ヴァーチャルリアリティにおける動物的身体の物神崇拝的なユースケース | Accel Brain

ヴァーチャルリアリティにおける動物的身体の物神崇拝的なユースケース

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ここでは、ヴァーチャルリアリティ(Virtual Reality)、サイボーグ(Cyborg)、「技術的特異点(technological singularity)」、「人間後(ポストヒューマン)の存在(Posthuman Existence)」を主題としている「トランスヒューマニズム(transhumanism)」の文化を観察していく。各記事では特に医療と心理学会の社会構造との関連から、この文化的意味論を記述していくことになる。

トランスヒューマニズムに対する批判的な意識は、人間中心主義的な「人間」概念を前提とした思想に基づいている。それは「人間とは何か」というイマニュエル・カントの問いに始まる「人間」概念の歴史的意味論に準拠した批判的な意識である。しかし、こうしたWasを問う姿勢の盲点となるのは、Wieの問いである。つまり、我々が我々を「人間」であると認識することが如何にして可能になるのかについて、この旧いヨーロッパ的な意味論は十分に回答していないのである。

このWieの問題設定は、我々が我々を「人間」であると認識することの偶発性を前提としている。と言うのも、我々が我々を「人間」であると認識することは、選択可能な選択肢であるものの、選択する必然性が無いのである。トランスヒューマニズムの文化的意味論を成り立たせているのは、この偶発性に他ならない。この偶発性を直視する時、我々は、我々が我々を「人間」であるかのように視ずに、また「人間」であるかのように振る舞わずに済む意味論を獲得することが可能になる。

「如何にして可能になるのか」という問題設定は、システム理論や社会科学の領域では「機能(Funktion)」として、また技術や工学の領域では「ユースケース(Usecase)」として分析される。トランスヒューマニズム的な科学技術は、「人間」と「技術」の構造的な結合を可能にするが、その前提にあるのはユーザーインターフェイス(User interface)のユースケースである。トランスヒューマニズム的な文化では、当初「技術」のユーザーであった「人間」が、次第に「技術」と一体化していくことになる。やがて双方の差異は曖昧化していく。だがユーザーインターフェイスとそのユースケースが消滅する訳ではない。「人間」と「技術」は、System of Systemsの諸要素として、相互行為的に参照して利用し合うアクター(Actors)になるからである。

ユースケースは機能分割のためのモデルではない。故に設計者は、ユースケースモデルをシステムが価値を提供する方法を表現する上では用いてはならない。ユースケースがモデル化するのは、外部環境から刺激を受けたシステムが機能的に何を如何に応答する必要があるのかだ。無論設計の初期には、システムはブラックボックス化させられているために、如何にして価値を提供し得るのかよりも、まず何が必要となるのかという機能要求を重点的に表現しなければならない。一方、それが如何にして可能になるのかに関するユースケースモデルは、その後のアーキテクチャ設計を通じて洗練させることになる。

以下の各記事では、トランスヒューマニズムとトランスヒューマニズムに対する批判的な意識の双方の観察を観察することで、トランスヒューマニズム的な科学技術のユースケースが盲点となっていることを指摘する。その上で、特に医療と心理学会の社会構造を踏まえた上で、当のユースケースを具体的に記述していく。

技術的特異点(シンギュラリティ)の社会構造と「人間中心主義」の意味論

「我々は皆キメラ(chimeras)である」という挑発的な主張で知られているダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言(A Manifesto for Cyborgs)』は、1985年に発表されて以来、多くのフェミニストやSF評論家たちによって幾度と無く読まれてきた。ハラウェイの著作は、とりわけサイバーパンクの作品群を読み解く上での理論的背景を築いている。この『サイボーグ宣言』は、人間と機械の区別や人間と動物の区別などといった旧来の境界を超越しようとする点において、「人間後(ポストヒューマン)の存在(Posthuman Existence)」を記述する上での意味論として機能している。ハラウェイの政治学の目的は、西洋思想として記述されてきた「人間」からの脱却である。ハラウェイの分析はあくまでも1980年代の科学技術や政治システムの作動の実態を観察した上で実施されている。だがSystem of Systemsの高度の複合性、情報の加速的な通信、物質的なものが非物質的なものになるまでのマイクロ化によって、人間中心主義的な意味での「人間」は、コンピュータから繰り出されるショック効果を絶えず体験し続けることになった。「技術的特異点(technological singularity)」、あるいは単にシンギュラリティと呼ばれている概念は、この人間中心主義的な意味での「人間」に止めを刺すパラダイムである。

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医療の社会構造と「バイタルサイン」の意味論

「人間」のサイボーグ化をはじめとしたトランスヒューマニズム的な科学技術は、「人間」の心身に働き掛けるという点では、「医療機器」と共通する問題領域にある。この関連からハラウェイの『サイボーグ宣言』を注意深く読んでみると、ハラウェイは「臨床実践としての生物学(Biology as clinical practice)」が「記述されたものとしての生物学(Biology as inscription)」へと変換されていくと主張している。「記述されたものとしての生物学」とは、無論コンピュータによって記述されたコードとしての生物学である。こうして変換された生物学は、もはや自然のものとしてはデコードできない。有機体が生体部品に変換され、生理学が通信工学へと変換され、労働がロボット工学に変換されるのと同じように、全ては人工物となる訳だ。

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心理学会の社会構造と「閾下知覚」の意味論

医療システムが「治療(treatments)」と「エンハンスメント(enhancement)」のパラドックスに直面し、人間中心主義的な人間の尊厳を倫理的に担保することに苦戦している一方で、心理学会では人間の自由意志を根本から覆す閾下知覚の研究が盛んに実施されてきた。質量とエネルギーの等価性とその定量的関係を指し示す理論が現実に応用されることで原子爆弾が生まれた時、物理学者たちは科学に対する責任に限らず、社会に対する責任をも強く意識するようになった。閾下知覚は、この原子核に相当するほど社会的に重要な現象であると考えられるようになった。科学ジャーナリストのトール・ノーレットランダーシュは、この歴史的背景から閾下知覚を「心理学の原子爆弾(The Bomb of Psychology)」と名付けている。

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物象化の社会構造と物神崇拝の意味論

人間の「本質」に関するこの人間中心主義的な概念は、社会構造と意味論に方向付けられた文化的かつ文明的な自己認識を構成している。それは、「自己(Self)」や「私(I)」に関する自己認識に他ならない。こうした自己認識は、旧ヨーロッパ的な古典的近代主義の努力の賜物とも言える。近代社会の社会構造と「人間」に関する人間中心主義的な意味論は不可分の関連にあった。しかし、今やサイバネティクス以降の諸理論は、この思想が誤謬であったことを暴露している。トランスヒューマニズムや「人間後(ポストヒューマン)の存在」は、「自己」や「私」の問題を派生させているのである。我々は、こうした「人間」であるかのような者たちに対する観察を記述するための新しい概念的人工物を発明しなければならない。すなわち、我々が我々を人間であると認識することが如何にして可能になるのかを問うのである。「物神崇拝(Fetischismus)」と「物象化(Verdinglichung / Versachlichung)」の理論は、この「人間としての自己認識」の必然性を瓦解させる理論として機能する。それは、不可避的に技術と結合している我々が「人間」であるという確信が持てないことの認識論的な負担から免除してくれる。サイボーグという形式にせよ、エンハンスメントという形式にせよ、あるいはメディアによる身体の拡張という形式にせよ、物神崇拝と物象化の理論は、「人間」と技術の差異を意識せずに済むような理論として記述されているのである。

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ヴァーチャルリアリティのメディア美学、その理念の歴史的意味論

トランスヒューマニズム的な科学技術を前提としたサイボーグの理論に要求すべきなのは、技術的特異点(シンギュラリティ)の是非やエンハンスメント論争の類のものではない。まして、「永遠」の身体を手にした「不死」の存在ですらない。むしろ求められるのは、我々の集団的な身体と知覚メディアの神経刺激を介したフィードバック・ループの設計が如何にして可能になるのかという問題設定への取り組みである。この問題解決策の一環として、我々は物象化された商品をはじめとした事物の物神崇拝者として、あえて無機物のエロティシズムに魅了されることを選ぶことになる。人間中心主義に対する破壊的な性格を止める必要は無い。我々は寓意的な蒐集家として、尚且つ物の世界の観相家として、事物としての集団の身体から身振りのように提示される「サイン」を認識することにより、脱因果論的な運命を判読する。ウェアラブル・デバイスやヴァーチャルリアリティのような知覚メディアは、単なるトランスヒューマニズム的な科学技術としてではなく、むしろ人間学的唯物論的な「身体空間」を設計する際に機能するであろう。

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