量子力学、統計力学、熱力学における天才物理学者たちの神学的な形象について

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派生問題:<存在X>の区別、あるいは「マクスウェルの悪魔」

成功とは無縁の人生を送っていたボルツマンの晩年は、恐らく後世の影響範囲における名声とは著しい対照を成している。彼はマクロ事象に関する可逆的な世界観を前提としたニュートン力学ミクロ事象に関する不可逆的な世界観を前提とした熱力学とを統合する運命には無かった。確かにボルツマンらが提案していた「熱力学の力学的なモデル」も、力学熱力学理論的な接続可能性指し示している。だがそれらは、位相空間に関するギブスの記述によく表れているように、しばしば論理に先行する直観的な洞察によって導入されていた。このことも相まって、彼の後史においても、双方の統合は中々進捗しなかったのである。

しかしボルツマンをその受難の歴史へと導いたのは、ニュートン力学信仰していた当時の物理学者たちではない。確かにボルツマンは、実証性を強調する哲学的な立場からも痛烈な批判を浴びている。だが彼の後史を踏まえるなら、そうした同時代の批判者たちの存在意義は瑣末な程度に留まる。むしろ注目すべきなのは、このボルツマンの受難の歴史に潜む黒幕であろう。その黒幕とは、1867年にマクスウェルが思い付いた、あの戯好きな悪魔である。

いわゆる「マクスウェルの悪魔(Maxwell’s demon)」は、ボルツマンが克服できなかった難問に光を当てることで、それを類推的に説明している神学的な概念である。前期量子力学歴史に観点を移して観るなら、マクロミクロ区別を導入したボルツマンの洞察は正しかったことがわかる。しかしそれでもまだ、この悪魔は生存し続けている。

「マクスウェルの悪魔は生き永らえている。120年以上の間不確実な生活を送り、少なからず二度の死の宣告を受けた訳だが、その後もこの奇妙なキャラクターは、それまで以上に活き活きとしているように思える。」
Leff, H., & Rex, A. F. (2002). Maxwell’s Demon 2 Entropy, Classical and Quantum Information, Computing. CRC Press., p2.

マクスウェルの悪魔」は、単純なアイディアであった。しかしそれは、熱力学統計力学情報理論サイバネティクス計算の限界、生物の科学、そして科学の歴史と哲学など、様々な分野の専門家たちを悩ませてきた。エントロピーボルツマン定数と接点を持つクロード・エルウッド・シャノンの情報理論や、ギブス流の統計力学から多大な影響を受けているウィナーのサイバネティクスもまた、例外ではない。

「マクスウェルの悪魔によって提起された疑問に関しては、それに返答するよりも、それを斥ける方が簡単である。こうした存在あるいは構造の可能性を否定することほど容易なことは無い。実際、厳密な意味では、マクスウェルの悪魔は、平衡状態にある系には決して存在しないことがわかっている。しかし、最初からこのことを受け入れてしまい、説明(demonstrate)しようとしないのならば、エントロピーや、物理学的、化学的、生物学的に可能な系に関して学ぶ好機を逃すことになるだろう。」
Wiener, N. (1961). Cybernetics or Control and Communication in the Animal and the Machine (Vol. 25). MIT press., p57.

マクスウェルの悪魔」は単純なアイディアである。内部が二つの部屋AとBに区別された容器に気体が含まれている。AとBを仕切る壁には穴が空いている。その開閉には何の仕事も必要としない。それは理想の引き戸となる。

ここでマクスウェルは、ある有限存在X想像する。その存在Xは、一目見ただけで、全ての分子の進む方向と速度知覚する。だがその存在Xは、重さを持った引き戸を開閉すること以外は何もできない。そしてこの存在Xは、左側の部屋の比較的高速な分子が引き戸に向かって来る度に、引き戸を開ける。比較的低速な分子が向かってきた場合には、閉めたままにしておく。これにより、高速の分子だけがAの部屋からBの部屋へと移行していくようにする。逆に、低速の分子はBの部屋からAの部屋に移行することになる。

やがてAの部屋には比較的低速の分子が、Bの部屋には比較的高速の分子が、それぞれ溜まっていく。AにせよBにせよ、その中にある分子の数に変わりはない。だがそれぞれの平均速度は変わっているはずである。そして、Aの温度は下がり、Bの温度は上がっているはずだ。かくして、<差異>が生じる。存在Xは、区別を導入しているという訳だ。

しかし、それにも拘らず、それまで何の仕事も為されていない。ただ、鋭い観察力を有した手先の器用な存在Xの知性が用いられただけなのである。この洞察からマクスウェルは、熱力学第二法則盲点を発見した。この知性を持った存在Xは、何の仕事もせずに、熱を生み出しているのである。

もし熱が物質の有限の部分による運動であるとするならば、尚且つ、もしそうした物質の部分の一つ一つを扱えるような道具を利用できるのならば、異なる部分の異なる運動を利用することで、温度に<差異>の無い一つの系から、異なる温度の複数の系を生み出せることになる。言い換えればそれは、複数の運動状態が異なる系を復元できるということである。しかしながら、我々人間にはそれができない。我々はこの存在Xほど利巧ではないためである。

この存在X、すなわち「マクスウェルの悪魔」が叙述しているのは、熱力学第二法則統計的にのみ妥当するということである。この熱力学の法則が適用され得るのは、我々においてのみである。より利巧な知性を有した小さな悪魔は、この法則を巧妙に回避し得るのである。我々の知性においては、エントロピーは増大し続け、利用可能なエネルギーは常に減少していく。しかし、我々が悪魔的に利巧であるのならば、この法則の裏をかき、永久機関すら設計できてしまうことになる。

かくしてマクスウェルは、ニュートンの運動方程式によって描写され得る個々の分子の乱雑に動き回る状態と、熱力学の熱的死へと至る物質の有限部分の状態とを区別した。まさにこの区別の導入こそが、ボルツマンの理論盲点を突くことになる。彼はこの難問を克服できないまま、自死へと至ることになった。

マクスウェルの悪魔」が暗示しているのは、あらゆる観察に伴う盲点の様相に他ならない。それは、<同一性>と<差異性>の<差異>に向けられている。もし二種類の気体が入った瓶があるなら、その二つを混合することによって得られる発見がある。混合の過程で、次第に双方の<差異>は消失する。この過程から何らかの仕事を抽出することは可能だ。だがもし気体が同一の種類の気体であるとするならば、それら二つを混合したところで、何も得られない。

この洞察は直感的にも直ぐ理解できる。しかし、この二つの気体が同一であるという認識は、如何なる既知の反応によっても、双方を区別できないということである。だとすると、これら二つの気体の間に差異が潜在化している可能性否定できない。将来的にその差異が発見される可能性は皆無ではないのだ。そして、可逆的な過程によって双方を分離する方法が発見される可能性もまた、皆無ではない。したがって、いずれ我々がより利巧になることで、これまで発見できなかった差異知覚できるようになったとしても、何も不思議は無い。その結果、それまでは利用できなかったエネルギーが利用可能になったとしても、不自然は無い。

これを前提とすれば、エネルギーの散逸とは、我々の<差異>に対する知識の度合いに依存していることになる。マクスウェルも述べているように、利用可能なエネルギーとは、望ましい経路ならばどのような形式としても抽出できるエネルギー意味する。散逸したエネルギーとは、抽出することも、意のままにその形式を操ることも儘ならないエネルギー意味する。散逸したエネルギーは、熱という分子の混沌(confusion)とした運動状態の中にある。しかしながら、この場合の混沌とは、我々が常々導入し続けている区別意味論と同様に、物質自体の属性なのではなく、それを認識する観察者に依存する。マクスウェルはこのことを、親と子供区別、右と左の区別、上部と下部の区別、内部と外部の区別マクロミクロ区別などのような、「相関名辞(correlative term)」に喩えている。

「相関名辞と同じように、ここでいう混沌とは、物質自体の属性ではなく、それを知覚する心との相関によって規定される。備忘録は、綺麗に記述されているのなら、字の読めない人には決して混沌としているようには視えない。備忘録の持ち主も、内容を全て理解しているのだから、やはりそれを混沌としているとは見做さない。だが、誰であれ、それ以外の字の読める人には、全く訳のわからないものに視える。これと同じように、散逸したエネルギーという概念もまた、自然界のエネルギーを全く利用できない者や、如何なる分子もその動きを遡及して正しい瞬間に捕捉し得るような存在にとっては、生起しないはずなのだ。双方の中間に位置して、巧く利用できるエネルギーもあれば、指の間を擦り抜けてしまうようなエネルギーもあるような者においてのみ、エネルギーは抽出できる状態から散逸した状態へと必然的に移行していくように見える。」
Maxwell, J. C. (1890). The Scientific Papers of James Clerk Maxwell.. (Vol. 2). University Press., p646.

以上のように、「マクスウェルの悪魔」が叙述しているのは、熱力学第二法則が回避できるということである。それは、我々観察者が利巧に区別を導入できさえすれば、永久機関すら実現可能であることを仄めかしている。だが、物理学の中では自明のことながら、永久機関は実現していない。だとすると、「マクスウェルの悪魔」の叙述に何らかの偽が含まれているということになる。

問題解決策:情報を得ることのコスト

初めにこの悪魔を葬り去るために名乗り出たのは、物理学者レオ・シラードである。シラードは、1929年、熱力学第二法則を「マクスウェルの悪魔」から救済するために、情報を得ることのコストを取り上げた。

シラードによれば、情報を得ることのコストという概念は、熱力学第二法則を「救済」する上で有用となる。もし「マクスウェルの悪魔」ほどの利巧な存在Xを仮定するのなら、その存在Xは多大なエネルギーを変換しなければならない。その結果、大量のエントロピーが派生する。このエントロピーが、知識を得ることから得られる利点が相殺される。

シラードは、「マクスウェルの悪魔」が潜む状況でも熱力学第二法則が妥当することを示すために、いわゆる「シラードエンジン(Szilard engine)」を考案した。そして彼は、このエンジンにおける分子の動きに対し、「測定期間(period of measurement)」と「測定利用期間(period of utilization of the measurement)」の区別を導入している。測定期間は、ピストンがシリンダーの中間に挿入されて、分子が上半分の領域にも下半分の領域にも出られなくなった時を意味する。もし座標の軸を明示的に選択するなら、分子のx座標は、x > 0 か x < 0 の区間に制約される。

一方、測定利用期間は、エントロピーが減少する期間を意味する。それは、ピストンが上げ下げしている間に対応する。この期間における分子のx座標は確実に、x > 0 または x < 0の制約を受けない。むしろ、もし分子が測定期間中にシリンダーの上半分の領域に位置していたのなら、例えば、x > 0 の時、エネルギーを伝達するとなるなら、その分子はシリンダーの下半分の下がる動作において弾んでいるはずである。つまり、x座標の変数にはx < 0の区間の値が代入されなければならない。逆に、レバーが全期間に渡って右側に倒されているのなら、それは分子が下がる動作に対応する。このレバーの状態をy軸に取るのなら、右に倒されているレバーの座標は、y = 1 と表現できる。一方、左側にレバーが倒されている場合は、y = -1 となる。

測定期間において、x > 0 に対応するのは y = 1である。その後、yはxが別の区間 x < 0 になったとしても、1であり続ける。一方、測定利用期間では、このxとyのパラメタの組み合わせは消失することになる。一般化して言えば、もし所与の瞬間にyの値がxに直接的に対応するのなら、パラメタyはパラメタxを「測定する(measures)」。これらのパラメタは確率の規則に準じている。測定処理は、知性を持った「マクスウェルの悪魔」の介入による影響から、エントロピーの減少を基礎付ける。

シラードが述べるように、合理的に推論するなら、根本的に測定処理は、平均エントロピーの生成に関する確実な定義と関連する。そしてこのことが、熱力学第二法則を呼び戻すことになる。勿論、測定によって生成されたエントロピーの量は常に、この基礎的な量よりも大きいだろう。小さくなるというのは考えられない。正確に言い換えれば、我々はここで二つのエントロピーの値を区別しなければならなくなる。測定の期間に、yの値が1になると推論される時に生成されるエントロピーを$$S_1$$とするなら、$$S_2$$は同条件で逆にyの値が-1になる時に生成されるエントロピーである。この二つのエントロピー区別したからといって、これらの情報を予期することはできない。だが、「測定」によって生成されたエントロピーの量が「もしも」利用することによる影響によって減少するとすれば、これら二つのエントロピーの関連は、次のように、明快になる。

$$e^{-\frac{S_1}{k_B}} + e^{-\frac{S_2}{k_B}} \leqq 1$$

この定式が指し示すように、一方のエントロピーが増大すれば、他方のエントロピーは減少する。それは、一方の状態が理解可能であるのならば、それだけ他方の状態は理解困難になるということである。

もし双方のエントロピーが等価であるのならば、各エントロピーは次のようになる。

$$S_1 = S_2 = k \log 2$$

すると、平均エントロピーの値は、次のように置くことができる。

$$\bar{S} = k \log 2$$

この場合、等温膨張によって、エントロピーの減少は次のようになる。

$$ – S_1 = -k \log \frac{V_1}{V_1 + V_2}$$
$$ – S_2 = -k \log \frac{V_2}{V_1 + V_2}$$

ここで、$$V_1, V_2$$はそれぞれ、ピストンが挿入された時のそれぞれの気体の体積となる。エントロピーの減少は、等温膨張の期間に受信した熱の量と当の熱の受信機の温度の比に等しくなる。これら二つの体積の比に対応する周波数の比を$$w_1, w_2$$で表すとすれば、生成されたエントロピーの平均値は、以下の通りとなる。

$$\bar{s} = w_1 \cdot (+S_1) + w_2 \cdot (+S_2) = \frac{V_1}{V_1 + V_2}k \log \frac{V_2}{V_1 + V_2} + \frac{V_2}{V_1 + V_2} k \log \frac{V_1}{V_1 + V_2}$$

ここで、

$$\frac{V_1}{V_1 + V_2}k \log \frac{V_1}{V_1 + V_2} + \frac{V_2}{V_1 + V_2} k \log \frac{V_2}{V_1 + V_2} + k \log 2 \geqq 0$$

したがって、

$$\bar{S} + \bar{s} \geqq 0$$

$$W_1$$によって、アトランダムに選択された分子の状態の確率を指定し、$$w_2$$によって、xがその区間外に位置する確率を指定する。この時、$$w_1 + w_2 = 1$$となる。ここでシラードは、xの値とは独立したいずれの事象においても、+1と-1を超過するようなパラメタyの分布を想定する。そして彼は、「マクスウェルの悪魔」による介入想像する。この悪魔は、それに対応するxがある瞬間において選択された区間に位置するような全ての「分子」に関連するyに1を代入し、それ以外の「分子」には-1を代入していくような存在である。

温度の増減のために、どの「分子」においても、パラメタxは事前に指定した区間を逸脱する。あるいは、もしその「分子」がxとの関連から化学反応している単一分子であるなら、パラメタyはその値を当面1のままになる。つまりその「分子」は、パラメタyの値を参照することによって、xがもともと事前に割り当てられていた区間にあったという、後続の過程の全体を「想起(remembers)」することができる。ここから「記憶(memory)」の作動を仮定するのは容易なことである。悪魔による介入の後に、我々はピストンを動かす。すると、我々は仕事をすることなしに、分子を二種類に区別することになる。この二種類の分子への区別で設定される境界は、xにおける変更(modification)において可変である。双方の比は尚も次のようになる。

$$w_1 : w_2$$

言い換えれば、xにおける変更は、この比率を保持しながら実行される。仮に熱平衡状態が双方の領域で独立して、なおかつ体積と温度が一定である場合には、系のエントロピーは確かに増加する。全体の放熱は0になるため、xの変更はまだこの比率を維持している。だがもし双方の領域で可逆的な方法熱平衡状態が達成されると、世界の残余部分のエントロピーの量は同じ量だけ低下することになる。したがって、エントロピーは負の値によって増加する。そして、分子ごとに増加するエントロピーの値は、正確に次のようになる。

$$\bar{s} = k (w_1 \log w_1 + w_2 \log w_2)$$

二つの「xの変更」に対応させなければならないエントロピーの定数値は、ここでは発生していない。何故なら、その過程において分子の総数は一定であるためだ。今や、二種類の気体のそれぞれの体積を元に戻すには、ピストンを元に戻すという単純な動作による仕事でコストを支払うしかない。さもなければ、分子の体積は復元しない。そして二つに区別されたそれぞれの領域では、分子のx座標は、事前に割り当てられた区間からは逸脱している。エントロピーの減少が計算可能になるのには、こうした背景がある。しかしこのエントロピーの減少という事象それ自体は、熱力学第二法則矛盾しない。

したがってシラードは、熱力学第二法則が侵されないことを願う物理学者の観点から、次のように結論付ける。すなわち、yとxとを組み合わせ、yによってxを測定するという悪魔による介入は、エントロピーの生成を付随させるはずなのである。この組み合わせを達成するための明確な方法が適用され、不可避的に生成されるエントロピーの量が$$S_1, S_2$$によって構成されているとするなら、$$S_1$$はyが1の値になるときに生起するエントロピーの平均増加量に対応する。一方$$S_2$$はyが-1の値になる場合のエントロピーの平均増加量となる。これを前提とすれば、エントロピーの増減量においては、次の方程式が得られる。

$$w_1S_1 + w_2S_2 = \bar{S}$$

もし熱力学第二法則を強引に維持するのなら、このエントロピーの量は、エントロピーの減少量となる$$\bar{s}$$よりも大きくなければならない。さもなくば、エントロピーの増大の法則が成り立たなくなる。したがって、

$$\bar{S} + \bar{s} \geqq 0$$

$$w_1S_1 + w_2S_2 + k(w_1 \log w_1 + w_2 \log w_2) \geqq 0$$

マクスウェルの悪魔」は、一つ一つの分子の状態に注意を向けて、閉じた引き戸の傍でタイミングを見計らうことにより、確かに何らかの利点を得てはいる。だがそれがどのような利益であっても、コストの方が高く付く。二つの部屋の間の引き戸をタイミングよく開閉できるためには、全ての分子を計算する必要がある。それによって、全ての分子の状態を把握しておかなければならない。そのためのコストが、高く付くのである。

マクスウェルの神学

したがって、計算アルゴリズムは一定のエントロピーを生み出す。それにより、熱力学第二法則はやはり成立することになる。科学ジャーナリストのトール・ノーレットランダーシュも評価しているように、この情報を得ることのコストという発想は独創的である。歴史的にこの発想は、コンピュータ科学に基づく情報理論や分子生物学をはじめとした20世紀の科学に決定的な影響を与えた。物理学者たちは、これにより「マクスウェルの悪魔」が退治されたと喜んだ。「マクスウェルの悪魔」が通用するのは、この情報を得ることのコストを無視した場合に限られるのである。

しかしながら、これほど単純な発想で「マクスウェルの悪魔」を打破できるのならば、何故この存在Xを考案したマクスウェル自身は、この発想に気付けなかったのかがわからなくなる。エドワード・E・ドーブは、この疑問に対して明快に回答している。それは、あの「マクスウェルの悪魔」が、マクスウェル自身の神学によって生み出されているためである。マクスウェルの神学は、ニュートンに由来する。その神学は、近代物理学との関わりを有していながら、完全に非人間的で超越的な方法によって、あらゆるものを観察する全知全能の主題としている。

シラードは、まさにこの「マクスウェルの悪魔」に潜む神学脱魔術化したのだ。「マクスウェルの悪魔」として示される存在Xは、人間のような儚い存在なのではなかった。存在X形態なのである。そしてこの悪魔は、と同様に、視えないものを視ることができ、聴こえないものを聴くことができる。この悪魔は、全知全能のの如く、全くエネルギーを消費することなく知識を得ることができる。そうなると「マクスウェルの悪魔」を脱魔術化したシラードの記述は、この存在Xを単なる人間のように再記述する試みであることになる。我々人間は、とは異なり、情報を得ることのコストを支払っているからだ。

情報理論の意味処理規則としてのエントロピー

かくしてシラードの分析は、後のコンピュータ科学や情報理論に対する強烈な歴史意味論展開する結果を招いた。シラードの分析は、知識を物質界の一部として観察する意味論を提供しているのである。この意味処理規則に従えば、情報観察とはコストを支払うことで参照することを意味する。そして計算とは物質的な行為であり、感覚作用とは代謝であり、知ることとは仕事を意味する。この意味論は、思考についての熱力学であって、精神による精神それ自体の物質性に関する記述形式なのである。

実際、その後のシャノンによる情報理論展開は、情報量とエントロピー形式的な接続可能性を保証する内容になっている。

$$E = k_BT^2(\frac{\partial \ln Z}{\partial T})_{V, N}$$と$$S = -(\frac{\partial A}{\partial T})_{V, N} = k_B \ln Z + k_B T(\frac{\partial \ln Z}{\partial T})_{V, N}$$より、

$$S = k_B\frac{\sum_{i}^{}e^{-\frac{E_i}{k_BT}}}{Z} \ln Z + \frac{1}{ZT}\sum_i^{}E_ie^{-\frac{E_i}{k_BT}}$$

$$ = -k_B\sum_{i}^{} \{ \frac{e^{-\frac{E_i}{K_BT}}}{Z}(-\frac{E_i}{K_BT}-\ln Z) \}$$

$$P(E_i) = \frac{e^{-\beta E_i}}{\sum_{i}^{}e^{-\beta E_i}} = \frac{e^{-\frac{E_i}{K_BT}}}{\sum_{i}^{}e^{-\frac{E_i}{k_BT}}} = \frac{e^{-\frac{E_i}{k_BT}}}{Z}$$より、

$$\ln (\frac{e^{-\frac{E_i}{k_BT}}}{Z}) = \ln P(E_i) = \ln P_i$$

故に$$S = -k_B\sum_{i}^{}P_i \ln P_i$$

ここからボルツマン定数を除けば、シャノンの情報量の定義が得られる。

この観点を背景とした上で、シャノンをはじめとする数学者たちは、エントロピーを無秩序性の度合いを示す情報の尺度として転用するに至った。この情報理論の視点に立つなら、エントロピーが高い出来事は複雑怪奇な無秩序であるかのように思える。エントロピーの高さは情報量の高さに対応している。いわゆる「ノイズからの秩序」を可能にするためには、この膨大な情報量を低減させる必要がある。

秩序化に有用となる情報とは、情報の全体量ではない。秩序を形成させるには、まず不要な情報を捨象する必要がある。そのための基準となるのは、情報の背景にある文脈だ。だがそうした文脈それ自体もまた情報の一種である。文脈という情報は、実際に秩序そのものが形成される以前からある。つまり実際に我々が捨象する情報を選択しようとしている時、文脈それ自体の情報量は低減されていない場合もある訳だ。だとすると我々は、秩序を見出すことのできない基準を手掛かりとして、情報の取捨選択を敢行していることになる。

「結局のところ、コミュニケーション理論における情報がメッセージを構造化する上での選択の自由の量(the amount of freedom of choice)と関連していることを念頭に置くなら、情報がエントロピーによって測定されるというのは自然なことである。」
Shannon, Claude E., Weaver, Warren. (1964) The mathematical theory of communication, The university of illinois press urbana., p13.

問題解決策:情報を忘却することのコスト

しかしノーレットランダーシュも注意を促しているように、シラードは、「マクスウェルの悪魔」を葬り去ったとは述べていない。彼が目指したのは存在Xを退治することではなく、熱力学第二法則救済することである。計算アルゴリズムにおいては、一定のエントロピーを生み出さざるを得ない。つまり既存のエネルギーの一定量を利用できなくさせる。彼はそう想定しただけである。そしてその後に、生み出されたエントロピーの量は、「マクスウェルの悪魔」が自身の知識を用いて行なう観察を通じて得られるエネルギーに、多少なりとも匹敵することを示している。シラードの記述はあくまでも想定で成り立っているに過ぎない。計算にはエントロピーの増大という形でコストが伴うというのは、彼が想定した内容なのであって、証明した内容ではないのである。

1982年、IBMの物理学者チャールズ・ベネットは、「マクスウェルの悪魔」が、何のコストも支払わずに知識を得ることを証明した。それによれば、「マクスウェルの悪魔」は、分子の位置関係についての情報を得ることのコストを支払わずに存在していることになる。ただし悪魔は、エネルギーを全く変換せずに分子の位置関係を知ることができるという訳ではない。如何に憑り的な観察力を有した存在Xであろうと、それは不可能であろう。ベネットの発想は、変換したエネルギー計算終了後にも利用可能になるという記憶形式を前提としている。ベネットによれば、悪魔は手探りで動き回ることで、利用したエネルギーを利用不能にせずに分子の位置関係を知ることができるのだという。

仮に「マクスウェルの悪魔」が分子の位置関係を懐中電灯で照らすことによって知り得るとするのならば、光の拡散によって、結局エネルギーを変換することになる。それはコストである。しかし、存在X知覚が視覚であるという根拠も、視覚のみであるという論拠も、存在しない。この悪魔触覚も有しているのである。

マクスウェルの悪魔」に対するシラードの熱力学的な記述は、マクスウェル自身の問題設定をあくまで踏襲している。シラードが想定していたのは、相対的に高速な分子と相対的に低速な分子の区別の導入により、それがAの部屋に位置する場合とBの部屋に位置する場合とを区別したのである。この単純明快な区別の導入を計算することによって、シラードは情報理論的な意味処理規則を基礎付けることになった。それは0か1か、イエスかノーかという単純な二値コードに帰着する。それ以来、この情報を得ることのコストは、ビット(bit)という単位で計算されることになる。

ベネットの発想は、「新しい情報を得ること(the acquisition of new information)」と「旧い情報を破壊すること(the destruction of old information)」の区別を導入することによって、このシラードの発想を拡張した案となっている。シラードは、ビットのような微細な対象を計算するには、必ずコストが掛かると考えた。これに対してベネットは、このコストが意のままに削減できることを証明したのである。分子の位置関係に関する情報蒐集するという行為は、既に存在している情報を複製することを意味する。それは、状況を判読するだけで済まされる。そうした情報のコピーは、利用できなくなるエネルギーの量からすれば、必ずしも多くのコストを支払うことを意味しない。コピーは大量生産できる。単価は安く済むだろう。情報は消耗することなく複製できる。情報は、使い切るまでもなく使い続けることができる。だとすれば、「マクスウェルの悪魔」が情報を獲得する上で、何故コストが要されるのかが疑問となる。

そこでベネットは、情報を得ることにコストを支払う必然性は全く無いことを証明した。エントロピーの増大という形でコストを支払わざるを得なくなるのは、むしろ情報を削除する時である。計算を継続するには情報を処分しなければならない。計算機の目盛りをゼロに設定し直すためには、計算機のメモリを空にする必要がある。

したがって「マクスウェルの悪魔」が支払わなければならないコストは、情報忘却することのコストであるということになろう。「マクスウェルの悪魔」は、一旦位置関係を特定した無数の分子に関する情報記憶し続けるという難題に直面することになるのである。「マクスウェルの悪魔」は、過去観察から得られた情報の洪水に溺れてしまうという訳だ。

かくしてベネットは、「マクスウェルの悪魔」が熱力学第二法則を回避し得ない理由を発見した。

「悪魔が分子を観察するためには、まず以前の観察の結果を忘却しなければならない。結果を忘却する、あるいは情報を処分するためには、熱力学的なコストが掛かる。」
Bennett, C. H. (1987). Demons, engines and the second law. Scientific American, 257(5), pp.108-117., p116.

ただしこの直後でベネットは、次のようにも述べている。もしこの悪魔が膨大な記憶領域を有しているとするのならば、この悪魔には、過去忘却する必要が無い。その結果として、エントロピーも増大しないのだ。したがって、この悪魔が全知全能のに匹敵する存在Xであるとするなら、マクスウェルがコストの問題に触れなかった理由も明快となる。全知全能のならば、無限記憶領域を持ち合わせているはずだからだ。神学に依拠するマクスウェルにとって、コストの問題は最初から無害であったのである。

しかし、人間記憶力は無限ではない。不相応な情報量を記憶しようとすれば、疲労が伴う。それがコストである。記憶にはコストが掛かる。過去に通り過ぎた分子によって、徐々に記憶領域が埋まっていく。その分だけエントロピーも蓄積される。この膨大な記憶を把握しておく負担は、そこから得られる利益を超過してしまう。したがって、「マクスウェルの悪魔」は、記憶領域を超越した対象を観察する場合においては、成立しないことになる。

論理的深度

しかし、情報処理にコストを支払わなければならないとするなら、存在Xと我々人間は、そのコストに見合う対価を得ているのかが気になるところではある。ベネットも指摘している通り、シャノンに始まる情報理論は、それまでメッセージの「価値(value)」に注意を払ってこなかった。その結果、情報理論情報の価値を測定する方法を欠如させていたのである。

「コイントスを連続で行なえば、そこに含まれる情報量こそ大きいが、ほとんど価値は無い。月や惑星の日毎の位置を100年分示した天体磨には、運動を計算する方程式と、その計算の前提となる初期条件以上の情報は含まれていない訳だが、暦の持ち主が自身で位置を計算し直す負担を省いてくれる。」
Bennett, C. (1988). “Logical Depth and Physical Complexity”, In Rolf Herken, The universal Turning Machine: A Half-Century Survey, Oxford University Press, 1988, pp.227-257. 引用は、p230より。

予測不可能であった内容がそのメッセージに含まれていれば、確かにそのメッセージ情報量は高まるであろう。逆に同じ言葉の繰り返しによって冗長に表現されたメッセージは、予測可能性は高まる一方で、情報量は下がる。しかしベネットによれば、メッセージの価値は、その情報量や明確な冗長性にあるのではない。むしろ予測可能であるものの、その予測には必ず困難が伴うような「埋もれていた冗長性(buried redundancy)」とも呼ぶべき性質が備わっているメッセージこそが、高い価値を生む。

「言い換えれば、メッセージの価値とは、その発信者が実行していたであろう数学的作業あるいはその他の作業の量であって、またメッセージの受診者が反復せずに済む作業の量でもある。」
Bennett, C. (1988). “Logical Depth and Physical Complexity”, In Rolf Herken, The universal Turning Machine: A Half-Century Survey, Oxford University Press, 1988, pp.227-257. 引用は、p230より。

こうして、メッセージの価値を測定するために形式的に定義されたのが、ベネットの「論理的深度(Logical Depth)」という概念である。メッセージの送信者が、そのメッセージ構成するために費やした計算量が大きいほど、そのメッセージ論理的深度は大きくなる。そうした計算量には、そのための計算コストや計算時間も含意されている。メッセージの受信者がそのメッセージを自ら構成する手間が省けていれば、それだけ論理的深度も大きくなるのである。

あるメッセージの背景には、膨大な量の作業や思考存在する可能性がある。ただし、その全てが可視化されている訳ではない。元来複合性の高い計算を単純であるかのように見せ掛けるのは、存外に負担を要する。ベネットの形式的な定義によれば、単純さやわかり易さの陰には深さ(depth)があるということにある。一方、無秩序な言葉や数値の羅列には、深さが無い。一様分布に従ってアトランダムに生成されたデータセットを送信したところで、そのメッセージ構成において、必要となる計算量はたかが知れている。生成に必要となる情報は、精々のところ、最小値や最大値、あるいはレコード数のような統計量程度であろう。この範囲や件数といった条件を守ること以外に、計算上の負担は発生しない。

ベネットの形式的な提案の内実は、価値のあるメッセージ複合性の高い情報は、必ず単純化して再記述することができるものの、全ての情報がそうなっている訳ではないということにある。だからこそ、そうした情報圧縮することができる。ただし、情報圧縮するということは、幾つかの不要な情報を処分しているということでもある。「マクスウェルの悪魔」との関連で言えば、この情報の処分にこそコストが発生するのであった。メッセージの価値は、この情報の処分によるコストに見合った対価となるのである。

熱力学的深度

しかしこの論理的深度という概念の意味論は、あくまでチューリング・マシンをはじめとしたアルゴリズム設計問題との関連から主題化されている。そのためこの概念は、生起するあらゆるメッセージが何らかのアルゴリズムによる計算結果として生起しているということが、自明の前提となっている。

コンピュータで何らかの事象をシミュレートする場合であれば、この意味論でも不自由なくメッセージを価値を計算できるようになるかもしれない。しかし、現実の物理現象は、たとえ何らかの計算結果として生起していると仮定しても、その計算アルゴリズムが明確であるとは限らない。

「論理的深度と複合性の計算上の定義は有用かつ示唆に富むものであるが、容易に数値としてコード化されていない物理的な系には適用するのが困難である。物理的な系の複合性を、その進化をシミュレートするために必要な計算量で特定することになるのかもしれないが、任意の精確さでシミュレーションを行なうためには、連続的な古典力学的な系は、デジタルのコンピュータ上で大量の計算を実行することになり、量子力学的な系は、古典的なコンピュータではシミュレートできない統計的な振る舞いを示してしまう。」
Lloyd, S., & Pagels, H. (1988). Complexity as thermodynamic depth. Annals of physics, 188(1), pp186-213., 引用はp189より。

更に付け加えるなら、仮に計算アルゴリズム設計できたとしても、その物理現象に関わる個々の物体がどのような「歴史」を持つのかを知り尽くすことは不可能であろう。これが不可能であるとするなら、ある現象が生起する際にどの程度の情報が処分されているのかは、原理的に計算不可能であるということになる。

情報の処分の「歴史」が計算不可能であるのは、その現象の生起の過程や機構が偶発的であるためだ。様相論理学的に言えば、偶発性は単なる偶然性ではない。それは不可能性必然性同時否定した状態を表す。偶発的な選択肢とは、選択可能であるものの、選択することが必然ではない選択肢を意味する。偶発性は、必然性否定すれば定義できる概念ではない。偶発性を定義するには、必然性と不可能性同時否定する必要がある。この意味偶発性概念は、二値論理的ではなく多値論理的である。したがって、ある現象の生起の過程や機構が偶発的であるということは、その現象が生起するまでの過程や機構が、別のあり方でもあり得るということである。

セス・ロイドとハインツ・パージェルは、現実の物理現象をも視野に入れた深度(depth)の測定方法を考案する際に、「歴史」の可能性の度合いの区別を導入している。つまり、ある現象が生起する上での過程や機構が、別のあり方でもあり得る複数の「歴史」の中でも、最も可能性の高い「歴史」に準拠しているという発想である。この方法では、コストとして処分された情報量は、計算や作業の量によって測定されるのではない。この方法においては、恐らく利用された可能性の高いであろう熱力学的な資源と情報の資源によって測定される。ロイドとパージェルは、この方法によって測定される深度を「熱力学的深度(Thermodynamic Depth)」と名付けている。ロイドらはこの深度の概念を測定対象となる現象における二種類のエントロピー区別を導入することで定義している。

「深度は実験的に決定された確率で定義され、マクロ状態の熱力学的深度は、その状態の粗い(coarse)エントロピーときめ細かい(fine-grained)エントロピーの差異に等しい。」
Lloyd, S., & Pagels, H. (1988). Complexity as thermodynamic depth. Annals of physics, 188(1), pp186-213., 引用はp190より。

粗いエントロピーは、熱力学的な意味でのエントロピーに他ならない。一定のマクロ状態に対応するミクロ状態の数がどの程度なのかが、このエントロピー概念から知ることができる。一方、きめ細かいエントロピーとは、「マクスウェルの悪魔」が意のままに操るエントロピーである。人間の知り得る物体の状態が温度や圧力などのような熱力学的な状態に限られるとしても、この悪魔は、分子の挙動の隅々まで知り尽くすことができる。人間は一定のマクロ状態しか知り得ないのに対して、この存在Xは一連のミクロ状態を知り得る。まさにこの知識ゆえに、「マクスウェルの悪魔」は、粒度の粗いエントロピーによって便宜上記述されていた気体の平衡状態を打ち破ることができる。

これを前提とすれば、粗いエントロピーときめ細かいエントロピー差異によって計算される熱力学的深度は、測定対象となる系の状態が、どの程度熱平衡状態から隔たっているのかを表現していることになる。熱力学的深度が低いということは、粗いエントロピーときめ細かいエントロピー差異が小さいということである。

熱力学的なエントロピー概念がマクロ状態に対応するミクロ状態の数であるなら、結晶格子の中の原子の如く完璧に秩序付けられた系では、マクロ状態とミクロ状態の一対一の関係を表すことになる。それをマクロ状態で記述したところで、エントロピー差異は生まれない。したがって完全な秩序では、熱力学的深度が小さいということになる。一方、完全な無秩序の場合には、たとえ「マクスウェルの悪魔」でさえも意のままに操れる粒子は少なくなる。その結果、我々人間が観測するエントロピーとの差異も消失するために、やはり熱力学的深度が小さくなる。

したがって熱力学的深度が大きくなるのは、完全な秩序と完全な無秩序の中間において、対象となる系が非熱平衡状態にある場合となる。重要なのは、熱平衡状態からの隔たりなのである。完全な秩序や完全な無秩序は、系としては安定的である。塩の結晶は融解しなければ変化しない。一定の温度に保たれている気体の変化は、ミクロ水準の分子運動にしか影響しない。しかし、マクロ水準の観測者にとって、そうした変化に価値は無い。マクロの観点から観れば、何も起きていないに等しいからである。

しかし観測対象の「歴史」に着目した意味論であるというのは、熱力学的深度概念の強みであると同時に弱みでもある。確かに物理現象の「歴史」に観点を移せば、計算アルゴリズム問題を無害化することができる。だがこの熱力学的深度という概念を採用すると、起こり得た可能性の高い「歴史」の選択が如何にして可能になるのかという問題が派生してしまう。実際、ロイドとパージェルは、この「歴史」の選択を十分に定量化できていなかった。「歴史」概念の定量化と計算アルゴリズム設計が甘ければ、表面上は大量の情報を処分している「歴史」を持つと知られている系ほど、大きな熱力学的深度が与えられることになる。熱力学的深度理論だけでは、埋もれている「歴史」からは価値を発掘できないのである。

問題解決策:「マクロ」と「ミクロ」の区別

マクスウェルの悪魔」と相対してきた者たちの歴史を確認すると、「マクロ」と「ミクロ」の区別が頻繁に導入されていることがわかる。そうなると、同様の区別を導入していたボルツマンは、果たして本当に「マクスウェルの悪魔」という難問を解決できていなかったのかという疑問が浮上してくる。マクロミクロという単純極まりない区別を導入した彼は、既に取り上げたように、エントロピーとは特定のマクロ状態に対応するミクロ状態の数の表現であると考えた。シラード以来の情報理論的な情報概念が指し示しているのは、情報エントロピーとの密接な関連である。エントロピーとは、観察者が知ろうとも思わない情報の量の尺度である。一方、情報は、エントロピーが大きい状態の中に、纏まって見出される対象だ。とはいえ、観察者がその情報を「所有」していることにはならない。情報はただそこにあるだけである。

言い換えれば、情報は乱雑な無秩序の中から発見される。秩序よりも無秩序の中にこそ多くの情報があるのだ。つまり、無秩序の度合いが高いほど、情報の量も多くなる。何故なら、ミクロ状態の数が多いほど、情報量も増えるからである。情報の処分というベネット的な発想に準拠して言い換えれば、一つのマクロ状態に集約されているミクロ状態の数が多いほど、そのマクロ状態に対して思考を集中させる際に、より多くの情報を処分したことになる。何故なら、観察者が単にマクロ事象としての温度を認識する場合、熱というマクロ状態には、その観察者が知り得ないほど多くのミクロ状態が対応しているためである。

マクスウェルの悪魔」は、気体をマクロ状態とミクロ状態の双方の観点から<同時>に記述しようとしている。それぞれの分子の位置関係を計算すると同時に、熱の恩恵に与ろうともしているのである。しかし、人間の尺度から観れば、それは実質的に不可能だ。これが可能であるとするならば、この悪魔は、憑り的な観察力を有していることになる。それは、マクロミクロ区別の導入によって排除された第三項に位置する、超越的な存在Xである。その存在Xは、マクロ「と」ミクロ区別の導入によって、<差異の統一>というパラドックスを生み出している。

しかしこのパラドックスは、いつでも脱パラドックス化されることを可能にしている。この脱パラドックス化は、マクロミクロ区別の中に、この区別それ自体を「再導入(re-entry)」することによって可能となる。するとこのパラドックスは、例えば<ミクロマクロ>と<マクロミクロ>の区別へと「展開(unfold)」される。<ミクロマクロ>の側の観点に立つことによって、観察者は、それまでミクロ事象として観察されてきた対象をマクロの観点から再記述することで、事象を俯瞰的に再認識することができるようになる。一方、<マクロミクロ>の側の観点に立てば、観察者は、それまでマクロ事象として俯瞰的に観察されてきた対象をミクロの観点から再記述することで、事象の細部を追究することが可能になる。こうした観点の移行によって我々は、「マクスウェルの悪魔」という問題が顕在化している場合に、その存在Xが関わる区別棄却できるようになるのだ。

ゼノンのパラドックス

しかしながら、こうしてマクロミクロ区別に伴うパラドックス脱パラドックス化すると、別のパラドックスが派生する。と言うのも、上述した区別区別の内部への再導入は、<マクロマクロ>と<ミクロミクロ>の区別も派生させるためである。特に<ミクロミクロ>に観点を移した場合には、ミクロミクロミクロの…と、微細なものから極微なものへと向かう無限後退が生じてしまう。

この問題は既に、ソクラテス以前の時代で発見されていた。この無限後退は、あの「ゼノンのパラドックス(Zeno’s paradoxes)」と論理的に等価なのである。

「原子の教義は、(幾つかの基本単位の点において)整数によって得られた存在としての強度を想定する旧い方法の遺物と見做される。すなわち、それはゼノンのパラドックスを引き起こす概念である。この概念において、アキレスと亀は有名な例である。こうしたパラドックスは、空間が連続体であると見做された時に生まれたが、空間と同じように時間も無限に分割できるとアリストテレスが指摘するまで、有限の数の瞬間から構成されていると見做されていた。」
Cercignani, C. (1998). Ludwig Boltzmann: the man who trusted atoms. Oxford University Press., p71.

「長さ(length)」や「距離(distance)」といった概念が定義されるためには、<差異>の観察者が必要になる。自然の中では、区別を導入する観察者が出現するまで、「長さ(length)」や「距離(distance)」のような概念は明確に定義されていない。この区別の導入を方向付けているのは、社会構造意味論である。日常的な言語行為で「長さ」や「距離」のような概念が明確に定義されているかのように思えるのは、そうしたコミュニケーションが既に、社会構造意味論から提供されたメディアによって形式化されているためである。

ゼノンのパラドックスは、こうした概念の定義が観察者に依存するという前提を無視した場合に顕在化する。もともとゼノンのパラドックスは、紀元前500年ごろに、ゼノンが師のパルメニデスの説を擁護するために考案した様々なパラドックス意味する。パルメニデスによれば、<全てのもの>はただ<一つ>である。何故なら、もしそうでないとするなら、何か<別のもの>によって区別されていなければならないからだ。だがもしそうなら、この世界に存在する<全てのもの>以外に、<それを区別するもの>が存在することになる。これにより、当の<全てのもの>は、<偽りの全体>であるということになってしまう。これでは、全体は全体ではないという意味で、矛盾だ。もし<全てのもの>という概念が、<全てのもの>と非<全てのもの>を区別する別の存在X存在して初めて成立するのならば、この存在Xそれ自体が、<全てのもの>の定義から逸脱していることになる。

ゼノンのパラドックスの一つは、運動に関するパラドックスである。ある地点から別の地点へ移動するには、まずその距離の中継地点を通過しなければならない。だがその前に、ある地点からその中継地点まで移動するには、その地点からその中継地点までの間にある中継地点を通過しなければならない。こうして、目標地点に到達する前に、観察者は無限後退に呑み込まれてしまう。無限時間を費やせるのならばともかく、有限時間の範囲内では、観察者は何処にも到達できないということになる。

もう一つのゼノンのパラドックスは、弓から放たれた矢に関するパラドックスである。このパラドックスは、ある瞬間、ある場所に矢があるとすれば、動いている時には、結局矢が何処にあるのかがわからなくなるというパラドックスである。ある瞬間のある場所に無いとするなら、その瞬間に矢は何処にあるのかが問われる。矢はそれが在る地点で動いているのか、それともそれが無い地点で動いているのかが問われるのである。矢がそれ自体と等しい地点に位置している場合には、常に静止していることになる。逆に移動している最中の矢が、この今において常にそれ自体と等しい地点に位置しているのならば、移動する矢は移動していないことになる。

連続性と離散性の差異

こうしたゼノンのパラドックスは、空間時間無限区別し続けることができるという前提に立っている。ここでいう区別とは、際限無い細分化意味する。つまり、<ミクロミクロ>への無限後退意味している。ただしこの場合、空間時間は連続性を有していないければならない。しかしこうして無限区別可能性を前提としてしまうと、この空間時間構成されている宇宙は、無限情報量を有していることになる。しかしながら、もし宇宙無限情報量で構成されているのならば、この世界のマクロ状態に対応するミクロ状態の数は無限であるということになる。それでは、エントロピーもまた無限となってしまうが故に、秩序の生起がありそうもない事象となってしまう。

そこでこのパラドックスは、連続性と離散性の区別を導入されることによって、脱パラドックス化されることとなった。地点を離散化してしまえば、地点と地点の中継地点を通過しなければならないという問題は解消される。ゼノンのパラドックスは、「長さ」や「距離」は無限区別し続けることを前提としている。しかし観察者は、ある一定の範疇や方向で区別することで、「長さ」や「距離」の粒度を固定する。そうして初めて、「長さ」や「距離」の概念を認識できるようになるのである。

しかしこうした粒度の固定という離散化の概念操作に関わるのは、やはりマクロミクロ区別である。無限に連続する「長さ」や「距離」をある一定の範疇や方向で区別することで、言わば抽象化した概念が、マクロの観点で観察される。一方このマクロ状態に対応する無数のミクロ状態は、抽象化影響から捨象されることになる。かくして観察者は、マクロ状態に対応するミクロ状態の数が無限情報量を生み出しているとしても、それを度外視することが可能になる。この度外視こそが、ベネットらが述べている意味での情報の処分なのであって、熱力学的なコストを要請しているのである。

マクスウェルの悪魔」に対してボルツマンが導入したマクロミクロ区別は、ゼノンのパラドックスと論理的に等価なパラドックスを派生させる。それは、マクロミクロ区別がこの区別の内部に再導入されることによって顕在化する、<ミクロミクロ>という無限後退として派生する。しかしこのパラドックスは、離散性と連続性の区別を補助線として、もう一度マクロミクロ区別それ自体を再導入することによって、脱パラドックス化される。したがって、「熱力学的なコストを支払う情報の処分」と「パラドックス脱パラドックス化」は機能的に等価であると考えて良い。

機能的等価物の探索:形式としてのデータ・クラスタリング

上述した粒度の固定による距離観察は、類似性計算としても定式化することができる。と言うのも、ある特徴空間上の二つの概念の距離が短いということは、それらの類似性が高いことを意味するためである。数学では、類似性計算のための数々の機能的に等価な係数が配備されている。ただし集合論的には、これらの計算式にはそのユースケースに応じた若干の差異がある。幾つかピックアップしておいて、状況や問題設定に応じて使い分けるのが望ましい。

Jaccard係数

Jaccard係数は、二つの集合XとYの類似性表現する初歩的な係数の一つである。その定義は以下のようになる。

$$\frac{|X \cap Y|}{|X \cup Y|}$$

別の表現で言い換えるなら、この数式が言い表しているのは、二つの集合において共通する諸要素数を、二つの集合のそれぞれの諸要素数で割った値だ。もしXとYが全く同じ諸要素の集合であるなら、上記の計算結果は1になる。逆に双方の集合の諸要素が全く別物であるなら、その計算結果は0になる。

Dice係数

この数式の機能は、二つの集合類似性を0から1までの数値で定量化することにあると言える。この意味で、同じく初歩的な係数として紹介される傾向にあるDice係数は、Jaccard係数の機能的等価物である。Dice係数の場合は、集合間の類似性をJaccardの場合の2倍の重み付けで計算する。集合論的には次のように表現される。

$$ \frac{2 \times |X \cap Y|}{(|X| |Y|)}$$

Jaccard係数の分母は和集合だ。そのためその計算結果は双方の集合の差集合の濃度に反比例してしまう。一方Dice係数は積集合計算を重視する。差集合が大きくなる場合でも、類似性差異表現し易く、情報が得られ易い。

Simpson係数

一方、別の機能的等価物として挙げられるSimpson係数は、相関関係と概念的に密接に関わっている。この係数が高ければ、双方の集合の相関関係も強いと考えられる。定義は以下のようになる。

$$ \frac{|X \cap Y|}{min(|X|, |Y|)}$$

見ての通り、XとYが同一で、かつ一方が他方の部分集合である場合に、この計算結果は1になる。例えば幾つかの文字トークンを諸要素とした文書の集合を仮定するなら、この計算結果が1に近付くほど、一方の文書に出現するトークンが他方の文書にも出現する確率が高い。しかしこの係数の場合、いずれか一方の文書の要素数が極端に少ない場合にも、高い算出結果を呈示してしまう。極端な話、「国語辞典」という一個の文書を集合Xとして、「灯り」という一語しか含まれていない文書を集合Yとして比較した場合、この係数は1に近付いてしまう。そのため、この係数で集合比較する場合には、要素数などに条件を設けておかなければならない。

データ・クラスタリングの偶発性

このように、距離概念や類似性概念は、別のあり方でもあり得る形式である。これらの意味論は、データサイエンティストをはじめとした観察者が導入する区別によって初めて規定される。そしてこの偶発性は、距離類似性に言及する分析全般に波及している。と言うのも、「データ・クラスタリング(Data Clustering)」に象徴されるように、距離類似性を扱う分析方法もまた、偶発的であるためだ。

周知のように、データサイエンスの文脈で取り上げられるデータの「クラスタリング(Clustering)」とは、各分析対象データが有する変数の類似性に基づいてデータをセグメント化していくことを意味する。それは、対象となるデータ集合の諸要素をその諸要素間の距離に基づいて分類していくことを指す。

このクラスタリングには、階層的(hierarchical)なクラスタリングと非階層的(non-Hierarchical)なクラスタリングがある。階層的なクラスタリングは、クラスタの階層構造を構築することを目標としたクラスタリング意味する。一方、非階層的なクラスタリングは、「分割最適化(partitioning-optimization)」を目指すクラスタリングだ。つまり、分割の最適性を評価するための関数を予め定義しておき、その評価関数最適化する分割を探索発見していく方法意味している。

階層的なクラスタリングは、N個の分析対象データが与えられた場合に、その中の一つだけを含めたN個のクラスタを初期状態として生成する。ここから対象となるデータXとYの非類似性を表す距離からクラスタ間の距離計算する。そして最も距離が近く非類似性が低い二つのクラスタから順に結合していく。この結合は、全てのデータが一つのクラスタに併合されるまで反復される。すると、あるクラスタの中に別のクラスタが属することになる。こうしてクラスタの中のクラスタの中に更なるクラスタが配属されることにより、クラスタ間で階層関係を造り出す。尚、クラスタ間の距離の求め方は、「最短距離法(nearest neighbor method)」、「最長距離法(furthest neighbor method)」、「ウォード法(Ward’s method)」など、様々だ。

一方、非階層的なクラスタリングは、事前に定義した評価関数最適化する分割を探索発見していく方法だ。必ずしもクラスタの中のクラスタなどといった階層関係が構築される訳ではない。それ故、階層的なクラスタリングに比して、より柔軟な探索発見が可能になると期待することができる。

K-Means法

クラスタリングの文脈でよく利用されるアルゴリズムの一つに、k-Means法という非常に有名なアルゴリズムがある。各クラスタの平均に基づき、任意のクラスタ数K個に分類することから、J・マクイーンらによってk-Means法と名付けられた。k-Means法は現在でもデータのパタンや構造を発見するためのデータマイニング方法として広く用いられている。

k-Means法は量的変数を分析対象データとする場合に利用できる分析方法だ。k-Meansの「k」とは、分類するクラスタの個数に関する任意の数を意味する。一方、Meansは加算平均を意味する。つまり、k個のクラスタに平均値を用いて分類するという意味から、この分析方法はk-Means法と名付けられた。k-Means法のアルゴリズムは、実に単純明快で、次のようになる。

  1. 所与のn個のデータに対して、アトランダムにK個のクラスタを振り分ける。
  2. それぞれのクラスタごとにデータの中心点を計算する。通常、この計算には加算平均が用いられる。
  3. それぞれのクラスタごとにそれぞれのデータと中心点との距離を求める。
  4. それぞれのデータの所属先となるクラスタをそのデータから最も近い中心点のクラスタに変更する。
  5. 新たに割り振られたクラスタごとに、再度中心点を計算する。
  6. もう一度、各データの所属先となるクラスタをそのデータから最も近い中心点のクラスタに変更する。
  7. クラスタの割り当てに変更が加わらなくなった場合、処理を終了させる。

このアルゴリズムによって、全てのデータが最終的に最も近い中心点のクラスタに属するようになる。これにより、データのクラスタリングが実現する。ただし、最初のクラスタの割り当てはあくまでアトランダムだ。したがって、初期のクラスタリング次第で、最終的なクラスタのデータ配分も異なってくる。同一の分析対象データのクラスタ分析であっても、常に同じ分析結果が得られる訳ではない。

BIRCH

こうしたK-Means法のようなデータ・クラスタリングにも、数々の機能的等価物存在する。例えばk-Means法を応用したデータ・クラスタリング方法として、BIRCH(Balanced Interactive Reducing and Clustering using Hierarchies)が挙げられる。BIRCHは、入力されたデータからClustering Feature(CF) Treeを構築するBIRCHというデータ圧縮方法を用いてデータを圧縮した上で、クラスタリングを実行する。クラスタリング方法として採用されているのは、K-Means法だ。したがってその機能と逆機能はK-Means法と等しい。

CF Treeは、BIRCHで言及されるデータの圧縮表現形式だ。CF Treeは基本的に直径が任意の閾値以内となるデータを部分クラスタに配置していく。CF TreeでいうところのCFは、この部分クラスタ表現形式となる。部分クラスタは、クラスタ内のデータ個数、その和、そしてその二乗の和によって表現される。この部分クラスタ内のデータは、この配置処理以降のクラスタリングにおいては一つのクラスタとしてしか言及されない。したがって新たなデータが入力されたとしても、CFがメタデータとして機能することにより、容易にその入力データをそれまでの状態に即してクラスタリングすることができる。

圧縮時の注意点として挙げられるのは、閾値の基準だ。この閾値が低過ぎると、部分クラスタに配属されるデータの個数も減ることになる。これでは少数のデータしか所属し得ない部分クラスタが大量に生成されることになる。圧縮の効率が落ちる。だが閾値が高過ぎた場合には、部分クラスタに所属するデータが多くなり過ぎることで、部分クラスタが指し示す情報の精度が落ちてしまう。閾値の基準は、分析対象データの質と量からその都度判断されなければならない。

DBSCAN

クラスタリング対象となるデータの分布次第では、データ・クラスタリングは十分に機能しない場合がある。例えば超球の形状のクラスタとしては分布していない場合、K-Means法やそれに類する方法によるクラスタリングでは分割に偏りが派生してしまう。それ故にデータサイエンティストは、<超球の形状のクラスタ>と<超球ではない形状のクラスタ>の区別を導入せざるを得ない。超球ではない形状のクラスタを分割する方法として例示できるのは、DBSCAN(Density-Based Spatial Clustering)をはじめとする「密度準拠(density-based)」なクラスタリングアルゴリズムだ。

DBSCANは超球ではない形状のクラスタリングを可能にする。インターフェイス仕様としては、K-Means法とは全く違い、クラスタの個数は指定しない。DBSCANのアルゴリズムは「密度準拠」なアプローチに固有のパラメタを形式的に定義するところから始まる。そのパラメタとは、データにおける「ε近傍(Eps-neighborhood of a point)」である。実務的には、このパラメタは次の二つに区別される。その一つが距離の閾値を表すε(Eps-neighborhood of that point)で、もう一つが対象個数の閾値を表すMinPts(a minimum number of points)である。近傍の半径の最大値をεと置くなら、半径εの範囲内に含まれる最小のデータ点の個数がMinPtsとして表される。あるデータ点pから距離:ε以内にある近傍を次のように表現する。

$$N_{ε}(q) : \{p \in D|dist(p, q) <= ε\}$$ ここで、以下の条件を満たす場合、εおよびMinPtsにおいて、pはqから「直接密度到達可能(directly density-reachable)」な関係にあると表現される。

$$ p \in N_{ε}(q) $$
$$ N_{ε}(q) \geq MinPts$$

「密度準拠のクラスタリングの鍵となるアイディアは、クラスタにおけるいずれのオブジェクトにとっても、所与の半径(ε)の近傍が、オブジェクトの最小個数(MinPts)以上のオブジェクトを内包しているということである。言い換えれば、近傍の濃度(cardinality)は閾値を超過しなければならない。」
Ankerst, Mihael., Breuning, Markus M., Kriegel, Hans-Peter., Sander., Jorg. (1999) “OPTICS: Ordering Points To Identify the Clustering Structure,” ACM SIGMOD Int. Conf. Management of Data, Philadelphia, PA.

ここで、有限列$$p_1, p_2, …, p_n$$の関連$${}_{p_i}R_{p_{i+1}}, \ ε, \ MinPts$$
において、データ点$$p_{i+1}$$がデータ点$$p_i$$から直接密度到達可能な関連にある場合を想定する。この場合、εおよびMinPtsにおいて、pはqから密度到達可能(density-reachable)な関連にあるという。尚、ここで$$p_1 = q, \ p_n = p$$の場合、Rの推移閉包(Transitive closure)が成り立つ。

この条件は二点間の区別に第三項が加わることでより複合的になる。例えばデータ点pとデータ点qの間にデータ点oがあるとしよう。この時、εおよびMinPtsにおいて、pとqがそれぞれoから密度到達可能な関連である場合に、εおよびMinPtsにおいて、pはqから密度接続の関連(density-connected)にあるという。

極大性と持続性の差異

DBSCANにおけるクラスタ概念は、極大性(Maximality)と接続性(Connectivity)の区別を導入することで定義される。

  1. クラスタは、全データ集合:Dに含まれる全オブジェクトに対して、εおよびMinPtsにおいて、密度到達可能なオブジェクトの極大集合となる。
  2. クラスタ内の全オブジェクトに対して、εおよびMinPtsにおいて、相互に密度接続の関連にある。

以上の二つの条件を満たさないデータポイントは、ノイズ(noise)と見做される。

距離の計算コスト

密度準拠なクラスタリングは総じて計算コストが高い。これらのアルゴリズムでは、全データを対象とした計算が反復されている。あるデータ点pから観て、そのデータの近傍に位置するデータ点集合qが存在する場合、そのデータを「コア・オブジェクト(core-object)」と呼ぶ。密度準拠のクラスタリングにおいては、このコア・オブジェクト同士を関連付けることによって、クラスタ構成されていく。しかし、それぞれのデータの近傍値とその近傍範囲内のデータ個数を計算しなければ、そのデータがコア・オブジェクトか否かを判別することができない。そのため、データが大量になる場合は、それだけ計算コストが増す。

クラスタとノイズの差異

しかしデータ・クラスタリング意味論において特筆すべきなのは、偶発的な距離概念や類似性概念の認識が如何にして可能になっているのかである。密度準拠型のデータ・クラスタリングは、この認識論に明確な回答を提示している。

「我々がクラスタを認知(recognize)する主要な理由は、どのクラスター内であっても、クラスタの外部よりも非常に高いデータ点密度をその内部に有していることにある。更に言えば、ノイズの領域における密度は、いずれかのクラスタに比して低い。」
Ester, M., Kriegel, H. P., Sander, J., & Xu, X. (1996, August). A density-based algorithm for discovering clusters in large spatial databases with noise. In Kdd (Vol. 96, No. 34, pp. 226-231). p.227.

このことから、密度準拠型のデータ・クラスタリング形式的な諸定義は、「クラスタ」と「ノイズ」の区別を主導的差異としている。そしてこの形式的な概念操作は「クラスタ」と「ノイズ」の区別そのものにも適用され得る。最初のクラスタリングによって「ノイズ」として認知された領域に対し再度区別を導入するような発想として、再帰的(recursive)な密度準拠型のデータ・クラスタリングが可能になる。

また、この「クラスタ」と「ノイズ」の主導的差異から記述されるクラスタリングアルゴリズムには、それ相応の利点も指摘できる。それは単純に、「ノイズ」を「ノイズ」のまま抽出したい場合に有用となるということだ。下手にクラスタの個数をパラメタとして決定付けて、強引にその個数分のクラスタを抽出する必要が無い場合には、特にこの利点が活きてくる。「クラスタ」と「ノイズ」の区別を導入するということは、その双方を同時的に指し示すということなのだ。「ノイズ」を「クラスタ」と共に指し示すからこそ、「クラスタ」の相対的な精度を認識できるのである。

多様体仮説の意味論

多くの場合、クラスタリングにおける距離概念は、観測データポイントの距離として計算される。距離意味論主題は、物理的な距離概念に限られない。それは「多様体(manifold)」の概念との関連から記述される。

数学的に言えば、多様体は周囲の近傍に関連付けられたデータポイントの集合意味する。局所的にはどのデータポイントから観ても、データポイント同士との関連は、ユークリッド空間上の点同士の関連であるかのように観える。近傍が存在するということは、あるデータポイントから別のデータポイントへの移行が可能であるということである。それは物理的なユークリッド空間上で、ある地点から別の地点へ移動することに等しい。

しかし多様体の意味論では、現に観測できているデータポイント同士の関連が、潜在的な複数の水準によって生成されたと仮定される。言い換えれば、多様体の意味論においては、現に観測できているデータポイント同士の関連が、データ構造の中で潜在化している複合性の縮減によって生成されていると想定するのである。喩えるならそれは、手影絵のようなものである。兎の形態模倣した手振り身振りは、物理空間上では三次元的な物体の動作に他ならない。だが壁の平面に叙述された影は、二次元的である。つまり手影絵は三次元的な物体の「次元削減(Dimensionality Reduction)」によって成り立っている。

多様体の次元は、縮減される以前の潜在的な複合性に比例して高まる。例えば中央に「∞」という文字が描かれた画像を想定してみよう。この画像から得られたグレースケールのピクセルデータの集合を多様体として観測してみる。すると、両端の円形部分の次元は低いが、交差している中央部分の次元は高いことがわかる。と言うのも、この中央部分だけが、二つの線によって特徴付けられているためである。この意味で、多様体の次元が高まる部分では、情報量も高まると考えられる。多様体の意味論では、複合性情報量の落差に応じて、同一空間上でも異なる次元の集合を想定することが可能になるのである。

これを前提とすれば、多様体仮説の重要な貢献の一つは、低次元の多様体の中に有用なデータが埋め込まれている(embedded)という可能性を明確化したことにある。複合性の高いデータポイントの関連から距離計算する場合、計算コストが高く付く。ややもすればそれは、「次元の呪い(The curse of dimensionality)」を引き起こすであろう。これに対して、その複合性の縮減によって成立しているより低次元の多様体におけるデータポイントの関連から距離計算する場合、情報量の観点から観れば、相対的に計算コストは下がることになる。それ故、データ・クラスタリングのような距離概念を扱うアルゴリズム設計では、その入力データが膨大になる場合には特に、事前に観測データの次元削減が要求される。

この多様体概念は、遅くても「深層学習(Deep Learning)」が脚光を浴びた頃には、機械学習問題の枠組みとの兼ね合いから、高い抽象性を獲得するに至った。と言うのも、多層ニューラルネットワーク(Neural Network)が可能とする「自己符号化器(Auto encoder)」の構造は、入力層(input layer)から得られた観測データが隠れ層(hidden layer)へと埋め込まれる(embedded)と期待することを可能にしているためである。それ故に、隠れ層の各ユニットの活性状態は、入力された観測データポイントの次元削減結果を反映していると想定できる。

このように、多様体仮説の意味論は、データ・クラスタリングから機械学習へと、その主題を緩やかに変異させてきた。多くの距離概念の記述が多様体仮説によって整理されるなら、距離概念の偶発性は解消されるであろう。尤も、その可否を判断するには、進化論的に長期的な展望から、多様体と距離の関連を観察し続けていかなければならない。

機能的等価物の探索:「情報」と「外情報」の区別

ゼノンのパラドックスに相対するボルツマンのように、「マクロ」と「ミクロ」の区別を導入して観ると、もう一つの発見が可能になる。たとえロイドとパージェルの熱力学的深度の概念のように、観察対象の「歴史」の定量化が疎かになってしまうとしても、我々が情報を処分しながら観察を実践していることは明白である。確かに定量化とアルゴリズム設計に固執すれば、熱力学的深度概念は扱い難くなる。しかしこうして固執していくと、価値を測定するこの深度概念それ自体の価値が盲点となる。ノーレットランダーシュはそれ故、定量化の必要性を一旦保留にした上で、「情報(information)」と「外情報(exformation)」の区別を導入している。

外情報とは、ある情報メッセージの背景にある、そのメッセージを生成するために処分された情報意味する。勿論、メッセージ情報量だけでは、そのメッセージがどの程度の外情報を有しているのかはわからない。メッセージの文脈を知ることで、初めて外情報が測定できるようになる。逆に言えば、外情報が備わっているメッセージには深さがある。メッセージの送信者が最終的なメッセージ構成する過程で、意識にある大量の情報を処分することで、メッセージから排除すれば、そこに外情報が宿ることになる。

ノーレットランダーシュは意識的にパラドックス化された記述を実践している。彼によれば、外情報は伝達され得るのである。確かに定義の上で言えば、外情報メッセージを送信する直前に処分された情報である。それ故、メッセージに送信によって外情報が伝達されることなどあり得ないように思える。しかしながらノーレットランダーシュは、外情報の伝達が如何にして可能になるのかを問うのである。

外情報を伝達することの機能は、メッセージの受信者が、そのメッセージの背景を知ろうとしている場合に発揮される。もしメッセージの送信者が、メッセージによって情報を提供していても、外情報を一切送信していなかったとすれば、メッセージの受診者は、そのメッセージの真意を掴み損なうリスクが伴う。この意味で、表情や口調は、相手がメッセージに関心を持っているのか、知ったかぶりをしていないか、嘘を吐いていないかを検証するための外情報として機能する。

外情報情報に対して垂直方向に展開される。情報の方向がその量を反映するなら、外情報の方向は深度を反映する。情報外情報の二軸を取る時、注意しなければならないのは、この双方には相関関係が無いということである。情報量が増えたからといって、外情報も深くなるという訳ではない。その逆も保証されない。非常に短いメッセージとして記述された哲学者のアフォリズムの一句が非常に深みのある意味を有している場合もあり得れば、延々と続く長電話の会話内容にさえ深さが伴う場合もあり得る。

しかし概念としては、双方には明確な関連がある。外情報メッセージ歴史であるのに対して、情報はその歴史の産物なのである。外情報の無い情報は無意味な会話となる。情報の無い外情報は、処分された情報に過ぎない。したがってノーレットランダーシュが展開する意味論においては、情報外情報区別こそが重要なのであって、いずれか一方が重要となると言う訳ではないのである。

プロトタイプの開発:確率的音楽の統計力学的な自動作曲

ノーレットランダーシュによれば、情報外情報区別は、デンマークの音楽家ピーター・バスティアンから着想を得た意味論である。バスティアンはInd i musikkenにおいて、作曲家が霊的で知的なものを楽譜に変換することで、それが楽器で演奏され、音波が生成され、その音波が聴取者の耳の中で知覚され、経験され、音楽に生まれ変わるまでの過程を叙述している。

音楽において重要となるのは、音波ではない。作曲家や演奏家が様々な心的状態を一つのパターンに置換することで、それが聴取者の心の中でも同様の状態を呼び起こすという現象である。音楽を理解するには、音符が伝達する情報ではなく、その音符に至るまでの外情報に対して耳を澄ませなければならない。

音楽聴取するということは、作曲家や演奏者の名前や、その曲の元となった曲名を知ることとは異なる。そうした情報が無かったとしても、音楽は愉しむことができる。むしろ、音楽を楽しむ上では、情報は一切必要無い場合さえある。都市を遊歩している最中に聴こえてくるバックグラウンドミュージック(background music)には、それ自体は情報であっても、圧縮された外情報が添付されている。そうした音楽聴取者は、その音楽メッセージ情報として処理する過程で、それに伴う外情報展開する。そうして聴取者は、その外情報によって、特定の心的状態に達するのである。

作曲への接続

情報外情報区別は、定量化を一旦保留にした上で記述された意味論である。だがこの意味論を定量的な計算アルゴリズムへと落とし込むことは不可能ではない。ここではその応用例を明示していこう。

ボルツマンは、その『力学の諸原理』において、力学によって最初に不自然なく屈服させられたのは音響学であったと述べている。音響学的な現象は運動の現象に密接に関連付いている。勿論、個の現象は非常に速く生じる。肉眼でそれを追跡することはできないだろう。だが、単に表面的に観測する分には、その純粋に運動論的な性質は否定されない。それどころか、手段を工夫すれば、発音隊の運動も、空気中を伝播する音波も、直接的に可視化することができる。音響学はこうして、力学影響下で、その専門領域を開拓してきた。

ヤニス・クセナキスは、マクスウェルやボルツマンの統計力学から「確率音楽(stochastic music)」の概念を展開している。そして、エントロピーゲーム理論、群論などに関する数理的な考察を経て、最終的には記号論理学的な音楽を記述するに至っている。その『形式音楽(Musiques formelles)』は、コンピュータ計算アルゴリズムによる自動作曲の領域を切り拓いた著作である。

クセナキスの確率音楽論では、音楽や発声をはじめとした「音響的な出来事(événement sonore)」が記述される。この音響的な出来事マクロ水準での出来事である。それは、ミクロ水準では孤立した無数の音によって構成されている。それぞれの音は孤立しているものの、その音の数が膨大であるために、全体としては一つの音響的な出来事として聴取される。そしてクセナキスの音楽論が確率的である所以は、この音響的な出来事構成が、特定の確率分布に従っているという観点に立つ点にある。

一つ一つの音は連続的であっても離散的であっても構わない。仮に離散的であるとしても、アキレスと亀の関係をはじめとしたゼノンのパラドックスは、マクロミクロ区別を導入することで脱パラドックス化できる。クセナキスも、確率音楽論を展開することで、不連続な状態から連続的な状態への移行を制御することが可能であるという前提に立っている。

作曲の過程

クセナキスによれば、確率音楽作曲過程は、次のような場面に区別することができるという。

第一に、当初の概念がある初期状態の場面だ。ここでは、作曲者の直観や暫定的あるいは決定的な情報である。

第二に、音響存在を定義し、それを可能な範囲で伝達するための記号体系を定義する。ここでの定義では、例えば楽器の音、電子音、ノイズ、秩序付けられた音響の諸要素の集合、離散的な構成か連続的な構成かの判断などが主題に挙がる。

第三に、マクロ作曲の場面である。それは、作曲することによって音響存在を如何に変化させるのかを定義する営みとなる。これにより、音響存在の順序や同時性を指定することで、それらの論理的な演算操作を時間軸上にプロットしていくことになる。数学的に言えば、例えば初等的代数の演算操作の選択を例示できる。論理学的には、関連する諸要素と集合を上記の第二の場面で定義した記号体系と紐付けるなどといった、論理的な枠組みの選択が例示できる。

第四の場面は、ミクロ作曲の場面である。ここでは音響の関連の細部を調節していくことになる。例えば上記の第二の場面で定義した音響諸要素の関数を介した関係や、統計学的な関係を選択することになる。

第五に、上述したマクロ作曲ミクロ作曲を通じた作品全体の枠組みとパターンを、順次プログラミングしていく。

第六に、計算を実行するために、逐次プログラミングを検証する。それによってフィードバックを得て、最終的な修正を施す。

第七に、当該プログラムから最終的な記号体系を抽出する。それは楽曲を従来の記譜法や数学的な表現グラフ理論的な可視化によって、譜面上に記すことを意味する。

そして第八に、プログラムによって得られたものを実際の音に変換する。生のオーケストラが演奏するか、MIDIのような媒体で操作することになる。

これら八つの場面は、必ずしもこの通りの順序で進捗させる必要は無い。これらの場面は、作曲を実践しながら、順次並べ替えることができる。そしてこれらの場面は、主に自動作曲の場面となる。ただしクセナキスの時代では、コンピュータに委ねることができるのは、まだ第六、第七、第八の場面に限られていた。

持続時間と周波数と強度の差異

あらゆる音は、音の基本素子、すなわち音の量子によって構成されている。こうした粒子には、持続時間周波数、そして強度という三つの性質が備わっている。この三つの性質を前提とすれば、あらゆる音とその変化を、時間の中に適切に配置された膨大な量の粒子のアンサンブルであると見做すことが可能になる。事実「フーリエ変換(Fourier transform)」は、如何なる音響複合体も、一連の純粋な正弦波系の音に分解することが可能であることを指し示している。たとえそれらの正弦波系の音の変化の過程が極めて短く、複合的に隣接していたとしても、この分解は可能なのである。分解の結果として抽出されるのは、短い持続時間Δtの無数の純音である。言い換えれば、複合的な音を構成するには、膨大な数の純音が必要になるということである。

このΔtは極めて短く不変で無視できる対象であると仮定するなら、音の構成において重要となるのは、残りの周波数と強度だけであると単純化できる。周波数とそれに付随する強度は、音に備わる二つの物理的特性である。これらは互いに独立な二つの集合F, Gを構成する。更に、この二つの集合から積集合F×Gを構成することも可能である。これが音の基本粒子となる。一般化すれば、集合Fを集合Gに、多価対応、単価対応、一対一対応などの形式で対応付けることによって、その対応に関する行列や正規化表現のような形式的な表現を抽出することができる。例えばカノニカル表現で言えば、次のような定式も記述できる。

$$\sqrt{f} = Kg$$

ここでfは周波数で、gが強度である。Kは係数となる。

こうした表現は決定論的ではなく確率論的である。故にある音の状態から別の音の状態への推移確率を配列させた行列として表現するのが、最も有用であるとクセナキスは述べている。つまりfとgの特徴写像を定めるということだ。厳密に言えば、この二つの写像に対して、更に持続時間Δtも関わる。

音響の精神生理学

精神生理学的な観点から観れば、こうした数学的な表現に対して制約条件を課すことが可能になる。と言うのも、作曲作曲者や演奏者の力量に限らず、聴取する側の聴覚器官の機能にも依存するためである。例外もあるだろうが、通常であれば、聴取不可能な音楽音楽とは見做されない。

精神生理学的な意味論においては、聴覚器官の制約条件は、定量的な問題設定として観察されている。例えば正弦波系の音響周波数や強度の関数として記述した場合、知覚可能な最小の持続時間はどの程度になるのかが問われる。また正弦波系の音響の最小周波数と最小持続時間に匹敵する最小強度は、何デシベルになるのかも研究の余地のある主題である。

しかしながら、個々の音響の基本粒子の挙動と聴覚器官に備わる各ニューロンの作動の関連から適切な音楽作曲していくとなれば、たとえ周波数と強度の計算であっても、膨大な情報を処理しなければならなくなる。古典力学のように、各分子の運動のそれぞれを計算している暇は無い。それ故にクセナキスは、自身の確率音楽論をマクスウェル=ボルツマン分布に接続させている。この確率分布を仮定することで、クセナキスは、観察の尺度が如何に重要であるのかを認識している。すなわち、クセナキスの作曲において重要となるのは、「マクロ」と「ミクロ」の区別の導入なのである。

クセナキスも述べているように、マクロな水準での現象では、ある出来事の複合体の総体としての結果が重要となる。現象を観察する場合には、その都度まず観察者と観察対象の尺度の関連を規定する必要がある。例えば銀河団を観察する場合には、まずその団全体の運動に関心があるのか、それとも単一のの運行に関心があるのかを明確化しなければならない。クセナキスも述べているように、この観点の粒度の問題は、音楽作曲する場合も同様に起こる。作曲者が空気中の粒子の動きに注意を払うのは徒労でしかない。むしろ注意を払うべきなのは、粒子の動きそれ自体ではなく、アンサンブルとしての音響複合体それ自体である。

音楽のプロトコル

以上のクセナキスの観点は、いずれも丁度本の各ページのように順序付けられた「点」としての音の集合に向けられていた。この「点」としての音の集合を音の流れを伴わせた「線」に翻訳した結果をクセナキスは「プロトコル(Protocole, protocol)」と呼ぶ。この時、流れに沿って連続するようになった二つの「点」は、「推移(transition)」の関連にある。この関連にある二つの音は、時系列上で関連付いているため、事前と事後に区別される。そして、事後に対応する音は、事前の音からの推移によって「変換(transformation)」した音となる。言い換えれば、変換とは推移の集合意味する。

クセナキスはこの論理学的な記述を行列で再記述できるという。つまり、推移の関連にある事前の音と事後の音のそれぞれに対応する二つの行列の積が、変換の演算操作を意味する。そしてクセナキスは、「マルコフ連鎖(Markov chain)」を仮定することによって、変換の確率が十分に長い時間に渡って一定で、尚且つそれらが最初の状態とは無関係である場合の確率論的な行列を記述していく。

機構としてのコンピュータ

クセナキスの『形式音楽』は、コンピュータに依存した作曲方法を提示している訳ではない。クセナキスにとっては、コンピュータによって音楽に数学が導入されるのではなく、数学がコンピュータを用いて楽曲を造るのである。クセナキスがこのことを強調する際に引き合いに出しているのは、「機構(mechanism)」である。クセナキスは、この機構という概念が厳密な論理から芸術表現に至るまで人間の知識と行動の隅々まで浸透しているという。

人間の創造的な思考は、確かに観念的な機構によって生まれているのかもしれない。しかしこうした観念的な機構も、結局は制約と選択の集合でしかない。これらの集合は、数学的に記述することができる。そしてこれらの機構の中には、車輪、モーター、アナログ計算機、そしてコンピュータと言った具合に、事物として造ることができる機構がある。それと共に、ある種の観念的な機構の中には、自然の機構に対応している機構もあるはずだ。それ故、音楽をはじめとした芸術作品を創造する上では、その創造の営みの一部が機械化できる可能性がある。そして、既存の、あるいは今後制作されるであろう物理的な機構や機械によって、そうした創造の営みを実行することができるはずである。その際、コンピュータが機構の一つとして機能するかもしれない。

クセナキスは、以上のような考察を、作曲コンピュータを利用するための論理的な出発点になるという。この考察は、機構すなわち<力学>を普遍的に適用可能であると考えている点で、ボルツマンの思想と共通する側面を有している。ただしクセナキスの思想の場合、その前提にあるのは、物理学ではなく数学である。数学の確率論に準拠することによって、クセナキスは音楽の<力学>をコンピュータで処理することを可能にしているのである。

記号的音楽

クセナキスの『形式音楽』の第6章では、「記号的音楽(MUSIQUE SYMBOLIQUE)」の思考実験が展開されている。ここでは論理学や代数学の観点による概念の抽象化によって作曲形象叙述されている。

「まずこの章では、突然記憶喪失になった自分を想像してみよう。記憶を失ったが故に、作曲という作業に付き纏う精神的な操作(opé­rations mentales)の起源まで遡及することで、あらゆる種類の音楽に通用する一般的な原理を抽出することが可能になる。ここでは、心や身体の面から知覚を研究するのではなく、音を聴取するという現象(le phénomène de l’écoute)と音楽を聴取する際の思考(la pensée lorsque nous entendons)をより明確に理解することだけに集中する。これにより、過去の作品をより良く理解するための道具や、新たな音楽を作曲するための道具を作り出したい。それにはまず、組織化されていたり、散らばっている実在や概念を拾い集め、切り分け、のり付けすると同時に、論理の細い糸を解きほぐす必要がある。その論理に欠落があるのは間違いないだろうが、実際に存在しているというだけでも十分に価値がある。」
Xenakis, Iannis. (1963). Musiques formelles, Paris: Editions Richard-Masse., 185より。

音響的な出来事の生成消滅

音楽を記号論理学的な観点から観察する場合、その音響的な出来事に備わるあらゆる質的な観点を放棄することになる。観察者はそれにより、その音響的な出来事の抽象的な諸関連と諸操作にのみ目を向けることになる。この観察者を前にすれば、「音響的な出来事が生起する」という現象は、音による言明、記銘、記号として観察される。

ここでは、音響的な出来事を示す記号をaと表す。この出来事が一度しか起きないのであれば、それは生じては消え去る単一の存在でしかない。要するに、aが存在するというだけの話になる。

この音響的な出来事aが連続して生起するとすると、それらをまず比較することで、結果的に全てが同一であると結論付けることができる。しかしこの結論は、これ以上でもこれ以下でもない。ただそれだけである。つまり、繰り返し生起する出来事は同一性や反復性を有しているという情報しか得られない。

だがこの音響的な出来事の繰り返しによって、もう一つの出来事の基礎となる現象である「時間の変調(la modulation du temps)」が生み出される。例えば問題音響出来事がモールス信号であった場合、時間の横座標は音の外側に音とは独立して存在する概念として意味を獲得することになる。つまり、反復によって同一性を推論できるようになるばかりか、新たに一つ現象が生み出される。その現象が時間に刻み込まれることで、時間に変調性を植え付けるのである。

仮に時間の要素を全て排除した場合、単一の音響的な出来事は、その出来事が起きたということを意味するに過ぎない。その符号、その記号、その包括的な要素aが発せられたという話だけなのである。そして実際に繰り返された音響出来事は、同一性と反復性のみを意味する。

時間とは無関係に隣接することを記号νで表し、左右が等価であることを=で表すなら、aを巡る関連は、$$a \vee a \vee a \vee a \vee … \vee a = a$$ である。単一の音響的な出来事で可能となるのは、これ以外に何も無い。

音響的な出来事が二つ以上存在する場合を仮定する。二つの音響的な出来事区別するために、ここでは双方をそれぞれaとbで表記する。観察者は、丁度文字のaとbを視覚的に区別するのと同じように、二つの音響的な出来事を聴き分けられると仮定する。

時間の要素を排除した場合、二つの要素を対成す概念として観察することが可能になる。その結果、aとbの順序を認識することは困難か、あるいは不可能になる。観察者にとって、最初にaが起きてからbが起きたとしても、最初にbが起きてからaが起きたとしても、これら二つの異なる音響的な出来事から得られる情報は、長い沈黙を経てそれぞれの音が別々に聴取された場合と全く同じになる。

時間的な要素やaとbの類似性を度外視するなら、$$a \neq b$$を満たすaとbの関連は、 $$a \vee b = b \vee a$$ となる。aとbを隣り合わせにしても、新しいことは何も起きない。それ以前との差異が確保されない。故に、この関連においては、交換法則が成り立つ。

時間類似性を度外視したまま、第三の音響的な出来事となるcを導入してみよう。三つの異なる音響的な出来事a, b, cが存在する場合には、そのうちの二つの組み合わせが一つの要素として構成されることで、その要素が第三の要素と関連すると想定することができる。すなわち、$$(a \vee b) \vee c$$ となる。

しかしこうした結合操作を実行しても、新しいことは何も生起しない。したがって、$$(a \vee b) \vee c = a \vee (b \vee c)$$となり、結合法則が成り立つ。

したがって、時間の要素を排除することによって、作曲は、交換法則と結合法則を獲得することが可能になる。しかし、音響的な出来事a, b, cが時間の中で発現していると想定した場合、もはや交換法則が成立しなくなる。つまり、事前の出来事を$$⊤$$と表すなら、$$a ⊤ b \neq b ⊤ a$$ となる。言い換えれば、aとbは非対称である。この非対称性が生じるのは、人間経験則から習慣的に時間出来事が一対一の対応関係として観察されているためだ。しかし出来事時間を独立した事象として区別した場合、つまり交換法則と結合法則が成り立つ場合を想定するなら、こうした非対称性は観察されない。

距離としての音程

あらゆる音響的な出来事は、音の始まりから終わりまでの間に代わっていく性質の集合として知覚される。音の高さ、持続時間、音色などが感じられるであろう。個々の音響には、密度やばらつき、同質性や不安定性などのような性質が含まれている。しかしこれらの個別具体的な性質は、音の強さに等級を付けた形式として抽象化することができる。数多の性質を一つずつ論じるよりも一つの性質に関して形式的に論じた方が、効率的に実り多い議論を展開することが可能になる。

ここでは音高の区別を導入する。この時、二つの音響的な出来事a, bを与えられただけでは、それらの距離に該当する音程を認識することはできない。音程の概念を構成するには、第三項となるcが必要となる。第三項があれば、観察者は直接的に音高の差異知覚できるようになる。順繰りに比較することで、まず以って相対的な音高を認識することが可能になる。これにより、距離としての音程を概念として形成することができる。この第三項という発想を応用すれば、音高のみならず旋律の音程もまた順序付けて分類することが可能になる。

今、$$H = (h_a, h_b, h_c, …) $$という音程の集合と、等価関係や大小関係を示す二項関係Sが与えられて、次の三つの条件を仮定する。

第一に、あらゆる$$h \in H$$ について、次のように反射法則が成り立つ。$$hSh$$

第二に、$$h_a = h_b$$ではない限り、次のように非対称性が成り立つ。$$h_aSh_b \neq h_bSh_a$$

そして第三に、$$h_aSh_b$$ かつ$$h_bSh_c$$ならば、次のように推移法則が成り立つ。$$h_aSh_c$$

この時、音響的な出来事が引き起こす感覚の異なる側面が、採用された距離の単位に応じて、最終的には完全あるいは不完全であるにしても部分的な順序集合を形成する。例えば音響距離としての音程の単位として、半音の関係ではなく、1.00001の関係を採用すると、音高や音程の集合は極めて曖昧になり、順序付けも完全ではなくなる。何故なら人間の耳は音の高低の微細差異を聴き分けることができず、この関係を区別することは困難であるためだ。一般に単位距離を十分大きく取れば、音響的な出来事の性質の多くを完全に順序付けることが可能になる。

音響的な出来事の構造化

冒頭では素朴な音楽の実践から出発したが、距離としての音程の概念を定義することができた。そこで次は、この音程の集合の細部を観察していく。この音程の集合は、自然数の積集合$$\bf{N} \times \bf{N}$$の同値類と同型である。これを前提とした上で、次の五つの特徴を抽出することができる。

第一に、結合した音程の内部合成則は加法的である。まず旋律の音高の距離集合Hがある時、内部合成則によって、各組$$(h_a, h_b) \in H$$に第三の要素を対応させることができる。この$$h_a$$と$$h_b$$の合成を$$h_a + h_b = h_c$$と表記することにする。ただし、$$h_c \in H$$となる。

例えばピッチが$$I, I\hspace{-1pt}I, I\hspace{-1pt}I\hspace{-1pt}I$$の三つの音があり、$$(I, I\hspace{-1pt}I)$$という組み合わせと$$(I\hspace{-1pt}I, I\hspace{-1pt}I\hspace{-1pt}I)$$という組み合わせの差分を半音で表した音程が$$h_{(I, I\hspace{-1pt}I)}$$と$$h_{(I\hspace{-1pt}I, I\hspace{-1pt}I\hspace{-1pt}I)}$$であるとする。この時、一つ目の音と三つ目の音の間の音程$$h_{(I, I\hspace{-1pt}I\hspace{-1pt}I)}$$は、残る二つの半音の和と論理的に等価となる。したがって、結合した音程の内部合成則は加法的となる。

第二に、この法則は、結合法則を満たす。すなわち、$$h_a + (h_b + h_c) = (h_a + h_b) + h_c = h_a + h_b + h_c$$

第三に、代数学的に言えば、あらゆる$$h_a \in H$$に対して中立的な元$$h_0$$が存在していると仮定するなら、次の式が成り立つ。$$h_0 + h_a = h_a + h_0 = h_a$$

より形式的に言えば、あらゆる元は、如何なる二項演算においても、中立元による影響を受けない。音高において、この中立元に該当する概念はユニゾンである。

第四に、全ての$$h_a$$に対して、逆元$$h’_a$$が存在する。そして逆元との間には次の式が成り立つ。

$$h’_a + h_a = h_a + h’_a = h_0 = 0$$

また、プラスのデシベル差で表わされる強度が増す過程の前後に、マイナスのデシベル差で表される強度が減る過程が起こっている場合、互いの効果が相殺される。プラスの時間差に対してはマイナスの時間差があり、その和はゼロ、つまり同時になる。

そして第五に、この法則は交換法則を満たす。すなわち、$$h_a + h_b = h_b + h_a$$

時間内/外の構造化

一先ず要約しておこう。音を聴取する観察者や音楽思考する観察者の認識の要点は、次の5つに区別できる。

第一に、観察者は三つの音響出来事a,b,cの区別を導入している。あえて強調しておくが、二つではない。この音響的な出来事に対する認識論は二値論理学的ではなく多値論理学的である。

第二に、ここから観察者は、時間の連続性を認識し始める。つまり、時間出来事が対応付けられる。これにより、aの事後にbが起こることとbの事後にaが起こることが、非可換となる。逆に言えば、時間の連続性は自明ではない。社会システム理論的に言えば、複合性の「時間化(Temporalisierungen)」の如く、まず出来事の要素としての複合性が先に構成されており、その後に時間区別が導入されている。

第三に、三つの音響的な出来事が認識され、それらの出来事時間が対応付いてから、出来事の間の時間が二つに区別される。これら二つの断片比較することにより、ある単位の倍数として表現することが可能になる。これにより、時間概念に計量が加わる。これらの断片は、集合Tの包括的な要素となる。故にこれらは可換である。

第四に、三つの音響的な出来事区別されることで、時間距離区別される。そして音響的な出来事時間距離が独立であることが認識される。これにより、音響的な出来事に対しては時間外の代数が、時間距離に対しては副次的な時間の代数が、それぞれ導入可能になる。ただし双方の代数は、他の点では全く同じである。いずれの代数的な操作においても、基本的に前提となるのは、やはり多値論理学である。すなわち、距離としての音程に対する観察者の認識は、aとbの二項のみならず、cという第三項が必要となる。

最後に、時間外の代数的関数と一時的な時間の代数的関数を一対一で対応させることが可能で、これらの対応が時間内の代数を構成する場合もある。

結局、音楽の分析と構成は、次の三つに基づいている。

  1. 実体、すなわち音響的な出来事の研究。一先ずの前提として、この実体には音高と強度と持続時間の三つの性質が集約されている。またこれらの実体には時間外の構造(structure hors-temps)がある。
  2. その他のより単純な実体である時間の研究。時間には一時的な構造がある。
  3. 時間外の構造と一時的な構造の対応。つまり時間内での構造(la structure en-temps)を主題とした研究。

ベクトル化

旋律の音程に関わる集合をH、強度の差の集合をG、持続時間をU、音響的な出来事とは独立な音響出来事を隔てている時間差をTとした場合、これらの集合には完全な順序が含まれている。またこれらの集合は、ある条件下で実数の集合$$\mathbb{R}$$と同型となり、各集合集合$$\mathbb{R}$$との間には外的な合成法則が保証されているとしよう。つまり、如何なる要素$$a \in E$$と如何なる$$A \in \mathbb{R}$$についても、$$b = Aa$$を満たすEの要素bが存在することになる。尚、ここでのEは上記のH,G,U,Tのいずれかの集合を、bはEの諸要素とする。

$$\boldsymbol{X}$$を集合H, G, Uの要素に順に対応している三つの数$$x_1, x_2, x_3$$をある順序で並べた列とする。この時、$$\boldsymbol{X} = (x_1, x_2, x_3)$$はベクトルとなる。この括弧の内容が、ベクトルの要素となる。これらの列の集合は、三次元のベクトル空間$$E_3$$を構成する。このベクトル空間では次の二つの合成法則が成り立つ。

1. 加法という内部の合成法則

$$\boldsymbol{X} = (x_1, x_2, x_3), \ \boldsymbol{Y} = (y_1, y_2, y_3)$$とすると、$$\boldsymbol{X} + \boldsymbol{Y} = (x_1 + y_1, x_2 + y_2, x_3 + y_3)$$が成り立つ。

更にこの合成法則には、次の三つの性質がある。

第一に、次の交換法則である。

$$\boldsymbol{X} + \boldsymbol{Y} = \boldsymbol{Y} + \boldsymbol{X}$$

第二の法則は、次のような結合法則だ。

$$\boldsymbol{X} + (\boldsymbol{Y} + \boldsymbol{Z}) = (\boldsymbol{X} + \boldsymbol{Y}) + \boldsymbol{Z}$$

第三の法則は、少し前提が要る。二つのベクトル$$\boldsymbol{X}, \boldsymbol{Y}$$がある時、$$\boldsymbol{X} = \boldsymbol{Y} + \boldsymbol{Z}$$となるただ一つのベクトル$$\boldsymbol{Z} = (z_1, z_2, z_3)$$が存在するとする。この時、$$z_i = x_i – y_i$$が成り立つ。この場合、$$\boldsymbol{Z}$$は$$\boldsymbol{X}$$と$$\boldsymbol{Y}$$の差と呼ぶ。この時、$$\boldsymbol{Z} = \boldsymbol{X} – \boldsymbol{Y}$$となる。とりわけこの右辺の双方が等価、すなわちその差が0の場合、Zは全ての要素が0となるゼロベクトルとなる。

2. スカラー乗法の外的な合成法則

仮に$$p \in \mathbb{R}$$で$$\boldsymbol{X} \in E_3$$ならば、$$p\boldsymbol{X} = (px_1, px_2, px_3) \in E_3$$が成り立つ。

更に$$p, q \in \mathbb{R}$$であるなら、この合成法則は次の三つの性質がある。

第一に、これはスカラー値の乗法が要素に適用されることを意味する。

$$1 \cdot \boldsymbol{X} = \boldsymbol{X}$$

第二の性質は結合法則である。

$$p(q\boldsymbol{X}) = (pq)\boldsymbol{X}$$

第三の性質は分配法則だ。

$$(p + q)\boldsymbol{X} = p\boldsymbol{X} + q\boldsymbol{X}$$

$$p(\boldsymbol{X} + \boldsymbol{Y}) p\boldsymbol{X} + p\boldsymbol{Y}$$

ベクトル空間の基底と座標系

空間$$E_n$$のp個のベクトル$$\boldsymbol{X}_1, \boldsymbol{X}_2, …, \boldsymbol{X}_p \ (p \geqq n)$$がいずれも0ではなく、かつ、$$a_1\boldsymbol{X}_1 + a_2\boldsymbol{X}_2 + … + a_p\boldsymbol{X}_p = 0$$が成り立つのは、p個の値$$a_1, a_2, …, a_p$$が全て0の場合に限定される。この時これらのベクトルは線形独立である。

$$E_n$$のベクトルの中でi番目の要素だけが1で、残りは全て0であるようなベクトルを想定すると、このベクトル$$\boldsymbol{e}_i$$は、$$E_n$$のi番目の単位ベクトルになる。この時、$$E_3$$には三つの単位エクトルが存在する。例えば集合H, G, Uに対応する$$\boldsymbol{g}, \boldsymbol{h}, \boldsymbol{u}$$というベクトルである。これらのベクトルは線形独立である。何故なら、$$a_1\boldsymbol{h} + a_2\boldsymbol{g} + a_3\boldsymbol{u} = 0$$が成り立つのは、$$a_1 = a_2 = a_3 = 0$$の場合に限られるためである。そして、$$E_3$$に含まれているベクトル$$\boldsymbol{X} = (x_1, x_2, x_3)$$はいずれも、これらの単位ベクトルを用いて、次のように再記述できる。

$$\boldsymbol{X} = x_1\boldsymbol{h} + x_2\boldsymbol{g} + x_3\boldsymbol{u}$$

このことを踏まえれば、$$E_3$$には線形独立なベクトルが4つ以上存在しないことがわかる。こうした性質を持つ集合$$\{\boldsymbol{h}, \boldsymbol{g}, \boldsymbol{u}\}$$は、$$E_3$$の基底にもなっている。初等幾何学的に言えば、$$\vec{O\boldsymbol{h}}, \vec{O\boldsymbol{g}}, \vec{O\boldsymbol{u}}$$を座標軸と呼び、この三つから成る集合を$$E_3$$の一つの座標系と呼ぶ。こうしたベクトル空間では、全ての座標系が原点Oを共有している。

部分ベクトル空間

$$E_n$$に属する空ではないベクトル集合Vが以下の性質を持つ場合、この集合を部分ベクトル空間と呼ぶ。

第一に、$$\boldsymbol{X}$$がVのベクトルなら、スカラー量qの値には左右されないまま、$$\boldsymbol{X} + \boldsymbol{Y}$$もVに属する。

第二に、$$\boldsymbol{X}, \boldsymbol{Y}$$がVの二つのベクトルなら、$$\boldsymbol{X} + \boldsymbol{Y}$$もVに属する。

以上のふたつの条件から、次の二つの条件が得られる。

第一に、全ての部分ベクトル空間はベクトル$$0 \cdot \boldsymbol{X} = 0$$を含む。

第二に、Vのp個のベクトルの一時結合$$a_1\boldsymbol{X}_1 + a_2\boldsymbol{X}_2, …, + a_p\boldsymbol{X}_p$$も、常にVに含まれている。

音響的な出来事のベクトル空間

以上のベクトル化を前提とすれば、あらゆる音響的な出来事は、部分ベクトル空間として表現することができる。この時、基底は$$\boldsymbol{h}, \boldsymbol{g}, \boldsymbol{u}$$の組み合わせに限られる。この組み合わせ以外のあらゆる音の性質やより複合的な性質は、これら三つの単位ベクトルの一次結合分解することができる。Vの次元は3で固定される。

実際、スカラー量pとqが取り得る値には範囲が設けられる。と言うのも、音響に対する可聴領域には限界があるためだ。だがこのような制約が現実的にあり得るからといって、このベクトル化の応用範囲が狭まる訳ではない。むしろこの制約は計算アルゴリズムの方向付けとして機能している。

例えば、$$\vec{O\boldsymbol{h}}, \vec{O\boldsymbol{g}}, \vec{O\boldsymbol{u}}$$を座標系としている三つの面の原点をOとして、基底$$\boldsymbol{h}, \boldsymbol{g}, \boldsymbol{u}$$の単位をそれぞれ半音、10dB、秒として取ることができる。更に原点Oは、伝統的な絶対音階から任意に選ぶことが可能だ。例えば$$\boldsymbol{h}, \boldsymbol{g}, \boldsymbol{u}$$の原点はそれぞれC3(440Hz)、50dB、10秒と置くことができる。

以上のように、ベクトルの代数学によって、数学がコンピュータを用いて楽曲を造るという営みが実行可能になる。過去音楽作品をベクトル化することもできれば、作曲内容をベクトル化することでコンピュータに演奏させることもできる。しかし音響的な出来事のこれらの実体には時間外の構造(structure hors-temps)もあれば時間内での構造(la structure en-temps)もあるのであった。したがってこれらに関する代数も、この時間に応じて区別されるべきである。

時間外の代数

音響的な出来事の成分に関する代数は、時間の流れからは独立している。そのためこの代数は、時間外の代数となる。

今仮に、集合Aにおける操作と関係を記述するなら、例えば以下のように、$$\boldsymbol{X}_n$$の計算が可能になる。

$$\boldsymbol{X}_0 = (18 + 0)\boldsymbol{h} + 0\boldsymbol{g} + 5\boldsymbol{u}$$

$$X_1 = (18 + 3)\boldsymbol{h} + 0\boldsymbol{g} + 4\boldsymbol{u}$$

$$\boldsymbol{X}_2 = (18 + 6)\boldsymbol{h} + 0\boldsymbol{g} + 3\boldsymbol{u}$$

$$\boldsymbol{X}_3 = (18 + 9)\boldsymbol{h} + 0\boldsymbol{g} + 2\boldsymbol{u}$$

$$\boldsymbol{X}_4 = (18 + 12)\boldsymbol{h} + 0\boldsymbol{g} + 1\boldsymbol{u}$$

$$\boldsymbol{X}_5 = (18 + 0)\boldsymbol{h} + 0\boldsymbol{g} + 1\boldsymbol{u}$$

上記の各ベクトルはそれぞれ音階に対応している。ここから自由ベクトル$$\boldsymbol{v} = 3\boldsymbol{h} + 0\boldsymbol{g} – 1 \boldsymbol{u}$$を抽出するなら、次のようにベクトルを再記述できる。

$$\boldsymbol{X}_i = \boldsymbol{X}_0 + i\boldsymbol{v} \ (i = 0, 1, 2, 3, 4)$$

この時集合Aは、加法で結び付いた二つのベクトル$$\boldsymbol{X}_0, \boldsymbol{v}$$の族で構成されていることになる。

一時的な代数

音響的な出来事時間軸上に生み出す代数は、ベクトル空間とは独立な、一時的な代数となる。

集合Aのベクトル$$\boldsymbol{X}_i$$の音の発生は連続的である。それは、i = 0, 1, 2, …の順序で推移している。言い換えればこのことは、

$$A \cong E_3 \cong V$$の基底の原点Oが時間軸上で移動させられているということでもある。だがこの移動は既定の変動とは無関係である。基底の変更は、ベクトル空間$$E_3$$における基底$$\boldsymbol{h}, \boldsymbol{g}, \boldsymbol{u}$$の操作でしかない。したがって、集合Aを記述する上記のi = 0, …, 5までのベクトルが同時的に生起しているのならば、その変位は0となる。

これらのベクトルの原点Oが時間軸に割り当てる時点の断片はいずれも等価である。それは集合Tにおける内部の合成法則$$\Delta t_i = \Delta t$$の関数に従う。また、時間軸上の原点とΔtに等しい単位線分を想定するなら、$$t_i = a + i\Delta t \ (i = 1, 2, 3, 4, 5)$$が成り立つ。

時間内の代数

ベクトル集合の諸要素と時間軸上の集合Tの諸要素との対応や関数的な写像関連から生じるのは、当該ベクトル集合とは独立な、時間内の代数である。

Aのベクトル$$\boldsymbol{X}_i$$には、H, G, Uという成分が含まれている。これらの成分は、パラメタ$$t_i$$の関数として表現することができる。この場合、$$t_i = i\Delta t$$となる。そしてこの場合のiは、i = 1, 2, 3, 4, 5といった具合に、辞書的順序が設定されている。これにより、ベクトルの各要素を順序集合Tと紐付けることが可能になる。

一般的に、ベクトル$$\boldsymbol{X}$$の成分がtの関数である場合、当該ベクトルは時間tをパラメタとする関数となる。定式化して言えば、

$$\boldsymbol{X}(t) = H(t)\boldsymbol{h} + G(t)\boldsymbol{g} + U(t)\boldsymbol{u}$$

若しこれらの関数が連続であるなら、その微分を想定することができる。つまり、

$$\frac{d\boldsymbol{X}}{dt} = \frac{dH}{dt}\boldsymbol{h} + \frac{dG}{dt}\boldsymbol{g} + \frac{dU}{dt}\boldsymbol{u}$$

この時、Gの変動を微小なものとして無視するなら、次のような条件が成立する。

$$\frac{dH}{dt} = 0 \therefore H = c_h$$

かつ

$$\frac{dU}{dt} = 0 \therefore U = c_u$$

HとUはtの変位とは独立している。$$c_h, c_u$$は0に等しくなければ、音響的な出来事の音高や持続時間変異しないことになる。一方、$$c_h, c_u$$が0ならば、音は全く存在していない。それは沈黙を表す。

一方、$$\frac{dH}{dt} = 0 \therefore H = c_h$$

かつ

$$\frac{dU}{dt} = 0 \therefore U = c_ut + k$$の場合、$$c_h, c_u$$が0ではないなら、ユニゾンを形成する無限個のベクトルが得られる。$$c_u = 0$$なら、音高が$$c_h$$で一定で、持続時間が$$U = k$$の単一のベクトルを得ることになる。

$$\frac{dH}{dt} = 0 \therefore H = c_h$$

かつ

$$\frac{dU}{dt} = 0 \therefore U = F(t)$$の場合には、ユニゾンを形成する無限個のベクトルの族が得られる。

類とブール代数

ここで、記憶喪失となった観察者が、ある特別な性質を持つキーの集合Aと関わるとしよう。この集合Aは、ピアノの全てのキーから構成された$$\mathbb{R}$$の部分集合である。この部分集合は、予め選択された集合である。その性質は幾つかのキーの選択方法によって特徴付けられている。

今、観察者に対して、類Aに属する音をピアノで弾いて、その後に類Aとは区別される類Bに属する音をピアノで弾いたとしよう。この時、この二つの類に属する音を聴取した観察者は、AとBの関連に時系列的な関連が潜んでいることを発見する。すなわち、AがBの前に発生している。そして観察者は、これら二つの類の共通性可変性区別するようになる。つまり、共通部分があるならば、二つの類は部分的に交わっていることになる。逆に共通性が全く無い場合は、これらの類は互いに素であるということになる。一方、Aの諸要素が全てBに含まれており、Bの諸要素が全てAに含まれている場合、観察者はこの二つの類を区別できない。

改めて観察者は、Aに属する音、Bに属する音、そして双方の共通部分となる要素で構成された音を順に聴取したとする。論理学的に言えば、ここでの概念操作は、類Aと類Bの共通部分を取るという論理積の操作となる。つまり、

$$A \land B$$

あるいは、$$A \cdot B, B \cdot A$$

となる。この論理積の操作によって、観察者は、AとBに共通する音を数え上げたことになる。それにより観察者は、新たな類を記号化したことになる。

一方、Aの次にBを聴取し、AとBの全ての要素を混合した音を聴取した場合も、新たな類を記号化したことになる。この場合の概念操作は、論理和の操作となる。つまり、

$$A + B, B + A$$

となる。他方、類Aを記号化した後に、$$\mathbb{R}$$の音の中のAに属さない音だけを聴取すれば、観察者はAの$$\mathbb{R}$$における補集合が選択されたと考えるはずだ。それは、Aの否定を取るという概念操作を意味する。すなわち、$$\overline{A}$$となる。

したがって音響的な出来事は、類として定義することが可能である。そして、類として定義された音響的な出来事に対しては、論理積、論理和、否定などといった操作が可能である。

ブール代数においては、三つの類A, B, Cの関数F(A, B, C)は、次のような加法標準形で表現できる。

$$\sum_{i = 1}^{8}\sigma_ik_i$$

ここで、$$\sigma_i = 0$$または$$\sigma_i = 1$$となる。そして、

$$k_i = A \cdot B \cdot C$$

または、

$$k_i = A \cdot B \cdot \overline{C}$$

または、

$$k_i = A \cdot \overline{B} \cdot C$$

または、

$$k_i = A \cdot \overline{B} \cdot \overline{C}$$

または、

$$k_i = \overline{A} \cdot B \cdot C$$

または、

$$k_i = \overline{A} \cdot B \cdot \overline{C}$$

または、

$$k_i = \overline{A} \cdot \overline{B} \cdot \overline{C}$$

となる。

一般化すれば、n個の変数のブール関数が$$+, \cdot , \overline{}$$の記号を利用して表現される場合の、利用される記号数の最大値は、次のようになる。

$$3n \cdot 2^{n-2} -1$$

概念と音響の互換性

音響的な出来事と数学的あるいは論理学的な記述は、双方向に変換することができる。音響的な出来事として聴取されていた対象を数学的あるいは論理学的な記述に変換することもできれば、その逆の変換も可能であるということだ。

フレッド・ラダールが提唱した「音色ピッチ空間(Tonal pitch space)」の理論は、音程間、和音間、調間に定量的な距離を設定する。音響の心地良さは、この距離に反比例する。つまり、この距離が短いほどその音響は良い音響であると、形式的に規定される。逆にこの距離が長い場合、その音響は不自然な違和感を伴わせる。

この距離概念を前提とした上で、音色ピッチ空間理論では、「ピッチクラス(pitch class)」という概念を導入することによって、半音階のCからBまでの音にそれぞれ0から11のピッチクラスを割り当てる。しかしこうして割り当てるだけでは、例えばこの概念にオクターブの差異が如何に関わってくるのかが視えなくなる。これでは、例えばクセナキスが試みている$$\boldsymbol{h}, \boldsymbol{g}, \boldsymbol{u}$$のように、他の音響的な概念との関連を保持した上でのベクトルの演算が困難になってしまう。

しかし音色ピッチ空間理論において目を見張るのは、このような計算アルゴリズム設計上の問題ではない。ラダールがこの理論を記述する際に取り上げているのは、リヒャルト・ヴァーグナーの『パルシヴァル(Parsifal)』である。ラダールはヴァーグナーのこの作品に内在している意味論から二つの主導的差異を抽出することで、それを「十字架(cross)」として可視化している。

「これらの意味(meanings)は流動的である。『天国(heven)』によって『救済(salvation)』を、『地上(earch)』によって『具象世界』を、『善(good)』によって『真理(truth)』を、『悪(evil)』によって『罪(sin)』を、それぞれ意味している。対角線上の軌道は、それらが結合させられる方向の特徴を融合させる。北東の軌道が償還(redemption)に達する一方で、西南の軌道は、この世界での罪を明らかにする。」
Lerdahl, F. (2004) Tonal Pitch Space, Oxford University Press, p119.

Lerdahl, F. (2004) Tonal Pitch Space, Oxford University Press, p137より。

したがって、この天国と地上の区別と善区別によって構成された「十字架」は、一種の直交座標となる。それは意味についての直交座標である。ラダールは、これらの意味が流動的であると述べている。元来、これらの意味は連続的に推移しているのかもしれない。しかし音階が座標の単位として導入されることで、これらの意味差異は、距離として離散化される。更にこの二つの座標は、二つの特徴量の次元としても機能する。その結果『パルシヴァル』の意味論では、そのメッセージを、天国と地上の距離と善と距離複合性によって送信することを可能にしているのである。

排除された第三項としての外情報

このラダールの発想を応用すれば、情報とその意味を取り込んだ上での自動作曲が可能になる。言い換えれば、何らかの概念の意味区別する<存在X>をコンピュータ上でシミュレートすることで、その区別意味処理規則音楽へと変換することが可能になるのである。

その際我々は、作曲時の情報の処分に対する感性を敏感に働かせながら、自動作曲を実践できるようになるであろう。と言うのも、多値論理学的に言えば、ある区別の導入において処分される情報とは、その区別によって排除された第三項であると推論できるためだ。『パルシヴァル』の事例で言えば、天国と地上の区別によって排除された第三項と、善区別によって排除された第三項が、この場合の処分された情報であるということになるであろう。何故なら、観察者がある区別を導入するということは、別のあり方でもあり得る区別の中から、当の区別区別した上で選択しているということだからである。

多値論理学的に言い換えれば、メッセージとしての音楽を送信する際に処分された情報とは、ある区別の導入によって棄却された諸々の潜在的な区別であるということになる。もしこの<導入された区別>と<棄却された他の区別>の組み合わせをログとして保持できれば、その<導入された区別>の意味論から音楽へと変換する作曲者は、<棄却された他の区別>に該当する外情報が何なのかを明示的に特定した上で、その音楽メッセージとして発信することが可能になる。

そうして構成された<メッセージとしての音楽>と<その外情報としての排除された第三項>の組み合わせをその音楽聴取者に提示すれば、その音楽聴取者は、当の<メッセージとしての音楽>を聴取した際に連想あるいは想起した外情報と、実際の<その外情報としての排除された第三項>とを突き合わせることによって、自身がどの程度その音楽外情報を知り得たのかを検証することが可能になる。確かに、聴取した音楽に備わる外情報熱力学的深度が大きければ大きいほど、その音楽聴取者が知り得る外情報は、相対的に微々たる「深み」に留まるであろう。しかし裏を返せば、そうした音楽聴取者は、まだその音楽メッセージにはまだ視ぬ「深さ」があるということを再認することが可能になる。それは、音楽という営みをより一層「深化」させることに等しい。

自動作曲の実験的実践

以上のような情報外情報区別による自動作曲の応用案から、このWebサイトでは自動作曲を試みている。コード進行やメロディをはじめとした音響的な出来事構成は、様々なアルゴリズムによって自動化できるであろう。その一部はライブラリ化して、以下のリポジトリで公開している。

問題再設定:「私の中にいる、私よりも大いなる何らかの存在」、あるいは「全体」を凌駕する「部分」

マクスウェルは、1860年代に、電気や磁気などの現象に関して経験的に知られていたことを、四つの短い方程式で定式化することに成功した。しかもその方程式は、物理学の理論に対する多大な影響力を持つばかりか、洗練された美しさまで備えていた。しかし、マクスウェルは単に、既知の事柄の全てを徹底して数式に纏め上げただけではない。歴史から観れば奇妙なことである。彼は、当時誰一人として行なっていなかった関連付けをも成功させたからである。

ボルツマンは、僅かな記号で実に多様な現象の数々を包括的に説明することを可能にしたマクスウェルの四つの短い方程式を判読した際に、「これらの記号を記述したのは神なのか」と、驚きと興奮を交えながら述べたという。ノーレットランダーシュも、ジャーナリストの立場から、この出来事がある意味で科学研究史上のであるという。可能な限り少ない言葉や数式によって、可能な限り多くを物語る。あるいは、重要なデータを網羅し、それを観れば道がわかるような単純明快な地図を作成する。しかも、そのような目標を追究するだけには留まらず、制作時にはまだ知られていなかった土地の詳細をも見て取れるような地図を制作することが可能であるとするならば、その機構はに包まれている。

マクスウェルは、自身の研究方法として、ボルツマンやギブスと同様に、意識的に類推方法を採り入れていた。電気と磁気の現象を生じさせる場を象徴する渦を空間に想定することにより、彼はこの二つの現象の理論化を成し遂げた。初めに、あえて単純な形象(image)を利用することで、現象を十分理解して数式の形式表現できるようになる。すると、元々の形象忘却することになる。マクスウェルは、この単純化の思考過程を有効に活用していた。

マクスウェルが思い描いていた渦の形象は、後に複数の小さな歯車から構成された仮想的なモデルへと発展する。当初彼は、この渦の形象を導入することによって、電気と磁気が力学的に類似していることを立証しようとした。だがそのためには、より小さな渦の形象も必要になった。このより小さな渦の形象に該当する物理現象は存在しなかった。だが彼の頭の中での整合性を保つには、この小さな渦の形象が不可欠であった。構図を可能な限り整然とさせるには、たとえ存在しない現象であっても、それが必要な虚構であったのである。マクスウェルは、こうした仮想上の小さな渦の形象空間上で散逸していく速度計算した。すると、それが光速であることが判明した。

だが、これは奇妙な発見である。何故なら、光が電気や磁気と関連しているとは、当時誰も考えていなかったためである。今でこそ我々は、光には、ラジオやテレビの電波、エックス線、赤外線、マイクロ波、ガンマ線など、様々な種類があるということを知っている。だがこれらの性質の多くが発見されたのは、マクスウェルの死後である。しかしマクスウェルは、類推によって、光が波動性の電場と磁場であることを見抜いた。マクスウェルの方程式は、単に所与の問題設定に対する問題解決策として機能するばかりか、光の性質を説明するという観点からも有用であったのだ。

こうした電気と磁気の歴史意味論を念頭に置けば、「これらの記号を記述したのは神なのか」とボルツマンが疑問を抱くのも、至極尤もなことだと思える。実はノーレットランダーシュも詳しく取り上げているように、この疑問に対する回答は、マクスウェル自身から提出されている。彼は死ぬ間際、ケンブリッジ大学の同僚が見舞いに来た際に、次のように述べた。

「私の関心は常に、人物(persons)よりも事物(things)にある。私は、事物を動かしている任意の意志(will)よりも、事物が生起した直後の状況(circumstances)を考えずにはいられない。私が思うに、私自身によって成されたことは、私の中にいる、私よりも大いなる何らかの存在によって成されたのだ。事物における私の関心は常に、人類学ではなく神学に向けられている。意志の状態だけが、私を惑わす。私はそれをある程度信じている。だが、一部の人々のように、堕落した意志に多くを帰属させることは、私にはできない。」
Campbell, Lewis., Garnett, William. (1997) The Life of James Clerk Maxwell, 2nd edition, Sonnet Software, Inc, p203. 強調は筆者より。

元々マクスウェルは、科学・学問の発展に寄与した自身のアイディアが、自己や自己意識、あるいは自我と呼べるような存在からは生み出されていないことに勘付いていたようではある。その証拠に彼は、1856年に書いた『夢の国の復興(RECOLLECTIONS OF DREAMLAND)』という詩において、次のように叙述している。

「私が研究から解放された時、遅くに私は眠るようにメモを書いて、事柄と数字の真っ只中から無限の空間へと跳躍した。外部世界が消えていくに連れて、内なる世界が広がり、魂は内側に隠居することで、球体を超えた自己自身を発見する。そしてその壊れない同一性において、幾つかの素晴らしい夢が進行し、曖昧な情動が浮上し、思考や言葉や行動へと成就していく。長らく忘却されていた旧い印象は、私が往年習熟している幾つかの場所の特徴を想起するまで、時間と空間の中で自らの範囲を限定している。(略)我々の知らない、我々の内部にある力(powers)や思考(thoughts)は、自己(Self)が密かに身を置いている場所から意識の活動の流れ(the stream of conscious action)を通じて上昇することによって顕現する。しかし、訪れては去っていく思考に依拠した意志(Will)や感覚(Sense)が沈黙する時、我々はその隠れた深部において、岩や渦を追跡することになるかもしれない。」
Campbell, Lewis., Garnett, William. (1997) The Life of James Clerk Maxwell, 2nd edition, Sonnet Software, Inc, pp.299-298.

我々は既に、「マクスウェルの悪魔」と相対したボルツマンの「力学的唯物論」との関連から、人間精神にも<機構>があるがために、心理学にも<力学>があるということを確認している。ボルツマンの後史に位置付けできる情報理論との関連で言えば、マクスウェルの四つの方程式は、それ自体は意識自我によって生み出された産物であって、マクロ水準で記述された情報処理の結果であるということになる。だが如何に短い数式であっても、その記述に到達するまでの間に、大量の情報を処分しているはずだ。言い換えれば、こうした数式の熱力学的深度は大きく、外情報が豊富に潜在化しているはずなのである。しかしマクスウェルは、その全ての情報処理を意識的に実践していた訳ではない。そのことを自覚していたからこそ、彼は、「我々の内部にある力や思考」や「意志や感覚が沈黙する時」に着目しているのである。

マクスウェルが述べた「私の中にいる、私よりも大いなる何らかの存在」とは、ミクロ水準で潜在化している何らかの<存在X>である。その<存在X>は、彼が四つの方程式を記述する直前まで、密かに彼の傍に居たはずなのだ。しかし、この<存在X>が何であったのかについては、決定打が無い。何しろ物証が無いのだ。しかしマクスウェルの思想的背景にあるのが神学であったということを踏まえれば、「これらの記号を記述したのは神なのか」というボルツマンの疑問に対するマクスウェルの回答は、悪魔のいずれかであったということになるであろう。

尤も、もしもボルツマンが、死ぬ間際のマクスウェルのこの回答を知っていたのならば、あの記号の記述者は悪魔ではなくであったと認識した可能性は十分にある。優れた理論物理学者を自負していたボルツマンが、それでも尚自身の『力学の諸原理』で表明していた決定的な神学形象を、ここで再掲しておこう。

「王は、神の恩寵によって統治する訳だが、神は力学の基礎法則なのである。」
Boltzmann, L. (1905). “Über die Prinzipien der Mechanik” In Ludwig Boltzmann-Populäre Schriften. Severus Verlag., S.308-337., 引用はS.317より、再掲。

参考文献

力学に関する参考文献

Boltzmann, L. (1905). “Über die Prinzipien der Mechanik” In Ludwig Boltzmann-Populäre Schriften. Severus Verlag., S.308-337.

熱力学に関する参考文献

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情報理論に関する参考文献

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データ・クラスタリングに関する参考文献

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確率的音楽に関する参考文献

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その他の歴史に関する参考文献

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