ヴァーチャルリアリティにおける動物的「身体」の物神崇拝的なユースケース

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派生問題:生命の「脱医療化」は如何にして可能になるのか

以上のような医療機器バイタルサイン歴史意味論医療システム社会構造との関連から観察してみると、通信工学制御工学の技術的発展が臨床医療すらもコード化してしまうというハラウェイの想定は、誤りであることがわかる。しかし、医療システム社会構造を俯瞰するなら、医療システムと科学技術の関連には問題が派生していることがわかる。

近代社会の「医療(Krankenbehandlung)」に関連する科学技術の進歩によって、我々の健康と衛生は何度も改善が施されてきた。水の浄化、幼児死亡率の低下、ペストの無力化、サルバルサンによるトレポネーマ療法、梅毒予防、インシュリンによる糖尿病への対処などは、近代医療進歩象徴する出来事になっている。こうした発展を受けて、遅くとも1920年代までには、病院に勤める医療専門家たちが呪医や民間医療よりも優先されるようになった。

しかし文明評論家のイヴァン・イリイチも指摘している通り、この医療技術の発展によって、人間医療の関わりは二つの意味で抜本的に変化することになった。第一に、「病気」や「治療」の定義が医学的に規定されるようになったことである。そして第二に、医学の進歩によって、より有用な医療処置を期待する公衆が現われたことである。これに連なり、医療近代社会機能システムとして定着することとなった。この医療機能的な分化は、病院という組織システムにおける医師という専門家人格によって、医療技術が過剰に独占されるという事態を招くことになった。ひとたび専門家としての医師という人格が推奨されるようになると、医師という人格への「社会化(Sozialisierung; Socialization)」が期待されるようになる。

こうした医療システム近代社会包摂されてきたのは、それが近代社会の産業主義においても間接的に有用となったからである。と言うのも医療進歩によって、諸々の組織システムに属する構成員たちの欠勤を減少させることが可能であったからだ。医療は、他の機能システム組織システムとの共犯関係を築き上げることによって、近代社会における機能システムとしての地位を確保してきたのである。

だがこの医療の発展は、副作用なしにはあり得なかった。イリイチも指摘しているように、1950年代には医原病が発見されることになった。薬剤耐性菌の発現やエックス線照射による遺伝子損傷が、この具体例となる。医原病は患者に優れた医療を施しているという医師の自惚れから生じたと、酷評することもできよう。医療から派生した莫大な被害を食い止めるために、社会は巨額の損失を被ることになったからだ。裕福な者たちは医原病への処置のためにますます医療に依存せざるを得なくなった。肥大化していく医療費を支払うことのできない貧しい者たちは、単に医原病に苦しむことになる。皮肉なことに、医療進歩が逆に病気を派生させてしまったのである。

イリイチの洞察に依拠するならば、医療危険な状態にしてしまったのは、医療を制度化させた病院という組織システムであったということになる。病院によって、医療は制度化されたツールになってしまった。このことをイリイチは医療システムにおける「生命の医療化(medicalization of life)」と呼んでいる。イリイチによれば、我々が問うべきなのは、言わば「脱医療化(demedicalization)」が如何にして可能になるのかなのだ。

問題解決策:ウェルネス

医療機器との関連で言えば、自律的な共生(Conviviality)を重視するイリイチの「脱医療化」は、医療専門組織によって「独占」されてしまっている医療機器をコンヴィヴィアルなツール(Convivial tools)として「再利用」することで実現していくということになる。これを前提とすれば、元来医療機関によって事実上独占されている医療機器を応用することで、日常生活のバイタルサイン蒐集と分析を実践していくという着想は、イリイチ風に言えば自律的な共生なのかもしれない。

しかしこのバイタルサインに対する取り組みと「脱医療化」の必要性との間には、まだ乖離があるかのように思える。と言うのも、他ならぬ医療機関の側からも、医療機関に縛られない広汎に渡る健康促進が呼び掛けられているためだ。

ウェルネス(Wellness)」という概念は、このことの一例として取り上げられる。今日ウェルネス形式を正しく評価するには、それぞれの病理の専門家たちの考察だけでは、もはや十分ではない。「ウェルネス」の概念を提唱したハルバート・ダンも、「健康(Health)」とは、単に身体的で精神的に良好であるだけではなく、社会的にも良好な状態も含意すると述べていた。それ故、ウェルネスを論じるためには、病理の社会的な背景を見抜くことができる医療社会学的な考察も不可欠となるのである。

ウェルネス」の概念は、世界保健機構(World Health Organization : WHO)が定義した「完全に良好な状態(Well-being)」の概念を積極的に多元化した概念である。ウェルネスを追求していく上での水準は、「健康水準」と「環境水準」に区別されている。健康水準は、「ピーク・ウェルネス(Peak Wellness)」から「死(Death)」へと伸びる横軸に、環境水準は「とても良好な環境(Very Favorable Environment)」から「とても良好ではない環境(Very Unfavorable Environment)」まで伸びる縦軸に、それぞれプロットされる。健康水準と環境水準が共に高い時、健康状態は「高次のウェルネス(High-Level Wellness)」を示す。健康水準のみが高い場合、「新興の高次のウェルネス(Emergent High-Level Wellness)」となる。環境水準のみが高い場合、「保護された乏しい健康(Protected Poor Health)」となる。両者が共に低い場合、単なる「乏しい健康(Poor Health)」となる。

ただしウェルネスは、健康目的化したものではない。それはあくまで、よりよく生きるための手段なのである。それ故ウェルネスにおける「健康(Health)」とは、単に身体的で精神的に良好であるだけではなく、社会的にも良好な状態を意味する。ウェルネスは、「健康の改善」のみならず、「病気の予防」も視野に入れている。

ウェルネスと医療の差異

ダンによれば、西洋の近代社会では、「人間」を身体、心、精神へと分割して考える傾向にあった。外科と内科などのように、人間を部分に分割し、その部分のそれぞれを対象とした専門領域へと医療分化していったのである。しかしウェルネスにおいては、逆に身体、心、精神の調和が目指される。ウェルネスのもとで観察される「人間」は、「総合的な環境に位置する生命統一体(a unity living within a total environment)」なのであり、その評価対象となるのは、「個人のウェルネス(wellness in the individual)」なのである。したがってウェルネスは、基本的に専門分化とは抗う立場にある。

ウェルネスの概念が指し示すのは、社会的な状況の中で、「生活の質(Quality of Life : QOL)」を追求していく活動の指針を提供している。その主導的な研究テーマとなるのは、スポーツ、レクリエーション、福祉、医療、栄養、教育運動のみならず、心理や宗教も含まれる。したがってウェルネスには、医学の範疇からは逸脱した疑似科学(pseudoscience)的な要素が含まれている。ウェルネスを通じたコミュニケーションは、純粋な医療と言う専門領域からは外れている。それは、近代社会機能的に分化した医療システムにおける医療的なコミュニケーションではない。

医療に有用な病人という人格

医療という機能システムは、医療的な問題の解決に特化している。そのため、医者であれ患者であれ、医療的なコミュニケーションに参与する者たちは、全て「医療問題解決に有用な人間」として期待されることになる。医療社会学に多大な貢献を果たしたタルコット・パーソンズが述べているように、患者さえも「病人役割(sick role)」という機能を担うことになるのだ。

パーソンズに倣えば、病人役割は四つに区別できる。第一に、正常とされる社会的な役割の責務を担わないことである。病人の責務の免除は、他我による正当化によって可能になる。この正当化を果たすのは、主に医師だ。病人本人による正当化では、病人本人の業務を軽減することはできない。そうでなければ、「仮病」という非道徳的な振る舞いを放置することになるからだ。概してこの責務からの免除は、同時に病人自身に新たな社会的役割を付与する。つまり安静にすることで、社会的な復帰を成し遂げようとすることが、病人の社会的な役割なのである。

第二の役割は、端的に言えば、大人しく看護されるという役割である。病人は、医師たちと共に力を合わせて病気と奮闘するほど意気込まなくても良いことになっている。それ故に病人たちは、正常とされる社会的な役割の責務を免除される同時に、病気を治すという医療的な問題解決の責務の負担からも解放されているのである。病人は、自力で回復することの負担も軽減されているのである。その代償として、病人は大人しく寝ていなければならないのだ。

第三の役割は、回復する義務である。病人が仕事を休めば、周囲の同僚たちがその仕事を引き受けている場合が少なくない。周囲の同僚からすれば、余分な負担を背負わされていることになる。この余分な負担が、その病人が一日も早く回復することを願う理由の一つとなっている。周囲の人々に迷惑をかけないためにも、病人の「回復する権利」は、「復帰する義務」と表裏一体でなくてはならない。

最後に、第四の役割は、第一から第三の役割を念頭に置いた上で、医療システム専門家たちと協力する義務である。患者は、極力医者の言うことを聞かなければならない。医者の話を問答無用で却下してしまっては、医療的な問題解決が成り立たなくなってしまう。

ウェルネスを主題とした闘争

こうしてみると、医療システムにおける患者は、病人としての役割を担うことになる。医者はもとより、患者の治療という役割を担う。病人らしく振る舞わない患者は、医療システムの円滑な遂行を妨害してしまう。医療的な問題解決を重視するなら、医者も患者も医療における機能的な人間関係を築き上げることで、形式的なコミュニケーションに終始するしかない。

しかしその一方で、医療という機能システムに還元され得ないウェルネスを前提とした場合、医者と患者は全く別様の人間関係を形成することになる。ダンの積極的な定義に倣えば、ウェルネスとは、医療という機能システムには還元し得ない。それは一つの闘争である。

「ひとたび健康の目標としての高次のウェルネスの概念が、結晶化し、自身の評価参照のポイントによる多くの心的な貢献によって充実化すると、人間と社会のウェルネスのための闘争が開始されるだろう」。
Dunn, Halbert. (1959) “High-Level Wellness for Man and Society,” American Journal of Public Health, Vol. 49, No. 6, pp786-792. 引用文については、p790を参照。

このダンの予期が意味するのは、健康の目標が設定されている場合にこそ、健康を巡る人間と社会の闘争が勃発するということである。その闘争はあくまでも医療における機能的な人間関係ではなく「個人のウェルネス」を重視する。そしてそのウェルネスの活動は、医学的な専門知識のみならずレクリエーションや教育宗教までも含意する。それは病院という組織システム専門家としての医師に有用な病人としての役割を引き受けるだけには留まらない。「個人のウェルネス」を重視する者は、自ら医療をはじめとした社会システム闘争する姿勢を維持する。その姿勢が医療システムに還元されることはない。ウェルネス闘争は、むしろ医療という機能システムや病院という組織システムと対立する「運動」としての性質を有しているのである。

問題解決策:治療とエンハンスメントのパラドックス化

医療システム観察している人間身体意識は、医療システムのみならず、経済システム、科学・学問システム宗教システムなど、様々な機能システムによって観察されている。複製技術医療機器観察時の知覚メディアコミュニケーション・メディアとして機能する場合、必ずしも医療的なコミュニケーション形式的に構成されるとは限らない。病院外でも日夜バイタルサイン蒐集を可能にするウェアラブルデバイスをコンヴィヴィアルなツールとして活用すれば、イリイチが主張する医療化から脱した状態で、医療的なコミュニケーションを実行することが可能になるかもしれない。つまり、病院という組織システムに依存することなく、医療的なコミュニケーションを実行できるのである。

しかし、この病院の外部で実行される医療的なコミュニケーションは、不確実性が高いと推論できる。病院という形式としての組織システムが可能にする「不確実性の吸収」の機能を前提とすれば、組織システムの意思決定は、事前の意思決定を前提とした上で、事後の意思決定の前提となる。それは事実上の前提となる場合もあれば、価値の上での前提となる場合もある。そうした意思決定は、言わば別のあり方でもあり得る選択肢を否定すると同時に、特定の選択肢だけを指し示す。医療という機能システムは、病院という組織の意思決定に従事することによって、直面している不確実で膨大な選択肢を吟味することの負担から免除される。実際、医師の診断書と処方箋が無ければ得られない薬物は多聞に及ぶ。医師免許を持った専門職の組織でなければ扱えない医療機器も数多くある。

この場合の医療システムの不確実性の高さは、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア理論からも説明できる。他の機能システムとは異なり、医療システムには、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアが無い。学問、政治、経済、家族、宗教などのような機能システムがそれぞれコミュニケーション・メディアを利用することができているのは、これらの機能システムが、あくまで自己自身に準拠する過程としてコミュニケーション構成しているからだ。言い換えれば、コミュニケーション・メディア機能が満たされるのは、あるコミュニケーションにおける選択が後続のコミュニケーションにおける前提となる過程に限定される。

逆に言えば、物理的であれ、化学的であれ、生物学的であれ、あるいは意識精神に関与する営みであれ、システムシステム外部環境変異させることを問題設定とした機能システムにおいては、コミュニケーション・メディアは獲得され得ない。ある社会システムにおけるコミュニケーション・メディアはあくまでもそのシステムの内部で構成されている。決してコミュニケーション・メディアは、あるシステム外部環境を接続させるインターフェイスなのではない。だからこそ、医療などのような領域では、コミュニケーション・メディアは発見されないのである。医療は、社会システム外部環境としての人間身体心理システム変異させる機能を担っている。医療という機能システムは、コミュニケーション・メディアによる負担軽減に肖ることなく、医療的な問題を解決していかなければならない。

医療システム二値コードは「健康(gesund)」と「病気(krank)」の区別である。通信工学制御工学に駆動されたコミュニケーションであっても、病院の外部で展開されているコミュニケーションであっても、それが健康病気二値コードに準拠しているならば、全て医療システム機能的等価物である。

しかしながら、サイボーグ技術をはじめとしたトランスヒューマニズム的な科学技術は、この二値コードによって排除された第三項を顕在化させている。いわゆる「治療(treatments)」と「エンハンスメント(enhancement)」のパラドックスは、この二値コード排除された第三項同時的に観察されることで発現している。医療的なコミュニケーションは、情報工学制御工学実装された医療機器やそれらと機能的に等価な諸々のツールによって、もはや病院の内外に拘わらずに展開されている。だが象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアを持たない医療システムにとって、医療的な問題解決の成果を次の機会にも一般化して冗長的に再利用することは比較的困難である。その結果、それまで通用していた病気から治療へと変換する医療システムの作動が、他の二値コードに従事する機能システムによって棄却される隙が生まれ易くなっているのだ。

認知的エンハンスメント

機能的に言えば、エンハンスメントは、治療目的ではない医療技術の機能的な再利用である。それは健康の維持や回復に必要とされる以上に人間身体精神形態機能を改善しようという介入でもある。

その一例となるのが、ボストロムも取り上げている「認知的エンハンスメント(Cognitive enhancement)」であろう。認知的エンハンスメントは、内部あるいは外部の情報処理システムの改善(improvement)または増強(augmentation)を通じた心の核となる能力の増幅(amplification)または拡張(extension)を意味する。一方、認知とは、生物が情報を整理するために使用する過程であると定義できる。これには、知覚による情報の取得、注意による情報の選択、理解による情報表現記憶による情報の保持、そしてモータ出力の推論と調整による行動の推論が関わる。認知的エンハンスメントは、こうした認知システムの中核能力のいずれかを対象とした強化となる。

長らく物議を醸したのは、遺伝的な認知的エンハンスメントである。遺伝子改変(Genetic Modifications)には未だに優生学が暗い影を落としている。「人間」の「尊厳(degnity)」なる概念を主題とした政治学者たちの論争や、この闘争を遡及した法システムなど、数々の機能システムコミュニケーションが既にこのエンハンスメント問題視している。

しかし認知的エンハンスメントに含まれるのは、医療介入だけではない。認知を補佐する外部の技術的および制度的な構造を改善することもあれば、学習済みの技術や精神的な戦略をはじめとした心理的介入も含まれる。しかし認知機能の顕著な特徴となるのは、単に狭く定義された技術や分野固有の知識だけではなく、まさに中核となる認知能力を向上させることにある。

認知的エンハンスメントのための大多数の努力は平凡である。認知的エンハンスメントは旧くて新しい主題なのである。特定の技術や情報を伝承することよりも、集中力、記憶力、批判的思考力などのような一般的な精神的能力を向上させるカリキュラムで進められる教育訓練は、まさに認知的エンハンスメントとして機能している。他にも、ヨーガ、武道、瞑想など、精神訓練の形態においても認知的エンハンスメントが実践されていると言えよう。また身近な嗜好品となるカフェインは、機敏性を改善するために広く使用されている。ハーブは記憶力を高めることで有名だ。

認知システムの特定の病理や欠陥を治療することを目的とした介入は、治療薬によって特徴付けられる。拡張とは、特定の機能不全を修復するのか、修復とは別の方法でサブシステムを改善する介入となる。実際、治療と強化の区別は、しばしば識別するのが困難となる。ましてこの区別には実用的な意義は無いと主張される場合もある。たとえ同じ瞑想であっても、精神療法方法として実践されれば、それは治療として機能する。一方、認知的エンハンスメントを目指した瞑想も十分実践可能であろう。要するに、素朴に纏めてしまえば、治療と強化は目的次第でその意味が変わり得る手段として観察されているようだ。

類倫理的検討

ユルゲン・ハーバーマスは、エンハンスメントを可能にするバイオテクノロジーに対して生命倫理学的な指針を提言している。多元的な近代世界では、倫理的な概念は文化や共同体によって異なる。だが、「類」としての人類の立場から道徳的な判断を下す「類倫理(Gattungsethik)」が存在するという仮定から、ハーバーマスは生まれ出づる子供遺伝子を操作することの道徳的な意味を分析している。

ハーバーマスは、ヒト胚の遺伝子を改変する技術、着床前診断、ヒト胚性幹細胞を用いた研究など、治療目的を逸脱した実に様々な技術に対して規制を呼び掛けている。ハーバーマスが取り上げたこれらの技術は、遺伝的な認知的エンハンスメントのみならず、デザイナー・ベビーや消極的優生学など、治療目的外の応用が可能な技術ばかりだ。各技術は、その応用次第で、一方ではある形質を発現するように誘導するための遺伝子組成を人為的かつ人工的に変化させる行為に結び付く場合もあれば、他方ではある形質を予め備えた子供人為的かつ人工的に生み出す行為に結び付く場合もある。

ハーバーマスがバイオテクノロジーの規制を呼び掛けているのは、国家による優生学的な措置の強制を危惧しているためではない。彼の恐れるところを翻訳するなら、言わば「自己の歴史」の還元不可能性である。もしある形質を備えるべく人工的に設計された状態で産み落とされても、生まれてきた当の人間は自己自身のライフストーリーにおける分轄不可能な作者ではなくなってしまう。このことは、遺伝子操作によって生み出された子供が、自らの出生を振り返った場合にのみ起こり得る問題なのではない。まさにこのライフストーリーの作為的な設計者の存在こそが、その子供の歪曲されない未来を奪ってしまうのである。

ハーバーマスによれば、人間関係は原則的に可逆的であるべきだという。だが遺伝子操作は、これを不可逆的にしてしまう。と言うのも、ある人格が他の人格遺伝子の構成に関して取り返しの付かない決定を下せば、後の二者の間に成立する人間関係は、道徳的な相互両開ではなくなるからだ。合意形成無しに設計されて生み出された以上、その人間がその設計者と出生後も対等な関係を築くことはできなくなる。人為的かつ人工的な設計者にとって、生まれてきた者は、ある目的のための作為的な手段でしかない場合もあろう。そうなると遺伝子の操作は、道徳的な共同体の構成員たちが相互に自由で平等な関係を築く上での阻害要因となってしまう。

トランスヒューマニストたちならば、こうしたハーバーマスの危険視に対して、認知的エンハンスメント教育訓練の機能的等価性を指摘するであろう。だがハーバーマスは、遺伝子操作と教育訓練を明確に区別している。子供教育訓練に抵抗することができる。だが遺伝子操作に対しては、為す術が無い。ハーバーマスによれば、人間が道徳的な共同体の構成員として同一の権利を有するには、その身体が他の人格の作為によって製作された人工物である訳にはいかないという。これは、言い換えれば、自然発生的な身体の持ち主でなければ、構成員としては見做されないということである。

だがこのハーバーマスの道徳に対しては、遺伝子操作が実施される時点での対象は人格として形成される以前の胚であるという反論を加えることも難しくない。無論ハーバーマスはこの反論を想定しているために、遺伝工学を規制する根拠は対等な人格の関係に立脚するのではないと補足している。そして、この規制によって保護されるべきなのは人間の尊厳というよりは人間の生命の尊厳であるという。

したがって、遺伝子操作は人類としての我々の自己了解を変化させる。その結果として、法や道徳に関する近代的な価値観に矛盾を来たす。それは、社会の統一のために必要となる規範が侵されるということである。それ故にハーバーマスは、類倫理的に道徳的判断を下すことによって、遺伝工学やその他のバイオテクノロジーを生活世界コミュニケーション的行為に合わせるべきだと考えるのだ。

「人間」と非「人間」の区別

歴史の終焉後の世界を物語るフクヤマも、「人間後(ポストヒューマン)の存在」を指摘しながら、バイオテクノロジーの危険性を訴えている。バイオテクノロジーは、将来的には大きな利益をもたらす可能性が高い。だがその実、物理的には可視的な脅威であると共に精神的には不可視の脅威を派生させている。それは、「人間」という概念を変異させることで、これまで共有されていた人間性が喪失することに結び付く。遺伝エンハンスメントによって寿命を延長した「人間後(ポストヒューマン)の存在」は、遂には不死をも実現し、死にたくても死ねないままに、介護施設で暮らす羽目ににあるかもしれない。こうした未来社会を憂慮するフクヤマは、とりわけ功利主義的なエンハンスメントの推進派を批判しつつ、国家の権力による規制を呼び掛けている。

フクヤマの批判の主導的差異は、まさに「人間」と非「人間」の差異である。彼は知識や文化、風習などといったあらゆる人為的な公正物を除外して尚残り得る特性に「人間性」を見出している。フクヤマには、この特性が、人間と他の動物区別する根拠になるという想定があるのだ。「人間」という概念は、まさに非「人間」との差異を確保することで安定化していた。だが遺伝子改変などのような技術は、「人間」の中に新たな区別を導入させる。つまり、認知能力をエンハンスメントさせた「人間」とそうではない「人間」の区別だ。あるいは遺伝子操作による新生児の産み分けもまた、「人間」の中に区別を導入する営みとなり得るであろう。

意味論的に観れば、フクヤマが危険視しているのは、「人間」と非「人間」の区別の内部にこの区別が再導入(re-entry)されることによるパラドックス化である。すなわち、「人間」の内部に「人間」と非「人間」の区別が導入された場合に、「人間」の中で指し示された非「人間」が、「人間」なのか否かというパラドックスである。こうしたパラドックスは、もはやあらゆる「人間」を平等に扱うことを困難にする。

機能的等価物の探索:メディアによる身体の拡張

認知的エンハンスメント医療介入とは別様の営みにも伴い得るというトランスヒューマニストの主張は、軽視されるべきではない。医療機器として設計された訳ではない様々なツールが、作為的であれ、不作為的であれ、エンハンスメントとして潜在的に機能するからである。マーシャル・マクルーハンのメディア論は、この具体例を示している。メディア論は、広告、テレビ、写真、コンピュータなど、およそあらゆるメディアエンハンスメント機能的等価物となることを暴露しているのである。

マクルーハンによれば、中枢神経システム(Central nervous system)は、新しいメディアへの対応によって生じる痛みやストレスに対処するために、ある種の自己防衛機構を働かせている。マクルーハンは、中枢神経システム機能を様々な感覚を統合する電波網として捉えていた。この中枢神経システムを支援し、保護する器官として機能するのが、身体である。身体機能は、環境で突発した過剰刺激のショック作用に対抗する緩衝器となることである。

だが身体でも緩衝できないようなショックを受ければ、中枢神経システムに緊張が加わる。するとその負担を軽減するために、中枢神経システムは、その緊張が加えられた部分を自己の外部に排除することで距離を取る。それは恰もジグムンド・フロイトが論じるように、生命有機体が自身の表面を無機物として扱うことで、刺激から我が身を守る様に似ている。これに相当する自己分離をマクルーハンは「切断(amputation)」と呼んだ。もとより、過剰刺激を一身に受けるにせよ、自己を切断するにせよ、中枢神経システムには痛みやストレスが伴うだろう。この痛みやストレスを放置しておけば、神経システムは死滅してしまう。だから神経システムは、少なからず刺激を受けている部分については、感覚を遮断しなければならない。これをマクルーハンは、「感覚麻痺(numbness)」と名付けた。

だがその一方で切断された部分は、次第に中枢神経システムの周辺を覆うことで機能し始める。それはフロイトが言うように、有機体から分離した<より無機的な有機体>が有機体の表面で機能することと同じである。切断された部分は新たな緩衝器となり始める。つまりそれは、身体の新しい機能的等価物となるのである。

結果として言い換えれば、新しいメディアによるショック作用は、ユーザーの身体精神存在を「拡張(extension)」させるために機能していることになる。例えば衣類は皮膚の拡張だ。衣類は、外圧に対する緩衝器であるという点で、皮膚の機 能的等価物なのである。こうした身体構造拡張されると、拡張されたその部分に関して新たに知覚することが可能になる。それは言わば、拡張されたその部分に神経システムが延長しているということだ。メディア経験を新しい形式へと転換し得るという場合、マクルーハンはこの切断と拡張の表裏一体の関係を念頭に置いていたのである。

エンハンスメント(enhancement)の意味論は、このメディアによる身体拡張(extension)という概念とは区別されて記述される傾向にある。と言うのも、エンハンスメント遺伝子操作や薬物の摂取などのような具体的な営みによって実現しているのに対して、マクルーハンが説明する身体拡張という概念は、あくまでも隠喩に過ぎないとされてきたからだ。しかし、エンハンスメントの範疇を認知的エンハンスメントに限定して観れば、メディアによる身体拡張は、エンハンスメント機能的等価物として記述することができる。

ここでいうメディアの具体例となるのは、広告である。マクルーハンによれば、広告は潜在意識に催眠効果を働き掛けるための「サブリミナルな錠剤(subliminal pills)」となるらしい。だがこれは、決して的外れな隠喩などではない。

広告は、動画像やテクストの美的な形式に価値を置いている。その一貫した傾向となるのは、この美的な形式が「アイコン(icon)」として設計されているということだ。アイコンが指し示すのは、宣伝する事物の縮図に他ならない。アイコンとしての広告は、商品に関連する諸々の意味複合性を縮減した上で、圧縮された複合的な形象を展示している。それにより広告は、宣伝する商品芸術作品が社会の目的やその過程の大半に不可欠な要素であるという虚構の現実を尤もらしく誇示しているのである。

ただし、こうして圧縮された複合的な形象は、商品それ自体や社会それ自体を指し示している訳ではない。マクルーハンが述べているように、広告圧縮された情報には「モザイク(mosaic)」が掛かる。モザイクに包まれた情報は、何かを物語る訳でもなければ、解説する訳でもない。モザイクに包まれた情報は、広告を制作している者たちの集団的な形象を反映させたものである。つまり広告は、多くの人々の苦心、気遣い、試行、機知、業、技術などの代理表象となっている訳だ。

アイコンとして展示されている広告は、商品芸術作品に対する受け手個人の動機付けを調達する訳ではない。マクルーハンが述べていたように、広告は万人向けに大量生産されている。広告というメディアは、個々人に専用のメッセージを展示している訳ではない。しかし広告は、モザイク越しに、アイコンとして圧縮された意味の複合体を大衆に呈示することができる。その刺激はしばしば「閾下刺激(subliminal stimulation)」として成立する。我々が気付かぬうちに、広告のアイコンは、我々を操作し得る可能性を秘めているのである。そしてこの刺激は、「潜在記憶(Implicit memory)」を構成することによって、我々の認知能力を変異させる可能性さえ有しているのだ。

「心理学の原子爆弾」

潜在記憶歴史意味論は、閾下知覚を巡る社会構造上の様々な対立によって方向付けられてきた一方で、閾下刺激危険性を幾度と無く主題化してきた。とりわけ広告映画のような知覚メディアは、閾下刺激を呈示する機能を有している。そのためマスメディアコミュニケーションやそれを規制する法的なコミュニケーションが、潜在記憶閾下知覚の普遍的に妥当する知識を提供しているはずの科学・学問のコミュニケーションよりも優先される場合もある。

1957年、プリコン・プロセス・アンド・エクィプメントというニューオーリンズの一企業は、広告映画に「閾下刺激(subliminal stimulation)」を注入するサービスを提供し始めた。閾下刺激とは、意識では知覚されない刺激を意味する。我々の感覚器官や大脳は、意識的には知覚され得ない刺激であっても、潜在的な情報として処理することができる。こうした非意識的な知覚を特に「閾下知覚(subliminal perception)」と呼ぶ。

広告映画に注入されたのは、存在するだけで消費者の購買意欲を高めるのに十分な影響力を持ったメッセージであった。同時期、同じアイディアを有していたサブリミナル・プロジェクションという会社は、閾下刺激を援用した事業を開始するにあたり、より露出度の高い戦略を採った。彼らはニューヨークで記者会見を開いた。これに触発されたことで、全米のラジオ局やテレビ局が挙って閾下刺激を利用したコマーシャルの放送時間枠を売り始めた。

消費者は、広告に潜在している閾下のメッセージに気付けない。気付かぬうちに影響を受けることで、宣伝された商品が欲しくなってしまう。だからこの技法を使えば売り上げが大幅に伸びると期待された。だが消費者側からの反発は凄まじかった。人間の脳内にメッセージを忍び込ませるというのは、言わば洗脳やマインドコントロールを連想させるマーケティングであった。抗議の嵐を呼び起こしてしまったのも無理は無い。

アメリカでプライミング効果を応用した映画を放映しようとすれば、連邦通信委員会(Federal Communication Commission: FCC)や全米放送事業者連盟(National Association of Broadcasters: NAB)などのような専門組織が制度化している規制と矛盾することになるだろう。『エクソシスト』を監督したウィリアム・フリードキンのように、閾下刺激の効果を確信した上で映画に取り入れれば、それは制約に反することとなる。だが告発されることで法的な闘争に巻き込まれる可能性があるのは、彼のような監督だけではない。たとえ映画を放映する側に「閾下刺激で視聴者を騙す」という意図が無かったとしても、「閾下刺激という市民を騙す不公正な技法を採用している」と観察されれば、それは規制に矛盾することになってしまう。

それ故に1960年以降、徐々に閾下刺激を利用したマーケティングは下火になることになった。しかし、この時点ではまだが残されたままであった。つまり、「閾下刺激とは何なのか」という問題が未解決であったのだ。

当時の科学的な研究調査が中々進捗しなかったのは、理由の無いことではない。生真面目な心理学者たちは、閾下刺激の発見に大衆が寄せた極めて感情的な反発を教訓とすべきであると考えていた。と言うのも、世間から鋭い視線を浴びる中で、切迫した道徳的な問題も浮き彫りとなったためだ。

消費者たちは、閾下知覚に関する事実の一部が発見されただけで厳しい警告を発した。心理学の発見が現実に応用される時代となった今、心理学者たちも道徳的な問題に取り組まなければならない。

質量とエネルギーの等価性とその定量的関係を指し示す理論が現実に応用されることで原子爆弾が生まれた時、物理学者たちは科学に対する責任に限らず、社会に対する責任をも強く意識するようになった。閾下知覚は、この原子核に相当するほど社会的に重要な現象であると考えられるようになった。科学ジャーナリストのトール・ノーレットランダーシュは、この歴史的背景から閾下知覚を「心理学の原子爆弾(The Bomb of Psychology)」と名付けている。

尤も、こうした自己検閲の道を選んだのは、ジェームズ・マコネールらをはじめとした生真面目な心理学者たちだけであった。ノーレットランダーシュによれば、その他の多くの心理学者たちは、社会的な責任を認めるというよりはむしろ、閾下知覚という現象が現実に起こり得るという想定そのものを見直すことによって、道徳的な批判を回避しようとした。

物理学者たちが核分裂という現実的な現象を否認することは不可能である一方で、心理学者たちが「閾下知覚存在」に反論することは比較的容易であった。それは不可視である分、目に視える物理現象よりは否認し易い訳だ。しかしながら、こうしたその場凌ぎも長続きしなかった。認知科学、生理学、そして神経科学の発展によって、閾下知覚存在を否認することが逆に困難になってしまったからだ。

人間に呈示される情報のほとんどは、たとえそれが行動に明確な影響を及ぼしていても、意識には中々浮上しない。「閾値(threshold)」を超えることの無い微少な刺激を受けた場合でも、我々の認知機構や神経システムは膨大な情報を処理している。すると閾下知覚は、消費活動に限らず、あらゆる日常生活で起こり得る現象だということになる。だとすると、閾下刺激が応用されるのは何もマーケティングには限らないということになる。

形式としての記憶

この閾下刺激の広汎な適用範囲の前提となるのは、「記憶(Memory)」である。消費者の間で閾下刺激問題視されてきたのは、その刺激に対する閾下知覚の影響が、潜在的に次回以降の行動選択へと波及するためである。自由意志に基づいた流動的選好と思われていた行動選択が、実際には閾下刺激の呈示者による操作に基づいていたとするのならば、形式的にであれ、記憶という概念を想定しなければならない。そうした記憶があるからこそ、消費者の閾下知覚から次の行動の選択までの間に、閾下刺激の効果が残存していると仮定できるのである。

例えば認知心理学者のロバート・ザイアンスが取り上げた「単純接触効果(Mere Exposure Effect)」も物語っているように、人間は刺激を反復的に享受していくに連れて、<刺激の同一性>に対する習熟度や知覚能力を高めていく。この効果は、当の刺激が意識の関与しない閾下刺激である場合も同様に、潜在的に発現する。この閾下単純接触効果を前提とするなら、我々は享受した<刺激の同一性>を保持する機構を有していることになる。形式的に言えば、この機構が記憶ということになろう。

短期記憶と長期記憶の差異

長らく「記憶(Memory)」という概念は、情報処理システムの「領域(space)」として記述されてきた。それは部分的な能力を有した領域として認識されてきた。1960年代までは、記憶は単純に情報を領域の中に保持するシステムとして捉えられていた。例えばドナルド・ノーマンらは、「短期記憶(short-term memory)」と「長期記憶(long-term memory)」の区別を導入した上で、記憶が段階を踏んで蓄積されていくと述べている。

だがこの提案は、単なる比喩を超えるものではなかった。実際その後の研究から、それまで長期記憶として記述されていたシステムにも分離が発見されることになる。そのためこの単純な二分法は通用しなくなった。そこでとりわけエンデル・タルヴィング以来は、記憶の領域は複数の機能的に分化したサブシステム構成されていると考えられるようになっている。

手続き記憶と意味記憶と出来事記憶の差異

タルヴィングの前史と後史に共通して広く受け入れられてきた概念史によれば、記憶は「手続き記憶 (procedural memory)」、「意味記憶 (semantic memory)」、そして「出来事記憶 (episodic memory) 」に区別される。手続き記憶は、技術的な処理で、刺激に対する適切な反応を司る。意味記憶は、様々な場面での知識の獲得と利用を司る。そして出来事記憶は、個人における過去出来事を司る。

手続き記憶は行動において使用される一方で、意味記憶出来事記憶は認知や思考において使用されると考えられている。意味記憶出来事記憶は、事物や事象の代理表象を可能にしている。その一方で手続き記憶には、そのような機能は無いとされる。

顕在記憶と潜在記憶の差異

日常生活における「記憶」概念は、専ら意図的に何かを想起する場合に使用されてきた。それは出来事記憶のように、何らかの出来事を思い出す場合には特に該当する。しかし一方で、手続き記憶として培っている技術的なノウハウは、必ずしも意識化される訳ではない。例えばキーボードをブラインドタッチするにしても、その操作方法意識して思い出そうとはしないであろう。「身体で覚えている」というように、我々はキーボードの操作を非随意的な身体動作として可能にしている。記憶は、意図的に想起あるいは参照される概念であるとは限らない。

この関連から記憶概念は、「顕在記憶(Explicit memory)」と「潜在記憶(Implicit memory)」に区別されることがある。顕在記憶は、意図的な想起が必要となる記憶である。逆に潜在記憶は、無意図的あるいは非随意的に想起される記憶だ。それは、記憶想起されたという認識も含め、意識を伴わせずに生じる想起である。

方法としてのプライミング刺激

潜在記憶の研究は、主に「プライミング効果(Priming effect)」の実験によって進められた。「呼び水を差す」を意味した「プライム(prime)」に由来するこの用語は、心理学的には、先行した刺激が後続の刺激の処理に促進効果を及ぼすことを言い表している。

プライミング効果の実験は、例えばタキストスコープで二つの画像を見せるところから始まる。それぞれの画像には単語や事物が描かれている。だが最初の画像の呈示時間はあまりにも短く、被験者は何を見せられたのかわからない。その一方で、二番目の画像の呈示時間比較的長い。だがそれについて熟考するほどの時間的な余裕は与えられない。

そこで実験者は被験者に対して、画像に描かれている単語の綴りが正しいか否か、画像に描かれている事物が実在する物か否かなどを意識的に考えるように依頼する。すると、二つの画像の関連性が高ければ高いほど、被験者はより速く正確に二つ目の画像の内容を言い当てることができるという。

このことが言い表しているのは、あまりにも加速的に呈示された刺激からも、人間は学び取ることができるということである。それは閾下知覚対象の無意識的な学習であると言える。ただし被験者には、自分が何故速く正確に解答できたのかがわからない。

プライミング刺激の記憶処理

「プライミング(priming)」の存在は、手続き記憶意味記憶出来事記憶の全てにおいて仮定されてきた。専ら手続き記憶との関連で言えば、プライミング効果によって、知覚による事物の同定が促進されると考えられている。手続き記憶に基づいた行動の速度とも関連があるとされている。またプライミング効果は、潜在的な記憶存在と共に仮定される傾向がある。と言うのも、閾下刺激によるプライミング効果も起こり得るからである。

プライミング効果の体系的な研究報告は、タルヴィングがこの概念を探究し始める10年ほど前から為されるようになっていた。その基本的な実験手続きは、まず単語、線画、人間の顔などの対象(target)を被験者に呈示する学習段階から始まる。その後、数秒から数ヵ月後に、対象(target)の情報を減らした断片的な単語や閾下刺激などを新たな刺激として呈示する。これにより、学習させた対象と学習させていない刺激の差異プライミング効果として扱う。

プライミング効果は、厳密に統制された実験室でしか観察できない。しかし、類似した現象は実験室外であってもしばしば報告されている。タルヴィングも、このプライミング効果が日常生活の至る所で起こり得ることを示唆している。

顕在記憶とプライミング効果の差異

タルヴィングのプライミング効果に対する寄与は、まず顕在記憶潜在記憶区別した上で、顕在記憶処理とプライミング効果の刺激処理が分離していることを明確化した点にある。この区別をより明確化するために、タルヴィングは「知覚表象システム(perceptual representation system; PRS)」の存在を仮説として提示している。このシステムは、知覚的同定とプライミングを司る。手続き記憶意味記憶出来事記憶からは区別される。だがこれらの記憶システムとは相互に作用し合っているという。

タルヴィングはまず、エリザベス・ワーリントンらによる健忘患者に対するプライミング効果を例示している。それによれば、プライミング効果の実験に参加した健忘患者は、まずその実験そのものを記憶できなかった。しかしながら、プライミング効果それ自体は健常者並みに確認されたという。このことが言い表しているのは、プライミング効果が、健忘によって喪失された記憶機能からは独立であるということである。

プライミング効果は、他にも実に様々な記憶能力から独立に機能しているように思える。もう一つの事例は、再認記憶である。この記憶能力は通常3歳ごろから増大する。だが子供であっても、プライミング刺激は大学生に対するそれと同等の効果を発揮する。反対に、老年期は再認想起が困難になることが経験的に知られている。だがプライミング刺激は、若者に対するそれと同等の効果を発揮する。アラン・パーキンらによる、3歳、5歳、7歳および成人の4つの年齢群を対象とした暗黙的記憶と明示的記憶に関する実験は、このように、プライミング効果が年齢に依存した記憶能力とは異なる別個の機能として発現していることを示唆している。

薬物を使用した実験においても、プライミング効果の独自性が垣間見られる。リチャード・ワイアットらのアルコール性健忘症に関する記憶過程の実験報告によれば、アルコールやスコポラミン(scopolamine)は顕在記憶に基づく想起再認の能力を低減させる。しかしこれらの薬物は、プライミング効果にはほぼ影響が無いことがわかっている。

顕在記憶とプライミングの機能的な独立性は、意味内容形態学習においても現れる。物質についての学習による意味内容の同定は顕在記憶を強める一方で、プライミング効果にはほぼ影響が無い。一方、物質の形態を手掛かりとして用いた刺激に対しては、顕在記憶への影響がほぼ無く、逆にプライミング効果への影響は大きかった。タルヴィングによれば、こうしたプライミング刺激は、被験者が以前の学習段階で「既に学習した」と再認したか否かに拘わらず、同じ程度の効果があるという。

幾つもの実験で、プライミング効果顕在記憶とは「確率的(stochastically)」に独立していることが示されている。しかしながら、このような独立性が何故成立するのかが長らくわからないままであった。タルヴィングはこの関連から、プライミング効果の具象性に着目している。プライミング効果には、柔軟性が全く無い。言い換えれば、ある刺激に対するプライミング効果は、その刺激のみに特化している。つまりプライミング刺激を処理するシステムは、その刺激を抽象的に処理する訳ではない。ある手掛かりによる記憶への参照結果は、他の手掛かりとの関連を有さないのである。そのために、プライミング効果を可能ならしめる記憶の手掛かりが僅かでも変化すれば、その時点でその効果は失われるのである。そして、この手掛かりの変化の可否は、環境から記憶システムに呈示される刺激によって左右される以上、確率的であると見做さねばならない。

逆に言えば、プライミング効果可変性は、プライミング刺激とは別のあり方でもあり得る刺激に確率的に依存していることになる。確率次第で依存する場合もあれば依存しない場合もある。となれば、誤解を恐れずに言えば、プライミング効果確率的に独立であり得るのは、顕在記憶に対してのみならず、他の別様の記憶システム全てに対してであるということになる。

意識の遅延を前提とした主観的遡及

2000年以降における閾下知覚の概念史において、ベンジャミン・リベットのあの有名な実験を無視することはできない。リベットはまず、意識の本質的な特徴を「アウェアネス(Awareness)」であるという想定から、それが如何にして可能になっているのかを神経科学的に説明しようとした。アウェアネスであるというのは、言い換えれば気付いているということである。この定義に従えば、閾下単純接触効果プライミング刺激のように、気付かないままに享受した刺激は、まず以って意識的ではないということになる。

リベットによれば、ある感覚皮質に対する刺激が閾上知覚対象として意識的に認識されるためには、その刺激が0.5秒以上反復的に持続していなければならない。物理的に考えれば、閾上知覚対象に関する意識的な認識は、刺激されてから0.5秒間遅延せざるを得ないということになる。無論、刺激が0.5秒以上持続されなかった場合は、その刺激が意識されることはあり得ないだろう。神経システムが反応したとしても、それはあくまで閾下刺激に対する閾下知覚でしかない。しかしながら人間意識は、その遅延を主観的に感じ取ることができない。我々は、0.5秒以上刺激を受け続けた場合、刺激を受けた時点から刺激があったと認識する。意識は、刺激を受けた瞬間の時点まで主観的に遡及してしまうのである。この時、意識の中の時間は逆行していることになる。

こうした神経科学的な前提から、リベットは人間の自由意志もまた神経システムに予め規定されているのではないのかと問うことになった。自由で、自発的で、自律的な行為を実行に移す時、それについての意識的な認識が発現するのは、その行為の約150ミリ秒から200ミリ秒前である。一方、これに対して、神経システムの準備電位が発生するのは、この意識的な認識よりも更に約400ミリ秒前であるという。

したがって我々の行為は、まず以って神経システムに駆動されていることになる。自分の意志で行為していると主張したところで、それは意識的な認識による後付けに過ぎない。意識理性的に行為を制御しているというのは、哲学者が犯してきた傲慢な思い込みだ。

尤も、そうした意識的な意志であっても、神経システムに駆動された行為が実際に実行される150ミリ秒前には発現している。だから意識は、実際に行為が実行される直前に、その実行を食い止めることくらいはできる。この論旨から自由意志存在意義程度は肯定できるかもしれない。しかしいずれにせよ、意識意識対象となる出来事に追い付くことは不可能だ。心理システム知覚は、常に知覚する出来事よりも遅延しているのである。

「人間」の自由意志

意識時間的な遡及が意味するのは、0.5秒前の経験「今」経験しているかのように経験するということである。言わば「今」現在経験想起意味する。刺激が0.5秒間持続して初めて経験意識される以上、「今」経験はその過去の持続に対する認識であると見做すほかない。

脳波に対する科学的な観測において、準備電位が存在するという仮説は、理に適っている。準備電位とは、手や足を動かすといった単純な動作に先立って脳内で活動が観られる際の、その電位変化を意味する。準備電位は、電気的パターンの変化であって、脳神経細胞が作動したことを指し示している。準備電位が表現しているのは、脳がある動作を如何にして実行するのかについての計算を準備しているということである。しかし準備電位は奇妙なタイミングで発生している。準備電位である以上は、準備対象となる行為に先立って発生する必要がある。しかし直感的に観れば、それは少々遅すぎるのである。

リベットの問題設定は、言わば自由意志問題である。指を動かすといった単純な行為が、筋肉が活動する前に脳内で始まっているとすれば、我々がその行為の開始を意識的に決定するのは、いつなのかということだ。準備電位の発生と同時に自由意志的な決意が現われるという可能性は、確かに直感に反する。直感的には、指を動かす直前にその意思が生まれる。しかしそうなるとまた別の疑問が派生する。指を動かそうと決意する前に脳が活動し始めているのならば、「人間」には自由意志がそもそもあるのか否かという問題である。

リベットの実験方法

リベットらは、多くの実験装置を用意して、被験者の手の電気活動を測定することで、手や指が動いた時点を記録した。また、被験者の頭に取り付けた電極を通じて準備電位が発現する瞬間を記録した。更に、行為の実行を意識的に決意した時に、それを被験者に報告して貰った。これら3種類のデータにより、決意する意識が生じる時点と、準備電位が発現する時点との時間的な関係を比較することが可能になる。しかし、決意を意識した瞬間に関する報告は、このリベットの実験の生命線であると共に、方法論上、物議を醸す論点でもあった。

リベットが動物実験ではなく「人間」の脳内に直接的な電気刺激を加えて実験を展開したのは、動物は自分の意識について報告してくれないからである。リベットが重視したのは、客観的に記録される事象と主観的に経験される事象の関連である。意識は別の脳の部分に「還元」できない。意識を知るには意識それ自体を観測するしかない。

もとより内観法や自己観察人間の心的機能を理解するのが困難極まりないということは、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツやジグムンド・フロイトなどのような先駆者たちによって明らかにされている。それ以来、多くの科学者たちが内観への興味を失わせた。意識は、重要な研究主題ではある。だが「人間」が自己自身について語ることは信頼できない。心を内側から科学的に理解することは不可能である。そのため、外側から、例えば行動主義的に心を客観的に分析していく方法が主流となった。しかしリベットは、そうした潮流には反してでも、人間の主観的経験が重要な研究主題であると考え続けた。

意識研究の第一人者としてのリベットは、意識を脳の何かに「還元」することができないという信念を持っていた。意識は、脳の測定可能な何らかの部分を観測すれば客観的に検証できる類のものではない。それは、脳を部分的に観測しても意識が解明される訳ではないということである。人間意識した上でその決意を経験できるが、その経験を語れるのは本人だけである。意識しているかどうかは、本人にしか知り様がない。外部から観測することはできないのだ。だからリベットは、内観的な報告を否定しなかったのである。

しかしながら、「人間」がいつ決意したのかを報告するのは簡単ではない。報告するのにも時間が掛かる。「今です」と述べている間にも時間は過ぎていく。故に、報告内容が厳密であるようには思えない。そこでリベットは別の方法を模索した。その代替案では、まず被験者をテレビ画面の前に座らせるところから始まる。被験者は快適なラウンジチェアに座り、リラックスするように指示される。画面には時計の秒針のように円を描く点が映っている。ただし普通の秒針とは異なり、60秒ではなく2.5秒で一周する。合図と共に、時計の文字盤中央に目を向け、点を回るのを見ながら、好きな時に指を曲げるか手を動かすことができる。被験者は、指や手を動かそうという衝動を感じるまで待たされる。そしてその衝動が発生した時、それに促されるように、手や指を動かす。ただし同時に被験者には、動かそうという衝動を感じた瞬間の、時計上の点の位置を記録しておくことが求められる。これを使えば、決意を意識した時に点が時計のどの位置にあったのかを訪ねることで、その時点を特定できる。

実験結果は明快であった。初めに行為の準備電位が発生し、その後行為を決意する意識経験が芽生え、最後に行為が実行される。実験の結論として言えば、指や手を動かすといった自由意志による自発的な行為でさえ、脳の水準では無意識のうちに発動し得る。現に、通常では無意識的に発動している。実験は1979年に二度行われた。それによれば、準備電位が動作の0.55秒前に発現したのに対して、意識が始動したのは行為の0.20秒前であった。決意の意識は、準備電位の発生から0.35秒遅延して発生することになる。言い換えれば、脳の起動後0.35秒が経過してから、決意する意識経験が発生したことになる。

リベットの実験報告に対する反論

リベットの実験結果には幾つかの反論が加えられている。一つの反論として挙げられるのは、実験の被験者は、指や手を動かす衝動を感じた後で、画面の点の位置を確認するのに0.3秒ほど掛かったという反論だ。このように遅延の帰責先を変えれば、遅延も説明が付くはずだとも考えられる。しかし、だとすれば、皮膚への刺激を感じた時点と実際に筋肉を動かした時点の特定を、被験者が正確さを以って実行できた事実の説明が付かなくなる。したがってこの類の反論は誤りとなる。

一見するとリベットの実験では、意識が生じたことをいつ感じるのかを調査しているに過ぎない。勿論、その過程を開始させるのは我々の意識だ。ただそのことにしばらくの間気付かないだけである。つまり何かを開始している過程にいる観察者にとって、開始するという意識盲点となるという訳だ。しかしながら、このように反論すると、次のような疑問が派生する。意識せずに意識的な決断を下すなどということが、果たして起こり得るのか否かである。こうした反論は、ただパラドックス化するだけであろう。この意識せずに意識的な判断を下すという発想は、意識と無意識区別意識と非意識区別を導入した場合に伴うパラドックスに他ならない。

リベットの信念が正しいなら、意識は一次的な現象であって、測定可能な脳の部分に還元できない。だからこそ、意識の有無を決定付けるのが意識以外にあり得ないという事実から、我々は目を背けてはならない。決意したことを意識していないにも拘らず、決意したことが確実であるからといって、それが意識的な決意であったという保証は何処にも無い。

<時間の記録>と<意識の生起>の差異

リベットは実に巧妙な実験方法によって意識の遅延を証明しようとした。彼は被験者の感覚皮質領域を刺激して片方の手にチクチクした感じを生じさせる一方で、もう片方の手の皮質を刺激したのであった。こうすれば、患者に「最初に何かを感じたのはどちらですか?右手ですか?左手ですか?」と尋ねさえすれば良い。患者は「左が先」か「右が先」あるいは「同時」と答える。

リベットらの研究結果は、驚くべき結果であった。確かに感覚皮質で0.5秒間活動が持続しないと意識は生じない。しかしながら、主観的にはより早期に、つまり実際に皮膚が刺激された時点で被験者は刺激を感じるのであった。意識は遅延するにも拘らず、主観的には遅延したようには経験されない。感覚器官が刺激されると、脳には誘発電位が生じる。脳の電場に変化が起こり、それがEEGで確認できる。通常のEEG測定では頭蓋骨の外側に電極を付けるため、脳波の微妙な変化は捉えられない。しかし、微弱な刺激の後に生じる誘発電位を測定したかったリベットは、被験者の脳表面に直接電極を装着する方法を採用していた。その結果、皮膚にごく弱い刺激を与えると、意識的感覚は生じなくても、誘発電位が発生し得ることがわかった。

リベットの仮説によれば、皮膚からの刺激であれ感覚皮質からの刺激であれ、経験されるまでには感覚皮質で0.5秒の活動が必要であるという結論が示すことができるはずであった。左手の皮膚を刺激するのと同時に、右手に対応する皮質部位を刺激したとすれば、左手への刺激の方が後に感じるはずであった。何故なら、経験意識されるまでには0.5秒が必要だからだ。

皮膚を刺激すると、脳内で電気活動が生じる。この電気活動は、脳内に直接的に電気刺激を与えた場合に相当する。刺激を受けた被験者は、両者の区別ができない。0.5秒持続しない電気刺激が感じられないのだとすれば、<脳への電気刺激>と<感覚器官を経由して引き起こされる脳活動>とを同一視できる理由は何も無い。皮膚への刺激は、瞬時に感じられるにも拘わらず、その刺激を感じさせるための皮質内の活動が最低0.5秒必要であるという根拠は何処にも無かったのである。

リベットの予想は裏切られた。右手に対応する感覚皮質を刺激してから0.4秒後に左手の皮膚に刺激を与えた場合でも、患者は「左が先」と答えた。これは奇妙な結果だ。感覚皮質への刺激を意識するには、0.5秒かかる。皮質刺激の場合も、同じようなもののはずだ。刺激が感じられるまでには、何らかのニューロンの活動が必要だからだ。しかしながら、僅か0.1秒の間に、皮質への刺激が感覚皮質への刺激の前に割り込むことができたのだ。

リベットは仮説の修正を迫られた。脳による皮膚刺激の記録には二つの側面があったのだ。我々は<時間の記録>と<意識の生起>を区別しなければならなかったのである。脳が反応するとEEGで測定した脳波パターンに誘発電位が発現する。これは、皮膚への刺激が自覚されない場合も同様だ。刺激の強弱は問わない。この誘発電位それ自体は意識につながる訳ではない。だが皮膚刺激の直後、0.02秒後に発生する。

主観的な時間の繰り上げに関する修正案

ダニエル・デネットは、リベットの実験を受けて、意識経験する時間が一つしかないという観念は捨て去るべきであると考えた。デネットがリベットの解釈の代替案として提案したのは、「多重草稿モデル(Multiple Drafts model)」である。このモデルによれば、意識には絶対的な一つの時間の流れがある訳ではなく、多数の「草稿(Drafts)」が並行して存在するということになる。デネットは、このモデルに基づけば、リベットの実験データはリベット本人よりも上手く説明できると主張した。

しかしリベットは、デネットの多重草案モデルでは、人が意識のある時に経験する主観的な統一感を説明できないと反論した。このモデルでは、様々な経験思考が連携して意識が決断をしているという幻想を如何にして可能にしているのかを説明できないのである。

これに対してリベットの新しい仮説は、次のような内容となる。自覚的な意識は皮膚を刺激してから0.5秒後に生じる。しかしそれは、恰も脳が誘発電位を示した時点で生じたかのように経験される。主観的な時間の繰り上げが発生しているのである。自覚的意識はまだ始まっていないが、脳が無意識のうちに反応した瞬間に皮膚刺激が起きたかのように、意識の上では経験されるのである。

言い換えれば、感覚皮質への刺激が身体に投影されるのと同様に、意識経験時間を遡及した上で投影されるのである。つまり、我々の主観的経験仮象であるということになる。経験する前から経験していたかのように経験するのである。しかし、この仮象には有用性がある。ある刺激を受けた際の意識が知りたいのは、いつ皮膚が刺激を受けたのかであって、いつそれを意識したのかではないからだ。眼が眼それ自体を視ることができなくても問題無いように、意識それ自体の作動は、意識にとっては盲点であって構わないのである。

主観的経験時間的に繰り上げられる結果、EEGで誘発電位が記録された瞬間に意識が始動したように感じられる。この主観的感覚は皮膚が実際に刺激されてから約0.02秒で生まれる。自覚が生じるのに必要な0.5秒に比べれば、これはかなり速い。一方、感覚皮質への刺激にはこのような時間の繰り上げは起きない。刺激は0.5秒経過してから、刺激開始の0.5秒後に、感じられる。主観的時間の繰り上げが起きるのは、感覚器官や皮膚への本物の刺激だけである。大脳皮質への刺激という不自然な刺激については、対象外となる。

リベットはこの時間の繰り上げという仮説を視床への刺激を利用した実験で観測している。視床は皮質の直ぐ下に位置する。視床への刺激は皮質への刺激同様に不自然である。そして、何かが経験されるまでにはやはり0.5秒要することも共通している。この領域に刺激すれば、同様にEEGの脳波パタンに誘発電位が発現する。そしてこの主観的時間近くの繰り上げは、視床への刺激による実験でも確認された。時間の繰り上げは証明されたのだ。

主観的な時間の繰り上げの機能

意識は、その持ち主に世界の代理表象とその世界における能動的な主体としての自己仮象を生み出す。しかし、いずれの仮象も徹底的に編集されている。大幅に編集されているために、意識が生じる約0.5秒前から身体の他の部分がその感覚の影響を受けていたとしても、意識には知ることができない。意識は、閾下知覚やそれに対する反応も、全て隠蔽する。眼に盲点があるのと同じように、我々の外部環境知覚する仕組みには欠陥がある。だが我々はそのこと自体に気付かない。観察者は、視えないということが視えないということが視えていない。意識は遅延する。だがそれは隠蔽される。意識は欺くのだ。だがこの自己欺瞞は、実に都合の良い錯覚をもたらす。兎にも角にも、時間に余裕がある時には、一層有用である。

リベットとデネットの議論を紹介しているノーレットランダーシュが、この関連から頻繁に引き合いに出す一例は、画鋲の上に座ってしまった場合である。その経験があれば、反応に0.5秒も要さないことは、直ぐにわかるであろう。座った時には、まず飛び上がり、それから漸く振り返って状況を把握する時間ができる。「人間」は、自分が思うほど意識を利用していない。痛みや驚きのように、切羽詰まった瞬間においては特に、意識が動員されることは滅多に無い。

意識は、自らの行為についての仮象も歪める。意識は、行為を始めているのが自分であるかのような錯覚を生む。だが、実際は違う。現実には、意識が生じる前には既に動作が始まっているのである。定式化すれば、意識は、時間感覚を大胆にも改竄する。しかし社会システム理論的に言えば、それでこそ意識存在意義が保たれる。複合性の縮減が敢行され、有用で有意味情報だけが指し示される。正常意識にとっては、意識が生じる0.5秒前に準備電位が発現していようがいまいが、全く関係無い。肝心なのは、何を決意したのか、そして何を感じたのかである。ノーレットランダーシュも述べているように、重要なのは、情報を処分した時に意識が生み出されるということである。

プロトタイプの開発:閾下知覚のメディア

閾下刺激は、JavaScriptのようなプログラムを利用することで、Webブラウザ上で容易に再現できる。GitHubのaccel-brain-code/Subliminal-Perceptionには、閾下単純接触効果を実行するためのJavaScriptのコードを配置している。このライブラリでは、閾下刺激として呈示するキーワード、各キーワードの刺激速度、文字色や背景色などのパラメタを入力することで、様々な形式の閾下単純接触効果を再現できる。

任意のイベントハンドラで駆動させることができるため、このライブラリを利用すれば、事実上自由に閾下刺激構成することができる。例えばWebサイト上のハイパーリンクをクリックする度に、そのWebサイト上の重要語句を閾下単純接触効果として呈示すれば、そのWebサイトの内容に関する記憶を補強することも可能になると期待できる。

閾下刺激形式として設計されたWebページは、したがって、ユーザーの知覚記憶を方向付けるメディアになると考えられる。このライブラリは、意識的な知覚が追い付かないほどの刺激呈示速度を演出することで、ハイパーテクストをはじめとした電子メディア神経システム構造的に結合し得るということを例示している。

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