成功とは無縁の人生を送っていたルートヴィヒ・ボルツマンの生前は、恐らくその後世の名声とは著しい対照を成している。彼が生きた時代、19世紀末には、物質が原子から構成されているという理論はまだ受容されていなかった。ボルツマンは、熱を膨大な数の分子から成る集団――今でいうところの「アンサンブル(ensemble)」――の中で起こり得ている確率的な現象であると見做したことから、同時代の哲学者たちから猛攻撃を受けた。
当時の権威によって受容されていたのは、無論ニュートン力学に他ならない。その運動法則は可逆性を自明視した世界観を提供している。この世界観では、あらゆる運動過程が時間を遡ることができる。これに対してボルツマンが提示したのは、不可逆の世界観である。彼の分子運動論においては、分子が速度のやり取りを経て、運動が均質化する。そして新たな平均速度と新たな平衡状態が生起する。その事前と事後との間には、歴然たる差異がある。この世界観では、万物が差異から始まり均質化へと向かっているのである。
だがこのボルツマンの理論に対して、周囲の哲学者たちは、実証的な根拠の脆弱性を指摘した。周囲の物理学者たちによれば、可逆性を否定するボルツマンは、単に「時間」という概念を誤解したのだという。ボルツマンは、自身に対するこうした批判が、単に誤解に基づいているだけであると確信していた。彼は権威が認めている時流に弱々しく逆らっていることをはっきりと自覚していた。
しかし、ボルツマンは力尽きてしまった。彼が物理学の発展に多大な貢献を果たしたことは、紛れも無い事実である。だが彼が英雄として讃えられることは最期まで無かった。それどころか、元々患っていた憂鬱気質を悪化させ、物理学の講義をすることすら恐怖していた。彼はかつて、ライプツィヒの教授職として招かれていたが、それも断っていたという。遂には科学・学問の世界で孤立せざるを得なくなったのだ。そして1906年9月6日、イタリアのトリエステ付近で夏の休暇を取っている最中に、ボルツマンは自ら命を絶った。
その最期が1906年であるというのは、歴史の皮肉であると言えるであろう。1905年にはアルバート・アインシュタインが「ブラウン運動(Brownian motion)」に関する論文を提出している。この発表を契機として、物理学会は緩やかに原子の存在を認め始めた。遅くても20世紀前半には、アインシュタインやニールス・ボーアらの貢献によって、原子が紛れも無く存在していることが立証されている。ボルツマンが後少し生き永らえていたならば、自死に至るまで追い詰められることは無かったのかもしれない。
いずれにしてもボルツマンは、ニュートン力学の可逆的な運動過程の世界観と熱力学の不可逆的な運動過程の世界観を統合する運命にはなかったようだ。彼の伝記を手掛けたカルロ・セシニャーニが述べていたように、ボルツマンの自殺は、不可避的な結末であったという点で、丁度ギリシア悲劇における「運命(Fate)」と重なる。しかしながら、セシニャーニの伝記をよく読むと、このことに触れる直前の文脈では、ボルツマンの最も重要な特徴が「心理的な不安定性(psychological instability)」にあるという記載もある。この不安定性が、彼を自殺へと追いやったのである。後世に語り継がれている彼の手紙や著作物から判読できるように、ボルツマンは常々「完璧(perfection)」に対する不安と欲望を抱え込んでいた。
「初期の成功の結果として、彼は自身を同時代の人間から誤解されている偉大な人間であると認識した。しかし、彼は時折、この自画像(picture)の水準を維持することができなくなっていると感じていた。この弱い側面のために、我々の眼には、彼が物理学の歴史における偉大な英雄というよりは、普通の人間に近いように見えた。」
Cercignani, C. (1998). Ludwig Boltzmann: the man who trusted atoms. Oxford University Press., p49.
周囲の無理解に伴う運命と憂鬱気質に苦しめられた性格を観るなら、ボルツマンの人物史は、ギリシア悲劇的な運命というよりはむしろ、バロック悲劇的な無常性に近いであろう。少なからず生前、彼の理念は無常にも埋もれていたからだ。
しかし、どれ程人物史を眺めていても、彼の思想を本質的に特徴付ける根源を知ることはできない。根源は、そうした事実の前史や後史と関わっている。恐らくそれは、一方では復興して再生されたものとして、他方では未完成で未完結なものとして、再認されなければならない。何故なら、根源は単なる起源ではなく、ボルツマンの理念が総体的に完成して認識されるとするならば、それはまだ先のことであるためだ。根源の認識における歴史的な展望は、過去を志向する場合であれ、未来を志向する場合であれ、原則的には無限に深化させなければならない。この深化が、理念を総体的にする。
ボルツマンの後史における影響範囲を確認すれば、彼の理念が諸分野で完全に受容されている訳ではないのは明らかであろう。だがその不完全な受容ゆえの競合が、逆にボルツマンの理念を特徴付けることになる。その「差異」が、「地」の中から「図」が浮上してくるかの如く、彼の理念を「形態(Gestalt)」として認識することを可能にする。理念は、こうして星々のように掛け離れた存在同士の「星座のような位置関係(Konstellation)」から「構成(Konfiguration)」されたものとして判読されるべきなのである。
「したがって、諸理念によって明示される法則は、次のようになる。あらゆる本質的なものは、完全に自立して、互いに触れ合うことなく実在している。互いに触れ合うことの無い星辰の運行に基づいた天球のハーモニー(die Harmonie der Sphären)のように、叡知的世界(mundus intelligibilis)の存在もまた、純粋に本質的なもの同士の間の既成の距離に基づいている。あらゆる理念は一個の恒星であり、諸々の理念同士が互いに振る舞い合う関係は、諸々の恒星同士のそれと等しい。そうした本質的なもの同士の響きの関係(tönende Verhältnis)が真理なのである。そうしたものには多くの名が付与されているが、それは数えられる(zählbar)。何故なら、それらは不連続(Diskontinuierlichkeit)であるためだ。」
Benjamin, Walter. (1928) “Ursprung des deutschen Trauerspiels”. In: Gesammelte Schriften Bd I-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1974. S.203-430., 引用はS.217-218.より。
以下の記述は、まさにこの「響きの関係」を観察した上で展開されている。これらの記述は、ボルツマンの理念と関連してきたであろう諸現象の中からその根源を抽出するための目印となっている。各目印は、ボルツマンの理念と歴史的な範疇における根源をより良く認識するための探索を可能にする。だが注意していただきたいのは、ここで展開する発見探索の方法の対象が、必ずしも権威によって殊更取り上げられてきた概念には限定されないということだ。この発見探索の方法は、諸現象の中でも最も例外的な、最も新奇を衒うようなものの中から、あるいは無力で不確かな試行、末期的で成熟し切った事物の中から、真正なものを発掘する姿勢となる。
目次
熱力学の前史、マクスウェル=ボルツマン分布におけるエントロピーの歴史的意味論
量子論の歴史的意味論、量子力学のメディアとしての統計力学
メディアとしての統計力学と形式としてのアンサンブル、そのギブス的類推
19世紀末ウィーンの社会構造とマッハの意味論、「マッハの原理」と一般相対性理論の「関係」について
「構造」としての時空、「実体説」と「関係説」の弁証法的統合
ボルツマンの「力学的唯物論」、そのギブス的類推との差異
「マクスウェルの悪魔」、力学の基礎法則としての神
参考文献
- Benjamin, Walter. (1928) “Ursprung des deutschen Trauerspiels”. In: Gesammelte Schriften Bd I-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1974. S.203-430.
- Cercignani, C. (1998). Ludwig Boltzmann: the man who trusted atoms. Oxford University Press.