目次
派生問題:時間感覚の制御は如何にして可能になるのか
ヴァレラは、エドムンド・フッサールの「現象学(Phänomenologie)」を「神経現象学(Neuro-phenomenology)」へと拡張させることにより、ルーマンの等価機能主義的な社会システム理論と近しい観点から、時間感覚を深く探究している。ここでは、まずはフッサールの「現象学(Phänomenologie)」とその周辺を観察することで、現象学そのものの限界を確認していく。その上で、ヴァレラの神経現象学をルーマンの時間論と比較することにより、時間感覚が如何なる「システム」として作動しているのかを分析していく。
問題解決策:現象学的還元主義
フッサールの現象学が第一に取り組んだのは、主体と客体、主観と客観、認識と認識対象の関係を如何にして解明するのかという問題であった。主体と客体の差異がある以上、主体は主体の外部に出向くことができない。そのため主体には、主観と客観が一致しているか否かも、認識が対象を捉えているか否かも、確認することができない。既にルネ・デカルトは、『方法的懐疑』において、この問題への回答を「神の存在証明(Beweis des Daseins Gottes)」に訴え掛けた。しかしフリードリッヒ・ニーチェ以来、もはや哲学は神に依存することができなくなった。今や神という概念で存在を基礎付けることは許されない。それ故にフッサールは、この問題への回答をデカルトとは別様の視点から導かなければならなかったのである。
そこで彼が引き合いに出したのは、「現象学的還元(phänomenologische Reduktion)」という方法である。この新たな方法において重要となるのは、主観と客観の一致を確証することでもなければ、認識と認識対象の齟齬を克服することでもない。この方法で追究されるのは、「もはや疑い得ない」と言えるほどの「妥当性(Geltung)」である。現象学的還元は、もはや疑い得ない妥当な認識が如何にして可能になるのかを問う方法なのだ。
現象学的還元主義者は主観から出発する。我々は自身の主観の内部に、一定の「疑い得ないもの」を宿している。フッサールによれば、一人一人の「疑い得ないもの」は、他者と共有せざるを得ないものである。だが、そうした主観的な「疑い得ないもの」は、単なる「臆見(doxa)」である場合もあろう。それが自然とさえ言える。それ故にフッサールは、この主観的な「疑い得ないもの」への臆見を一旦「判断停止(Epoche)」する必要があるという。臆見を保留すると、我々の主観は「純粋意識(reines Bewußtsein)」の状態と化す。ここでいう純粋意識とは、あらゆるものを疑った結果、疑い得ないものとして残存した唯一のものに他ならない。それはルネ・デカルトの「コギト(cogito)」に類似している。しかしフッサールが説明する純粋意識という概念は、それが経験を可能にする原初的な原理であるということを強調している点で、コギトという概念とは厳密には異なっている。
意識の志向性
あらゆる現象は意識を通じて認識される。意識は常に外部環境に存在するものに関わっていく。フッサールはこの外部に向かう意識の性質を「志向性(Intentionalität)」と名付けた。あらゆる現象は、意識の志向性によって対象化される。この志向によって、現象はその都度意味付けられていくのである。
この意識の志向性という概念を捉えるためには、彼が論じる「知覚(Wahrnehmung)」という概念にも注意を払わなければならない。彼によれば、知覚と知覚対象となる事物は一致している訳ではない。主体が客体を知覚しても、その知覚内容と実際の客体との間には差分が生じるのである。それと言うのも、我々が事物を知覚する際には、常にその事物の一面的な「外観(Erscheinung)」しか知覚していないからである。例えばディスプレイの映像を知覚しているユーザーは、そのディスプレイの裏側までは同時に知覚できない。サイコロの1の目を知覚している者には、同時に6の目を知覚することは不可能である。それ故にフッサールは、事物は常に一定の視点からしか知覚され得ないと考えた。
あらゆる意識は何らかの対象についての意識である。事物が知覚対象として対象化されるのは、意識の志向性があるからこそのことだ。この関連からフッサールは、「ノエシス(Noesis)」と「ノエマ(Noema)」の区別を導入することで、この意識と知覚の相関関係を整理している。ノエシスは意識の作動を意味する。つまりノエシスとは、対象についての妥当な認識を構成するのである。一方、ノエマは意識の対象化を意味する。意識することがノエシスであるのなら、ノエマは意識されたことを表す。それはノエシスによって構成された知覚対象への志向を意味する。もとよりノエマは、対象それ自体ではない。ノエマはあくまで意識によって構成された産物である。故にそこには臆見も含まれている場合もあるだろう。
生活世界における相互主観的なコミュニケーション
フッサールの主張は正しい。だが我々は、外観しか知覚していないにも拘らず、しばしばその事物の全てを知り尽くしたかのような錯覚に陥っている。サイコロの全ての面を知覚していない者でも、サイコロの外観を観れば、そこにサイコロがあるということを知覚しているつもりになるだろう。フッサールによれば、実はこの錯覚こそが臆見の産物であるという。今サイコロの一面しか観ていない者でも、過去には一面ずつ転がすことで、全ての面を知覚した経緯があるかもしれない。そうした経緯の持ち主であれば、サイコロの一面を観ただけで、それがサイコロであるということを知ることができる。そうした観察者は、サイコロの一面を観た瞬間に、瞬時にその断片的な情報を統一することで、それがサイコロであるという認識を形成しているのである。
自己がこのような主観的な意識の持ち主であるとすれば、同じことが他者にも適用可能であることが推論される。フッサールは、この自己ではない主観を「他我(alter ego)」と呼ぶ。他我は自我と同一の世界に存在しているはずだ。自我にとって、それは疑い得ないことである。フッサールは、この妥当性を「相互主観性(Intersubjektivität)」という概念で表現した。いわゆる相互主観的なコミュニケーションとは、他我が同一の世界を共有しているという認識が妥当であるという前提で可能となるコミュニケーションなのである。そしてこのコミュニケーションの舞台となるのは、後期フッサールが提唱した「生活世界(Lebenswelt)」という概念である。生活世界とは、あらゆる意味構成と妥当な認識に客観的で根源的な基盤を提供する世界である。それは常に自明なものとして存在している。自我と他我は、同一の生活世界を生きているという認識が妥当であるという前提の上で、相互主観的なコミュニケーションを実践している。こう述べた場合に注意しなければならないのは、他我は自我の意識による志向性の対象だということだ。つまり他我は自我の意識の外部に存在している。故にフッサールの現象学は、あらゆる他者を自我の一部に見立ててしまう独我論とは厳密に区別されるのである。
「厳密な学問」であることのパラドックス
フッサールは、この現象学の普遍性を主張している。彼によれば、現象学はあらゆる学問についての学問であるという。だとすると現象学は、遅かれ早かれ現象学それ自体を現象学的還元や意識の内省的な志向の対象に据えることになるだろう。何故なら現象学それ自体もまた、彼が語る「あらゆる学問」に含まれるからである。現象学それ自体を現象学の対象にしない限り、現象学は自らの普遍性を主張できない。故に現象学に必要なのは、ひとえに自己言及的なシステム作動である。
これを前提とすれば、現象学者フッサールの意識は、<現象学についての現象学>のために、自己言及的なシステム作動を繰り返してきたということになる。つまり彼は現象学それ自体を現象学的還元の対象としたばずなのである。だがこのように述べただけでは、それが如何にして可能なのかを説明したことにはならない。もう少し論及してみよう。まずフッサールは、現象学に関するもはや疑い得ない妥当な認識を追究していたはずである。現象学は彼の意識の志向対象であったはずだ。そして彼は、現象学についてのあらゆる臆見を判断停止によって排したはずである。彼は純粋意識の状態で現象学を論じていたはずなのである。しかしそうなると疑問が浮上してくる。つまりこの自己言及的なシステム作動を実行している現象学者フッサールは、如何にして自己を同一化し続けたのかである。念のため付言しておくと、これは形式論理学の話ではない。「論理学」という用語を使うなら、厳密には様相論理学の話である。
ルーマンによれば、自己言及的なオートポイエティック・システムは、<システム>と<環境>の差異を絶えず再構成し続けることで自己を同一化し続けていく。システムは環境との差異を確保することで自己の同一性を保持するのである。だがシステムと環境の差異には無限後退が伴う。そこでルーマンは、この脱パラドックス化の形式として意味を導入したのである。
確かにフッサールも、意味という概念を主題化していた。しかし彼が論じる意味には、ルーマンが論じる意味のように、脱パラドックス化の機能が無い。フッサールが論じたのは、対象から区別された意味という内容概念である。この内容としての意味こそが志向性の本質的な特徴を示す。言い換えれば、初期のフッサールが意味という概念を引き合いに出したのは、もともとは単に志向性という概念を明瞭化するために過ぎなかった。
後期になると、フッサールは生活世界の概念との関連からこの意味の概念を再記述することになる。それによれば、生活世界は我々が意味を付与した世界であると共に、我々に意味を提示してくれる意味構成体でもある。しかしこの生活世界は、フッサールの定義に従う限りでは、自己言及的なオートポイエティック・システムとしては作動しない。確かにフッサールは、生活世界という概念を導入する以前から、「環境(Umwelt)」という概念を繰り返し用いてきた。フッサールの場合、環境とは主体の周辺世界を意味する。それは我々の意識の志向対象とはならない。意味が付与されていない世界が環境なのである。この点を汲みするなら、フッサールが論じた生活世界と環境の差異は、ルーマンが論じた「意味」を構成するシステムと環境の差異と共通していると言える。
現象学の脱パラドックス化
しかしフッサールは、偶発性に曝されている状況で、特定の志向対象に対する意味付与が如何にして可能になるのかを十分には論じていない。ルーマンの意味論に倣えば、それが無限後退のパラドックスに対する隠蔽技術によって成立するということが明らかとなる。だがフッサールの現象学はあらゆる学問の基礎付けを目指す学問だ。如何にルーマンの意味論が有用であろうとも、ここで現象学とは別の理論に頼るようでは、フッサールは普遍理論の看板を降ろさなくてはならなくなる。しかしながら、普遍理論を志向する以上、自己言及的なシステム作動から伴うパラドックスと無限後退から伴うパラドックスは不可避だ。
そこで我々は、この現象学が陥っているパラドックスを脱パラドックス化する形式として、<社会システム理論>と<非社会システム理論>の区別を導入することにしよう。そうすることで、現象学の哲学的な深みには見向きもせずに、社会システム理論を志向の対象にすることにしたい。我々が依拠するのは、もはやフッサールの『厳密な学問としての哲学(Philosophie als strenge Wissenschaft)』ではない。フリードリッヒ・ヘーゲルが述べたように、確かに真理とは全体のことだ。しかし、全体が自己言及的な観察の観察を抱擁するのならば、それはパラドックスとなる。ルーマンが述べたように、真理はそれ自体としてパラドクシカルに基礎付けられているのである。
問題解決策:存在論的差異
現象学との関連で言えば、マルチン・ハイデガーの存在論は無視することができない。だが我々の分析との関連で言えば、この存在論は採用することはできないだろう。確かにハイデガーも優れた時間論を展開している。しかしその前提にあるのはあくまで存在概念だ。ここでは、この存在論を社会システム理論と比較することによって、ハイデガーの哲学に準拠することの限界を指摘する。その上で、社会システム理論の有用性を強調しておこう。
現象学者フッサールに師事したハイデガーは、世界や事物の存在を前提とした哲学を展開するのではなく、まず存在するということがどういうことなのかを考察した。彼は「存在の問い(Die Frage nach dem Sein)」に答えを導こうとしただけではなく、その問いの意味にまで遡及した。彼は人間の存在の本質を追究したのである。両大戦間に提出された彼の存在論は、社会不安に陥っていた人々に善く生きることへの希望を与えたという。存在の探究は、我々の生活を見直す契機となる。何故なら我々の生活も、存在に基づいて営まれているからだ。彼の存在論は、人間の日常生活に接近した哲学なのである。
偶発的な刹那の存在
ハイデガーの存在論によれば、我々が存在することには全く何の必然性も無い。我々が存在するということは、全て偶発的な出来事なのである。それ故に、我々の存在に最終的な根拠など無い。偶発的な存在は全て刹那的な存在である。こうした偶発的な状況において、我々は常に自分という存在を意識している。つまり、自分が現実に存在しているということを、我々は漠然と理解しているのである。ハイデガーは、こうして現実に存在する我々人間を「現存在(Dasein)」と呼んだ。
現存在は「世界-内-存在(In-der-Welt-sein)」である。現存在の本質にあるのは「実存(Existenz)」だ。人間や事物は世界の中でのみ存在する。現存在は、世界の中で世界を構成する存在を利用することで生きている。例えば衣食住の制度や調理道具などのようなツールは、最終的に現存在が生活していくために必要となる事物を提供してくれている。人間や事物の現存在は、こうした存在同士で相互に承認し合うことで初めて成り立つのである。
こうした世界観を持つ存在論は、同時に「今ここ」の現存在を重視する。言い換えれば、それは「現前(present)」を受け止めるということだ。「現前」の原語であるAnwesenheitは、居合わせていることや出席することを意味する。ハイデガーはこれを「現在において在ること」と理解した。ここでいう「現在」や「今」とは、過去から現在、現在から未来へと流れていく時間概念とは異なっている。存在論的な時間概念は、持続的に流れるものではなく、ただ「今」が移行していくだけである。「今」とは、刹那以上のものではなく、一回的な現象であり、決して交換可能な現象ではない。それ故、「今ここ」に存在しているものが、次の瞬間にも存在しているか否かは、誰にもわからないということになる。そして、この「今ここ」に存在しているものは、決して他の存在と交換できるものでもないのである。
この偶発的で、刹那的に存在している我々は、常に他者と共在(mitsein)している存在である。人は常に他者と隣り合わせで存在している。他者に合意する場合であれ、合意しない場合であれ、同じことだ。まず他者が存在しているということを承認しなければ、その他者に意見を言うことはできない。
機能的に分化した近代社会の盲点
しかし一方、社会システム理論が記述する機能的に分化した近代社会は、本質的に他者の存在を承認することができない。例えば教育システムは、ルソー以来、子供を「未熟な状態」や「無知な状態」や「逸脱した状態」や「野蛮な状態」として捉えてきた。試験による選抜は、子供の存在を成績として数値化することで、交換可能なものとして取り扱ってきた。これに対してハイデガーの存在論は、他者の存在を「ここに在ること(Dasein)」として承認する。存在論的に言えば、どのような試験で選抜しようと、子供は決して交換不可能なのである。
ハイデガーの存在論が強調しているのは、機能することではなく、我々が代替不可能なかけがえのない存在であるという視点だ。彼はこのかけがえのない存在を「本来的(eigentlich)」なる現存在と呼ぶ。機能を重視した生活であれば、他者の存在を承認せずとも、他者とコミュニケートすることができる。そうしたコミュニケーションにおいては、個々人の人格もまた機能的に等価な人格と交換することができるようになる。例えば消費者にとって、ピザの宅配を担う配達員は誰であっても構わない。ピザを配達してくれる人格として機能するならば、誰でも良いのだ。だからこの消費者には、その配達員を本来的な現存在として承認することが難しいのである。
我々が自己や他者の「かけがえのなさ」を実感するためには、その現存在にしかできないことが必要になる。自分にしかできない固有の特権を有している者の存在であれば、別の存在と交換することができない。ハイデガーがこの固有の特権として例示したのは、「死」である。我々は他者の代わりに死ぬことができない。自分の死を引き受けることができるのは自分だけである。
それ故に我々は、自分の死と向かい合うことで初めて、自分の存在のかけがえのなさを手にすることになる。現存在の本来性は、その減存在が死ぬことで、つまり存在が喪失することで初めて根拠付けられる。逆に言えば、我々の存在は、我々が存在し続ける限り、常に無根拠なのである。ハイデガーはこの観点から、「死へ臨む存在(Sein-zum-tode)」としての在り様を主張した。
存在の問いの循環
ハイデガーがこのような哲学を構想することができたのは、存在の意味について問い続けたからだ。彼によれば、存在には二重の意味がある。「ある(Sein)」という言葉の意味に注意されたい。一口に「ある」と言っても、「有る」という意味での「ある」もあれば、「私は読者である」という意味での「ある」もある。ハイデガーが「ある」という言葉の意味を問うには、まずこの有無の区別における「有る」と、主語と述語の関係における「ある」から考察していかなければならなかった。
ハイデガーが論じるもう一つの「存在の意味」は、我々が存在して生きていくことの意味である。ここでいう意味とは、生き甲斐や、生きた上での成果や結果、あるいは意図や目的であるとも言える。存在の意味は自分の問題かもしれない。つまり、それは個人的で個別的な問いなのかもしれない。しかし、当の自分も既に「存在」している。自分が存在するというのはどういうことなのかという問題は、自分一人の問題ではなく、誰もが共有している問題である。したがって、存在の意味は決して自分だけの問題ではないのである。
存在の意味を巡るハイデガーの論考は、「存在論的差異(Ontologische Differenz)」へと結実していく。それは「存在(das Sein)」と「存在者(das Seiende)」の差異に他ならない。例えば「Xがある」と述べた場合、「X」が存在者を指し示す一方で、「がある」は存在することを言い表している。したがってこの場合の存在と存在者の差異は、「X」と「がある」の差異に対応する。この差異は、「Xがある」ではなく「Xである」と述べた場合にも該当する。ただし、前者と後者では力点が異なっている。「Xがある」の場合は「ある」という術語が強調されている一方で、「Xである」の場合は「X」という主語が強調されているのである。つまり「Xがある」では存在に力点が置かれる一方で、「Xである」では存在者に力点が置かれているのである。ハイデガーによれば、現存在はこうして存在論的に差異化された存在側と存在者側を絶え間なく振動することで自らの存在を成り立たせているという。
こうした存在の意味は、誰もが共有している問題であると同時に、誰もが漠然と理解している問題でもある。したがって存在の問いに答えを導こうとする試みは、既知のことを再考する試みに等しい。それは論点先取や循環論法に結び付く。しかしハイデガーは、むしろこの循環する思考を讃えていた。彼によると、存在の問いに限らず、本質的で原理的な事物に対する思考は、皆循環的な構造を形成しているという。循環する思考を讃えたハイデガーは、この循環の円環構造から脱却しようとは考えなかった。一見無駄に見え、有用とは思えず、決して「機能」しそうには見えない思考の運動に留まり続ける堂々巡りこそが重要なのである。それは問題解決の実践へと猪突猛進の如く突き進むのではなく、ただ「問い」を繰り返す営みとなる。彼は問題解決よりも問題発見を重視したのである。
徹底的に根本的な問いを立て続けに立て続ける試みは、既存のものや既知のものの自明性を破壊する可能性を高める。彼の存在論が機能主義への破壊力を宿したのも、こうした問いの反復によるものなのである。
存在論の「機能」
しかしハイデガーの存在論は、皮肉にも社会的に機能してしまう。何よりも存在論は、学問という機能システムとして作動する。存在論は方法としての現象学をプログラムとし、真と非真の二値コードに追従していく。存在論は学問として、妥当な知識を提供するように機能してしまう。そして等価機能主義と対峙する際の存在論は、まさに等価機能主義を批判するために機能するだろう。要するに、存在論は有用なのである。
したがって等価機能主義的に観れば、存在論にも機能的等価物が「ある」ということになる。単に妥当な知識を提供するだけであれば、存在論と社会システム理論は機能的に等価であろう。ルーマンの等価機能主義を批判するのであれば、ユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション的行為の理論と機能的に代替させることもできるだろう。ハイデガーの存在論と共に、循環する思考の円環に留まることには、何ら必然性が無い。
ハイデガーは存在論的差異を重視していた。だが社会システム理論家ならば、その前提を疑うこともできる。そもそも存在論的差異は、存在と非存在の差異や存在者と非存在者の差異が構成されていなければ成り立たない。ところが存在論は、存在論的差異という第二の区別からこうした第一の区別を区別することなく、存在と非存在から区別しようとする。存在論者は、そうすることで存在を概念として把握しようとする。しかしこの第一の区別と第二の区別の混同は、「指し示されていない状態(unmarked state)」と「無(Nichts)」の混同をもたらす。指し示されていない領域は、存在しているとも存在していないとも言えない領域だ。それは、有無を言わさない。もとより存在と非存在の差異は、指し示されることで可能になる。存在とは、存在という概念を指し示す領域を存在という概念を指し示さない領域から区別することで、初めて可能になるのだ。
したがって社会システム理論の出発点となるのは、存在論的差異ではない。むしろ社会システム理論は、その前提条件として、別のあり方でもあり得る様々な区別の中から<指し示す一つの区別>を<指し示さない他の区別>から区別するところから出発する。つまり区別の区別から出発するのが、社会システム理論なのである。
問題解決策:エナクティブ・アプローチ
ルーマンと共に区別を導入していくと、我々は「無(Nichts)」という概念を「指し示されていない状態(unmarked state)」との「差異」によって言わば横目で眺めることになる。だが「無」への言及は不可能かもしれない。何故なら、「無」に言及した時点で、それは「指し示された状態(marked state)」になる。意味論的に言えば、それは形式のいずれか一方の状態として意味付けられる。そうなれば、「そこ」には「意味」が構成されたことになるが故に、もはや「無」ではなくなる。
「無」に対する明確な言及が不可能であるとすれば、我々の認知、観察、認識の根源が何処にあるのかが不透明になる。無数の形式という名のノイズによって、言わば「無」は無常化している。こうした根源に対して、現象学者たちはある種の循環した世界観を提示することで解を与えている。曰く、世界を認知する心は世界の内部で覚醒している。我々が自らの世界を設計したのではなく、自分自身がその世界と共にあるということを見出しただけであり、目が醒めたら自分自身と世界がそこにあったのだと言った具合に、彼らは世界についての哲学的な反省を展開する。我々が世界を見出したからこそ世界が存在する一方で、世界があるからこそ我々が存在している。故に認知する存在者は自らを根源的な循環の中に位置付けるとされる。
フランスの哲学者モーリス・メルロ=ポンティは、この循環に対する認識によって、自己と世界や内部と外部の境界にある空間の可能性を開拓した。この境界上の空間は、双方の差異を包含すると共に、その連続性を保証するという。つまりメルロ=ポンティが想定していたのは、世界を認知する存在者と世界との間にあるインターフェイスのようなものであった。
反省は、非反省的な経験を対象とする。その経験に対する反省によって、我々は反省それ自体が一種の出来事であることを知覚する。そうした知覚は、世界を説明する科学的な思考でもなければ、行為そのものですらない。知覚することで熟慮した態度を採ったことにもなり得ない。知覚は、全ての行為を浮き彫りとさせる背景となる。知覚は行為の可能性の諸条件であると言える。こうした知覚において、世界は単なる対象というよりは、自然な知覚を可能にする空間、言い換えれば領野となる。
こうして知覚を絶えず強調するメルロ=ポンティにとって、「身体」は特別な意味を持っていた。現象学的還元主義が指し示した通り、我々は常に対象の一面しか視ることができていない。知覚の背景には、現前していない数多の空間的あるいは時間的な地平が含まれている。それ故、客観性に固執して自らの主観的な経験の可能性に盲目的になってしまえば、元来世界に対する視点として保持しているはずの自らの身体が「客体」であるかのような錯覚に陥ってしまう。しかしながら、客体としての身体は身体そのものの部分的な意味しか持たない。客体としての身体を観察する時、知覚する主観という存在が盲点となる。
認知科学と人間経験の相互循環的な関係
神経生物学者であるフランシスコ・ヴァレラは、彼自身が営む原始仏教の瞑想実践とも関連する自らの抜本的な認識論の出発点の一つとしてメルロ=ポンティを参照している。彼は心に言及してきた認知科学と人間経験を関連付ける概念として、上述した循環した関連付けを採り入れようとしていた。
ヴァレラがメルロ=ポンティをその思想の源泉としているのは、「身体化(embodiment)」との関連からだ。メルロ=ポンティが重視する身体概念は、彼以前の西洋科学の歴史が重視していた物理的な身体性に限定されない。むしろ活き活きとした身体性こそが重視される。それは外部と内部を併せ持つ。メルロ=ポンティは生物学的であると同時に現象学的な身体概念を記述することで、<生の経験の担い手としての身体>としてだけではなく、<認知機構の文脈や環境としての身体>にも触れようとしていた。
この身体思想は、ヴァレラのそれに多大な影響を与えている。ヴァレラがメルロ=ポンティに賛同するのは、思弁的な意味であれ実践的な意味であれ、この<生の経験の担い手としての身体>と<認知機構の文脈や環境としての身体>を重ね合わせた二重の意味での身体概念を前提としない限り、認知科学と人間経験の循環した関連性を分析することができないと考えたためだ。
身体化された行為
ヴァレラは、メルロ=ポンティの知覚の現象学を出発点とした上で、原始仏教の観の瞑想によって可能になるマインドフルネスとアウェアネスの区別を導入した。この区別によってヴァレラは、メルロ=ポンティが見出していた<自己の主体>と<世界の客体>の境界線上に「中道」の道を切り拓こうとした。これにより彼は、無我や無自己といった概念や二元論を否定する思想を前提とした原始仏教の教条を認知科学に接続させようとする。
神経生物学者であるヴァレラが認知科学の批判者として立ち現れたのは、理由の無いことではない。ヴァレラ以前の認知科学は認知概念を記号的表象の計算論として把握していた。そこにおいて脳神経は、環境による刺激に対して選択的に反応する情報処理システムとしてモデル化されていた。だがそうしたコンピュータの比喩程度の概念では、人間経験に対応した心、意識、あるいは経験などといったメルロ=ポンティに由来する「世界」概念の成立が如何にして可能になるのかが説明できなかった。
こうした「世界」は、システムから自足的に独立して存在する訳ではない。ヴァレラによれば、「世界」は我々の知覚から独立している訳ではない。彼の代替案のキー概念が物語るように、「世界」は「身体化された行為(embodied action)」によって構成されている。身体化された行為とは、世界-内-存在の存在者による様々な行為の「歴史」に準じて世界と心を産出する営みを意味する。この営みが、とりわけ「認知(cognition)」となる。つまりヴァレラにとって認知とは、行為の一種なのだ。こうした発想をヴァレラらは「認知へのエナクティブ・アプローチ(enactive approach to cognition)」と名付けた。「エナクティブ」とは、字義通り「行為化」を意味する。つまりエナクティブ・アプローチとは、一口に言ってしまえば、認知を行為化して把握する観点を指向している。
エナクティブ・アプローチと生態学的アプローチの差異
ヴァレラ自身が強調して比較しているように、このエナクティブ・アプローチは生態学的アプローチとの差異によって特徴付けることができる。生態学的アプローチは「アフォーダンス(affordance)」概念を提唱したことで有名な知覚心理学者ジェームズ・ギブソンを筆頭としている。だがこのキー概念を継承した学者たちの誤用によって、ギブソン本来のアプローチは非常にわかり難い状態になってしまっている。
例えばソフトウェア・エンジニアやアーキテクトにとっても馴染み深いデザイン論者であるドナルド・ノーマンは、アフォーダンス概念を使用することで、人間と事物との関係をユーザーに伝達するユーザーインターフェイスの設計理論を展開していた。例えば彼は、ドアの取っ手の形状を設計することでそのドアが押し戸か引き戸かという情報を提供(afford)するなどといった具合に、恰もアフォーダンスが行為の手掛かりを掲示する概念であるかのように論述していたのである。
しかしこのアフォーダンスに対する理解は、誤解でしかない。アフォーダンスの実際の意味を確かめるためには、設計の専門家であるノーマンの著書よりも、ギブソンの文献を優先して読まなければならない。アフォーダンスとは、ギブソンの造語である。だが、彼は別段アフォーダンス概念から出発して研究していた訳ではなかった。彼は知覚心理学者である。アフォーダンスという概念は、彼が知覚に関する研究によって編み出した記述概念なのである。
ギブソンによれば、アフォーダンスは必ずしも観察者に有益な事柄を提供する訳ではない。場合によっては、アフォーダンスは有害な情報をもたらすこともある。アフォーダンスは、設計者がユーザーインターフェイスを設計することで決定し得る情報などではない。むしろアフォーダンスは、ユーザーとユーザーインターフェイスの関係を記述した概念だ。それは、生体との関係を前提に決定される環境の意味である。故に、如何にノーマンに騙されたデザイナーがアフォーダンスという名目でユーザーインターフェイスを設計しても、ユーザー次第でそのインターフェイスに帯びるアフォーダンスは変異する。
環境には、もとより膨大な刺激が潜在的に遍在している。そうした無数の刺激は、生体側の条件に合致した場合にのみ、抽出される。ギブソンによれば、こうした潜在的な無数の刺激の中から特定の刺激が抽出された場合に、知覚が生じる。
我々の感覚器官は常に膨大な刺激を受けている。だがその全てが知覚される訳ではない。ギブソンの知覚概念も、感覚の受容器の興奮とは明確に異なっている。彼はこのことを説明するために、刺激の作用と刺激の情報を区別していた。刺激の作用は、感覚における受容器を興奮させる。だがその全てが知覚に直結している訳ではない。ギブソンによれば、知覚を成立させているのは環境の事実を特定化する刺激についての情報だ。それは決して刺激の解釈ではない。我々が知覚しているのは、受容器の興奮ではなく、あくまで環境である。環境の知覚に全ての感覚器官を動員する必要はない。だから知覚に際しては、その知覚に関連する感覚受容器の興奮しか関与しないのである。
一見すると、この生体の知覚と感覚受容器が環境と相対する際の関連は、ヴァレラが論じる自律的な認知システムが「世界」と接する際の関連とよく似ている。しかしギブソンのアフォーダンス概念は、実際には不当な前提の上で成り立っている。アフォーダンス概念によれば、環境は知覚されることを「待っている」という意味で、不変的で実在的だ。ギブソンにとっての知覚とは、環境の根源的な諸要素を特定することを意味している。
生態学的アプローチとエナクティブ・アプローチは、環境世界に対する能動的な行為によって知覚を可能にしていくという点では共通している。しかしながら双方は、当の環境世界の存在において、特筆すべき差異を指し示している。エナクティブ・アプローチでは、知覚とは知覚によって導入される行為に他ならない。知覚を構成するのは知覚だ。生体は知覚の知覚という反省的な知覚によって「世界」を構成する。その一方で生態学的アプローチでは、知覚によって導入された行為がまるで包囲光の不変的な諸要素を抽出して保持するかのように、環境世界の根源を特定できるという前提に立っている。
ギブソンによれば、世界の光学的で不変的な諸要素とそれによって特定される環境の性質は、生体の知覚によって導入された行為には全く依存しない。そうした環境世界の諸要素はあくまで実在に由来する。決してその逆ではないのだ。ギブソンは、環境世界の諸要素は「構成」される訳ではなく、ただ「発見」されるのを「待っている」だけなのだという。
構造的結合の歴史
それ故にギブソンの生態学的アプローチの研究方法は、ほぼ環境だけから知覚の理論を記述する営みに終始することになる。これに対してヴァレラらは、そうした環境や世界が行為から構成されると主張する。知覚を環境世界の諸要素の発見であるとするギブソンに対して、ヴァレラは運動感覚的な行為からの産出として知覚を位置付けている。そのためヴァレラらが採用した方法と理論は、行為が知覚として導入されることを可能にする運動感覚のパターンを特定するアプローチを採用することになる。
そうしたアプローチがヴァレラ自身も貢献していたオートポイエティック・システム理論と核心において接続されるのは、想像に難くはないはずだ。実際ヴァレラらはこのシステム理論によって記述されている「構造的結合」の概念を歴史概念として拡張することで、認知システムを主題とした知覚理論を記述している。ここにおいて認知システムとは、構造的結合の歴史を介して「世界」を行為から構成するシステムを意味することとなる。
この構造的結合の歴史は、システムの最適化の歴史ではない。この歴史は、単に進化論的に生存可能(Viable)なのである。言い換えれば、その構造的結合によって成立している認知システムは、別のあり方でもあり得る根源的に偶発的なシステムであるということだ。もしこの構造的結合が最適化の果てに成立しているのならば、システムの相互行為が多少なりとも「定義」されているはずだ。しかしヴァレラらは、構造的結合が持続可能であるには知覚によって導入された行為がシステムの連続的な全体性を保持して促進するだけで良いと考える。このシステムの行為は、たとえ最適な行為ではないとしても、そのシステムの全体性を破壊しない限りにおいて、実行可能となる。
神経システムの機能単位としての神経アンサンブル
以上のようなエナクティブ・アプローチと時間感覚の歪みという我々の主題を関連付ける上で、ドナルド・ヘッブの功績は有用な補助線となる。ヘッブが1949年の時点で既に述べていたように、神経システムの機能単位は「細胞アセンブリ(Cell assembly)」、つまり「神経アンサンブル(Neural ensemble)」に他ならない。特定の性質や知覚にとって不可欠となる単一のニューロンは一つとして存在しない。中枢神経における電気的な生理現象が言い表しているのは、脳があらゆる部分で持続的に活性化しているということである。それ故にニューロンの発火は、既に発火しているニューロンの作動に重ね合わさるように伴う。今現在発現した知覚が既存の神経システムの活動に左右されないということはあり得ない。ニューロンは、確かに情報処理や情報伝達の機能単位であると言えるかもしれない。しかしながらそれのみでは、思考も行動も構成できない。我々の思考や行動は、神経アンサンブルというニューロンの集合体によって生み出されているのである。
ヘッブによれば、動物の脳内に入力された刺激は、過去に遭遇した類似した信号や記憶によって獲得された傾向性や期待と比較される。恰も意味システムが期待成就と期待外れを区別するように、神経システムは末梢から享受した新たな刺激を次々と区別していくのである。動物の様々な探究活動を通じて、神経システムは新たに入力された情報刺激を神経システムそれ自体の視点から検証していく。その刺激が神経システムの予期する傾向や期待と食い違うようであれば、脳は驚異や不快などのような情動を生み出すという訳だ。
問題解決策:時間意識の神経現象学
これを前提とすれば、神経システムの作動もまた、時間化されているということになる。さもなければ、神経アンサンブルは、現在と過去を比較することができないだろう。神経アンサンブルの概念を引き継いだヴァレラは、この時間と神経システムの関係を「神経現象学(Neuro-phenomenology)」という方法から観察している。神経現象学とは、認知や脳神経において、経験とその説明との関連を現象学的還元の対象とする立場だ。ヴァレラはこの神経現象学の方法を用いることで、経験によって開示される現象領域と認知科学によって規定される現象領域の双方が、相互に制約し合いながら関連付いていく可能性を探究していたのである。これは、神経システムの作動を客観的に観察していく従来の認知科学や神経科学とは異質な立場だ。
神経現象学の方法において、ヴァレラはフッサールの時間意識論を軸に、意識の「現在性(nowness)」という経験を探究している。フッサールの時間意識論は、社会で想定されている標準時間や古典物理学で想定されていた客観的な時間という概念を一旦現象学的還元の対象とするところから始まる。そこから彼は、時間を意識内の「時間事物(Zeitobjekt)」として記述していく。標準時間や客観的な時間は、線的に連続する時間軸を前提とした概念だ。その時間軸は、過去から未来へと延長されていく。その長さは専ら我々の意識を超越する程である。これに対し時間事物という概念は、我々の意識に直結した経験に基づいている。時間事物とは、意識に発現する時間を記述するための概念なのだ。ヴァレラは、この意識内の時間事物が我々の視覚や触覚において現実味のある経験であると一考した上で、フッサールの時間事物という概念を「質感(texture)」と呼んだ。
質感のパラドックス
ルーマンが記述する心理システムの作動と目配せするなら、この質感とは心理システムの知覚を意味している。だがここでいう質感が主に時間感覚を強調した概念であることを忘れてはならない。心理システムは質感を常にこの「今」において認識する。過去から未来への時間の流れを仮定するなら、質感は紛れも無く現在という中心に位置している。質感とは現在性を体現した知覚なのである。
しかしこの現在における質感は、次の瞬間には過去の出来事となる。そしてこの時、新たなこの「今」において、新たな質感が発現するのである。古い質感は新たな質感よりも過去に位置することとなる。心理システムがこの「今」の質感を認識する時、一瞬過去に発現していた質感は過去の地平となる。このことをフッサールは既に「時間視野(Zeitfeld)」との関連から記述していた。つまり、意識にとっての時間とは、その現在を逸脱した過去と未来の地平と関連付いているのである。確かに意識は、過去を想起することもできれば、未来を予期することもできる。だがそうした作動それ自体は、ただこの現在において遂行される。意識された過去や未来は、意識するという現在の出来事が発現することによって、漸く構成されるのである。フッサールはこの「今」において作動している意識を特に「原意識(Urbewusstsein)」と呼んだ。意識の時間的な推移を考察するためには、まさにこの原意識を観察しなければならない。
ヴァレラによれば、この時間意識の経験には、ある種のパラドックスが伴っている。確かに原意識に留まることで質感を認識する時、この「今」において現在性を経験している認知システムを記述することが可能になる。だが一方でこの質感の認識は、常に生じては消え去る。システム作動の生成消滅によって、認識された次の瞬間には、質感は過去の出来事となる訳だ。この相反する事態は、常に同時に発現している。現在性は、この「今」において認識可能となると同時に、過ぎ去っていくのである。フッサールとヴァレラにとって、このパラドックスは重要な論点となった。
問題解決策:複合性の時間化
ここで鍵となるのは、複合性の縮減だ。ルーマンの社会システム理論は、システム作動の「時間性(Zeitlichkeit)」に着目した理論である。自己言及的なオートポイエティック・システムは、その作動を継続させるために、時間の差異を必要としている。とはいえ、システムが真にオートポイエーシス的であるためには、時間の差異はシステム自身によって構成されなければならない。
システムが時間的な差異を必要としている理由は、あらゆる出来事が生起する時間が同一である場合を想定して観れば明確となる。あらゆる時間が同一であるならば、システムのあらゆる作動が同時に構成されていることになる。システムと外部環境の差異も、<システム>と<内的環境>の差異も、<<システム>>と<<内的環境>>の差異も、全て同時に構成されていることになる。しかしこの状態は、差異の再構成が果たされていないことを意味する。それは、システムと環境の差異に伴う無限後退のパラドックスや自己言及に伴うパラドックスを隠蔽するための意味論的な処方箋が施されていないことに等しい。システムがその作動に伴ったパラドックスを脱パラドックス化するためには、隠蔽技術形式としての「意味」によって、差異を再構成し続けなければならない。
システムの複合性が「時間化(Temporalisierungen)」されているというルーマンの複雑怪奇な言明は、この関連から理解されなければならない。複合性の時間化とは、システムの諸要素とその諸関連が時間化されていることを意味する。仮にあらゆるシステムの諸要素が同時に構成されてしまえば、システムと外部環境の差異、<システム>と<内的環境>の差異、<<システム>>と<<内的環境>>の差異などが同時に構成されてしまう場合と同じように、差異の再構成が果たされていないことになってしまう。システムがオートポイエーシス的に作動するには、したがって諸要素の再構成が必要になる。つまりある時点で構成される諸要素と別の時点で構成される諸要素の間に差異が無ければならないのである。
このことは、別の言い方をすれば、諸要素が時間の経過と共に生成消滅しているということだ。諸要素は、生じた次の瞬間には消え去っている。そうして消え去った諸要素の代わりに、システムは新たな諸要素を構成していく。この繰り返しである。諸要素が再構成され続ければ、諸要素の関係もまた再構成されることになる。つまりシステムの複合性も絶えず再構成され続けることになるのだ。ルーマンは、こうして諸要素の生成消滅によってシステム複合性が時間と共に変異していく現象を複合性の時間化と名付けた。
非同時性の同時性
いずれにせよ時間の差異は、システムのオートポイエーシスにとって必須である。だがあらゆる時間が差異化されていれば良いという訳ではない。もしあらゆる時間が区別されるならば、同時性が不可能になる。それは区別することが不可能になることに等しい。と言うのも、差異を構成するということは、区別される双方を同時に構成するということだからだ。したがってシステムは、時間の差異のみならず、時間の同一性も必要としている。
あらゆる観察は区別を必要としている。観察する対象を観察しない対象から区別することによって、観察対象の認識が可能になるのである。この場合、区別される双方は、境界によって分離される。そしてこの二つの側面は、境界を介して同時に構成されていることになる。意味論的に言えば、ある対象を明示する意味は、同時にその対象以外のあらゆるものを暗示してもいるのだ。つまり意味Aがαを明示するということは、同時に例えば非β、非θ、非ωを暗示しているということなのである。
こうして「意味」は、区別される双方を同時に指し示す。ところが、時間という概念がこの意味付与の対象となる場合、一つの根本的なパラドックスが派生する。ルーマンが見抜いた通り、それは<非同時性の同時性(Gleichzeitigkeit der Ungleichzeitigkeit)>というパラドックスである。例えば「意味」が現在という時間を指し示す時、その意味は現在と非現在を同時に構成していることになる。だが現在と非現在は、言葉通りの意味で、同時ではない。意味は、非同時的な時間概念を同時に構成しているのである。
これはパラドックスだ。だが時間を指し示す意味は、このパラドックスを絶えず脱パラドックス化し続けている。この場合、脱パラドックス化の手掛かりとなるのは、差異が構成されてからパラドックスが派生するまでの<時差>である。時間を指し示す意味がパラドックスを隠蔽し続けることが可能なのは、既成の時間概念がパラドックスを派生させる前に、新たな時間概念を再構成しているためなのだ。
確かに「意味」が現在という時間を指し示せば、現在と非現在の間に、<非同時性の同時性>というパラドックスが派生するだろう。しかしながら、現在という時間を指し示す「意味」は、次の瞬間には新たに<現在>と<非現在>の差異を再構成する。既存の現在と非現在の区別がパラドックスを派生させる前に、新たに<現在>と<非現在>の区別を形式化させてしまうのである。これにより、もはや指し示されなくなった既存の現在という概念は消滅することになる。その代替物として<現在>が創出される訳だ。無論この<現在>と<非現在>の区別もまた同様のパラドックスを派生させるだろう。だから「意味」は、絶えず差異を再構成し続けていく。<現在>もまた、生じた次の瞬間には消え去る。その結果として「意味」は、時点の生成消滅を繰り返していく。言わば時点は、複合性と共に時間化されているのである。
したがって社会システム理論は、過去、現在、未来へと線分的に連続する時間概念とは距離を取る。「意味」を構成するシステムから観れば、ただこの今の時点が次の時点へと移り変わっていくだけなのだ。しかもそれは連続的な線分として移り変わるのではなく、点から点へと不連続に移行していくのである。我々が認識している<流れ行く時間>という概念は、この<時点の時間化>の結果として派生している錯覚に他ならない。我々が回想する過去は、決して事実として体験した出来事それ自体ではない。それは現在において構成された過去に過ぎない。人間学的唯物論の弁証法的歴史家として活動したベンヤミンが見抜いていた通り、どの「今」も、特有の認識が可能な現在なのである。
だがこれは過去に限られたことではない。我々が想像する未来も、現在の構成物である。そうした想像の対象となるのは、現在における未来であって、未来における現在ではない。現在において現在を観察しようとする者も、現在で構成された現在の認識に終始することになる。厳密に言えば、実際のところ、現在の観察者は現在を観察していない。何故なら、現在を観察する際に必要となる区別の設定にもまた時間が掛かるからである。観察者が観察しようとした瞬間に、時点の生成消滅が伴い、現在は過ぎ去ってしまうのだ。
二重の現在:<瞬間的な現在>と<持続的な現在>の差異
しかしこのように述べただけでは、この<流れ行く時間>という錯覚が如何にして可能になっているのかを説明したことにはならない。実際ルーマンは、この<流れ行く時間>という錯覚を<瞬間的な現在>と<持続的な現在>の区別を導入することで論述している。
<瞬間的な現在>は、一瞬ごとに、未来を過去に変える。一度過去になった時間は二度と未来には戻らない。<瞬間的な現在>は、過去と未来の関係に不可逆性を刻印しているのである。一方、<持続的な現在>は、過去と未来を区別する。区別された双方は現在を軸に乖離することになる。だがこの両者は、逆説的にも、共に同じ現在という位置にある。過去と未来を区別するということは、過去と未来を同時に指し示すということだ。<持続的な現在>は、その内部に過去と未来を同時に構成することによって、過去と未来の差異を確保しているのである。
この二つの<現在>は、その都度同時に構成される。両者は相互に補完し合う関係にある。<瞬間的な現在>が過去と未来の関係に不可逆性を刻印したとしても、次の瞬間には、その<瞬間的な現在>は消滅することになる。つまり<瞬間的な現在>それ自体は、ただ未来を過去に不可逆的に変えていくだけで、その不可逆性が次の瞬間からも維持され続けていくことを保証できている訳ではないのだ。この不可逆性の維持を可能にするのは、<持続的な現在>である。<持続的な現在>は、過去と未来を区別し続ける。<持続的な現在>は、この過去と未来の差異を構成することで、一度過去になった時間が未来の時間と同一化されないように手配しているのである。しかし一方で<持続的な現在>は、持続性という特徴をそれ自体のみで構成できている訳ではない。そもそも瞬間性と持続性は相対的な対比関係にある。仮に0.5秒間が比較的<瞬間的な現在>であるとするならば、8秒間は比較的<持続的な現在>だということになる。<持続的な現在>は、<瞬間的な現在>との差異を確保することによって、初めてその持続性を自ら特徴付けているのである。
どの時間的な位置からどの時間的な位置までが一個の時点となるのかは、その「意味」を構成するシステム次第で変わる。<瞬間的な現在>と<持続的な現在>の定義もまた、意味論的には別のあり方でもあり得るだろう。したがって、それぞれの時点で構成される過去、現在、未来もまた、観察者次第の相対的な概念となる。この相対性に確たる比較の尺度を求めるのは、過剰要求かもしれない。と言うのも、各システムごとの時点の様相は、それぞれの時間に位置するシステムの時間化された複合性に関連しているからである。
複合性を時間化させたシステムの時間感覚
前述したツェーらの報告とイーグルマンらの報告は、複合性の時間化を前提とした社会システム理論にも、密接に関連している。例えば「交通事故」を思い描いて貰いたい。社会システムの視点で観れば、交通事故は一つのコミュニケーションとなる。それは、例えば法的なコミュニケーションを構成するだろう。一方、神経システムの視点で観れば、交通事故はショック効果を生じさせる。他方、心理システムの視点で観た場合、それはオートポイエーシスを不安定化させる危機的状況を生み出す複雑な出来事となる。
ある運転手が前方を走行する一台の「自動車A」のみを観ながら運転していたとしよう。そして、突然真横から「自動車B」が追突してきたとする。この瞬間、運転手は急速に「自動車B」に注意を払うことになる。その瞬間における運転手の知覚対象となるのは、「自動車A」と「自動車B」の二台である。神経システムは、「自動車A」と「自動車B」を観察する心理システムを直ぐに構成しなければならない。
この瞬間、神経システムが処理しなければならない情報量は、急激に増大している。つまり運転手の脳は、「自動車A」のみの情報を処理していたところを、「自動車A」と「自動車B」の双方の情報を処理しなければならなくなったのだ。だから、「自動車B」が正規の交通ルールに則って真横から走行してきた場合に比べて、情報処理量は急激に増加している。
仮に交通事故など起こらないように、互いが交通ルールの範疇で走行していれば、運転手たちが処理しなければならない情報量の増大は緩やかに済まされたはずだ。この場合であれば、「自動車A」のみを知覚していた運転手の心理システムは、緩やかに「自動車A」と「自動車B」の双方を知覚できるようになる。その時心理システムは、例えば「自動車A」と「自動車B」を「二台の自動車」と要約して認識することもできるだろう。つまり、「自動車A」の出来事や状態と「自動車B」の出来事や状態を個別具体的に注視するのではなく、「二台の自動車」として象徴的に一般化させることによって、それぞれの出来事や状態の複合性を縮減し得たのである。情報処理量が緩やかに増加していくということは、それだけ時間の余裕があるということだ。時間の余裕があるということは、それだけ複合性の縮減を実行できるということなのである。
時点の蒐集
処理すべき情報量が少なければ、その複合性の縮減に費やす時間も短縮される。逆に処理すべき情報量が多い場合は、その複合性の縮減に費やす時間も増幅することになる。システムは複合性を時間化させているのであった。システムは、時間の経過と共に、諸要素の生成消滅を反復させている。より過剰な複合性を縮減しようとすれば、それだけより多くの時間を費やすことになる。つまりシステムが縮減すべき複合性が膨大となれば、それだけシステムにおける諸要素の生成消滅回数が増加することになる。より高い複合性を縮減するには、オートポイエーシス的な作動がより多く必要となるのだ。
諸要素の生成消滅が活性化するということは、システムの自己言及的作動が加速するということである。システムは、より速く作動することによって、ショッキングな不意打ちとして突き付けられた型破りな過剰刺激の複合性を縮減しようとする。システムの作動速度が高まれば、そのシステムにとっての時点がより多く構成されるということだ。したがって、型破りな過剰刺激の複合性を縮減しようとするシステムの眼前には、より多くの時点が構成されていることになる。同じ1秒という「瞬間」であっても、型破りな過剰刺激の複合性を縮減しようとしているシステムは、そうではないシステムに比して、より多くの時点を認識することになる。つまり型破りな過剰刺激を受けたシステムは、その「瞬間」を「より多くの時点」として認識する。言い換えればそれは、より長い時間として認識することに等しい。そして、システムが今まさに直面しているショック体験の出来事は、その<より多くの時点としての「瞬間」>に発現した出来事として記憶される。無論その出来事は、処理すべき情報量の多い出来事だ。だからこの「瞬間」の内部には、過剰な情報が充満していることになる。言い換えればその記憶は、イーグルマンが言うところの濃密な記憶として蒐集されるのである。
かくして「自動車A」と「自動車B」を知覚したシステムの時間感覚は、「二台の自動車」を知覚したシステムのそれに比して、間延びするのである。交通事故の場合も、注意すべき自動車の量が急激に増大する。その急激に増大した情報は、全て事故が勃発した「瞬間」の中で充満している。だからそれは濃密な記憶として蒐集される対象となる。それ故に事故の当事者たちは、その自己を想起する際に、時間がスローモーション化するかのような錯覚に浸る可能性がある訳だ。
<非同時性の同時性>というパラドックスの展開
ここまでの記述によって、ヴァレラのエナクティブ・アプローチを背景とした神経現象学が、複合性の時間化を背景としたルーマンの意味論と問題設定を共有していることがわかった。それは<非同時性の同時性>というパラドックスとして発現している。再び複合性の時間化を前提とすれば、このパラドックスは時間感覚の錯覚に基づいている。時間は線的に連続している均質な概念などではない。システムが時間の流れを感じ取るのは、ただこの「今」という時点が次の時点へと移行していくためである。
一方、ヴァレラはこのルーマンの時間論とは一見して異なる代替案を提出している。ヴァレラは時間の持続性を否定している訳ではない。むしろ彼は積極的にこの可能性を考察している。確かにフッサールの現象学に依拠する彼にとっても、時間の流れはこの「今」という時点の移行に基づいている。だがヴァレラによれば、時間の持続性は志向の変化に相関する。つまり時点を対象とした意識による意味付与が変容することによって、時間が流れ行くという認識が可能になるのである。
だがこうしてヴァレラのように述べただけでは、この「今」という時点が次の時点へと移行していく様を度外視することになる。ただ留まること無しに流れ行く概念として時間を捉えてしまっては、何時が「今」なのかを示す質感が得られなくなる。「今」を認識する機会を逃し続ければ、現在性を宿らせたこの「今」は何処にも無いということになってしまうだろう。時間が連続していると述べただけでは、各時点の個体としての統一性を説明したことにはならないのだ。そこでヴァレラは、「圧縮不可能な持続(incompressible duration)」という概念を提唱することによって、あくまで持続性の観点からこの個体性を捉えようとした。ヴァレラによれば、個体としての時点は、持続の最小単位なのである。
経験の多重安定性
この圧縮不可能な持続という概念は、各時点が個体としての統一性を維持するために必要となる経験の「多重安定性(multistability)」との兼ね合いから理解されなければならない。ヴァレラによれば、「今」この時点を一個の統一体として知覚し得るのは、経験が多重安定的に発現しているためである。
多重安定的な経験の一例となるのは、ゲシュタルト心理学者たちが何度も主題化してきた図と地の関係の問題である。例えばエドガー・ルビンが1921年に発表した『盃と顔の図形』は、この図と地の関係を説明する典型的なトリック・アートである。この通称「ルビンの盃」を視た鑑賞者たちは、最初は黒地の背景に白抜きで描写された盃を視認するかもしれない。だが次の瞬間には、白地の背景に黒抜きで描かれた二人の横顔を視認するようになるだろう。ヴァレラはこの心理学の間では御馴染の絵画を取り上げながら、この双方の知覚の不連続性を指摘する。つまり盃の知覚と顔の知覚は別のあり方でもあり得る知覚形式に準拠しているのである。
「ルビンの盃」の鑑賞者にとって、盃に対する質感と顔に対する質感は別物である。両者は線的に連続している訳ではない。最初に盃を知覚したとしても、次の瞬間に可能となる顔の知覚には何ら影響を与えない。急激に二つの知覚を切り替えることもできれば、持続的に盃の知覚を反復することもできるだろう。決して盃の知覚が顔の知覚の前段階となっている訳ではない。盃の知覚から顔の知覚へと切り替わる時、両者の間には飛躍が生じている。ヴァレラはこの関連から、神経システムの作動が離散的で非線形的であることを示唆している。
エナクションと結合の差異
ヴァレラが時間意識の神経現象学との兼ね合いで引き合いに出しているのは、「エナクション(enaction)」と「結合(coupling)」という神経システムの作動形式である。エナクションとは、知覚の背景にある神経システムが感覚を司る身体的な運動に依拠して機能的に分化されていることを言い表す概念だ。知覚はいずれにせよ、何らかの身体的な運動を伴わせている。例えば視覚には瞬きという運動が伴う。聴覚には耳を傾けるという運動が伴う。触覚には手足などで触れてみるという運動が伴う。ヴァレラはこうした数々の例から、身体的な運動性を伴わせない知覚などあり得ないという。如何なる知覚であれ、身体的な運動に依拠して機能的に分化している複数の神経システムによる同時多発的な作動をメディアとして形式化されている。こうした機能的に分化された複数のシステムによる複合的な作動を統合する機構をヴァレラは「結合」と呼ぶ。つまりエナクションによって分化しているそれぞれの神経システムの作動が結合されることによって、一つの知覚が成立するのである。
ヴァレラはこの二つの概念を手掛かりとして、流れ行く時間の中で如何にしてこの「今」を対象とした質感が可能になるのかを説明しようとする。一つのニューロンが感覚的な刺激を受けることで発火した場合、その発火の持続時間は、およそ10ミリ秒から100ミリ秒である。ヴァレラはこのことを指して1/10規模の「基礎的出来事(elementary events)」と呼ぶ。ヴァレラがこの微細な尺度の出来事を基礎的であると考えるのは理由の無いことではない。と言うのも、この持続時間を下回る微弱な感覚刺激は神経システムにさえ認知されないからだ。この規模の出来事は、知覚という出来事を構成するために必要となる最小単位なのである。しかもこの最小単位としての出来事は、既に10ミリ秒から100ミリ秒という、短いながらも確かな時間的な幅を有している。それ故にヴァレラは、知覚におけるこの規模こそが、我々の質感における圧縮不可能な持続性であると述べているのである。
とはいえ、如何に持続性を有しているからといって、高々10ミリ秒から100ミリ秒程度で消滅してしまえば、意味が無い。結合を成立させるためには、それ相応の時間的な猶予が必要になる。そもそも認知が成立するためには、シナプスを介して強く結合した複数のニューロン群が神経アンサンブルとして分布していなければならない。上述した身体的な運動に依拠して機能的に分化した神経システムとは、この神経アンサンブルのことである。
ここで我々は、一つのニューロンが感覚的な刺激を受けることで発火する場合と、この神経アンサンブルが統合的に発火する場合とを区別しておかなければならない。実際ヴァレラは、後者の発火時間が前者の発火時間よりも長い規模であることを指摘している。ある神経アンサンブルが発火することで、それらのニューロン群における同時多発性は最高潮に達する。この瞬間に一つの質感が構成される。そしてこの同時多発的な発火が終わると、その神経アンサンブルが次の発火を開始するまで、ある程度の「弛緩時間(relaxation time)」が生じる。先程取り上げた「基礎的出来事」に比べれば、この弛緩時間は1規模分の時間となる。神経科学の研究を辿るヴァレラによると、この一つの神経アンサンブルの発火から弛緩までの時間は、1規模分になるという。少なからずこの一連の流れを500ミリ秒以下に圧縮することはできない。これが神経アンサンブルの発火から弛緩までに要する時間の最小値であるために、これ以上には圧縮できないのである。
一つのニューロンの発火から一つの神経アンサンブルの同時多発的な発火、そしてこの同時多発的な発火から弛緩時間までの間には、紛れも無く持続的な「過程」が存在している。一つの質感の背景には、時間の持続性が存在しているのである。しかしこの神経アンサンブルの同時多発的な発火から一個の個体としての統一性を有した質感が構成されるまでの間には、まだ不明瞭な点が残されている。この状況下で如何にして統一性を有した質感が構成されるのかがわからないままだ。
過去把持的な情況を背景とした時間の連続性
そこでヴァレラは、経験の多重安定性を神経システムにおける「内因性の動態性(endogenous dynamics)」という観点から記述していく非線形力学(Nonlinear dynamics)の方法を採用した。それは「創発(Emergent)」を主題とするカオス理論や複雑系理論の研究成果を前提としている。創発とは、比較的単純な法則が十分に長い時間を掛けて突如より複雑な現象を創出することを意味する。創発という現象を知るには、限られたごく僅かな構成部分を観察するだけでは不十分となる。この現象は、構成部分の複合体に生じる集合的な特性を観察することで、漸く把握し得るようになる。
創発現象の好例となるのが、温度である。温度を計ろうにも、僅かな数の分子だけを観ても意味が無い。膨大な数の分子の複合性を直視して初めて、我々は温度を知ることができる。理由は明快だ。温度は、膨大な数の分子の速度分布を統計的に計測することで求められるからである。
実際「内因性の動態性」という概念によってヴァレラが指摘しようとしているのは、「質感」が特定の神経アンサンブルにおける「時間的な共鳴(temporal resonance)」を介して「創発」することである。創発というからには、そこに計算可能な段階論などあり得ない。機能的に分化している諸々の神経システムの結合は、揺らぎ(fluctuation)という不確実性を伴わせながら実現するのである。
非線形的な結合によって構成された統一的な質感は、「過去把持(Retention)」に関するフッサールの洞察と関わっている。単純化して言えば、過去把持とは「短期記憶(short-term memory)」のようなものだ。例えば音が「今」まさに鳴り止んだ場面は、この過去把持的な情況と密接に関わっている。現在から過去への移行の根源にあるのは、この「今」の瞬間に出来事が終わろうとしているという感覚である。過去把持的な情況は過去と現在を区別する境界に位置することで、両者の接合点となる。我々の意識は、この過去把持的な情況それ自体については、過去であると同時に現在でもあるというパラドックシカルな認識を抱いている。だがその一方で意識は、この過去把持よりも先に生じていた出来事に関しては、明確な過去として知覚できるのである。
フッサールによれば、我々が時間の連続性を知覚することができるのは、この「過去把持」のお陰である。「今」は常に生じた次の瞬間には過去になる。そしてその都度新たな「今」が発現する。こうした時間の流れに対して意識は、「過去把持」を遂行することによって、<「今」まさに過ぎ去っていく現在>と<新たな「今」として発現した現在>との間に生じている「異同」を比較できるようになる。この異なる「今」を対象とした異同の比較によって、意識は<過ぎ去っていく現在>と<新たなる現在>との間の「差異」を知覚できるようになる。意識はこうして、この二つの現在との間の同一性や類似性を把握することで、この二つの現在の間の持続性を認識できるようになる。
<「今」まさに過ぎ去っていく現在>と<新たな「今」として発現した現在>は、現在であるという意味では、類似している。この類似性に対する意識こそが、持続する現在への時間意識を可能にしている。フッサールはこの機構を特に「原連合(Urassoziation)」との関連から記述している。フッサールによれば、連合とは、既存の構成物における類似性を想起することを意味する。これに対して原連合とは、原意識における対象構成の契機に発現する意識の本質的な規則性を指す。原連合は、原意識が生じる時点で、<「今」まさに過ぎ去っていく現在>と<新たな「今」として発現した現在>の類似性を顕在化させる。これにより意識は、過去把持という、過去であると同時に現在でもあるというパラドックシカルな認識を抱くことが可能になる。現在という時間が持続しているという時間感覚は、もとより過去の意識内容と現在の意識内容との間に伴う原連合を介したパラドックスとして可能になっているのである。
ヴァレラは、フッサールのこの過去把持に基づいた時間感覚が神経システムの非線形的な結合に相当すると述べている。神経システムは、<「今」まさに沈静化しつつある神経アンサンブル>と<新たに活性化しつつある「今」の神経アンサンブル>との間に生じている「異同」の比較可能性を維持している。そして、二つの神経アンサンブルの同一性や類似性に依拠することによって、先行する神経アンサンブルが発火する時点から後続する神経アンサンブルが発火する時点までの持続性を構成しているのである。
神経アンサンブルの同時多発的な発火やその結合が一定規模の時間を要するというのは、この「今」の現在性の根幹に関わっている。結合時における時間的な共鳴と不確実な揺らぎによって、非線形的で飛躍に満ちた神経システムの作動が、新たな神経アンサンブルを構成することになる。ニューラルネットワークにおいては、それまでの神経アンサンブルの状態が後続の神経アンサンブルの状態を方向付ける初期条件となる。ただしその依存関係はあくまで非線形的であるが故に、決して神経アンサンブル同士の関係に決定論的な性質が根付く訳ではない。先行する神経アンサンブルにおける創発的な結合から後続する神経アンサンブルにおける創発的な結合に対して提示されるのは、あくまで偶発的な影響なのである。
問題解決策:時間感覚の延長
フッサールが論じた過去把持は、ヴァレラが言うところの1規模の待機時間において生じている。1/10規模の圧縮不可能な持続性を有した基礎的出来事は、あくまで質感の創発における初期条件の一つに過ぎない。その次の瞬間には、神経アンサンブルの同時多発的な発火が伴う。それらのニューロン群における同時多発性が最高潮に達した瞬間、一つの質感が構成される。そしてこの同時多発的な発火が終わると、その神経アンサンブルは弛緩時間に入る。それと同時に、後続する神経アンサンブルが発火し始めようとする。過去把持が生じているのは、まさにこの先行する神経アンサンブルの発火が終わると共に、後続する神経アンサンブルが発火し始めようとする瞬間に他ならない。
フッサールによれば、過去把持は「今」まさに過ぎ去ろうとしている時間内容を捉えようとするための意識である。過去把持は、刻一刻と過ぎ去ろうとしていく時間内容を少しでも「今」この現在に留めておこうとする防波堤として機能している。それは瞬間を認識するための基盤となる基本的な志向性を宿している。過去把持に必要となるのは、「今」を反省することである。フッサールも述べていたように、経験を反省することによって、我々はそれを時間の流れの中の内容であると認識できるようになる。言い換えれば、反省なくして時間の知覚は成り立たない。だから過去把持とは、反省を通じて次第に明らかとなる意識の延長なのである。
瞬間の永遠
この神経現象学を前提とすれば、型破りなショック効果を享受した者が如何にして瞬間を<永遠>であるかのように知覚し得るのかについても、見通しを示すことが可能になる。概して型破りなショック効果を受けた者の神経システムは、過剰に発火することになる。型破りなショック効果を受けた者の心理システムは既に免疫システムとしての情動を発動させるほどに不安定化している。作動を継続させなければならないシステムにとって、この型破りなショック効果は大問題だ。この関連から神経システムは、休む間もなく加速的に作動し続けることになる。神経システムの過剰発火は、複数の神経アンサンブルの加速的な過剰発火を招く。一つの神経アンサンブルの発火から弛緩までの過程で必要となる時間は、最低でも500ミリ秒以上である。だが複数の神経アンサンブルが過剰に発火するというなら、話は別だ。一つの神経アンサンブルが発火した直後に間髪入れずに後続する神経アンサンブルが発火すれば、先行する神経アンサンブルの発火から後続する神経アンサンブルの発火までの時間的な猶予は限りなく短くなる。
過去把持は先行する神経アンサンブルが発火してから後続する神経アンサンブルが発火し始めるまでの間に生じるのであった。だとすれば、次々と新たに神経アンサンブルが発火していくこの状況は、過去把持が生じている時間をも短くしていることになる。しかし、逆に過去把持が生じる回数は増えていくことになる。何故なら、次々と新たに神経アンサンブルが発火していくのならば、先行する神経アンサンブルが発火してから後続する神経アンサンブルが発火し始めるまでの「間」もまた次々と発生するからである。
多くの神経アンサンブルが加速的に発火するようになれば、その結合から創発する「今」の質感の個数もまた増大するということになる。過去把持が生じる回数が増大するということは、より多くの「今」に関する時間内容が知覚されるようになるということなのだ。無論この回数は際限無く増幅していく訳ではない。一つの神経アンサンブルが発火してから再び発火し始めるようになるには、1規模程度の時間が掛かる。仮に1秒間にありとあらゆる全ての神経アンサンブルが発火したとすれば、次の1規模分の時間が過ぎるまでは、どの神経アンサンブルも発火不能となる。その時、神経システムは心理システムの作動を構成する猶予を失う。恰も癲癇発作の如く、その者は一時的に意識を消失することになるのだ。
とりわけ大発作癲癇が発症した場合、その癲癇患者は意識喪失状態に陥る。だがその寸前、その患者は変性意識状態を体験することがある。古くから癲癇に関わってきた者たちは、この体験を「アウラ(Aura)」と呼んできた。ここでいうアウラとは、発作が生起する直前の瞬間に知覚される前兆だ。それは癲癇の前兆を示す幻覚、錯覚、トランス状態、性的関心など、得てして強烈な情動と結び付いている。だが発作が生じた際には意識を消失してしまう。だからこの体験を想起できるのは、一部の患者に限られてきた。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエーフスキイは、このショック体験を記述し得た類稀なる作家の一人だ。彼は『白痴』において、自らのアウラ体験をムイシュキン公爵なる登場人物に語らせている。
「憂鬱と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔を上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。生の直観や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬く間で、たちまち稲妻のごとく過ぎてしまうのだ。そのあいだ、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調にみちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に、忽然と溶け込んでしまうかのように思われる」。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエーフスキイ(1969)『ドストエーフスキイ全集』、米川正夫 訳、七巻、河出書房新社、pp.237-238。
こうして観ると、フッサールの現象学的還元に依拠するヴァレラの時間論は、同じくフッサールの意味論を批判的に継承したルーマンの時間論を細分化した構造を有していることがわかる。ルーマンによれば、時間は線的に連続している訳ではない。そこに持続性など無いのだ。ただこの「今」の時点が次の時点へと移行していくだけなのである。だがヴァレラによれば、そうした各時点における神経システムの作動には圧縮不可能な持続性が宿っている。流れ行く時間の中には確かに個体としての統一性を有した無数の時点が構成されている。だがその実、各時点で結合しているそれぞれの神経アンサンブルは、この「今」を中心として偶発的な影響を与え合う関係にある。無論忘れてはならないのは、こうして結実したあらゆる現在性の質感が構造的結合の歴史上生存可能であるという制約の下で創発的に実現した別のあり方でもあり得る知覚であるという点だ。神経システムの作動によって知覚されるに至った時間の持続性は、出来事の非線形的な連鎖として生起している。この時間論は、段階論や決定論とは無縁なのだ。
同時的な観察
神経アンサンブルの加速的な発火とその結合による「今」の質感の個数の増大という発想は、神経システムに限らず、社会システムや心理システムのような「意味」を構成するシステムにも当て嵌まる。「意味」を構成するシステムにおける複合性の時間化に関して共通して言えることは、とりわけその可能性が言語的な構造で制約されているという点である。言語化可能な事柄は、皆コミュニケーションの主題にすることもできれば、意識的に思考することもできるであろう。しかし、我々が見聞きすることのできる対象範囲が狭いスペクトルに縛られているのと同じように、コミュニケーションや思考もまた言語に束縛されている。そして、より重要かつ決定的なのは、そうした発話や記述が、連続的(sequentially)に秩序付けられてしまっているということである。だからこそ我々は、全ての主題について同時に言及することができないのだ。言語は、語彙、文法、否定の用法などのような構造によって、複合性を時間化する。複合性は選択を強制するのだが、言語はとりわけその選択を連続的に秩序付けられた選択になるように束縛するのである。
連続性として秩序付けられた言語の構造は、今ここで「同時に」全ての事柄を観察して記述することを困難にしている。まさにこの制約が、「意味」を構成するシステムの共鳴可能性を限定している。観察者がこの制約を乗り越えようとした場合、典型的にはパラドックスに遭遇することになる。と言うのも、パラドックスとは、区別された双方を「同時に」観察しようとした場合に派生する不可避の問題であるからだ。
「例外のある規則と例外無き規則があると述べれば十分かもしれない。あるいは、正しい主張と誤った主張が存在していると述べれば十分なのであろう。しかし、こうした「と(and)」によって何が指し示されており、そして何が排除されているのだろうか?何も指し示されておらず、何も排除されてもいない。この「と」は、システムにおけるシステムの統一性(unity)に取って代わるジョーカー(joker)として働いている。システムの目的と同様に、このシステムの「と」も、今ここにおけるシステムの再生産過程で、システムの統一性の象徴として作動しているのである。それはシステムの統一性についての十分な記述とはならない。それは、再度パラドックスが隠れ潜む場所となる。」
Luhmann, Niklas. (1988). The third question: the creative use of paradoxes in law and legal history. Journal of Law and Society, 15(2), 153-165., p.161より。
形式と内容、上部と下部、内部と外部、頂点と周縁、システムと環境などのように、「と」で区別された双方の関連を特定すれば、双方を一つの「全体」として「想像」することが可能になる。無論このことだけでは、双方とも具体的に定義されたことにはならない。にも拘らず我々は、そうすることで「全体」を「同時に」把握していると思い込むことができる。恰も予め存在していた「全体」を、この区別の導入によって、漏れなく分類できたかのように錯覚できるのだ。
超越的な必然性としてのパラドックス
パラドックスは、区別無しには観察できない。パラドックスは常に区別の「統一(unity)」である。一方パラドックスは、別のあり方でもあり得る区別を導入することで、「展開(unfold)」できる。故に、如何なる区別もパラドックス化することが可能であると共に、脱パラドックス化することが可能である。ただし、それは妥当性(plausibility)という条件に依存している。
パラドックスの可視化と不可視化のために導入された区別は、二次的な区別の導入として適用されることを前提としている。すなわち、ここで想定されているのは、パラドックスとその展開の区別の可視性と不可視性である。パラドックスそれ自体だけが、無条件の知識(unconditioned knowledge)を提供する。それは妥当な許容範囲という条件から逸脱した知識である。実際このパラドックスとその展開の区別は、そうした条件に依存したパラドックスの展開に利用される。それ故、無条件の知識としてのパラドックスは、一種の超越的な必然性(transcendental necessity)となる。尤も、接続可能な知識は、常に偶発的に選択されるであろう。偶発的であることこそが必然的であると共に、必然性は偶発的に生起する。パラドックスを観察する超越的な主体を仮定したとしても、そのシステムの経験的な同一性は、自身が導入した区別のパラドックス化と脱パラドックス化を実行するシステムの作動上の再帰的なネットワークの偶発的な接続可能性に左右されているはずなのである。
世界の脱パラドックス化
社会システムは、パラドックス化された世界においてのみ、コミュニケーションによる自己言及的な作動を展開する。この一般的な条件が、宗教を不可避的にする。社会生活には、宗教的な性質が帯びている。自己言及のパラドックス化された構成は、全ての社会生活に普及している。にも拘らず、それは社会生活における特殊問題として設定されている。究極的な意味の問題は、いつ如何なる時でも設定され得る。しかし、常に設定されるという訳ではない。別のあり方でもあり得る諸々の問題の中の一つへと格下げすることが可能であるのならば、全体の意味の問題は、全体の中での特殊問題となる。そこで社会は、この問題を有用に処理して、そしてこの問題を解決し得る宗教的な形式を展開する。つまり、世界を脱パラドックス化する形式を展開するのである。宗教の形式は、言わばパラドックス化された意味を具象化する。
等価機能主義的に言えば、パラドックス化された世界の根本的な問題が宗教的な形式によって「解決」されるのである。すなわち、重大な問題として設定された当の問題が瑣末な問題へと変換されるという訳だ。空虚な現世と充満した現世は同一である。無意味な生活と有意味な生活も同一である。剰え、無秩序と秩序もまた同一である。何故なら、世界は統一(unity)としてのみ構成されるからだ。しかし我々は、この最終的な統一をあるがままに受容することができない。超越と内在、善と悪、聖と俗、天国と地獄などのように、様々な極限の形式を必要としてしまう。だからこそこの究極的な問題は、より単純なパラドックス化の宗教的形式へと機能的に代替されなければならない。究極的なパラドックス(ultimate paradox)との機能的関連を保持する形式は、それ故に宗教的な形式であり続ける。究極的なパラドックスに言及していると見做される形式は、それ故に宗教的な形式として観察される。そして究極的なパラドックスに言及していると記述される形式は、それ故に宗教的な形式として記述される。
自己言及のパラドックスという問題は、宗教用語としては、超越の問題として記述されてきた。パラドックスは、全てを同時に観察しようとした場合に直面する不可避の問題である。しかしそれは、全てを同時に観察することの不可能性を意味する訳ではない。パラドックスを観察することもまた区別に準拠しているとルーマンは述べている。パラドックスが生起したならば、まずはそれを悪循環ではなく創造的な循環として捉え直すと共に、そのパラドックスと非パラドックスの区別の統一をも同時的に観察すれば、パラドックスは展開される。ただし、パラドックスと非パラドックスで構成された全体を同時に観察すれば、またパラドックスが発現する。だからまたパラドックスと非パラドックスの区別を導入しなければならない。そうなると、ここで重要となるのは、パラドックスと非パラドックスの区別を区別の内部へと再導入(re-entry)することである。しかもこの区別は、それこそ同時であるかのように、矢継ぎ早に実行し続けなければならない。そうなると問題となるのは、パラドックスの展開速度である。それは、「観察するシステム」の観察速度であると共に、システム作動の速度でもある。
問題再設定:再帰的なシステム作動過程の「速度」、あるいは「全体」を凌駕する「部分」
我々はシステムの「速度(Schnelligkeit)」の問題に敏感にならなければならない。この問題は、あらゆる自己言及的でオートポイエーシス的なシステムにも関係する問題である。実際ルーマンは、システム作動過程の速度を外部環境過程の速度と比較することで記述している。外部環境過程の速度を上回る速度を有したシステム作動過程は、今後期待される出来事に関するシミュレーションや不測の事態に対する準備に活かされる。システムは、作動を加速化させることによって、環境に対する態勢を整えることができるのだ。
社会システムと心理システムは、それぞれ出来事に基づいている。社会システムならばコミュニケーションとして、心理システムならば思考として、それぞれに出来事を構成することで作動している。こうした出来事に基づいたシステムは、時間に関する複合的なパターンを必要とする。システムにとって、時間は単に不可逆的なものとしてのみ与えられている訳ではない。出来事は、複合性の時間化を前提とした上で、事前と事後の差異を構成する。出来事は、そうした区別によって観察される。その観察によって、出来事は、記憶の対象になることもあれば、期待の対象になることもある。出来事が存在するということは、その出来事の事前と事後が共に存在しているということである。こうした出来事がとりわけ歴史哲学的に観察されるのならば、それぞれの事物には前史と後史があると言い換えられるであろう。
別の言い方をするなら、出来事は、時間という形式の内部に時間という形式を再導入し続けることを前提としている。時間は、過去から現在、そして未来へと推移していくという観点から、時制を構成している。この未来への推移において、それぞれの時点には過去と未来の地平が伴う。出来事の時制を特徴付けているのは、この二重の地平に他ならない。この地平の二重性は、未来の現在を期待するか、過去の現在を想起した途端に、直ちに倍増する。いずれの場合も、それぞれの未来とそれぞれの過去を有しているからだ。時間の時制的な構造は、それ自体の中で反復される。
この時間の再帰性だけが、安定的で持続的な存在の放棄を可能にする。そして、安定的で持続的な存在を放棄するからこそ、出来事に基づくシステムは、出来事のオートポイエーシス的な再生産を可能にする。出来事が生じては消え去るからこそ、事前から事後へと、出来事を再構成し続けられる。出来事の不安定な生成消滅は、システムがシステムであり続ける条件となる。
これを前提とするなら、ルーマンが論じるシステム作動過程の速度とは、出来事の生成消滅の速度を意味する。システム作動が加速化するということは、時間の形式の形式への再導入による時間の再帰的な再構成によって、出来事の生成消滅を加速化させるということである。外部環境過程に比して加速化しているシステムは、その内部において、より多くの出来事を構成していることになる。
この自己言及的で再帰的な時間の意味論を前提とすれば、ギュンターが辿り着いた結論に対して、我々は彼が考える以上に驚きを隠せなくなる。時間の形式の形式への再導入による時間の再帰的な再構成は、「全体」を凌駕する「部分」の再帰能力の一種なのである。ギュンターの主張を再度引用しておこう。
「それ自体の中心を伴った自己反省のシステムは、システムとその環境との『境界を引く(drawing a line)』能力がなければ、現に作動しているように作動することは不可能であろう。これは、全体としての宇宙には不可能なことである。このことから我々は、次のような驚くべき結論に到達する。すなわち、宇宙の諸部分は、宇宙全体よりも高度な再帰能力を有しているのだ。」
Günter, G. (1962) Cybernetic Ontology and Transjunctional Operations. In G. T. Yovits & G. D. Jacobi Goldstein (Eds.), Self Organizing Systems. Washington D. C: Spartan Books, pp.313-392. Downloaded from www.vordenker.de (Edition:February 2004), J. Paul (ed.) at: http://www.vordenker.de/ggphilosophy/gg_cyb_ontology.pdf. 引用はPDFファイルのp.58より、再掲。
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