ここでは「人工知能(Artificial intelligence)」を歴史的な概念として記述していく。歴史的な概念とは、単に歴史の中で使用されてきた概念を意味するのではない。歴史的な概念とは、その意味論がその時代の社会構造との関連から構成されている概念であると同時に、それ自体が社会構造を方向付ける概念である。それは歴史の中で差異を構成する。そしてその差異は、歴史に変動をもたらす。
社会構造(Soziale Struktur)との関連を抜きに、意味論を分析することはできない。何故なら、社会構造の変異と意味論の変異は、相互に連動しているためである。社会構造との関連で言えば、意味論(Semantik)とは、有意味な指示対象を持つコミュニケーションのための主題の貯蔵庫であると同時に、意味処理規則の貯蔵でもある。それはまず、主題を設定することで、コミュニケーションを可能にする共通の主題を構成する。それと同時に意味論は、未知なる不確定な対象に「意味」を付与する際の規則を提供する。意味論に依拠するコミュニケーションは、そうした対象を解釈することを可能にする。未知なる不確定な対象は、既知の類型的なパターンによる秩序付けや習熟されている主題に喩える隠喩を利用することで処理される。こうした諸形式の総体が、意味論なのである。
社会構造と意味論の区別の導入から出発する記述の方法は、「行為」の動機付けの水準に適った方法ではない。またこの方法は、因果的な説明を提供する方法である必要も無い。意味論は、連続性と非連続性が緩やかに混合された状態を形成している。ある主題についての意味論は、別の主題についての意味論とは異なる時間的なリズムを構成することもある。主題の貯蔵としての意味路は、既に古びてしまった概念や理念を継続して利用することによって、社会構造の変異が急速かつ極端に生じた場合に、それを覆い隠すこともある。例えば、「市民社会(Civil society)」などといった概念は、18世紀まで使い続けられていた。そしてよくよく考えて観れば、こうした概念の利用は今日まで続いていることがわかる。
意味処理規則の貯蔵としての意味論は、区別の貯蔵でもある。しかしそれは、既にある区別をそのまま流用し続ける規則なのではない。意味論はしばしば、それこそ社会構造の変異と共に、それまで利用されてきた区別を再記述することがある。その際意味論は、区別における反対概念や対概念となる対象を、別の対象へと置き換えることがある。例えば、自然と技術の区別や自然と恩寵の区別に関わる意味処理規則においては、しばしばこれらの区別の一方の側だけを取り換えることで、新たに自然と文明の区別が導入されることがある。一方、意味処理規則としての意味論は、複数の区別を一つの区別へと融合させることもある。例えば私的と公的の区別と秘密と公開の区別は、しばしば法や政治の社会構造との関連から、一つの区別として統合される傾向がある。こうしたトリックを利用することで、意味論は、持続性を強く印象付けることもできれば、変化したという印象を弱めることもできる。こうしたトリックが駆使されたのが、とりわけ18世紀の旧いヨーロッパの時代のことであった。
したがって、今日しばしば「文化(Kultur)」と呼ばれている事柄は、社会構造の変異に先んじている場合もあれば、その変異の後追いに過ぎない場合もある。また社会構造の変異を予見することもあれば、その変異の記録を留めるに過ぎない場合もある。こうした「ケースバイケース」に対して、「文化とは何か」などといった騒々しい議論に参加する必要は無い。何故なら、こうした議論そのものもまたコミュニケーションであるためだ。あらゆるコミュニケーションは、それまで構成されていた社会構造と意味論の区別の影響下にある。一方で社会構造は、「分化(Differenzierung)」という形式を取る。何故なら、社会構造を方向付けている意味論には、そもそもあらゆるコミュニケーションの主題を包括的に統合することなど不可能であるためだ。そして他方で意味論は、分化した個々の社会構造に対応する形式で、個々の社会構造に応じた意味処理規則を提供する。こうして社会構造は、意味論との相互連関によって、自己自身を区別するようになる。
近代社会の社会構造は、「機能的に分化した社会(der funktional differenzierten Gesellschaft)」として構造化されている。ここでいう「機能(funktion)」とは、問題解決策に他ならない。つまり機能的に分化した社会とは、問題解決策ごとに区別された社会構造を意味する。だが問題解決策ごとの区別の前提にあるのは、問題設定の区別である。政治の問題、経済の問題、法の問題、科学・学問の問題、教育の問題、家族の問題、宗教の問題、芸術の問題、医療の問題、マスメディアの問題などのように、問題設定という名の主題が分化しているからこそ、それに応じた社会構造もまた、問題解決策ごとに分化することになったのである。
これを前提とすれば、近代社会で記述される意味論は、専ら問題設定としての主題の貯蔵庫として形式化していることがわかる。哲学や社会科学で記述されてきた「分業(Division of labor)」や「疎外(Alienation)」などといった諸概念は、まさにこうした社会構造を主題とした意味論であった。個々の主題に対して多種多様な「貢献(Beitragen)」があり得るのと同じように、個々の問題設定に対しては、複数の「機能的に等価(funktionell äquivalente)」な問題解決策があり得る。機能的に等価であるというのは、特定の問題設定の解決に同様に資するということである。それは、同様に有用で、役立ち、利点があるということである。
だが注意しなければならないのは、異なる問題設定に対する問題解決策を機能的等価物として観察することは不可能であるということだ。それは、主題に接点が見受けられない諸概念同士は、そもそも機能的に比較することができないということである。しかし、こうした諸概念が歴史的な概念であるとするなら、現代の観点からは接点が無いように思われるような諸概念同士でも、かつては関連している場合もあり得る。歴史的な概念を遡及することは、諸概念同士のまだ視ぬ比較可能性を探索することに等しい。
尤も、この等価機能分析という方法は、類似しているものならば何であれば関連付けるような方法なのではない。そもそも「比較(Vergleich)」するというのは、それらの同一性や共通性を強調するというよりは、むしろそれらの「差異」を記述することを意味する。等価機能分析が関わるのは、同一性ではなく、差異性と同一性の差異である。
歴史的な概念としての「人工知能」は、たとえそれが同じ用語で記述され続けている概念でも、その概念の観察者から異なる認識を引き起こしてきた。それは歴史の差異を反映している。過去とは異なる歴史の中で生きている我々は、過去の時代の「人工知能」の概念史を遡ることで、現代の「人工知能」概念の必然性を否定することが可能になる。「人工知能」を歴史的な概念として記述する取り組みは、別のあり方でもあり得る新しい「人工知能」の概念を獲得するための契機となる。これは、とりわけ「人工知能」の概念実証との関連では有力な方法となるであろう。
例えば1960年代から始まる「チャットボット(Chatbot)」の歴史を遡ると、社会が人工知能に対して如何に見当違いな期待を抱き、そして期待外れに終わってきたのかがよくわかる。人類はこれまで、「人工知能とのコミュニケーション」を実現することに対して割に合わない目標を立てては、あえなく失敗に終わってきた。チャットボットの製作とサービス化は、「人間と人工知能のコミュニケーション」が破綻することなく実現可能であるという不当な前提に準拠してきた。しかし、実際には「人間と人間のコミュニケーション」ですら、破綻させずに成立させるのは容易ではない。誰もが理性的な討論で合意形成を目指すコミュニケーション的行為を実践している訳ではないためである。
近年のチャットボットは確かに、単にコミュニケーション的行為や「無駄話」を自己目的化している訳ではない。むしろAndroidに組み込まれているアシスタントやiOSのSiriのように、特定の質問に対して特定の回答を提示するQ&Aの機能的なコミュニケーションに特化したチャットボットの方が主流であると言える。しかし、機能的なコミュニケーションであるのならば、尚更「対話(conversation)」を介して制御する必然性は無いはずだ。ボタンを一度押すだけで済むことならば、わざわざ喋ることで制御する必要は無い。
いわゆる「対話型インターフェイス(Conversational interfaces)」は、「対話としてのインターフェイス(Conversation as interface)」がユーザーインターフェイスの機能的等価物であることを自ら示している。だが通常のユーザーインターフェイスは、対話には依存しない。チャットボットは、ユーザーインターフェイスの機能的等価物でありながら、問題解決を対話無しで済ませる方法については、何も回答してくれない。それどころかチャットボットは、対話しないで済む方法があるとしても、それ自体を対話の主題にして回答しようとする。こうして全ての問題解決策を対話で処理しようとすれば、本来言語化し難い回答すらも、対話で回答しようとしてしまうであろう。
Q&Aのチャットボットは、予め学習した質問と回答の組み合わせ最適化問題を解くことが基本的な探索アルゴリズムとなる。もし未学習の未知なる質問を受けたなら、新たな情報を探索する必要がある。ということはつまり、それ以上対話をし続ける暇は無くなるということである。
ここに、チャットボットの根本的なパラドックスが見て取れる。チャットボットが数多の質問に対して回答できるその可能性を高めようとすれば、もはやチャットを続けられないということである。質問と回答の組み合わせを氾化することにも限界がある。チャットボットに組み込まれているニューラルネットワーク言語モデルや統計的機械学習の生成モデルが持ち得る氾化性能は、学習時に観測されたデータと同様の確率分布に従う範囲に限られる。学習時に全く想定されていなかった質問に対しては、チャットボットは無力となる。
チャットボットの研究者たちにできるのは、精々のところ、対話を通じて徐々に学習していくか、Web上の情報源を動的に参照することでコーパスを際限無く確保することである。しかしそのために必要となるのは、強化学習やWebクローラなどのような、チャットボット本来の言語モデルとは異なる別の探索アルゴリズムである。もはやチャットボットのための研究開発は、チャットボットを主題とした研究開発ではなくなる。
このWebサイトの概念実証では、初めからこうしたチャットボットの可能性を一掃した上で、別のあり方でもあり得る人工知能の概念を記述していく。各記事を読み進めた読者は、チャットボットをモチーフにした人工知能概念が如何に矮小なのかを実感することであろう。ここで取り上げる歴史的な概念としての人工知能は、理性的な討議に参加することもなければ、合意形成など眼中に無いあり方の人工知能である。
こうした新しい人工知能概念を探索する上で、ミシェル・ニールセンが導入している「人工知能(Artificial intelligence)」と「データ駆動型知能(data-driven intelligence)」の区別は、重要な意味を持つこととなる。と言うのも、チャットボットをはじめとする従来の人工知能概念は、人工知能に人間の模倣を実践させることを自明化していたためである。その結果として、データ駆動型知能という概念が暗示しているように、「人間の限界」が「人工知能の限界」になるというアポリアを招いていた。
「『データ駆動型知能(data-driven intelligence)』という用語は新しくない。しかし現状この用語は、法人企業の意思決定に資するデータ駆動型のアプローチ――例えば空港がその便からどの程度の過剰予約(overbook)が発生するのかを知るために行なう、乗客から不参客のデータをマイニングする方法――を記述するといった具合に、私が提案しているよりも限定的な意味で使用されている。私はこの用語を、『人間の知能(human intelligence)』や『人工知能(artificial intelligence)』などの用語の用法のように、知能に関するより広義のカテゴリとして、より一般的な使い方で使用することを提案している。この一般的な意味において、『データ駆動型知能』は大いに必要とされる用語となる。その一つの理由として挙げられるのは、データ駆動型知能についての事例の規模とその急速に増加している個数だ。」
Nielsen, M. (2012). Reinventing discovery: the new era of networked science. Princeton University Press. p112.
「データ駆動型知能」という概念は、単なる人間の知能の模倣を意味する訳ではない。またこの概念は、人間の知能の機能的等価物であるという訳でもない。「データ駆動型知能」は、「意味を発見する」という問題設定において、人間の知能を補完する。元来、人工知能は人間の知能を模倣することや、人間の知能と機能的に等価な知能として実装されることを目的として設計されていたのに対して、「データ駆動型知能」は人間の知能では解決不可能な問題を解決する際に有用となるという位置付けになる。
「より重要なのは、この用語が特に、意味を発見すること(finding meaning)へのアプローチを強調して指し示しているということである。このアプローチには、コンピュータが十分に適している。それは我々人間が意味を発見する方法とは区別され、かつ我々の方法を補完するアプローチなのである。」
Nielsen, M. (2012). Reinventing discovery: the new era of networked science. Princeton University Press. p112.
尤も、データ駆動型知能という概念を採用したとしても、「模倣」の必要性が無くなる訳ではない。何故ならこれまで、人工知能に限られない様々なテクノロジーが、人間の知能では解決不可能な問題を解決してきたからだ。人間の知能を補完する役目を担ってきたパーソナルコンピュータはその典型である。あるいはWorld Wide Web(WWW)を探索して検索エンジンを成り立たせているWebクローラは、一種のデータ駆動型知能であると位置付けられる。人工知能にこうした実績あるテクノロジーを見習い「模倣」させることは、今後の概念実証においても重要な営みとなる。つまり「データ駆動型知能」のテクノロジーを「模倣」するテクノロジーとしての「人工知能」が重要となるのである。
こうした背景から、以下の各記事では、この人工知能とデータ駆動型知能の区別を人工知能の側に再導入(re-entry)することによって、新たな人工知能の概念を記述していく。それは、人間の知能の機能的等価物となるのではなく、データ駆動型知能の機能的等価物となる人工知能である。そうした人工知能は、人間の知能では発見し得なかった意味の発見を可能にする。その点で言えば、このデータ駆動型知能としての人工知能は、人間の知能を補完すると共に、人間の「盲点(Blinder Fleck)」を突き付ける存在になり得る。
参考文献
- Nielsen, M. (2012). Reinventing discovery: the new era of networked science. Princeton University Press.