生物学会の社会構造と「ファウスト的人間」の意味論 | Accel Brain

生物学会の社会構造と「ファウスト的人間」の意味論

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派生問題:人工物としての生命は如何にして可能になったのか

1828年、フリードリッヒ・ヴェーラーは、尿素合成によって、無機物から有機化合物への合成に成功した。この史上初の成果から刺激を受けたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは、自身の『ファウスト第二部』に、「ホムンクルス(Homunculus)」という小さな人造人間を登場させた。ホムンクルスは、「人間」の本質が如何なるものなのかを主題にして記述された概念である。

16世紀の神秘学の意味論において、ホムンクルスという概念は、錬金術はもとより、あのカバラの手からも創造されると信じられていた人造人間意味していた。ゲーテのホムンクルスは、これらの神秘学的な概念としての人造人間文学の中で再記述した概念である。しかしホムンクルスという名の人造人間は、決してゲーテの単なる文学上の表現に留まる概念などではない。と言うのも、ドイツ古典主義文学者として知られるゲーテの文学背景には、彼の自然科学的な研究成果が存在しているためである。ゲーテの文学におけるホムンクルス概念が如何にして可能になったのかを知るには、彼の自然科学的研究の意味論観察しなければならない。

問題解決策:変態

1784年にゲーテは、頭蓋骨は変形した脊柱骨から形態学的に形成されたものであることを発見した。ゲーテは翌年、植物の「変態(die Metamorphosen)」も発見している。彼がこの変態概念の下で理解しているのは、植物の全ての器官が、根からおしべに至るまで、専ら葉の形の変形したものであるという事態である。これにより彼は「原植物(Urpflanze)」の概念に行き着いた。

フリードリッヒ・シラーはこのゲーテの「原植物」という概念を「理念(Idee)」として解釈した。だがゲーテは、この理念という概念が感覚的な具体を欠如させていたために、シラーのこの見解を容認しようとしなかった。ゲーテとシラーは共にドイツ古典主義的な文学の完成者として知られている。多くの芸術たちは、このゲーテの文学美学として特徴付けていた。だがこれに対して、ゲーテの文学が彼の自然科学と密接に関連していることを見抜けたのは、それほど多くはいない。

この接点を見抜いてた数少ない批評の一人であるヴァルター・ベンヤミンによれば、ゲーテの創作活動は、この時代の大多数の知識人とは異なり、ゲーテが「美的仮象(schonen Scheins)」と和解したことは一度たりとも無かったということを指し示している。美学ではなく自然照こそが、彼の文学特徴付けてきたのである。

ゲーテは、同時代のアイザック・ニュートンによって牽引されていた物理学に背を向けた自然科学者でもある。ゲーテにとっては、人間こそが、この世界存在し得る最も偉大で正確な自然の装置であった。自然を認識することの最大の効用は、ゲーテによれば、それが一つの生に与える形式において定まる。それ故、ゲーテの時代の物理学が実験を言わば人間から切り離し、人工物の計器が指し示す対象の中にのみ自然を認識しようとしているのは、ゲーテにとっては、物理学の最大の害であったのだ。

ゲーテの仕事を学問として観察した場合、ベンヤミンが述べているように、最も厳密な意味で画期的であったのはその植物学上の発見だけである。更に骨学上の著作は広く認められている。だがそれはゲーテ自身の発見という訳ではなかった。気象学関係の文献はほとんど注目されていない。一方、これに対して最も激しく反論されたのは、彼の『色彩論』である。

この『色彩論』はゲーテにとって、自身の自然科学的なライフワーク全体に栄冠を授ける内容であった。『色彩論』の立場は、ニュートンの光学に対して著しく対立する立場である。ゲーテが長年に渡って反対してきた内容によれば、ニュートンは白色光を様々な有色光の合成になると説明するのに対して、ゲーテはそれを我々が知っている最も単純にして最も分解不可能な、最も均質な実体であると説明する。

ゲーテによると、白色光は合成されたものではない。ましてそれは、幾つもの有色光が合成されたものなどではないという。『色彩論』は、色彩を光の「変態」した姿として記述する。つまり色彩とは、光と闇の競合の中で形成される現象であるという。

「変態」という概念を前提としているゲーテにとって、光と闇の区別は、彼の探究を貫く主導的差異となる。ゲーテによれば、闇は決して単なる光の不在などではない。もしそうだとすれば、闇を知覚することは不可能になる。闇は、一つの実在であって、<反光>なのである。

ここから転じて、晩年のゲーテは、動物と植物が光や闇によって構成された可能性を想定することになる。つまり動物と植物は、共に光と闇の区別に準拠した「原状態(Urzustand)」から発展して生じたという仮説である。

こうした自然科学的研究の如何にもゲーテらしい特徴の一つが、それらの研究において、ゲーテがロマン派の精神に肉薄しているということである。しかしその分だけ逆に、彼はに関する思想において、ロマン派の精神に反抗することになる。ゲーテの哲学上の姿勢は、彼の文学的な著作からよりも、むしろその自然科学的な著作から遥かによく理解できるとベンヤミンが述べているのは、この関連からである。

ゲーテはイマニュエル・カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』に対しては鋭く対立する姿勢を取る一方で、『判断力批判』に対しては最高度の敬意を抱いていた。と言うのもこの著作のカントは、目的論的な自然解釈排除しているためである。ゲーテ自身の解剖学的あるいは植物学的研究も、目的論的自然科学を排除している。ゲーテとカントは共に、有機的であるということは合目的的であると定義している。そしてここでいう目的とは、合目的的な被造物それ自体の<外部>にではなく、その<内部>に存在する。まさに<自然>も含め、統一性は目的とは常に無関係である。この論点においてカントの思想は、ゲーテの思想に完全に合致していた。

問題解決策:根源

ゲーテにとって生命とは、常に自然の中で実現可能になる存在であった。このゲーテの基礎的な概念を知る上で無視できないのが、「エンテレケイア(Entelechie)」という概念である。アリストテレスならば「霊魂(Psyche)」として叙述したであろう概念であり、またゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツが「モナド(Monade)」と名付けた概念でもある。

二者の思想を継承したゲーテは、このエンテレケイアを、万物を形成する自然の「根源的な力(Urkraft)」と解する。それは、地上の被造物のみならず、天体までも生成発展させる壮大な宇宙論的概念である。エンテレケイアにおいて、ミクロコスモスマクロコスモスは一つに結び付く。自然はこれにより、あるいはベンヤミンが大詩人シャルル・ボードレールとの関連から叙述したような、「万物照応(Correspondances ; Korrespondenz)」を成し得ているのである。

ゲーテは「古典的ヴァルプルギスの夜」において、エンテレケイアが指し示す自然根源的な力の形象を、彼の自然科学的研究よりも忠実に叙述している。端的に述べるなら、ホムンクルスはエンテレケイアの担い手として登場した訳だ。フラスコのガラスを突き破りたいという衝動に駆られていたホムンクルスは、最高の意味において「発生したい」と主張していた。ゲーテの叙述するホムンクルスは、まだ自身が発生していないと考えていた。言い換えれば、フラスコの中のホムンクルスは、まだ生命としては完成していなかったのである。

フラスコは、ホムンクルスの生に付与されるべき形態の代替物を象徴している。ここでいう形態とは、フラスコがそうであるように、物質的な形態に他ならない。逆に言えば、フラスコの中のホムンクルスそのものは、あえて精神と物質の区別を導入するなら、全く精神的な存在に過ぎなかった。

フラスコの中のホムンクルスは、物質的な形態を持たずとも、活発に行動する精神存在である。モナドとしてのエンテレケイアは、絶え間ない活動の中に根を下ろす。物質的な形態が伴わずとも、動き続けることこそが生命の本分であるという訳だ。

しかしホムンクルスの根本的な欲求は、物質的な形態、すなわち身体の獲得に向けられていた。活発に行動する精神存在から身体を有した有機体へと変態することが、ホムンクルスの何よりの願いであった。このホムンクルスの根本的な欲求は、ゲーテの想定するエンテレケイアの本質が彼の植物学との関連から叙述されていたことを明らかにする。植物や動物の変態は、形態化による有機体の構成を志向している。

したがって、エンテレケイアは、生成消滅と変態の時系列的な過程の中で発現する根源的な力である。生命においては、存続するもの、安定化するもの、完結したものは何一つあり得ない。全ては揺らぎの中で絶えず動き続ける。この関連からゲーテのこの根源的な力を自然史の中に見出したベンヤミンは、その歴史哲学的な洞察によって、根源の内部がそこから産み出されるものの素材を「リズム(Rhythmus)」の一部として包含していると考えた。

この発想は、生命に関するゲーテの洞察に逆輸入的に適用させたとしても、矛盾しない。絶え間ない活動の中に根を下ろすエンテレケイアは、その活発な行動による生成消滅によって「リズム」を刻むと考えられるからだ。単に生存していることが、生命を意味するのではない。ホムンクルスがガラテアとの結合によって有機的な生命体として発展していくことで、最終的に海の中に消滅していったのは、自然根源的な力が生成消滅と変態によって成立しているためなのである。

問題再設定:ファウスト的人間

我々が生きる近代社会において、活発に行動する精神存在による物質的形態の獲得というゲーテの発想は、科学・学問、とりわけ生物学会の社会構造に関連した意味論として再記述されている。これは、近代社会科学・学問が、「古典的ヴァルプルギスの夜」と主題を共有しているということである。サイエンスフィクションが文学的に叙述してきたユートピアは、既に科学的な概念として再記述されているのだ。

実際、クローン技術においては、人間学はある意味で「観念論的」になっている。ここでは人間学が、人間をその身体から解放する。それは、情報(information)による形成(formation)である。情報は、現実的な事柄ではあるが、物質でもエネルギーでもない。そして情報は、情報量理論が定式化しているように、エントロピーとは逆向きの作用を果たす。故に、人間遺伝子操作による進化は、自然の通常のエントロピーとは反対の方向を取る。この意味で、遺伝子操作による人間進化は、人工物進化という様相を呈することとなる。

尤も遺伝子操作は、物質的なものと無縁であり続けている訳ではない。確かに、1924年にハンス・シュペーマンとヒルデ・マンゴルトが開発した移植技術は、生命の法則一般的な物理的・化学的な法則の一種であるという機械論的な考え方を放棄させる結末を招いた。しかし、まさにこの時から、「ファウスト的な」人間たちは、丁度物理学者たちが原子核の内部を明るみに出したのと同じように、細胞核の内部を暴露することとなる。ファウスト的人間たちは、人間中心主義的な価値尺度を全て無用にする自由を獲得したのである。それ以来、人間の自由を巡る闘争の舞台は、いよいよ細胞の深部にまで及ぶことになった。遺伝子操作は、生物学的な事柄の情報理論的な解釈と、培養という物理的な操作との間の、境界上で作動する。

こうした科学・学問の進展を前提とするなら、生命に対するファウスト的人間たちの観察観察することによって、ゲーテが叙述した意味でのホムンクルス如何にして可能になるのかについて、有力な手掛かりを獲得できると期待できる。

問題解決策:遺伝学

生命システムは、「遺伝子(gene)」の命令文によってコード化されている。遺伝学は生命のアルゴリズムのようなものだ。ある遺伝物質の情報内容が、その遺伝物質を生物学的に活性化する。こうして、一個の胚の発育を形成していく。一個の胚の内部で様々な情報循環し、フィードバック・ループを反復することで、胚の発育を形成していくのである。受精卵細胞は、フィードバック制御システムの構築を実現していく設計書のようなものになる。

1953年には、こうした生命システム構造を一個のモデルとして記述できるようになった。生命システムにおけるゲノムとは、一組の染色体である。それは、ある生物の持つ全ての遺伝情報を表す。ゲノムは、生命システムの設計図のようなものとして、生命システム身体構造化している細胞の一つ一つに格納されている。ゲノムの実体となるのは、デオキシリボ核酸(deoxyribo nucleic acid; DNA)に他ならない。DNAは、糖とリン酸によって構成された二本の鎖が螺旋状に結合した「二重螺旋構造」を成している。二本の鎖が螺旋状に配置されているのは、それぞれの鎖から突き出すように発せられている大量の塩基が中央部分で水素結合しているためである。

DNAの二重螺旋構造

二重螺旋構造の塩基対は、アデニン(Adenine)、チミン(Thymine)、シトシン(Cytosine)、そしてグアニン(Guanine)という四種類の塩基が組み合わせられることで成立している。アデニン(A)はチミン(T)と、シトシン(C)はグアニン(G)と、それぞれペアになる。DNAの塩基配列は、これらA、T、C、Gの配列として構成されている。そしてこの配列には、多様なタンパク質を構成するための命令が書き込まれている。「遺伝子」とは、この命令を意味する。

DNA分子の特定の塩基配列は、遺伝の物理的あるいは機能的単位である遺伝子に対応している。遺伝子とは、身体構造単位となる。遺伝子には、生合成を実行するタンパク質のアミノ酸配列情報が書き込まれている。ヒトの場合、10万種類もの遺伝子DNAの中に書き込まれていると考えられている。ヒトの遺伝子のうち、タンパク質をコード化しているのは数%であるとされている。DNAの量が少ない単細胞生物では、大部分がアミノ酸配列に変換される。だが一方でヒトのような高等生物では、その割合は数%となる。

自己複製と転写の差異

遺伝子の命令に従ってタンパク質が構成される際、DNA類似した「リボ核酸(ribonucleic acid; RNA)」がメッセンジャーとして機能する。二重螺旋構造の一部が「解ける」と、一方の鎖から遺伝子部分の塩基配列がメッセンジャーRNAに複製されることで、それが細胞内のタンパク質の「構築」を担うリボソーム(ribosome)へと伝播される。リボソームでは、メッセンジャーRNAが伝播した命令の通りにアミノ酸が構成されていく。こうして、タンパク質のアミノ酸の一次構造が規定されていく。

ここで重要となるのは、DNAの複製とRNAへの転写の区別である。転写されるのはDNAの一部に限られる。またRNA側には、「スプライシング(splicing)」という情報の再記述が加わる。言い換えれば、DNA自己複製的に振る舞う。DNAはRNAに転写される。RNAは自己をスプライシングしつつ、DNAへ逆転写されることもある。

RNAは「メッセンジャーRNA前駆体(Precursor Messenger RNA)」と「メッセンジャーRNA(Messenger RNA)」に区別される。スプライシングは、前駆体からメッセンジャーRNAへと、非コード領域を除外することで行われる。ここで切除されるのは「イントロン(intron)」と呼ばれる部分である。残りは「エクソン(Exon)」と呼ばれる。エクソンは、タンパク質の構造モジュールである。タンパク質はこのエクソンを様々に組み合わせることで様々なタンパク質を構造化していく。つまりタンパク質へと翻訳されるのは、このエクソンのみで構成されたメッセンジャーRNAである。そしてこの過程で、遺伝子が発現する。

エクソンは、イントロンに比して、突然変異する確率が低い。それは進化上の獲得物として安定的な構造構成する。逆に言えば、イントロンの機能があるとすれば、それは進化上獲得された構造にロバストを備えることにあるとも言える。

問題解決策:<学習する能力>と<増殖する能力>の区別

DNA配列モデルは、第一に、遺伝子が転写と編成を代謝機能制御の能力を有することを示す。第二に、それは、遺伝子自己情報を「機能せよ」という命令として生体組織に伝達する仕様を示す。このような基礎の上に、ある種の「サイバネティクス(Cybernetics)」的な生物学が、人間の行動をフィードバック・ループの反復として完全に形式化できるようになった。そして遺伝学は、生殖細胞の中に、人間が解析可能であるという観点を有することになる。

サイバネティクスの創始者たるノーバート・ウィナーにとって、生命システムとは動的な制御システムに他ならなかった。サイバネティクスとは、動物機械における制御と通信を意味する。ウィナーがサイバネティクス的な生物学の足掛かりとして提供していたのは、生物組織の能力に関するある区別である。

ウィナーによれば、生物組織の能力は<学習する能力>と<増殖する能力>に区別される。この二つは、一見非常に異なる能力だが、実は相互に密接に関連している。学習する動物というのは、過去の環境によって、今までとは異なる存在変異することができる。学習する動物とは、その一生の間に、環境に適応できる動物のことを指す。一方、増殖する動物とは、少なくても近似的には自己自身と類似した別の動物を作り出すことのできる動物である。類似した動物であって、完全に同じ動物である訳ではない。

もしこの増殖の際に生じる変異遺伝するものならば、その素材自然淘汰が作用し得る。行動の仕方が遺伝によって伝播されるのならば、それらの様々な行動の形態の中にあるものは、種の生存のために有利であると見做される。これにより、形態内容が固定される。逆に、種の生存に不都合な他の行動形態排除される。

かくして、ある種の種属的(racial)な、あるいは系統発生的(phylogenetic)な学習が成立する。この系統発生的な学習の対概念は、動物の個体発生的(ontogenetic)な学習である。系統発生的な学習と個体発生的な学習は、共に動物自己自身を環境に適応させていく手段であると考えられる。例えば鳥や昆虫は、個体発生的な学習よりも系統発生的な学習を重視する。鳥においては、空を飛ぶために非常に高度な能力がその個体に要求される。そのために、飛ぶことに関する系統発生的な学習に、個体発生的な学習の分の神経システムの能力を使い果たしてしまう。

個体発生的学習と系統発生的学習のうち、特に系統発生的学習は、何らかの形で生命があると考えられるあらゆる生体組織に見受けられる。しかし、生物体の種類が異なれば、この二種類の学習の重要の程度も大幅に異なることになる。人間においては、またそれほどではないが他の哺乳類においても、この個体発生的な学習と個人的な適応は最高度に発達しているとされる。実際、ヒトの系統発生的な学習の大部分は、個体発生的な学習が上手く実行できる能力を確立することに向けられていると言っても過言ではない。

ウィナーは、人工物としての機械が、こうした系統発生的な学習や個体発生的な学習を実行するのかどうかをサイバネティクス的なシステム理論背景に考証していた。一階のプログラミングで可能となるのは、多くの場合、線形の演算である。一階のプログラミングの方針を規定する二階のプログラミングは、過去の知識をより広範囲に利用する。予測は、こうした一階と二階の双方の演算を組み合わせることで可能になる。だが、遠い過去からの知識を用いて、ごく近い過去から未来への方針を決定するのに必要な統計的な手は、極めて非線形的な演算となる。ウィナーの時代において既に、学習する機械は、既に非線形なフィードバックによって動作していた。

一方、機械における増殖とは、機械による「自己増殖(self-propagating)」である。機械は、物質の一形態であると共に、何らかの機能を有したシステムである。自己増殖とは、単に同一の物質を生み出すことを表すのではなく、自らと同じ機能を営めるものを作り出すことを意味する。したがって自己増殖とは、機械自己自身の機能的等価物を複製することを意味する。

この自己増殖概念を前提とすれば、機械遺伝子は、自己複製的に振る舞う点で、機能的に等価である。この着想は、遺伝子やそのタンパク質の構造人工物としての再現することの可能性を仄めかしている。この限りでウィナーのサイバネティクス的な生物学は、人工物としての生命システム主題とした科学の前史として位置付けられる。

問題解決策:人工知能と人工生命の区別

ウィナーがサイバネティクスを提唱した時代は、人工知能研究が進展した時代でもあった。ハーバート・アレグザンダー・サイモンとアレン・ニューウェルは1957年、人工知能に関する楽的な展望を掲げている。曰く、コンピュータは10年以内にチェスのチャンピオンになるであろう。またコンピュータは、新しい数学の定理を発見し、それを証明するであろう。また、芸術的な価値を有した音楽叙述するであろう。最後に、コンピュータは、心理学理論プログラムとして記述するであろう。これは、初期の人工知能研究の楽的な理念として叙述されている。

1990年代になると、こうした理念の下にあった人工知能研究は、より基礎的な問題へと主題を移すようになる。物理学者クリス・ラングトンを筆頭に、知能に限定されない幅広い生命現象を人工物として再現する「人工生命(Artificial Life: AL)」の研究主題が、1987年、ロスアラモスでラングトンが座長を務めたワークショップから生み出されたのだ。

ラングトンによれば、人工生命は、自然の生きているシステム特徴的な振る舞いを示す人工物システムである。人工生命の研究は、地球上で進化した特定の例に限定されず、あらゆる可能な生命の創発性格(Emergent property)を説明する探究である。そしてこの研究の最終目標は、生命システムの論理形式抽出することである。

ラングトンは、「人工生命とは何か(what)」についての明確な定義は必ずしも与えていない。だが「如何にして(How)」については、幾つかの要素を指摘している。例えば人工生命は、単純なプログラム集合構成される。この集合には、全体の動作を規定する単一の中心的プログラム存在しない。一つの個体に関してのプログラムは、他の個体との遭遇など、環境内の局所的な状況に反応する仕方を記述する。それぞれのプログラムよりも行動な水準で、結果的に行動が創発するような特を有している。

人工生命の研究においては、自然に生起した生命についてのより深い理解を促すことが目指される。一方、工学的な用途として想定されているのは、一般化された適応能力を有する人工物構成である。これらの二つの目的から、人工生命の研究は、専ら生命現象をコンピュータモデル化することで、生命システムの作動を予測もしくは制御するようなシミュレーションを実行しようとしてきた。

人工生命のシミュレーションは、既存の進化上生存し続けている生物たちとは別のあり方でもあり得る生物の探究にも応用される。外部環境や淘汰の成り行き次第では、もしかすればあり得たかもしれない別様の生命システムの探究も可能になる。つまり人工生命とは、既存の生命の偶発性を露呈させる波及効果を有した研究主題でもある。

人工生命の研究は、科学・学問コミュニケーションとしては比較的新しいプログラムに準拠している。その理論方法は、分析的でもなければ還元主義的でもない。人工生命の科学は統合的な科学であって、全体論(holism)に属している。ラングトンならばこの全体論を「蒐集主義(collectionism)」と呼ぶであろう。

自然生物であれ、人工物生物であれ、生命はそれを構成する物質によって規定される訳ではない。生命とは、そうした物質よりも高水準の抽象化された「過程」であると考えられている。

機能的等価物の探索:コンピュータ・ウィルス

1988年、国家安全保障局(National Security Agency: NSA)におけるコンピュータ・セキュリティの専門を父に持つロバート・タッパン・モリスは、「コンピュータ・ワーム(computer worm)」を放つことで、インターネットに接続していたコンピュータの多くをダウンさせた。大抵の一般市民にとって、当時のインターネットはまだ未知の領域であった。その新しさにマスメディアが喜んで飛び付き、事を面白可笑しく取り上げた。一方、ワームの被害に遭ったネットワークの多くのユーザーたちは酷く困惑していた。一度ワームに侵されたネットワークを修復するのは、並大抵のことではない。だから、それまでセキュリティには中途半端な関心しか寄せていなかったアメリカ政府も、サイバーテロ対策のために、コンピュータ緊急事態対策チーム(Computer Emergency Response Team: CERT)の設置を急いだほどだ。

モリスは、『コンピュータ詐欺および乱用防止』が施行されるようになって初めて有を宣告された記念すべきクラッカーの一人となった。尤もモリスに課せられた刑は、社会奉仕と罰金だけであった。何故なら、このモリスのワームコンピュータ内部のシステムが破壊された訳ではなかったためだ。モリス自身も、別段コンピュータをダウンさせるつもりは無かったという。彼はただ単に、コンピュータ能を高めるために、ワームを開発したという。

コンピュータ・ワーム(computer worm)」は、何処か「コンピュータ・ウイルス(computer virus)」に似ている。ワームとウイルスは、共にARPANETのような巨大なネットワークを住み心地の良い快適な場所として扱っている。しかし双方は、機能の面で区別されている。ウイルスは、ハード・ディスクやフロッピー・ディスク、USBメモリなどのような、自分の複製を寄生させる宿主となるプログラムやファイルを必要としている。ウイルスの機能は「ペイロード(payload)」にあると言えるだろう。ペイロードとは、データを運送するパケット、メッセージ、あるいはコードを指す。ウイルスのペイロードは、宿主となるシステムを変更することや、攻撃することを可能にする。サービスやグラフィックの品質を劣化させるためのペイロードもあるだろう。

これに対してワームは、特定の宿主に居座るだけではなく、コンピュータからコンピュータへと移動することができる。ワームは、芋虫がリンゴの中に住み着くのと同じように、コンピュータのメモリに住み着いている。そして芋虫が種を保存するように、ワーム自己を複製していく。大抵の場合、ワームの子は別のコンピュータに移動していく。そしてワームの親子同士で情報のやり取りを行なうこともある。こうした営みから、ワームはメモリを使い果たしてしまう。ワームに居座られているコンピュータは、それ故に情報処理速度を劣化させてしまい、遂にはクラッシュしてしまう。

一方ソフトウェアの中には、「トロイの木馬(Trojan horse)」のように、一見クラッキングを目的としたプログラムだとは思えないツールもある。トロイの木馬はウイルスのような自己複製機能を持たない。他のコンピュータに寄生することも無い。トロイの木馬は、自らを有用なソフトウェアであるとユーザーに信じ込ませて、自身を実行するように仕向ける。何も知らないユーザーがこのソフトウェアを実行してしまうと、コンピュータの内部に侵入していき、データの消去、ファイルの流出、他のコンピュータへの攻撃など、様々なクラッキングを実行する。

クラッカーたちの発明品の中には、「コンピュータ爆弾(computer bomb)」というツールもある。コンピュータ爆弾には、その起爆条件から二つに大別されている。つまり特定の条件下で爆発する「論理爆弾(logic bomb)」と特定の日時に爆発する「時限爆弾(time bomb)」である。こうしたコンピュータ爆弾は、トロイの木馬同様に、自己を複製しない。これらの爆弾は、クラッカーたちによって、予めプログラムされていた論理的な条件や日付によって爆発するように設計されている。コンピュータ爆弾の目的は、ファイルの削除、変更、ハードディスクの大破など、クラッカー次第で多聞に及ぶ。

コンピュータ爆弾が標的を一撃の下で仕留めることを目指しているのに対して、ウイルス、ワーム、そしてトロイの木馬は、予め長期戦を予定した攻撃を仕掛ける。その攻撃の射程は、標的が接続しているネットワークの規模に比例する場合がほとんどだ。ウイルスやワームトロイの木馬の拡散を希望しないのならば、感染しているコンピュータのみならず、そのネットワークと接続している全てのコンピュータを一時停止させなければならない。そうなれば、本来そのコンピュータを使うことを前提として計画していた仕事が進まなくなってしまう。仕事の休止時間が長引けば、それだけそのネットワークを利用する組織は痛手を負うことになる。

1990年代前半から後半にかけて、サイバー攻撃の猛威は徐々に増していった。それと同時に、セキュリティという価値の制度化が伴った。今や我々は、何処かの専門組織が開発したセキュリティ・ソフトに依存しなければ、コンピュータを起動させることさえできなくなっている。しかし、科学社会学者トール・ノーレットランダーシュも指摘しているように、ここで問題視すべきなのは、むしろウイルス、ワーム、そしてトロイの木馬は、今も尚根絶されていないという点であろう。無論、一つ一つのコンピュータからこれらのウイルスを駆除することは可能だ。だが、それで根絶される訳ではない。コンピュータ上を飛び交うウイルスたちは、自己複製、新陳代謝、突然変異など、生命システムとしての特徴を数多く併せ持っている。こうした特徴を加味すれば、「ウイルスたちが生きていない」とは言い難くなる。

もとよりウイルスたちは、コード断片に過ぎない。そしてウイルスたちは、コンピュータ存在に依存しなければ作動し得ない。だがこのことは、人間をはじめとした生物が地球の存在に依存していることと大差が無い。ウイルスたちは、コンピュータの電源が入っていなければ拡散されることもないだろう。それは、太陽が無くなれば地球上の生命体も存命できなくなることと同じなのである。

クラッカーたちは、ウイルスたちの拡散を希望していただろう。だがウイルスたちは、その希望を遥かに上回る規模と速度で増殖することになった。それは可能な限り自的に振る舞う生命体のように、クラッカーたちの意図を超えて、縦横無尽に飛び交っていく。

創発的な進化

こうしたウイルスたちの進化を言い当てるキーワードとなるのは、ノーレットランダーシュも取り上げているように、「創発(Emergent)」という用語である。創発とは、比較的単純な法則が十分に長い時間を掛けて突如より複雑な現象を創出することを意味する。創発という現象を知るには、限られたごく僅かな構成部分を観察するだけでは不十分となる。この現象は、構成部分の複合体に生じる集合的な特観察することで、漸く把握し得るようになる。好例となるのが、温度である。温度を計ろうにも、僅かな数の分子だけをても意味が無い。膨大な数の分子複合性を直視して初めて、我々は温度を知ることができる。理由は明快だ。温度は、膨大な数の分子速度分布を統計的に計測することで求められるからである。

ノーレットランダーシュの解説によれば、創発の概念は、伝統的に生物学で論じられていた。生物学によれば、生命のシステム物理学や化学を超越している。物理法則や化学式だけでは、生命システムを説明し尽くすことはできない。確かに温度という情報を指し示す諸々の分子は、生命システムをはじめとしたより高次の組織体にも属している。だが個々の分子観察しても、そこから生命システム質がわかる訳でもなければ、ましてやその分子生命システムの一部であることさえもわからない。分子構成された事物分子構成された生命システムとの間には、飛躍がある。それは埋め尽くせない溝だ。この溝を跳躍しなければ、分子から生命システムが生み出されることはあり得ない。だから生命システムは、分子から創発されたとも言えるだろう。言い方を変えれば、これも一種の進化である。つまり生命システムは、事物の「創発的な進化(emergente Evolution)」によって成立したのだ。

創発という概念が生物学でしか論じられてこなかったのは、創発という現象が発現するまでの十分な時間を与えられた単純なシステム生命システムに限られていたからだ。だからノーレットランダーシュは、創発的に進化した生命システムが、それ以外の非生命システムとは完全に異なる存在であると考えられてきたという。ところが、コンピュータ存在が、この想定を覆した。コンピュータ・ウイルスたちの活発な作動をればわかるように、コンピュータ創発が非生命システムにもられる共通特徴であることを明らかにしたのである。

機能的等価物の探索:深層学習

ラングトン以来、人工生命は人工知能から区別される傾向にあった。しかし人工知能の技術が全く無用になったという訳ではない。特に「深層学習(Deep Learning)」以降、遺伝学や人工生命に関する様々な派生問題において、人工知能の技術は人工生命の補佐的な役割を担っている。

DNAは塩基配列によって情報を保持している。だがここから身体構造に変換されるまでには、複合的な生命システムが必要になる。そうした生命システムは、DNAとRNAの遺伝子からタンパク質へ、タンパク質から代謝産物へ、そしてタンパク質から遺伝子へのフィードバック・ループ制御によるネットワーク構造となる。そのため、この遺伝子身体構造再帰的な関連は、ベイジアンネットワークニューラルネットワークをはじめとした様々なモデル表現されている。

もしこのネットワーク構造生命システムの作動を十分表現できているのならば、このモデルの設計者は、生命もしくは最低でもその機能的等価物の営みを理解できていることになる。しかし、遺伝子の個数が増えれば、その関連の数もまた指数関数的に増えていく。それ故、いわゆる組み合わせ爆発問題が派生する。また、仮に同一のネットワーク構造を有したモデルでも、パラメタ次第では別様の発現を招いてしまう。加えて、一般に転写活因子と転写産物の量の関連は非線形となる。

そこで、深層学習以降の人工知能の成果が、特にニューラルネットワーク最適化問題とその解決策に付随する派生問題への解決策が、人工生命の領域を経由することで、遺伝子のネットワークの構造推定に応用されるようになっている。

生存可能性を有している多くの生物は、遺伝子変異に対してロバストである。遺伝子のネットワークは、遺伝子突然変異や欠損に対しても安定的な構造構成しなければならない。しかし一方で、生物進化する。つまり遺伝子変異が、結果的に別様のネットワーク構造としての身体構成するのである。定式化して言えば、環境への柔軟とロバストを両立することが、遺伝子のネットワーク構造を推定する上での機能要求となる。

自由エネルギー最小化としての構造化

タンパク質は、生体内の化学反応の触媒となる酵素や生体膜上の受容体などの成分として、生命のあらゆる部分で主要な部品の役割を担う。DNAからRNAに情報が転写され、そこからタンパク質のアミノ酸の一次構造が規定されるというのは、遺伝学や生物学における初歩的な「中心教義(Central dogma)」となっている。だが一方で身体は、この一次構造を遥かに上回る複合性を有して構造化されている。と言うのもタンパク質分子の取り得る三次元の形態は、より高次の構造可能にしているためである。

一次構造から高次構造への発展は、基本的にはタンパク質の「折り畳み(folding)」によって成立する。しかしこれは、分子の規模がそこまで大きくないタンパク質に限られた話だ。比較的小規模な分子であれば、自然に折り畳まれた高次の構造構成される。

分子の規模が大きくなると、事はそう単純ではなくなる。例えば、正しい形状のタンパク質を加することで、一度「解いた」状態にしてから再度冷却すると、その構造は元に戻る。生物学的に言えば、このことは、DNAからRNA、RNAからタンパク質への構造化の過程で、既に「設計」された仕様通りにタンパク質が再構造化されていることを表す。物理学的に言えば、自由エネルギーの最小化問題が解かれていることになる。

しかし、生命システム身体においては、温度有限であるため、タンパク質分子分子運動によって絶えず形態変異させていると想定できる。その形態変異が、既に規定された範囲で微妙に揺らぐ程度であれば、「折り畳み」とは単なる自由エネルギー最小化問題の解であると考えられる。しかしこの最適化には例外が伴う。全体としては「折り畳み」が完結していても、ある部分が機能特徴に応じて大きく揺らぐ場合があり得るというのだ。また、一部あるいは全体が全く「折り畳み」されていなかったとしても、そのままの状態で存在し続けるタンパク質もあり得る。つまり、IDP(Intrinsically Disordered Proteins)という例外も存在しているのだ。

タンパク質の「折り畳み」は、必ずしも一通りしかないという訳ではない。同じアミノ酸配列であっても、二つ以上の相互に異なる高次構造構成する可能性もある。ヤコブ病のように、タンパク質が正常とは異なる形状に「折り畳み」される現象をとりわけ「誤った折り畳み(miss folding)」という。

いわゆる「分子力学(molecular dynamics)」のように、「折り畳み」や「誤った折り畳み」のようなタンパク質の分子運動をシミュレートする方法も提案されている。だが「折り畳み」の全過程をシミュレートするためには、膨大な計算量が要求される。それ故、磁体のイジングモデルなどのような離散的モデルによって計算量を節約させたアルゴリズムも提案されている。

問題解決策:合成ゲノミクス

生命の創発的な進化に関する意味論は、生命を主題としてきた生物学にも影響を与えている。尤も、シミュレーション上のヴァーチャルな人工生命とは異なり、物理的な世界における生物学的な人工生命の研究開発は、そう簡単には進捗していない。

従来の生物学は、トップダウンの解析的な方法で研究プログラム展開していた。だがこの方法では、創発的に進化していく生命システムの作動の実態を分析し切れない。そこで生物学は、ボトムアップに生物構成していく「合成的な(Synthetic)」方法を採用するに至る。この研究プログラムによって構造化されたのが、通称「合成ゲノミクス(Synthetic Genomics)」と「合成生物学(Synthetic biology)」である。

合成ゲノミクス」を提唱したのは、ゲノム解読の中心人物であるクレイグ・ベンターである。ベンターは、1995年に初めて二つの生物の完全なゲノム解読に成功した。そしてその際に、他の生物に比して小さなその二つのゲノムの比較によって、生命の維持に不可欠な最小のゲノムとは何かという問題を設定する。それは、最小の生命体のゲノムやその形態如何にして可能になっているのかを探究する研究プログラムとして導入されることとなった。

このいわゆる「ミニマル・セル・プロジェクト」では、単にゲノムを解読するだけではなく、ゲノムを記述する必要があった。手順としてはまず、最小のゲノムを解読することで、その情報に基づきDNAを構築する。そして、そのDNAを生きた細胞に移植する。その後その細胞機能し続け、生存し続けるか否かを観察する。もし機能し続けて生存し続ければ、当のゲノムは生命の維持に必要な最小のゲノムであるということになる。

そして2010年、ベンターはゼロベースで化学合成したゲノムから人工的な微生物を誕生させることに成功した。この人工生命体の誕生が意味するのは、ゲノムの再利用である。ビッグデータとしてデジタル化されたゲノム情報再利用すれば、従来の生物には無い新しいDNAとその機能を特定することも不可能ではなくなる。ベンターはこうしたテクノロジーを「合成ゲノミクス」と名付けている。

合成ゲノミクスとは、新しいDNAを特定の目的のために創造するための生物学的なテクノロジーだ。生命システムのゲノムを探究していけば、合成ゲノミクスの研究者たちは、遂にはサイバネティクス的な生物学の延長線上の論理として、人工物としての生命システムを実装できるようになる。つまり、将来的に自己学習自己複製を成し得るロボットすら開発できるようになるのである。

問題解決策:合成生物学

合成生物学は、この合成ゲノミクスをより一般化した研究プログラムとなっている。新しいDNAとその機能の特定だけが、合成生物学の目的となる訳ではない。合成生物学には二つの理念がある。一つは、生命システムを設計して実装することによって、生命という現象を理解することである。もう一つは、人間の役に立つ生物を創造することである。

合成生物学は、既に構築されている生体の機能モジュールに分解することで、それらを代替や組み合わせを試行錯誤する。その営みは、既存のアーキテクチャ機能的拡張させる感覚に類似している。こうした合成生物学は実際、研究というよりもエンジニアリングに近い。しばしば合成生物学の営みは、電子回路を設計する営みに喩えられることもある。

見通し難い創発的な進化を引き起こす可能性を有した生命システムの作動を観察する上で、合成生物学は理に適った方法を提供している。トップダウンの解析的な方法では、創発的に進化し得る生命システム構造細部を隈なく計算しなければならない。これに対して合成的な方法では、既に作動している生命システム構造に攪乱や変更を与えることで、その事前と事後の作動を比較することが可能になる。計画することも制御することも困難な生命システムをゼロベースで生み出そうとしなくとも、生命システムの研究を展開することが可能になる。

プログラミング言語としてのバイオブリック

既に述べたように、合成生物学エンジニアリングに近い。そのため合成生物学方法においては、設計や実装のためのツールも開発されている。生命のエンジニアリングを試みたのは、合成生物学が初めてではない。合成生物学以前にも、遺伝子を人工的に制御しようとする遺伝子工学も発展していた。しかし、生物学の世界には、通常のエンジニアリングにおける標準化という概念が無かった。遺伝子工学においても、基本的に全ての要素は実験ごとにゼロベースで制作されていた。

そこでマサチューセッツ工科大学のトム・ナイトは、標準化されたDNAコンポーネントを扱う「バイオブリック(BioBricks)」を提案した。バイオブリックは、合成生物学における生体の部分機能を「システム」、「デバイス」、そして「パーツ」に区別している。そしてこれらのレイヤーごとに、インターフェイス仕様を標準化させ、各モジュールを一覧できるオンラインのデータベースを提供している。

元々バイオブリックは、複数のDNAコンポーネントを如何にして組み立てて構築していくのかという問題設定から導入された問題解決策であった。しかしながら、バイオブリックのユーザーは、単にレンガを機能的に積み上げていく積み木遊びに終始している訳ではない。

ナイトと共に合成生物学を牽引してきたドリュー・エンディも述べているように、バイオブリックは一種のプログラミング言語である。それは生命システムをプログラミングするための言語である。この言語を利用すれば、合成生物学者たちは、生命システム機能拡張、変更、追加を実現することが可能になる。バイオブリックとは、生命システムに対するプログラマの指示を形式化させるための言語なのである。

構成主義的な方法

こうしたツールに準拠した合成生物学方法は、構成主義的である。まず設計と実装に着手し、そのモデルによって可能となった現象を観察し、そのモデル妥当性を検証し、更にモデルを改良し、再び設計や実装に結び付ける。

生体のモジュール結合させることには、未知の副作用が伴う場合がある。モジュールを設計し、実際に実装し、その作動を観察することによって、合成生物学は、新しい生体部分機能についての知見を深めていく。

合成生物学の研究を展開していくためには、未知の生命システムについての試行錯誤が必要になる。人工物としての生命システムを生み出す合理的方法は確立されていない。合成生物学そのものに固有の理論が成熟した状態で記述されている訳ではなく、むしろ人工知能や人工生命の理論再利用されることで合成生物学理論が記述されている。

合成生物学の差別化要因

合成生物学の他のエンジニアリングに対する差別化要因となるのは、合成生物学で参照される細胞システムである。細胞を設計して実装できるということが、合成生物学の独自を生み出している。

インダストリアル・エンジニアリング(Industrial engineering)によって製造された自動車とは異なり、合成生物学によって生み出された細胞システムは、自己自身を複製することができる。自動車を製造するためには工場が必要となる。だが細胞システムは、最小限の栄養しか与えずとも、素早く自己複製を成し遂げる。例えば大腸菌は、研究室では約30分に1回の速度で複製と分裂を繰り返す。実装された細胞システムを大量に培養することは、難しいことではない。大規模な大量生産の需要を満たすことも可能なのである。

合成生物学遺伝子工学からも厳密に区別される。生命システムに与えようとする変化の規模の点で、双方は厳密に区別されている。遺伝子工学では、ある特定のシステムを研究する際に与えられる変化は、精々一つか二つの小さな変化に限られる。これに対して合成生物学では、より大規模に、新しいゲノムの設計や既存のゲノムの再構築が目指される。合成生物学インターフェイス仕様の標準化をはじめとした様々なエンジニアリングを遂行しているのは、こうした大規模な設計を可能にするためでもある。

生命の「再記述」

エンディが自称するように、合成生物学者たちは、生物のエンジニアであると共に、生命の「再記述者(re-writers)」である。合成生物学で目指されるのは、有用な医療診断システムや薬物の開発、遺伝的にコード化された新しい生体機能拡張、あるいは生命の根源に関する研究である。そのため合成生物学者たちは、生命の「再記述」に挑んでいる。

この点を考慮しても、合成生物学合成ゲノミクスよりも幅広いエンジニアリングを担っていることがわかる。DNAの解読と記述を目指すのが合成ゲノミクスであるのならば、生命それ自体の「再記述」を目指すのが合成生物学なのである。

合成生物学の「再記述者」たちにとって、自然生命システムの設計は、科学や医療における人間期待に対して最適化されていない場合が散見される。合成生物学は、自然生命システムコード化するゲノムの「再記述」が可能であるという仮説を検証する機会を提供する。そして、自然生命システムに取って代わる可能性のある人工生命体を産み出そうとしている。

合成生物学貢献によって、生命システムはある種のテクノロジーとなる。遺伝子工学の過去の研究にも準拠した上で、合成生物学は、バイオテクノロジーのアプリケーションのための設計と実装を容易にする基盤の開発にも注力している。

派生問題:生態系の問題

要約して言えば、ファウスト的人間のプロジェクトは、これで完成へと向かうはずだ。しかし、遺伝学、バイオテクノロジー、そして合成生物学的なエンジニアリングは、既に取り上げたトランスヒューマニズム的なテクノロジーと同じように、やはり生態系の問題を派生させる。蚊の遺伝子を絶滅するように組み替えれば、蚊の生態系を破壊するどころか、蚊の生態系に依存していた他の生物生態系をも破壊する意図せざる副作用を派生させてしまう。如何にセキュリティが担保された研究所であっても、最先端のウイルスを扱っている研究員の能力が著しく低ければ、研究所からウイルスが「漏れて」、世界中の人間や他の動物に感染してしまう恐れもある。

こうした可能性を想定するなら、遺伝学、バイオテクノロジー合成生物学的なエンジニアリングもまた、生態系の問題というリスクを生じさせていると考えられる。例えば生命の「再記述者」としての合成生物学者を自称するエンディも、こうした生物学的なリスクに対する戦略とリーダーシップが必要であると主張している。尤も、エンディは、こうした生物学的なリスクに対する非科学的な「不安」から「自粛」を求めるのではなく、研究とエンジニアリングをより一層遂行していくことを重視している。生物学的なリスク発見されたからといって、合成生物学的な研究とエンジニアリングを「自粛」してしまえば、生物学的なリスク問題解決策が不明のままに終わってしまう。ならば、むしろ研究とエンジニアリングを徹底し続けることによって、その意図せざる副作用まで解決していくべきであるという訳だ。

科学・学問によって派生したリスク科学・学問によって解決していくというのは、極めて科学・学問的なコミュニケーションである。エンディの主張は、この科学的なコミュニケーションを踏襲している。しかし、生物学会の社会構造は、その理論方法プログラムにおいて、科学・学問とは異なる問題領域に位置する社会的な機能システム――すなわち、政治経済医療宗教マスメディア教育族など――の社会構造結合した状態にある。遺伝学や合成生物学はあくまでも科学・学問の問題領域において、科学・学問問題解決策展開するだけである。だが科学・学問の問題領域に特化しただけでは、科学的なコミュニケーションによって派生する意図せざる副作用が全体社会に波及した場合の分析が不得手になる。生態系の問題とは、もとより全体社会の問題なのであって、科学・学問の問題領域で完結している訳ではない。

問題解決策:リスクと危険の区別

遺伝学、バイオテクノロジー、そして合成生物学的なエンジニアリング構造化している理論方法は、生態系の問題という全体社会の問題を科学・学問の問題として再設定することで、生態系の問題を科学・学問的なコミュニケーション主題として選択することを可能にしている。こうしたコミュニケーションリスクを冒し、危険を派生させているというのは、疑い得ない事実である。何故なら、どのような結果を招くのかが予め予見し切れないからこそ、研究計画の意思決定可能になるためである。逆に言えば、予めリスク危険を十分に知り得るのならば、そもそも研究計画の意思決定を下す理由が無くなる。

科学・学問的なコミュニケーションによって危険が派生するのは、近代社会においては、一旦科学・学問的な知識が見出されると、それがもはや秘密のままではあり得ず、科学・学問以外の諸機能システムにおいても、もはや無視され難くなるためである。例えば政治システムの主に軍事領域、介入政策、あるいは保護政策の領域では、ひとたび生物化学兵器となり得る科学・学問的な成果物が出現すれば、もはや誰も無視できなくなる。また、医学の分野で新しいウイルス感染症についての知見発見されれば、医療の問題領域でも主題とせざるを得なくなる。

科学・学問機能システムは、「真(wahr)」と「偽(unwahr)」ないし「非真(nicht-wahr)」の二値コードに準拠している。科学・学問の問題領域において、真と偽の区別を導入しているコミュニケーションは、それが研究室で行われているにせよ、学会で行なわれているにせよ、出版物上で行なわれているにせよ、あるいは日常生活のふとした雑談で行われているにせよ、科学・学問的なコミュニケーションである。科学・学問システムのあらゆる作動は、それ以後の次なる作動が持続することを前提としている。ある科学的研究がその具体的な成果物を真理の達成として記述した場合であれ、あるいは偽であるのが判明したと記述した場合であれ、それ以降の全ての科学・学問システムの作動では、この真と偽の二値コードが利用される。

この真と偽の区別は、複雑なことに、リスク危険区別と関連している。リスク危険区別は、顕在的な問題と潜在的な問題の区別に対応している。だがより重要なのは、リスク決定者の意思決定行為」によって派生すると分析される諸問題であるのに対して、危険決定の被影響者によって「体験」される諸問題であるということだ。リスクは、リスクを冒した者にとっての諸問題であるのに対して、危険は、他者の意思決定によって引き受けざるを得なくなる派生問題であるという点である。

科学・学問のリスク

科学的な研究のリスクは、とりわけその基盤にある仮説が誤りであったと証明される可能性があるという点に、あるいは誤りか否かも確実には確認し得ないかもしれないという点にある。科学・学問システムには、新しい知識の産出が期待される。そして、まさにそれ故に更新された知識が真理に値するか否かの評価に、科学的な研究のリスクが伴う。こうしたリスクに対処するには、他者による再現の高い研究計画を立てる必要がある。

理論的に重要な知識主題となる場合、とりわけこれまで疑問視されたことのないその知識への反論もまた、研究成果として観察される。こうした反論もまた科学・学問的な成果と見做されるならば、科学的な研究のリスクとは真理を捉え損なうことにあるという主張は、通用しなくなる。しかし、個々の研究プロジェクトではなく、研究のより大きな文脈までも見据えるなら、科学・学問は、自己批判反省だけでは成立しない。もしそうであるなら、科学・学問的なコミュニケーションは、瞬く間に研究主題の在庫を使い切ってしまうであろう。

逆に言えば、科学・学問的なコミュニケーションにおいては、支持され得る真理が絶えず生産されていなければならない。したがって、特定の研究コミュニティのリスクや専門分野全体が抱えるリスクは、こうした真理の産出が不十分に留まっている場合に顕在化すると考えられる。

科学・学問の危険

科学・学問に由来する危険は、まさにこの科学・学問リスクとは逆に、真理の生産が十分に果たされている場合に派生する。科学・学問に由来する危険とは、まさに真理が達成されることによって生起するのだ。何故なら、真ではなく偽を出発点にできるのは、科学・学問的なコミュニケーションに限られるためである。言い換えれば、科学・学問システム外部環境に位置する科学・学問的な意思決定の被影響者たちには、科学・学問的な偽を出発点としたコミュニケーション展開することができない。こうした被影響者たちに可能なのは、あくまでも科学・学問的な真を出発点としたコミュニケーションなのである。

偽が危険を生むのではなく、真が危険を生む。真理だけが危険になり得る。科学・学問危険は、真理が承認されることによって、あるいは真理がテクノロジーに応用されることによって、被影響者たちへと波及していく。科学・学問が生産した新しい知識が利用されるや否や、損害がもたらされるのである。

実際に損害が発生した後の時点かられば、この損害は当の科学・学問的な知識が誤って使用されたために生起したように視えるかもしれない。その知識を私用する文脈では、これはリスクとなる。しかし、科学・学問システムの内部における知識の生産それ自体においては、別の観点妥当する。科学・学問システムの内部においては、真理は肯定的な意味しか持たない。真理に否定的な意味が宿るのは、科学・学問システム外部環境に位置する被影響者たちにとってのことである。遺伝子操作にせよ、DNAの記述にせよ、生命の「再記述」にせよ、科学・学問システムは、それらを自らで禁じ得る訳ではない。

問題解決策:生命倫理

科学・学問システムの作動に由来するリスク危険区別に対して、その諸問題を解決するための糸口とされているのは、「倫理」である。遺伝学や生物学に対しては、生態系の派生問題や生物化学兵器への応用が危険視されていることから、特に「生命倫理」が謳われる傾向にある。

合成生物学の周辺で生じている「生命倫理」上の懸念の多くは、組み換えDNA技術の出現した1970年代にも生じた懸念と共通している。1970年代には、幾つかの研究室で異なる生物に由来する複数のDNAを人工的に結合させ、そのDNAを生きた細胞中で発現させる方法発見された。例えば、スタンフォード大学のポール・バーグは、改変されたサルの腫瘍ウイルスを使用して最近に新しい遺伝子を組み込む方法発見した。しかし彼の成功は、彼自身や他の人々に重要な懸念を提起することになった。科学者自身がこの形質転換された細胞の一種を誤って摂取してしまえば、意図せざる副作用が生じてしまう。組み換えDNAは、その細菌からヒトの腸内に位置する細菌へと移される可能性もある。もしそのDNAが完全に機能すれば、サルの腫瘍ウイルスはヒトへと感染することになり得る。

これらのリスク危険が評価されるまで、1970年代に組み換えDNAの研究をしていた科学者たちは、予防措置を取った。彼ら彼女らは、リスク危険がより良く理解されるまで、組み換えDNA動物ウイルスに関わる更なる研究を全て自発的に一時停止することを決定したのだ。この一時停止は、アメリカ国立衛生研究所の研究者であったマキシン・シンガーをはじめとした科学者の一団が米国科学アカデミーに提出した懸念の手紙を通じて始まったという。

リスク危険を懸念した科学者たちは、アカデミーに技術の安全を考えるための委員会を設置するように要請した。組み換えDNA技術の先駆者であるポール・バーグは、組み換えDNA技術によって可能となった進行中の研究活動の安全を検討するために委員会の議長を務めた。この技術の示したリスクよりも潜在的なリスクが組み換えDNA技術の実験の自発的かつ一時的な停止を始めるのに十分な動機になると、委員会は結論付けた。研究者たちは、新しい抗生物質耐遺伝子や毒素をコードする遺伝子、また動物ウイルスDNAを有したプラスミドの作製を含めた実験を中止した。

科学者の自己反省としての「自粛」

この事例が言い表しているのは、生物学会が自発的に研究のリスクに対処したということである。そのリスクヘッジは、科学者の自己反省によって実現している。簡単に言えば、単なる「自粛」である。一方、生物学会の外部環境に位置する被影響者たちは、自らの「体験」に迫り来る危険主題に、「生命倫理」のコミュニケーション展開していた。

1976年、マサチューセッツ州ケンブリッジのハーバード大学とMITの研究室で最初に組み換えDNA技術が使用された時、ケンブリッジの住民と地元選出の当局者たちは、この新しい遺伝子工学技術に関連するリスク危険を議論するために、公聴会を開催した。彼らは最終的にその危険を評価しながら半年間の研究活動の一時停止措置を講じた。一時停止が解除された時には、大学当局と地元住民の両方を含む規制委員会の指導の下、研究を継続することが容認された。これらの公聴会で提起された懸念事項は、新たな技術に関する今日の議論の多くに反映されている。

「ゼロリスク」の信仰告白としての「自粛」

1976年、マサチューセッツ州ケンブリッジ市議会の公聴会を通じて明るみに出たのは、生命倫理の問題の複合性を高めているのが、組み換えDNA技術の研究に関連するリスクの評価であるということだ。科学者や市当局は共に保守的な立場を貫いていた。ある意味で両者は、「自粛」という共通選択肢を手にしていた。だが実際、それぞれの立場は対極にあった。市当局は、ケンブリッジ市民への潜在的な被害を最小化しようとしていた。少なくても当時の市長であるベルッツィは、全てのリスク排除しようという「ゼロリスク」を求めた。実験から派生する危険が100%無くならない限り、実験を認めることができなかった。

一方、証言していた科学者は、リスクに関してそのような絶対的な主張をすることはできないと認めながら、新しい技術に関する彼らの慎重な意見を伝えた。科学者は断言するのではなく可能性で議論するように鍛錬を積んでいる。だが市長が求める確実を提供することはできなかった。

こうした「生命倫理」のコミュニケーションは、今も合成生物学の被影響者たちによって受け継がれている。2010年、アメリカ大統領であったバラク・オバマが彼の諮問機関の一つである「生命倫理問題の研究に関する大統領諮問委員会(Presidential Commission for the Study of Bioethical Issues)」に、合成生物学を調査するように委託した。

この要請は、合成されたゲノムを宿主細胞に挿入することによって「生命を創造した」と公表された科学的な主張に応じたものであった。委員会は合成生物学の分野を幅広く調査し、一から新しい生物を作り出す技術は得られないと結論付けた。この関連から彼らは幾つかの政策提言を提出したが、合成生物学の研究に対する新たな規制には至らなかった。

宗教としての人間中心主義

しかし、たとえ的な規制の対象外となっていたとしても、合成生物学は、一般市民たちによる「ゼロリスク」の信仰告白としての「自粛」の圧力から自由になっている訳ではない。他人の信仰告白を止めることは誰にもできないためである。

「生命倫理」のコミュニケーションにおいては、人間が自身の義務ばかりではなく全人類に対して義務を負うべきであるというのが、当然であるかのように説かれている。それは、想定できる対象の中で最も大きな重荷を、すなわち人類の未来という重荷を、倫理に負わせるということだ。

しかし、この脱魔術化された近代社会でテクノロジーを探究するファウスト的な人間たちの自己主張は、人間という尺度の否定に他ならない。故に、世界と人類に対する責任を説く倫理は、脱魔術化された近代社会の只中において、「人間」を「」であるかのように持ち上げる純粋に宗教的な欲求に照応してもいる。要するに、人間中心主義とは宗教意味論としても記述されているのである。

それ故に、「生命倫理」のコミュニケーションが「自粛」を促そうとするのは、「」の被造物としての「人間」を聖なるものとして記述すると共に、怖れやタブーの意味論をその社会構造に組み込んでいる宗教システムの作動による影響でもある。ここで想定される「自粛」とは、言わば自発的なタブー視である。そうして想定される全人類に対する責任とは、科学や技術を怖れなければならないという規範的な期待に基づく責任なのである。

マスメディアにおける無敵の論法としての「不安」

こうしたタブーや怖れが、マスメディアによって構成された世論による「不安」のコミュニケーションへと直結していくのは目に見えている。「不安」を表明するというのは、無の論に他ならない。実際、「不安」の表明を科学的に反証することなど、誰にもできない。「不安」を表明する者たちは、常に有利な立場に居座り続ける。もし怖れたことが現実化すれば、「そら見たことか」と居直ることができる。逆に怖れたことが現実化しない場合でも、「自分の警告のお陰だ」と、やはり居直ることができる。

言うなれば、「不安」を表明する者たちの発言には、何一つ情報量が無いのだ。どちらに転んでも自分が有利になるように仕向けているのだから、何か「リスクを取った」主張を展開している訳でもない。だからこそ、自発的なタブー視による「自粛」を強要する取り組みは、「生命倫理」の専門を名乗らずとも、誰にでもできることなのである。

経済的競争の牽制としての「生命倫理」

「不安」の表明を通じた世論コミュニケーションは、経済的なコミュニケーションへと波及することもある。「不安」の表明という無の論は、とりわけ経済的な競争で敗走を強いられている既得権益者たちにとっては、逆転の布石とも言える牽制機能を有している。

実際、合成生物学の初期の成果の一つに、合成生物学の会社アミリスによるアルテミシニン酸の微生物生産が挙げられる。アルテミシニン酸は抗マラリア薬アルテミシニンの前駆体である。この抗マラリアの特発見されて以来、アルテミシニンの需要は高まっている。だが生産は未だ困難であった。歴史的に、アルテミシニンは、それを自然に生成する中国のヨモギ属の植物であるクソニンジンから抽出されていた。しかし、農はこの抽出過程に対する葉の安定供給に労していた。その結果価格と供給の大きな変動を招いてしまっていた。

アルテミシニンの供給源は薬の市場価格を安定させ、需要を更に満たすと期待されている。このため一部の研究室はアルテミシニンを合成的に生産する研究に着手している。合成生物学の多くの基礎技術と代謝工学の分野の確立されたツールを使用することで、薬の前駆体を生産できる細菌と酵母株を操作することが可能になった。最終的に2013年になると、合成アルテミシニンの大規模工業生産も可能になっている。

それ故、合成生物学発展は、経済システムにおいて、既得権益を攪乱することになるであろう。その際、「生命倫理」のコミュニケーションが提供する「ゼロリスク」の信仰告白としての「自粛」の圧力は、特にこれまでアルテミシニンを世界に供給してきた農にとっては、極めて有用になる。農の中には、アルテミシニンの近年の生産環境は安定していると考える者たちもいるであろう。実際、農は薬の高まる需要に適切に対応できる体制を構築しているかもしれない。仮にそれが事実なら、農は薬の価格の大きな変動をもたらすことなく、需要と供給の変化に対応することができるということになる。すると、合成アルテミシニンは農の生計に不要な脅威と見做される可能性がある。

「特許干渉」の遅延行為としての「生命倫理」

「生命倫理」のコミュニケーションは、テクノロジーの特許を巡る紛争との関連からも機能している。例えば、よく知られているゲノム編集技術である「クリスパー(CRISPR)」は、「特許干渉(Patent Interference)」を招くほどの熾烈な法的紛争を呼び起こした。研究資金や権益の獲得という点からても、最先端のテクノロジーが特許を巡る的なコミュニケーションを派生させるという事態は、既に何度も起きている。こうした的問題の可能性を考慮すれば、研究の進捗は、速ければ速いほど良い。

「不安」の表明や「自粛」の強要を可能にする「生命倫理」のコミュニケーションは、この点で、テクノロジーの発展に対して有用な道具となっている。他の研究所を「自粛」に追い込めば、それだけ自身の研究所の進捗速度を相対的に高めることが可能になる。

要するに、「生命倫理」のコミュニケーションは、自身を競争上優位に仕立て上げる布石にもなる訳だ。特許干渉のような法的紛争が生じるのは、大方研究の進捗が同程度の研究所が他に存在する場合である。他所の研究所の進捗を下げることを可能にする「生命倫理」のコミュニケーションは、ある意味で、不毛な法的紛争から研究者たちを守り、研究者たちがより研究に専念できるような環境を用意してくれているとも考えられる。

あらゆる「生命倫理」が、ファウスト的な人間対している訳ではないのである。

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