目次
派生問題:『脱魔術化された世界からの脱却』は如何にして可能になるのか
17世紀ドイツ・バロック悲劇を背景としたベンヤミンの根源の歴史哲学は、その後のワイマール時代の歴史的意味論の中でも際立った存在となっている。この二つの「大戦」の間に活動していた<保守革命主義>の弁証法的思想家たちは、皆近代社会に対するマクス・ウェーバーの歴史認識を共通して踏襲するだけに留まらず、この「脱魔術化された世界」という「鋼鉄の檻(stahlhartes Gehäuse)」からの脱出の道を探索する上でも特筆すべき共通項を示していた。ベンヤミンの哲学的盟友の一人であるエルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』は、ウェーバーが記述した「資本主義の精神」に対する革命的グノーシス主義的な応答と見做されている。そしてこの観点から若きゲオルク・ルカーチの『歴史の階級認識』は、ブロッホのユートピアを全体性に関する弁証法的な叙述へと止揚する試みとして再記述される。いずれの歴史哲学も、まさにカール・シュミットがその『政治神学』で叙述してみせたように、社会構造と意味論を神学的な形象で結び付ける<歴史神学(Historische Theologie)>的な取り組みとなっている。
しかし彼らは<歴史神学者>を自称してはいない。その素性は常に<美学>という名の仮面によって覆い隠されていた。そのため彼らの弁証法的思考を単なる芸術理論として理解してしまっては、その内に潜む極端な論理が視えなくなる。神学の火種を抱える彼らは、極端に逸脱した思考を極限まで突き進めた者たちばかりである。彼らはそう簡単に妥協せず、常に自身の思想を先鋭化させることで、全く異なる新しさを記述している。意図的な飛躍、過剰な展開、作為的な断定口調を躊躇わない彼らにとっては、論理的な整合性よりも極端な論理であることの方が重要なのであって、討議や合意形成など眼中に無い。
問題解決策:『ユートピアの精神』と「資本主義の精神」の区別
既存の歴史から極度に逸脱した真の歴史が如何にして可能になるのかを叙述するには、極端な思考を徹底的に突き詰めた極限の形式がどうしても必要になる。そのためブロッホは、聖人伝説を歴史哲学的な形式として復興させた。人物像を想起することによって、匿名的な人間存在を明るみに出すという名目で、歴史上の人物は歴史哲学の弁護人へと仕立て上げられる。ブロッホは聖人伝説における<運命>を修正することで、忘却されている抵抗を新たなる世界の叙事詩の中で救済する。そうすることで彼は、歴史を一般の流れとは逆に判読することを可能にした。そこでは挫折した抵抗が、抹消されて隠蔽されたとしても復活できる羊皮紙のように判読される。記憶の想起は、ここでは生産的な形式となる。記憶は歴史を再記述するのである。
神への愛としての無神論
神の国を求めるブロッホは、神の死後のキリスト神秘主義者であるかのように振る舞う。それは一種の千年王国論的ユートピア主義である。とはいえ彼の神秘主義は、<英雄的で神秘的な無神論>の形式を採る。この無神論は虚無主義ではない。と言うのもブロッホの神秘主義は、まさに「神は死んだ」という命題によって駆動されているためである。そして彼は神の死後に空洞化していた神話の空白それ自体を神話として判読することで、英雄的でもあろうとする。ブロッホにとっては、神が去った状況もまた、神に包み込まれている状況の一つなのである。我々は、神の不在という形式で、神との関係を育むのである。
それ故ブロッホにとって正統マルクス主義は、経済主義的な視野狭窄に陥っている。社会主義は、国民経済学に変貌してしまう以前は神学であった。それが国民経済学へと変貌してしまってからは、尚のこと一切の仮象を認めない神学であり続けている。だがマルクス主義はそのことを忘れてしまった。社会主義が国民経済学へと変貌したのは、宗教的な預言への信仰が絶望へと陥ったためである。マルクス主義はこのことを忘れてしまっている。それ故にマルクス主義は、ブロッホによれば、地上に実現される楽園を求める意志を裏切っている。
黙示録的な終焉
新世界を展開するには、革命の主体が現状の世界を現状の世界の中で否定する態度を採る必要がある。無論、世界の中で世界を否定することは、自己言及のパラドックスに他ならない。それ故にそのユートピアは実現不可能であるということになる。しかしブロッホの見立てによれば、それが実現不可能であるのは、地上においてのことである。彼は集団のあらゆる成員が対等な人格として出会う状況こそが最終的に達成されるべき状況であると考えることで、精神的な共同体としての神の国を目指す。こうした共同体は、政治的な国家に対して極端で超自然的なアンチテーゼとなるユートピア的な政治組織となる。この神の国には、政治的な国家も存在しなければ、超越的な神も存在しない。この神の国において重要となるのは、「正統性(Orthodoxie)」と「急進性(Radikalität)」が純化された新しい正義として一体となることなのである。
ブロッホの哲学的ラジカリズム(Philosophischer Extremismus)は、この現状の世界の黙示録的な終焉を望む神権主義(Theokratie)である。それはより良き未来の世界のために闘うのではなく、歴史の終焉のために闘う。それはキリスト教の諸宗派が実施するメシア主義(Messianismus)のための闘いをプロトタイプとしている。闘争とは、神権主義に準拠した革命家のこの現状の世界との唯一の妥協点となる。この神権主義にとって、闘争を展開すること以外に、世界が現状のままであり続けなくてはならない理由は無い。
『ユートピアの精神』 VS 「資本主義の精神」
こうした『ユートピアの精神』が敵と見做すのは、近代の機械化された技術の精神である。とりわけその新即物主義は、自我とは疎遠で事物のみに貢献するような目的追求の形式に過ぎない。その技術の冷徹さを以って、新即物主義は近代の虚無主義を蔓延させた。
この見解は脱魔術化された世界に対するマクス・ウェーバーの分析を出発点としている。だがブロッホはウェーバーを踏襲するだけではなく、ウェーバーとは異なる着想にも辿り着いた。と言うのもブロッホは、その批判の矛先をヨーロッパの資本主義的な合理性にも向けているためである。その合理性は利益の追求と専門主義に根差している。つまりブロッホが対決しているのは近代社会の機能的に分化した社会構造なのだ。種々の機能的サブシステムは、それぞれの問題領域の問題解決に特化することによって、我々の負担を軽減する。近代社会はそうした機能によって構造化された「鋼鉄の檻(stahlhartes Gehäuse)」として人間を包み込んでいる。ブロッホが突き進もうとしているのは、まさにこの「鋼鉄の檻」からの脱出の道なのである。
だがブロッホのこの振る舞いはウェーバーから極端に逸脱しているという訳でもない。神無き脱魔術化された世界を生きているというウェーバーの<歴史神学(Historische Theologie)>的な時代診断こそが、ブロッホを精神無き即物性に対する批判者に仕立て上げたからである。『ユートピアの精神』の主題は、「空想から科学へ」という社会主義に対して逆向きの働き掛けとなっている。この著作の主導的差異の一つに、しばしば社会運動との関連から導入されてきた<西洋>と<東洋>の区別が採用されているのも、この働き掛けがあってこそである。脱魔術化、即物主義、技術の冷徹さを帯びた「鋼鉄の檻」に住まうのが空虚で均質な<西洋>に対応するのなら、記憶の想起と装飾、祈りと精神から成り立っているのが<東洋>である。
ブロッホの「鋼鉄の檻」からの脱出の道は、専ら装飾(Ornament)との関連から叙述されている。彼によれば、人間の手によって制作された工芸品は二つの要素で構成されている。一つは、道具としての実用的な機能である。もう一つは、自己主張の欲求実現である。例えば壺であれば、一方ではその内部に<容器>としての機能があり、他方ではその表面の装飾に自己の「表現(Ausdruck)」の領域がある。ブロッホによれば、人間によって制作された如何なる工芸品も、元来この二つの要素で構成されていた。だが資本主義的な生産体制は、この二つの要素を分離させてしまった。一方の実用的な機能は技術の冷徹さの極限へと絡め取られてしまった。しかし他方の自己表現の領域もまた、実用的な機能から極端に離反することによって、むしろ長大な「表現主義(Expressionismus)」的な芸術の可能性を生み出すに至った。ブロッホがゴシックとバロックを共に過剰なものの装飾として位置付けるのは、この背景があってこそである。つまり彼は近代社会の脱魔術化の作用を逆手に取る極端な戦略に躍り出たのである。
しかしながら、これらの芸術がブロッホの自己邂逅的な美学的関心を満たすことは無かった。何故なら、これらの芸術はまだ見ぬ自己自身との出逢いの可能性を暗示するに留まるからである。ブロッホが真に関心を示したのは音楽である。彼は一旦ショーペンハウアー的に、芸術の領域に対して音楽と非音楽の区別を導入している。音楽は決して他の諸芸術のようなイデアの仮象なのではなく、意志それ自体の仮象である。音楽以外の諸芸術が影を語るに過ぎないのに対して、音楽は本質を語る。何故なら、音楽以外の芸術が模倣するイデアもまた意志にとっての客体であるためだ。だとすれば音楽は、他の芸術よりも一段階高い抽象的な視点を有していることになる。音楽は世界の形而下的なあらゆるものに対する形而上的な表現であると共に、あらゆる現象に対する物自体の表現である。音楽は世界の全てを体現する意志の全ての表現であるということになる。
もとよりこのショーペンハウアー的な区別では、イデア論的な永遠性を不当に想定してしまう。故にブロッホもこの区別は直ぐに棄却している。彼が音楽に見出しているユートピア主義的な機能は、永遠性というよりはむしろ現在性に関連する。音響的な刺激には、一瞬で過ぎ去っていく程の速度がある。音は一瞬で過ぎ去っていく。そのリズムは、生じては消え去る生成消滅を意味する。そうした音楽を聴覚的に享受する観察者から観れば、音の聴取は、音の「遠さ」から音の「近さ」への瞬間的な移行の過渡的状態の中で実践される。音響的な刺激は遠くから近くへと瞬時に到来する。この音の近接化を念頭に置くことによって、我々は漸くブロッホの見出したユートピアに関する音楽の機能を理解することが可能になる。音楽は、今まさに近接化されつつあるユートピアの聴取を可能にするのである。言い換えれば、音楽はユートピアの到来とその始まりを予感させるサインなのだ。
機能的等価物の探索:歴史哲学としての美学
若きゲオルク・ルカーチの『小説の理論(Die Theorie des Romans)』は、近代社会の脱魔術化を運命的に不可避と考えるウェーバーと、その『脱魔術化された世界からの脱却(Auszug aus der entzauberten Welt)』を志向するブロッホとの弁証法的な中継地点を探索することで、ブロッホの『ユートピアの精神』に美学的な輪郭を付与している。ルカーチにとって、小説というジャンルがこの脱魔術化された近代社会で初めて登場したのは、単なる偶然ではなかった。機能的に分化した社会は、分業、専門化、そして疎外を前提とした社会構造に他ならない。だがこれに対してルカーチは、ヘーゲルの歴史哲学に準拠した上で、この社会構造が自己と世界の乖離をも前提としていると考える。
ヘーゲルの歴史哲学によれば、それまで外部環境や感覚的な諸部分で自己を客観的に認識していた精神は、自己の内面を意識することで主観性を獲得する。かの「叙事詩(Epik/Episch)」の時代では、この自己と世界の調和はまだ保たれていた。小説が登場したのは、この「叙事詩」の時代の終焉の時である。それは世界から疎外された自己を扱う「埋め合わせ(Kompensation)」としての文学であった。要約すれば、小説とはルカーチにおいて、経験的な諸事実に関連した形式である。それは資本主義という運命的な力に対しては歴史哲学的に超越した形式となる。
『小説の理論』は、近代小説の発展を歴史哲学的に記述した理論である。そこではまずホメロスが叙事詩の象徴的な詩人として登場する。と言うのもルカーチは、小説と叙事詩は単なるジャンルとしてではなく、歴史哲学的な諸条件によって区別されていると考えたからである。ルカーチがホメロスの叙事詩の精神として指摘したのは、自己と世界の区別が導入されていない段階であった。自己と世界の差異が潜在化している以上、自己と他者の区別も導入され得ない。つまり自己にとって、他者は存在しなかったのである。しかし叙事詩が小説へと転回されてからは、自己と世界が、そして自己と他者が区別されるようになる。実際、今でこそ当然であるかのように思えるが、小説には「自己とは何者なのか」を探究する登場人物が頻繁に描写されている。
『小説の理論』の歴史的意味論を厳密に観察するなら、自己と他者の分裂は徐々に進行していったことがわかる。叙事詩から小説への転回点となっているのは、あの『ドン・キホーテ』である。主人公は、理想の自己を現実世界に見出せると期待しながら冒険へと向かう。だが19世紀になると、この理想主義が期待外れに終わるという認識から、「幻滅のロマン主義(Desillusionsromantik)」が展開されるようになる。分裂した世界と自己を再び統一しようと奮闘する小説も、確かに当初は存在していた。だがそうした気運も、次第にその失敗と敗北を自明化したそれに変わってしまった。つまり世界との再統合を断念した自己が規範的に期待され続けたことで、この問題はもはや<克服>すべき問題としては観察されなくなったのである。
ルカーチはこの「幻滅のロマン主義」を積極的に肯定していない。何故なら、ロマン主義的な芸術形式に準じる精神は、外部環境を自己の内面に引き込むことで知覚し、外的な現実を自己自身と適合させようとはしないためである。この類の小説の描写は内面性を重視する。その外部に盲目的な姿勢は、現実とは乖離したユートピア主義へと堕ちていくことになる。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のようないわゆる「教育小説(Erziehungsroman)」、ないし「教養小説(Bildungsroman)」は、この数少ない例外であった。こうした事例からルカーチは、「幻滅のロマン主義」が自己と他者の分裂を<克服>することで、生の総体性を回復する可能性を見出す。そして次第に彼は、レフ・トルストイやフョードル・ドストエフスキーらによるロシア文学に、この可能性を求めている。
美的に形態化された歴史哲学
脱魔術化された近代社会の社会構造が<分裂>に象徴されるのならば、かつての叙事詩の時代は、逆に「全体性(Totalität)」を踏襲していることになる。『小説の理論』によれば、全体性概念が叙述されていたのは、古代ギリシア文化においてである。ルカーチにとって、古代ギリシア社会は完結した世界である。この完結した世界において、人間と社会の間には如何なる矛盾も存在しない。この人間と社会の間に成立する調和の取れた同質的な状態こそが、ルカーチの叙述した全体性の特徴なのである。意味論的に言えば、この全体性という概念は、世界が一つの全体によって構成されているという意味形式を顕在化させることによって、人間と社会、自己と他者の差異を潜在化させている。
古代の均質な世界は、閉じられて完結した世界に他ならない。それは問題無く存在する全体性の中にある原型的な世界である。全体性は、社会を構成する規範と、人間に内面化されている公正さや美しさの感覚との調和を意味する。つまりこの全体においては、社会を構成する規範が、人間にとっての外発的な動機付けや強制によってではなく、逆に内発的な動機付けや衝動そのものに根差した方向付けとなっているのである。それ故にこの古代ギリシアの時代は、近代社会とは異なって、人間と社会の間に矛盾は存在しないことになる。
こうした全体性が可能となるのは、形式によって包まれる以前に、既にありとあらゆるものが調和の取れた状態にある場合に限定される。この場合、形式は決して強制的な影響力を持つ訳ではない。むしろ形式とは、形式化されるべきものの内部に、憧憬として微睡んでいたものの全てを目覚めさせたものに他ならない。
分裂した近代社会が奏でる不協和音は、意味の内在性が経験的な生の何処においても足場を持てなくなる状態を招いた。ルカーチによれば、こうした状態では、小説に固有の矛盾が派生する。意味の内在性を志向した形式の要求は、意味の内在性の不在、すなわち意味喪失状態を容赦無く徹底的に暴露してしまうためである。近代社会の分裂は、超越論的な位置関係に対する懐疑を招く。「魂(Seele)」は先験的に故郷を喪失することとなる、という訳だ。こうした神無き世界の意味喪失状態の背景があってこそ、近代社会の分裂は、美的なものを歴史哲学の中心的な主題に引き摺り出してくる。美的なものの形式世界は、今や救済をもたらす象徴を構成しなければならないのである。言い換えれば、歴史哲学としての美学は、意味喪失を形式の<聖別>によって救済することをその参照問題とする。
歴史が真なる自己に到達し得るのは、美学においてのみである。社会は、自己自身との同時代性を美的な形式においてのみ辛うじて獲得することができる。時代の内実を表出するのが形式だ。それは単なる<内容>の成熟とは対立する。そしてそれは、時代の中で時代を超越する。歴史哲学としての美学は、時代の事例となるような形式を真なる現実として問い質す。解釈学的に表現するなら、ルカーチの散文においてこの問いは、そうした真の現実の先駆者を探究することであると言える。散文思考者たちは、自己のために英雄を求める。だが先駆者の挫折を否定的かつ弁証法的に叙述することによって、歴史哲学は美的に形態化されるのである。
グノーシス主義的な美学者たち
世界をより良く思考することが如何にして可能になるのかという倫理的な正当性を巡る問題設定こそが、ルカーチの参照問題であった。この問題設定においてルカーチは、ブロッホをグノーシス主義的な美学者として観察する。ブロッホは、脱魔術化された近代社会の日常を謳歌することができなかった。彼は世界時計を指し示す位置だけを判読することで、その内実を歴史哲学的に叙述するだけでは、到底満足できなかった。だがルカーチによれば、こうしたユートピアに突き動かされるような心理は、近代社会の模範的な形式である小説において、必然的に瓦解することになる。
脱魔術化された近代社会に対するルカーチの問題意識は、精神医学者たちが意味喪失と定めるような世界観に向けられる。前近代的な共同体の社会からは根本的に変異した社会構造と人間の関連を前提とするなら、もはや社会システムは、人間に対して義務や役割、善悪を明示しない。生を方向付ける超個人的な秩序はもはや存在しないのである。人間は、孤立した個人から出発しなければならない。英雄的な個人すら、先験的に故郷を喪失した存在であるためだ。
グノーシス主義的な美学者たちが世界に関わるには、闘争に躍り出る必要がある。彼らにとって闘争とは、現実と妥協するために採用される唯一の極限の形式なのである。そこでブロッホは、革命を世界内禁欲として美化することになる。同様にルカーチも、そのグノーシス主義的な身振りによって、資本主義による近代社会の支配体系を実現するピューリタン的な倫理に対し、反対の意向を示した。それは神の栄光の偉大さのためである。その一方でウェーバーの<歴史神学>は、カルヴァン主義の職業人における世俗内的な禁欲が世界の意味についての幸福なる視野狭窄によって敗北を余儀無くさせると主張する。だがこの表現によって特徴付けられているのは、小説の主人公とは逆の立場の理念である。何故なら小説の主人公における現実世界の勝利とは、その魂(Seele)の敗北であるためだ。その主人公が成し得る唯一の真なる征服は、幻想から自由となった自己へと到達する契機を得ることなのである。それ故に『小説の理論』を記述したルカーチもまた、ブロッホとは異なる形で、この『脱魔術化された世界からの脱却(Auszug aus der entzauberten Welt)』を志向していることになる。何故なら、幻想によって不自由となっている現実世界は、グノーシス主義者たちにとって、非本来的な世界であるためだ。
世界についての批判理論
一見してルカーチは、『小説の理論』の展開として、ブロッホと同類のグノーシス主義的な発想に到着しているかのように思える。だが注意しなければならないのは、この『小説の理論』の主導的差異が、「魂(Seele)」と「心(Psyche)」の区別から構成されているということだ。この区別の導入は、グノーシス主義に由来する二元論を弁証法的に解消している。
『小説の理論』で叙述されているのは、魂が「第二の自然」という舞台で受肉する過程である。ここでいう「第二の自然」とは、無意味な計画にばかり溢れた慣習の世界である。それは永遠回帰と方向喪失した単調な世界となっている。この自然は、意味とは無関係な法則の総体である。その法則からは魂の如何なる関係も見出され得ない。とはいえ、こうした法則概念もまたグノーシス主義的である。何故なら人間は、人間を隷属させる力の認識を法則と呼ぶからである。法則という概念を前提とした認識においては、法則が全能であって、全領域に力を及ぼすという絶望的な状態が、崇高で精神を高める論理となる。それは永遠不変の必然性を発揮している。
ルカーチのグノーシス主義的な観点は、ウェーバーの<歴史神学>的な診断に照応している。資本主義の運命的な力、不可避の官僚制度、そしてかつての生への憧憬を石化させることで設計された「鋼鉄の檻」は、巨大な宇宙となる。この慣習世界の宇宙から脱却できるのは、魂の最奥にあるグノーシス主義者の無宇宙論的な自我の核のみである。脱魔術化された近代社会の牢獄は意味とは無縁の必然性の世界となる。だがその客観性は既に死後硬直している。故にルカーチは「第二の自然」というヘーゲルの時代診断を歴史哲学的に否定する。
グノーシス主義者は「第二の自然」という概念を利用することによって、現実世界のデミウルゴス的な造作物に対する憎悪を社会的な概念へと変換することを可能にしている。人間自身によって造られた人工物の世界は、彼らにとって、人間に対して敵対的な宇宙として発現する。逆説的にも、人間の行為は、人間から独立する。人間の行為は、人間に対して永遠に冷淡なのである。それ故に人間の行為は、人間の意志を粉々に打ち砕くほど敵対的な体系になってしまう。
ルカーチの歴史哲学はそれ故、<東洋>を志向するブロッホの歴史哲学においても、それどころか終末論的観点からドストエフスキーに準拠する自身の歴史哲学にとっても、<西洋>のユートピアに関する決定的に重要な弁証法的洞察を獲得している。つまり、あらゆる<西洋>的な『ユートピアの精神』が、常に精神の欠如に対する批判理論となっているのである。この理論の特筆すべき点は、慣習が魂と無縁となってしまった事態に対する批判理論であるにも拘らず、慣習それ自体には触れずにいるという点である。
このルカーチの洞察はウェーバーの<歴史神学>に準拠している。<西洋>の世界は、世界を構築する人工物においては避けられない状態にあまりにも深く根差してしまっている。故に<西洋>についての批判理論は、自覚の有無を問わず、世界それ自体に依存してしまう。だからこそルカーチの批判理論は、極端に、極限の形式を展開せざるを得なくなる。すなわち、世界そのものに対して論争を仕掛けるかのように、対立するしかないのである。こうした背景から観れば、若き日のルカーチは、『脱魔術化された世界からの脱却』を志向するブロッホの『ユートピアの精神』を自らの歴史哲学から区別する一方で、ブロッホの直面することになる問題を自身もまた共有していることを明示してしまっている。つまり彼らの歴史哲学としての美学は、世界の中で世界を批判するという自己言及のパラドックスを巻き起こすことによって、そのグノーシス主義的な身振りを二者の共通点として指し示しているのである。
問題解決策:ユートピアの『精神の現象学』
『ユートピアの精神(Geist der Utopie)』は、ユートピアの『精神の現象学(Phänomenologie des Geistes)』である。それは現状の世界の迷宮から自我という装飾への脱出の道を叙述している。その際、概念として捉えられた即物性は、現実世界を超越する装飾として、内向きな働き掛けとして構築された内面性を生み出すために、世界の脱魔術化を実行する。まさにこの脱魔術化された世界をもう一度脱魔術化する発想によって、美学こそが『ユートピアの精神』の参照問題となる。
ブロッホは美学を歴史哲学的に展開している。その際、テーゼとなるのは深刻性と決断を欠落させた美的仮象のギリシア的な国である。それは対象無き内在性の芸術であると共に、外面的な生気で充満した芸術である。これに対してアンチテーゼは、純粋に無機的な価値領域としてのエジプト的な国である。そしてジンテーゼとなるのは、復興の精神から生み出される自由な表現運動としてのゴシック的なものである。この極端な思考を徹底的に突き詰めた極限の形式としてのゴシック装飾は、有機的で抽象的な線分によって、自我が不意に自我としての意識に目覚めるための形態を叙述する。
この自我の目覚めのための形態は、教会の徳を高めようとする預言者の自己意識よりも、自己自身の徳こそを高めようと異言で祈るような自我を強調している。その際、預言と異言の区別はパウロとは逆行する形式で導入される。ブロッホにとっては、自己自身の徳を高めようとする自我がこの世界から追放されないようにすることの方が、より重要なのである。それと同時に、この自我の形態は、黙示録と同値の価値を持つ。それは現実世界とは別のあり方でもあり得る真理を目指す。価値という概念による規定は、ブロッホによれば、世界が無くても妥当性を持つのである。もしそれが現実の事実と矛盾する場合には、現実の方が間違えているということになる。
ブロッホのユートピア主義が音楽哲学と結び付くのは、この預言と異言の区別においてである。ブロッホによれば、ユートピアに到達するための歴史哲学的な道筋となるのは、近代社会における異言としての音楽を預言として解釈することなのである。ブロッホの『ユートピアの精神』は、『脱魔術化された世界からの脱却』を音楽によって実現しようとする美学なのであって、その美学は音楽を未だ到来していない共同体の神学として解釈される。音楽は神の国の神学である。『ユートピアの精神(Geist der Utopie)』は、ヘーゲルの現世的な『精神の現象学(Phänomenologie des Geistes)』と対立する音楽的な現象学なのである。
本来的自己
音楽哲学においてブロッホが重視するのは、自我を客観性から解放して目覚めさせることである。そのためにゴシック装飾の大聖堂は、<第二のノアの箱舟>となる。しかしここで想定されているゴシックとは、先に示したジンテーゼとの関わりは保持されていながらも、実際に歴史上実在したゴシックに対応している訳ではない。そうではなく、ここでのゴシック的なものとは、アプリオリに規定されるのである。
ゴシック的なものの装飾は、抽象化による救済を約束する。装飾の抽象的な構成が人間を個別具体的に形式化させたあらゆる対象を否定すると解釈することで、ブロッホはゴシック装飾という概念の規模を隠喩的に拡大させる余地を生み出している。抽象的な線分で描写された絨毯の模様やアラベスク模様は、ブロッホにとって、必要な表現上の抽象性を達成するための超越的で形而上学的な装飾の序奏に過ぎない。これに対してブロッホが真に求めるのは、偶像破壊主義的な表現主義である。彼は自我の装飾による自我の表出を目指すために、個別具体的な美的造形の価値を低く見積もる。装飾とは彼において、我々が生きながらにしてそうではあり得ない自我の偶発的な造形を意味しなければならないのである。
しかしブロッホにとってこの大規模な装飾から覆われた内面に対する内向きの働き掛けはまだ準備段階に過ぎない。何故ならユートピアは、そもそもにおいて、この地上では実現し得ないからだ。だからこそ異言を預言として解釈するブロッホの美学は、彼にとって、有史以来のあらゆる偉大な芸術作品よりも高い価値を持つことになる。ゴシック的なものの装飾は、ブロッホ自身が最後の芸術家となることで実践される。彼がこれ以外の芸術作品を軽視しているのは、理由の無いことでもない。彼にとって現世の全ては誤謬に過ぎないからだ。それは没落するに値する。現状の世界が尚も現状のままであるのは、我々が「本来的自己(eigentliche Selbst)」に出会えていないためである。ここまで来れば、ブロッホの『ユートピアの精神』がグノーシス主義に照応していることが明確になる。
音楽哲学の英雄
『ユートピアの精神』は、音楽を革命的メシア主義とグノーシス主義の共存の場として指定している。実際、この音楽のユートピア的な機能を叙述するブロッホの身振りは、例えば同様に歴史哲学的に音楽哲学を考証したパウル・ベッカーのそれとは著しい対照を成している。ベッカーの歴史哲学は近代の音楽文化における聴衆の歴史的変容と密接に関わっている。フランス革命以来、それまで教会と貴族が規定してきた音楽の様式に、社会的な機能が加わるようになる。とりわけ交響曲の様式における音楽の機能は、群衆の啓蒙である。音楽は群衆に呼び掛けて、人生の新しい価値観を抽出する。そうすることで、前例の無い社会的な規模で、音楽は人々を啓蒙することができるのだという。交響曲は、一見して無秩序に思える群衆に一体感を吹き込む。そしてこの音楽的な機能の最も力強い表現が、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの『第九交響曲』であった。それは群衆に階級を超えた共通の関心対象となる意志と目標を与えることで、その無秩序性を公共性へと変換する。その公共性においては、もはや階級の差異は問題とはならない。群衆は一つの共同体として統一されるのである。
ベッカーの歴史哲学によれば、19世紀の音楽史は、ベートーヴェン的な理念の無常化の歴史である。もはや全人類に呼び掛けるような音楽は登場しない。19世紀の多くの音楽は、教養市民の聴衆しか相手にしなかった。近代社会が再び全人類に呼び掛ける音楽を手にするのは、グスタフ・マーラーの『第八交響曲』が登場するまで待たなければならなかったのだ。マーラー音楽において、漸く社会は音楽による公共性の再構築を可能にした。ベッカーがマーラーの交響曲を知ったのは第一次世界大戦の最中であった。だが彼は直ぐにそのスコアを判読し、マーラーの交響曲がベートーヴェンの倫理的な理念と古き良きコーラルの宗教的な規範を統一することで、より長大な目標を設定できるようになると考えた。
社会が音楽を作るというベッカーの音楽社会学的分析は、音楽が社会を批判する力を有するということを言い表している。社会もまた音楽家と同様に音楽の著作者なのである。それ故に音楽の理念的凋落は社会の没落を反映する。マーラーはこの見解を社会主義的に展開する。音楽は言わば階級無き社会の芸術である。ベッカーは社会を交響曲の理念で統一することを夢見たのだ。しかしベッカーの夢は、戦争の末期に途絶えることになる。彼は次第に『第九交響曲』が始まりではなく終焉であったと認識するようになった。両大戦間の音楽に与えられた社会的な機能は、確かに群衆の統一化に類する機能であった。だがそれはプロパガンダ的な機能である。戦場の兵士たちを激励するだけではない。音楽は国民をも駆動する。その結果、音楽は既得権益や既存の体制にとって無害な金儲けの手段に過ぎなくなっていった。宣伝と娯楽以外に、音楽が要求される理由は無かったのである。
これに対してブロッホはベッカーの歴史哲学とは全く異なる観点からベートーヴェンを取り上げている。ベッカーにとってのベートーヴェンが公共の理念による群衆の啓蒙という役割を担っていたのに対して、ブロッホにとってのベートーヴェンは、終末の瓦礫と魔術を揺り動かす黙示録的で悪魔(Lucifer)的な英雄として君臨する。そこに古き良き古典主義的な啓蒙家としてのベートーヴェンはいない。
テオドール・アドルノですら当初は、中期ベートーヴェンのソナタ形式における時間感覚は、市民社会の進歩史観を前提とした啓蒙主義的な精神の表現であると見立てていた。この点で中期ベートーヴェンの交響曲はヘーゲルの『精神の現象学』に照応する。中期ベートーヴェンの交響曲は発展(Entwicklung)の時間意識を前提としている。事前と事後の線的で不可逆的な差異を構成する時間は、音楽においては超越論的な前提となる。だがベートーヴェンの交響曲においては、先行するものにおける矛盾が動態的な運動を繰り広げる。それにより後続するものが必然的な結果として発現するという構成を取っている。つまりベートーヴェンは、超越論的な前提であるはずの時間を作品内部の矛盾によって生じる自己産出的な動態的運動で代替しているのである。超越論的な前提となる時間を排除することは、しかし音楽の経験の終わりを意味するのではない。ベートーヴェンにとって、この終わりは矛盾の止揚なのである。それは音楽による全体性の実現であって、構成されたフィナーレなのだ。
中期ベートーヴェンの交響曲におけるドラマ的な時間は、聴衆を目的論的に啓蒙しようとする論理を有している。この想定に立つ限りで、アドルノはベッカーと共通した観点からベートーヴェンを観察している。聴衆を啓蒙させるかの如く、中期ベートーヴェンの音楽は聴衆を発展した社会へと導こうとする。そして再現部とコーダでは、未だ到来していないユートピアを目指した理想主義者の勝利が高らかに宣言される。音楽はユートピアの美的仮象なのである。しかしアドルノによれば、後期ベートーヴェンの作品には、中期には観られなかった破綻が伴っているという。と言うのも後期の作品には、アウシュヴィッツに象徴される現代社会の悪しき状況が先取りされているためである。それは理想社会の叙述というよりは、現代社会の錯綜した現実を忠実に描写しようとした作品となっている。
芸術の歴史として捉えるなら、ベートーヴェンの晩年の作品は破局の様式に準拠している。何よりも後期ベートーヴェンを特徴付けている中間の中断や唐突な断絶は、アドルノによれば、出発の瞬間に他ならない。それは「断片」を寓意的に指し示している。その後も尚残存する作品は、沈黙することで、自らの空虚を露呈させる。次第に漸く次の「断片」がこれに続いていく。だが先行する「断片」と後続する「断片」の関連を判読するのは至難の業となる。それは一蓮托生の縁によって結び付いている。それらの「断片」の位置関係から放たれる形象を星座のように判読することでしか、その謎を解明することはできない。この謎めいた様相が、後期ベートーヴェンが主観的な音楽家であるという主張と客観的な音楽家であるという主張の対立を生み出している。
しかしながらブロッホはあくまでも強烈な緊張とドラマ的な集中に注力した中期ベートーヴェンを重視する。ブロッホによれば、ベートーヴェンの交響曲は、恰も到来することを躊躇っている楽園に英雄的で神秘主義的な無神論で逆らうかの如く、我々が自己自身を展開するための宇宙規模にまで拡大された多元的世界の空間を提供する。『ユートピアの精神』におけるベートーヴェンは、ブロッホの革命的メシア主義とグノーシス主義における英雄的な守護聖人として召喚されているのである。
参考文献
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