「人工の理想」を背景とした「万物照応」のデータモデリング

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派生問題:「万物照応」は如何にして可能になるのか

ボードレールが説明する「自然の全体」を「超自然的な関心」で覆う「超高感度の神経」という詩的展望から「万物照応(Correspondances ; Korrespondenz)」を連想するのは造作も無いことである。「恩寵」が「原」以前の楽園における善の統一性を物語っているのならば、万物照応自然人間根源的な統一性を物語っている。双方は有史以前の「太古の形象」の認識であるという点では共通しているのである。

しかしボードレールの悪魔主義は、一方で自然に対する敵意でも満ち溢れている。ベンヤミンも注釈しているように、ボードレールの万物照応理論と彼自身の自然を拒絶する身振りとの間には、確かに矛盾が生じている。ボードレールが自然に対して表明する敵意に内在しているのは、とりわけ有機的なものに対する抵抗である。無機的なものに比して、有機的なものが有する道具としての性質は、尽く限定されている。有機的なものは、意のままに扱える可能性が低いのだ。ボードレールから観れば、有機体もまた制御不可能なのであった。この制御可能性は、悪魔主義的に「無限」を探究する詩人にとっては不都合な事態である。

問題解決策:「想像」と「思考」の区別

ベンヤミンによれば、このボードレールの矛盾は、「想像(Phantasie)」と「思考(Denken)」の区別を導入することで解消される。記憶万物照応を提供するのが想像であるのなら、記憶寓意を捧げるのは思考である。記憶は、この想像思考を引き合わせるメディアとなる。ボードレールの想像力は、千篇一律な形象習熟している。一般化すれば、彼は自分のモチーフのいずれにも、少なからず一回は立ち戻ろうとしていた。それは恰も、犯者が事件現場に立ち戻る強迫観念的な身振りに似ている。一方、ボードレールの思考力は、哲学的には評価されないが、沈思熟考する理論家としては比類無き能力であった。その特徴は、千篇一律さ、邪魔なものを全て排除する破壊的な性格、そして形象を常に思考に役立てる心構えを備えている。

想像力が最高度に高められた鋭敏さを構成するのならば、思考力は最高度に精神を集中させた観想を構成する。ベンヤミンがボードレールに見出したのは、この双方が記憶の中で衝突させられることで結ばれた万物照応寓意の緊張関係であった。観察した事物の印象記憶の中で体験から切り離されると、印象の中に閉じ込められていた経験が解放される。その経験寓意の基盤へと組み込まれることが可能になることで、自然に敵対的であることと万物照応理論との間の矛盾は解消されるのである。

問題解決策:想起の知覚データ

ベンヤミンは『ボードレールにおける幾つかのモチーフについて』において、ボードレールの万物照応を「共感覚(Synästhesien)」という用語との関連から解説している。確かにベンヤミンは、万物照応のバリエーションが神秘主義に限らず、芸術共感覚にも及ぶことを主張している。万物照応は、祭儀(Kultischen)の諸要素を内包した経験概念を定着させる。万物照応により、ボードレールは近代の破局をただ自分に対してのみ突き付けられた挑戦として認識できた。まさにそれに応じた形で生み出されたのが、『悪の華』である。この作品は、歴史的に無常と化してもはや取り戻し得ない過去の事物に捧げられた作品である。

しかし『パサージュ論』におけるベンヤミンは、万物照応に内包されている経験を色調(Farbenhören)や音視(Tonsehen)の共感覚(der Synaesthesie)に関する心理学的な実験内容に対応する概念として考えるのが誤りであるとも述べている。

「万物照応に内包されている経験を共感覚(色聴や音視)に関する心理学の実験室で実施されてきた実験内容に対応すると考えるのは、誤りである。ボードレールにおいて重要なのは、通ぶった芸術批評やスノッブ的な芸術批評が騒ぎ立ててきたあのよく知られた反応というよりは、そうした反応が引き起こされるメディア(Medium)である。」
Benjamin, Walter. (1928-1929/1934-1940) “Das Passagen-Werk”. In: Gesammelte Schriften Bd.V Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989. 引用はS. 464より。

ここでいうメディアとは、記憶(Erinnerung)に他ならない。ボードレールの記憶は、尋常ではない程の密度を備えていた。まさに「照応し合う知覚データ(Die korrespondierenden Sinnesdaten)」は、メディアとしての記憶の中で照応し合うのである。こうした知覚データには記憶が充満している。想起された記憶はあまりにも濃密に圧縮された状態で押し寄せてくる。それ故にその知覚データは、この現世からではなく、遥か遠くの前世(vie anterieure)から到来しているようにしか思えない程なのである。

万物照応想起のデータである。ただしそれは、歴史的な、つまり有史以来のデータではない。精確に言い直すなら、万物照応は前史のデータだ。自然殿において、時折言葉を「こだま」のように発するのも、親しげな眼差しを向けてくるのも、全て過去の事物である。万物照応とは、このデータを抽出することによって、様々な別様のデータと関連付けて、全く新しい意味連関を構成することを指す。

問題解決策:データベースとしての文字

自然は様々な類似性を生み出す。動物の擬態や保護色がその例となる。ベンヤミンによれば、こうした類似性を生み出すことに最も長けているのは人間である。

「類似性(Ähnlichkeiten)を認識する才能(Gabe)というものは、類似したものになり、類似しているように振る舞うことを、太古の人々が余儀無くされていたという事実の幽かな残滓に他ならない。私(Ich)は言葉(Worte)によって、同様のことを余儀無くさせられていた。ただしここでいう言葉とは、私を規範的な子供に似せるような言葉ではない。それは、私を住居や、家具や、衣服に似せるような言葉なのである。周囲にあるあらゆる事物に類似していくことによって、私は変形していくのであった。」
Benjamin, Walter. (1932-1938) “Berliner Kindheit um neunzehnhundert,” In: Gesammelte Schriften Bd.VII/1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.385-433., 引用はS.417より。

人間類似を抽出する能力は、類似した身振り模倣する能力として、他の様々な才能の決定的な要因となっている。自然が生み出す様々な万物照応は、模倣の能力を尽く刺激して覚醒させる。模倣の能力は、人間の内部で、これに応答する。その際、模倣の能力の意味論も、模倣の対象物の意味論も、社会構造歴史的な変遷の中で変異してきたと考えられる。

模倣の実践形式

真っ先に思い浮かぶのは、アウラ(Aura)の喪失を招いた複製技術時代の到来であろう。美的仮象(schonen Scheins)無き巨大な遊戯空間(Spiel-Raum)が展開されて以来、模倣は技術的な「神経刺激(innervation)」を介して実践されるようになったのだ。しかし古くからある模倣意味論の全てが複製技術時代以降に断絶した訳ではない。

まだ美的仮象が残存していた時代では、模倣仮象と現実の表面的な類似性によって成り立っていた。だがベンヤミンが論じる模倣の真意はそれだけではない。模倣は、実践の形式でもある。この模倣というのは、主体と客体、経験メディアのような二項図式では説明できない実践である。と言うのも模倣とは、身体メディアとした知覚形式でもあるからだ。神経刺激は、身体外部環境の事物との類似性を介して、双方向的な関連を結ぶ模倣の一形式である。

模倣の実践は神経刺激から始まる。神経刺激を享受した模倣者は、元来身体の外部にあるはずの知覚対象と自身の感覚器官を接続させる。この接続により、自己自身と外部環境差異は曖昧化する。それは身体の脱中心化とも言えよう。自身の感覚器官が、身体を超えて、知覚を刺激する外部の対象へと一体化するのである。そうすることで、言わば身体拡張する。そしてそれのみならず、外部の知覚対象を無意識のうちに自身の方へと引き付ける。そうすることで、模倣者はその事物と同化するのだ。この関連は、決して外部環境の事物による感覚への一方通行的な入力を意味するのではない。それは何処か、双方向的な刺激による創発的な秩序を連想させる。

「知覚できない事物間の類似性」

複製技術時代の前史と後史において、この模倣の実践形式には共通性を見出すことができる。自らの身体を事物と見立てるのならば、この模倣の実践形式は、自己自身や外部環境の事物との間に潜む類似性を読み取る能力を必要としている。この類似性の読解能力は、古代では天体と人間を同化させる占術で応用されていた。尤も、占術の着眼点には、単に視認できるほど類似している事物の関係だけではなく、「知覚できない事物間の類似性(unsinnliche Ähnlichkeit)」も含まれていた。古代の占術では、およそ自然のあらゆる事物に対して、その類似性を発見できていたのだ。

ベンヤミンが論じる類似性の法則を理解するには、類似性と模倣を主題としたベンヤミンの代表的な著作である『類似からの教説(Lehre vom Ähnlichen)』と『模倣の能力について(über das mimetische Vermögen)』の差異に注意を向ける必要がある。この二つの論文の差異指し示しているのは、類似性の法則が、人間模倣的振る舞いの意味処理規則になっているということである。逆に言えばこれらの論文は、共に類似性模倣歴史意味論であるという点では、重要な共通点を示している。

ベンヤミンは、彼自身は公表するつもりのなかった『類似からの教説』における超自然的な万物照応論を、死後に刊行された『模倣の能力について』では取り除いている。だがいずれの著作でも共通しているのは、人間の営みに対する模倣機能に関する観点である。ベンヤミンはこの観点を系統発生論的な観点と記号論的な観点に区別した上で、類似性歴史意味論展開している。

類似からの教説』における超自然的な万物照応論においてベンヤミンは、類似性の法則によって支配されていると認識されていた世界が、現代におけるそれよりも遥かに広大であることを指摘する。日常的に我々が類似性を見出している無数の現象は、無意識的に認識されている類似した諸現象の中のごく一部に過ぎない。実際、この類似性の法則は、我々の日常的な営みの中でも、とりわけ我々の模倣行為を構成している。模倣は、既に古代において、音楽や舞踏によって宇宙の秩序と同化する人間の営みとして見受けられる。いわゆるミクロコスモスとマクロコスモスの照応という観点がかつての思想家たちによって導入されていたのも、類似性の法則の影響力を示す良き実例となっている。

自然界に存在する万物照応が決定的に重要な意味を持つことになるのは、これらの照応が全て、根本的には人間模倣を駆動する刺激剤になるということである。模倣こそが、万物照応に対する反応として成立しているのである。

ここで強調されなければならないのは、模倣の能力とその対象は、歴史の長い時間の経過の中で、決して不変ではなかったという事実だ。古代社会や原始人の知覚世界に比べれば、近代社会を生きる我々の知覚世界には、魔術的な万物照応(magischen Korrespondenzen)が僅かしか残存していないように思える。しかしベンヤミンは、だからといって模倣能力が衰退した訳ではないことを強調する。

ベンヤミンによれば、類似性の発見能力は、衰退したというよりは姿を変えているのだという。好例となるのが、文字である。文字は単なる記号ではない。言語は確かに、シニフィアン(signifiant)とシニフィエ(signifie)の関連付けを可能にする。だがベンヤミンが注視するのは、むしろ記述された文字に宿る「文字像(Schriftbild)」である。彼はこの言語の活字書体から「知覚できない事物間の類似性」の本質を見出している。文字は、その文字像と指示対象との間に、隠蔽され、暗号化された類似性を成立させている。言わば文字は、「知覚できない事物間の類似性」のデータベースとして機能している。

それ故にこそ「記述する」という振る舞いは、古代における模倣の実践形式機能的に等価となる。文字像から「知覚できない事物間の類似性」を読み取り、記述することで指示対象を模倣するという実践形式は、複製技術時代以降では、活字や印字による類似性の記述の形式へと変異した。次いでタイプライターが登場してからは、指による入力行為が模倣の実践形式と化す。文字に文字像が宿るように、タイピングされた文字には「フォント(font)」が宿る。それはディスプレイを介して我々に神経刺激を呈示する。だからタイプライターは、指による神経刺激を可能にする知覚メディアなのだ。

尤も、言語による類似性の発見は、文字像だけで結実する訳ではない。ベンヤミンが注意を促すように、語や文の記号論的な意味(Bedeutung)の連関が文字像と共に認知されて初めて、類似性が創造されるのだ。その発見は電光石火のような突然の閃きとなる。だがそうして連想された形象は、次の瞬間には儚く無常にも忘却するかもしれない。言語における記号的な側面と模倣的な側面を融合させる上での問題となるのは、記述と読解の「テンポ(zeitmaß)」であるとベンヤミンはいう。

プロトタイプの開発:オートコンプリート機能

とりわけコンピュータユーザー・インターフェイスであるキーボードとディスプレイは、指による神経刺激を双方向的な刺激として構成する知覚メディアとなる。プログラミングのエディタや検索エンジンの入力フォームに文字を入力したことのあるユーザーならば誰しも、「オートコンプリート(autocomplete; autocompletion)」の機能から影響を受けたことがあるはずだ。オートコンプリートは、ユーザーによって入力されたキーワードに関連する別のキーワードをそのユーザーに入力候補としてレコメンドする機能である。このレコメンドはほぼリアルタイムで実行される。そのためにオートコンプリートの影響下にあるユーザーは、<ユーザー・インターフェイスへの文字の入力>と<ユーザー・インターフェイスによる文字の提示>を双方向的に実行させていることになる。

オートコンプリーションのアルゴリズムは多岐に渡る。相関性を比較するという単純なアルゴリズムもあれば、強化学習問題の枠組みから設計されたアルゴリズムもある。その中でも特に強化学習のような逐次学習的なアルゴリズムは、ユーザーの入力内容からレコメンドすべきキーワードの候補を学習しながらレコメンド対象を推定することを可能にする。

オートコンプリート機能の影響下にあるユーザーが<ユーザー・インターフェイスへの文字の入力>と<ユーザー・インターフェイスによる文字の提示>を双方向的に実行しているのならば、強化学習のようなアルゴリズムは<入力された文字の学習>と<レコメンドすべき文字の推定>を双方向的に実行している。つまりオートコンプリートの影響下にあるユーザーとオートコンプリーションそのもののアルゴリズムは、互いの双方向的な営みを前提とした上で、互いに双方向的な営みを実行している。この意味でオートコンプリート機能は、ユーザーとアルゴリズムとの間に相互浸透関係を結ぶことになる。

Sublime Text3やAtomのようなエディタ、あるいはJupyter notebookのような環境コードを記述している者は、既にオートコンプリート機能の影響に対して文字通り触覚的に接することで、オートコンプリートされる状況に習熟している。しかしこうしたエディタや環境で実現しているオートコンプリートは、既存のオブジェクト指向プログラミング関数言語の背景にあるオントロジーを前提とした入力候補の提示に過ぎない。APIの仕様を前提としたコーディングにおいては、それで事足りるためである。だがこれに対して検索エンジンのキーワード検索やその他の文書作成においては、APIの仕様などといった形式的な制約事項が無いために、単純なアルゴリズムでは物足りない機能になってしまう。スマートフォンのMost recently used algorithmのように、ユーザーの最近の傾向に大きく依存するようなアルゴリズムでは、どうしてもユーザーの急な方針転換や全く異なる主題での記述には対応できなくなる。こうした偶発性に耐久し得るオートコンプリーションのアルゴリズム設計するとなれば、例えばバンディットアルゴリズムの参照問題である「探索(explore)」と「活用(exploit)」のトレードオフやニューラルネットワークの参照問題である「汎化(Generalization)」の性能との関連から目を逸らすことができなくなる。

そこでGitHubのaccel-brain-code/Reinforcement-Learning-with-jsでは、強化学習アルゴリズムを応用したオートコンプリート機能のプロトタイプを開発している。このオートコンプリーションのアルゴリズムは、accel-brain-code/Cardboxで紹介しているカードボックスシステムキメラ・ネットワークの検索エンジンにおける入力フォームなどで機能的に再利用している。Template Method PatternやStrategy Patternのような方法抽象化しているため、別のあり方でもあり得るユースケースにも対応できるであろう。

問題解決策:メディアとしての言語

ベンヤミンの模倣論の理論的背景として挙げられるのは、ベンヤミン特有の「メディア(Medium)」としての「言語(Sprache)」の理論である。ただし、彼の述べる「言語」という概念は、人間が通常用いる言葉の概念に比して非常に抽象化されている。彼は人間言語のみならず非人間言語も考慮している。例えば事物やのような非人間もまた言語と関わりを持っている。つまり言語という抽象的に汎化された概念を人間用に特化させたのが、今我々が読み書きしている人間言語なのである。

ベンヤミンによれば、人間精神的な生の表出は、全て一種の「言語」として捉えることができるという。言語存在する領域では、常に何らかの意味言語内在させている人間精神の表出が可能になっている。だがそうした言語は、如何なる限定を受けることも無く、命ある自然にせよ、命無き自然にせよ、ありとあらゆる事象や事物と常に何らかの形で関わりを持つのだ。それ故、我々は自己の「精神的本質(geistiges Wesen)」を表現によって伝達しないような存在を何一つとして思い浮かべることができない。言語無しに想定できることなど何もないのだ。

言語と全く関係を持たない存在があるとすれば、それはベンヤミンがバロック悲劇の無常なる現世との関連から言及していた「理念」に他ならない。つまりこれは、「根源」と「歴史」の差異と関わるのだ。しかしその「理念」の叙述が如何にして可能になるのかに関しては、言語問題とは別の問題として設定されている。

言語の「in」と言語の「durch」の差異

いずれにせよ、精神内容の伝達を目指したあらゆる表現は、言語の中に含まれている。ここでいう「表現」というのは、その最も深い意味で、あるいはその全体像から観ても、ただ言語としてのみ理解されなければならない。

「言語は何を伝達するのか。それは、その言語に対応する精神的本質を伝達する。その際、基本的に、精神的本質が自己自身を言語という形式の中で(in)伝達するのであって、言語を通じて(durch)伝達するのではないということに注意を払わなければならない。」
Benjamin, Walter. (1916) “Über Sprache überhaupt und über die Sprache des Menschen”. In: Gesammelte Schriften II-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.140-157. 引用はS.140より。

ベンヤミンによれば、精神的本質は、言語を通じて、言語手段ツールのように参照するのではなく、まさに「言語として」伝達されるのである。あらゆる事物の精神的本質は、まさにその事物の言語となって存在している。これは単なる類似ではない。つまり精神的本質が「言語的本質(sprachliches Wesen)」に自らを似せている訳ではない。そうではなく、精神的本質はそれ自体を伝達可能であることを以って、言語的本質と一致する。聊か同語反復的に言い換えれば、精神であれ言語であれ、内外の情報の送受信と言うよりは、むしろその言語の中(in)に精神的本質が含まれている場合にのみ、言語的本質精神的本質は一致するのである。故に、言語が何を伝達するのかという問いに対する答えは、あらゆる言語が自己自身を伝達しているということになる。

「より詳細に言えば、あらゆる言語は自己自身の形式で自己自身を伝達する、最も純粋な意味で伝達の<メディア>なのである。」
Benjamin, Walter. (1916) “Über Sprache überhaupt und über die Sprache des Menschen”. In: Gesammelte Schriften II-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.140-157. 引用はS.142より。

そして、言語の境界付けを成すのは、言語による言語表現内容ではなく、言語言語的本質そのものである。したがって、人間や事物がその精神的本質を他の何物かと区別することは、言語言語的本質とその精神的本質を一致させることによって可能になる。とりわけ人間は、自身の精神的本質人間言語という形式で伝達する。人間は他のあらゆる事物に名付けることによって、それ自体の精神的本質をそれが伝達可能であるという限りにおいて伝達する。

ここで我々は、ベンヤミンが精神内容言語内容を「一旦」区別しているということに注意しなければならない。精神内容が伝達可能であると仮定すれば、精神内容言語内容は部分的に一致するかもしれない。だが精神内容が顕在化するとすれば、それは言語の中(in der Sprache)でのことに限られるのである。我々は、自己の精神内容言語を通じて(durch die Sprache)伝達している訳ではない。言語は確かに、言語自身の内容を伝達するだろう。だが、それが精神内容を伝達するのは、精神内容言語内容の内部に含まれている場合に限られる。したがって、言語によって自己の精神内容を他者に伝達しようとする者は、言語の枠組みによる制約を受けている。その精神内容言語の枠組みから逸脱していれば、その話者はもはや何も他者に伝達することができない。つまりこの場合言語は、精神内容における伝達可能性を条件付けているのである。

この点においてベンヤミンは、言語を最も純粋な伝達の「メディア(Medium)」として位置付けている。それは能動的であると同時に受動的なメディアである。言語は、それ自体において自己自身を伝達している。この意味言語は能動的だ。

だが一方で言語は、その内部に事物の精神内容包摂されることによって、精神内容の伝達も可能にする。言語はこの意味で受動的でもある。この能動にして受動たり得る言語は、しかしその能動性を隠蔽することができる。我々が自己の精神内容言語で伝達することが可能だと確信し得るのは、このためだ。

事物が他の存在に何かを伝達する場合も、その伝達内容言語内容それ自体である。だが言語それ自体が言語内容としての伝達内容を隠蔽しているために、我々はその伝達内容をあくまで自己の精神内容であると認識することができる。この認識は、厳密に言えば錯覚だ。言語は、伝達のメディアでありながらも、その無媒体性を主張する。言語は、言語それ自体を潜在化させることで、伝達される精神内容の顕在化を実現する。これにより我々は、言語による精神内容の直接的な伝達が可能であると錯覚する。したがってベンヤミンは、このメディアとしての言語を一つの「魔術」として位置付けているのである。

名称言語と純粋言語の差異

この言語一般の原理は、人間言語にも適用される。この場合、人間言語における本質は、人間言語のことである。ただし人間言語には、他の言語一般には無い特質がある。人間言語は、言葉で自己を伝達する。人間は、言葉であらゆる事物に名称を付与する。この命名によって、人間は自己の精神内容を伝達していく。人間は、この「名称言語(Namen-sprache)」を設定することによって、その中で自己の精神内容を伝達していくのである。

人間が事物を名付けるということは、単なる伝達行為ではない。確かに名によって事物についての事柄(Sache)が他者に伝達されることもあるだろう。しかしそれ以上に重要なのは、人間は名付けることによって自己自身をも伝達しているということである。名付けられた事物は、その名において、その精神的本質を指し示す。だが同時にそれは、それを名付けて言及している人間精神的本質をも含意して伝達しているのである。この言語論は、情報の送信者、受信者、送信内容、送信手段といったコミュニケーション概念を根底から覆している。

ベンヤミンがとりわけ重視するのは、名付けるという営みだ。

「言語が絶対的に自己自身を伝達するのは、名においてである。自己を伝達する精神的本質は、名においてこそ、言語(die Sprache)となる。自己を伝達する精神的本質が絶対的な完全性を帯びた言語それ自体である場合にのみ名は存在し、そこにはただ名しか存在しない。」
Benjamin, Walter. (1916) “Über Sprache überhaupt und über die Sprache des Menschen”. In: Gesammelte Schriften II-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.140-157, 引用はS.144より。

人間精神的本質言語それ自体なのだから、人間言語を通じてではなく、言語それ自体となって自己自身を伝達することが可能になる。そして、人間精神的本質としての言語を凝集して全体化するのが、名前なのである。こうした名前は、単なる叫び(Ausruf)ではなく、言語本来の呼び掛け(Anruf)を含意している。自分自身を表出することと他者に語り掛けることに差異は無いのだ。しかし、それでも尚、言語はその内容を伝達するのではない。そもそもにおいて、言語内容存在しない。言語は、精神的本質を伝達することを以って伝達とし、それは伝達可能性それ自体の伝達に他ならない。これを前提として言えば、命名は人間のあらゆる精神内容を伝達可能にする。

人間が事物に名を付与することに何か理由があるとすれば、それは人間に自己の精神内容の本質を伝達するためであると言える。この論点からベンヤミンの秘的な言い回しは最高潮に達する。すなわち、人間精神内容の本質は、言語内容それ自体である。そしてそれは、が創造する際に用いる「純粋言語(die reine Sprache)」なのである。人間精神的な本質は、名称において、自己をに伝達する。この言い回しは、『旧約聖書』の「創世記」に登場するアダムが事物を名で呼んでいたことと、決して無関係ではない。は、「光あれと言えば、光ありき」といった言葉(Logos)を発して、全てを無から創造した。そしては、自らの「似姿」として人間を創造した。その人間たちに、言語の才(Gabe)を贈り与えた。

確かに人間言語は、天地創造を可能にするの力には遠く及ばない。人間言語は、が創造したあらゆる事物における言語一般の一部に過ぎない。しかしながら人間名称言語は、それら全ての事物に名を付与することによって、それら全ての事物に関する精神内容を伝達することが可能になる。人間名称言語の射程は、全てを一望し得る言葉に匹敵する。言うなれば、が天地創造の際に使用していた言語人間に譲渡することによって、人間はこの名称言語を獲得したのである。

名称言語言葉の深遠なる写しである。だが無限である。人間有限だ。だとすれば人間言語もまた有限であるということになる。しかし人間の名に至っては、限りなく無限に等しい射程を持つ。とりわけ固有名は、有限にして無限である。それは有限無限の<境界>に位置付けられている。あらゆる存在の中でも、人間は唯一、に命名されなかった存在である。そして人間は、同胞に名を付与する唯一の存在でもある。注意しなければならないのは、ここでいう固有名は、名称言語とは異なるということだ。名称言語はあくまで人間言語である。故にそれは有限だ。一方固有名は、有限とは限らない。それは創造のメディアとしての言葉に、最も近接する言語なのである。実に命名されることによって、名を欠落した存在として生を受けた人間は、初めて自身がによる被造物であるということが保証される。この意味で固有名は、による創造を完結させる。したがって人間は、固有名を付与することによって、と共同しているのである。

類似性のメディアとしての言語

ベンヤミンによる類似性模倣歴史意味論が彼固有の言語メディア論に接続されるのは、文字が「知覚できない事物間の類似性」のデータベースとして機能しているためだけではない。知覚世界の事物を観察してみるだけでも、類似性が無媒介的に確認できるとは限らないということを前提にすれば、事はそう単純ではないことがよくわかるであろう。つまり、この「知覚できない事物間の類似性」を認識するためにも、メディアが必要になるのである。

この関連からベンヤミンは−−これが『模倣の能力について』の論文では顕著な傾向になるのだが−−自身の系統発生論的な観点を記号論的な観点へと緩やかに移していく。例えば「知覚できない事物間の類似性」の認識にメディアとしての言語が要求されるという事態は、翻訳者の仕事によく表出している。ある言語を他の言語翻訳する場合、様々な言語言葉が、言語ごとに異なる形式で<指し示されたもの>に関連付けられる。それらの言葉を相互に代替することが可能なのは、我々が異なる言葉を<指し示されたもの>の側から<類似するもの>として同一視する場合に限られる。

「一つの同一のものを意味(Bedeutete)する異なる諸言語の言葉を−−たとえ多くの場合相互に僅かな類似すら見受けられなかったとしても−−その中心に位置するこの意味される対象には類似しているということが判明するであろう。」
Benjamin, Walter. (1933) “über das mimetische Vermögen”. In: Gesammelte Schriften Bd. II/1 Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1991, S.210-213., 引用はS.212より。

この洞察には二つの決定的な観点が含まれている。一つは、どれほどそう思えたとしても、諸言語言葉は単なる恣意的な記号の配列ではないということである。そしてもう一つは、周辺に位置する諸言語のそれぞれの言葉においては、「中心」に位置する「意味される対象」との「知覚できない事物間の類似性」が生じているということである。このことは、単に話された言葉のみならず、書かれた言葉、すなわち文字にも該当する。だからこそベンヤミンは、かつて失われたかのように視える模倣の能力は、何よりもまず文字に移り住んだと喝破し得たのだ。

無論言語は、統語論や記号的な意味論によって緊密に形式化されてもいる。<意味するもの>と<意味されるもの>の結び付きは、緊密に固定されているのである。こうした結び付きは、精神的本質物象化した言葉の結び付きを変異させる訳ではない。だがベンヤミンは、ここから重大な結末へと結実したと考える。「魔術(Magie)」の次元がますます解消されるに至ったのである。しかしこの脱魔術化には限界もある。何故なら、魔術が無ければ、表現内容精神的本質に対する関係が成り立たなくなるためだ。

それ故にベンヤミンは、脱魔術化された世俗社会においても尚、「判読」することの一切を手放したくないのであれば、記述と読解の「テンポ」が要求されると述べているのである。およそ文字を判読する者が「意味される対象」に関わる「知覚できない事物間の類似性」を認識するには、その類似性の背景にある純粋言語が顕在化する決定的な瞬間を決して忘れてはならない。純粋言語は閃光の如く発現する。だがそれは一瞬の出来事として生成消滅する。純粋言語は、言葉として現れた天使が、を讃えながら、忽ちのうちに無常にも消え去る様によく似ている。

機能的等価物の探索:メディアとしての理念

この純粋言語の無常性は、後の『ドイツ悲劇の根源』における「認識批判的序論」において再記述されることになる。この序論においては、言語メディア論が「根源(Ursprung)」と「歴史(Urgeschichte)」の区別を導入することで「理念論(Ideenlehre)」的に再設定されている。「認識批判的序論」の主題は、真なる「理念(Idee)」は如何にして「叙述(Darstellung)」することが可能なのかである。つまりこの序論は一つの方法論になっている。

諸理念と諸現象と諸概念の差異

認識批判的序論」の主導的差異は、諸理念(Ideen)と諸現象(Phänomene)と諸概念(Begriffe)の区別から構成されている。理念は所与の存在だ。真理は叙述された諸理念が織り成す輪舞の中で顕現する。一方、諸現象は仮象(Schein)が混入された乱雑な経験的(empirisch)状態に置かれている。これに対して諸概念は、この理念と現象の乖離に対する埋め合わせとして機能する。概念は諸現象を諸要素(Elemente)へと区別することで、対象に混入されていた経験的な状態を抹消する。すると諸要素を諸理念の領域に接続させることが可能になる。諸要素へと区別された諸現象は、その偽りの全体を喪失する。諸要素への区別により、諸理念との関連から真なる全体を構成する契機が得られる。かくして、理念による現象の救済が成り立つ。

しかし理念は、それ自体としては叙述され得ない。何故なら理念の領域は現象の領域から隔離されているからだ。故に理念叙述にも概念が必要になる。概念による諸要素への区別とそれらの関連付けを介して、初めて理念叙述可能性が拓かれる。諸理念は諸現象の潜在的(virtuell)な配置関係を指し示す。そしてそれらは諸現象の客観的な解釈でもある。こうした関連付けから、ベンヤミンは理念と現象が代理表象(Repräsentation)の関連にあるという。理念叙述が如何にして可能になるのかという問題設定は、言わば哲学的な真理の叙述というトップダウンの観点と概念による区別と関連付けというボトムアップの観点との融合が如何にして可能になるのかという問題設定へと再記述できる。

メディアと形式の差異

尤も、より厳密に記述するなら、ここでいうトップダウンとボトムアップの区別棄却されるべきであろう。代替として導入するべきなのは、メディア形式区別である。ベンヤミンが叙述しようとした理念は、<メディアとしての言語>を再記述した概念に他ならない。それは、丁度ベンヤミンの言語メディア論では純粋言語への志向として主題化されていたように、言葉表現された言語内容からは区別される。理念は、そうした言語内容の「形態(Gestalt)」を構成する<形式としての言語>なのである。理念は、理念を通してではなく、理念の中で自らを理解させる。

この<メディアとしての言語>と<形式としての言語>を重なり合わせた概念として理念を捉えれば、ベンヤミンの理念論がプラトンのそれを焼き直した理論であるとは、到底考えられなくなる。実際、ドイツ悲劇に対するベンヤミンの観点は、悲劇の主題や様式などではなく、その本質となる言語に向けられている。その本質が、形態構成する力、すなわち<形式>なのだ。こうなるともはや、<形式>と<内容>の区別棄却せざるを得ない。否定するのではなく、棄却するのである。ここでいう<形式>とは、内実を無視した表層なのではなく、むしろ言葉表現されている現象を判読できるようにする理念意味する。ドイツ悲劇の本質としての言語形式は、理念と直接的に照応していることになる。

ベンヤミンとプラトンの差異

ベンヤミンの理念論がプラトンの理念論から厳密に区別されなければならないのは、文学や理論の真理内実が、常に個別具体的な歴史の状況に関連付けられているためである。バロック時代は、その時代そのものというよりも、むしろ積極的に古代を引用している。しかし、悲劇の理念に対する志向が満たし得るのは、歴史主義的な記述ではない。現象の全てを受容する必要の無い、あるいは受容することすらできない、拮抗する諸々の力が判読できるようになることによって、初めて理念叙述が可能になる。

ベンヤミンが理念と現象と概念の区別を導入しているのは、この背景があってこそである。現象と理念は、相互に演繹できる関係にはない。すると双方の間の媒介が必要になる。そこで概念が導入される訳だ。理念論的な問題設定における概念の機能は、現象と理念と関連付けるための必要条件を満たすことにある。概念は、現象の区別を導入することを可能にする。そしてそれにより、現象の蒐集による理念叙述を可能にすることこそが、概念の理念論的な機能となる。かくして、現象と理念媒介しながら、概念は自らを使い果たし、消滅していく。

概念の機能によって叙述される理念は、一回的で「極限(Extrem)」的なもの同士が織り成す形式として把握される。理念極限の形式として、最も再現性が低く、最も新奇性が高く、最も省みられることのない諸現象を包含している。理念においては、そうした極限のもの同士が矛盾した対立関係を形成している。そして、この理念歴史において見出される場合には、それが「根源(Ursprung)」という形態を取る。だからこそベンヤミンは、根源歴史哲学を、およそ飛躍的なもの、過剰な展開と思われているものの中から理念を抽出する形式として導入したのだ。

類似性のメディアとしての理念

以上のベンヤミン流の理念論を前提とすれば、「知覚できない事物間の類似性」を認識する上でのメディアとして、理念言語機能的等価物となる。言い換えれば、諸現象の中から類似性を発見するためには、諸現象が関連付いている理念が必要になるということだ。しかし理念それ自体は決して現象とは合致しないのだから、概念の機能が必要になるのである。

ベンヤミンは理念を一回限りの極限的なもの同士の関係の構成とも言い換えている。理念それ自体は、極限の形式として叙述される。理念は、全体的で完全、すなわち総体的なのだが、その一方では最も顧みられることのない諸現象に重なる。この意味理念モナド的な単一性と差異性とを同時に包含している。アダムが駆使した<命名の言葉>は、理念の最も単純で、尚且つ最も高次の表現として結実している。だがその最も大きな差異性は、諸現象が関わる事実についての客観的な叙述によって達成される。

問題解決策:ユーザー・インターフェイスとしての街路名

類似性を読解することで成り立つ万物照応想起知覚データであり、文字像やメディアとしての言語が「知覚できない事物間の類似性」のデータベースであるとするなら、言語の利用法次第で、我々はそれを麻薬機能的等価物として活用することが可能になる。ベンヤミンが取り上げた都市の「街路名(Straßennamen)」は、このことを端的に示している。街路名は、都市を万物照応の舞台として仕立て上げている。

「通常ならばごく僅かな言葉、すなわち特権階級にある言葉のみにとって置かれていた事柄を、都市は全ての言葉に、あるいは少なからず多くの言葉に可能にした。つまり、名(Namens)という高貴な地位に格上げされたのである。これらの言語の革命(Revolution der Sprache)は、最も一般的なもの、すなわち街路において成し遂げられた。街路名によって、都市は一つの言葉の宇宙(ein sprachlicher Kosmos)となったのだ。」
Benjamin, Walter. (1928-1929/1934-1940) “Das Passagen-Werk”. In: Gesammelte Schriften Bd.V Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989. 引用はS. 650より。

ベンヤミンによれば、元来街路名には我々の知覚を押し上げ多層化してくれる陶酔作用があるという。街路名機能は、直感的な印象を映像的な形象として呼び起こすことにある。

「そのような印象を喚起する(Anschauung zu erwecken)のは、大抵の場合は麻薬(Rauschmitteln)に限られる。だが実際には、街路名もまた、こうした場合に我々の知覚を球状に複雑化し(sphärenreicher und vielschichtiger machen) 、陶酔を引き起こす。」
Benjamin, Walter. (1928-1929/1934-1940) “Das Passagen-Werk”. In: Gesammelte Schriften Bd.V Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989. 引用はS. 645より。

街路名において重要となるのは、街路そのものではなく、名に備わる感覚的な印象やそれを喚起する視聴覚的な形象である。街路名のような固有名詞は、概念としてというよりは、言葉の響きとして機能するのだ。こうした街路名の真の性格が認識されるのは、都市が街路名規格化するために実施される改名の際である。役所の仕事を効率化するだけであれば、市当局は都市の各地区の街路や家に番号を付与することが望ましい政策となるだろう。ところが、そうした公式の番号は、冷たいという印象を惹起してしまう。何処に住んでいるのかを尋ねられた人々は、そうした冷たい番号ではなく、むしろ自分の家に着いている名前で答えるであろう。ここで着目すべきなのは、冷たさ云々ではなく、番号化された場合の言葉の響きである。数字のみでは、言葉の響きのレパートリーも限定されてしまうのである。

これは単なる「連想(Assoziation)」の話ではない。むしろ着目すべきなのは、名によって喚起された「形象の相互浸透(die Durchdringung der Bilder)」である。まさに麻薬陶酔者たちが遭遇する形象の大量生産が、街路名によっても喚起されているのである。街路名喚起する形象は、麻薬によって引き起こされたそれと同じように、抗い難いほどの密度で迫り来る。

「長時間宛も無く街路を歩き回った者は、ある陶酔感に襲われる。一歩ごとに、歩くこと自体が大きな力を有するようになる。いつものお店、小さなレストラン、笑顔を振り撒く女性、次の曲がり角、遙か遠くの盛り上がった茂み、ある通りの名前などが有する磁力が、徐々に抵抗し難い力となっていく。」
Benjamin, Walter. (1928-1929/1934-1940) “Das Passagen-Werk”. In: Gesammelte Schriften Bd.V Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989. 引用はS. 525より。

街路名とは、一般市民が街について知るためのユーザー・インターフェイスである。それは市民が街を感じ取るための唯一の感覚性なのだと、ベンヤミンは洞察する。と言うのも、我々は街、仕切り石、道路の構造などについて、精密に調査したことなど無いからである。街路(Straße)は道(Weg)ではない。道に迷うことは恐怖である。だが名を与えられた街路を歩く者たちは、単調ではあるものの魅惑的に延びていくアスファルトの帯に方位付けられていく。そうして街中を徘徊し続ける者たちは、次第に「遊歩者(flâneur)」としての特質を持つことになる。

「街路は遊歩者を過去の時間へと誘導する。遊歩者にとっては、如何なる街路も急坂である。この街路は、母たちの下へではないにせよ、遊歩者自身の私的な過去ではないだけに、より呪縛的になり得る過去へと下っていく。それにも拘らず、この過去は常にある幼年時代の時間であり続ける。しかし、それがよりによって何故遊歩者が生き永らえた時間であるのであろう。遊歩者がアスファルトを踏めば、その足音は驚くべき共鳴(Resonanz)を呼び起こす。板石を照らしているガス灯は、この二重の層を有した地面に、二義性を帯びた光を投げ掛ける。」
Benjamin, Walter. (1928-1929/1934-1940) “Das Passagen-Werk”. In: Gesammelte Schriften Bd.V Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1989. 引用はS. 524より。

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