ヴァーチャルリアリティのメディア美学、その理念の歴史的意味論 | Accel Brain

ヴァーチャルリアリティのメディア美学、その理念の歴史的意味論

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問題再設定:ヴァーチャルリアリティの美学

元々「ヴァーチャルリアリティ(virtual reality)」という概念は、1950年代にシュールレアリスムの詩人であるアントナン・アルトーが、劇場(theater)の演出と錬金術(alchemy)の間に潜む、神秘的な同一性や形而上学的な類似性を記述する上で提唱した概念である。この時点では無論、コンピュータ技術との接点は無かった。この概念をコンピュータ技術史の文脈から再記述したのは、「ヴァーチャルリアリティの父(the father of virtual reality)」と称されるジャロン・ラニアーである。ラニアーは、専ら「コンピュータグラフィクスの父(father of computer graphics)」として知られていたイヴァン・サザーランドの設計思想をヴァーチャルリアリティの概念史として記述している。

サザーランドは1965年に、ユーザーが完全にコンピュータでレンダリングされた空間を恰も本物であるかのように体験することを可能にする「アルティメット・ディスプレイ(ultimate display)」を提案している。ラニアーによれば、サザーランドはこうした空間を「ヴァーチャル世界(Virtual World)」と称し、美学者スザンヌ・K・ランガーを引き合いに出していたという。ランガーは全ての芸術が「ヴァーチャル(virtual)」であると喝破している。それは知覚されるべく創造されたあらゆる事物の品質を意味する。例えば絵画ならば「ヴァーチャルな空間(Virtual Space)」を、音楽ならば「ヴァーチャルな時間(Virtual Time)」を、舞踊ならば「ヴァーチャルな力(Virtual Power)」を生み出す。

問題解決策:象徴とサインの区別

ランガーの美学の主導的差異は、「象徴(Symbol)」と「サイン(Sign)」の区別から構成される。サインは、任意の対象へと相手の注意を引き付ければそれでその役目を終える。一方で象徴は、指し示した対象を相手が念として認識することで初めて了解される。ランガーによれば、まさにあらゆる芸術象徴による人間の感情表現として創作されているという。

だとすれば芸術作品の象徴的な創作はヴァーチャルな次元で実践されていることになる。例えばキャンバスに絵を描く時、キャンバスや絵具は物理世界に既に存在している。だが一度絵画が創作されると、もはやキャンバスや絵具は創作以前の状態としては知覚できなくなる。この意味芸術作品として創作された世界は日常的な文脈から区別される。芸術の任務は、ランガーによれば、日常の現実世界の中に埋もれている形式抽出することで、それを日常生活の論理から解放することである。そしてそのように解放された形式は、感情の象徴として表現される。

美的仮象が追放された世界

この美学を前提とすれば、「ヴァーチャル(Virtual)」は「現実(real)」の対義語ではない、という主張の正当は際どい位置付けになる。確かによく指摘されるように、「ヴァーチャル(Virtual)」の語源はラテン語の「徳」を意味するVirtusである。徳とは、人格に備わる社会的な価値である。それは目に視えない質だが、一定の影響力を有している。したがって「ヴァーチャルリアリティ」と述べた場合、それは現実とは異なるが、実質的な質としては現実と同様の別現実意味する。しかしランガーの美学に準拠してしまうと、形式解放という名目上、少なからず日常の現実世界からは距離を取ることになる。

それどころかランガーの美学は、美的仮象を前提とした芸術論である。彼女の「形象(Image)」概念はまず以って視覚との関連から記述される。より直接的に言い換えれば、彼女の美学では、複製技術時代以降の脱アウラ化された仮象無き遊戯空間を捉え切れないのである。実際のところ、ヴァーチャルリアリティの技術的発展はランガーの美学から飛躍している。コンピュータグラフィクスには美的仮象が無い。ディスプレイ上に作画されるのは、全てが数値によって決定される画像である。スクリーン上のあらゆる画素(image pixel)が操作可能である以上、表象や模写はもはや不可能になる。仮象を前提とした模倣可能性は、ラスター上に高解像度で提示されたグラフィクスの演算処理の中で消滅する。設計され、編集され、そして合成された映像の洪水の中では、その視覚的に無意識的なショック効果をただ触覚的に享受するしかあるまい。

神経生理学者たちの報告によれば、人間が閾下で知覚する情報量は、毎秒約11000000ビットを超える。だが閾上で認識される情報量微小だ。感覚器官でフィルタリングされるために、意識情報処理能力は、一秒あたり僅か40ビット程度に留まる。それどころか知覚メディアは、この感覚器官のフィルターすら機能不全にする程の過剰刺激を呈示してくる。

認知科学が解明したように、網膜には、毎秒50回以上点滅する光の情報を処理することができない。光の強度が急激に変化すると、定常光だけが知覚される。映画では毎秒72回の点滅が繰り返され、テレビでは毎秒50回の露光が繰り出されている。こうした容量を超えるほどの情報量を呈示された場合、視覚は混乱することになる。それ故、観察者は映像を静止画像として具体的に対象化することができなくなるのだ。

視覚心理学者リチャード・グレゴリーは、この現象を「視覚的持続(persistence of vision)」と呼んだ。この視覚効果は、意識がアニメーションを仮現運動として視認するための条件になっている。二つの光点の一方を消し、他方を点けた場合、意識はその光が一方から他方へと動態的に移動したかのように錯覚する。この場合に伴う錯覚は、仮象ではなく、「ファイ現象(phi phenomenon)」と呼ばれる視覚的な機能に他ならない。

ユーザーインターフェイスの設計論者であるアラン・ケイが視聴覚的な相互作用の可否はその「ペース(pace)」に依存すると述べていたのは、このことと密接に関わっている。視覚的に集中する鑑賞者を置き去りにするほどのペースで閾下知覚を遂行していくことが、連続的な動画を視認する条件なのである。言わばファイ現象とは、急激な情報変化から生じた「断片」的な隙間を埋め合わせるための辻褄合わせのようなものだ。しかも映像は次々と展開されていく。この瞬間的な知覚においては、熟考することで視覚的に享受する時間の猶予など微塵も無い。

形象の中への没入

ヴァーチャルリアリティの設計思想は、こうした神経科学、認知科学、そしてユーザーインターフェイス設計論によって明らかとなった知覚質を前提としている。ヴァーチャルリアリティはその上で、ユーザー体験ショック体験として構成することにより、触覚的に享受されるべき視覚的に無意識的なショック効果を呈示する。

実際サザーランドらが設計した「ヘッド・マウンテッド・ディスプレイ(Head-Mounted Display : HMD)」は、頭部に装着するアーキテクチャから直接的にユーザーの三次元的な視覚刺激を呈示する「没入型メディア(Immersive media)」として知られている。没入するということは、もはや対象から距離を取る視覚的な鑑賞者としての振る舞いが許されないということである。むしろユーザーは形象の中へと没入していく。

ヘッド・マウンテッド・ディスプレイの内部には、ユーザーの動作を追跡するセンサーが内蔵されている。内部のアーキテクチャは、ユーザーの身体の一挙一動を解析している。ユーザーの視点や耳の位置が変わった場合、アーキテクチャがその位置に合致した画像や音声を即時に計算する。プリズム・レンズは、CRT(Cathode ray tube)が眼前に表示するヴァーチャルな形象と、部屋に位置する他の物質とを、同時に視ることを可能にしている。それ故ヘッド・マウンテッド・ディスプレイは、ディスプレイに表示される物体を空間上に浮き彫りにさせた状態で知覚させることも、あるいはマップやデスクトップや壁に一致させた状態で知覚させることも、形式的に実現できるのである。

視覚刺激に限らず、各感覚器官に働き掛けることによって触覚的な享受構成するメディアも設計されている。例えばトマス・ディファンティらによって開発された「洞窟型自動仮想環境(CAVE)」は、サラウンド・スクリーンとサラウンド・サウンド・システムによって、視聴覚的な没入感を構成可能としている。ユーザーは、この洞窟型の空間で戯れることができる。

デファンティらが技術論的に強調しているのは、CAVEが持つ「不信の中断(Suspension of Disbelief)」という機能である。これは専ら、ユーザーの没入感の尺度として用いられる。「不信の中断」の度合いが強ければ強いほど、ユーザーはインターフェイスが展示する事物に我を忘れて没入していくのである。CAVEによる視聴覚的な演出はまさにこの尺度を高めるために機能する。1辺が10フィートある立方体の室内には、壁に三次元的なコンピュータグラフィックスが投影されている。CAVEは、ユーザーの頭と手の動きを追跡して正確な立体画像を生成する。ユーザーは、軽量のシャッターグラスを通して、スクリーンに映された光景を立体視することができる。実際にそのヴァーチャルな世界を探検することもできる。専用のユーザーインターフェイスを利用すれば、その世界存在する仮想物体を三次元的に操作することもできる。複数のユーザーが同一のCAVEに没入すれば、同一のヴァーチャル空間でそのユーザー体験を共有することさえ可能になる。

派生問題:現代芸術の驚異的な波状攻撃

ヴァーチャルリアリティ意味論知覚美学によって主導されていたのは良いとしても、その美学のパラダイムは複製技術時代に合わせて再記述されなければならない。1900年代の現代芸術は、仮象無き遊戯空間を最初から前提としている点で、新しい知覚美学の手掛かりになっている。

現代芸術の初手は、パブロ・ピカソらが率いた「キュビズム(Kubismus : Cubism)」派による攻撃として放たれた。その矛先は、我々が三次元空間知覚し得るという想定へと向けられている。実際のところ、我々が知覚し得るのは奥行きのある空間ではない。眼球が処理し得るのは二次元平面の情報だけだ。神経システムは、この二つの眼球から得られた情報差異、すなわち両眼視差を視交叉上核で計測することによって、奥行きのある三次元空間知覚可能にしている。それ故にキュビズム派の芸術たちがそれまでの三次元空間構成否定したのは、極めて科学的な営みであったとさえ言える。彼らはむしろ眼球が直接処理し得る二次元平面を強調した。それは芸術が直接視認し得る範疇から逸脱していることを主張する最初の革命である。

1920年代になると、この現代芸術の攻撃に触発された第二の革命的運動が生じることになった。例えばジョルジオ・キリコらからルネ・マグリットに至るシュールレアリスム(Surrealismus : Surrealism)の運動たちは、1960年代まで大きな影響力を誇っていた。彼らは対象となる事物を写実的かつ精確に描写する。だがそれら個々の事物は、作品の中で常々非論理的に配列されている。こうして鑑賞者を作為的に困惑させることによって、我々が自明視している現実必然性に揺さ振りを掛けようとするのである。

このシュールレアリストたちの思想的な背景にあるのは、フロイトの精神分析学であった。彼らは、我々が閾上だけではなく閾下でも現実知覚していることを強調すると共に、閾下の別様にもあり得る現実芸術的に視覚化しようとしたのである。彼らが呈示する非論理的な視覚刺激は鑑賞者に対する驚異的な刺激となる。その刺激は現実矛盾する非現実への情動喚起する。そのために鑑賞者は、その作品をで見る光景であるかのように錯覚することになる。だがそれは美的仮象への憧憬を意味するのではない。むしろシュールレアリストたちは、現実必然性を破壊することによって、現実の秩序や調和にショック効果を浴びせているのである。

数ある現代芸術の中でも、とりわけ抽象派と呼ばれている芸術たちは、我々の認識の基盤を覆す抜本的な革命を引き起こしている。ロシアの前衛芸術から出発したカシミール・マレーヴィチは、「シュプレマティスム(Suprematism)」に象徴される抽象絵画を描写した。それは、美的仮象なき遊戯空間への応答として評価できる。新時代には新しい表現形式が必要であるというのが、彼の主張だ。その芸術作品は、伝統的な表現様式からの脱却を試みた革命的な産物である。確かにマレーヴィチは、既存の抽象化という様式を好んで使用していた。だが彼の目論見は抽象派の確立にあったのではない。彼の抽象化は、具体的な対象化否定する様式である。実際、『黒の正方形』や『白の上の白』に代表されるように、彼の作品は幾何学的な構成とモノトーンの色合いで満ちている。彼の作品は徹底的に情緒を廃しているのだ。感覚的な知覚を絶対化することで、彼は本質的な表現様式を目指したのである。

シュプレマティスム対象化される以前の物に言及していく。人間思考は、対象を設定することで初めて可能になる。だが世界の中の何かを対象化するということは、<対象化されている世界>と<対象化されていない世界>を切断するということだ。そうした思考は、得てして世界それ自体を反映させた表象とはなり得ない。何故なら世界は、<対象化されている世界>のみならず、<対象化されていない世界>を含めた全体との関連においてこそ成り立っているからだ。このことを首尾一貫して主張することが、シュプレマティスムの目的であった。それ故にマレーヴィチは「無対象の世界(Non-Objective World)」を描写しようとする。彼のシュプレマティスムは、無対象の芸術作品を展示することによって、対象という形式で把握されている世界現実が虚構に過ぎないことを暴露しようとしたのだ。

マレーヴィチかられば、対象化された<現実>は「想像の所産(figment of the imagination)」を超えるものではない。意識による思考世界を不用意に切断してしまうのならば、もはや閾上の知覚ではなく、前意識的な閾下知覚を重視せざるを得ないだろう。求めるべきなのは初めの形象なのであって、美的仮象なのではない。それ故に彼が絵画に取り組む際には、知覚されるだけで意識されない「無」の体験が重要な課題となる。ここでいう「無」とは、つまり思考対象化に引き裂かれる以前の「無垢なる状態」を意味する。

コンピュータグラフィクスの設計思想は、このマレーヴィチの思想と密かに照応している。ディスプレイ上に映し出された画像の画素を拡大して視ると良い。その構造はマレーヴィチの絵と驚くほど類似している。そうした画像やそれによって構成される映像の設計思想は、コンピュータ技術が可能にするベクトル演算と行列化に基づく統計的な数値処理によって、事実上あらゆる的な状態が情報理論的に表現できることを前提としている。そこでは変異冗長性確率論的な差異的な状態を構成する。それを視認するユーザーの知覚処理は、この計算の後に初めて実行される。ユーザーは計算された画素の一つ一つを知覚するのではなく、その配列知覚する。シュプレマティスムキャンバスと全く同じように、コンピュータグラフィクスにおけるディスプレイは、そこで展示される画像それ自体よりも重要となる。つまり重要となるのは、知覚の後の象徴的念として認識される美的仮象の類のものではなく、知覚に先行する知覚メディアなのである。

問題解決策:理念のヴァーチャルな位置関係

ベンヤミンの「メディア美学(Media Aesthetics: Medienasthetik)」は、コンピュータグラフィクスとその思想的影響を受けたヴァーチャルリアリティ知覚メディアの一種として参照することで、ヴァーチャルリアリティを主導する新しい意味論になり得る。このメディア美学は、自らを美的仮象芸術論から区別すると共に、複製技術時代以降の芸術作品が原理的に知覚メディアとして機能するという事態を直接的に取り扱う知覚美学である。彼があくまでも知覚メディアの学を徹底したことの背景にあるのは、ここでいう知覚という用語が「美学(aesthetics)」の語源となるギリシア語の「アイステーシス(aisthesis)」に由来するという概念史である。だからこそメディア美学美的仮象芸術論よりも知覚メディアに重きを置く。ただしベンヤミンのメディア美学を応用する場合、その背後に潜在化している歴史哲学的な性格を見逃してはならない。

メディア美学者であると同時に人間学的唯物論者でもあるベンヤミンは、その歴史哲学的な理念論展開した「認識批判的序論」において、歴史的な無常化や集団的な忘却によって潜在化している事物の状態を「ヴァーチャル(virtuell)」と表現したことがある。「認識批判的序論」の主題は、真なる「理念(Idee)」は如何にして叙述(Darstellung)」することが可能なのかである。つまりこの序論は一つの方法論になっている。「認識批判的序論」の主導的差異は、諸理念(Ideen)と諸現象(Phänomene)と諸概念(Begriffe)の区別から構成されている。理念は所与の存在だ。真理は叙述された諸理念が織り成す輪舞の中で顕現する。一方、諸現象は仮象(Schein)が混入された乱雑な経験的(empirisch)状態に置かれている。これに対して諸概念は、この理念と現象の乖離に対する埋め合わせとして機能する。概念は諸現象を諸要素(Elemente)へと区別することで、対象に混入されていた経験的な状態を抹消する。すると諸要素を諸理念の領域に接続させることが可能になる。諸要素へと区別された諸現象は、その偽りの全体を喪失する。諸要素への区別により、諸理念との関連から真なる全体を構成する契機が得られる。かくして、理念による現象の救済が成り立つ。

しかし理念は、それ自体としては叙述され得ない。何故なら理念の領域は現象の領域から隔離されているからだ。故に理念叙述にも概念が必要になる。概念による諸要素への区別とそれらの関連付けを介して、初めて理念叙述可能性が拓かれる。諸理念は諸現象の「ヴァーチャル(virtuell)」な、すなわち潜在的な位置関係を指し示す。そしてそれらは諸現象の客観的な解釈でもある。こうした関連付けから、ベンヤミンは理念と現象が代理表象(Repräsentation)の関連にあるという。理念叙述如何にして可能になるのかという問題設定は、言わば哲学的な真理の叙述というトップダウンの観点と概念による区別と関連付けというボトムアップの観点との融合が如何にして可能になるのかという問題設定へと再記述できる。

尤も、より厳密に記述するなら、ここでいうトップダウンとボトムアップの区別棄却されるべきであろう。代替として導入するべきなのは、メディア形式区別である。ベンヤミンが叙述しようとした理念は、<メディアとしての言語>を再記述した概念に他ならない。それは、丁度ベンヤミンの言語メディア論では純粋言語への志向として主題化されていたように、言葉表現された言語内容からは区別される。理念は、そうした言語内容の「形態(Gestalt)」を構成する<形式としての言語>なのである。理念は、理念を通してではなく、理念の中で自らを理解させる。

こうして叙述される理念は、一回的で「極限(Extrem)」的なもの同士が織り成す形式として把握される。理念極限形式として、最も再現が低く、最も新奇性が高く、最も省みられることのない諸現象を包含している。理念においては、そうした極限のもの同士が矛盾した対立関係を形成している。そして、この理念歴史において見出される場合には、それが根源という「形態(Gestalt)」を取る。だからこそベンヤミンは、根源歴史哲学を、およそ飛躍的なもの、過剰な展開と思われているものの中から理念抽出する形式として導入したのだ。

理念は、諸現象の客観的かつ潜在的な配列と見做される。現象が理念の内部に組み込まれている訳ではない。現象は理念に包含されている訳ではないのである。言わば理念とは、ベンヤミンにおいては、諸現象の客観的な解釈となる。そして理念は現象の代理表象である。代理表象としての理念は、理念によって把握される対象とは明確に区別される。理念によって把握される対象を、理念が包含している訳ではない。

星座としての理念

ここでベンヤミンは、この理念事物の関連を一つの隠喩で描写している。すなわち、理念事物に対する関連は、「星座」の「星」に対する関連に等しい。このことが言い表しているのは、理念事物の概念でもなければ、事物法則でもないということである。理念は現象の認識に有用に機能する訳ではない。そして、そのように役立つことが、理念の存立基準である訳ではないのである。理念かられば、その概念的な諸要素によってこそ、現象の意義が見出される。諸現象は、その存在共通性、そして差異を介して、それらの現象を包含する諸概念の規模と内容を規定する。しかし理念に対する現象の関連は、これとは全く逆となる。むしろ理念の方が先に、諸現象やその諸要素の相互関連をそれに対する客観的な解釈として規定するのである。つまり、「星」が先にあって「星座」が描写されるのではなく、その逆なのだ。まず「星座」があって、そこから「星」が見出される。

こうして、まず「星座」に対応する客観的な全体像としての理念観点から観察すると共に、「星」に対応する諸現象やその諸要素を捉えることで、諸現象やその諸要素は個別化されると同時に、救済される。ここで、「星」に対応する諸要素における問題設定となるのは、概念が現象から区別されることである。しかしながら、重要となるのは、その区別極限形式として導入される場合にこそ端的に発見することが可能になるということだ。したがって、理念が最も顕在化するのは、一回限りの極端なものが別様の極端なものとの間に構成する関連形態においてである。そしてベンヤミンは、言語が最も普遍的に指し示す対象こそを理念として認識しようとする。ここで彼が想定しているのは、メディアとしての言語に他ならない。

モナドとしての理念

もとよりベンヤミンも述べているように、理念とは相反する諸々の形式意味深く配列する可能性を持つことから特徴付けられる総体だ。理念叙述が成功するのは、その理念に包含されている諸々の極端形式の領域が密かに巡り合っている場合のみである。極限形式の巡り合わせが顕在化することは無い。何故なら、根源理念に包含されているのは、歴史的に直面することになる事件ではなく、内実であるからだ。それは、理念の内部において初めて歴史を知ることができるということである。しかも、基礎付けられる意味においてではなく、本質的な存在に関わる意味において、漸くそれを知ることができるのである。

ここでベンヤミンが述べている本質は、その前史と後史において、理念世界への救済蒐集の対象となり得る。この本質は、そうした救済蒐集の兆候として、純粋な歴史というよりは「自然史(Naturgeschichte)」となる。諸作品や諸形式の生は、こうして保護されることによってのみ、人間の生に乱されることなく明晰に展開される。それこそが、言わば自然の生となるのだ。その存在自己歴史を全て遡及し得ることによって、漸くその存在自然史的な存在として充足され得る。だから、この前史と後史は、もはや実証的にも現実的にも読み取られるべきではない。まして、哲学の現象概念で満足することすらできない。そうではなく、本質的な事物自然史として、完成された静止状態において読み取られるべきなのである。自然史を前提とした理念叙述は、過去を対象にした場合にせよ、未来を対象にした場合にせよ、原則的には極限的に深化されなければならない。この深化が、理念を総体化する。

理念は、総体であると同時に、モナド的な構造も有している。それは、総体とは対極的で、孤立を絶対的に手放せずにいるという特色とも言える。どの理念の内部にも、その時点における前史と後史の全体を縮減させた形象が導入されている。一つのモナドの中に、他の全てのモナドが幽かに映し出されているのである。理念モナドであると述べる場合、そこで含意されているのは、理念の内部には諸現象の代理表象が伴っているということなのだ。理念モナドであるというのは、一つ一つの理念世界形象を内包しているということなのである。

機能的等価物の探索:叙述された理念としてのヴァーチャルリアリティ

この歴史哲学によって提供されている「ヴァーチャル(virtuell)」の意味論に準じれば、「ヴァーチャルリアリティ」を設計するということを、理念叙述方法論上の一種として位置付けることが可能になる。それは理念ヴァーチャルな位置関係現実性(Reality)の中に導入することで顕在化させる試みとなる。つまりヴァーチャルリアリティとは、自然史的な存在としての諸現象の潜在的(virtuell)な位置関係形態として顕在化させた場合に伴う現実感(Reality)なのである。

何故この位置関係客観的であるにも拘らず潜在的(virtuell)なのかと言えば、それがもはや過去の形象として忘却されているためである。この過去の形象の中には、有史以前の集団的な願望をも含まれている。それはオドラデク的に歪められている。そして今も「視覚的な無意識」として潜在化しているのである。これを前提とすれば、ヴァーチャルリアリティ脱アウラ化された仮象無き遊戯空間であるということは、この歴史哲学的な理念論と決して無関係ではない。ヴァーチャルリアリティはオドラデク的に歪められている記憶形象を顕在化させることで想起の対象とする知覚メディアである。ヴァーチャルリアリティのユーザー体験は、それまで忘却されたことで潜在的(virtuell)なままとなっていた自然史を顕在的で現実的な形態として想起するというショック体験様相を呈することになる。

それ故にこそ集団の身体は、ヴァーチャルリアリティ触覚的に享受する。ヴァーチャルリアリティのユーザー体験は集団の身体媒介とする。それはユーザー体験の共有を可能にする。「第二の技術」としてのヴァーチャルリアリティが、集団の身体組織化するためである。まさにニール・スティーヴンスンが『Snow Crash』で提唱した「メタバース(Metaverse)」のように、ヴァーチャル世界のネットワークに集団の身体リンクする。無論このリンク神経刺激を介して実行される。それはヴァーチャルな事物媒介された神経刺激によって、100%の形象空間を、つまり身体空間形成する。集団の技術的器官へと神経刺激が放電される時、忘却されていた潜在的な理念位置関係形態が、「今」を満たす充溢した形象として叙述される。この「認識可能性の今」の「現在性(Actuarity)」こそが、ヴァーチャルな現実感(Reality)となるのである。

歴史の天使

ベンヤミンが『歴史の概念について』の第九テーゼ叙述している「歴史の天使(Engel der Geschichte)」の寓意は、根源歴史的な無常化を言い表している。この歴史の天使は、根源がまだ歴史的に無常化されていなかった過去に眼差しを向けている。その眼差しの先にあるのは、今まさに忘却されようとしている事物や出来事である。だがあの楽園から吹き荒れる「進歩」の嵐に呑み込まれることで、この天使は、後ろ向きのまま未来へと吹き飛ばされてしまう。歴史が均質に連続していくという進歩史観が、それぞれの時点に固有となる「認識可能性の今」を潜在化させてしまうのである。だからこそこの天使は、この「進歩」の嵐に破局を見て取る。この破局によって、事物の「断片」で埋め尽くされた廃墟の上に、瓦礫の山が天に届くほどの高さで築かれている。恐らくこの天使は、その「今」の時点で静止することによって、地中に埋葬されている者たちを蘇生させ、「断片」と化した事物蒐集して改修したいと願っていたのであろう。

こうして考えると、歴史の天使猫背の小人共通している。双方とも、「進歩」の嵐を直視しているからだ。歴史の天使は、この「進歩」の嵐によって、未来へと吹き飛ばされる。猫背の小人は、自己論理的忘却作用によって、自ら忘却されようとしている。猫背の小人は、「進歩」の嵐の残響を奏でるかの如く、微かに囁いている。この猫背の小人が操縦するロボットは、知覚メディアとして、視覚的な無意識を露呈させる。それは「進歩」の嵐によって潜在化させられている太古の形象を顕在化させる。歴史的に無常化された根源現象抽出するという点において、猫背の小人が操縦するロボットは、歴史の天使機能的等価物なのである。

問題再設定:不死ならぬ身にて永遠の時間を知り尽くす者、あるいは「全体」を凌駕する「部分」

ベンヤミンの哲学的盟友として知られるエルンスト・ブロッホは、「今(Jetzt)」という時間概念をベンヤミンと共有している。ブロッホはベンヤミンの「視覚的な無意識」に相当する概念をゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツの「微小表象(petite perceptions)」との関連から「生きられた瞬間の闇(Dunkel des gelebten Augenblicks)」という独特の用語で再記述することで、これを認識論的なアポリアとして徹底的に明示している。だがこれをアポリアとして記述するのは、ブロッホの戦略として、この意識の闇を照らし出す力を呼び起こすためなのである。彼はこの闇を際立たせることによって、逆に閾上の意識では忘却されて潜在化している現実を照らし出そうとしたのだ。

生きられた瞬間の闇」は、主体自我の概念を脱中心化する。これらの概念は、意識されるもの(Bewußte)の部分的な機能に過ぎない。「私」自身にとっての「私」は、「生きられた瞬間の闇」の中にある。

「何しろ闇に溶け混ざるものの全ては、意識一般が有する散漫で集約されることの無い、途切れない拡散力の作用としての主体の現在の状態に由来するのだから、結局のところこの闇は、私たち自身の闇であって、私たち自身に知られていない存在、変装し、消息不明となった存在なのである。」
Bloch, Ernst. (1918) Geist der Utopie. München und Leipzig. S.371 f.

この点から言えば、我々の自己意識自己反省のような自己言及的な営みは、対象化し、意識化や現前化が可能自己への言及に限られている。自己自己自身の全体に言及しようとすれば、「生きられた瞬間の闇」は、「自己言及パラドックス」を発現することになる。そしてまさにこのパラドックスが、ブロッホにおいては、記憶と関わるのである。

「私たちは私たち自身を決して視たことがないために、私たちはまた自身を想起することができない。」
Bloch, Ernst. (1918) Geist der Utopie. München und Leipzig. S.234.

無論、過去の自己自身を想起することは可能だ。だがこの想起は、自己言及の遅延を前提としている。時間的な差異が伴わなければ、ある過去の時点における自己自身を意識することは不可能なのだ。逆に言えば、我々が現在の自己自身を意識したと認識しても、それは過去の自己自身を意識したに過ぎない。

ブロッホがこの「生きられた瞬間の闇」をライプニッツの「微小表象」と関連付けているのは、この自己言及パラドックスに対する時間論的な認識を先鋭化させるためである。「微小表象」が言い表しているのは、神経科学者たちならば「閾下知覚」と呼びたくなるような非意識的な知覚意識的な知覚に先行していることである。つまり意識的な知覚構成された時点で既に、非意識的な知覚は過去の出来事として過ぎ去っている。だがブロッホの独特の言い回しにおいては、この非意識的な知覚は、「過去」として意識されていないが故に、「過去」として過ぎ去ることもなく、意識的な知覚形成されている「現在」と常に共存する関係にあるという。要するに、自己意識においては、非意識的な知覚意識的な知覚時間的な差異隠蔽されている。そして「生きられた瞬間の闇」は、この隠蔽された時差と共に潜在化しているという訳だ。

ブロッホによれば、「微小表象」はライプニッツが発見したある種の「無意識」である。そしてこの無意識意識することが新しい意識へと結び付く。ブロッホは、この新しい意識叙述する上で、「もはや意識されないもの(das nicht mehr Bewußte)」と「未だ意識されないもの(das noch nicht Bewußte)」の区別を導入している。この区別において鍵となるのは、現在と過去の共存関係である。実際「もはや意識されないもの」は、過去の既に忘却されて歪んでしまった潜在的な経験や願望を表している。それはめいた判じ絵のようなものだ。一方、「未だ意識されないもの」とは、太古の形象として瞬間的に生起する未来志向的な願望である。それは、驚異や空想や憧憬の中で漠然と予感される永遠に捕捉されない閃きとして感知される。闇は、秘密を解く資格を十分に持っているにも拘らず、秘密はその闇の中に無い。「生きられた瞬間の闇」が驚異の反響によって目覚めた時、それまで潜在化していた闇は初めて視認できる対象となる。

ベンヤミンの『パサージュ論』は、この盟友が叙述した「生きられた瞬間の闇」を集団の身体へと拡張した理論として再記述できる。ベンヤミンによれば、「時代の夢」を生み出す流行や建築をはじめとした近代資本主義の営みは、集団の意識として、「生きられた瞬間の闇」に属している。彼にとって「時代の夢」とは、太古の願望の形象である「もはや意識されないもの」が、集団的な規模の幻灯装置として映し出された意識なのである。言い換えれば、「生きられた瞬間の闇」は、集団の<夢見る意識>なのであって、それは<目覚めの瞬間>を待っているのだ。

ベンヤミンのカフカ論やブレヒト論が示す通り、我々「人間」の身体忘却されている異郷であるとするならば、身体もまた闇となる。この身体の中には、忘却された太古の形象が歪んだ状態で潜在化している。知覚メディアによる「中断」は、この闇の中から身振りを引き摺り出すことによって、事物としての身体が提示している「前兆」、「予感」、「合図」のような瞬間的な「サイン」を、すなわち脱因果論的な運命判読可能にする。この時、想起される身振り形象は、恐らく知覚メディアをはじめとした技術と結合している我々の身体が既にオドラデク的に歪んだキメラになっていることを露呈させる。それは映画のフィルムの映像の数々のように、一コマずつ、言うなれば「ライフログ(Lifelog)」として蒐集されていく。事物としての身体無機的エロティシズムへと傾倒する物神崇拝者や物の世界の観相家として振る舞う寓意的な蒐集家であれば、この「視覚的な無意識」を顕在化させるショック体験をも触覚的に享受できるであろう。

だが繰り返すように、ブロッホの「生きられた瞬間の闇」は、「過去」と「現在」の共存関係を言い表している。この二つの時間の共存関係は、言わば「未来」を排除された第三項に位置付けてしまう。太古が現在を取り押さえているかのようにブロッホが叙述するのは、このためである。この第三項としての「未来」が「過去」と「現在」の区別の内部に導入されない限り、新しい未来は意識され得ない。だからこそ「未だ意識されないもの」は<かつて一度も意識されたことのないもの>でなければならない。「未だ意識されないもの」が太古の形象として瞬間的に生起するのは、未だ開始されていない「始まり(Anfang)」を始めるという革命的な行為展開される場合だけだ。真の始まりは、常に最も醒めた意識の頂点においてのみ可能となる。

この点からても、先に取り上げたように目覚めを遠ざけようとするユングの人間学的虚無主義には、未来が無い。そうではなく、目覚めの瞬間への近さを意識しない限り、「未だ意識されないもの」の発見には至らないであろう。これに対し、ベンヤミンの人間学的唯物論における目覚めの瞬間は、<新しい過去>の想起として結実する。この<新しい過去>の想起こそが、革命的な行為となる。想起した過去に新奇性が備わるのは、その形象忘却されることでオドラデク的に歪められているためである。ベンヤミンはこのことを『猫背の小人』の御伽噺を介して叙述していた。ブロッホにおいても、御伽噺は特権的な位置付けにある。神話に対抗する御伽噺は、「未だ意識されないもの」の表現形式なのである。

「幾つかの神話形象に包含されている未だ生まれていない光によって照らされるユートピア的な幸福の国の、価値の国についての御伽噺の暗号がある。」
Bloch, Ernst. (1935) Erbschaft dieser Zeit. Zürich : Oprecht & Helbling. S. 258.

御伽噺には「有史以前の夢(Träume der Urzeit)」からの目覚めを開始させる形象が含まれている。この形象へと最も肉薄し得るのは、「陶酔(Rausch)」である。ここでいう陶酔は、単なる忘我(Ekstase)の意識状態ではない。それは個人的な忘我であると共に、集団の中での個からの脱却も含意する。そして何よりブロッホの概念規定において特筆すべきなのは、陶酔とは有史以前の過去の形象が現在に回帰する場合に取る形式であるということだ。これをブロッホは中世ヨーロッパ社会で勃発した舞踏病から読み取っている。ある種の個人的な想起がその人間を甘陶酔に向かわせるのと同様に、集団的な意識における過去の現在への回帰においても陶酔が起こり得るのである。

生きられた瞬間の闇」が過去と現在の潜在的な共存を言い表しているのならば、陶酔はこの共存関係を顕在化させた状態を意味する。この現在に回帰する過去が太古の形象としての「未だ意識されないもの」となる時、それが<新しい過去>の開始となる。真の始まりは、常に最も醒めた意識の頂点においてのみ可能となるのであった。ブロッホにおいては、この最も醒めた意識とは、陶酔の状態を意味するのである。

そしてこの陶酔の革命論は、陶酔の力を革命のために獲得することこそがシュールレアリスムの参照問題であるというベンヤミンの人間学的唯物論と精確に照応している。つまり集団の身体神経刺激が放電される際に顕現する世俗的啓示叙述こそが革命的な行為になるということである。革命とは、集団の神経に刺激を通わせることなのだ。この革命の瞬間では、知覚メディアによる神経刺激とそれに対する集団の身体によるフィードバックとしての身振り相互浸透することで、100%の「形象空間」が、すなわちヴァーチャルリアリティを舞台とした「身体空間」が形成される。この世俗的啓示という技術に準拠した人間学的唯物論霊感は、身体が提示している「前兆」、「予感」、「合図」のような瞬間的な「サイン」も含意しているのである。

これを前提とすれば、トランスヒューマニズム的な科学技術を前提としたサイボーグ理論要求すべきなのは、技術的特異点(シンギュラリティ)の是非やエンハンスメント論争の類のものではない。まして、「永遠」の身体を手にした「不死」の存在ですらない。むしろ求められるのは、我々の集団的な身体知覚メディア神経刺激を介したフィードバック・ループの設計が如何にして可能になるのかという問題設定への取り組みである。この問題解決策の一環として、我々は物象化された商品をはじめとした事物物神崇拝者として、あえて無機物エロティシズムに魅了されることを選ぶことになる。人間中心主義に対する破壊的な性格を止める必要は無い。我々は寓意的な蒐集家として、尚且つ物の世界の観相家として、事物としての集団の身体から身振りのように提示される「サイン」を認識することにより、脱因果論的な運命判読する。ウェアラブル・デバイスやヴァーチャルリアリティのような知覚メディアは、単なるトランスヒューマニズム的な科学技術としてではなく、むしろ人間学的唯物論的な「身体空間」を設計する際に機能するであろう。

言い換えれば、この100%の「形象空間」の設計が如何にして可能になるのかが、トランスヒューマニズム的な科学技術を前提としたサイボーグ理論に課せられた問題設定となる。この「身体空間」では、オドラデク的に歪められている太古の形象記憶が想起されることで、「認識可能性の今」の「現在性(Actuarity)」に準拠したヴァーチャルな現実感(Reality)が視覚的に無意識的なショック効果として体験される。集団の身体がこのヴァーチャルリアリティ触覚的に享受する時、我々は世界形象を内包させたモナドとしての理念叙述可能性を獲得する。その形態自然史において忘却された啓示連関の代理表象に他ならない。この叙述可能性においては、歴史神学的な基礎概念である「現在性」と「永遠性」が、人間学的唯物論構造化する主導的差異となる。ただし人間学的唯物論は、この区別区別の内部へと再導入(re-entry)する。「永遠性」が導入されるのがまさに現在であるという点において、真に現在的なものの中にこそ、永遠のものが瞬間的に歴史の中でその相貌を表すという訳だ。それ故に「身体空間」における集団の身体は、「不死」ではないが、「永遠」を知覚する。我々は、「認識可能性の今」において、その都度「永遠」の時間を知り尽くすのである。

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