「人工の理想」を背景とした「万物照応」のデータモデリング

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派生問題:ショック経験は如何にして可能になるのか

遊歩者探偵ギャンブラー身振りに対するベンヤミンの観察観察するだけでは、これらの営みがショック経験」を如何にして可能にするのかが不透明なままである。実際のところ、遊歩者観察探偵推論、そしてギャンブラー冷静沈着精神は、それ自体としてはショック体験」に満ちている。これらの営みが、たとえヴェールとしての群衆マトリックスとしての大衆の中で実施されたとしても、その営みがショック経験となる保証は何処にも無い。だとすると、形象の大量生産に対する、言うなれば負担軽減策が必要になる。

問題解決策:蒐集

これらの営みがショック経験となり得るのは、遊歩者探偵、そしてギャンブラーらが、「蒐集家(Sammler)」としての身振りを身に着けた場合である。このことは、遊歩者観察探偵推論、そしてギャンブラー精神意味論複製技術時代社会構造と結び付けることで判明する。

元来複製技術時代知覚メディアは、ベンヤミンも述べている通り、どちらかと言えば「意志的記憶」の範囲を拡張する。知覚メディアが呈示するのはショック体験であるため、刺激保護としての意識が動員され易い。フロイトとプルーストの関連を無視しても、知覚メディアは「視覚的な無意識」を暴露する。それは細部に対する意識記憶を活性化させる作用を持つ。しかし一方で、彼が言及してきた複製技術知覚メディアは、仮象なき遊戯空間において、過剰刺激の四面楚歌として迫り来る情報やデータに関して学習する習慣を形成する。ベンヤミンによれば、知識を学ぶ上での「触覚的」な享受は特に知識の蒐集という形式で実践される。知覚メディアのユーザーは、知識の蒐集家としての性質を持つことになる。

蒐集家は本能的に触覚的な人間だ。つまり蒐集家は、過剰なまでに散乱している事物を触覚的に享受していくように、本能的に突き動かされているのである。ウェブ上の情報氾濫やデータの洪水がキュレーションメディアの立ち上げを動機付けるように、事物についての過剰な刺激が撒き散らされている状況が、ユーザーを蒐集へと動機付けていくのだ。

ベンヤミンによれば、この触覚的な享受方法となるのは、「所有」である。触覚性と視覚性の区別で言えば、所有とは触覚的な側に分類される。こうして所有された蒐集対象についての記憶が、新たな事物を選好する際の指針となる。言わば所有の記憶が、感覚器官に迫り来る事物の過剰刺激とそれに伴い活性化する記憶の洪水に対応した「防波堤(Damm)」 になるのである。

記念品の意味論

記念品(Andenken)」は、とりわけ強固な防波堤となり得る。ベンヤミンによれば、17世紀バロック悲劇寓意は、鍵となる形象として、死体の意味論指し示していた。記念品は、これの19世紀版と言える。記念品もまた、19世紀以降、寓意によって指し示されるようになったのだ。

近代社会のカトリック教会がイエス・キリストの遺品を聖遺物と名付けたように、近代社会においては、こうした記念品世俗化した聖遺物として位置付けられる。聖遺物は死体に由来する。一方、記念品そのものの由来は、死体そのものにあるのではない。記念品は「死した経験(abgestorbenen Erfahrung)」に由来する。ベンヤミンの婉曲語法的な表現を少しでもわかり易くするためには、ここで「経験(Erfahrung)」と「体験(Erlebnisses)」の区別を補助線として導入するべきであろう。

既に述べたように、経験歴史的な時間の連続性を前提としている。それは世代から世代へと伝承されることができる。そうした経験から培われた知識や教養は、常に人間と結び付いている。これに対して体験は、非歴史的で非連続的な時点の移行を前提としている。技術の加速的な発展や知覚メディアによる視覚的に無意識的なショック効果もまた、全て体験として知覚される。こうしたショック体験経験を貧困化させる。

これを前提とすれば、ベンヤミンが記念品によって叙述していた「死した経験」が意味するのは、体験に他ならない。体験とは「死した経験」なのである。ある事物が記念品となり得るのは、それが体験の負担軽減を可能にするからだ。とりわけこの記念品寓意的な蒐集家によって注目されるようになった。実際記念品は、商品蒐集対象に変異する場合の雛型として機能する。

データベースとしての記念品

蒐集においては、所有の記憶が、感覚器官に迫り来る事物の過剰刺激とそれに伴い活性化する記憶の洪水に対応した防波堤として機能している。記念品はまさにこの防波堤の機能的等価物となる。蒐集家は数多の事物を所有しようとする。だがその全ての事物を明快に記憶できる訳ではない。その中でも記念品は、自身が特別視されるだけの歴史的な理由を指し示すことで、自身を強調している。ブランドと同じように、記念品は他の商品との差異を確保することで、知覚され易いように自身を展示している。こうして記念品は、ショック効果の負担から所有者を免除している。だからこそトレーディングカードゲームのプレイヤーは、まず以ってレアカードを追い求めるのであろう。

記念品が可能とする負担軽減は、経験の死の埋め合わせを含意する。ここでいう「死」という概念は、経験の機会を有していた人間の「死」をも含意している。経験が貧困化したままの状態であれば、我々はショック体験のみ受容し続けることになる。これではショック経験を享受できない。貧困化した経験の埋め合わせが必要となるのである。この関連から記念品は、言わば蒐集家が自己疎外に満ちた自分の過去を「死」の財産として記録しておくためのデータベースとして機能する。たとえ非歴史的で非連続的な時点の上で生きていても、このデータベースを利用すれば、蒐集家は所有の記憶想起することが可能になるだろう。

蒐集の魔術

蒐集家は、既存の蒐集対象に関する記憶に準拠した上で、新たな事物を蒐集していく。ただし蒐集家は、蒐集された対象が有していた本来の機能には囚われずに、想像し得る限り類似した蒐集対象同士を関連付けていく。ベンヤミンの言葉で言えば、蒐集によって、事物の「完全性(vollständigkeit)」がその「有用性(nutzen)」に取って代わる。

「それは、新たな構造の歴史的な体系に分類することを通して、すなわち蒐集することを通して、単なる存在という全く以って非合理的な有り様を超克する偉大な試みである」。
Benjamin, Walter. (1928-1929/1934-1940) “Das Passagen-Werk”. In: Gesammelte Schriften Bd.V Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989, S.271.

この蒐集家の試みは、制度化や標準化に勤しむ専門組織や特定の問題解決にのみ関与する社会的機能システムの意図とは全く逆行している。何しろ近代の専門組織システム機能システムが重視する効率性や有用性など、蒐集家の眼中には無いからだ。この新たな歴史的体系の中で、機能とは無関連に関連付けられた個々の蒐集対象は、その時代、地域、産業や、元の所有者に関するあらゆる知識を蒐集した魔術的な「百科事典(Enzyklopädie)」となる。蒐集家記憶想像、認識の全てが、その所有物についての百科事典の枠組みとなる。

あらゆる蒐集家蒐集において重要となるのは、蒐集される対象についてのデータだけではない。その事物の以前の所有者、購入価格、本来の相場などといった一見有用とは思えない細部の様々なデータもまた、重要な事柄となる。ベンヤミンも述べているように、蒐集された個々の事物の中では、それぞれの事物に関わる細部の様々なデータを背景に、一つの「世界」が秩序を形成している。このそれぞれの事物に固有の世界が、全く新しい歴史的な体系を織り成しているのである。

所有の錯覚的な秩序

蒐集家触覚的な享受としての所有は、万事上手くいく訳ではない。たとえ触覚的な所有を繰り返す蒐集家がその所有物に秩序を見出しても、実際それはあまりにも慣れ親しんでいるために習慣化されている錯覚的な秩序に過ぎない可能性もあるからだ。とりわけ複製技術知覚メディアを背景とすれば、事物による視覚的に無意識的な過剰刺激は止むことを知らない。撒き散らされた事物の散乱状態が、「百科事典」の秩序を掻き消す程のノイズとなる可能性もある。とはいえ、秩序を破壊されたからといって、蒐集中断される訳ではない。何故なら、まさにその過剰刺激が生み出す事物の散乱した状態こそが、蒐集家を動機付けているためである。だからベンヤミンは、無秩序と秩序の間で弁証法的に緊張している存在として蒐集家を描いているのである。

ベンヤミンが指摘するこの両義的な性質は、蒐集家と「寓意家(Allegoriker)」を関連付けることで判明となる。彼の近代寓意論によれば、蒐集家寓意家は表裏一体の関係にある。蒐集は、錯覚的な秩序に基づくために、不可避的に不完全に終わる。故に蒐集家は究極的に「断片」的な事物の蒐集に終始することになる。ベンヤミンによれば、事物の「断片」しか掴み様がないというこの状態は、まさに寓意家が根本的に前提とする状態に他ならない。寓意家には、調和が形成された世界全体の秩序など眼中に無いのである。蒐集が秩序を形成していく営みであるならば、寓意は持続可能であるかのように魅せる「所与の秩序」の仮象や固定観念を破壊する無秩序な営みである。

寓意家と蒐集家の<両極>

こうして観ると、寓意家蒐集家は相互に対極的な性質を有していることがわかる。破局を直視する憂鬱気質寓意家には、調和が形成された世界全体の秩序を信頼することができない。繰り返すように、蒐集が秩序を形成していく営みであるならば、寓意は持続可能であるかのように魅せる「所与の秩序」の仮象や固定観念を破壊する無秩序な営みである。寓意家は習慣形成とは無縁の生活を送る。蒐集家触覚的に享受した所有物の「百科事典」に腐心するなら、寓意家は掴み取った「断片」に対する視覚的な享受としての沈潜を反復していく。

もとより事物をその機能的な連関から切り離すという点においては、両者は一致している。つまり寓意家のみならず蒐集家もまた、蒐集した個々の事物の「断片」の中に、一つ一つの世界を描いているのである。ただし寓意家に限っては、切断した個々の「断片」を類似した他の「断片」と関連付けようとはしない。寓意家は、「断片」を「断片」のまま保持する。

「寓意的な意図に影響を受けているものは、生との関連から切り離される。すなわち、それは破壊されると同時に保存されるのである。寓意は瓦礫を着実に保持し続ける」。
Benjamin, Walter. (1928-1929/1934-1940) “Das Passagen-Werk”. In: Gesammelte Schriften Bd.V Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989, S.414-415.

複製技術知覚メディアを背景にするならば、蒐集家の内に眠る寓意的な関心が呼び覚まされるのは、瞬間的である。すなわち、蒐集家が錯覚している秩序の仮象を破壊する程ノイジーな過剰刺激を受けた瞬間である。散乱した無数の事物の中で唯一掴み取ることができた事物の「断片」にのみ、寓意的な関心が向けられる。寓意家としてのユーザーは、その「断片」に注意を集中していくことになる。

メディアとしての記憶

ベンヤミンは、自身の言語メディアを駆使した批評を実践する上で、記憶を特権的なメディアとして位置付けている。ベンヤミンによれば、記憶過去を探索するための道具ではなく、その舞台である。大地がその中に死滅した都市を埋没させているメディアであるように、記憶体験された事物のメディアである。この場合の記憶メディアである以上、ベンヤミンは、記憶を通じて(durch)過去出来事体験するというよりも、記憶の中で(in)過去出来事体験することに重きを置いている。

自分の埋もれた過去に接近しようとする者は、発掘者の如き姿勢を採らなければならない。その発掘は中々上手くいかない。幾度となく発掘しても、繰り返し同じ事実関係を巡り、何度も堂々巡りになってしまうだろう。とはいえ、真の発掘者は、そうした堂々巡りにも戸惑わずに、何度も土を撒き散らすように、その事実関係を撒き散らしていく。何故なら、我々が過去の事実であると考えているのは、単なる地層に過ぎないからだ。その地表に目印を付けて、計画的に発掘し続ける姿勢も、無論重要であろう。だが暗い地面に用心深く弄るように掘り進めていくこともまた、有益な収穫に結び付いていく。そうした入念な探究没入していくことで初めて、発掘の名に値するものを掘り出せるようになるのである。

自分の中に埋もれた過去記憶発掘する姿勢は、蒐集家の陳列室に並べられている膨大な蒐集物の中から寓意的な断片を発見する姿勢と酷似している。と言うのも、寓意的な蒐集家は、自身が蒐集家として制作した魔術的な百科事典を撒き散らされた事物の散乱状態として再認識するからである。発掘者が地層を何度も撒き散らすのならば、寓意的な蒐集家は配列された事物を悉く切断していくのである。

こうした発掘者の姿勢は、弁証法的な歴史家の姿勢にも結び付いていく。ベンヤミンにとって過去想起は、必ずしも自伝のようなものを描く訳ではない。自伝は物語である。それは時間や過程、生の連続的な持続性から構成されている。しかしむしろベンヤミンが注目したのは、瞬間的で非連続的な記憶想起であった。

過去記憶想起するというのは、体験された出来事体験されたままに物語ることを意味するのではない。意識的に記憶を奮い起こすことは、発掘者としての振る舞いにおいては重要とはなり得ないのである。こう述べた場合に前提とされる記憶想起とは、単に想起の欠如としての忘却への抵抗ではなく、「覚えていることへの抵抗(Gegen-Erinnern)」という逆向きの運動の緊張を孕んだ想起意味する。まさにこの抵抗こそが「意志的記憶」の否定へと結び付く。過去出来事が一旦忘却されて潜在化した後に、過去形象の側から突如として襲い掛かってくるような体験こそが、本来の意味での想起経験であるとベンヤミンは主張する。

機能的等価物の探索:遊歩者の蒐集

遊歩者同時蒐集家であるのは、ベンヤミン自身を観察することで容易に理解できる。批評、注釈、引用翻訳を主眼とする前期ベンヤミンの言語メディア理論は、有名なアフォリズム集である『一方通行路』を経て、後期ベンヤミンの知覚メディア理論へと接続されていく。これは別段不自然なことではない。と言うのも、彼の文学活動は文学の枠の中で実践されていた訳ではなかったからだ。文学が効果を発揮するのは、もはや学会や論文の中ではない。彼はむしろ社会的な生活の中で文学を実践していた。社会に影響を与えられるのは、壮大な普遍性を誇示する小難しい書物ではなく、広告、パンフレット、雑誌、ポスターなどに記述されている機敏な言語なのである。

歩く批評家であったベンヤミンは、街路を辿りながら、街の行く先で起こる数々の出来事から常にショック体験し続けた。広告、パンフレット、雑誌、ポスターのみならず、看板や商品や建築や風景からも、彼はショックを受け続けた。ベンヤミンがこうしたショック体験ショック経験に変換できたのは、その出来事の記述を蒐集していたためである。彼が想定する真の著作家は、自身の内部に無数の警報器を備えている。記述するというのは、体験したショックに対して警報器を鳴らすことに他ならない。著作家は、驚きながら書き続ける。

ベンヤミンが<思考すること>と<記述すること>を区別しなかったのは、このためである。記述するというのは、単に思考した結果を出力することなのではない。記述には、思考の鍛錬が伴う。つまり視覚的に無意識的なショック体験触覚的に享受しながら、著作家は書き続けるのである。もとより『パサージュ論』は、ベンヤミンのこの歩く批評家としての姿勢によって記述された代物であった。

複製技術時代以降の近代社会では、言語が活字メディアから解き放たれることになる。それ故ベンヤミンは、もはや学術論文雑誌や専門誌をはじめとした諸々の活字メディアを主導的なメディアとしては認めない。彼はあくまで知覚メディアの学を徹底した。ここでいう知覚という用語は、繰り返すように、「美学(aesthetics)」の語源となるギリシア語の「アイステーシス(aisthesis)」に由来する。つまり彼の学は、「メディア美学(Media Aesthetics: Medienasthetik)」なのである。

活字メディアグーテンベルグ銀河系が終焉の時を迎えて尚、メディア美学は新しい学問であり続けた。ベンヤミンのメディア美学における参照問題となったのは映画である。だがその出発点となったのは形象に関わる複製技術に他ならない。彼はそこから広告、パンフレット、雑誌、ポスターなど、様々な知覚メディアによって記述された機敏な言語観察し続けたのだ。彼が生きた時代には、既に近代社会の大都市がポスターの世界に凝縮されたデータの洪水を放っていた。看板や広告によって展示された個々の文字列は、視覚的に無意識的なショック効果を呈示してきた。

この段階で既に、本という活字メディアが徐々に文化の中心から後退していった。長らく言語の居場所を独占していた活字メディアは、知覚メディアに席を譲ったのである。そして機敏な言語日、既に数多のハイパーテクストで記述されることにより、ワールド・ワイド・ウェブ上でビッグデータ化している。自然言語は遂に人間のためだけの言語ではなくなった。これらのビッグデータは、もはや人文主義者たちはおろか、データサイエンティストをはじめとした人間のためだけの読み物ですらなく、人工知能観察し得るメトリクス化可能な自然言語処理の対象として形式化されている。ビッグデータの時代を迎えて久しい現代社会においては、人工知能と接続可能なコンピュータ技術の知覚メディアこそが、メディア美学の参照問題となる。

機能的等価物の探索:探偵の蒐集

ポーが描くデュパンは新聞という知覚メディアから情報蒐集する最初期の探偵の一人であった。実際、新聞は出来事に関する情報を複製することで、その脱アウラ化を果たす。だがそれによって読み手が享受することになるのは、経験の性格を失った体験のみである。言い換えれば、新聞には物語性が無い。それが何らかの物語叙述しているように見えても、実際に記述されているのは物語についての情報である。新聞には「物語の語り手(Erzähler)」が登場しないのである。

しかしポーは探偵小説を「推理の物語(tales of ratiocination)」として叙述していた。新聞の情報から展開されるデュパンの推理は、ショック体験としての殺人事件を見事に「物語っている」。それは、探偵の中では既にこのショック体験ショック経験へと変換できていることの表現である。物語の語り手は、物語ることを経験から抽出している。それは自分自身の経験の場合もあれば、報告された経験の場合もある。そして語ったものを自身の話に耳を傾ける人々の経験にしていくのである。これが経験の交換である。

確かに物語情報区別を導入すると、複製技術知覚メディアによるショック体験もまた、物語の語り手の衰退と関連していることが判明する。新聞をはじめとした複製技術は、伝達の新しい形式として、情報を生み出した。情報という伝達形式は、脱アウラ化を前提としている。情報物語よりも優位に立つのは、人々が遠くから伝達される知らせよりも、身近な出来事に判断の拠り所を与えてくれる情報の方に耳を傾ける傾向があるためである。異国から伝達された知らせには空間的な遠さがある。伝承によって伝達された知らせには時間的な遠さがある。こうした遠さは、アウラが宿るために、かつては権威が形成されていた。この権威によって、物語られた知らせは真偽の検証を経ることなく受容されていた。しかし、脱アウラ化された複製技術時代では、即座に検証可能である情報が要求されるようになる。この検証可能性においては、情報がそれ自体として理解可能であることが重要となる。

情報は、まさに新奇性を備えている間にこそ重視される。情報は伝達されたその瞬間にのみ活性化している。情報は、それ自体の全てを完全にその瞬間に指し示している。これに対して物語は、決してそれ自体を出し尽くしてしまうことが無い。物語は、長い時間を経た後でも尚「展開」される能力を持つ。フランツ・カフカの物語がそうであったように、物語は、それ自体ではない他の何かを指し示す比喩を用いても全く問題にはならない。物語はそれ自体、伝達の言わば手仕事的な形式である。物語は、情報のように出来事を純粋にそれ自体のみとして伝達することを狙っているのではない。物語は、出来事を、一旦報告者の生の中に深く刻み込み、その後再びそこから抽出する。故に物語には、出来事それ自体ではなく、語り手記憶の痕跡が付着している。

しかし探偵の口から発せられる推論物語的になるのは、まさにこうした情報が事件簿として蒐集された後である。つまりそのショック体験となる事件のが解明された時、それは物語性を伴わせたショック経験となる。物語の「伏線」は、解きを媒介する情報に他ならない。探偵推論はこの伏線の蒐集によって成り立っている。そしてこの伏線が、文字通り線的な経験を可能にする。伏線となる出来事解きの出来事との間には、論証や心証を経由した連続性が担保されるからである。

機能的等価物の探索:ギャンブラーの蒐集

同様にギャンブラーの中にもまた蒐集家人格を兼ね備えた者たちがいる。ゲームの勝者にはしばしば景品がプレゼントされる。この景品が蒐集対象となり得る記念品として機能する。景品は、プレイヤーに付与される「報酬(reward)」である。強化学習問題の枠組みで言えば、ギャンブラーは、個々の戦況下で自身が置かれている「状態(state)」を前提とした上で、どのような「行動(action)」を選択するかを決定する。そしてこの行動の選択結果として、どの程度の「報酬」を得られるのかを計算する。この「状態」と「行動」の写像を特に「方策(policy)」と呼ぶ。ギャンブラーは、「報酬」から「方策」を学習するエージェントであるということになる。

バンディットアルゴリズム象徴されるように、強化学習アルゴリズムはしばしばギャンブラーの比喩で解説される。しかし、逆にギャンブラー強化学習の比喩によって説明することの方が自然体であるように思える。強化学習問題の枠組みは、エージェントによる環境制御最適化が如何にして可能になるのかという動物行動心理学神経科学の観点に深く根差した理論となっている。報酬を探索する動物的な身振りを理解する上での助けとなるのが、動機付けに関与している神経伝達物質である「ドパミン(dopamine)」に関する実験報告である。

神経生理学的に言えば、ドパミン作動性ニューロンのA10神経核は腹側被蓋野から大脳皮質に投射されている。このA10神経核は、報酬系として、動機付けの機能を担っている。A10神経核は、情動との関連から、他の脳内の様々な部位に接続されている。特にA6神経核の青斑核に対応するアドレナリン作動性ニューロンとは、相互に刺激し合う関係を持つ。

アドレナリン作動性ニューロンとの兼ね合いから言えば、いわゆる「ノルアドレナリン(noradrenaline)」は、神経システムの全体を活性化させる機能を持つ。この脳内状況に触発されて、ドパミンもまた活性化することになる。この時A10神経核は、脳幹の神経核から視床下部に至るまで、様々な部位を刺激する。その中には、欲求の制御や体温の調節を司る部位も含まれる。これらの中枢を経た後は、活性化の影響は中隔核、扁桃体、海馬体などの大脳辺縁系にまで至る。最終的には意識や認知や記憶などと関わりを持つ前頭連合野や側頭葉へも刺激を与えることになる。この間、A10神経核は情動や動機付けに関わる部位であれば何処であっても、ドパミンを放出する。すると脳内の様々な部位で、快楽に紐付いた情動が発動する。

パラドックスとしての「脳内麻薬」

したがって、ドパミンの分泌と脳内の過剰な活性化は、相関していることになる。そしてこの過剰な活性化状態は神経システムに負担を強いていることを意味する。これに対して神経システム構造は、この負担軽減として、ドパミン受容体の個数を制御している。実際、ドパミン報酬系としての動機付けや行動を駆動するほどの情動は、放出されたドパミンドパミン受容体と接続することで初めて成り立つ。そしてこの動機付けや情動の強さは、ドパミン受容体に接続されたドパミンの割合に比例する。神経システム構造的にドパミン受容体の個数を増やせば、逆に受容体に接続されているドパミンの個数は相対的に減る。つまり受容体の個数を制御すれば、ドパミンによる動機付けや情動の強さも制御できることになる。

しかしこの方法神経システムにとって諸刃の剣となっている。何故なら、一度ドパミン受容体を増やせば、神経システムはそのことを学習してしまう。度は、受容体を埋め尽くすために、より多くのドパミンを放出するようになってしまう。そのため、受容体を増やした後は、それまでよりも大量のドパミンが放出されることが常となってしまう。そうなれば、またしても神経システムは過剰な活性化の負担を強いられることになる。だから神経システムは、また構造上の対策として、ドパミンの受容体を増やすことになるだろう。だがこれではいつまで経っても埒が明かない。ドパミンが大量に放出されれば、それだけ受容体の個数も増大する。だが受容体が増えれば、逆にドパミンの更なる大量放出を招いてしまう。まさにこのパラドックスこそが、ドパミンの「脳内麻薬」としての効果を物語っている。

「報酬を予期させる刺激」に対する「報酬探索活動」

脳内麻薬」としての性質から観れば、ドパミンによる動機付けは反復的な行動を駆動する。この行動反復は手続き的な順化による習熟の形成に結び付いている。だがこうした過剰な活性化は、心理状態にも影響を及ぼす。だがそれは負担過剰となる。その末路の一つが「脳内麻薬」による「依存症(addiction)」だ。依存症に陥った人間心理システムは、異常な執着心や近視眼的な衝動に悩まされることになる。

習熟化されるほどに反復されるような行動を成立させた際には、その報酬象徴するように、脳内で快感を伴わせる肯定的な情動が発動する。このことは、「脳内麻薬」という用語からも連想できるかもしれない。

しかしながら、神経科学者ウォルフラム・シュルツによれば、ドパミンによる動機付けは快感を伴わせる肯定的な情動からは厳密に区別されなければならない。例えば腹側被蓋野におけるドパミンの放出は、確かに報酬目的とした行動を駆動させる。だがその行動は、必ずしも快感を伴わせるような行動とは限らないという。

行動の生起可能性や反復可能性を高める「強化刺激(reinforcer)」を受けた時、たとえそれによって駆動される行動から「痛み」などのような否定的とも捉えられる結果が連想される場合であっても、ドパミンによる動機付けは成立するのだ。シュルツによれば、むしろこの文脈におけるドパミン機能は、そうした強化刺激に対する注意を向けさせることになるのだとも言える。確かに、たとえ「痛み」を伴わせたとしても、その代償として報酬が得られる可能性があるのならば、我々はその行動を選択するかもしれない。

これを前提とすれば、ドパミンが発動するのは、何も行動の結果となる快感のような報酬効果としてだけではない。ドパミンは、未来において期待できる報酬へと注意を向けさせる際にも機能している。シュルツの用語を借用するなら、ドパミンは「報酬を予期させる刺激(reward-predicting stimuli)」を受けた際にも発動していることになる。だからシュルツは、一部のドパミンの放出が大脳基底核や扁桃体の機能によって構成される「報酬探求活動(reward-detection activity)」にも関連付いていると推論している。

β-エンドルフィンの作動

こうして観ると、ドパミン依存症を主導しているかのように思える。しかし依存症は、ドパミンのみならず、様々な神経伝達物質の複合的な作動によって成立している現象だ。とりわけその陰の立役者として作動しているのは、「β-エンドルフィン(beta-endorphin)」であると言われている。

β-エンドルフィンは、阿片から造られるモルヒネ(Morphine)と類似した化学構造を有していながら、モルヒネの10倍程度の鎮痛作用を持つ。β-エンドルフィンもまたドパミン同様、鎮痛作用と共に快楽を引き起こす。この快楽もまた依存症の引き金を引くだろう。ただしここでいう依存症には、精神的な依存のみならず、身体的な依存をも含まれている。と言うのもβ-エンドルフィンは、脳内のみならず消化器系をはじめとした神経システム内でも分泌されるからだ。

ドパミンがそれ自体快楽を引き起こす作用を有しているのに対して、β-エンドルフィンの快楽作用は間接的であるという。と言うのもβ-エンドルフィンは、ドパミンを相対的に活性化させることによって、快楽を引き起こしているためだ。ドパミンには毒性がある。ドパミンが過剰に分泌されてしまうと、身体に毒が回る。故にその過剰分泌は抑制されなければならない。そのために機能しているのが、「γ-アミノ酪酸(gamma-aminobutanoic acid ; GABA)」だ。この神経伝達物質ドパミンをはじめとした興奮系に対する抑制系として機能する。γ-アミノ酪酸がドパミンによる興奮を抑えることによって、身体にリラックス効果を与える。しかしながらこのγ-アミノ酪酸作動性ニューロンの末端には、エンドルフィンの受容体が多数存在している。この受容体に接続されたエンドルフィンは、ドパミンの抑制系として機能しているγ-アミノ酪酸作動性ニューロンそれ自体を抑制することになる。この<抑制の抑制>によって、結果的にドパミンが活性化するという訳だ。

情報エントロピーに対応した神経伝達物質

脳内麻薬」と内発的な動機付けは密接な関連にある。神経科学の側では、脳を内発的に動機付けるコンテンツとして、例えばギャンブルのように、報酬を獲得できる可能性が不確実となるゲームが取り上げられている。神経伝達物質ドパミンの研究の第一人者であるシュルツらの報告によれば、不確実性(Uncertainty)は報酬への期待を増大させるという。脳は、不確実性に曝された場合に、より強く持続的にドパミンを駆動させるようになるというのだ。

ドパミンは快楽を司る神経伝達物質として知られている。ある行動時にドパミンが分泌されている場合、その者はその行動に強く動機付けられているという相関が指摘されている。

この神経システム機能は、人間が不確実な自然環境でも生き抜くために獲得した進化上の成果である。不確実性に曝された生物が生き延びるためには、新たな刺激や新たな行動から何かを学び取らなければならない。ドパミンが放出されるのは、こうした学習を促進させるためである。ここで学習の目標となるのは、動機付けとなり得る出来事に対する期待の正確性を高めることである。如何に不確実な刺激に曝され続けても、そこから報酬を見出せるとは限らない。例えばアドベンチャー・ゲームを攻略するには「フラグ(flag)」に敏感にならなければならないのと同じように、生物は報酬の手掛かりに敏感にならなければならない。そのためには、学習報酬から生じる未来予知にすら相対し得るほどの情報収集能力が必要になる。

ドパミンが作動すれば、人間は不確実性を志向するようになる。その不確実な刺激に注意を向けることで、それに対処しようとする。だから不確実性に曝された生物たる人間は、よりリスキーな選択へと駆り立てられる。注意しなければならないのは、ただ不確実性に曝されれば動機付けが形成されるという訳ではないということだ。その不確実な刺激は、いずれにせよ報酬への期待が含意されていなければならない。報酬の手掛かりとなる情報が全く含まれていないようでは、幾ら人間が学び続けても、報酬期待することはできなくなるだろう。

シュルツらによれば、ギャンブラーギャンブルへの強い動機付けを調達するのは、ギャンブルによって得られる報酬が不確実性に満ちているためである。ギャンブルは、ゲームの戦況という不確実な刺激の中に、勝利することで報酬を得るための様々な手掛かりを含意させている。ゲームに参加するギャンブラーたちは、必ず報酬が得られる訳でもなければ、必ず報酬が得られない訳でもない。仮にもし必ず報酬が得られるのであれば、そのゲームの「結果(outcome)」は、「報酬が得られた」という常に同一の情報となる。それは確認するまでもない冗長的な情報となるだろう。無論必ず報酬が得られない場合についても、同様のことが言える。

シュルツらによれば、ドパミンが最も持続的に活性化し得るのは、この報酬が得られる確率Pが0の場合でもなければ、1の場合でもないという。実にP=0.5の場合に、ドパミンは最も持続的に活性化し得るのである。平均的に観て、報酬が得られる確率Pが0.5の場合、そのゲームの結果は最大の情報量を兼ね備えていることになる。と言うのも、P=0.5の場合、報酬が得られ易いというパターンも、報酬が得られ難いというパターンも、見出すことができないからだ。P=0.5という確率からは、冗長的な情報は形成され難い。P=0.5の時、不確実性は最大となる。クロード・シャノンの情報理論の視点から観ても、この報告は頷ける内容指し示している。<報酬が得られるという出来事>と<報酬が得られないという出来事>が0.5という等確率で生起するのならば、その情報エントロピーは1bitという最大値を示すからだ。

「報酬」のパターン蒐集

これを前提とすれば、ギャンブラー蒐集するのが情報であるという点で言えば、探偵差異は無い。だがギャンブラーはとりわけ情報の中でも「報酬」のパターンに関する情報蒐集する。それが強化学習問題の枠組みで言うところの「方策」である。囲碁や将棋、リバーシで言えば、「定石」が「方策」としての機能を担うであろう。ゲームの戦況の不確実性が高ければ高いほど、そのゲームにはギャンブル性が伴う。たとえ「二人零和有限確定完全情報ゲーム」であっても、ハーバート・アレクサンダー・サイモンが言うところの「限定合理性(bounded rationality)」を前提とする限り、戦況における情報処理やデータ処理のギャンブル性は不可避となる。

ポーがチェスとチェッカーを比較することで解説したのは、まさにこの不確実性が伴う戦況下での推論が如何にして可能になるのかであった。駆け引き、読み合い、揺さぶり合いなどのようなプレイヤーたちのコミュニケーションは、プレイヤーの身体を介した相互行為として成立している。それは相手プレイヤーの動物身体から発せられる身振りから、冷静沈着に、前兆予感合図のようなサインを判読する営みである。確かにこのゲームには「意志」が介在する。だがその判読の対象となる身振りは「無意志的」である。プレイヤーは「意志的」に相手プレイヤーの「無意志的」な身振り観察する。この意味ギャンブルコミュニケーションは、「意志的」と「無意志的」の区別を「意志的」の側に再導入(re-entry)することで、ショック経験を可能にしている。

無論相手プレイヤーの身振りの判読が正確性を期すことはあり得ない。しかしその身振りからパターンを抽出することで可能である。つまり自身が報酬獲得において有益となり得る情報パターンである。「経験」豊富なギャンブラーとは、より多くの相手の身体身振りからより多くのサインを判読することで、「報酬」のパターン蒐集しているギャンブラーなのである。

全てを分析し尽くした上での無謀さ

こうしたギャンブラーの性格を<恣意的な無謀さ>にあると見做してはならない。それは断じて違う。確かに不確実性が伴う戦況は、一見して「運」に左右される。理不尽な「イカサマ」が仕掛けられていたとしても、不確実な戦況がそれを隠蔽してしまうかもしれない。一度ゲームが開始すれば、もはやその「イカサマ」を見抜くことは至難の業となる場合もあるだろう。

だがゲームを開始した時点で既に敗北する「運命」にあるような戦況が設計されてしまうのは、情報蒐集が甘い証拠である。真に勝利するための情報蒐集するなら、そうした「イカサマ」のような「運命」を脱因果論化するようなサインを判読しなければならない。そうすることで、その「イカサマ」すら無効化するような布石を打っておく必要がある。ゲームに勝利するための布石を、ゲームが開始する前に打っておくのである。

言い換えれば、ゲームというのは、そのゲームのルールやシナリオが設計されている時点で既に始まっている。勝利するギャンブラーが不確実な戦況で示す無謀な身振りは、言わば<全てを分析し尽くした上での無謀さ>なのだ。入念な事前情報蒐集があってこその無謀さなのである。だからゲームは、しばしば最初の一手で決着が付く。始まる前には決着が付いている場合すらあり得る。「報酬」のパターンは、ゲームの中から得られるとは限らない。分析的なプレイヤーがゲームとは無関係と思える要因にも注意を向けるとポーが述べたのも、このためである。

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