時間感覚のパラドックス、特殊相対性理論以降の時間感覚 | Accel Brain

時間感覚のパラドックス、特殊相対性理論以降の時間感覚

Accel Brain; Console×

派生問題:時間の非実在性

ジョン・エリス・マクタガートは1908年、有名な「時間の非実在(The Unreality of Time)」という論文において、「A系列(A serie)」と「B系列(B serie)」の区別を導入することで、時間の非実在を記述した。

マクタガートは、「A系列」と「B系列」の区別を、時間の「位置(Positions)」を観察することで導入されている。一般的に「瞬間(moment)」という用語で記述される時間の位置は、マクタガートによれば、二つの点で区別される。それぞれの位置は、他の位置よりも幾分早いか、幾分遅い。つまり時間の位置は、<より早い(Earlier)>と<より遅い(Later)>に区別される。その一方で、それぞれの位置は「過去(Past)」、「現在(Present)」、そして「未来(Future)」のいずれかに区別される。<より早い>と<より遅い>の差異が永続的な差異であるのに対して、過去と現在と未来の差異は永続的ではない。と言うのも、現在の出来事(event)は、かつては未来の出来事であった。そしてこの現在の出来事は、やがて過去の出来事となる。

マクタガートは、この「過去」と「現在」と「未来」の差異に基づいた系列を「A系列」と名付けている。一方「B系列」は<より早い>と<より遅い>の差異に基づいた系列である。それぞれの系列は、いずれも時間の位置の集合となる。この集合の要素となるのは、いずれも出来事(event)となる。「A系列」と「B系列」は、二つの異なる出来事の系列なのではなく、二つの異なる表現で整理された同一の系列なのである。

更にマクタガートは、この二つの系列表現される時間存在するためには、「変化(change)」が不可欠であるという。

時間は変化(change)を伴うものだということは、普遍的に認められていると考えられる。確かに、特定のものが、常に変化せずに存在する可能性がある。しかし、我々が同じことをした異なる瞬間、あるいは特定の期間があったと述べることによって何を意味しているのかと言えば、他のものが変化している間、それは同一のままであったということを意味しているとわかる。何一つとして変化が起こらない宇宙は(その中の意識的な存在思考を含むのだが)、時間無き宇宙(timeless universe)となるであろう。」
McTaggart, J. E. (1908). The unreality of time. Mind, 457-474., p459.

こうした「変化」は、マクタガートによれば、「A系列」が必要になるという。「A系列」無しに変化があり得ず、変化無しに時間があり得ないとするなら、「A系列」無しに「B系列」はあり得ないということになる。もし仮に「A系列」無しに「B系列」が時間構成できるとするならば、「A系列」無しで変化が可能でなければならない。

しかし、これは不可能である。出来事が出来事でなくなることはあり得ない。出来事は、かつての時系列から抜け出すことができない。出来事Nが出来事Oよりも早く出来事Mよりも遅くなる場合、<より早い>と<より遅い>の差異は永続的である。Nは常にOよりも早く、常にMより遅くなる。もし時間が「B系列」のみで構成されているとするならば、Nは常に時系列上の位置を有していることになる。出来事は、常に出来事のままである。出来事は出来事であって、そこに始まりや終わりは無い。

あるいは、ある出来事Mが別の出来事Nに統合されたと考えれば、Mが終わりNが始まるとは考えずに済むかもしれない。しかしながら、この場合も同じ問題が再発する。MとNは共通の要素を有している可能性はある。だが双方の出来事は同一の出来事ではない。したがって、ある時点でMがNに変化した場合、その時点で、MはMではなくなると共に、NはNになり始める。しかし、出来事それ自体が消滅する訳ではない。「B系列」の中でそれ自体の位置を有することが無くなる訳では決してない。したがってマクタガートは、一つの出来事を別の出来事に変化させることは不可能であるという。

そうした瞬間が存在すると仮定して、絶対時間の定量的に異なる瞬間mに変化を探すこともできない。それぞれの出来事が他のそれぞれの出来事よりも早いか遅いために、そうしたそれぞれの瞬間は「B系列」で固有の位置を有しているはずだ。そして「B系列」が<より早い>と<より遅い>の差異という永続的な関連を示しているように、瞬間が無くなることはあり得ず、また別の瞬間へと変化することもあり得ない。

結局マクタガートは、「A系列」無しで変化が生じる可能性否定する。

「したがって、A系列無しには、変化は存在しない。結果的に、時間は変化を伴わせるのだから、B系列それ自体は時間として不十分である。」
McTaggart, J. E. (1908). The unreality of time. Mind, 457-474., p461.

しかし一方でマクタガートは、「A系列」に潜む矛盾も指摘している。過去、現在、そして未来という時制は、相互に両立不可能である。全ての出来事は、過去、現在、未来のうちのいずれかでなければならない。どの出来事も、複数の時制を同時に備えることができない。過去、現在、そして未来は、相互に排他的であるとも言える。そしてこの排他は、不可逆的な排他である。あらゆる出来事は、未来から現在へ変化し、やがて現在から過去へと変化していくからだ。未来は必ず現在になり、現在は必ず過去になる。この時制の変化において、現在は未来を排他し、過去は現在を排他する。

A系列」が形成する関連は、時系列における何らかの出来事と瞬間の関連でなくてはならない。この関連が具体的に何なのかを特定するのは難しい。と言うのも、この関連を記述しようとすれば、ある種の「循環(a vicious circle)」が避けられなくなるためだ。ここでいう循環とは、瞬間が過去、現在、未来として区別されるその方法を説明する際に、既に時間存在を想定しているために生じる循環である。言うなれば論点先取だ。「A系列」を説明するためには時間を前提とする必要がある。だが逆に時間を説明するためには「A系列」を前提とする必要がある。したがって、「A系列」を説明するためには、「A系列」を前提とする必要がある。

「したがって、A系列を一連の関連として捉えた時に、A系列現実について主張されている場合、矛盾が発生する。それを一連の質として捉えることはできるのか。これにより、より良い結果が得られるのか。未来現在性、過去という三つの質は存在するのか。最初の出来事は二番目の出来事に、また二番目の出来事は三番目の出来事に、それぞれ継続的に変化しているのであろうか。」
McTaggart, J. E. (1908). The unreality of time. Mind, 457-474., p469.

それ故にマクタガートは、「A系列」を現実に適用することには無理があるという。そしてその結果として、「A系列」は現実に適合しないという結論に達したマクタガートは、時間には「A系列」が含まれるという理由から、時間そのものもまた同様に現実には当て嵌まらないと述べる。つまり、時間は実在しないという。

一連のマクタガートの記述を整理すると、次のように形式化できる。

  1. 時間は「A系列」と「B系列」に区別される。「A系列」は過去と現在と未来の差異に対応している。一方「B系列」は<より早い>と<より遅い>の差異に対応している。
  2. 「変化」無しに、時間はあり得ない。そして、「A系列」無しに、「変化」はあり得ない。
  3. A系列」を説明するためには、時間という概念が必要になる。一方、時間という概念を説明するためには、「A系列」が必要になる。「A系列」は論文先取的であり、循環であり、パラドックス的である。
  4. A系列」を現実に適用することはできない。「A系列」は、現実には存在しない。
  5. したがって、時間もまた現実には存在しない。時間は実在しない。

しかし、この「A系列」と「B系列」の区別は、時間の概念を必ずしも網羅的に記述できている訳ではない。と言うのも、時間が「系列」であるという記述は、時間が線的に連続していることを前提としているためである。そうした時間が成立するには、出来事や時点が一列に並んでいる必要がある。それは、各時点の各出来事が一方向的に連続しているということである。だが、この命題に対して反例を挙げることは、マクタガートが生きた時代においても、そう難しくはなかったはずである。例えば前期量子力学が明かしたように、それまで連続的であると想定されていたエネルギーは不連続であることが判明している。不連続な出来事は、我々の身近に存在している。

仮に時間概念を線的に連続した系列に限定して考えても、そうした時間存在しないというマクタガートの主張は、直感に反している。現に我々の意識は、ニュートン力学が体系化される以前から、時間を感じ取っていた。物理学的な観察者が時間を計測できるのは、時間感覚があるからこそだ。時間の非実在が真であるとしても、時間感覚の非実在は、少なからず経験的には真ではないように思える。

問題解決策:「見せ掛けの現在」と「厳密な現在」の区別

ウィリアム・ジェームズが1890年に導入した「見せ掛けの現在(specious present)」と「厳密な現在(strict present)」の区別は、時間の実在時間感覚の実在差異を捉える上での手掛かりとなる。「厳密な現在」は、純粋な瞬間であって、「真の現在(real present)」である。だがこの現在は、我々の直接的な知覚対象ではない。我々が経験するのは、あくまでも「見せ掛けの現在」に過ぎない。我々にとって「知覚可能な現在(sensible present)」となり得るのは、「見せ掛けの現在」だけなのである。

ジェームズによれば、我々が「現在」という時間意識する場合、そこには数秒の「幅(interval)」があるという。だがこれに対して彼は、「厳密な現在」を「幅」の無い純粋な瞬間であるとも述べている。例えば歌を聴取する場合、時間は紛れも無く経過している。だがその経過は、全て「現在」であるかのように経験される。つまり、未来から現在へ、そして現在から過去への時間連続的な変化が、全て「現在」の出来事として知覚される。この「現在」の中で知覚される未来から過去への変化が、「幅」の感覚を生み出す。こうして心理的な錯覚として経験されるのが、「見せ掛けの現在」である。したがって、我々の時間感覚構成しているのは、この「幅」を前提とした「持続(duration)」である。

ジェームズによれば、この持続は一体のものとして経験されると主張している。「見せ掛けの現在」を知覚する観察者は、初めに「幅」の一端を知覚した上で、そこからもう一端を知覚するという訳ではない。この両端の間の間隔から「持続」を経験するのではないということである。我々はこの「持続」の「幅」の全体を一体のものとして知覚する。逆に言えば、この「持続」する「見せ掛けの現在」を異なる幾つかの時点へと還元することは不可能であるということでもある。

問題解決策:「移行」としての時間経過

1921年に『心の分析(The analysis of mind)』を著したバートランド・ラッセルは、このジェームズの「見せ掛けの現在」を我々の感覚(sensation)と関連付けた上で、これを記憶形象(image)に結び付けて論じている。ラッセルによれば、「見せ掛けの現在」に対する時間感覚は、まず我々の感覚器官が刺激を受けることで始まる。その刺激の始まりの時点から、我々はその刺激を感じ取る。だがその感覚は徐々に希薄化(fades gradually)していくことで、やがて記憶形象へと移り変わる。ラッセルによれば、この徐々に希薄化していく過程が、「見せ掛けの現在」となるという。

「見せ掛けの現在」の中では、<より早い>と<より遅い>の区別はやはり導入される。それにより、<より古い>感覚と<より新しい>感覚の差異が生じる。最も新しい感覚は刺激の特徴を完全に留めている。逆に、最も古い感覚は最も希薄化した感覚となる。感覚が徐々に希薄化していく過程において、最終的に全ての感覚が完全に希薄化した時、「見せ掛けの現在」は過去へと「移行(transition)」する。

したがってラッセルにとって、現在から過去への「移行」は、徐々にではあるものの、既に「見せ掛けの現在」において進行していることになる。この意味で、ラッセルにおける現在とは、単なる「瞬間」などではない。「現在」から「過去」への「移行」が「現在」の内部で徐々に進行している以上、「現在」を単一の出来事として還元することは許されない。

問題解決策:「過去把持」と「未来把持」の区別

「現在」から「過去」への移行が既に「現在」の内部で徐々に進行しているとするならば、「未来」から「現在」への移行もまた同様に「現在」の内部で徐々に進行していると推論できる。この関連からエドムンド・フッサールの「現象学(Phänomenologie)」で導入される「過去把持(Retention)」と「未来予持(Protention)」の区別は、この推論を補強する概念規定であると類推できる。「過去把持」と「未来予持」は、ジェームズやラッセルが論じた「見せ掛けの現在」の「幅」の両端に対応していると考えられるからだ。

フッサールが1966年に発表した『内なる時間意識現象学(Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewusstseins)』では、この「過去把持」と「未来予持」の区別が、音楽聴取した際に知覚されるようなメロディに喩えて解説されている。奏でられたメロディは、過ぎ去り流れ去っても、「現在」の領域において一時的に「把持」される。そうして繋ぎ留められた意識が、一連の有意味統一体として構成されるのである。

一方フッサールは、こうした音を聴取している「現在」には、次に来たるべき音に対する潜在的な期待が働いているという。メロディ聴取しているのならば、まずそのメロディには続きがあるのかどうかが期待される。もし続きがあると期待されるならば、次に聴取し得る音の配列期待することになる。「未来予持」は、こうして「現在」において潜在的に期待される「現在」の地平を志向した意識となる。「未来」は、未だ現前していない。「現在」と「未来」の間には差異がある。だが双方に何ら連続性が無いようでは、意識は、それが「現在」に続く事象として到来したことを知覚できなくなる。したがってフッサールは、「未来」から「現在」への移行が、既に「現在」において潜在的に、連続的に、流動的に進行していると想定しているのである。

尤も、「未来予持」はあくまでも「過去把持」から区別される。「現在」における「未来」から「現在」への移行は、「現在」における「現在」から「過去」への移行と同質の移行である訳ではない。「過去把持」を通じて残像と化した意味内容は、次第にその充実した直観意味内容としての鮮度を希薄化させていく。言い換えれば「過去把持」は、まず充実した状態から希薄化した状態へと移行していくことになる。一方で「未来予持」は、逆に空虚な状態から始まる。未来志向の潜在的な期待が成就されれば、この空虚な状態は、充実した状態へと移行するであろう。だがあらゆる期待が成就するとは限らない。期待は裏切られる可能性がある。期待に反する「現在」が生起すれば、「未来予持」は充実化し得ないのである。

問題解決策:「ニュートンの時間」と「ベルクソンの時間」の区別

「現在」にある程度の持続を認めた上で、「現在」の内部に「過去」と「現在」と「未来」の区別を導入することを認めるのならば、我々の時間感覚に関する考証はアンリ・ベルクソンまで回帰することになる。特殊相対性理論や前期量子力学が生み出される前から一貫して、彼は時間の概念を「持続」との関連から記述していた。

ベルクソンは時間を「働く(agit)」という概念によって特徴付けている。彼はこの「働く」時間を「可能性(le possible)」と「現実性(le réel)」の区別によって展開させている。ベルクソンはまず、数学的な法則によって予測可能世界が、映画のフィルムで並列された展開前の形象のようなものであるという。このフィルム上では、ある瞬間において、あらゆる時間の状態が所与のものとなっている。それは、ニュートン力学が想定するように、世界時間の経過を伴うことなく決定されてしまっている。

しかしながら、時間は「働く」何物かである。ベルクソンの定義する「働き」とは、全てが一挙に決定されることを防ぐ作用を意味する。ベルクソンによれば、世界には、時間の経過を待たなければ決定されない事象があるという訳だ。そこには、物理学的に予測される未来の事象とは区別される、人間の自由な振る舞いによって初めて決定される事象もある。人間は、時間の経過によって経験を蓄積することもできれば、そうした経験を蓄積することによって、人間の創造的な活動に活かし得る様々な利得を得ることもできる。こう考えれば、ベルクソンの時間概念は、ニュートン力学決定論的世界から明確に区別されることがわかる。

ベルクソンの「持続」概念は、この「働く」時間の非決定論的な世界照応している。ベルクソンによれば、「持続」は、まず意識(la conscience)の状態の「持続」を前提としている。言い換えれば、「持続」は「働く」時間の中に位置する意識が、自らの状態を把握するという、こう述べて良ければ、ある種の自己言及を前提としている。

『物質と記憶』におけるベルクソンは、この「働く」時間意識状態の「持続」という概念を前提とした上で、「過去」と「現在」の区別を導入している。「過去」とは、もはや「働かない(n’agit pas)」時間であると同時に、働き得る時間でもある。と言うのも、それが想起によって「現在」の感覚の中に挿入されれば、「過去」は「現在」の生命を借りることで働くようになる(agira)。

「持続」とはこのように、心理的な領域に限定された概念である。事物の「持続」が把握されるのは、常に人間知覚においてのことである。知覚の外部で生起した事物は、およそ「持続」するとは考えられない。だが一方でベルクソンは、事象は「働く」時間の経過によって継起されるのであって、一時に展開される訳ではないとも述べている。確かに、人間の外部の事象もまた変化する。しかしながら、変化する事象のそれぞれの瞬間は、それぞれの瞬間を想起する意識によってのみである。ベルクソンはそれ故に、我々の知覚の届かぬ外部には、同時性しか存在しないのだという。

空間的に表象された時間

時間についての意識は、数の概念と密接に関わっている。何かについての数が増加していくのは、それを数えている意識が継起する形象を保持しているためである。意識は、それを数える時点において、数えられた個々の対象を同時に表象している。数えるという操作は、対象の同時的な表象を前提とする。そのために、その対象は空間上に並置(juxtaposition)されていなければならない。したがって、数えるという操作は、結局な空間に依存している。空間とは、意識が数を数えるための環境なのである。

この対象の同時的表象による空間上の並置という操作は、全てが一挙に決定されることを防ぐ作用を持つ「働く」時間とは明白に矛盾している。それ故にベルクソンは、時間空間差異を鋭く洞察する。と言うのも、哲学、物理学、そして数学によって記述される時間は、数えるという操作が加わるが故に、空間上の表象に依存した時間となるためだ。「働く」時間という概念から出発するベルクソンにとって、アリストテレス以来長らく自明視され続けてきた一般的な時間概念は、空間上に表象された疑似的な時間に過ぎない。真の時間とは、実は数えることのできない、というのはつまり数量化不可能な「持続」という質を有した概念なのである。

実際ベルクソンは、アリストテレスやカントに対してすら、空間的な表象としての時間に囚われた哲学者として厳しく批判している。ベルクソンによれば、空間はその構成要素の均質境界、そして数量化可能性によって特徴付けられている。一方で「働く」時間は、「持続」という質的特徴を有している。時間空間的な表象によって捉えてしまうのは、言わば量と質の混同を意味する。そしてこの混同が、時間は数えることができる概念であるという錯覚を生み出しているのだという。

「純粋持続」

無論、数量化された時間概念を前提とした場合で、その「持続」を知覚することは不可能ではない。だがベルクソンによれば、それは真の時間の「持続」ではない。彼はこの関連から「純粋持続(duree pure)」を空間的に表象された「持続」から区別する。「純粋持続」は、意識が生きることに身を任せ、現在の状態とそれに先行する諸状態との間に何ら境界を設けることなく成立する「持続」である。「純粋持続」における時間には、その内外境界が無い。それは不可分で、未分割で、質的な多様体となる。

空間的に表象された「持続」には、始まりや終わりの時点に境界が生じる。つまり、「持続」する時間とそうではない時間差異が生じることになる。これに対して「純粋持続」は、こうした境界設定とは無縁の「持続」である。「純粋持続」の中では、変化している物事は何一つとして無い。もし時間事象の変化の前提にあるとするなら、「純粋持続」における真の時間とは、言うなれば<無時間的な時間>である。

「純粋持続」のパラドックス

「純粋持続」を語るベルクソンの哲学は、従来の哲学や物理学や数学では記述されてこなかった独自の時間概念を提起している点で、創造的ではある。しかし、まさにこの「純粋持続」を空間的に表象された時間における「持続」から区別しようとする時、ベルクソンは「純粋持続」に境界を設定してしまうことになる。区別を導入している時点で、我々は空間をマークしてしまう。区別を放棄することはできない。区別を放棄するということは、<区別の放棄>と<区別の非放棄>を区別することになるからだ。

こうしたパラドックスに直面してしまう以上、ベルクソンの哲学には、将来が無い。『物質と記憶』では、時間の本質が「持続」によって定義されている。しかしヴァルター・ベンヤミンは、この定義によって指し示される経験(Erfahrung)の妥当主体となるのは文学者のみではないかと述べている。事実、ベルクソンの経験理論を実際に検証したのは、文学者であるマルセル・プルーストであった。プルーストの『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』は、ベルクソンの思い描いたであろう経験を、今日の社会的諸条件の下で、統合的な方法で作り出そうとした試みである。と言うのも、今日の社会的諸条件の下でベルクソンの「持続」や「働く」時間なる概念に倣うなら、経験の貧困化(Armut)はますます深刻な問題として派生するためである。

ベルクソンを信じるなら、様々な「持続」を想像することで、人間の魂は時間の強迫念から解放される。この発想を支持したプルーストは、この関連から自らの課題を創り出した。プルーストが生涯に渡って探究したのは、過ぎ去ったものを無意識の中に留まっている間に、それが思い出として飽和している状態で明るみに出すことであった。だがベルクソンの「持続」の概念は、<無時間的な時間>という逆説的な時間概念を真の時間として定義した副作用として、「」を欠落させることになった。まさにこの理由から、ベルクソンの哲学は歴史の範疇から遮断されたのである。それ故、マクス・ホルクハイマーが次のように断じているのは、決して辛辣な批判などではない。

「形而上学者ベルクソンは隠蔽する。」
Horkheimer, M. (2005). On Bergson’s metaphysics of time. Radical Philosophy, 131, 9-19., p14.

歴史から遮断されたベルクソンの「持続」概念は、その内部に伝統を持ち込むことを拒絶する。隠蔽した「持続」概念は、表面的な無限の偽装工作によって脚色されているのである。

問題解決策:「ゲーデルの宇宙」

マクタガートが述べたように、時間は確かに「A系列」と「B系列」に区別できる。だがこれらの系列日常生活で感じ取る形式的な時間感覚と同一視した場合、物理学的な問題が派生してしまう。ニュートン力学で自明化していた時間変数tは、<より遅い>と<より早い>の差異に準じて、相対的な時間表現している。だが、アインシュタインの特殊相対性理論においては、空間上の均質な広がりの中にある世界では「現在」という概念が意味を持たないために、時間変数tは「A系列」を表現することができなくなる。

相対性理論は、空間時間を独立した存在として区別してはいない。そこにあるのは、空間でもなければ時間でもない、「時空(Space-time)」という単一の存在だけである。時間はもはや空間とは質的に異なる種類の存在ではない。空間と同じように、時間もまた「流れる」存在ではないということである。したがって、「未来」が「現在」に、また「現在」が「過去」へと移行していく「流れ」もあり得なくなる。あり得るのは、精々のところ、唯一の「現在」だけだ。

1949年、クルト・ゲーデルはアインシュタインの一般相対性理論内在して、少なからず理論的には「過去への旅(travel into the past)」が可能な宇宙についての数理モデルを構築した。ゲーデルはアインシュタインの一般相対性理論を前提に、重力場方程式の宇宙論的な解を発見した。そして彼はそこから「時間的閉曲線(Closed timelike curve: CTC)」を特徴とした「ゲーデルの宇宙(Gödel’s Universe)」を提唱する。CTCは、ローレンツ多様体の中で時空間物質粒子が「閉じた」状態にあるにも拘わらず、移動体の可能な経路を表現する時空の曲線を意味する。この曲線上の経路に沿って十分な速度で移動する物体は、それ自体が過去の出発点に回帰し、旅が「始まった」まさにその瞬間にまで到達し得る。

より一般化して言えば、ゲーデルは彼自身の「ゲーデルの宇宙」において、時空とその世界線(world line)を通過する移動体の軌跡上の任意の二点、すなわち点Pおよび点Qに関して、Pが時間的にQに先行するように、PとQを結ぶ時間的曲線が有ることを示した。Qは時間的にPに先行する。これは、原理的には、少なからず「タイムマシン」で過去の任意の時空間に移動できることを言い表している。

「ゲーデルの宇宙」の点Pに位置する観察者の観点に立つなら、その観察者が知覚する時間座標はその観察者自身の持つ時計で示されるように、tとなる。一方、点Qの時間座標はt’となる。この場合、点Qに位置する観察者は「タイムマシン」に乗り、t”の時間経過後に、Qへと回帰することとなる。Qの観察者が持つ時計によれば、その経過時間は次のようになる。

$$t’ – t + t” > 0$$

だが、Pにある同じ時計では、0秒が経過したことを示すだろう。つまり、PとQの間では、客観的な時間の経過は存在していなかったことになる。回転する宇宙においては、時間客観的ではなく、局所的にしか意味を持たない。故にこの非客観と局所を利用すれば、時間に逆行することなく、過去に回帰することが可能になる。

CTCの理論は、それ以前の過去の事象とは全く関連の無い世界線の可能性を記述している。それ故、ある観測事象に対して、その「原因」を遡及し尽くすことが不可能となる場合があり得る。したがってCTCは、ニュートン力学決定論的世界を完全に一掃している。こうした決定論は、因果関係を前提としているが故に、「原因」と「結果」の区別の導入を不可避とする。だが「結果」を観測しても、その「原因」の遡及が不可能になる場合、観察者はもはや因果関係を記述できない。

CTCの閉じた時空においては、その回帰的な構造によって、「結果」となる事象とその「原因」となる事象が<同時>に生起する可能性がある。そのため、時系列的に推移する移動体を観察したところで、観察者は、その都度異なる「結果」と「原因」の差異観察することとなる。それは、ある時刻t+1に観測した「結果」と「原因」の区別が、以前の時刻tに観測した「結果」と「原因」の区別とは無関連に導入され得るということである。

この関連からゲーデルは、ライプニッツやカントらの見解と同じように、こうした「ゲーデルの宇宙」においては、客観的な時間の経過はあり得ないと推論した。それは、我々の特別な知覚様相から生じる錯覚に過ぎない。ゲーデルは特殊相対性理論が提唱される以前の我々の直観的な時間感覚を、自然のあらゆる事象を直線状に順序付ける一次元の多様体として単純化する。だが「ゲーデルの宇宙」で原理的に可能となる「タイムトラベル」の可能性は、この線的な順序を破綻させる。故に「ゲーデルの宇宙」は、時間の非実在を指し示している。

ゲーデルは更に、この客観的な時間の経過が「ゲーデルの宇宙」には存在しないという事実が、我々が住まう現実世界の宇宙にどのような影響を与えているのかを説明している。ゲーデルによれば、我々の住まう宇宙は、ゲーデルの数理モデルと物質とその運動の大局的な分布は異なるものの、観察事実としては我々の住まう宇宙と区別が付かない時間的閉曲線を含むモデルがあり得るという。これが正しいのならば、既に我々の住まう宇宙においても、客観的な時間錯覚であるということになる。

派生問題:時間感覚の実在性

マクタガートが指摘した時間の非実在という問題は、特殊相対性理論と前期量子力学物理学によって提唱された時代背景の下で、哲学、心理学現象学、論理学、数学の間で、何度も主題となった。こうした主題の下で新しい時間概念や真の時間概念を追究してきた上記の論者たちの記述には、一つの共通点がある。ジェームズやラッセルにおける「見せ掛けの現在」、フッサールの導入した「過去把持」と「未来予持」の区別、そしてベルクソンが指摘した空間的に表象された時間概念は、いずれも意識や心理的な事柄との関連から、我々の時間感覚によって認識された時間という概念に輪郭を与えている点で共通しているのである。客観的な時間の移行が錯覚であると踏破したゲーデルの記述もまた、裏を返せば、局所的で主観的な時間概念は否定されていない。仮に時間の非実在が完璧に証明されたとしても、時間感覚の非実在証明されたことにはなり得ない。

だが、時計が告げる以上に詳細な「時間」を感じ取ろうとする者は、この「時間」という概念が極めて移ろい易い不確実な感覚に基づいていることを痛感せざるを得なくなる。過去、現在、未来へと連続的な線分として流れていくという時間概念は、既に説得力を失っているのだ。

神経生理学や精神物理学の間では、「時間感覚(Time sensation)」の歪みという事象が何度も報告されている。例えば自動車に轢かれそうになった瞬間に起こる「スローモーション(slow motion)」の現象は既に有名な話になっている。危機的状況でショック体験を受けた者の心理システムは、ある典型的な異常状態を伴わせる。神経科学者ピーター・ツェーらの報告によれば、我々が知覚する時間長さは、脳の瞬間的な情報処理率に依拠している。脳の情報処理率は、「型破りな(oddball)」注意対象に遭遇した場合に、急激に上昇するという。脳内の情報処理率が急激に上昇した場合、神経システムはより多くの情報を処理することになる。

2008年にデイヴィット・イーグルマンが提出した『人間時間知覚とその錯覚(Human time perception and its illusions)』でも指摘されているように、多くの精神物理学的な報告が冗長的な刺激で時間知覚が縮減するという解釈を提示していることは、特筆すべきことである。刺激が冗長的であれば、心的な時間間隔が縮まるのである。我々は、習熟した出来事や慣れ親しんだ状態を知覚する場合には、時間が直ぐに過ぎ去っていくかのような感覚を持つ。逆に生命の危機を脅かすようなショック体験のように、既存の秩序や固定念を打破するような出来事や状態に遭遇した場合には、心的な時間感覚拡張されることになる。毎年同じような日常を繰り返していれば、年を取るごとに、1年が短く感じるようになるだろう。波乱に満ちた非日常を体験していれば、その1年は長く感じるのかもしれない。交通事故に遭遇した者がその瞬間に垣間見るスローモーション世界も、この一例であろう。

とはいえ、時間の経過が長く感じるからといって、スローモーションの現象が本当に起きているのかはわからない。それはもしかすると、後から想起した場合に、そのように感じてしまうだけなのかもしれない。その者は、その出来事から異常に長い時間知覚しているのではなく、その出来事の記憶異常に長かった時間として想起している可能性もある。そこでイーグルマンらは、ショック効果を呈示する自由落下アトラクションを利用した人体実験によって、この真偽を確かめようとした。

被験者となるダイバーたちは、45メートル以上の地点から、ノーロープバンジーを行なう。下部に設置されてあるネットに落下するまでの約3秒の間に、ダイバーたちには時間長さ知覚して貰うことになる。落下を終えたダイバーたちには、ストップウォッチでどの程度の長さ時間を感じたのかを計測して貰う。すると、実際の滞空時間よりも平均して36%ほど長い時間を感じ取ったという結果が得られた。

落下中のダイバーたちは、「知覚クロノメータ(perceptual chronometer)」という腕時計型の実験装置を装着していた。その画面には、次々と異なる数字が点滅して表示される。点滅速度は徐々に高まる。そして遂には認識不可能なまでに加速化していくという。落下中のダイバーたちの時間感覚が歪むことで、時間の経過を遅く感じるようになると仮定してみよう。この場合、如何に通常の認識可能速度を上回る速度で点滅していようとも、ダイバーたちはその数字を視認することができるはずだ。

そこでイーグルマンらは、落下直後のダイバーたちに、自分が画面上で見た番号を回答して貰うことにした。だが結局、ダイバーたちの認識能力が増大したという結果は得られなかった。つまりこの研究から言えるのは、落下中の被験者たちの意識の中では、時間の経過が遅くなるというスローモーションの現象は発現していないということなのである。

このように結論付けてしまっても、ダイバーたちが実際の滞空時間よりも約36%ほど長く時間を感じ取ったことの説明が付かなくなる訳ではない。ダイバーたちが通常よりも長く時間を感じ取ったのは、その出来事から異常に長い時間知覚したからなのではなく、その出来事の記憶異常に長かった時間として想起しているためなのである。長く感じたという被験者たちの報告は、後から振り返ると長く感じるということなのであって、実際に時間が減速した訳ではない。

このことを説明するためにイーグルマンは、記憶の「密度(density)」という概念を取り上げている。彼によれば、恐怖体験をはじめとしたショック体験に直面している者の脳内では、扁桃体が異常活性化することになるという。すると、海馬体をはじめとした他の部位で処理されている通常の記憶に加えて、別様の記憶が生み出されるという。その記憶は通常の記憶に比して豊か(richer)であると同時に、濃密(denser)でもある。これは、扁桃体の活性化を起因とした「通常よりも濃密な記憶形成(denser-than-normal memory formation)」に他ならない。

ここでイーグルマンが述べている記憶密度とは、言わば蒐集される記憶の新鮮味を含意している。我々は初めて体験する出来事ほど、高密度記憶として蒐集していく。だから子供は、大抵の出来事を濃密な記憶として蒐集していく。子供にとって、大抵の事柄は新鮮なのである。逆に老人は、多くの出来事を体験してしまっているために、中々新鮮味のある出来事には直面しない。だから老人が新たに蒐集した記憶は、子供が新たに蒐集した記憶に比して、密度が低いのである。

イーグルマンによると、濃密な記憶であれば、それだけ想起に時間を費やしてしまうという。だから我々は、濃密な記憶となった出来事を想起した場合に、実際に起きた出来事よりも長く続いたかのように錯覚してしまうというのである。だとすれば、常日頃から濃密な記憶蒐集し続けている子供は、老人よりも日常の時間を長く感じていることになる。逆に言えば、新鮮味の無い日常を送り続けている老人ほど、一年の経過が速く感じてしまうということになる。

こうして「時間」という概念を観察しようとすれば、我々は一つの根本的な逆説に直面することになる。時間感覚は恐らく、老若男女で千差万別である。故に時間感覚を定義するためには、自身の主観的な感反省した上で、普遍的妥当する時間概念を特定していく必要がある。だが一方で、客観的な視点から時間概念を論じれば、各人の時間体験内容を度外視することになる。こうした困難に対処するためには、一般普遍性に対する視点と個々人の体験に対する視点を同時に確保する方法が必要となる。そしてその方法に準拠した上で、個々の時間感覚やその体験一般化した理論を記述することにより、初めて時間を定義した上で論じることができるのである。

問題再設定:「量子力学は完全なのか」

神経生理学が指摘する時間感覚可変性は、「時間が実在しないにも拘わらず時間感覚は実在する」という矛盾解消する手掛かりを与えている。実際、この矛盾は、言葉意味をその通りに受け止めれば、矛盾とはならない。何故なら、たとえこの世界時間が実在しなかったとしても、我々の脳内には既に、時間感覚が実際にあり得ているためである。言い換えれば、時間感覚は、時間に依存することなく可能なのである。

1987年、『知恵の樹(The tree of knowledge)』と題される出版物において、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラは時間感覚の上述した矛盾解消する有力な手掛かりを提示している。マトゥラーナとヴァレラによれば、我々は周囲の外部環境経験する際、対象の表象を脳内に再現している訳ではないという。言い換えれば、外部環境の表象や反映は、経験の過程に関与しない。例えば我々が外部環境の物を視ることができるのは、視覚の知覚様相機能しているためである。だが、視覚が機能するのは、網膜が外界の光を知覚したためではない。知覚は、外部環境からのデータ神経システム内部の作動とモデルに結び付けるための、広範囲に渡る内的処理の帰結なのである。

厳密に言えば、ここでいう「外部環境からのデータ」とは、「外部環境から入力されたデータ」を意味するのではない。と言うのも実際、マトゥラーナとヴァレラは、外部環境から何かが入力される可能性を一切認めていないためである。神経システムは、その全体が閉回路によって構成されている。神経システムは、外部環境から情報を受け取らないのである。神経システム自己調節機能を持つ一つの完結した集合体であって、そこには内側も外側も無い。ただ生存を確実化するために、感覚と行動との間の整合が保持されているだけなのである。

「語られている事柄は全て、ある観察者から別の観察者へと語られている。更に、観察者は常に自身の観察再帰的な方法観察する観察者(rekursiver Weise Beobachter)である。観察者は自身の置かれている状況を記述の外部に位置付けることができる。それが可能なのは、観察者自身が実行する全ての事柄が同一の領域内、すなわち観察者の閉鎖的な神経システム(geschlossenen Nervensystems)における相対的な神経活動の領域内に写像されるためである。神経システムとそれ自体の神経活動の状態との相互作用は、原理的に、一定の行動変容の過程における無限再帰(infinite Rekursion)を可能にする。進化の過程で神経システムが修復されることで、それ自体の状態と再帰的に相互作用する時に、観察者が発生する記述の範囲も、閉鎖的な範囲となるのである。」
Maturana, H. R. (2013). Erkennen: die Organisation und Verkörperung von Wirklichkeit: ausgewählte Arbeiten zur biologischen Epistemologie. Springer-Verlag., S.148.

確かに、神経システムは現に外部環境知覚している。しかしマトゥラーナ=ヴァレラ説によれば、外部環境についての記述というのは、外部環境に関する記述なのではなく、我々についての記述なのだという。つまり、一見して外部環境からのデータを受け取っているかのように視える神経システムも、実際にはその全体が閉回路となっているがために、その知覚におけるデータ処理は単なる内的な処理に他ならないという訳だ。

科学社会学者トール・ノーレットランダーシュは、このマトゥラーナ=ヴァレラ説を受けて、次のように喩えている。曰く、我々は一生を潜水艦の中で過ごす乗組員と同じような形で世界知覚している。乗組員はレバーを操作することで、自らの干渉行為影響観察して記述することができる。しかし、潜水艦の外部環境を直接経験することはあり得ない。実際の世界は、乗組員がこれまで蓄積してきた経験とは矛盾しないというだけであって、乗組員の想像とは乖離している可能性もある。

この関連からノーレットランダーシュは、マトゥラーナ=ヴァレラ説を量子力学の「コペンハーゲン解釈(Copenhagen Interpretation)」に結び付けて論じている。ノーレットランダーシュも述べているように、マトゥラーナ=ヴァレラ説は少数派の意見という意味では異端であるものの、首尾一貫して矛盾が無い。この説は、論理的構成において、ニールス・ボーアを中心に量子力学主題となった「コペンハーゲン解釈」を連想させる。

尤も、ノーレットランダーシュも指摘するように、「コペンハーゲン解釈」の提唱者たちがマトゥラーナ=ヴァレラ説に関心を抱いたことはなく、マトゥラーナらもまた量子力学の諸概念に関心を払っていた訳ではなかった。加えて、量子力学における「観測(observation)」概念がマトゥラーナとヴァレラにおける「観察(observation)」概念に直結するとも言い難い。ミクロ世界の重ね合わせ状態が「観測」された瞬間に一つの確定した状態に収束すると論じるのが「コペンハーゲン解釈」であるのに対して、語られている事柄は全て「観察者」によって語られた事柄であると断じるのがマトゥラーナ=ヴァレラ説である。両者の概念を結び付けるためには、双方の諸概念の抽象化可能にする別種の理論が必要であるように思える。

しかしノーレットランダーシュは、尚も双方の類似性を注視する。我々が自分の記述について語る上での大きな問題点は、世界とは自分が脳内で記述し、叙述し、再現し、複製し、表象している事柄だと考えたくなる衝動に駆られるという点にある。「コペンハーゲン解釈」とマトゥラーナ=ヴァレラ説の共通点は、この問題を主題にしている点にこそある。

「コペンハーゲン解釈」とマトゥラーナ=ヴァレラ説の類似性を前提とすれば、これらの主張は完全なのかという疑問が浮上してくる。その記述の無矛盾を受け入れるのなら、それが全てを網羅しているか否かを問わざるを得ない。

ノーレットランダーシュも断言しているように、答えはノーである。ゲーデルは、まさにこのことの不可能性証明している。ゲーデルが記述したように、如何に完璧で完成された理論でも、無矛盾であると同時に完全でもあることは許されない。無矛盾であるとすれば、たとえ別の理論ではそれが真理であるとわかるとしても、その理論それ自体の枠組みでは真偽を決定し得ない命題が必ず存在する。

だからこそゲーデルの盟友でもあったアインシュタインは、「量子力学は完全なのか」と問い質し、ボーアとの長きに渡る論争を繰り広げたのである。結果的には、1980年代に実施された幾つかの実験により、アインシュタインの思考実験は理屈に合わないことが証明された。量子力学は完全である。原子世界に関して言えば、量子力学が語る以上のことを知る術が無い。ただしそれは、あくまでも我々が知る限りにおいてのことである。

マトゥラーナ=ヴァレラ説についても、全く同じ疑問を提起できる。語られることの全てが「観察者」によって語られることであるというマトゥラーナとヴァレラの「観察」は完全なのか否かが問われなければならない。我々の当初の問題設定との関連で言えば、マトゥラーナ=ヴァレラ説が時間感覚という主題においても妥当するか否かを問わねばならない。そして必要とあれば、彼らの理論拡張しなければならなくなる。これについては、次項から取り組むこととしよう。

参考文献

  • Bell, J. L. (2002). Time and causation in Gödel’s universe. Transcendent Philosophy, 3(1).
  • Benjamin, Walter. (1933) “Erfahrung und Armut”. In: Gesammelte Schriften Bd Ⅱ-1, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1977 S.213-219.
  • Benjamin, Walter. (1939) “Uber einige Motive bei Baudelaire”. In: Gesammelte Schriften Bd.I/2, Frankfurt am Main : Suhrkamp, 1980. S.605-655.
  • Bergson, H. (1986). L’évolution créatrice [1941]. Quadrige P.U.F.
  • Bergson, H. (1889). Essai sur les donnees immediates de la conscience. [1927] Paris: P.U.F.
  • Bergson, H. (1896). Matiere et Memoire. [1946] Paris: P.U.F.
  • Eagleman, David M. (2008) “Human time perception and its illusions,” Current Opinion in Neurobiology, Vol. 18, pp131-136.
  • Gödel, K. (1946). Some observations about the relationship between theory of relativity and Kantian philosophy. Collected Works, 3, 230-259.
  • Gödel, K. (1949). An example of a new type of cosmological solutions of Einstein’s field equations of gravitation. Reviews of modern physics, 21(3), 447.
  • Gödel, K. (2000). Rotating universes in general relativity theory. General Relativity and Gravitation, 32(7), 1419-1427.
  • Proust, Marcel. (1987-1989) A la Recherche du temps perdu, Pléiade, Gallimard.
  • Schilpp, P. A., & Gödel, K. (1949). A remark about the relationship between relativity theory and idealistic philosophy.
  • Horkheimer, M. (2005). On Bergson’s metaphysics of time. Radical Philosophy, 131, 9-19.
  • Husserl, E., & Boehm, R. (1967). Zur Phänomenologie des inneren Zeitbewußtseins, Husserliana X.
  • James, W. (1890). The principles of psychology New York. Holt and company.
  • Russell, B. (1921). The analysis of mind. G. Allen & Unwin.
  • Maturana, H. R., & Varela, F. J. (1987). The tree of knowledge: The biological roots of human understanding. New Science Library/Shambhala Publications.
  • Maturana, H. R. (2013). Erkennen: die Organisation und Verkörperung von Wirklichkeit: ausgewählte Arbeiten zur biologischen Epistemologie. Springer-Verlag., S.148.
  • McTaggart, J. E. (1908). The unreality of time. Mind, 457-474.
  • McTaggart, J. E. (1927). The Nature of Existance, vol.2, Cambridge.
  • Nørretranders, T. (1991). The user illusion: Cutting consciousness down to size. Viking.
  • Szamosi, Geza. (1986) The Twin Dimensions: Inventing Time and Space, Mcgraw-Hill.
  • Stetson, Chess., Fiesta, Matthew P., Eagleman, David M. (2007) “Does Time Really Slow Down during a Frightening Event?,” PLoS ONE 2(12): e1295. doi:10.1371/journal.pone.0001295.
  • Taylor., Steve. (2007) Making Time: Why Time Seems to Pass at Different Speeds and How to Control it. London: Icon Books.
  • Tse, Peter Ulric., et al. (2004) “Attention and the subjective expansion of time,” Perception & Psychophysics, 66 (7), pp1171-1189.
  • Wiener, Norbert. (1961). Cybernetics or Control and Communication in the Animal and the Machine (Vol. 25). MIT press.
  • 平野一比古. (2010). ベルクソンにおける時間の一側面について: 時間が 「働く」 ということおよび自由. メタフュシカ, 41, 25-36.