Webクローラ型人工知能によるパラドックス探索暴露機能の社会進化論

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派生問題:隠蔽された諸問題の再発見は如何にして可能になるのか

心理学的社会は、心理学的な問題設定を顕在的な主題とする一方で、非心理学的な問題設定を潜在化させる。心理学的社会社会化された人格は、非心理学的な問題設定忘却してしまう。そこで、社会的な想起の仕組みが必要となる。社会システム理論的に言えば、機能的に分化した社会においては、マスメディア・システムがこの想起機能を担っている。ただし、ある主題の顕在化と別様の主題の潜在化は、コインの裏表の関係である。それはマスメディア・システムによる主題の設定にも該当する。だがマスメディア・システムにおいて固有となるのは、とりわけ隠蔽され続けて忘却されてしまった諸問題の再発見によって、社会システム問題想起を優先させる点である。そこで、全体社会におけるマスメディア機能を確認しておこう。

等価機能主義的な社会システム理論の観点から観れば、マスメディアもまた近代社会機能システムの一種である。マスメディア・システム二値コードとなるのは、「情報(Information)」と「非情報(nicht Information)」の差異だ。コードの正しい適用を方向付けているプログラムは、「ニュース(Nachrichten)」と「ルポルタージュ(Berichte)」、「広告(Werbung)」、そして「娯楽(Unterhaltung)」である。

問題解決策:プログラムとしてのニュースとルポルタージュ

ニュースルポルタージュプログラムの場合、コード化される情報は驚きをもたらす新しい情報でなければならない。それ以外は非情報である。ここでいう驚異とは、<標準>をまず前提としている。つまりその標準から逸脱した出来事や標準から飛躍した出来事が、驚異的な情報となるのである。この標準は、視聴者を適切な貢献へと方向付けるように、主題を貯蓄させた文化意味処理規則を貯蓄させた意味論マスメディアなりに構成することで設定される。マスメディア・システムは、まず標準を設定した上で、そこから逸脱した出来事や飛躍した出来事情報として選択しているのである。だから諸々の矛盾に満ちた闘争法システムにおける規範的な期待を裏切る犯やテロは、マス・コミュニケーションを潤わせていると言えるだろう。

ニュースルポルタージュというプログラムによって構造化されているマスメディア・システムは、被害者や被抑圧者を主題化することで、当事者意識や憤慨を誘発させようとする。機能的に分化したマスメディアという機能システムにとっては、機能的な分化という近代の社会構造に対立するはずの社会運動すら価値のある情報となってしまうのである。

ニュースルポルタージュ構造化されたマスメディア・システムは、主題を設定する機能を持つ。しかしこれだけがマスメディア機能なのではない。マスメディアは、ニュースのような番組を通して意見を表明することもある。偏向報道に対する抗議デモに対して、「嫌ならテレビを見るな」を反論することも可能であろう。

こうしたニュースルポルタージュプログラムにおいては、真理や真実に基づいた情報提供が価値あるものと見做される。しかしマスメディア・システムは、真と非真という二値コードとは全く無縁である。このコードに従い得るのは学問システムだけだ。確かにマスメディア・システムは、このコードに基づいた学問システムの作動を前提として位置付けることができる。だからこそ3.11との兼ね合いでは、御用学者たちがカメラの前で原発安全神話を唱えていたのである。

ただしマスメディア・システムは、あくまで情報非情報区別する。マスメディア区別するのは、<情報価値のある真理>と<情報価値のない真理>なのだ。故に御用学者たちが<情報価値のある安全なデータ>だけを<真理>として提示する可能性は十分にあり得る。

問題解決策:プログラムとしての広告

広告は、ニュースルポルタージュとは異なるプログラムである。とりわけ流行商品などに関する美しいバナー画像やテクストで装飾された広告は、広告を提示する者が広告観察する者たちの動機付けを調達することを可能にする。こうした広告による動機付けにおいても、やはり鍵となるのは情報だ。広告は、人々の動機に情報という形式で弾みを付けている。

広告を事業展開のテンポを作り出す原動力となるべく用意された技術は多聞に及ぶ。逆説的な言葉遊びによって広告提示者の目論見を不透明にするというのも、広告の技術の一種だ。例えばお金を支払うことで「節約する」ことを強調する広告、明らかに不特定多数に向けられた広告でありながらも「貴方だけに特別の商品を展示します」と豪語する広告などは、この典型と言える。支払いすべき対象を直ぐに知らせないのもまた広告の技術の一つである。Web上ではオンライン・ゲームの課金システムにこの傾向が見られる。ゲームの最も魅力的なコンテンツを有料にしておきながら、ゲームのトップページやバナーには「無料」であることを強調する一文が記載されている。クリス・アンダーソンが紹介した「フリーミアム(Freemium)」という事業戦略においても、広告は重要な位置付けにある。

ルーマンによれば、広告機能の一つは、趣味のい人々に趣味を授けることである。教養を換金することはできない。だが金を教養に変えることはできるかもしれない。例えば芸術についての教養がなくとも、美術展の広告を視れば、高く評価されている芸術にあり付ける。その広告観察者は、その広告に従うことで、教養があるかのように振る舞いながら、美術展を選ぶことができるのである。こうした広告においては、装飾芸術と同様に、表層を以って深層を匂わせる技術が駆使される。広告提示者には、広告を視る観察者が何を考え、何を感じ、何を欲しているのかがわからない。それを制御することも不可能だ。それでも広告提示者は、その期待される成果を計算し、その対価が自分に支払われるようにする。この意味広告は経済的なコミュニケーションでもある。

しかし厳密に言えば、経済的な成功を収めることが、広告機能なのではない。マスメディア・システムプログラムとしての広告において、その重要な機能となるのは、日常の文化における重複と多様性の関係を安定化させることである。ルーマンによれば、ここでいう重複とは、宣伝した商品がより多く売れることで生み出される。一方ここでいう多様性は、宣伝した商品を市場で見分けることができるようになることで生じる。

この説明不足にしか思えない説明からルーマンの意を汲み取るなら、次のように補足できる。複製技術で大量に生産された商品の全てを限られた少数の消費者たちで買い取ることは絶望的に不可能である。そこで、より幅広い消費者層に向けて商品を宣伝するための広告が必要となる。ただし改めて宣伝するとなれば、既にその宣伝しようとしている商品を購買した消費者たちに向けても、同じ商品を「重複」して宣伝することになってしまう。そこで広告に求められるのは、旧い商品を新しく魅せるような演出である。スマートフォンはスマートフォンのままだ。だが新しい機能やコンテンツを搭載したことを広告で強調すれば、旧いスマートフォンと新しいスマートフォンの差異を明示することが可能になる。結果、消費者たちにとって、市場には「多様」なスマートフォンが陳列していることになる訳だ。

問題解決策:プログラムとしての娯楽

娯楽もまた上述した二つのプログラムとは全く別様のプログラムである。ルーマンも例示しているように、娯楽を考えるには、ゲームの考察が役立つ。ゲームを構築するには、時間の区切りが必要になる。ゲーム出来事の連鎖だ。それに一時的に従事することになっても、ゲームは参入離脱可能な営みである。だが現実がゲームの前後にしかないという訳ではない。つまり現実が停止すると同時ゲームが開始され、ゲームが終了すると同時に現実が再開する訳ではない。むしろ現実とゲーム同時存在しているのである。と言うのも現実とゲーム区別するということは、双方を同時指し示しているということだからだ。このことは、マスメディアもまた「意味」を構成するシステムであることを念頭に置けば明らかであろう。

ゲームと現実の区別に役立つのは、ゲームのルールだ。このことは集団的なゲームにも該当する。もとよりそのルールは予め合意されたルールなのではない。ルール違反もあり得よう。ただしルール違反があり得るのは、それがルールの枠組みで修正される限りにおいてである。全く修正される見込みの無いルール違反が伴えば、そもそもゲームの継続が難しくなる。違反者にはゲームから退場して貰わなければならない。

視聴覚的な現実のシーンもまた、ゲームと現実の区別に役立つ。そのシーンは、知覚メディアを介した知覚刺激である。ゲームをはじめとした娯楽における虚構の現実世界は、このシーンによって自由を手にする。と言うのも、そうしたシーンの配列次第で、虚構の現実世界を柔軟に「設定」することができるからだ。

娯楽の参加者は、本当の人生とは違って、その最初と最後を観察することができる。娯楽の開始時は、生まれたばかりの赤ん坊なのではない。娯楽の終了時は、死に逝く途中なのではない。娯楽の参加者は、ゲームの開始時と終了時を明確に観察することができる。だからこそ参加者は、娯楽時間を日常生活の時間から区別することができるのである。

現実的な現実から虚構的な現実への境界横断を可能にするのは、こうした時間に基づく出来事区別である。テクストや映像の内側には、現実的な現実など無い。想像的な世界だけが広がりを見せる。この想像的な世界では、社会的に行動を調整することの必要性が無い。と言うのも、視聴覚的な現実のシーンを主題とした知覚刺激を受けるのは、社会システムではなく、心理システムだからだ。想像的な世界とは、他ならぬ心理システム構成した出来事なのである。それ故にこうした想像的な世界においては、ゲームそれ自体とは異なり、ルールという社会的な形式存在しない。しかしながら、心理システム知覚刺激を呈示しているのはマスメディアという社会システムである。だとすれば、やはり情報が必要となることになる。つまり、心理システム知覚刺激として呈示する情報が必要となるのだ。

ここで是非とも念頭に置いておきたいのは、娯楽の全てが虚構である訳ではないということである。登場人物や舞台背景は実在する場合がある。コナミデジタルエンタテインメントの『実況パワフルプロ野球』シリーズや『ウイニングイレブン(Winning Eleven)』シリーズなどのように、実在するスポーツ選手同士が衝突するゲームが、この具体例となるだろう。娯楽とはこの意味で、既存の知識を強化する効果があると言える。娯楽における実在する登場人物や舞台背景は、ニュースにおける<標準>のように機能する。しかし娯楽は、ニュースルポルタージュのように、教示や伝達を目的としている訳ではない。むしろ娯楽が既存の知識を活用するのは、娯楽自身をそうした既存の知識から際立たせようとするためなのである。それは、とりわけ娯楽主題が、娯楽に参加する視聴者や享受者たちの経験の範囲を超える場合に言えることだ。『実況パワフルプロ野球』で現役の選手とOB選手を対決させた場合を想定してみて欲しい。全く異なる時代を生きた野球選手同士が闘った場合に、どのような名勝負が展開され、どのような物語が生み出されるのかなど、通常の日常を生きる我々には中々計り知れない。だからこそ『実況パワフルプロ野球』のプレイヤーは、ゲーム展開に夢中になることができるのだ。

パイディアとルドゥスの差異

伝統的に「ゲーム(game)」という概念は、「遊戯(play)」の概念から区別されることによって認識されていた。この区別の前提にあるのは、社会学者ロジェ・カイヨワが提唱した「パイディア(Paidia)」と「ルドゥス(Ludus)」の差異である。

パイディアとは、戯れること、気晴らし、あるいは暇潰しを意味するギリシア語である。一方のルドゥスとは、競争、試合、あるいは闘技を意味するギリシア語だ。パイディアとは異なり、ルドゥスには明確なルールがある。ルドゥスの参加者たちは、勝利条件や禁止事項などを共有した上で参与しているのである。これに対して、パイディアには、こうしたルールは無い。ルドゥスには報酬をはじめとした外発的な動機付けが伴う傾向にある。だがパイディアにはこれが無い。パイディアの参加者たちは、あくまで自発的に戯れている。

遊戯とゲームの差異

カイヨワは、この区別遊戯ゲーム差異に対応させた。遊戯パイディアの如く、ゲームルドゥスの如く、それぞれ相反する性質を持っている。例えばプロ野球は草野球に比してルドゥス的である。プロ野球には明確なルールがある。草野球のお遊びのように、飽きても途中で抜け出すような真似は許されない。プロ野球の場合、選手登録していない部外者が途中から介入することも許されない。プロ野球の場合、致命的な反則を繰り返せば、次の試合には出場できなくなる場合がある。だが草野球であれば、多少の反則を繰り返しても、その反則者を排除するような社会的な圧力は働かない。少なからずプロ野球と比べれば、草野球の自由度は高い。だがその代わりとして、プロ野球には金銭的な報酬が伴う。プロ野球選手は、その報酬に見合った活躍を示さなければならない。一方草野球には、そうした報酬は無い。あくまで草野球は、やりたい者がやる遊戯だ。

この遊戯ゲーム区別は、単純な識別に役立つだけではない。何はともあれ、遊戯ゲームを方向付けている。発達段階論進歩史観を盲信している者たちならば、草野球で遊んでいた子供がその技能を高め、甲子園に出場し、その後はプロ野球から大リーグへと成長していくサクセス・ストーリーを唱えるだろう。

しかし遊戯ゲームの関係は、こうした夢物語物語るような直線的な右肩上がりを指し示している訳ではない。パイディアとしての遊戯根源にあるのは、気晴らしと気儘な振る舞いへの欲求、即興と陽気に対応した原初的能力に他ならない。それは、それ自体としては何も生み出さない冗長的な活動である。それは機能的に分化した社会の有用性には還元されない無用な活動だ。それ故、何も生み出さないパイディア的な活動からルドゥス的な活動が生まれるという想定に、我々は疑問を持たなければならない。こうした気晴らしと気ままな振る舞いに対応している遊戯から厳密で明確なルールで構造化されたゲームが生じるまでの間には、ある種の飛躍が伴っている。それは進歩主義や発達段階論では説明の付かない創発的な飛躍である。

問題解決策:マスメディア・システムの社会的な機能

ニュースルポルタージュ広告、そして娯楽のようなマスメディアコミュニケーションの意義は、後続するコミュニケーションへと接続する際の諸前提を構成することにある。そうした諸前提は、同時にコミュニケートする必要の無い主題である。例えば価値、ライフスタイル、流行、時代遅れ、趣味の良しし、あるいはニュースの記事を主題とした2ちゃんねるの「まとめサイト」などにも該当する。このような背景から言えるのは、マスメディアの社会的な機能となるのが、その「記憶」にあるということだ。

社会システムにおける記憶機能とは、情報の統合や情報の保存にあるのではない。むしろその機能は、特定の現実についての前提を既知の前提として取り扱うことを可能にすることなのである。社会システムのあらゆるコミュニケーションは、このマスメディアの社会的な機能を享受することができる。マスメディア・システムは、社会的な記憶の処理に特化することによって、他のシステムが社会的な記憶を改めて主題化させることの負担を軽減しているのである。

記憶は、あらゆるコミュニケーションにおいて機能する。それは既知の世界を参照しながら機能する。システムは、その都度観察している出来事が有意味か否かを区別している。そしてシステムは、あまりにも行き過ぎた情報を不確実な情報として却下していく。その際システムの拠り所となるのが、記憶なのだ。

ただしここでいう記憶は、絶え間なく更新されている。記憶過去の状態や出来事の保存を意味しない。記憶機能は、忘却想起差異の絶え間なく更新させることにこそある。システムの許容量に余力が生じると、システムはより必要とされる意味をより多く処理することができるようになる。システムの許容量に余力があるということは、文化意味論に貯蓄されているより多くの主題意味処理規則を再利用することができるということである。それは、文化意味論の貯蓄物をより多く想起できることと等しい。

故に想起としての記憶は、システムの反復的で重複的な作動を可能にする。しかしながら、システムの許容量には限界がある。もはや余力が無い場合には、システム内部に包摂している諸要素を排除しなければならない。想起として記憶に対して、忘却としての記憶は、まさにこのために機能する。システムは、既存の諸要素の一部を忘却することによって、新たな想起を可能にしているのだ。故に記憶は、それ自体システム作動の閉鎖性の一環でありながら、システムの新しい諸要素に対する継続的な開放性を可能にしている。また記憶は、常に更新されながら刺激され易くなっている状態を維持している。

これを前提とすれば、社会的な記憶の処理に特化した機能システムとしてのマスメディアは、情報記憶している者から情報記憶していない者へと情報を伝達する機能を持っているのではない。そうではなく、マスメディアという機能システムは、社会システムの諸要素を想起忘却形式で整理しているのである。マスメディア・システムが社会的に機能することによって、社会システムはその許容量が許す限りで文化意味論の貯蓄物をより多く想起することが可能になる。またマスメディア・システムが社会的に機能することによって、社会システムは現実的に不要となった文化意味論の貯蓄物を忘却することができるようになる。この想起忘却を循環させることで、社会システムはより状況に適合し得る意味処理規則意味論から引き出すことも可能になる。マスメディア・システムがこうした機能を順調に全うしているのならば、社会システムは新しい状況に向けて開放的になることもできるだろう。

「情報操作」に依存した「情報操作」の批判

したがって、機能システムとしてのマスメディアが偏向報道をはじめとした「情報操作」に着手していると批判することは、不適切である。そうした批判もコミュニケーションである以上、社会的な記憶の処理というマスメディア機能に依存していることになる。マスメディアによる「情報操作」が無ければ、コミュニケーションは円滑に進まなくなるのだ。

しかしながら、近代社会外部環境に位置する運動というシステムは例外である。社会運動は、マスメディア・システム機能に依拠することで近代社会忘却することとなった主題を改めて再び問題として主題化することができる。だが、社会運動が如何に忘れられた主題問題として展示しても、それだけで近代社会がその主題想起するとは限らない。近代社会社会運動によって突き付けられた問題主題として想起するためには、マスメディア・システムの作動が必要になる。それ故、マスメディア・システム社会運動の要求を忘却された主題として却下し続ければ、近代社会社会運動の要求を無視し続けるということになる。

こうして観れば、運動というシステムにおけるオートポイエーシスの不確実性が浮き彫りとなってくる。運動という社会システムもまたコミュニケーションである。社会運動機能的な分化という近代の社会構造に徹底的に抗うというのならば、無論マスメディア・システムの社会的な機能にも依拠してはならないということになる。この意味社会運動は、マスメディア・システムが軽減してくれるはずの負担を背負い込まなければならなくなる。つまり社会運動は、想起忘却形式で自らの諸要素を自らで整理し続けていかなければならないのだ。そうすることによって、社会運動対抗文化に見合う主題意味処理規則を自律的に調達していかなければならない。この過剰な負担に耐久し得たとしても、社会運動が成果を生み出す見込みは限られている。何故なら皮肉なことに、運動の成功はマスメディアの「情報操作」に左右されてしまうからだ。

派生問題:偶発性の必然性

あらゆるシステムが遭遇する根本的なパラドックスは、「偶発性必然性」という一言に要約される。ここでいう「偶発性(Kontingenz)」とは、単なる「偶然性」ではない。様相論理学的に言えば、この概念は「不可能性必然性同時否定した状態や状況」を意味する。ある選択肢を選択することが偶発的である場合、その選択肢を選択することは可能ではあるものの、必然ではないということになる。

ルーマンが偶発性を取り上げる場合、それが等価機能主義における問題設定問題解決策と密接に関わっていることが、大前提となる。とりわけ機能的等価物の分析においては、この偶発性概念はパラドクシカルな意味を帯びてくる。機能的等価物可能性を前提とした場合、あらゆる問題設定問題解決策は<偶発性必然性>というパラドックスに直面する。偶発性とは、確かに必然性否定した状態を意味する。しかしながら、あらゆる出来事や状況、状態が偶発的であるとするなら、偶発性それ自体が必然的に生じているということになる。こうした<偶発性必然化した状況>とは、必然的なものが何もない状況に等しい。逆説的に言えば、「必然的なものが何もない」という状態が、それ自体必然的となっているのだ。

このパラドックスは、このパラドックス問題として観察すること自体にも適用され得る。必然的に偶発性が伴うのであれば、あらゆる問題設定もまた別のあり方でもあり得る。故に偶発性必然性というパラドックス問題設定の対象にすることすら、偶発的な選択となる。

このパラドックスは、各領域に特化して問題を設定することで作動している機能システムを、とりわけ脅かす。宗教、経済、政治、法、学問、教育、のみならず、医療マスメディア芸術や家族など、様々な機能システムは、自らが専門とする領域で問題が設定されているからこそ、その問題解決策を提示することで、自己を有意味にしている。その領域における問題設定偶発的な選択肢に過ぎなくなれば、それだけ機能システム意味は薄れていく。言い換えれば、このパラドックスが顕在化している限り、機能的に分化した社会である近代社会機能不全に陥る。それぞれの機能システムは、その機能システムに固有の問題設定を前提とした問題解決策コミュニケーションに特化している。したがって、問題設定偶発性は、そのまま機能システムコミュニケーションを継続させる必然性の喪失を意味することになる。

問題解決策:偶発性定式

そこで機能システムに求められるのは、あらゆる問題設定必然的に可能であるという事態に対して、まずは否定の余地を生み出すことだ。この否定可能性を確保することで、偶発性に対する区別を導入することが可能になる。

その区別とは、<規定されていない偶発性>と<規定された偶発性>の差異構成する形式として記述できる。ルーマンは、極めて発見探索的に社会構造意味論観察することによって、この形式の各機能システムにおけるユースケースを記述している。ただし彼の認識はあくまで試論に過ぎない。その前提となる問題設定偶発性に曝された社会システムの秩序は如何にして可能になるのかであって、その問題解決策形式として導入しているのは、「偶発性定式(Kontingenzformel)」という試験的な概念である。

主題化の可能性

偶発性定式機能や様相を把握するには、先に事例を取り上げて、その共通性可変性機能的に比較していくことが望ましい。ルーマンが意味論的な記述によって例示していたのは、各機能システムに対応した偶発性定式だ。例えば宗教システムでは「(Gott)」が、経済システムでは「希少性(Knappheit)」が、政治システムでは「正統性(Legitimation)」が、法システムでは「正義(Gerechtigkeit)」が、学問システムでは「制約可能性(Limitationalität)」が、教育システムでは「教養(Bildung)」が、それぞれの機能システムに対応した偶発性定式になっている。

これらの偶発性定式は皆、偶発性に曝された機能システムが、問題設定の不可能性に直面した際に機能している。まず以ってこれらの概念は、歴史上、主題として反復的かつ冗長的に観察され続けてきている。一度主題として導入されれば、それからしばらくは、この主題への貢献として営まれるコミュニケーションが活性化する。

問題解決策としての問題設定

しかもこの場合の問題設定は、セカンドオーダーの観察者の観点から「如何にして」を問う複合的な問題設定というよりは、「何か」、「誰か」などといったファーストオーダーの観察者の観点から記述される比較的単純な問題設定となる傾向がある。例えば宗教システムの「」は、神学の論争の歴史物語っているように、「とは何か」という問題を巡る闘争主題として観察され続けてきている。無論、宗教的な問題設定は、そのコミュニケーション二値コード超越内在区別に対応している限りにおいて、別のあり方でもあり得る。あるいは「は如何にして世界を創造し得たのか」という問題設定も可能であろう。だがこれに対して偶発性定式は、問題の領域をあえて狭めて把握することを可能にする。と言うよりもむしろ、偶発性定式が言い表しているのは、偶発性必然性という問題設定を前提とした場合、まさに問題を狭めて把握すること自体が一種の問題解決策となり得るということなのである。

これを前提とすれば、偶発性定式は、規定されていない偶発性を規定された偶発性に変換することによって、問題設定の対象にすることすら儘ならない偶発性に対する問題設定を可能にする。この偶発性の変換は、問題複合性の縮減意味する。そうすることで、偶発性定式は、偶発性必然性というパラドックス脱パラドックス化する形式として機能する。

異論を受け付けない事柄

それ故、偶発性定式としての「」、「希少性」、「正統性」、「正義」、「制約可能性」、「教養」が問題として設定された場合、往々にしてその問題設定必然性否定することが難しくなる。あるいは、難しいという認識が波及する。偶発性定式は、異論を受け付けない事柄主題とした主張を可能にするのである。

このことは、各種の偶発性定式を確認することで容易に理解できる。例えば経済システム偶発性定式としての「希少性」概念は、経済システムが作動する限り、およそ不可避の問題として生じているかのように思える。何故なら、「希少性」の差異が伴わない以上、経済的なコミュニケーションがその二値コードとして準拠する所有と非所有の差異を再構成することはありそうもない現象となるからだ。同じことは法システム偶発性定式としての「正義」についても言えるであろう。Let’s Talk Justice.と話し掛けられれば、恰も流行語であるかのように、「正義とは何か」や「平等とは何か」に関して口を挟みたくなる。「正義」という概念は、主題となる頻度を高めることになる。

偶発性定式の一般化と特化

偶発性定式によって可能になっている問題設定は、個別具体的な状況で主題化される抽象的な概念であると共に、その個々の状況の文脈に応じた意味を持つ。例えば宗教システム偶発性定式としての「」は、ヤハウェ、アッラー、シヴァ、ヴィシュヌなどのような「」として、様々な宗派に共通して登場する創造者であると共に、個々の宗派で別々の意味が付与されている。教育システム偶発性定式としての「教養」もまた、社会一般の通念として主題化される一方で、その時代やその専門領域に応じて個々別々の意味を持つ場合がある。

このように偶発性定式は、一般化された上で再度特化されなければならない。つまり、偶発性定式は未規定の多数の状況に妥当する必要があると共にそれぞれの特定の状況で何かを意味しなければならないのだ。

<規定されていない偶発性>と<規定された偶発性>の差異

ルーマンが取り上げている偶発性定式は、それぞれ機能システムオートポイエーシスに資する形式として構成されている。形式であるというのは、これら偶発性定式が、区別として導入されているということだ。その区別とは、偶発性定式が処理する偶発性区別である。すなわち、<規定されていない偶発性>と<規定された偶発性>の区別だ。区別は、一方と他方を同時に指し示すことで、その差異を明示する。したがって偶発性定式は、<規定されていない偶発性>と<規定された偶発性>とを同時指し示していることになる。だからこそルーマンは、偶発性定式が、一方では認知の及ばない未知なる可能性を指向すると共に、他方では利用可能な既定性を保証すると述べているのである。

社会システム心理システムのような「意味」を構成するシステムは、環境複合性の縮減を敢行する。これによって派生した複合性の落差が、システム環境差異に対応する。システムは、この差異を再構成し続けることによって、環境との差異を確保し続けて、自己の同一性を保証する。これを前提とすれば、<規定されていない偶発性>と<規定された偶発性>の区別は、システム環境区別に包含されていることになる。<規定されていない偶発性>は比較環境の側の状態となり、<規定された偶発性>は比較システムの側の状態となる。

したがって、偶発性定式による<規定されていない偶発性>から<規定された偶発性>への変換は、そのままシステムオートポイエーシスに資することとなる。つまりこの形式は、環境複合性の縮減に対する負担軽減となる。ただし、偶発性定式環境から与えられた形式なのではない。この形式は、あくまでも「意味」を構成するシステムの内部で構成されている。偶発性定式は、自己言及的な「意味」を構成するシステムが、<自己自身>と<外部環境>の差異自己言及的に再構成し続ける過程で、システムの内部で構成されているのである。

偶発性と必然性の振動

偶発性定式は独特の様相論理学構造を有している。一方でこの形式は、この形式に準拠する観察者にとって、必然的な概念として観察される。他方で、この観察観察するセカンドオーダーの観察者からは、偶発的な意味論として観察される。セカンドオーダーの観察者にとって、当の偶発性定式必然的であるかのように思えるとするば、それは機能的に等価な別様の形式を発見できていない場合に限られる。総じて偶発性定式は、機能システム内部では相対的に必然的で、外部環境観察者においては相対的に偶発的となる。偶発性定式は、この偶発性必然性の間を振動しているのである。

偶発性定式必然的な主題に関するコミュニケーションシステムとして、その機能システムに統一性を与える。このことからもわかるだろうが、例えば宗教システム偶発性定式となる場合、そこでルーマンが想定しているのは、専ら一教的な宗教なのである。だとするとこの偶発性定式理論に準拠した場合、多教が盲点となる。しかし、これは誤解だ。偶発性定式は何よりも主題として導入される形式的な概念に他ならない。故に「とは何か」という問題設定を強制することはあっても、その「答え」や「結論」、すなわち問題解決を拘束する訳ではない。主題とした問題設定という共通の条件の中であれば、宗教的なコミュニケーションは多様な問題解決策の自由を得るのである。

進化上の獲得物としての偶発性定式

これを前提とすれば、偶発性定式は、他の社会構造意味論の関連と同じように、社会的文化進化の中で生存してきた意味論の一種であると言える。偶発性定式は、社会構造との関連から構成された進化上の獲得物なのである。だからこそこれらの概念は、社会構造変異した場合にも、その時々の個別具体的な状況に応じて、幾度も主題化されてきたのである。偶発性定式は、社会構造変異にも耐久し得る意味処理規則であると共に、社会構造変異により偶発性が顕在化した場合にこそ機能する問題設定の技術なのだ。

こうして観ると、偶発性定式には、社会構造変異性やそれに伴う偶発性を検出するツールとしての有用性も見出すことができる。「」、「希少性」、「正統性」、「正義」、「制約可能性」、「教養」などの概念が問題として設定されるということは、それだけ変異性や偶発性が顕在化しているということなのだ。だとすれば、この問題が設定された時、その事態から社会進化の兆候を読み取ることが可能であるということになる。しかし、こうして偶発性定式機能を確認するや否や、別のあり方でもあり得る機能的等価物可能性が気になり始める。何よりも、ルーマン自身が認める通り、偶発性定式として例示されている諸概念は試験的に記述されたものに過ぎない。故に偶発性定式理論内在した場合にも、我々は機能的に等価な別の概念の可能性を考慮しなければならない。

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