「人工の理想」を背景とした「万物照応」のデータモデリング

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派生問題:ショック経験は如何にして可能になるのか

遊歩者探偵ギャンブラー身振りに対するベンヤミンの観察観察するだけでは、これらの営みがショック経験」を如何にして可能にするのかが不透明なままである。実際のところ、遊歩者観察探偵推論、そしてギャンブラー冷静沈着精神は、それ自体としてはショック体験」に満ちている。これらの営みが、たとえヴェールとしての群衆マトリックスとしての大衆の中で実施されたとしても、その営みがショック経験となる保証は何処にも無い。だとすると、形象の大量生産に対する、言うなれば負担軽減策が必要になる。

問題解決策:蒐集

これらの営みがショック経験となり得るのは、遊歩者探偵、そしてギャンブラーらが、「蒐集家(Sammler)」としての身振りを身に着けた場合である。このことは、遊歩者観察探偵推論、そしてギャンブラー精神意味論複製技術時代社会構造と結び付けることで判明する。

元来複製技術時代知覚メディアは、ベンヤミンも述べている通り、どちらかと言えば「意志的記憶」の範囲を拡張する。知覚メディアが呈示するのはショック体験であるため、刺激保護としての意識が動員され易い。フロイトとプルーストの関連を無視しても、知覚メディアは「視覚的な無意識」を暴露する。それは細部に対する意識記憶を活性化させる作用を持つ。しかし一方で、彼が言及してきた複製技術知覚メディアは、仮象なき遊戯空間において、過剰刺激の四面楚歌として迫り来る情報やデータに関して学習する習慣を形成する。ベンヤミンによれば、知識を学ぶ上での「触覚的」な享受は特に知識の蒐集という形式で実践される。知覚メディアのユーザーは、知識の蒐集家としての性質を持つことになる。

蒐集家は本能的に触覚的な人間だ。つまり蒐集家は、過剰なまでに散乱している事物を触覚的に享受していくように、本能的に突き動かされているのである。ウェブ上の情報氾濫やデータの洪水がキュレーションメディアの立ち上げを動機付けるように、事物についての過剰な刺激が撒き散らされている状況が、ユーザーを蒐集へと動機付けていくのだ。

ベンヤミンによれば、この触覚的な享受方法となるのは、「所有」である。触覚性と視覚性の区別で言えば、所有とは触覚的な側に分類される。こうして所有された蒐集対象についての記憶が、新たな事物を選好する際の指針となる。言わば所有の記憶が、感覚器官に迫り来る事物の過剰刺激とそれに伴い活性化する記憶の洪水に対応した「防波堤(Damm)」 になるのである。

記念品の意味論

記念品(Andenken)」は、とりわけ強固な防波堤となり得る。ベンヤミンによれば、17世紀バロック悲劇寓意は、鍵となる形象として、死体の意味論指し示していた。記念品は、これの19世紀版と言える。記念品もまた、19世紀以降、寓意によって指し示されるようになったのだ。

近代社会のカトリック教会がイエス・キリストの遺品を聖遺物と名付けたように、近代社会においては、こうした記念品世俗化した聖遺物として位置付けられる。聖遺物は死体に由来する。一方、記念品そのものの由来は、死体そのものにあるのではない。記念品は「死した経験(abgestorbenen Erfahrung)」に由来する。ベンヤミンの婉曲語法的な表現を少しでもわかり易くするためには、ここで「経験(Erfahrung)」と「体験(Erlebnisses)」の区別を補助線として導入するべきであろう。

既に述べたように、経験歴史的な時間の連続性を前提としている。それは世代から世代へと伝承されることができる。そうした経験から培われた知識や教養は、常に人間と結び付いている。これに対して体験は、非歴史的で非連続的な時点の移行を前提としている。技術の加速的な発展や知覚メディアによる視覚的に無意識的なショック効果もまた、全て体験として知覚される。こうしたショック体験経験を貧困化させる。

これを前提とすれば、ベンヤミンが記念品によって叙述していた「死した経験」が意味するのは、体験に他ならない。体験とは「死した経験」なのである。ある事物が記念品となり得るのは、それが体験の負担軽減を可能にするからだ。とりわけこの記念品寓意的な蒐集家によって注目されるようになった。実際記念品は、商品蒐集対象に変異する場合の雛型として機能する。

データベースとしての記念品

蒐集においては、所有の記憶が、感覚器官に迫り来る事物の過剰刺激とそれに伴い活性化する記憶の洪水に対応した防波堤として機能している。記念品はまさにこの防波堤の機能的等価物となる。蒐集家は数多の事物を所有しようとする。だがその全ての事物を明快に記憶できる訳ではない。その中でも記念品は、自身が特別視されるだけの歴史的な理由を指し示すことで、自身を強調している。ブランドと同じように、記念品は他の商品との差異を確保することで、知覚され易いように自身を展示している。こうして記念品は、ショック効果の負担から所有者を免除している。だからこそトレーディングカードゲームのプレイヤーは、まず以ってレアカードを追い求めるのであろう。

記念品が可能とする負担軽減は、経験の死の埋め合わせを含意する。ここでいう「死」という概念は、経験の機会を有していた人間の「死」をも含意している。経験が貧困化したままの状態であれば、我々はショック体験のみ受容し続けることになる。これではショック経験を享受できない。貧困化した経験の埋め合わせが必要となるのである。この関連から記念品は、言わば蒐集家が自己疎外に満ちた自分の過去を「死」の財産として記録しておくためのデータベースとして機能する。たとえ非歴史的で非連続的な時点の上で生きていても、このデータベースを利用すれば、蒐集家は所有の記憶想起することが可能になるだろう。

蒐集の魔術

蒐集家は、既存の蒐集対象に関する記憶に準拠した上で、新たな事物を蒐集していく。ただし蒐集家は、蒐集された対象が有していた本来の機能には囚われずに、想像し得る限り類似した蒐集対象同士を関連付けていく。ベンヤミンの言葉で言えば、蒐集によって、事物の「完全性(vollständigkeit)」がその「有用性(nutzen)」に取って代わる。

「それは、新たな構造の歴史的な体系に分類することを通して、すなわち蒐集することを通して、単なる存在という全く以って非合理的な有り様を超克する偉大な試みである」。
Benjamin, Walter. (1928-1929/1934-1940) “Das Passagen-Werk”. In: Gesammelte Schriften Bd.V Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989, S.271.

この蒐集家の試みは、制度化や標準化に勤しむ専門組織や特定の問題解決にのみ関与する社会的機能システムの意図とは全く逆行している。何しろ近代の専門組織システム機能システムが重視する効率性や有用性など、蒐集家の眼中には無いからだ。この新たな歴史的体系の中で、機能とは無関連に関連付けられた個々の蒐集対象は、その時代、地域、産業や、元の所有者に関するあらゆる知識を蒐集した魔術的な「百科事典(Enzyklopädie)」となる。蒐集家記憶想像、認識の全てが、その所有物についての百科事典の枠組みとなる。

あらゆる蒐集家蒐集において重要となるのは、蒐集される対象についてのデータだけではない。その事物の以前の所有者、購入価格、本来の相場などといった一見有用とは思えない細部の様々なデータもまた、重要な事柄となる。ベンヤミンも述べているように、蒐集された個々の事物の中では、それぞれの事物に関わる細部の様々なデータを背景に、一つの「世界」が秩序を形成している。このそれぞれの事物に固有の世界が、全く新しい歴史的な体系を織り成しているのである。

所有の錯覚的な秩序

蒐集家触覚的な享受としての所有は、万事上手くいく訳ではない。たとえ触覚的な所有を繰り返す蒐集家がその所有物に秩序を見出しても、実際それはあまりにも慣れ親しんでいるために習慣化されている錯覚的な秩序に過ぎない可能性もあるからだ。とりわけ複製技術知覚メディアを背景とすれば、事物による視覚的に無意識的な過剰刺激は止むことを知らない。撒き散らされた事物の散乱状態が、「百科事典」の秩序を掻き消す程のノイズとなる可能性もある。とはいえ、秩序を破壊されたからといって、蒐集中断される訳ではない。何故なら、まさにその過剰刺激が生み出す事物の散乱した状態こそが、蒐集家を動機付けているためである。だからベンヤミンは、無秩序と秩序の間で弁証法的に緊張している存在として蒐集家を描いているのである。

ベンヤミンが指摘するこの両義的な性質は、蒐集家と「寓意家(Allegoriker)」を関連付けることで判明となる。彼の近代寓意論によれば、蒐集家寓意家は表裏一体の関係にある。蒐集は、錯覚的な秩序に基づくために、不可避的に不完全に終わる。故に蒐集家は究極的に「断片」的な事物の蒐集に終始することになる。ベンヤミンによれば、事物の「断片」しか掴み様がないというこの状態は、まさに寓意家が根本的に前提とする状態に他ならない。寓意家には、調和が形成された世界全体の秩序など眼中に無いのである。蒐集が秩序を形成していく営みであるならば、寓意は持続可能であるかのように魅せる「所与の秩序」の仮象や固定観念を破壊する無秩序な営みである。

寓意家と蒐集家の<両極>

こうして観ると、寓意家蒐集家は相互に対極的な性質を有していることがわかる。破局を直視する憂鬱気質寓意家には、調和が形成された世界全体の秩序を信頼することができない。繰り返すように、蒐集が秩序を形成していく営みであるならば、寓意は持続可能であるかのように魅せる「所与の秩序」の仮象や固定観念を破壊する無秩序な営みである。寓意家は習慣形成とは無縁の生活を送る。蒐集家触覚的に享受した所有物の「百科事典」に腐心するなら、寓意家は掴み取った「断片」に対する視覚的な享受としての沈潜を反復していく。

もとより事物をその機能的な連関から切り離すという点においては、両者は一致している。つまり寓意家のみならず蒐集家もまた、蒐集した個々の事物の「断片」の中に、一つ一つの世界を描いているのである。ただし寓意家に限っては、切断した個々の「断片」を類似した他の「断片」と関連付けようとはしない。寓意家は、「断片」を「断片」のまま保持する。

「寓意的な意図に影響を受けているものは、生との関連から切り離される。すなわち、それは破壊されると同時に保存されるのである。寓意は瓦礫を着実に保持し続ける」。
Benjamin, Walter. (1928-1929/1934-1940) “Das Passagen-Werk”. In: Gesammelte Schriften Bd.V Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989, S.414-415.

複製技術知覚メディアを背景にするならば、蒐集家の内に眠る寓意的な関心が呼び覚まされるのは、瞬間的である。すなわち、蒐集家が錯覚している秩序の仮象を破壊する程ノイジーな過剰刺激を受けた瞬間である。散乱した無数の事物の中で唯一掴み取ることができた事物の「断片」にのみ、寓意的な関心が向けられる。寓意家としてのユーザーは、その「断片」に注意を集中していくことになる。

メディアとしての記憶

ベンヤミンは、自身の言語メディアを駆使した批評を実践する上で、記憶を特権的なメディアとして位置付けている。ベンヤミンによれば、記憶過去を探索するための道具ではなく、その舞台である。大地がその中に死滅した都市を埋没させているメディアであるように、記憶体験された事物のメディアである。この場合の記憶メディアである以上、ベンヤミンは、記憶を通じて(durch)過去出来事体験するというよりも、記憶の中で(in)過去出来事体験することに重きを置いている。

自分の埋もれた過去に接近しようとする者は、発掘者の如き姿勢を採らなければならない。その発掘は中々上手くいかない。幾度となく発掘しても、繰り返し同じ事実関係を巡り、何度も堂々巡りになってしまうだろう。とはいえ、真の発掘者は、そうした堂々巡りにも戸惑わずに、何度も土を撒き散らすように、その事実関係を撒き散らしていく。何故なら、我々が過去の事実であると考えているのは、単なる地層に過ぎないからだ。その地表に目印を付けて、計画的に発掘し続ける姿勢も、無論重要であろう。だが暗い地面に用心深く弄るように掘り進めていくこともまた、有益な収穫に結び付いていく。そうした入念な探究没入していくことで初めて、発掘の名に値するものを掘り出せるようになるのである。

自分の中に埋もれた過去記憶発掘する姿勢は、蒐集家の陳列室に並べられている膨大な蒐集物の中から寓意的な断片を発見する姿勢と酷似している。と言うのも、寓意的な蒐集家は、自身が蒐集家として制作した魔術的な百科事典を撒き散らされた事物の散乱状態として再認識するからである。発掘者が地層を何度も撒き散らすのならば、寓意的な蒐集家は配列された事物を悉く切断していくのである。

こうした発掘者の姿勢は、弁証法的な歴史家の姿勢にも結び付いていく。ベンヤミンにとって過去想起は、必ずしも自伝のようなものを描く訳ではない。自伝は物語である。それは時間や過程、生の連続的な持続性から構成されている。しかしむしろベンヤミンが注目したのは、瞬間的で非連続的な記憶想起であった。

過去記憶想起するというのは、体験された出来事体験されたままに物語ることを意味するのではない。意識的に記憶を奮い起こすことは、発掘者としての振る舞いにおいては重要とはなり得ないのである。こう述べた場合に前提とされる記憶想起とは、単に想起の欠如としての忘却への抵抗ではなく、「覚えていることへの抵抗(Gegen-Erinnern)」という逆向きの運動の緊張を孕んだ想起意味する。まさにこの抵抗こそが「意志的記憶」の否定へと結び付く。過去出来事が一旦忘却されて潜在化した後に、過去形象の側から突如として襲い掛かってくるような体験こそが、本来の意味での想起経験であるとベンヤミンは主張する。

機能的等価物の探索:遊歩者の蒐集

遊歩者同時蒐集家であるのは、ベンヤミン自身を観察することで容易に理解できる。批評、注釈、引用翻訳を主眼とする前期ベンヤミンの言語メディア理論は、有名なアフォリズム集である『一方通行路』を経て、後期ベンヤミンの知覚メディア理論へと接続されていく。これは別段不自然なことではない。と言うのも、彼の文学活動は文学の枠の中で実践されていた訳ではなかったからだ。文学が効果を発揮するのは、もはや学会や論文の中ではない。彼はむしろ社会的な生活の中で文学を実践していた。社会に影響を与えられるのは、壮大な普遍性を誇示する小難しい書物ではなく、広告、パンフレット、雑誌、ポスターなどに記述されている機敏な言語なのである。

歩く批評家であったベンヤミンは、街路を辿りながら、街の行く先で起こる数々の出来事から常にショック体験し続けた。広告、パンフレット、雑誌、ポスターのみならず、看板や商品や建築や風景からも、彼はショックを受け続けた。ベンヤミンがこうしたショック体験ショック経験に変換できたのは、その出来事の記述を蒐集していたためである。彼が想定する真の著作家は、自身の内部に無数の警報器を備えている。記述するというのは、体験したショックに対して警報器を鳴らすことに他ならない。著作家は、驚きながら書き続ける。

ベンヤミンが<思考すること>と<記述すること>を区別しなかったのは、このためである。記述するというのは、単に思考した結果を出力することなのではない。記述には、思考の鍛錬が伴う。つまり視覚的に無意識的なショック体験触覚的に享受しながら、著作家は書き続けるのである。もとより『パサージュ論』は、ベンヤミンのこの歩く批評家としての姿勢によって記述された代物であった。

複製技術時代以降の近代社会では、言語が活字メディアから解き放たれることになる。それ故ベンヤミンは、もはや学術論文雑誌や専門誌をはじめとした諸々の活字メディアを主導的なメディアとしては認めない。彼はあくまで知覚メディアの学を徹底した。ここでいう知覚という用語は、繰り返すように、「美学(aesthetics)」の語源となるギリシア語の「アイステーシス(aisthesis)」に由来する。つまり彼の学は、「メディア美学(Media Aesthetics: Medienasthetik)」なのである。

活字メディアグーテンベルグ銀河系が終焉の時を迎えて尚、メディア美学は新しい学問であり続けた。ベンヤミンのメディア美学における参照問題となったのは映画である。だがその出発点となったのは形象に関わる複製技術に他ならない。彼はそこから広告、パンフレット、雑誌、ポスターなど、様々な知覚メディアによって記述された機敏な言語観察し続けたのだ。彼が生きた時代には、既に近代社会の大都市がポスターの世界に凝縮されたデータの洪水を放っていた。看板や広告によって展示された個々の文字列は、視覚的に無意識的なショック効果を呈示してきた。

この段階で既に、本という活字メディアが徐々に文化の中心から後退していった。長らく言語の居場所を独占していた活字メディアは、知覚メディアに席を譲ったのである。そして機敏な言語日、既に数多のハイパーテクストで記述されることにより、ワールド・ワイド・ウェブ上でビッグデータ化している。自然言語は遂に人間のためだけの言語ではなくなった。これらのビッグデータは、もはや人文主義者たちはおろか、データサイエンティストをはじめとした人間のためだけの読み物ですらなく、人工知能観察し得るメトリクス化可能な自然言語処理の対象として形式化されている。ビッグデータの時代を迎えて久しい現代社会においては、人工知能と接続可能なコンピュータ技術の知覚メディアこそが、メディア美学の参照問題となる。

機能的等価物の探索:探偵の蒐集

ポーが描くデュパンは新聞という知覚メディアから情報蒐集する最初期の探偵の一人であった。実際、新聞は出来事に関する情報を複製することで、その脱アウラ化を果たす。だがそれによって読み手が享受することになるのは、経験の性格を失った体験のみである。言い換えれば、新聞には物語性が無い。それが何らかの物語叙述しているように見えても、実際に記述されているのは物語についての情報である。新聞には「物語の語り手(Erzähler)」が登場しないのである。

しかしポーは探偵小説を「推理の物語(tales of ratiocination)」として叙述していた。新聞の情報から展開されるデュパンの推理は、ショック体験としての殺人事件を見事に「物語っている」。それは、探偵の中では既にこのショック体験ショック経験へと変換できていることの表現である。物語の語り手は、物語ることを経験から抽出している。それは自分自身の経験の場合もあれば、報告された経験の場合もある。そして語ったものを自身の話に耳を傾ける人々の経験にしていくのである。これが経験の交換である。

確かに物語情報区別を導入すると、複製技術知覚メディアによるショック体験もまた、物語の語り手の衰退と関連していることが判明する。新聞をはじめとした複製技術は、伝達の新しい形式として、情報を生み出した。情報という伝達形式は、脱アウラ化を前提としている。情報物語よりも優位に立つのは、人々が遠くから伝達される知らせよりも、身近な出来事に判断の拠り所を与えてくれる情報の方に耳を傾ける傾向があるためである。異国から伝達された知らせには空間的な遠さがある。伝承によって伝達された知らせには時間的な遠さがある。こうした遠さは、アウラが宿るために、かつては権威が形成されていた。この権威によって、物語られた知らせは真偽の検証を経ることなく受容されていた。しかし、脱アウラ化された複製技術時代では、即座に検証可能である情報が要求されるようになる。この検証可能性においては、情報がそれ自体として理解可能であることが重要となる。

情報は、まさに新奇性を備えている間にこそ重視される。情報は伝達されたその瞬間にのみ活性化している。情報は、それ自体の全てを完全にその瞬間に指し示している。これに対して物語は、決してそれ自体を出し尽くしてしまうことが無い。物語は、長い時間を経た後でも尚「展開」される能力を持つ。フランツ・カフカの物語がそうであったように、物語は、それ自体ではない他の何かを指し示す比喩を用いても全く問題にはならない。物語はそれ自体、伝達の言わば手仕事的な形式である。物語は、情報のように出来事を純粋にそれ自体のみとして伝達することを狙っているのではない。物語は、出来事を、一旦報告者の生の中に深く刻み込み、その後再びそこから抽出する。故に物語には、出来事それ自体ではなく、語り手記憶の痕跡が付着している。

しかし探偵の口から発せられる推論物語的になるのは、まさにこうした情報が事件簿として蒐集された後である。つまりそのショック体験となる事件のが解明された時、それは物語性を伴わせたショック経験となる。物語の「伏線」は、解きを媒介する情報に他ならない。探偵推論はこの伏線の蒐集によって成り立っている。そしてこの伏線が、文字通り線的な経験を可能にする。伏線となる出来事解きの出来事との間には、論証や心証を経由した連続性が担保されるからである。

機能的等価物の探索:ギャンブラーの蒐集

同様にギャンブラーの中にもまた蒐集家人格を兼ね備えた者たちがいる。ゲームの勝者にはしばしば景品がプレゼントされる。この景品が蒐集対象となり得る記念品として機能する。景品は、プレイヤーに付与される「報酬(reward)」である。強化学習問題の枠組みで言えば、ギャンブラーは、個々の戦況下で自身が置かれている「状態(state)」を前提とした上で、どのような「行動(action)」を選択するかを決定する。そしてこの行動の選択結果として、どの程度の「報酬」を得られるのかを計算する。この「状態」と「行動」の写像を特に「方策(policy)」と呼ぶ。ギャンブラーは、「報酬」から「方策」を学習するエージェントであるということになる。

バンディットアルゴリズム象徴されるように、強化学習アルゴリズムはしばしばギャンブラーの比喩で解説される。しかし、逆にギャンブラー強化学習の比喩によって説明することの方が自然体であるように思える。強化学習問題の枠組みは、エージェントによる環境制御最適化が如何にして可能になるのかという動物行動心理学神経科学の観点に深く根差した理論となっている。報酬を探索する動物的な身振りを理解する上での助けとなるのが、動機付けに関与している神経伝達物質である「ドパミン(dopamine)」に関する実験報告である。

神経生理学的に言えば、ドパミン作動性ニューロンのA10神経核は腹側被蓋野から大脳皮質に投射されている。このA10神経核は、報酬系として、動機付けの機能を担っている。A10神経核は、情動との関連から、他の脳内の様々な部位に接続されている。特にA6神経核の青斑核に対応するアドレナリン作動性ニューロンとは、相互に刺激し合う関係を持つ。

アドレナリン作動性ニューロンとの兼ね合いから言えば、いわゆる「ノルアドレナリン(noradrenaline)」は、神経システムの全体を活性化させる機能を持つ。この脳内状況に触発されて、ドパミンもまた活性化することになる。この時A10神経核は、脳幹の神経核から視床下部に至るまで、様々な部位を刺激する。その中には、欲求の制御や体温の調節を司る部位も含まれる。これらの中枢を経た後は、活性化の影響は中隔核、扁桃体、海馬体などの大脳辺縁系にまで至る。最終的には意識や認知や記憶などと関わりを持つ前頭連合野や側頭葉へも刺激を与えることになる。この間、A10神経核は情動や動機付けに関わる部位であれば何処であっても、ドパミンを放出する。すると脳内の様々な部位で、快楽に紐付いた情動が発動する。

パラドックスとしての「脳内麻薬」

したがって、ドパミンの分泌と脳内の過剰な活性化は、相関していることになる。そしてこの過剰な活性化状態は神経システムに負担を強いていることを意味する。これに対して神経システム構造は、この負担軽減として、ドパミン受容体の個数を制御している。実際、ドパミン報酬系としての動機付けや行動を駆動するほどの情動は、放出されたドパミンドパミン受容体と接続することで初めて成り立つ。そしてこの動機付けや情動の強さは、ドパミン受容体に接続されたドパミンの割合に比例する。神経システム構造的にドパミン受容体の個数を増やせば、逆に受容体に接続されているドパミンの個数は相対的に減る。つまり受容体の個数を制御すれば、ドパミンによる動機付けや情動の強さも制御できることになる。

しかしこの方法神経システムにとって諸刃の剣となっている。何故なら、一度ドパミン受容体を増やせば、神経システムはそのことを学習してしまう。度は、受容体を埋め尽くすために、より多くのドパミンを放出するようになってしまう。そのため、受容体を増やした後は、それまでよりも大量のドパミンが放出されることが常となってしまう。そうなれば、またしても神経システムは過剰な活性化の負担を強いられることになる。だから神経システムは、また構造上の対策として、ドパミンの受容体を増やすことになるだろう。だがこれではいつまで経っても埒が明かない。ドパミンが大量に放出されれば、それだけ受容体の個数も増大する。だが受容体が増えれば、逆にドパミンの更なる大量放出を招いてしまう。まさにこのパラドックスこそが、ドパミンの「脳内麻薬」としての効果を物語っている。

「報酬を予期させる刺激」に対する「報酬探索活動」

脳内麻薬」としての性質から観れば、ドパミンによる動機付けは反復的な行動を駆動する。この行動反復は手続き的な順化による習熟の形成に結び付いている。だがこうした過剰な活性化は、心理状態にも影響を及ぼす。だがそれは負担過剰となる。その末路の一つが「脳内麻薬」による「依存症(addiction)」だ。依存症に陥った人間心理システムは、異常な執着心や近視眼的な衝動に悩まされることになる。

習熟化されるほどに反復されるような行動を成立させた際には、その報酬象徴するように、脳内で快感を伴わせる肯定的な情動が発動する。このことは、「脳内麻薬」という用語からも連想できるかもしれない。

しかしながら、神経科学者ウォルフラム・シュルツによれば、ドパミンによる動機付けは快感を伴わせる肯定的な情動からは厳密に区別されなければならない。例えば腹側被蓋野におけるドパミンの放出は、確かに報酬目的とした行動を駆動させる。だがその行動は、必ずしも快感を伴わせるような行動とは限らないという。

行動の生起可能性や反復可能性を高める「強化刺激(reinforcer)」を受けた時、たとえそれによって駆動される行動から「痛み」などのような否定的とも捉えられる結果が連想される場合であっても、ドパミンによる動機付けは成立するのだ。シュルツによれば、むしろこの文脈におけるドパミン機能は、そうした強化刺激に対する注意を向けさせることになるのだとも言える。確かに、たとえ「痛み」を伴わせたとしても、その代償として報酬が得られる可能性があるのならば、我々はその行動を選択するかもしれない。

これを前提とすれば、ドパミンが発動するのは、何も行動の結果となる快感のような報酬効果としてだけではない。ドパミンは、未来において期待できる報酬へと注意を向けさせる際にも機能している。シュルツの用語を借用するなら、ドパミンは「報酬を予期させる刺激(reward-predicting stimuli)」を受けた際にも発動していることになる。だからシュルツは、一部のドパミンの放出が大脳基底核や扁桃体の機能によって構成される「報酬探求活動(reward-detection activity)」にも関連付いていると推論している。

β-エンドルフィンの作動

こうして観ると、ドパミン依存症を主導しているかのように思える。しかし依存症は、ドパミンのみならず、様々な神経伝達物質の複合的な作動によって成立している現象だ。とりわけその陰の立役者として作動しているのは、「β-エンドルフィン(beta-endorphin)」であると言われている。

β-エンドルフィンは、阿片から造られるモルヒネ(Morphine)と類似した化学構造を有していながら、モルヒネの10倍程度の鎮痛作用を持つ。β-エンドルフィンもまたドパミン同様、鎮痛作用と共に快楽を引き起こす。この快楽もまた依存症の引き金を引くだろう。ただしここでいう依存症には、精神的な依存のみならず、身体的な依存をも含まれている。と言うのもβ-エンドルフィンは、脳内のみならず消化器系をはじめとした神経システム内でも分泌されるからだ。

ドパミンがそれ自体快楽を引き起こす作用を有しているのに対して、β-エンドルフィンの快楽作用は間接的であるという。と言うのもβ-エンドルフィンは、ドパミンを相対的に活性化させることによって、快楽を引き起こしているためだ。ドパミンには毒性がある。ドパミンが過剰に分泌されてしまうと、身体に毒が回る。故にその過剰分泌は抑制されなければならない。そのために機能しているのが、「γ-アミノ酪酸(gamma-aminobutanoic acid ; GABA)」だ。この神経伝達物質ドパミンをはじめとした興奮系に対する抑制系として機能する。γ-アミノ酪酸がドパミンによる興奮を抑えることによって、身体にリラックス効果を与える。しかしながらこのγ-アミノ酪酸作動性ニューロンの末端には、エンドルフィンの受容体が多数存在している。この受容体に接続されたエンドルフィンは、ドパミンの抑制系として機能しているγ-アミノ酪酸作動性ニューロンそれ自体を抑制することになる。この<抑制の抑制>によって、結果的にドパミンが活性化するという訳だ。

情報エントロピーに対応した神経伝達物質

脳内麻薬」と内発的な動機付けは密接な関連にある。神経科学の側では、脳を内発的に動機付けるコンテンツとして、例えばギャンブルのように、報酬を獲得できる可能性が不確実となるゲームが取り上げられている。神経伝達物質ドパミンの研究の第一人者であるシュルツらの報告によれば、不確実性(Uncertainty)は報酬への期待を増大させるという。脳は、不確実性に曝された場合に、より強く持続的にドパミンを駆動させるようになるというのだ。

ドパミンは快楽を司る神経伝達物質として知られている。ある行動時にドパミンが分泌されている場合、その者はその行動に強く動機付けられているという相関が指摘されている。

この神経システム機能は、人間が不確実な自然環境でも生き抜くために獲得した進化上の成果である。不確実性に曝された生物が生き延びるためには、新たな刺激や新たな行動から何かを学び取らなければならない。ドパミンが放出されるのは、こうした学習を促進させるためである。ここで学習の目標となるのは、動機付けとなり得る出来事に対する期待の正確性を高めることである。如何に不確実な刺激に曝され続けても、そこから報酬を見出せるとは限らない。例えばアドベンチャー・ゲームを攻略するには「フラグ(flag)」に敏感にならなければならないのと同じように、生物は報酬の手掛かりに敏感にならなければならない。そのためには、学習報酬から生じる未来予知にすら相対し得るほどの情報収集能力が必要になる。

ドパミンが作動すれば、人間は不確実性を志向するようになる。その不確実な刺激に注意を向けることで、それに対処しようとする。だから不確実性に曝された生物たる人間は、よりリスキーな選択へと駆り立てられる。注意しなければならないのは、ただ不確実性に曝されれば動機付けが形成されるという訳ではないということだ。その不確実な刺激は、いずれにせよ報酬への期待が含意されていなければならない。報酬の手掛かりとなる情報が全く含まれていないようでは、幾ら人間が学び続けても、報酬期待することはできなくなるだろう。

シュルツらによれば、ギャンブラーギャンブルへの強い動機付けを調達するのは、ギャンブルによって得られる報酬が不確実性に満ちているためである。ギャンブルは、ゲームの戦況という不確実な刺激の中に、勝利することで報酬を得るための様々な手掛かりを含意させている。ゲームに参加するギャンブラーたちは、必ず報酬が得られる訳でもなければ、必ず報酬が得られない訳でもない。仮にもし必ず報酬が得られるのであれば、そのゲームの「結果(outcome)」は、「報酬が得られた」という常に同一の情報となる。それは確認するまでもない冗長的な情報となるだろう。無論必ず報酬が得られない場合についても、同様のことが言える。

シュルツらによれば、ドパミンが最も持続的に活性化し得るのは、この報酬が得られる確率Pが0の場合でもなければ、1の場合でもないという。実にP=0.5の場合に、ドパミンは最も持続的に活性化し得るのである。平均的に観て、報酬が得られる確率Pが0.5の場合、そのゲームの結果は最大の情報量を兼ね備えていることになる。と言うのも、P=0.5の場合、報酬が得られ易いというパターンも、報酬が得られ難いというパターンも、見出すことができないからだ。P=0.5という確率からは、冗長的な情報は形成され難い。P=0.5の時、不確実性は最大となる。クロード・シャノンの情報理論の視点から観ても、この報告は頷ける内容指し示している。<報酬が得られるという出来事>と<報酬が得られないという出来事>が0.5という等確率で生起するのならば、その情報エントロピーは1bitという最大値を示すからだ。

「報酬」のパターン蒐集

これを前提とすれば、ギャンブラー蒐集するのが情報であるという点で言えば、探偵差異は無い。だがギャンブラーはとりわけ情報の中でも「報酬」のパターンに関する情報蒐集する。それが強化学習問題の枠組みで言うところの「方策」である。囲碁や将棋、リバーシで言えば、「定石」が「方策」としての機能を担うであろう。ゲームの戦況の不確実性が高ければ高いほど、そのゲームにはギャンブル性が伴う。たとえ「二人零和有限確定完全情報ゲーム」であっても、ハーバート・アレクサンダー・サイモンが言うところの「限定合理性(bounded rationality)」を前提とする限り、戦況における情報処理やデータ処理のギャンブル性は不可避となる。

ポーがチェスとチェッカーを比較することで解説したのは、まさにこの不確実性が伴う戦況下での推論が如何にして可能になるのかであった。駆け引き、読み合い、揺さぶり合いなどのようなプレイヤーたちのコミュニケーションは、プレイヤーの身体を介した相互行為として成立している。それは相手プレイヤーの動物身体から発せられる身振りから、冷静沈着に、前兆予感合図のようなサインを判読する営みである。確かにこのゲームには「意志」が介在する。だがその判読の対象となる身振りは「無意志的」である。プレイヤーは「意志的」に相手プレイヤーの「無意志的」な身振り観察する。この意味ギャンブルコミュニケーションは、「意志的」と「無意志的」の区別を「意志的」の側に再導入(re-entry)することで、ショック経験を可能にしている。

無論相手プレイヤーの身振りの判読が正確性を期すことはあり得ない。しかしその身振りからパターンを抽出することで可能である。つまり自身が報酬獲得において有益となり得る情報パターンである。「経験」豊富なギャンブラーとは、より多くの相手の身体身振りからより多くのサインを判読することで、「報酬」のパターン蒐集しているギャンブラーなのである。

全てを分析し尽くした上での無謀さ

こうしたギャンブラーの性格を<恣意的な無謀さ>にあると見做してはならない。それは断じて違う。確かに不確実性が伴う戦況は、一見して「運」に左右される。理不尽な「イカサマ」が仕掛けられていたとしても、不確実な戦況がそれを隠蔽してしまうかもしれない。一度ゲームが開始すれば、もはやその「イカサマ」を見抜くことは至難の業となる場合もあるだろう。

だがゲームを開始した時点で既に敗北する「運命」にあるような戦況が設計されてしまうのは、情報蒐集が甘い証拠である。真に勝利するための情報蒐集するなら、そうした「イカサマ」のような「運命」を脱因果論化するようなサインを判読しなければならない。そうすることで、その「イカサマ」すら無効化するような布石を打っておく必要がある。ゲームに勝利するための布石を、ゲームが開始する前に打っておくのである。

言い換えれば、ゲームというのは、そのゲームのルールやシナリオが設計されている時点で既に始まっている。勝利するギャンブラーが不確実な戦況で示す無謀な身振りは、言わば<全てを分析し尽くした上での無謀さ>なのだ。入念な事前情報蒐集があってこその無謀さなのである。だからゲームは、しばしば最初の一手で決着が付く。始まる前には決着が付いている場合すらあり得る。「報酬」のパターンは、ゲームの中から得られるとは限らない。分析的なプレイヤーがゲームとは無関係と思える要因にも注意を向けるとポーが述べたのも、このためである。

機能的等価物の探索:音楽の模倣

蒐集家寓意家は対極的な位置付けにあるのは、事物の類似性を巡る身振りにも表れている。『パサージュ論』でも指摘されているように、寓意家は、手に入れた事物の<断片>を観察しても、その事物が他の何と類似しているのかを探究しようとしない。寓意家は事物をその連関から切断することで、それらの意味探究を、初めから自身の沈思に委ねる。これに対して蒐集家は、相互に関連する事物を、それらの類似性探究することによって、一つの事物にしようとする。

これを前提とすれば、蒐集は、先に取り上げた模倣と同様に、類似性意味処理規則影響下にある。この類似性意味処理規則形式化させているのは、メディアとしての言語である。それは、自身を住居や家具、衣服に似せるべく仕向けるような言葉として機能する。人間類似を抽出する能力が、類似した身振り模倣する能力として、他の様々な才能の決定的な要因となっているというベンヤミンの洞察を前提とするのなら、模倣能力が蒐集家の才能に対しても影響を及ぼしていることは容易に推論できる。周囲の外部環境類似した身振り模倣する能力は、周囲の事物に備わる類似性探究する能力として育まれる。この探究の能力が、類似した事物の蒐集を可能にする。

室内装飾の意味論

蒐集模倣によって駆動されているという発想は、蒐集理論万物照応の概念の接続を可能にする。先述したように、模倣の能力が万物照応に対する反応であるとするなら、蒐集という営みは、万物照応に対する反応による間接的な帰結であるとも見做せる。実際、大量の類似した事物を蒐集してきた蒐集家が、それら自らの所有物によって構成されている魔術的な百科事典を一望することで万物照応想像力を掻き立てたとしても、何ら不思議はない。

この認識がとりわけ具体的な内実を持つのは、当の魔術的な百科事典蒐集家住まう室内装飾(Interieur)」として構成されている場合である。先に取り上げていた「住む」の歴史意味論を思い起こせば良い。この場合、蒐集家によって所有されている類似した事物たちは、皆蒐集家住まう室内に陳列されることになる。類似した事物が、その住人と共に、その家に住まっている訳だ。繰り返すように、この「住む」という概念の意味論指し示しているのは、母胎の中に留まっている状態である。とするのなら、蒐集家と所有物は、同じ母型構成する位置関係にあるということになる。

偉大な蒐集家の住居の相貌は、注意深く観察するべきであろう。蒐集家の住居で事物が次第に空間を専有していくのと同じように、室内装飾では、あらゆる時代の様式の痕跡を蒐集して取り込もうとする家具が、次第に空間を専有していくのである。実際、19世紀の家具を覆っていたサックやカバー、そしてケースは、そのそれぞれが痕跡を享受し、保持するための対策として導入されていた。

「靴下」の形象

この関連からまた、ショック経験に関するベンヤミンのプルースト論が重要な意味を帯びてくる。ベンヤミンによれば、プルーストもまた類似性に関する熱心な探究者であった。とはいえベンヤミンは、プルーストの作品に潜む類似性の活用事例を一つ一つ解説している訳ではない。彼はその代わりに目覚めと夢見という極限の形式を導入する。我々が目覚めている時に知覚する類似性は、夢の世界の類似性に比べれば、断片的な要素に過ぎない。夢の世界における個々の出来事は、決して同一の事物としてではなく、見分けの付かないほど類似した事物として出現する。

ベンヤミンはこの同一ではない類似した事物で構造化されている夢の世界を「靴下(Strumpf)」の形象叙述している。靴下が下着戸棚の中で丸められている時、それは<袋(Tasche)>であると同時に<中身(Mitgebrachtes)>でもある。子供がその丸められた靴下を拡げて遊ぶ時、<袋>とその<中身>は、一挙に靴下へと変貌する。先に述べたように、「住む」という概念の根源的な形態が「家(Haus)」の中にいるということではなく「容器(Gehäuse)」の中にあるというのなら、室内における蒐集家とその所有物の関係は、靴下の形象が言い表すように、一挙に変貌を遂げることになる。すなわち、「現実世界の真のシュールレアリスム的な相貌(das wahre sürrealistische Gesicht)」が出現するのである。

プルーストが住まう世界は、まさにこの真なる世界であった。彼は、まるで靴下で遊ぶ子供のように、陳列用の贋作である<自我>という<容器>の<中身>を一旦徹底的に片付けることにより、「類似性で歪められていた世界(der Ähnlichkeit entstellten Welt)」に対する郷愁を浄化させるような形象で、その空虚を埋め合わせていたのだ。ベンヤミンによれば、この形象の詰め込みは、慎重かつ上品に実践されていたという。それは決して孤立して、悲壮感を漂わせるように実施されていた訳ではない。

模倣的神経刺激

以上のようなショック経験に関するベンヤミンのプルースト論を前提とすれば、室内装飾としての蒐集意味論は、蒐集家類似した事物たちに自らを同化させていくような、ある種の模倣意味論として再記述することができる。だが一方でベンヤミンも強調するように、模倣は実践の形式でもある。この模倣というのは、主体と客体、経験メディアのような二項図式では説明できない実践である。と言うのも模倣とは、身体メディアとした知覚形式でもあるからだ。この点から映画理論家ミリアム・ハンセンは、模倣神経刺激の接続可能性を追究している。神経刺激は、身体外部環境の事物との類似性を介して、双方向的な関連を結ぶ模倣の一形式であるという。

模倣の実践は神経刺激から始まる。神経刺激を享受した模倣者は、元来身体の外部にあるはずの知覚対象と自身の感覚器官を接続させる。この接続により、自己自身と外部環境差異は曖昧化する。それは身体の脱中心化とも言えよう。自身の感覚器官が、身体を超えて、知覚を刺激する外部の対象へと一体化するのである。そうすることで、言わば身体拡張する。そしてそれのみならず、外部の知覚対象を無意識のうちに自身の方へと引き付ける。そうすることで、模倣者はその事物と同化するのだ。この関連は、決して外部環境の事物による感覚への一方通行的な入力を意味するのではない。それは何処か、双方向的な刺激による創発的な秩序を連想させる。

こうしてハンセンは、模倣神経刺激の不可分な関係を「模倣的神経刺激(mimetic innervation)」という概念で再記述している。模倣的神経刺激による脱中心化された身体拡張は、情動的で感覚的な知覚として成立するのである。一方で知覚の対象となる事物との同化は、例えば映画俳優をモデルとした自己演出として結実する。この演技の成功の度合いは、ハンセンによれば、俳優がカメラやマイクという外部の複製技術に同化する度合いに比例するという。

一見すれば、このハンセンの模倣的神経刺激という概念は、複製技術知覚メディアとの関連から記述されているに過ぎない。だがこの事物との同化という観点は、室内で住まう蒐集家にとっても重大な観点となる。と言うのも、模倣の実践者としての蒐集家は、自らが所有する事物たちに自らを似せることによって、この模倣的神経刺激を体現しているためである。

ミラーニューロン

この模倣的神経刺激の営みが複製技術に限定されない普遍性を有していることは、生物学的な進化論を確認することによって判断できるかもしれない。例えば「ミラーニューロン(Mirror Neuron)」に関する神経科学者ジアコーモ・リッツォラッティらの報告は、霊長類の模倣神経システムの作動によって構成されていることを指し示している。

リッツォラッティらの発見が示しているのは、他人の行動を観察している人間が、脳内で自動的にその行動をシミュレートしているということである。例えばボールを投げた人間観察している者は、その脳内で、ボールを投げるというシミュレーションを構成している。ミラーニューロンは、こうした脳内でのシミュレーションにおいて活性化する類の神経システムのことを言い表している。

もともとミラーニューロンは、マカクザルの脳内における前運動皮質と頭頂葉皮質で発見された。そして同様のミラーニューロンが、後に上側頭溝でも発見されている。前運動皮質と頭頂葉皮質はこの上側頭溝と深く結び付いている。上側頭溝は顔、身体、腕の運動における情報処理を司っている。上側頭溝のミラーニューロンは、歩行をはじめとした動作、生体運動、脅威となり得る動作を積極的に探知する。

ミラーニューロンのシミュレート対象となるのは、運動だけではない。島皮質や前帯状皮質には、他者の感情をシミュレートするミラーニューロンもある。我々が他人の意図や感情を汲み取ることができるのは、こうした感情系のミラーニューロンのお陰であると言われている。

人類史の発展という視点から観れば、ミラーニューロン機能は、模倣を可能にすることにある。例えば火の起こし方一つを観ても、最初から何もかもを自分一人で試行錯誤していくよりは、火を起こしている他者の振る舞いを模倣した方が効率的であろう。ただ眼で観た振る舞いを模倣するだけでは習得できない技能もある。その場合は他者と教え合った方が効率的だ。そうした学び合いの局面では、他者の意図を汲み取る技能も必要になる。ミラーニューロンは、こうした他者の振る舞いや意図に関するシミュレーションを構成することによって、有用となる身体的な技能の伝達を促進してきたと考えられている。

ミラーニューロンのパラドックス

他者の運動を自己の脳内でシミュレートするというミラーニューロンの概念は、自己と他者の区別を導入している神経システムの作動を例示している。しかしこの概念からコミュニケーションとしての模倣、すなわち社会システムの作動にまで結び付けようとすれば、直ぐに飛躍が生じてしまう。ミラーニューロンは確かに模倣の実践形式を可能にするメディアなのかもしれない。しかし、同様のミラーニューロンを兼ね備えているはずのマカクザルのような比較人間に近しい霊長類でさえ、人間ほどの模倣能力は有していない。単なる生物学的な進化論を転用しようとすれば、社会システムの作動の実態が盲点となる。

社会システム理論的に言えば、神経システムとしてのミラーニューロンは、自己自身と外部環境区別を自己自身の内部に再導入(re-entry)することで、自己や他者の振る舞いを自己自身の内部でシミュレートしている。それ故にミラーニューロンは、外部環境の他のシステムに開かれた構造を有しているのではなく、作動上の閉鎖性をあくまで保持している。この神経システムは、心理システム構造的に結合することで、その思考や行為を形式化させるメディアとして機能する。社会システム構造的に結合するのは、この心理システムに他ならない。社会システム心理システム相互浸透関係を結ぶことで、心理システム社会化する。個々人の心理システム社会システムコミュニケーション構成したそれぞれの人格という形式に準拠した意味処理規則で、自己言及的に作動する。社会システムもまた、言語を介した心理システムとの構造的な結合を前提とした上で、あくまで自己言及的にコミュニケーション構成し続ける。したがって、コミュニケーションとしての模倣を可能にしているのは、ミラーニューロンではない。コミュニケーションとしての模倣構成しているのは、コミュニケーションである。

この観点から観れば、ミラーニューロンが「共感(empathy, sympathy)」を可能にするという感覚には、全く共感できなくなる。確かに、「ミラーニューロンが共感を可能にしているという感覚」を主題としたコミュニケーション構成することは不可能ではない。だが「本音」と「建前」の区別を導入すれば、その共感が嘘吐きのパラドックスと等価な論理構造パラドックス化されていることが、よくわかるであろう。それでも尚「共感が可能である」という社会的な認識が構成されているのは、このパラドックスの隠蔽技術形式としての意味機能しているためである。そうした共感の意味論社会構造にも方向付けられている。一口に共感と述べても、それが心理システム免疫システムとしての情動によって駆動されている共感なのか、特定の組織や集団の規範的な期待によって方向付けられた共感なのか、あるいはその時代に固有の感覚であるのかは、一概に断定することができない。

音楽経験のメディアとしてのミラーニューロン

ミラーニューロンコミュニケーションとしての模倣メディアであるという分析が意味を為すのは、文脈的にある一定のコミュニケーションへと主題を限定した場合に限られる。例えばケイティー・オーヴェリーらの『時間の中の共存(Being Together in Time)』では、ミラーニューロンコミュニケーション、そして共感の潜在的な役割に関する先行研究をレビューしつつ、音楽経験のモデルとなる「共有感情運動経験(Shared Affective Motion Experience: SAME)」を提案している。このモデルから、模倣同期(Synchronization)、経験の共有が、人間音楽的な営みにおける重要な側面を担っていることが指摘されている。

元来ミラーニューロンの発見が興味深かったのは、神経システム外部環境から孤立したシステムとしては機能し得ないことが改めて明示されたためであるとされる。神経システムは、生命システム構造化している身体や他者の神経システム観察観察することによって、他のシステムとの構造的な結合相互行為によって発達してきたという訳だ。こうした背景からケイティーらは、人間ミラーニューロンの特性が、社会的なコミュニケーション、より具体的にはピッチや音色、リズミカルなパターンを兼ね備えた音楽コミュニケーションから影響を受けながら構成されていたと想定する。

音楽に関するニューロイメージング(neuroimaging)の検査法は、単純な知覚刺激が如何にして音楽という社会的なコミュニケーション意味論構成するのかについて、徐々に解明している。音楽の複合的なパターンを理解(understand)し、その後に情動的(emotional)な応答を可能にする上で必要となるのは、ミラーニューロンと辺縁系との間の相互作用である。ミラーニューロンは、言語運搬や運動に限らず、音楽コミュニケーションにおいても、認知能力の基礎となり得る。ニューロイメージングや行動研究、霊長類の生理学の研究報告に基づけば、前頭前皮質における適切な規則に準じた情報コード化(encoding)は、入力情報間の適切な写像を確立する神経経路(neural pathways)に準拠して、「振る舞いのフロー(flow of activity)」を導く。それは、システムの内部状態の保持と情報の出力を実行するための機能となる。この機能的な分析からケイティーらは、ミラーニューロンの本質的な役割が入力・内部状態・出力の「振る舞いのフロー」の伝送路(link)にあるという観点から、ミラーニューロン音楽的な営みを説明するための理想的なモデルになると考える。

SAMEモデルの特徴表現

SAMEモデルは、聴覚的な知覚情報のみならず、その知覚刺激の背景にある意図的に階層化された運動表現の観点から音楽の認識が可能になることを記述している。側頭皮質、前頭前部のミラーニューロン、そして辺縁系に関連したニューラルネットワークにおいて、音楽信号の聴覚的な特徴抽出は主に上側頭回で処理される。それは、ミラーニューロン表現運動における構造的な特徴と組み合わせられた状態で処理される。大脳皮質の島皮質は、ミラーニューロンとの間に神経管を形成することで、音楽聴取者の自律的あるいは情動的な状態を評価することを可能にしている。

こうした脳の内部状態が、音楽に対して複合的な感情的あるいは情動的な反応をもたらす。音楽の演奏者と聴取者の双方がこれらの神経システムを動員することによって、感情的に共通の運動体験(SAME)が可能になる。これを前提とすれば、聴取された音に対する身振り表現力学(expressive dynamics)は、個々人の声に対する物理的な身振り表現力学の観点から解釈することができる。

SAMEモデルの鍵は、大脳皮質の島皮質の役割が、辺縁系とミラーニューロンとの間の神経管との関連から提案された点にある。実際、機能的なニューロイメージングの研究では、嫌な気持ちを感じている場合や他の誰かが嫌感を表明している場合に、島皮質が活性化していることが示されている。電気ショックや熱刺激などを用いた幾つかの研究でも、痛みを直接経験している場合や痛みを経験している他者を知覚している場合の神経活動が明らかにされている。いずれの研究でも、自己自身の痛みと他者の痛みにおいて、共通して島皮質の活性化が観測されたという。したがって島皮質は、情動伝染(contagion)を可能にする神経システムであると考えられる。

運動制御に関わるニューラルネットワークが階層構造化されている点もまた、SAMEモデルの妥当性を支持している。前頭皮質は、言語音楽に共通する特徴である順次処理(sequential processing)における事後事象の予測モデル(predictive models)としても見做せる。だがこの構造は、認知制御や行動選択の階層的な過程を基礎付けるより一般的な原理としても機能し得る。これらの神経システムの振る舞いは、出力結果や目的関数、長期目標や短期目標、四肢の動きを表現する運動学(kinematics)、あるいは意図した行動を実行するために必要となる筋肉活動のパターンのように、一定の規則に従事している。モデリングの粒度次第では、こうした規則的な振る舞いは、更に細分化することができるであろう。

こうして結実した運動観察する他のシステムは、専ら運動学的な水準の視覚的な特徴表現を参照するだけで、その運動の背景にある目標や意図を推論できなければならない。まさにこの関連から、経験ベイズ推論(empirical Bayesian inference)のような分析方法に基づいた予測のコード化(predictive coding)が、機能要求として生じてくる。つまり、運動観察中に関与するあらゆる皮質水準で、「予測誤差の最小化(minimizing the prediction error)」を実行することにより、観察された運動の最も確率の高い原因が推論され得なければならないということである。

感情的な音楽経験のSAMEモデルによれば、聴取者の水準とある種の音楽鍛錬の種類によって、運動の階層構造は、「意図(intention)」、「目標(goal)」、「運動学(kinematics)」、そして「筋肉(muscle)」に区別される。例えば極端な場合、その演奏方法を熟知している音楽聴取している最中のプロの音楽家ならば、想像された感情的な意図から、階層の全ての水準において、精確な情報を参照することができる。また別の極端な例で言えば、未知の音源からの習熟していない音楽聴取している初心者ならば、どの水準でも精確な情報にはアクセスできない。だがそうした初心者でも、テンポや曲調から感情的意図を解釈することは不可能ではない。

「したがって、人間のミラーニューロンによって成立するシミュレーション、あるいは共鳴(resonance)の機構(mechanism)は、知覚されて実行された振る舞いを適合させる訳だが、それは聴取者が自己自身の心(mind)の中で、(聴覚、動作、そして感情の情報を含めた)音楽の様々な諸要素を再構成(reconstruct)することを可能にする。その再構成の豊かさ(richness)は、個々人の音楽経験に左右される。」
Overy, K., & Molnar-Szakacs, I. (2009). Being together in time: Musical experience and the mirror neuron system. Music Perception: An Interdisciplinary Journal, 26(5), 489-504., 引用はp.493より。

音楽経験の同期

音楽経験の共有において、「同期(synchronization)」という概念は非常に重要な意味を持つ。概日リズム(Circadian rhythm)をはじめとする生物学的なリズムは、皆同期現象を引き起こしている。人間を含む哺乳類動物身体においては、睡眠覚醒のリズム、血圧、体温、免疫機能などが、約24時間周期で変動し続けている。こうしたリズムは通常、外部環境の物理的な時間リズム同期している。だが外部環境周期が精確に24時間であるのに対して、概日リズムに駆動された体内の固有周期には個体差がある。海外旅行で生じる時差ボケは、この同期が乱れていることを言い表している。

SAMEモデルでも同期の概念は重視されている。その背景にあるのは、音楽が「代理の感覚(a sense of agency)」を伝達することができるという発想だ。それは、他人の存在感(presence)、行為、そして感情の状態である。音楽経験を共有する場合、こうした伝達内容を相互に共有することで、次第に互いの入出力を「同期」させていく必要がある。

ニューラルネットワーク理論的な概念を前提とすれば、この同期現象は、「予測」と不可分の関係にある。ケイティーらによれば、同期現象をSAMEのモデルに組み込む上で重要となるのは、「予測誤差を最小化する能力(capacity for minimized prediction error)」である。この能力が、音楽で共通の感情的な経験とそれに続く社会的な行為を創造する上での鍵となる。基礎的な水準として、この能力は、ほぼ全ての音楽的活動の基礎となる単純なパルス波を引き合いに出せば明白となる。そうした音は、容易に予測可能であって、自発的で楽しい「同期」を可能にする。より高度な水準で言えば、身近な音楽に対する強い感情的な反応や嗜好を観察することで明らかとなる。そうした反応や嗜好は、幼児期に発現して成人に至るまで続くと思われる。

情動的伝染

この発想は、音楽の予測し得ない特徴にも感情的な反応が起こることを指し示している古典的な音楽理論矛盾するかもしれない。だがむしろ重要となるのは、予測誤差を最小化するための強力な環境を創造する音楽の能力が、「予測していない事象(unpredicted event)」に対する強力な感情的な反応を根拠付けていることである。習熟しているが故に予測可能な音楽を最大限に楽しむことは容易である。だが期待外れは、例えばクラシック音楽のロマン派時代のように、作曲家や演奏家が一般的に音楽の規範や限界を拡張することで可能な限り個々に表現している場合に、より感情的に劇的(emotionally dramatic)となり得る。

このことを踏まえるなら、SAMEモデルは、単なる「音楽期待(musical expectancy)」や「出来事記憶(episodic memory)」の反応を表現したモデルなのではない。このモデルはむしろ、感情的な反応の「情動伝染(emotional contagion)」と呼ばれてきた感情的な音楽経験を記述しているのである。

模倣のアルゴリズム理論

以上のような社会システム理論的な観察ニューラルネットワーク理論に基づくモデリングは、ベンヤミンとハンセンの模倣的神経刺激の概念を遠ざける記述ではない。模倣的神経刺激の背景にあるのは、心理学ではなく、人間学的唯物論である。重要となるのは、人間人間の社会的なコミュニケーションとしての模倣だけではない。蒐集における模倣の実践形式との関連から言えば、むしろ人間と事物の間に生じる模倣的神経刺激の方が主題として着目されるべきである。

ミラーニューロンに関する研究調査は大部分が人間同士の模倣を対象にしている。しかしこれをアルゴリズム理論によってソフトウェア工学的に抽象化するのなら、我々はベンヤミンが生きた時代よりも、ある一つの観点において有利な立場にある。それは、人間が他者や事物を模倣するのみならず、事物の方が人間や他の事物を模倣する可能性を記述できるということである。その一例となるのが、人間模倣を可能にする人工知能アルゴリズム理論である。

即興演奏の模倣アルゴリズム

SAMEモデルで頻繁に参照されている「予測誤差の最小化」という概念は、アルゴリズム理論へと接続させる上でも鍵となる。例えば音楽家が演奏時に実践する「即興(improvisation)」の演奏は、一種の最適化問題として設定することができる。それは楽譜や指揮によらずに、音楽即興作曲あるいは編曲しながら演奏する営みを意味する。それは音楽構成されたもの以上の表現の幅を付与する。だが即興は全くの恣意ではない。即興演奏を形式化させるのは、まず既知のフレーズに関する記憶メディアである。既に作曲されている音楽との差異を生成しない限り、即興演奏は成立しない。楽譜や指揮を全く記憶していない演奏家には、即興演奏は実践できない。

既存の音楽に関する記憶メディアとして想定するなら、即興演奏の主導的差異は、新奇性と冗長性の区別として形式化されている。演奏家は、既知のフレーズをそのまま冗長的に反復することで演奏する場合もあれば、そのフレーズの一部を変更して演奏する場合もある。また時には、全く新しいフレーズを演奏する場合もある。この3つの場合分けは確率論的に再記述できる。また、フレーズの一部を変更する場合に限っても、その変更の度合いは計算可能である。

ハーモニーのデータ構造

ハーモニーサーチ(Harmony search: HS)」は、この演奏家の即興模倣したハーモニーの探索アルゴリズムとして知られている。その解はハーモニーに他ならない。そして探索によって発見された解の集合を特に「ハーモニーメモリ(Harmony memory)」と呼ぶ。

ハーモニーメモリという解集合の性質を把握する上でも、新奇性と冗長性の区別は有用となる。既知のフレーズをそのまま冗長的に演奏する場合は、ハーモニーメモリからハーモニーを「選択(select)」することを意味する。既知のフレーズの一部を変更した上で演奏する場合は、ハーモニーメモリの「更新(update)」が実行される。一方、全く新しいフレーズを演奏する場合は、新しいハーモニーを探索することで、それをメモリに「挿入(insert)」していくことになる。

ハーモニーサーチの最適化アルゴリズム

ハーモニーサーチの参照問題は、次のような最適化問題である。

$$Minimize \ f(x) \ subject \ to \ x_i \in X_i – 1, 2, …, N$$

ここでf(x)は目的関数で、$$x_i$$はN個の決定変数(decision variable)を表す。$$X_i$$は決定変数の可能な範囲を表す集合となる。

この集合の上界と下界は次のようになる。

$${}_Lx_i \leq X_i \leq {}_Ux_i$$

探索アルゴリズムのパラメタとしては、ハーモニーサーチの解の個数を表す「ハーモニーメモリサイズ(harmony memory size: HMS)」や、解の改善に使用されるHMCR(harmony memory considering rate)とPAR(pitch adjusting rate)、そして即興の回数を指定するNI(the number of improvisations)がある。

ハーモニーメモリの探索機能

ハーモニーメモリ HMの行列は次のように表現される。

$$
HM = \left[
\begin{array}{rrr}
x_1^1 & x_2^1 & x_3^1 & \ldots & x_{N-1}^1 & x_N^1 \\
x_1^2 & x_2^2 & x_3^2 & \ldots & x_{N-1}^2 & x_N^2 \\
\vdots & \vdots & \vdots & \ddots & \vdots & \vdots \\
x_1^{HMS-1} & x_2^{HMS-1} & x_3^{HMS-1} & \ldots & x_{N-1}^{HMS-1} & x_N^{HMS-1} \\
x_1^{HMS} & x_2^{HMS} & x_3^{HMS} & \ldots & x_{N-1}^{HMS} & x_N^{HMS} \\
\end{array}
\right] $$

新しいハーモニーのベクトル $$x’ = (x_1′, x_2′, …, x_N’)$$ は、既知のフレーズが保存されているハーモニーメモリに基づいて生成される場合と、ピッチの調整によって生成される場合と、乱数生成される場合がある。これら3つの場合によって新しいハーモニーを生成することを、ここでは「即興(improvisation)」と定義されている。

ハーモニーメモリを参照する場合、最初の決定係数の値は $$x_1’^1 – x_1’^{HMS}$$の範囲のハーモニーメモリの中から選択される。その他の $$(x_2′, x_3′, …, x_N’)$$ も同様の方法で選択される。0から1の範囲を取るHMCRは、ハーモニーメモリに保存された過去の値(historical value)から選択する割合を意味する。逆に 1 – HMCRは、アトランダムに選択される割合を意味する。

$$
x_i’ \leftarrow \begin{cases}
x_i’ \in \{x_i^1, x_i^2, …, x_i^{HMS}\} & (with \ probability \ HMCR) \\
x_i’ \in X_i & (with \ probability \ 1 – HMCR)
\end{cases}
$$

ハーモニーメモリを参照することによって、ピッチ調整するべきか否かが規定される。この演算はPARを用いて実行される。すなわち、PARの確率でピッチ調整を実行することになる。ピッチ調整を実行する場合、アルゴリズムはピッチに任意の距離帯域幅bwに比例した乱数を加算する。

$$x_i’ \leftarrow x_i’ + rand() \times bw$$

こうして生成された新しいハーモニーベクトルが、既存のハーモニーベクトルよりも良いかどうかを目的関数によって評価する。もし良いと判断された場合、既存のハーモニーメモリを更新する。

改善ハーモニーサーチ

伝統的なハーモニーサーチは、以上のようなパラメタの多くを固定値として参照していた。それ故にハーモニーサーチの探索アルゴリズムは、探索効率がく、多くの反復数を要求してしまう。

大きなbwに対応する小さなPARはアルゴリズムパフォーマンスを低下させるために、最適解を発見するために必要な反復回数が大幅に増大する可能性が生じる。最終世代における小さなbwは解のベクトルの微調整量を増大させる。だが初期世代では、アルゴリズムが解のベクトルの多様性を高めるために、より大きな値を必要としてしまう。更に、小さなbwに対応する大きなPARは、通常なら最終世代の生成における解の修正を伴わせ、最適解のベクトルへと収束するはずである。

これに対して「改善ハーモニーサーチ(Improved Harmony Search: IHS)」は、各パラメタを探索を通じて学習する。改善ハーモニーサーチと伝統的なハーモニーサーチの重要な差異となるのは、PARとbwの調整方法にある。ハーモニーサーチの探索効率を向上させるために、探索アルゴリズム即興ステップにPARとbwに対して次のような動的な調整を加える。

$$PAR(gn) = PAR_{min} + \frac{(PAR_{max} – PAR_{min})}{NI} \times gn$$

$$bw(gn) = bw_{max} \exp\left(\frac{\ln\left(\frac{bw_{min}}{bw_{max}}\right)}{NI}\right) \times gn$$

ここで、PARは各世代のPARを、$$PAR_{min}, PAR_{max}$$はそれぞれPARの最小値と最大値を、$$bw_{min}, bw_{max}$$はbwの最小値と最大値を、そしてgnは世代番号を表す。

メロディサーチのデータ構造

即興演奏で生成されるのは無論ハーモニーだけではない。同様に即興演奏を模倣したアルゴリズムとして、「メロディサーチ(Melody Search: MS)」のアルゴリズムもまた設計可能である。

「メロディサーチと呼ばれるアルゴリズムは、ハーモニーの代わりにメロディという概念に従って設計されている。このアルゴリズムは、音楽の演奏過程と相互行為の関連に準拠している。そうした相互行為は、メロディライン上で連続するより良きピッチを発見しようと試みる音楽家たちの集団の構成員の間で発生する。そのような集団において、音楽の演奏家たちは各自でメロディを即興することで、後に最良のピッチへと到達するために、互いに導き促し合うことができる。」
Ashrafi, S. M., & Dariane, A. B. (2013). Performance evaluation of an improved harmony search algorithm for numerical optimization: Melody Search (MS). Engineering applications of artificial intelligence, 26(4), 1301-1321., p.1303より。

メロディサーチの概念はハーモニーサーチのそれを踏襲している。しかしその構造は全く異なる。ハーモニーサーチが単一のハーモニーメモリを参照しているのに対して、メロディサーチは複数の記憶を、すなわち「プレイヤーメモリ(Player Memory: PM)」を参照する。ハーモニーが単一であるのは、ピッチやコード同時に使用されているということである。それは各演奏者(Player)が一つの音程で演奏するたびに実行される。つまりハーモニーサーチでは、単一解のみが探索され、各計算ステップで評価される。これに対してメロディサーチでは、複数の解が探索され、各計算ステップで評価される。ここで想定されているのは、各演奏者が同一のメロディライン上で一連のピッチを発生させている間に、複数のピッチが毎回実行されるということだ。それは個々のピッチの線形連続体(a linear succession)となる。最終的に適用されるピッチの数は単一の実体を形成する。

メロディサーチのアルゴリズム

メロディサーチのアルゴリズムでは、各メロディのピッチを実問題の決定係数に代替し、各メロディを最適解で置換する。各演奏者は、可能な範囲で一連のピッチを形成する。ピッチの連続によって良いメロディが構成されると共に、その経験(experience)が演奏者の記憶として保存される。ピッチの可能な範囲は自然選択されるが、その値は反復を追うごとに可変である。

アルゴリズムの探索の初期のフェーズでは、各演奏者は他の演奏者の影響を被ることなくメロディを即興構成する。一方次回以降のフェーズでは、即興演奏は集団演奏の様相を呈するようになる。音楽家たちの集合における各自の異なる記憶によって、より良きアトランダムなピッチとより良きメロディの作曲可能性が導かれる。

メロディサーチのアルゴリズムには、プレイヤーメモリの個数(The number of player memories)を意味するPMN、プレイヤーメモリのサイズ(size)を意味するPMS、探索反復数の上限を意味するNI、最初のフェーズの探索回数の上限を意味するNII、距離帯域幅のbw、そしてハーモニーサーチにおけるHMCRに対応するPMCR(player memory considering rate)である。

再び数学的に定式化するなら、プレイヤーメモリの行列は以下のようになる。

$$
PM_i = \left[
\begin{array}{rrr}
x_{i,1}^1 & x_{i,1}^2 & \ldots & x_{i,1}^D & Fit_i^1 \\
x_{i,2}^1 & x_{i,2}^2 & \ldots & x_{i,2}^D & Fit_i^2 \\
\vdots & \vdots & \ddots & \vdots & \vdots \\
x_{i,PMS}^1 & x_{i,PMS}^2 & \ldots & x_{i,PMS}^D & Fit_i^{PMS} \\
\end{array}
\right] $$

プレイヤーメモリを要素とする行列をメロディメモリ(Melody memory)と呼ぶ。

$$MM = [PM_1, PM_2, …, PM_{PMN}]$$

ここで、$$x_{i, j}^k = LB_k + U(0, 1) \times (UB_k – LB_k) \\ for \ i = 1, …, PMN, \ j = 1, .., PMS, k = 1, …, D$$で、Dはメロディライン上のピッチの個数を意味する。そして$$[LB_k, UB_k]$$はk番目のピッチの可能な範囲を表す。これは初期フェーズでは不変だが、第二フェーズ以降は可変となる。第二フェーズ以降は、各プレイヤーメモリに最良のメロディ変数が保存されている。そして、新たに可能な範囲が次のランダム化によって以下のように計算される。

$$for \ each \ k [1, …, D] \ do \\
LB_k = \min (x_{i, best}^k, i = 1, …, PMN)\\
UB_k = \max (x_{i, best}^k, i = 1, …, PMN)\\
done$$

メロディサーチにおける新しいメロディの即興は、ハーモニーサーチにおけるそれと同じように、メモリの参照、ピッチの調節、そしてアトランダムな乱数生成によって実行される。また、PARのパラメタは改善ハーモニーサーチと同様の処理で更新されていく。

模倣のアルゴリズム/アルゴリズムの模倣

ハーモニーサーチやメロディサーチのような即興演奏のアルゴリズムは、人間音楽家を模倣するように設計されている。こうしたアルゴリズムがSAMEモデルで設計されているニューラルネットワークと共に実装されれば、音楽経験を共有する人格は、もはや人間だけではなくなる。アルゴリズムで駆動された事物もまた、音楽経験し、それを共有する<形式としての人格>として観察することが可能になる。

音楽家を模倣するアルゴリズムが「室内装飾」として蒐集された所有物として導入されれば、その<容器>としての「家」に配置されている蒐集家と所有物は、<母胎>の中に留まりながら、同じ<母型>を構成する位置関係で共通の音楽経験を共有することになる。こうした状況下では、例えばその室内に流れる「バックグラウンドミュージック(Background Music: BGM)」が、模倣的神経刺激メディアとなる。

だとすれば、実は音楽こそが、人間と事物で技術的に組織化された集団の身体の中で構成される100%の形象空間、すなわち身体空間に内実を与えるのかもしれない。この関連からベンヤミンの『パサージュ論』は、既に、この身体空間が実際には室内には限定されないほどの抽象性を獲得していることを明らかにしている。と言うのもベンヤミンにとってパサージュとは、街路であると同時に家でもあったからだ。それは<容器>であると同時に<中身>でもあるような、様々な形式が刻印されたメディアなのである。だから、パサージュ的な時空間に限って言えば、街路であっても、室内と同じように音楽が聴こえてくるのである。

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