ヴァーチャルリアリティにおける動物的「身体」の物神崇拝的なユースケース

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派生問題:動物的身体の物語は如何にして可能になるのか

カフカは物語の語り手(Erzähler)の一人であった。だがベンヤミンは、物語の語り手近代社会を生きる我々にとっては遠い存在になってしまっているという。第一次世界大戦以来、経験の相場は下落した。連続的で均質な歴史を前提とした経験は、や非連続でショックに満ちた体験へと席を譲った。戦略に関する経験は陣地戦によって、経済上の経験はインフレーションによって、身体的な経験は物量戦によって、倫理的な経験は権力者たちによって、尽く化けの皮を剥がされてしまったのだ。ベンヤミンによると、戦争から帰還してきた兵士たちは沈黙の状態を続けていたという。それは、戦争のショック体験によって、伝達可能な経験が豊かになるどころか、逆にそれが一層貧しくなったことを裏付けている。近代社会経験の貧困は、ショックに満ちた体験という形式構成する代わりに、物語る技術を終焉へと向かわせている。や何かを物語る人々というのは希少な存在である。経験が貧困化した近代社会では、経験の交換能力が喪失しているのである。

多くの物語の語り手に共通していた特徴は、実用的な関心が強いということである。真の物語は、明示的であれ暗示的であれ、何らかの効用を伴っている。そうした効用は、ある時は教訓として、またある時は実用的な手引きとして、あるいは格言や処世術として現われる。いずれの場合も、物語作者は聴き手に対して助言することを心得ているのである。だが助言を心得ていると述べた場合、物語の語り手が想定しているのは、連続的な経験である。物語の語り手が遠い存在になったことと近代社会経験の貧困化が結び付くのは、この真の物語の要件が満たされなくなっているためである。したがって経験が貧困化している近代社会では、自己自身に対しても、勿論他者に対しても、助言を与えることが困難極まりない。助言とは、問題設定に対する問題解決策でもなければ、問いに対する答えでもない。助言とは、出来事後の見通しに関する提案を意味する。だからこそ、経験の連続性が前提となるのである。

物語と長編小説の区別を導入すると、この問題はより明確に記述することが可能になる。口から口へと伝達される物語は、物語の語り手の源泉ではある。だがそれは、長編小説を成立させている条件ではない。長編小説は、口頭での伝達によって成立したのではなく、また口頭への伝達へと結び付く訳でもない。

物語の語り手は、物語ることを経験から抽出している。それは自分自身の経験の場合もあれば、報告された経験の場合もある。そして語ったものを自身の話に耳を傾ける人々の経験にしていくのである。これが経験の交換である。一方、長編小説の作家は、他から隔離された孤独の状態で作品を叙述する。孤独のうちにある小説家は、物語の語り手のように、他の模範となるように語ることはできない。小説家は、物語の聴き手のように、助言を貰うこともできなければ、助言を与えることもできない。ベンヤミンによれば、長編小説の叙述は、人間の生の描写において、他者と通訳不可能なものを極限まで押し進めることに他ならない。

更に物語情報区別を導入すると、複製技術知覚メディアによるショック体験もまた、物語の語り手の衰退と関連していることが判明する。新聞をはじめとした複製技術は、伝達の新しい形式として、情報を生み出した。情報という伝達形式は、脱アウラ化を前提としている。情報物語よりも優位に立つのは、人々が遠くから伝達される知らせよりも、身近な出来事に判断の拠り所を与えてくれる情報の方に耳を傾ける傾向があるためである。異国から伝達された知らせには空間的な遠さがある。伝承によって伝達された知らせには時間的な遠さがある。こうした遠さは、アウラが宿るために、かつては権威が形成されていた。この権威によって、物語られた知らせは真偽の検証を経ることなく受容されていた。しかし、脱アウラ化された複製技術時代では、即座に検証可能である情報が要求されるようになる。この検証可能性においては、情報がそれ自体として理解可能であることが重要となる。

情報は、まさに新奇性を備えている間にこそ重視される。情報は伝達されたその瞬間にのみ活性化している。情報は、それ自体の全てを完全にその瞬間に指し示している。これに対して物語は、決してそれ自体を出し尽くしてしまうことが無い。物語は、長い時間を経た後でも尚「展開」される能力を持つ。カフカの物語がそうであったように、物語は、それ自体ではない他の何かを指し示す比喩を用いても全く問題にはならない。物語はそれ自体、伝達の言わば手仕事的な形式である。物語は、情報のように出来事を純粋にそれ自体のみとして伝達することを狙っているのではない。物語は、出来事を、一旦報告者の生の中に深く刻み込み、その後再びそこから抽出する。故に物語には、出来事それ自体ではなく、語り手記憶の痕跡が付着している。

長編小説や情報との差異を前提とすれば、経験の貧困化した状況であると共に複製技術時代以降の時代でもある近代社会において、物語の語り手による物語る営みは極めてありそうもない不確実な試みとなっている。したがって、様々な知覚メディアによる視覚的な無意識を露呈させるショック効果触覚的な享受せざるを得なくなった者が物語の語り手となるということが、そもそも如何にして可能になるのかを解き明かしておかなければならない。

問題解決策:死

人間の生は、物語の語り手物語素材である。この素材に対する語り手の関係は、手仕事的な関係である。物語の語り手の参照問題は、他者の経験であれ自己の経験であれ、その経験と生の素材を手堅く有用で一回限りの方法によって如何にして加工するのかである。ここでいう加工とは、諺を物語の表意文字と捉えた場合に最も手早くその形象が提示されるような加工である。諺とは、言わば旧い物語という広場に聳え立つ廃墟なのである。この廃墟には、壁を這う蔦のように、一つの「身振り」に一つの「教訓」が絡み付いている。

物語の語り手は、教師や賢者のように、多くの場合に対応しながら助言を提示することができる。物語の語り手が与え得るのは、何らかの専門分野に特化した助言なのではない。何故なら、物語の語り手には、生の全体を反省する能力があるからだ。それは単に自己自身の経験だけではなく、他者の経験をも少なからず包摂する生である。物語の語り手にとって、他者から見聞きしたことも、自身の最も固有な経験に結び付けることができるのだ。物語の語り手の才能は、自分の生を物語ることである。物語の語り手の尊厳は、自分の生の全体を物語ることにある。

死の疎外

この生の全体は、死の世界との差異によって記述できる。この生と死の区別歴史意味論として長らく参照されてきたのは、「永遠(Ewigkeit)」の思想であった。しかし近代社会では、死ぬということが、生きている者の知覚世界から追い払われている。かつては、そこで死んだ者のいない家や部屋などは、ほとんど無かった。現代では、市民は死を除去した空間に住んでいる。人生の最期は、相続人たちによって、病院やサナトリウムに送り込まれる。死が退けられるにあたり、永遠の思想もその源泉を失ったと言える。

ベンヤミンは、物語る技術の終焉が経験の伝達可能性と関わるのと同じように、この永遠の思想もまた死の退却と関わっているという。だからこそ、人間の知識や智慧などといったものに限らず、とりわけ我々が生きた人生それ自体が伝達可能な形式を受容できるのは、まず以って死にゆく者においてである。我々が生きた人生とは、物語が生み出される素材である。

偉大な物語の語り手に共通しているのは、経験に対するフットワークの軽さであり、屈託の無さである。経験の下部においては地球の内部にまで達し、上部においては雲を貫く。そうした物語の語り手が提示するのは、あらゆる個人的な経験にとって最も深いショックである死ですら何ら障害とはならない集合経験形象である。

人生の最期の瞬間、人間の内部には一連の形象が動き出す。言うなればそれは、際の際の走馬燈のようなものだ。それは、それまで意識されることの無かったその者の様々な形態から成り立っている。そうした形象に遭遇する時、その者の表情や眼差しに突如として忘却されようのないものが発現する。その形象は、周囲の関わりのあった全ての者たちに対して権威を発揮する。如何に哀れな人間でも、死ぬ時には、その者の周りに生きている人々に対して、こうした権威を持つ。物語られたものの根源にあるのは、この権威なのである。

死の歴史哲学

死は、物語の語り手物語り得るものの全てを承認可能にする。物語の語り手は、死からその権威を借り受けている。言い換えれば、こうした物語の語り手の語る物語が指し示す遡及先は、「自然史」なのである。死は、規則正しく周期的に出現する破局リズムを奏でている。この限りで死者の物語は、歴史根源現象(Ursprungphänomen)と関わる。

歴史根源現象とはベンヤミンの歴史哲学における主導的差異の一つとなる「根源(Ursprung)」と「歴史(Urgeschichte)」の区別を前提としている。ここでいう根源とは、まず起源から区別される。根源は始まりを意味するだけではない。根源は、生成から消滅までの軌跡の全てを反映させた一つの時代を縮約している。この根源という抽象化された概念を前提とするなら、歴史根源を踏まえなければ認識できない対象となる。根源が諸現象に動態的に関連付くという前提に立って、初めて歴史を認識できるようになる。

この根源と諸現象の動態的な関連性が言い表しているのは、それぞれの時代にはその根源的な始まりと終わりの過程を形式化させる「リズム(Rhythmus)」があるということだ。時代が一定の「リズム」を刻むことによって、諸現象がその波形の形式によって整序されていく。言うなれば「リズム」とは、根源が指し示す一つの時代の調和の形式なのである。

聴き手の語り手に対する素朴な関係は、語られたことを記憶しておこうという関心によって支配されている。無心な聴き手にとって重要なのは、話を再現する可能性を確保することである。記憶こそが、他の何よりも叙事的な能力を可能にする。全てを包括する記憶によってのみ、叙事文学は、一方では事物の成り行きを掌握し、他方ではそれらの事物の生成消滅、すなわち死の暴力と和解することができるのである。

だが近代社会では死が疎外されている。死に逝く者たちの経験物語られずに伝達されなくなれば、この集合的な経験形象が途切れてしまう。しかしベンヤミンは、この関連から尚も『猫背の小人』という御伽噺引用する。忘却を司っている猫背の小人は、死に逝く者たちが走馬燈のように想起する記憶形象を、何枚もの写真によって構成されたアルバムのページをめくって見せてくれるかのように返してくれる。

「死に瀕した者たちの眼前をその『全生涯(ganze Leben)』が通り過ぎていくと人々は噂し合っている。だが私が思うに、この『全生涯』は、小人が我々の誰もが有しているような像(Bildern)の数々から構成されている。それらの像が、今の映写機の前身であった堅く緊密に製本された小型の本のあのページのように、さっと矢のように通り過ぎていくのだ。この本の小口のところに親指を当てて、軽く押さえてから滑らせていくと、互いにほとんど違わない像を瞬間ごとに次々と目にすることができた。そうした像が迅速に流れていくことによって、リング上のボクサーや、波と戦っている泳者の動きがわかるという訳であった。あの小人は私についても、そのような像を持っているのである。」
Benjamin, Walter. (1932-1938) “Berliner Kindheit um neunzehnhundert”. In: Gesammelte Schriften, Bd. IV/1. Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1972. S.235-304., 引用はS.303より。

問題解決策:中断

猫背の小人が司る「全生涯」の形象の大多数は忘却されており、かつオドラデク的に歪められている。この猫背の小人は、ベンヤミンの歴史哲学においても決定的に重要となる形象である。それはマルクス主義的な歴史的唯物論との関連から鍵となるのだが、しかしその核心においては、やはりユダヤ教的な神学が潜在的に関わっている。実際『歴史の概念について』の第一テーゼには、このことを連想させる記述がある。

「有名なチェスを指すロボット(Automaten)がいた。このロボットは、相手がどのような手を指してきても、対局の勝利を保証する好手で応じられるように構築(konstruiert)されたらしい。このロボットはトルコ風の衣装を身に纏って、口には水煙管を咥えて、広いテーブルの上に置かれた盤の前に座っていた。数枚の鏡を組み合わせたシステム(System)により、このテーブルはどの方角から観ても透過して視えるような錯覚(Illusion)を形成していた。本当は、チェスの名人である猫背の小人(buckliger Zwerg)がその中に座っていて、ロボットの手を紐で操っていたのである。哲学においても、この装置に相当するものを想像することができる。『歴史的唯物論(historischen Materialismus)』と呼ばれる人形(Puppe)は、常に勝利しなければならない。この人形は、神学(Theologie)を雇い入れている場合には、どのような相手とも十分互角に相対することができる。神学は、小さくて醜く(klein und häßlich)、いずれにせよ日の目を見ることが許されないのは、今日では周知のことである。」
Benjamin, Walter. (1940) “Uber den Begriff der Geschichte”. In: Gesammelte Schriften Bd.I/2 Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1974. S.693.

ベンヤミンがここで取り上げている小さくて醜い神学というのは、人間学的唯物論との関連から理解されなければならない。ここで着目すべきロボットの概念は、「事物」の哲学における弁証法の視点だけでは捉え切れないのである。ここでいうロボットは、視覚的に無意識的なショック効果を呈示してくる知覚メディアとしての複製技術の一種だ。こうした複製技術の内部には、言わばそのアルゴリズムアーキテクチャ設計思想として、小さくて醜い神学に対応した人間学的唯物論が潜んでいる。この設計者は、言語の記述、翻訳引用寓意蒐集、そしてショック体験に駆動された静止の弁証法を敢行するための知覚メディアを構築するのである。こうした設計思想を内に秘めたロボットは、弁証法的形象歴史的な索引(禁書目録)として引用することで、<新しい過去>を想起する。

しかしある記憶想起するには、予めその記憶忘却しておかなければならない。それ故にこそ忘却を司る猫背の小人が必要となる。知覚メディアとしてのロボットは確かに、視覚的に無意識的なショック効果を放つことによって、相対する者たちが盲点忘却している記憶を突き付けることができる。だがそれは、予め猫背の小人が相手を忘却へと誘っていたためなのだ。しかしながらこの猫背の小人による貢献は、それ自体忘却されてしまっている。猫背の小人による忘却作用は、この忘却作用それ自体にも及ぶという点で、自己論理的(autologisch)に展開されている。猫背の小人の仕事に隙は無く、普遍的である。だからこそチェスの対局相手は、誰もロボットの内部にこの小人が潜んでいるということに気付けないのである。

ショーレムとブレヒトの差異

ベンヤミンは同時期にユダヤ教的な神学メシア的な力に言及するカフカ論と経験の貧困した時代における物語の語り手を論じている。その際、ベンヤミンにユダヤ教神秘主義を教えたのはゲルショム・ゲルハルト・ショーレムである。ショーレムはユダヤ教的なグノーシス主義における秘境的な体系である「カバラ(Kabbala)」と、その古典的な教典である「ゾーハル(Zohar)」を手解きした。ベンヤミンにカフカ論を『ヨブ記』から始めるように推奨したのもショーレムであった。だがショーレムは、次第にマルクス主義へと接近していくベンヤミンの姿勢に危機感を覚えてもいた。

カフカ論を展開した頃と全くの同時期となる1934年に、ベンヤミンは自身のカフカ論に共感を示さなかったブレヒトがモデルとなる『生産者としての作者(Der Autor als Produzent)』を記述している。ベンヤミンがブレヒトとの親睦を深め始めたのは1920年代である。そして、ブレヒトがマルクス主義の影響下でベンヤミンに影響を与えた演劇理論を本格的に展開し始めたのは1920年代後半から1930年代前半の頃だ。したがって、ベンヤミンが1930年代に記述したブレヒト論は、この理論的背景と思想的背景を十分に把握した上で分析が展開されていると見做しても不自然は無い。しかしながらブレヒトにとって、自身の演劇理論を応用するベンヤミンの姿勢がユダヤ教的な神秘主義に傾き過ぎていると警戒していた。そしてまたブレヒトは、ベンヤミンのカフカ論やアウラ概念に関しても、神秘主義への傾倒が伺えると批判している。

したがってベンヤミンは、ショーレムからマルクス主義への傾倒を危惧されると同時に、ブレヒトからユダヤ教神秘主義への傾倒を批判されていたことになる。確かに、マルクス主義ユダヤ教神秘主義矛盾した対立関係にある。こうした背景から一見して、ベンヤミンは双方の間で揺れ動いているようにも視える。ショーレムは、このベンヤミンの矛盾した姿勢からヤヌスの顔としての輪郭を読み取っている。彼の一方の顔はブレヒトを向いており、他方の顔はショーレムに向けられている。確かに双方は矛盾した対立関係にあるようだ。

しかし、「極限(Extrem)」を探究し、決して首尾一貫性に囚われずに振る舞うベンヤミンの哲学的ラジカリズム(Philosophischer Extremismus)は、双方の共存が可能であることを告げている。その飛躍的で過剰な展開とも思えるベンヤミンの救済的な批評(rettende Kritik)は、この歴史的唯物論の中に神学が潜在化していることを我々に突き付けてくるのだ。しかもベンヤミンにとって、このユダヤ教神秘主義マルクス主義は、ヤヌスのように、逆向きとなっている訳ではない。まさに『歴史の概念について』の第一テーゼが告げるように、ユダヤ教神秘主義的な小さくて醜い神学が、マルクス主義的な歴史的唯物論という名のロボットの内部に組み込まれているのである。

叙事的な演劇

ブレヒトの「叙事的な演劇(Episches Theater)」では、劇の流れを一時的に「中断(Unterbrechung)」される仕組みが施されている。例えば芝居の途中に状況を説明するソングや文字幕(Beschritung)を挿入することで、劇中の出来事時間的な流れが停止するようになっている。すると観客は、その中断された時点と再開される時点との間で観察可能な特定の身振りをそれ以外の一連の出来事から区別することが可能になる。この身振り区別の導入によって、観客は身振り模倣引用が可能になる。

ベンヤミンは、この中断をテクストの引用を可能にする形式として捉えた。この中断による引用可能性の担保は、芸術の領域に限定されない。それは歴史の連続性を断ち切る上でも有効に活用できる。過去の埋もれた身振り引用することで、その引用が本来の文脈に対するパロディ的な破壊力を形成すると共に、歴史根源を抽出することが可能になる。

もともとブレヒトがこの演劇によって目指していたのは、ブルジョワ演劇やオペラをはじめとした幻想の世界に対して、現実社会の仕組みを暴露することによって、そうした世界に対する態度変容を観客に迫るのである。劇の中断は、この観客の態度変容の機会を設けるために設計されている。ブレヒトはこの中断の最中に役者と観客に接見を持たせる。

異化効果

ベンヤミンの歴史哲学における救済的な批評は、過去において未完のままに埋もれた真なるものを現在引用することによる救済を志している。一方ブレヒトの代名詞とも言える「異化(Verfremdung)」の理論は、一般的には芸術表現上の一つの方法として参照されている。だが本来、それは批判の方法の一種として導入されていた。芸術表現が対象の場合、アリストテレス的な演劇論で知られるような感情移入は否定される。異化とは、心身を奪われて我を忘れることのないように、感情移入を意図的に妨害することで、対象に対する批判的な観察を可能にする精神的な距離を設けることなのである。

ブレヒトの異化の技術は、演劇の対象である「人間」同士の出来事に人目に立つこと、説明を要するもの、当然自明とはならないもの、ただ単にあるがままとは言えないという極め付きを与えることができるような技術である。最も単純で具体的な例は「身振り」である。身振りは、他者に向けられる「人間」の姿勢である。役者はこうした身振り異化する。それは身振り模倣言語化、認識、そして解放へと向かう。役者は単に役者になり切る訳ではない。役者は身振りを提示する。俳優は人物の身振りを「引用」する。そして俳優は観客にも身振りを示し、同時身振りを示しているということそれ自体をも示す。

異化機能は、対象から距離を取ることである。字義を確かめれば済む話ではないが、「対象」を意味するGegenstandという用語は、「対抗して(gegen)」「立つ(stehen)」ことから成り立っている。対象と距離を設けて初めて、我々は対象について俯瞰的に観察することができるようになる。そして、この俯瞰的な観察は、対象の抽象化に基づいた分析も可能にする。何故なら抽象化とは、特定の個別具体的な対象に注視するのではなく、その対象と別の対象との同一性や差異性を検証することで、その比較を可能にする思考技術であるためだ。

ブレヒトによれば、叙事的な演劇は、筋を展開させるというよりも、状況を表現(Darstellung)しなければならない。ここでいう表現とは、自然主義理論家たちがいう意味での再現を指しているのではない。ベンヤミンによれば、むしろ最も重要なのは、まず以って状況を発見(entdecken)することなのである。これを彼は状況を異化(verfremden)することと言い換えている。状況のこの発見、すなわち異化は、出来事の流れを中断することによって為される。

だが同時にブレヒトは、マルクス主義を学び、異化を「歴史化(Historisieren)」と関連付けるようにもなる。歴史化とは、対象に対する歴史的な観点を失わず、対象を歴史的に消滅するものであると同時に変革可能であるものとして表現するということである。歴史上あらゆる出来事や「人間」の意識や行為は、その時代の歴史的状況に結び付いている。それ故にこれらの事象は、皆歴史の変化によって消滅を余儀無くされていたものなのである。異化理論は、こうした消滅してきたものの表現方法として、ソングやその他の音楽の呈示、プロジェクターによる場面のタイトル表示、フィルムなどによる歴史的なドキュメントの挿入、演技の最中に俳優自身による引用やコメントなどの方法を提供している。そしてこれらの技術に共通するのが、演技や鑑賞の意図的な「中断」なのである。

一見するとベンヤミンの救済的な批評とブレヒトの異化過去に対して対照的な姿勢を貫いている。ベンヤミンの批評が過去に対して些か肯定的に思えるのに対して、ブレヒトの異化過去に対して批判的である。だが、この<肯定的>と<批判的>の区別は、それ自体ここでは<批判的>に検討されなければならない。ベンヤミンとブレヒトとの間には、過去歴史現在でも無条件に維持されるべきであるとは限らないという前提に立っている点で、思想的な共通性があるためだ。過去歴史現在でも無条件に維持されなければならないとすれば、それがしき伝統であった際に、批判の契機を見失ってしまう。むしろ二者は、このしき伝統である可能性を重く注視することで、歴史の連続性を破壊しようと試みているのである。

知覚メディアの異化

ベンヤミンはブレヒトのこの叙事的な演劇をその知覚的な形式において、映画的なモンタージュに類する知覚メディアと見做している。叙事的な演劇は、映画のフィルムの映像の数々のように、一コマずつ進行する。その形式は、作品のそれぞれに際立った特徴を持つ個々の状況同士が出会う時のショックという形式である。ソング、文字盤、特定の身振りといったものが、一つの状況を、他の状況に対して際立たせるのである。こうして芝居の休憩時間のようなインターバルが生じて、それが観客の幻想はむしろ疎外される。

ブレヒトの異化理論は、複製技術時代以降の近代世界でも時宜を得ている。より厳密に言えば、この理論複製技術時代以降だからこそ時宜を得ている。脱アウラ化され、様々な事物との距離が喪失した時代だからこそ、そうした状況から区別された異化の状況が発見可能になるのである。しかし異化効果によって設けられた対象との距離は、それ自体知覚メディアによる脱アウラ化の対象となる。異化の対象は、複製されることで、触覚的に享受される。そのショックは月並みになることで、習慣化されるのだ。そしてこの習慣化は、また別様の異化対象の候補を提供することになる。

以上のようなブレヒトの叙事的な演劇は、ベンヤミンにとって、技術的に推奨すべきモデルとなっている。叙事的な演劇は、その「中断」の効果によって、生産過程における自らの立場をよく考えてみるようにと観客を促す。そうすることでこの演劇は、生産された事物の単なる消費者でしかなかった者たちを『生産者としての作者』となるように誘うのである。

この観点からも叙事的な演劇は、複製技術知覚メディアと見做される。このことはコンピュータ技術という知覚メディアとの関連からより明瞭となるであろう。例えばGitHubのパブリックリポジトリを舞台としたオープンソースの営みには、それまで単なるシステムのエンドユーザーでしかなかった者たちをその機能拡張案となる新システム設計者や実装者に仕立て上げる効果がある。ソフトウェア工学設計実装もまた、その時代の歴史的状況に結び付いている。ファイルの「変更履歴」は、皆歴史の変化によって消滅を余儀無くされていたソースコードを「断片」的な行単位のファイル差分として指し示している。Pull requestのメッセージ、コミットメッセージ、あるいはソースコード上のコメントは、こうして消滅してきたものを表現する異化方法として機能しているのである。

新しい機能拡張案が提示された時、デベロッパたちはもはや単に既存のシステムを消費するだけのエンドユーザーとしての振る舞いを「中断」させることになる。デベロッパたちは、互いをレビュー担当者に仕立て上げることによって、より良きシステム設計実装を実践する生産者になるのだ。この事実はコミット履歴を閲覧することで誰でも確認できるはずである。

機能的等価物の探索:ウェアラブル・コンピューティング

身体に装備して持ち歩くことのできるウェアラブル・コンピューティング(wearable computing)は、小型化した医療機器として、我々のバイタルサインのログを常日頃からデータ化してくれる。こうしたツールには、心拍数、血圧、体温のように典型的なバイタルサインに限らず、眠気や便意などのような生理現象から声色や呼吸や動脈血酸素飽和度などのような情報から感情を予測する機能まで搭載されている。こうしたデバイスは、言わば我々の閾下知覚による観察観察している。これらの機能を応用すれば、ベンヤミンが着目した精神を活き活きと現存させる生体の脱因果論的な運命の解読も補助することが可能になる。つまり生体の中から込み上げてくる「前兆」、「予感」、「合図」のような瞬間的な「サイン」をもデータ化することが可能なのだ。

自らの周辺をウェアラブル・コンピューティングで囲われた身体は、文字通り事物と事物の物象化されたネットワークの中で、絶えずその身振り観察されることになる。まさに映画のフィルムの映像の数々のように、一コマずつ、身体のログが<蒐集>されていく。それと同時ウェアラブル・デバイスのユーザー・インターフェイス上には、身体の「サイン」を視覚化するデータビジュアライゼーション(Data Visualization)も展開される。尤も、この視覚化は文字通りの意味で視覚的な神経刺激となるだけではない。それが「警告音」という形式で通知されれば、無論聴覚的な神経刺激にもなり得る。

「『視覚化(visualization)』という単語は実際には狭過ぎるということに注意した方が良い。発音し難いが、『知覚化(Perceptualization)』の方が恐らくは相応しい。音と手触りは、視覚的な外観と同様に、データを表現する上で適切に使用されるであろう。」
Erickson, T. (1986). Artificial realities as data visualization environments: Problems and prospects. Virtual Reality-Applications and explorations, 3-22., 引用はp.8より。

それ故にウェアラブル・コンピューティングは、我々の日常生活を「中断」することもできる知覚メディアでもある。心拍数や血圧のようなバイタルサイン前兆予感合図と相関する「異常」が予測された瞬間に、そのユーザーのその時点での身振り閾下知覚、そしてバイタルサイン情報を含めた通知をプッシュすることができる訳だ。この時ユーザーは、突如として雷鳴の如く鳴り響く閃きを、つまりは弁証法的形象言語として叙述する契機を逃さずに済む可能性が高まるであろう。ここにおいて物の世界の観相家は、自らの身体をウェアラブル・コンピューティングのサイバネティクス的な制御ループの中に組み込むことによって、事物としての身体運命触覚的に享受するサイボーグとなる。

「この制御ループは、サイボーグ(cyborg)という用語が電気機械的な恒常性制御システムとの準共生的結合における人間を示しているために、『サイボーグ的(cyborgian)』と考えることもできる。当初サイボーグの概念は、宇宙飛行士が敵対的な宇宙環境で意識的な注意を払わずに恒常的な環境を規制できるように設計されていた。しかし、このアイデアは、情報過負荷によって引き起こされるストレスに対してホメオスタシスを規制しようとする地球上の人々にも同様に関連してくる。生理的な手掛かりを利用することにより、着用者のコンピュータは、予期せぬ事象にリアルタイムで反応して対応することができる。」
Healey, J., & Picard, R. W. (1998, October). Startlecam: A cybernetic wearable camera. In Wearable Computers, 1998. Digest of Papers. Second International Symposium on (pp. 42-49). IEEE.

機能的等価物の探索:ヴァーチャルリアリティ

ヴァーチャルリアリティ(virtual reality)」は、ユーザーの眼の動きや瞬きを検知する「視線トラッキング(Eye tracking)」、ユーザーの位置情報を検出してヴァーチャル空間上に反映させる「三次元位置トラッキング(3D Position Tracking)」、あるいは手の動きを検知してヴァーチャル空間上のアバターの身振りとして反映させる「ハンドトラッキング(Hand Tracking)」などによって、ウェアラブル・デバイスと同じように身体観察を可能にしている。それと同時ヴァーチャルリアリティは、ユーザーに対する視聴覚的あるいは触覚的な神経刺激を放つことによって、任意のユーザー体験(User Experience)の共有を可能にしている。

ヴァーチャルリアリティの美学

元々「ヴァーチャルリアリティ(virtual reality)」という概念は、1950年代にシュールレアリスムの詩人であるアントナン・アルトーが、劇場(theater)の演出と錬金術(alchemy)の間に潜む、秘的な同一性や形而上学的な類似性を記述する上で提唱した概念である。この時点では無論、コンピュータ技術との接点は無かった。この概念をコンピュータ技術史の文脈から再記述したのは、「ヴァーチャルリアリティの父(the father of virtual reality)」と称されるジャロン・ラニアーである。ラニアーは、専ら「コンピュータ・グラフィクスの父(father of computer graphics)」として知られていたイヴァン・サザーランドの設計思想をヴァーチャルリアリティの概念史として記述している。

サザーランドは1965年に、ユーザーが完全にコンピュータでレンダリングされた空間を恰も本物であるかのように体験することを可能にする「アルティメット・ディスプレイ(ultimate display)」を提案している。ラニアーによれば、サザーランドはこうした空間を「ヴァーチャル世界(Virtual World)」と称し、美学者スザンヌ・K・ランガーを引き合いに出していたという。ランガーは全ての芸術が「ヴァーチャル(virtual)」であると喝破している。それは知覚されるべく創造されたあらゆる事物の品質を意味する。例えば絵画ならば「ヴァーチャルな空間(Virtual Space)」を、音楽ならば「ヴァーチャルな時間(Virtual Time)」を、舞踊ならば「ヴァーチャルな力(Virtual Power)」を生み出す。

象徴とサインの差異

ランガーの美学の主導的差異は、「象徴(Symbol)」と「サイン(Sign)」の区別から構成される。サインは、任意の対象へと相手の注意を引き付ければそれでその役目を終える。一方で象徴は、指し示した対象を相手が観念として認識することで初めて了解される。ランガーによれば、まさにあらゆる芸術象徴による人間の感情表現として創作されているという。

だとすれば芸術作品の象徴的な創作はヴァーチャルな次元で実践されていることになる。例えばキャンバスに絵を描く時、キャンバスや絵具は物理世界に既に存在している。だが一度絵画が創作されると、もはやキャンバスや絵具は創作以前の状態としては知覚できなくなる。この意味芸術作品として創作された世界は日常的な文脈から区別される。芸術家の任務は、ランガーによれば、日常の現実世界の中に埋もれている形式を抽出することで、それを日常生活の論理から解放することである。そしてそのように解放された形式は、感情の象徴として表現される。

美的仮象が追放された世界

この美学を前提とすれば、「ヴァーチャル(Virtual)」は「現実(real)」の対義語ではない、という主張の正当性は際どい位置付けになる。確かによく指摘されるように、「ヴァーチャル(Virtual)」の語源はラテン語の「徳」を意味するVirtusである。徳とは、人格に備わる社会的な価値である。それは目に視えない性質だが、一定の影響力を有している。したがって「ヴァーチャルリアリティ」と述べた場合、それは現実とは異なるが、実質的な性質としては現実と同様の別現実を意味する。しかしランガーの美学に準拠してしまうと、形式の解放という名目上、少なからず日常の現実世界からは距離を取ることになる。

それどころかランガーの美学は、美的仮象を前提とした芸術論である。彼女の「形象(Image)」概念はまず以って視覚との関連から記述される。より直接的に言い換えれば、彼女の美学では、複製技術時代以降の脱アウラ化された美的仮象無き遊戯空間を捉え切れないのである。実際のところ、ヴァーチャルリアリティの技術的発展はランガーの美学から飛躍している。コンピュータ・グラフィクスには美的仮象が無い。ディスプレイ上に作画されるのは、全てが数値によって決定される画像である。スクリーン上のあらゆる画素(image pixel)が操作可能である以上、表象や模写はもはや不可能になる。仮象を前提とした模倣可能性は、ラスター上に高解像度で提示されたグラフィクスの演算処理の中で消滅する。設計され、編集され、そして合成された映像の洪水の中では、その視覚的に無意識的なショック効果をただ触覚的に享受するしかあるまい。

神経生理学者たちの報告によれば、人間が閾下で知覚する情報量は、毎秒約11000000ビットを超える。だが閾上で認識される情報量は微小だ。感覚器官でフィルタリングされるために、意識情報処理能力は、一秒あたり僅か40ビット程度に留まる。それどころか知覚メディアは、この感覚器官のフィルターすら機能不全にする程の過剰刺激を呈示してくる。

認知科学が解明したように、網膜には、毎秒50回以上点滅する光の情報を処理することができない。光の強度が急激に変化すると、定常光だけが知覚される。映画では毎秒72回の点滅が繰り返され、テレビでは毎秒50回の露光が繰り出されている。こうした容量を超えるほどの情報量を呈示された場合、視覚は混乱することになる。それ故、観察者は映像を静止画像として具体的に対象化することができなくなるのだ。

リチャード・グレゴリーは、この現象を「視覚的持続(persistence of vision)」と呼んだ。この視覚効果は、意識がアニメーションを仮現運動として視認するための条件になっている。二つの光点の一方を消し、他方を点けた場合、意識はその光が一方から他方へと動態的に移動したかのように錯覚する。この場合に伴う錯覚は、仮象ではなく、「ファイ現象(phi phenomenon)」と呼ばれる視覚的な機能に他ならない。

ユーザー・インターフェイス設計論者であるアラン・ケイが視聴覚的な相互作用の可否はその「ペース(pace)」に依存すると述べていたのは、このことと密接に関わっている。視覚的に集中する鑑賞者を置き去りにするほどのペースで閾下知覚を遂行していくことが、連続的な動画を視認する条件なのである。言わばファイ現象とは、急激な情報変化から生じた「断片」的な隙間を埋め合わせるための辻褄合わせのようなものだ。しかも映像は次々と展開されていく。この瞬間的な知覚においては、熟考することで視覚的に享受する時間の猶予など微塵も無い。

形象の中への没入

ヴァーチャルリアリティ設計思想は、こうした神経科学、認知科学、そしてユーザー・インターフェイス設計論によって明らかとなった知覚の性質を前提としている。ヴァーチャルリアリティはその上で、ユーザー体験ショック体験として構成することにより、触覚的に享受されるべき視覚的に無意識的なショック効果を呈示する。

実際サザーランドらが設計した「ヘッド・マウンテッド・ディスプレイ(Head-Mounted Display : HMD)」は、頭部に装着するアーキテクチャから直接的にユーザーの三次元的な視覚刺激を呈示する「没入型メディア(Immersive media)」として知られている。没入するということは、もはや対象から距離を取る視覚的な鑑賞者としての振る舞いが許されないということである。むしろユーザーは形象の中へと没入していく。

ヘッド・マウンテッド・ディスプレイの内部には、ユーザーの動作を追跡するセンサーが内蔵されている。内部のアーキテクチャは、ユーザーの身体の一挙一動を解析している。ユーザーの視点や耳の位置が変わった場合、アーキテクチャがその位置に合致した画像や音声を即時に計算する。プリズム・レンズは、CRT(Cathode ray tube)が眼前に表示するヴァーチャルな形象と、部屋に位置する他の物質とを、同時に視ることを可能にしている。それ故ヘッド・マウンテッド・ディスプレイは、ディスプレイに表示される物体を空間上に浮き彫りにさせた状態で知覚させることも、あるいはマップやデスクトップや壁に一致させた状態で知覚させることも、形式的に実現できるのである。

視覚刺激に限らず、各感覚器官に働き掛けることによって触覚的な享受構成するメディア設計されている。例えばトマス・ディファンティらによって開発された「洞窟型自動仮想環境(CAVE)」は、サラウンド・スクリーンとサラウンド・サウンド・システムによって、視聴覚的な没入感構成可能としている。ユーザーは、この洞窟型の空間で戯れることができる。

デファンティらが技術論的に強調しているのは、CAVEが持つ「不信の中断(Suspension of Disbelief)」という機能である。これは専ら、ユーザーの没入感の尺度として用いられる。「不信の中断」の度合いが強ければ強いほど、ユーザーはインターフェイスが展示する事物に我を忘れて没入していくのである。CAVEによる視聴覚的な演出はまさにこの尺度を高めるために機能する。1辺が10フィートある立方体の室内には、壁に三次元的なコンピュータグラフィックスが投影されている。CAVEは、ユーザーの頭と手の動きを追跡して正確な立体画像を生成する。ユーザーは、軽量のシャッターグラスを通して、スクリーンに映された光景を立体視することができる。実際にそのヴァーチャルな世界を探検することもできる。専用のユーザー・インターフェイスを利用すれば、その世界に存在する仮想物体を三次元的に操作することもできる。複数のユーザーが同一のCAVEに没入すれば、同一のヴァーチャル空間でそのユーザー体験を共有することさえ可能になる。

現代芸術の驚異的な波状攻撃

ヴァーチャルリアリティ意味論知覚美学によって主導されていたのは良いとしても、その美学のパラダイムは複製技術時代に合わせて再記述されなければならない。1900年代の現代芸術は、美的仮象無き遊戯空間を最初から前提としている点で、新しい知覚美学の手掛かりになっている。

現代芸術の初手は、パブロ・ピカソらが率いた「キュビズム(Kubismus : Cubism)」派による攻撃として放たれた。その矛先は、我々が三次元空間知覚し得るという想定へと向けられている。実際のところ、我々が知覚し得るのは奥行きのある空間ではない。眼球が処理し得るのは二次元平面の情報だけだ。神経システムは、この二つの眼球から得られた情報差異、すなわち両眼視差を視交叉上核で計測することによって、奥行きのある三次元空間知覚を可能にしている。それ故にキュビズム派の芸術家たちがそれまでの三次元空間構成否定したのは、極めて科学的な営みであったとさえ言える。彼らはむしろ眼球が直接処理し得る二次元平面を強調した。それは芸術が直接視認し得る範疇から逸脱していることを主張する最初の革命である。

1920年代になると、この現代芸術の攻撃に触発された第二の革命運動が生じることになった。例えばジョルジオ・キリコらからルネ・マグリットに至るシュールレアリスム(Surrealismus : Surrealism)の運動家たちは、1960年代まで大きな影響力を誇っていた。彼らは対象となる事物を写実的かつ精確に描写する。だがそれら個々の事物は、作品の中で常々非論理的に配列されている。こうして鑑賞者を作為的に困惑させることによって、我々が自明視している現実の必然性に揺さ振りを掛けようとするのである。

このシュールレアリストたちの思想的な背景にあるのは、フロイトの精神分析学であった。彼らは、我々が閾上だけではなく閾下でも現実を知覚していることを強調すると共に、閾下の別様にもあり得る現実を芸術的に視覚化しようとしたのである。彼らが呈示する非論理的な視覚刺激は鑑賞者に対する驚異的な刺激となる。その刺激は現実と矛盾する非現実への情動喚起する。そのために鑑賞者は、その作品を夢で見る光景であるかのように錯覚することになる。だがそれは美的仮象の夢への憧憬を意味するのではない。むしろシュールレアリストたちは、現実の必然性を破壊することによって、現実の秩序や調和にショック効果を浴びせているのである。

数ある現代芸術の中でも、とりわけ抽象派と呼ばれている芸術家たちは、我々の認識の基盤を覆す抜本的な革命を引き起こしている。ロシアの前衛芸術から出発したカシミール・マレーヴィチは、「シュプレマティスム(Suprematism)」に象徴される抽象絵画を描写した。それは、美的仮象なき遊戯空間への応答として評価できる。新時代には新しい表現形式が必要であるというのが、彼の主張だ。その芸術作品は、伝統的な表現様式からの脱却を試みた革命的な産物である。確かにマレーヴィチは、既存の抽象化という様式を好んで使用していた。だが彼の目論見は抽象派の確立にあったのではない。彼の抽象化は、具体的な対象化を否定する様式である。実際、『黒の正方形』や『白の上の白』に代表されるように、彼の作品は幾何学的な構成とモノトーンの色合いで満ちている。彼の作品は徹底的に情緒性を廃しているのだ。感覚的な知覚を絶対化することで、彼は本質的な表現様式を目指したのである。

シュプレマティスムは対象化される以前の物に言及していく。人間思考は、対象を設定することで初めて可能になる。だが世界の中の何かを対象化するということは、<対象化されている世界>と<対象化されていない世界>を切断するということだ。そうした思考は、得てして世界それ自体を反映させた表象とはなり得ない。何故なら世界は、<対象化されている世界>のみならず、<対象化されていない世界>を含めた全体との関連においてこそ成り立っているからだ。このことを首尾一貫して主張することが、シュプレマティスム目的であった。それ故にマレーヴィチは「無対象の世界(Non-Objective World)」を描写しようとする。彼のシュプレマティスムは、無対象芸術作品を展示することによって、対象という形式で把握されている世界の現実が虚構に過ぎないことを暴露しようとしたのだ。

マレーヴィチから観れば、対象化された<現実>は「想像の所産(figment of the imagination)」を超えるものではない。意識による思考が世界を不用意に切断してしまうのならば、もはや閾上の知覚ではなく、前意識的な閾下知覚を重視せざるを得ないだろう。求めるべきなのは初めの形象なのであって、美的仮象なのではない。それ故に彼が絵画に取り組む際には、知覚されるだけで意識されない「無」の体験が重要な課題となる。ここでいう「無」とは、つまり思考の対象化に引き裂かれる以前の「無垢なる状態」を意味する。

コンピュータ・グラフィクス設計思想は、このマレーヴィチの思想と密かに照応している。ディスプレイ上に映し出された画像の画素を拡大して視ると良い。その構造はマレーヴィチの絵と驚くほど類似している。そうした画像やそれによって構成される映像の設計思想は、コンピュータ技術が可能にするベクトル演算と行列化に基づく統計的な数値処理によって、事実上あらゆる美的な状態が情報理論的に表現できることを前提としている。そこでは変異性と冗長性の確率論的な差異が美的な状態を構成する。それを視認するユーザーの知覚処理は、この計算の後に初めて実行される。ユーザーは計算された画素の一つ一つを知覚するのではなく、その配列を知覚する。シュプレマティスムのキャンバスと全く同じように、コンピュータ・グラフィクスにおけるディスプレイは、そこで展示される画像それ自体よりも重要となる。つまり重要となるのは、知覚の後の象徴的な観念として認識される美的仮象の類のものではなく、知覚に先行する知覚メディアなのである。

理念のヴァーチャルな配置関係

ベンヤミンの「メディア美学(Media Aesthetics: Medienasthetik)」は、コンピュータ・グラフィクスとその思想的影響を受けたヴァーチャルリアリティ知覚メディアの一種として参照することで、ヴァーチャルリアリティを主導する新しい意味論になり得る。このメディア美学は、自らを美的仮象芸術論から区別すると共に、複製技術時代以降の芸術作品が原理的に知覚メディアとして機能するという事態を直接的に取り扱う知覚美学である。彼があくまでも知覚メディアの学を徹底したことの背景にあるのは、ここでいう知覚という用語が「美学(aesthetics)」の語源となるギリシア語の「アイステーシス(aisthesis)」に由来するという概念史である。だからこそメディア美学美的仮象芸術論よりも知覚メディアに重きを置く。ただしベンヤミンのメディア美学を応用する場合、その背後に潜在化している歴史哲学的な性格を見逃してはならない。

メディア美学者であると同時人間学的唯物論者でもあるベンヤミンは、その歴史哲学的な理念論展開した「認識批判的序論」において、歴史的な無常化や集団的な忘却によって潜在化している事物の状態を「ヴァーチャル(virtuell)」と表現したことがある。「認識批判的序論」の主題は、真なる「理念(Idee)」は如何にして「叙述(Darstellung)」することが可能なのかである。つまりこの序論は一つの方法論になっている。「認識批判的序論」の主導的差異は、諸理念(Ideen)と諸現象(Phänomene)と諸概念(Begriffe)の区別から構成されている。理念は所与の存在だ。真理は叙述された諸理念が織り成す輪舞の中で顕現する。一方、諸現象は仮象(Schein)が混入された乱雑な経験的(empirisch)状態に置かれている。これに対して諸概念は、この理念と現象の乖離に対する埋め合わせとして機能する。概念は諸現象を諸要素(Elemente)へと区別することで、対象に混入されていた経験的な状態を抹消する。すると諸要素を諸理念の領域に接続させることが可能になる。諸要素へと区別された諸現象は、その偽りの全体を喪失する。諸要素への区別により、諸理念との関連から真なる全体を構成する契機が得られる。かくして、理念による現象の救済が成り立つ。

しかし理念は、それ自体としては叙述され得ない。何故なら理念の領域は現象の領域から隔離されているからだ。故に理念叙述にも概念が必要になる。概念による諸要素への区別とそれらの関連付けを介して、初めて理念叙述可能性が拓かれる。諸理念は諸現象の「ヴァーチャル(virtuell)」な、すなわち潜在的な配置関係を指し示す。そしてそれらは諸現象の客観的な解釈でもある。こうした関連付けから、ベンヤミンは理念と現象が代理表象(Repräsentation)の関連にあるという。理念叙述が如何にして可能になるのかという問題設定は、言わば哲学的な真理の叙述というトップダウンの観点と概念による区別と関連付けというボトムアップの観点との融合が如何にして可能になるのかという問題設定へと再記述できる。

こうして叙述される理念は、一回的で「極限(Extrem)」的なもの同士が織り成す形式として把握される。理念極限の形式として、最も再現性が低く、最も新奇性が高く、最も省みられることのない諸現象を包含している。理念においては、そうした極限のもの同士が矛盾した対立関係を形成している。そして、この理念歴史において見出される場合には、それが根源という「形態(Gestalt)」を取る。だからこそベンヤミンは、根源歴史哲学を、およそ飛躍的なもの、過剰な展開と思われているものの中から理念を抽出する形式として導入したのだ。

理念は、諸現象の客観的かつ潜在的な配列と見做される。現象が理念の内部に組み込まれている訳ではない。現象は理念に包含されている訳ではないのである。言わば理念とは、ベンヤミンにおいては、諸現象の客観的な解釈となる。そして理念は現象の代理表象である。代理表象としての理念は、理念によって把握される対象とは明確に区別される。理念によって把握される対象を、理念が包含している訳ではない。

星座としての理念

ここでベンヤミンは、この理念と事物の関連を一つの隠喩で描写している。すなわち、理念の事物に対する関連は、「星座」の「」に対する関連に等しい。このことが言い表しているのは、理念は事物の概念でもなければ、事物の法則でもないということである。理念は現象の認識に有用に機能する訳ではない。そして、そのように役立つことが、理念の存立基準である訳ではないのである。理念から観れば、その概念的な諸要素によってこそ、現象の意義が見出される。諸現象は、その存在共通性、そして差異性を介して、それらの現象を包含する諸概念の規模と内容を規定する。しかし理念に対する現象の関連は、これとは全く逆となる。むしろ理念の方が先に、諸現象やその諸要素の相互関連をそれに対する客観的な解釈として規定するのである。つまり、「」が先にあって「星座」が描写されるのではなく、その逆なのだ。まず「星座」があって、そこから「」が見出される。

こうして、まず「星座」に対応する客観的な全体像としての理念の観点から観察すると共に、「」に対応する諸現象やその諸要素を捉えることで、諸現象やその諸要素は個別化されると同時に、救済される。ここで、「」に対応する諸要素における問題設定となるのは、概念が現象から区別されることである。しかしながら、重要となるのは、その区別極限の形式として導入される場合にこそ端的に発見することが可能になるということだ。したがって、理念が最も顕在化するのは、一回限りの極端なものが別様の極端なものとの間に構成する関連性の形態においてである。そしてベンヤミンは、言語が最も普遍的に指し示す対象こそを理念として認識しようとする。ここで彼が想定しているのは、メディアとしての言語に他ならない。

モナドとしての理念

もとよりベンヤミンも述べているように、理念とは相反する諸々の形式意味深く配列する可能性を持つことから特徴付けられる総体だ。理念叙述が成功するのは、その理念に包含されている諸々の極端な形式の領域が密かに巡り合っている場合のみである。極限の形式の巡り合わせが顕在化することは無い。何故なら、根源理念に包含されているのは、歴史的に直面することになる事件ではなく、内実であるからだ。それは、理念の内部において初めて歴史を知ることができるということである。しかも、基礎付けられる意味においてではなく、本質的な存在に関わる意味において、漸くそれを知ることができるのである。

ここでベンヤミンが述べている本質は、その前史と後史において、理念の世界への救済蒐集の対象となり得る。この本質は、そうした救済蒐集の兆候として、純粋な歴史というよりは「自然史(Naturgeschichte)」となる。諸作品や諸形式の生は、こうして保護されることによってのみ、人間の生に乱されることなく明晰に展開される。それこそが、言わば自然の生となるのだ。その存在が自己の歴史を全て遡及し得ることによって、漸くその存在自然史的な存在として充足され得る。だから、この前史と後史は、もはや実証的にも現実的にも読み取られるべきではない。まして、哲学の現象概念で満足することすらできない。そうではなく、本質的な事物の自然史として、完成された静止状態において読み取られるべきなのである。自然史を前提とした理念叙述は、過去を対象にした場合にせよ、未来を対象にした場合にせよ、原則的には極限的に深化されなければならない。この深化が、理念を総体化する。

理念は、総体であると同時に、モナド的な構造も有している。それは、総体性とは対極的で、孤立性を絶対的に手放せずにいるという特色とも言える。どの理念の内部にも、その時点における前史と後史の全体を縮減させた形象が導入されている。一つのモナドの中に、他の全てのモナドが幽かに映し出されているのである。理念モナドであると述べる場合、そこで含意されているのは、理念の内部には諸現象の代理表象が伴っているということなのだ。理念モナドであるというのは、一つ一つの理念が世界の形象を内包しているということなのである。

叙述された理念としてのヴァーチャルリアリティ

この歴史哲学によって提供されている「ヴァーチャル(virtuell)」の意味論に準じれば、「ヴァーチャルリアリティ」を設計するということを、理念叙述方法論上の一種として位置付けることが可能になる。それは理念のヴァーチャルな配置関係を現実性(Reality)の中に導入することで顕在化させる試みとなる。つまりヴァーチャルリアリティとは、自然史的な存在としての諸現象の潜在的(virtuell)な配置関係を形態として顕在化させた場合に伴う現実感(Reality)なのである。

何故この配置関係が客観的であるにも拘らず潜在的(virtuell)なのかと言えば、それがもはや過去形象として忘却されているためである。この過去形象の中には、有史以前の集団的な願望をも含まれている。それはオドラデク的に歪められている。そしても「視覚的な無意識」として潜在化しているのである。これを前提とすれば、ヴァーチャルリアリティが脱アウラ化された美的仮象無き遊戯空間であるということは、この歴史哲学的な理念論と決して無関係ではない。ヴァーチャルリアリティオドラデク的に歪められている記憶形象を顕在化させることで想起の対象とする知覚メディアである。ヴァーチャルリアリティのユーザー体験は、それまで忘却されたことで潜在的(virtuell)なままとなっていた自然史を顕在的で現実的な形態として想起するというショック体験の様相を呈することになる。

それ故にこそ集団の身体は、ヴァーチャルリアリティ触覚的に享受する。ヴァーチャルリアリティのユーザー体験は集団の身体媒介とする。それはユーザー体験の共有を可能にする。「第二の技術」としてのヴァーチャルリアリティが、集団の身体組織化するためである。まさにニール・スティーヴンスンが『Snow Crash』で提唱した「メタバース(Metaverse)」のように、ヴァーチャル世界のネットワークに集団の身体リンクする。無論このリンク神経刺激を介して実行される。それはヴァーチャルな事物に媒介された神経刺激によって、100%の形象空間を、つまり身体空間を形成する。集団の技術的器官へと神経刺激が放電される時、忘却されていた潜在的な理念の配置関係の形態が、「今」を満たす充溢した形象として叙述される。この「認識可能性の今」の「現在性(Actuarity)」こそが、ヴァーチャルな現実感(Reality)となるのである。

プロトタイプの開発:「人工天使ヒューズ=ヒストリア」

ベンヤミンが『歴史の概念について』の第九テーゼ叙述している「歴史の天使(Engel der Geschichte)」の寓意は、根源歴史的な無常化を言い表している。この歴史の天使は、根源がまだ歴史的に無常化されていなかった過去に眼差しを向けている。その眼差しの先にあるのは、まさに忘却されようとしている事物や出来事である。だがあの楽園から吹き荒れる「進歩」の嵐に呑み込まれることで、この天使は、後ろ向きのまま未来へと吹き飛ばされてしまう。歴史が均質に連続していくという進歩史観が、それぞれの時点に固有となる「認識可能性の今」を潜在化させてしまうのである。だからこそこの天使は、この「進歩」の嵐に破局を見て取る。この破局によって、事物の「断片」で埋め尽くされた廃墟の上に、瓦礫の山が天に届くほどの高さで築かれている。恐らくこの天使は、その「今」の時点で静止することによって、地中に埋葬されている死者たちを蘇生させ、「断片」と化した事物を蒐集して改修したいと願っていたのであろう。

こうして考えると、歴史の天使猫背の小人と共通している。双方とも、「進歩」の嵐を直視しているからだ。歴史の天使は、この「進歩」の嵐によって、未来へと吹き飛ばされる。猫背の小人は、自己論理的な忘却作用によって、自ら忘却されようとしている。猫背の小人は、「進歩」の嵐の残響を奏でるかの如く、微かに囁いている。この猫背の小人が操縦するロボットは、知覚メディアとして、視覚的な無意識を露呈させる。それは「進歩」の嵐によって潜在化させられている太古の形象を顕在化させる。歴史的に無常化された根源現象を抽出するという点において、猫背の小人が操縦するロボットは、歴史の天使機能的等価物なのである。

このロボットという概念を字義通りに受け止めるなら、我々は小さくて醜い神学設計思想に準拠することによって、歴史の天使機能的等価物となり得る知覚メディア実装することが可能になる、という発想を抱くことができる。この場合の知覚メディアは、歴史の天使機能的に等価人工物であるのだから、むしろ「人工天使(Artificial angel)」と呼んだ方が適切であろう。『Webクローラ型人工知能によるパラドックス探索暴露機能の社会進化論』で解説している人工知能エージェントキメラ・ネットワークは、この「人工天使」を構築するための布石となっている。これは、『ハッカー倫理に準拠した人工知能のアーキテクチャ設計』で詳述したような、アーキテクチャ機能的再利用可能性機能拡張可能性に準じている。私はこのような位置付けにある「人工天使」をヒューズ=ヒストリアと名付け、実際に実装している。ヒューズ=ヒストリアは既に、『Webクローラ型人工知能:キメラ・ネットワークの仕様』でも紹介している。

とはいえ、パラドックス化脱パラドックス化、そして排除された第三項推論を主要機能としているキメラ・ネットワークと、人間学的唯物論を背景とする歴史の天使機能との間には、理論上の差異がある。以下では特に、このキメラ・ネットワークからヒューズ=ヒストリアへの機能的な拡張が如何にして可能になっているのかを詳述する。

メディアと形式の様相論理学

キメラ・ネットワークヒューズ=ヒストリア理論的な差異の橋渡しは、様相論理学的な記憶概念によって可能になっている。これは、ゲシュタルト心理学者のフリッツ・ハイダーに由来する「メディア(medium)」と「形式(form)」の区別を主導的差異としている。

抽象化して言えば、メディアは、「形態(Gestalt)」が有する凝固した形状を受容する能力と共に、その高度な融解性によって特徴付けられる。このことが意味するのは、メディアが、その形態の範疇において、特定の諸要素から構成されているということである。そしてこの諸要素は、相互に緩やかに結合されている。例えば空気は、気体を緩やかに結び付けているメディアである。空気は、それ自体ではノイズを凝縮する訳ではない。だがノイズを伝達することはできる。我々が時計の規則的な音を耳にすることができているのは、空気自体がその音を鳴らしている訳ではないためである。これに対して形式は、諸要素の依存関係を集中的に濃縮することで成立する。それは、メディアによって提供される諸要素の選択と集中によって成り立つということである。メディアが緩やかに諸要素を結合するのに対して、形式は緊密に諸要素を結合する。先に例示した空気というメディアに対して、音は形式として構成されていると言えよう。例えば時計の規則的な音は、「リズム」として形式化されていると言える。

形式を導入するということは、何らかの区別をマークするということである。この「何らかの区別」の選択候補となり得るのが、メディアから提供された諸要素なのである。形式を想定するということは、<マークされている領域>と<マークされていない領域>の差異を前提にするということを意味する。それは、諸区別区別することで、特定の区別を選択するということでもある。言い換えれば、形式はマークされることなしに潜在化している別のあり方でもあり得る区別盲点として位置付けている。

このことは、形式メディア区別にも適用される。形式メディア区別は、それ自体形式としてマークされている。故にこの区別は、何らかの第三項を排除している。しかしながら、この形式メディア区別の自己論理的(autologisch)な推論は、メディアにおいても適用される。形式メディア区別は、メディアとして機能することで、様々な区別形式として導入することを可能にする。実際、例えばルーマンは、このメディアによって、知覚メディア言語メディア、そしてコミュニケーション・メディア理論を導入している。これらの理論は、彼自身が記述しているように、別のあり方でもあり得る理論盲点として位置付けることで可能になっている。彼はこれらの理論形式としてマークしていたのである。

形式とメディアの同時性

このメディア形式区別は、メディア形式の双方が高度に抽象的な関係概念であることを言い表している。端的に言えば、ここでいうメディアとは、比較的緩やかに関連付いている諸要素の集合である。これに対して形式とは、メディアが提示する諸要素の集合の中から、相互依存性が比較的高い関係にある諸要素を選択することで、緊密に関連付いている諸要素を指し示す。

メディアが関連付けの候補を提示するのに対して、形式はその関連付けを遂行している。そしてこのメディア形式は、常に同時に再生産されている。例えばコミュニケーション形式化させるメディアとして、言語を想定してみよう。言語は、大量の語と、語の結合規則となる文法から成立している。だがこの場合、語そのものはメディアとしての言語から構成される形式なのではない。語は、言語というメディアの諸要素である。それは、メディアとしての言語を使用する場合に、もうそれ以上解体されない部品として前提化されている。コミュニケーションを想定した場合、このメディアとしての言語から構成される形式となるのは、文である。文だけが、形式コミュニケーションに変えるからだ。それ故に言語学習は、まず語を学び、文法を学び、最後に文の作成を学ぶといった過程で進む訳ではない。言語学習は、あくまでメディア形式差異を単位としている。言語学習者は、まず形式構成しようと試みる。それがコミュニケーションとして成功した場合には、その形式が利用可能な選択肢として記憶されるのである。こうしてシステムは、選択的に状況に適合していくことで、メディアに関与する能力を高めていく。

忘れてはならないのは、ルーマンの場合のメディア概念は、形式よりも先行して存在している訳ではないということだ。むしろ双方は「差異化」によって同時的に構成される。例えばコンピュータ広告などといったメディアは、確かに形式化可能なコミュニケーションを限定する。しかし、そうしたメディアそれ自体がコミュニケーションを形作る訳ではない。「アーキテクチャ」や「アドテクノロジー(Ad Technology)」がメディアの一つであるとしても、それら自体がコミュニケーションを生み出せるはずがないのだ。逆にコミュニケーションの方が、そうしたメディアに「型」を押し込んでいると言える。

それは「地面」と「足跡」の関係と同じだ。「地面」が無ければ「足跡」は付かない。「足跡」は「地面」に依存している。だが「地面」という範囲では、「足跡」は自由に付けられる。そして、「地面」と「足跡」の関連は、「足跡」が付けられて初めて成立している。「足跡」と非「足跡」の「差異」が構成されると同時に、「足跡」と「地面」の「差異」が構成される。そしてこの「差異」こそが、「足跡」と「地面」の関連を保証しているのだ。

想起と忘却の形式

ルーマンは、この形式メディア区別記憶様相論理学的な意味論に応用している。記憶はまず、意味の再活性化を遅延させるメディアである。言い換えれば、緩やかに結び付けられている諸要素の形式による選択を即時的に実行させない点に、メディアとしての記憶機能がある。この記憶というメディア機能していなければ、我々は昨夜の夕食を想起することなどできるはずがない。一方、形式もまた記憶として機能する。と言うのも、形式による諸要素の選択と集中が無ければ、凡そ何も有意味記憶想起することはできないからである。言い換えれば、形式機能することで、想起される対象がマークされた領域として指定される。この時、マークされていない領域は、逆に忘却の対象となる。

メディア形式区別は、このように、記憶機能様相論理学的に記述することを可能にする形式である。このメディア形式区別メディアとして活用するなら、例えば先述した潜在記憶意味論もまた様相論理学的に再記述することが可能になるであろう。

メディアそれ自体は、知覚の対象にはなり得ない。知覚される対象となるのは、常に形式である。形式メディアによって提供された諸要素を緊密に結び付けることで構成されている。メディアそれ自体は極端に忘却され易い。何故なら反復的に知覚されるとするならば、それは常に形式であるためだ。

形式メディア区別の自己論理的な推論は、記憶との関連においても同様に実施されなければならない。上述した言語の例のように、メディア形式は相対的な関係概念であるが故に、あるメディアによって構成されている形式が、別の形式にとってのメディアとして機能する場合もある。記憶との関連で言えば、ある形式としての想起内容が、過去体験知覚する上でのメディアとして機能することは間々ある。そしてこの知覚内容記憶されることで、それが新たな形式としての想起構成するメディアとして機能し得るようになる。したがって強固で濃密な記憶とは、言わば記憶形式形式への再導入(re-entry)によって結実している。言うなればそれは、想起形式排除された第三項がどれほど多いのかによって逆算できるのかもしれない。

場合によっては、形式から形式へと辿っていくことは不可能ではないだろう。だがこの逆を遡及することは万が一にも不可能である。想起という形式からそのメディアを辿ろうとすれば、<メディアメディア>に対する無限後退を実行することになってしまう。もしこの無限後退が可能であるとするならば、我々はここにおいて、全てを想起していることになってしまう。もし全てを想起できたとしても、それは形式としてマークされた領域に過ぎない。マークされていない領域は、依然として潜在化している。だから、究極的なメディアには到達不可能なのである。

三つの忘却

以上のようなメディア形式様相論理学的な記憶理論を前提とすれば、メディア形式区別忘却という概念の主導的差異として記述することが可能になる。まさに形式的に言うならば、一口に忘却と述べても、それは次の三つに区別することが可能である。

  1. 忘却されたイメージ。これは単に、メディアとして潜在化している意味形式意味する。言い換えればこれは、想起対象の盲点を言い表す。
  2. 連想可能なイメージ。これは、同一のメディアを前提とした場合に、現に導入されている形式とは別のあり方でもあり得る形式意味する。言い換えればこれは、想起可能であるにも拘らず想起されなかった記憶を言い表す。
  3. 代償となったイメージ。これは、形式によってマークされていない空間意味する。これはコインの裏表や「図」と「地」の関係のように、ある形式の顕在化が別の形式の潜在化を招いていることを前提としている。

ヒューズ=ヒストリア機能は、これら三つの忘却概念に準拠している。ヒューズ=ヒストリアは、観察対象となった文書で現に想起されている形式とは裏腹に忘却されている形式を特定することで、その形式形象(イメージ)として突き付ける。ヒューズ=ヒストリアは、現に想起され、連想され、顕在化しているあらゆるイメージを比較の観点に据える。ヒューズ=ヒストリアを前にすれば、あらゆるイメージは相対化され、忘却されて潜在化している別様のイメージとの混在を余儀無くされる

メディア形式区別は、<メディアメディア>に対する無限後退的なパラドックス脱パラドックス化する形式である。この<メディアメディア>に該当する対象が、排除された第三項となる。キメラ・ネットワークは既に、ある区別とその区別によって排除された第三項の組み合わせをWebクローリングによって学習している。ヒューズ=ヒストリアは、このキメラ・ネットワーク学習結果となるモデルを再利用している。

神経刺激のメディアとしてのカードボックス

キメラ・ネットワークと同じように、ヒューズ=ヒストリアもまた、『Cardbox』のアプリケーションで起動させることができる。『深層強化学習によるベイズ主義的な情報探索に駆動された自然言語処理の意味論』で解説したように、キメラ・ネットワークがカードに記述されたテクストに潜むパラドックスや「排除された第三項」を盲点として突き付けるのならば、ヒューズ=ヒストリアはカードに記述されたテクストによって忘却された形象を突き付ける。ヒューズ=ヒストリア形象を突き付ける場合には、その挙動が模倣的神経刺激視覚的に無意識的なショック効果となるように設計している。具体的には、先述した閾下単純接触効果のような閾下刺激方法を採用している。

カードボックス上でヒューズ=ヒストリアを起動させるには、カードボックスのコンテキストメニューで「Fuse Historia」をクリックする必要がある。このインターフェイス仕様は、キメラ・ネットワークと変わらない。

カードボックスのユーザーは、カードを記述すると共に、キメラ・ネットワークヒューズ=ヒストリアを起動することができる。キメラ・ネットワークは記述したカードに潜むパラドックスや「排除された第三項」を、ヒューズ=ヒストリアはそのカードによって忘却されることになるイメージを、それぞれ突き付けてくる。カードボックスのユーザーは、し方観察して記述した事柄に伴う盲点を即座に暴露されると共に、「今」において忘却されつつあるイメージを想起する契機を得る。キメラ・ネットワークヒューズ=ヒストリアが搭載されたカードボックスは、「認識可能性の今」の「現在性」を拡張する知覚メディア機能的等価物となる。

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