記憶想起の人間学的唯物論的メディア美学 | Accel Brain - Part 3

記憶想起の人間学的唯物論的メディア美学

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一般に概念実証は、新しい概念の有用を論理的に根拠付ける営みを意味する。それは「研究開発(Research and development: R&D)」の機能的な実用化や商用化の前段階で実施される。そしてこの成果物となる「プロトタイプ(prototype)」が、予算獲得のための意思決定リスク評価の判断材料として観察される。

才気煥発の告往知来が要求されるこうした新しい取り組みでも、鑑往知来や温故知新は、機能する問題解決策のスタンスとして奨励されるであろう。過去に忘却された一見して旧い概念や思想の中にも、現代に通用する鋭い洞察が秘められている場合がある。

これらのスタンスを成り立たせるのは、紛れも無く、過去の記憶を想起するための労力である。記憶を想起するという営みは、勉学や労働、開発や分析を成立させる普遍的な必要条件の一つである。全ての事象情報知識記憶に留めておくことはできない。重要となるのは、忘却しているものの中からその都度必要な対象を想起することである。

しかし、こうした記憶想起の概念で想定されるのは、データベースや検索エンジンのユーザーのように、「忘却しているもの」を予め知ることのできている存在だ。記憶想起が自己言及的である場合、つまりユーザーが自己自身である場合、この記憶想起の概念は瓦解する。我々は通常、忘却していること自体を忘却しているためである。

このパラドックス解消する上では、自己言及外部言及区別することが有用となるであろう。つまり、他者と営む社会システムに言及することによって、忘却していること自体を忘却していることを再認する契機を得る訳だ。事実、他者とのコミュニケーションを介して何かを想起するという経験は、決して珍しいことではない。

しかし社会は、記憶を想起する契機となり得る一方で、忘却を引き起こす可能性も持ち合わせている。マーケティングの戦略から生み出された流行に振り回されていれば、過去の流行は中々思い出せない。マスメディアが報道し続けなかった事実は、報道され続けている事実よりも、忘却の彼方へと追いやられる可能性が高い。

したがって、社会機能を利用することで記憶想起の契機を得るには、自己言及外部言及区別するだけではなく、<想起の上で機能するコミュニケーション>と<忘却の上で機能するコミュニケーション>を区別しなければならない。しかし、この双方のコミュニケーション差異認知するのは困難極まりない。仮に双方を区別できているように思えても、その区別の導入それ自体が、既に社会によって引き起こされた忘却を前提としている可能性がある。我々は常に社会の中で生きているが故に、社会からの影響を受け続けている。そしてその影響の全てを想起できる訳ではない。

そうなると、新しい概念を獲得する上での最適解となるのは、社会からの影響を受けた自身を尽く浄化(Reinigung)するような、極端な発想である。はっきり言えばそれは、社会から逸脱した思想を意味する。だがそうした極限の思想自体は決して、歴史上全く新しい訳ではない。

フリードリッヒ・ニーチェ、シャルル・ボードレール、ゲオルク・ルカーチ、エルンスト・ブロッホ、テオドール・アドルノ、そしてヴァルター・ベンヤミン――これらは極端(Extrem)な論理で逸脱した新しい概念を極限(Extrem)まで突き進めた者たちの名前の若干に過ぎない。このWebサイトの概念実証で参照する先人たちは、彼らが生きた時代背景かられば、極端に逸脱した思考を極限まで突き進めた者たちばかりである。彼らはそう簡単に妥協せず、常に自身の思想を先鋭化させることで、全く異なる新しさを記述していた。意図的な飛躍、過剰な展開、作為的な断定口調を躊躇わない彼らにとっては、論理的な整合性よりも極端な論理であることの方が重要なのであって討議合意形成など眼中に無い。

彼らの極限をその軸となる歴史背景との関連から比較していけば、極端な新しさが如何にして可能になるのかについての「ノウハウ」を抽出することが可能になる。しかし相互に別次元の「ベクトル(vector)」として突き進んでいった彼らの哲学的ラジカリズム(Philosophischer Extremismus)を的確に整理した上で観察するには、言わばその「次元削減(Dimensions reduction)」を可能にするような「複合性の縮減(Reduktion der Komplexität)」を敢行することで、「特徴抽出(Feature extraction)」を可能にするような「抽象化(Abstraction)」を実践することが不可欠となる。

この点で言えば、「社会構造(Sozialstruktur)」と「意味論(Semantik)」に関する社会システム理論ニクラス・ルーマンの極端なまでに抽象化された社会進化論は、極端な論理を社会システム歴史背景との関連から記述することを可能にする有力な手掛かりを提供している。もし極端な論理の歴史を記述するのならば、自己自身もまたその歴史影響下に組み込まれているという自己言及を実行せざるを得なくなる。この「社会システム理論(Sozialsystemtheorie)」的な自己言及を前にすれば、<極端な他者>と<その観察者>との間には、もはや如何なる批評気取りの距離も設けられない。「他者を極端であると見做している自己自身もまた極端であり得る」という自己論理的推論展開されるためである。

以下の概念実証では、このルーマンの「等価機能主義(Äquivalenzfunktionalismus)」的な分析方法を前提とした上で、これを社会構造意味論に関するベンヤミンの<歴史神学(Historische Theologie)>へと拡張させていく。それは、相互に掛け離れた極端なもの同士の関連から、総体的な理念(Idee)を抽出させる根源(Ursprung)的な歴史哲学意味する。極端観点は、確かに統一させることができない。だがそれらの同一性差異区別していく理論方法があれば、宇宙規模に掛け離れた彼らの理念の「星座のような位置関係(Konstellation)」から、極端な概念として「構成(Konfiguration)」されている「形態(Gestalt)」を判読できるはずである。

「あらゆる理念は一個の恒星であり、諸々の理念同士が互いに振る舞い合う関係は、諸々の恒星同士のそれと等しい。そうした本質的なもの同士の響きの関係(tönende Verhältnis)が真理なのである。そうしたものには多くの名が付与されているが、それは数えられる(zählbar)。何故なら、それらは不連続(Diskontinuierlichkeit)であるためだ。」
Benjamin, Walter. (1928) “Ursprung des deutschen Trauerspiels”. In: Gesammelte Schriften Bd I-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1974. S.203-430., 引用はS.217-218.より。ただし強調は筆者。

常に極端(Radikal)に、しかし決して首尾一貫(konsequent)せずに振る舞うこの態度は、著名な作フランツ・カフカがしばしば物語の片隅で叙述していたあの「愚者(Narren)」たちの身振りや、世に聞こえた作曲家グスタフ・マーラーの叙事的な音楽が醸し出す「弱者(Die schwache)」の「リズム」に、同一視できずとも類似してはいるのかもしれない。

こうした「愚かさ」と「弱さ」の性格は、核心において、皮肉屋の厭世であるカール・クラウスや異化の劇作ベルトルト・ブレヒトの「破壊的な性格(Der destruktive Charakter)」に照応する。あらゆる障害物を「取り除く(räumen)」この性格は、道を切り拓く代わりに、至る所を岐路にする。岐路に立つということは、決して<選択の自由>を得ることではない。何故なら破壊的な性格の持ち主は、如何なる瞬間においても、「このまま進めば破局する」と直感し、一番深い極限からまた別の極限へと突き進むためだ。破壊的な性格の行動は、極端かつ臨機応変に破局を回避することを意味する。それは、優秀な者たちにとっての枷としかならないような「(Gesetz)」や小利口な者たちの目を眩ませるような「神話(Mythos)」を軽やかに回避するということである。破壊的な性格の持ち主は、そうした世界純化(Reinigung)された白紙状態(tabula rasa)になるまで徹底的に片付ける(Reinigung)のだから、「このまま進めば破局する」と感じる場所では、いつでも抜け道を発見する

かつての空間の美学、美的仮象のオリンポス

『悲劇の誕生』を記述した頃のニーチェは、真理という錯覚に根差した科学万能主義という「魔術」に傾斜するソクラテス的な者たちに波状攻撃を仕掛けた。この魔術が物語るのは、脱魔術化(Entzauberung)を強迫観念的に追求する科学崇拝に他ならない。ニーチェは、自らが脱魔術化に取り組んでいると信じて疑わない科学信者たちを、脱魔術化しようとするのである。この<脱魔術化>の脱魔術化を念頭に置くのならば、ニーチェの『悲劇の誕生』がディオニュソス的に記述されたものであるという想定の下に、我々自身もこの書物をディオニュソス的に読み取らなければならない。

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バロック芸術のメディアとしての言語、根源の歴史哲学

ベンヤミンの美学がニーチェの美学から区別されるのは、ベンヤミンの美学が仮象の実在性ではなく、その無常性を主張しているためだ。仮象は、夢のように、全て儚い。そしてこの夢は、既に近代化によって醒めつつあった。ベンヤミンは17世紀のドイツ・バロック悲劇(Trauerspiel)を例示しながらこの仮象の無常性を歴史哲学的に説明している。バロック悲劇の歴史的意味論を観察してみれば、儚く無常な現世に対する思想を成り立たせているのは<断片>の形象であるということが、まず理解できる。そしてバロック悲劇の世界観では、単なる物質的な破片のみならず、言語もまた、<断片>として散乱していることがわかる。バロックの芸術作品は、この言語の<断片>を素材とすることによって、無常なる現世としての全体を構成し、それを「自然」として叙述している。こうした背景を踏まえると、ベンヤミンが論じた仮象の無常性に関する歴史哲学を考証するには、言語理論との接続が必要となることが判明する。

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宗教としての資本主義の精神 VS ユートピアの精神の現象学、若きブロッホとルカーチにおける歴史哲学としての美学

17世紀ドイツ・バロック悲劇を背景としたベンヤミンの根源の歴史哲学は、その後のワイマール時代の歴史的意味論の中でも際立った存在となっている。この二つの「大戦」の間に活動していた<保守革命主義>の弁証法的思想家たちは、皆近代社会に対するマクス・ウェーバーの歴史認識を共通して踏襲するだけに留まらず、この「脱魔術化された世界」という「鋼鉄の檻(stahlhartes Gehäuse)」からの脱出の道を探索する上でも特筆すべき共通項を示していた。ベンヤミンの哲学的盟友の一人であるエルンスト・ブロッホの『ユートピアの精神』は、ウェーバーが記述した「資本主義の精神」に対する革命的グノーシス主義的な応答と見做されている。そしてこの観点から若きゲオルク・ルカーチの『歴史の階級認識』は、ブロッホのユートピアを全体性に関する弁証法的な叙述へと止揚する試みとして再記述される。いずれの歴史哲学も、まさにカール・シュミットがその『政治神学』で叙述してみせたように、社会構造と意味論を神学的な形象で結び付ける<歴史神学(Historische Theologie)>的な取り組みとなっている。

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複製技術時代の文化産業、アドルノとベンヤミンのメランコリックな不協和音

ニーチェによって生み出された近代社会の技巧芸術を採り入れたアドルノの『美学理論』は、脱魔術化された世界をもう一度脱魔術化するという点で、ブロッホの『ユートピアの精神』の美的な機能的等価物となる。その特有の救済の観点は、『脱魔術化された世界からの脱却(Auszug aus der entzauberten Welt)』という、世俗社会からあの「本来的故郷(eigentliche Heimat)」への美的亡命の観点として叙述されている。一方これに対して、盟友ベンヤミンの哲学的ラジカリズムの背景にあるメシア主義では、救済は歴史の目標(Ziel)として設定されるのではなく、むしろその終焉(Ende)として叙述される。神の国(Gottesreiches)を待つベンヤミンの姿勢は、美学を隠れ蓑にした政治的・神学的な姿勢である。故に彼の人間学的唯物論は、ユダヤ教の信仰心から区別される。だがベンヤミンは、災禍の如き破局によって積み上げられた瓦礫の山を根源の無常化された歴史に投影する。まさにこの破局こそが、ユダヤ教の預言者たちが神の審判と結び付けた状況なのであった。如何なる瞬間も、過去の何らかの事物や事象にとって、最後の審判となる。どの時代も、過去の何らかの時代にとってのメシア的な時代として結実している。その時代が神と直接的に接見を持ち得るのならば、その時代こそが、最後の審判の時代となるのだ。

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真の例外状態、シュミットとベンヤミンの神学的な位置関係

ベンヤミンの<歴史神学>とシュミットの『政治神学』との間からは、明確な照応関係が見て取れる。主権と国家、そして政治的なるものに関するシュミットの議論をベンヤミンにおける暴力の歴史哲学に付き合わせて観れば、世俗世界に潜むメシアのリズムを聴取しようとするベンヤミンの人間学的唯物論に対して、我々は具体的な内実を伴わせた理解を示すことが可能になる。世俗化された近代社会が主権を忘却した時代であるというのがシュミットの問題設定であるなら、その記憶を想起する上での問題解決策となるのがベンヤミンの「神の暴力」である。シュミットの『政治神学』がベンヤミンの<歴史神学>に与えた影響を知れば、ベンヤミンの提唱した「神の暴力」が最後の審判と関わることは容易に推測できる。ただしこの最後の審判は、『歴史の概念について』との関連から観れば、「真の例外状態(des wirklichen Ausnahmezustands)」として見做されなければならない。

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メディア美学としての『パサージュ論』、コペルニクス的に転回された記憶の想起

ベンヤミンにおける過去の想起は、言語メディア、知覚メディア、そして記憶メディアの中で実践される。それは、「断片」の中に「断片」を、細部の中に細部を、次々と没入していく体験形式である。その断片化の極限にあるのは、非連続な「無限小(Infinitesimal)」であろう。それは「全体」を凌駕する「部分」に他ならない。ベンヤミン流のメシア主義における過去の全体の歴史的な万物復興は、まさにこの無限小の区別の最果てにある。それは根源的な創始状態の復元を言い表す宥和の教義である。この微小なる無限の区別は、否定的なものと肯定的なものの区別として再帰的に導入される。そして、否定的なものとして排除されている全てのものに対して、再び肯定と否定の二分法を適用させていく。まさにありとあらゆる全ての現象が救済されるまで、この二分法を再帰的に反復していくことこそが、「歴史的な索引(禁書目録)」を弁証法的形象として引用するベンヤミンの批評様式であると共に、記憶の想起のコペルニクス的転回を物語っているのである。

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参考文献

  • Benjamin, Walter. (1928) “Ursprung des deutschen Trauerspiels”. In: Gesammelte Schriften Bd I-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1974. S.203-430.