銀行の社会構造と「FinTech」の意味論、「金融」と「テクノロジー」の差異 | Accel Brain

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銀行の社会構造と「FinTech」の意味論、「金融」と「テクノロジー」の差異

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問題設定:「FinTech」という概念は如何にして可能になったのか

アーキテクトデータサイエンティストは、ビジネスニーズに含まれている様々な「バズワード(buzzword)」と向き合わなければならない。そのバズワードによって指し示されている概念がアーキテクチャ設計アルゴリズム設計において如何に有用な情報をもたらしているのかを分析する必要がある。無論、全ての分析が実り多き成果へと直結する訳ではない。生産を高めようとする知的労働において、バズワードはしばしばノイズとなる。我々は常に、有用なバズワードと無用なバズワードを区別しなければならない。「FinTech」という用語は、恐らくこの最たる例と言える。

一般に「FinTech」という用語は、金融テクノロジー(financial technology)の略語として知られている。これは専らビジネスの実践の現場において、主に電子メディア発達し始めた1990年代から、金融コミュニケーション主題として観察されるようになっている。だが、この用語は決してビジネスの実践のみを通じて定着した用語である訳ではない。例えばアブラハム・レオン・ベッティンガーは、既に1972年に提出した論文において、銀行で日常的に発生している諸問題の解決策を分析するための「FINTECH」というモデルを提唱している。つまりこの概念は、経済の問題領域のみならず、科学・学問の問題領域でも主題として観察されていたのである。

言語学は、ビジネスの現場で「バズワード」として扱われている用語に対して、その意味を分析するための記述の形式を授けてくれる。そうした策は、ある種の「意味論(Semantics)」である。言語学における意味論は、単語意味とその意味の変化を分析する。しかし、ビジネスの錯綜した現場の状態を無視すれば、そこから切り離された研究室内で実施される言語学的な意味論の分析は、「単一の定義は存在しないということ」を確認する程度の貢献に留まるであろう。

ビジネスの現場によって「バズワード化」されているという事態から考えても、こうした社会構造(Sozialstruktur)が諸概念の意味論(Semantik)に影響を与えているというのは、経験的に明らかである。一方で、意味論の変容が社会構造変異に及ぼす影響も無視できない。「FinTech」という概念の意味論が変容すれば、経済システム社会構造もまた変異する。したがって、むしろ概念の意味論が、それに対応する社会構造との関連から変異していくことを前提とする社会進化論的な意味論こそが、「FinTech」の概念を分析する上では有用となる。

問題解決策:グローバル資本主義

金融テクノロジー(financial technology)」という用語が使用される前提にあるのは、「金融」と「テクノロジー」が結合した状態にあるという社会的な背景である。「金融」の経済システムとテクノロジーが構造的に結合した状態にあるからこそ、経済システムコミュニケーションは、「金融テクノロジー」を主題にすることができるのである。

金融」と「テクノロジー」の結合状態は、19世紀前半まで遡ることができる。この時代から第一次世界大戦までの期間は、金融とテクノロジーが結合し始め、金融のグローバル化が進捗した期間であった。周知のようにこの期間には、電信技術、鉄道、運河、汽船などのテクノロジーが発展したことで、金融経済的なコミュニケーションは、既に国境を超えて生起していた。1830年代に導入された電信や、1860年代に建設された大西洋横断ケーブルは、それまで船のみで実施されていた西洋とアメリカ合衆国との通信が加速化することとなった。船への依存度を減らすことで、海上の嵐により難破船となってしまう危険も減らすことができた。

これらのテクノロジーは、世界中の金融関連情報の交換と、迅速な取引支払いの遂行を可能にした。また金融セクターは、こうしたテクノロジーを開発するために必要となるリソースを提供し続けた。金融とテクノロジーは、本来「共進化(co-evolution)」する関連にあったと考えられる。

戦後の数十年間は、金融のグローバル化が足踏みをすることになる。だがテクノロジーの発展が停止した訳ではなかった。むしろ戦時中に発展したサイバネティクス的な通信や情報技術に関しては、尚も急速に発展した。

この間、アメリカ合衆国ではクレジットカードのテクノロジーも発展していた。1950年にはダイナースクラブ社が、1958年にはバンクオブアメリカ社とアメリカンエクスプレス社が、それぞれクレジットカードを導入している。これによりアメリカでは、文字情報を交換する「テレックス(Telex)」のネットワークが整備された。これが、金融とテクノロジーの結合を次の段階へと進めることになる。

初期のコンピュータは専らIBMによって商業的に利用されていた。だが1967年には、テキサス・インスツルメンツ社によって、最初の金融計算機が開発されている。銀行は、コンピュータを最初期に採用した組織の一つであった。初期の商業用コンピュータは、銀行向けに設計されていた。銀行コンピュータを利用することで、旧来のコミュニケーション過程の高速化を実現していた。

金融とテクノロジーの結合は、銀行の内部のみならず、その取引先にも波及していった。バークレイズ銀行は1967年、英国のエンフィールド市に最初のATMを設置した。これにより、銀行を介して取引を行う一般市民もまた、電子通信機器を介した金融取引を実施できるようになった。ATMは顧客と金融機関との間に自動化の装置を導入することにより、金融機関の人的リソースの節約を可能にした。

ATMは、専門的な技術者や金融機関の内部の者たちに限らず、広く一般に普及した金融テクノロジーであった。この限りでATMは、金融とテクノロジーの結合関連を明示的に示す最初のイノベーションとして観察されることもある。

問題解決策:銀行

ここまでの歴史的経緯を概すると、銀行金融とテクノロジーの結合点であったことがわかる。しかしこのことは、決して銀行金融とテクノロジーの結合における主導的な立場にあったことを意味するのではない。逆である。銀行金融とテクノロジーの結合点に位置していたからこそ、銀行歴史的に金融テクノロジーたるFinTech進化上の足枷となっていたのである。

金融とテクノロジーの結合は、支払いの分野にも及んだ。1968年にはイギリスにInternet Computer Bureauが設立された。これが今日の銀行における自動決済サービスの礎を築くことになる。続く1970年代という時代は、アメリカ合衆国の連邦準備銀行によって1918年に設立されたFedwire(Federal Reserve Wire Network)が、電信システムから電子システムへと生まれ変わった時代でもある。この社会背景から、国境を越えた支払いシステムを接続させる要求も生じていた。1973年に世界銀行金融通信協会(Society for Worldwide Interbank Financial Telecommunication: SWIFT)が設立されたのは、この関連においてである。

しかしながらこの直後、1974年になると、新しい決済システムとの結合から、ハーシュタット銀行が破綻した。この銀行の破綻は、金融とテクノロジーの結合に対する規制強化の機運を高める結果を招いた。曰く、金融、テクノロジー、そしてこれらに対する適切な規制への配慮が結び付けられることで、初めて世界の外国為替市場に安定的な基盤をもたらすことができる。規制無くして、世界経済のグローバル資本主義を語ることはできないという訳だ。

無論この時代にも、金融とテクノロジーの結合が進捗しなかった訳ではない。例えば証券の分野では、1971年にアメリカのNASDAQ30が設立されている。この設立により、1600年代後半から1970年代まで至る証券の物理的な取引が、電子的な証券取引へと移行することになった。一方消費者の分野では、1980年代にアメリカ初のオンラインバンキングが導入されている。

規制強化の機運の高まりは、むしろ金融機関のテクノロジーに対する依存度を高めたと考えられる。と言うのも、証券取引にせよ、消費活動にせよ、テクノロジーに依存した経済的なコミュニケーションは、金融に関わるリスクを高めてしまうためだ。金融機関は、このテクノロジーに由来するリスクを処理するために、更なるテクノロジーを採用した。実際1980年代までには、人手で実施されていたほとんどの紙媒体の手続きが、リスク管理のためのテクノロジーによって代替されている。

1974年のハーシュタット危機にせよ、その後の1982年に生じた開発途上国の債務危機にせよ、既に世界規模の問題である。そのため、この問題への解決策は、世界中の銀行規制当局間の協力を前提としていた。だがそれは、世界中の証券監督当局が協力するためのテクノロジーを必要としていた。

道徳とテクノロジーの差異

金融機関は、テクノロジーに由来するリスクを処理するために、テクノロジーを採用した。一つ補足しておけば、これはテクノロジーを毛嫌いする典型的な道徳たちの論理とは全く異なるリスクヘッジである。金融機関にとって、それが如何に金融危機可能性を惹起していようとも、もはや金融からテクノロジーを排除するという選択肢はあり得なかったのである。決して金融機関は、テクノロジーの利用に対して「自粛」を呼び掛けることは無かったのだ。

無論テクノロジーに由来するリスクは消滅した訳ではない。1987年のブラックマンデー(Black Monday)は、まさに金融とテクノロジーの結合に起因した金融危機として生じていた。香港を発端に生じたこの世界的な株価の大暴落の原因は諸説ある。だが少なからずこの金融危機が勃発した直後に問題視されていたのは、コンピュータで事前に設定された価格水準に基づいて自動的に売買する取引システム存在であった。当時、この類の取引は「プログラム取引(program trade)」と呼ばれていた。こうした背景から、証券市場には「サーキットブレーカー(Circuit Breaker)」をはじめとした価格変動速度制御するための様々な機構が導入されることになった。

遅くても1980年代後半には、世界中の金融機関が、金融市場の参加者たちや顧客たちの電子取引に基づいて、その金融サービスをデジタル化していくことになった。この関連から、「ファックス(fax)」と呼ばれる通信技術は、先述したテレックスを補完する役回りを担っていた。1990年代後半には、既に金融業界はあらゆるビジネスの実用的な目的のための手段として、最初のデジタル産業へと変貌した。

この間、1997年から1998年に至るアジアとロシアの金融危機が勃発していた。だがやはりこのリスクへの解決策も、金融とテクノロジーの結合によって生み出された。複合的にコンピュータ化されたリスク管理システムそのもののリスク観察されたことで、更なるテクノロジーの機能的拡張が求められた。

問題解決策:規制

しかしながら、1990年代という時代は、同時にWorld Wide Web(WWW)が発展した時代でもあった。このテクノロジーの発展は、それまで金融結合していたテクノロジーとは不連続に進んだ。金融インターネットとの結合は、従来のように、既存のテクノロジーの機能的拡張だけで実現する訳ではなかった。その結合点となる双方の構造変異させなければ、WWW以降の電子メディア金融構造的な結合は成り立たなかった。

加えて、WWWという新しいテクノロジーの登場は、再び規制強化の機運を高める帰結となった。確かに1995年には、ウェルズ・ファーゴ社がWWW上でオンライン口座を提供するようになった。2001年になると、アメリカの8つの銀行において、少なからず100万人の顧客がオンラインでアクセスできるようになった。2005年には、INGダイレクトやHSBCダイレクトなどのような、物理的な支店を持たない最初のインターネットバンクがイギリスに登場した。だがこれに連なり、世界中の主要な管轄区域では、リスクに対処するための新しい規制の枠組みが必要であるという認識を強めることとなった。例えば香港金融庁は1999年、電子バンキングに必要な新しい規制の枠組みを検討している。

しかし注意しなければならないのは、電子バンキング自体は1980年代から存在していたということだ。テクノロジーに対する規制は、テクノロジーの発展を遅延させるというよりは、それ自体が遅延している。尤もこの遅延は期待通りの遅延である。それは効率的な市場規制論と一致しているために、しばしば歓迎される遅延なのである。

電子バンキングは単なる銀行のデジタル版である訳ではない。それは新しいリスクを派生させている。電子バンキングのテクノロジーは、アカウントへの実質的に無制限の直接的なアクセシビリティを提供している。これにより預金者は、物理的に実在する支店に足を運ぶ必要が無くなる。故に電子バンキングは、銀行手続きの実行を容易にする。しかしこうした事態は、とりわけ銀行危機の際に、流動の問題として顕在化する。異なる銀行口座間で資金を転送するための機能は、預金の価格変動(Volatility)を高める。金融機関かられば、こうした事態は脅威として映っていた。銀行は、この可能性を流動の管理政策に組み込まなければならなかった。

規制論においては、オンラインバンキングが新しい信用リスクを派生させる可能性観察されている。オンラインバンキングは、消費者と銀行の物理的な障壁を取り除いている。だがこの状況は、銀行間の競争を激化させる可能性を高めている。借り手は、特定の場所に制限されることなく、貸し手のより多くのプールにアクセスできるようになった。消費者かられば、これは利点である。だが金融業界全体としてれば、この競争圧力は金融市場の安定を損なわせる。

だがその一方で、オンラインバンキングが派生させる信用リスクは、データ管理によって解消できるとも考えられていた。消費者のデータを適切に管理していれば、借り手の真の信用リスクを事前に把握することができる。そして、消費者のプロファイルに合わせた適切な金融商品を推奨することも可能になる。これは、後のビッグデータ時代において、データによるユーザーへの個別化(Customization)を先取りする洞察である。

問題解決策:「土管」の見張り役

WWWが導入された時代以来、規制論は専ら銀行との関連から展開されていた。電子バンキングやオンラインバンキングが普及し始めれば、そのソリューションのプロバイダーが監視対象の金融機関になると期待されていた。それ故、「銀行」が的なコミュニケーション主題となる場合、この「銀行」という組織システムは、金融機関として正当に許可され、そして規制されている企業に限定されていた。

しかしながら、ビッグデータの時代以降、この状況は一変する。「金融」と「テクノロジー」の結合は、「金融」の側に「テクノロジー」を導入させるだけではなく、「テクノロジー」の側に「金融」を導入させる結果を招いた。金融サービスはもはや、規制対象となっている金融機関だけに依存している訳ではない。

金融機関は、この新しい状況を「土管(dumb pipe)」という用語で危惧している。土管化とは、元々通信業界の用語であった。それは、通信事業者が端末やサービスを提供できず、回線の提供に専念せざるを得ない状況を指す。例えば電子メールやメッセージアプリなどが普及していくと、通信事業者はもはや、そうした通信の上で成り立つサービスに参入できなくなる。通信事業者は、単純に通信回線の品質と料金の安さによって競争していかなければならない。このような土管化を通信事業者が問題視するのは、ひとえに通信事業者の競争力を鈍化させるためである。

ビッグデータ時代以降のテクノロジーは、金融機関の「土管化」を促している。金融機関にとっての「土管化」とは、銀行業務が口座の維持管理に限定されるということである。確かに、金融とテクノロジーの結合可能にする多くの企業は、ユーザーの口座に入出金する場合や、残高確認の場合に、既存の銀行との接続を必要とする。だが、その他のサービスはその企業自身によって提供される。したがって、口座の維持管理以外では、既存の銀行は用済みとなる。

このように、FinTech金融機関の土管化を促している。金融庁が銀行を取り締まるだけの存在であるのならば、この行政機関は、単なる土管の見張り役でしかない。

問題解決策:「金融」と「テクノロジー」の区別

金融テクノロジーとしてのFinTechは、「金融」と「テクノロジー」の構造的な結合によって成立してきた。しかし、この結合意味するのは、「金融」と「テクノロジー」の間に差異があるということである。差異が無ければ、結合もまたあり得なくなる。「金融」と「テクノロジー」の構造的な結合は、この差異を消滅させる訳ではない。むしろ、「金融」と「テクノロジー」の区別が導入され続けているからこそ、双方の構造的な結合可能になっているのである。

既に述べたように、ビッグデータ時代以前のFinTechは、銀行をはじめとした「金融」の側に「テクノロジー」を導入させる取り組みとして成立していた。だがこの取り組みも、決して「金融」と「テクノロジー」の差異を消滅させた訳ではなかった。むしろこの取り組みが意味するのは、「金融」と「テクノロジー」の区別を「金融」の内部に「再導入(re-entry)」させる営みであった。

同様に、ビッグデータ時代以降のFinTechは、「金融」と「テクノロジー」の区別を「テクノロジー」の内部に「再導入」する営みとして結実している。この区別区別の内部への「再導入」が意味するのは、「テクノロジー」の内部に位置する<金融>と「テクノロジー」の外部に位置する「金融」との間にも差異が生じているということである。「土管化」の脅威に曝されている銀行は、「テクノロジー」の外部に位置する「金融」として観察することができる。一方、API(Application Programming Interface)を積極的に公開することで、金融サービスを構成していこうとする銀行ならば、「テクノロジー」の内部に位置する<金融>として観察することができるであろう。

FinTechという概念の意味論は、「金融」と「テクノロジー」の区別区別の内部への「再導入」を前提とする。そうである以上、この意味論に対応した経済システム社会構造が「金融」と「テクノロジー」の差異を消滅させることは決してあり得ない。

ハリス・インタラクティブ社が2013年に実施したアメリカの60社の有名企業を対象とした消費者の好感度調査によれば、アメリカ人の最も嫌いな企業の上位10社のうち、6社が金融機関の組織である。これに対して、アメリカ人が最も好む企業の上位を占めているのは、Amazon、Apple、GoogleなどのIT企業であった。

ここまで歴然たる差異が生じているのは、2007年に発生した世界的な金融危機影響が大きいとされている。この事後処理に臨む金融機関の姿勢が、消費者による印象を呼び起こした訳だ。銀行をはじめとした金融機関は、金融危機に対する反応として形式化された規制の対応に追われたことにより、消費者や顧客のニーズに応じる余裕を失っていた。

派生問題:銀行の自己記述は如何にして可能になっているのか

テクノロジードリブンな発想の持ち主たちかられば、「テクノロジー」の内部に位置する<金融>の台頭によって、銀行のような「テクノロジー」の外部に位置する「金融」の存在意義が薄れていくように視えるのかもしれない。しかし、上述した「金融」と「テクノロジー」の区別区別の内部への「再導入」が意味するのは、あくまでもFinTechによる「金融」と「テクノロジー」の構造的な結合が、決して「金融」と「テクノロジー」の差異を消滅させる訳ではないという点に尽きている。それ以上ではない。FinTech発展したからといって、「テクノロジー」の外部に位置する「金融」の存在意義が消え失せる訳ではないのだ。

むしろ「テクノロジー」の外部に位置する「金融」の存在意義を規定しているのは、そうした「金融」それ自体である。「金融」が「金融」そのものの存在意義を指し示しているのだ。このことは、銀行システムとしての作動を観察すれば、容易に理解できることである。

問題解決策:経済システムの二値コード

古典的な経済学理論は、生産、交換、分配といった主導的概念を記述することで、経済を生産や取引や消費の観点から分析してきた。これに対して社会システム理論は、経済を、貨幣所有とその支払いに準拠することによって全体社会機能的分化した機能的なサブシステムとして把握することで、むしろ銀行経済システムにおける中心的な位置付けにある組織システムとして取り扱う。

法システムにおける裁判所政治システムにおける国家と同じように、銀行経済システムにおける中心として位置付けられる。銀行観点かられば、経済的なコミュニケーションとして構成されている全ての要素は、銀行の周辺に位置付けられる。銀行だけが中央銀行、商業銀行銀行顧客の間の分化に関して、階層的な構造構成している。

銀行システムには、経済システムに対して絶えず支払い能力(Zahlungsfähigkeit)を供給する義務があると考えられている。銀行は、企業あるいは計が必要で十分な自己資金を使用できない場合にも、支払い可能にする。また銀行は、企業計が、投資によって物的財という形に固定化された貨幣を流動化させたくないものの、しかし支払い能力は保持しておきたいと想定するような場合にも、支払い可能にする。

経済システム経済システム足らしめている二値コードは、所有と非所有二値コードと、支払いと非支払い二値コードである。<持つもの>と<持たざるもの>の差異や財の稀少が無ければ、およそ経済的なコミュニケーション、とりわけ交換に基づく取引は成り立たなくなる。逆に、これら二種類の二値コード構成されている状況下では、常に経済システム経済的なコミュニケーションが自的に作動し続けていく。

銀行は、こうした経済システムの自的な作動において、様々な差異を十分な程度に生み出す。つまり銀行によって、物的資産や労働需給と貨幣手段との間の差異構成されるのである。これによって初めて、市場分化させ、自需要のためではなく市場のために生産することが価値あるものとなるほどの規模で、取引が遂行され得るようになる。そしてこれによって初めて、経済システム社会構造上に、物的資産や自己労働動機の自由処分と関連した所有と非所有二値コードと、支払いと非支払い二値コードとの分化が成立する。「信用」と呼ばれているものの正体があるとするなら、それは通常社会構造上は隠蔽されているものの、こうした社会的な機能一般を指すと考えられる。

問題解決策:リスクの交換

古代メソポタミアの交易の中心地に端を発し、18世紀にまで至る過渡期においても、銀行機能的に等価な制度は十分に存在していた。経済は、こうした諸制度によって、銀行が成立するための下準備をしてきた。これはとりわけ商業資本や、特に18世紀以降の国債の制度についても当て嵌まる。

その後の近代社会発展からも明らかなように、国債は徐々に貨幣創出に資するようになった。この限りでは、国債もまた銀行機能的等価物として結実していた。この機能的等価は、中央銀行政治決定中枢との間の――問題も孕んでいる――関連において示されている。しかしながら、インフレーションの諸問題が単なる経済的な問題としてのみならず政治的な問題としても観察されるようになると同時に、グローバル資本主義に駆動されて世界規模で作動する金融市場が支配的になると、支払い能力の創出とその分配という機能銀行だけが引き受けるようになる。

しかし同時に銀行は、銀行業務のごく近辺において、新しい競争に巻き込まれることになった。すなわち、保険事業、住宅金融公庫、年金基金、クレジットカード事業、有価証券取引業者との競争である。あるいは、金融市場に自らアクセスできる大口顧客たちもまた、銀行の競合として立ちはだかることになる。「金融」と「テクノロジー」の構造的な結合としてのFinTechは、こうした競争に拍車を掛けている。

機能的観点システム内の位置関係観点かられば、それでも尚銀行自己同一性を保たせているのは、銀行システム経済システムリスク処理に励んでいるという実態である。規制論の枠組みにおいては、リスクヘッジこそが銀行の本来の業務と述べても過言ではない。尤も、銀行システム経済システムの一種である。そのコミュニケーション経済的なコミュニケーションによって成り立っている。銀行システムリスクを処理すると述べた場合、それによって意味されるのは、銀行システムが、リスクを、他の財と同じように、交換しているということである。

リスクと危険の差異

経済的なリスクとして挙げられるのは、専ら貨幣使用する際の時間上の差異と関連しているリスクである。例えば投資リスクや信用リスクは、共にこの時間上の差異と関わっている。こうした投資や信用における意思決定は、「リスク(Risk)」と「危険(Danger)」の区別によって規定されている。ここでいう「リスク」とは、意思決定者の決定行為(handlung)」によって派生した諸問題である。一方「危険」とは、そうした「行為」とは無関連に派生した諸問題で、意思決定者が「体験(erleben)」する諸問題である。

例えば農業における不作や生産の失敗といった問題は、意思決定者が体験する「危険」の一つとなる。だが、これらを労働力や資本投資が別のあり方でもあり得たという観点から観察するなら、それは「危険」ではなく「リスク」として問題を再設定できる。要するに、その意思決定行為」に帰責される諸問題が「リスク」として観察される一方で、そうではなく単に「体験」される諸問題が「危険」となるのである。

重要なのは、販売や賃貸や貸付によって、期待されていた支払いが実現されないというリスクである。その限りで経済的なコミュニケーションにおけるリスク問題は、厳密に貨幣経済的な問題である。したがって、そのリスクは特に、何かが生産されることによって生じる諸々の帰結の範囲を限定できるか否かの可能性に準拠している。

貨幣の抽象化

経済システムリスクを受容することを可能にしているのも、また経済システムが自らを危険に曝すことを可能にしているのも、貨幣である。貨幣は、実用上任意に細分化して使える。僅かな支払いでも資本形成するほどまでに貯蓄され得る。多額の貨幣量を小さな出費に分割することもできる。また多種多様な目的のために、多種多様な受け手に向けて支出することもできる。

勿論、総購買力や膨大な貨幣量によって可能になる信用市場への接近などについては例外となるであろうが、原理的にあらゆる経済的なコミュニケーションにおいて、貨幣支払いに交換されない事柄が獲得されることはあり得ず、また喪失することもあり得ない。この限りで、貨幣支払いを通じた経済的なコミュニケーションは、企業の賃借対照表や各世帯の計簿によって計算可能になる。

こうした「量」への縮減が実行されるのは、貨幣の持つ抽象のためである。この抽象化は、支払い過程における状況の特徴支払い動機取引の瞬間にその支払いと結び付いている反対給付の可能性を捨象することで成り立っている。貨幣は、誰の手に渡っても新しいものとして使用される。詐欺によって得られたとしても、盗み出したものであっても、例外ではない。

時間的な均衡

経済システムを仮に取引のネットワークとして記述するなら、リスクは一方向のみに流れる。それは別の方向には流れない。つまり商品要求したサービスを受け取る方向に流れるか、あるいはその価格に見合う支払い能力によって支払われた方向に流れる。貨幣の幸運な受け手は、貨幣を渡す側が所有していたリスクとは別様の、新しいリスクに立ち向かう自由を手に入れる。

これを前提として言えば、銀行によるリスクの処理とは、リスクの交換による無害化を意味する。と言うのも、経済システムにおけるリスクとは、未来の支払い能力が不足した場合に顕在化するためである。リスクの交換によるリスクの無害化は、未来の支払いを現在の時点で既に利用可能形式へと変換することによって実行される。例えば、債務者が債務を将来履行するか否かをただ何もすることなく見守っているのではなく、その債権に対して現時点で既に取引可能形式を与えるのである。

銀行は、リスクの交換によるリスクの無害化を実行するために、経済的なコミュニケーション支払いを実行させる。リスクを処理しなければならないからこそ、銀行は、如何なる時にも、経済的なコミュニケーションへと支払い能力を供給し続けなければならない。この供給が途切れれば、リスクは交換されなくなる。言うなれば銀行は、支払い可能性支払い能力との間のある種の時間的な均衡を保持しなければならない。

しかし銀行は、未来において返済するという約束と引き換えに、貨幣銀行に預けさせる。そしてその後、自らこの返済までの時間的な差異を利用することで、他者に貨幣を貸し出すこともできる。つまり、銀行自身が支払いの約束を獲得するのだ。したがって銀行は、支払いの約束を取引している。もし銀行自身の流動の問題が生じた場合には、銀行は自身の支払い能力を、銀行取引市場において、一定の範囲内で補充することができる。

かくして、多種多様なリスクが調整され、分配される。場合によっては、こうしたリスクは、高いリスク選好度を高い利益獲得確率と組み合わせることによって、市場に配置される。加えて銀行は、銀行それ自体のリスク管理のために、助言という任務も引き受ける。そして銀行は、顧客のリスク選好度や情報処理能力に応じて、資金運用を調整していく。

二つの前提条件

このリスクの交換によるリスクの無害化という発想には、二つの前提条件がある。一つは、人々が世界の全てを知る必要が無く、それ故に市場で起こる事柄を時間的に移り変わる偶然の事象として取り扱わなければならないという条件である。もう一つは、そうした偶然に満ちたリスク要因に際して、法システムによる安全装置が不十分に終わっているという条件である。

銀行やそれと機能的に等価な位置に置かれているリスク取引者たちは、多くの場合、その顧客よりも適切な情報所有しているとしても、その業務を原則的に偶然に起こる出来事に巧く適合させながら進めていかなければならない。銀行は、知識によってリスクを制約することも、回避することもできる。だが、リスクそのものを除去することはできない。

こうした不可避的に生じる偶然の事象に言わば反するように、銀行支払いの約束を得る。だが支払いの約束とは、的な概念ではない。それは、的な概念としての債権とは区別される。法システムは、規範的な期待を安定化させる。故に法システムは、債務者が債務履行しない場合でも、その者が合法であって、そうであり続けることを保証する。確かに法システムは、未回収金を取り立てるための手助けはできる。だが貨幣が実際に手元に届くまでは保証しない。法システムは、支払い不能に直面すれば、作動しなくなる。規範を固定化させることで成立している法律は、確かにに固有の問題解決策によって社会的な負担を分配することを可能にする。しかし、全体社会リスクから解放してくれる訳では決してない。

階層的な分化

銀行システムの階層的に分化した社会構造もまた、リスクの分配に役立っている。銀行の顧客がそうであるように、商業銀行もまた支払い不能に陥る可能性がある。もし解決策が無い形で支払い不能になれば、銀行は破綻宣言せざるを得ない。商業銀行の実践は、こうした支払い不能のリスク銀行それ自体とその顧客とに分配している。個々の大口顧客や個々の市場セグメントへの依存度が高ければ、それだけ銀行リスクも高まることになる。それが銀行の典型的な破綻理由だ。

これに対して、中央銀行は例外的な位置付けにある。中央銀行は発行銀行として位置付けられる。そのため中央銀行は、原理的に支払い不能になり得ない。したがって、中央銀行それ自体が支払い不能になるリスクを手掛かりにしつつ、その貨幣市場政策を制御することもできない。その代わりとして中央銀行は、自らの通貨の国際的な「地位」や、国際的な金融市場での資金再調達の可能性、もしくは外国為替相場に対して、言うなれば「埋め合わせ(Kompensation)」として注目しなければならない。そのためにはマネーサプライ政策が必要となる。そしてそれによって再び経済システム全体についての観察が必要になる。貨幣政策的な介入は全て、それ自体リスクに満ちている。何故ならそれは、こうした複合的な文脈では間違いなく成功するとは決して言い切れず、精々短期的に素早く反応しながら運用されなければならないからである。

銀行システムの自己言及性

銀行システムは、経済システムによって、経済それ自体をリスクという観点から観察する可能性を獲得している。このことが意味するのは、銀行システムが、経済システムによって、極めて特殊な自己観察形式選択しているということである。銀行業務とその他の業務との差異は、リスク観察者の観点とその他の観察者の観点との境界を設定するという機能を有している。観察者は、この境界線を越えると、他の観察者を、したがってまたその観察者自身をも、リスクという特殊な観点から観察するようになる。

銀行システムにとっては、経済システムに対する他の関与者の行動は、リスクという観点でのみ関連を持つ。ここでいうリスク観点とは、より詳細に言えば、銀行業務のパートナーがどの程度のリスクに曝されているのか、どの程度リスキーな意思決定を実践しているのか、このパートナーが市場如何にして観察しているのか、またそのパートナー自身が市場への他の関与者によって、とりわけまた証券取引所によって、如何にして観察されているのかに依存した、銀行特有のリスクという観点である。

それ故、銀行システムの作動領域においては、銀行システムリスクは<観察の観察>、すなわちセカンドオーダーの観察の水準において、自己言及的となる。このことが意味しているのは、とりわけ銀行システムにとっては、リスクコミュニケーションしかあり得ず、まして「安全」などあり得ないということである。

銀行という組織システムに固有のリスク管理手すらも、上述したFinTech歴史が示す通り、銀行に対して「安全」を保証するには十分ではない。そのリスク管理は、不確実性に対する最の対処として役立つに過ぎない。それ故、リスクを伴ったその業務は、別の形式リスクへの変換や、他のリスク負担者にとってのリスクへの変換を伴った業務なのである。だが、リスクの「安全」への変換という業務ではない。繰り返すように、リスクは、交換されることで無害化されているだけである。

問題解決策:支払い能力と支払い不能力の区別

元々銀行は、利子という問題が存在するお陰で発生したシステムである。銀行は、貨幣の貸し付けを専門的に営む組織システムを中間に挿入することによって、貸し付けを規格化する。この中間挿入は、大きなリスクの吸収を可能にする。また、「貨幣貨幣を楽に稼ぐこと」に付き纏う疑念を払拭するためにも機能する。と言うのも、他ならぬこの貨幣の稼得が、銀行業務の諸々の制約の下に置かれているためである。

尤も銀行は、究極的には借りた金しか貸せない。銀行のビジネスモデルは、物品を質に取ることで金銭を貸す質屋と類似した構造を成している。融資額に見合った土地をはじめとした品目の担保があれば、銀行は幾らでも貸し付ける。例えば土地が担保となれば、この傾向は顕著となる。銀行から不動産への多額の融資によって、土地がほぼマッチポンプの如く値上がりすれば、それに伴って担保価値が上昇する。この場合、銀行は更なる貸し付けへと踏み込むであろう。

銀行の埋め合わせとしての投機

しかしながら、まさにそのような組織システムとして分化してしまっている以上、銀行のビジネスは、決して楽な商売などではないのである。銀行の場合、貸し付けは、外部から貨幣を借りている自己自身に言及するように方向付けられている。それは、外部に言及している自己への言及なのだ。この自己言及を前にすれば、誰もが楽に貨幣を稼得できるという期待は、ありそうもないものとなる。

そしてそれに代わって、言わば「埋め合わせ(Kompensation)」として派生したのが、「投機(Spekulation)」である。このことは、高度経済成長期以降、資金需要の低下によって行き場を失った資金が株価や不動産へと流れていった日本においてわかり易く現れている。急速な不動産価格株価の上昇は――日本の場合、その原因は決して資金流入だけではなく、土地や株の稀少が高まっていたためでもあったのだが――短期的な価格変動の差益を目標に売買する投機を助長する。それに触発された企業は、時には本業よりも投機を優先してしまうこともあった。一般の個人投機たちも、銀行預金の金利低下の埋め合わせとして、ハイリスク・ハイリターンの金融商品を求めるようにもなった。

「埋め合わせ」としての投機という概念が言い表しているのは、銀行という組織システムが、ただ自らの決定した問題設定の枠組みの中でのみ、自らの決定した問題解決策を実践しているということである。銀行システムは、銀行外部の投機たちの想定する問題設定とは別様の問題設定を導入した上で、銀行外部の投機たちが想定する問題解決策とは別のあり方でもあり得る問題解決策を導入する。

銀行システムの「作動の閉鎖性」

社会システム理論的に言えば、こうしたシステムは「作動の閉鎖性(operational closure, operative Schließung)」を成立させている。投機たちの振る舞いは、確かに銀行システムに刺激をもたらす。だがその刺激を如何に受容し得るのかは、銀行システム自身が決定することである。銀行システムは、そのままの状態で入力された外部の情報をそのまま受信するのではない。外部環境情報銀行システム内部の自己調節的な活動とその内部モデルに結び付けるために、銀行システムはあくまで内的な情報処理を遂行するのである。銀行システム外部環境との間に、入出力の関係など一切あり得ない。

既に18世紀に経済システム機能的な分化を成立させた時点では、このように自的な、しかし自足的ではない銀行システムもその分化を遂げていた。この銀行システム分化に至っては、経済システムの中心を担う中央銀行が、不可欠ではないにせよ有用な形で表れている。それは、やはりしばしば論じられる投機の問題と公的信用の問題との関連から生じていた。

銀行システム分化を遂げたのは、銀行システムが自的な「作動の閉鎖性」の枠内で遂行する問題設定問題解決策が、社会的に機能しているためである。その社会的な機能の一つは、自由に処理できる貨幣量を貯蓄受入高としての貨幣量から区別することで、そうした貨幣量を独立させることだ。銀行は、預金高を超えた貨幣の貸し付けを可能にするために、貨幣を<創造>しないまでも増加させると言われている。だが銀行システムがこの特殊な地位を占めているのは、より深い社会構造の要因が潜んでいるためである。

銀行システムにおける自己言及のパラドックス

中央銀行、メガバンク、地方銀行などといった諸々の銀行システムを総体として抽象化してれば、この組織システムの複合体の中では、支払い能力と支払い不能力(Zahlungsunfähigkeit)が同時に生起している。だからこそ銀行システム複合体においては、双方を操作的に分離できるのである。

社会システム理論的に言い換えれば、この銀行というシステム複合体は、自己言及パラドックスに基づいている。それは、支払い能力と支払い不能力の<差異統一>によって成り立っている。しかし、そうであるにも拘らず、否、そうであるからこそ、銀行システムは、この自己言及パラドックス脱パラドックス化させることによって、作動を可能にしているのである。

この自己言及パラドックス脱パラドックス化は、二つの異なる手続きで実行される。一方で銀行は、信用を供与することにより、自己資本と預金を遥かに超える規模の支払い能力を生み出す。加えて銀行それ自体もまた自己の債権に準拠することで、中央銀行に信用を供与して貰える立場に位置付けている。要するに銀行システムとは、<創造的な>作動を展開しているのである。

だがこの<創造>は、公的な表現であるに過ぎない。この概念が経済的なコミュニケーション主題となる場合、確かにリスクについての認識が惹起される。ところがこの概念は、パラドックスについては何も認識させないのである。この<創造的>という表現は、確かに法システムとは適合的である。つまり、法律的にれば、この表現妥当する。

しかし、他方で銀行システムは、自己自身の負債を売ることで儲けることのできる特権を有してもいる。それは、言い換えれば支払い不能力を「資本主義的に」売り払うことで、支払い能力に変換し得る特権である。それ故に銀行システムは、<創造的な>作動というよりは、むしろ<寄生的な>作動を展開していると見做せる。

この<寄生的な>という表現においては、支払い能力と支払い不能力の区別に関連した銀行システム自己言及パラドックスが、まだ可視的なままである。そしてこの表現観察すれば、銀行システム自己言及パラドックスと関連した社会構造の実態も明確となる。まず明らかなのは、この脱パラドックス化機能随意的に操作され得る機能ではないということだ。そこには条件が付けられなければならない。

総体としての銀行システム複合体は、高度に動的なシステムである。故に、条件付けの際には、大枠の規定だけではなく、継続的に修正されるべき制御用の刺激もまた重要となる。例えば貨幣数量政策などの形式で集められた市場データの恒常的な観察要求される場合もあるであろう。その場合、自己修正の十分な速度が保証されてさえいれば、誤った理論が正しい政策に結び付く可能性は大いにあり得る。

したがって、銀行システムにおける自己言及パラドックスという問題は、結局のところ、支払い不能力を支払い能力に転換して利益を得るという特権がどの程度利用され得るのか、利用されて良いのか、または利用されるべきなのかという問題として再設定できる。こうした事柄を決定するためには、中央銀行が必要になる。だが中央銀行は原理的に支払い不能には陥らない。精々のところ、中央銀行はその制御の下にある通貨を自由に引き換える可能性を喪失するリスクを負うだけである。この意味中央銀行は、自己収益を第一の目標とせずに済む特殊な銀行システムとなる。

階層構造による脱パラドックス化

社会構造観察するなら、銀行システムにおける自己言及パラドックスは、上述した階層構造によって脱パラドックス化されている。例えば中央銀行、市中銀行銀行顧客といった階層は、このパラドックス解消する機能を有している。この階層構造は、システムの作動の基礎を非対称化することで、システム全体が準拠するパラドックスを引き伸ばすと共に多様化させる。その時、システムの各部分では、例えば特定の顧客への信用供与や、割引歩合や利率の変更などといった場合に、十分な確実が生み出される可能性がある。

無論、階層構造脱パラドックス化を完璧に実現する論理的な保証は何処にも無い。システムパラドックスで瓦解する可能性もある。「支払い不能=支払い可能」という矛盾の方程式が成立してしまうことで、システムの作動が原理的に停止してしまう可能性すらあり得る。しかし階層構造は、こうしたパラドックスの無害化として、不可視化として、あるいは隠蔽として機能する。それ故、階層構造化されているシステム自己言及パラドックスによって瓦解する確率は十分小さくなる。

派生問題:銀行の生存は如何にして可能になるのか

組織システムとしての銀行は、経済システムの中心に位置することで、経済的なコミュニケーションにおけるリスクを処理する。銀行システムは、リスクを受容可能形式に変換する義務を負っている。その受容可能形式は、経済事象時間的な引き延ばしから生まれる。

しかしFinTech意味論によって方向付けられた経済システム社会構造は、金融市場において、新しい種類の資金調達手段を発展させている。それは、財政力と支払い能力を有したIT企業への信頼を介して、多かれ少なかれリスクの孕んだ資金調達やリスク受容に取り組むというよりも、むしろ特殊な業務条件の特に焦点を当てている。この点を背景として、商品価格株価、金利、外国為替相場の急激な変動可能性(Volatility)や、多様な先物取引契約、あるいはオプション取引リスク分配の形式などを主題にすることが可能である。

こうした新しい種類の資金調達手段は、「金融」と「テクノロジー」の構造的な結合によって成立しているFinTech影響として導入されている。上述したように、「金融」と「テクノロジー」の区別を「テクノロジー」の内部に「再導入」することによって、これまで銀行システムという「テクノロジー」の外部に位置する「金融」が処理してきたリスクは、脱中心化されることになる。

脱中心化されたリスクは、業務パートナーの特別な利害により適合するようになる。これによってリスクは、その業務類型に応じて、より分配されるようになる。そしてこれに伴い、リスク受容の準備は、相互に条件付けられるようにもなる。リスク処理を主題とした市場観察者の観点は、古典的な合理性想定に基づく観点からリスク受容準備の検証の観点へと移行することになる。投機が次なる投機を指向するの同じように、市場の<観察の観察>は、ますます他者の予測へと向けられる。

こうした新しい資金調達手段も、時には銀行システムに依存することもあるであろう。確かに、銀行無しに成り立たない資金調達は、まだ無くなった訳ではない。しかし、こうした資金調達手段が定着している限り、リスク受容の一般的な形式は、もはや「ハイアラーキー(hierarchy)」としては記述され得ない。むしろ重要なのは、「ヘテラルキー(Heterarchy)」である。それは、モジュール型の組織である。モジュール型の組織システム特徴的なのは、システム全体としては予め秩序の形式が与えられないまま、個々の情報処理中枢同士がネットワーク構造構成しているという点である。つまり、それぞれが隣の中心と結び付いているような、多-中心的な組織である。

こうしたシステムはブラックボックスである。それは単に外部から眺めた場合にブラックボックスであるというだけではなく、その「モジュール」の一種となる企業計のような経済機能的問題領域に関わる組織システムにおいてもブラックボックスなのである。それだけに、資金調達手段やリスク交換の機構として認められている取引類型の標準化は、ある程度内的な透明を調達するのに貢献し得るかもしれない。少なからずそうなれば、何を主題にし、いつ合意形成が成立したのか程度のことはわかるようにはなる。しかしこのシステム複合性(System of Systems)を前にすれば、中心や頂点に対する観察のみでシステムの大まかな記述が十分成立するなどというのは、ほとんどまやかしに等しい幻想となる。そうした錯覚は早々に捨て去らなければならない。

問題解決策:象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての貨幣

こうした状況下であっても、銀行システム経済機能的問題領域で作動する組織システムとして生存し続けるためには、何よりも銀行システム自らが率先して経済システム二値コードに徹する必要がある。つまり、貨幣支払いと非支払い区別し続けるのである。経済システム社会構造貨幣意味論を俯瞰してても、貨幣というメディアは、経済機能的問題領域で不安定化しているシステムの生存に資する機能を提供してきた。社会システム理論的に言い換えれば、貨幣は、経済的なコミュニケーションの成果の不確実性を埋め合わせるコミュニケーション・メディアとして「象徴的に一般化(symbolisch generalisierte)」しているのである。

あらゆるコミュニケーションは、それがコミュニケーションとして理解されることを成立条件としている。コミュニケーションが成立するか否かは、それが受容されるか拒否されるかの分岐に対応している。この分岐が設定されることで、それ以降のコミュニケーションは異なる道筋を辿ることになる。だがいずれの場合も、社会システムの状態は、コミュニケーションによって変化する。受容されたコミュニケーションは、更なるコミュニケーションの前提として機能する。この場合、首尾良く「不確実性の吸収」が成立すると想定できるであろう。一方、拒否されたコミュニケーションにおいても、受容されたコミュニケーションと同様に、システムに何らかの痕跡を残す。システムは、二度とその拒否されたコミュニケーションが実行される前の状態に回帰することはできない。システムは、純粋無垢な状態には回帰できないということである。システムは、そうした拒否されたコミュニケーション記憶を想起することで、「その拒否されたコミュニケーションは差し控えるべき」などといった具合に、以降のコミュニケーションの前提を構築する。他方、受容するか拒否するかという問題を未定にした状態で、まさにこの受容と拒否の問題を主題としたコミュニケーションが生起する可能性もある。この場合のコミュニケーションは、<コミュニケーションについてのコミュニケーション>という反省的な自己言及となる。だがこれは受容と拒否の決定を先延ばしにしているに過ぎない。コミュニケーション時間有限であるために、やがて受容と拒否の決定が下されることになる。

象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは、こうした受容と拒否の分岐に対応するために構成されている。それは、あるコミュニケーションの受容が社会的に機能すると認識される場合に、にも拘らずそのコミュニケーションが拒否される可能性否定できない場合に構成される。社会的に機能するというのは、社会における問題を解決するということである。近代社会はそれぞれの機能的問題領域で機能的分化しているのだから、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアもまた、この各機能的問題領域に対応する形で構成されている。例えば科学・学問機能システムには「真理(Wahrheit)」が、政治システムには「権力(Macht)」が、経済システムには「貨幣(Geld)」が、システムには「愛(Liebe)」が、宗教システムには「信仰(Glaube)」が、それぞれ対応している。こうしたコミュニケーション・メディアは、コミュニケーションの接続における「選択(Selektion)」と「動機(Motivation)」を予め方向付けることで、コミュニケーションの成果の不確実性を埋め合わせるべく機能する

問題解決策:経済システムの免疫機能

象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての貨幣は、経済システム全体をリスクの巨大な交換施設として構成している。貨幣によって、経済的なコミュニケーションにおけるリスクは、<貨幣を支出する側のリスク>と<貨幣を受け取る側のリスク>へと区別される。

貨幣を支出した支払者が、貨幣をもう一度手に入れることができなくなるという事態は、十分にあり得る。と言うのも、キャッシュに関する然るべき期待期待外れであったと判明する場合もあり得るためである。貨幣の受領をより後の未来まで伸ばして欲しいと要請されている支払いの受け手が、当初よりも高い要求を掲げる場合や、より高額を要求する場合、あるいは極端に考えれば、そもそも相手の支払い約束を信用しようとすらしなくなる場合も、十分に考えられる。仮に支払い能力を再度作り出せたとしても、後になってからでは、貨幣の価値がより小さくなっている場合もあれば、そもそも全く価値の無いものになってしまう場合もある。いずれの場合も、貨幣支払いを通じた経済的なコミュニケーションの過程に本来的に内包されているリスクである。

デフレーションの期待構造

貨幣を支出する側のリスク>がある場合、リスクヘッジとして実践されるのは、その関与者を経済的なコミュニケーションから排除するという取り組みである。これは、それほど頻繁に実行される訳ではない。だがこれによって、このリスクの有害は中和される。貨幣所有せず、貨幣を造り出せない者たちは、もはや経済的なコミュニケーションには参加できなくなる。このような事態が拡散されれば、連続的価格の低下が引き起こされる。経済システムは、この事態が持続する限りにおいて、「デフレーション(Deflation)」(デフレ)としてリスクを処理するようになる。

国際通貨基金(International Monetary Fund: IMF)によれば、デフレとは、物価の下落が2年以上持続した状態を指す。消費者の観点かられば、デフレ期の経済的なコミュニケーションは、モノの価格が持続的に低下し続けるという期待によって構造化される。この期待構成しているのは、モノの量に比して貨幣の量が極端に不足した状況である。貨幣の稀少がモノの稀少極端に上回る場合、貨幣の需要がモノの需要を極端に上回ることになる。モノの需要が下がれば、それだけモノの価格は下落していく。そして、このモノの価格の下落が持続すれば、現在よりも未来の方がより安くモノを購入できる状態が持続するために、消費者はモノを購入しなくなる。モノは更に売れ残り、モノの量に比して貨幣の量が不足した状況は更に持続していく。

デフレ期に安価な商品を率先して購入することができるのは、モノの稀少よりも貨幣の稀少が高く、モノの需要よりも貨幣の需要の方が高い場合であっても、落ち着いて貨幣支払いを実行できる者たちである。言い換えれば、デフレの利点は、銀行員や公務員のように、倒産やリストラの危険の少ない場所で安住している者たちだけが享受できる。そうした者たちならば、安定的な収入を得られながら、安い値段でモノを購入し続けることができるためである。しかしそうではない者たちは、今手にしている貨幣を中々手放すことができず、やがて経済的なコミュニケーションには参加できなくなる。まさにこの実態こそが、<貨幣を支出する側のリスク>である。

インフレーションの期待構造

これに対して、<貨幣を受け取る側のリスク>がある場合は、「インフレーション(inflation)」(インフレ)によって処理される。インフレは、丁度デフレとは反対の事態を意味する。経済システムは、貨幣の受領の態勢を造り出すために、価格の上昇によって支払いを通じた経済的なコミュニケーション活性化させる。それは恰も、ウイルスを駆逐しようとする体内の免疫システムが、発を促すかのようにである。

既に述べたように、デフレ期の経済的なコミュニケーションは、モノの価格が持続的に低下し続けるという期待によって構造化される。これに対して、インフレ期の経済的なコミュニケーションは、モノの価格が持続的に上昇し続けるという期待によって構造化されている。したがってインフレ期においては、モノの価格は、常に現在よりも未来の方が高まると期待される。こうした状況では、モノの価値が貨幣のそれよりも高まることになる。言い換えれば、モノの稀少貨幣の稀少極端に上回ることで、モノの需要が貨幣の需要よりも極端に上回るということである。モノの需要が高まれば、それだけモノの価格も増大していく。

インフレ期では、不動産などのようなモノを所有していれば、放置していてもその価値は増大していく。これは、裏を返せば、貨幣使用せずに所有し続けることが、機会損失に結び付くということである。貨幣使用せずにいれば、モノの価格は常に増大し続けていくために、所有している貨幣で支払える対象が徐々に減少していくことになる。<貨幣を受け取る側のリスク>として生じるのは、貨幣をモノと交換する機械を喪失するリスクなのである。

デフレとインフレの差異

デフレは、貨幣所有せず、貨幣を造り出せない者たちを経済的なコミュニケーションから排除することによって、銀行員や公務員のような倒産やリストラの危険の少ない場所で安住している者たちだけで経済的なコミュニケーションを持続させる機構である。貨幣をまだ所持していない者は、デフレの条件の下で、ますます貨幣が支払えなくなる。あるいは、支払えるとしても、ある程度の時間が経過してからである。つまりデフレの条件下では、安住している者たち以外の支払い能力が往々にして遅延する訳だ。

一方でインフレは、貨幣使用せずに所有し続けることが機会損失に結び付くというある種の罰則によって、言うなれば強制的に経済的なコミュニケーションを反復させる機構である。貨幣支払い能力の回復貨幣の受け取りに依存している者は、インフレの条件の下では、自ら価格の上昇に貢献する傾向にある。だが、こうした自己強化的な効果は、支払う側や支払いを受け取る側の決定リスクの一部ではない。むしろ、こうした効果は、個々の決定がより高次元で蓄積されることで起こる危険である。

こうしてれば、デフレインフレ決定的な差異が浮かび上がってくる。デフレは、貨幣支払い能力の回復を遅延させることによって、貨幣を通じた経済的なコミュニケーションへの参加を制約する。デフレは、支払い能力の回復を遅延させている人格組織システム経済システムから排除する。一方、インフレはそうではない。逆である。むしろインフレは、人格組織システム経済システムへと積極的に包摂することで、貨幣支払いを通じた経済的なコミュニケーションを反復させようとする。

デフレとインフレの機能的等価性

しかしながら、デフレインフレには共通点もある。それは、いずれも経済システムの存続が危ぶまれた状況において、突発的に構成される別種の経済システムの作動であるという点である。あらゆる経済システムの作動は、交換や取引のような、貨幣支払いを通じた経済的なコミュニケーションによって構成される。デフレインフレは、共にこの経済的なコミュニケーションの特殊な代替物として生じる。経済システムは、デフレインフレを突発的に構成することによって、存続の危ぶまれた自らの作動を自的に持続させようとするのである。

デフレインフレは、共に経済システムの作動の持続に資するという点で、機能的に等価である社会システム理論的に言えば、デフレインフレ経済システムの「免疫機能(Immunfunktion)」であると考えられる。こうした免疫システムの駆動によって、経済システムは、リスク負担に対して反応することができる。

免疫機能」は、生命システム身体のみに見受けられる質ではない。社会システム理論は、この機能生命システム心理システム、そして社会システムにおいて構成されている普遍的な現象として記述している。例えば心理システムにおいては「情動(Gefühle)」が、社会システムにおいては「闘争(Konflikt)」が、それぞれ免疫システムとして生じている。

こうした免疫反応は、生体の免疫反応がアレルギー反応を呼び起こすのと同じように、それ自体が危機を呼び起こす場合もある。経済システムの場合も、その免疫反応が価格の上下によって可視的になるや否や、当の反応している問題が更に強化される場合もあり得る。免疫システムを発動させた経済システムは、自身をこうした危険に直面させる訳である。経済システムは、余りにも大量の一連のリスクを、とりわけ経済システムの外部から誘導されてきたリスクを、免疫反応を介して、自己への危害へと変換する傾向にある。

問題解決策:貨幣の記憶

上述した「リスク」と「危険」の区別や「行為」と「体験」の区別からも明らかなように、社会システム理論は、リスク決定への帰属によって規定している。機能的な分化を遂げた近代社会の社会構造には、もはや中心や頂点は無い。全体社会が階層的な分化という階層構造を為していた前近代的な状況とは異なり、近代社会の社会構造は、不確実性が増大していく社会構造である。それ故に、過去に安定化していた事柄がもはや未来においても通用するなどという期待は、容易には抱けなくなっている。そして社会構造は、未来に向かえば向かうほどに、決定へと依存せざるを得なくなっていく。決定しなければ、前には進めないのである。

しかし、こう述べただけでは、リスク決定への帰属が如何にして可能になっているのかが不透明に留まる。決定への帰属は、因果関係への帰属である。それは原因結果区別形式で記述できなければならない。また、決定者自身もまた決定が引き起こす帰結の原因の一つとして観察されるということも、留意しておかなければならない。

だが因果関係は、世界観察するための形式の一つである。それは、無数に遍在する諸原因と無数に遍在する諸結果との組み合わせによって成立する。無論この組み合わせは別のあり方でもあり得る時間地平が拡大されれば、それだけこの組み合わせの偶発性は高まることになる。

それ故、あらゆる因果関係の特定は、それ自体が選択であって、決定である。例えばニュートン力学的な決定論の世界は、無数に遍在する因果の組み合わせの選択によって記述されていた。だからこそ量子力学統計力学熱力学は、ニュートン力学とは別様の確率論的な世界を記述できたのである。

決定の地平においては、意図した結果と意図せざる結果差異が不可避的に派生する。それは、決定者自身では制御し切れない制約条件と目的の差異をも派生させる。これに対して、帰属過程はある程度の可変性を有している。例えば、責任における「原因負担の原則」は、ある程度機会主義的に取り扱われる。危険責任を負わされるのは、諸々の選択可能選択肢を最も上手く制御できると推定される者である。

こうしたコミュニケーションが例示しているのは、決定へのリスクの帰属が、合理的決定可能性の保証が無くても成立できるということである。それどころかリスク計算の合理性を踏まえずに為されることもある。自身の決定が、最終的には人災を引き起こす場合や、生態系の問題を引き起こす場合や、株式市場の破綻を引き起こす場合があったとしても、決定者自身はこうした可能性を全く確認できないにも拘らず、リスク決定への帰属が為されることも珍しいことではない。

マスメディアによる世論構成においては、しばしばリーダーたちの責任という概念によって、やはり同様の処理で、リスク決定への帰属が実践されている。マスメディアが生み出すマス・コミュニケーションは、到底理解不能な社会構造上の複合的な諸問題を「誰かのせい」にすることで、社会的な諸問題を人格の諸問題に単純化しているのである。

しかし全体社会を俯瞰的に観察するなら、リスク決定への帰属という処理は、決してマスメディア・システムが想定するほど単純ではない。全体社会において、リスク決定に帰属する機構循環的である。決定に帰属できる不確実で不都合な帰結が決定リスクであると観察される一方で、全体社会の社会構造上の複合性によって引き起こされた外部環境の変動や、人々がリスクとして観察してリスクとして取り扱い回避しようと想定している事態が決定の帰結であると観察される。しかも、決定者が誰なのかを全く突き止められなくても、それ故にそうした決定者に責任を問う可能性が無くても、また決定者自身の側に学習する可能性が無い場合すら、そう観察される。

社会構造の問題を人格の問題へと単純化するのは、マスメディアのお芸に過ぎない。全体社会は、人間によって成り立っているのではない。全体社会構成しているのは、コミュニケーション構成するコミュニケーションである。社会とは、コミュニケーションの総体に他ならない。そうしたコミュニケーション人格へと還元するのは、コミュニケーションを単純化した場合に得られる固有の認識である。故に人格の問題が浮上してくるのは、マスメディア機能的問題領域や、世論を介してマスメディア構造的に結合している政治機能的問題領域などのように、特殊な状況の中においてのみである。

デフレインフレのように、経済的な発展の長期的な帰結もまた、こうした社会構造上の複合的な問題である。だがこれは、特に平時においては、貨幣経済社会構造によって隠蔽されている。市場と関連付けられた経済計算の近視眼的な観察からは把握され得ない事柄の全てが、社会構造上の問題なのである。

中長期的な経済発展の帰結が、貨幣経済社会構造によって隠蔽されている複合的な問題と化しているのは、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての貨幣機能による帰結でもある。貨幣は、記憶が無くても、また予測可能性がごく僅かしか無くても機能するメディアである。その貨幣が何処から来て、またその次に入手する所有者が何の目的で使用するのかは、個々の取引の計算の際には考慮しなくて良い。

貨幣記憶無しに機能する。したがって、その貨幣を獲得した場合や支払う場合に、過去にその貨幣所有していた人々が関わらざるを得なかったリスクも、次の貨幣支払い後には忘却される。勿論、経済的なコミュニケーションリスクとは無縁で実現している訳ではない。しかし、貨幣使用についての決定を下している企業計にリスクが憑依したままになっている訳でもない。企業計は、その支払いを悔いるかもしれない。しかしその影響は、貨幣の受け手にまで波及する訳ではない。商品を受け取る場合とは異なり、貨幣を受け取った場合には、貨幣を渡す側が有していたリスクも受け取る訳ではないのである。

したがって、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての貨幣は、因果関係についてはまるで無関心な技術的なメディア極端な事例の一つと見做せる。過敏に、ある種の投機たちによって<テクニカルに>反応する金融市場中央銀行によるマネーサプライ政策は、この「埋め合わせ」として、仕方無しに<何らかの因果関係なるもの>を観察するコミュニケーションとして導入されているに過ぎない。

しかしこれに対して、FinTechのテクノロジーは、それ自体が貨幣記憶の想起を担っている。こうした金融テクノロジーにおいては、ブロックチェーンのように、過去のトランザクションデータ記憶として想起できなければ、取引や交換は実行不可能に陥ってしまう。FinTechは、忘却メディアたる貨幣の因果関係に対する無関心を「埋め合わせ」しているという意味で、金融市場を賑やかす投機たちやマネーサプライ政策を講じる中央銀行機能的等価物となるのである。

この機能的等価は、ヘテラルキー的な分化を余儀無くされているモジュール型の組織システムとしての銀行の生存が如何にして可能になるのかについて、ある手掛かりを指し示している。中長期的な経済発展を前にすれば、銀行とIT企業、「金融」と「テクノロジー」は、共通問題設定を導入することになる。言い換えれば、中長期的な経済発展如何にして可能になるのかという問題を設定する時、銀行とIT企業運命共同体にもなり得るのである。

だが経済システム免疫反応がデフレに傾斜してしまう場合、既に述べたように、消費者たちやIT企業のみならず、銀行も、経済的なコミュニケーションから排除される危険がある。FinTech銀行を不要にするほど発展すれば、「金融」の内部に「再導入」された<金融>が、「テクノロジー」の内部に「再導入」された<金融>によって排除される可能性も十分あり得る。これでは運命共同体の関係も瓦解する。

それ故に中長期的な経済発展という参照問題においては、デフレ免疫反応を回避することが先決となる。デフレ脱却こそが、FinTechのテクノロジーによって淘汰されつつある銀行救済し得るのである。尤もこの問題は、純粋に経済機能的問題領域における問題というよりは、経済システム政治システム構造的な結合点の問題でもある。選挙で選ばれた訳でもない中央銀行の職員が金融政策の手段のみならず目標までも独断で決定している国家ならば例外となるであろうが、中長期的な経済発展の方向デフレ脱却に合わせるためには、国民の代表たる議会から信任を得た政府による意思決定が必要になる。

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参考資料