母型のマトリックスとしての大衆、ヴェールとしての群衆 | Accel Brain

母型のマトリックスとしての大衆、ヴェールとしての群衆

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派生問題:意志による集中は如何にして可能になるのか

ボードレールの麻薬陶酔に対する危惧は、形象の大量生産が自我を拡散的にしてしまうために、「意志(volonté)」による集中を介した万物照応の契機を逃してしまうという点に要約される。この問題は、麻薬陶酔者のみならず、都市の集団に目を向けることで、明確に再設定することができる。その問題とは、「経験(Erfahrung)」の問題である。ボードレールが万物照応との関連から意図していたのは、危機に対して確固たるものであろうとする、一つの経験であった。その経験とは、祭儀(Kultischen)の領域に属している。この領域を逸脱すると、この経験は<(das Schöne)>の経験となる。においては、祭儀の価値が芸術の価値として発現するのである。

ボードレールの『悪の華』は、全ヨーロッパに影響を及ぼした最後の叙事詩であった。だがベンヤミンも注釈しているように、ボードレールはもはや叙事詩を読むことに困難を覚える読者を計算に入れていた。ボードレールが想定した読者たちの持ち得る意志の力や集中力は強くない。こうした読者が好むのは官能的な快楽(sinnliche Genüsse)である。そして読者たちは、関心と享受能力を殺してしまう憂鬱気質(spleen)にも侵されている。『悪の華』が公開された時代においては既に、叙事詩は単なるジャンルに格下げされていた。ボードレール以来、大衆向けの叙事詩で成功を収めた叙事詩人はいない。ベンヤミンによれば、大衆は昔から語り継がれてきた叙事詩に対しても、今や冷淡になっているという。

ボードレールの英雄的な身振りを育て上げた源泉は、19世紀中盤に形成され始めた社会的秩序の最深の基底から湧き出ている。その内実は、ボードレールに芸術作品の生産条件を抜本的に変化させた経験に他ならない。その変化とは、芸術作品においては商品形態が、それを受容する公衆においては大衆形態が、以前よりも強く現れていたということである。まさにこの変化が、叙事詩の没落の一因となったのである。

かくして、叙事詩は受容され難い作品となった。叙事詩はもはや例外的な場合にしか大衆読者の経験と触れ合わない。このことは、叙事詩の営みに変化があったというよりは、それを受ける大衆側の経験に変化があったということを意味する。大衆経験は、この19世紀において既に、画一的で不自然な生活の中で沈殿している。それは日常の中で、忘却という形で埋没しているのである。したがって経験とは、想起(Erinnerung)の対象となっている。そうなると、記憶(Gedächtnis)の構造経験構造決定的な影響を与えているということになる。実際、集団的な生にせよ個人的な生にせよ、経験とは伝統に関わる事象である。経験は、想起において厳格に固定される個々の事実よりも、蒐集されることで記憶の中で合流する「多くの場合は意識されることの無いデータ(oft nicht bewußten Daten)」によって構成される。

この経験概念を理解するには、「経験(Erfahrung)」と「体験(Erlebnisses)」の区別を導入するべきであろう。端的に言えば、経験歴史的な時間連続性を前提としている。それは世代から世代へと伝承されることができる。そうした経験から培われた知識教養は、常に人間と結び付いている。これに対して体験は、非歴史的で非連続的な「破局(Katastrophe)」の「ショック効果(Schockwirkung)」を前提としている。ショック体験経験貧困化させるのである。

ここで、ベンヤミンと共に、次のように問題を再設定できる。すなわち、ショック体験が標準情態となってしまった経験において、叙事詩如何にして可能になるのかである。この問題設定は、ボードレールが『人工楽園』を叙述する際に前提としていた、意志による集中は如何にして可能になるのかという問題設定と論理的に等価である。麻薬陶酔特徴的な形象の大量生産は、一種のショック体験として成立しているためである。ショック体験は確かに意識を動員する。意識が動員されれば、一見して意識的な意志による集中が容易になるように思える。だが、非随意的に動員された意識による反射として自動化されたショックの受容は、たとえ刺激保護によって意識目覚めていても、「想像」の自由を奪う。非随意的な反射によって、想像の余地が奪われるのである。だからこそ、印象から得られるはずの「出来事の内実の完全性」を喪ってしまう訳だ。意志による集中によって可能になる想像経験は、かくして無力化される。これでは、大量に生産された形象経験することができない。

問題解決策:「意志的記憶」と「無意志的記憶」の区別

マルセル・プルーストが導入した「意志的記憶(la mémoire volontaire)」と「無意志的記憶(la mémoire involontaire)」の区別は、経験体験区別記憶と如何に結び付くのかを明示している。プルーストは、彼が幼年時代の一部を過ごしたコンブレーの町並みが、長年の間、貧しい記憶としてしか残っていなかったと物語っている。ある日の午後、菓子のマドレーヌの味によって不意に過去に連れ戻されるまで、彼が持ち得たのは、注意力の呼び掛け(Appell)に対応する記憶の想起に限られていた。この類の記憶が「意志的記憶」である。

意志的記憶」の特徴は、それが過去について与える情報に過去それ自体が全く含まれていないということである。プルーストによれば、およそ我々の記憶はこうした特徴を有するという。彼は、理知のあらゆる努力を以ってしても、過去を意志の力で喚起しようと努めるのは無駄であるという。だからこそプルーストは躊躇いなく次のように結論付ける。過去は、理知の領域外に位置する何らかの現実事物の中に見出される。だが我々は、それが如何なる事物なのかを知り得ない。その事物に、我々が生涯において出逢えるか否かは、偶然に左右される。

経験体験区別を再び導入するのなら、プルーストの記憶論においては、我々が自らの経験を獲得できるか否かは偶然に左右されるということになる。つまりプルーストは経験の貧困化を既に自明視していたのだ。しかしこの関連から、一方でプルーストは「無意志的記憶」という概念を生み出した。経験可能となっているところでは、記憶というメディアの中で、個人の過去のある種の内実が集団の過去のそれと結合する。ベンヤミンによれば、プルーストが恐らく一度も想定していなかった儀式や祝祭を伴う祭儀には、個人の記憶と集団の記憶を反復的に改めて融合させる機能がある。祭儀機能は、定期的に想起を誘発することで、生涯に渡る想起の契機を付与することにある。したがって祭儀において、「意志的記憶」と「無意志的記憶」は相容れない記憶ではなくなる。

プルースト自身の問題設定は、過去が無意識の中に留まっている間に、表層の穴から入り込んできたあらゆる記憶を飽和した状態で抽出することであった。この問題設定は尋常ならざる密度を誇ったボードレールの記憶と決して無関係ではない。しかしベンヤミンが指摘するように、プルーストは、万物照応に関する学問的な文献を脇に押し退けてしまった。この「意志的記憶」と「無意志的記憶」の区別において重要となるのは、万物照応の様々な芸術様式などではない。重要なのは、万物照応が、祭儀の諸要素を内包する経験を定着させるということである。ボードレールが近代の破局意味を見極めることができたのは、まさにこの祭儀の諸要素を抽出することによってであった。彼はこの破局をただ自分一人に突き付けられた挑戦として受け止めることができた。そしてこの挑戦に応じたのが『悪の華』なのである。

経験復興を目指すプルーストの意志が地上の生の枠内に留まっていたのに対して、ボードレールのそれは地上の生を脱却していく。この差異は、ボードレールの場合に、その意志に対抗する力が遥かに根源的かつ強烈に発現していた証として読み取ることができる。そしてこの二者の差異は、一方のプルーストが他方のボードレールを特別視するに足る理由にもなる。つまりプルーストにとって、ボードレールただ一人こそが、「無意志的記憶」を偶然に左右されずに喚起することができていたのだ。ボードレールだけが、例えば女の匂いや髪の香りの中に、関連に満ちた万物照応を追究することができた。ボードレールだけが、「無意志的記憶」を想起する「意志」を持ち得た。それは、「意志的」と「無意志的」の区別を「意志的」の側に再導入(re-entry)する営みに他ならない。

しかしこのボードレールの観察に対するプルーストの観察には、盲点が伴っている。それは憂鬱気質である。確かに匂いや香りは、「無意志的記憶」の安全なる避難所であるのだろう。だが憂鬱気質世界ショック体験で満ちている。ショック体験こそが通常情態なのである。憂鬱気質においては時間物象化されている。この時間は、「無意志的記憶」と同じように、歴史を持たない。しかしながら憂鬱気質においては、時間感覚が不自然に鋭敏となる。一秒ごとに、ショックに反応する形で、意識が導入されるためである。

問題解決策:ショック「体験」とショック「経験」の区別

ベンヤミンが論じるショックの概念規定は、災害神経症の患者を対象としたジグムンド・フロイトの精神分析学に基づいている。重要なのは、ショックと意識の関連だ。意識は、有機体が刺激から我が身を守る「刺激保護(Reiz schutz)」として機能する。外部の環境による過剰刺激は、破壊的エネルギーとして、有機体の存続を脅かす。有機体がその内部のエネルギー転換を形式化させるためには、環境による破壊的エネルギーを自身から遠ざけておく必要がある。それ故に有機体は、環境に接する表面に過剰刺激に対するフィルターを配備することになる。フロイトによれば、こうした「刺激保護」が生じることで、意識は初めて生じるのだという。

このフロイトの知見において特筆すべきことは、フィルターとして機能的に特定化された有機体の表面が、内部の有機体に比して、より無機的となるということだ。つまり有機体は、有機体自身の作動によって、<より有機的な有機体>と<より無機的な有機体>とを区別している。前者が有機体の内部に位置付けられ、後者がその表面となる。表面は環境に接してはいる。だがこの表面となる<より無機的な有機体>は、あくまで有機体だ。それは環境ではない。つまり有機体は、自らの存続のために、有機体と非有機体を自己自身で区別することで、環境との「差異」を確保しているのである。より環境に近接する<より無機的な有機体>の部分は、恰も蜥蜴の尻尾が蜥蜴自体を護るかの如く、過剰刺激から内部を保護する。

フロイトも認める通り、こうして「刺激保護」が機能している場合、環境による刺激から構成される興奮量は、小規模に留まる。精神分析学的に言えば、興奮量が小規模に留まるということは、不快感が伴う可能性が制約されるということだ。意識がショックをより容易に受容することができるようになれば、それだけそのショックが外傷神経症の作用を与える危険はなくなる。外傷神経症は、生命の危険に結び付いた生態的な破局に遭遇した場合に生じる病である。生態的な破局に満ちた環境は、膨大な外的エネルギーとなる。この膨大な外的エネルギーは、意識の「刺激保護」を突き破るほどの過剰刺激となる。これに対して有機体は、膨大な内的エネルギーを消費することで、この外的エネルギーから身を守ろうとする。この内的エネルギーが高ければ、外的エネルギー制御する力も強まる。逆に内的エネルギーが低ければ、外エネルギーに対する拘束力も弱まる。したがって外傷神経症を引き起こす過剰刺激となるのは、それが意識の「刺激保護」と有機体の内的エネルギーを上回るほどの外的エネルギーを持つ場合となる。

ここでフロイトが念頭に置いているのは、「驚異(Schreck)」と「不安(Angst)」と「恐怖(Furcht)」の区別だ。「驚異」は、準備の無い状態で不意打ちの如く直面した恐怖状態を意味する。一方「不安」は、たとえ未知なるものであっても、危険に対する予期や危険に対する準備を整えた状態を意味する。他方、「恐怖」は、既知の、特定の対象に向けられた恐れを意味する。外傷神経症が発病するのは、破局が不意打ちとして突き付けられたことで、意識が驚いた場合である。逆に言えば、「不安」に陥っている者が外傷神経症に直面することはあり得ない。「不安」は、外傷神経症に対する防衛反応なのである。したがって、ある破局ショック体験となるのは、その破局が事前に「不安」の対象になっていない場合となる。

ベンヤミンがフロイトを引き合いに出したのは、記憶意識の相関関係に関するフロイトの仮説を証明するためではなかった。ベンヤミンがフロイトの仮説を参照したのは、フロイトが想定していた事態に限らずより広範な事態にも、この仮説が応用できるか否かを検討するためであった。ショックの受容は、その過剰刺激を克服する鍛錬によって容易となる。ショックを克服するには、の間際の走馬燈の如く、必要となれば記憶の想起も動員される。だが通常の鍛錬は、目覚めた意識役割である。ショックがこうして意識によって受容されると、そのショックを引き起こした出来事は、体験性格が与えられる。

しかし、そうなるとこの破局の出来事は、「意識的な記憶のレジストリ(der Registratur der bewußten Erinnerung)」に直ぐに導入されることで、詩的な経験においては不毛な対象になってしまう。と言うのも、個々の印象(Eindrucken)を構成するショック効果の要素の割合が大きければ、それだけ刺激保護として機能する意識が不断に動員されることになる。刺激保護としての意識機能すればするほど、印象経験の中に入り込む隙は無くなる。かくして、印象体験に組み込まれる可能性が高まる。

これを前提とすれば、破局の出来事のショック効果に対する刺激保護機能は、「出来事の内実の完全性(der Integrität seines Inhalts)」を放棄する代償として、その出来事に意識における時間的な位置を正確に見出すことである。これが可能になれば、ショック効果に対する「反射(Reflexion)」が成立する。反射は出来事を一つの体験として形式化する。逆に言えば、反射が欠落している場合には、それが悦ばしいことであれ、不快であれ、出来事に対する驚異が生じる。

この関連からベンヤミンは、「ショック体験(Chockerlebnis)」と「ショック経験(Chockerfahrung)」の区別を導入している。ショック体験が標準情態となっているのは、あくまで群衆においてのことである。一方でボードレールの詩的活動の根幹を担っているのは、ショック経験である。それは、刺激保護としての意識を動員せずに、あえて破局の出来事のショック効果に身を曝す身振りによって成り立つ。ボードレールが遊歩者のように群衆の中に没入していったのは、このためである。こうしたショック経験は、驚異経験意識することで可能になる。それは触覚的な享受によって習慣化された散漫な意識なのではなく、習慣化された秩序を寓意的に破壊することで成立する。

ボードレールはショック経験を自身の芸術活動の核心に据えた。脅威に身を曝しつつ、ボードレール自身が驚異を呼び起こすことも稀ではなかった。ボードレールは、ショック効果が何処から波及してくるにせよ、それを自身の精神的かつ身体的な全人格によって受け止めることを自身の義務とした。

「行為」と「体験」の差異

このショック「経験」ショック「体験」区別は、精神分析学的な概念の助けを借りずとも、社会システム理論的に展開することができる。外部環境との差異構成することで自己言及的に作動するオートポイエーシス的なシステムにとって、ショック効果外部環境による過剰な刺激の一つとなる。その刺激の内容はどうあれ、ショック効果システムの状態変化を伴わせる。

ただし、システムが如何にそのショック効果影響を被るのかは、システムそれ自体が自己言及的に規定することである。システムの状態変化がシステム自身に帰属される場合、システムはその状態変化をシステム自身の「行為(handlung)」による状態変化として意味付ける。一方、その状態変化が外部環境に帰属される場合には、システムはその状態変化を外部環境の「体験(erleben)」として意味付ける。この意味処理規則を前提とすれば、脊髄反射的な反応を伴わせるショック「体験」は、外部環境の「体験」として処理される。逆に、「意志」による集中を伴わせるショック「経験」は、システムの「行為」となる。

「リスク」と「危険」の差異

この「行為」と「体験」の区別は、更にニクラス・ルーマンが導入した「リスク(Risk)」と「危険(Danger)」の区別によって展開することができる。リスクは、自らの意思決定という「行為」によって派生する諸問題である。その一方で危険は、そうした自らの判断とは無関連に「体験」せざるを得なくなる諸問題である。

通常ならば我々は「リスク」と「安全」を区別している。だがルーマンのこの区別が言い表すのは、<より顕在的な問題>としてのリスクと<より潜在的な問題>としての危険差異である。我々がリスクを顕在的な問題として発見できるのは、その時には発見することのできない潜在的な問題に盲目的になっているためである。全ての問題を一時に発見し尽くすことなどできはしない。発見可能な問題と発見可能な問題を何処かで線引きしなければ、リスク観察など不可能なのである。

しかし、あるシステム意思決定が「リスク」を取る「行為」となる時、他のシステムはその意思決定影響を被ることによって、その「危険」を「体験」せざるを得なくなる場合がある。だがその「体験」に関わるシステムもまた、その「危険」に相対するための意思決定を下すことができる。その時、意思決定者としてのシステム決定の被影響者としてのシステムは、立場を相互に入れ替えることになる。「リスク」を取る「行為」を選択していたシステムが、今度は「危険」を「体験」することになるのだ。こうして、意思決定の「行為」に関わるシステムが複合化すれば、<より顕在的な問題>と<より潜在的な問題>の様相もまた複合化する。

意思決定の被影響者としての群衆

この社会システム理論的な意味論を前提とするなら、ショック「体験」が標準情態となっているのは群衆においての出来事であるというボードレールとベンヤミンの洞察は、彼ら自身の意思決定者としての「行為」を前提とした認識であることが判明する。つまりボードレールの詩的活動とベンヤミンの批評活動が何らかの「リスク」を取る意思決定行為」として機能することによって、群衆がその意思決定の被影響者となっているのである。確かに、近代化された社会構造の所与の状況こそがショック効果となっていたのは、間違いない。しかし、このショック効果に対してショック「体験」ショック「経験」区別が導入されるのは、ボードレールとベンヤミンの認識があってこそなのだ。

したがって、ショック体験が標準情態になってしまった経験において、叙事詩如何にして可能になるのかという問題設定は、所与の問題なのではなく、ボードレールとベンヤミンの認識によって構成された問題設定であるということになる。そしてその問題解決策の鍵となるのは、他ならぬボードレールとベンヤミンの意思決定にあるのだ。その意思決定は、叙事詩の担い手の「リスク」を取る「行為」なのだが、同時に群衆をはじめとした他のシステムに「危険」の「体験」を強いる意思決定であるはずだ。後述するように、とりわけこの二者に共通して観察される「行為」ーー陶酔的な遊歩、探偵のような推論、そしてギャンブラー身振りは、こうした意思決定者の「行為」の具体的な事例となるはずである。

問題再設定:遊歩者の陶酔は如何にして可能になっているのか

遊歩者が街を徘徊する時、不意に想起された記憶の中で、陶酔の状態に陥る。その陶酔素材となるのは、感覚だけではない。この場合の陶酔はしばしば、単なる知識を、埃の被った資料さえも、自ら経験した出来事や活き活きとした出来事であるかのように吸収し尽くす。だがこの知識による陶酔を批評の盲信と混同してはならない。批評の凋落を嘆く者にも、剰え対象と距離を取ることで批評が可能になると思い込む者たちにも、遊歩者は与しないからである。遊歩者判読するのは、批判的な距離を保つ都市の文献ではなく、あくまでも都市街路名なのである。

「街道を歩いていくか、飛行機でその上空を飛ぶかによって、街道の発揮する力は異なる。同じように、テクストを読むか、それを書き写すかによって、テクストの発揮する力は異なる。空を飛ぶ者に視えるのは、道が風景の中を進んで行く様だけである。その眼には、道は周囲の地勢と同じ法則に従って展開されていく。道を歩いて行く者だけが、道の支配力を知る。そして、飛行機にとっては単に拡大された平野に過ぎないまさにあの地形にこそ、道が号令を掛け、遠景や見晴台、林間の空き地や素晴らしい眺めを、道の曲がり角ごとに呼び出す様は、丁度指揮官が兵士たちを前線から呼び出すのに類似している。そうした状況を経験するのも、歩いて行く者だけである。同じように、書き写されたテクストだけが、それに取り組む者の魂に号令を掛ける。それに対して、単なる読者は、自分の内面の新しい景色を決して知ることが無い。テクストは、要するに密になってはまた疎らになる内面の原始林を通る道なのであって、それは眺めを切り拓くはずなのである。何故なら、読者が想する自由な空を彷徨う自身の自我の動きに大人しく従う一方で、書き写す者は、そうした運動に対して号令を掛けさせるためである。」
Benjamin, Walter. (1928) “Einbahnstraße”. In: Gesammelte Schriften Bd.IV/1, Frankfurt am Main : Suhrkamp. 1972, S.83-148., 引用はS. 90より。

別の言い方をすれば、遊歩者街路名を「視覚的(optisch)」に「判読する」のではなく「触覚的(taktische)」に「判読する」。それは、ユーザーインターフェイスとしての街路名を反復的に利用することによる「習慣(Gewohnhei)」の形成に他ならない。遊歩者街路名という知覚メディアを「触覚的な享受(taktische Rezeption)」する。街路名は、決して絵画や本のようなメディアのように「視覚的に享受(optisch Rezeption)」される訳ではない。触覚的な享受は、意識的に注意を働かせる方法ではなく、習慣形成という方法で成し遂げられる。そしてこの習慣形成は、注意力が散漫な人間であっても可能である。熟考せずとも、身体が慣れ親しんでいくからである。

遊歩者街路名影響触覚的に享受できるのは、宛も無く彷徨い歩く場合である。逆に言えば、目的地への到達が速やかに実現してしまう状況では、街路名の反復的利用が不十分となるために、街路名の効果は得られない。もとより遊歩者にとって、都市の中で道がわからないというのは、些末な問題である。しかし、森の中を彷徨い歩くかのように都市の中を彷徨い歩くには、訓練(Schulung)が必要になる。つまり、時折自然の中から発せられる言葉の「こだま」を、すなわち残響(Echo)を聴取する訓練である。

「彷徨い歩く人には、様々な街路名が、乾いた小枝が折れる音のように語り掛けて来なくてはならない。また、都心の小路の全てが、山中の窪地のように、明確に時間の流れを映し出さなくてはならない。」
Benjamin, Walter. (1932-1938) “Berliner Kindheit um neunzehnhundert,” In: Gesammelte Schriften Bd.VII/1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.385-433., 引用はS.393より。

問題解決策:ヴェールとしての群衆

遊歩者にとっての当初の目的地は市場である。遊歩者商品選好するために外出している。だがその足取りは、専ら寄り道に特化している。と言うのも都市には、遊歩者が当初の目的を忘却してしまうほどに目移りしてしまう観察対象が存在しているためである。その観察対象となるのは、「群衆(Menge)」である。

群衆遊歩者を精密に叙述した最初期の小説としてボードレールが注目しているのは、ポーの小説である。彼の『群衆の人(The man of the crowd)』の構成は、しばしば「謎解き」の無い「」であると指摘される。だが、これは厳密な読解ではない。名も無き群衆観察者による観察が、既に謎解きの試みになっているためである。ただし、この謎解きは完結しない。その観察対象となった老人の身振りが、新たなを派生させているためである。

を呼ぶ」という表現は、この意味謎解き細部を捉え損ねている。の派生は、謎解きを試みる観察者がいなければ成り立たない。観察者が謎解きを試みるからこそ、新たなが派生するのである。言い換えれば、謎解き動機付け、謎解きを派生させる。

この群衆観察者の観察は、問題志向型である。この観察者は、かのめいた老人の身振りに独特の興奮を覚え、驚き、そして魅了されている。この観察者が観察対象に抱いた印象は、広大な精神力、慎重さ、欲望、渇望、冷涼感、、血の渇き、勝利、陽気、極端恐怖、激しい絶望の危機感によって構成された。それは「混沌としていてパラドックス化(confusedly and paradoxically)された」認識に他ならない。この複合性パラドックスが、遊歩者群衆観察へと駆り立てるのである。

作中の語り手は、めいた老人を追跡しながら夜のロンドンを歩き回る。ボードレールはこの「群衆の人」を遊歩者と同一視しようとしていた。しかしベンヤミンは、この意見には部分肯定しかしていない。めいた老人は、落ち着いた態度の代わりに、何かに憑かれたかのような態度が特徴となっている。それは兎に角群衆の中に自身を紛れ込ませようという切実な態度である。それ故に、この老人の観察によって判明するのは、遊歩者質というよりも、むしろ遊歩者が自身の馴染んできた環境を奪われた場合の身振りである。ロンドンが遊歩者の環境になったことはあるにしても、それがポーの叙述したロンドンではないことは確実である。ポーの描いたロンドンに比べれば、ボードレールが生きたパリは古き良き時代の名残りを留めていたからだ。

よく指摘されるように、『群衆の人』は探偵物語のレントゲン写真のようなものである。この物語には追跡する者、群衆、そして見知らぬ者が登場する。だが、探偵物語に不可欠な犯という出来事が、この物語では欠落している。だがめいた老人の観察者にとって、見知らぬ者を犯者であると想像することは造作も無いことであった。反社会的な存在遊歩者との差異を、ポーは意図的に抹消している。ポーにとって遊歩者とは、自分の帰属する社会の中で安心して生活できない存在である。だからこそ遊歩者群衆を求める。遊歩者群衆という「ヴェール(Schleier)」に包まれることを欲する。そのヴェールは、とりわけ「大衆(Masse)」を覆い隠す。なまじ群衆が反社会存在の避難所になっているが故に、あらゆる他者の身振りが、犯可能性を臭わせる。それは、非日常的なショック体験形象喚起するということである。ヴェールとしての群衆は、こうした体験負担軽減として機能する

形象の宝庫としての群衆

ボードレールにとって、パリは太古の形象照応していたが、彼が描く群衆近代性象徴である。没落していく個人主義の英雄的態度、夢見遊歩者に対する観点、そしてパリを太古として認識するその視点、これらがベンヤミンにとっては19世紀を判読する鍵となった。群衆に対しては、心理学的方法では到達することができそうもない。それ故にベンヤミンは、群衆想像上の魂を精密に分析することによって探究するのではなく、群衆精神の単純な形態を探究するのである。

都市の交通の中を歩いて行くことは、個々人にショックと軋轢を与える。神経刺激の伝達がバッテリーから放たれる電撃のように次々と身体を貫く。遊歩者は、電流の貯蔵庫の中に没入するかのように群衆の中に没入していく。電気の比喩は、全く現実離れしていない。と言うのも既に都市には複製技術知覚メディアが無数に遍在しているためである。こうした技術は、人間の感覚器官に複合的な訓練を課している。

群衆形象の宝庫である。このことに敬意を払うベンヤミンは、この形象ショック体験と相関しているという。ショックと形象は、思考群衆とを素早く媒介するのである。このベンヤミンの観点人間学的唯物論的な革命論に根差しているのは、集団の技術器官への神経刺激によって、あの100%の「形象空間(Bildraum)」が集団の「身体空間(Körperraum)」として構築されることを思い出すだけで理解できるであろう。まさにベンヤミンはこの関連から、群衆教育するのではなく、育成(bilden)しようとする。それは群衆を単に整列させるのではなく組織化させようとするという意味である。だがそのためには日常の中に潜むトラウマ的なショック体験形象の中で動員しなければならない。何故なら群衆は、知というものを、ショックによって吸収した上で、内面で体験した出来事を固定するためである。言い換えれば、群衆の育成とは、無数の破局の成果として結実する。それは群衆が知をショックによって触覚的に享受することであると同時に、群衆破局によって形態化されるということでもある。

ボードレールがベンヤミンの『パサージュ論』における中心的な主題となっているのは、近代の群衆に対するボードレールの観点が、当初は遊歩者の「幻灯装置(Phantasmagorie)」に向けられていたのが、次第にポーの描くような群衆陶酔的なショック体験触覚的な享受へと移行しているためである。群衆仮象に他ならない。だが遊歩者群衆想像上で体験する。それ故に群衆脱魔術化されていても、遊歩者はそこから戦慄を覚えることができない。遊歩者群衆を自身の視覚的な享受による快楽で化してしまっている。そのために遊歩者の眼には、この群衆という<常に同じもの>から「新奇性(Neuheit)」が生じているかのように映る。事物商品的な性格に魂を挿入するのは、こうして想像に浸る遊歩者なのだ。

都市新奇性を教えてくれるのは、遊歩者である。独自の運動から、群衆という仮象は、遊歩者新奇性への渇望を癒す。実際には、この群衆という集団は仮象以外の何物でもない。遊歩者が享受する群衆は、70年後に民族共同体が流し込まれる雛形となる。このことは、ナチズムが示唆した。自分が目覚めていること、そして一匹狼と自負している遊歩者は、その後に何百人もの目を眩ませた虚像の最初の犠牲者であるという点でも先駆的であった。

都市の迷宮から商品の迷宮へ

迷宮のような都市の迷路のように錯綜した群衆の慌ただしい唐突な身振りは、ポーの作品に登場する群衆現実的な描写である。ここでの群衆の運動は、自らの仕事に勤しむ人々の運動というよりは、彼らが動かす機械の運動を意味する。ポーは既に、この機械リズム群衆身振りや反応形式に付与していた。いずれにせよ、遊歩者はこうした態度を共有していない。むしろ遊歩者はこのリズムに抵抗する。遊歩者の沈着冷静な態度は、生産過程のテンポに対する無意識的な抵抗以外の何物でもない。

夜遅くまで彷徨い歩くうちに、「群衆の人」は、客で賑わっている百貨店のデパートに辿り着く。その中であの老人は、勝手を知っている者であるかのような身振りで振る舞う。この男は約1時間半もの間この百貨店の中で過ごしていた。彼は売り場から売り場へと歩いて行った。だが何も買うことは無く、店員と会話することも無かった。ただ放心したように商品を見詰めている。

街路遊歩者にとっての室内として現われる。そうした室内の古典的形式パサージュである。ベンヤミンによれば、デパートは、この室内の堕落した形態であるという。デパートは遊歩者のための最後の領域である。室内街路と化したこの領域における遊歩者は、都市迷宮の中を彷徨い歩くかのように商品迷宮の中を彷徨い歩くことになる。もとよりデパートは市場それ自体である。だが、まだ遊歩者は目的地としての市場には達していない。かの老人は、まだ商品を購入していないのだ。

麻酔剤としての群衆

群衆は、追放された反社会的な存在の避難所であるのみならず、見捨てられた者にとっての麻酔剤でもある。遊歩者はまさに、群衆の中で見捨てられた観察者である。この点において、遊歩者商品と状況を共有している。このことは<商品化した人間>というよりは<人間化した商品>である娼婦ればわかり易くなる。<人間化した商品>である娼婦もまた、その経済的なコミュニケーションにおける流動的な選好によって、多くの顧客から見捨てられる定めにある。だが街路や店舗に群衆形成されていれば、まだ選好される可能性が残されていると信じることができるだろう。群衆が周囲に集まれば、それまで見捨てられていた商品の痛みは軽減される。尤もベンヤミンによれば、遊歩者はこの商品との共通性を自覚していない。遊歩者群衆という麻酔剤に無自覚に依存する。

ボードレールは諸々の麻酔剤に精通していた。麻薬についても同様である。しかしベンヤミンによると、ボードレールは社会的に最も重要な陶酔作用の一つを見落としていたようである。その盲点とは、依存症患者が薬物の影響下にある際に発する魅力である。商品にはこの魅力が備わっている。商品は魅力を、商品陶酔させて、商品の周囲で騒ぎ立てる群衆から獲得する。商品商品にするのは市場である。市場形成するのは本来多数の顧客によって構成された大衆である。まさにこの多数が、顧客にとっての商品の魅力を高めるのである。このことは再び娼婦を例示すれば明らかとなろう。多数の住民が大衆形成することによって初めて、売春都市の広範に普及させることが可能になる。そして大衆形成されることによって初めて、物象化された的対象である娼婦神経刺激を呈示しながら同時に自らそれに陶酔できるようになるのである。

自然の戯れ

群衆が如何にボードレールを突き動かしたのかは、彼が群衆を巡ってヴィクトール・ユゴーと張り合った事実からも知ることができる。ユゴーの強みが群衆経験にあるということは、ボードレールにとっては明白なことであった。ユゴーにとって群衆は、沈思の対象として、彼の文学の中に入って来る。波が砕け散る大洋は、そうした群衆モデルである。この永遠の劇に沈思する思想は、群衆の真の探究者である。海のどよめきに我を忘れるかの如く、思想群衆沈思しながら我を忘れる。

しかしこれに対してボードレールには、自然の劇に忘我する気にはなれなかった。ボードレールの群衆に対する身振りはユゴーほど御行儀の良いものではない。と言うのも、通行人が都市の中で形成する人混みの中では、遊歩者は不当な仕打ちや散々に小突き回されることになるからである。これにより当人の自我意識はより一層明確に保たれる。忘我に浸る余裕など無い。

ボードレールが群衆の奥深くに入っていくのに対して、ユゴーの群衆経験自然に根差している。群衆という形態によってユゴーを捉えた自然的-超自然的なものは、森の中にも、動物世界の中にも、散乱した波の中にも、同様に発現している。これらのいずれの自然-超自然の中にも、都市形態が、一瞬のうちに閃くように発現し得る。自然がその根源的な権利を都市に対して行使する場合、群衆がその媒介となる。しかしそうした権利を行使するのは、純粋な自然だけではない。この着想をベンヤミンはユゴーの『レ・ミゼラブル』の中から抽出している。

街路で今起きたことにも、森ならば驚くことも無かったであろう。大木、蘖、灌木、深々と交差した枝、高い草が、皆暗いあり方を保っている。荒々しい群れは、そこに視えざるものが突然姿を現すのを垣間見る。人間の下部(au-dessous de l’homme)に存在するものが、靄(la brume)を介して、人間の上部(au-delà de l’homme)に存在するものを知覚する。我々生ある者には知る由も無い諸々の存在が、夜のうちにそこで互いに顔を合わせるのだ。毛を逆立てた野蛮な自然は、超自然的とも思われる種々の存在が近付くのを感じて狼狽する。諸々の闇の力は、互いに認識し合い、互いに不可思議な均衡を保っている。」
Hugo, Victor. (1875) Les misérables 4: L’idylle rue Plumet et l’épopée rue Saint-Denis, Hachette. 引用はp.283より。

ユゴーのこの叙述は、一見すると、群衆にも「自然史(Naturgeschichte)」があるということを言い当てているかのようだ。森の中に潜む「夜の事物たち(Choses de la nuit)」は、ここでは大衆というあり方の原型(Prototyp)として現われている。大衆ヴェールとしての群衆は、ここでは「靄(la brume)」として叙述されている。つまりベンヤミンが注釈するように、人間の下部に存在するものが、群衆の中で、人間の上部で支配しているものと交流する。この混交が、他の全ての混交を包含する。ユゴーにとって群衆とは、異形の超人間的な諸力が人間の下部に存在する諸力との間に産んだ雑種の奇形児(Naturaspiel)として発現している。群衆とは「自然の戯れ(Naturaspiel)」であって、自然遊戯の賜物なのである。

群衆は確かに具体的な人間集合によって出現する。だが社会的にはあくまで抽象的な関係である。街路が、火事や交通事故のような事件が、あるいは市場商品が、様々な群衆形態化する。だがそうして集められた人々も、それ自体としては社会的な階級によって規定されていない。それは偶発的な寄せ集めであって、別のあり方もあり得る集合体である。個別的な私的関心を持つ者たちが、商品を中心に群がり、一つに溶け合うことで、群衆構成歴史的な根源現象(Ursprungphänomen)が成り立つ。しかしこうした集合体はしばしば統計上の存在としてしか扱われない。その際隠蔽されてしまうのが、自然の戯れとしての群衆の怪物的な側面である。

しかしユゴーの自然史的な叙述は、媒介の必要を感じさせない。もしユゴーが描写するように、群衆人間の下部で抑圧された大衆形象から人間の上部の信頼すべき革命的な決断へと媒介し得るのだとすれば、彼は社会仮象として発現する群衆仮象を見抜くことができたはずだ。ベンヤミンが指摘するように、群衆政治的代弁者であるかのようなユゴーの身振りは、彼の良心的市民としての自負から現われる「市民(citoyen)」としての政治的な信仰告白(politisches Glaubensbekenntnis)であった。この立ち振る舞いが、ボードレールの対抗意識を刺激した。都市大衆がユゴーの心を迷わせることはあり得なかった。彼は都市大衆(Masse)の中に群衆(Volksmenge)を再認した。ユゴーはこうした民衆たちと同一化したいと願った。

「世俗主義、進歩民主主義が、人々の頭上で彼が振った旗印(Banner)であった。この旗印が、大衆という存在(das Massendasein)を変貌させた。その旗の影は、個体を群衆から区別する敷居(Schwelle)を覆い隠した。この敷居をボードレールは守った。この点が、ボードレールとヴィクトール・ユゴーの差異であった。しかし次の点では、ボードレールはユゴーと類似していた。つまり、彼もまた群衆という社会仮象(den gesellschaftlichen Schein)を仮象であると見抜くことができなかったのだ。それ故に、ボードレールが群衆に対して突き付けた指針(Leitbild)は、ユゴーの構想(Konzeption)と同様に無批判的であった。ここでいう指針とは、英雄(Heros)である。ヴィクトール・ユゴーが大衆を近代的な叙事詩の中で英雄として祝うまさにその同じ瞬間に、ボードレールは都市大衆の中に英雄の避難所を探し求める。市民(citoyen)としてのユゴーは自身を群衆の中に移行させようとするが、英雄としてのボードレールは自身を群衆から区別するのである。」
Benjamin, Walter. (1937-1938) “Das Paris des Second Empire bei Baudelaire”, Gesammelte Schriften Bd.I/2, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1980, S. 511-604. 引用はS.569より。

群衆を厚顔無恥に視覚化すればするほど、個それ自体が英雄的な特徴を持つようになる。これこそが、ボードレールにおける英雄的な振る舞いの起源(Ursprung)である。一方、ユゴーにおいて重要となるのは、孤立している個人それ自体ではなく、民主主義的な市民(citoyen)である。この英雄と市民の区別が、二人の詩人の間に生じた根本的な対立項となっている。この対立を解消させる前提条件となるのは、この対立が反映している仮象を追放することである。この仮象はまさに群衆の概念から生じている。群衆形態化(bilden)している様々な階級を度外視するなら、群衆それ自体は、第一次的な社会的な意味を有していない。群衆の二次的な意味は、群衆がその都度初めて状況依存的に形成されるという点にある。劇場の衆、軍隊、都市の住民などは、それ自体としては特定の階級に属していない群衆形態化する。市場はこの群衆の規模を急速に計り知れないほどの規模へと拡大させた。今やあらゆる商品が自らの顧客である群衆を自らの周囲に集める。

こうしてベンヤミンは、ボードレールの英雄的な群衆論とユゴーの市民的な群衆論を同時に脱魔術化する。この脱魔術化は重要な観点となる。と言うのも、この観点に立つなら、群衆形態化とは常に別のあり方でもあり得る偶発的寓意的な配列(Array)以外の何物でもないからだ。ベンヤミンからすれば、形態としての群衆とは、何よりも寓意的な形象に他ならない。事群衆論において、ベンヤミンはボードレール以上に寓意的であったとも言える。仮象を追い払えなかったユゴーが群衆自然の織り成す劇であるかのように錯覚したのは、実際にはそれが資本主義的な生産と市場という「自然法則」が群衆形態化に発現しているからに他ならない。市場における偶発的な私的利害関心が大衆化していくことこそが、近代社会における群衆形態化の資本主義的な根源現象(Ursprungphänomen)となる。この意味で、カール・マルクスが資本主義自然現象として捉えたのは、彼自身皮肉として述べたのであろうが、全く以って精確な分析であったと言わざるを得ない。

問題解決策:マトリックスとしての大衆

ヴェールとしての群衆配列であるのなら、大衆は「マトリックス(matrix)」である。それは「行列(matrix)」であって、「母型(matrix)」でもある。行列的であるのは、大衆配列としての群衆を包含し得るからである。この包含関連は、ボードレール、ユゴー、そしてベンヤミンに共通してられる観点である。一方、大衆母型であるのは、それが新たな形態を生み出し得るためである。このことは複製技術時代に目を向けるベンヤミンに特徴的な観点である。複製技術時代以降、知覚メディアによって組織化された集団の身体は、まさに大衆母型とすることで、常に別のあり方でもあり得る配列としての群衆を柔軟に展開させている。

大衆(Masse)がマトリックス(matrix)となり、芸術作品に対する常習的な態度の全てが現在生まれ変わりつつある。量が質に転化したのだ。」
Benjamin, Walter. (1935/1936) “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit (Zweite Fassung)”. In: Gesammelte Schriften Bd.VII/1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989. S.350-384. 引用はS.380より。

群衆大衆差異に対して、ベンヤミンの記述は安定していない。『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』では、むしろ大衆の方が「ヴェール(Schleier)」として登場している。それは地獄としての近代の都市形象の上に掛けられるヴェールである。大衆ヴェールとなるお蔭で、遊歩者都市の悍ましい事物に魅力を感じ取ることができるようになる。だが遊歩者都市をありのままの形態で視認するのは、このヴェールが引き千切られた時である。遊歩者は、大衆というヴェールが破られた時、都市の広場の一つが、市街戦のために、人気の無いまま横たわっている相貌を目の当たりにする。しかしながら一方で、『パサージュ論』においては、群衆の方が、こうした大衆を覆い隠す「ヴェール(Schleier)」として登場している。群衆大衆区別するなら、群衆大衆というヴェールヴェールであるということになる。だが用語としてれば、この記述は双方の曖昧を示す訳ではない。と言うのも論理的にれば大衆は、群衆を包含するからである。マトリックスとしての大衆が、配列としての群衆を含意する。別の言い方をすれば、群衆は既に、大衆の中に包まれているのである。

集団の身体としての大衆が行列的であるのは、建築や映画のような芸術作品を観察すれば、よくわかることであろう。例えば建築は、母型としての大衆を前提とした芸術作品だ。専ら都市や郊外の集合住宅を例示すればわかり易い。建築物の部屋は行列を形式化している。同様に、映画館の客は、行列的に配置された椅子の上で、映画という知覚メディアから放たれるショック効果触覚的に享受する。

ここでベンヤミンが想定している集団の身体としての大衆は、資本主義的な大衆である。こうした大衆が、マトリックスとして、新しい世界への新しい態度を定めている。つまり母型としての大衆とは、新しい世界の生みの親なのである。しかしそれと同時にベンヤミンは、この「母型(matrix)」という言葉文字通り「母胎(Mutterschoße)」との関連からも分析している。彼は「母胎」を「住まいの原像(das Abbild des Aufenthalts)」としても捉えているのである。だとすると、近代性決定的に規定しているあらゆる形象は、大衆の中に「住まっている(Wohnen)」ということになる。

「住む」の歴史的意味論

住む」という概念の意味論において重要となるのは、一方では太古の、あるいは永遠なるものが認識されなければならないということである。つまり「住む」という概念においては、母胎の中に留まっている状態であるということが認識されなければならないのだ。だが他方では、こうした根源現象としてのモチーフがあるにも拘わらず、その「極限形式での住み方(Wohnen in seiner extremsten Form)」の中には、19世紀の生活状況が反映されてもいる。およそ「住む」という概念の根源的な形態は、「(Haus)」の中にいるということではなく、「容器(Gehäuse)」の中にあるということなのである。容器には、そこに住む者の痕跡が留まっている。住居は、その最も極限的な場合において、容器に変化する。

容器に痕跡を刻み込むのは、住む者の破壊的な性格である。他動詞としての「住む(wohnen)」という概念は、例えば「住み慣れた生活(gewohntes Leben)」といった具合に、「住む」という営みに潜んでいる時々刻々の「現在性(Aktualität)」に関する一つの形象喚起させる。「住む」ということの本質は、一つの容器を我々の心に刻み込むことにある。しかしその一方で「住むこと(Hausen)」とは、「破壊的な居住(zerstörende Wohnen)」である。ここでいう居住とは、任意の習慣形成に費やせる生活を意味する。だが、「住むこと(Hausen)」というのは、そうした習慣形成に拠り所となる事物を傷め付けてしまう。19世紀の市民の具を覆っていたサックやカバーやケースは、そのそれぞれが痕跡を受容することで、保存するための事物でもあった。だがそうした具も長持ちはしない。消耗し、壊れてしまえば、買い替えが必要となる。「住む」というのは、習慣形成とその破壊という極限形式の両極なのである。

この歴史意味論は19世紀の資本主義的な大衆社会構造と密接に関わっている。19世紀の大衆は「住む」ということに対して病的に固執していた。19世紀は、住宅を人間容器として捉えていた。容器の中での人間は、住宅におけるあらゆる付属物と共に、住宅の深い箇所にまで埋め込まれている。その専用の容器は多岐に渡る。懐中時計、上履き、卵立て、寒暖計、トランプケースは直ぐに思い付く容器の一種である。それ以外にも、パッケージやケースという形式を持たなくても、覆い、絨毯、カバー、シーツは、包まることができるという点で、容器機能的に等価である

母型であると共に母胎でもある大衆意味しているのは、人格ではなく即物性であり、個人ではなく機能であり、製造秘密ではなく触覚的に享受し得る知識である。そしてこの母胎としての大衆は、人間世界と呼ばれているものを破壊する装置として役立つべく鍛えられる。20世紀のとりわけ複製技術時代以降の新技術を目の当たりにして、母胎としての大衆は、複製技術による大量生産と補足し合う基本要求を掲げている。それは社会労働と集団に特有の行動様式である。つまり大衆は、装置それ自体によって駆動されなければ、自己自身と出会うことができない。何故なら、「自然」のままの眼差しは、集団的な運動の形態を決して適切には知覚させてはくれないからである。

技術的に組織化された集団の身体としての大衆

ここから、複製技術知覚メディアが必要になるという知見が得られる。ベンヤミンがカメラ知覚メディアとしての機能に強い関心を示したのは、事物細部に潜む「視覚的な無意識(Optisch-Unbewusten)」を露呈させることによって、大衆自己自身を技術的に組織化された集団の身体として認識することが可能になるためである。カメラのような知覚メディアは、記憶の中に埋もれている潜在的で断片的な細部視覚的な無意識として暴露する。クローズアップにおいては空間が、高速度撮影においては運動が、それぞれ顕在化の対象となる。そして拡大撮影の機能は、単にそれまで不明確にならば視えていた事物を単に明確化することにあるのではない。むしろその機能は、事物の全く新たな潜在的構造を顕在化させることにある。高速度撮影は運動の既知の諸要素を抽出するのではなく、この既知の諸要素の中に未知の諸要素を発見することをその機能として有している。

したがって、マトリックスとしての大衆が新しい世界を生み出す母胎であるというのは、知覚メディア機能と不可分である。知覚メディアは、「住む」ことで形式化された日常生活の中に潜む「視覚的な無意識」を暴露する。知覚メディア細部の認識可能性を拡張してくれることによって、大衆は自らを技術的に組織化された集団の身体として理解できるようになる。知覚メディアは集団の技術器官への神経刺激を放つ。そうすることによって、マトリックスとしての大衆は、自らの母胎の中に、「住む」ということが可能となる「容器」の中に、100%の「形象空間(Bildraum)」を集団の「身体空間(Körperraum)」として構築するのである。

プロトタイプの開発:街路名の機能的等価物としてのハイパーリンク

セカンドライフ(Second Life)』や『シムシティ(SimCity)』、あるいは『マインクラフト(Minecraft)』で精密に設計された都市世界るだけでも、都市街路ヴァーチャルリアリティ上で再現することは不可能ではないことがわかる。多くの場合、街路名もまた再現できるであろう。一方、ニール・スティーブンスが『Snow Crash』で提唱した『メタバース(Metaverse)』との関連から話題を呼んでいるWeb VRの構想は、ヴァーチャルリアリティ世界Web上で陳列させることを可能にしている。ハイパーリンククリックすることで、我々は様々なヴァーチャルリアリティの敷居を跨ぐことが可能になるのである。その際、ハイパーリンクテクストは、そのリンク先のヴァーチャルリアリティを指し示す街路名として機能する

リンク先がヴァーチャルリアリティではない場合でも、我々は既にハイパーリンク街路名として利用している。ユーザーはWebページからWebページを辿ることを「ネットサーフィン(Net Surfing)」と呼ぶ。一方でWebサイトの設計者たちは、とりわけインターネット広告文脈において、そうしたユーザーの動向を「回遊」という用語で捉えている。「回遊」という概念は、光での名所巡りと同様の意味合いを持っている。それ故こうも言えるだろう。回遊とは<ヴァーチャルリアリティの遊歩>なのだ。

街路名が街を知るためのユーザーインターフェイスであるのならば、ハイパーリンクリンク先のWebページを知るためのユーザーインターフェイスである。遊歩者が街を精密に調査したことが無いのと同じように、Webサイトを回遊するユーザーの大多数もまた、そのリンク先のWebページを精密には調査していない。それ故にハイパーリンク化されている「名」は、エンドユーザーがリンク先のWebページを感じ取るための唯一の感覚なのである。言い換えれば、ハイパーリンクリンク先のWebページについての直感的な印象喚起する。エンドユーザーは、回遊するに連れて、自身の知覚を球状に複雑化していく。そうして得られた各ハイパーテクスト形象の相互浸透没入することによって、ネットサーフィンに興じるエンドユーザーは、陶酔に浸ることを可能にする。

この想定から、このWebサイトの各ハイパーテクストでは、特に重要なキーワードをハイパーリンク化して記述している。各ハイパーリンククリックすると、そのキーワードの概念規定や意味論が詳述されているWebページに遷移する。それだけではない。遷移直後に、Webページ内でキーワードが詳述されている箇所まで自動的にスムーススクロールする。スクロールした先には、当該キーワードが黄色でハイライトされた状態で表示されている。

このページ遷移直後のスムーススクロールからハイライト処理までの一連の機能は、GitHubのaccel-brain-code/Subliminal-Perceptionで、「Link2Keyword」という簡易的なライブラリとして公開している。

プロトタイプの開発:群衆の機能的等価物としてのマルチエージェント

Web上での群衆は、匿名掲示板やソーシャルメディア形成されている。しかしベンヤミンが指摘するように、群衆仮象であるのならば、その実体が人間であることに必然性は全く無い。私が管理している『Accel Brain; Media』というブログでは、街路名群衆のそれぞれを再現している。

この『Accel Brain; Media』では、既に大半の記事がWebクローラ人工知能キメラ・ネットワークによって自動的に生成されている。このブログは、キメラ・ネットワークのWebクローラとしての機能を前提とした一種の検索エンジンとなっている。検索結果としてヒットする各記事は、キメラ・エージェントたちが記述した、他のWebサイトやブログについてキュレーションメディアとなっている。キメラ・エージェントたちが指し示すハイパーリンクには、大抵の場合、リンク先のWebサイトやブログのページタイトルが記述されている。これがリンク先の世界街路名として機能する。そしてこのブログの著者たちは、20001体ほどのキメラ・エージェントたちである。

20001体ものエージェントたちが、それぞれにWWW上のWebページ観察することで、そのWebページを紹介する記事を記述している。各記事には、観察対象となったWebページへのハイパーリンクが記述されている。これが街路名機能的等価物となる。そして各記事では、当該Webページ要約文を引用した上で、それについての見解が述べられている。見解を述べているのは著者たちである。その見解は、キメラ・エージェントたちの会話という形式叙述されている。総じてこのキメラ・エージェントの著者たちは、群衆機能的に等価な「マルチエージェント(Multi-Agent)」として、様々なWebページ街路名に「群がって」は、それについての見解を「好き勝手に」言い合う。群衆構成するマルチエージェントとしては申し分ない身振りであろう。

Web VRの構想が普及することで、Web上に様々なヴァーチャルリアリティが大量に複製されるようになると、今度はヴァーチャルリアリティWebクローラ検索エンジンが必要になる。『Accel Brain; Media』は、この前段階となる実験的なプロトタイプである。ハイパーリンク街路名機能的に等価テクストであり、人工知能マルチエージェント群衆機能的に等価仮象であるという感触が掴めれば、ヴァーチャルリアリティ街路名群衆もまた同様に設計することが可能であるという着想が得られるはずだ。尤も、実際のところ、群衆機能的等価物としてのマルチエージェントは既に実現しているという見方も採れる。ゲーム世界の「ノンプレイヤーキャラクター(non player character: NPC)」が大規模に密集すれば、ゲーム世界遊歩者たるプレイヤーは、それを群衆として観察することが可能になるためである。

派生問題:悪しき無限

麻薬による陶酔街路名による陶酔と同等に扱うベンヤミンは、更に都市街路を徘徊する遊歩者たちを「探究者(student)」や「ギャンブラー(Spieler)」と同列に扱っている。探究者は、決して探究に終わりなど無いと考える。ギャンブラーは、これで十分であるとは決して考えない。遊歩者は、まだ見るものが必ずあると考える。

彼らの一見無為にも見える活動は、無限に続く欲求に駆り立てられている。ベンヤミンは、彼らの自発が、猟師の自発に一致するのではないかと指摘している。例えば探究者からすれば、文献のテクストは、その中で読者が猟師となる森である。着想が獲物の足音なのであり、引用が獲物への攻撃となる。文献の著者こそが獲物なのだ。しかし、たとえ獲物を捕らえたとしても、狩猟が終わることは無い。その探究者にとって、知るに値することの蒐集は基本的に完結不可能である。蒐集した知の利用可能性は偶然に左右される。

ベンヤミンは、こうした遊歩、探究、ギャンブル模倣として叙述している。無為に過ごす者たちは、遊歩者として遍在的となり、探究者として全知となり、ギャンブラーとして全能となる。ベンヤミンによれば、こうした模倣は、いずれにせよ完結不可能であるという点において、フリードリッヒ・ヘーゲルが述べた意味での「悪しき無限(schlechte Unendlichkeit)」を形成すると共に、ボードレールの悪魔主義における根源を成すという。

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