「人工の理想」を背景とした「万物照応」のデータモデリング

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問題設定:麻薬の美学は如何にして可能になったのか

悪の華(Les Fleurs du mal)』の有判決が確定した直後のシャルル・ボードレールを駆り立てたのは、詩人としての創造的な活動をもう一度やり直すという「意志(volonté)」であった。暴露され尽されたかのように思えるをもう一度習慣の中から探り当て、提示され尽されたかのように視える主題にもう一度言及することが、彼の次なる詩作となる「ハシッシの詩(Le Poème du haschisch)」を動機付けたのは有名な話である。『人工楽園(Les Paradis artificiels)』においてこの詩は、まだ阿片の副作用が十分に指摘されていなかった頃に展開されたイギリスの「阿片服用者たちの楽園(the Paradise of Opiumeaters)」の紹介と共に叙述されているが故に、当時は麻薬を賛美する内容であるかのような第一印象を形成していた。

しかしボードレールのこの取り組みには、麻薬意志による創作の阻害要因になり得るという警告も含まれている。ここでいう麻薬危険性は、単なる「依存症(addiction)」の危険性などではない。もとより、当時はまだ神経科学が十分には発達していなかったために、麻薬依存症主題とする意味論は十分には記述されていなかった。ボードレールが見出した麻薬危険性は、あくまでも詩的創作における沈思(la contemplation)に関わる副作用を意味する。確かにハシッシに毒された人間たちは、ディオニュソス陶酔のオルギア(orgia)に没入する。その精神が享受した詩的霊感は、芸術家の直感に類似するのかもしれない。眼前に広がる自然の光景が、たとえどれ程醜くても、ハシッシ人間はその全てに啓示を見出す。しかしボードレールは、詩的霊感とオルギアの陶酔を厳密に区別している。思考するために麻薬に頼る者たちは、いずれ麻薬無しには思考できなくなるためである。

ボードレールはトマス・ド・クインシーの告白を賛美している。だが彼は、麻薬を賛美している訳ではない。ボードレールは『人工楽園』において、阿片による陶酔現象の叙述が、既に医学的のみならず詩的にも十分に分析されていることを認めていた。彼がド・クインシーを好意的に評価しているのは、ド・クインシーの労作の中には、阿片闘争する意志が観られるからだ。そしてその体験言語化して叙述しようとするド・クインシーの態度は、「麻薬美学」的とも言える優れた陶酔現象の叙述を実現している。だからこそボードレールは、単にド・クインシーの告白を翻訳するに留めず、ド・クインシーの著作の冗長部分を削除して要約することや、自らの注釈を積極的に織り込むことを厭わなかったのである。『人工楽園』は、翻訳者の感性と原著者の意向を融合させた混合物として叙述されることで、個の境界を取り払う破壊的な性格の産物となっている。

問題解決策:「無限の活動」と「無限の休眠」の区別

阿片常用者の告白』の主人公は、楽園に向き合ったド・クインシー本人ではない。彼によれば、この物語の主人公となったのは、この楽園を可能にした阿片それ自体であったという。

物語の手始めにド・クインシーは、阿片の作用とアルコールの作用の差異を強調している。それによると、アルコールには快楽の持続性が伴わないのに対して、阿片には8時間から10時間程度の持続性があるという。この区別が言い表しているのは、いわゆる急性的快楽と慢性的快楽の差異である。例えば急性的快楽を伴わせるワインは、判断力を狂わせる。一方、慢性的快楽を伴わせる阿片は、精神的な秩序、規律、そして調和を実感させる。ワインが冷静さを喪失させるのに対して、阿片は冷静さを保たせるという訳だ。侮蔑、愛や憎しみに対する異常な興奮を与えるのがワインだとすると、平静と均衡を保つのが阿片の作用である。

しかしその一方でド・クインシーは、阿片の最たる効果が興奮であるとも述べている。この作用もまたアルコールによる「陶酔(intoxication)」作用とは異なっている。陶酔に浸る者たちは、人間の中の動物的な部分を曝け出している。その者はもはや動物的な支配下に置かれている。これに対して阿片は情緒を拡張させる。これもまた動物的な情動の発露に似ているが、決して動物的な発作ではない。興奮に浸る最中の阿片常用者たちは、自己の聖なる部分が優位に立っていることを直感している。阿片常用者たちは、道徳的に平静を保ち、自己が厳格な知性を発揮できていると信じているのである。阿片はこうした意味で、精神的な健康状態を治癒すべく機能すると観察されている。

こうした阿片の作用を単なる「幻覚」として片付けることはできない。ただしそれは矛盾に満ちている。例えばド・クインシーは、その心象風景において、都市部で勃発した騒動や熱病や闘争を目撃していた。だがそれらの出来事は、まるで静寂に流れ続ける海の如く「静止」していたという。ド・クインシーによれば、その光景は彼自身の精神と気質を適切に描写した形象である。ド・クインシーは、この「静止」が決して「緩慢(inertia)」な状態から生み出されたものではないと断言する。そうではなくそれは、「強烈で等しい二つのものの対立、すなわち無限の活動と無限の休眠の対立(mighty and equal antagonisms; infinite activities, infinite repose)」の結果として発現しているのである。

形象の大量生産

この「無限の活動」と「無限の休眠」の対立は、麻薬陶酔による夢見と通常の精神状態における目覚めの<境界>で生じている。この夢見と目覚めの区別は、文学的のみならず生理学的な区別でもある。ド・クインシーはこの<境界>に足を踏み入れたことによって、あらゆる形象が無数に現前してくる様に驚異を覚えた。特筆すべきなのは、形象の大量生産である。かのミーダス王があらゆる物を黄金に変えたことで身を滅ぼしたように、ド・クインシーは、あらゆるものを形象として映し出してしまう自身の創造的な「眼」を脅威として感じ取ったのである。こうした形象は全て、言語化して説明することが難しい類のものであった。ド・クインシーは、形象の深部に自身が没落していくのではないかと恐れていた。それは、自殺願望を伴わせる憂鬱気質にも似ていたという。

形象現前している最中では、空間の感覚も、時間感覚も、歪むことになる。阿片服用者は、幸福感に没入するあまり、時間の経過を忘却している。だが形象現前してくると、事情が異なってくる。それは幸福をもたらすものではなく、奇襲なのである。ド・クインシーは、やがて壮大な形象と化した建物や風景や事物に襲われることになる。周辺の空間無限に膨張している。時間もまた、無限拡張されていた。ド・クインシーにとっては、一晩が千年にも達するほどに、その時間感覚は歪んでいたのだ。それは、無限に続く奇襲による苦痛を体感せざるを得ない状況である。

羊皮紙の隠喩

この形象の大量生産との兼ね合いから更に特筆すべきなのは、記憶想起である。恐らくは、突発的な記憶想起による形象の奇襲が、彼を驚愕させたのであろう。例えばド・クインシーは、幼少時代の出来事を詳細に想起したことを告げている。だが彼自身は、それを現実に起こった出来事想起とは認めてはいない。しかし、目覚めと夢見の<境界>に位置した時点でのド・クインシーは、想起の脈絡から「新発見」したその内容を自らの記憶であると「再認識」していたという。それはどこか、シュールレアリスム的なショック体験した者がそれを現実とは認められない様に似ている。

この記憶想起に関する論考の延長線上の省察として、ド・クインシーは「羊皮紙(Palimpsest)」という隠喩で我々の思考記憶表現していた。羊皮紙とは、繰り返し上書きすることで、元々の写本が拭い去られてしまうある種の印刷技術のことである。中世において、それはいわゆる「魔術書」や呪術の「指南書」として扱われていた。植物の繊維を絡ませて製造される紙とは異なり、羊皮紙は、羊に限らず、牛や馬などの皮を用いて製造される。三次元的な立体構造のように絡み合った皮の繊維を二次元的な平面に引き伸ばすことによって、紙のような機能を得られるのである。羊皮紙は、紙に比して、インクや絵具の滲みが少ない。それ故、表面を削れば、また新たに再利用することができるのである。

ド・クインシーの巧みな表現によれば、人間の脳は羊皮紙なのだという。思考形象情動のような出来事が生起するたびに、その記憶が脳の上に次々と折り重なっていく。新たな出来事記憶は、既存の出来事記憶を埋没させてしまうかのように思える。しかし現実には、どの記憶も完全に消滅している訳ではない。羊皮紙の表面上では、新たな内容が記述された途端に、以前の内容は消え去ってしまうように見える。だがその痕跡は、羊皮紙の深部に残存している。同じように、脳においても、かつての記憶の痕跡が残存しているのである。

阿片の効果は、まさにこの残存する記憶の痕跡を形象として顕在化させることにある。したがって阿片を契機として発現した形象が言い表すのは、阿片の常用者が自身の羊皮紙としての脳に残存していたあらゆる過去記憶の痕跡と遭遇した状態なのである。顕在化した過去の諸々の形象が、ここの現在において、同時に共存している。だがこの非同時的な過去同時的な発現をド・クインシーは副次的な現象に過ぎないという。彼が秘的なものとして重視していたのは、過去の「蘇生(resurrection)」そのものだ。それ故にこそド・クインシーは、不老不死の薬にも匹敵する生命力で灰の中から孤独に復活を遂げていく不死鳥に魅せられていくのである。

阿片を常用していたド・クインシーは、脅威と驚異の振動を体験していたのであろう。その振動は、蘇生した過去形象が引き起こしていた。だがド・クインシーの形象に対する驚異と脅威の振動は、次第に脅威のみへと固定されていく。形象への感想が脅威として徐々に定着していったのである。そしてその脅威は、憎にも似た感情へと変わっていった。あらゆる恐怖、罰、そして閉塞感が無限に永続していくかのような想念が、狂気にも似た抑圧へとド・クインシーを駆り立てていったのである。

問題解決策:「人工の理想」と「自然の夢」の区別

ド・クインシーの麻薬哲学を継承したボードレールは、陶酔の特質が「無限の嗜好(Le goût de l’infini)」にあるという。それは、「人工の理想(l’Idéal artificiel)」を取得しようと欲する渇望を意味する。このボードレールの観察の主導的差異人工自然区別によって構成されているのは、その観察観察することで直ぐに判明する。だが彼が「人工の理想」の対立項として想定しているのは、単なる自然ではなく、「自然の夢(le rêve naturel)」である。このことには注視しておかなければならない。

形象の数

ド・クインシーと同じように、ボードレールもまた形象の大量生産に注意を払っていた。ボードレールによれば、麻薬の効果は形象の数を増やすことで時間を増やすことにあるという。形象が増えれば、時間もまた増える。それは時間の流れに加速度を与える。その結果、人間は驚異的な速度で生きているかのように、物理現象としては短いはずの時間の中で無数の生涯を謳歌しているかのように錯覚する。時計が示すそれぞれの「1分」の中に一つ一つの永遠が刻まれている。限られた人生の中で、麻薬陶酔者は、複数の人間の人生を体験することになる。

このようにボードレールにおいては、形象の大量生産が時間感覚の変容と強く結び付いている。時間という概念は拡張されることで、永遠の渦巻きのように回帰する概念となる。この関連から記憶力も変容する。ド・クインシーが述べたように、記憶羊皮紙展開されることによって、あらゆる記憶想起が可能になる。ある種の無意識の中で眠っていた記憶も例外無く想起の対象となる。想起された個々の記憶形象は、それ自体としては支離滅裂に思えたとしても、羊皮紙全体としては、論理的で不協和音の伴わない一つの合唱として構成されている。それは完全なる調和を形成しているという。

しかし一方でボードレールは、この時間感覚の変容状態が危険であるとも述べている。形象の数が増大するということは、認識すべき対象を一つに絞り込めないということである。故に麻薬自我意志を拡散させてしまう。麻薬陶酔者は、一つの対象への集中力を維持することができなくなるのだ。ボードレールは、日常的な「ここ」に対する集中を無限拡張された時間と同じように重視する。と言うのも、自我意志の拡散だけに身を委ねてしまえば、「想像力」に対する意志の不在を容認してしまうためである。それは自己自身であると同時に他者でもある力を放棄することを意味する。拡散するだけの陶酔状態でも、確かに複数の人間の人生を体験できるかのように、永遠を実感できるであろう。だがそれは、際限無く他者の人生だけを送るようなものなのである。

脳髄の真なる祝祭

繰り返すように、ボードレールはド・クインシーの告白を賛美している。だが彼は、麻薬を賛美している訳ではない。実際ボードレールは、どれほど麻薬を吸引しても、所詮人間は自らの肉体や道徳的な気質を完全に超克することができないと注意を促している。この主張は、ド・クインシーの些か神秘主義に傾斜した言明を脱魔術化する洞察であるかのように観える。だがド・クインシーもまた、阿片の作用が本来その人間が歩んでいる道においてしかその人間を刺激しないということを踏まえていた。麻薬が奏でる形象は、服用者が歩んできた過去の「蘇生」である。故にその形象の範疇は、服用者が人間として歩んできたその人生に制約される。この意味で、ド・クインシーとボードレールの麻薬論は一致している。

ボードレールによれば、阿片が五感に及ぼす効果は、「自然の全体(la nature entière)」を「超自然的な関心(intérêt surnaturel)」で覆うことである。阿片機能は、この超自然的な関心によって、より深く自発的かつ専制的に自然の事物たちに意味を付与するように我々を仕向ける点にある。しかし一方でボードレールは、この超自然的な関心による意味付与には必ずしも阿片が必要になる訳ではないとも述べている。阿片に依存せずとも、こうした意味付与による認識が可能になる瞬間があるのだ。その瞬間とは「脳髄の真なる祝祭(véritables fêtes du cerveau)」の瞬間である。この瞬間において我々は、自然に対する研ぎ澄まされた知覚力によって、響き渡る印象を感じ取り、透明性を増した青い空の無限の深淵に沈み込み、無数の音が音楽的に鳴り響き、様々な色が語り出し、香りは観念の世界を物語るようになる。一口に言ってしまえば、我々は皆自然に対する「超高感度の神経(des nerfs ultra-sensibles)」を持ち得るのである。

しかしながらこの超自然的な関心が可能となる瞬間は、誰もが到達し得るにも拘らず、通常であれば制御不可能である。面白いことに、この関連からボードレールは、上述した美的瞬間を「恩寵(grâce)」と見做そうとする。超自然的な関心という異常な心理状態は、人間が自身が最良であると見做してしまうような「魔術的な鏡(miroir magique)」なのだ。確かにこの「脳髄の真なる祝祭」の瞬間は、いつの時代にも、誰にとっても、人間の最上の宝のように思われたはずである。だからこそ人類は、身体を毒するリスクを冒してまで、即時的な快楽に浸る方法自然科学や薬学、あるいは酒や香水の中から発見しようと奮起し続けてきた訳だ。それは人類が一挙に楽園を奪取する願望を表象しているかのようだ。そしてこの「恩寵」に対する飽くなき探究心こそが、人間内在する「無限の嗜好」の存在証明してしまっている。

悪の普遍性

このボードレールの鋭い観察の背景にあるのは、無論、善区別である。丁度17世紀ドイツバロック悲劇で念頭に置かれているように、の中で支配的な感情は悲哀に他ならない。あの悪魔根源的な三つの約束は、この悲哀を背景としたに由来する。その三つの約束とは、禁止されたものに対する自由の仮象であり、敬意を払うべき共同体に対する自立性の仮象であり、そしての空虚な深淵における無限性の仮象である。実際、これらの約束は精神的な約束である。それは、現世における永続的な対象喪失としての憂鬱気質の者たちを欺く悪魔の誘惑となる。しかしながら、ここにおいて現世の無常性と対を為し得るのは、地獄の快活さに他ならない。それは精神的なものの生が剥奪された死の世界である。傍らで横たわる死体、剥き出しの歯並びで笑顔を振り撒く髑髏に視点を移せば、地獄は物質の嘲笑によって活気付けられていることがわかる。この観点からバロック悲劇では、これらの約束とその裏切りが、ある時は専制君主の形態の中で、またある時は陰謀家の形態の中で、効果的に呈示されてきた。

バロックにおける途方も無い反芸術的な主観性は、まさにその主観的であることを通じて、聖書における神学的な本質と合流することになる。確かに「創世記」をはじめとする聖書では、が「知見(Wissen)」という概念によって導入されていた。かの蛇がアダムたちに与えた約束とは、善を識別するものである。しかしながら、創造の後史におけるに関しては、別様の認識が結実している。すなわち、が自身によって創造された世界を観たところ、それは甚だ善かったのである。故にこの世界に在るのは、善として認識できる対象のみである。についての知見には、全く対象が無い。

もし知見の対象喪失を埋め合わせることができるとすれば、それは、知ることの愉悦というよりは、善区別することの愉悦として、人間の内に生起するものとなるであろう。別の言い方をするならば、善についての知見は、既にそれを認識していた観察観察することで認識される。故に善の知見は、二次的な観察で成り立つ。一方でについての知見は、が先行する観察者ではないが故に、一次的な観察で成り立つ。善の観察観察観察であるのに対して、観察観察観察ではない。善とについての知見は、この観察差異によって、が創造した事物に対する極限の形式の両極となる。そしてこの善区別は、この観察観察観察を組み合わせることによって、盲点を暴露する。何故ならは、世界の全体を善として認識してしまったからだ。したがって、善区別にも、という先行する観察者はいないということになる。善区別は、対象無き世界の埋め合わせである。この区別もまた主観的な深淵に準拠する。善区別は、それ自体、についての知見と等価となる。

これを前提とすれば、善観察は、始まる前には既に観察となっている。観察者は、観察の内部に<善観察>を包含することによって、自らの観察を合理化することを可能にする。麻薬人間の関連は、この合理性を前提とした上で検証されなければならない。自然と触れ合う人間に向けて、不意に「恩寵」の美的瞬間が啓示の如く舞い降りてくる。その瞬間、その人間楽園を認識する。ところが、この「恩寵」は制御不可能なのであった。長らく人類は、この現象に再現性を見出せなかった。人類は、超自然的な超高感度の神経状態が如何にして可能になるのかを究明できずにいたのだ。にも拘らず、楽園への嗜好は止まらない。そこで人類は、もはや手段を選んではいられなくなる。

かくして「無限の嗜好」は、の領域への誘惑と化す。「人工の理想」としての『人工楽園』は、このの領域で展開されている。確かにボードレールも認めるように、人間無限を認識する存在であるという点では偉大な存在である。しばしば近代教育学の進歩史観が物語ってきたように、あらゆる人間には善性が保有されているのだという空想に浸るのもくないのかもしれない。しかし、の領域へと踏み出す理由となるのも、この無限と善性の認識可能性なのだ。誰もがアルコールや薬物に誘惑され易いのは、誰もが「恩寵」の超自然状態に到達し得るためである。「恩寵」は、確かに善性を象徴するのかもしれない。だがここでの善区別は、の内部へと再導入(re-entry)される。こうしては、自己論理的(autologisch)に展開されることにより、自ら普遍性を放ち出す。

問題解決策:寓意

自然の全体を超自然的な関心で覆うことを麻薬無しに実践しようとするボードレールが、その一方で悪魔主義的な詩人であるのは、何ら矛盾の無いことである。と言うのもボードレールが前提としている自然とは、そもそもにおいてそのものであるためだ。

実際、「恩寵」に至る手段についてもそうであるように、自然はほとんど何も我々に教えてくれはしない。それどころか自然は、人間に対して、睡眠や飲食を、あるいは外界の敵対的な要因に対して身を守ることを有無を言わさず強いる存在なのである。こうして自然環境の中での生を強制された人間は、同類を殺害し、監禁し、拷問し、剰え食べることすら強制されてしまう。生存欲求を超えて快楽や贅沢の次元にまで入り込めば、自然はもはや犯しか推奨しないのだ。

近代性のトポス

この関連から19世紀を生きたボードレールは、近代社会に蔓延る進歩史観を痛烈に批判している。歴史の均質で連続的な進歩を盲信する発想は、核心において、原否定(la négation du péché originel) がもたらした無分別に関わる。右肩上がりに段階を踏んで発達していくという進歩史観は、始まりの「罪の文脈(der Schuldzusammenhang des Lebendigen)」を隠蔽すると共に、偽りの永遠性を顕在化させようとする。だがボードレールは、この原否定が、人類の犯した二度目のであるという。もともと善区別は、そもそもにおいて差異の統一というパラドックスを生み出している。による善区別区別への再導入は、このパラドックス展開してきたのであった。しかし進歩史観は、このパラドックス脱パラドックス化形式として導入されていながら、パラドックスを十分には解消し切れていない。原否定が、それ自体としてになるというパラドックスを派生させているためである。

そこでボードレールは、進歩概念の定義を修正しようとする。進歩の法則が実在するためには、全人類がこの法則を欲しなければならない。全人類が個々に進歩することを努める時、初めて人類は進歩することになるのである。従来の進歩史観が未来志向的であるとすれば、ボードレールの進歩概念は過去志向的である。それは原を隠蔽しようとするのではなく、積極的に暴露することを重視するのである。

このボードレール固有の進歩概念の背景にあるのは、隠蔽された不都合さや秘められたを露呈させようとする意志である。それは「近代性(la modernité)」への意志に他ならない。17世紀ドイツバロック悲劇が「儚さ」のトポスに駆動されていたのと丁度同じように、19世紀のボードレールは近代性のトポスに駆動されていた。バロック芸術意味論である無常性と同様に、近代性とは、一時的なもので、移ろい易く、偶発的なものである。特徴的なのは、ボードレールにとっての近代性が、「原」以前の、と言うよりも有史以前の「太古の形象(den archaischen Bildern)」と照応しているということだ。この照応こそが、ボードレールにおける唯一の構成的な歴史観となっている。

「原」以前に位置する「恩寵」が認識されるとすれば、それは太古の形象に対する認識となる。逆に言えば、近代性とは常に失楽園の状態でもある。だからこそ悪魔主義的な詩人は憂鬱な世界観を直視する。そしてこの関連から、17世紀ドイツバロック悲劇の作家たちが永続的な対象喪失ゆえの憂鬱気質を逆手に取ったのと同じように、ボードレールもまた、この全て儚き近代性を逆手に取ろうとする。そうして結実したのが、他ならぬ「寓意(Allegorie)」である。

寓意の機能

ヴァルター・ベンヤミンが指摘しているように、憂鬱気質によって養われたボードレールの才能とは、寓意の才能である。実際、この才能があったからこそ、ボードレールは有史以来の如何なる神話の深淵にも陥らずに済んだ。寓意神話に対する解毒剤になるとベンヤミンが述べたのは、この関連においてである。有史以来の神話は、「原」以後の「罪の文脈」を形成する。それは、過去の前史における起源としての「原」から未来の後史における「贖」としての死までの過程に、「掟(Gesetz)」という形式人間を支配する因果論的な基本構造構成する。これに対して、寓意機能は、元来正常であると自明視されている社会構造の秩序や調和が実際には破局で満ち溢れているという真実を暴露することで、日常を謳歌している周囲の者たちにショック効果を与えることである。

寓意には、まず対象を区別して引き裂くという概念破壊的な効果がある。寓意に曝された対象は、「断片(Fragment)」として散乱することになる。そして更に寓意は、破壊した概念の「断片」を偶発的に再結合させる効果も併せ持っている。寓意家にとっては、あらゆる意味連関が、常に別のあり方でもあり得る意味連関に取って代わり得るのである。寓意は、活き活きとした有機物の形象否定すると共に、死骸の形象を肯定する。寓意は、生成よりも消滅を優先する。そして寓意は、建設的であるというよりはむしろ破壊的である。寓意は、有機的な関連性を「断片」へと切断すると共に、それを無機物として再結合していく。

寓意家の沈思

ベンヤミンが指摘しているように、寓意的な形象についての想像と、ハシッシの陶酔の中の思考の自由な形象想像の間には、密接な関連性がある。後者においては、様々な創造の守護が関与している。その一つは憂鬱気質の沈思という守護であり、もう一つはアリエルの守護である。

だが寓意神秘主義的であるという訳ではない。確かに寓意には数多のが含まれている。だがそこには、如何なる秘も含まれていないのである。とは、互いに合致し合う他の断片との組み合わせによって、一つの全体を構成しているような一つの断片である。一方で秘は、遥か昔から「ヴェール(Schleier)」の形象で語られてきた。それは「遠さ」であることから、「アウラ(Aura)」と関連付いている。

「第一に、真のアウラはあらゆる事物に現われる。皆が想像しているように、それは特定の事物にだけ現われるのではない。第二に、アウラは、アウラであることを示す、事物が採り得るあらゆる運動に連れて完全に変更される。第三に、決して真のアウラは、通俗的な神秘主義の書物が図解して描写しているように、形式的な心霊術的魔術ではない。」
Benjamin, Walter (1985) “Protokolle zu Drogenversuchen,” In: Gesammelte Schriften Bd.6, Frankfurt am Main., 1991, S.558–618. 引用はS.588より。

秘と無縁の寓意は、したがってアウラとも無縁である。精確に言い換えれば、寓意家は事物を脱アウラ化した上で、その「断片」を手中に収めようとする。寓意家は手元の「断片」を注視することで、深い沈思に浸る。そうした寓意家が沈思によって事物を想起する時、その寓意的な形象は死せる知の散乱した集積物を自在に操ることを可能にする。この寓意的な形象想起において人間の知は、明瞭な意味での継ぎ接ぎ細工であって、恣意的に切断されている。それは諸々の断片から一つの「ジグソーパズル」が組み立てられる様に類似している。たとえ寓意家が沈思を嫌していても、ジグソーパズルを解くかのようなその身振りこそが、沈思を物語っているのである。この身振りは、とりわけ寓意家の典型的な身振りとなっている。

寓意家の憂鬱

ボードレールの寓意家としての才能は、麻薬美学展開する上でも重要な戦力となっている。麻薬を賛美することができなかったボードレールには、日常的な自然の中にこそ潜在化している美的瞬間の可能性探究することが重要な取り組みとなっていたためである。尤もベンヤミンが指摘しているように、麻薬美学展開するまでもなく、ボードレールにとっては寓意的な経験が初めからあったと考えられる。何故ならボードレールは既に予め下準備の整った世界へと参入したからである。と言うのも既にエドガー・アラン・ポーの作品が、終焉を迎え、死後硬直になり始めた世界の経験を記録に留めているからである。この世界が、ボードレールの仕事の前提条件であると共に、正当化の要因にもなっている。つまりボードレールは、ポーが作り上げた舞台の中で、近代に形態を付与したのである。

後にベンヤミンはこの近代の形態から根源史的なものを判読することができた。寓意は、19世紀の人間たちの経験から商品が造り上げる全ての代理表象となることで、近代の歴史経験メディアとなる。それは貨幣のようなメディアだ。つまり寓意を包括する概念は、商品物神崇拝という目を晦ませるが視覚化した概念なのである。ベンヤミンはこの関連を<寓意についての寓意>という自己論理的な推論によって記述している。旧いヨーロッパの伝統的な歴史意味論の宝庫から、ボードレールには近代を歩む孤独な苦難の道程のために一枚の硬貨が渡される。その硬貨の表側には骸骨が刻まれており、裏側にはメランコリアが刻まれている。この硬貨こそが寓意なのである。

問題解決策:世俗的啓示

ド・クインシーから多大な影響を受けたボードレールの考察は、後にベンヤミンの人間学的唯物論美学に対して多大な影響を及ぼすことになった。ベンヤミンは直接自らの身体にハシッシを注入することによって、その陶酔体験叙述しようとしていた。その実験は、遺された手記を確認する限りでは、1920年代から1930年代の間、友人のベルリンの医師たちや盟友エルンスト・ブロッホの監視下で行なわれている。手記の内容は、『パサージュ論』を彷彿とさせる不連続で断片的な叙述に満ちている。細部の断片を見極めるベンヤミンの批評形式と同様に、麻薬陶酔体験は驚くべき諸発見を可能にしていた。その発見への衝動は、事物への認識衝動である。彼は実験の最中に、丁度葡萄酒が葡萄から造られているように、事物から直接事柄を記述しようとしていた。それは純粋に濾過された知的収穫物への衝動であったのだ。

ベンヤミンによれば、麻薬は<その場の光景>と<寓意的な意味>を交差させたような形象を引き起こす。眼前の光景と寓意的な意味の重ね合わせは、外見上の類似性によって把握される。通常の意識状態であれば、言わば常識や固定観念がその関連付けを制約し得る。だが陶酔状態の場合は、こうした歯止めが利かない。陶酔の世界では、関連性が無限拡張していく。時には相互に矛盾する相反的な形象同士が互いに指し示し合うこともあるという。陶酔状態に浸る者は、それ故に際限の無い形象の洪水を目の当たりにする。ただしそれは自由連想的な関連付けと言う訳ではなく、形象同士が相互に浸透し合うことで関連付いているのだという。

尤もベンヤミンは、麻薬陶酔に伴う「孤独(Einsamkeit)」という否定的側面についても指摘していた。実際ベンヤミンは端から麻薬陶酔による現実逃避には関心を持っていなかった。むしろ彼の眼中にあったのは唯物論的弁証法に基づいた覚醒と匹敵する代替案である美的経験や啓示であった。より厳密に言い換えれば、麻薬陶酔は「世俗的啓示(profane Erleuchtung)」に親和した陶酔作用を実現する。世俗的啓示とは、人間学的唯物論における霊感である。この霊感は、決して超越的な理想や夢に望みを託す宗教的な啓示なのではない。それはむしろこの内在的な世界で習熟されている事物を援用した啓示なのである。

だが麻薬陶酔は百発百中ではない。世俗的啓示は儚くも不発に終わる場合がある。そうした失敗から、麻薬陶酔者は、自身が箱の中に閉じ込められたかのように思うかもしれない。だが自らが孤独の部屋に住んでいるという自己形象は、確かに当の麻薬陶酔者を脅かしながらも、実際には当人が自ら創造した形象でもある。そこでベンヤミンは、麻薬陶酔による孤独の形象がそれ自体「濾過器(Filter)」としても機能すると考えた。孤独の形象は、まさに他の事物から独立して凝固することで、恰も酵母や原料粕などのような濁りを葡萄酒から取り除くかのように、形象の洪水を間引く形式となるのだ。

「翌日ノートに記したことは、その時々の記録以上のものであった。麻薬陶酔の記憶は、夜のうちに、日常的な体験に対して、美しいプリズム上の縁取り(schönen prismatischen Rändern)によって際立つ。そうすることで、それは通常よりも記念すべきものとなっていた。言わば、一度収縮することで、花形を形成したのであった」。
Benjamin, Walter (1985) “Protokolle zu Drogenversuchen,” In: Gesammelte Schriften Bd.6, Frankfurt am Main., 1991, S.558–618. 引用はS.584より。

孤独の形象が濾過器として機能するという発見、次いで美しいプリズム上の縁取りという形式の発見が可能となったのは、この手記が表す通り、翌日である。そして、美しいプリズム上の縁取りは日常体験に対して際立つとも述べられている。このことが言い表しているのは、麻薬陶酔体験の「波」である。麻薬陶酔は、日常体験的な孤独という否定的な側面と記念日であるかのような花形の体験という肯定的な側面とが「リズム」を奏でるかのように生起し合うのだ。日常体験の沈殿物としての形象を抽出するには、この「波」の「リズム」に身を委ねなければならない。この関連からベンヤミンは、否定的な側面として「孤独」を描写する一方で、肯定的な側面としては「幸福(Glück)」を取り上げている。そしてこの両極の「リズム」を、彼は「アリアドネの糸(Ariadne-Faden)」の比喩によって叙述している。

「陶酔の幸福(Rauschglücks)のに迫るには、今一度アリアドネの糸(Ariadne-Faden)について考える必要がある。糸玉を解していくという単純な行為の、何という悦び(Lust)であろうか。この悦びは制作の悦びと同様に、陶酔(Rauschlust)にも関連する。我々は前進する。しかし、進んで行く洞窟の中で発見するのは、その曲がり角だけではない。この洞窟の探索の悦び(Entdekkerglück)を、糸玉が解れていくリズミカルな至福(rhythmischen Seligkeit)と共に味わうのである。我々が解していく巧みに巻かれた糸玉による確実性――これは制作、少なからず散文の制作における至福ではないであろうか。ハシッシの陶酔の中に位置する我々は散文の本質の最高度の享受者である。」
Benjamin, Walter (1985) “Protokolle zu Drogenversuchen,” In: Gesammelte Schriften Bd.6, Frankfurt am Main., 1991, S.558–618. 引用はS.584より。

ハシッシの吸引は、形象の洪水の中の探索を可能にする。それは、一方では孤独に耐え忍びながらも、他方では夢を解しを解く至福への没入意味する。ベンヤミンの人間学的唯物論において、この「リズム」こそが、世俗的啓示の道標として機能する。

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