「人工の理想」を背景とした「万物照応」のデータモデリング

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派生問題:ギャンブラーの蒐集は如何にして可能になるのか

一般的なギャンブラー蒐集対象の一つとして挙げられるのは、貨幣である。例えば資産運用を志向した株式のインデックスフォンドへの「投資(investment)」や貪欲な仮想通貨(Cryptocurrency)への「投機(speculation)」は、貨幣蒐集の営みである。しかし貨幣蒐集するためのギャンブルを単なる「マネーゲーム」として観察してしまっては、人間学的唯物論的なメディア美学を前提とした着想が得られなくなる。

問題解決策:『宗教としての資本主義』の精神

マルクスが指摘したように、資本主義的な経済の決定的な主題となるのは「商品の魂」を宿らせた事物に対する物象化に他ならない。市場に陳列されている商品は、相互に異質な事物であるにも拘わらず、それらを均質で同一なものとして錯覚させるような仮象を生み出す。本来異質である事物に同一性を感じ取らせるのは、差異に対する無関心である。そしてこの無関心は、複製技術時代以降の大量生産を前提とした資本主義的な社会構造によって社会化された人格による無関心である。

マクス・ウェーバーの「資本主義精神」という主張は、プロテスタントの禁欲的な生活形式が、資本主義における日常生活をも形式化させたというものであった。このテーゼを単なる社会学的な考察として受け止めるだけなら、なるほどこの近代社会は、宗教の重荷から解放された「脱魔術化された世界」であるということになる。

だが、重荷からの解放は、それ自体既に重荷であった。「宗教過去のものになった」という認識は、それ自体既に過去のものになっている。この近代社会では、意味付けられた固有の「生(Leben)」と社会システム機能的な「生活(Leben)」との間に緊張関係が絶えないが故に、宗教は社会的に機能するシステムとして観察されている。少なからず「待つ者たち」にとっても、あるいは「救世主の再臨」が未だ果たされていない者たちにとっても、宗教の社会的な機能期待外れを制御することで幻滅の負担を軽減することにあるのは明らかである。

近代社会社会構造との関連から言えば、まず以って<信じる>ということが人間的にも政治神学的にも不可避であるという事実こそが、宗教機能を規定する。人生は苦悩に満ちたもので、不条理なものであるからこそ、様々な答えを配列している体系が必要になる。そうした意味処理規則としての歴史意味論が伝統的に「宗教」と呼ばれてきた。まず以って<信じる>ということが人間的にも政治神学的にも不可避であるという事実は、何一つ変わっていない。政教分離にせよ、近代科学の発展にせよ、あるいは宗教それ自体の世俗化にせよ、宗教機能が要求されなくなったことを意味しているのではないのである。

むしろこれらの「近代化」の事象が指し示しているのは、近代社会社会構造が、宗教を頂点とした階層的な分化から、機能的な分化へと移り変わったということである。社会システムや、それぞれの問題領域のみを志向する様々な機能的なサブシステムへと分化している。宗教は、一つの機能システムとして、も尚この近代社会の内部で作動しているのである。

『宗教としての資本主義』の精神

我々が近代社会の中で生きていることはあまりにも自明であるが故に忘れられがちだが、この近代社会社会構造は、政治、経済、法、科学・学問、マスメディア芸術教育、家族、宗教などの問題領域に応じて、機能的に分化した社会としての様相を呈している。権力、貨幣、真理、情報、美醜、あるいは道徳的な善は、分解され、相互に無関係なものになっており、それがそれぞれの問題領域に特化した組織システムにおいて、「専門職」という形式区別されるようになった。

国家、銀行、大学、テレビ局、裁判所などのような組織システムは、それぞれに独自の制度と手続きによって、固有の価値を提示している。ウェーバー風に言えば、社会的な価値の序列は多教化したのだ。各々の機能的なサブシステムは、それぞれ独自の<裁きの日>を待つ。古代人が旅の途中で様々な々に捧げ物をしたように、近代の人間は、政治、経済、科学・学問などのような価値の論理に屈服するのである。

ベンヤミンに倣い、「資本主義精神」に関するウェーバーのテーゼにおける<歴史神学>的な特徴を際立たせるなら、その核心はこうなる。プロテスタントの禁欲的な生活形式は、日常生活を形式化させる「生(Leben)」の意味処理規則構成した。この意味論は、資本主義的な経済システムの消費や投資のプログラムを支えるだけではなく、「救済の観点」を導入することを可能にする。まさにこの意味論こそが、資本主義宗教的な社会構造を方向付ける。我々は資本主義歴史を単なる経済システムの概念史としてだけではなく、近代社会における<寄生>的な関係として把握しなければならない。資本主義は、他ならぬキリスト教に寄生することで発現した。それはキリスト教の力を養分として育まれ、遂には宿主と一体化したのである。だからベンヤミンの『宗教としての資本主義(Kapitalismus als Religion)』の精神意味するのは、近代社会におけるキリスト教の歴史が、資本主義歴史でもあるということなのである。

「神」の機能的等価物としての貨幣

したがって、この近代社会の代表的な宗教となっているのは、資本主義に他ならない。ベンヤミンが述べたように、『宗教としての資本主義』は祭儀のマーケティングを展開する。一見そこには如何なる教義も、神学すら存在しない。だが資本主義社会構造は、様々な<異教>の自然史的な原初形態に見受けられるように、直接的な「御利益」を目指すべく、消費者を社会化する。資本主義の祭儀は常に持続するために、毎日が商品物神崇拝のための祭日となった。資本主義教の祭儀は商品の祭儀に他ならない。

こうした『宗教としての資本主義』の精神が「」として崇めるのは、貨幣に他ならない。それは徹底的に物象化され、既に物神崇拝の対象になっている。古代社会における貨幣は、奴隷という人間形式として奪い合う対象となっていた。中世の社会における交換経済では、物質的な価値を帯びた金貨が貨幣として利用されていた。そして近代社会では主に、紙幣と硬貨が貨幣として機能するようになっている。注意しなければならないのは、この物質としての貨幣そのものの機能と価値は、物質的ではないということだ。長らく貨幣は、物質に機能と価値を付加させることで成立してきた。やこの脱物質化は、「仮想通貨」を以って、完遂されることになった。

貨幣の概念史は、その事物の素材としての価値が、経済的に観察される価値から区別されていく営みを主題とした歴史意味論として記述することも可能である。しかしこのことを記述するために、シニフィアンシニフィエ区別するだけの記号論が必要不可欠になる訳ではない。と言うのも、この貨幣意味論は、機能的に分化した近代社会資本主義的な社会構造との関連から意味を持つためである。ここでいう資本主義は、もはや経済システム社会構造における概念ではなく、キリスト教と歴史を共有している『宗教としての資本主義』である。だからこそ貨幣意味論は、宗教的にも記述することが可能なのである。

貨幣機能するのは「貨幣機能する」と皆が信頼しているからこそであるという、貨幣の論点先取のような性格を指摘したのは、マルクスであった。誰も貨幣貨幣としての機能信頼していなければ、それはもはや貨幣ではなくなる。したがって、「流通貨幣」の略称である「通貨(currency)」が機能するには、まず以って<信じる>ということが大前提になっている。逆に言えば、誰も信頼していない「通貨」というのは、定義の上で矛盾している。

これを前提とすれば、資本主義において機能する貨幣は、<信じる>ことの証であって、<信じる>ことの対象――すなわち、「(Gott)」の機能的等価物となる。貨幣は「」の代わりに世界の確実性を保証する訳だ。株式や仮想通貨に限られたことではないが、少なからず経済システムにおいては、貨幣は命よりも重い。それはあらゆる企業の組織システムとしての意思決定を方向付けるメタレベルの「不確実性の吸収」機構となる。しかしこの意思決定のコミュニケーションは、組織的ではあれど、純粋に経済的なコミュニケーションなのではない。そこにはまさに宗教的な機能が寄生しているのである。

実際、「」の機能的等価物としての貨幣を前提とした意思決定を前にすれば、我々はもはやその決定前提を遡及することができない。貨幣は、の啓示となることで、意思決定の決定前提に対する無限後退を遮断してくれる。無論このことは、株式や仮想通貨に限定した場合の論理ではない。しかし暴落を繰り返す仮想通貨を観察すれば、それがとりわけ「」として機能していることを明瞭に判読できるようになる。「円」や「ドル」のように、通常の貨幣であれば、それは経済的に機能している。だからこれらの貨幣からは、中々宗教的な「」としての機能を読み取ることができない。だが仮想通貨は、そもそも経済的な機能の遂行に失敗している。だからこそ「」としての機能を判読することが容易なのである。

宗教としての資本主義』は、近代社会に寄生した潜在的な存在であった。だが同時にこの寄生的存在は、脱魔術化された合理的な世界で敗北した者に救いの手を差し伸べる。仮想通貨は、貨幣としての経済的な機能の遂行に失敗するからこそ、とりわけ経済的・投資戦略的な弱者の信仰の対象としての性格を顕在化させているのである。信頼を失った仮想通貨は、「通貨」ではない。確かにそれは一理あるだろう。だがそれは、経済システム社会構造を前提とした場合に限られる。ここでいう信頼は、経済システムにおける信頼であって、宗教的な信仰からは区別される訳だ。まず以って<信じる>ということが人間的にも政治神学的にも不可避であるという事実が、仮想通貨に備わる救済のプレミアムを際立たせている。資本主義という宗教の中では、仮想通貨は未だ「通貨」なのであって、「」の機能的等価物として君臨し続けているのである。

「悪魔」的に一般化されたメディアとしての貨幣

経済システム機能問題領域に視点を絞り込んだ場合、また別様の等価機能分析が可能になる。機能的に分化している経済システムという概念を、貨幣メディアとして形式化される支払いを通じた経済的なコミュニケーションとして理解した場合、生産、交換、分配、資本、労働を全て派生的な事象として扱うことができる。経済システムにおいては、あらゆる出来事貨幣の支払いを通じたコミュニケーションとして認識される。経済システムにおける雇用者や消費者のような人格は、常に事前の支払いを考慮した上で貨幣を支払う。事前の支払いを加味することで、その人格は自身の支払い能力や支払いへの動機付けを認識できるようになる。それが後続の支払いにおける尺度として役立つのである。

社会システム理論的に言えば、貨幣の支払いの対象となるのは、経済システムの内部で構成された商品をはじめとする事物だけである。確かに経済システム外部環境にも、商品となり得る事物は溢れている。例えば大学の学費は教育という経済とは異なる機能システム構成されている。学費が支払われる時、経済システム教育システムに対する外部言及を実行していることになるはずだ。だが外部言及とは、外部に言及している自己への言及に他ならない。そこにおいては、期待という外部言及対象の限定技術形式機能している。

経済システムにおける期待形式として挙げられるのは、価格だ。価格は単に支払われるべき貨幣の総量を言い表す記号なのではない。価格は、「量」を指し示す「数値」という形式で外部言及対象を限定しているのである。だから経済システム人格が大学の学費を支払う場合、その人格は、教育システムの全貌を眺めているのではない。その人格は、あくまで学費の価格によって描写された<教育システムの一部>にのみ言及しているのである。

このように貨幣機能するのは、貨幣象徴的に一般化されているためである。しかしこの貨幣一般化象徴的であると同時に「悪魔的(diabolic)」でもある。貨幣未来への備えとして機能する。貨幣を貯蓄し過ぎても、食料品のように腐ることは無い。だから貨幣は、未来の欲求充足への備えとなる。しかし一方で貨幣は、新たなリスクを派生させてしまう。例えば物価が上がれば、貨幣を貯蓄する計画が崩れてしまう。保険に加入すれば、保険会社の支払い能力が劣化するリスクに直面するかもしれない。貨幣は、現在における未来への備えを可能にする一方で、未来における現在リスクを生み出すのである。

貨幣は、多種多様な財やサービスの交換を一元化してくれる。これにより、経済的なコミュニケーション偶発性を低めてくれるだろう。しかし、例えば店頭に展示されている価格だけしか観ないとなれば、その商品の出所に無頓着になってしまう。その結果として、汚染された作物を無自覚に摂取してしまうことにもなり兼ねない。

貨幣は取引当事者の人格や動機や利害関心に左右されることなく交換可能性を高めてくれる。だから汚染された作物であることを知りながら、利益のために出荷する農業者が現われても、消費者は無頓着にそれを購入してしまう場合もある訳だ。

その一方で貨幣は、貨幣の支払い能力を持たない人格を問答無用で一律に排除する。失業者などのように、排除された人格から観れば、これは痛手でしかない。市場経済が発展する以前の社会では、こうして排除された人格も相互扶助や宗教的な慈善によって救済されていた。

しかしながら貨幣は、そもそも未来への備えとして機能することで、未来の不確実性や危険に対処しようとする相互扶助や慈善的な宗教の必要性を低下させてしまう。それ故に貨幣は、支払い能力を持たない排除された人格をいつまでも排除されたままにしてしまい兼ねないのである。

一般化された「娼婦」としての貨幣

マルクスの経済学を読むと、この「」でもあり「悪魔」でもある貨幣が、一般化された「娼婦」として登場している。それは人間群衆媒介するメディアとして機能する。このことを強調しているのが、ボードレールの「通り過ぎていく女に(À une passante)」に対するベンヤミンの洞察だ。このボードレールの詩で叙述されているように、都市の空間にすれ違い通り過ぎていく他者に心を奪われる詩人がいるのは、群衆ヴェールに包まれた他人同士が貨幣というメディアによる娼婦的な媒介作用によって瞬間的に一体化するためである。これを前提とすれば、貨幣蒐集するためのギャンブル観察する上では、むしろ声も掛けられずに通り過ぎていく女の如く、その蒐集に失敗する瞬間に対する観点も設けなければならない。

二十世紀のマルクス主義者たちの中に紛れ込んでいた<歴史神学>者たちは、生けるものが死せる物質になっていくことに、近代社会の地獄の相貌を見出していた。彼らはその恐怖を商品物神崇拝主題とした哲学を展開することで解消しようとしていた。

ゲオルク・ルカーチの『歴史と階級意識(Geschichte und Klassenbewußtsein)』における研究は、この物象化の対象範囲を明確化することに寄与している。近代資本主義の到来によって、諸々の社会的諸関係が物象化されると、「人間」の意味の世界が空洞化することになる。あらゆる対象は物象化されることで商品と化す。その結果、「人間」が生産した世界が、逆に「人間」に対して敵対的で疎遠な存在となる。このことをフリードリッヒ・ヘーゲルは「疎外(Entfremdung)」と呼んでいた。マルクスの物神崇拝概念は、これを再記述した概念である。一方ルカーチは、これを社会的な「媒介(mediation)」との関連から再記述している。

ルカーチの媒介概念が意味しているのは、社会的な現実に対する現状認識の様相である。世界の対象性に抵抗したのがイマニュエル・カントであった。ヘーゲルはこれに代わり、世界の対象性の媒介を指摘している。社会の本来的かつ客観的に対象化された構造が明らかになるのは、媒介を前提とした場合である。社会的な現実の観察者は、その現実の如何なる面においても、その最終的な形を視認することができない。言い換えれば観察者には、社会的な現実がそれ自体として完結しているとは認識できないのである。媒介指し示しているのは、諸々の社会的な現実に対する直接的な到達可能性が、生成の過程である「全体」によって規定されているということだ。ルカーチによれば、この「全体」を凌駕するために労働者階級が採り得る唯一の道は、共産党であるという。

媒介との関連で言えば、ルカーチの物象化に対する分析は、物それ自体の問題歴史上一回的な現象として解釈する視点を提供している。その背景にあるのは、資本主義における歴史上特有な商品形態が形成されたということである。そしてまた、彼はカントにはじまる超越論的主観性を抽象的で合理的な交換関係を代理表象する概念として把握する。と言うのも物神崇拝の性質は、本来は後天的であっても、それが歴史的にも具体的にもアプリオリ(a priori)なものになってしまうためである。

媒介は、直接的な所与を客観的な現実に転換させる。物それ自体が事物となるのは、何らかの社会的諸関係を介してのことである。この媒介がなければ、物は物のままだ。逆に言えば、媒介はそれぞれに全体性を指し示す。あらゆる社会的諸関係が、一つの全体性を提示する。近代の社会的諸関係は物象化された事物の関連となる。この事物の関連には、物象化された「人間」もまた組み込まれている。

このことからルカーチは、事物としての「人間」が、事物という客体としてのみならず自己意識を有した主体として、全体性を提示する可能性も持ち合わせていると考えた。この観点から彼は物象化をカント以来の主体と客体の分裂の突破口として捉える。事物という客体として扱われるようになった「人間」が主体として自己意識を持てば、主体と客体の対立が克服されるという。無論これは観念論的過ぎるために、現実の労働者階級の具体的側面との乖離が目立つというのも全うな指摘ではある。しかしここで重要なのは、ルカーチがあえてこの物象化という事象を好意的に評価しているということである。

商品の魂の売春

大都市の売春は、衝動的な性生活を大量生産品としてパッケージングした商品として売買される。それが物象化された性的対象の性的アピールを強化する。何故なら、大衆という母胎があってこそ、娼婦という性的対象はそれ自体が放つ無数の魅了作用のうちに映し出されるためである。

パサージュが建築される以前、売春は厳格な管理の対象であった。中世を生きた娼婦たちは、キリスト教による道徳的な規制によって、その営業範囲を狭められていた。一方ルネサンス以降の娼婦たちは、性病の蔓延を防ぐために、特定の街に囲い込まれていた。ところがジョルジュ・オスマンらの手により、仏蘭西第二帝政期にはパサージュが建設されると、事態は一変する。鉄で構成された骨組みに、輝かしいガラスの丸天井が、大理石で造られた街路を包み込む。その曲線の両端に位置する無数の店舗で展示され始めた個々の商品は、消費者たちを夢の中のパノラマを連想させる勢いで誘惑し始めた。

この商品による誘惑が、物神崇拝の引き金となる。商品物神崇拝は、商品という無機物による誘惑への屈服を言い表している。娼婦もまた例外なく物神崇拝の対象となった。パサージュが建築されたことで、群衆が夜でも街を出入りできるようになったためだ。購買者が増加したことで、売春の市場は活性化することになったのである。

群衆の多くの男性消費者たちが娼婦を愛したのは、理由の無いことではない。ベンヤミンによれば、それは商品に対する感情移入が格化されたことを意味する。ここで彼が指摘している商品への感情移入とは、商品の交換価値への感情移入に他ならない。それは価格で指し示された商品の等価性を支えるものへの感情移入である。

ただし娼婦の消費者たちの性的な眼差しがまず以って向けられるのは、彼女らの有機的な側面ではない。消費者によって注視されるのは、娼婦という商品においても例外なく、無機物としての側面なのである。彼女たちは化粧で個性を覆い隠している。その代わりに見せるのは、職業的な表情だ。御揃いの衣装を着用した踊り子たちが、こうした特徴を際立ててくる。物神崇拝者たちの視線を集めるのは、女の裸ではなくなる。むしろ流行に身を纏った女の外観の方が、展示上の価値を持ち始める。物神崇拝者たちは無機物として構成されたマネキンに性的な魅力を感じる一方で、有機物として構成された女の裸体をマネキンのように扱う。

この観点から言えば、物神崇拝無機物に対する「エロティシズム(Erotik)」となる。物神崇拝において、性は有機的な世界と無機的な世界の間の壁を取り払う。服装と装飾は性と結託している。髪は有機的な世界と無機的な世界の境界に位置付けられる。身体の様々な光景は、観る者の性欲を激情の陶酔の最中へと開放する。

寓意としての娼婦

ボードレールが近代に形態を付与することができたのは、まさにこうした商品に対する物神崇拝が彼の寓意的な志向と照応していたためである。ベンヤミンがボードレールの方法に関心を寄せたのは、商品寓意の段階にまで高められるためであった。寓意歴史をフェードアウトさせる物神崇拝的な美化を破壊する。娼婦は、この寓意化を快楽の身体の中で遂行する。

ベンヤミンが『パサージュ論』で娼婦に見出している歴史哲学的な重要性は、ルカーチが労働者に与えている体系的な位置付けと照応している。何故なら『歴史と階級意識』では、労働者が<商品自己意識>として登場するからである。この自己意識が、その意識対象を具体的に変化させる。労働力という商品の物質的な<容器>を破壊することで、その中にある生きた核を引き摺り出すのである。しかしベンヤミンの人間学的唯物論が目指すのは、労働力という商品の生きた核ではなく、快楽という商品の中にある死である。まさに寓意としての娼婦こそが、自らの生の完全なる物象化を以って、その死を体現している。有機物と無機物を仲介する売春の関係は、その両者の堕落した宥和の形態なのである。

娼婦という身体を有した<人間化した商品>は、物質世界の価値を下落させることによって、物質世界を寓意的な志向に沿うように作用する。娼婦は快楽に仕える。そのために娼婦は、完全に魂の抜かれた身体として、商品寓意を統合する。だが寓意的な志向が完全に満たされているために、その仮象は瞬く間に崩壊し始める。そしてこの崩壊によって、娼婦の形象弁証法的になる。

浄化の道

貨幣は、こうした大都市の娼婦による売春の機能的等価物である。売春と貨幣に共通しているのは、痕跡が無く、不誠実で、無関心かつ即物的であるという点である。売春は、瞬間的に絶頂へと登り詰めると共に、瞬間的に消滅していく欲望に奉仕する。同様に貨幣もまた、何物にも拘束されることなく、原理的にはいつでも何処でも蒐集することができる。貨幣と娼婦は脱魔術化された近代社会の基本的な構成要素として出現したが故に、如何なる人間も、これらの諸要素とは無関係ではいられない。売春や貨幣を前に、我々は純潔を保つことができないのである。

この脱魔術化された世界において、純潔を保つことが可能であるという認識は、錯覚以外の何物でもない。そうした消極的な禁欲は、社会の「罪の文脈(Schuldzusammenhang)」に自分は関与せずに済むという誤った錯覚を形成する。そうした錯覚は、社会が贖する可能性を歪めてしまう。これに対して、娼婦が展開する売春のビジネスモデルは、娼婦が得る貨幣と同様に、道徳的にと見做される。だからこそ娼婦には、自分を純潔に保つという衛生的な錯覚を抱く必要が全く無い。娼婦に残されているのは、真に道徳的な道、つまりは「浄化(Reinigung)」の道だけである。この道は、破壊的な性格の持ち主たちの足場に敷かれた道である。それは、世界を純化(Reinigung)された白紙状態(tabula rasa)になるまで徹底的に片付ける(Reinigung)ーー極端に逸脱した思考極限まで突き進める者たちの道なのだ。自らの手を汚すまいとする潔癖症の偽善者たちは、資本主義の中で行われるあらゆる実践が浄化を必要とすることを最期まで悟ることができない。我々がこの近代社会の何処に逃避しようとも、娼婦のような貨幣は常に付き纏ってくる。貨幣は、個々人にとって、永劫の「罪の文脈」を形成する。ベンヤミンが最も危険視していたのは、資本主義の時代の人間たちが、そのを浄化する術を知らないという実態だ。だからこそベンヤミンの眼には、極端なまでに浄化の道を突き進む娼婦が、ある種のユートピア的な形態として映ったのである。

問題解決策:「投資」と「投機」の区別

「投機(speculation)」と「投資(investment)」の区別は、貨幣蒐集するギャンブル資本主義的な形式として導入される傾向にある。しかしこの区別の境界線は曖昧である。投機は、投資に比して短期的でリスクが高い。投資はより長期的な展望から観察されている。だがこの短期と長期の区別リスク意味論は、投機や投資の取引を制度化している経済システム社会構造によって左右される。投資をしているつもりの投資家でも、後から振り返れば投機的であったということは、間々ある。

投機や投資で取引される対象が「株式(stocks)」である場合、とりわけこの取引の意味合いは不確実性になる。株式の制度には、企業の所有権を分散させることによる有限責任形式を導入することで、事業に失敗した場合の損失を限定的にするという機能がある。この機能により、資金調達の負担軽減が可能になると共に、事業者を挑戦へと駆り立てることを可能にする。投機や投資を実践しても、その取引のコミュニケーションがどのような意味を持つのかは、その後に続く経済的なコミュニケーションに依存するのである。

株式機能は、株式会社が将来的に生み出す利益の全てを現在の価値に変換することにある。ある株式会社の株を100%所有している場合、その会社は自分の所有物となる。その会社が生み出す将来的な利益は、全て自分で所有していることになる。この意味株式とは企業の所有権である。企業という組織システムは、経済機能問題領域との関連からその作動を継続する限り、常に利益と損失を生み出す。したがって株式の価値は、将来的にその企業が生み出す利益の総額に等しい。

株式の取引からは多くのことが学べる。貨幣の価値は、未来になればなるほど低下していく。貨幣の所有者は、より先の未来になれば、それだけ貨幣の価値を揺るがす不確実なリスクに曝されるためである。この貨幣の価値を計算する上で重要となるのが、強化学習問題の枠組みにおいてもお馴染みのパラメタである「割引率(discount rate)」だ。このパラメタは、現在に近いほど価値が上がり、未来になるほど価値が下がるように調整するパラメタとして機能する。株式の価値が企業の将来的な利益の総額である。その利益は、この割引率の形式によって、現在の価値に変換される。

ファンダメンタルズ派とテクニカル派の差異

したがって、株式の価値を計算するために必要となる情報は、究極的には二つしかない。それは将来的に生み出される利益と割引率である。一株の利益が大きければ株価も高くなる。株式の価格は、割引率に反比例する。一見してこの計算過程は完全に定量化されているかのように思える。だがこの定量化の前提となる思想には、投資家ごとに差異がある。

長らく株式投資家たちの間では、本質の分析(Fundamental analysis)を重視する「ファンダメンタルズ派」とチャートのテクニカルな分析(Technical analysis)に専念する「テクニカル派」の論争が繰り広げられてきた。チャールズ・ダウの「ダウ理論(Dow Theory)」が脚光を集めて以来、テクニカル派の観点は、トレンド(Trend)や反転シグナル(reversal signal)、ローソク足(Candlestick)などのように、様々な株価チャートの形態に向けられてきた。テクニカル分析の理念は、株式投資に関わる全ての情報が株価チャートに埋め込まれているという前提から成り立っている。株価と日数のようなテクニカル指標が全てであって、それ以上に「本質的(fundamental)」な指標は無いと考える。一方、ファンダメンタルズ派は、企業にはそれ固有の本質的な価値があるという。そして本質の分析者は、この価値を合理的かつ適正に定義できるという。理論的には、株価は本質的な価値から合理的に決定可能であるということになる。

形式的には、企業の現在価値を定義することは可能である。それは株価の現在価値の定義に重なる。しかしながら、分析者が得られる情報は限定的である。この将来予測と割引率の計算を実行することは、困難極まりない。ウォーレン・バフェットのように、財務諸表や年次の報告書を判読すると共に、競合他社の情報と突き合わせながら事業展開推論すれば、確かにその企業の本質的な価値が視えてくるのかもしれない。そして、将来性があるにも拘らず割安で放置されている銘柄を発見できれば、それを長期保有することで、株価の増減に振り回されることなく、利益を得ることが可能になる。一方、テクニカル派の投資家が本質的な価値ではなくチャートを分析するのは、そこに他の投資家たちの期待が反映されていると考えるためである。株価の変動を予測するには、その背景にある期待とその期待外れの変異を予測しなければならない。そしてその期待期待外れに対する対応は、必ずしも合理的ではないという。

投資の分散化

ノーベル経済学賞を受賞したハリー・マーコウィッツの投資の「分散化(diversification)」に始まり、ウィリアム・シャープの「資本資産評価モデル(Capital Asset Pricing Model: CAPM)」を経由した近代のファイナンス理論は、投資家合理性を前提とした理論として記述されている。ギャンブラーであれば誰でも、リスクと利益(return)の区別を導入している。ポートフォリオ最適化問題では、このリスクを収益率の「分散(variance)」で、利益を収益率の「期待値(expected value)」で記述する。分散が小さければ、期待値からの逸脱は小さく、リスクも小さいと見積もれる。だが株式は、暴騰や暴落を繰り返すために、分散は大きくなる。そこで投資の「分散(diversification)」が推奨されることになる。n個の資産iの期待収益率を$$r_i$$、資産iへの投資比率を$$x_i$$とするなら、ポートフォリオの期待収益率は次のような加重平均となる。

$$\hat{r}_p = \rm{E}(\bar{r}_p) = \rm{E}\left(\sum_{i=1}^{n}\bar{r}_ix_i\right) = \sum_{i=1}^{n}\bar{r}_ix_i$$

資産iの収益率の標準偏差を$$\sigma_i$$、資産iと資産jの収益率の共分散を$$\sigma_{ij}$$とするなら、ポートフォリオの収益率の分散は次のようになる。

$$\sigma_p^2 = \rm{E}\left((\bar{r}_p – \hat{r}_p)^2\right) = \rm{E}\left[\left(\sum_{i=1}^n(\bar{r}_i – \hat{r}_i)x_i\right)^2\right] = \sum_{i=1}^n\sum_{j=1}^n\rm{E}\left[(\bar{r}_i – \hat{r}_i)(\bar{r}_j – \hat{r}_j)\right]x_ix_j = \sum_{i=1}^n\sum_{j=1}^n\sigma_{ij}x_ix_j$$

相関係数を$$\rho_{ij}$$とするなら、共分散は$$\sigma_{ij} = \rho_{ij}\sigma_i\sigma_j$$となる。するとポートフォリオの収益率は、次のように再記述できる。

$$\sigma_p^2 = \sum_{i=1}^n\sum_{j=1}^n\rho_{ij}\sigma_i\sigma_jx_ix_j$$

$$x_i = \frac{1}{n}$$と単純化することで、投資比率を等価と仮定するなら、

$$\sigma_p^2 = \sum_{i=1}^n\frac{\sigma^2}{n^2} + \sum_{i=1}^n\sum_{j=1}^n\frac{\rho\sigma^2}{n^2} = \left(\frac{1 – \rho}{n} + \rho\right)\sigma^2$$

となる。ただし、

$$ \rho_{ij} = \begin{cases} 1 & (i = j) \\ \rho & (i \neq j) \end{cases} $$

したがって、資産数nを増やせば、それだけ分散は下がる。相互に相関が0の資産を無限に所有すれば、分散はゼロになる。尤も、分散をゼロにすれば良いという話でもない。何故なら投資家は、リスクを取ることによって、期待収益を高めることもできるためだ。マーコウィッツの洞察の肝となるのは、このリスク概念が分散概念と照応している点である。

「期待収益最大となるポートフォリオは、必ずしも分散最小となるポートフォリオである訳ではない。一定の割合で、投資家が分散を取ることによって期待収益を獲得する可能性もあれば、期待収益を断念することで分散を減らす可能性もある。」
Markowitz, Harry. (1952) “Portfolio Selection”, The Journal of Finance, Vol. 7, No. 1., pp.77-91., 引用はp79より。

だが現実的には、投資を分散化しても、全てのリスクを取り除くことはできない。何故なら株式とは、程度の差はあれ、同じ方向に増減する傾向があるためだ。加えて、所有している資産が相互に無相関であるという保証は、完全には得られない。ファイナス理論が仮定するところによれば、市場は微粒子のブラウン運動の如く、アトランダムに振る舞うためである。そこでファイナス理論では、株価の増減の「傾き」に着目する。この傾きを「期待利益(expected return)」と名付け、この値が正であれば、株価はアトランダムでも長期的には増加傾向を示す。逆にこの値が負ならば、株価はアトランダムでも長期的には減少傾向を示す。

効率的市場仮説の社会構造と「ベータ」の意味論

かくしてファイナンス理論は、分散と期待利益を用いることで、株価の数学的な定式化を可能にした。それと同時に、異なる株式同士の比較可能性を確保している。それぞれの株価は、それぞれの期待利益と分散によって、それ固有のリズムで、増減している。投資家は、それぞれの銘柄のリズム計算することで、リスクを分散し、時にはそれを相殺することもできる。この投資の分散化の発想は、リスク区別を導入する上での意味処理規則としても機能している。例えばウィリアム・シャープらは、利益の変動性の中でも、株式市場全体が変動するか、全ての株式がある程度同じ向きに増減することから生じるリスクを「システマティック・リスク(Systematic risk)」と名付けた。システマティック・リスクではない非システマティック・リスクとなるのは、ストライキや新製品の発表など、その企業固有の要因によって生じるリスクである。非システマティック・リスクは、企業固有のリスクであるため、投資の分散化によって低減できる。一方、システマティック・リスク投資を分散化させても低減できない。

シャープが導入したCAPMは、それぞれの株式を市場全体の状態と関連付ける方法である。各銘柄の株価の状態は市場全体の状態から影響を受けて規定されている。ここでの全体とは、例えば平均を表している。平均株価が増加すれば、それに連なり、各銘柄の株価も上がるという訳だ。ただし銘柄によって、影響を受ける度合いは異なる。この差異計算可能にするのが、いわゆる「ベータ(beta)」というパラメタである。

市場全体に照応する株式とポートフォリオが完全に相関している場合、株式投資はポートフォリオそれ自体への投資の代用となる。このことが表しているのは、株式とポートフォリオがより固定的な比率を有するという、完全な相関関係である。ここでの固定的な比率が「ベータ」と呼ばれ、一方で定数は「アルファ(alpha)」と呼ばれる。より定式化して言い換えれば、株式の超過利益は、ポートフォリオの過剰利益、アルファ、そしてベータの関数となる。

$$E_s – r_f = \alpha + \beta(E_p – r_f)$$

この数式が指し示しているのは、αがゼロよりも大きい定数であるために、株式期待収益率と無リスク金利(risk-free rate)の差が、資産の期待収益率と無リスク金利の差のベータ倍よりも常に少ないということである。予測され得る超過収益率は、ポートフォリオの収益率よりも高いことになる。別の言い方をするなら、CAPMの前提となるのは、各銘柄の株価のリズムが、市場全体のリズム同期しているという点である。CAPMは、ある株価のリズムを、<その銘柄に固有のリズム>と<市場のリズム照応して形態化したリズム>とに区別することを可能にしている。アトランダムに振る舞う株式期待収益率は、この二つのリズムによって説明できることになる。

ここからシャープは、「効率的市場仮説(Efficient market hypothesis)」を前提に、奇を衒うような結論へと向かう。効率的な市場における経済的な取引は、合理的に遂行される。その市場全体は、合理性によって構成されている。それ故に、株式市場全体で保有されている株式の割合もまた、合理的に決定されているはずである。だとすると、合理的な投資家が保有すべき最適なポートフォリオとは、保有する株式の割合を、株式市場全体で保有されている株式の割合に照応させることで成り立つことになる。個々の合理的な投資家は、同一の情報と同一の規則に準拠した上で、同一のパラメタで最適化されたポートフォリオを保有するはずだ。それが株式市場全体と照応するのである。これを前提とすれば、合理的な投資家にとっての最適解とは、平均株価に連動するインデックスフォンドに投資することに他ならない。シャープはこのことから効率的なポートフォリオは株式市場それ自体であると結論付けた。

注意しなければならないのは、ここで想定されるベータが、過去の実績に基づいて計算されているということだ。つまり蒐集した情報次第で、ベータは変わるのである。既に述べたように、システマティック・リスクを定量化したのがベータである。だがこの数値は、過去のファンドマネージャーが何十年もの間培ってきた経験則を記述した形式に過ぎない。

経済システムの自己言及的な作動としての金融市場

ベータの意味論経済システム社会構造にも依存している。例えば「市場(Markt)」を如何に定義するのかによっても、ベータの意味は変わる。市場でリスク・プレミアムを規定するのは、システマティック・リスクだけである。しかし、個々の株式やポートフォリオによっては、システマティック・リスク構成はあまりにも複合性が高い。市場平均の変動に対する感応度を表すベータだけでは、到底把握し得ないのである。

社会システム理論的に言えば、「市場(Markt)」とは、企業や個人投資家や消費者などのように、経済的なコミュニケーションに包含されている参加者のシステムが、自身の外部環境としての経済システム観察する際に構成される概念である。この観察は、主に価格を介して形式化される。市場は経済システムそれ自体ではない。各システム観察によって構成される以上、「市場」という同一の言葉で語られていたとしても、その意味観察者次第で偶発的となる。

金融商品に限らず、資本主義的な市場におけるあらゆる商品の価格は、複製された同一の商品差異化されているという<特殊>なものの<一般>化のパラドックスを前提としている。この商品の価格のパラドックスは、市場にも適用される。例えば価格変動は、万人にとって同一の事象である。だが、変動した価格を観察する取引の参加者たちが、その価格変動によって如何なる意思決定を下すのかは、各自の決定前提や制約条件に左右される。同じ価格変動という事象でも、その認識は別のあり方でもあり得る。経済に対する各観察者の認識によって構成されたの市場であるのなら、その認識が偶発的であるが故に、市場概念もまた別のあり方でもあり得るのである。

取引に参加する<人格>や組織システムによって構成された市場は、一方では経済機能問題領域における支払いと非支払いの二値コードや所有と非所有の二値コードに従ったコミュニケーションである。そのため市場という概念は、経済システム自己言及としても記述できる。言い換えれば、取引に関連した市場に対する外部言及を汎化するなら、経済システム自己言及となるという訳だ。逆に言えば、経済システム自己言及を具象化した一例となるのが、取引に関連した市場に対する外部言及である。

したがって、市場を経済システム自己言及的な作動として記述するなら、市場の全体像は、価格変動それ自体とそれを主題とした取引の総体によって構成されている。だが、取引に参加する<人格>や組織システム経済システム外部環境に位置する。それ故に、経済システム自己言及的な作動として構成されている市場には、経済システム外部環境も包含される。つまり、経済システム外部環境差異経済システムの内部に再導入された時、経済システムは自己自身を市場として認識するのである。経済システム自己言及的な作動として市場が構成されている場合、経済システム自己言及と外部言及を自己言及的に区別していることになる。

元来、経済システム外部環境出来事であるはずの取引は、この汎化の影響を被ることによって、次第に経済システムの内部へと回収されていくことになる。確かに、取引に参加する<人格>や組織システムは、その作動上の閉鎖性から、自己自身と外部環境としての経済システム差異を確保し続け得るであろう。だが抽象化すれば、この自己自身と外部環境としての経済システム区別それ自体が、既に経済システムの内部に導入されている。

取引のコミュニケーション経済システムそれ自体から区別できるのは、取引の具象性を認識できる場合である。だがテクニカルな株価のチャートやファンダメンタルズな企業の指標などのような分析の形式は、原理的に如何なる取引のコミュニケーションでも利用できる。こうした分析形式によって、取引の意思決定の過程や条件付けが抽象化されれば、もはや取引のコミュニケーションはそれ自体としての具象性を欠落させる。

経済システム自己言及的な作動によって構成されている市場がとりわけ金融市場である場合、経済システム外部環境に位置する取引のコミュニケーションは、例えば物神崇拝を駆動する具体的な欲求や、商品に関する具体的な知識などのように、具象性を持たずとも機能することとなる。これが仮に飲料商品の市場であるのならば、具体的な欲求となるのは喉の渇きである。飲料水が喉の渇きを如何にして癒やし得るのかという知識は、生体や化学反応に関する具体的な知識となる。それは経済機能問題領域からは区別され得る。これに対して金融市場には、具体的な外部言及対象が無い。言い換えれば、経済システム外部環境に位置する取引参加者の<人格>や組織システムに、具体的な欲求や知識が欠落しているということである。

これを前提とすれば、経済システム自己言及的な作動としての金融市場は、他の市場に比して、経済システムそれ自体としての度合いを強める。市場は経済システムの内部に<経済システム>と<外部環境>の区別が再導入された場合に構成されるのであった。だが金融市場の場合はとりわけ、この<経済システム>の比率が高い。つまり金融市場における経済システムは、<経済システム>それ自体を注視する一方で、<外部環境>には盲目的になるのである。

したがって金融市場では、他の市場に比して、経済システムの「システム合理性(System- rationalität)」が得られ難い。と言うのも、システム合理性は、<システム>と<外部環境>の区別システムの内部に再導入することで可能になるためである。それは、経済システムが、<経済システム>と<外部環境>の双方に対して同時的に言及するということである。金融市場における経済システムには、この<全体>に対する観点が欠落している。ベータの意味論は、この<外部環境>に対して盲目的に作動している経済システム社会構造に方向付けられている。このベータの概念が<全体>性を指し示すのならば、それは経済システム自己言及に過ぎない。

効率的市場仮説のパラドックス

シャープの結論は、金融の専門家として活躍してきたアナリストたちにとって不都合極まりなかった。それ故に彼らは二つの論点から反論を加えている。それは効率的市場仮説と長期投資リスクである。効率的市場仮説に対する反論の背景となるのは、群集心理である。誰もが十分な情報時間を有した状態で投資の意思決定を実践できている訳ではない。投資家が発揮できる合理性には限りがある。効率的市場仮説はこうした社会的背景に対して盲目的になっている。一方、長期投資が利益を生み出すのは、正の期待利益が見積もれる場合に限られる。全ての経営者が合理的であるとは限らない。意思決定に失敗することで、利益を生み出さない可能性もある。このように、シャープに対する反論は、合理性に対する懐疑心に基づいている。

ネイト・シルバーが解説しているように、効率的市場仮説のポイントは、適正な株価に対する不合理な誤りが、まるでベイズの信念の如く、自ら修正されるという点にある。効率的市場仮説に友好的な経済学はそれ故、最終的に形成されるであろう合理性を素朴に想定してきた。この学問では、市場の参加者の多くが不合理な行動を取ったとしても、市場全体は最終的に合理的になると想定されている。この仮説の枠組みでは、市場における非合理な価格形成を「アノマリー(Anomaly)」、すなわち「異常」と呼ぶ。合理的であることが正常なのである。しかし、市場の中で不合理な振る舞いが観られるのは、個々人が自らのインセンティブに対して合理的に反応した結果である場合もあり得る。更に社会学的に言えば、個々人の合理性と市場の合理性照応するとは限らない。個人が個々に合理的に行為した結果として、不合理な市場が構成される場合もある。個人が合理的になったからといって、そこから創発するコミュニケーションまでもが合理的になるとは限らない。

丁度ポーカーで、強いプレイヤーが利益を上げるにはカモが必要になるのと同じように、金融の世界でも、理性的ではないトレーダーが注目を集める。このトレーダーを特に「ノイズ・トレーダー」と呼ぶ。金融市場では、このノイズがあるからこそ、取引が成り立つ。金融資産の価格を認識することができるのも、こうしたノイズのお陰である。しかし、市場を非効率化しているのまたノイズである。ノイズ・トレーダーが存在しない市場というものがあるのならば、その世界では、誰もが真の情報を十分に所持している。ノイズのないシグナルだけで株式の売買を行なう。価格は常に合理的で、市場は効率的だ。

ネイト・シルバーも指摘しているように、効率的市場仮説のパラドックスは、市場が効率的である場合には、カモを出し抜くことで利益を上げることができなくなるということにある。だとすれば、取引すること自体が不合理な選択となってしまう。もはや株式投資家は一人もいなくなるという訳だ。

空中楼閣

テクニカル派の分析は、群集心理の要因を重視した「空中楼閣(Castle in the air)」の投資戦略に基づいて、的確な売買のタイミングを予測しようとする分析である。この分析方法に直接的な思想的影響を与えたのは、経済学者ジョン・メイナード・ケインズが1936年に著した『雇用、利子、および貨幣における一般理論(The General Theory of Employment, Interest and Money)』である。ケインズの株式市場に対する観点は、金融資産の評価ではなく、明確に群集心理に向けられている。ケインズによれば、投資家は企業の本質的な価値を発見することには注力していない。投資家が注視するのは、他の投資家が如何に選択するかである。優れた投資家は、どのような市場の状況や社会的背景が大衆群衆の空中楼閣の構成を引き起こしているのかを探索することで、他の投資家が気付く前に先手を打ち、ゲームに勝利しようとする。

ケインズは、企業の将来的な収益の見積もりや株式配当がどの程度になり得るのかは、誰にも精確に予測することができないという。それ故に大多数の投資家は、金融資産を長期間保有する場合に得られるであろう利益を精確に予測しようなどとは考えずに、他の投資家よりもほんの少しだけ早く、株価水準の変動を予測する方に関心を持つという。

この関連からケインズは、株式投資を美人コンテストの投票に喩えている。このコンテストでは、美人として選抜された候補の割合に最も近い割合で投票をした投票者たちに多額の賞金が与えられる。こうしたコンテストにおいて各投票者は、自分が美人だと思う相手に投票するよりも、他人が美人だと思う対象に投票する。つまり投票者たちは、ファーストオーダーの観点から投票するのではなく、セカンドオーダーの観察に徹するのである。美人を観察するのではなく、美人の観察観察するのである。

ファンダメンタルズ派の本質価値に対する見通しとは異なり、テクニカル派の投資家たちにとっては、最終的にゲームに勝利すれば良いという発想に近い。と言うのも、たとえ本質的な価値に見合わない価格で株式を購入してしまったとしても、それによりも高い価格で他の投資家に売り付けてしまえば、何も問題は無いからである。したがって、この空中楼閣のゲーム世界では、常に新たなカモが参入することが想定されている。ある投資家にとってのカモとは、その投資家が支払ったよりも高い価格で、その投資家が有する株式を購入する投資家である。そうした先行参入者たちのカモとの取引を通じたコミュニケーション構成されている限り、このゲームはいつまでも持続する。ただし、情報の非対称性と希少性は基本的に変わらない。このゲームは先行優位に動く。

「長期に渡る投資の見込み収益を予測するというより、ほんの数ヶ月ほど先の世間の価値評価の基礎を予測する闘争は、公の場に投資の専門家の餌食になるためのカモ(gulls)が必要になる訳ではないーーそれは専門家同士でもプレイすることができる。世間的な価値評価基準が真っ当な長期的な有効性を有するなどといった単純な信念(faith)もまた、維持する必要すら無い。何故ならそれは、言わばスナップ(Snap)というゲーム、ババ抜き、あるいは椅子取りゲームのようなものであるからだ。スナップでは、早過ぎもせず遅過ぎもしないタイミングでスナップと言った者が勝者となる。ババ抜きでは、ゲーム終了時までにババを隣のプレイヤーに回せば勝者となる。そして椅子取りゲームでは、音楽が止まった時に自分の椅子を確保できている者が勝者となる。こうしたゲームでは、熱心に愉しく遊ぶことができるものの、参加するプレイヤー全員が、ババが回ってくることは承知している。音楽が止まれば、誰かは椅子を持たざる者になることも知っているのである。」
Keynes, J. M. (1936) The General Theory of Employment, Interest, and Money. In Keynes, J. M., Moggridge, D. E., & Johnson, E. S. (1971). The Collected Writings of John Maynard Keynes (Vol. VII). London: Macmillan., pp155-156.

チャーティストたちは、株価がネックラインを切る瞬間を息を殺して待ち構えている。その明確な売りのシグナルこそが、啓示の瞬間なのだ。それはチャーティストにとって、恰もドラキュラが犠牲者の白い首筋を前にした時のように、歓喜に満ちた瞬間となる。そして彼らは、そのシグナルの出現と同時に、売りに転じる。何故ならこのシグナルは、過去にそうであったように、長い下げ相場の始まりを意味するためである。

問題解決策:「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の区別

ケインズに準拠するなら、株式市場の利益(stock market returns)は「投資的利益(Investment Return)」と「投機的利益(Speculative Return)」に区別できる。投資的利益とは、有価証券を売買することによって得られる利益ではない。それは金利や配当を受け取ることで、長期に渡り価値の増大の恩恵を受けることで得られる利益なのである。その長期的な展望は、ベンジャミン・グレアムが述べたような「標準的で、保守的で、面白みに欠ける形式(standard, conservative, and even unimaginative forms)」に辛抱強く準拠する投資家の姿勢があってこそ成り立つ。逆に言えば、テクニカル派の投資家たちは、投資家ですらない。テクニカル派の自称投資家たちが手にするのは、投機的利益である。実際、有価証券の売買は投機的利益の側に位置付けされる。その恩恵は短期的にしか持続しない。

「こうした『テクニカルなアプローチ』のほぼ全てに該当する原則の一つは、株式や市場が値上がりしたなら買わなければならず、逆に値下がりしたなら売らなければならないということである。これは他の業界の健全なビジネスの感覚とは正反対である。このアプローチがウォール街の継続的な成功に結び付く可能性はほとんど無い。」
Graham, B. (1965). The intelligent investor. A Book of Practical Counsel. Revised Edition., Updated with New Commentary by Jason Zweig, pp.2-3.

投資家ジョン・ボーグルは、この関連から、株式市場そのものを「現実の市場(real market)」と「期待の市場(expectations market)」に区別している。とりわけ後者は、投機家たちの認識によって構成されている。市場という舞台やルールが異なる以上、そこで展開されるゲームの性質もまた異なる。つまり「投資の市場」におけるゲームと「期待の市場」におけるゲームとの間には、歴然たる差異があるのだ。

ケインズは、過去経験が何故そのように成立したのかという理由を理解せずに、それを将来の根拠とすることは危険であると述べている。しかし逆に言えば、過去出来事の原因を理解することができるのなら、将来に関する合理的な予測は成り立つということになる。ケインズは実際、長期的な株価の予測は「企業(enterprise)」と「投機(speculation)」に左右されるという。ここでいう企業とは、つまり資産の期待収益率に関する指標である。一方で投機とは、市場の心理の分析を意味する。

この企業の分析と投機の分析の区別が、投資家ボーグルの「投資哲学(investment philosophy)」における主導的差異として機能している。ボーグルはまず、利子が利子を生み出すという福利(compound interest)の魔術(magic)的な奇跡(miracle)を脱魔術化する。企業の成長性、生産性、戦略、そしてイノベーションを想定するなら、資本主義は無尽蔵に富を生み出す。それは、株式の所有者にとっては非ゼロサムゲームである。したがって、長期的な株式投資は、「勝者のゲーム(Winner’s Game)」となるのである。

「しかし、投資のゲームを興じるコストは、勝者の利得を減らすと共に、敗者の損失を増やす。だとすれば、誰が勝者となるのか。(略)我々の金融ディーラーは常に勝つ。競馬では、常に競馬場が勝つ。パワーボール宝くじでは、常に州が勝つ。投資でも同様である。投資のコストを差し引いた後では、市場に勝とうとすることは、敗者のゲーム(Loser’s Game)となるのである。」
Bogle, John C. (2007). The Little Book of Common Sense Investing: The Only Way to Guarantee Your Fair Share of Stock Market Returns, John Wiley & Sons, Inc., p.xv.

投資のコスト

常に「勝者のゲーム」を興じている中間業者は、投資家が支払うコストによって潤い続けている。グレアムの皮肉に満ちた言い回しを借りるなら、中間業者は手数料を稼ぐためのビジネスを展開しているのである。

「ほとんどの株式取引所は、依然として旧いスローガンを堅持している。そのスローガンは、手数料を稼ぐためのビジネスに取り組むことである。このビジネスを成功させる方法は、顧客が必要としている事柄を提供することである。最も収益性の高い顧客は投機的(speculative)な助言や提案を求めている。故に典型的なファームは、市場における日々の取引に対して非常に親身になった考え方や振る舞いを示している。」
Graham, B. (1965). The intelligent investor. A Book of Practical Counsel. Revised Edition., Updated with New Commentary by Jason Zweig, p262.

投資家を集団として観た場合、投資家が得る株式市場の利益は平均並みである。誰かが市場を上回る超過利益を獲得すれば、それと同じだけの損失を他の投資家が被っていることになる。株式市場を構成する上場企業がもたらす利益は、市場に参加する全ての投資家が獲得する利益の総額と必ず等しくならなければならない。だがそれらの投資家たちが獲得する利益の純額は、中間業者に支払うコストの額だけ減ることになる。

「投資に要するコストを差し引く前では、市場に勝とうとすることはゼロサムゲーム(zero-sum game)となる。」
Bogle, John C. (2007). The Little Book of Common Sense Investing: The Only Way to Guarantee Your Fair Share of Stock Market Returns, John Wiley & Sons, Inc., p.xiv.

それ故に投資で成功するには、投資した企業がもたらす利益において、中間業者が存在するが故に伴うコストを最小化しなければならない。そうすることで、実体経済にもたらされる利益を最大化する必要があるのだ。例えば、株式の売買を最小限に抑えれば、市場の利益から公平な利益を獲得できる可能性は大いに高まる。株式市場に連動する広く分散化されたコストの低いポートフォリオを保有することも、「勝者のゲーム」となる。

「大多数の投資家たちは、準ビジネス(quasi-business)として投資するための時間も、決意も、あるいは精神的な備えも持ち合わせていない。したがって、彼ら彼女らは防衛的なポートフォリオ(defensive portfolio)から得られる優れた利益に(更にはそれ以下の場合も)満足しなければならない。そして、他の道に逸脱することによって、この利益を増加させる継続的な誘惑に対して強く抵抗するべきなのである。」
Graham, B. (1965). The intelligent investor. A Book of Practical Counsel. Revised Edition., Updated with New Commentary by Jason Zweig, p176.

「空中楼閣」を想定するテクニカル派たちのように、他の投資家たちを出し抜くためのゲームに参加する投資家たちの間でも、勝敗は分かれる。勝者が手にする利益は必然的に敗者の損失と同値となる。だが取引が白熱する中、他者を出し抜こうとするコストの高い競争で唯一確実に勝者となり得るのは、金融制度の中心に身を置く者たちである。大きな利益を確実に得るのは資産運用会社であって、その顧客となる投資家たちではない。投資家たちは最初から「敗者のゲーム」に参加している。その舞台となるのは、「現実の市場」ではなく「期待の市場」である。

「株式市場は一つの巨大な狂気(giant distraction)となる。それは、投資家の注意を、企業の事業によって得られる収益を徐々に蓄積していくという本当に重要な事柄よりも、むしろ一時的で移ろい易い投資の期待に向けさせる。」
Bogle, John C. (2007). The Little Book of Common Sense Investing: The Only Way to Guarantee Your Fair Share of Stock Market Returns, John Wiley & Sons, Inc., p20.

投資信託のコスト

ボーグルによれば、投資のコストに盲目的投資家たちは、投資信託をも「敗者のゲーム」としてしまう。コストとして徴収される損失に気付かずに、あまりにも多くの投資信託の投資家が、購入時手数料や信託報酬などのような費用を喜々として支払っているばかりか、異常なまでにポートフォリオを回転させる結果として、フォンドが支払う膨大かつ未公開の取引手数料を知らず知らずのうちに負担することになる。

「投資における憎たらしい皮肉だが、投資家を集団として観れば、投資家は自身が支払った分だけ損をするのではなく、支払わずに済んだ分だけ得をしているのである。だから、何も支払わなければ、全てを手に入れることになる。それこそが唯一の常識(common sense)である。」
Bogle, John C. (2007). The Little Book of Common Sense Investing: The Only Way to Guarantee Your Fair Share of Stock Market Returns, John Wiley & Sons, Inc., p37.

ボーグルは、投資信託のコストを次の三つに区別している。第一に、ファンドの経費率だ。これは永遠に一定である。資産が増大すれば比率を下げるファンドも存在するが、その軽減率は大抵控え目に設定される。第二に、購入時手数料が挙げられる。これは購入の回数に比例して増大する。そして第三に、ポートフォリオに含まれる証券を売買する際のコストである。「金融のプロ」がポートフォリオを回転すればするほど、このコストは肥大化する。

「対照的に、投資した後、そうしたゲームからドロップアウトし、二度と不要なコストを支払わない者たちにとっては、成功に有利となるオッズ(odds)は大きなものとなる。何故か。それは単純に、彼らは事業を所有しているだけであって、集団としての事業は実質的に資本を返し、所有者に配当を支払うからである。」
Bogle, John C. (2007). The Little Book of Common Sense Investing: The Only Way to Guarantee Your Fair Share of Stock Market Returns, John Wiley & Sons, Inc., p.XVII.

アクティブファンドとインデックスフォンドの差異

ベンジャミン・グレアムの代名詞は「バリュー投資(value investing)」であるとされている。しかし、彼の古典的な著書である『知的な投資家(The Intelligent Investor)』を読めば、それが現実的で保守的なポートフォリオ戦略に注力していることがわかる。つまり投資の分散化と合理的な長期的展望を持つことである。入念な安全分析を通して割安銘柄を選択することは、二次的な問題に過ぎない。

ボーグルが言い当てたように、グレアムの投資戦略は現代の「インデックスフォンド(Index fund)」と「アクティブファンド(Active fund)」の区別を先取りしている。彼の「標準的で保守的で面白みに欠ける形式」に準拠した投資戦略は、株式市場に連動するインデックスフォンドという概念に、不気味なほどに照応しているのである。個別銘柄よりも投資の分散化こそを防衛的な投資手段と考えていたグレアムは、まさに現代の株式インデックスフォンドの先駆的な発想を有していた。

アクティブファンドは、テクニカル派と同様に、グレアムの「標準的で保守的で面白みに欠ける形式」から逸脱している。その運用方針は、市場の平均値を上回ることである。ボーグルによれば、この方針が投資的利益への長期的展望に欠けるのは、アクティブファンド自体の寿命が高々10年程度であるためだ。そのため、生涯を通じた資産運用者がアクティブ運用を選好する場合には、生涯に渡って、手数料をはじめとする諸々のコストの負担を背負い続けることになる。そして10年ほど経てば、そのファンドは寿命を迎える。資産運用を継続したいのなら、また別のファンドを相手に、コストを支払うことになる。

一方、これに対してインデックスファンドは、少ない手数料と最低限の取引コストで運用することができる。インデックスフォンドは市場全体に連動し、運用会社に依存することなく、生涯に渡って利益をもたらす。インデックスフォンドを利用する投資家にとっては、株式市場の指数に連動する伝統的なインデックスファンドを底値で取得することこそが、究極的な戦略となる。

社会システム理論的に補足するなら、個々のファンドマネージャーが市場に勝利することができるというアクティブファンドの想定は、金融市場の経済システムが有する自己言及性を等閑視している。平均的なファンドマネージャーが長期的に市場平均を超えることが可能であるとするのなら、それは事実上、株式市場の専門家の<全体>が<自己自身>に勝つということである。それは自己言及のパラドックスである。合理的な勝負事としてはあまりにも論理を破綻させてしまっている。

市場の平均以上を目指すアクティブファンドには、このパラドックスを隠蔽することができない。アクティブ運用は経済システムの作動そのものである。そして市場の平均とは、経済システム自己言及によって構成されている。市場の平均以上を狙うということは、アクティブファンドとしての経済システムパラドックス化することで、そのオートポイエーシスを不安定化させるということである。これに対してインデックスフォンドは、このパラドックスを回避している。市場という名の<自己自身>に勝利しようとしないからこそ、インデックスフォンドとしての経済システムは、自壊しないのである。

「勝者のゲーム」における「システム合理性」

このように、ボーグルの投資哲学によって導入されている「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の区別は、中間業者が存在するが故に伴う「コスト」という指標に準拠している。デイトレード(day trading)のように、何度も取引を繰り返す投資家は、無論手数料をはじめとした膨大なコストを支払うことになる。投資信託に依存する投資家たちもまた、潜在的なコストを支払うことになる。こうしたコストは、時間の経過と共に膨れ上がる。

「投資の領域では、時間は全ての傷を癒やす訳ではない。時間は全てを悪化させるのである。利益との関連では、時間は友となる。しかしコストとの関連では、時間は敵になる。」
Bogle, John C. (2007). The Little Book of Common Sense Investing: The Only Way to Guarantee Your Fair Share of Stock Market Returns, John Wiley & Sons, Inc., pp.41-42.

しかし、ボーグルの投資哲学において難儀となるのは、ファーストオーダーの観察者セカンドオーダーの観察者差異である。ある投資家が自己自身を「勝者のゲーム」の参加者として観察するのは容易である。だがそれは、ファーストオーダーの観察に過ぎない。セカンドオーダーの観点から観察する別の投資家から観れば、「勝者のゲーム」は、実際には「敗者のゲーム」かもしれない。

ボーグルの投資哲学に準拠する上で注意しなければならないのは、「コストパフォーマンス(Cost performance)」を重視しているからといって、合理的であるとは限らないということだ。「勝者のゲーム」は別のあり方でもあり得る。「時は金なり(Time is Money)」という諺を重視する者なら、より少ない時間的なコストから即時的にパフォーマンスを得ようとするかもしれない。勝利条件の定義は偶発的なのである。だとすれば、ボーグルが導入した「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の区別もまた、別のあり方でもあり得ることになる。ある投資家にとっては「勝者のゲーム」である投資が、別の投資家にとっては「敗者のゲーム」となる可能性も、否定できないのである。

社会システム理論的に言えば、投資家が合理的に勝利し続けるには、「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の区別をこの区別の内部に「再導入(re-entry)」し続ける必要がある。そうすることで、自らが参加する「勝者のゲーム」における投資経済的なコミュニケーションに「システム合理性(System- rationalität)」を宿らせなければならない。区別を導入するということは、区別されている双方を同時的に指し示すということである。システム合理性に準拠した投資家は、「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」を区別し続けることで、まずは双方に対して同時的に注意を払う必要がある。そしてその上で、セカンドオーダーの観点から、「勝者のゲーム」における観察観察すると共に、「敗者のゲーム」における観察観察するのである。

このセカンドオーダーの観察は、「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の区別抽象化を可能にする。「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の区別を導入しても、その区別それ自体が「敗者のゲーム」の中で導入されているのならば、それは「敗者のゲーム」である。ゲームを「関数(function)」と見立てるなら、それは「参照透過(Referential transparency)」ではない。勝敗という出力値には「副作用(side effect)」が伴っている。未知なるルール、不確実な制約条件、不完備な前提情報、相手プレイヤーの心理状態などのように、無数の潜在的なパラメタが、既にゲームの勝敗を規定しているかもしれない。場合によっては、ゲームの勝敗は、始める前には決まっている。だとすれば、「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」を区別することが可能であるかのように思える状況でも、<全体>としてのそのゲームは、原理的に必敗である場合もある

しかし、セカンドオーダーの観察者に徹するならば、「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の区別の再導入が可能となる。原理的に必敗と思えるゲームでも、ゲームそれ自体を別のあり方でもあり得るゲームへと再記述(redescription)してしまえば、「勝者のゲーム」への活路を探索することが可能になる。この区別区別の内部へと再導入する観察者ならば、原理的に必敗となるゲームの中に「勝者のゲーム」と「敗者のゲーム」の区別を導入すること自体を、一つの<ゲーム>と見立てるであろう。

問題解決策:「自己成就的な予言」と「自己破壊的な予言」の区別

セカンドオーダーの観察者の観点から、テクニカル派とファンダメンタルズ派の観察観察するなら、両者は相互に対立しながら依存し合っていることがわかる。ファンダメンタルズ派が本質的な価値よりも割安で放置されている銘柄を発見できるのは、テクニカル派のように、その本質に気付かずにチャートを遡及している分析者が大勢いるためである。仮にこの世の全ての投資家が本質の分析を十分に合理的に実践してしまうと、誰もが本質的な価値に見合う価格で株式を売買してしまう。これでは、本質的な価値に秘して割安な銘柄が得られない。全ての投資家がファンダメンタルズ派になってしまえば、もはや誰も投資することはできなくなる。つまり、効率的市場仮説のパラドックスを招くことになるのだ。

一方、テクニカル派の投資家が本質的な価値ではなくチャートを分析するのは、そこに他の投資家たちの期待が反映されていると考えるためである。株価の変動を予測するには、その背景にある期待とその期待外れの変異を予測する必要がある。株価の変動に影響を及ぼすのは、無論テクニカル派の投資家による期待だけではない。ファンダメンタルズ派による企業の本質的な価値に対する期待もまた、テクニカル分析の対象となる。つまりテクニカル派の予測問題問題設定として成り立つのは、ファンダメンタルズ派を含めた様々な期待の発生源が存在するためである。株価が変動しているという社会的な現実が構成されているからこそ、テクニカル派はその分析を開始することができる。テクニカル派だけでは、テクニカル派の予測問題は成立しないのである。

等価機能主義的に観察するなら、ファンダメンタルズ派とテクニカル派は、価格の予測の方法としては、機能的に等価である。ジョン・J・マーフィーも述べているように、双方とも価格がどちらの方向に動くのかを決定するための分析であって、同一の問題設定に対する異なる問題解決策であるに過ぎない。その差異を挙げるなら、ファンダメンタルズ派は相場が変動する原因を探求しているのに対して、テクニカル派はその結果を探究しているのである。その一つの理由は、市場価格が「既知の本質(the known fundamentals)」に先行するためである。市場価格には、「本質の先行指標(a leading indicator of the fundamentals)」としての役割があるのだ。

「既知の本質は既に割り引かれている。そしてそれは、既に『市場の中(in the market)』にある。一方、価格は未知の本質(unknown fundamentals)に対応しているのである。」
Murphy, John J. (1999). Technical analysis of the financial markets: A comprehensive guide to trading methods and applications. Penguin., p6.

したがって、ファンダメンタルズ分析よりもテクニカル分析を重視するアナリストたちも、実際にはファンダメンタルズ分析に依存していることになる。論理的には、テクニカル分析はファンダメンタルズ分析を包含しているのである。

社会システム理論的に言えば、ファンダメンタルズ派とテクニカル派の対立は、実際には株式投資ギャンブルを駆動する経済システム免疫システムとして機能してきたと考えられる。両者は互いに否定することで、その対立ゆえの矛盾と競合を主題に、新たにコミュニケーションを活性化させてきた。そしてこのコミュニケーションが、企業の本質的な価値を信仰する投資家と群集心理の未来予知を崇拝する投資家に、布教の機会を与えていたのである。

「基本的に証券アナリストは、聖なる霊感(divine inspiration)の恩恵を得ずに、予言者(prophet)にならなければならない。アナリストは、会社の過去の実績、損益計算書、貸借対照表、投資計画を見直し、経営陣を直接訪問し、経営能力を査定するのである。アナリストは、重要な事実とそうではない事実を区別しなければならない。」
Malkiel, B. G. (1996). A Random Walk Down Wallstreet (6. edition). New York., p127.

しかし天才データアナリストのネイト・シルバーは、この予言の派生問題に着目している。と言うのも、人間が行動を予測する場合、予測という振る舞い自体が対象の行動に影響を与える可能性があるからだ。経済システムでは特に、時にはその予測それ自体が予測の結果を変えてしまう。彼の問題意識は、社会学者ロバート・キング・マートンが導入した「自己成就的な予言(Self-fulfilling prophecy)」と「自己破壊的な予言(self-destroying prophecy)」の区別に準拠している。この区別を導入して観れば、予測すること自体が予測を困難にするというパラドックスが垣間見えてくる。

自己成就的な予言」という概念が言い表しているのは、成就するとは限らない予言によって触発された行動が、当初の予言を成就させてしまう状況である。典型的な一例として挙げられるのは、「旧ナショナル銀行の取付騒ぎ」である。それは1932年のアメリカで起こった。旧ナショナル銀行は、当初経営上何の問題も抱えていなかった。だがある預金者に「あの銀行は危ない」と言われたことを発端として、徐々に「旧ナショナル銀行は倒産するらしい」という噂が芽生えてしまった。すると預金を引き出す人々がこの銀行に殺到するようになった。こうしてこの銀行は実際に潰れてしまったのである。「旧ナショナル銀行は危ない」という成就するとは限らない予言が、実際に旧ナショナル銀行を倒産させるべく機能していた訳だ。

予言の自己成就が言い表しているのは、ある状況に関する人々の期待が、その状況それ自体の構成部分となっているということである。マートンによれば、これは人間社会特有の現象である。例えば予知夢によって大地震の発生時期が如何に予言されようとも、地震が予言通りに発生するようになる訳ではない。予言の自己成就は、自然現象ではなく、あくまで人為的な現象に適用される。言い換えれば、予言は人工物である。

ただしそれは、必ずしも状況を化させる訳ではない。自己成就的な予言を応用することで、逆に好都合な結果を引き起こすことも可能だろう。例えば専門家は一般市民よりも正確な知識や情報を提供するはずだという規範的な期待を強調し続ければ、権威や学歴や資格や免許などのような形式に基づいた専門家主義が伴うことで、その記号を持ち得ない一般市民が提供する知識や情報が相対的に矮小化されることになる。そうなると、専門家が提供する知識や情報が相対的に正確であるかのような錯覚が芽生える。かくして専門家は正確な知識や情報を提供するはずだという予言は成就するのである。

予言の自己成就という問題は、投資や投機においても無関係ではない。自己成就的な予言影響力に対して懐疑的な眼差しを向けているジョン・J・マーフィーも、テクニカル分析においては重要性が低いと主張しながらも、自己成就的な予言が発生するという問題設定そのものは否定できずにいる。

「たとえ自己成就的な予言が主要な関心となったとしても、恐らくそれは自然と『自己修正(self-correcting)』される。言い換えれば、トレーダーがあるチャートパターンに追従していたとしても、それはあくまでも、一致した行動が市場に影響を与え始めて、市場に歪み(distort)を伴わせるまでである。こうした歪みが生起していることに気付けば、トレーダーはそのチャートを見送るか、トレードの戦術を調整するであろう。例えば、他の投資家たちが動き出す前に行動を試みる場合や、より確証が得られるまで待つ場合もある。だから、たとえ自己成就的な予言が問題(a problem)となったとしても、それはそれ自体として修正されるのである。」

Murphy, John J. (1999). Technical analysis of the financial markets: A comprehensive guide to trading methods and applications. Penguin., p17.

ここで取り上げられている自己修正は、自己成就的な予言が発生するという問題に対する問題解決策として機能している。だがマーフィーはこの問題がいずれ解消される傾向にあることを自明視するあまりに、自己成就的な予言が発生した時点で構成される、その事前と事後の差異には盲目的になっている。問題が発生するということは、戦況が変わるということである。自己成就的な予言が発生することによって、まさにテクニカル派の十八番となる「群集心理」が変異するからこそ、マーフィーが取り上げているトレーダーたちも戦術を調整することになる訳だ。

もとより、あらゆる予言が自己成就的に機能するとは限らない。マートンによれば、逆に自己破壊的に機能する予言もある。予言の自己破壊が言い表しているのは、予言によって触発された行動が、逆にその予言が成就する可能性を低めてしまう状況である。例えば選挙における「負け犬効果(underdog effect)」は、自己破壊的な予言の典型と言えるだろう。負け犬効果とは、マスメディアによって選挙で不利になると報道された政党が、国民の同情や敵対する候補者たちの油断を引き起こすことで、結果的に実際の選挙では有利になってしまう現象を指す。こうした場合においても、ある状況に関する人々の期待は、その状況それ自体の構成部分になる。自己破壊的な予言においては、その予言によって触発された行動が、予言によって期待されていた行動と矛盾するのである。だからこの場合の予言は、期待外れに終わる訳だ。

予言者の機能的等価物としての人工知能

予言が自己成就的な予言となるか、あるいは自己破壊的な予言となるかは、実際には不確定である。それがどのように転ぶのかは、専ら戦況にも左右される。しかしそれ以上に確かなのは、未定の未来を予言することによって、<自己成就的な予言となる可能性>と<自己破壊的な予言となる可能性>の差異構成されるということである。意味論的に言えば、この区別は、区別の内部に再導入(re-entry)することができる。そうすることによって、予言が外れるという予言が当たるという予言が外れるという予言が当たるという予言・・・を、「自己論理的(autologisch)」に推論していくことが可能なのである。これにより予言者は、<予言が当たる場合>と<予言が外れる場合>の双方の観点から、<全体>を俯瞰することが可能になる。予言が外れた場合の状況すら予言することによって、予言のコミュニケーションは、予言についての予言についての予言・・・についてのコミュニケーション再構成し続ける。この絶え間ない再構成が、システム外部環境区別システムの内部に再導入することを可能にする。この自己言及的な作動によって、予言のコミュニケーションは「システム合理性(System- rationalität)」を確保するのである。

ネイト・シルバーは、主著『シグナルとノイズ(The Signal and the Noise)』において、経済システムにおける「観察者効果(Observer effect)」も取り上げている。何かを測定しようとすると、その測定対象の振る舞いが変異し始める可能性がある。大多数の統計モデルは、独立変数と従属変数、入力と出力があり、それぞれが区別できるという発想に基づいている。だが経済システムにおいては、それが全て一緒くたになることで、収拾の付かない状況になっているのである。とりわけテクニカル派のアナリストたちは、群集心理を先読みする。だがその予測もまた、群集心理を変異させる可能性がある。その予言が自己成就か自己破壊のいずれかを結実させることによって、群衆再構成してしまう。市場が合理的であるというファンダメンタルズ派の想定もまた、自己破壊的な予言として機能している。まさに先述した効率的市場仮説それ自体こそが、不合理な存在として群衆再構成してしまうのである。

予言者と予言の対象との間に伴う予言のコミュニケーションもまた観察者効果を生み出すのならば、我々の問題設定との関連から重要となるのは、この予言者の<人格>を担うのが「人間」であるとは限らないということである。人工知能の予測モデルもまた、予言者の機能的等価物となり得る。FinTechの領域から生み出された「ロボアドバイザー(robo-advisor)」は、既にインデックス投資をはじめとした資産運用において、金融の専門家たちと機能的に等価な<人格>となっている。無論、アルゴリズムアーキテクチャ設計できる者にとって、人工知能の活躍の場をインデックス投資に限定する必然性は無い。アナリストの<人格>の機能的等価物となり得る人工知能もまた、設計することが可能であるためだ。人工知能は、予言者の身振り学習することで、ヴェールとしての群衆再構成すると共に、マトリックスとしての大衆を再配列する機会を手にしている。

母胎の形態化

予言者の機能的等価物としての人工知能は、<観察するシステム>として、<観察されるシステム>としての大衆に、観察者効果を与えることができる。だが予言者として設計された人工知能がその機能を全うするのは、その予言を、マトリックスとしての大衆に対して作為的に顕示する時である。さもなければ、そもそも観察者効果は起こり得ない。

マトリックスとしての大衆に対する観察者効果としての予言が成立する時、その予言は群集に対するショック効果となる。何故なら投機や投資に関する予言は、得てして「破局(Katastrophe」の予言となり得るからだ。固い決心から長期的なインデックス投資を敢行している投資家たちでさえ、暴落や暴騰に関するニュースは、無視できないほどの驚異となる。『ウォール街のランダム・ウォーカー(A Random Walk Down Wall Street)』を記述したバートン・マルキールならば、こうした破局的なショック効果が、「群衆狂気(The Madness of Crowds)」を構成すると考えるであろう。

日常の中に潜むトラウマ的なエネルギー内在させた形象は、群衆を整理させることはないにせよ、群衆を集団の身体として技術的に組織化させる可能性はある。それは群衆教育することはないにせよ、群衆形態化(bilden)し得る。何故ならショック形象は、思考群衆とを素早く媒介するためである。群衆は、知識や情報ショック効果によって吸収することで、体験した出来事を内面で固定化する。群衆形態とは、数多くの破局の成れの果てなのである。

だからこそルカーチは、群衆自然発生的に構成されるという見通しが、群衆が純粋に経済的かつ法則的に規定されてしまっている事態に対する主観的で群衆心理学的な表現に過ぎないと喝破し得たのだ。群衆自然発生的に構成されるのは、生産関係と商品市場で群衆が置かれている無力な立場についての物神崇拝的な表現なのである。群衆がユゴーの言うように「自然の戯れ」であるかのように思われるのは、資本主義的な生産と市場というマルクス的な<自然>法則が群衆構成に発現しているからに他ならない。市場における偶発的な私的利害関心が大量に重なり合うことこそが、近代資本主義における群衆構成根源現象となる。

「運命」と「今」の差異

既にポーの『群衆の人』では、市場の<自然>法則が暗号の形態叙述されている。ボードレールが注視したように、この暗号の形態群衆陶酔的なショックの受容によって構成されている。ベンヤミンはこの群衆という暗号から、未来の世界の在り様を判読しようとした。彼はそれ故にこの破局に駆動された形象を生み出す大衆母胎没入していく。だがこの母胎への没入は、破局についての予言に振り回されている大衆への迎合を意味するのではない。何故ならベンヤミンは、予言者や占い師に「運命(Schicksal)」を明かして貰おうとするのが、好奇心というよりも怠惰による姿勢であると批判しているためだ。

未来を占って貰おうという姿勢は、自身の内部に秘められた知らせを棄て去るようなものである。予言者や占い師に依存する姿勢は、勇気ある者が未来構成していく時の果敢で迅速な身振りからは程遠い。何故なら、ギャンブラー知覚力のように、「冷静沈着」な「精神現在性」こそが、未来の精髄となるからだ。その精神状態は、先に取り上げたマーク・ダグラスに倣って言えば、「今この瞬間の機会の流れ」に集中する極限のゾーン状態に照応している。

したがってベンヤミンが真に重視するのは、脱因果論的な「運命」概念である。彼にとって決定的に重要なのは、遠い彼方に対する未来予知などではなく、この瞬間に成就されることに精密な注意を向けることなのである。そしてこのベンヤミンの注視は、精神を活き活きと現存させている「身体(Leib)」によって発せられた「サイン」に向けられる。

「事実、昼も夜も、我々の生体(Organismus)の中には、前兆(Vorzeichen)や予感(Ahnungen)や合図(Signale)が、波のように打ち寄せている。それらを説明(deuten)すること、あるいは利用(nutzen)することが問題だ。しかし、双方は一つにはならない。臆病と怠惰は前者を促し、冷静と自由は後者を促す。実際、そうした予告や警告は、言葉や形象のような間接的なものとなる以前に、直ぐにその最高の力を、すなわち我々の心の中心に的中して、我々を強制する力を失くしてしまう。何故か我々には、それに従って行動する術がわからない。そして、我々がそうした行動を怠ると、その時にばかり、それは解読(entziffert)される。我々はそれを読む。だが、時既に遅しなのである。だから、想定外の火事が発生した場合や思いも寄らない時に誰かの死の知らせが届いた場合には、最初の口も利けない驚異の瞬間に、自分は心の底ではこのことを予知していたのではないかという罪責感が、もやもやとした非難が襲って来る。」
Benjamin, Walter. (1928) “Einbahnstraße”. In: Gesammelte Schriften Bd.4, Frankfurt am Main : Suhrkamp. 1980a, S.83-148. 引用文については、S.141を参照。

身体は、身体それ自体の奥底で、「運命」と競い合い、「運命」に打ち勝つ力を有している。ベンヤミンは、「(Jetzt)」という瞬間こそが「運命」を屈服させる時でなければならないという。

「未来への脅威を転じて充実した今を生み出すことは、比類なき望ましいテレパシーの奇跡(telepathische Wunder)と言えるであろう。これは、精神を活き活きと現存させている身体によってこそ成され得ることなのである。太古においては、こうした振る舞いは、人間の日常茶飯事の類のものであった。裸の肉体の中に、最も信頼の置ける予感の道具が、人間には与えられていた。カルタゴの土地を踏んで躓いたスキピオは、倒れながら両腕を大きく広げて、『アフリカの大地よ、お前は私のものだ!』と勝利の声を上げる。怖ろしい印や不運の象徴ともなり兼ねなかったものを、彼は身を以って現在の瞬間に結び付けている。彼は自分を自分の身体に従わせている。断食や貞操や不眠などといった昔の禁欲的な苦行が、その最高の勝利を言葉で祝福できたのも、まさにこの点においてであった。」
Benjamin, Walter. (1928) “Einbahnstraße”. In: Gesammelte Schriften Bd.4, Frankfurt am Main : Suhrkamp. 1980a, S.83-148. 引用文については、S.142を参照。

これを前提とすれば、大衆母胎への没入というベンヤミンの人間学的唯物論的なメディア美学が言い表しているのは、大衆と共に予言者に振り回されることではなく、その大衆から形象を抽出するための充実した「認識可能性の今(Jetzt der Erkennbarkeit)」を獲得することなのである。そのためにベンヤミンは、遊歩者探偵、そしてギャンブラー精神を総動員している。母胎没入するということは、まだその母型と一体化している訳ではないということである。群衆という暗号の解読が可能なのは、群衆とは区別された足場を持つ遊歩者のような、大衆観察観察するセカンドオーダーの観察者に他ならない。つまり外部から大衆母胎へと自らを入力しない限り、その暗号の判読は始まらないのである。そして、いざ暗号の解読が始まったとしても、度は探偵のような推理力を要する。しかも大衆母胎構成されるのは、恐怖やパニックをはじめとした、瞬間的に去来する様々に無規定的な情動である。それを捕捉するには、ギャンブラー知覚力のように、「冷静沈着」な「精神現在性」が必要となるという訳だ。

プロトタイプの開発:「貨幣」を蒐集する強化学習エージェント

群衆遊歩者探偵と同じように、貨幣蒐集するギャンブラー機能的等価物となる<人格>もまた、マルチエージェントとして設計することができる。複数のエージェントがあり得るのは、それぞれのアルゴリズムの前提となる投資戦略や資産運用方針に差異があるためだ。個々のエージェントは、株価や群集心理をセカンドオーダーの観点から観察することによって、アナリスト的な予言者と機能的に等価な<人格>として振る舞う。つまり様々な思惑を持ったマルチエージェントが、相互に異なる観点から、マトリックスとしての大衆観察者効果を呈示し得るのである。

しかしながら、このギャンブラーたちのアルゴリズム設計については、エージェントの振る舞いの前提となるゲームの諸要素を考慮した上で実践されなければならない。株式投資における配当金や仮想通貨のマイニング報酬のように、ゲームの勝者にはしばしば景品がプレゼントされる。この景品が蒐集対象となり得る記念品として機能する。景品は、プレイヤーに付与される「報酬(reward)」である。強化学習問題の枠組みで言えば、ギャンブラーは、個々の戦況下で自身が置かれている「状態(state)」を前提とした上で、どのような「行動(action)」を選択するかを決定する。そしてこの行動の選択結果として、どの程度の「報酬」を得られるのかを計算する。この「状態」と「行動」の写像を特に「方策(policy)」と呼ぶ。ギャンブラーは、「報酬」から「方策」を学習するエージェントであるということになる。

強化学習エージェント投資家機能的に等価な<人格>を担うとしても、その「状態」、「行動」、そして「報酬」の概念の意味論は、そのエージェントが認識している問題設定に左右される。このことは、トレーダーの<人格>と投資家の<人格>を区別してみるだけでも、直ぐに例示できるであろう。前者の<人格>の機能的等価物設計する場合、専ら日々の取引に関する最適な方策学習の対象となる。そのアルゴリズム設計はテクニカル分析による群集心理を主題とする。一方、後者の<人格>の機能的等価物は、どちらかと言えば、長期的なリスクヘッジを志向した投資の分散化に必要となる「ポートフォリオマネジメント(Portfolio Management)」が参照問題となる。

トレーダーの<人格>の機能的等価物設計する場合、その主題は「アルゴリズム取引(Algorithmic Trading)」となる。アルゴリズム取引とは、コンピュータが自動的に取引を実行することを指す。それは、売買する銘柄、売買する量、売買するタイミング、売買する市場などを自動的に決定するアルゴリズムである。アルゴリズム取引の中には、株価の変動を予測することで、適切なタイミングで株式を売買するソフトウェアもある。しかし全てのアルゴリズム取引が複雑高度な統計モデルを採用している訳ではない。アルゴリズム取引の概念は、単に取引の手続きを自動化するシステム意味する場合もある。

アルゴリズム取引の機能は、収益の安定化や増大である。そのためアルゴリズム取引の参照問題となるのは、リスクヘッジやコスト削減である。売買のタイミングを見極めて、銘柄の相場を見定めて、安く売り高く売るという点では、アルゴリズム取引のコミュニケーションは、従来の経済システムにおける株式取引のコミュニケーション機能的に等価である。

一方、これに対して、投資家の<人格>の機能的等価物設計する場合、アルゴリズム取引は必ずしも主題とはならない。この場合に主題となるのは、株式の売買のタイミングと株式銘柄の選好である。これは一見するとアルゴリズム取引の参照問題と共通しているように思える。だがその観点は全く異なっている。売買のタイミングを分析する場合、景気をはじめとしたマクロ経済に関する情報主題となる。株式銘柄を特定する際には、各企業の財務諸表を観察することで、当該企業の安全性、収益性、そして将来性を予測することが目指される。

このように、トレーダーの<人格>の機能的等価物投資家の<人格>の機能的等価物区別される必要がある。尤も、トレーダーの<人格>にせよ、投資家の<人格>にせよ、経済システム機能問題領域を前提としていることに変わりは無い。そうである以上、それぞれの意味処理規則妥当性株式市場の社会構造との関連から規定されなければならない。

投資家の<人格>としての強化学習エージェント?

ポートフォリオマネジメント意味論もまた社会構造との関連から方向付けられていなければならない。この等価機能主義的な社会システム理論の観点を前提とすれば、ポートフォリオマネジメントの限界が明確化する。例えば市場ポートフォリオの最適化問題を設定する場合、典型的には時価総額加重平均を指標として扱うことになる。だが市場ポートフォリオでリバランスのタイミングを計るのは、市場の成長や各企業の成長を予測することに等しい。それは事実上市場を出し抜くことを意味する。そうなれば、一見して投資の分散化による慎重なリスクヘッジを可能にしているポートフォリオマネジメントも、金融市場としての経済システム自己言及的なパラドックスに直面することになってしまう。加えて市場の未来を予測する身振りは、予言の自己成就予言の自己破壊を招くリスクも招く。この意味でこの営みは、その運用者が個人投資家であれ、インデックスファンドであれ、トレーダーやアクティブファンドと同様の派生問題を招く。

したがって、ポートフォリオマネジメントにできることの多くは、時価総額加重平均の割合とポートフォリオの資産割合の誤差に許容範囲を設定することで、リバランスのタイミングを事後的に決定することに限られる。時価総額加重平均とは別のあり方にもあり得る指標やベンチマークを設定したところで、この制約は変わらない。ポートフォリオマネジメントアルゴリズムは、市場を予測しようとするのではなく、まして市場を制御しようとするのではなく、市場の観察と記述に徹するしかないのである。

尤も、市場は一つではない。経済システム複合性の縮減を実行して、複数の市場を観察して記述することの負担を軽減するという点では、アルゴリズム設計やモデリングの余地が残されている。例えば観測対象となる市場に主題を限定した上で、先述したWebクローラの探索アルゴリズム機能的に再利用すれば、成長している市場や衰退している市場の区別を導入し易くなる。調整する資産クラスや銘柄の目を付け易くなるのだ。一方、リバランスのタイミングを測る上では、時価総額をはじめとした指標に対する異常検知モデルが有用になるであろう。既に取り上げたEncDec-ADのような異常検知モデル実装しておけば、少なからずそのエンドユーザーは、常日頃から指標を観測し続ける負担から解放されるはずだ。

トレーダーの<人格>としての強化学習エージェント

社会システム理論的に言えば、経済的なコミュニケーション二値コードは支払いと非支払いの区別や所有と非所有の差異によって構成される。これらの二値コードプログラムとなる期待構造が、投資である。エージェントの「行動」は、この経済的なコミュニケーションを単純化した概念として記述できる。例えばジョン・ムーディらの「直接強化による取引の学習(Learning to Trade via Direct Reinforcement)」では、「ロング(long)」と「ニュートラル(neutral)」と「ショート(short)」の区別が導入されている。この区別の枠組みでは、エージェントの行動は次の三つの値しか取り得ない。時刻tにおける行動選択肢は次のように表せる。

$$F_t \in \{1, 0, -1\}$$

時刻tにおいてトレードされた価格を$$z_t$$とする。また時刻tのトレードによって得られた利益を$$R_t$$とする。この時、利益はt-1とtの状態の関連から発生する。また、全ての取引コスト(transaction cost)は、$$F_{t-1}$$と$$F_t$$の差異に紐付いて発生する。市場による影響やトレードに伴う税金を適切に把握するために、各トレーダーのエージェントは各時刻でそれ自身の状態を情報として持たなければならない。そしてそれ故に、エージェントの<観察するシステム>としての振る舞いは再帰的で自己言及的となる。市場の影響や取引コストを考慮した単一の資産のトレードは、例えば次のような決定関数によって表現できる。

$$F_t = F(\theta_t ; F_{t-1}, I_t)$$

$$I_t = \{z_t, z_{t-1}, z_{t-2}, …; y_t, y_{t-1}, y_{t-2}, …\}$$

ここで、θはシステムパラメタで、後述するように重みを担う。$$y_t$$は外部的な変数を表す。この関連から、もしエージェントの行動がロングとショートの二値で離散化される場合、トレードは次のような自己回帰的(autoregressive)な入力で再記述できる。

$$F_t = sign (uF_{t-1} + v_0r_t + v_1r_{t-1} + … + v_mr_{t-m} + w) \\ \theta \leftarrow \{u, v_i, w\}$$

ここで、$$r_t$$は$$z_t$$の収益(price returns)を意味する。この決定関数は離散化を前提としている。だがsign関数をtanh関数に代替すれば、この関数は連続値に対応できるようになる。しかしその代償として、この関数は微分可能ではなくなる。しかし、微分可能になるように事前に閾値化された出力を考慮するか、あるいは学習中のみsign関数とtanh関数を代替し、出力を離散化することによって、θの勾配に基づいた最適化を実行することが可能になる。

この自己回帰的な関数確率論的に拡張するなら、以下のようなノイズ変数を組み込むこととなる。

$$F_t = F(\theta_t;F_{t-1},I_t;\epsilon_t) \ with \ \epsilon_t \sim p_{\epsilon}(\epsilon)$$

このランダム変数$$\epsilon_t$$は、$$F_t$$の結合確率密度を包含している。よってモデルのパラメタとモデルの入力は次のようになる。

$$p(F_t;\theta_t;F_{t-1},I_t)$$

ノイズの度合いは、$$p_{\epsilon}$$のスケールによって測定される。そしてこの度合いで表現されるノイズ変数は、確率バンディット問題で馴染み深い「探索(exploration)」と「活用(exploitation)」の区別制御変数としても機能する。そしてこの「行動」の確率分布の差異は、勾配法に準拠した学習アルゴリズムの直接的な適用を可能にする。

このように、エージェントの「行動」は単純な区別の導入によって形式化することが可能になる。だが一方で、エージェントの「状態」に関して言えば、アルゴリズム設計上の偶発性が無視できない要素となる。何故なら、「状態」の前提となる「環境」には、組織システムとしての企業のみならず、経済システム構造的に結合している政治や法のような様々な機能システムが潜在的に関連しているためである。ファンダメンタルズ派のように、「株価収益率(Price Earnings Ratio: PER)」や「株価純資産倍率(Price Book-value Ratio: PBR)」をはじめとする組織システムとしての企業の情報を分析するだけでは、この環境複合性は捉え切れない。またテクニカル派のように、経済以外の他のシステムによる影響がチャートに反映されていると想定することも許されない。環境複合性の縮減を可能にする意味形式を用意しない限り、エージェントの「状態」に関連する諸要素を記述することは不可能なのである。

マイケル・カーンズらの「最適化された取引執行のための強化学習(Reinforcement learning for optimized trade execution)」は、この関連から「状態」概念の特徴工学を実施する上で、「状態(state)」と「観察された状態(observed state)」の区別を導入している。この「観察された状態」という形式は、本質的に部分的な観察しかできない「環境」を恰も完全に観察可能であるかのように記述することで、金融市場の「環境」の諸要素にマルコフ性を仮定することを可能にしている。この形式機能は、最適化すべき状態の組み合わせの数を減らすことにある。状態空間が適切に設定されている場合、任意の時点における最適な「行動」は、以前の「行動」とほぼ独立していると想定できる。

強化学習エージェントの動物的な身振り

「状態」概念とは異なり、「報酬」概念は、初めから環境複合性の縮減を前提としている。と言うのも、強化学習問題の枠組みにおける「報酬」とは、あくまでもエージェントによって<観察された報酬>を意味するためだ。このことは、強化学習アルゴリズムが、エージェントによる環境制御最適化が如何にして可能になるのかという動物行動心理学神経科学の観点から設計されてきたことと精密に関連している。実際、エージェントが観察する「報酬」とは、エージェントによって観察された「環境」の一部に対するエージェントの意味付与によって<構成>される変数である動物たちの場合、この意味付与は、各個体の嗜好や動機付けによって方向付けられている。したがって、「報酬」概念の特徴工学においては、専ら「報酬」を探索する動物的な身振りが鍵となるのである。

報酬を探索する動物的な身振りを理解する上での助けとなるのが、動機付けに関与している神経伝達物質である「ドパミン(dopamine)」に関する実験報告である。神経生理学的に言えば、ドパミン作動性ニューロンのA10神経核は腹側被蓋野から大脳皮質に投射されている。このA10神経核は、報酬系として、動機付けの機能を担っている。A10神経核は、情動との関連から、他の脳内の様々な部位に接続されている。特にA6神経核の青斑核に対応するアドレナリン作動性ニューロンとは、相互に刺激し合う関係を持つ。

アドレナリン作動性ニューロンとの兼ね合いから言えば、いわゆる「ノルアドレナリン(noradrenaline)」は、神経システムの全体を活性化させる機能を持つ。この脳内状況に触発されて、ドパミンもまた活性化することになる。この時A10神経核は、脳幹の神経核から視床下部に至るまで、様々な部位を刺激する。その中には、欲求の制御や体温の調節を司る部位も含まれる。これらの中枢を経た後は、活性化の影響は中隔核、扁桃体、海馬体などの大脳辺縁系にまで至る。最終的には意識や認知や記憶などと関わりを持つ前頭連合野や側頭葉へも刺激を与えることになる。この間、A10神経核は情動や動機付けに関わる部位であれば何処であっても、ドパミンを放出する。すると脳内の様々な部位で、快楽に紐付いた情動が発動する。

パラドックスとしての「脳内麻薬」

したがって、ドパミンの分泌と脳内の過剰な活性化は、相関していることになる。そしてこの過剰な活性化状態は神経システムに負担を強いていることを意味する。これに対して神経システム構造は、この負担軽減として、ドパミン受容体の個数を制御している。実際、ドパミン報酬系としての動機付けや行動を駆動するほどの情動は、放出されたドパミンドパミン受容体と接続することで初めて成り立つ。そしてこの動機付けや情動の強さは、ドパミン受容体に接続されたドパミンの割合に比例する。神経システム構造的にドパミン受容体の個数を増やせば、逆に受容体に接続されているドパミンの個数は相対的に減る。つまり受容体の個数を制御すれば、ドパミンによる動機付けや情動の強さも制御できることになる。

しかしこの方法神経システムにとって諸刃の剣となっている。何故なら、一度ドパミン受容体を増やせば、神経システムはそのことを学習してしまう。今度は、受容体を埋め尽くすために、より多くのドパミンを放出するようになってしまう。そのため、受容体を増やした後は、それまでよりも大量のドパミンが放出されることが常となってしまう。そうなれば、またしても神経システムは過剰な活性化の負担を強いられることになる。だから神経システムは、また構造上の対策として、ドパミンの受容体を増やすことになるだろう。だがこれではいつまで経っても埒が明かない。ドパミンが大量に放出されれば、それだけ受容体の個数も増大する。だが受容体が増えれば、逆にドパミンの更なる大量放出を招いてしまう。まさにこのパラドックスこそが、ドパミンの「脳内麻薬」としての効果を物語っている。

脳内麻薬」としての性質から観れば、ドパミンによる動機付けは反復的な行動を駆動する。この行動反復は手続き的な順化による習熟の形成に結び付いている。だがこうした過剰な活性化は、心理状態にも影響を及ぼす。だがそれは負担過剰となる。その末路の一つが「脳内麻薬」による「依存症(addiction)」だ。依存症に陥った人間心理システムは、異常な執着心や近視眼的な衝動に悩まされることになる。

習熟化されるほどに反復されるような行動を成立させた際には、その報酬象徴するように、脳内で快感を伴わせる肯定的な情動が発動する。このことは、「脳内麻薬」という用語からも連想できるかもしれない。

しかしながら、神経科学者ウォルフラム・シュルツによれば、ドパミンによる動機付けは快感を伴わせる肯定的な情動からは厳密に区別されなければならない。例えば腹側被蓋野におけるドパミンの放出は、確かに報酬目的とした行動を駆動させる。だがその行動は、必ずしも快感を伴わせるような行動とは限らないという。

行動の生起可能性や反復可能性を高める「強化刺激(reinforcer)」を受けた時、たとえそれによって駆動される行動から「痛み」などのような否定的とも捉えられる結果が連想される場合であっても、ドパミンによる動機付けは成立するのだ。シュルツによれば、むしろこの文脈におけるドパミン機能は、そうした強化刺激に対する注意を向けさせることになるのだとも言える。確かに、たとえ「痛み」を伴わせたとしても、その代償として報酬が得られる可能性があるのならば、我々はその行動を選択するかもしれない。

これを前提とすれば、ドパミンが発動するのは、何も行動の結果となる快感のような報酬効果としてだけではない。ドパミンは、未来において期待できる報酬へと注意を向けさせる際にも機能している。シュルツの用語を借用するなら、ドパミンは「報酬を予期させる刺激(reward-predicting stimuli)」を受けた際にも発動していることになる。だからシュルツは、一部のドパミンの放出が大脳基底核や扁桃体の機能によって構成される「報酬探求活動(reward-detection activity)」にも関連付いていると推論している。

β-エンドルフィンの作動

こうして観ると、ドパミン依存症を主導しているかのように思える。しかし依存症は、ドパミンのみならず、様々な神経伝達物質の複合的な作動によって成立している現象だ。とりわけその陰の立役者として作動しているのは、「β-エンドルフィン(beta-endorphin)」であると言われている。

β-エンドルフィンは、阿片から造られるモルヒネ(Morphine)と類似した化学構造を有していながら、モルヒネの10倍程度の鎮痛作用を持つ。β-エンドルフィンもまたドパミン同様、鎮痛作用と共に快楽を引き起こす。この快楽もまた依存症の引き金を引くだろう。ただしここでいう依存症には、精神的な依存のみならず、身体的な依存をも含まれている。と言うのもβ-エンドルフィンは、脳内のみならず消化器系をはじめとした神経システム内でも分泌されるからだ。

ドパミンがそれ自体快楽を引き起こす作用を有しているのに対して、β-エンドルフィンの快楽作用は間接的であるという。と言うのもβ-エンドルフィンは、ドパミンを相対的に活性化させることによって、快楽を引き起こしているためだ。ドパミンには毒性がある。ドパミンが過剰に分泌されてしまうと、身体に毒が回る。故にその過剰分泌は抑制されなければならない。そのために機能しているのが、「γ-アミノ酪酸(gamma-aminobutanoic acid ; GABA)」だ。この神経伝達物質ドパミンをはじめとした興奮系に対する抑制系として機能する。γ-アミノ酪酸がドパミンによる興奮を抑えることによって、身体にリラックス効果を与える。しかしながらこのγ-アミノ酪酸作動性ニューロンの末端には、エンドルフィンの受容体が多数存在している。この受容体に接続されたエンドルフィンは、ドパミンの抑制系として機能しているγ-アミノ酪酸作動性ニューロンそれ自体を抑制することになる。この<抑制の抑制>によって、結果的にドパミンが活性化するという訳だ。

情報エントロピーに対応した神経伝達物質

脳内麻薬」と内発的な動機付けは密接な関連にある。神経科学の側では、脳を内発的に動機付けるコンテンツとして、例えばギャンブルのように、報酬を獲得できる可能性が不確実となるゲームが取り上げられている。神経伝達物質ドパミンの研究の第一人者であるシュルツらの報告によれば、不確実性(Uncertainty)は報酬への期待を増大させるという。脳は、不確実性に曝された場合に、より強く持続的にドパミンを駆動させるようになるというのだ。

ドパミンは快楽を司る神経伝達物質として知られている。ある行動時にドパミンが分泌されている場合、その者はその行動に強く動機付けられているという相関が指摘されている。

この神経システム機能は、人間が不確実な自然環境でも生き抜くために獲得した進化上の成果である。不確実性に曝された生物が生き延びるためには、新たな刺激や新たな行動から何かを学び取らなければならない。ドパミンが放出されるのは、こうした学習を促進させるためである。ここで学習の目標となるのは、動機付けとなり得る出来事に対する期待の正確性を高めることである。如何に不確実な刺激に曝され続けても、そこから報酬を見出せるとは限らない。例えばアドベンチャー・ゲームを攻略するには「フラグ(flag)」に敏感にならなければならないのと同じように、生物は報酬の手掛かりに敏感にならなければならない。そのためには、学習報酬から生じる未来予知にすら相対し得るほどの情報収集能力が必要になる。

ドパミンが作動すれば、人間は不確実性を志向するようになる。その不確実な刺激に注意を向けることで、それに対処しようとする。だから不確実性に曝された生物たる人間は、よりリスキーな選択へと駆り立てられる。注意しなければならないのは、ただ不確実性に曝されれば動機付けが形成されるという訳ではないということだ。その不確実な刺激は、いずれにせよ報酬への期待が含意されていなければならない。報酬の手掛かりとなる情報が全く含まれていないようでは、幾ら人間が学び続けても、報酬期待することはできなくなるだろう。

シュルツらによれば、ギャンブラーギャンブルへの強い動機付けを調達するのは、ギャンブルによって得られる報酬が不確実性に満ちているためである。ギャンブルは、ゲームの戦況という不確実な刺激の中に、勝利することで報酬を得るための様々な手掛かりを含意させている。ゲームに参加するギャンブラーたちは、必ず報酬が得られる訳でもなければ、必ず報酬が得られない訳でもない。仮にもし必ず報酬が得られるのであれば、そのゲームの「結果(outcome)」は、「報酬が得られた」という常に同一の情報となる。それは確認するまでもない冗長的な情報となるだろう。無論必ず報酬が得られない場合についても、同様のことが言える。

シュルツらによれば、ドパミンが最も持続的に活性化し得るのは、この報酬が得られる確率Pが0の場合でもなければ、1の場合でもないという。実にP=0.5の場合に、ドパミンは最も持続的に活性化し得るのである。平均的に観て、報酬が得られる確率Pが0.5の場合、そのゲームの結果は最大の情報量を兼ね備えていることになる。と言うのも、P=0.5の場合、報酬が得られ易いというパターンも、報酬が得られ難いというパターンも、見出すことができないからだ。P=0.5という確率からは、冗長的な情報は形成され難い。P=0.5の時、不確実性は最大となる。クロード・シャノンの情報理論の視点から観ても、この報告は頷ける内容指し示している。<報酬が得られるという出来事>と<報酬が得られないという出来事>が0.5という等確率で生起するのならば、その情報エントロピーは1bitという最大値を示すからだ。

報酬とコストの差異

しかしこうした動物行動心理学神経科学の意味論によって記述される報酬概念では、金融市場の社会構造が強いるコスト概念を把握し切れない。報酬関数にコストの関数を含意させるだけでは、ボーグルの投資哲学で指摘されるように、コストの計算ブラックボックス化させてしまう。強化学習エージェントは、コストを差し引いた後の報酬しか探索しなくなるであろう。

確かに、トレードに焦点を当てているアルゴリズム設計に対してこの問題を提起するのは、要求過剰であろう。例えばムーディらのモデルでは、コスト概念は精々のところ、外部変数(external variables)である$$y_t$$で言及されるに過ぎない。ムーディらのモデルは、初めからコストの最小化には特化していないのだ。一方、カーンズらのモデルでは、報酬計算アルゴリズム価値関数設計とは区別された上で、コスト関数が以下のように定義されている。

$$c(x, a) = \frac{n}{(n+1)} c(x, a) + \frac{1}{(n+1)} [c_{im}(x, a) + argmax \ c(y, p)]$$

ここで、c(x, a)は状態xのもとで行動aを選択した場合のコストを意味する。この関数はその後の全ての状態において最適な戦略に従う。$$c_{im}(x, a)$$は、状態xのもとで行動aを選択することによる1ステップの即時的なコストを意味する。yは状態xのもとで行動aを選択した直後の新しい状態を表す。nはxのもとでaを選択した回数を表す。最後に、pはyのもとで選択される行動を表す。

しかしこのように状態-行動の組み合わせに伴う個々のコストを関数近似的に取得したとしても、それらの方策学習する強化学習エージェントが、システム合理性を確保できるとは限らない。エージェントには、「勝者のゲーム」において学習した方策と「敗者のゲーム」において学習した方策とを区別できないのである。報酬の最大化とコストの最小化を同時に実現したとしても、その最適化が「敗者のゲーム」における最適化であるのならば、その「環境」で培われた方策は何の役にも立たないことになる。その「環境」のゲームに参加しないことこそが、最適な選択肢となるためである。

「敗者のゲーム」の模倣的神経刺激

尤も、トレーダーの<人格>としての強化学習エージェントは、群衆機能的等価物としてのマルチエージェントに対する我々の問題設定においては、機能する問題解決策である。確かにこのトレーダーの<人格>の機能的等価物は、それ単体では「敗者のゲーム」に興じているだけかもしれない。その可能性否定できない。だが、これをマルチエージェントとして設計すれば、「敗者のゲーム」に参加している<人格>は、ヴェールとしての群衆に包含されることになる。するとこの強化学習のモデルは、「敗者のゲーム」に参加してしまう群集心理のシミュレーションを可能にしていることになる。

トレーダーたちにとって、ゲームの敗北は破局的なショック体験に他ならない。人間学的唯物論が指し示すように、このショック効果群衆を集団の身体として技術的に組織化させる可能性を持つ。それは資本主義根源現象として、群衆構成形態化させる。それ故にこそ群衆は、形象の宝庫となる。ショック形象は、思考群衆とを素早く媒介させるためである。投機的な取引における「敗者のゲーム」を模倣する群衆機能的等価物としてのマルチエージェントは、集団の技術器官への模倣的神経刺激によって、100%の「形象空間」を展開する<容器>となるのである。

最適化の無限後退

強化学習ライブラリとして公開しているpyqlearningは、Q学習実装を支援する。このライブラリを機能的に再利用すれば、確かにトレーダーの<人格>の機能的等価物実装することも容易であろう。しかしこのライブラリの真の狙いは、最適化設計することに伴う無限後退を可視化することにある。

「敗者のゲーム」と「勝者のゲーム」の区別は、それ自体「敗者のゲーム」である可能性がある。繰り返し指摘してきたこのパラドックスは、勝利するための最適解を探索することに伴う無限後退として再記述できる。投資や投機のゲームを勝利条件を達成するための最適化問題として再設定するのならば、ゲームによって得られる報酬を最大化するパラメタを探索することが必須となる。確かにQ学習を始めとした強化学習アルゴリズムは、この探索と発見を可能にするであろう。

だが強化学習に限られたことではないが、こうした学習アルゴリズムは多くのハイパーパラメタの調節を必要としてしまう。強化学習エージェントによる探索の報酬や推定の精度から目的関数や損失関数設計するなら、無数の選択可能なハイパーパラメタの組み合わせは、これらの説明変数と見做せる。つまり、アルゴリズムのハイパーパラメタ・チューニングそれ自体が、別のアルゴリズムによる組み合せ最適化の対象となり得るのである。

そこでこのライブラリでは、汎用的な組み合わせ最適化アルゴリズムとして知られる「シミュレーテッドアニーリング(Simulated Annealing)」とその様々な亜種も提供している。これらのアニーリング器を再利用すれば、最適化を志向するアルゴリズムのハイパーパラメタ・チューニングそれ自体を最適化することができる。しかし、ハイパーパラメタ・チューニングの最適化アルゴリズムは、それ自体多くのハイパーパラメタを必要としてしまう。もしハイパーパラメタをアルゴリズム最適化したいのならば、ハイパーパラメタの最適化アルゴリズムのハイパーパラメタを最適化するアルゴリズムが必要になる。一つの最適化ゲームが、原理的には無限アルゴリズムとハイパーパラメタを要してしまうのである。

したがって、ゲームの性質を見極め、最適なハイパーパラメタとアルゴリズム設計しているつもりでいても、<最適化最適化>に対する探索は不十分である可能性は残存し続ける。以下のJupyter notebookでは、簡単な手書き文字の分類問題で、この最適化無限後退を実演している。このパラドックスは原理的に解決不可能であって、ただ解消されるか、「展開」されるだけである。トレーダーの<人格>の機能的等価物設計する者にできるのは、精々のところ、このJupyter notebookで例示しているように、機能的に等価なモデルの精度や速度比較する程度に限られる。データサイエンティストや機械学習エンジニアには、このパラドックスの隠蔽が如何にして可能になるのかを答えることができない。それは金融市場の社会構造が何を妥当と判断するのかに依るためである。

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