一般に「概念実証(Proof of Concept: PoC)」は、新しい概念の有用性を論理的に根拠付ける営みを意味する。それは「研究開発(Research and development: R&D)」の機能的な実用化や商用化の前段階で実施される。そしてこの成果物となる「プロトタイプ(prototype)」が、予算獲得のための意思決定やリスク評価の判断材料として観察される。
プロトタイプは、顧客やユーザーの「理念(Idee)」を表現している訳ではない。何故なら、概念実証が完了するまでは、理念が充分に「叙述(Darstellung)」されることなどあり得ないためである。実際、概念実証に携わるデータサイエンティストやソフトウェア・アーキテクトたちは、しばしば顧客やユーザーの「機能要求(Function request)」や「ユースケース(Usecase)」が不確実な状況で、プロトタイプの制作を進めていかなければならない。初めに何らかの「静的な」理念が存在する訳ではないのである。
概念実証の担い手たちは、その過程で自ら理念を叙述していかなければならない。だが理念ありきで現象(Phänomene)が生起している訳でもなく、逆に現象から直接的に理念を引き出せる保証も無い以上、双方の間の媒介を巡る問題が発生する。この問題解決策として機能するのが、概念(Begriffe)である。概念は、観察した諸現象の「抽象化(Abstraction)」を可能にすることにより、それらの共通項から理念を叙述することを可能にする。また概念は、理念との関連を生み出すために必要な条件として、諸現象の可変部分に対する区別の導入を可能にする。ジム・コプリエンが述べた意味での「共通性/可変性分析(commonality / variability analysis)」を可能にするのが、概念の機能である。
だが概念実証で扱うことになるのは、新しい概念である。概念実証の出発点には、新しい概念と旧い概念の区別が導入されている。新しい概念は、旧い概念との差異を確保することで初めて成立する。そうである以上、概念実証の担い手たちは、旧い概念についての記憶を――それが個人の記憶であれ、社会の記録であれ、あるいは集団の記憶であれ――想起していかなければならない。
ここに、更に別の区別が導入されていることがわかる。記憶の想起と記憶の忘却の区別である。全ての現象を記憶に留めておくことは不可能である。重要となるのは、忘却されているものの中からその都度必要な対象を想起することである。
しかし我々は通常、忘却していること自体を忘却している。検索エンジンやデータベースのユーザーが自身の忘却していた旧い概念を検索できるのは、忘却していたこと自体を予め想起できていた場合に限定される。忘却していること自体を忘却している場合、我々はその忘却している記憶を想起できない。
したがって、記憶との関連で言えば、この<忘却の忘却>の想起は、概念実証の根源的な成立条件である。この忘却していること自体を忘却している記憶の想起が、新しい概念による理念の叙述を可能にするのである。逆に言えば、新しい概念による理念の叙述を徹底してきた者たちを観察すれば、過去の旧い概念についての記憶の想起が如何にして可能になるのかについて、実り多き発見が得られると期待できる。とりわけ哲学者や思想家たちは、新しい概念による理念の叙述という点では、データサイエンティストやソフトウェア・アーキテクトよりも長い歴史を持つ。彼らは有用な参考文献を提供しているはずだ。
概念実証をこのような記憶の想起と結び付けることにより、このWebサイトは記述のベクトル(vector)を常に極端に推し進めていく。哲学や思想の書物から概念実証の手掛かりを如何に抽出し得るのかについては、その思想における概念の極端さを観察していく中でこそ明らかになる。何故なら、<新しい概念>と<旧い概念>の区別を導入する観察者にとって、理念を叙述し得るほどの<新しい概念>となり得るのは、<旧い概念>の意味論(Semantik)と関連してきた社会構造(Sozialstruktur)から逸脱する新しい意味論であるはずだからだ。<新しい概念>を記述する観察者は、同時に<旧い概念>を否定する。そして<旧い概念>を否定するということは、その<旧い概念>の意味論と関わる社会構造を否定するということである。
しかしより重要となるのは、極端な概念がどれ程常軌を逸しているのかを確認することに留まらず、極端な概念がそれ自体如何にして規定されているのかについての分析を敢行することである。フリードリッヒ・ニーチェ、シャルル・ボードレール、ゲオルク・ルカーチ、エルンスト・ブロッホ、テオドール・アドルノ、そしてヴァルター・ベンヤミン――これらは極端(Extrem)な論理で逸脱した新しい概念を極限(Extrem)まで突き進めた者たちの名前の若干に過ぎない。このWebサイトの概念実証で参照する先人たちは、彼らが生きた時代背景から観れば、極端に逸脱した思考を極限まで突き進めた者たちばかりである。彼らはそう簡単に妥協せず、常に自身の思想を先鋭化させることで、全く異なる新しさを記述していた。意図的な飛躍、過剰な展開、作為的な断定口調を躊躇わない彼らにとっては、論理的な整合性よりも極端な論理であることの方が重要なのであって、討議や合意形成など眼中に無い。
彼らの極限性をその軸となる歴史的背景との関連から比較していけば、極端な新しさが如何にして可能になるのかについての「ノウハウ」を抽出することが可能になる。しかし相互に別次元の「ベクトル(vector)」として突き進んでいった彼らの哲学的ラジカリズム(Philosophischer Extremismus)を的確に整理した上で観察するには、言わばその「次元削減(Dimensions reduction)」を可能にするような「複合性の縮減(Reduktion der Komplexität)」を敢行することで、「特徴抽出(Feature extraction)」を可能にするような「抽象化(Abstraction)」を実践することが不可欠となる。
この点で言えば、「社会構造(Sozialstruktur)」と「意味論(Semantik)」に関する社会システム理論家ニクラス・ルーマンの極端なまでに抽象化された社会進化論は、極端な論理を社会システムの歴史的背景との関連から記述することを可能にする有力な手掛かりを提供している。もし極端な論理の歴史を記述するのならば、自己自身もまたその歴史の影響下に組み込まれているという自己言及を実行せざるを得なくなる。この「社会システム理論(Sozialsystemtheorie)」的な自己言及を前にすれば、<極端な他者>と<その観察者>との間には、もはや如何なる批評家気取りの距離も設けられない。「他者を極端であると見做している自己自身もまた極端であり得る」という自己論理的な推論が展開されるためである。
以下の概念実証では、このルーマンの「等価機能主義(Äquivalenzfunktionalismus)」的な分析方法を前提とした上で、これを社会構造と意味論に関するベンヤミンの<歴史神学(Historische Theologie)>へと拡張させていく。それは、相互に掛け離れた極端なもの同士の関連から、総体的な理念(Idee)を抽出させる根源(Ursprung)的な歴史哲学を意味する。極端な観点は、確かに統一させることができない。だがそれらの同一性と差異性を区別していく理論と方法があれば、宇宙規模に掛け離れた彼らの理念の「星座のような位置関係(Konstellation)」から、極端な概念として「構成(Konfiguration)」されている「形態(Gestalt)」を判読できるはずである。
「あらゆる理念は一個の恒星であり、諸々の理念同士が互いに振る舞い合う関係は、諸々の恒星同士のそれと等しい。そうした本質的なもの同士の響きの関係(tönende Verhältnis)が真理なのである。そうしたものには多くの名が付与されているが、それは数えられる(zählbar)。何故なら、それらは不連続(Diskontinuierlichkeit)であるためだ。」
Benjamin, Walter. (1928) “Ursprung des deutschen Trauerspiels”. In: Gesammelte Schriften Bd I-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1974. S.203-430., 引用はS.217-218.より。ただし強調は筆者。
常に極端(Radikal)に、しかし決して首尾一貫(konsequent)せずに振る舞うこの態度は、著名な作家フランツ・カフカがしばしば物語の片隅で叙述していたあの「愚者(Narren)」たちの身振りや、世に聞こえた作曲家グスタフ・マーラーの叙事的な音楽が醸し出す「弱者(Die schwache)」の「リズム」に、同一視できずとも類似してはいるのかもしれない。
こうした「愚かさ」と「弱さ」の性格は、核心において、皮肉屋の厭世家であるカール・クラウスや異化の劇作家ベルトルト・ブレヒトの「破壊的な性格(Der destruktive Charakter)」に照応する。あらゆる障害物を「取り除く(räumen)」この性格は、道を切り拓く代わりに、至る所を岐路にする。岐路に立つということは、決して<選択の自由>を得ることではない。何故なら破壊的な性格の持ち主は、如何なる瞬間においても、「このまま進めば破局する」と直感し、一番深い極限からまた別の極限へと突き進むためだ。破壊的な性格の行動は、極端かつ臨機応変に破局を回避することを意味する。それは、優秀な者たちにとっての枷としかならないような「掟(Gesetz)」や小利口な者たちの目を眩ませるような「神話(Mythos)」を軽やかに回避するということである。破壊的な性格の持ち主は、そうした世界を純化(Reinigung)された白紙状態(tabula rasa)になるまで徹底的に片付ける(Reinigung)のだから、「このまま進めば破局する」と感じる場所では、いつでも抜け道を発見する。
目次
かつての空間の美学、美的仮象のオリンポス
バロック芸術のメディアとしての言語、根源の歴史哲学
宗教としての資本主義の精神 VS ユートピアの精神の現象学、若きブロッホとルカーチにおける歴史哲学としての美学
複製技術時代の文化産業、アドルノとベンヤミンのメランコリックな不協和音
真の例外状態、シュミットとベンヤミンの神学的な位置関係
メディア美学としての『パサージュ論』、コペルニクス的に転回された記憶の想起
参考文献
- Benjamin, Walter. (1928) “Ursprung des deutschen Trauerspiels”. In: Gesammelte Schriften Bd I-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1974. S.203-430.