学校化(schooling)」と呼ぶ事態からも、教養が埋め合わせ論的な概念として機能していることが読み取れる。学校や専門組織が制度化する「学歴」、「資格」、「免許」のような形式は、専門家の「希少価値」を高めるために機能する。通常これらの形式は、選抜された人間にしか与えられない。高学歴のエリートや教授の資格を有した御用学者たちの発言が注目を集めるのは、彼らが一般市民には持ち得ない珍しい知識や技能を有していると期待されているためなのである。そのため、偶発的で不確実な将来を見据えて何を学習すべきかを懸念する時、一般市民はまず専門組織によって制度化された専門知識こそを学習すべき教養として受容する。無論、ある分野の専門知識を学習することには全く何の必然性も無い。むしろ必然性が無いからこそ、知識を学習することの偶発性から目を逸らすために、専門組織専門家への盲目的な追従を方向付ける学校化機能するのである。

自己啓発的な生涯教育

教養は、しばしば学習能力と関連付けられて論じられる。ユネスコで初めて「生涯教育(Lifelong education)」を提唱したフランスの教育思想家ポール・ラングランも、学校の内外を問わずに教養を得ることの重要性を主張した。それは一種の社会教育で、啓発されるべきなのは生徒だけではない。社会人こそがラングランの主眼にあった。学校教育は生涯を通じた学習の出発点に過ぎない。むしろ重要なのは、単に教育によって学生に知識を提供するのではなく、卒業後も生涯継続して学習し続ける能力と機会を与えることなのだ。

この生涯教育で重要視されているのは、知識の伝達のみならず、生涯を通じた学習への動機付けや、他者との協働学習能力を発達させることであるとされた。ラングランはこのことを「学習することの学習(Learning to learn)」と呼んでいる。それは言わば自己啓発的な学習への動機付けの調達を意味する。

生涯学習の意味論

だがラングランの生涯教育論は、意外にも印象を派生させてしまった。例えば教育が解放のための道具なのか、支配のための道具なのかという問いは、生涯教育においては特に避けられない問いとなる。一生涯のための教育もあれば、市民性のための教育もある。宗教的な教育もあれば、政治的な教育もあるだろう。教育にイデオロギーが付随することも避けられない。生涯教育もまた以前の近代教育と同様に、民主主義化のための装置として機能する一方で、既存の社会構造の「再生産(reproduction)」のためにも機能している。

こうした問題を設定されると、生涯教育論は肩身の狭い思いをせざるを得なくなる。それは、生涯を通じた学校的な「管理」を連想させてしまう、という訳だ。そこで用語の言い換えが要求された。こうした背景もあってのことか、ラングラン以降、徐々に「生涯学習(Lifelong Learning)」という新概念が代替案として導入される傾向になった。この生涯学習という概念は、とりわけユネスコにも影響力を発揮していたロバート・ハッチンスの「学習社会(Learning Society)」の概念によって、既に抽象性を獲得している。

ハッチンスが提唱する「学習社会」は、単にあらゆる成人男女に成人教育を提供するだけでは訪れない。学習社会という概念は、単に「全ての人々に教育機会が与えられた社会」であるという訳ではない。ハッチンスによれば、学習社会の到来に向けて目指すべき目的となるのは、学ぶこと、何かを達成すること、人間的になることである。こうした目的のためにあらゆる制度が職業教育の価値を重視した制度から教養教育の価値を重視した制度へと転換することに成功した場合において、漸く学習社会が形成されるのである。彼が職業養成を教育の根本として認めないのは、理由の無いことではない。勿論職業教育存在を彼は全否定している訳ではない。そうした教育は、企業内部で実施すれば良いことなのだ。ハッチンスの展望によれば、科学技術が発達した未来社会においては、余暇の時間が労働の時間を上回るという。彼は自由時間における自己実現としての学習を重視する。教育制度はこうした自己実現を支援しなければならない。

この未来展望は単なる楽観論ではない。ハッチンスは機械技術を主軸とした文明を賛美していた当時のアメリカ社会の批判者として現われた。また彼は国家の繁栄に没入することが教育の根本なのではないとも主張していた。経済的な発展を目指した人材育成としての教育も、誤った道に進んでしまうと彼は批判している。ハッチンスが重視していたのは、古代ギリシア以来西洋社会で普及した人文主義である。確かに学習社会という概念を生涯教育生涯学習の概念に結び付けるのならば、それは近代教育に対する明確な代替案として位置付けられている。だが一方でハッチンス自身は、古典的な教育思想家たちに一定の評価を与えてもいるのだ。ハッチンスが求めたのは、全ての人々に一般教養を与えることである。

ハッチンスの学習社会という展望は、1972年のユネスコ教育開発国際委員会報告書「フォール報告書」(Learning to be)に継承されている。この報告書の主張は、人間存在し続け、進化していくためには、絶え間なく学習していかなければならないという点に要約される。それ故に同報告書では生涯学習論的に学習社会を構築することが強調されているのである。学習社会における学習者は、もはや教育の客体ではなく、自己教育の主体となる。その教育はもはや財産や知識や地位や権力を目指した「所有するための学習(learn to have)」ではなく、自身の能力や技能を高め発揮するための「存在するための学習(learn to be)」となる。

生涯学習のパラドックス

ハッチンスの学習社会は、生涯学習という概念を明確に普及させることに貢献してきた。しかし、それ故の副作用も避けられなかった。このことはイリイチの視点に立つことで明快になる。生涯学習し続ける社会という構想は、それが制度化によって実現することで、生涯を通じて学校化され続ける社会を意味してしまう。

こうした副作用が伴うのも無理は無い。それはイリイチが言う意味での「価値の制度化」が生じているからこそ伴う違和である。「生涯学習」の意味論学習意味処理規則を貯蓄するまでもなく、我々はもとより学習し続けている。ブログを読み書きすることも、Twitterのタイムラインを眺めることも、単に企業で勤務しているだけでも、学習が伴っている。しかしながら、生涯学習という価値の制度化が実現すると、途端にその制度が保証する以外の学習が、学習ではなくなってしまう。生涯学習制度が普及すれば、生涯学習として評価された学習だけが学習であるという錯覚が芽生えてしまうのだ。

生涯学習の脱パラドックス化

1980年代にラングランの生涯教育論を継承してユネスコの生涯教育部長に就任したエットーレ・ジェルピは、こうした教育の主体としての学習者の立場を強調した場合に生じる矛盾を特に意識して論じてきた。彼の生涯教育論は、抑圧された労働者、女性、子供、移民、第三世界の人々を対象として展開されている。このことは1985年にユネスコで採択された「学習権宣言(The Right to Learn)」にもよく反映されている。学習権を承認することは、人類にとってかつてないほどに重要な課題となっている。学習権とは、読み書きをして、問いを設定し、深く考え、創造して、歴史を記し、あらゆる教育手段を獲得する権利である。それは単なる経済的な発展の手段とはならない。それは基本的人権の一つとして位置付けられなければならない。学習権の保障は、学習者を教育の客体から主体へと変える試みとなる。言わば学習権とは、人間人間になるための権利である。

ジェルピに連なる生涯教育生涯学習の概念は、1997年に開かれた第五回国際成人教育会議で採択された「成人学習に関するハンブルグ宣言」において公認されるようになった。これにより生涯学習という概念には、ハッチンスが区別した<職能養成を目指した生涯学習>と<一般教養を目指した生涯学習>に加えて、<学習権の保障のための生涯学習>が含意されるようになった。生涯学習意味論は、事実上この三つに定着しつつある。

メディアとしての子供

ハッチンスが導入した生涯学習区別に対するジェルピの区別の再導入は、生涯学習パラドックス脱パラドックス化する上で有用な区別となっている。生涯学習意味論を前提とすれば、自己啓発的に学習し続けることで教養を得ることが、生き続け存在し続けるためには不可避であるという認識を持つことができる。故に日常生活で遭遇する数多の偶発性は、教養を得ることに没頭することによって、視界から一掃することができるのかもしれない。教養は、必然的な問題として設定されていると言える。

しかしこの生涯学習は、その代わりとして、教養パラドックスを顕在化させることになった。生涯学習子供のみならず成人までも被教育者となる人格として言及し始めたことで、教育的なコミュニケーションは、その複合性を増大させることになった。その結果、学習すべき対象を規定するはずの教養概念が、むしろ無規定性を撒き散らすことになったのである。

このことは、教育的なコミュニケーション構成されているメディアに観点を移すことで明瞭となる。当初ルーマンは、教育システム象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは「子供(kind)」であると述べていた。18世紀以降、それまで「小さな人間」や「後成長する人間」として観られていた者たちが、に誘惑される弱さを持った「子供」として観察されるようになったのだ。教育は、とりわけ子供のこの弱点を矯正するために機能するようになる。弱き子供を社会から保護することが教育であるという認識が自明化していったのである。ルーマンによれば、この時点で教育システムは、子供を行為者としてだけではなく、体験者としても観察するようになったという。つまりこの時教育者たちの間では、教育者が単に子供の行為に罰則を与えるのではなく、その行為の動機となった体験を再構成した上で、初めてその行為に罰則を与えることが重要であると考えられるようになったのである。

もとよりメディアとしての子供は、子供それ自体ではない。それは教育者が子供教育可能性期待するための社会的な構成物である。一方、形式としての子供は、大人との差異を確保することで成り立つ。この区別によれば、子供はまだ大人ではない。子供には、大人としての特徴が欠落している、と見立てられる。これにより、教育システムにおいて人間は、子供と大人に区別される。それ故教育システムは、他の機能システムとは違って、全市民に対応している訳ではない。尤も、子供時代を経過せずに大人になる者はいないだろう。だから人生の初めの段階に限定されるとはいえ、やはり教育システムも全市民に対応していると言えるのである。

メディアとしての経歴

一方ルーマンは、20世紀以降、新たなメディア構成されたという。それは履歴書に記述されるような「経歴(Lebenslaufs)」である。経歴は、自明ではない。それは偶発的な出来事集合である。そしてその集合体は個人に左右される状態で連鎖的に生じている。最も偶発的なのは、出生である。それは経歴の始まりを意味する。一旦出生すると、その後の経歴化し得る出来事可能性は、生存という事実の範囲で制約される。

社会的に生活していれば、ある個人の経歴が他の個人の経歴に影響を与えることは大いにあり得る。面接試験で不合格となったのは自分の努力不足なのか、それとも偶然遭遇した試験官が不公正だからなのかを議論することもできよう。だが仮に試験官が意図的に特定の個人を不合格にすることで、その個人の経歴上の空白期間を延ばしてしまったとしても、そのことを根拠付けることは非常に難しい。

経歴に影響を与え得るコミュニケーションは高度に複合的であるために、経歴正統性や正当性、あるいは妥当性を根拠付けることは不可能な場合が多聞に及ぶ。まさに仏陀にはじまる原始仏教徒たちが見出した「因縁」という用語が物語るように、あらゆる人間経歴があらゆる人間経歴と関連付いている可能性すら、我々は排除できない。

だが経歴を「物語る」ことは、それほど難しくはない。取り立てて根拠を取り上げるまでもなく、就職活動中の大学生たちは、「バイトリーダー」や「ボランティア活動」について、自らの武勇伝を語ることができている。履歴書とは自己演出の脚本なのである。

経歴においては、根拠付けと物語化は機能的に等価である。経歴は個人ごとに分類され、個別化されている。それは、個人が自分の人生を自分で決定することができるからではない。また、その人生の出来事が個人から引き起こされているからなのでもない。経歴の個別化は専ら様々な出来事の連鎖に由来する。例えば慶應義塾大学で中間テストを受けることができるのは、慶應義塾大学に入学したという経歴を有する個人に限定されるだろう。東京大学に入学した者は、大学を入り直すか編入でもしない限りは、こうした個人と同じ道を歩むことはできない。そして慶應義塾大学を卒業することができるのは、そうした諸々の試験を通過することができた個人に限定される。そうして個々人がそれぞれの道を歩んでいくうちに、経歴はその個人固有の出来事の連鎖として形式化されていく。そうした経歴物語られれば、その個々の出来事の諸要素は語り手によって更に任意に抽出して纏め上げられる。そのことで、経歴は更に緊密に結び付けられた形式として再構成されるのである。

形式としての知識

ルーマンは、こうした経歴メディアとして形式化されるのが、「知識(Wissen)」であるという。教育システムはこのメディアとしての経歴形式としての知識の差異を手掛かりとする。形式化された知識は、後の経歴形式化させるメディアとなる。知識によって、後の経歴が方向付けられるのだ。よって経歴と知識は相互に形式化し合う循環的な関係を結ぶ。

ここでいう知識とは、学問システムマスメディア・システム構成される知識とは異なっている。学問は、妥当か否かを吟味することで知識を構成する。学問が承認する知識は、偽ではない知識だ。だが如何に御用学者たちに発言力があるかのように視えても、学問システムが社会的に承認され得る知識か否かの基準を形式化している訳ではない。何故なら、学問システム自身が社会的に承認される必要があるからだ。また、そうした社会的な承認の基準は、マスメディアによって形式化される場合もある。実際御用学者の発言力を高めているのは、著書やテレビ出演などといったマス・コミュニケーションである場合が多聞に及ぶ。マスメディアにおいては、知識は専ら情報を理解するための背景として位置付けられる。情報が伝達されれば、その知識は偽であっても構わない。実際には疑似科学のような知識を背景としていても、情報に価値があるならば、マスメディアにおいては何ら問題とはならないのである。

しかし、これに対して教育システムにおける知識は、常に個人の知識に限定される。それは個別化された個人の経歴を前提とする。それと同時に知識は、個人の経歴の機会を付与する形式や個人の経歴の機会を閉ざす形式として機能する。こうした兼ね合いから、知識は社会的に構成されているにも拘らず、心理システム神経システムの中にあるかのように語られる。とりわけそれは記憶に条件付けられている。それは個人がわかっていることとして規定される。個人に関連付けられるが故に、知識とは個人が知っている知識や個人が能力や技能として習得しているものだと考えられているのである。

個人ごとに異なる知識を所有しているという想定から、ある個人の知識は別の個人を驚かせる場合がある。何かを知っている者たちは、その知識で情報を加工することができるのである。だから個人の知識は、個人が変異や意外性をもたらすためのメディアとなる。一方で知識は、記憶を手掛かりとした反復可能性から、冗長性も構成する。ある知識の持ち主は、その知識を何度も主題化することができる。これを前提とすれば、知識は変異性と冗長性の双方を構成する意味形式として機能することになる。知識に依拠して振る舞えば、その出来事経歴となる。知識の変異性に依拠すれば、別の道を歩む人生を迎える可能性が高まるだろう。逆に知識の冗長性に依拠すれば、これまで通りの人生を歩んでいく可能性が高まる。知識の形式が多種多様化すれば、それだけ後の経歴の選択肢も複合化していくことになる。

教養のパラドックス

このメディアとしての経歴形式としての知識の区別を前提とするなら、教養という問題設定の下で展開される教育的なコミュニケーションは、子供を対象とした学校教育であれ、成人による生涯学習であれ、個人による個別化された知識の学習として結実していくことになる。これにしたがって教養も、個人が自己啓発的に学習することで獲得する個別化された知識によって構成されているということになる。

しかし、皆が個々別々に教養を育めば、教養の範疇に含まれる知識が偶発的な選択対象となる。教養を目指した自己啓発が各個人によって展開されれば、それだけ別のあり方でもあり得る教養が顕在化してしまう。偶発性定式としての教養は、それ自体偶発的となる。言い換えれば我々は、教養を得るために学習すればするほど、教養については何も知らないということを学ぶ羽目になる。

この教養に対する無知は、学習者が偽の教養を得るリスクに曝されているということでもある。政治屋がポジショントークとして筆跡した新書がベストセラーになる可能性もあれば、政治活動家が思想的に好都合な書籍を読むように促すこともあり得るだろう。衒学的なだけの批評家志望者たちならば、哲学者の名前を引き合いに出すことで、その「書物」を読解することこそが教養を得る条件であると、「自己主張」するかもしれない。また、学校化されている者たちに至っては、資格や免許を獲得することが教養の条件であるかのように演出することも十分あり得る。

これらの有象無象が、自身に不都合な真実を突き付ける教養を弾圧するコミュニケーションや、普遍的な教養の拠り所を求めるためのコミュニケーションを招いてしまう可能性は、確かに否定できない。だがそれらは、精々政治的なコミュニケーションか学問的なコミュニケーションに過ぎず、決して教育的なコミュニケーションなのではない。少なからず教育的なコミュニケーションについて言えば、このリスクは、あくまで「教養とは何か」という問題設定によって回収される。それは、教養を得るための更なる自己啓発的な学習という問題解決策を引き起こす。そしてその学習もまた個人の個別性を前提としている。つまり、教養を得るための学習教養に関する無知を生み出す一方で、教養に関する無知は教養を得るための学習を駆り立てるのである。

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