金融危機の社会構造と「音楽」の意味論 | Accel Brain

金融危機の社会構造と「音楽」の意味論

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問題設定:金融危機は如何にして可能になるのか

金融市場社会構造は、しばしば「音楽」の意味論叙述される傾向がある。先に示したように、最も有名な形象の一つは、経済学者ジョン・メイナード・ケインズが1936年に著した『雇用、利子、および貨幣における一般理論(The General Theory of Employment, Interest and Money)』に叙述されている。それは椅子取りゲームの「音楽」である。ケインズによれば、金融市場投機的なゲームに参加している群衆は、椅子取りゲームのプレイヤーとして、限られた数の椅子を奪い合うことになる。

「長期に渡る投資の見込み収益を予測するというより、ほんの数ヶ月ほど先の世間の価値評価の基礎を予測する闘争は、公の場に投資の専門の餌食になるためのカモ(gulls)が必要になる訳ではないーーそれは専門同士でもプレイすることができる。世間的な価値評価基準が真っ当な長期的な有効を有するなどといった単純な信念(faith)もまた、維持する必要すら無い。何故ならそれは、言わばスナップ(Snap)というゲーム、ババ抜き、あるいは椅子取りゲームのようなものであるからだ。スナップでは、早過ぎもせず遅過ぎもしないタイミングでスナップと言った者が勝者となる。ババ抜きでは、ゲーム終了時までにババを隣のプレイヤーに回せば勝者となる。そして椅子取りゲームでは、音楽が止まった時に自分の椅子を確保できている者が勝者となる。こうしたゲームでは、心に愉しく遊ぶことができるものの、参加するプレイヤー全員が、ババが回ってくることは承知している。音楽が止まれば、誰かは椅子を持たざる者になることも知っているのである。」
Keynes, J. M. (1936) The General Theory of Employment, Interest, and Money. In Keynes, J. M., Moggridge, D. E., & Johnson, E. S. (1971). The Collected Writings of John Maynard Keynes (Vol. VII). London: Macmillan., pp155-156.

ケインズの株式市場に対する観点は、金融資産の評価ではなく、明確に群集心理に向けられている。ケインズによれば、投資家企業の本質的な価値を発見することには注力していない。投資家が注視するのは、他の投資家が如何に選択するかである。優れた投資家は、どのような市場の状況や社会背景大衆群衆空中楼閣構成を引き起こしているのかを探索することで、他の投資家が気付く前に先手を打ち、ゲームに勝利しようとする。

このゲーム勝敗が決するのは、音楽が鳴り止む瞬間である。椅子を持たざる者が、敗者となる。しかし、アラン・ブラインダーが2013年に著した『音楽が鳴り止んだ後(After the Music Stopped)』が言い表しているように、その後に待ち受けているのは単なる静寂ではない。それはゲームの根底を覆すかのような「金融危機(Financial Crisis)」を派生させる。ネイト・シルバーも述べているように、こうした金融危機は、経済学者や投資家たちの破局的な予測の失敗によって生起している。それは、自らが期待している世界に都合の良いシグナルを盲目的に信じ込むあまりに、現実世界盲点となっている分析者たちによる予測の失敗である。たとえ破局の兆候が顕れていても、そうした分析者たちは、リスクから目を逸らしてしまう。

破局的な金融危機音楽の鳴り止む瞬間から生起するのならば、逆に音楽が鳴り響いている間は、この盲目的な確信が続いていることになる。群衆がこの確信を強めていけば、それは「バブル(bubble)」として結実する。音楽が鳴り響いている最中、このバブルは絶えず膨張していく。そしてバブルが弾けた瞬間、音楽は鳴り止むのである。

ロバート・シラーが『不合理な狂(Irrational Exuberance)』で試みたように、バブルが弾ける可能性を予測することは不可能ではない。だが、大衆バブルが弾ける危険を事前に認知させようとしても、大抵失敗に終わる。群衆心理の志向は、認知的な期待ではなく規範的な期待に方向付けられている。都合の良いシグナルへの期待期待外れに終わる可能性があるとしても、こうした期待外れ可能性は潜在化させられている。

この期待外れ可能性の潜在化を可能にしているのは、シグナルに対する群衆狂的で盲目的な確信だけではない。それは、証券の格付会社(rating firm)のような組織システムが、投資に関わる意思決定を方向付けていたためでもある。クロールボンド・レーティング・エージェンシーのジュールス・クロールも指摘していたように、格付会社には「調査監視(surveillance)」の機能が不足している。それは投資家に対して情報を随時伝播する機能である。格付会社は、住宅ローンのデフォルトや期限前返済などに関わる大量のデータ所有している。そうしたデータは、危機の兆候となる初期段階での警告が含まれている場合もある。格付会社は、金融市場で起こり得る危機を最初に察知できる立場にある。しかしその情報の全てが投資家たちに伝播される訳ではない。格付会社が伝播する情報は、既にその格付会社によって取捨選択された情報に限られる。

金融危機の兆候がデータに顕れていたとしても、それが格付会社によって事前に捨象される危険がある。格付会社は、都合の良いシグナルだけを積極的に伝播させることもできてしまう。危機を振り返る際のクロールが述べていたように、「誰も音楽を止めたくなかった」のならば、現実的に生起した金融危機は、より長くバブルが持続し、より長く音楽を鳴り響かせ続けたかった者たちによる期待の末路であるということになる。「音楽」とは、『不合理な狂』に基づいて脚色された虚構に対する期待によって作曲されている。ただしその構成は、計画的ではない。それは、今にも鳴り止みそうな音楽を取り繕い持続させようとする不連続即興演奏(Improvisation)によって鳴り続けている。この即興が途切れる瞬間が、音楽が鳴り止む瞬間となる。

問題再設定:金融市場の「共運動」は如何にして可能になっているのか

しかし、こうして金融市場社会構造と「音楽」の意味論を対応付けた場合に問題となるのは、「金融危機」というスキーマが指し示す概念の粒度である。即興演奏が鳴り止む時が金融危機の瞬間となるのだという観察の前提にあるのは、金融危機にはその事前と事後があるのだという時間次元区別である。もし複数の金融危機が同年の同市場で重なる場合、この事前と事後の区別は簡単には導入できなくなる。金融危機観察者たちは、例えば1980年代から1990年代前半を単に「S&L危機」の時代として記述することもできれば、1987年の世界的な株価の大暴落だけを「ブラックマンデー(Black Monday)」として記述することもできる。ある金融危機が別の金融危機を引き起こす可能性もあれば、複数の金融危機が連動して勃発する可能性もあり得る。

したがって、金融市場社会構造と「音楽」の意味論金融危機の事前と事後の区別で記述しようとすれば、パラドックスに陥る。金融危機の事前と事後の区別は、この区別の内部に「再導入(re-entry)」されると考えざるを得ないであろう。つまり、ある金融危機の事前/事後の出来事は、別の金融危機の事前/事後の出来事である可能性否定できないのである。ある「音楽」が途切れたとしても、その瞬間にはまだ別の「音楽」が鳴り響いている可能性もある。逆に、ある「音楽」が途切れたことによって、また別の「音楽」が途切れてしまう状況も、容易に想定できる。

複数の金融危機を記述する場合、複数の社会システムが作動していることが前提となる。つまり、金融市場に関わる複数の経済システム組織システムの作動の実態を観察することが、複数の金融危機を記述する場合の前提となるのである。金融危機観察者たちは、この複数のシステム作動の関連をしばしば「共運動(co-movements)」という概念で記述してきた。この共運動観察の主導的差異構成しているのは、「伝染(contagion)」と「相互依存(interdependence)」の区別である。この区別を導入する金融危機観察者たちの着眼は、市場間相関に向けられる。金融危機が発生した際の市場間相関の増減が、「伝染」と「相互依存」の差異特徴付けるというのである。

問題解決策:伝染と相互依存の区別

クリスティン・フォーブスとロベルト・リゴボンは、1987年の米国株式市場の暴落、1994年のメキシコのペソ崩壊、そして1997年の東アジア危機に伴う株式市場の「共運動(co-movements)」を観察することで、株式市場における「伝染(contagion)」の有無を分析している。彼らの観察は、株式市場における「伝染」を如何にして検証するのかという概念的な問題設定を前提としている。標準的な検証では、金融危機の期間における株式市場収益市場間相関(cross-market correlation)が増大するか否かが調査される。ただし、この分析の中心となる市場間相関の尺度には偏りが生じている。未調整の相関係数は、検証期間に渡る市場の運動を条件としているために、株式市場価格変動(volatility)が上昇する混乱の間は、市場間相関の標準的な推定値は上方に偏ることになる。この偏りを補正するためには、相関係数を調整しなければならない。

フォーブスとリゴボンは、上記の三つの金融危機を対象に、未調整の相関係数と調整済みの相関係数のそれぞれにおいて、伝染の有無を検証した。すると、未調整の相関係数では伝染が発生した証拠を発見できても、調整済みの相関係数では伝染の証拠が発見されなかったという。このことが意味するのは、これらの金融危機観察された「共運動」では、もともとの市場間の強い関連が継続した帰結であるということである。言い換えれば、これら三つの金融危機では、「伝染」ではなく「相互依存(interdependence)」だけが発見されたのである。

フォーブスとリゴボンの批判的な検証は、金融市場社会構造と「伝染」の意味論を前提とした上で、従来の経済学的な方法論を棄却する帰結となっている。経済学者たちが開発していた株式市場全体の伝染測定するための直接的な方法は、二つの株式市場の相関や共分散を指標として記述している。そのアプローチでは、歴史上の平均として測定される比較的安定した期間における各指標と、金融危機をはじめとしたショック体験を伴わせる混乱の期間における各指標とを比較することになる。そしてこの比較観点から、「伝染」とは混乱の期間における市場間相関の著しい増大として定義される。

この方法によれば、例えばドイツとイタリアのように安定期に適度な市場間相関を示していたにも拘らず、一方の市場に加えれたショック効果が他方の市場へと波及したことで著しく「共運動」が派生した場合には、一連の運動が「伝染」を構成することになる。これに対して、アメリカとカナダのように、二つの市場が伝統的に高い相関関係にある場合には、たとえ一方の市場に加えられたショック効果が他方の市場へと波及したとしても、もともと高い相関関係を示していた双方の「共運動」は「伝染」を指し示す訳ではない。伝染が発生せず、相関関係が相対的に増大しない場合の「共運動」は、「伝染」ではなく「相互依存」と呼ばれる。

したがって、伝染とは市場間の関連がショックの前後で根本的に変異することを意味する一方で、相互依存は市場間の関連に根本的な変異が無いことを意味する。つまり伝染と相互依存の差異は、金融市場社会構造変異の有無に対応している。

問題解決策:伝染分析の機能

伝染と相互依存の区別は、投資戦略の重要な原則として観察されている。金融危機のような経済的な混乱は、国家によって異なる様相を呈している、と期待されている。つまり投資家たちは、異なる国の株式市場比較的低い相関関係を示すはずであると、規範的に期待しているのである。だからこそ国際的な投資の分散化は、ポートフォリオリスクを大幅に減らすと共に、期待収益を高めると想定される。しかし、負のショック体験の直後に伝染が発生した場合、市場の相関国家の線引きとは独立して増加することにより、国際的な投資の分散化を支える合理性が損なわれることになる。

行動ファイナンス学派が登場して以来、投資家の行動モデルの多くは、負のショック体験の直後に各自で異なる反応を示すという仮定に基づいている。投資家個々人の行動が、安定期と危機的状況とで如何に変異し得るのかを理解することは、ショックが市場全体に如何にして伝達され得るのかを理解する上での鍵となる。

多くの国際機関や政策立案者たちは、実質的な関連を持たない二つの国家であっても、一方の国で生じた負のショックが他方の国の財政に影響を及ぼす可能性を懸念している。この影響が一時的なショックであったとしても、それは第二の金融危機を引き起こす可能性をもたらす。こうした伝染可能性は、国際通貨基金(International Monetary Fund: IMF)における安定化資金への介入と大量の資金の献身の正統性を高めることになる。この前提に立った場合もまた、伝染の有無やそれが如何にして可能になっているのかを評価することが重要となる。

問題解決策:形式としての伝播

国際的なショックの伝播理論は、ショックの伝播を次の三つの機構区別している。

  1. 複数の国の経済原則に影響を与えるショック。
  2. 他国の経済原則に影響を与える国固有のショック。
  3. 経済原則では説明されず、純粋な伝染として分類されるショック。

第一の機構は、複数の国々の経済原則に影響を与えるショックの機構である。それは、同時に複数の国々の経済原則に影響を与える総体的または世界的なショックに焦点を当てている。例えば、国債金利の上昇、国際資本供給の縮小、あるいは国際的な需要の減少は、同時に多くの国々の成長を遅延させる可能性を持つ。この総体的なショック効果を受けた国々の株式市場は、多かれ少なかれある程度は「共運動」するため、ショックが波及した直後は、影響を受けた国々の間の市場間相関が高まる可能性がある。

第二の機構は、他国の経済原則に影響を与える国固有のショックの機構だ。この機構は、ある国から他国へのショックの波及が如何にして可能になるのかを説明する機構である。この機構は、貿易や政策の調整などのように、多くの実務連携を介して機能する可能性がある。貿易は、複数の経済的なコミュニケーション結合させる。ある国における平価切下げは、その国の商品の競争力を高めると共に、他国の競争力を低下させる可能性がある。この効果は、その国の売上に直接的な影響をもたらすだけでは収まらない。競争力が十分に深刻となるほど低下する場合、為替レートの切り下げを期待する機運が高まる。それは国の通貨に対する攻撃に結び付く可能性がある。ある国の経済的なショック効果に対する対応が他の国に同様の政策に従うことを強いる可能性があるために、政策の調整は経済的なコミュニケーションを結び付ける可能性がある。貿易協定はこのわかり易い事例となるであろう。ある国の緩い金融政策が他の加盟国に貿易障壁の引き上げを強制することもあり得なくはない。

最後の第三の機構は、経済原則では説明が付かない純粋な「伝染」として分類されるショックである。伝播機構としての伝染という概念は、上述した二つの機構によって説明される市場の動きから区別されなければならない。この伝染概念を記述する理論は、既に均衡理論心理学政治経済学によって提供されている。フォーブスとリゴボンも述べているように、これらの伝播理論は異なる機構に基づいているものの、共通して同じ重大な結論を提示している。金融危機の間の市場間連携は、比較的安定した期間の間のそれとは異なるのである。いずれの場合も、金融危機の間に国際的な伝播機構は強化される傾向がある。そしてそれは、それまでの実際の経済的な連携によって推進されている訳ではない。

問題解決策:伝播機構の理論

ショックの伝播に関する上述した三つの機構は、次の単純なモデル表現することができる。

$$x_{i, t} = \alpha_i + \beta_iX_i + \gamma_ia_t + \epsilon_{i,t} \tag{1}$$

ここで、$$x_{i, t}$$は国iの株価を表す。$$X_i$$はi以外の国々における株価のベクトルを表す。$$a_t$$は集計変数で、これは全ての国に影響を与える。$$\epsilon_{i, t}$$は特異なショック(an idiosyncratic shock)を意味し、他の如何なる総体的なショックからも独立していると想定される。

第一の機構において、ショックは集計変数によって測定される。そして各国iにおけるこれらのショックの直接的な影響は、ベクトル$$\gamma_{i}$$によって把握される。第二の機構においては、国固有のショックは$$X_i$$によって測定される。これは国i以外の株価変異を表すためである。このショックの他国の経済原則に対する影響はベクトル$$\beta_i$$によって把握される。第三の機構では、伝染のいずれの形式市場間の連携の変異を包含するため、伝染形式的に$$\beta_i$$や$$\gamma_i$$の変異として把握される。

このモデルの一つの問題は、内生(endogeneity)である。つまりこのモデルでは、説明変数と誤差項との間に相関が生じてしまうのである。例えば、国iの経済原則と株価が国jに影響を与えるだけではなく、国jにおける経済原則と株価が国iに影響を与えてしまう。二つの国の場合に限れば、この問題は即座に把握できる。二つの国における株価をそれぞれ$$x_t, y_t$$とした場合、これらの株価を規定する構造的な形式は次のように記述できる。

$$x_t = \alpha_x + \beta_xy_t + \gamma_xa_t + \epsilon_x \tag{2}$$
$$y_t = \alpha_y + \beta_yx_t + \gamma_ya_t + \epsilon_y \tag{3}$$

ここで、$$a_t$$は上式によって定義される幾つかのショックである。$$\epsilon_x, \epsilon_y$$は、特異で相互依存的な国固有のショックである。この構造的な形式を推定するためには、パラメタを特定するための外因事象発見することが不可欠となる。例えばある国の崩壊(one country’s collapse)のように、マスメディアニュースによって高頻度情報が提供される場合ならば、そこに外因事象を見出すのは困難ではない。しかしながら多くの場合、この事象発見は実行不可能である。何故なら、この探索は一方の方程式のみに影響を与えている事象発見することに依存するためだ。言い換えれば、$$\beta_x$$を特定するためには、$$\epsilon_y = 0 \ and \ \epsilon_x \neq 0$$となるような事象発見しなければならないのである。

しかし伝染の検証が不可能である訳ではない。後述する簡略化された定式を利用する代替案はある。それは期間中のパラメタ推定値の有意な変化に関する試験を可能にする。実際、市場間の連携が経時的に変異しない場合、式(1)は期間を通じて一定となるはずだ。分析対象とする全期間と市場の混乱の期間が短い場合に係数を強制的に等しくすることで式(1)を推定するなら、市場の混乱の期間中、実際の係数の値の変化は分散の変化として反映される。統計的に言えば、共分散行列にしたがってこの混乱の期間中に分散分散行列が大きく変化した場合には、市場間の連携もまた変化したと推論できる。

この統計的な方法の欠点となるのは、式(1)の実際のパラメタを正確に計算することが不可能であるために、様々な実際上ん伝播機構の強度(strength)を推定できないということにある。一方この方法の利点は、伝染の有無の検証において、実現困難あるいは不可能な識別の前提を設定する必要が無いことである。

市場間相関の偏り

株式市場伝染に関する伝統的な実証的検証では、様々な方法論と手順が使用されている。こうした検証の基礎となるのは、未調整の相関係数である。フォーブスとリゴボンが詳解するように、この未調整の相関係数には偏りが生じている。この偏りは、特に検証の主題となる株式市場の混乱の間に増大する。

xとyをそれぞれ異なる市場における株式市場収益確率変数とする。これらの収益の関連は下記の定式に従う。

$$y_t = \alpha + \beta x_t + \epsilon_t \tag{4}$$

ここで、$$E[\epsilon_t] = 0, \ E[\epsilon_t^2] < \infty, \ E[x_t \epsilon_t ] = 0$$となる。残差の分布については、これ以上の仮定を置く必要は無い。また$$\mid\beta\mid > 1$$となる。

次に、データのサンプルを二つの集合(l)と(h)に分割し、$$x_t$$の分散が(l)の場合に低く、(h)の場合に高くなるように調整する。これらの集合差異は、安定期と混乱の時代の差異に対応する。$$E[x_t \epsilon_t ] = 0$$であるため、式(4)の最小二乗回帰推定は双方の集合において一貫があり効率的である。また、$$\beta^h = \beta^l$$である。集合における分散差異から、各集合の標準偏差は$$\sigma_{xx}^h > \sigma_{xx}^l$$となる。故に$$\beta^h = \frac{\sigma_{xy}^h}{\sigma_{xx}^h} = \frac{\sigma_{xy}^l}{\sigma_{xx}^l} = \beta^l \tag{5}$$である。このことが暗示しているのは、$$\sigma_{xy}^h > \sigma_{xy}^l$$である。言い換えれば、市場分散は第二の集合よりも高いということである。そして、第一の集合から市場間の共分散の増加は、xの分散の増加に正比例する。結局、式(4)より、yの分散は$$\sigma_{yy} = \beta^2\sigma_{xx} + \sigma_{ee}$$となる。残差分散は一定で、かつ$$\mid\beta\mid < 1$$であるため、集合間のyの分散の増加は、xの分散の増加に比例した値よりも小さくなる。したがって、$$\left(\frac{\sigma_{xx}}{\sigma_{yy}}\right)^h > \left(\frac{\sigma_{xx}}{\sigma_{yy}} \right)^l \tag{6}$$最後に、相関係数の標準的な定義に(5)を代入すると、$$\rho = \frac{\sigma_{xy}}{\sigma_{x}\sigma_{y}} = \beta\frac{\sigma_x}{\sigma_y}$$となる。そして、(6)と組み合わせると、この定式は$$\rho^h > \rho^l$$を指し示す。

結果的に、xとyの間の推定される相関は、たとえxとyの間の実際上の相関が変化していないとしても、xの分散が増加する時に増加することになる。言い換えれば、この未調整の相関係数は、xの分散を条件としている。ここでのバイアスは、定量化することができる。$$1 + \sigma \equiv \frac{\sigma_{xx}^h}{\sigma_{xx}^l}$$とするなら、

$$\sigma_{yy}^h = \beta^2\sigma_{xx}^h + \sigma_{ee}$$
$$= \beta^2 (1 + \sigma)\sigma_{xx}^l + \sigma_{ee}$$
$$= (\beta^2\sigma_{xx}^l + \sigma_{ee}) + \sigma\beta^2\sigma_{xx}^l$$
$$= \sigma_{yy}^l + \sigma\beta^2\sigma_{xx}^l$$
$$= \sigma_{yy}^l\left(1 + \sigma\beta^2\frac{\sigma_{xx}^l}{\sigma_{yy}^l}\right)$$

となり、これは以下と組み合わせられる。

$$\rho = \frac{\sigma_{yx}}{\sigma_{x}\sigma_{y}} = \beta\frac{\sigma_x}{\sigma_y}$$

したがって、$$\sigma_{yy}^h = \sigma_{yy}^l(1 + \sigma [ \rho^l ]^2)$$

$$\rho^h = \frac{\sigma_{xy}^h}{\sigma_{x}^h\sigma_{y}^h}$$
$$= \frac{(1 + \sigma)\sigma_{xy}^l}{(1 + \sigma)^{\frac{1}{2}}\sigma_{x}^l(1 + \sigma [ \rho^l ]^2)^{\frac{1}{2}}\sigma_y^l}$$
$$= \rho^l\sqrt{\frac{1 + \sigma}{1 + \sigma [ \rho^l ]^2}}$$

故に相関係数は増加するσの関数である。

$$\rho_t^u = \rho_t \sqrt{\frac{1 + \sigma_l}{1 + \sigma_t \rho^2_t}} \tag{7}$$と記述する場合、$$\rho_t^u$$は未調整あるいは条件付けられた相関係数を表す。$$\rho_t$$は実際上の無条件な相関係数である。そして$$\sigma_t$$は$$x_t$$の分散における相対的な増加を表す。すなわち、

$$\sigma_t \equiv \frac{\sigma_{xx}^h}{\sigma_{xx}^l} – 1$$

式(7)が意味しているのは、σにおいて増加する相関係数である。したがって、xの市場における価格変動の増大する期間、市場yとxの間の推定される相関は、実際上の相関に比して高まることになる。結果として、市場が混乱した状態になっている時、推定される相関係数は上方に偏ることになる。それぞれの市場はショックを受けた後からより価格変動を高めるために、このことは市場間相関が危機の後に増加することについての誤認を広めてしまう可能性がある。この偏りから我々は、「伝染」を発見することが可能になる。

尤も、この偏りを調整することは容易である。式(7)を単純に操作すると、以下のように、無条件相関を導き出すことができる。

$$\rho = \frac{\rho_t^u}{\sqrt{1 + \sigma_t [ 1 – ( \rho_t^u)-2 ]}} \tag{8}$$

派生問題:金融市場の「過剰な相互依存」は如何にして可能になっているのか

以上のように、伝染を調査する大多数の検証は、市場間相関がショックの後に増加しているか否かに着目している。だがこの分析の主題となる相関係数は、市場の混乱期には上方に偏っている。たとえ実際の相関が比較的一定のままであったとしても、推定される相関係数は増大する。この相関係数の増大に気付かずにいれば、本来伝染存在しないにも拘わらず、伝染存在しているという誤った結論をもたらす危険がある。

株式市場間の伝染を検証する場合、市場の動きを正確に測定することが非常に重要となる。株式市場価格変動変異を補正するために相関係数を調整すると、株式市場間の相関の推定に影響を与えるばかりか、株式市場伝染の推定値を大幅に減少させることが可能になる。そして、これらの調整された相関係数が伝染の標準的な検証に適用されると、1987年の米国株式市場の暴落、1994年のメキシコのペソ崩壊、そして1997年の東アジア危機には、伝染の痕跡は見当たらなくなる。伝染とは、ショックを受けた各市場における市場間相関の有意な増加を意味する。これらの市場間の連携は、伝染ではなく、相互依存なのである。

フォーブスとリゴボンの検証結果は、株式市場の動きに関する派生問題を提示している。それは、金融危機の際に、ショックの波及が如何にして可能になるのかである。この問題設定の下で、国際的な伝播機構理論を再記述していかなければならない。フォーブスとリゴボンが導入した伝染と相互依存の区別が言い表しているのは、比較的安定した期間や機器の時期に、各株式市場が何故高度に統合された状態で「共運動」しているのかに焦点を当てるべきであるということである。言い換えれば、何故金融危機の時期に一部の国々がそれほど脆弱なのかではなく、何故他の国々の動きに対して常にそれほど脆弱なのかを問わなければならない。そうした規模、構造、地理的な場所が異なる多くの市場で、一般にこうした高度な共運動が見受けられるのは何故なのかは、に満ちた問題である。これら多種多様な市場は、貿易や他の経済原則によって結合されている。この結合が、そうした高度な共運動を伴わせている可能性もある。あるいはそれ以前の問題として、世界のあらゆる国の株式市場の間において、既に「過剰な相互依存(excess interdependence)」と呼ばれる関連が構成されている可能性否定できない。

問題解決策:経済システムと外部環境の区別

経済学者やアナリストたちはしばしば、経済システムの作動の実態をフィードバック制御として記述してきた。例えばアメリカの財務長官を務めた経歴を持つ経済学者のラリー・サマーズは、アメリカ経済フィードバック・ループから成り立っていると考えていた。通常のアメリカ経済においては、ネガティブ・フィードバックが優勢となる。このフィードバック制御が、アメリカ経済における景気の変動幅を減らしている。フィードバックされるのは、大衆恐怖や欲望である。投資家の中には、リスク愛好型の投資家もいれば、リスク回避型の投資家もいる。双方は均衡している。ある株式会社の財務状態が化して株価が低下すれば、恐怖を感じた投資家は株を売る一方で、貪欲投資家は底値で株を買おうとする。だが恐怖と欲望は移ろい易い。均衡は崩れる。大衆の欲望が強過ぎる場合はバブルが起こる。恐怖が強過ぎれば恐慌が起こる。この時、経済システムを支配するのは、ネガティブ・フィードバックではなくポジティブ・フィードバックである。

需要と供給の区別もまた、単純なポジティブ・フィードバック・ループを構成する。長らくランダムウォーク仮説効率的市場仮説を力説してきた経済学者であるバートン・マルキールも例示するように、アメリカ経済が21世紀に体験した住宅バブルは、このポジティブ・フィードバックの好例であった。住宅に対する新しい需要の増加が住宅価格の上昇を派生させ、その上昇が更なる住宅ローンの供給を促進することで、住宅価格は際限無いかのように押し上げられた。負債レバレッジの上昇に次ぐ上昇は、融資基準の劣化を派生させた。故にレバレッジは更に高まった。バブルが膨らむに連れて、個人投資家金融機関も、徐々に破局へと進んでいった。

そしてバブルがはじけると、それまで膨張し続けてきたループが、一気に逆回転し始める。住宅価格は急落した。多くの大衆の資産は急激にその価値を劣化させた。住宅の価値はローンの残高を大幅に下回る。過剰な負債を抱え込んだ金融機関は、レバレッジを正常な水準に戻すために、事業を急速に縮小させた。それによる信用収縮が、実体経済に深刻な影響を及ぼした。

アナリストのネイト・シルバーも指摘するように、フィードバック・ループの問題は、経済予測と経済政策の間にも生じる。例えば景気後退が予測されれば、政府と連邦準備制度は、リスクの回避策やそのショックの負担軽減策を展開することになる。だがその策が手として働くことで、景気後退の予測が自己成就的な予言と化してしまう場合もある。尤も、あらゆる予言が自己成就する訳ではない。経済予測は、自己破壊的な予言にもなり得る。ネイト・シルバーは、こうした不確実性を「観察者効果(observer effect)」として記述している。何かを観察しようとすれば、その観察そのものが及ぼす影響によって、観察対象の振る舞いを変化させてしまうということだ。

尤も、「観察者効果」を引き合いに出すのならば、経済学者やアナリストたちが準拠しているフィードバック制御サイバネティクス的な意味論は、もはや通用していないことがわかる。何故なら、経済システム経済学者やアナリストたちによって<観察されるシステム(Observed System)>であると共に、経済学者やアナリストたちを<観察するシステム(Observing System)>でもあるためだ。「観察者効果」が発生するのは、経済システムが、経済学者やアナリストたちによる観察観察しているためである。この<観察するシステム>としての経済システムは、経済システムの外部に位置する観察者ではなく、経済システムの内部における観察者の視点に準拠している。言い換えれば経済システムは、経済システムの内部となる自己自身とその外部環境とを区別することにより、経済システム外部環境差異経済システム自身で構成している。つまり経済システムは、<経済システム>と<外部環境>の区別経済システムの内部に「再導入(re-entry)」することで、自己言及的に作動している。

経済システムにおいては、あらゆる出来事が貨幣支払いを通じたコミュニケーションとして認識される。経済システムにおける雇用者や消費者のような人格は、常に事前の支払いを考慮した上で貨幣を支払う。事前の支払いを加味することで、その人格は自身の支払い能力や支払いへの動機付けを認識できるようになる。それが後続の支払いにおける尺度として役立つのである。貨幣支払いの対象となるのは、経済システムの内部で構成された商品をはじめとする事物だけである。確かに経済システム外部環境にも、商品となり得る事物は溢れている。だが経済システムは、そうした事物価格という形式観察する。この形式構成しているのは、経済システムそれ自体である。経済システムは、価格という形式によって、経済システムの内部に<外部環境商品>を構成する。言い換えれば、経済システム外部環境事物それ自体に言及するのではなく、経済システム内部に「再導入」された事物に言及する。したがって、商品を巡る経済的なコミュニケーションもまた自己言及的なのである。

こうした経済システムに関する社会システム理論的な記述は、「資本主義」という概念を必要不可欠としている訳ではない。貨幣支払いを通じた経済的なコミュニケーションとして経済システムを理解した場合、社会システム理論は、生産、交換、分配、資本労働を全て派生的な事象として扱うことができる。またミクロ経済マクロ経済区別棄却することができる。貨幣支払いを第一に考える社会システム理論にとって、資本主義とは、ある支払いが支払い能力の回復を前提としている経済的なコミュニケーションであると考えられる。このように資本主義観察すると、金融危機をはじめとした様々な「危機」を支払い回復の問題として記述することが可能になる。

対外債務と対外資産の差異

例えば1982年のメキシコで発生した債務危機は、石油危機による世界経済の低迷が引き金を引いたと考えられている。この危機支払い能力の回復という観点から記述するなら、金利や元本の返済に着目することになるであろう。政府が発行する国債は、一種の借入金である。こうした借金が膨らみ過ぎた国では、金利の支払い能力や元本の返済能力が回復しないことによる信用不安が生じることで、債務危機に陥るという訳だ。

政府の借入金となれば、国家内で閉じられた問題として設定することも可能であろう。その一方で、対外債務の状況に観点を移すなら、海外の、つまり国家間の借入金が主題になる。この場合の主導的な差異は、対外債務と対外資産の区別構成される。国家は、海外から借金をしつつも、海外への投資も実践することで、支払い能力の回復可能にしているのである。したがって、ある国が「借金大国」であるか否かを対外債務のみから判断するのは、益体の無い経済評論となる。統計を観察するなら、対外資産残高から対外債務残高を差し引いた対外純資産残高を観察しなければならない。この残高が著しく減少している時、投資家の不安が形成される。もはや投資家は、国内ではなく国外に投資してしまう。すると国内の株式や債券、そして不動産の価格が暴落してしまう。こうして、ある国の貨幣が他国に流れてしまうことで派生する債務危機を特に「通貨危機」と呼ぶ。1997年のアジア通貨危機は、この典型的な事象と言える。

世界経済では、ある国家、ある企業支払い能力の回復が疑われることで、そのショックが国際的に波及するようになっている。それは特に、金利の支払い能力の回復が問題となるためである。金利の支払い能力が回復しなければ、借り手は更に負債を抱えることになる。金利そのものを支払えなくなれば、福利効果が追い打ちを掛けてくる。この問題は、借り手のみならず貸し手にとっても有害となる。何故なら貸し手となる組織は、金利による収入を前提として経営しているためである。金利が支払わなければ、貸し手は直近のキャッシュ・フローにおいて痛手を受けるということだ。すると貸し手は、直近での支払い能力を回復させるという負担を課せられることになる。借り手の支払い能力の回復遅延が、貸し手の支払い能力の減少を引き起こす。この連鎖反応が複合的に波及すれば、一国家や一企業に限定せず、支払い能力の回復という資本主義の前提が世界規模で崩れる危険もある。こうして予測されるのが、いわゆる「危機」なのだ。

社会システム理論的な資本主義概念を前提とした場合、「過剰な相互依存」として発現しているのは、金利負担に伴う支払い能力の回復の減少であると考えられる。しかしこの観察だけでは、まだ相互依存を網羅的に記述したことにはなり得ない。何故なら、支払いを介した経済的なコミュニケーションは、経済システム外部環境差異を前提としているためである。ここで記述した「過剰な相互依存」は、金利を主題とした経済的なコミュニケーション自己言及に他ならない。すると外部環境影響盲点となる。

問題解決策:構造的な結合

経済学者や投資家たちにとって、金融危機を「伝染」として特徴付けるのは魅力的な提案である。それは景気の分析や投資の分散化の戦略を方向付ける指針となり得る。それ故フォーブスとリゴボンの結論が提示された後も、一部の金融危機観察者たちは、市場間相関をはじめとするデータ没入することで「伝染」の抽出を試みた。しかし、こうして「伝染」と「相互依存」の区別を導入し続けた場合の盲点となるのは、<市場間の相互依存>と<市場と非市場の相互依存>の差異である。相互依存の関連にあるのは、経済システム市場だけではない。等価機能主義的な社会システム理論観点から言えば、近代社会には、経済以外にも、政治、科学・学問、教育マスメディア芸術族、医療宗教など、様々な機能システム機能的分化した状態で作動している。この機能的な分化という近代社会の社会構造は、各機能システムが、特定の問題設定に対する問題解決策を提示するサブシステムへと分化することによって、それぞれの問題設定を前提とした機能に注力できるように構造化されたことを意味する。

ここでいう「構造(Struktur)」は、「期待(Erwartungen)」の意味形式と関連している。意味論的に言えば、システム期待は、そのシステム外部言及を方向付ける際に機能する期待は、システム外部環境を知る発端となる技術である。外部言及対象として選択可能な対象は、世界に無数に遍在している。ある対象に期待するということは、それ以外の対象を選択肢から捨象することに等しい。期待意味形式は、可能性を捨象することに特化した形式なのである。

こうした期待意味形式は、システムにおける構造の生成と再帰的に関連している。システム構造機能は、可能選択肢を限定することで、特定の選択肢の冗長的な選択可能にする点にある。期待意味形式は、選択肢の可能性排除することで、構造機能を促す。一方構造は、期待意味形式そのものを<選択肢の一つ>として捉えることを可能にする。構造は、膨大な関連付けの可能性選択的に限定するために機能している。言い換えれば、可能選択肢の限定的な排除を担うのが、構造である。構造が必要となるのは、システム偶発性に曝されているためだ。観察者にせよ観察対象にせよ、必然的な選択肢は何も無い。可能選択肢が膨大に溢れている。仮に何らかの選択を何とか実施しても、次の瞬間には、またしても膨大な選択肢に悩まされることになる。しかし、可能な「選択肢」が膨大にあり得るのだとすれば、膨大な選択肢を限定するという「選択」もあり得るはずだ。この選択の限定という「選択」を担うのが、構造なのである。期待意味形式は、この<選択肢>の一つになり得る。構造は、期待それ自体の冗長的な選択をも可能にしている。一方、期待可能選択肢の大多数を捨象する。だから同一の期待冗長的に構成されれば、それだけ特定の選択肢が冗長的に選択されるようになる。その冗長性構造形成に資するのである。ある期待から別の期待に切り替えられれば、構造もまた変異する。

コードとプログラムの差異

こうした社会構造意味論の関連は、機能的分化した社会如何にしてそれぞれの問題領域を設定できているのかも明らかにしている。ルーマンはこの外部言及対象の限定技術形式としての「期待」が特定の選択肢の冗長的な選択可能にする「構造」と再帰的に関連付いているという前提から、「二値コード(binarer code)」と「プログラム(Programm)」の区別を導入している。

二値コード(binarer code)」とはAと非Aを区別する形式である。二値コード機能は、Aの否定を全て非Aとして回収することを可能にするということだ。これにより、機能システム無限後退を未然に防いでいる。この点、二値コード「意味」の一形式となる。

機能的分化したそれぞれのサブシステムは、それぞれ固有の二値コード使用している。例えば科学・学問ならば、「真(wahr)」と「非真(nicht-wahr)」を区別する二値コード使用する。このコードにより学問という社会システムは、あらゆる対象を真か非真かという選択を下に言及していくのである。同じように、例えば経済システムならば「支払い(Zahlung)」と「非支払い(Nicht-zahlung)」の二値コードを、法システムならば「合法(recht)」と「違法(unrecht)」の二値コード使用していく。この二値コード質は、「0」か「1」かという形式情報を処理するコンピュータを連想させる質だ。このバイナリ形式を前提とすれば、ある範囲を「0」と見做したならば、その他の範囲は全て「1」と見做せる。「2」や「-1」などのような無限に遍在する「第三項」は全て捨象することが可能になる。

排除された第三項を前提とした二値コード論は、二値論理学から距離を取る。二値コードは二元論(dualism)的に導入されている訳ではない。確かに、一元論や多元論を気取りながら、素朴に二元論を否定するだけでは、<二元論>と非<二元論>の二元論に従うことになる。二元論批判を二元論的に実践してしまう。これではパラドックスだ。二元論から距離を取ろうとする観察者にとって、論理学的な二値は「否定(Negation)」されるのではなく「棄却(Rejektion)」される必要がある。

否定(Negation)と棄却(Rejektion)の区別を導入した場合、否定とは二値コードの一方の側から他方の側へと境界を横断する作動を意味する。これに対して棄却とは、ある二値コードや二項図式に基づいて導入された問題設定を別の区別観察することを指す。この時、既存の区別によって指し示された選択肢の中からどれを選択するのかという問題は保留となると同時に、新たな区別による別様の選択肢が浮上する。

この棄却という観察は、近代社会における日常茶飯事である。例えば合法違法二値コードに従う法システムは、支払いと非支払いという経済システム二値コードを暗に棄却している。貨幣支払いと非支払いのいずれかを選択したところで、合法違法の判決が下される訳ではない。多値論理学者ゴットハルト・ギュンターが述べているように、求められている選択を許容しない値は、いずれも一つの「棄却値(rejection value)」となる。

構造としてのプログラム

二値コードはこのように、第三項を排除することで成立している。とはいえ、偶発性に曝されている状況では、二値コード選択することに必然性は無い。更に二値コードだけでは、具体に欠ける。例えば真と非真の二値コードだけでは、個別具体的な状況や条件でどのように真や非真を決めるのかがわからない。ある機能システムが特定の二値コードを具体的な局面で冗長的に使用し続けるためには、「構造(Struktur)」が必要となる。

ルーマンは、特にこの機能的分化したサブシステムそれぞれの構造を「プログラム(Programm)」と呼んでいる。例えば科学・学問のプログラムは「方法(Methode)」と「理論(Theorie)」である。つまり学問は、方法理論選択肢を限定するための選択肢として選択することにより、個別具体的な状況や条件において真と非真の二値コード使用し続けることの確実を高めているのである。同じように、経済においては「投資」や「消費」がプログラムとして機能するにおいては「」や「判決」がプログラムとなる。

プログラム機能の一つは、二値コードの高い抽象を無害化することである。二値コードは確かに機能的問題領域を限定する形式として機能する。しかしその抽象があまりにも高いために、あらゆる対象を当該問題領域に包摂してしまう。世界の全体を内部に導入してしまう形式に準拠すれば、システムの内外の区別パラドックスが伴う。当の機能システムは、システム外部環境差異を確保できなくなる。プログラムとは、この二値コードの適用範囲を限定することで、二値コードに伴うパラドックス脱パラドックス化する意味形式なのである。

二値コードは、それぞれ不変である。逆に言えば、二値コードが変わればシステムも変わってしまう。仮に真と非真の二値コードから支払いと非支払い二値コードへと変化した場合、そのシステムはもはや学問ではなく経済となるのである。これに対して、プログラムには歴史や時代や状況によって変異していく。それは一般に、構造変異として生じる。したがって、プログラム二値コード使用を方向付ける以上、如何なる二値コード歴史的に相対的だということになる。

構造的な結合の結合点

構造的な結合の状態は、以上の二値コードプログラム区別を前提として初めて把握することが可能になる。経済システムは、支払いと非支払い二値コード所有と非所有二値コードに従う消費や投資プログラム構造化された機能システムである。それは、財の希少性や再配分などのような経済機能的問題領域に特化した機能的なサブシステムの一種に過ぎない。逆に言えば、こうした機能的問題領域の解決策に資するコミュニケーションは、全て経済システムの作動となる。各機能システムはそれぞれの機能的問題領域で自的に作動する。しかしその一方で、それぞれのシステムは自足的ではない。各機能システムはそれぞれ他の機能システムと「構造的な結合(Strukturelle Kopplung : Structural coupling)」の関連を結んでいる。システム構造は、外的環境に位置する別のシステム構造と潜在的に関連している場合がある。その関連は緊密である場合もあれば、緩やかである場合もある。専らその関連が顕在化するのは、双方のシステムが相互に刺激し合う場合だ。

それぞれの構造的な結合には、インターフェイスとして機能する結合点がある。例えば、経済システム法システムとの間には「所有権(Eigentum)」や「契約(Vertrag)」が、法システム政治システムの間には「憲法(Verfassung)」が、政治システム経済システムの間には「租税(Steuern)」や経済指標や調達資金などのような数値が、政治システムマスメディア・システムの間には「世論(Öffentliche Meinung)」が、それぞれ構造的な結合結合点となる。こうした結合点を主題としたコミュニケーションは、専ら企業国家、裁判所、テレビ局新聞社などのように、全体社会組織化されているそれぞれの組織システムによって構成される。

こうした経済システムとそれ以外の機能システムとの間に形式化されている構造的な結合観察すれば、<市場間の相互依存>と<市場と非市場の相互依存>の差異を認識することが可能になる。<市場間の相互依存>は経済システム内部の作動であるのに対し、<市場と非市場の相互依存>は経済システムとそれ以外のシステム構造的な結合を前提とした相互依存であることがわかる。自的に作動する経済システムが自足的ではない以上、他の機能システムへの依存は避けられない。それは、経済システム解決可能なのが経済的な問題に限られるためである。だが経済的な問題解決策は、政治的な問題、的な問題、科学・学問的な問題、教育的な問題などのように、様々な派生問題を生み出す。システムがこうした派生問題に取り組めば、そのシステムはもはや経済システムではなくなる。<市場と非市場の相互依存>は、あらゆる問題解決策が問題を派生させることに基づく関連なのである。

問題解決策:「揺らぎ」の散逸構造

構造的な結合様相は、各システム構造観察することでより明確となる。それを「制御(control)」と呼べるのならばの話だが、経済システムは、国際金融市場通貨間関係の揺らぎ(Fluktuationen)によって自らを制御している。経済システムには、自身の後続の作動を指示できるような中心は存在しない。それぞれの国家資本の流れを自国に引き寄せるために、金融市場介入し、競争している。資金の需要と資金の投資機会が平衡状態に達することは、もはやあり得ない。合理性について語ることができるのも、精々のところ、現存の企業、消費者、銀行などのような諸システム揺らぎに対して反作用を起こす際の「散逸構造(Dissipative Struktur)」の水準であるに過ぎない。

もともとイリヤ・プリゴジンが提唱した概念である「散逸構造」が言い表しているのは、熱力学的な非平衡状態にある開放系の構造である。散逸構造とは、エネルギーが散逸していくその揺らぎの中で自己組織化される定常的な構造を表す。しかしこれに対して、自己言及的システムの場合、散逸構造の開放は、「作動の閉鎖性(operational closure, operative Schliessung))」を前提としている。システム作動の閉鎖性は、システム外部環境との関連における開放のための前提である。<システム>と<外部環境>の差異は、システムの中でのみ構成される。そしてそれはシステムの回帰的な作動でのみ可能になる。この差異は、システム外部環境の相互依存関連にある場合にのみ認識され得る。開放と閉鎖は、したがって、相互に強化し合う関連でもある。

構造的な結合は、開放的なシステム同士の結合なのではなく、作動の閉鎖性を保持するシステム同士の結合である。もし作動の閉鎖性が成立していなければ、結合しているシステム同士の差異が曖昧化してしまうであろう。構造的に結合し合うシステムは、それぞれの作動の閉鎖性を前提とした上で、それぞれの散逸構造構成する。したがって、構造的な結合は常に選択的に形式化される。つまり、構造的な結合は、無数の事柄を包含しているのではなく、むしろ排除しているのである。これは、目と耳の関係からもよくわかる。目や耳は、ごく僅かな物理的帯域幅を通じてしか、神経システムの刺激を媒介できない。同じことは、社会システムにも言える。社会システムは、社会システム構造的に結合している心理システム思考を介してのみ刺激される。それは生物学的に、化学的に、あるいは物理的に刺激される訳ではない。社会システムは、思考構成する心理システムとのみ構造的に結合しているのであるのであって、その他の外部環境の諸要素とは結合されないのである。構造的に結合選択的であるというのは、それが進化上の獲得物であるということを含意する。「あの」諸要素とは構造的に結合せず、「この」諸要素とは構造的に結合するというのは、当のシステム同士の進化の帰結として選択された結果なのである。

揺らぎ散逸構造は、こうした進化の途上で観察される構造として記述できる。なるほど経済システムの中を見渡せば、「大企業は銀行には依存せずに金融市場に接近できる」などといったような、確かな傾向も見受けられる。だがこうした傾向も、揺らぎによって引き起こされる。そうした揺らぎは、散逸構造によって生起する。揺らぎを通じた自己制御は、進化上の獲得物である。それは同時に、更なる進化構造的な条件にもなる。そうした更なる進化は、揺らぎから生じた散逸構造によって作動せざるを得ない。

世界社会のとりわけ経済システム進化結果として、経済システム政治システムの間に新しい構造的な結合が加わる。それは、金融市場が著しくグローバル化する一方で、労働と生産は依然として地域に根差した形にならざるを得ないことから生じている。例えば、日本や欧米諸国における自動車や電化製品の製品市場に明確なグローバル化の傾向が見受けられる一方で、これらの製品を生産している工場労働者は、東南アジア諸国などに展開されている諸工場に配属されている場合には、このグローバルと地域の併存を観察することができる。その結果国民国家は国際的な資本が自らの国土に投入されるように、その国際的資本を巡る競争に参加するようになる。そうなると、如何なる経済政策を採るにせよ、各国の立地特に関心を払うことが求められる。

政治システムは、政治的に重要な主題として記述される経済発展の全体像を制御するために、経済政策の指標となる高度に集積されたデータのネットワークを構成している。こうしたデータは、例えば国民総生産、失業統計、国際収支などのように、経済成長やその減退を指し示している。こうした数値において特徴的なのは、これらのデータ企業も消費者たちも利用しないということだ。したがってこうしたデータは、経済システム固有の水準における合理的意思決定の際には何の役にも立たない。こうしたデータは、政治システム経済システム構造的な結合における結合点としてしか機能しないのである。政治システムは、確かにこうしたデータによって刺激を受け得る。このデータマネジメントは、政治システムによる経済システム制御可能にする訳ではない。これらのデータの有用は、データ内容が絶えず修正されると共に、それについての予測を可能にする点にある。また、政治的なコミュニケーションはこうしたデータで拘束される訳ではないために、これらのデータに準拠した上で何をするべきなのかを、いつでも主題にすることができる。一方、主に福祉国家スキーマとの関連で言えば、経済システム偶発性定式としても観察できる希少性の問題が<貧富の格差>のスキーマとして再設定されることで、貧困層の弱者の救済が必要であるという主題政治システムの中に導入され続けることになる。しかしながらこうした主題に対する貢献政治的な問題解決策となるばかりで、経済的な問題解決策とはなり得ない。それ故に政治システムは、これらのデータ経済分析から容易に推論されるはずの結論であっても、それを導き出すことを自ら妨げてしまう。

問題解決策:「共鳴」するシステム作動

ニクラス・ルーマンは、生態的なコミュニケーションという全体社会の様々な機能システムが目まぐるしく関連付いた複合的な問題に対する自身の社会システム理論を少しでも単純化して説明するために、「共鳴(Resonanz; Resonance)」という用語を用いている。それは、作動の閉鎖性を保持した自己言及的オートポイエーシス的なシステムが、如何にして外部環境から放たれた攪乱的な刺激を享受し得るのかを単純化して記述した概念である。システムは、自己言及的構成した自己自身の構造に条件付けられた上で、外部環境による刺激から影響を受ける。どのように影響を受けるのかは、システム自身が決める。構造的に結合しているシステム同士が相互に影響し合う場合においても、事は同様である。

物理学的に言えば、独立したシステム共鳴するのは、それ固有の振動数に準拠してのみのことである。それは神経生物学における構造的な結合と同じように、システム構成した<システム>と<外部環境>の区別の「選択(selection)」に準拠している。同じことは、社会システム心理システムにも該当する。確かに社会システム理論的に言えば、オートポイエーシス的で自己言及的システムが他のシステム共鳴することは、ありそうもないことであるかのように思える。それは偶発的であると解さざるを得ない。進化論的にても、社会はその環境に必然的に反応しなければならないという道理は全く無い。まさにその反応の選択こそが、社会的文化的進化可能にしてきたはずだ。

しかしながら、意味論的に観察するならば、社会システム心理システム構造は、とりわけ言語による構造的な結合を介して、絶えず同期的に活性化している。ある種の共起関連が発現しているのは、双方のシステム概念を抽象化し、汎化すれば認識可能になる。いずれのシステム「意味」構成するシステムである。それぞれのシステム意味処理規則は、歴史文化的に方向付けられている。そしてその形式となるのは、情報の継続的な意味処理である。それは、作動の閉鎖性を保持するシステムが、自己言及的に自らの内部環境に区別を導入することで、状態や出来事を観察する営みに準拠している。そうした状態や出来事が観察可能になることで、初めてシステム情報を見出す。

故に情報システムの内部で構成されている。外部環境にあるのは、精々データ程度だ。社会システム心理システム外部環境境界線で生起しているこうした情報処理は、実際には「意味」構成するシステムの内部で実行されている。したがって、複数の社会システム心理システム共鳴は、意味(Sinn)共鳴に他ならない。それは、構文や形式記号論的な指し示しに限らず、否定矛盾、あるいはこれらの潜在的な可能性によって構成された意味(Bedeutung)揺らぎをも包含している。

一方、神経システムに関する生物学的な研究が明かしているように、共鳴の発動可能性が高まるのは、システム機能的代替可能性が低下した場合である。つまり、機能的に特化したシステムほど、共鳴能力を高めているのである。目や耳のような感覚器官、神経システム免疫システムは、進化の過程で試行された周波数の範囲でしか共鳴できない。

しかし、まさにその構造的な制約こそが、システム組織化された学習能力を与える。実際には、社会システムは多くの生態的な破局に直面している。全体社会は既に、直ぐにでも人類を滅亡させられるほどのテクノロジーを手にしている。だが、機能的な分化を成し遂げた近代社会の社会構造には、この事態に反応する余地があまりにも少な過ぎる。それぞれの機能システムは、二値コードプログラムによって構造的に制約された範囲でのみ、外部環境共鳴できるからだ。だがこのことは、単に共鳴が稀少であることを意味するのではない。「意味」構成するシステムという観点では、むしろ社会はその内部で様々な意味揺らぎ体験している。「意味」構成するシステムの内部では、共鳴は過剰になっている。この稀少な共鳴と過剰な共鳴パラドックスは、システムの内的環境と外的環境の区別を導入することで、脱パラドックス化されるしかあるまい。

「意味」構成するシステム共鳴可能性共通して言えることは、とりわけその可能性言語的な構造で制約されているという点である。言語可能な事柄は、皆コミュニケーション主題にすることもできれば、意識的に思考することもできるであろう。しかし、我々が見聞きすることのできる対象範囲が狭いスペクトルに縛られているのと同じように、コミュニケーション思考もまた言語に束縛されている。そして、より重要かつ決定的なのは、そうした発話や記述が、連続的(sequentially)に秩序付けられてしまっているということである。だからこそ我々は、全ての主題について同時に言及することができないのだ。言語は、語彙、文否定の用などのような構造によって、複合性時間化する。複合性選択を強制するのだが、言語はとりわけその選択連続的に秩序付けられた選択になるように束縛するのである。

問題解決策:機能システムと組織システムの区別

システム間の共鳴可能性が高まるのは、各システム機能的代替可能性が低下している場合だ。それは、機能的に等価選択肢となるシステムが減れば、共鳴する可能性のあるシステムも自ずと絞り込まれるためである。もし機能的等価物が無数に存在するなら、当のシステム以外のシステム共鳴する可能性がある以上、特定のシステム同士が共鳴する可能性は相対的に低下するであろう。しかし近代社会機能的な分化という社会構造を前提とした場合、各機能的問題領域に対応する機能システムは、二値コードプログラムで規定されているために、機能的代替可能性を低下させている。経済システム機能的等価物経済システムであり、政治システム機能的等価物政治システムであり、法システム機能的等価物法システムである。

したがって近代社会では、各機能システムが過剰に共鳴し合うことになる。ここに、機能システム間の「過剰な相互依存」を見て取ることもできるであろう。しかし、事はそう単純ではない。等価機能主義的な社会システム理論は、社会システム近代社会機能的な分化とは別の観点から社会を分類している。それによれば、社会は「相互行為(Interaktion)」、「組織(Organisation)」、「社会(Gesellschaft)」、そして「運動(Bewegungen)」に区別される。この区別においては、「社会」が最も包括的な社会システムとなる。「相互行為」と「組織」は、この「社会」の内部で分出した社会システムだ。一方で「運動」は、「社会運動」や「抗議運動」のように、機能的分化した社会の社会構造と対立する立場を主張する。この分類は、機能的分化構造の分類と根深く結び付いている。相互行為は、機能的分化した社会を含めた社会システムの原初的な形式として発現している。組織システムは、それぞれの機能システムが直面する偶発性不確実性負担を軽減する機能を担っている。運動は、一方でこの機能的な分化という社会構造に抵抗する立場を主張する。そして社会は、これら全てを包括した概念である。

社会は最も抽象の度合いの高い社会システムの概念である。これに対して、機能システム組織システムは共に社会を具象化した概念となる。故に機能システム組織システムは、重なり合う場合がある。恰もそれは、組織システムの内部に複数の機能システムが導入それているかのようにだ。実際、企業のような組織の内部には、経済的な取引や社内政治憲法による規定事項や統計の専門職など、様々な機能的問題領域に関連した部署や地位が存在している。組織は、組織内部に予め存在していた識者たちに科学的な助言や技術力を要求することもできるが、一方で組織外部のコンサルタントやパートナーに専門的な助力を期待することもできる。つまり組織の内外、すなわち組織システム外部環境差異は、同一の機能的問題領域に対応する機能システムの代替可能性を高めるのである。それは、組織が、機能システム間の共鳴可能性を低めることを意味する。組織は、その内外の区別を再導入することで、この共鳴可能性差異をもたらす。高い共鳴可能性は密結合を、低い共鳴可能性は疎結合意味するという訳だ。

組織形式を利用した機能システム間の構造的な結合は、この疎結合と密結合区別可能にしている。逆に、組織システムの存続が危ぶまれた場合は、機能システム間の疎結合は困難になる。それは、共鳴可能性が高まり、恰も全体社会が「共運動」しているかのように映るであろう。思えば「リーマンショック」も、2008年9月15日の発現したアメリカ証券会社「リーマン・ブラザーズ」の経営破綻に端を発していると考えられている。2019年の「アップルショック」も、アップル社の失速に端を発する世界的な株価急落として捉えられている。金融危機が当該金融市場と関連する組織システムの存続の危機と関連しているという発想は、経験的にも馴染み深い。それ故、組織システムの存続が如何にして可能になっているのかを確認しておくことが、金融危機観察においても有益となることがわかる。

組織システムの作動の実態

組織は、目的を追求し続けるシステムである。目的を達成するシステム組織なのではない。もしあらゆる目的が達成されてしまったならば、もはや組織組織として存続する必要が無くなる。組織オートポイエーシスを維持できるのは、未達の目的があってこそなのである。組織システムオートポイエーシス如何にして可能になるのかという問題設定を導入するなら、目的を達成しないことが問題解決策となる。

この仕組みは、機能システムと相が良い。例えば、政治システムにおいては「国家」や「政党」が、経済システムにおいては「銀行」や「企業」が、法システムにおいては「裁判所」や「事務所」が、科学・学問システムにおいては「研究所」や「大学」が、芸術システムにおいては「術館」が、宗教システムにおいては「教会」や「寺院」が、教育システムにおいては「学校」が、マスメディア・システムにおいては「テレビ局」や「新聞社」が、それぞれ機能システムと連携する組織システムとして作動している。これらの組織システムは、各機能的問題領域において、機能システムの目的とも言える問題解決を達成しないことによって、その機能システム存在意義を担保し続けると共に、自らのオートポイエーシスを継続している。組織システムが存続することで可能になる社会的な機能の一つは、近代の機能的分化という社会構造を維持することなのである。

ハーバート・アレグザンダー・サイモンが述べたように、組織の存続が要求されるのは、我々が「限定合理性(bounded rationality)」の状況下に置かれているためである。つまり、我々が意思決定に費やすことのできるリソースには限りがあるために、発揮し得る合理性にも限界があるということだ。限定合理性の下では、分業や専門分化、あるいは集権化や分権化のような組織的な制度を導入した方が、目的を追求する上では効率的となる。そのため組織内では、複数の意思決定者が併存することになる。意思決定者は、他の意思決定者の意思決定を前提とした上で、自らの意思決定を実践に移す。

しかし複数の意思決定内容が相互に矛盾する場合、その矛盾解消するための意思決定が必要になる。組織において、そうした矛盾解消策として導入されるのは、通常は階層化された構造である。つまり地位や職位の形式を導入することで、組織意思決定の確実を高める訳だ。こうした背景から、サイモンに倣えば、組織機能は「不確実性の吸収(absorption of uncertainty)」にあることがわかる。意思決定は、別のあり方でもあり得る選択肢を否定すると共に、特定の選択肢だけを指し示す。それ故、ある意思決定に従事する構成員は、相互に矛盾する選択肢や、膨大な選択肢が伴うが故の不確実性を分析することの負担から免除される。ただし組織システムは、不確実性を「吸収」する代償として、予算配分、人員配置、新事業部の設立などのように、その構造における複合性を増大させることになる。組織は、その内部における不確実性を吸収するためにも、意思決定を実行しなければならない。

ルーマンは、このサイモンの組織論によって記述されている「決定連鎖(Entscheidungszusammenhang)」の概念を展開することで、組織システム自己言及的な作動を観察している。組織オートポイエーシスにおいて、その構成要素となるのは、意思決定コミュニケーションである。ある組織コミュニケーションは、その組織の<決定コミュニケーション>についての決定コミュニケーションとなる。この相互に言及し合う意思決定の回帰的なネットワークを構造化することによって、組織システム自己自身と外部環境区別を導入し続ける。

決定不可能性の決定可能性

サイモンの経営学が普及して以来、決定は例外無く、複数の選択可能選択肢の中からの選択として記述されている。サイモンによれば、決定とは、行為に先立って存在している選択なのであって、行為に導く選択の過程である。選択(choice)とは、合理的かつ客観的な条件を認識している限りにおいて、複数の選択肢(alternatives)の中からの一つの選択肢(alternative)を選択すること(selection)を意味する。だが、決定選択の一種であるというのは、半ばトートロジー的な定義である。この定義は、そもそもそうした決定としての選択が、誰により、如何にして可能になるのかについては、何も教えてくれない。

決定が誰による決定なのかは、しばしば決定観察者の盲点となる。決定は、複数の選択肢の中からの選択である。だが決定それ自体は、この選択肢の中には含まれていない。たとえ「決定する」という選択肢を設けたとしても、決定するか否かという<決定についての決定>は、選択肢の中には含まれない。決定それ自体は、<選択される選択肢>と<選択されない選択肢>の区別を導入することで成り立つ。区別するということは、双方を同時的に指し示すということである。故に決定とは、<選択される選択肢>と<選択されない選択肢>の<差異統一>であるということになる。

決定それ自体が選択肢の中には含まれないということは、決定者自身もまた、選択肢の中には現れない。これは、如何なる観察からも派生する問題である。観察者は区別を導入する。だが観察者自身は、その区別の中には含まれない。観察者自身は、観察盲点となる。同様のことが決定でも派生する。決定者は、決定盲点となっているのだ。しかし無論、観察者のいない観察などあり得ない。同様に、決定者のいない決定もまたあり得ないはずだ。

ルーマンによれば、こうした決定に伴う<差異統一>というパラドックス脱パラドックス化しているのは、時間意味形式である。決定という概念は、その決定が下される前と後で、異なる意味を帯びている。決定する前の決定者は、複数の選択可能な開かれた選択肢を観察する。だが決定した後の決定者は、もはやそうした代替的な選択肢は選択可能ではない。それは閉じられた選択肢となる。決定が持つ意味時間と共に変化する。つまり、意思決定過程の時間の流れの中で、差異化されている選択肢は統一へと向かう訳だ。しかしルーマンが指摘するように、こうした脱パラドックス化は、容易に見破られてしまう。こうした時間意味形式では、決定の事前と事後で、その決定が、如何にして別のあり方でもあり得る決定へと変化し得るのかを十分に記述できないのである。

そこでルーマンは、イギリスの経済学者ジョージ・シャックルに倣い、決定に関する時間意味形式を過去と現在と未来の区別によって再記述している。選択可能選択肢とは、現に存在している選択肢を指すのではない。シャックルも述べたように、意思決定者にとっての選択肢とは、意思決定者による想像の産物である。言わば選択可能選択肢とは、意思決定者によって独創(originated)されるのだ。

決定は常に、現在において実行される。決定が下された瞬間が現在となる。そしてその瞬間、その事前と事後が過去と未来として構成されるのである。過去から現在、現在から未来へと至る時間の流れの中に決定が導入されることで、その時間の流れの中に、決定前として過去と決定後としての未来が導入される。この意味決定とは、時間の時間の中への「再導入(re-entry)」となる。この現在は、過去によって確定している訳でもなければ、未来を確定する訳でもない。何故なら、過去や未来があって現在が確定するのではなく、現在の決定が下されることで、その過去や未来が構成されるためだ。それ以前の問題として言えば、もし過去が現在を確定し、現在が未来を確定するなら、決定はおよそ不要となるどころか、不可能になる。決定は、過去から現在、現在から未来に対する、未確定を前提としている。言い換えれば、過去との不連続な現在と、未知なる未来が無ければ、決定は不可能なのである。

この不連続性の未確定は、セカンドオーダー・サイバネティクスの提唱者であるハインツ・フォン・フェルスターがクルト・ゲーデルの決定不可能命題との関連から記述した「決定不可能(unentscheidbar)」な問題となる。決定者は、原理的に決定不可能な問題についてのみ、決定することができるのである。何故なら、決定可能な問題については、問題設定とその問題解決策の組み合わせの規則が、その主題を司る「ゲームの規則」や「構造」、あるいは「方法」や「理論」によって、既に決定されてしまっているためである。こうした決定可能な問題においては、決定者の努力の有無や能力の高低に関わりなく、何らかの論理によって、自ずと解決策に到達することができてしまう。つまり、あえて意思決定者の役割を定めて、意思決定の過程を試みる必要が無いのである。原理的に決定可能な問題においては、決定者は用済みになる。原理的に決定不可能な問題においてこそ、決定者が求められる。決定可能性を条件付けているのは、決定不可能なのである。

決定不可能な問題に直面している意思決定者は、「ゲームの規則」や「構造」などのような外部要因による影響を受けている訳ではない。この限りで意思決定者たちは、ある種の「自由」を手にしている。だがこの「自由」には「代償」が伴う。それは「責任(Verantwortung)」という「代償」である。意思決定者たちは、自らの決定に起因する失敗や損失観察されたならば、自ら責任を負う覚悟を強いられる。最の場合、辞職せざるを得なくなる。だからこそ責任者たちには、しばしば比較的高い給与が与えられる。こうした報酬は、もし職を失っても済むようにという意味で、リスクヘッジとして機能しているのである。

予測の前提条件としての決定

決定に関する時間意味論が指し示しているのは、決定が予測にとっての前提条件になるということである。逆に、予測が決定にとっての前提条件であるとは言えない。何故ならこの場合に予測される未来は、現在の決定が下されることで、初めて構成されるためである。情報の産出過程も、問題の主題化の過程も、複数の選択肢についての検討の過程も、それ故に決定の準備のための認知機構全体も、実は決定に依存しているのである。

経営学にありがちな合理的意思決定理論は、確かに価値の客観的な階層秩序という前提を放棄して、主観的な選好という前提を導入した。だがその際、この主観的な選好時間的に安定していると想定されていた。しかし、様々な選好社会の相互依存の関連を形成していることを踏まえるなら、この前提も成り立たなくなる。競争という条件の下では選好は大いに変わり得る。また、他者も同じものを欲している時には、選好はその優先順位の観点から強化される場合もあり得る。あるいは、期待通りに事が進む見込みが無い場合には、選好を放棄することもあれば、別の領域へ移動することもある。協力の必要選好の順序を変化させることもあり得る。あるいは、最終的には流行やある特定の価値評価が公的に成功を収めることが、選好の順序を変化させてしまうかもしれない。

社会の相互依存は、時間次元における意味処理規則の未規定を派生させる。社会の相互依存が形成されているが故に、決定者たちは、自己自身の選好を変化させよという圧力を受ける。このような状況は、予言を不可能にする。未来は、こうした理由からも、未知のものとして受け入れなければならない。未来は、自分の選好にあくまで固執するという可能性と、そうした選好を変化させるという可能性の双方を包含して隠し持っているのである。

記憶関数と振動関数の差異

システムは、決定による時間区別区別への再導入を介して、過去と未来を再構成している。実際、この決定が下される現在を基点として、過去は「記憶関数(memory function)」として、未来は「振動関数(oscillator function)」として、それぞれ再構成される。繰り返すが、決定が下された現在が基点となることで、過去と未来が再構成されるのである。

決定を下すシステムは、区別を導入している。記憶機能するのは、記憶忘却される場合や想起される場合である。過去から現在にかけて体験されてきた事柄やコミュニケートされてきた事柄は、その後の新しい作動を展開するシステムの許容量を解放するために、忘却されなければならない。例外的な場合にのみ、いずれにせよ変更させることのできない過ぎ去った事柄が、想起の対象として浮上する。これもまた現在からた過去の構成として実行される。つまり、記憶機能は、忘却した事柄を探索して再発見して再利用できるようにするのではない。むしろ出来事や作動に伴って絶えず消失してしまうものを不可視化させることこそが、記憶機能となる。その理由も明快であろう。消失した事柄は、もはや変えられないためである。

振動機能は、システムがその間を振動できる区別が導入されていることを前提としている。観察者はマークされている領域マークされていない領域の間を振動する。システムならば、システム外部環境の間を振動するであろう。目的志向の場合ならば、目的と手段の間を振動するかもしれない。

決定は、システムがその過去を未来の制限のために利用する。そうすることで決定は、その未来をその過去の制限のために利用することを可能にしている。諸可能性が既知のものとして想定される場合にのみ構想されるのに対して、同一なものとして、周知なものとして、反復可能なものとして呈示されるのは、決定がその未来の中に構成するものから生じてくる。システムの振動機能は、システム記憶機能から生じる。また振動機能として利用される区別によって、実現の見込みがあると見做されたものが、記憶の弁別機能忘却されていたものの抑圧解除に対して影響を与えることになる。システムは、この記憶機能と振動機能区別によって、過去と未来の間を振動する。しかし無論、この過去と未来の区別が導入されているのは現在なのだから、この振動は現在において構成されている。

派生問題:組織の意思決定に関する「予測」は如何にして可能になるのか

時間次元における決定意味論は、組織システムの作動を予測することの不可能性を指し示している。しかし、現に投資家たちは、株式会社の将来価値を予測しようとしている。ファンダメンタルズ派ならば、財務状況や業績を下にして、企業の本質的な価値を分析する。テクニカル派ならば、ダウ理論を再記述した独自の理論によって、株価を予測しようとするであろう。それは上述したように、組織システム決定が、予測の前提条件になり得るためである。

ここに、組織システムとしての株式会社の――「矛盾を孕んだ」とは言えないものの――修辞技的な特徴が浮き彫りとなる。組織システムとしての株式会社の作動は、決して予測することができない。だがその作動を構成する意思決定は、当の株式会社それ自体の将来価値に関する予測の前提条件を指し示している。例えば決算公告のデータは、それを公表する株式会社自体の決定によって構成されている。それを観察する投資家たちは、そこからその株式会社の未来を予測しようとする。株式会社は、自身の組織システムとしての作動が予測不可能であるにも拘らず、自身の組織システムとしての作動の予測の前提条件を指し示しているのである

予測の前提条件が指し示されているからといって、予測が可能であるとは限らない。これが株式会社意思決定とそれを取り巻く金融市場における共通の修辞技となっている。だが、「予測をしない」という選択肢もあるにも拘らず、現に多くの投資家たちが予測を試みてしまうのは、理由の無いことではない。「選択しない」という選択肢が現にあるにも拘らず、他者がその選択肢を選択せざるを得ないように制限することは、権力の行使を意味する。この形式権力を、ルーマンは「影響力(Einfluß)」と名付けている。実際、証券株式投資においては、株式会社以外にも、銀行、証券取引所、暗号通貨取引所、格付会社、あるいは政治システムにおける国家法システムにおける事務所などのような組織システムが、様々な影響力を発揮している。

問題解決策:権力の影響力

影響力を媒介するのは「制裁(sanktion)」である。その際重要となるのは、影響力がコミュニケーションを介して進行しなければならないことであり、また理解されなければならないということである。影響力は、この制裁媒介において、時間への依存を低めている。「あの」選択肢ではなく「この」選択肢を選択して欲しいという影響力が伝達された瞬間に、その要求されている行為が実際に実行される必要は無い。つまり、影響力の行使と要求される行為の実行との間には時差があっても構わないのである。

制裁は予測可能である。予測されてさえいれば、制裁はそれだけで影響力を伝達する場合がある。しかし、影響力の行使と要求される行為の実行との間に時差を認めるなら、影響力を観察した被影響者が、一体いつになれば要求される行為を実行するのかがわからないままである。それは被影響者の行為実践が予測不可能であるという意味でもある。影響は、それが要求される行為の実行を引き起こす以前に、攪乱され得る。この意味影響力もまた不確実性の中にある。

影響力は三つに区別される。第一に、組織システムの十八番である「不確実性の吸収」に準拠した影響力である。これは特に権威意思決定に関わる。第二と第三の影響力は、肯定的な制裁(positive sanktion)と否定的な制裁(negative sanktion)である。これらの影響力は、それぞれ経済的な貨幣の交換と政治的な権力の行使に関わる。

影響力としての「不確実性の吸収」

不確実性の吸収」を組織システムに限らずに一般化するなら、それは事前のコミュニケーションにおける情報処理の成果として観察される。ある時点の意思決定不確実性の吸収が成立すれば、それ以降のコミュニケーションでは、その意思決定内容が<既に獲得されている成果>として期待されるのである。不確実性の吸収として機能する意思決定は、ある理由や根拠を前提に導き出された推論として記述される。不確実性の吸収機能するのは、こうした推論だけが伝達される場合である。とりわけ権威として観察される者たちは、大方推論結果だけを伝達している。理由や根拠を初めから詳細に解説しようとはしない。だがそうした権威の説明の要点のみを観察する周囲の者たちは、理由や根拠を尋ねればそれを説明するであろうと推論している。たとえ肝心の意思決定内容が論理的に飛躍していたとしても、情報収集が不十分なままに決定が下されていたとしても、それが問題とはならない場合に、不確実性の吸収機能が成立しているという兆候を読み取ることができる。

不確実性の吸収は、「責任(Verantwortung)」と関連している。しかしその際、責任と答責(Verantwortlichkeit)の区別が導入されなければならない。そして、誰かに責任を負わせる可能性はそれほど頻繁には利用されないということが考慮されなければならない。何故なら、答責を呈示した場合やそれを強く期待する場合、不確実性の吸収機能不全に陥るためである。権威をはじめとする決定者に論理的な説明を要求し続けていけば、最終的には論破してしまうかもしれない。だが決定者を論破すれば、説明を省くことで成り立つ不確実性の吸収が成り立たなくなる。

不確実性の吸収によって成り立っている決定事項は、事実として観察されている。と言うのも、実に多くのコミュニケーションが様々な組織システムにおける決定コミュニケーション影響下に置かれているためである。組織なしに、近代社会を生き抜くことはできない。したがって我々の生活実践には既に、不確実性の吸収機能による影響が蔓延っていることになる。我々が不確実性の吸収機能を享受すること、それを以って生活していることが、既に事実上の標準と化しているのである。

影響力としての肯定的な制裁

肯定的な制裁は、影響を行使する側の欲する行為選択を実行した者が、肯定的に報われることを表している。一般的には金銭的な報酬肯定的な制裁として機能する。余程のお人好しならば、他人から感謝されることが肯定的な制裁として機能することで、無償で人助けを続ける者たちもいるであろう。自己満足もまた、肯定的な制裁として機能し得る。

肯定的な制裁メディアが取る形式は、交換である。他の影響力の形式とは違い、このメディアの問題は、肯定的な制裁が実際に実行されなければならないということである。例えば金銭的な報酬肯定的な制裁として機能させるには、実際にその報酬を与えなければならない。さもなければ、肯定的な制裁影響力が喪失する。たとえ嘘によって肯定的な制裁の幻想を抱かせたとしても、その幻想は長続きしない。実際に報酬が得られないと悟った者ならば、もうそれ以上その影響力に従うことはあり得ないであろう。

近代社会における肯定的な制裁に関する典型的な事例となるのは、経済システムにおける貨幣の交換に他ならない。貨幣は、肯定的な制裁のための特別なメディアである。特定の対象に関する取引という文脈での貨幣支払いや、賃金の支払いや納税のような総計で計算された量の規定された義務という文脈での貨幣支払いが、このメディアのために選択される形式となる。近代社会貨幣無しに生き抜くことはできないのだから、誰もがこの貨幣に基づいた肯定的な制裁を強化している。

影響力としての否定的な制裁

一方、否定的な制裁は、とりわけ政治システムで見受けられる権力メディアとして形式化されている。肯定的な制裁否定的な制裁日常生活でも区別される。この差異は、政治システム経済システム機能的な分化における不可欠な前提条件の一つとなっている。

威嚇のようなコミュニケーション観察すればわかるように、否定的な制裁は実際に実行される必要が無い。これは肯定的な制裁との決定的な差異となる。加えて言えば、否定的な制裁が実際に実行されるということは、そのメディア意味処理規則矛盾してしまうことになる。ある従業員を解雇する権力を持つ者は、実際にその従業員を解雇しないからこそ、その従業員に影響力を及ぼすことができている。実際に解雇されてしまえば、もはや影響力は成り立たない。

権力は、それを行使するための手段を呈示しなければならない。その一方で権力は、そうした手段を実際に使用せざるを得ない事態を回避することも必要としている。物理的暴力の行使、不都合な情報の公開、株式会社からの解雇などのような影響力の形式からわかるのは、権力というメディア機能するのが、権力保持者と権力服従者が共にそうした選択肢の選択を回避したいと考えている場合に限られるということである。

したがって権力は、虚構に準拠している。より厳密に言えば、権力現実化されることの無い第二の現実に準拠してのみ機能する。もし権力排除という用語で記述するなら、権力とは、権力保持者とそれによって排除されている権力服従者が、否定的な制裁についての認識を共有している場合である。言わば権力可能にしているのは、排除されているものがその場に居合わせていることなのである。そのため権力というメディアは、そこに居合わせているものを排除し続けるための、継続的で象徴的な努力を必要としている。警察は、必ずしも人を逮捕しなくても構わないが、現場に姿を現さなければならない。

権力はまた、多くの権力服従者たちに対して、一般的に適用可能でなければならない。例えば解雇のような否定的な制裁が各従業員に与える影響は、実際には計り知れない。ある従業員には族がいるかもしれない。だが別の従業員は高い技術力を誇るが故に、解雇になる前に辞めようと思えばいつでも辞められるかもしれない。精々そうした従業員にとって脅威となるのは、解雇の手続きが、自ら辞めるよりも素早く進行する場合である。こうした細部を天から全て見渡すことはできない。故に権力影響力は一般化されなければならない。

肯定的な制裁と否定的な制裁の差異

肯定的な制裁否定的な制裁区別は、セカンドオーダーの観察によって精密に再記述できる。肯定的な制裁否定的な制裁差異は、その状況に関与する観察者が抱く期待に依存する。例えば毎月口座に振り込まれる給与のように、規則的に期待される肯定的な制裁を打ち切るのは、十分な脅しとなり得る。組織化された経済的な権力は、肯定的な制裁から否定的な制裁への切り替えに基づいている。だが経済的な権力肯定的な制裁を起点にしている。それは支払い意志支払い能力を前提としている。そのため、これに固有の権力政治化することはできない。とはいえ、政治システムは、<受容可能な私的権力の行使>と<受容不可能な私的権力の行使>の区別に基づく固有の基準を設定することで、法システムを利用し、経済的な権力規制として介入することはできるであろう。しかしそれは、経済システム観察に対する政治システム観察セカンドオーダーの観察に過ぎない。それは政治システム自己言及なのである。

肯定的な制裁否定的な制裁の切り替えは、双方向的である。否定的な制裁肯定的な制裁に移り変わることもあり得る。ミサイルを適当に撃ち続けることで隣国を脅すのは、威嚇のコミュニケーションという意味では、否定的な制裁として機能する。それをあえて突然止めて、もうそれ以上ミサイルを発射しない可能性を提示すれば、議論する価値があると観察されるならばの話だが、それが交渉の基盤となる場合もある。否定的な制裁否定が、肯定的な制裁として機能し得るのである。

肯定的な制裁否定的な制裁におけるこうした双方向的な横断可能性は、肯定的な制裁否定的な制裁区別棄却する訳ではない。そうではなく、ただこの区別の内部にこの区別自体が再導入(re-entry)されているに過ぎないのである。それは、肯定的に利用される否定的な制裁もあれば、否定的に利用される肯定的な制裁もあり得るということなのだ。

権力の象徴的な一般化

とりわけ否定的な制裁がそうであったように、権力形式象徴的な努力と一般化を必要とする。社会システム理論的に言えば、権力形式は自身のコミュニケーション・メディアとしての「象徴的な一般化(symbolisch generalisierte)」を必要としているのである。

あらゆるコミュニケーションは、それがコミュニケーションとして理解されることを成立条件としている。コミュニケーションが成立するか否かは、それが受容されるか拒否されるかの分岐に対応している。この分岐が設定されることで、それ以降のコミュニケーションは異なる道筋を辿ることになる。だがいずれの場合も、社会システムの状態は、コミュニケーションによって変化する。受容されたコミュニケーションは、更なるコミュニケーションの前提として機能する。この場合、首尾良く「不確実性の吸収」が成立すると想定できるであろう。一方、拒否されたコミュニケーションにおいても、受容されたコミュニケーションと同様に、システムに何らかの痕跡を残す。システムは、二度とその拒否されたコミュニケーションが実行される前の状態に回帰することはできない。システムは、純粋無垢な状態には回帰できないということである。システムは、そうした拒否されたコミュニケーション記憶を想起することで、「その拒否されたコミュニケーションは差し控えるべき」などといった具合に、以降のコミュニケーションの前提を構築する。他方、受容するか拒否するかという問題を未定にした状態で、まさにこの受容と拒否の問題を主題としたコミュニケーションが生起する可能性もある。この場合のコミュニケーションは、<コミュニケーションについてのコミュニケーション>という反省的な自己言及となる。だがこれは受容と拒否の決定を先延ばしにしているに過ぎない。コミュニケーション時間有限であるために、やがて受容と拒否の決定が下されることになる。

象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは、こうした受容と拒否の分岐に対応するために構成されている。それは、あるコミュニケーションの受容が社会的に機能すると認識される場合に、にも拘らずそのコミュニケーションが拒否される可能性否定できない場合に構成される。社会的に機能するというのは、社会における問題を解決するということである。近代社会はそれぞれの機能的問題領域で機能的分化しているのだから、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアもまた、この各機能的問題領域に対応する形で構成されている。例えば科学・学問の機能システムには「真理(Wahrheit)」が、政治システムには「権力(Macht)」が、経済システムには「貨幣(Geld)」が、システムには「愛(Liebe)」が、宗教システムには「信仰(Glaube)」が、それぞれ対応している。こうしたコミュニケーション・メディアは、コミュニケーションの接続における「選択(Selektion)」と「動機(Motivation)」を予め方向付けることで、コミュニケーションの成果の不確実性を埋め合わせるべく機能する

政治システムの社会的な機能

したがって、影響力としての権力意味論は、政治システム社会構造影響下にある。政治機能的問題領域との関連から象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての権力は、ある種の政治的な権力として特化した権力である。しかしここでいう政治的な権力とは、国家権力ではない。何故なら社会システム理論は、社会構造歴史意味論観点から、「政治的なるもの(des Polotischen)」と「国家(state)」を区別するためである。

15世紀から18世紀のヨーロッパでは、「国家(state)」はラテン語の「スタトゥス(status)」のように、財政、軍事的資産、対外的かつ対内的な諸関係などを含めて、単に現状の政治権力の状態を意味していた。しかし、19世紀に至るまでの概念史では、この国家という概念は、「政治的なるもの(des Polotischen)」の概念から分断されてしまっている。これらの概念は互いに接点を見失っているのである。これに対して社会システム理論は、この国家政治的なるもの差異社会構造意味論の関連から整理した上で、再記述することを可能にする。社会システム理論では、まずは政治的なるものが、「システム」として記述されることになる。

政治システムという概念は、主に政治学や社会学で主題になっている。一方、少なからずヨーロッパの的言説では、国家の概念の方が政治の概念よりも好まれる傾向にある。社会システム理論的に政治システムを記述する場合、それは経済システム、科学・学問システム教育システム法システムなどのような様々な社会機能システムの一種として位置付けられることになる。一方、的言説における国家意味論では、全体社会機能的な分化という区別ではなく、国家社会区別が導入される。この区別が導入される場合、国家社会を構築する素材構成する私的欲求や私的利害関心とは区別される。国家人や集合行為者であると認識される。この区別が、にとっての、的帰責に関連する条件となるのである。無論この想定は、社会科学の観点かられば、構成した一種の虚構であることになる。社会的な現実における国家とは、公的官僚制以外の何物でもない。それは議会、裁判所、学校、そして公共サービスが担当区域となる一方で、政党、インタレストグループ、政治的目標を追求する社会運動、あるいは有権者さえも、国家の領域からは排除される。これらの存在は、国家の外部から国家に入力(input)を与えるという訳だ。こうした存在政治システム存在を認識するのは、政治的な権力の中心として国家が言及される場合に限られる。

社会システム理論は、こうした国家の内外の区別をまず棄却している。そして、単純な入出力関係は容認しない。政治システム社会システム理論的に観察する場合、国家とは、政治システム自己記述として構成された概念となる。複合的な諸システム、System of Systemsは、社会システムにおける進化の所産である。社会システム理論的に言えば、社会進化とは、システム分化の増大を意味する。それは、社会分化することで、その複合性の縮減を実現していることを意味するのではない。むしろ社会は、分化することで更にその複合性を増大させている。自己言及的システムは、自らの複合性を利用する能力を次第に喪失していく。そして外部環境に対する如何なる適応的な機構も構築できないとなれば、システムは瓦解することになるであろう。

それぞれのシステムは、自らの複合性システムの目的を達成するための手段として利用することができない。何故ならそれぞれのシステムは、自らの複合性システムの内部に導入することが不可能であるためである。それは、本来の複合性反射させて、倍加させ、超複合的(Hyperkomplex)なものにしてしまう。それ故、システムの内部におけるシステムに関連するあらゆる自己言及とそのコミュニケーションは、自己自身を単純化させる装置を必要とする。それは自己自身の複合性の縮減可能にする機構である。つまり、政治システムにおけるある種の自己同一性(Identität, identity)を可能にする機構が求められるのである。そして、政治システムにおけるこの自己同一性(Sichselbstgleichheit)の機構を担うのが、国家なのである。

このシステム自己同一性は、システム自己記述によって可能になる。複合的なシステム自己記述によって実現するのは、自己自身の分化の増大と分化した各サブシステムにおける複合性の増大を背景に、自己単純化装置としての概念の意味論展開することである。

これを前提とすれば、国家は、政治システムのサブシステムではない。それは政治の部分ではないのである。国家は、公的官僚制でもなければ、それぞれの決定が帰責される集合人格という的な虚構に尽きる訳でもない。それは政治的な行為参照点として、政治システムに再導入(re-entry)された政治システムである。

このような政治社会システム理論的な記述は、国家歴史意味論政治システム社会構造との関連を明確化する。この理論的な視点かられば、立憲国家(Verfassungsstaat)が政治システムの一つの特殊ケースであることの意味が明確化する。この観点は、福祉国家(Wohlfahrtsstaat)に関連した諸問題を設定して、政治の中核的な機能を解明する。

以上のように、機能システムとしての政治観察するなら、国家政治システム自己記述の産物となる。一方、相互行為組織社会、そして運動の区別で分類するなら、国家組織システムの一種に過ぎなくなる。こうした区別の導入による政治観察は、政治が全体社会を統合する存在であるといった錯覚を一掃してくれる。しかしながらこの等価機能主義的な社会システム理論は、同時に政治機能の定式化に縛りを与えている。ルーマンは、半ば消去のような記述によって、政治社会的な機能集合的な拘束力を有した意思決定として定式化している。政治機能意思決定の一種であるというのは、政治システムが複数の選択可能選択肢を観察していることを意味する。それは政治システム偶発性に曝されていることを暗示する。と言うのも、政治的な決定であろうとも、それは可能選択なのであって、必然ではないためである。一方、拘束(Bindung)とは、当の意思決定が、それ以降の意思決定のためのもはや問題視されない前提として機能するということである。とはいえ偶発性に曝されている以上、こうした拘束もまた必然的な帰結を生み出す訳ではない。政治の拘束力によって、未来が確定する訳ではないということである。そうした拘束は、効果的に実行されなければならない。それは、決定合理性、有用規範妥当性とは別問題である。これらの決定質は、その後の論争や闘争(Konflikt)の火種にもなり得る。それ故に、政治的なコミュニケーションとして最終的に重要となるのは、決定前提についての決定の貫徹なのである。

意思決定の拘束力が集合的であるというのは、決して政治システムが全体社会の頂点に君臨することを意味するのではない。ここで問題となるのは、そうした拘束力を有した意思決定それ自体もまた政治システムの作動の一種として参照されるということである。あらゆる政治システムの作動は、政治システムの中における作動である。たとえそれが如何なる政治的な権力を前提とした場合でも、如何なる組織的な地位を前提とした場合でも、それは政治的なコミュニケーションに対する政治的なコミュニケーション自己言及に他ならない。したがって、ある意思決定の拘束力は、その意思決定者自身も拘束する。例えば公約を公表すれば、その公約についての意思決定が、意思決定者自身を拘束することになる。無論このことは、事前の決定内容を変更する可能性を全て排除する訳ではない。しかし、決定を変更するという営みは、また別の決定として記述されなければならない。それは、手続き化された制度を通じて正統化される必要がある。

政治システム社会的な機能は、集合的な拘束力を有した意思決定構成することである。そのため政治的なリソースの多くは、この集合的な拘束力を有した意思決定可能にするための許容力を蓄えることに注がれる。政党(Parteien)のような組織システムが何故政治システムと関連しているのかも、ここで明らかとなる。政党機能は、集合的な拘束力を有した意思決定に至るまでの、拘束力を有さない準備にある。こうした政党が各所に配置されることにより、政治的なコミュニケーションは、決定過程の回帰的なネットワークを成立させている。政党は、集合的な拘束力を有した意思決定可能にする主題選択することで、将来の決定を先取りする。

政治システム社会的な機能集合的な拘束力を有した意思決定として記述する社会システム理論は、広範囲に及ぶ帰結をもたらす。この機能的観点かられば、政治的なコミュニケーション主題に対する貢献は、全て決定という形式を取る。問題となるのは、如何なる政治的なコミュニケーションが、他のコミュニケーション決定として主題にしているのかだけである。こうした政治的なコミュニケーションにおいては、「決定しない」という選択や「決定を遅延させる」という選択も、決定として観察される。

機能的等価物の探索:道徳化

政治システムやその自己記述としての国家機能しているか否かを評価しようとする観察者の観点は、集合的な拘束力を有した意思決定という社会的な機能背景にしているために、専ら政治的なコミュニケーション主題化される闘争(Konflikt)に向けられる。つまり、論争や紛争、そして闘争のような問題が如何にして処理されるのかが、評価の基準になるのである。闘争を放置していれば、集合的な拘束力という政治的な機能の必要条件が満たされなくなるためだ。無論、世界存在するあらゆる闘争が問題となる訳ではない。あくまで政治的に主題となっている闘争が問題なのである。こうも言えるであろう。政治システムが問題として設定するのは、あくまでも政治問題としての闘争なのであって、社会問題ではない。確かに、マスメディア世論はしばしば、「あの」主題よりも「この」主題政治的な問題にするべきであると主張する。福祉国家に居座る政治的な活動たちもまた、「あの」弱者の救済よりも「この」弱者の救済主題にせよと主張する。だがそうした主張に伴う<意見の不一致>こそが、主題設定の競合や矛盾を際立たせることで、論争や紛争のような政治的な問題を生み出すのである。

それ故、テレビ新聞に登場する<予言者>は、世論の人気者となる。福祉国家背景とする民主主義的な政治文化において特徴的なのは、「危機」の警告者や少数派の代弁者、常に憤慨しているだけの人々や周期的に「ショック」を受けたと騒ぎ立てる「被害者ビジネス」の回し者が後を絶たないということである。いわゆる「ポリティカル・コレクトネス(political correctness)」という用語は、<弱者>や<被害者>として都合の良い人々を英雄に仕立て上げる魔言葉なのだ。人権主義の倫理学は、この魔言葉を応用した弁護士たちの商売道具に他ならない。彼ら彼女らは悲劇の物語展開することで、全世界のあらゆる人々に対して責任を持つように主張する。しかしこうした他力本願の要求を満たし得る具体的な行動の実践が何であるのか、そしてそれが如何にして可能になるのかについては、全く不十分な説明に留まるのは言うまでもない。

こうした世論における政治的なコミュニケーションでは、しばしば道徳スキーマを多用することで、政治問題複合性が縮減される。「心配せざるを得ない」と主張されれば、少なからず科学・学問的な反論の余地は無くなる。不安を反証することなどできるはずもないのだ。道徳形式は、様々な問題を人格の問題として単純化することで、かかる問題の複合性を極度に単純化してしまう。道徳的な主題選好され易いのは、無知に留まりながら学習を放棄できるためである。道徳たちは、別の意見の持ち主たちを<肯定的>であると見做すことで、自らは良心的になったつもりになる。だがこの認識は、一つのパラドックス隠蔽した状態で成り立っている。他人を<肯定的>であると見做すなら、自身は<批判的>であるということになる。しかしこの道徳的な意見背景には、<批判的>と<肯定的>の区別が、全く<無批判的>に導入されているのである。

機能的等価物の探索:科学的な助言としての統計

こうした世論道徳化では、政治的なコミュニケーション主題経済システム市場となる場合には、通用しなくなる。無知に留まろうとする道徳的な世論も、経済を語る上では、幾分かの理論武装が求められる。政治システムによる経済システムセカンドオーダーの観察は、その構造的な結合点である経済指標や調達資金などのような数値に向けられる。しかし、統計を読み取れば学習できるというのは、これまた世論錯覚に過ぎない。世論が統計を観察するのは、統計学的な分析者としてではなく、分析結果の閲覧者としてである。世論の統計に対する観察は、既に統計の専門たちによる「不確実性の吸収」の結果に対する観察なのであって、あくまでもその統計の分析結果に対する観察に留まる。

国際収支統計、主要通貨レート、消費者物価指数、生産者輸入価格、雇用統計、国内総生産(Gross Domestic Product: GDP)などのような統計が主題として選好されるのは、そうした数値を比較するだけで、機能的分化した社会の社会構造に伴う複合性を気にせずに済むためである。社会構造意味論を分析せずとも、統計の数値に没入するだけで、諸々の社会システムの複合的な相互依存関係を解明した気分に浸れる。「不確実性の吸収」装置としての統計分析結果は、社会構造複合性を縮減すると共に、その相互依存関連を隠蔽する。

統計分析結果は、複合性――とりわけ未来の複合性――を主題にしようとする世論負担免除であるという点で、道徳化の機能的等価物となる。道徳人格に帰属される不安の表明によって<批判的>な未来の予測を可能にする一方で、統計分析結果はより幅広い社会の未来予測を主題としたコミュニケーション展開する。統計分析結果を提示するのは、科学・学問システムに他ならない。世論が統計分析結果観察する場合、それは政治システムが科学・学問システム観察観察していることになる。このセカンドオーダーの観察は、科学・学問システム政治システム構造的な結合を前提としている。その結合点に位置付けられるのは、「科学的な助言(wissenschaftliche Beratung)」である。

しかしながら、政治システムと科学・学問システムは、異なる二値コードプログラム構造化することで、機能的分化している。政治システム象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア権力である一方で、科学・学問システムは心理をメディアとして形式化される。それ故、科学・学問システム政治システムに干渉することは、原理的に不可能となる。データサイエンティスト企業のコンサルタント、精神分析医などのように、科学的な助言者となる専門知識人は様々な人格形式を取る。政治や議員、官僚のような政治システム人格科学的な助言の主と話し合えば、確かに相互行為的なコミュニケーション組織的なコミュニケーションが実践できるであろう。しかし双方の間には、「討議」も、意見交換も、まして「合意形成」も成り立たない。確かに、科学・学問システム政治システム構造的な結合を介して刺激を与えることができる。だがその刺激を如何に処理するのかは、政治システムそのものが自的に規定することだ。

科学・学問システム政治システム差異は、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア差異と関わる。真理を探究する科学・学問的なコミュニケーションでは、誤謬や反証は恐れることではない。だが政治的なコミュニケーションにおいては、これが許されないのだ。科学・学問システムが提示する統計のような理論は、様々な可能性を提示する。これに対して政治的な意思決定者たちは、決定を通じて、現実を構築していかなければならない。それ故、政治的に有用な科学的な助言展開するためには、政治と科学・学問の統合など諦めて、主題貢献差異を弁えておくしかないのである。科学・学問的なコミュニケーションでは、問題設定問題解決策区別によって主題展開していく。これに対して政治的なコミュニケーションでは、貢献すべき主題を限定することで、集合的な拘束力を有した意思決定展開する。

政治システム観察は、世論メディアとして形式化される。それは、政治システムが、世論媒介として世界観察するということだ。民主主義的な政治文化は、福祉国家的な政治問題のように、様々な主題と様々な貢献があるということを前提としている。この文化で価値ある貢献と見做されるのは、政治の下す意思決定に関心を持ちながら、選挙の投票用紙に名前を記入するということである。だがそれ以前に、そうした様々な主題に対する様々な意見があるという社会的な現実は、全てマスメディアによって構成されている。世論の大部分は大衆で占められている。それは、世論こそが政治システムマスメディア・システム構造的な結合点となっているためである。

派生問題:マスメディアの現実としての金融危機

経済システム政治システム、科学・学問システム、そしてマスメディア・システム構造的な結合観察すれば、金融危機が発生した場合の「過剰な相互依存」を機能的分化社会におけるシステム作動の実態として再記述することが可能になる。それどころか、何故かくも多くの出版物やマス・コミュニケーションが、金融危機の「原因」や「責任」ある人格を取り上げるのかが明快になる。それは経済的なコミュニケーションではなく、マスメディア大衆による主題設定と政治世論スキーマ構成によって成り立っているのである。

金融危機についてのコミュニケーションは、決して経済システムにおける市場でのみ発生している訳ではない。金融危機は、出版業界やテレビ局のようなマスメディア・システムによって、大衆コミュニケーション主題となる。この主題世論という構造的な結合点を介して、政治的なコミュニケーション主題にもなる。世論は、経済システムとの構造的な結合点である経済指標の統計分析結果観察することによって、金融危機背景にある機能的分化社会の複合的な相互依存関連から目を逸らした状態で、「金融危機」をスキーマ化する。エコロジーの危機国家危機、大学の危機政党危機などと同様に、<スキーマとしての金融危機>が指し示しているのは、特別な問題解決策が必要になるにも拘らず、それが導入できていない規模の問題であるということである。言い換えれば、<スキーマとしての金融危機>とは、到来することのあり得ない救世主のためのスクリプトなのである。<スキーマとしての金融危機>は、経済システム観察に対する大衆世論セカンドオーダーの観察によって構成される。したがって、マスメディア・システム政治システムが認識する<金融危機>は、経済システムの作動それ自体ではない。

しばしばバブルの定義や事前の予測が困難であると指摘されるのも、金融危機そのものが、大衆世論の事後的なセカンドオーダーの観察によって構成されているためである。新聞社テレビ局、その他の出版業界をはじめとしたマスメディア組織システムが<スキーマとしての金融危機>の定義を決定することによって、初めて当の観察対象となっている経済システム市場が<金融危機>の状態にあるという認識が構成されるのである。金融危機の過去と未来は、金融危機の定義に関する決定が下されることで、初めて構成されるのである。したがって、金融危機を予測するという試みも、徒労に終わる。何故なら、上述した時間次元意味論が指し示すように、予測が決定の前提条件となるのではなく、決定こそが予測の前提条件になるためである。経済指標の統計分析結果観察したところで、事前に金融危機の発生時期を予測できる訳ではない。だが、実際に<スキーマとしての金融危機>が構成された後であれば、言わば「後知恵」として、<スキーマとしての金融危機>が発生した時期について議論することが可能になる。

金融危機が「音楽が鳴り止む瞬間」に発生するというのは、「後知恵」の認識に他ならない。認識論として言えば、金融危機の直前まで鳴り響いていた「音楽」は、その金融危機の事後に「作曲」される。それこそ、金融危機の発生を観察する金融専門機関や出版業界、あるいは銀行や経済界の代弁者たちが、「これが金融危機だ」と決定することで、初めて金融危機構成されるのである。大衆コミュニケーションによる主題設定と政治的な世論スキーマ構成が、金融危機の「音楽」を作曲しているのだ。それ故、金融市場共運動や相互依存を分析するのならば、まず真っ先にマスメディア構成されている現実政治システムスキーマを分析するべきである。そして、各機能システム構造的な結合点を介して、そのコミュニケーション如何にして展開され得ているのかを観察するしかない。金融危機観察しようとする者は、自らが大衆コミュニケーション影響下にあるという可能性を忘れてはならない。如何に経済システムの作動の実態としての金融危機観察しているつもりでも、それが<スキーマとしての金融危機>という虫眼鏡を通じた認識ならば、それはマスメディア現実性に準拠した認識となる。

問題解決策:抜本的構成主義と作動的構成主義の区別

マスメディア現実構成しているという現実構成に納得のいかない者たちは、マスメディア現実を歪めていると批判することもできるであろう。世論現実を矮小化する新聞社テレビ局批判することは珍しいことではない。しかし、マスメディア現実を歪めているという認識は、それ自体としてマスメディア構成した現実である。マスメディア情報操作に対する批判は、マスメディア情報が無ければ成り立たないのだ。そうした批判は、マス・コミュニケーション自己言及に他ならない。世論は、世論の認識する現実マスメディアが認識する現実との間の差異比較することで、世論の認識する現実が正当であると主張しているに過ぎないのである。

こうしたマスメディア批判パラドックス脱パラドックス化する上では、あらゆる現実の認識がそもそも構成された認識であるという構成主義極端に推し進めることが有用な問題解決策となり得る。例えば哲学者エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドの「抜本的構成主義(Radical constructivism)」の認識論によれば、あらゆる知識は認識主体によって構成された知識である。我々が経験的に「世界」と呼んでいるものは、認識主体が環境に適合する過程で、認識主体によって組織化された環境世界である。したがって、世界を認識する主体存在しないのならば、世界はあり得ないということになる。ハインツ・フォン・フェルスターのセカンドオーダー・サイバネティクスやウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラのオートポイエーシスシステム理論は、この抜本的構成主義意味論を継承している。一方、ルーマンの等価機能主義的な社会システム理論は、認識主体を想定するグレーザーズフェルド流の構成主義批判的に継承した理論として記述されている。と言うのも、ルーマンの構成主義は、認識主体と非認識主体区別から出発するのではなく、あくまでもシステム外部環境区別から出発するためである。ルーマンは特にこの構成主義を「作動的構成主義(Operativer Konstruktivismus)」と名付けている。

素朴に認識主体を想定する抜本的構成主義のそれとは異なり、作動的構成主義における「世界」は、あくまでもシステム自己言及によって構成されている。それは、認識主体ではなく、システムが<システム>と<外部環境>の区別システムの内部に「再導入」することで初めて構成される。作動的構成主義の認識利得となるのは、このシステムの概念である。抜本的構成主義の認識主体という概念では、その認識主体が複数存在する場合や、意味処理規則抽象の度合いや社会構造に応じて異なる認識主体コミュニケーションが生起し得るという発想を持つことができない。これに対して、作動的構成主義背景にある等価機能主義的な社会システム理論は、現実の認識を構成するシステムが複数存在する場合に、社会構造意味論との関連からコミュニケーション如何にして可能になっているのかについて、実り多き発見可能にする。システム概念を記述する作動的構成主義は、認識「主体」を記述する抜本的構成主義に比して、現実複合性を――それこそマスメディアコミュニケーションのように――「人格」の問題として単純化させる誘惑を巧妙に断ち切ることができる。様々な心理システムを想定するなら、その個々人は相互に異なる「世界」を認識しているであろう。だが社会システムを想定するなら、そうした「世界」は社会システムによって構成された社会的な現実として抽象化される。

構成の多文脈性

作動的構成主義における現実世界は、ゴットハルト・ギュンターの多値論理学を前提としている。多値論理学が記述する世界は、二値論理ではなく多値論理によって構造化されている。それは、ただ一つの区別が導入されることで適用される二分的な世界なのではなく、無数の区別が導入されることで構成される「多文脈的(poly-contextural)」な世界なのである。

宇宙(Universe)にあるものは全て「存在(Being)」という一般的な範疇の中にあるというのが、古くから語り継がれてきたアリストテレス流の形而上学的な仮定であった。その主導的差異は、存在と無(Nothingness)の区別、または存在と虚無(Nihility)の区別によって構成されている。存在と無、存在と虚無の存在論的な位置関係は、排中律(Tertium Non Datur: TND)によって規定されている。アリストテレスから始まる哲学は既に、この排中律という概念を存在論的な文脈あるいは文脈(ontological contexture or contexturality)の中で一般化している。この関連から排中律という概念は、存在論の領域が二値論理によって徹底的に記述され得るということを指し示している。しかし、例えば「被告は有(guilty)であるか無(not guilty)である」という命題は、有と無区別の導入によって、排中律形成しているように見える。しかし、この区別はあくまでも的な区別に過ぎない。こうした排中律は「純正な(genuine)」文脈構成しない。純正な文脈とは、実は二値論理では説明の付かない構造なのである。

このことを説明するためにギュンターは、<コンテクスト(context)としての文脈>と<コンテクスチャー(contexture)としての文脈>の区別を導入している。前者の文脈概念は、あくまで日常用語としての文脈でしかない。これに対して、排中律と関わる文脈は後者の文脈である。ギュンターは<コンテクスチャー(contexture)としての文脈>をより普遍性の高い概念として記述している。そしてギュンターは、アリストテレス流の認識論を再記述する上で、このcontextureという概念を採用している。ギュンターによれば、アリストテレスの認識論における宇宙は、論理的には「単一文脈的(mono-contextural)」である。存在するものは全て、客観的な「存在」という普遍的構造に属する。さもなければ、それは「無い」ということになる。

しかし重要なのは、無や虚無という概念もまた存在論的な文脈として記述する必要があるということだ。つまり、存在と無あるいは虚無の区別を、この区別の内部に「再導入(re-entry)」しなければならないのである。「無い」が在り、「在る」が無いという概念を獲得しない限り、まず数学の「ゼロ」を記述することはできない。またこのパラドックス化された記述は、哲学における「無」の意味論としても有用であったことがわかる。「世界」の存在を外部から記述する観察者を仮定するには、その足場を「無」の領域に設置することが求められる。更にこの「無」の概念は、学の領域でも機能していた。存在者たちの住まう内在世界から区別された超越世界は、存在とは区別される「無」の世界であるという訳だ。

こうして存在と無あるいは虚無の区別区別の内部に再導入すると、宇宙はもはや単一文脈的ではなくなる。存在形式存在形式の内部に再帰的に再導入され続けることで、単一文脈は内的に分化することになる。したがって、存在文脈は一対一の対応関係にあるのではない。フリードリッヒ・ヘーゲルの論理学がやり遂げたように、存在とは無制限の数の途方に暮れるような位置関係にある個々の文脈の交差点(intersection)と考えざるを得なくなる。二値論理構造が取り得る文脈は、論理的に有限の範囲に留まる。だがそれが多値へと拡張されるのなら、存在形式の重ね合わせ具合によって、その文脈の範囲は無限大に膨らんでいく。一見、文脈は任意に選択することができる。そうした構造表現するのは、カオスのジャングルのようだ。しかしながら、現実においては、カオスが存在しない場合もある。事実、現実と秩序は対称的である。もし何かが在るのなら、それは秩序を有するはずなのだ。そして、もしそれがカオスとして発現しているのならば、それが意味するのはただ一つ、我々がまだ何も発見していないということである。つまり、表面上のカオスを解きほぐして、潜在化している乱雑な秩序を指し示すコード発見されていない場合に限り、観察者は現実にカオスを見出すのである。

多値論理のマトリックス

観察区別の導入を前提とする以上、観察者の思考過程は二値論理によって構造化されている。だが、異なる観察者同士が同一の二値論理によって構造化されているとは限らない。観察者次第で、異なる区別を導入するためである。故に現実構成しているのは、複数の観察において導入されている区別の複合体である。言い換えれば、多数の二値論理によって交差している形式多値論理こそが、現実構造化している。ギュンターはこの区別の交差を可視化するために、多値論理を反映させているシステムを記述している。それは、ギュンターが「存在論的格子(ontological grid)」と呼ぶ形式構成することで、様々な多文脈相互の位置関係を規定する格子である。

存在論的格子構成は、単一の値のシステムから始まる。それはただ一つの記号によって表現される。それを操作するために利用可能な演算子は無い。故にこのシステムについて言えることはほとんど何もない。何らかの方法で仮に操作できたとしても、それはその記号を別の記号に変換することを意味する。だが、単一の値のシステムである以上、別の利用可能記号は無い。故に、精々できることがあるとすれば、その記号を消去することだけである。積極的な操作が可能システムを実装するためには、二値システムを設計しなければならない。それは、以下のように、二つの値とそれらを代入するための二つの変数領域を必要とする。

$$T \ F \ T \ F \\
T \ F \ F \ T$$

TとFはTrueとFalseを表す。だがこの表現はブール型の変数で記述する必然性が無い。例えば次のように、aとbで区別しても構わないのである。

$$a \ b \ a \ b \\
a \ b \ b \ a$$

こうすると、三値のシステムへと拡張し易くなる。これは無論、cという、一つの値とその変数領域を追加することで構造化される。その構成は$$3 ^ 3 = 27$$個の構成となる。

$$a \ a \ a \ b \ a \\
a \ a \ b \ a \ b \\
a \ b \ a \ a \ c$$

しかし、構造可能な限り最小化することを意図するなら、与えられた記号系列内の場所の記号の位置は無関係になるように設計しなければならない。これにより、上図の垂直系列は、下図のように、三つに減らすことができる。

$$a \ a \ a \\
a \ a \ b \\
a \ b \ c$$

文脈は厳密に二値論理的な構造の論理的な領域である。その範囲は、演算子としての排中律を利用することで規定される。ギュンターが述べるように、宇宙の質を合成文脈(a compound-contexture)として想定するなら、それは部分的には互いに平行な、あるいは部分的には互いに貫通する無数の二値論理領域によって構成されなければならない。無制限の数の二値文脈の交差が、格子を形態化していく。こうした交点が単一の文脈のみに属していると考えるなら、その交点は二つの値で連続して占有されるだけとなる。一方、二つの文脈に属していると考えた場合でも、交点は二つの値でしか占有され得ない。だがそれは二つの異なる文脈に属している可能性がある。つまり、文脈が値によって占められている場所で交差するという条件で、一つの値が一つの文脈に属すると共に、他の値が他の文脈に属する可能性があるということだ。

これを前提条件として踏まえるなら、我々は上述した三値のシステムを四値や五値のシステムへと拡張することが可能になる。だが五値のシステムへと進む場合、最小化された構造を得るための縮小操作は必要とはならない。これは、値やその変数領域の更なる増加をもたらす。その構造は、上部に単一の領域を持ち、その下部に底が広がるような、一種のピラミッドとして叙述できる。

Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., p8より掲載。

このピラミッド構造は、最大6つの値に対応する変数領域の最も基本的な構造構成表現している。実践が指し示しているのは、ある規則に従って長さが増え続ける垂直列である。一方、左端と右端の文字列とそれらの間にある文字列との間には点線を引いている。これらの値の系列においては、左側の配置記号が決して変化せず、右側に与えられた垂直系列内の文字列が反復されることが無い。この特徴は、他のあらゆる系列とは一線を画す論理的な特徴となる。こうした文字列の位置関係を、ギュンターは「プロト構造(proto-structure)」と名付けている。

プロト構造は、一見して自明の表現である。しかし重要なのは、このプロト構造機能だ。このピラミッドは、上部にプラトン流のイデアが配置され、そこから下部に流れるにしたがって、徐々に個別具体的に特化された概念に到達していく。最下部には、全ての個別具体的なものの集合がある。しかし無論、これは論理的な帰結に過ぎない。現実的にこのピラミッドのプロト構造には底が無いためである。多値論理の場合、値は無制限に増やすことができる。それは宛ら下記のように、無制限に分岐していくツリーダイアグラムのようだ。

Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., p8より掲載。

このピラミッド型のダイアグラム叙述しているのは、全ての要素が共通の尺度で関連付けられている階層型の構造パターンである。世界は確かに二値論理によって十分に記述できる。しかし、にも拘らず、当の二値論理は他の二値論理から区別される二値論理の一つに過ぎない。世界多文脈性に着目するなら、世界のあらゆる存在論的なデータ無限文脈の交差点に位置付けられる。それ故、共通二値論理で関連付けられている二つのデータは、一つの文脈に属すると同時に、異なる文脈の中でも別々に属する可能性がある。言い換えれば、所与の文脈を共有する二つのデータの背後には、そこから除外される排除された第三項データが常に存在するのである。

プロト構造のピラミッドを叙述する時、ギュンターは値とその変数領域を徐々に追加する方法を採っている。この方法は二つに区別される。元の記号を反復的に利用する方法と、新しい記号を追加する方法である。前者の方法文字通り「反復(iteration)」と呼ばれ、後者の方法は「増加(accretion)」と呼ばれる。点線の外部の記号系列は、左右のそれぞれにおいて完全に反復的に追加操作されている。点線の内部にある記号は、部分的には反復の方法を採られており、部分的には反復と増加の比率の変化に伴って操作されている。系列長を構成する記号の個数を数え上げ、そこに含まれている付加の数を数え上げることによって、これらの記号系列のそれぞれに数値を添付するのは容易である。最初の記号のaは、最初の増加として数え上げられる。そして最初の系列長のための数と増加の程度のための数は、コロンで双方の数を区切ることによって表現できる。例えば、

$$a\\
a$$

は数値式では2:1とし、

$$a \\
b$$

は2:2となる。

Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., p11より掲載。

上図は、10桁までの数値パターンを表している。右側は自然数の並びに関する「ペアノの公理(Peano axioms)」によって定義される。それは、増加する場合にせよ減少する場合にせよ、数の数え方は全く同一であるという古くからの原則を表す。ピラミッド内では、ピラミッドの内側にある数値系列を点線で分離している。1:1から10:1へと向かい、その逆を辿る方法は一つしかない。1:1から10:10までの間に、これを実行する方法は一つしかない。ピラミッドの下部に進むに連れて、こうした選択可能選択肢は急速に増加していく。20:11の数に進むと、1:1から数えることのできる方法は184756個となる。抽象化するなら、n:mにおける選択可能選択肢の増加は、以下のようになる。言い換えれば、二項係数の階乗表示からそれらを読み取ることができるのである。

$$
\begin{pmatrix}
n \\
m
\end{pmatrix} = \frac{n!}{(n-m)!m!}
$$

プラトニック・ピラミッドをプロト構造二値のピラミッドの頂点が点線で一致するように重ね合わせたとしても、自然数の二乗によって規定される増加間隔によって分離される原子的な構造における格子の特定の交差点から、古典的な論理学の二分が始まるだけであることがわかる。

Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., p12より掲載。

次に、プラトニック・ピラミッドの頂点を一段階下げることで、頂点がプロト構造の格子の2:1の点に位置するように、分岐の左側を操作してみよう。この場合、15:11から始まる二番目のプラトニック・ピラミッドもまた同一の格子に包含されることを意味する。つまり、存在論的格子は、無限の様々な二値論理的な文脈を含む可能性を有しているのである。無論、15:11を出発点であると見做す必然性は無い。他の点線の交差も利用された可能性がある。

Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., p12より掲載。

プラトニック・ピラミッドがプロト構造背景に投影された場合、この構造必然的に対称的な形態を持たなければならないという訳ではない。下図では、二値のピラミッドの頂点を1:1に戻している。そして最初の2ステップでは、前のパターンを反復している。次の段階の8:1から8:8までは、まだ対称が保持されている。しかし二分されている線分は互いに交差している。そして原始的な構造の8番目から16番目までの間には、対称の原則が放棄される。その後の二値の二分を示す線分は全く不規則に描かれている。

Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., p12より掲載。

一つの存在論データのみを反復的に利用することが可能世界では、存在論的格子が個々の文脈の相互の相対的な位置関係のみを規定する。だがこれで十分な数の文脈が得られないと判明した場合には、2番目、3番目、4番目、そして任意の数の記号を反復的に利用可能になると規定することで、存在論的格子はその複合性を高めていく。言い換えれば、ある単一文脈内の区別の導入によって派生する排除された第三項が、別のあり方でもあり得る文脈となる。それが同一あるいは新たな区別を導入する上での可能性の諸条件となる。区別が導入されれば、排除された第三項別のあり方でもあり得る区別の導入を可能にしていく。そうして区別に対する区別が導入され続けることで、システムは単一の文脈から多文脈へと至る。単一の区別に基づく二値論理構造化されていたシステムは、やがて多値論理構造化されたシステムへと自らを構造化していくのである。

多値論理学的な観点かられば、決定意思決定自由意志に準拠しているという発想も、条件付きにしか肯定され得なくなる。システムは限られた数の文脈の中で作動の閉鎖性を保持する。そうすることでシステムは、<システム>と<外部環境>の境界設定を安定化させている。作動の閉鎖性に準拠した自己言及的な作動があるからこそ、システム外部環境を気に掛けなければならない。このシステム理論は、「世界は既に決定論的に決定されてしまっている」か「自由意志を持つ主観によって切り拓くことができる」かという旧くからある哲学的な問いを、益体の無い問題設定として片付けてしまう。むしろ重要なのは、認識主体主観なのではなく、システム内部で多値論理的に構造化されている区別の導入なのである。

それ故にこそギュンターは、自由意志なるものを、<決定されていない状態>から区別する。自由意志は、決定論的な世界からの自由を意味するのではない。そうではなく、自由意志とは、出来事の構造的な複合性の増大に基づいた形式的な複数の決定要因に対する追加要因の一種に過ぎないのである。多値論理構造化されたシステムにおける自由意志とは、文脈の一つに過ぎない。たとえ自由意志を有した意思決定者が、意志(Wille)や悟(Verstand)を以って決定に臨んだとしても、当の意思決定それ自体は、意思決定者が想定する以上の多文脈性によって規定されている。意思決定者は、決定文脈に関与した時点で既に、観察の観察による区別区別構成する存在論的格子マトリックスの中に埋め込まれているのである。

リスクと危険の差異

作動的構成主義意思決定過程におけるリスク観察においても有用な発見探索可能にする。意思決定過程に関する等価機能主義的な社会システム理論は、リスクと安全の区別を素朴に導入しようとしない。この理論は、まず「リスク(Risk)」と「危険(Danger)」の区別を導入する。リスク危険は、それぞれシステム観察によって構成される。と言うのも、このリスク危険区別は、システム外部環境区別を前提としているためである。社会システム理論的に言えば、外部環境との差異構成することで自己言及的に作動するオートポイエーシス的なシステムにとって、金融危機をはじめとする破局の事態は外部環境による過剰な刺激の一つとなる。その刺激の内容はどうあれ、その刺激はシステムの状態変化を伴わせる。ただし、システムが如何にそのショック効果影響を被るのかは、システムそれ自体が自己言及的に規定することである。システムの状態変化がシステム自身に帰属される場合、システムはその状態変化をシステム自身の「行為(handlung)」による状態変化として意味付ける。一方、その状態変化が外部環境に帰属される場合には、システムはその状態変化を外部環境の「体験(erleben)」として意味付ける。

この「行為」と「体験」の区別を前提とすれば、リスクは、自らの意思決定という「行為」によって派生する諸問題である。その一方で危険は、そうした自らの判断とは無関連に「体験」せざるを得なくなる諸問題である。通常ならば我々は「リスク」と「安全」を区別している。だがルーマンのこの区別が言い表すのは、<より顕在的な問題>としてのリスクと<より潜在的な問題>としての危険差異である。我々がリスクを顕在的な問題として発見できるのは、その時には発見することのできない潜在的な問題に盲目的になっているためである。全ての問題を一時に発見し尽くすことなどできはしない。発見可能な問題と発見可能な問題を何処かで線引きしなければ、リスク観察など不可能なのである。

しかし、あるシステム意思決定が「リスク」を取る「行為」となる時、他のシステムはその意思決定影響を被ることによって、その「危険」を「体験」せざるを得なくなる場合がある。だがその「体験」に関わるシステムもまた、その「危険」に相対するための意思決定を下すことができる。その時、意思決定者としてのシステム決定の被影響者としてのシステムは、立場を相互に入れ替えることになる。「リスク」を取る「行為」を選択していたシステムが、今度は「危険」を「体験」することになるのだ。こうして、意思決定の「行為」に関わるシステムが複合化すれば、<より顕在的な問題>と<より潜在的な問題>の様相もまた複合化する。

リスクの再構成

投資リスクもまた、その要因が投資家システム自身に帰属されると認識される場合に構成される。一方で危険は、投資家システムの日常や生命すら脅かす自然災害のみならず、自身の意図や制御影響力とは無関係に作動している国家間の貿易摩擦などのように、その要因がシステム外部環境に帰属されると認識される場合に構成される。

だとすれば、投資における意思決定者となるシステムは、決定という自身の行為を通じて、より多くの派生問題をリスクとして再構成させることを可能にしている。たとえ貿易摩擦が全くの諸外国同士で派生している危険であり得たとしても、その影響下で如何にして投資による収益可能にするのかを決定するのは、投資家システム自身の構成としての認識次第なのだ。つまり、単に危険体験し続ける受動的な姿勢ではなく、自ら積極的に意思決定していく姿勢が、将来的に<危険として遭遇し得た派生問題>を、予め<リスクとしての派生問題>に再構成することを可能にする。言い換えれば意思決定者となるシステムは、単なる体験として処理され得る未来の諸問題を予め自らの行為に帰属させておく機会を手にしているのである。

投資意思決定過程は、金利や割引などのような指標によって、遠い未来の問題を現在の問題として再設定する。それと同時に、投資意思決定は、当の意思決定者となるシステムにとっての危険リスクに変換する。つまり外部環境の潜在的な要因に帰属されている問題を、自己自身に帰属することを可能にする。そうした