量子力学、統計力学、熱力学における天才物理学者たちの神学的な形象について

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派生問題:熱力学的な「類推」は如何にして可能になったのか

通俗的な解釈によれば、統計力学はマクスウェルやボルツマンによって創始された。そしてアンサンブル概念の意味論を前提に、彼らのアイディアを纏め上げたのが、ギブスであるとされている。しかしギブス流のアンサンブル概念は、単に等確率の原理に立脚しただけではなく、位相空間上に位置付けられた多数の系の振る舞いを想定した確率分布を意味している。既に指摘したように、このアンサンブル概念は、現代の通俗的な統計力学のような単一の系に関する確率分布なのではない。

ギブスの統計力学において、このアンサンブル概念は、あくまで力学的な命題として記述されている。そこには分配関数が接続されない。そのためギブスの統計力学から熱力学的な状態量を導き出すには、概念の導入の時点で既に、類推に頼ることになる。例えば磁化や相関関数のように、力学的に記述できる概念が主題である場合は、そのままギブス流の統計力学を使い回して構わないだろう。だがエントロピーや温度を主題として扱う場合には、まず類推という思考手続きが必要となる。裏を返せば、熱力学的な状態量の算出は、本来統計力学の二次的な問題に過ぎないのである。

類推意識することは重要である。統計力学熱力学の関連が類推形式であることを自覚できるのは、統計力学熱力学類似性や同一性に目を向けた時ではなく、その差異観察している場合である。統計力学熱力学の関連においては、熱力学の既成概念は統計力学的な類推の対象の一つに過ぎない。言い換えれば、類推の対象となる熱力学的概念や、類推を介した統計力学熱力学の関連は、可変的で偶発的なのである。

問題解決策:「単循環系」の静的力学

熱力学的な類推は既にヘルマン・フォン・ヘルムホルツによって実践されていた。ヘルムホルツはまず、熱運動と共通した特徴を有しており、尚且つより単純なモデルを導入している。それが「単循環系(monocyklisches System)」である。単循環系とは、その速度が一つのパラメタのみに依存する定常的で周期的な運動を含む系である。系の内部では保存力が働いているのに対して、系の外部では非保存力が働いている。この系の状態は静的で、十分に長い時間を掛けて変化していく。この単循環系は、力学的なモデルである。だが一方でこのモデルは、熱から仕事への変換における熱力学的な可能性の諸条件も満たしている。

単循環系を定式化していくなら、まず次の運動方程式を導入できる。

$$P_a = \frac{\partial H}{\partial p_a} + \frac{d}{dt}[\frac{\partial H}{\partial q_a}]$$

ここで、$$P_a$$は座標$$p_a$$に働いている外力である。また$$q_a$$は$$p_a$$の時間微分となる。
Hは、ポテンシャル・エネルギーをΦ、運動エネルギーをLとするなら、$$H = \Phi – L$$となる。

ヘルムホルツは、上記の運動方程式を前提とした上で、新たな概念を、ある群の座標$$p_b$$を「急速に変異する座標(schnell veränderliche Variable)」として導入している。単循環系とは、この「急速に変異する座標」が一つだけ含まれている系を意味する。一方で、$$p_a$$と$$q_b$$はこれに比して非常に遅く変異する。その結果、$$\frac{dq_a}{dt}$$や$$\frac{dq_b}{dt}$$の項は、無視することができると仮定できる。言い換えれば、単循環系変異の間は、ΦもLもそれほど変異しない。そのため、ΦとLは$$q_b = \frac{dp_b}{dt}$$には依存する一方で、$$p_b$$には依存しなくなると仮定できる。その結果、上記の運動方程式は$$P_b = +\frac{d}{dt}[\frac{\partial H}{\partial q_b}]$$となる。このような速度$$q_b$$が一つだけ存在するような系が、単循環系となる。

運動$$q_b$$の加速のために利用される外部の仕事は、次のようになる。

$$dQ = -P_bq_bdt$$

ここで、

$$s_b = -\frac{\partial H}{\partial q_b}$$

とするなら、

$$dQ = dU + \sum_{}^{} [P_adp_a] = q_b \dot ds_b \tag{1}$$

ここで、Uは次のような総エネルギー意味する。

$$U = \Phi + L = H – q_b \cdot \frac{\partial H}{\partial q_b}$$

熱力学的に言えば、Uは内部エネルギー意味する。これに対してエントロピーをSとするなら、温度θとパラメタ$$p_a$$の変異の間に系に加わる熱量dQは次のようになる。

$$dQ = dU + \sum_{}^{}(p_adp_a) = \theta dS \tag{2}$$

この関係式(2)は、上述した関係式(1)と形式的に類似している。(1)の$$s_b$$が(2)のエントロピーSに対応しているのは直ぐにわかるであろう。だがそれ以上に重要なのは、次の類似点である。(1)の速度$$q_b$$は、この運動の加速のために利用される外部の仕事$$dQ = 0$$の積分分母となっている。これが(2)の温度θに対応している訳だが、この温度θは系の熱量の変異を表す$$dQ = 0$$の積分分母となっている。ヘルムホルツはまさにこの類似点に着目することで、力学的な関係式と熱力学的な関係式を類推で関連付けることが可能であると述べている。と言うのもヘルムホルツにとって、接触した二つの物体の間で熱力学的な熱平衡状態が保持されるための可能性の条件となるのが、双方の物体の温度の等価性であるためだ。

とはいえヘルムホルツは、単循環系の概念によって熱力学的な系の性質が説明できると主張している訳ではない。何故なら、あらゆる熱運動単循環系の条件を厳密に満たすとは言えないためである。ヘルムホルツが強調しているのは、あくまでも熱運動の振る舞いと単循環運動の振る舞いの間に見出される類推に他ならない。それは、双方の同一性ではなく差異を記述している。それ故に彼は、力学的な熱理論を説明したとは思っていないのである。

ヘルムホルツが熱力学的な類推を実践したのは、1884年である。それはまだ熱の正体が解明される以前の出来事である。歴史的にまだ漠然とした描写しかされてこなかった熱の概念について知り得るには、既知の力学系との類似性の観点からその特徴を把握していくことが、ヘルムホルツや当時の物理学者たちにとっては合理的な選択であったのだ。

問題解決策:形式としての「エルゴード」

ヘルムホルツの類推は、熱力学的な系の特徴力学的な系からの類推によって記述していくという、後のボルツマンの方法に思想的な影響を与えている。ヘルムホルツが単循環系類推を発表した直後、ボルツマンはその類推方法一般化した機能的な拡張案を提出している。

ヘルムホルツの単循環系観察観察するボルツマンの問題意識は、明確に熱力学原子存在に向けられている。ヘルムホルツの単循環系機能拡張を試みた1884年論文の冒頭部分の導入は、第二法則の妥当性に対する不信の表明から始まっている。ボルツマンによれば、熱力学第二法則の最も完全な力学証明となるのは、あらゆる力学的な過程において、熱理論のそれに類似した関係が成り立つことを示すことである。しかし、一方ではこの第二法則が一般化として妥当しない可能性もある。そして他方では、いわゆる原子の性質が不明のままであった。したがってボルツマンは、主題を双方の類似性に定め、類推問題設定を導入しているのである。

ヘルムホルツとボルツマンの主要な差異は、確率論に対する姿勢に現われている。ヘルムホルツは純粋に力学的な問題設定から熱力学的な類推を試みていた。これに対してボルツマンは、1870年代の段階で既に、物理学に統計を導入するというマクスウェルの影響を受けていた。そのため彼の中では、熱力学的な類推方法類推方法との間に接点が芽生えていたのである。

ボルツマンは、単循環ではない系であっても、その集団を想定することによって、単循環系に変換することが可能であると主張している。例えば楕円軌道上を中心力によって周回する一個の質点の運動に着目すれば、その振る舞いは単循環系の振る舞いではないことがわかる。だがある一定の分布で多数の質点を軌道上に配置すれば、それを単循環系へと変換することが可能になる。この「一定の分布」を導入する場合に重要となるのが、今でいう「アンサンブル」である。

しかしボルツマンは独特な用語でこのことを表現している。その一つが「モノード(Monode)」である。それは非周期的であるものの、任意の点において運動が不変なまま持続する安定的な系を指す。当初ボルツマンはモノードという概念をアンサンブルと見做されるただ一つの定常分布として記述している。だが時に彼は、暗示的にせよ明示的にせよ、モノードを幾つかのパラメタによってパラメタ化された定常分布の集合であるとも記述している。この区別は、ボルツマン賞の受賞者でもある数理物理学者ジョヴァンニ・カラボッティも述べている通り、常に文脈から明白である。カラボッティに倣い、よりわかり易く表記するために、ここでは「モノード」それ自体を定常分布の集合として捉え、集合の諸要素に言及する際には「モノードの諸要素」と呼ぶことにしよう。

このモノードξの要素μが与えられると、平均運動エネルギー、平均総エネルギー、平均運動量、平均体積や平均密度などのような、様々な観測値の平均値を計算することが可能になる。

$$T = \frac{1}{N}[K]_{\mu}, \ U = \{K + \Phi \}_{\mu}, \ p, \ V, \ \rho = \frac{N}{V}$$

ここでΦはポテンシャル・エネルギーで、Kは運動の総エネルギーである。

モノードξのμを微小な量で変異させることも可能である。それは、モノードの要素を規定するパラメタのいずれかを変更することを意味する。すると、対応するdUとdVの変異性が、$$\frac{dU + pdV}{T} \neq dS$$を満たすのは真か偽かを問うことができるようになる。言い換えれば、純粋に力学的な用語で定義された上記の各量と、幾つかの熱力学的な用語で定義された各量との間に成立するのは、同様の関係なのか否かを問うことができるということである。ここでいう熱力学的な用語の中には、力学的な用語も部分的に含まれている。問題は、この双方の類似性が、単なる用語上の類似性を超えた類推的な関係にあるのか否かである。もしこの問いに対する回答が真であるのならば、モノードという概念は、ヘルムホルツ流の単循環系類推を遥かに超えた「熱力学の力学的なモデル(mechanical model of thermodynamics)」を提供し得るはずである。

それ故にボルツマンは、この関係を明確化するために、モノードと「オルトード(Orthode)」の区別を導入している。オルトードモノードの一種である。ただしそれは、$$\frac{dU + pdV}{T} \neq dS$$が成り立つ場合に限ってのことだ。カラボッティが指摘している通り、こうしたボルツマンの類推方法による定義は、その後の文献ではほとんど取り上げられていない。確かにこれは信じ難いことではある。だがこの傾向は、ボルツマンが同じ論文の中で、「熱力学の力学的なモデル」の一例として、オルトード的なモノードを取り上げていくに連れて顕著になっていく。確かに、オルトード的なモノードという概念は今日の平衡アンサンブルと呼ばれている概念であるという批評は避けられないであろう。上記の正統な概念は、ギブス流の統計力学へと接続されていく。

「ホロード」と「エルゴード」の差異

ボルツマンは、このオルトード的なモノードを例示するにあたり、「ホロード(Holode)」と「エルゴード」の区別を導入している。これらはそれぞれ、βとN、そしてUとNという二つのパラメタでパラメタ化されているアンサンブルである。ホロードの諸要素は次のようになる。

$$\mu_{\beta, N}(d\vec p d \vec q) = \frac{d \vec p_1 … d \vec p_n d \vec q_1 … d \vec q_n}{const}e^{-\beta (K + \Phi)}$$

一方エルゴードの諸要素は次のようになる。

$$\mu_{U, N}(d \vec p d \vec q) = \frac{d \vec p_1 … d \vec p_n d \vec q_1 … d \vec q_n}{const}\delta (K(\vec p) + \Phi (\vec q) – U)$$

ボルツマンはこれら二つのアンサンブルが共にオルトードであることを証明することで、今で言うところのカノニカル・アンサンブルミクロカノニカル・アンサンブル平衡アンサンブルであって、「熱力学の力学的なモデル」を提供していることを指し示した。

ボルツマンが提示した証拠は、上記の定義に関わる伝熱に関する補助的な概念を利用している。カノニカルな場合、それは正確に望んだ結果が得られる。ミクロ水準では非常に単純であるものの、熱伝達における何らかの異なる概念に基づいている。この分析で言明が正確となるのは、$$\frac{U}{V}, \frac{N}{V}$$が定数として保持されていると共に、$$N, \ U \rightarrow \infty$$のような制約においてである。この制約は、今日的には「熱力学的な限界(thermodynamic limit)」として知られている。

熱力学的な類推の補填

ホロードエルゴード区別は、オルトード的なモノードによる熱力学的な類推の補填のために導入されている。系の状態が座標$$p_1, …, p_g$$と運動量$$r_1, …, r_g$$によって記述され、運動エネルギーをΨとポテンシャル・エネルギーをΧとする。系に加わる外力が遅く変異すると仮定する。互いに依存しないN個の精確に同じ性質の系が存在する時、座標と運動量がそれぞれ

$$d\sigma = \Delta^{-\frac{1}{2}}dp_1, …, dp_g$$

$$d \tau = dr_1dr_2, …, d_g$$

の間に配置されているような系の数は、

$$dN = Ne^{-h(\chi + \psi)}\frac{\sqrt{\Delta}d\rho d\tau}{\iint_{}^{} e^{-h(\chi + \psi)}\sqrt{\Delta}d\rho d\tau}$$

となる。ここで、Δは運動エネルギーを二次形式で表した時の係数を並べた行列の行列式を意味する。

これら全ての系の集合モノード構成することでホロードとなる。ホロードの全運動エネルギーLは内部運動の直接的な上昇に利用される仕事dQの積分分母となるために、ホロードオルトードとなる。

これに対してエルゴードは、N個の系が運動エネルギーの方程式によってのみ制約されているモノードとして導入されている。同様に全運動エネルギーLはdQの積分分母となる。そしてエントロピーに対応する量が類推によって記述される。

ボルツマンのホロードエルゴード区別の観点から観れば、ヘルムホルツの単循環系とは、単一の「急速に変異する座標」を持ったエルゴードに他ならない。ボルツマンにおいて、エルゴードについての定式化は、単循環系についても適用される。これにより、ヘルムホルツが記述した回転運動と理想気体の間の類推が説明されるという。彼はこのエルゴード単循環系熱力学的な系の関係を示すために導入しているのである。

実際、エルゴードにおいては、遅く変異する座標の値が定数である限り、系の分布が安定的となる。ボルツマンのホロードエルゴード区別の内部では、ヘルムホルツの「遅く変異する座標」と「急速に変異する座標」の区別が再導入されているのである。この区別の導入において、「遅く変異する座標」は熱力学的な仕事の特徴表現している一方で、「急速に変異する座標」は熱それ自体を表現している。

問題解決策:「時間平均」と「位相平均」の区別

熱力学の力学的なモデル」に関しても、ギブスはボルツマンの後史に位置付けされる。このモデルに関わるギブスの問題設定は、次のようになる。すなわち、ニュートン力学の本来的な形態においては、初速度と初期運動量を与えられた一つの系が、ある力の系によって変異するという状況が如何にして可能になるのかである。この力は、ニュートンの運動の法則によって加速度と結び付けられている。

しかし実際、多くの場合に、観察者は初速度と初期運動量の全てを知り尽くすことができない。そこで、不完全にしか知り得ない系の位置と運動量に関して、ある初期の分布を仮定することによって、ニュートンの古典力学に倣い、任意の時間が経過した後の運動量と位置の分布を規定することが可能になる。

これを前提とすれば、これらの未来の分布に関して記述することが可能になる。系の未来の状態についてのある特徴については確率1で実現される一方で、ある特徴のものは確率0で実現されると言った具合に、形式の導入が可能になる。この確率1と0の区別は、完全な確実性と完全な不可能性区別に対応している。だがこの形式意味するところは、この限りではない。例えば点の大きさの弾丸で標的を撃つ場合、標的の中の特定の点に弾丸が命中する確率は一般的に0である。だが、命中すること自体は不可能ではない。実際、標的を撃つ場合、それぞれの弾丸は、それぞれ特定の点に命中する。だがそれらは皆確率0の事象である。したがって、いずれかの点に命中するという確率1の事象は、言わば確率0の事象の集合として構成されていることになる。

しかしながら、ギブスの統計力学は、これとは別様の方法を採っている。サイバネティクスの創始者ノーバート・ウィナーも解説している通り、ギブスはこの方法を明確に自覚しているようには思えない。それは、次のような手続きで進められる。まず一つの複合的な偶然の事象を、第一、第二、第三、…と、既知の確率を持った特殊な偶然の事象の無限系列に分解し、初めの偶然の事象の確率を、これらの特殊な偶然の事象の確率無限和として表現したのである。

上述したように、全ての場合の確率の和として、全体の事象の確率を求めることは、一般的に不可能である。何故なら、0をどれ程足し合わせても、0に過ぎないためである。だがもしも第一事象、第二事象、第三事象、…と数えられる偶然の事象の系列が存在し、その各項が正の整数1, 2, 3, … で与えられる明確な順番を持っている場合には、それらの確率の和によって、全体の確率計算することが可能になる。

数学的な背景としてのアンリ・ルベーグ

ウィナーによれば、これら二つの場合の間の区別は、集合の本質に関わる精緻(subtle)な考察を必要とする。だがウィナーも評しているように、ギブスは精鋭(powerful)の数学者であったものの、精緻(subtle)な数学者ではなかった。一つの無限集合自然数1, 2, 3, …の集合とは本質的に異なる多さを有することが如何にして可能になるのかを知るには、ゲオルク・カントールによる証明を待つほかなかった。無限小数であれ有限小数であれ、0と1の間にある全ての異なる小数を取り上げれば、1, 2, 3, …と番号付けて並べられないことがわかっている。だが奇妙なことに、有限小数のみの場合には、これを並べることが可能なのである。かくしてギブスの統計力学に必要な無限の間の区別の導入が、実は可能であることが判明した。この流れから、統計力学が暗黙のうちに要求してきた確率0の偶然事象や、偶然事象の確率の和に関する事柄は、実際に成立していることが判明している。この主題において、ギブスの理論矛盾を含んでいないのである。

このことの伏線となっているのが、ウィナーも指摘する通り、アンリ・ルベーグの貢献である。ウィナーによると、ギブスは数学者ではあったものの、常に数学を物理学の補助的な道具として考えていた。一方ルベーグは最も純粋な解析力学者である。ウィナーによれば、数学的な厳密性に関する現代の非常に厳しい基準に照らして観ても、ルベーグはその代表者として挙げられる。ルベーグは、物理学から直接的に派生した問題主題にしたことは一度も無い。ギブスとの関連で言えば、ルベーグの研究動機は、三角級数理論であって、あくまでも統計力学とは掛け離れているように見える。

一つの関数が三角級数の和によって表現されるとしよう。その級数の係数は、表現されるべき関数と、ある所与の荷重関数との積の平均として表現される。したがってこの理論は、個々の項の平均によって一つの級数の平均の性質を導出することに等しい。ここで、0からAまでの区間では1となり、Aから1までの区間では0となるような量の平均値は、Aである。偶然に従って運動している点が0から1までの範囲を動くことがわかっている場合、その点が0からAまでの区間に存在する確率もまた、Aとなる。

このように、級数の平均を論じるために必要となる理論は、無限に多くの場合から成る確率を論じるために必要となる理論と、密接な関係がある。そのため抽象化するのなら、ルベーグの参照問題は、ギブスの参照問題と同じになる訳だ。

位相測度の抽象代数学

ギブスの統計力学では「時間平均(time average)」と「位相平均(phase average)」の区別が導入されている。だがギブスの目論見は、この二つの平均概念がある意味では等価となるということを示すことであった。この結論そのものは正しい。だが彼は、この結論へと至る過程で失敗を犯している。と言うのも、ギブスの生前はまだルベーグ積分の業績が十分には普及していなかったためである。ウィナーもこのことからギブスを擁護した上で、位相平均と「位相測度(phase measure)」の区別へと目を向けているようである。ここでいう位相測度とは、ルベーグ流の測度概念に由来した概念である。

ギブスの統計力学で導入されたあの特殊な分布は、それ自体力学的な意味付けを有している。自由度Nの一般的な保存力学系の場合、その位置と速度の座標は、一般化位置座標となるN個の座標と、一般化運動量となるN個の座標の、合わせて2N個の座標で表現される。これらの座標は2N次元の位相空間を規定する。そしてこの空間には2N次元の体積が定義される。この空間の任意の領域の各点を、時間の経過に連れて、力学の法則に従って移動させれば、その領域は経過した時間によって規定される新しい領域に変換される。その際、各領域の境界は連続的に変異する。だが領域2N次元の体積は変化しない。この領域のように、単純には定義できない集合を前提とした場合には、体積の概念を拡張したルベーグ流の測度が用いられる。

このルベーグ流の測度が一定に保たれるような変換を受ける保存力学系に対して、エネルギーという、もう一つの保存対象を想定してみよう。エネルギーもまた、変換に対して一定値を保つように保持されている。この保存力学系の中の物体は、皆その中でのみ相互作用を実行し、外力が働いていないとすれば、更に一定値を保つ概念が二つ挙げられる。それは、系全体の運動量と運動量モーメントである。一般にこれらのベクトル量を消去した上で操作することは難しいことではない。そのため、想定される保存力学系は、より少ない自由度を有した系に置き換えられる。

特殊な系では、系の時間の経過に対して不変となる量が他にもあり得るだろう。そうした量は、エネルギー運動量、運動量モーメントによっては規定されない。しかし、力学系の初期の座標や初期運動量に依存して規定されると共に、尚且つルベーグ流の速度に基づいた積分法に従った計算が可能で、しかも時間の経過に対して不変であるような量を有した系は、ある意味では希少である。他に不変量の無い系では、そのエネルギー運動量、運動量モーメントに相当する一般座標を固定することは可能である。だがその際、残りの座標によって構成された空間においては、その位置座標と運動量座標が一種の部分的な測度を規定する。それは丁度、三次元空間の測度が複数の部分に区別されることで、二次元平面の面積の計算が可能になるのと同じである。

これを前提にした上で、エネルギー、全運動量、全運動量モーメントを規定している位相空間内の領域に対して、この新しい測度を導入してみよう。この系には他に測定可能な不変量が存在しないと仮定する。そしてこの限られた領域の全測度を有限とするなら、尺度を調節することによって、この領域の全測度を1にすることが可能になる。この測度は、時間に対して不変な速度から、時間に対して不変な方法で得られている。故にこの測度はそれ自体時間に対して不変である。この時間に対して不変な測度をウィナーは「位相測度」と呼んでいる。

しかしながら一方で、時間と共に変異する量には時間平均があるはずだ。例えば関数f(t)が時間tに関係するのならば、その過去に対する時間平均は、次のようになる。

$$\lim_{T \rightarrow \infty}^{}\frac{1}{T}\int_{-T}^{0}f(t)dt$$

同様に未来に対する時間平均は、次のようになる。

$$\lim_{T \rightarrow \infty}^{}\frac{1}{T}\int_{0}^{T}f(t)dt$$

ギブスが主張したいのは、まさにこの二つの方向に向けられた時間平均が、位相平均と等価になるということなのである。彼は全ての不変量を余分な座標として消去した系において、位相空間内の運動経路を想定すると、ほぼ全ての経路はこの位相空間内の全ての点を通過すると想定した。この関連からギブスの思想は「エルゴード仮説」へと接続される。だがエルゴード仮説は、ボルツマンの思想との関連からもよくわかるように、成立する場合がそれほど多くない。しかしギブスは尚もこの仮説を改良する。彼の更なる主張は、時間の経過と共に、系が一般的に位相空間内の既知の不変量によって規定される領域の全ての点の付近を無数に通過するという内容だ。これが真となるのは論理的に推論できることであろう。だがウィナーも述べているように、ギブスの記述は首尾一貫していない。と言うのも、系が各点の近傍で費やす相対的な時間については何も述べていないためである。

ギブスの物理-数学的な洞察力

ギブスとウィナーに倣い、エルゴード仮説の真の意義を理解するためには、ギブス流の統計力学を成立させている位相平均位相測度の区別のみならず、「不変量(invariants)」と「変換群(transformation groups)」の区別も導入しなければならない。ウィナーによれば、ギブスのベクトル解析に関する研究が指し示しているように、ギブスがこれらの概念について精通していたのは明らかである。だがウィナーは、ギブスがこれらの概念の哲学的な意義を十分には吟味していなかったと断言している。ギブスの思想においては、物理-数学的な洞察力(physico-mathematical acumen)が論理に先行してしまう場合が多い。そのために彼の著作では、結論としては正しくても、それが如何にして可能になっているのかを説明することができない場合が散見されるのである。

ギブスの物理-数学的な洞察力に関するウィナーの観察観察してみよう。ウィナーが取り上げる系の変換とは、系の諸要素が系の他の諸要素に移行するような変異意味する。変換群とは、次の条件を満たす変換のある集合である。第一に、その集合に属するどの変換についても、その集合に属する逆変換を有していることである。第二に、その集合に属する任意の二つの変換の合成変換もまたその集合に属することである。例えば一つの直線上、平面上、あるいは3次元空間の全ての平行移動の集合は変換群を構成する。

これらの平行移動によって構成された変換群は、更に抽象代数学的な概念である「アーベル群(abelian group)」と呼ばれる特殊な変換群でもある。この群の任意の二つの変換は交換可能である。一方、例えば一点の周りの回転の集合空間内の剛体の運動集合はアーベル群ではない交換群である。

ここで、一つの変換群によって変換される全ての諸要素には、ある量が付随するとしよう。諸要素がその群に属する変換によって変化を受ける場合に、どの変換に対してもこの量が不変であるのならば、その量は「群の不変量(an invariant of the group)」となる。例えば「線形不変量(Liner invariant)」は、群の不変量の重要な一例となる。アーベル群によって変換される諸要素をxという記号で表現するなら、これらの諸要素の複素関数はf(x)として表現できる。ここで、この関数は連続あるいは積分可能であるとしよう。そこで、Txをxに変換Tを実行することで得られる諸要素であるとするなら、f(x)は絶対値1の関数として、次のように記述できる。

$$f(Tx) = \alpha (T)f(x)$$

ただし、α(T)はTだけに関係する絶対値1の数である。この場合のf(x)は群の「特徴(character)」であると考えられる。この概念は、群を多少なりとも一般化した意味で、不変量と変わりない。だが、もしf(x)とg(x)が群の特徴となるのならば、f(x)g(x)も群の特徴となる。群の上で定義された任意の関数h(x)が、その群の特徴の線形結合によって、次のように表現できるとしよう。

$$h(x) = \sum_{}^{}A_kf_k(x)$$

ここでいう$$f_k(x)$$は群の特徴である。この群の特徴に対する上述した変換Tを関連付けるなら、$$\alpha_k(T)$$を導入することで、次のように再記述できる。

$$h(Tx) = \sum_{}^{}A_k \alpha _k(T)f_k(x)$$

したがって、仮にh(x)が群の特徴展開できるのならば、観測者は全てのTに対するh(Tx)を群の特徴展開できることになる。一つの群の特徴の積やその逆数は同一の群の別様の特徴となる。定数1すらも、一つの特徴である。したがって、一つの群の特徴による乗法は、群の特徴それ自体の変換群を構成する。これを特に「特徴群(character group)」と呼ぶ。

大本の群が無限直線上の平行移動の群であるのならば、演算子Tは、xをx+Tに置換する操作を意味するようになる。すなわち、

$$f(x+T) = \alpha (T)f(x)$$

ここで、$$f(x) = e^{i \lambda x}, \ \alpha(T) = e^{i \lambda T}$$と置けば、この定式の条件は満たされる。と言うのも、この場合の特徴関数$$e^{i \lambda x}$$であるために、特徴群はλをλ+τに置換する平行移動の群であるためだ。それ故に、変換前後で群の構造が変わることは無い。もし元の群が円の回転の群であるとするならば、この条件は満たされないであろう。この場合の演算子Tは、xをx+Tと2πの整数倍だけの差分を有した0と2πの間の数に置換することになる。この状況でも$$f(x+T) = \alpha (T)f(x)$$は成立するが、余分な条件として、$$\alpha (T + 2 \pi) = \alpha(T)$$も成立させてしまう。この$$f(x) = e^{i \lambda x}$$からは、$$e^{i 2\pi \lambda} = 1$$を得られる。これは、λが正負の整数または0でなければならないことを意味する。したがって特徴群は、整数だけの平行移動によって構成される。

一方、もし元の群が整数だけの平行移動の群であるのならば、$$f(x+T) = \alpha (T)f(x)$$におけるxとTは2πの整数倍だけを取ることになる。$$e^{i \lambda x}$$におけるλxは、それと2πの整数倍だけの差を持つ0と2πの間の数を取れば良い。したがって特徴群は、本質的に円の回転運動の群となる。

任意の特徴群において、ある所与の特徴に対するα(T)の値の分布は、それら全体に群の任意の諸要素sに対するα(S)を乗じても、全体は変異しないようになっている。故にある合理的な根拠の下で、これらの値の平均を取ることが可能であれば、その平均は群の諸要素の群の諸要素のそれぞれに対し、その群の一つの固定した要素を乗じる変換操作によっては影響を受けない。そのためα(T)は常に1であるか、あるいはその平均が1ではない数を乗じても変異しない数――すなわち、0でなければならない。

これを前提とすれば、<任意の特徴>と<その共役となる特徴>との積の平均値は1となる。そしてまた、<任意の特徴>と<他の特徴の共役>との積の平均値は0となる。言い換えれば、次の定式が得られる。

$$A_k = average [h(x)\overline{f_k(x)}]$$

簡単に付言しておくなら、円の周囲の回転運動の群の場合は、ここから直接次の結果が得られる。もし$$f(x) = \sum_{}^{}a_n e^{inx}$$ならば、$$a_n = \frac{1}{2 \pi}\int_{0}^{2\pi}f(x)e^{-inx}dx$$となる。一方で無限直線上の平行移動に関する先述した定式からは、次のような事実が得られる。すなわち、もしa(λ)に関する連続性や積分可能性などのような条件の下に、$$f(x) = \int_{-\infty}^{\infty}a(\lambda)e^{i\lambda x}d\lambda$$ならば、$$a(\lambda) = \frac{1}{2\pi}\int_{-\infty}^{\infty}f(x)e^{-i\lambda x}dx$$が得られる。

位相空間のエントロピー

こうした線形不変量の理論拡張した理論として挙げられるのが、測度不変量(metrical invariant)の理論である。測度不変量とは、ある集合のルベーグ測度の系である。この系においては、当該集合の諸要素が群によって変換された時、つまり群の演算によって諸要素が相互に変換された時に、変化を受けない性質を有している。

ウィナーは、この測度不変量を導入することで、漸く位相平均時間平均で置換することが可能になるという。そしてウィナーは、この記述を基礎付けるエルゴード理論を再記述する。彼は保則変換(measure-preserving transformation)の性質を有した集合論展開することで、これをエルゴード変換の理論へと結実させている。

エルゴード理論は、直線上の平行移動の群と同じ形式の変換群よりも、より一般的な変換群にも適用することができる。とりわけn次元の平行移動の群にも適用できる。物理学では、三次元の場合が重要となる。時間平衡状態空間的な類似性は、空間的な一様性を意味する。等質気体、等質液体、そして等質固体のような物体の理論は、三次元のエルゴード理論の応用に依存している。

力学熱力学、そして統計力学で相次いで参照されてきたエントロピーという概念は、統計力学的には位相空間内の領域の性質として観察される。エントロピーは、確率測度の対数として表現される。例えば一つの瓶の中にn個の粒子が存在している。それがその中でAとBという二つの部分に区別されているような系の力学を想定してみよう。Aにはm個、Bにはn-m個の粒子があるとすれば、我々は位相空間内の一つの領域の特徴を認識したことになる。その領域は、一定の確率測度を有することになる。そしてこの対数を取れば、Aにm個の粒子、Bにn-m個の粒子という分布のエントロピーが得られる。

熱機関を主題とした熱力学問題では、熱機関のシリンダーのような大きな領域の中で熱平衡を保つための条件を扱うことになる。観測者がエントロピーを測定している状態は、所与の温度と体積に対して、極大のエントロピーを有する状態となる。それは、全体を規定された体積で区別した上で、そこで仮定された温度になると想定した場合の極大のエントロピーを有する状態を意味する。

温度とは、熱平衡状態においてのみ、精密に規定することができる概念である。だがタービンなどのように複合的な方法で膨張する熱機関の場合でも、非常に質の良い近似で局所的な温度を観測することができる。しかしこのことは、生物の身体のような概念を系とした場合には、必ずしも該当しない。その凡その均質性も成り立たなくなる。

ウィナーによれば、電子顕微鏡でタンパク質の組織構造観察してみると、織物(texture)のように精緻な構造をしているために、その生物学もまた確かに織物の精緻性に対応しているのである。この精緻性を前にすれば、温度計によって計測される空間的または時間的な尺度は粒度が粗過ぎる。つまり温度計で計測した生体組織の温度は、その構造的な複合性に対する非常に大雑把な平均に過ぎない。熱力学的な真の温度を計測したことにはなり得ないのだ。それ故ウィナーは、ギブスの統計力学が、身体の中で起こり得ていることを良く表現した「モデル」とはなり得ると述べている。一方で、通常の熱機関によって提示される像(picture)は、そうとはならない。ギブスの統計力学が提供しているモデルは、生体組織のような系の細部をより良く表現しているのである。

派生問題:「力学的唯物論」としての原子論

統計力学との関連で言えば、熱力学原子論的な解釈は、マクスウェルとボルツマンによって提唱された。マクスウェルの死後、ボルツマンは単身、観念論者や実装主義者たちと対決することになった。その間、ボルツマン自身は、「力学的唯物論(mechanistic materialism)」の根底に留まり続けていた。

一方、原子論という主題において、ボルツマンから影響を受けていると自認しているはずのギブスの貢献は、些末な程度に留まっている。それどころかレオン・ローゼンフェルドも述べているように、ギブスの保守的な姿勢は、ボルツマンと対比される対象にすらなっている。彼の位相空間における形式的な熱力学類推は、もはやボルツマンの原子論を補足する記述にはなっていない。剰えそれは、ボルツマンの哲学的な姿勢においては批判の対象にすらなり得る始末だ。

「ボルツマンの哲学的な立場の優位性を見て取る上で、ギブスの臆病で曖昧な態度と比較することは有益である。ボルツマンが動じない姿勢であったのに対して、ギブスは困難を前に退避していた。彼は、利用可能な方法で完全に厳密に対処し易い統計力学の形式的な構造の一部のみを利用しようと努めていた。このことが意味するのは、それが基礎的に重要であるにも拘らず、彼がエルゴード仮説の全体的な問題を避けていたということである。そしてこのことは、物理的な解釈に関しては、彼が熱力学の法則の力学的な『類推』というプラトン的な概念を最も酷いところに退避させたということも意味する。もしこの観点に立つなら、この理論の現実上の物理的な基礎、とりわけ原子論的な解釈の独自性という本質的な性質は、完全に喪失する。実際こうした観念論的な対処法が招くことになったのは、パラドックス的な結末で、原子という概念がほとんど消失している熱の原子理論である。ギブスの論文の絶妙な形式的優雅さによって、その根底にある哲学上の根本的な不十分さに盲目的になってはならない。」
Rosenfeld, L. (1955a). “On the foundations of statistical thermodynamics.”
In Selected Papers of Léon Rosenfeld (Vol. 21)., 2012, Cohen, R. S., & Stachel, J. J. (Eds.)., Springer Science & Business Media., pp762-807. 引用は、p763より。

ギブスは『統計力学の基礎原理』の最終章において、分子で構成された系について議論している。それは本質的にボルツマンの見解に賛同する内容になっていると、ギブス自身は認識している。しかし、ローゼンフェルドによれば、ギブスは過剰な虚構を展開することによって、むしろボルツマンの原子論を台無しにしてしまう。

「特殊位相(specific phases)」と「一般位相(generic phases)」の区別は、ボルツマンの「一般様相(complexions)」と「構成(constellations)」の区別に対応する。分子の同一性を想定した一般位相という概念との関連は、ギブスにとっては自明であった。しかし、ローゼンフェルドはこの想定を認めない。認められる事実となるのは、ただギブスが、自身の『統計力学の基礎原理』の最終章で、気軽にこのボルツマンの原子論に言及しているというだけのことである。

ボルツマンの理念は、ギブスが認識するほど気軽な内容ではない。ボルツマンは、ギブスが避けて通った困難な道程を極端に、極限まで突き進もうとする。その極端な思考によって結実された彼の思想は、もはや「物理学」と呼ぶにはあまりにも「哲学」的である。実際、生前彼の発言を検証してみても、その思想の根源が哲学と深い関係にあったのは容易に推測できる。

「ボルツマンによれば、哲学の中心となるポイントは、存在と知識の関連の問題、グノーセオロジー(gnoseology)にある。」
Cercignani, C. (1998). Ludwig Boltzmann: the man who trusted atoms. Oxford University Press., p170.

グノーセオロジー(Gnoseology, Gnosiology)」とは、知を意味する「グノーシス(Gnosis)」と「ロゴス(Logos)」に由来する知識の研究を意味する。この点での彼の態度を特徴付ける上で最も良質な教材となるのは、1905年1月にウィーン哲学協会で発表した内容と、同年出版された彼の講座内容である『力学の諸原理』に潜む哲学的な文章である。この二つの文書に共通して観られるように、彼は現実主義者(realist)として唯我論(solipsism)をはじめとする観念論者(Idealist)を批判していた。

「事物(den Dingen)に対する我々の理念(Ideen)は、その本質(dem Wesen)と同一なのではない。それは単に形象(Bilder)であるだけだ。あるいは、それは指し示されるものをまさに一方通行的に指し示す印(Zeichen)なのであって、それはむしろある種の本質との連結を模倣(nachahmen)すること以外の何物でもない。ここにおいて、その本質(das Wesen)は完全に手付かずのままなのである。」
Boltzmann, L. (1905). “Über die Prinzipien der Mechanik” In Ludwig Boltzmann-Populäre Schriften. Severus Verlag., S.308-337., 引用はS.324より。

一見すれば、現実主義者とは、我々の外部の世界が、我々の感覚、観測、そして意識とは独立して存在していると信じている者たちを指す。しかし力学による概念の抽象化力学的な形象の記述を目指した類推という思考技術によって可能になるのならば、重要となるのは、現実の物理現象それ自体であるというよりは、むしろその思考の内実となるはずだ。

ボルツマンの「哲学」において、思考する目的は、自身の「思考規則(Denkgesetze)」を基礎付けることにある。思考規則とは、事物に関する精神における「内面の形象(innere Bilder)」の結合が、徐々に事物の結合に順応してきたことによって生じている。

思考する目的は、自身の身体知覚様相から得られた経験を、他者の身体知覚様相で発生しているであろう類似した作用にも一般化して適用すれば、大いに達成される。実際、我々は自己自身の意欲や感覚を伴わせた自己自身の思考しか知り得ない。そのため、我々は他者の身体を推測するために、我々自身の意欲や感覚から、他者のそれらを構築して予測する有用な規則を得ようとする。

この思考規則を得ようとする営みは、チャールズ・ダーウィンが述べたような、進化論的な選択によって実践される。実際、単に精神形象結合させるといっても、経験矛盾する結合の規則は徐々に放棄されるのに対して、常に正しいと考えられた結合の規則は多大なエネルギーによって保持される。そうして保持されたエネルギーは、一貫して子孫へと遺伝される。その結果として、我々はこうして規則に公理や生来的な思考必然性を見出すようになったのである。

ボルツマンが1905年1月にウィーン哲学協会で発表した内容は、この認識論を具体化する内容となっている。当初その主題となっていたのは、ショーペンハウアーが愚かで無知な哲学者であるという内容であった。主題そのものは辛辣過ぎるために却下されたが、発表内容は辛辣なままであった。彼によれば、カントを含めたあらゆる哲学者の思想は根本的に不健全であるという。ボルツマンの主張内容は、形而上学という精神的な頭痛から人類が解放されることであった。

更にボルツマンは、明示的に、彼自身の哲学が「唯物論(materialism)」であると述べている。この宣言は無論、観念論者たちに対する批判を意味する。観念論はあくまで自我存在から出発する一方で、唯物論は事物の存在から出発する。観念論が自我の観念を取り扱うのに対して、唯物論は事物の感覚を説明しようとする。そして、ボルツマンの唯物論的な主義主張によれば、哲学はダーウィンの理論によって救済されるという。観念論的な自我を前提とした精神身体に執着するのではなく、むしろ発達によって行動する能力が徐々に完成していく物質による複合的な振る舞いを容認する場合にのみ、心理学が取り扱う意志自己意識は、単なる物理化学的な系としての生物以上に概念を追究することを可能にする。

この発想と照応するように、ボルツマンの『力学の諸原理』では、ダーウィンの進化論に倣い、哲学的人間学のような観点から人間と他の動物区別が導入されている。常に極めて類似した環境の下で生起するために、複合性の低い行動しか必要としない動物にとっては、複合的な事柄を考える必要が無い。そうした動物にとっては、正しい行動の選択は、本能や遺伝のように、生来的で確定的な行動図式に従っていた方が有用となる。それは例えば、誰かに教育を受けることなく、巣作りに励むことができている鳥たちの行動のようなものである。

「しかし、そうした動物にとっての単純な条件下では、完全な行動方法に対する衝動が全体的に遺伝するということは、簡単なことで、さほど複合的でもないことであるが、その一方でこのことは、変異する環境への適応や進歩においては足枷になってしまう。それよりも、複合的な生活環境においては、人間に生来備わった能力、すなわち外部の事象に関する内面の形象(innere Bilder)を構成(konstruieren)すること、それによって経験(Erfahrungen)を蒐集(sammeln)すること、これに従って如何なる局面でも行動の安定化(regulieren)が可能になることが、遥かに優越するのである。」
Boltzmann, L. (1905). “Über die Prinzipien der Mechanik” In Ludwig Boltzmann-Populäre Schriften. Severus Verlag., S.308-337., 引用はS.320より。

我々人間が我々人間存在を認知するということは、無論基本的な事態である。事実、我々の世界観(world picture)は、更に他者との相互行為を通じて発展する。何も深く考えなければ、観察者は通常、わざわざ客体から主体としての自己自身を区別しようとはしないであろう。そしてそうした観察者は、主観的な観点から、イデオロギーと関連付いた言語を採用するのかもしれない。だから、基本的に概念は、「存在」と「非存在」の区別に事前に関連付いている。そうした区別は、大部分が不変的で、利用可能であり続けている。

この点、無生物的な自然の過程は他者の感覚と類似している。無生物的な自然は、他者と共通した性格を有しているのである。しかし、こうした無生物的な自然を表す記号や規則は、自身の感覚や意欲を表現するための記号や規則とは、大きく異なっている。この差異を架橋するのは、ボルツマンが意識的に指摘しているように、我々の持つ類推(Analogie)の能力なのである。

「我々は精神的な現象(seelischen Phänomenen)と自然(Natur)の単純な機構(Mechanismen)の間にある類推(Analogie)を主張する以上のことはしていない。我々はただ、現象のある結合を感覚的に知覚できるようにすることで、我々にとっては未知の新しい現象を予期するための一方通行的な形象(einseitiges Bild)を構成(Konstruiert)してきた。しかしこの一方通行性があるが故に、この一つの形象に加えて、対象の内面や倫理的な側面を表現するような他の形象も同時に現れることが可能であり、またそうでなければならない。そして我々の魂を後者の形象によって高めることは、我々が力学的な形象から正しい理解を得られている限りは、もはや阻害されることも無い。」
Boltzmann, L. (1905). “Über die Prinzipien der Mechanik” In Ludwig Boltzmann-Populäre Schriften. Severus Verlag., S.308-337., 引用はS.324より。

以上のように、我々の認識が類推による一方通行的な指し示しによって成り立っているとするならば、ボルツマンの原子論に対する観念論的な批判は退却せざるを得なくなる。ボルツマンの哲学を前提とするなら、原子存在するとすれば、実験的に証明されていない段階であっても、誰も「原子」という言葉を使っていなかったとしても、あるいはそれが命名される以前に、存在していることになる。逆に言えば、まだ実験によって証明されていないからといって、原子存在しないと結論付けることはできない。自我が「原子」という言葉を使うから原子存在するのではなく、原子存在しているからこそ、自我は「原子」という言葉を使うことで、原子存在を認識することが可能になる。

かくしてボルツマンは、生涯原子存在を信じ続けることになった。こうしたボルツマンの哲学は、観念論者や実証主義者たちとの議論によって育まれてきたとも考えられる。しかしそうした論争よりも目を見張るのは、『力学の諸原理』でボルツマン自身も認めるように、彼の記述が宗教を全く排除していないということだ。力学宗教危険に曝すことはあり得るというのは、誤謬に過ぎない。ボルツマンは次のようにも述べている。

「したがって自然と芸術(Kunst)においては、絶大な力を持つ力学が支配的であって、それはまた政治(Politik)と社会的生活においても同様に支配的である。」
Boltzmann, L. (1905). “Über die Prinzipien der Mechanik” In Ludwig Boltzmann-Populäre Schriften. Severus Verlag., S.308-337., 引用はS.316より。

しかし一方、これに対して、再び力学的な派生問題が生じる。公開討論に参加した者ならば誰であれ、討議とはかくも不器用であることを悟る。国家は、素早く首尾一貫した行動を取るためには不適切な組織である。個々人に割り当てられた責任範疇が小さいために、議決すべき内容を見誤ることも間々あろう。

「またこうした理由から、少人数あるいは個人による統治の利点が明確となる。そして実際に様々な人物が国民会議において協議することは、大衆の反発的な意思表示を特定の個人が巧みに制御することと同様に、心理学の力学(der Mechanik der Psychologie)に基づいているのである。」
Boltzmann, L. (1905). “Über die Prinzipien der Mechanik” In Ludwig Boltzmann-Populäre Schriften. Severus Verlag., S.308-337., 引用はS.316より。

この心理学力学との関連からボルツマンが例示しているのは、プロイセンの政治家オットー・フォン・ビスマルクである。ビスマルクは、自身の政治的な敵対者の人心を掌握していた。それは丁度、機械技術者が機械の歯車装置の仕組みを見抜いていることと同様である。

「カトー、ブルータス、ヴェリーナに対する熱狂的な自由への愛は、純粋に力学的な理由によって、彼らの胸中に芽生えた感情から生じていた。我々は適切に秩序が保たれた君主制の国で快く生活できる一方で、しかしながら同胞がプルタルコスやシラーを読んで熱狂的な共和主義者の言動に陶酔するのを目の当たりにすれば悦ぶということが、同様に力学的に説明される。ここで、我々は何も変化させることはできない。だがしかし、我々はそのことを理解し、耐え忍ぶことを学習するのである。王は、神の恩寵によって統治する訳だが、神は力学の基礎法則なのである。
Boltzmann, L. (1905). “Über die Prinzipien der Mechanik” In Ludwig Boltzmann-Populäre Schriften. Severus Verlag., S.308-337., 引用はS.317より。強調は筆者。

したがって、ボルツマンの力学的唯物論は、神学としての様相をも呈している。しかし彼は一つの失敗を犯した。マクスウェルが指摘したように、力学の基礎法則を成しているのは、だけではなかった。あの戯好きの悪魔によって、ボルツマンは後ろ指をさされていたのである。

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