医療の社会構造と「バイタルサイン」の意味論 | Accel Brain

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医療の社会構造と「バイタルサイン」の意味論

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派生問題:医療の社会構造と「バイタルサイン」の意味論

人間」のサイボーグ化をはじめとしたトランスヒューマニズム的な科学技術は、「人間」の心身に働き掛けるという点では、「医療機器」と共通する問題領域にある。この関連からハラウェイの『サイボーグ宣言』を注意深く読んでみると、ハラウェイは「臨床実践としての生物学(Biology as clinical practice)」が「記述されたものとしての生物学(Biology as inscription)」へと変換されていくと主張している。「記述されたものとしての生物学」とは、無論コンピュータによって記述されたコードとしての生物学である。こうして変換された生物学は、もはや自然のものとしてはデコードできない。有機体が生体部品に変換され、生理学が通信工学へと変換され、労働がロボット工学に変換されるのと同じように、全ては人工物となる訳だ。

かつて臨床医の方法論には身体を有した患者と医療機器を用いた治療が必要であった。だが現代の我々は、ハラウェイの指摘を前提とするなら、コード化されたテクストと通信機器があれば事足りるということになる。しかし、このポストモダニズムの思想は、近代社会の「医療システム(Medizinsystem)」、ないし「医療のシステム(System der Krankenbehandlung)」の作動を適切に捉え切れていはいない。何故なら医療システムは、ハラウェイが述べる意味での情報工学や制御工学が発展してからも、医療的なコミュニケーション構造コンピュータを導入することができているためだ。このことは医療システム社会構造と「医療機器」の歴史意味論を簡単に確認するだけでも直ぐにわかるであろう。

問題解決策:知覚メディアとしての医療機器

医療機器は、一種の知覚メディアとして機能している。つまり、医療機器は医師の患者に対する知覚拡張する。そのことによって、医療機関は病気に関する様々な知見発見してきた。

自然の再生

まだ医療機器発達していなかった頃の古代医学は、技術ではなく魔術に頼っていた。古代社会における医療根源的な象徴は「蛇」であったと考えることができる。ギリシア神話に登場するアスクレピオスは、手にした杖を振るうことで、病を追い払うことができていた。その杖には蛇が巻き付いていたという。ギリシアからローマの時代に掛けて、長らく蛇は厄病の守りとして崇められていた。脱皮することで若返る様にられるように、蛇は「健康」、「不老」、そして「再生」の象徴であったと言われている。

アスクレピオスから影響を受けた聖医ヒポクラテスは、人間が生来的に持ち合わせていた自然治癒力に焦点を当てて、独自の医学を発展させた。彼が提唱する「自然(physis)」という概念は、古代ギリシア哲学において、人間主観からは独立した永遠の真理として語られた。ヒポクラテスは、医療との関連において、人間自然の「再生」能力の重要を強調した。

実際、ヒポクラテスが語る「自然」概念は、人間の持つ自然治癒力と強く結びついている。この自然治癒力は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四体液説を前提としている。人間が病に倒れるのは、この4つの構成要素のバランスが崩れた時であるという。そのため、病人に対する医師の役目となるのは、このバランスを調整することであるとされた。

自然治癒力のバランスを整えるために勧められたのは、現代の健康管理方法にも相通ずる方法であった。例えば適度の食事、運動、睡眠、休息などが基礎的な取り組みとして提案されている。だがヒポクラテス流の医療では、自然治癒力のバランスが崩れた場合であっても、それを人為的に調整し過ぎてはならず、あくまで自然に任せることが強調されていた。ヒポクラテスにとって、自然はあくまで限定条件であったのだ。

尤も、ヒポクラテスの医療はあくまでも魔術との関連からは解き放たれてはいなかった。例えば「癲癇(Epilepsy)」を主題にした場合には、ヒポクラテスの医療の魔術は顕著になる。神経科学的に言えば、癲癇とはニューロンの過剰な発火(Spike)によって引き起こされる反復発作だ。だが神経科学など無かった頃のヒポクラテスは、この症状を聖なる病として記述していた。癲癇は、それまでは宗教的主題でしかなかったのだ。これが医学の主題として捉えられるのは、ジョン・ヒューリングス・ジャクソンが「側頭葉癲癇(Temporal lobe epilepsy)」という概念を定義する19世紀まで待たなければならなかった。

医師の知覚のメディアとしての医療機器

ヒポクラテス以後の医療発達は、専ら身体を対象とした知覚メディア発達と共に進展していった。ここでいう知覚メディアとは、現代医療であれば医療機器として扱う技術の類のものだ。人類が新たな発見から身体や生命に関する認識を改めてきた背景にあったのは、この身体に対する知覚メディア変異であった。

例えば1595年、オランダのヤンセン父子が顕微鏡を発明した。それまでの診察は医師の視聴覚あるいは触覚のみを用いた観察に依存していた。だが顕微鏡が医療世界に導入されたことによって、医師のとりわけ視覚が拡張されたと言える。顕微鏡の導入は、血液内の血球や皮膚の細胞など、ミクロな対象への理解を促進した。

身体情報のメトリクス化という観点では、1612年にサントリオ・サントリオが同僚のガリレオ・ガリレイによって考案された温度計を「体温計」として活用し始めた。一方1733年になると、今度は牧師ヘールズによって血圧測定が試みられた。温度にせよ圧力にせよ、まだ物理学的に十分には追究されていなかった時代に、彼らは早くからこれらの技術を医療において再利用していたのだ。だがこうしたメトリクス化によって測定可能になった指標も、科学的な原因究明としてはまだ機能していなかった。そのためにはまだ、医師の知覚の拡張が不十分であったのだ。

しかし1800年代になると、この医師の知覚の拡張という問題も徐々に解決されるようになった。例えば1816年には、ルネ・ラエンネックによって聴診器が発明される。1881年にはヨハネス・ラデスキーによって胃鏡が発明される。そして1895年には著名なヴィルヘルム・コンラート・レントゲンによってX線が発見された。シポオーネ・リヴァロッチの水銀血圧計によって、遂に血圧を正確に測定できる技術が確立された。医師の身体に対する視聴覚は徐々に拡張していったのだ。

医療機器の複製技術化

以上の歴史を簡単に振り返るだけでも、医療や医学の社会進化医療機器と深く関係していることがわかる。そしてこれらの医療機器共通してられる機能は、医師の身体に対する知覚拡張させるメディアとしての機能であった。したがって、知覚メディア理論等価機能主義方法を採用することによって、我々は人間身体意味論医療システム社会構造との関連を分析することが可能になると考えられる。

医療関連の専門組織には、比較的規模の大きい医療機器が導入されている。例えばX線のCT(computer tomograpy; CT)、陽電子放射断層撮影装置(Positron Emission Tomography; PET)、脳電図(Electroencephalogram: EEG)、機能的磁気共鳴画像(functional magnetic resonance imaging: fMRI)などは、大規模な医療機器の典型的な例として挙げられる。

とりわけEEGfMRIは、神経システム結合する知覚メディアであるという点で、機能的に等価である。だがそのメトリクス化の方法には差異がある。

EEGは、極めて感度の高い小型マイクのセンサーによって、脳波が生み出す微弱な電気信号を観測する受動的な測定技術である。非侵襲であるため、調査対象者の頭部に危害を加えることは無い。EEGのセンサーは水泳帽によく似た軽量の帽子に埋め込まれている。この帽子を被せることによって、EEGは調査対象者の脳波活動によって生じる毎秒2000回の微弱な電圧の電気信号を計測できるようになる。

EEG観測は脳全体を対象としなければならない。何故なら脳内の各部位は、それぞれ複数の機能を担っているためである。脳全体を一挙に観測しなければ、どの刺激に対してどの部位が同時に共鳴しながら反応しているのかを把握することができなくなる。脳の一部しか観測しないようでは、脳内の複雑な相互依存関係に関する重要なデータを見落としてしまうことになるのだ。

EEGのセンサーを何処に装着するのかも重要な問題となる。EEGのセンサーは極めて感度が高い。そのため、脳波活動以外にも、様々なノイズを受信してしまう。装着する場所によっては、調査対象者の瞬きでさえノイズとなる。瞬きもまた一つの筋肉運動に他ならない。それは脳波活動の最大100倍もの電圧を発生させてしまう場合もある。したがって、測定する段階で、こうしたノイズへの対策が必要になるのである。

EEGによる観測脳波を対象としているのに対して、fMRIは脳内の血中酸素濃度の増減を対象としている。この増減を比較可能にすることによって、fMRIは脳内のどの部分が活性化しているのかを視覚化してくれる。調査対象者は、長く狭いチューブ状の非常に強力な磁石に囲まれた状態でスキャニングされる。これらの磁石を作動させると、電場が発生する。この電場によって、血中酸素濃度を計測していくのである。
ある部位の神経システムの作動が活性化すると、その部位における血液の量が増えることになる。血液を介して酸素を送ることで、その神経システムが作動に必要とするエネルギー源を与えているのである。したがって、ある刺激を呈示した直後に血中酸素濃度が増減した箇所を調べれば、脳内のどの部位がその刺激に対して活性化したのかを知ることができる。

医療機器の小型化

これらの機器よりも比較的小規模な医療機器は、医療機関に限定されずに、我々の日常生活の中でも応用できるほどに小型化されてきている。小型化された医療機器は、バイタルサイン医療機関に依存せずに分析することを可能にする。

小型化された医療機器ウェアラブルデバイスという形式複製技術化することによって日常生活にも普及可能になる。例えばアメリカのアンビュラトリモニタリング社(Ambulatory Monitoring Inc.)から販売されている手首装着型の生体活測定装置アクティグラフ(Actigraph)は、睡眠覚醒判定機器として、多くの睡眠研究者によって奨励されて使用されている。この測定器の開発は1970年代前半から継続されていた。当初は脳波の計測のように睡眠の質までは判別できなかった。それは睡眠回数や覚醒回数、あるいは双方の比率を記録することで比較可能にするだけであった。だが1980年代以降も開発が継続された。それにより、体活データノイズ除去能を向上させるなど、計測の精度を向上させる試みが徐々に実を結んでいった。睡眠と覚醒の判定を自動化する試みや、装置そのものを小型化していく試みも、徐々に報告されるようになった。そして、遅くても1990年代には、手首に装着できるマイクロミニ型のアクティグラフが導入された。手首に装着するだけでデータ蒐集可能になったことで、アクティグラフは更に日常生活パターン測定にも応用されるようになった。

今やアクティグラフは腕時計型の加速度センサーとして機能している。そのセンサーからは、腕の運動情報観測によって、身体活動量やそのパターンをメトリクスとして抽出することが可能になっている。しかも装置そのものの重量は約40グラム程度で、生活上の負担も少ない。初めから睡眠と覚醒の判定機能として設計されているために、応用次第では日常生活の全般に渡る「ライフログ(lifelog)」すら計測可能になる。この装置はもはや医療機関の病院の内部では手に入らないバイタルデータすらも蒐集してしまうウェアラブルデバイスの代表作となっている。

問題解決策:バイタルサイン小史

医療機器それ自体は目まぐるしく変異しているかのように見える。だが医療的な観察の対象となるのが人間身体であるということから、その参照データは限られている。こうした医療機器は、「バイタルデータ(vital data)」の入力を前提とした通信工学や制御工学の産物とも見做せる。バイタルデータは、「バイタルサイン(vital signs)」をメトリクス化したデータ意味する。このバイタルデータをセンシングする技術は今や一般人の手の届くツールに搭載されつつある。医療機器はこうしたセンシング技術の機能的等価物に他ならない。

バイタルサインとしての体温

サントリオが同僚のガリレオによって発明された温度計を「体温計」として応用し始めて以来、体温医療観察対象となった。だが当初から体温がメトリクス化されたデータとして分析されていた訳ではなかった。ガリレオが設計した温度計は、アルコールのによる空気の膨張と収縮を利用していた。この温度計では、空気の膨張としてしか温度を計ることができなかった。

温度計に「目盛り」という指標概念が導入されたのは、物理学者ガブリエル・ファーレンハイトが「華氏」という指標を提唱してからのことだ。それまでのアルコールを用いた液柱温度計では、温度計測に不確実性が伴うことが知られていた。「華氏」は、真水の凝固点を32度で、沸騰点を212度とした上で、その間を180等分して1度としている指標だ。アルコール温度計や水銀温度計は、この指標を採用することで、より正確な定量化を実現した。尤も、ファーレンハイトの提案が直ぐに臨床的に応用された訳ではない。例えば水銀温度計は、1800年代のイギリスの医師たちの開発によって、漸く医療機器として応用されることになった。

その後の体温という概念は、専ら測定精度の比較に曝された様々な医療機器によって言及されることになった。例えばサーミスタ温度計は、温度の増減に紐付けて抵抗値を増減させることのできる特を有したサーミスタ(thermally sensitive resistor)を応用した温度計だ。サーミスタは、温度それ自体を電気抵抗に変換することができる。故にそのサーミスタを経由して流れる電流の変異を辿れば、温度を計測することが可能になる。一方、赤外線を感知することで温度を計測する機器も開発されている。この体温計は、身体の表面から放出されている赤外線放射エネルギーを検知することで体温を計る。電磁波の放射という形式で伝達されてきたを計測することにより、この体温計はサーミスタの体温計と遜色の無い精度で計測することを可能にしている。体温測定に利用する物理学的な原理は異なれど、体温のメトリクス的なデータ分析を可能にするという点では、これらの医療機器機能的に等価だ。

バイタルサインとしての心電図

心電図は体内の電気現象に関するメトリクスに他ならない。だが心電図が提唱された時代は、まだ電気に関する物理学的な知識が未熟であった時代であった。体温は、サントリオによって、ガリレオの温度という概念の後を追う形で導入された。一方で心電図は、むしろ逆に医療の側が先行して研究していた事例であると言える。

心電図測定に初めて試みたのは、1900年代初期の生理学者ウィレム・アイントホーフェンであるとされる。彼は心臓に電気現象が生じていることを見抜いたが、その案が直ぐに受容されることは無かった。まだ電圧の測定すら儘ならない時代だ。アイントホーフェンは、自身の案が認められるためには、自らで電流計を開発することで証明するほかはなかった。そこで彼は、検流計を改造することで生体の電気現象を計測しようとた。心臓の鼓動に合わせて電流計の針が動作する仕組みで微小電流の測定装置を開発したのだ。

誘導電極により、身体の電気的現象を抽出することが可能になる。通常心電計ではアイントホーフェンに由来する四肢電極が用いられる。だが生体の電気は微弱な電位としてしか得られない。そこで三極真空管を用いた増幅器によって、入力信号の増幅状況を拡大することで、実際よりも大きなエネルギー出力信号を抽出できるようにしておかなければならなかった。

こうした要求が満たされることで、心電図のメトリクス化は実現したかのように思えた。だがこのメトリクス化されたデータのモニタリング機能が整備されるまでには、もう少し時間を要した。いわゆる「心電図モニタ」が臨床現場に導入されたのは1970年代であるとされる。心電図抽出可能になった時期から心電図モニタが応用されるまでの間には、少なからず50年以上の開きがある。このギャップを派生させたのは、心電図の計測対象であった。

心電図の計測から派生した問題は、電気を利用することによる「患者」のリスクとして発現した。とりわけ電極のように、患者と計測器を接続させている部位に関しては、電源から絶縁させることで、「漏れ電流」から守らなければならない。アメリカのサンボーン社が「フローティング方式」の心電図モニタを採用したのは、この関連においてだ。フローティング方式は、絶縁トランスを利用することで、電極を含む患者の回路を計測器本体から絶縁させる方法であった。この安全の対策は、心電図のみならず、他のバイタルデータ測定に対しても影響を与えている。

心電図の計測とそのモニタリングの発展にギャップを伴わせていたのは、電気的リスクだけではない。別の要求事項として、心電図モニタには長時間観測技術も求められていた。と言うのも、心電図の計測によって明確化するのはその計測時点における生体情報であったからだ。だが身体は常に何らかのバイタルサインを発している。その全てを観測するには、長時間モニタリングする技術が要請される。有名なホルタ心電計は、この要求に対応するべく設計された。だが記録方法として採用していたテープレコーダでは、テープを回転させるモータの回転音が患者に不快感を与えてしまっていた。故に記録媒体にはテープではなくハードディスクが採用された。更に利便観点からICメモリカードによる記録にも注力された。こうして心電図モニタは、小型化と軽量化にも対応しなければならなかった。

バイタルサインとしての血圧

生体電気に比べれば、血圧比較的表面の観察によってメトリクス化が可能になる。そのためなのか、血圧に関しては機能的に等価測定方法が豊富に発見できる。とはいえ、ルーツになっているのはリヴァロッチが最初に試みた血圧測定だ。この血圧測定では、空気で膨張するゴム製のによる加圧によって血圧測定する技術が採用されていた。いわゆる「オシロメトリック」は、この圧力を徐々に下げた際に派生する振動から圧脈波の波形を記録することで最高血圧測定する。一方「コロトコフ音」を用いた測定方法は、逆に圧力を急速に上げることで血流を完全に遮断するところから始まる。徐々にその圧力を下げていきながら、その後初めて流れる血液のコロトコフ音が聴こえた際、その血流の脈波から最高血圧抽出する。その後も圧力を下げていく。そしてコロトコフ音が聴こえなくなるところから、最低血圧抽出する。

オシロメトリックには振動の振幅が大きくなると測定結果も曖昧になるというデメリットがあった。コロトコフ音についても、コロトコフ音が完全に消失する訳ではないために、厳密な最低血圧測定では不確実性が残るとされた。しかし遅くても1970年代には、これらの測定を用いた自動血圧測定器が医療現場に導入されている。実際問題として、血圧医療的に有用な情報源であった。単純に「高血圧」と「低血圧」の区別を導入するだけでも、相関する病気の予測に役立てることができる。若干の曖昧不確実性が伴おうとも、医療的に機能するが故に、血圧という概念は有用な概念として参照されているのである。

バイタルサインとしての脳波

ハンス・ベルガーが発見した「脳波」は、脳によるバイタルサインであると考えられる。ベルガーは人間の脳における電気的現象を記録することに成功した。だが当時の周囲の研究者たちからは、それが単なる「ノイズ」ではないのかと疑われていた。だがエドガー・エイドリアンらの追試実験によって脳波存在証明されて以来、ベルガーは脳波発見者として讃えられることになった。

脳波存在が受容されて以来、その測定可能にする医療機器の開発にも注力されるようになった。脳波測定器に求められる要件は比較的高い難易度を示していた。脳波の振幅は心電図に比して低い。故に高精度な増幅器が要求された。だが脳波に関して言えば、その測定方法以上に、その概念の意味が注目を集めた。

実際、脳波はリラックスした心理状態に対応する「アルファ波(Alpha Waves ; 8~12Hz)」、緊張して注意を払っている場合に対応する「ベータ波(Beta Waves ; 14~20Hz))」、脳神経情報処理を加速化させた状態に対応する「ガンマ波(Gamma Waves ; 20~40Hz)」、瞑想状態に対応する「シータ波(Theta Waves ; 4Hz~7Hz)」など、様々な心理状態と相関すると仮定されている。

これ以外にも、脳波は様々な識別を可能にする指標として機能し始めた。例えば脳波は麻酔中の患者の麻酔深度を計測する指標としても活用される。と言うのは、覚醒中と麻酔中とでは、各波形の出現頻度差異があるためだ。応用事例として、睡眠の深さを計測する場合にも脳波が参照される場合がある。また一方では、例えば癲癇発作の最中の脳波をメトリクス化することも可能になった。これにより、特定の生体状態や心理状態に関する情報脳波から抽出することも可能になったのである。

派生問題:生命の「脱医療化」は如何にして可能になるのか

以上のような医療機器バイタルサイン歴史意味論医療システム社会構造との関連から観察してみると、通信工学や制御工学の技術的発展が臨床医療すらもコード化してしまうというハラウェイの想定は、誤りであることがわかる。しかし、医療システム社会構造を俯瞰するなら、医療システムと科学技術の関連には問題が派生していることがわかる。

近代社会の「医療(Krankenbehandlung)」に関連する科学技術の進歩によって、我々の健康と衛生は何度も改善が施されてきた。水の浄化、幼児亡率の低下、ペストの無力化、サルバルサンによるトレポネーマ療法、梅毒予防、インシュリンによる糖尿病への対処などは、近代医療進歩象徴する出来事になっている。こうした発展を受けて、遅くとも1920年代までには、病院に勤める医療の専門たちが呪医や民間医療よりも優先されるようになった。

しかし文明評論のイヴァン・イリイチも指摘している通り、この医療技術の発展によって、人間医療の関わりは二つの意味で抜本的に変化することになった。第一に、「病気」や「治療」の定義が医学的に規定されるようになったことである。そして第二に、医学の進歩によって、より有用な医療処置を期待する公衆が現われたことである。これに連なり、医療近代社会機能システムとして定着することとなった。この医療機能的な分化は、病院という組織システムにおける医師という専門人格によって、医療技術が過剰に独占されるという事態を招くことになった。ひとたび専門としての医師という人格が推奨されるようになると、医師という人格への「社会化(Sozialisierung; Socialization)」が期待されるようになる。

こうした医療システム近代社会包摂されてきたのは、それが近代社会の産業主義においても間接的に有用となったからである。と言うのも医療進歩によって、諸々の組織システムに属する構成員たちの欠勤を減少させることが可能であったからだ。医療は、他の機能システム組織システムとの共犯関係を築き上げることによって、近代社会における機能システムとしての地位を確保してきたのである。

だがこの医療発展は、副作用なしにはあり得なかった。イリイチも指摘しているように、1950年代には医原病が発見されることになった。薬剤耐菌の発現やエックス線照射による遺伝子損傷が、この具体例となる。医原病は患者に優れた医療を施しているという医師の自惚れから生じたと、酷評することもできよう。医療から派生した莫大な被害を食い止めるために、社会は巨額の損失を被ることになったからだ。裕福な者たちは医原病への処置のためにますます医療に依存せざるを得なくなった。肥大化していく医療費を支払うことのできない貧しい者たちは、単に医原病にしむことになる。皮肉なことに、医療進歩が逆に病気を派生させてしまったのである。

イリイチの洞察に依拠するならば、医療危険な状態にしてしまったのは、医療を制度化させた病院という組織システムであったということになる。病院によって、医療は制度化されたツールになってしまった。このことをイリイチは医療システムにおける「生命の医療化(medicalization of life)」と呼んでいる。イリイチによれば、我々が問うべきなのは、言わば「脱医療化(demedicalization)」が如何にして可能になるのかなのだ。

問題解決策:ウェルネス

医療機器との関連で言えば、自的な共生(Conviviality)を重視するイリイチの「脱医療化」は、医療専門組織によって「独占」されてしまっている医療機器コンヴィヴィアル・ツール(Convivial tools)として「再利用」することで実現していくということになる。

コンヴィヴィアル・ツールとは、「価値の制度化(institutionalization of values)」という、文明評論であるイリイチの問題設定に対する問題解決策として導入された概念である。価値の制度化とは、過程と結果の混同を招く事態を指す。イリイチがこの現象を説明するために例示したのは、学校教育である。学校は、学生が学ぶために制度化されている。学ぶことが目的であるとすれば、教育はその過程である。その過程は絶対的な経路ではない。学ぶだけであれば、自宅学習や独学などという選択肢もあり得るはずだ。だが、学校制度が過度に期待されている状況では、自宅学習や独学などのように、個人で努力することの必要が実感し難くなる。個人は制度に依存することで学んだかのような錯覚に浸ることが可能になるからだ。学生は進級するだけで教育を受けたと錯覚するようになる。成人さえ、学歴や資格や免許を得るだけで能力があると思い込むようになる。こうして人々は、まるで最終目的を達成したかの如く、教育を受けるだけで満足するようになる。学びという本来の目的は度外視されるのだ。

これを前提とすれば、元来医療機関によって事実上独占されている医療機器を応用することで、日常生活バイタルサイン蒐集と分析を実践していくという着想は、イリイチ風に言えば自的な共生なのかもしれない。しかしこのバイタルサインに対する取り組みと「脱医療化」の必要との間には、まだ乖離があるかのように思える。と言うのも、他ならぬ医療機関の側からも、医療機関に縛られない広汎に渡る健康促進が呼び掛けられているためだ。

ウェルネス(Wellness)」という概念は、このことの一例として取り上げられる。今日ウェルネス形式を正しく評価するには、それぞれの病理の専門たちの考察だけでは、もはや十分ではない。「ウェルネス」の概念を提唱したハルバート・ダンも、「健康(Health)」とは、単に身体的で精神的に良好であるだけではなく、社会的にも良好な状態も含意すると述べていた。それ故、ウェルネスを論じるためには、病理の社会的な背景を見抜くことができる医療社会学的な考察も不可欠となるのである。

ウェルネス」の概念は、世界保健機構(World Health Organization : WHO)が定義した「完全に良好な状態(Well-being)」の概念を積極的に多元化した概念である。ウェルネスを追求していく上での水準は、「健康水準」と「環境水準」に区別されている。健康水準は、「ピーク・ウェルネス(Peak Wellness)」から「(Death)」へと伸びる横軸に、環境水準は「とても良好な環境(Very Favorable Environment)」から「とても良好ではない環境(Very Unfavorable Environment)」まで伸びる縦軸に、それぞれプロットされる。健康水準と環境水準が共に高い時、健康状態は「高次のウェルネス(High-Level Wellness)」を示す。健康水準のみが高い場合、「新興の高次のウェルネス(Emergent High-Level Wellness)」となる。環境水準のみが高い場合、「保護された乏しい健康(Protected Poor Health)」となる。両者が共に低い場合、単なる「乏しい健康(Poor Health)」となる。

ただしウェルネスは、健康を目的化したものではない。それはあくまで、よりよく生きるための手段なのである。それ故ウェルネスにおける「健康(Health)」とは、単に身体的で精神的に良好であるだけではなく、社会的にも良好な状態を意味する。ウェルネスは、「健康改善」のみならず、「病気の予防」も視野に入れている。

ウェルネスと医療の差異

ダンによれば、西洋の近代社会では、「人間」を身体、心、精神へと分割して考える傾向にあった。外科と内科などのように、人間を部分に分割し、その部分のそれぞれを対象とした専門領域へと医療分化していったのである。しかしウェルネスにおいては、逆に身体、心、精神の調和が目指される。ウェルネスのもとで観察される「人間」は、「総合的な環境に位置する生命統一体(a unity living within a total environment)」なのであり、その評価対象となるのは、「個人のウェルネス(wellness in the individual)」なのである。したがってウェルネスは、基本的に専門分化とは抗う立場にある。

ウェルネスの概念が指し示すのは、社会的な状況の中で、「生活の質(Quality of Life : QOL)」を追求していく活動の指針を提供している。その主導的な研究テーマとなるのは、スポーツ、レクリエーション、福祉医療、栄養、教育、運動のみならず、心理や宗教も含まれる。したがってウェルネスには、医学の範疇からは逸脱した疑似科学(pseudoscience)的な要素が含まれている。ウェルネスを通じたコミュニケーションは、純粋な医療と言う専門領域からは外れている。それは、近代社会機能的分化した医療システムにおける医療的なコミュニケーションではない。

医療に有用な病人という人格

医療という機能システムは、医療的な問題の解決に特化している。そのため、医者であれ患者であれ、医療的なコミュニケーションに参与する者たちは、全て「医療問題解決に有用な人間」として期待されることになる。医療社会学に多大な貢献を果たしたタルコット・パーソンズが述べているように、患者さえも「病人役割(sick role)」という機能を担うことになるのだ。

パーソンズに倣えば、病人役割は四つに区別できる。第一に、正常とされる社会的な役割の責務を担わないことである。病人の責務の免除は、他我による正当化によって可能になる。この正当化を果たすのは、主に医師だ。病人本人による正当化では、病人本人の業務を軽減することはできない。そうでなければ、「仮病」という非道徳的な振る舞いを放置することになるからだ。概してこの責務からの免除は、同時に病人自身に新たな社会役割を付与する。つまり安静にすることで、社会的な復帰を成し遂げようとすることが、病人社会的な役割なのである。

第二の役割は、端的に言えば、大人しく看護されるという役割である。病人は、医師たちと共に力を合わせて病気と奮闘するほど意気込まなくても良いことになっている。それ故に病人たちは、正常とされる社会的な役割の責務を免除される同時に、病気を治すという医療的な問題解決の責務の負担からも解放されているのである。病人は、自力で回復することの負担も軽減されているのである。その代償として、病人大人しく寝ていなければならないのだ。

第三の役割は、回復する義務である。病人が仕事を休めば、周囲の同僚たちがその仕事を引き受けている場合が少なくない。周囲の同僚からすれば、余分な負担を背負わされていることになる。この余分な負担が、その病人が一日も早く回復することを願う理由の一つとなっている。周囲の人々に迷惑をかけないためにも、病人の「回復する権利」は、「復帰する義務」と表裏一体でなくてはならない。

最後に、第四の役割は、第一から第三の役割を念頭に置いた上で、医療システムの専門たちと協力する義務である。患者は、極力医者の言うことを聞かなければならない。医者の話を問答無用で却下してしまっては、医療的な問題解決が成り立たなくなってしまう。

ウェルネスを主題とした闘争

こうしてみると、医療システムにおける患者は、病人としての役割を担うことになる。医者はもとより、患者の治療という役割を担う。病人らしく振る舞わない患者は、医療システムの円滑な遂行を妨害してしまう。医療的な問題解決を重視するなら、医者も患者も医療における機能的人間関係を築き上げることで、形式的なコミュニケーションに終始するしかない。

しかしその一方で、医療という機能システムに還元され得ないウェルネスを前提とした場合、医者と患者は全く別様の人間関係を形成することになる。ダンの積極的な定義に倣えば、ウェルネスとは、医療という機能システムには還元し得ない。それは一つの闘争である。

「ひとたび健康の目標としての高次のウェルネスの概念が、結晶化し、自身の評価参照のポイントによる多くの心的な貢献によって充実化すると、人間社会ウェルネスのための闘争が開始されるだろう」。
Dunn, Halbert. (1959) “High-Level Wellness for Man and Society,” American Journal of Public Health, Vol. 49, No. 6, pp786-792. 引用文については、p790を参照。

このダンの予期が意味するのは、健康の目標が設定されている場合にこそ、健康を巡る人間社会闘争が勃発するということである。その闘争はあくまでも医療における機能的人間関係ではなく「個人のウェルネス」を重視する。そしてそのウェルネスの活動は、医学的な専門知識のみならずレクリエーションや教育宗教までも含意する。それは病院という組織システムや専門としての医師に有用な病人としての役割を引き受けるだけには留まらない。「個人のウェルネス」を重視する者は、自ら医療をはじめとした社会システム闘争する姿勢を維持する。その姿勢が医療システムに還元されることはない。ウェルネス闘争は、むしろ医療という機能システムや病院という組織システムと対立する「運動」としての質を有しているのである。

機能的等価物の探索:スポーツ

ウェルネスの取り組みの一種として推奨されるスポーツは、端的に言えば、勝者敗者区別を導入することによって、その双方を参加者として包摂する。およそ公正にルールに従う限りにおいて、スポーツから排除されることはあり得ない。その一方でスポーツは、オリンピックの競技や部活動の大会などとは違って、ウェルネス(Wellness)やフィットネス(fitness)、エンハンスメント(enhancement)としても導入される。これらの主題は、医療機能的問題領域と接点を持つ。スポーツは、医療システムを介して、個人の全体社会への包摂可能にしているのである。

勝者敗者区別は、様々な機能的問題領域で導入されている。無論、勝者の定義と敗者の定義は、それぞれの機能システムコミュニケーションによって規定される。つまり、勝者敗者区別意味論は、それぞれの機能システム社会構造によって方向付けられているのである。しかし、各機能的問題領域で共通しているのは、この勝者敗者区別が、しばしば潜在化する傾向にあるということである。この傾向は、とりわけスポーツには見受けられない傾向である。

例えば政治機能的問題領域においては、既得権益を勝ち取る過程そのものは公にすることができない。もし公にしてしまえば、対抗勢力に都合の良い情報を与えてしまう。経済機能的問題領域においては、自らの収入が経済弱者を踏み台にして成り立つことをひた隠しにしなければならない。もしそこに焦点が当たれば、不平等や格差が、問題として顕在化してしまう。同様に教育機能的問題領域においても、一方では選抜コードから高学歴と低学歴の差異構造的に産出し続けるが、他方では学歴に拠らない人間中心主義的な教育思想や生涯学習意味論などによって、大衆の学歴コンプレックスを鎮めていかなければならない。その際には、教養自己啓発主題にすることで、「学校では習わない何か」がさも重要であるかのように語ることにより、大学のシラバスには載っていない学習の代替案を提示する必要がある。

このように、様々な機能的問題領域で、勝者敗者区別が潜在化する傾向にある。たとえ勝者敗者差異が明確に構成されていたとしても、そこから目を逸らすことが、しばしば社会構造の安定化を可能にしているのである。一方、これに対してスポーツは、極めて明確に、勝者敗者区別を導入する。スポーツは確かに、「参加することに意義がある」のだから、敗者であっても包摂され続ける。しかしより重要なのは、勝者包摂である。スポーツ勝者は、より勝っているという形式包摂され続ける。スポーツにおいては、勝ち続けても尚、徹底的に勝つことが許される。現実的に敗者を叩き潰す勝者包摂されているからこそ、その「埋め合わせ(Kompensation)」として、「参加することに意義がある」が活きてくるのである。もとよりこの一句は、規範的に期待されるだけで、現実を反映してはいない。実際、「第4位」という栄光に輝くオリンピック選手に対し、世論はほとんど関心を示さないであろう。

こうした勝者敗者区別を主導的差異としているスポーツでも、仲間意識や友情が重視される。だがそれは、スポーツがライバル意識世界であるためだ。スポーツにおいては、極めて明確に勝者敗者区別が導入される。そのことで、実は人間関係が分断されてしまうのだ。だからこそその埋め合わせとして、友情や仲間意識が語られるのである。この意味で、友情や仲間意識とは、人間中心主義的な意味論なのではない。スポーツでは、他者の承認は自発的に実践される訳ではない。他者の承認は、ただ闘争においてのみ実践される。

その際重要となるのは、そうした闘争が、ゲームのルールによって設定されるということである。ここから、公正スポーツという理念が育まれる。この理念は、倫理学的に考えるまでもなく明白だ。公式のスポーツがドーピングや八百長を規制していることがよく示しているように、スポーツでは、全員にとって、勝つことが原理的に可能でなければならない。原理的に必敗のゲームでは、公正は成り立たないのである。スポーツの倫理は、カントの「定言的命令」を引き合いに出すまでもなく明快である。スポーツでは、実力主義的に、ただ正々堂々と闘うしかない。スポーツに参加する個々人は、正直に、誤魔化すことなく、ルールの枠組みの中で、徹底的に闘い続けることで包摂される。

<前適応>としてのフィットネス

個人プレーであれ、チームプレーであれ、大抵のスポーツは、相互行為コミュニケーション組織コミュニケーションによって構成されている。このスポーツ機能的分化している全体社会と接点を持つのは、特に医療機能的問題領域との関連からである。ウェルネスやフィットネス、エンハンスメント主題としたスポーツ意味論は、医療社会構造による方向付けを前提としている。ウェルネスの運動としてのスポーツは、予防医学の観点から導入される鍛錬として実践される。だが、如何なる病気を予防するのかは、未規定に留まる。つまり鍛錬の実践者は、その時点では未規定に留まる要求を果たすために、鍛錬を積むのである。社会進化論的に言えば、スポーツの実践者たちは、まさに<前適応>のための鍛錬を積んでいるということになる。

このことを理解するには、<ウェルネスとしてのスポーツ>と<フィットネスとしてのスポーツ>を明確に区別する必要がある。<ウェルネスとしてのスポーツ>は、正例と負例を区別しない。これに対して<フィットネスとしてのスポーツ>は、何に「適合(fit)」しているのか、そしてどの程度「適合」できているのかが問題となり得る。それは、正例との誤差(loss)の最小化が求められるということである。つまり<フィットネスとしてのスポーツ>とは、最適化の一種なのである。この意味で、スポーツの参加者たちが目指すのは鍛錬(training)である。それは自発的な努力による成績の向上を目指した営みだ。ところで、自発的な努力であるというのは、成績向上というのが、社会によっては未だ全く要求されていない課題に他ならないためである。だからこそ、スポーツの実践とは<前適応>のための鍛錬となるのである。

派生問題:ウェルネスのパラドックス

一方、<フィットネスとしてのスポーツ>から区別される<ウェルネスとしてのスポーツ>には、ある意味で終わりが無い。誤差の最小化としてのフィットネスは、誤差をゼロにした時点で完了する。「健康水準」にせよ、「環境水準」にせよ、ダンの定義するウェルネスは、良ければ良いほど良いのだ。ダンによれば、ウェルネスは、健康を目的とした取り組みなのではなく、よりよく生活するための手段であるという。だがその際、より良き生活とは何なのかについては棚上げされることになる。

この点で言えば、ウェルネス医療社会構造を前提とした意味論影響下にある。医療機能的問題領域における二値コードは、何よりもまず「健康(gesund)」と「病気(krank)」の区別によって構成されている。健康とは、身体の諸器官がサインを発していない状態を指す。逆に言えば、病気ノイズである。医師はそのノイズ翻訳する。病気の症状は、医療の問題領域の意味論を前提とした、説明を要する。長らく医師たちは、その説明を診断書や処方箋に、呪文のように乱雑な筆跡で記述されてきた。紙媒体ではなく電子化されたカルテを使う医師であっても、そこに記述される用語は難解な医学や薬学の専門用語となる。だがそうした呪文を使いこなす医師たちも、万能な魔術師である訳ではない。健康は、サイン無き静寂な状態であるが故に、翻訳者としての医師が健康状態から判読できる事柄は、そう多くないのだ。医療コミュニケーションは、病気を手掛かりにするしかない。

健康であるという状態は、病気であるという状態よりも、多くを語らない。健康とは極めて形式的な概念である。病気ではないということが、健康であるということでしかないのだ。健康状態とは、実は診察や検査を受けていない状態でもある。だから、例えばウイルス検査の観察者たちは、偽陰や偽陽に悩まされながら、健康病気差異確率論的に規定するしかないのである。

総じて、健康であるというのは、内容が空虚な形式とならざるを得ない。ウェルネスにおける「良い生活」というのもまた、健康状態同様に、形式的な概念である。健康病気との差異によって成り立つのと同じように、ウェルネスが成り立つのは、それほど良いとは言えない生活実態があるからこそなのだ。

だが、ウェルネスが純粋に医療機能的問題領域に収まらないのは、「健康水準」に対して「環境水準」を直交させているためである。健康病気区別は、「健康水準」における形式である。一方、「環境水準」となる事柄は、病気健康区別においては排除された第三項となる。福祉教育、レクリエーションなどのような要因は、健康病気区別によって排除された第三項として、医療システム外部環境に位置付けられる。つまりウェルネスとは、医療システムとその外部環境の<差異統一>として、全体社会のより良き生活を主張する運動なのだ。

しかし、<差異統一>はパラドックスに他ならない。機能的分化した近代社会には、医療のみならず、政治経済科学・学問教育マスメディア芸術宗教族など、様々な機能的問題領域が分化している。それぞれの機能的問題領域の問題解決策として作動する機能的サブシステムは、それぞれに固有の論理に基づいて、システム外部環境区別を導入している。そうした機能的なサブシステムによって構成されている全体社会は、様々なシステム外部環境差異が織り成す、多文脈的な社会システムとなる。この全体社会に、統一された一体の外部環境などありはしない。医療システムとその外部環境の<差異統一>に留まるウェルネスは、実際には全体社会のより良き生活など追求できていないのである。それはあくまでも医療システムによって導入されたシステム外部環境差異に基づいている。

したがってウェルネスは、究極的には脱医療化を果たさない。ウェルネスは、ただ医療システム外部環境区別医療システムの内部に「再導入(re-entry)」する営みに過ぎないのである。

問題解決策:<機能システムとしての医療>と<組織システムとしての医療機関>の区別

こうしたパラドックス解消するには、機能システムとしての医療からの脱却を断念せざるを得ない。だがその代償として我々は、イリイチの「脱医療化」を「脱医療機関化」として再記述する選択肢を得る。この選択肢は、<機能システムとしての医療>と<組織システムとしての医療機関>の区別を導入することで選択可能となる。

イリイチの「脱医療化」を「脱医療機関化」として再記述することは、イリイチ自身の思想と何ら抵触しない。価値の制度化を実現しているのは、組織システムである。医療社会構造を前提とした場合、価値の制度化はまず<組織システムとしての医療機関>によって実行される。この医療機関に該当する組織システムとして例示できるのは、病院だけではない。医師会やウェルネスを提唱してきたWHOすら含まれる。だが重要なのは医療機関の定義ではない。むしろ重要なのは、機能システム組織システム差異である。病院や医師会、WHOなどのような組織システムの寄せ集めが、すなわち<機能システムとしての医療>になる訳ではないのだ。

このような社会システム理論的な概念編成は、<組織システムとしての医療機関>の外部環境を舞台とした<医療機能的等価物>の発見探索を実践可能にする。確かにこの機能的等価物探索は、初めは医療機能的問題領域に準拠して実践されることになるであろう。探索するのは、医療機関の外部なのであって、医療の外部ではない。しかしこの探索は、次第に医療の外部も含めた全体社会探索にならざるを得なくなる。

機能システム組織システム区別が言い表しているのは、機能的な分化という社会構造を採用した全体社会が、組織システムから区別されるということでもある。だが全体社会組織は、相互に分離した統一体として対峙している訳ではない。組織システムは、全体社会という社会システム外部環境で成立するのではなく、全体社会という社会システムの内部で成立する。と言うのは、組織システムもまた機能システム同様に、全体社会のサブシステムであるということだ。組織システムは、機能的な分化とは別種の分類軸に準拠した別様のサブシステムなのである。

それ故、全体社会もまた、組織システム外部環境としてのみ把握され得る訳ではない。組織システムは、自己自身を全体社会の内部における外部環境から区別している。言い換えれば、組織システムは、全体社会の内部において、<組織システム>と<外部環境>の区別を導入しているのである。したがってまた、組織システムは、そうした全体社会の内部における<外部環境>を、全体社会の外部における外部環境から区別することができなくてはならない。

尤もそれと同時に、組織システムは、ある種(is-a)の全体社会なのであるから、その作動は全体社会の作動でもある。逆に言えば、全体社会の社会構造は、少なからず現にあるようには、組織システム無しに成立し得ないであろう。とはいえ、全体社会における作動と組織システムにおける作動は、明確に区別されなければならない。全体社会は、組織システム以外に、機能システム相互行為システム、あるいは運動のようなシステムも論理的に包含している。これに対して組織システムは、組織内の構成員と組織外の非構成員の区別や、地位の形式意思決定を要素としたコミュニケーションなどのように、固有の性格を有している。この自己自身の固有の性格を参照することにより、組織システムは、全体社会の内部で、<組織システム>と<外部環境>の区別自己言及的に導入し続けている。

周囲を見渡せば直ぐにわかるように、組織システムとして作動しているのは、病院をはじめとした医療機関だけではない。一見すると、組織システム分化は、機能的な分化とも関連して進められたようにも視える。医療機能的問題領域に<組織システム>と<外部環境>の区別を導入しているのが医療機関であるのなら、政治機能的問題領域に同様の区別を導入しているのは、国家や政府、あるいは政党である。同じように、例えば経済においては企業銀行が、においては裁判所検察庁が、科学・学問においては大学や研究所が、教育においては学校が、それぞれ組織システム構成している。

しかしながら、機能的な分化という機能システム区別は、組織システム区別とは独立して導入されている。その証拠に、一見して医療機能的問題領域を参照しているかのように視えるWHOは、一方では国際連合という極めて政治的な問題領域に位置する組織システムと密接な関わりを有している。またこうした国際連合を成り立たせているのは、資金のやり取りという極めて経済的な問題領域の問題解決策でもある。したがって組織システムは、純粋に一つの機能的問題領域に特化している訳ではない。病院ですら、経営にしめば、経済問題解決策展開せざるを得なくなる。

医療機能的問題領域に<組織システムとしての医療機関>の<外部環境>を見出すという先述した発想は、まず以って医療機能的問題領域を観察することで、医療問題解決策に徹するということを意味する。そのためには、他の機能的問題領域における問題設定から、医療問題設定区別する必要がある。こうした各種の問題領域の差異を明確に観察していかなければ、様々な問題領域の錯綜した関連に惑わされることになり兼ねない。尤も、この<医療機能的等価物>の探索は、既知の医療問題解決策だけで可能になるとも限らない。医学やバイオ技術をはじめとした科学・学問意味論は、この関連から有用な問題解決策となり得ると期待できる。したがって次頁からは、医療機能的問題領域から徐々に科学・学問機能的問題領域へと観点を移していくことにしよう。

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