「記憶」想起の人間学的唯物論的なメディア美学

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派生問題:メシア的な力は如何にして可能になるのか

ベンヤミンが論じる<メシア的な救済>という概念は、世俗社会内在した事物に<メシア的なもの>を見出す観点を提供している。しかしこの世俗社会の内部における<メシア的なもの>は、極めてありそうもない儚く無常なものとして潜在化している。それ故にベンヤミンの哲学的盟友であるアドルノやエルンスト・ブロッホらは、同様の<メシア的な救済>を重視する思想家であっても、『脱魔術化された世界からの脱却』を志向している。アドルノにせよブロッホにせよ、極端な思考極限まで突き詰めている点で、ベンヤミンのそれとは別のあり方でもあり得る哲学的ラジカリズム展開している。だからこそ彼らの美学は、ベンヤミンの美学特徴付ける明確な差異を提示している。以下では<メシア的なもの>を巡るブロッホの美学を確認した上で、ベンヤミンの論じる世俗社会内在した<メシア的な救済>が如何にして可能になるのかを確認していく。

問題解決策:『ユートピアの精神』の現象学

ベンヤミンの『神学的・政治的断片』は、<歴史的なもの>と<メシア的なもの>の区別を<メシア的なもの>の側に再導入(re-entry)することで、双方の関係それ自体を<メシア的な救済>として教示する神秘主義的な歴史認識を素描している。この歴史認識において、神の国(Gottesreiches)は如何なる意味においても歴史目的とはなり得ない。神権主義(Theokratie)は、政治的な意味を持ち得ないのである。しかし、純粋に宗教的な神権主義であったとしても、世俗的なものが有する純粋に世俗的な秩序と全く無関係であるという訳ではない。ベンヤミンはこの関係を世俗化として捉えるのではなく、<歴史的なもの>と<メシア的なもの>が何ら媒介を必要としないまま矛盾した形式で相互に代替されることであると捉えている。だからこそ神の国は、歴史目的ではなく、その終焉なのである。過去と盟約を結ぶ営みは、もはや革命を目標として設定するのではなく、歴史の断絶として想定するための条件なのである。かくして歴史は終焉へと関連付けられる。

自由な人類が<歴史的なもの>の領域で、つまり<メシア的なもの>とは逆の方向で幸福を探求するのに対して、不自由な人類は現在の状況において、希望が無い状態のうちに足場を持たなければならない。この関連からベンヤミンは、ブロッホの『ユートピアの精神』が成し遂げた最大の功績が神権主義の政治的な意味合いを否定したことであると考える。神の国歴史目的ではないが故にこそ、世俗社会の政治的な基準にもなり得ないという訳だ。地上の内在世界では叙述することができないために、神権主義からは政治に関与し得る如何なる可能性も奪われるのである。したがって、現に神権主義に準拠した政治とは、正義仮象として完成させる。それ故にそれは不正義なのである。

神への愛としての無神論

既存の歴史から極度に逸脱した真の歴史が如何にして可能になるのかを叙述するには、極端な思考を徹底的に突き詰めた極限の形式がどうしても必要になる。そのためブロッホは、聖人伝説を歴史哲学的な形式として復興させた。人物像を想起することによって、匿名的な人間存在を明るみに出すという名目で、歴史上の人物は歴史哲学の弁護人へと仕立て上げられる。ブロッホは聖人伝説における<運命>を修正することで、忘却されている抵抗を新たなる世界の叙事詩の中で救済する。そうすることで彼は、歴史を一般の流れとは逆に判読することを可能にした。そこでは挫折した抵抗が、抹消されて隠蔽されたとしても復活できる羊皮紙のように判読される。記憶想起は、ここでは生産的な形式となる。記憶歴史を再記述するのである。

神の国を求めるブロッホは、の死後のキリスト神秘主義者であるかのように振る舞う。それは一種の千年王国論的ユートピア主義である。とはいえ彼の神秘主義は、<英雄的で秘的な 無神論>の形式を採る。この 無神論虚無主義ではない。と言うのもブロッホの神秘主義は、まさに「は死んだ」という命題によって駆動されているためである。そして彼はの死後に空洞化していた神話の空白それ自体を神話として判読することで、英雄的でもあろうとする。ブロッホにとっては、が去った状況もまた、に包み込まれている状況の一つなのである。我々は、の不在という形式で、との関係を育むのである。

それ故ブロッホにとって正統マルクス主義は、経済主義的な視野狭窄に陥っている。社会主義は、国民経済学に変貌してしまう以前は神学であった。それが国民経済学へと変貌してしまってからは、尚のこと一切の仮象を認めない神学であり続けている。だがマルクス主義はそのことを忘れてしまった。社会主義が国民経済学へと変貌したのは、宗教的な預言への信仰が絶望へと陥ったためである。マルクス主義はこのことを忘れてしまっている。それ故にマルクス主義は、ブロッホによれば、地上に実現される楽園を求める意志を裏切っている。

黙示録的な終焉

新世界を展開するには、革命の主体が現状の世界を現状の世界の中で否定する態度を採る必要がある。無論、世界の中で世界を否定することは、自己言及のパラドックスに他ならない。それ故にそのユートピアは実現不可能であるということになる。しかしブロッホの見立てによれば、それが実現不可能であるのは、地上においてのことである。彼は集団のあらゆる成員が対等な人格として出会う状況こそが最終的に達成されるべき状況であると考えることで、精神的な共同体としての神の国を目指す。こうした共同体は、政治的な国家に対して極端で超自然的なアンチテーゼとなるユートピア的な政治組織となる。この神の国には、政治的な国家も存在しなければ、超越的な存在しない。この神の国において重要となるのは、「正統性(Orthodoxie)」と「急進性(Radikalität)」が純化された新しい正義として一体となることなのである。

ブロッホの哲学的ラジカリズムは、この現状の世界の黙示録的な終焉を望む神権主義である。それはより良き未来の世界のために闘うのではなく、歴史の終焉のために闘う。それはキリスト教の諸宗派が実施するメシアのための闘いをプロトタイプとしている。闘争とは、神権主義に準拠した革命家のこの現状の世界との唯一の妥協点となる。この神権主義にとって、闘争展開すること以外に、世界が現状のままであり続けなくてはならない理由は無い。

『ユートピアの精神』 VS 「資本主義の精神」

こうした『ユートピアの精神』が敵と見做すのは、近代の機械化された技術の精神である。とりわけその新即物主義は、自我とは疎遠で事物のみに貢献するような目的追求の形式に過ぎない。その技術の冷徹さを以って、新即物主義は近代の虚無主義を蔓延させた。

この見解は脱魔術化された世界に対するマクス・ウェーバーの分析を出発点としている。だがブロッホはウェーバーを踏襲するだけではなく、ウェーバーとは異なる着想にも辿り着いた。と言うのもブロッホは、その批判の矛先をヨーロッパの資本主義的な合理性にも向けているためである。その合理性は利益の追求と専門主義に根差している。つまりブロッホが対決しているのは近代社会機能的に分化した社会構造なのだ。種々の機能的サブシステムは、それぞれの問題領域の問題解決に特化することによって、我々の負担を軽減する。近代社会はそうした機能によって構造化された「鋼鉄の家(stahlhartes Gehäuse)」として人間を包み込んでいる。ブロッホが突き進もうとしているのは、まさにこの「鋼鉄の家」からの脱出の道なのである。

だがブロッホのこの振る舞いはウェーバーから極端に逸脱しているという訳でもない。無き脱魔術化された世界を生きているというウェーバーの<歴史神学(Historische Theologie)>的な時代診断こそが、ブロッホを精神無き即物性に対する批判者に仕立て上げたからである。『ユートピアの精神』の主題は、「空想から科学へ」という社会主義に対して逆向きの働き掛けとなっている。この著作の主導的差異の一つに、しばしば社会運動との関連から導入されてきた<西洋>と<東洋>の区別が採用されているのも、この働き掛けがあってこそである。脱魔術化、即物主義、技術の冷徹さを帯びた「鋼鉄の家」に住まうのが空虚で均質な<西洋>に対応するのなら、記憶想起装飾、祈りと精神から成り立っているのが<東洋>である。

ブロッホの「鋼鉄の家」からの脱出の道は、専ら装飾(Ornament)との関連から叙述されている。彼によれば、人間の手によって制作された工芸品は二つの要素で構成されている。一つは、道具としての実用的な機能である。もう一つは、自己主張の欲求実現である。例えば壺であれば、一方ではその内部に<容器>としての機能があり、他方ではその表面の装飾に自己の「表現(Ausdruck)」の領域がある。ブロッホによれば、人間によって制作された如何なる工芸品も、元来この二つの要素で構成されていた。だが資本主義的な生産体制は、この二つの要素を分離させてしまった。一方の実用的な機能は技術の冷徹さの極限へと絡め取られてしまった。しかし他方の自己表現の領域もまた、実用的な機能から極端に離反することによって、むしろ長大な「表現主義(Expressionismus)」的な芸術可能性を生み出すに至った。ブロッホがゴシックとバロックを共に過剰なものの装飾として位置付けるのは、この背景があってこそである。つまり彼は近代社会脱魔術化の作用を逆手に取る極端な戦略に躍り出たのである。

しかしながら、これらの芸術がブロッホの自己邂逅的な美学的関心を満たすことは無かった。何故なら、これらの芸術はまだ見ぬ自己自身との出逢いの可能性を暗示するに留まるからである。ブロッホが真に関心を示したのは音楽である。彼は一旦ショーペンハウアー的に、芸術の領域に対して音楽と非音楽区別を導入している。音楽は決して他の諸芸術のようなイデアの仮象なのではなく、意志それ自体の仮象である。音楽以外の諸芸術が影を語るに過ぎないのに対して、音楽は本質を語る。何故なら、音楽以外の芸術模倣するイデアもまた意志にとっての客体であるためだ。だとすれば音楽は、他の芸術よりも一段階高い抽象的な視点を有していることになる。音楽は世界の形而下的なあらゆるものに対する形而上的な表現であると共に、あらゆる現象に対する物自体の表現である。音楽は世界の全てを体現する意志の全ての表現であるということになる。

もとよりこのショーペンハウアー的な区別では、イデア論的な永遠性を不当に想定してしまう。故にブロッホもこの区別は直ぐに棄却している。彼が音楽に見出しているユートピア主義的な機能は、永遠性というよりはむしろ現在性に関連する。音響的な刺激には、一瞬で過ぎ去っていく程の速度がある。音は一瞬で過ぎ去っていく。そのリズムは、生じては消え去る生成消滅を意味する。そうした音楽を聴覚的に享受する観察者から観れば、音の聴取は、音の「遠さ」から音の「近さ」への瞬間的な移行の過渡的状態の中で実践される。音響的な刺激は遠くから近くへと瞬時に到来する。この音の脱アウラ化を念頭に置くことによって、我々は漸くブロッホの見出したユートピアに関する音楽機能を理解することが可能になる。音楽は、まさに近接化されて脱アウラ化されつつあるユートピア聴取を可能にするのである。言い換えれば、音楽ユートピアの到来とその始まりを予感させるサインなのだ。

脱魔術化された世界をもう一度脱魔術化する魔術

ブロッホの『ユートピアの精神』は、脱魔術化された世界をもう一度脱魔術化するという点で、アドルノの『美学理論』の美的な機能的等価物となる。尤も、アドルノの『美学理論』はまず「表現(Ausdruck)」と「構成(Konstruktion)」の区別棄却しているために、ブロッホとは全く異なる出発点に位置している。新即物主義における仮象を知らぬ真剣さは、歪められていないことの証なのであって、精神的に直接的で純粋な光こそが美しいのだという偶像破壊主義的なモチーフに対応している。それは新即物主義の神学的な核となる認識である。この観点では、装飾が無いということの方が、精神と肉体が共に現前して統一されているという即物主義的なユートピアに相応しいということになる。ここでは、新しい装飾を生み出すことがもはや不可能であるという事実が、装飾を克服したことを意味するようになる。それは装飾無き時代の到来を告げる機能主義的な幻想の新しい聖地として表現される。つまり物それ自体が、仮象を伴わせることなく形態を表すという訳だ。それこそが事物の有する美なのである。

しかし大戦を迎えて登場したのは、人間の顔をした超越的な装飾ではなく、大衆のファシズム的な装飾である。表現主義への憧憬が歴史の中で没落すると、その抵抗運動として営まれていた新即物主義もまたイデオロギーに過ぎないことが明らかとなる。何故なら、即物主義は抽象化された合理性形式的な真剣さを自己目的化して宣伝しているためである。この宣伝活動が、装飾機能的等価物となっていたのだ。かくして「政治の美学化」というベンヤミンの問題設定は的を射ることとなる。日常的となった即物主義の具体性の仮象は、ブロッホも指摘するように、美的な享楽としての貧しさを尚もセールスポイントにしている。その営業トークを真に受けるならば、新即物主義的な再現が有する純正さによって理想化された世界は、たとえ如何なる形であろうとも、美しいということになる。無論、装飾排除した仮象無き状態から生み出される即物主義的な革命は、政治的に受容された訳ではなく、綱領のままで留まった。しかし新即物主義の装飾への敵意は、美的仮象に向けられた総攻撃を意味するものの、決して美と装飾を精算しようとしていた訳ではない。その敵意は、美と装飾を再記述しようとしていたのである。アドルノはそれ故に仮象を批判する。仮象を批判することが、仮象自己意識を持たせるためである。真の意味装飾となるのは、偉大な価値を表明する装飾なのではなく、仮象から解放された美としての装飾なのである。つまり事柄をありのままに呈示する事柄それ自体の輝きなのだ。したがってこの新たな概念としての即物性は、存在仮象の美的な同一性を主張している。

だが事物を覆うの不可欠なヴェールとして美的仮象叙述しているベンヤミンの<歴史神学>は、もはや即物的な思想とは相容れなくなっている。近代社会の近代性は、仮象無き芸術神学的な問題設定複合性弁証法的に高めている。と言うのもアドルノが踏破したように、美は脱魔術化された世界をもう一度脱魔術化する魔術となったためである。美的な脱魔術化は、商品物神崇拝という脱魔術化された世界を目指す。こうした物象化された事物の合理性美学的な合理性を対置するのが即物主義の意図なのである。脱魔術化と魔術化の弁証法は、模倣という世俗化された魔術を物象化によって隠蔽された目的探究する過程で、美的な合理性の推進力へと昇華させる。美的な魔術はそれが仮象であるという性格を受け入れることによって、物神崇拝の魔術から区別される。だからこそアドルノの近代性においては、美的な魔術は脱魔術化と不可分なのである。魔術の美的な仮象こそが、脱魔術化された世界をもう一度脱魔術化する。かくしてこの近代世界では、芸術存在するという事実がスキャンダルとなる。

ユートピアの精神の現象学

ユートピアの精神(Geist der Utopie)』は、ユートピアの『精神現象学(Phänomenologie des Geistes)』である。それは現状の世界の迷宮から自我という装飾への脱出の道を叙述している。その際、概念として捉えられた即物性は、現実世界を超越する装飾として、内向きな働き掛けとして構築された内面性を生み出すために、世界の脱魔術化を実行する。まさにこの脱魔術化された世界をもう一度脱魔術化する発想によって、美学こそが『ユートピアの精神』の参照問題となる。

ブロッホは美学歴史哲学的に展開している。その際、テーゼとなるのは深刻性と決断を欠落させた美的仮象のギリシア的な国である。それは対象無き内在性の芸術であると共に、外面的な生気で充満した芸術である。これに対してアンチテーゼは、純粋に無機的な価値領域としてのエジプト的な国である。そしてジンテーゼとなるのは、復興の精神から生み出される自由な表現運動としてのゴシック的なものである。この極端な思考を徹底的に突き詰めた極限の形式としてのゴシック装飾は、有機的で抽象的な線分によって、自我が不意に自我としての意識に目覚めるための形態叙述する。

この自我の目覚めのための形態は、教会の徳を高めようとする預言者の自己意識よりも、自己自身の徳こそを高めようと異言で祈るような自我を強調している。その際、預言と異言の区別はパウロとは逆行する形式で導入される。ブロッホにとっては、自己自身の徳を高めようとする自我がこの世界から追放されないようにすることの方が、より重要なのである。それと同時に、この自我形態は、黙示録と同値の価値を持つ。それは現実世界とは別のあり方でもあり得る真理を目指す。価値という概念による規定は、ブロッホによれば、世界が無くても妥当性を持つのである。もしそれが現実の事実と矛盾する場合には、現実の方が間違えているということになる。

ブロッホのユートピア主義が音楽哲学と結び付くのは、この預言と異言の区別においてである。ブロッホによれば、ユートピアに到達するための歴史哲学的な道筋となるのは、近代社会における異言としての音楽を預言として解釈することなのである。ブロッホの『ユートピアの精神』は、『脱魔術化された世界からの脱却』を音楽によって実現しようとする美学なのであって、その美学音楽を未だ到来していない共同体の神学として解釈される。音楽神の国神学である。『ユートピアの精神(Geist der Utopie)』は、ヘーゲルの現世的な『精神現象学(Phänomenologie des Geistes)』と対立する音楽的な現象学なのである。

音楽哲学の英雄

音楽哲学においてブロッホが重視するのは、自我を客観性から解放して目覚めさせることである。そのためにゴシック装飾の大聖堂は、<第二のノアの箱舟>となる。しかしここで想定されているゴシックとは、先に示したジンテーゼとの関わりは保持されていながらも、実際に歴史上実在したゴシックに対応している訳ではない。そうではなく、ここでのゴシック的なものとは、アプリオリに規定されるのである。

ゴシック的なものの装飾は、抽象化による救済を約束する。装飾の抽象的な構成人間を個別具体的に形式化させたあらゆる対象を否定すると解釈することで、ブロッホはゴシック装飾という概念の規模を隠喩的に拡大させる余地を生み出している。抽象的な線分で描写された絨毯の模様やアラベスク模様は、ブロッホにとって、必要な表現上の抽象性を達成するための超越的で形而上学的な装飾の序奏に過ぎない。これに対してブロッホが真に求めるのは、偶像破壊主義的な表現主義である。彼は自我装飾による自我の表出を目指すために、個別具体的な美的造形の価値を低く見積もる。装飾とは彼において、我々が生きながらにしてそうではあり得ない自我偶発的な造形を意味しなければならないのである。

しかしブロッホにとってこの大規模な装飾から覆われた内面に対する内向きの働き掛けはまだ準備段階に過ぎない。何故ならユートピアは、そもそもにおいて、この地上では実現し得ないからだ。だからこそ異言を預言として解釈するブロッホの美学は、彼にとって、有史以来のあらゆる偉大な芸術作品よりも高い価値を持つことになる。ゴシック的なものの装飾は、ブロッホ自身が最後の芸術家となることで実践される。彼がこれ以外の芸術作品を軽視しているのは、理由の無いことでもない。彼にとって現世の全ては誤謬に過ぎないからだ。それは没落するに値する。現状の世界が尚も現状のままであるのは、我々が「本来的自己(eigentliche Selbst)」に出会えていないためである。ここまで来れば、ブロッホの『ユートピアの精神』がグノーシス主義に照応していることが明確になる。

ユートピアの精神』は、音楽革命メシア主義とグノーシス主義の共存の場として指定している。実際、音楽ユートピア的な機能を例示する上で、ブロッホはベッカーの歴史哲学とは全く異なる観点からベートーヴェンを取り上げている。ベッカーにとってのベートーヴェンが公共の理念による群衆啓蒙という役割を担っていたのに対して、ブロッホにとってのベートーヴェンは、終末の瓦礫と魔術を揺り動かす黙示録的で悪魔(Lucifer)的な英雄として君臨する。そこに古き良き古典主義的な啓蒙家としてのベートーヴェンはいない。

アドルノですら当初は、中期ベートーヴェンのソナタ形式における時間感覚は、市民社会進歩史観を前提とした啓蒙主義的な精神表現であると見立てていた。この点で中期ベートーヴェンの交響曲はヘーゲルの『精神現象学』に照応する。中期ベートーヴェンの交響曲は発展(Entwicklung)の時間意識を前提としている。事前と事後の線的で不可逆的な差異構成する時間は、音楽においては超越論的な前提となる。だがベートーヴェンの交響曲においては、先行するものにおける矛盾が動態的な運動を繰り広げる。それにより後続するものが必然的な結果として発現するという構成を取っている。つまりベートーヴェンは、超越論的な前提であるはずの時間を作品内部の矛盾によって生じる自己産出的な動態的運動で代替しているのである。超越論的な前提となる時間排除することは、しかし音楽経験の終わりを意味するのではない。ベートーヴェンにとって、この終わりは矛盾止揚なのである。それは音楽による全体性の実現であって、構成されたフィナーレなのだ。

中期ベートーヴェンの交響曲におけるドラマ的な時間は、聴衆を目的論的に啓蒙しようとする論理を有している。この想定に立つ限りで、アドルノはベッカーと共通した観点からベートーヴェンを観察している。聴衆を啓蒙させるかの如く、中期ベートーヴェンの音楽は聴衆を発展した社会へと導こうとする。そして再現部とコーダでは、未だ到来していないユートピアを目指した理想主義者の勝利が高らかに宣言される。音楽ユートピア美的仮象なのである。しかしアドルノによれば、後期ベートーヴェンの作品には、中期には観られなかった破綻が伴っているという。と言うのも後期の作品には、アウシュヴィッツに象徴される現代社会のしき状況が先取りされているためである。それは理想社会の叙述というよりは、現代社会の錯綜した現実を忠実に描写しようとした作品となっている。

芸術歴史として捉えるなら、ベートーヴェンの晩年の作品は破局の様式に準拠している。何よりも後期ベートーヴェンを特徴付けている中間の中断や唐突な断絶は、アドルノによれば、出発の瞬間に他ならない。それは「断片」を寓意的に指し示している。その後も尚残存する作品は、沈黙することで、自らの空虚を露呈させる。次第に漸く次の「断片」がこれに続いていく。だが先行する「断片」と後続する「断片」の関連を判読するのは至難の業となる。それは一蓮托生の縁によって結び付いている。それらの「断片」の位置関係から放たれる形象星座のように判読することでしか、そのを解明することはできない。このめいた様相が、後期ベートーヴェンが主観的な音楽家であるという主張と客観的な音楽家であるという主張の対立を生み出している。

しかしながらブロッホはあくまでも強烈な緊張とドラマ的な集中に注力した中期ベートーヴェンを重視する。ブロッホによれば、ベートーヴェンの交響曲は、恰も到来することを躊躇っている楽園に英雄的で神秘主義的な無神論で逆らうかの如く、我々が自己自身を展開するための宇宙規模にまで拡大された多元的世界の空間を提供する。『ユートピアの精神』におけるベートーヴェンは、ブロッホの革命メシア主義とグノーシス主義における英雄的な守護聖人として召喚されているのである。

神のユースケース

音楽哲学としての『ユートピアの精神』の最終的な目標は、美的な範疇を<歴史神学>的に解消することである。ブロッホは、道徳における仮定法となる<かのように(Als ob)>と同様に、美的な次元における仮定法を神学的な仮定法である<未だ、無い(Noch Nicht)>に対応付けている。これにより彼は、一旦、道徳的な次元、美的な次元、そして神学的な次元の複合性時間化する。この複合性の時間化によって、憧憬という危機に曝されたユートピアの現実が構成される。それは新世界が未来に位置するという時間感覚を前提としている。そして、ユートピアの現実の未来における永遠性歴史哲学的に確実であるという認識を形成することで、ブロッホは、<存在しない>が<未だ存在しない>にも拘らず<存在する>という<非同時性の同時性>のパラドックスを記述する。

ブロッホの『ユートピアの精神』は、まだ見ぬ本来的な真の自己に関する歴史神学であって、未だ意識されていない未来についての神学的教義である。メシアが未だ現われていないことこそが、彼の教義を後押ししている。この教義では、如何なる存在しない。如何なるも、未だ、無い。それでも、何らかのは、在る。このようにブロッホは、自身の教義にパラドックスを意図的に埋め込むことによって、このパラドックスをグノーシス主義的に脱パラドックス化する。このパラドックス展開によって、この教義は、人間に対して改めての従属を強いるという落とし穴を巧妙に回避する。この脱パラドックス化によって指し示されるのは、善良なである。この時彼の歴史哲学は、を命名し、任命し、呼び覚ます存在であるという自己理解に到達する。

ブロッホはこのパラドックス化とその脱パラドックス化を実に巧く利用している。ブロッホは単純な自我救済を宣言しない。彼はあえてを実験的に呼び覚ますことによって、間接的に本来的な真の自己へと接近しようとする。グノーシス主義的に言えば、自己が真の自己になるためにはまず現世の自己から脱却しなければならない。そのためにこそが「有用」になる。に頼らずに現世の自己から脱却しようとすれば、物の世界の濁流に呑み込まれてしまう。だからこそブロッホは、パラドックスを、言わば彼の教義の飛躍のための踏み台として展開しているのである。

しかしこのグノーシス主義は、<メシア的な救済>がこの世俗社会内在していては成立し得ないということを暗に自明視している。これをブロッホの盲点として観察するのは極めて難儀なことだ。だがこの観点は、世俗社会から本来的故郷への美的亡命の観点を提供しているアドルノの否定主義的な哲学的ラジカリズムの観点とは著しい共通性構成している一方で、世俗社会内在した<メシア的なもの>を探究するベンヤミンの哲学的ラジカリズムの観点とは著しい差異構成しているのは明らかである。まさにこの極端な思考極限までに突き詰めた者たちの差異が、ベンヤミン流のメシア主義を特徴付けることになる。しかし、この<両極>に全く共通点が無いという訳でもない。直ぐに後述するように、ベンヤミンの哲学的ラジカリズムは、アドルノやブロッホのそれに匹敵するほどの破壊的な性格を帯びた革命論を提示している。

問題解決策:暴力の歴史哲学

ベンヤミンの<歴史神学>はブロッホのそれとは異なる形でウェーバーを継承している。ウェーバーが近代社会における宗教的な生活の世俗化を記述しているのに対して、ベンヤミンは更に世俗化を推し進めた宗教的な生活の形式を指摘する。その形式とは、進歩史観の崇拝と『宗教としての資本主義』である。ベンヤミンからすれば、世俗社会における禁欲的な生活形式にせよ、進歩史観の崇拝にせよ、あるいは資本主義でさえ、現世の中での救済意味する。いずれも宗教めいたものの世俗的な形式である点では等しく扱うことができる。だが禁欲的な労働を通じた救済信仰することができるのはキリスト教徒だけであったのに対して、進歩史観の崇拝と資本主義の祭儀は虚無主義が蔓延した後も、とりわけ技術的な進歩の場面で継続的に採用されてきた。

罪の文脈

それ故にベンヤミンの<歴史神学>の観点では、ブロッホのそれに比して、技術的な進歩史観のような非キリスト教的な文脈も明示的かつ積極的に参照される。進歩史観は、均質で連続的な右肩上がりの発展を自明化すると共に、人類が原から贖までの「罪の文脈(der Schuldzusammenhang des Lebendigen)」の因果に拘束されている可能性を隠蔽する。それ故に進歩の崇拝は、因果論的に不可避とされる「運命(Schicksal)」に対して批判的であるための契機を我々から奪い去るのである。

この問題を設定するベンヤミンの問題解決策となったのは、ブロッホと同じく、である。しかしベンヤミンとブロッホの最も大きな差異は、のユースケースにある。いや、暴力の関連にあると述べた方が、表現としては適切かもしれない。ブロッホがパラドックス化によって暴力を加える立場を標榜するなら、ベンヤミンは暴力を敢行させようとする。ブロッホが神話無き世界の英雄的な神話物語るなら、ベンヤミンは神話が「罪の文脈」として未だ世俗社会に蔓延しているという前提から、これを一掃しようとする。ブロッホが自身の革命のために暴力的に踏み台にするのに対して、ベンヤミンはによる暴力を自身の革命論に適用しようとする。ブロッホのが<未だ、無い>と<もはや、無い>の緊張の中で叙述されるのに対して、ベンヤミンのはこの世俗社会の隅々まで浸透した潜在的な存在として叙述される。

法=掟の社会構造と暴力の意味論

何故ベンヤミンがをこの世俗社会の中に見出したのかを理解するには、この世俗社会が潜在的に浸透しているという事態が如何にして可能になっているのかを知らなければならない。この問いに答えるのが、彼の暴力主題とした歴史哲学である。それは法=掟(Gesetz)の社会構造暴力意味論を前提とした意味処理規則を明らかにしている。この歴史意味論において主題化されるのは、ではなく、神話(Mythos)である。神話に基づく規範的な期待が、を隠蔽しているのである。

革命歴史は、暴力矛盾歴史でもある。例えば1920年代のドイツの社会情勢は、政治家ヴォルフガング・カップの「カップ一揆」をはじめとした運動によって、革命的な状況を生み出していた。そうした運動は、確かに「暴力(Gewalt)」を伴わせていた。だが当時勃発した諸々の運動は、ドイツ革命を推進する原動力でもあった。実際、社会民主党を中心として成立した共和主義的な議会が、他ならぬ革命的ゼネストという名の暴力を背景に結実していたというのは、歴史が示す通りである。しかしその担い手たちは、一旦「権力(Macht)」を獲得する途端、自らが後ろ盾にしていたはずの暴力に対して否定的な立場を表明するようになった。

ベンヤミンの『暴力の批判(Zur Kritik der Gewalt)』は、この暴力矛盾歴史に対する批判として記述されている。ベンヤミンは、暴力が法(Recht)や権力の背景に潜むという前提の下で、プロレタリアートの革命的ゼネストによる暴力の「正義(Gerechtigkeit)」が如何にして可能になるのかを問題視していた。

この問題設定において、ベンヤミンは様々な問題解決策展開してみては、その派生問題を追究するという営みを繰り返している。その営みは、何らかの区別を導入してみては、それを棄却するという反復として描写できる。

ベンヤミンはまず、あらゆる法的秩序の根底的な基礎になるのは、目的手段の関係であるという。そして暴力は、目的というよりは手段の側に位置付けられる。すると暴力批判の基準は、暴力が正しい目的のための手段として利用されているのか否かが焦点となる。

だが、事はそう単純ではない。たとえ目的手段の図式で体系が整えられていたとしても、そうした体形によって指し示されるのは、原理としての暴力それ自体の批評基準ではなく、暴力に関する個別具体的なユースケースのための批評基準であるためだ。正しい目的のための手段としての暴力であっても、その暴力が原理的に倫理的であるか否かという問題は残存することになる。この問題に対処するには、より直接的な批評基準が必要になる。つまり、目的を一旦度外視することで、手段それ自体の領域に区別を導入しなければならないのだ。

そこでベンヤミンは、この目的手段区別棄却すると共に、新たに自然法実定法という法哲学の潮流を成してきた区別を導入することになる。

自然法は、正しい目的のために暴力的な手段を用いることを自明化している。自然法にとってそれは、目的地に身体を動かして向かうことが人間にとっての生得的な権利であることと同じことなのだ。暴力自然の産物であって、原材料である。不正な目的のために用する場合を除いて、暴力を使用することには何の問題も伴わない。

自然法の国家論は、諸個人が自己の暴力の全てを国家のために惜しみなく差し出すと想定している。だがその背景には、合理的な契約を結ぶ以前の諸個人には、実際に任意の暴力を権利として行使することもできるという前提がある。凡そ自然な理に適った正しき目的のための暴力は、既に正当なのである。

これに対して実定法は、この自然の所与としての暴力否定する。実定法によれば、暴力とは歴史的に構成された産物だ。自然法があらゆる現行法批判を目的批判で遂行しようとするのならば、実定法はあらゆる未来の法の批判を手段の批判によって遂行しようとする。この背景にあるのは、正義性と合法性の区別が、目的手段区別に対応しているという想定だ。すなわち、正義目的の批評基準であると共に、合法性が手段の批評基準となるのである。

自然的目的と法的目的の差異

しかし、対極を成すはずの自然法実定法は、共通の基本的教義を有している。正しい目的は合法的な手段によって達成され、合法的な手段は正しい目的を指向するという前提に立っている点で、自然法実定法は共通しているのである。自然法目的の正当性によって手段を正当化しようとする。実定法手段の合法性によって目的の正当性を保証しようとする。もしこの共通の教義が誤謬で、一方の合法的な手段と他方の正当化された目的が競合する場合には、解決不可能な二律背反が派生することになる。

したがってベンヤミンは、目的手段区別と共に自然法実定法区別棄却することで、これらの区別に依拠せずして、正しき暴力の根拠付けが如何にして可能になるのかという問題を再設定する。

合法的な暴力と不法な暴力区別は、自明ではない。自然法的に観れば、この区別は、正しい目的のための暴力と不正な目的のための暴力差異に対応する。だがベンヤミンは、この観点を誤謬として排除しなければならないという。ベンヤミンが注視しているのは、むしろ実定法の側だ。

実定法は、あらゆる暴力に対して、それぞれの歴史的な根源に関する証明書を要求する。そうした証明書があれば、個々の暴力が如何なる条件で合法的であるとして承認されてきたのかが判明する。具体的に言えば、法的暴力への承認は、その目的への原理的に無抵抗な服従として表出する。このことからベンヤミンは、次なる区別として、その目的の普遍的歴史的な承認の有無の区別を導入しようとする。ベンヤミンと共に換言するなら、この承認が欠如した目的が「自然目的(Naturzwecke)」で、承認を獲得している目的を「法的目的(Rechtszwecke)」となる。

暴力の存在証明

ベンヤミンは、暴力的な手段による追求が認められるのは法的目的の場合だけであるということに、ヨーロッパの近代社会特徴を見出している。自然目的暴力的な追求は容認されない。だが自然目的は至る所に存在している。例えば教育現場の教師たちによる<教育する意図>は、しばしば教師たちの暴力的な体罰という形で追求されていた。こうして自然目的の追求に暴力性が伴った際には、法秩序が法的目的によって介入することになる。そうした暴力は、法秩序が教育者の処罰権に制約を課す法律を設定することで制御されるのである。

ヨーロッパの立法においては、少なからず暴力的に追求され得る個人の自然目的は、全て法的目的と競合することになる。これを前提とすれば、法秩序は個人の手中にある暴力可能性を、法秩序を転覆させ得る危険として言及していることになる。だがそれは、法の目的と法の執行を無力化する危険として見做しているという訳ではない。仮にそうであるならば、法秩序は、暴力の全てではなく、違法な目的のための暴力だけを否定すれば良いだけのはずだ。むしろ諸個人と対立してでも暴力を独占しようとする法の意図は、法の目的を護ることではなく、法それ自体を護ることなのである。法の外部に位置する暴力が法を脅かすのは、それが追求される可能性のある目的によってではない。まさに暴力そのものが法の外部に存在していることによって、いつでも何処でも誰に対してでも、法を脅かす可能性を呈示しているのである。

この論点をベンヤミンは「大犯者」と関連付けることで例示している。大犯者の姿勢は、その目的が反感を引き起こす意図にあった場合でも、しばしば民衆の密かな期待を煽っている。民衆は、心の何処かで犯者に共感してしまうのだ。そうした期待と共感が湧き上がるのは、民衆が犯者自身の行為を観たからではない。むしろ犯者の行為が暴力存在証明しているためなのである。言い換えれば、魅力的な犯者とは、法による暴力の独占に抵抗する者なのだ。

問題解決策:暴力の機能

一方で、現行法秩序においてさえ未だ暴力展開が認められている領域も残存している。労働者に保証されているストライキ権は、この一例だ。ストライキ権に対する国家の観点と労働者の観点の差異は、革命的ゼネストにおいて明確に浮き彫りとなっていた。一方で労働者側から観れば、ストライキ権は何らかの目的を果たすために暴力を使用する権利である。だが他方で国家から観れば、それは権利の濫用であるという。「そのようなストライキ権は容認していない」といった具合に、ストライキ権に関する認識の齟齬を主張する訳だ。

こうした矛盾したコミュニケーションがその場しのぎの意図的な誤解によって波及している場合も多分に及ぶであろうが、しかし両者の間で認識の齟齬が起こるのは理由の無いことではない。それは、国家が一つの暴力を承認しているという法的状況が有している矛盾から成り立っている。自然目的の追求のための暴力に対して、国家はその全てを否定しようと躍起になっている訳ではない。国家は、時には無頓着で、また時には敵意を剥き出しにしてその暴力を制限しようとする。国家は、革命的ゼネストのような大事にならない限りは、自然目的の追求のための暴力を常時弾圧している訳ではない。

だとすると、国家の自然目的の追求のための暴力に対する姿勢は、一貫してはいないということになる。諸個人の権利として承認する一方で、それを暴力として否定する振る舞いは、確かに矛盾している。このことからベンヤミンは、国家がストライキにおいて何よりも恐れているのは、暴力が有するある機能なのだという。つまり、ストライキが暴力における特定の機能を結実させ得る場合には、国家はそれを暴力として観察する。その機能が発揮され得ないのならば、国家はそれを権利として承認する、という訳だ。

ベンヤミン自身が述べているように、まさにこの暴力機能探究することこそが、『暴力の批判(Zur Kritik der Gewalt)』の唯一の基礎であるという。簡潔に言えば、暴力機能は法的な関係を更新することにある。このことは、戦争を例示することでわかり易くなる。

法措定と法維持の差異

一つ目の「大戦」以来、軍事的組織による物理的暴力に対する批判が、暴力全般への情熱的な批判の出発点となる傾向が生まれた。そしてこの批判によって、暴力はもはや素朴な形で行使されたところで、容易には容認されなくなっている。しかしこの場合の暴力批判は、単に「法措定的(rechtsetzende)」な暴力を対象にしていた訳ではない。むしろより一層痛烈に批判されたのは、暴力の有するもう一つの側面であった。つまり、一般的な兵役義務を通じて初めて形成された軍国主義の特徴である。それは軍隊の持つ「法維持的(rechtserhaltende)」な暴力である。軍国主義者たちは、暴力を国家の目的のための手段として全面的に使用することを強制していた。この暴力の行使が、「大戦」以来、非難の的となっていたのである。

ベンヤミンはこの関連から、軍国主義に対応付ける形で、暴力を「法措定暴力(rechtsetzende Gewalt)」と「法維持暴力(rechtserhaltende Gewalt)」に区別している。これによりベンヤミンは、自然目的のために適用される暴力からは見出せていなかった暴力機能を抽出している。元来、兵役義務のような法律に市民を服従させることは、一つの法的目的の追求を意味する。それは国家の目的を追求するための暴力であるが故に、国家にとっては恐れるに足る暴力とはなり得ない。だがストライキのような暴力は、法措定的であるが故に、国家にとっての脅威となる。戦争についても同様だ。こうした運動闘争は、新しい法秩序を再構築することを指向する。それはやはり、国家の既得利権を脅かすのだ。

この区別を前提とすれば、兵役義務のような法維持暴力に対する批判は、平和主義者や実践主義者たち、あるいは無政府主義者たちが熱狂的に想像している程には、容易いものではない。真に法維持暴力を批判するには、合法的あるいは執行的な暴力への批判をも担わなければならないからだ。

警察組織

しかしこの法措定暴力法維持暴力区別は、認識することが困難となっている。象徴的なのが、「警察(Polizei」という組織だ。警察は、近代国家によって制度化されつつも、極めて不透明な構造を生み出している。警察は、確かに法的目的のために処分権を持つ。疑わしき市民を拘束することは、ある種の承認された暴力なのだ。だが一方で警察組織は、広汎に渡る法的目的を自らで決定する命令権を有している。だから、時に警察は、国家によって承認されている権限を逸脱した粗暴極まる過干渉をも実行に移してしまう。

こうした警察の非道な一面は、この組織において、法措定暴力法維持暴力区別が、この区別の内部へと再導入された結果であるとも考えられる。前者の暴力が勝利することによってその資格を証明することを要求されているとするならば、後者の暴力はそれ以上新たな目的を設定しないという制約下に置かれている。警察は、この二つの条件から免除されているのである。

警察は法を措定する。と言うのも、警察の特徴的な機能は法律の公布ではないものの、法的な効力を有すると主張するあらゆる命令の発動であるためだ。同時に、警察は法を維持する。と言うのも、この組織は法的目的の「御用達」を努めているからだ。

警察による暴力目的は、他の法的目的からは厳密に区別されなければならない。あるいは、警察による暴力が他の法的目的との関連を維持しているという発想も捨てなければならないであろう。むしろ警察における「法」が真に根を下ろしているのは、国家が何としてでも押し通したい具体的な目的をもはや法秩序では保証し得なくなっている領域に他ならない。ここでいう「法秩序では保証し得なくなっている」理由が、国家それ自体が無力であるためなのか、それともあらゆる法秩序に内在している因果関係のためなのかについては、ベンヤミンは明確に説明してはいない。しかしながらベンヤミンと共に機能的に観るなら、警察の機動力は既存の法秩序を容易に逸脱し得るということは、直ぐに見て取れる。警察は明確な法的領域が存在しない無数の個別具体的な状況で、「安全」のために、介入することが許されている。それがたとえ「こじ付け」であっても、何らかの法的目的と強引に関連付けることによって、日常生活を送る一般市民の尾行や監視すら実現している。

しかし、こうして警察組織問題視したところで、暴力から免れる訳ではない。手段としての暴力は皆、法を措定するか、法を維持する。その双方を否定することはできない。それは暴力それ自体を全否定するようなものだ。尤も、こうして警察組織機能観察すれば、法が倫理的に怪しげな存在であることは理解できるであろう。すると、暴力に対する非暴力的な代替案が如何にして可能になるのかに視点が移動してしまうのも、無理は無い。

暴力と非暴力の差異

最初に確認しておくべきことは、闘争運動の純粋に非暴力的な調停は、決して何らかの法的協定には至らないということだ。つまり法的な停戦協定は、当事者たちがどれほど平穏に結ぼうとも、結局は暴力可能性を派生させているのである。理由は単純だ。相手が協定を破る時は、何らかの暴力を相手に対して用いる権利を、双方が有しているからである。それだけではない。協定の結末のみならず出発点からして、暴力可能性指し示している。法措定暴力が、協定時に顕在化することはないかもしれない。だがそこには、法的な協定を保証する権力者としての、暴力の代理人がいる。この権力は、暴力的に協定の内部へと導入された訳ではない場合であっても、元来暴力的な根源を有している。

このことを忘却してしまったのが、冒頭でも取り上げた1920年代ドイツの共和主義的な議会であった。ベンヤミンによれば、当時の議会には、そこに代表される法措定暴力に関する感覚が欠落していた。議会がこの暴力に見合う決議に到達することは決してなかった。議会は、政治的問題を非暴力的に処理することに終始していたのである。議会は、かつて自己自身を成立させていた革命的な力を忘れてしまったが故に、よく知られた惨めな見世物へと成り下がってしまった。こうした議会の凋落によって、政治的な問題の非暴力的な調停という理想に対する落胆が生み出された。多くの市民は、もはやこの非暴力という理想に期待を示すことができなくなった。このことは、戦争が市民をその理想へと向かわせたことと、対極を成している。

政治的問題の非暴力的な調停への指向は、革命への原動力を喪失している。非暴力を理想として、法措定暴力盲点とした結果として、議会はその決定力を喪わせたと言い換えても良い。拘束力を有した正統なる決定こそを重視する政治において、暴力と非暴力区別は逆機能となる。それどころか、暴力と非暴力区別は、それ自体がその内部に再導入されることで、<暴力的な非暴力>を生み出し得る。それが法措定的な暴力となるのか、それとも法維持的な暴力となるのかは、不確実だ。非暴力的解決策が戦争を引き起こす可能性すら、我々は否定できない。だとすれば、非暴力的な解決策を打ち出したところで、それが機能するのは、精々私的領域に限られるであろう。

問題解決策:「神話の暴力」と「神の暴力」の区別

暴力と非暴力区別を導入することで非暴力の領域に逃避する政治的戦略は、この区別の内部で暴力的な派生問題に直面することで、頓挫に終わることがわかった。そのため我々は、一度暴力の側に観点を移すことで、法措定暴力法維持暴力区別によって明確化した上記の諸問題に相対しなければならない。

そこでベンヤミンは、暴力それ自体を主題とした極めて歴史哲学的な新しい区別を導入することで、一挙に決着を付けようとする。彼の方策によれば、真に『暴力の批判(Zur Kritik der Gewalt)』を可能にするには、法措定暴力の外部に観点を置く必要がある。ここでいう外部となるのは、暴力歴史根源とその終焉という歴史哲学的な理念に他ならない。

ベンヤミンが最終的に導入した区別は、「神話の暴力(mythische Gewalt)」と「神の暴力(göttliche Gewalt)」の区別である。

法措定暴力は、正しい目的を設定することによる手段の合法性を基礎付けることもなければ、手段の合法性によって目的の正当性を基礎付ける訳でもない。法措定暴力は、正当化の根拠を自ら構成する。しかしそれは、法措定暴力の根拠への問いを無用にすることで、服するしかない標準として、暴力を崇める「神話の暴力」でもある。その神話を肯定することを自明視する歴史を生きている者たちにとって、こうした暴力は批判不可能な対象となる。こうして批判不可能な暴力を批判するには、「神話の暴力」そのものを一掃しなければならない。この一掃に必要となるのが、「神の暴力」である。「神の暴力」によって、従来批判不可能であった暴力が批判可能になる。暴力を批判するには、暴力が必要になるのである。

ベンヤミンはこの逆説的な見解をギリシア神話のニオベを引き合いに出すことで特徴付けている。この神話によれば、「々の怒り」という「神話の暴力」が人間内在世界に法規範を形成させた。「神話の暴力」とは、その根源的な形態において、まず何よりも純粋に々の宣告に他ならない。そこで宣告されるのは、目的でもなければ手段でもない。それは意思の表明ですらない。存在こそが、宣告の主題となる。ニオベの伝説は、この好例となろう。確かにアポロとアルテミスの行為は、単なる処罰行為に思われるかもしれない。だが彼らの暴力は、現行法への違反を罰するというよりは、むしろ一つの法を設定する営みなのである。

ニオベの不遜な行為が災禍の如き破局を招いたのは、それが法を犯したからではない。ニオベは、運命を挑発したからこそ、罰せられたのだ。これもまたギリシア神話であるのだから、この神話物語主題運命との闘争とその挫折の物語であることは、容易に読み取ることができる。無論、この闘争の勝者は、運命そのものだ。運命は、是が非でも勝利することで、一つの法秩序を発現させるのである。だが、人間内在世界にいつしか新しい法秩序がもたらされるという期待が無い訳ではない。運命に対する不遜な挑発は、上述した「大犯者」の如く、市民に期待と希望を与えるのである。

ニオベを襲った暴力は、偶発的で曖昧な運命に起因していた。だがこの暴力は純粋に破壊的ではなかった。それはニオベの子供たちには死をもたらしはしたものの、母親の生命は脅かされなかった。ただし、その生は、子供たちの最期によってより一層深い存在となった。その生は、永遠にを背負い続けると共に、人間々との間の決定的な差異特徴付ける境界線上の存在として、尚も残存していくことになったのだ。

「残存する」というのは、歴史の均質で冗長的な反復を前提とした歴史認識に他ならない。ベンヤミンはこの「神話の暴力」を法措定暴力の側に位置付けると共に、この歴史を一掃する暴力を「神の暴力」として位置付ける。究極的には、「神の暴力」は「神話の暴力」に停止を命ずる。あらゆる領域で神話が対立するように、あらゆる「神話の暴力」にも「神の暴力」が対立する。しかも、あらゆる主題において、双方は対立する。「神話の暴力」が法を措定するのならば、「神の暴力」は法を破壊する。「神話の暴力」が境界を設定するのならば、「神の暴力」は境界を否認する。「神話の暴力」がを背負わせるのならば、「神の暴力」はそれを除去する。「神話の暴力」が脅迫するのならば、「神の暴力」はショック効果を与える。「神話の暴力」に血生臭さが伴うのならば、「神の暴力」は無血かつ致命的な結末を招く。

神話の暴力」の側に位置する既得権益者たちからすれば、「神の暴力」はスキャンダルであろう。そうした者たちに配慮するなら、死命を制するほどの演出でベンヤミンを非難するという選択肢もあり得るはずだ。例えば無血かつ致命的な「神の暴力」が、ガス室や焼却炉で実践される可能性を例示することは、既得権益者たちにとっては意味のあることなのかもしれない。とはいえ、それを実行に移すことの必要性と重要性は、特に見当たらない。「神の暴力」が破壊的であるのは、「神話の暴力」との区別において、相対的な性質に過ぎないからだ。ベンヤミンは絶命に至るほどの暴力までも肯定的に評している訳ではない。

暴力の批判は、暴力主題とした歴史哲学である。これが歴史の「哲学」であるのは、暴力を廃絶する理念のみが、その時々の暴力的な事実に対する批判的な態度を可能にするからだ。近視眼的に観察するだけで可能となるのは、法を措定して法を維持する暴力の諸形態の中に、弁証法的な変動の浮き沈みを捉える程度であろう。そうした弁証法思考によって認識できるのは、法維持暴力は、その持続の過程で敵対する対抗暴力を抑圧することによって、自らが代表する法措定暴力をも自ずと間接的に弱体化させてしまうという背理である。この背理は、新たな暴力か、あるいはそれまで抑圧されていた別の暴力が、従来の法措定暴力の内部から新たな法を新たな凋落に向けて基礎付ける時まで持続する。

神の暴力」は、この「神話の暴力」の法形態に束縛された背理の循環を打破する。言い換えれば、互いに準拠し合う関係にある法と暴力を一掃する時、そして究極的には国家の暴力を廃止する時にこそ、新しい歴史的な時代が創造されるのである。

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