「記憶」想起の人間学的唯物論的なメディア美学

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問題再設定:バロック時代の憂鬱

ベンヤミンの美学がニーチェの美学から区別されるのは、ベンヤミンの美学仮象の実在性ではなく、その無常性を主張しているためだ。仮象は、夢のように、全て儚い。そしてこの夢は、既に近代化によって醒めつつあった。ベンヤミンは17世紀のドイツ・バロック悲劇(Trauerspiel)を例示しながらこの仮象の無常性を歴史哲学的に説明している。

ドイツ・バロック時代の芸術家たちはマルティン・ルターの宗教改革によって影響を受けていた。周知のように、禁欲的なプロテスタンティズムの精神は、懺悔を容認するカトリックとは明確に区別される。プロテスタントは労働をはじめとした「形式」的な生活を讃える一方で、意識を背負い続けた。その副作用として、個の救済可能性が疑問視されるようになった。既に宗教機能的等価物として安定的に作動していた資本主義がこの疑問に回答を与えることは無かった。かくして生活の「形式」は安定化していく一方で、その「内容」が空虚になる。

ニーチェが取り扱ったギリシア悲劇(Tragödie)とベンヤミンが取り扱ったバロック悲劇(Trauerspiel)の間には決定的な差異が伴っている。ギリシア悲劇においては、まだアポロ的な秩序を見て取れた。だがバロック悲劇の時代になると、もはや手遅れになっていた。

ギリシア悲劇では、々や宿命と対峙する主人公の古代英雄神話的な物語展開されていた。例えばオイディプスは父を殺し、スピンクスのを解き、母と交わり、そしてその真実を知った。フロイトの精神分析学的な諸概念を持ち出すまでもなく、この悲劇の物語には人間根源的な願望が秘められた。そこには始まりから終わりまでの秩序が貫かれている。

だがこれに対してバロック悲劇では、まず英雄が主体的に描かれていない。バロック悲劇を思想的に特徴付けているのは、儚く無常な現世という意味論であった。ベンヤミンがドイツ・バロック悲劇を論じる際に引き合いに出したのは、ペデロ・カルデロン・デ・ラ・バルカの『人生は夢』だ。この物語で登場する王は、それまで幽閉されていた息子の王位継承者としての資質を判断するために、王宮に招いた。だがその待遇によって慢心した息子は、周囲に横暴に接し、遂には人を殺めてしまう。資質が無いと判断された息子は、睡眠薬を飲まされた。そして目覚めた時には、既に再度牢獄へと閉じ込められていた。睡眠薬を投与されたのは、この息子への配慮であった。目覚めた息子に「全ては儚く無常な夢であった」と思い込ませることで、王位足り得なかった自身のショックを少しでも軽減しようとしたのだ。

問題解決策:悲哀と憂鬱の区別

バロック悲劇の儚く無常な現世という意味論は、「悲哀(Trauer)」と「憂鬱(Melancholie)」の区別を導入することで更に明確化する。儚く無常な現世という概念は、悲哀で満ちた憂鬱で空虚な世界とも言い換えられる。

この世界観の背景にあるのは、フロイトの精神分析学に他ならない。フロイトによれば、悲哀は愛の対象を喪失した状態から発生する。この対象喪失が認識されると、その認識者のリビドーはもはやその対象には向けられなくなる。だが人間は、その喪失した対象を簡単には諦められない。その者の自我が別の対象に関心を向けることは困難極まりない。そのため、時間と労力を掛けて、悲しみながらも折り合いをつけていく必要がある。これを特に「悲哀の仕事(Trauerarbeit)」と呼ぶ。

ベンヤミンが的確に述べているように、バロック悲劇は鑑賞者の悲哀を誘う作品ではなく、悲哀で満足させる作品である。と言うのも、バロック悲劇における悲哀機能は、何も無い空虚な世界を埋め合わせることにあるからだ。ベンヤミンはこの埋め合わせの形式をとりわけ「仮面(Maske)」という用語で取り上げていた。バロック悲劇は、日常に悲哀という仮面を付けることによって、その空虚感を紛らわせていたのである。無論この感情に持続性は無い。仮面機能も刹那で消滅する。儚く無常な現世を埋め合わせる仮面は、それ自体儚く無常であった。

この意味論の背景にあるのは、そもそもにおいて、空虚感が日常的に持続しているということだ。この永続的な喪失感は、バロック悲劇悲哀と共に憂鬱とも意味論的に関連付いていることを物語っている。とはいえ、憂鬱概念は悲哀概念から精神分析学的に区別されている。その大きな差異となるのは、憂鬱気質(Trübsinn)の者たちが、個別具体的に何を喪失しているのかを明確化できていない点に尽きる。その永続的な対象喪失感は、抽象的な対象の喪失感なのである。

問題解決策:「破局」の寓意

アルブレヒト・デューラーの『憂鬱Ⅰ』は、この憂鬱気質芸術との関連から説明する参考材料になる。この作品はバロック芸術を先取りした絵画であると言える。この作品で描かれているのは科学の天才だ。この天才は、日々使用している小道具を散乱したまま物思いに耽っている。空虚な日常の形式的な生活は、この天才には何ら魅力的ではない。この天才を魅了するのは常に探究心と探究による空虚感の忘却であった。この絵画では、夢想家としての天才と研究者としての天才が融合している。

こうした憂鬱気質の者たちからすれば、空虚な日常の形式的な生活によって成立している社会システムの秩序や調和は、言うなれば形骸としてしか把握されない。むしろそうした社会構造がいつ破滅しても不思議ではないと思ってしまうのが、憂鬱なる者たちの特徴であろう。

ベンヤミンはこの憂鬱気質独特の世界観を「破局(Katastrophe)」という用語で描写している。破局は、精神分析学的に言えば外傷性神経症が伴うほどのショック体験を生み出すような出来事だ。それは危機であり、異常事態に他ならない。だが憂鬱気質の者たちを代弁するベンヤミンからすれば、この異常事態こそが日常であるという。言い換えれば、異常であることの方が日常茶飯事なのだ。総じて言えば、憂鬱気質の者たちは、絶え間なくショック体験し続けている。

寓意の破壊力

しかしベンヤミンによれば、憂鬱気質バロック芸術家たちは、ショック体験をただ何もできぬままに受容していた訳ではなかった。これがまさにベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』における問題設定の一つとも言えるのだが、バロック悲劇の担い手たちは、むしろこの絶え間ないショック体験美学的に逆手に取ろうとしていた。

そうして結実したのが、「寓意(Allegorie)」という記号であった。寓意機能は、元来正常であると自明視されている社会構造の秩序や調和が実際には破局で満ち溢れているという真実を暴露することで、日常を謳歌している周囲の者たちにショック効果を与えることである。例えば寓意は、これまで歴史的に持続していたが故にこれからも持続すると認識されている対象に対して、別のあり方でもあり得た歴史観を対比させることで、自明な認識が錯覚の産物に過ぎないということを暴露する。

寓意には、まず対象を区別して引き裂くという概念破壊的な効果がある。寓意に曝された対象は、「断片(Fragment)」として散乱することになる。そして更に寓意は、破壊した概念の「断片」を偶発的に再結合させる効果も併せ持っている。それは、それまで自明視されていた規則や標準とは別のあり方でもあり得る形式で「断片」を蒐集して再構築する。そのため寓意を突き付けられた鑑賞者たちは、認識の土台に揺さ振りを掛けられることになる。その瞬間、寓意の鑑賞者が心象的に伴わせるのは、不安の形象であるという。

寓意は、活き活きとした有機物の形象否定すると共に、死骸の形象を肯定する。寓意は、生成よりも消滅を優先する。そして寓意は、建設的であるというよりはむしろ破壊的である。寓意は、有機的な関連性を「断片」へと切断すると共に、それを無機物として再結合していく。寓意は、既成概念を全否定することによって、あらゆる人物や事物の関係が、偶発的であることを暴露する。

しかしながら寓意は、その破壊的な性質から、中々受容されない。既成概念を否定する以上、共通言語による合意形成からは遠ざかってしまう。それ以前の問題として、憂鬱気質の者たちとそうではない者たちとの間では、空虚な日常で続く破局に対する認識力に差異がある。それ故、寓意を突き付けられた者たちは、その寓意意味するところをめいた暗号であるかのように受け入れてしまう。寓意についての共通理解は、ありそうもない。

問題解決策:メディアとしての言語

寓意主題としたベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』における「認識批判的序論」は、『言語一般と人間の言語について』を「理念論(Ideenlehre)」的に展開させたかのような構図となっている。ベンヤミンのバロック悲劇論を理解する上で、彼の言語論を避けて通ることはできない。

双方を橋渡しする鍵となるのは、ベンヤミン特有の「メディア(Medium)」としての「言語(Sprache)」である。ただし、彼の述べる「言語」という概念は、人間が通常用いる言葉の概念に比して非常に抽象化されている。彼は人間言語のみならず非人間言語も考慮している。例えば事物やのような非人間もまた言語と関わりを持っている。つまり言語という抽象的に汎化された概念を人間用に特化させたのが、我々が読み書きしている人間言語なのである。

ベンヤミンによれば、人間精神的な生の表出は、全て一種の「言語」として捉えることができるという。言語存在する領域では、常に何らかの意味言語内在させている人間精神の表出が可能になっている。だがそうした言語は、如何なる限定を受けることも無く、命ある自然にせよ、命無き自然にせよ、ありとあらゆる事象や事物と常に何らかの形で関わりを持つのだ。それ故、我々は自己の「精神的本質(geistiges Wesen)」を表現によって伝達しないような存在を何一つとして思い浮かべることができない。言語無しに想定できることなど何もないのだ。

言語と全く関係を持たない存在があるとすれば、それはベンヤミンがバロック悲劇の無常なる現世との関連から言及していた「理念」に他ならない。つまりこれは、「根源」と「歴史」の差異と関わるのだ。しかしその「理念」の叙述が如何にして可能になるのかに関しては、言語問題とは別の問題として設定されている。

言語の「in」と言語の「durch」の差異

いずれにせよ、精神内容の伝達を目指したあらゆる表現は、言語の中に含まれている。ここでいう「表現」というのは、その最も深い意味で、あるいはその全体像から観ても、ただ言語としてのみ理解されなければならない。

「言語は何を伝達するのか。それは、その言語に対応する精神的本質を伝達する。その際、基本的に、精神的本質が自己自身を言語という形式の中で(in)伝達するのであって、言語を通じて(durch)伝達するのではないということに注意を払わなければならない。」
Benjamin, Walter. (1916) “Über Sprache überhaupt und über die Sprache des Menschen”. In: Gesammelte Schriften II-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.140-157. 引用はS.140より。

ベンヤミンによれば、精神的本質は、言語を通じて、言語手段ツールのように参照するのではなく、まさに「言語として」伝達されるのである。あらゆる事物の精神的本質は、まさにその事物の言語となって存在している。これは単なる類似ではない。つまり精神的本質が「言語的本質(sprachliches Wesen)」に自らを似せている訳ではない。そうではなく、精神的本質はそれ自体を伝達可能であることを以って、言語的本質と一致する。聊か同語反復的に言い換えれば、精神であれ言語であれ、内外の情報の送受信と言うよりは、むしろその言語の中(in)に精神的本質が含まれている場合にのみ、言語的本質精神的本質は一致するのである。故に、言語が何を伝達するのかという問いに対する答えは、あらゆる言語が自己自身を伝達しているということになる。

「より詳細に言えば、あらゆる言語は自己自身の形式で自己自身を伝達する、最も純粋な意味で伝達の<メディア>なのである。」
Benjamin, Walter. (1916) “Über Sprache überhaupt und über die Sprache des Menschen”. In: Gesammelte Schriften II-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.140-157. 引用はS.142より。

そして、言語の境界付けを成すのは、言語による言語表現内容ではなく、言語言語的本質そのものである。したがって、人間や事物がその精神的本質を他の何物かと区別することは、言語言語的本質とその精神的本質を一致させることによって可能になる。とりわけ人間は、自身の精神的本質人間言語という形式で伝達する。人間は他のあらゆる事物に名付けることによって、それ自体の精神的本質をそれが伝達可能であるという限りにおいて伝達する。

ここで我々は、ベンヤミンが精神内容言語内容を「一旦」区別しているということに注意しなければならない。精神内容が伝達可能であると仮定すれば、精神内容言語内容は部分的に一致するかもしれない。だが精神内容が顕在化するとすれば、それは言語の中(in der Sprache)でのことに限られるのである。我々は、自己の精神内容言語を通じて(durch die Sprache)伝達している訳ではない。言語は確かに、言語自身の内容を伝達するだろう。だが、それが精神内容を伝達するのは、精神内容言語内容の内部に含まれている場合に限られる。したがって、言語によって自己の精神内容を他者に伝達しようとする者は、言語の枠組みによる制約を受けている。その精神内容言語の枠組みから逸脱していれば、その話者はもはや何も他者に伝達することができない。つまりこの場合言語は、精神内容における伝達可能性を条件付けているのである。

この点においてベンヤミンは、言語を最も純粋な伝達の「メディア(Medium)」として位置付けている。それは能動的であると同時に受動的なメディアである。言語は、それ自体において自己自身を伝達している。この意味言語は能動的だ。

だが一方で言語は、その内部に事物の精神内容包摂されることによって、精神内容の伝達も可能にする。言語はこの意味で受動的でもある。この能動にして受動たり得る言語は、しかしその能動性を隠蔽することができる。我々が自己の精神内容言語で伝達することが可能だと確信し得るのは、このためだ。

事物が他の存在に何かを伝達する場合も、その伝達内容言語内容それ自体である。だが言語それ自体が言語内容としての伝達内容を隠蔽しているために、我々はその伝達内容をあくまで自己の精神内容であると認識することができる。この認識は、厳密に言えば錯覚だ。言語は、伝達のメディアでありながらも、その無媒体性を主張する。言語は、言語それ自体を潜在化させることで、伝達される精神内容の顕在化を実現する。これにより我々は、言語による精神内容の直接的な伝達が可能であると錯覚する。したがってベンヤミンは、このメディアとしての言語を一つの「魔術」として位置付けているのである。

名称言語と純粋言語の差異

この言語一般の原理は、人間言語にも適用される。この場合、人間言語における本質は、人間言語のことである。ただし人間言語には、他の言語一般には無い特質がある。人間言語は、言葉で自己を伝達する。人間は、言葉であらゆる事物に名称を付与する。この命名によって、人間は自己の精神内容を伝達していく。人間は、この「名称言語(Namen-sprache)」を設定することによって、その中で自己の精神内容を伝達していくのである。

人間が事物を名付けるということは、単なる伝達行為ではない。確かに名によって事物についての事柄(Sache)が他者に伝達されることもあるだろう。しかしそれ以上に重要なのは、人間は名付けることによって自己自身をも伝達しているということである。名付けられた事物は、その名において、その精神的本質を指し示す。だが同時にそれは、それを名付けて言及している人間精神的本質をも含意して伝達しているのである。この言語論は、情報の送信者、受信者、送信内容、送信手段といったコミュニケーション概念を根底から覆している。

ベンヤミンがとりわけ重視するのは、名付けるという営みだ。

「言語が絶対的に自己自身を伝達するのは、名においてである。自己を伝達する精神的本質は、名においてこそ、言語(die Sprache)となる。自己を伝達する精神的本質が絶対的な完全性を帯びた言語それ自体である場合にのみ名は存在し、そこにはただ名しか存在しない。」
Benjamin, Walter. (1916) “Über Sprache überhaupt und über die Sprache des Menschen”. In: Gesammelte Schriften II-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.140-157, 引用はS.144より。

人間精神的本質言語それ自体なのだから、人間言語を通じてではなく、言語それ自体となって自己自身を伝達することが可能になる。そして、人間精神的本質としての言語を凝集して全体化するのが、名前なのである。こうした名前は、単なる叫び(Ausruf)ではなく、言語本来の呼び掛け(Anruf)を含意している。自分自身を表出することと他者に語り掛けることに差異は無いのだ。しかし、それでも尚、言語はその内容を伝達するのではない。そもそもにおいて、言語内容存在しない。言語は、精神的本質を伝達することを以って伝達とし、それは伝達可能性それ自体の伝達に他ならない。これを前提として言えば、命名は人間のあらゆる精神内容を伝達可能にする。

人間が事物に名を付与することに何か理由があるとすれば、それは人間に自己の精神内容の本質を伝達するためであると言える。この論点からベンヤミンの秘的な言い回しは最高潮に達する。すなわち、人間精神内容の本質は、言語内容それ自体である。そしてそれは、が創造する際に用いる「純粋言語(die reine Sprache)」なのである。人間精神的な本質は、名称において、自己をに伝達する。この言い回しは、『旧約聖書』の「創世記」に登場するアダムが事物を名で呼んでいたことと、決して無関係ではない。は、「光あれと言えば、光ありき」といった言葉(Logos)を発して、全てを無から創造した。そしては、自らの「似姿」として人間を創造した。その人間たちに、言語の才(Gabe)を贈り与えた。

確かに人間言語は、天地創造を可能にするの力には遠く及ばない。人間言語は、が創造したあらゆる事物における言語一般の一部に過ぎない。しかしながら人間名称言語は、それら全ての事物に名を付与することによって、それら全ての事物に関する精神内容を伝達することが可能になる。人間名称言語の射程は、全てを一望し得る言葉に匹敵する。言うなれば、が天地創造の際に使用していた言語人間に譲渡することによって、人間はこの名称言語を獲得したのである。

名称言語言葉の深遠なる写しである。だが無限である。人間有限だ。だとすれば人間言語もまた有限であるということになる。しかし人間の名に至っては、限りなく無限に等しい射程を持つ。とりわけ固有名は、有限にして無限である。それは有限無限の<境界>に位置付けられている。あらゆる存在の中でも、人間は唯一、に命名されなかった存在である。そして人間は、同胞に名を付与する唯一の存在でもある。注意しなければならないのは、ここでいう固有名は、名称言語とは異なるということだ。名称言語はあくまで人間言語である。故にそれは有限だ。一方固有名は、有限とは限らない。それは創造のメディアとしての言葉に、最も近接する言語なのである。実に命名されることによって、名を欠落した存在として生を受けた人間は、初めて自身がによる被造物であるということが保証される。この意味で固有名は、による創造を完結させる。したがって人間は、固有名を付与することによって、と共同しているのである。

問題解決策:翻訳の機能

まさにこの固有名の理論によって、ベンヤミン独自の「翻訳(Übersetzung)」概念が登場する。ベンヤミンが定義する翻訳とは、人間に委託した通りに名を付与していくことを意味する。人間は、名も音も無い沈黙した事物の言語一般を名称言語という人間言語へと翻訳していく。ベンヤミンによれば、翻訳の客観性は、によって保証されている。何故なら事物の言語一般にせよ、名称言語という人間言語にせよ、によって創造されているからだ。『翻訳者の課題』でベンヤミンが翻訳メディアが必要になると主張していたのは、このためである。翻訳者は、ある言語から別の言語へと直接的に翻訳できる訳ではない。両者の言語の間には、メディアが必要になる。ある言語から別の言語へと翻訳するためには、双方の共通の根源となる言葉によって中継されなければならない。

これを前提とすれば、原典と翻訳の間には、決して埋め合わせられない差異がある。翻訳は、原典と類似意味を持つ訳ではない。両者の意味を同一視できるというのは、単なる錯覚である。確かに翻訳は、原典の後に生み出されるだろう。だがそれは、決して原典の複製とはなり得ない。我々が用いる人間言語言語一般の翻訳であるとすれば、原典と翻訳は、いずれも翻訳された言語だということになる。双方とも、言葉の不完全な翻訳であるという点では等価なのである。日本語にせよ、ドイツ語にせよ、英語にせよ、あらゆる人間言語根源的に同一である言葉であった。それ故に原典と翻訳との間には、ある種の親縁関係が築かれている。ベンヤミンが定める翻訳者の課題となるのは、歴史的に独立したこれらの言語に伴う忘却された根源的な関係を想起させることなのである。

ベンヤミンの純粋言語に関する洞察は、この関連から深みを増していく。純粋言語とは、単一の言語では到達し得ない言語である。それは、相互に関連付いた諸言語が互いに補完し合う志向によって到達し得る言語なのである。あらゆる言語には、その言語それ自体のみでは指し示すことのできない限界がある。ある言語で記述されている文献からすれば、その言語の限界が不可避的な盲点となる。純粋言語はまさにこの単一の言語における限界に位置付けされる超越的なものである。原典となる文献の読者がこの限界を超えるためには、別の言語で記述された翻訳に依存せざるを得ない。つまり<観察観察>による<記述の記述>としての翻訳が必要になるのだ。しかしながらそうした翻訳もまたある一つの言語で記述されている。<観察観察>は、所詮はまた一つの観察に過ぎない。故に翻訳にも例外なく限界が伴う。ある主題を可能な限り論じ尽くしたいのであれば、原典と翻訳の結託による多言語的なコミュニケーション展開し続けていくしかないのである。

純粋言語がありそうもないものとして捉えられてしまうのは、理由の無いことではない。人間に委託された命名行為には、副作用があった。それをベンヤミンは「過剰命名(Überbenennung)」と呼ぶ。人間言語においては、事物は過剰に命名されている。そこに「リズム(Rhythmus)」は無い。限りなくノイズに満ち溢れている。それは全ての悲哀と沈黙へと帰結していく。念を押して言えば、ここで彼が想定しているのは、バベルの塔の物語である。無数の人間言語が生み出されたことによって、人間に委託された以上に事物に命名し続けた。それがの逆鱗に触れることになる。かくして人間は、諸言語メディアとしての言葉による中継を徐々に喪失していくことになった。

問題再設定:理念の叙述は如何にして可能になるのか

そしてこの悲哀で満ちた世界観は、『ドイツ悲劇の根源』における「認識批判的序論」へと接続されていく。この序論においては、「過剰命名問題根源歴史区別を導入することで「理念論(Ideenlehre)」的に再設定されている。「認識批判的序論」の主題は、真なる「理念(Idee)」は如何にして「叙述(Darstellung)」することが可能なのかである。つまりこの序論は一つの方法論になっている。

認識批判的序論」の主導的差異は、諸理念(Ideen)と諸現象(Phänomene)と諸概念(Begriffe)の区別から構成されている。理念は所与の存在だ。真理は叙述された諸理念が織り成す輪舞の中で顕現する。一方、諸現象は仮象(Schein)が混入された乱雑な経験的(empirisch)状態に置かれている。これに対して諸概念は、この理念と現象の乖離に対する埋め合わせとして機能する。概念は諸現象を諸要素(Elemente)へと区別することで、対象に混入されていた経験的な状態を抹消する。すると諸要素を諸理念の領域に接続させることが可能になる。諸要素へと区別された諸現象は、その偽りの全体を喪失する。諸要素への区別により、諸理念との関連から真なる全体を構成する契機が得られる。かくして、理念による現象の救済が成り立つ。

しかし理念は、それ自体としては叙述され得ない。何故なら理念の領域は現象の領域から隔離されているからだ。故に理念叙述にも概念が必要になる。概念による諸要素への区別とそれらの関連付けを介して、初めて理念叙述可能性が拓かれる。諸理念は諸現象の潜在的(virtuell)な配置関係を指し示す。そしてそれらは諸現象の客観的な解釈でもある。こうした関連付けから、ベンヤミンは理念と現象が代理表象(Repräsentation)の関連にあるという。理念叙述が如何にして可能になるのかという問題設定は、言わば哲学的な真理の叙述というトップダウンの観点と概念による区別と関連付けというボトムアップの観点との融合が如何にして可能になるのかという問題設定へと再記述できる。

こうして叙述される理念は、一回的で「極限(Extrem)」的なもの同士が織り成す形式として把握される。理念極限の形式として、最も再現性が低く、最も新奇性が高く、最も省みられることのない諸現象を包含している。理念においては、そうした極限のもの同士が矛盾した対立関係を形成している。そして、この理念歴史において見出される場合には、それが根源という形態を取る。だからこそベンヤミンは、根源歴史哲学を、およそ飛躍的なもの、過剰な展開と思われているものの中から理念を抽出する形式として導入したのだ。

問題解決策:根源の歴史哲学

ベンヤミンの歴史哲学における主導的差異の一つは、「根源(Ursprung)」と「歴史(Urgeschichte)」の区別によって指し示されている。ここでいう根源とは、まず起源から区別される。根源は始まりを意味するだけではない。根源は、生成から消滅までの軌跡の全てを反映させた一つの時代を縮約している。この根源という抽象化された概念を前提とするなら、歴史根源を踏まえなければ認識できない対象となる。根源が諸現象に動態的に関連付くという前提に立って、初めて歴史を認識できるようになる。

この根源と諸現象の動態的な関連性が言い表しているのは、それぞれの時代にはその根源的な始まりと終わりの過程を形式化させる「リズム(Rhythmus)」があるということだ。時代が一定の「リズム」を刻むことによって、諸現象がその波形の形式によって整序されていく。言うなれば「リズム」とは、根源が指し示す一つの時代の調和の形式なのである。

だが近代社会では、この根源の認識が困難極まりない課題となってしまう。社会システム機能的に分化すると、むしろ様々なサブシステムがそれぞれに「リズム」を刻むようになる。特定の波形で形式化されている「リズム」も、それ自体が徐々に複合化すれば、物理量の可変性時間の流れと共に高まっていく。統一性の無い複数の波形から産み出される周波数は、ノイズのそれに等しくなる。そしてそのノイズは、「リズム」の認識を狂わせる。言い換えれば根源は、その後の歴史の流れから派生したノイズによって、掻き消されることになった。

歴史が流れれば流れるほど、根源は我々の視界から無常にも儚く消え失せてしまう。社会システムは、矢継ぎ早に様々なサブシステム歴史構成することによって、「リズム」をノイズで埋め尽くす。それは秩序や調和の形式が喪失していることを意味している。そしてこの喪失感こそが、他ならぬドイツ・バロック悲劇を駆動した感覚であった。

そのためベンヤミンは、歴史的な諸現象を整理することによって、それらの現象と普遍的な理念との関係を探ろうとした。この関連から着目されるのが、根源の「形態(Gestalt)」である。元来理念とは、事物の概念でもなければ、事象の法則でもない。むしろそれは、根源的な事物を配列する現象関係の形式なのである。

より厳密化して言えば、それは「極限(Extrem)」の形式である。極限の形式とは、例えば最善と最、最高と最低、強者と弱者などのように、矛盾した対立関係にある双方の緊張状態を反映させた関係を構成する形式に他ならない。したがって理念とは、一回限りの極限的な事物同士が織り成す関係の形式意味する。何故一回限りなのかと言えば、世界が歴史的に進歩した途端に、根源的な事物は無常化してしまうためだ。故に極限的な事物同士が関係を織り成すのは、一瞬に限られる。しかしながら無常化とは、もはや取り返しの付かない事態である訳ではない。批評による救済が可能なのである。だからこそベンヤミンは、如何にして理念叙述が可能になるのかを問うのである。ベンヤミンが着手した根源の学は、それ故に相互に矛盾する極限の<両極>から理念の構図を浮かび上がらせる形式に言及していくことになる。

そうなると理念が関連付けている<両極>とは何かという疑問が浮上してくる。だがその答えは明白だ。理念は統一性と差異性を寓意的に併せ持つのである。と言うのも、理念は何一つ歴史的に無常化されていないという根源完全性形態として保持する一方で、一回限りの根源的な事物に関わる複数の諸現象を形態の内部に包摂しているからである。重要なのは、どの根源現象(Ursprungphänomen)においても、形態が規定されているということである。それは、一つの理念がその歴史の総体の中で完成して安らぎを得るまで、繰り返し歴史の世界と対決する際に形成されるのだ。

したがって、ここでいう<両極>の矛盾した対立関係は、フリードリッヒ・ヘーゲルの弁証法のようには、決して止揚されはしない。この対立は和解しないままである。そしてベンヤミンがこの対立を対立のままに指し示す記号として引き合いに出したのが、他ならぬ「寓意(Allegorie)」である。

問題解決策:「神の世界」の万物復興

人間歴史は、楽園から追放された人類の後史である。それは初めから人間の「」が運命付けられた歴史だ。その前史において、人間は事物を完全に認識することができていた。だがを背負うこととなった人間は、それによって認識の完全性を喪失させた。この完全なる認識可能性の喪失は、確かに純粋言語が無常化していく「創世記」以来の歴史と相関している。そしてバロック悲劇の観点は、まさに「堕」の後史の人類の認識に向けられる。とりわけ進歩史観を自明視してきた近代社会は、不完全な認識に準拠して形式化された事物に関する知識が、恰もその本質を指し示すかのように受容してきた。それが人間中心主義者たちによって習熟されてきた歴史形象となっている。

バロック芸術家たちは、この脆弱な知識に懐疑的な視線を送ってきた。「自然(Nature)」の意義を解明して、それを実現していくという啓蒙主義的な理性は、進歩史観的に認識される知識の不自然な誤謬に過ぎない。この観点からドイツ・バロックでは、不完全性として限界付けられた認識可能性にあくまでも準拠した上で対象を捉えようとする意味論が育まれていった。バロックにおける自然は、その意義を寓意的に描写する主題として捉えられた。バロックにとっての自然は、均質に連続する所与の歴史に対するアンチテーゼとしての形象であった。つまり、自明化された歴史が崩壊する瞬間に顕在化する事物の剥き出しの相貌が、バロックにおける「自然」なのである。

それ故バロック悲劇は、現世的な生の仮象を暴露することに注力しているという点から、仮象を積極的に創造することに根差した他の芸術とは区別されなければならない。髑髏の相貌に代表されるバロックの制作物において、生命体から肉感が剥ぎ取られているのは、それが仮象の体現であるからに他ならない。バロックの作家たちが好んで使用してきた「死」の表現形式は、無機質な身体に関する形象指し示している。そうした作品の数々は、所与の歴史の無常なる破局によって、身体の素地を形式化させてきた「自然」が顕現することを叙述しているのだ。バロックの悲劇作家からすれば、こうして無常な、破局に満ちた「自然」を直視することで見出される知識こそが、楽園追放の前史を生きた人間たちの完全なる認識を可能にする。それは、の知に準じた知識である。だからこそ、「自然」の中に刻み込まれたの文字を解読することが、ドイツ・バロック時代の寓意的な詩作に課せられた問題設定なのであった。この問題設定に挑むバロック寓意家たちの文化によって、歴史自然弁証法的に絡まり始めた。この関連から彼らが見出そうとした新たな歴史を、ベンヤミンは「自然史(Naturgeschichte)」と名付けている。

悪魔の知見

寓意が埋め込まれたバロック悲劇では、全ての人物、あらゆる事物、それぞれの関係が、任意の別のものを指し示す。と言うのも、アナグラム、擬音語法、その他多くの言語の技巧の中で、言葉、音節、音が元来あらゆる意味連関から解放されることによって、寓意的に利用可能な言語となるからだ。自らで音を発するあらゆる事物に根差して、自然言語を発話している。

実際アダムは、地上の鳥たちと全ての獣を我々の言葉(Wort)で名付けることができたとされる。それは名を発音する際の母音が、生来的に自然に即して表現されていたためである。声というのは、発話の際、舌や唇という身体形態に左右される音である。身体的であるということは、すなわち自然なのだ。あくまでも自然との関連から歴史を洞察するバロック寓意家たちにとっては、我々の言語言語と同一の音を有していたことは、何ら驚くべきことではなかった。

この寓意言語論の背景にあるのは、記号論的な意味論である。シニフィアン(signifiant)がシニフィエ(signifie)を指し示す場合、シニフィアンは、自己に言及しない。シニフィアンは、あくまで自己自身を潜在化させる一方で、シニフィエを顕在化させている。まさにこの相互の過剰な指示によって、寓意の記号は強大な力を手にする。それぞれの事物は、常に他の事物に記号的な「意味(Bedeutung)」を付与せざるを得ないというこの寓意的な観点によって、その「生」を剥奪され、自らで記号的な「意味(Bedeutung)」を発することができなくなっている。この点において、事物に対する寓意の指示性質は「死」となる。

ベンヤミンによれば、寓意家が事物を「死」に到らしめるのは、憂鬱気質人間を誘惑し続ける「悪魔(Satan)」が傍らに潜んでいるからである。悪魔寓意家に現世の情景を開示する。寓意家は、悪魔に魅せられた「知見(Wissen)」によって、歴史的に「意味(Bedeutung)」付けられた世界を裏切る。だが悪魔の誘惑に屈することは、を背負うことに等しい。元来人間は、自らに寄り添う生活を送ることによって、悪魔の誘惑に打ち勝つことができると考えられていた。だが悪魔知見は、根源を成してしまう。寓意家を成す契機が悪魔に左右されるのだとすれば、寓意家意識を芽生えさせる契機もまた同様に、悪魔に左右されている。当初は自身の憂鬱気質を晴らすことに集中していた寓意家も、やがては寓意の破壊対象それ自体が抱く悲哀を目の当たりにすることによって、を自覚せざるを得なくなる。

寓意家は、自らの寓意を実現するために、対象の「生」を強引に剥奪しなければならない。この「生」の世界への裏切りによって、初めて寓意家は自らの寓意を可能にする。悪魔は、この死した事物の相互指示連関の合間に潜んでいる。と言うのも、「生」を剥奪された事物と意味の間には、深淵なる溝(gulf)が横たわっているからだ。事物は他の事物による記号的な「意味(Bedeutung)」付与の対象から逃れられない。それは常に事物が自己自身で発し得たはずの記号的な「意味(Bedeutung)」とは異質の性質を持たざるを得ないことを、「意味(Bedeutung)」する。しかしながら寓意破壊的な性格は、事物を「意味(Bedeutung)」諸共破壊し尽くすことによって、付与された記号を一掃し、「意味(Bedeutung)」からの事物の解放を可能にする、と期待することもできよう。この期待は、寓意家意識からの解放をも予感させる。死なば諸共、事物の破壊によって悪魔をも道連れにできるはずと思われるからだ。

だがこれに対して悪魔は、嘲笑うかのように、寓意家期待外れを突き付ける。黙することしかできない被造物であっても、「意味(Bedeutung)」されたものによる救済期待する資格がある。それは確かだ。だが抜け目の無い人間たちは、口を開いては自己自身を自伝的に物語ろうとする。そして、狡猾で邪な打算から自己自身の物質性を自己意識として<擬人化>することによって、寓意家に対して地獄の嘲笑を突き付ける。「自分語り」にせよ、嘲笑にせよ、その振る舞いは沈黙を破ることになる。そして笑い声は、「意味(Bedeutung)」付けたがる者たちの注目を集める。嘲笑を介した<言語一般>のコミュニケーションによって、事物は過剰に<精神>を受容する。事物は、<人間言語>を超越するほどまでに精神的になる。事物が嘲笑う姿は、言語超越しようとした成れの果てである。こうして事物は、何らを被ることなく、事物の深淵を見極められるという、寓意家の自信を笑い飛ばす。

絶対的で不敬な精神性の国

悪魔寓意家に開示するのは、当初は無常なる現世に対する憂鬱気質叙述として成り立っていた寓意の、それ自体としての無常性である。対象の中に記号的な「意味(Bedeutung)」を見出そうとする寓意家の一切の営みは、悪魔によって誘われた「」以外の何物でもないということが、ここで判明する。寓意の欺瞞が事物の笑い声によって指し示されることで、寓意家の営みの全ては無力と化してしまう。寓意家は手ぶらで帰るしかない。寓意家悪魔の知を超越することは不可能なのである。例えばグノーシス主義的な思想を有したマニ教の教義によれば、物質は世界の<脱冥府化(Detartarisation)>のために創造されたが故に、自らの死滅と共に世界の浄化を成し得ることで悪魔を道連れにする役目を担っていたとされる。しかし、その物質それ自体が悪魔的なものの中で自らの冥府的な本性を想起することにより、物質は、寓意家によって付与された自身の「意味(Bedeutung)」を嘲笑うようになる。

この悪魔と共に発せられた物質の嘲笑は、「」とは無縁に物質を探究することができると信じる者たちの全てに対して発せられた嘲笑である。そしてこの嘲笑が物語っているのは、悪魔精神的なものと物質的なものの両極を跨っているということである。

情欲、暴飲暴食、怠惰などといった肉体的な誘惑は、極限的な存在根拠とはなり得ない。存在根拠は、むしろ絶対的(absolut)で不敬(gottlos)な精神性(Geistigkeit)の国という蜃気楼(fata morgana)と共に開示される。こうした精神性の国がその対極を成す物質的な事物と結び付いた時に、は初めて具体的に体験され得る。

の中で支配的な感情は悲哀に他ならない。悲哀は、寓意の母にして寓意の内実である。そして、悪魔根源的な三つの約束は、この悲哀を背景としたに由来する。その三つの約束とは、禁止されたものに対する自由の仮象であり、敬意を払うべき共同体に対する自立性の仮象であり、そしての空虚な深淵における無限性の仮象である。実際、これらの約束は精神的な約束である。それは、現世における永続的な対象喪失としての憂鬱気質の者たちを欺く悪魔の誘惑となる。しかしながら、ここにおいて現世の無常性と対を成し得るのは、地獄の快活さに他ならない。それは精神的なものの生が剥奪された死の世界である。傍らで横たわる死体、剥き出しの歯並びで笑顔を振り撒く髑髏に視点を移せば、地獄は物質の嘲笑によって活気付けられていることがわかる。この観点からバロック悲劇では、これらの約束とその裏切りが、ある時は専制君主の形態の中で、またある時は陰謀家の形態の中で、効果的に呈示されてきた。

寓意が不変的な深淵として包含していたはずの純粋は、寓意の中にしか存在しない。それはただ寓意以外の何物でもなく、自己自身ではない何かを「意味(Bedeutung)」している。しかもこの純粋は、剰え、それが表象している対象の不在こそを「意味(Bedeutung)」してしまっている。あらゆる徳には、の内なる規範という終局的な対象が在る。だが徳にはこれが無い。全ての徳は、深淵へと転落していく無限の過程を開示している。絶対的な徳が絶対的な徳として在り得るのは、寓意家憂鬱気質の主観的な眼差しにおいてのみである。と言うよりも、憂鬱気質の主観的な視点こそが絶対的な徳に他ならない。この眼差しは、絶対的な徳という自己自身が生み出した仮象によって破局へと追いやられてしまう。と言うのも、この眼差しによって生み出されたものが、ただその眼差しの盲目性しか「意味(Bedeutung)」していないからだ。絶対的な徳の存立基盤になり得るのは、純粋に主観的な沈思のみだ。絶対的な徳が指し示すことのできているのは、これだけである。純粋は、この寓意的な形態によって、自己自身が主観的な現象に過ぎないことを暴露してしまう。

バロックにおける途方も無い反芸術的な主観性は、まさにその主観的であることを通じて、聖書における神学的な本質と合流することになる。確かに「創世記」をはじめとする聖書では、が「知見(Wissen)」という概念によって導入されていた。かの蛇がアダムたちに与えた約束とは、善を識別するものである。しかしながら、創造の後史におけるに関しては、別様の認識が結実している。すなわち、が自身によって創造された世界を観たところ、それは甚だ善かったのである。故にこの世界に在るのは、善として認識できる対象のみである。についての知見には、全く対象が無い。

もし知見の対象喪失を埋め合わせることができるとすれば、それは、知ることの愉悦というよりは、善区別することの愉悦として、人間の内に生起するものとなるであろう。別の言い方をするならば、善についての知見は、既にそれを認識していた観察観察することで認識される。故に善の知見は、二次的な観察で成り立つ。一方でについての知見は、が先行する観察者ではないが故に、一次的な観察で成り立つ。善の観察観察観察であるのに対して、観察観察観察ではない。善とについての知見は、この観察差異によって、が創造した事物に対する極限の形式の両極となる。そしてこの善区別は、この観察観察観察を組み合わせることによって、盲点を暴露する。何故ならは、世界の全体を善として認識してしまったからだ。したがって、善区別にも、という先行する観察者はいないということになる。善区別は、対象無き世界の埋め合わせである。この区別もまた主観的な深淵に準拠する。善区別は、それ自体、についての知見と等価となる。

このように、善と区別がこの区別の内部に再導入(re-entry)された時、が、その憂鬱気質の主観的な深淵から自己論理的(autologisch)な推論による普遍性を放ち出す。それは主観性の勝利を物語ると同時に、また事物に対する専制的な支配をも物語る。についての知見は、あらゆる寓意的な観察根源を成す。

神の世界

だがこの根源としての知見は、憂鬱気質として叙述されていた現世の無常性が自己論理的に推論されることによって、それ自体として無常と化したのであった。善区別観察者は、またしても対象無き世界の埋め合わせを探し出さなくてはならなくなる。

これは一見、寓意家の徒労を物語っている。しかしながら一方でベンヤミンは、この寓意家悪魔の関連から、寓意家の主観性が破綻する様子を好意的に評価している。確かに寓意家は、悪魔的な知見によって世界の全てを手中に収めたかのような錯覚に浸ってしまう。そして、嘲笑する事物たちを指し示す悪魔の手招きによって、結局のところは寓意それ自体の無常性を痛感せざるを得なくなる。しかしベンヤミンによれば、この段階に達した寓意家は、対象をの高みへと向上させる意志からも、世界を悪魔的な知見によって把握しようとする欲望からも解放されているという。この時点の寓意家はもはや、記号的な「意味(Bedeutung)」の支配者でもなければ、「意味(Bedeutung)」に振り回される存在でもない。そうした寓意家の「生」が、寓意家自身が執着していた事物と同一の領域に到達するという。

事物の「意味(Bedeutung)」に執着し続けた寓意家が一切の記号的な「意味(Bedeutung)」付けに対する無常性を自覚する時、「意味(Bedeutung)」が喪失した世界を目の当たりにすることになる。それは均質で連続する歴史とは無縁だ。寓意家の眼に映るのは、この現世の空虚な自然である。無論、寓意家の心的経験としては、再び憂鬱気質を深めるしかないであろう。しかしベンヤミンは、こうして事物との「意味(Bedeutung)」を介した認識の関連を放棄したこの時点では、その憂鬱気質を晴らす契機がまだ残されているという。記号的な「意味(Bedeutung)」が消えた世界を捉える寓意家の脳裏には、「意味(Bedeutung)」の創造を通じて世界を捉えようとしたかつての歴史的な形象とは全く異なる世界の形象が浮かび上がる。ベンヤミンはこの新世界の形象を「神の世界(Gottes Welt)」と呼んだ。寓意家は、「神の世界」で目覚める(erwacht)のである。

神の世界」において、寓意家と事物の関連は「意味(Bedeutung)」を介さない直接的な関連となる。尤もこの新世界であっても、寓意家が対象についての知見を無条件に獲得し得る訳ではない。寓意家は再び世界を探索し始めるであろう。しかし、寓意的な探索に終わりが無い訳ではない。

「復活」の寓意

寓意的な体験において、あらゆる事物が「死」の隠喩へと豹変する。しかしながらこの隠喩には、対極的な指示対象が関連付いている。最期の瞬間、あらゆる事物が死に絶え、断片化された瓦礫の山でしかなくなった象牙の塔を差し置いて、寓意は「死」とは対極の「復活(Aufbrstehung)」の寓意として復興する。と言うのも、指示可能なあらゆる事物を「死」へ追い遣った寓意は、最終的には自己自身しか指し示しようが無くなるからだ。この時「死」の寓意は、言わば自己破壊的になる。その「死」の寓意の「死」によって、寓意の指示は反転する。すなわち、死した事物の「復活」へと変貌するのである。

「死」の寓意が常に別のあり方でもあり得る記号的な意味を事物に付与し得るのは、心的経験や社会的な営みを含めた万物一切が無常であるという憂鬱気質の前提があるからだ。少なからず「神の世界」に到達していない寓意家ならば、この寓意的な衝動は悪魔的な知見によって駆動されている。しかしそうした寓意が「復活」の寓意へと変貌し得るのは、まさに寓意家を嘲笑う悪魔と事物が指し示しているように、無常性を前提とした「死」の寓意それ自体もまた、他の万物一切と全く同様に無常であるためである。それ故「復活」の寓意は、無常という概念がそれ自体無常であるという自己論理的な推論を背景としている。この限りで、17世紀ドイツ・バロック芸術による儚さのトポスは、普遍性を獲得していると分析できる。

万物復興

「死」の寓意があらゆる事物を破壊するように、「復活」の寓意はあらゆる事物を復興させる。もとより寓意である以上、この復興もまた、対象を「断片」へと引き裂く破壊的な営みとなる。言い換えれば、「復活」の寓意区別の導入による復興である。

どれほど学問的な方法から眺めて観ても、ベンヤミンの歴史哲学に伴うこうした秘的な響きを無視することはできない。彼の歴史哲学が政治神学的な区別の導入の連鎖であることは、や明らかであろう。実際、彼の歴史哲学は批評の形式を採る。それは「救済的な批評(rettende Kritik)」である。と言うのも彼の批評は、弁証法的に内在した状態で、否定よりも解釈を優先するからである。救済的な批評は実際上、ヘーゲル哲学とは対照的な特色を持っている。それは特定の否定を通じてその都度新しい形態へと移行していく訳ではない。この批評方法が前提とする歴史哲学は、観念論的な精神進歩史観ではなく、根源歴史的な無常化に言及しているためである。ベンヤミンの批評は、精神の向上よりも、精神破局に関連してくる。それはまたロマン主義的な批評概念とも別物である。彼の批評は、作品における意識の高揚ではなく、作品に知を移植させることに重点を置く。彼は言わば批評家として大胆にも対象へと介入していくのである。

したがってベンヤミンの批評は、対象に介入することによる救済だということになる。その介入方法は、まさに危機という用語で言い表すことができる。「危機(Krise)」の語源に当たるギリシア語の「クリシス」には、危機や決断の他に、「区別」や「分岐点」という意味が含まれている。ベンヤミンの批評はこの区別することに結び付いていく。専ら彼が区別したのは、対象の肯定的な側面と否定的な側面である。だがそれに留まらず、彼はその否定的な側面を再帰的に区別する。つまり彼は対象の肯定的な<否定的な側面>と否定的な<否定的な側面>を区別し続けていったのである。

この無限区別の最果てにあるとされるのは、過去の全体の歴史的な「万物復興(Apokatastasis)」に他ならない。万物復興とは、善、正誤、勝敗に関係なく、あらゆるものの復元を意味する。それは根源的な創始状態の復元を言い表す宥和の教義である。ベンヤミンの歴史哲学においては、万物復興歴史的なものとして採り入れられている。この歴史哲学においては、あらゆるものが解釈の対象として包摂される。批評家は、否定的なものとして排除されている全てのものに対して、再び肯定と否定の二分法を適用させていく。まさにありとあらゆる全ての現象が救済されるまで、この二分法を再帰的に反復していくことこそが、ベンヤミンの批評様式なのである。

問題解決策:モナドとしての理念

万物復興という秘的な響きに満ちた記述の中にも、ベンヤミンの理念論は色濃く反映されている。万物復興は、その無常化に曝されてきた根源的な創始状態の救済を示唆している。この政治神学的な区別の導入においてもまた、理念叙述可能性がその方法論として想定されている。

理念は、諸現象の客観的かつ潜在的な配列と見做される。現象が理念の内部に組み込まれている訳ではない。現象は理念に包含されている訳ではないのである。言わば理念とは、ベンヤミンにおいては、諸現象の客観的な解釈となる。そして理念は現象の代理表象である。代理表象としての理念は、理念によって把握される対象とは明確に区別される。理念によって把握される対象を、理念が包含している訳ではない。

ここでベンヤミンは、この理念と事物の関連を一つの隠喩で描写している。すなわち、理念の事物に対する関連は、「星座」の「」に対する関連に等しい。このことが言い表しているのは、理念は事物の概念でもなければ、事物の法則でもないということである。理念は現象の認識に有用に機能する訳ではない。そして、そのように役立つことが、理念の存立基準である訳ではないのである。理念から観れば、その概念的な諸要素によってこそ、現象の意義が見出される。諸現象は、その存在共通性、そして差異性を介して、それらの現象を包含する諸概念の規模と内容を規定する。しかし理念に対する現象の関連は、これとは全く逆となる。むしろ理念の方が先に、諸現象やその諸要素の相互関連をそれに対する客観的な解釈として規定するのである。つまり、「」が先にあって「星座」が描写されるのではなく、その逆なのだ。まず「星座」があって、そこから「」が見出される。

こうして、まず「星座」に対応する客観的な全体像としての理念の観点から観察すると共に、「」に対応する諸現象やその諸要素を捉えることで、諸現象やその諸要素は個別化されると同時に、救済される。ここで、「」に対応する諸要素における問題設定となるのは、概念が現象から区別されることである。しかしながら、重要となるのは、その区別極限の形式として導入される場合にこそ端的に発見することが可能になるということだ。したがって、理念が最も顕在化するのは、一回限りの極端なものが別様の極端なものとの間に構成する関連性の形態においてである。そしてベンヤミンは、言語が最も普遍的に指し示す対象こそを理念として認識しようとする。ここで彼が想定しているのは、メディアとしての言語に他ならない。

微小な細部の中の全体

もとよりベンヤミンも述べているように、理念とは相反する諸々の形式意味深く配列する可能性を持つことから特徴付けられる総体だ。理念叙述が成功するのは、その理念に包含されている諸々の極端な形式の領域が密かに巡り合っている場合のみである。極限の形式の巡り合わせが顕在化することは無い。何故なら、根源理念に包含されているのは、歴史的に直面することになる事件ではなく、内実であるからだ。それは、理念の内部において初めて歴史を知ることができるということである。しかも、基礎付けられる意味においてではなく、本質的な存在に関わる意味において、漸くそれを知ることができるのである。

ここでベンヤミンが叙述する本質は、その前史と後史において、理念の世界への救済蒐集の対象となり得る。この本質は、そうした救済蒐集の兆候として、純粋な歴史というよりは「自然史(Naturgeschichte)」となる。諸作品や諸形式の生は、こうして保護されることによってのみ、人間の生に乱されることなく明晰に展開される。それこそが、言わば自然の生となるのだ。その存在が自己の歴史を全て遡及し得ることによって、漸くその存在自然史的な存在として充足され得る。だから、この前史と後史は、もはや実証的にも現実的にも読み取られるべきではない。まして、哲学の現象概念で満足することすらできない。そうではなく、本質的な事物の自然史として、完成された静止状態において読み取られるべきなのである。自然史を前提とした理念叙述は、過去を対象にした場合にせよ、未来を対象にした場合にせよ、原則的には極限的に深化されなければならない。この深化が、理念を総体化する。

理念は、総体であると同時に、モナド的な構造も有している。それは、総体性とは対極的で、孤立性を絶対的に手放せずにいるという特色とも言える。どの理念の内部にも、その時点における前史と後史の全体を縮減させた形象が導入されている。一つのモナドの中に、他の全てのモナドが幽かに映し出されているのである。理念モナドであると述べる場合、そこで含意されているのは、理念の内部には諸現象の代理表象が伴っているということなのだ。理念モナドであるというのは、一つ一つの理念が世界の形象を内包しているということなのである。

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