ヴァーチャルリアリティにおける動物的「身体」の物神崇拝的なユースケース

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問題設定:科学・学問の社会構造と「人間後(ポストヒューマン)」の意味論

イマニュエル・カントは、論理学講義の序論において、哲学の諸概念を四つの問題区別している。それは「私は何を知り得るのか?(Was kann ich wissen?)」、「私は何を為すべきなのか?(Was soll ich thuu?)」、「私は何を望めるのか?(Was darf ich boffen?)」、そして「人間とは何か?(Was ist der Mensch?)」である。「私は何を知り得るのか?」に対しては形而上学が、「私は何を為すべきなのか?」に対しては道徳が、「私は何を望めるのか?」に対しては宗教が、それぞれ問いに対する答えを用意してくれるという。しかしカントによれば、結局のところ、これら全ては人間学に帰着するという。と言うのも、最初の三つの問いは最後の問いに関わるためである。このカントの認識が意味しているのは、形而上学、倫理学、そして神学の全ての問題を「人間学」が負うことになるということである。

注目すべきなのは、これら四つの問題設定に共通する前提として、人間とその理性が根本的に有限であるということである。人間有限であるというのは、例えば人間についての知識が、言語、労働、生活などのような所与の条件によって制約されているということである。それは、人間に関する知が実定的であるということもである。別の角度から観れば、人間有限性は、人間の認識可能性をも条件付けている。有限性を有した人間を認識しようとする人間もまた、有限性に縛られている訳だ。

問題解決策:「精神人間」

カントを全うに継承しようとすれば、観念論者たちの思索も止まってしまう。だからフリードリッヒ・ヘーゲルは、「人間」という概念を言わば単純化するしかなかった。「人間とは何か?」という問いに対するヘーゲルの回答は、人間の欲求の体系に過ぎない。それ以上の回答を求めても、彼の口からは、「精神(Geistes)」という用語しか出て来なかったであろう。

ヘーゲルが哲学的な主題とした「人間」は、「精神人間(Geistmensch)」のみである。人間精神であることによって本来的な人間となる。言い換えれば、人間は自己自身の自然的な起源と手を切ることによって、自己の精神的起源を発見することが可能になる。つまり「精神人間」は、自然と相反する存在である。「精神人間」にとって、本来の自然とは、自然存在であることから解放された状態にこそ見出される。

ヘーゲルが人間をこのように考えたのは、理由の無いことではない。歴史哲学者としてのヘーゲルの参照問題は、キリスト教とフランス革命である。キリスト教のは、人間精神を自由にすると考えられてきた。フランス革命からドイツの統一に向けてプロシアが動き出した時期は、理性歴史を支配し、その究極的な目的が自由であるという価値観が疑いようのない思想として受け入れられていた。この進歩史観を受容したヘーゲルは、世界が哲学と歩調を合わせて進んで行くと信じて疑わなかったのであろう。他ならぬ自由の意識進歩こそが歴史の原理となる。そしてそれは、や目標に到達したのである。

問題解決策:「超人」と「最後の人間」の区別

『ツァラトゥストラ(Zarathustra)はかく語りき』は、その序文において、歴史と「精神人間」の終焉後の世界を叙述している。フリードリッヒ・ニーチェはこの作品内で「超人(Übermensch)」と「最後の人間(letzte Mensch)」の区別を導入している。

最後の人間」は、「愛(Liebe)とは何か?」、「創造(Schoepfung)とは何か?」、「憧れ(Sehnsucht)とは何か?」、「(Stern)とは何か?」といった直ぐには答えられない問いを他者と共有する。だがしかし、直ぐに解を提示しようとはしない。彼ら彼女らは相互に目配せし合うだけである。こうした答えようのない問いの解を「協働」しながら試行錯誤を繰り返すだけでも、だいぶ時間を潰せる。

ニーチェの眼には、こうした最後の人間の在り様が、小さな大地の上を飛び跳ねている蚤のようなものであって、中々根絶しないという。事実最後の人間は一番長生きする。どうやらツァラトゥストラによると、最後の人間たちは「幸福(Glueck)」を発明した(erfunden)らしい。「発明した(erfunden)」ということは、彼ら彼女らは別に幸福感を発見していないということでもある。ここで人工的な幸福感として例示できるのは、麻薬であろう。ニーチェによれば、近代社会では生活水準が徐々に高まることで安楽な生活が実現されるようになった結果、精神が奴隷化していく過程なのであった。麻薬によって構成された依存症は、この奴隷化の一因となり得る。

最後の人間は、型に嵌った人間の終焉を物語っている。だが最後の人間が死したの後を追って消え去っていくことは、ニーチェからすれば、終末論を意味しない。『ツァラトゥストラ(Zarathustra)はかく語りき』は確かに歴史の終焉後の世界ではある。だがこの歴史観には、進歩史観のそれのようには、歴史に終点があるという発想が無い。だからこそ、最後の人間は一番長生きする。最後の人間が関わるのは、平準化と画一化の労働である。誰もがとても類似していて、微小で、とても丸く、そしてとても社交的になっており、それでいて退屈だ。小さく脆弱で仄かな幸福感が、全ての人間に対して一様にプレゼントされる。

超人は、型に嵌った人間を人文科学から追放するための概念でもある。ニーチェによれば、が死ぬことと型に嵌った人間が消え去ることは同じことなのである。カントが有限性として観察していた人間も、ニーチェにとっては終末を迎えた人間に等しいのだ。

問題解決策:「最初の人間」と「最後の人間」の区別

ヘーゲリアンやポストモダニストたちの歴史は、様々な「歴史の終焉(The End of History)」論の集積によって成り立っている。何らかのショック体験を経て、全体社会の平和と自由と安定を無期限に維持することが可能になったという見通しが立つ度に、彼らにとっての歴史は終わるのである。歴史の終焉後の世界では、もはや世界政治を破局させるような戦争やテロ行為は成り立たない。文字通り歴史的な大事件はもはや起こり得ないという意味で、歴史は終焉を迎えたのである。

数ある歴史の終焉論の中でも、とりわけフランシス・フクヤマのそれは、ニーチェの「最後の人間」と関連付ける点で特徴的である。フクヤマは、ニーチェの「最後の人間」とヘーゲルの「最初の人間(first man)」との区別を導入している。この「最初の人間」は、ヘーゲルによれば、名誉のための闘争の後に、誇り高き勝者なる主人と忍耐で応じる敗者たる奴隷に区別された。この区別に準じて、貴族と奴隷を分かつ階級の差異が派生した。これが「歴史の始まり(Beginning of history)」である。フクヤマによれば、歴史の始まりから終わりまでの過程は、勝敗に執着する威勢の良い「最初の人間」が、価値相対主義的に平等を愛しながら闘争否定する温厚な「最後の人間」へと成長していく過程なのである。

問題解決策:「超人」と「人間後(ポストヒューマン)の存在」の区別

超人は、この歴史の終焉後の世界における例外的な存在である。ニーチェの関心は、例外的な個人における個人的な急成長と文化的な洗練にこそ向けられていた。キリスト教の奴隷道徳の人生への脅威を克服しなければならないというのが、彼の問題意識である。しかし、歴史の終焉後の世界における「人間」概念は、別のあり方でもあり得る。超人とは別様の、より科学技術に傾倒した存在として提唱されているのが、「トランスヒューマニズム(Transhumanism)」である。

トランスヒューマニストの哲学者ニック・ボストロムも注意を促しているように、表面的な類似性が伴うからといって、ニーチェの超人論とトランスヒューマニズムを混同してはならない。トランスヒューマニズムは、科学技術によって人間身体や認知能力を向上させることで、人間の状態を進化させていく思想である。トランスヒューマニズムは単なる新興科学でもなければ、まして新興宗教でもない。その起源はルネサンスにまで遡及できる。直接的な着想は1923年に発表されたJ・B・S・ホールデンによる『ダイダロス、あるいは科学と未来(Daedalus or Science and the Future)』に端を発すると考えられている。「トランスヒューマニズム(Transhumanism)」という用語を初めて用いた人物は、ホールデンの親友であったオルダス・ハクスリーの兄にあたるジュリアン・ハクスリーであるとされる。

一般的なトランスヒューマニストたちは、ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報工学制御工学、認知科学、そして神経科学などの分野から出発して、人工知能ヴァーチャルリアリティエンハンスメント(enhancement)、遺伝子操作などの方法を利用することで、寿命の延長、肉体の強化、脳とコンピュータの接続などといった研究テーマを展開している。トランスヒューマニストは、科学技術によって人間を「人間後(ポストヒューマン)の存在(Posthuman Existence)」へと進化させるべきであり、そうなり得ると想定している。

『サイボーグ宣言』の意味論

「我々は皆キメラ(chimeras)である」という挑発的な主張で知られているダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言(A Manifesto for Cyborgs)』は、1985年に発表されて以来、多くのフェミニストやSF評論家たちによって幾度と無く読まれてきた。ハラウェイの著作は、とりわけサイバーパンクの作品群を読み解く上での理論的背景を築いている。この『サイボーグ宣言』は、人間と機械の区別人間動物区別などといった旧来の境界を超越しようとする点において、「人間後(ポストヒューマン)の存在(Posthuman Existence)」を記述する上での意味論として機能している。

サイボーグ(Cyborgs)」という概念は、もともとはアメリカの医学者マンフレッド・クラインズとネイザン・S・クラインが1960年代に宇宙旅行との関連から提唱した概念である。サイボーグ技術の当初の参照問題は、宇宙空間で起こり得る循環器系や呼吸器系の障害である。サイボーグ技術は、この問題に対する解決策として導入されている。それは生物学的機能を機械的に代替することで身体を支援するべく機能する。この問題設定の背景にあるのは、科学と技術に対する楽観的な展望である。当時の宇宙旅行は、人類が自身の生物学的進化に積極的に寄与することを求めている事例の一つとして社会的に認知されていた。科学的な進歩は、人類が現在見知っている自然とは極端に異なる環境人間を存続可能にするために利用され得ると考えられていたのである。

「宇宙にいる人間が、飛行機に乗ることに加えて、自身を生かし続けるために、常に物事を点検して調整する必要がある場合、人間は機械の奴隷になる。人間の恒常性システムと同様に、サイボーグの目的は、そうしたロボットと似た諸問題を自動的かつ無意識的に取り扱う組織システムを提供することにある。それは、人類を探索、創造、思考、そして感覚のための自由を与える。」
Manfred E. Clynes, and Nathan S. Kline, (1960) “Cyborgs and space,” Astronautics, September, pp. 26–27 and 74–75. 引用はp.27より

語源として言えば、サイボーグとは、「サイバネティクス的な生物(Cybernetic Organism)」を意味する。サイバネティクス的であるというのは、身体の生物学的な自己制御機能に関与するからだ。実際サイボーグ技術は「自己制御的な人間-機械のシステム(self-regulating man-machine systems)」として考案されている。自己制御的であるのは、身体そのものの「自律的恒常性制御(autonomous homeostatic controls)」と協調するために、意識に依存しないという意味においてである。サイボーグとは、無意識的(unconsciously)に統合された恒常性維持システムとして機能するように、身体を外生的に「拡張(extended)」するシステム複合体に他ならない。こうしたシステムは、宇宙空間のような新しい環境適応させるために、生物の自己制御機能拡張する要素を積極的に活用する。

ハラウェイが定義する「サイボーグ(Cyborgs)」もまた、「サイバネティクス的な生物(Cybernetic Organism)」を意味する。ただしハラウェイのサイボーグ論は、必ずしも科学と技術の進歩に楽観的な発想によって記述されている訳ではない。サイボーグは機械と生物のハイブリットであると共に、虚構の生物であり、また社会的実在の生物でもある。サイボーグとは、通信工学制御工学によって構成された生物であると共に、社会で「人間」と共同している存在でもある。自己同一性や身体に関して本来的に両立不可能な二項を必要とするが故に、サイボーグはこの両者を包摂しているのである。既に対極的な二項を自己の内部に包含しているサイボーグは、それ以上自己とは異質な存在や異なる起源を持つ存在との一体化を求めようとはしない。それ故にサイボーグは、両立不可能な二項を包摂すると共に、自己の起源を度外視できるという意味で、既成概念を超越する存在と見做されている。

注意しなければならないのは、この『サイボーグ宣言』の副題が、「1980年代の科学と技術、そして社会主義的フェミニズムについて」であるということだ。この論文は、本来文学の分野に特化した著作なのではない。『サイボーグ宣言』は、SF批評の理論武装のためではなく、現実の社会情勢、当時で言えばレーガン政権の政治的現実を参照問題としている。1980年代という時代に対して、フェミニズム、社会主義、そして唯物論的な思想という三本柱を信条とするアイロニカルな政治的神話を構築することが、『サイボーグ宣言』の目論見である。無論この表現はアイロニカルだ。これら三本柱に対する信条とは、その対象への冒涜に等しく、神話の構築はその解体に等しい。言い換えれば、『サイボーグ宣言』は、矛盾闘争で満ちた世界で如何にして思考し行動していくのかという問題に取り組むための政治的提案が狙いであったのだ。

人間中心主義からの脱却

ハラウェイの政治学の目的は、西洋思想として記述されてきた「人間」からの脱却である。ここでいう「人間」とは、人種差別的、男性優位的、資本主義的、進歩主義的な概念である。この「人間」の伝統は、我々が文化的生産の源泉と豪語することで自然を搾取する伝統として記述されている。それは自然文化区別、肉体と精神区別、公的と私的の区別などといった様々な二項図式を構成してきた。『サイボーグ宣言』の狙いは、こうした伝統から脱却することで、二項対立に起因する搾取や抑圧、階級やジェンダーのような問題の無い世界を求めているのである。

「人間」の境界の解体

ハラウェイによれば、世界や身体に境界線を引いてきた様々な区別は、や解体しつつある。そしてハラウェイは、この境界が科学と技術によって解体してしまっているという。この境界の解体は、次のような三段階によって進められてきた。

ハラウェイが指摘する第一の境界の解体は、人間動物区別に基づいている。生物学と進化論によって、人間動物差異はほぼ消滅しかけている。とりわけダーウィニズムが到来して以来、社会は、人間動物の一種に過ぎない可能性を認知せざるを得なくなった。そしてこの可能性は、自然と超自然区別、医学と法学の区別理性狂気区別、兆候と疾患の区別などのような二項図式を信頼してきた近代的主体を強く動揺させている。

人間動物差異が曖昧化すると共に、この双方を包括した概念となる有機体が、機械的存在との差異によって認識されるようになった。だがサイバネティクス理論が機械的存在人間とを同一の理論で記述することを可能にして以来、自然人工区別精神と肉体の区別、機械と生物の区別の間の差異の全てが尽く曖昧化することになった。これが第二の境界解体である。

や有機体と機械的存在は、コード化されたテクストとして再記述され、共通化することが可能になっている。ハラウェイによれば、この有機体と機械的存在の曖昧化は、単なる計算上の機能主義的な合理性をもたらすだけではない。それは境界侵犯による快楽の享受を可能にする。有機体と機械的存在の曖昧化は、人間の機械化による完全性の実現という虚構を生み出すとハラウェイはいう。この虚構は、まさしく『ニュー・ロマンサー』的な電脳空間の魅力を伴わせる。だがサイバネティクス的な機械的存在が仮に永遠に持続する脳の夢であるとすれば、それはコンピュータ計算に自己を譲り渡すことによる理性の放棄というよりは、むしろ道具的理性への奉仕意味するのである。

それ故に『サイボーグ宣言』は、科学技術万能主義の神話を提唱している訳ではない。身体的境界の解釈を誰が操作するのかを考えてみれば、ネットワークの有する神話性も可視化されてくるであろう。「人間」を何かに喩えるなら、コンピュータ構成要素やサブシステムと同様に、統計的な計算機能を主とするシステム・アーキテクチャが最も相応しいとハラウェイは述べている。全ての事物、空間、肉体はそれそのものとして聖なのではない。むしろ「人間」の全ては部品なのであって、然るべき規範やコードで記述された共通言語で命令を入力しさえすれば、部品相互が連動するように設計されているのである。

こうした「人間」と機械の密接な結合という認識は、聊か未来志向的でありながらも、1980年代の時代背景にも照応している。1980年代には、脳に三次元的な映像を送信する「ホロフォニクス(Holophonics)」のように、感覚器官を制御する知覚メディアが既に開発されている。ただしこの「人間」と機械の構造的な結合は、必ずしも「人間」の外部に機械が接合するという形式によって成り立つ訳ではない。「人間」と機械の差異が曖昧化しているというのは、や「人間」の内部に機械が入り込む余地が生まれているということなのである。

この境界侵犯の決め手となるのが、第三の境界解体である。それは物理的なものと非物理的なものの差異の曖昧化によって結実する。マイクロエレクトロニクス化した機械的存在は、遍在的で、視認できない程に微小である。ハラウェイは、こうした科学技術が不遜な成り上がり者ので、父なるの遍在性と精神性をパロディ化するという。

技術的特異点(シンギュラリティ)

ハラウェイの分析はあくまでも1980年代の科学技術や政治システムの作動の実態を観察した上で実施されている。System of Systemsの高度の複合性情報の加速的な通信、物質的なものが非物質的なものになるまでのマイクロ化によって、人間中心主義的な意味での「人間」は、コンピュータから繰り出されるショック効果を絶えず体験し続けることになった。

技術的特異点(technological singularity)」、あるいは単にシンギュラリティと呼ばれている概念は、この人間中心主義的な意味での「人間」に止めを刺すパラダイムである。正確性を期する意味で基礎概念(Concept)を確認するなら、「技術的特異点シンギュラリティ)」は、人工知能人間の能力を超越する決定的な瞬間を言い表している。それは人間存在そのものを変容させるトランス・ヒューマニズム的なテクノロジーの加速的な進化によって結実する。技術的特異点シンギュラリティ)以降の人間社会システムがどのように変異していくのかは、未だ誰にもわかっていない。しかし明らかなのは、テクノロジーの加速的な進化が、次なる進化の加速化を招くということだ。遂にはテクノロジーが、人間の領分を完全に超越した速度人間社会システム進化させ続けていくことになる。

確かに、既にその兆候は視えている。GoogleのTensorFlowをはじめとした機械学習ライブラリは、人工知能の研究開発をブラックボックス化することで加速化している。Microsoftの人工知能チャットロボット「Tay」は、Twitterでヘイト発言を繰り返したことで、人間人工知能の「共生」の問題を顕在化させた。IBMの認知コンピューティングである「Watson」は、専門家の代役を務め始めたことで、テクノロジーとビジネスに対する影響力を強めている。

しかしこれらの動向は、技術的特異点シンギュラリティ)を保証している訳でもなければ、それを阻害している訳でもない。これらの技術的発展が可能にしているのはテクノロジーの進化に過ぎず、社会システム全体を含めた進化ではない。真に技術的特異点シンギュラリティ)を実現するのならば、この双方の進化を加速化させる方法を追究しなければならない。

カーツワイルによれば、技術的特異点シンギュラリティ)は2045年に予定されている。しかし人工知能をはじめとしたトランス・ヒューマニズム的なテクノロジーは、現在において既に加速的な進化を実現している。故にこのカーツワイルの予測は外れる可能性もある。あるいは技術的特異点シンギュラリティ)が早期到来を迎える可能性すらあり得るのだ。

「収穫加速の法則」

カーツワイルは、「収穫加速の法則(The Law of Accelerating Returns)」という主題の下で、科学技術の進化が指数関数的に加速化していくという仮説を立てていた。カーツワイルによれば、コンピュータ技術やそれを取り扱う産業組織は、費用対効用や合目的性など、様々なポジティブ・フィードバック・ループを形成することで進化を成し遂げていくという。

この法則が言い表しているのは、科学技術の進化が、産業組織構成された社会システム進化をも助長しているということだ。厳密に言えば、相互に進化を助長し合っているという点で、科学技術と産業組織は「共進化(co-evolution)」の関係にあると言える。科学技術と産業組織進化を可能にする方法やパラダイムは一つではない。進化が伴うのは、様々な方法やパラダイムの中からより有用な方法やパラダイムが選択された場合だ。こうした選択によるポジティブ・フィードバック構成されると、コンピュータ技術や産業組織は、更なる発展のために必要となる資源を増大させることが可能になる。発展のために配備できる資源が増大すれば、それだけよりスムーズな発展が可能になる。

カーツワイルの仮説を前提として考えた場合、既存の進化が後続の進化を助長するということは、既存の進化が後続の進化を加速化させるということである。進化は、進化するごとに、加速化していく。<加速化した進化>は、更なる<進化の加速化>を可能にする。カーツワイルは、この動向を指数関数的に増大していく傾向として見積りを立てている。彼の仮説によれば、一つの具体的なパラダイムは、その方法やアプローチがその可能性を使い切らない限り、指数関数的な成長を可能にするという。可能性が潰えれば、パラダイムは別様のパラダイムへと転換される。新たな指数関数的な成長を担うのは、その新パラダイムなのであるという。

カーツワイルによれば、人類の種としての進化は、<生物学的な進化>から<技術的な進化>へと転換することになる。これも一つのパラダイム転換だ。指数関数的な成長を許された生命の形式は、自らの進化に数十億年必要であったもののが、数千万年、数十年で済むことになるという。技術的な進化のパラダイムを率いるのは、テクノロジーだ。人類の種としての進化は、もはや人間中心主義的に実現させるのではなく、コンピュータ主導で実現することになる。

すると文明を担うことになるのは、人間超越した人間後(ポストヒューマン)の存在になる。この関連からカーツワイルは、コンピュータ人間の知性を超越する時代の到来を予見している。彼はその時点を技術的な「特異点(Singularity)」と呼ぶ。

特異点が指し示すのは、技術的な進化における「事象の地平線(event horizon)」に他ならない。特異点以降の技術的な進化は、もはや歴史から推論することができない「非知(Unknown)」の領域となる。数学的に言えば、特異であるということは、既存の適切な枠組みでは定義できないということを意味する。特異点は、一定の枠組みで定義し得る対象と定義し得ない対象を区別する境界線上の「点」だということになる。

ここまで確認すれば、技術的特異点シンギュラリティ)に対するカーツワイルの未来志向に潜む致命的な盲点が露呈することになる。技術的特異点シンギュラリティ)は、まず歴史との連続的な関連を持たない。むしろこの特異点が発現するのは、歴史的な連続性が断ち切られる瞬間である。カーツワイルの未来志向に伴っているのは、この非連続性を「指数関数的」という連続性を前提とした概念で予測するという矛盾である。

リスクと危険の差異

恐らくカーツワイルが見積もりを立てている技術的特異点シンギュラリティ)の瞬間は、歴史危機たる破局の瞬間の一例となり得る。それは人工知能研究やロボット工学、IoTのアーキテクチャをはじめとした様々な知覚メディアによって可能になるショック体験の瞬間となり得るだろう。科学技術の加速的な進化に対して批判的な眼差しを向ける一般市民は少なくない。

哲学者ボストロムは、単に無知ゆえに科学技術を非難している訳でもなければ、単に闇弱ゆえに新技術の楽観論を展開する訳でもなく、冷静な哲学的眼差しから新技術のリスク観察している。その際ボストロムが導入する区別は、「強度(Intensity)」と「範囲(Scope)」の区別である 。「強度」は人口の大小で差異化された尺度に他ならない。「パーソナル」から「ローカル」、そして「グローバル」に至るまで、徐々に「強度」は増していく。「パーソナル」が個人的なリスクとなる一方で、「グローバル」は、全人類的なリスクとなる。他方、「範囲」の尺度となるのは、「耐久的(Endurable)」と「終端的(Terminal)」の差異である。「耐久的」と「終端的」の区別は、直面するリスクの壮絶性を定義している。耐久的なリスクは壮大な破壊を意味する。しかしそれは、回復不可能ではなく、対処法の発見が可能なリスクである。一方これと対照的に、終端的なリスクは、死や永続的な脳障害などのように、回復が困難であるか、あるいは不可能なリスクに他ならない。

「耐久的でパーソナルなリスク」の場合、車の窃盗などのように、個人が直面するリスク意味する。だが車が盗まれたとしても、それが回復不可能な問題に直結する訳ではない。法システムが作動すれば、ある程度その問題を解決することが可能だ。これに対して、「終端的でパーソナルなリスク」の場合は、致命的な交通事故などのように、個人が直面するより壮絶なリスクとなる。事故死した運転手が生き返ることはあり得ない。故にその問題は回復不可能なのである。

一方、「耐久的でローカルなリスク」は、一国の不況などのように、ある特定文化圏の集団が直面するリスクとなる。だが不況という問題は、経済システムや政治システムが作動することで、回復させることが可能な問題だ。これに対して「終端的でローカルなリスク」は、集団が直面するより壮絶なリスクとなる。それは死に直結したジェノサイドやテロリズムのように、生態的な破局を含意している。

他方、これにも増して深刻化しているのが、「耐久的でグローバルなリスク」である。例えば地球環境破壊や生態系を巻き込んだ戦争などのように、この類のリスクは、社会(Gesellschaft)の全人類が直面する大規模な問題として観察されることになる。だがこの類のリスクも、回復不可能であるという訳ではない。例えば二酸化炭素の排出量を抑えれば、オゾン層の破壊を軽減することはできるかもしれない。むしろ最も深刻なのは、「終端的でグローバルなリスク」である。このリスクは、「非知の問題X」である。問題Xとして潜在化している「終端的でグローバルなリスク」を、ボストロムは特に「実存的なリスク(existential risks)」と呼んでいる。これについては、例えばチェルノブイリや福島の原発事故を思い描けば、容易に連想できるだろう。技術により勃発した事故や災害によって、地球生命体が絶滅へと向かうシナリオは、実存リスクの最も明確な一種として挙げられる。それは、生命システム共生機構を破綻させる災禍に満ちた破局の状態であると言えよう。

ここで重要となるのは、社会学者ニクラス・ルーマンが導入した「リスク(Risk)」と「危険(Danger)」の区別である。通常なら我々は「リスク」と「安全」を区別している。だがルーマンのこの区別が言い表すのは、<より顕在的な問題>としてのリスクと<より潜在的な問題>としての危険差異である。我々がリスクを顕在的な問題として発見できるのは、その時には発見することのできない潜在的な問題に盲目的になっているためである。全ての問題を一時に発見し尽くすことなどできはしない。発見可能な問題と発見不可能な問題を何処かで線引きしなければ、リスク観察など不可能なのである。

ボストロムが言及している問題Xとしての「実存的なリスク」は、このリスク観察の不可避的な盲点として潜在化している純然たる危険に他ならない。ボストロムによれば、この「実存的なリスク」の解決を目指す者たちに、試行錯誤の時間が与えられることは許されないという。リスクコミュニケーション組織にせよ、倫理的な規範を重視するモラリストたちにせよ、国際的なセキュリティ機関にせよ、社会システムには、失敗から学習する機会すら与えられないという。過去体験した出来事に基づいた条件反射的なアプローチは、全く役に立たないのだ。「実存的なリスク」の観察者は、積極的なアプローチを採らざるを得ない。つまり、先手を取る形で、リスクを予期していくしかないのだ。とはいえ、このボストロムの提案にも、危険は不可避的に伴うであろう。

ルーマン流に言えば、科学技術のリスクコミュニケーション盲点として派生する「危険」こそが、それまでの歴史の連続性から観れば全く別のあり方でもあり得る体験へと結実し得る。だから、その事象の地平線で遭遇することになるのが人工知能なのか、ロボットなのか、ナノテクノロジーなのかといった問題設定で技術的主題を方向付けてしまうと、むしろ想定外の偶発的な技術者の貢献から創発することになるであろう新技術の危機性を助長することになるのである。

派生問題:医療の社会構造と「バイタルサイン」の意味論

人間」のサイボーグ化をはじめとしたトランスヒューマニズム的な科学技術は、「人間」の心身に働き掛けるという点では、「医療機器」と共通する問題領域にある。この関連からハラウェイの『サイボーグ宣言』を注意深く読んでみると、ハラウェイは「臨床実践としての生物学(Biology as clinical practice)」が「記述されたものとしての生物学(Biology as inscription)」へと変換されていくと主張している。「記述されたものとしての生物学」とは、無論コンピュータによって記述されたコードとしての生物学である。こうして変換された生物学は、もはや自然のものとしてはデコードできない。有機体が生体部品に変換され、生理学が通信工学へと変換され、労働がロボット工学に変換されるのと同じように、全ては人工物となる訳だ。

かつて臨床医の方法論には身体を有した患者と医療機器を用いた治療が必要であった。だが現代の我々は、ハラウェイの指摘を前提とするなら、コード化されたテクストと通信機器があれば事足りるということになる。しかし、このポストモダニズムの思想は、近代社会の「医療システム(Medizinsystem)」、ないし「医療システム(System der Krankenbehandlung)」の作動を適切に捉え切れていはいない。何故なら医療システムは、ハラウェイが述べる意味での情報工学制御工学が発展してからも、医療的なコミュニケーション構造コンピュータを導入することができているためだ。このことは医療システム社会構造と「医療機器」の歴史意味論を簡単に確認するだけでも直ぐにわかるであろう。

問題解決策:知覚メディアとしての医療機器

医療機器は、一種の知覚メディアとして機能している。つまり、医療機器は医師の患者に対する知覚拡張する。そのことによって、医療機関は病気に関する様々な知見を発見してきた。

自然の再生

まだ医療機器が発達していなかった頃の古代医学は、技術ではなく魔術に頼っていた。古代社会における医療根源的な象徴は「蛇」であったと考えることができる。ギリシア神話に登場するアスクレピオスは、手にした杖を振るうことで、病を追い払うことができていた。その杖には蛇が巻き付いていたという。ギリシアからローマの時代に掛けて、長らく蛇は厄病の守りとして崇められていた。脱皮することで若返る様に観られるように、蛇は「健康」、「不老」、そして「再生」の象徴であったと言われている。

アスクレピオスから影響を受けた聖医ヒポクラテスは、人間が生来的に持ち合わせていた自然治癒力に焦点を当てて、独自の医学を発展させた。彼が提唱する「自然(physis)」という概念は、古代ギリシア哲学において、人間の主観からは独立した永遠の真理として語られた。ヒポクラテスは、医療との関連において、人間自然の「再生」能力の重要性を強調した。

実際、ヒポクラテスが語る「自然」概念は、人間の持つ自然治癒力と強く結びついている。この自然治癒力は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の四体液説を前提としている。人間が病に倒れるのは、この4つの構成要素のバランスが崩れた時であるという。そのため、病人に対する医師の役目となるのは、このバランスを調整することであるとされた。

自然治癒力のバランスを整えるために勧められたのは、現代の健康管理方法にも相通ずる方法であった。例えば適度の食事、運動、睡眠、休息などが基礎的な取り組みとして提案されている。だがヒポクラテス流の医療では、自然治癒力のバランスが崩れた場合であっても、それを人為的に調整し過ぎてはならず、あくまで自然に任せることが強調されていた。ヒポクラテスにとって、自然はあくまで限定条件であったのだ。

尤も、ヒポクラテスの医療はあくまでも魔術との関連からは解き放たれてはいなかった。例えば「癲癇(Epilepsy)」を主題にした場合には、ヒポクラテスの医療の魔術性は顕著になる。神経科学的に言えば、癲癇とはニューロンの過剰な発火(Spike)によって引き起こされる反復性の発作だ。だが神経科学など無かった頃のヒポクラテスは、この症状を聖なる病として記述していた。癲癇は、それまでは宗教的な主題でしかなかったのだ。これが医学の主題として捉えられるのは、ジョン・ヒューリングス・ジャクソンが「側頭葉癲癇(Temporal lobe epilepsy)」という概念を定義する19世紀まで待たなければならなかった。

医師の知覚のメディアとしての医療機器

ヒポクラテス以後の医療の発達は、専ら身体を対象とした知覚メディアの発達と共に進展していった。ここでいう知覚メディアとは、現代医療であれば医療機器として扱う技術の類のものだ。人類が新たな発見から身体や生命に関する認識を改めてきた背景にあったのは、この身体に対する知覚メディア変異であった。

例えば1595年、オランダのヤンセン父子が顕微鏡を発明した。それまでの診察は医師の視聴覚あるいは触覚のみを用いた観察に依存していた。だが顕微鏡が医療の世界に導入されたことによって、医師のとりわけ視覚が拡張されたと言える。顕微鏡の導入は、血液内の血球や皮膚の細胞など、ミクロな対象への理解を促進した。

身体情報のメトリクス化という観点では、1612年にサントリオ・サントリオが同僚のガリレオ・ガリレイによって考案された温度計を「体温計」として活用し始めた。一方1733年になると、度は牧師ヘールズによって血圧の測定が試みられた。温度にせよ圧力にせよ、まだ物理学的に十分には追究されていなかった時代に、彼らは早くからこれらの技術を医療において再利用していたのだ。だがこうしたメトリクス化によって測定可能になった指標も、科学的な原因究明としてはまだ機能していなかった。そのためにはまだ、医師の知覚拡張が不十分であったのだ。

しかし1800年代になると、この医師の知覚拡張という問題も徐々に解決されるようになった。例えば1816年には、ルネ・ラエンネックによって聴診器が発明される。1881年にはヨハネス・ラデスキーによって胃鏡が発明される。そして1895年には著名なヴィルヘルム・コンラート・レントゲンによってX線が発見された。シポオーネ・リヴァロッチの水銀血圧計によって、遂に血圧を正確に測定できる技術が確立された。医師の身体に対する視聴覚は徐々に拡張していったのだ。

医療機器の複製技術化

以上の歴史を簡単に振り返るだけでも、医療や医学の社会進化医療機器と深く関係していることがわかる。そしてこれらの医療機器に共通して観られる機能は、医師の身体に対する知覚拡張させるメディアとしての機能であった。したがって、知覚メディア理論等価機能主義方法を採用することによって、我々は人間身体意味論医療システム社会構造との関連を分析することが可能になると考えられる。

医療関連の専門組織には、比較的規模の大きい医療機器が導入されている。例えばX線のCT(computer tomograpy; CT)、陽電子放射断層撮影装置(Positron Emission Tomography; PET)、脳電図(Electroencephalogram: EEG)、機能的磁気共鳴画像(functional magnetic resonance imaging: fMRI)などは、大規模な医療機器の典型的な例として挙げられる。

とりわけEEGとfMRIは、神経システム結合する知覚メディアであるという点で、機能的に等価である。だがそのメトリクス化の方法には差異がある。

EEGは、極めて感度の高い小型マイクのセンサーによって、脳波が生み出す微弱な電気信号を観測する受動的な測定技術である。非侵襲性であるため、調査対象者の頭部に危害を加えることは無い。EEGのセンサーは水泳帽によく似た軽量の帽子に埋め込まれている。この帽子を被せることによって、EEGは調査対象者の脳波活動によって生じる毎秒2000回の微弱な電圧の電気信号を計測できるようになる。

EEGの観測は脳全体を対象としなければならない。何故なら脳内の各部位は、それぞれ複数の機能を担っているためである。脳全体を一挙に観測しなければ、どの刺激に対してどの部位が同時共鳴しながら反応しているのかを把握することができなくなる。脳の一部しか観測しないようでは、脳内の複雑な相互依存関係に関する重要なデータを見落としてしまうことになるのだ。

EEGのセンサーを何処に装着するのかも重要な問題となる。EEGのセンサーは極めて感度が高い。そのため、脳波活動以外にも、様々なノイズを受信してしまう。装着する場所によっては、調査対象者の瞬きでさえノイズとなる。瞬きもまた一つの筋肉運動に他ならない。それは脳波活動の最大100倍もの電圧を発生させてしまう場合もある。したがって、測定する段階で、こうしたノイズへの対策が必要になるのである。

EEGによる観測が脳波を対象としているのに対して、fMRIは脳内の血中酸素濃度の増減を対象としている。この増減を比較可能にすることによって、fMRIは脳内のどの部分が活性化しているのかを視覚化してくれる。調査対象者は、長く狭いチューブ状の非常に強力な磁石に囲まれた状態でスキャニングされる。これらの磁石を作動させると、電場が発生する。この電場によって、血中酸素濃度を計測していくのである。
ある部位の神経システムの作動が活性化すると、その部位における血液の量が増えることになる。血液を介して酸素を送ることで、その神経システムが作動に必要とするエネルギー源を与えているのである。したがって、ある刺激を呈示した直後に血中酸素濃度が増減した箇所を調べれば、脳内のどの部位がその刺激に対して活性化したのかを知ることができる。

医療機器の小型化

これらの機器よりも比較的小規模な医療機器は、医療機関に限定されずに、我々の日常生活の中でも応用できるほどに小型化されてきている。小型化された医療機器は、バイタルサイン医療機関に依存せずに分析することを可能にする。

小型化された医療機器はウェアラブルデバイスという形式複製技術化することによって日常生活にも普及可能になる。例えばアメリカのアンビュラトリモニタリング社(Ambulatory Monitoring Inc.)から販売されている手首装着型の生体活性測定装置アクティグラフ(Actigraph)は、睡眠覚醒判定機器として、多くの睡眠研究者によって奨励されて使用されている。この測定器の開発は1970年代前半から継続されていた。当初は脳波の計測のように睡眠の質までは判別できなかった。それは睡眠回数や覚醒回数、あるいは双方の比率を記録することで比較可能にするだけであった。だが1980年代以降も開発が継続された。それにより、体活性データのノイズ除去性能を向上させるなど、計測の精度を向上させる試みが徐々に実を結んでいった。睡眠と覚醒の判定を自動化する試みや、装置そのものを小型化していく試みも、徐々に報告されるようになった。そして、遅くても1990年代には、手首に装着できるマイクロミニ型のアクティグラフが導入された。手首に装着するだけでデータの蒐集が可能になったことで、アクティグラフは更に日常生活パターンの測定にも応用されるようになった。

やアクティグラフは腕時計型の加速度センサーとして機能している。そのセンサーからは、腕の運動情報の観測によって、身体活動量やそのパターンをメトリクスとして抽出することが可能になっている。しかも装置そのものの重量は約40グラム程度で、生活上の負担も少ない。初めから睡眠と覚醒の判定機能として設計されているために、応用次第では日常生活の全般に渡る「ライフログ(lifelog)」すら計測可能になる。この装置はもはや医療機関の病院の内部では手に入らないバイタルデータすらも蒐集してしまうウェアラブルデバイスの代表作となっている。

問題解決策:バイタルサイン小史

医療機器それ自体は目まぐるしく変異しているかのように見える。だが医療的な観察の対象となるのが人間身体であるということから、その参照データは限られている。こうした医療機器は、「バイタルデータ(vital data)」の入力を前提とした通信工学制御工学の産物とも見做せる。バイタルデータは、「バイタルサイン(vital signs)」をメトリクス化したデータを意味する。このバイタルデータをセンシングする技術はや一般人の手の届くツールに搭載されつつある。医療機器はこうしたセンシング技術の機能的等価物に他ならない。

バイタルサインとしての体温

サントリオが同僚のガリレオによって発明された温度計を「体温計」として応用し始めて以来、体温が医療観察対象となった。だが当初から体温がメトリクス化されたデータとして分析されていた訳ではなかった。ガリレオが設計した温度計は、アルコールの熱による空気の膨張と収縮を利用していた。この温度計では、空気の膨張としてしか温度を計ることができなかった。

温度計に「目盛り」という指標概念が導入されたのは、物理学者ガブリエル・ファーレンハイトが「華氏」という指標を提唱してからのことだ。それまでのアルコールを用いた液柱温度計では、温度計測に不確実性が伴うことが知られていた。「華氏」は、真水の凝固点を32度で、沸騰点を212度とした上で、その間を180等分して1度としている指標だ。アルコール温度計や水銀温度計は、この指標を採用することで、より正確な定量化を実現した。尤も、ファーレンハイトの提案が直ぐに臨床的に応用された訳ではない。例えば水銀温度計は、1800年代のイギリスの医師たちの開発によって、漸く医療機器として応用されることになった。

その後の体温という概念は、専ら測定精度の比較に曝された様々な医療機器によって言及されることになった。例えばサーミスタ温度計は、温度の増減に紐付けて抵抗値を増減させることのできる特性を有したサーミスタ(thermally sensitive resistor)を応用した温度計だ。サーミスタは、温度それ自体を電気抵抗に変換することができる。故にそのサーミスタを経由して流れる電流の変異を辿れば、温度を計測することが可能になる。一方、赤外線を感知することで温度を計測する機器も開発されている。この体温計は、身体の表面から放出されている赤外線放射エネルギーを検知することで体温を計る。電磁波の放射という形式で伝達されてきた熱を計測することにより、この体温計はサーミスタの体温計と遜色の無い精度で計測することを可能にしている。体温の測定に利用する物理学的な原理は異なれど、体温のメトリクス的なデータ分析を可能にするという点では、これらの医療機器機能的に等価だ。

バイタルサインとしての心電図

心電図は体内の電気現象に関するメトリクスに他ならない。だが心電図が提唱された時代は、まだ電気に関する物理学的な知識が未熟であった時代であった。体温は、サントリオによって、ガリレオの温度という概念の後を追う形で導入された。一方で心電図は、むしろ逆に医療の側が先行して研究していた事例であると言える。

心電図の測定に初めて試みたのは、1900年代初期の生理学者ウィレム・アイントホーフェンであるとされる。彼は心臓に電気現象が生じていることを見抜いたが、その案が直ぐに受容されることは無かった。まだ電圧の測定すら儘ならない時代だ。アイントホーフェンは、自身の案が認められるためには、自らで電流計を開発することで証明するほかはなかった。そこで彼は、検流計を改造することで生体の電気現象を計測しようとた。心臓の鼓動に合わせて電流計の針が動作する仕組みで微小電流の測定装置を開発したのだ。

誘導電極により、身体の電気的現象を抽出することが可能になる。通常心電計ではアイントホーフェンに由来する四肢電極が用いられる。だが生体の電気は微弱な電位としてしか得られない。そこで三極真空管を用いた増幅器によって、入力信号の増幅状況を拡大することで、実際よりも大きなエネルギー出力信号を抽出できるようにしておかなければならなかった。

こうした要求が満たされることで、心電図のメトリクス化は実現したかのように思えた。だがこのメトリクス化されたデータのモニタリング機能が整備されるまでには、もう少し時間を要した。いわゆる「心電図モニタ」が臨床現場に導入されたのは1970年代であるとされる。心電図の抽出が可能になった時期から心電図モニタが応用されるまでの間には、少なからず50年以上の開きがある。このギャップを派生させたのは、心電図の計測対象であった。

心電図の計測から派生した問題は、電気を利用することによる「患者」のリスクとして発現した。とりわけ電極のように、患者と計測器を接続させている部位に関しては、電源から絶縁させることで、「漏れ電流」から守らなければならない。アメリカのサンボーン社が「フローティング方式」の心電図モニタを採用したのは、この関連においてだ。フローティング方式は、絶縁トランスを利用することで、電極を含む患者の回路を計測器本体から絶縁させる方法であった。この安全性の対策は、心電図のみならず、他のバイタルデータの測定に対しても影響を与えている。

心電図の計測とそのモニタリングの発展にギャップを伴わせていたのは、電気的リスクだけではない。別の要求事項として、心電図モニタには長時間の観測技術も求められていた。と言うのも、心電図の計測によって明確化するのはその計測時点における生体情報であったからだ。だが身体は常に何らかのバイタルサインを発している。その全てを観測するには、長時間モニタリングする技術が要請される。有名なホルタ心電計は、この要求に対応するべく設計された。だが記録方法として採用していたテープレコーダでは、テープを回転させるモータの回転音が患者に不快感を与えてしまっていた。故に記録媒体にはテープではなくハードディスクが採用された。更に利便性の観点からICメモリカードによる記録にも注力された。こうして心電図モニタは、小型化と軽量化にも対応しなければならなかった。

バイタルサインとしての血圧

生体電気に比べれば、血圧は比較的表面の観察によってメトリクス化が可能になる。そのためなのか、血圧に関しては機能的に等価な測定方法が豊富に発見できる。とはいえ、ルーツになっているのはリヴァロッチが最初に試みた血圧測定だ。この血圧測定では、空気で膨張するゴム製の袋による加圧によって血圧を測定する技術が採用されていた。いわゆる「オシロメトリック法」は、この圧力を徐々に下げた際に派生する振動から圧脈波の波形を記録することで最高血圧を測定する。一方「コロトコフ音」を用いた測定方法は、逆に圧力を急速に上げることで血流を完全に遮断するところから始まる。徐々にその圧力を下げていきながら、その後初めて流れる血液のコロトコフ音が聴こえた際、その血流の脈波から最高血圧を抽出する。その後も圧力を下げていく。そしてコロトコフ音が聴こえなくなるところから、最低血圧を抽出する。

オシロメトリック法には振動の振幅が大きくなると測定結果も曖昧になるというデメリットがあった。コロトコフ音法についても、コロトコフ音が完全に消失する訳ではないために、厳密な最低血圧の測定では不確実性が残るとされた。しかし遅くても1970年代には、これらの測定法を用いた自動血圧測定器が医療現場に導入されている。実際問題として、血圧は医療的に有用な情報源であった。単純に「高血圧」と「低血圧」の区別を導入するだけでも、相関する病気の予測に役立てることができる。若干の曖昧性や不確実性が伴おうとも、医療的に機能するが故に、血圧という概念は有用な概念として参照されているのである。

バイタルサインとしての脳波

ハンス・ベルガーが発見した「脳波」は、脳によるバイタルサインであると考えられる。ベルガーは人間の脳における電気的現象を記録することに成功した。だが当時の周囲の研究者たちからは、それが単なる「ノイズ」ではないのかと疑われていた。だがエドガー・エイドリアンらの追試実験によって脳波存在証明されて以来、ベルガーは脳波の発見者として讃えられることになった。

脳波存在が受容されて以来、その測定を可能にする医療機器の開発にも注力されるようになった。脳波の測定器に求められる要件は比較的高い難易度を示していた。脳波の振幅は心電図に比して低い。故に高精度な増幅器が要求された。だが脳波に関して言えば、その測定方法以上に、その概念の意味が注目を集めた。

実際、脳波はリラックスした心理状態に対応する「アルファ波(Alpha Waves ; 8~12Hz)」、緊張して注意を払っている場合に対応する「ベータ波(Beta Waves ; 14~20Hz))」、脳神経情報処理を加速化させた状態に対応する「ガンマ波(Gamma Waves ; 20~40Hz)」、瞑想状態に対応する「シータ波(Theta Waves ; 4Hz~7Hz)」など、様々な心理状態と相関すると仮定されている。

これ以外にも、脳波は様々な識別を可能にする指標として機能し始めた。例えば脳波は麻酔中の患者の麻酔深度を計測する指標としても活用される。と言うのは、覚醒中と麻酔中とでは、各波形の出現頻度に差異があるためだ。応用事例として、睡眠の深さを計測する場合にも脳波が参照される場合がある。また一方では、例えば癲癇発作の最中の脳波をメトリクス化することも可能になった。これにより、特定の生体状態や心理状態に関する情報脳波から抽出することも可能になったのである。

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