「時間」感覚の等価機能主義的な社会システム理論

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問題再設定:宗教的な時間感覚は如何にして可能になるのか

「永遠(Ewigkeit)」の時間感覚や「啓示(Erleuchtung)」の瞬間などのような宗教的な体験を観るに、宗教システム社会構造意味論においては、様々な時間感覚意味処理規則が貯蓄されているように思える。神話や聖書などのような宗教的なコミュニケーションの産物を観察すれば、時間感覚構成やその共有が如何にして可能になっているのかが判明するかもしれない。祭儀や通過儀礼は、その宗教システム文化を背景とした独特の「非日常」という時間を提供しているはずである。こうした宗教的なコミュニケーション観察する上でも、等価機能主義的な社会システム理論は有用である。

問題解決策:宗教システムの二値コード

ルーマンの等価機能分析によれば、原始的な宗教は世界に特定の意味を付与することで、あらゆる現象を信仰者たちにとっての<規定された世界>として認識しようとする試みであった。その原始的な形式であったのは、「神話」である。神話は世界の根源的な創造の過程を主題とした聖なる説話だ。それは過去の超自然的な出来事を説明しただけではなく、自然の理解や人間の行動を基礎付けてもいた。

神話という物語は、規定されていない世界に「意味」を付与する形式として機能していた。環節的に分化していた社会においては、こうした神話は部族ごとに類型化されていた。しかし社会構造が環節的な分化から階層的な分化へと進化すると、この神話の信憑性が崩壊することとなった。これにより、神話という形式によって隠蔽されていた規定不可能な複合性が再び発現することになる。そこで神話の代替物として機能したのが、ヤハウェ、アッラー、シヴァ、ヴィシュヌなどのような「」である。この場合のは、世界のあらゆる現象を規定する存在だ。だがそれ自体は、規定不可能な複合性のまま留まっている。それ故階層的に分化した社会においては、信仰者たちはが統一する世界に住むことなる。は規定不可能な世界から規定可能な信仰者たちの世界を一望する。規定可能な世界を生きる信仰者たちは皆、その身分を問わずの教示と監視に従うことになる。

しかし、規定可能な世界に済む有限なる存在である人間には、規定不可能な世界に位置するを知る術が無い。規定可能な世界が「内在(Immanenz)」であるならば、規定不可能な世界は「超越(Transzendenz)」である。だが内在超越区別は、そもそもこの内在世界で生み出された差異だ。内在で<内在>と<超越>を区別しようとすれば、信仰者たちはパラドックスに陥る。預言者ムハンマドや釈迦はそれ故にパラドックスを生む。とりわけキリスト教徒たちの教義学(Dogmatik)においては、このの解釈に伴うパラドックスが何度も問題視されてきた。

このことは理性を重視するギリシア哲学と唯一ヤハウェへの信仰を重視するキリスト教神学の絶え間ない論争からも確認されている。例えば論理的に考えれば、が唯一絶対の存在であるのならば、イエスもまたとして存在しているのは矛盾である。世界は原子から構成されているのならば、もまた原子の集合に過ぎない。双方は水と油の関係だ。

遅くてもアウグスティヌスがローマ帝国との対立を背景として両者を調停するまでは、超越内在パラドックス宗教的なコミュニケーションを不安定化させていた。アウグスティヌスの狙いは、プラトンのイデア論に倣い、内在の世界を超越の世界の複製物に過ぎないと解することによって、超越の世界に住まうの代理役を引き受けている教会を優位に立たせることであった。アウグスティヌスによれば、内在たる現実世界に飢餓や戦争が散見されるのは、人間だからではなく、不完全だからだという。は確かに完全だ。その完全な存在であるが創造したのならば、世界や人間もまた完全であるはずだ。しかし世界や人間によって創造された被造物に過ぎない。故に不完全であっても仕方が無いのだ。アウグスティヌスによれば、であるかのように思えるのは、皆不完全な善なのである。

キリスト教をギリシア哲学的に体系化したアウグスティヌスの功績によって、内在超越パラドックスは解決されたかのように見えた。ところが12世紀になると、自然科学に関するアリストテレス的な哲学がイスラム圏を中心に注目を集めるようになった。更に十字軍の遠征を契機として、このアリストテレス的な哲学が西洋にも知れ渡ることになった。

そこで、キリスト教神学とアリストテレス的な哲学が衝突し始めることになる。この両者を統合しようと試みたのが、トマス・アクィナスである。アクィナスによれば、人間理性超越した存在である。そのため理性だけでは、を説明することができない。故に彼はアリストテレス的な哲学を背景とした「理性の真理」よりも、キリスト教神学を背景とした「啓示の真理」の優位性を認めたのである。

このように、内在超越パラドックスは、宗教によってのみ問題視される。そしてその解決策は、宗教でしか見出されない。したがってルーマンは、宗教システム二値コードをこの内在超越差異に求めるのである。意味論的に言えば、内在とは人間体験する有意味出来事の全てである。一方超越とは、有意味的な体験処理が不可能な世界である。「意味」を構成するシステムには到達不可能な世界が、超越的な世界なのである。

仏教徒のように、内的世界の出来事として宗教体験している者たちは、この定義に違和を感じるかもしれない。西洋の宗教では、人間自然が対立する概念として描かれてきた。一方仏教のような東洋の宗教では、人間自然の一部として把握される。仏教は、まず人間自我から離れたあるがままの姿を見ようとする。それは無我として実相を見るということだ。仏教において絶対的なるものがあるとすれば、それは認識された有為の領域ではなく、認識とは無関係の無為という事実の中に求められるのだ。

とはいえ、事実は無数の因や無数の縁が複合化したことで顕在化している。因縁の法則は無常たる偶発性を生み出す。あるがままの姿をあるがままに捉えるということは、外部言及の限定技術形式としての期待意味形式組織システムによる「不確実性の吸収」にも肖らないということである。しかし社会システム心理システムには、常に「意味」により顕在化された現実の出来事しか観察し得ない。あるがままの世界とは、有意味的な体験処理が不可能な世界である。故に仏教が捉えようとしている実相も、超越内在差異を前提としているのだ。

二値コードから宗教を説明していることからもわかるように、ルーマンは宗教近代社会機能システムとして位置付けている。この視点は、同じ社会システム理論家でも、パーソンズとは別様の視点になる。パーソンズもまた社会システムとの関係から宗教を位置付けている。ただし彼の場合、宗教文化のサブシステムとなる。それは社会システムが均衡を維持する際に重要となるシステムだ。一方、これに対してルーマンの場合は、宗教はあくまで近代社会機能の一部を担うサブシステムである。無論宗教システムにおいても文化は生じる。初めに文化があり、そのサブシステムとして宗教が生じるのではない。

機能システムとしての宗教における二値コードの適切な適用を方向付けるプログラムとなるのは、聖書や経典である。例えば唯一を崇拝してきたユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教は、長らく『旧約聖書』に方向付けられてきた。ただしこれら三つの宗教システムは、それぞれ別様の形式で、このプログラムそれ自体を規範的に期待してきた。『旧約聖書』を最大の正典として位置付けたのはユダヤ教である。だが一方でイスラム教においては、『コーラン』が『旧約聖書』よりも重視されている。キリスト教では、ユダヤ教との差異を確保するために、福音書を中心とした『新約聖書』が重視される。もともと『旧約聖書』には、地理的にも気候的にも厳しい自然環境を生き抜くために必要となる厳しい戒律が記述されていた。だからこそ失楽園やノアの洪水などのように、の激怒によって打ちひしがれる者たちが強調されているのである。だがこれに対して『コーラン』で強調されるのは、正しき信徒には「天国」が約束されるということだ。それは「慈悲深く、慈愛あまねき御」が描かれている。は恐怖の対象とは限らないのだ。福音を強調した『新約聖書』でも、は慈悲深き父なる存在として崇められることになる。厳しい戒律もさほどない。例えば割礼や断食や偶像崇拝の禁止令は除外されている。

超越内在コードは、こうして宗派ごとに区別されている。一方、超越の側が肯定的に評価される宗教的なコミュニケーションの文脈では、聖と俗もまた宗教に固有の二値コードとして機能する。聖は超越の創造に対応し、俗は内在が管轄する世界に対応する。ユダヤ教であれば「ダビデの」が、キリスト教であれば「十字架」が、仏教であれば「卍」が、それぞれ聖なるものとして挙げられる。被造物や有限存在としての人間は、全知全能のに比べれば、徹底的に不完全だ。それ故に俗なる内在の世界を生きる人間は、聖なる超越の世界に住まうの視点を頼りに生きていかなければならない。こうして超越の側が好意的に評価されることによって、聖と俗のコード機能するのである。

聖なるコミュニケーション構成するためには、内在に位置する信仰者たちが超越に位置する意志を理解しなければならない。その手掛かりとなるのが、「救済」と「天罰」のコードや「天国」と「地獄」のコードである。これらのコードは、宗教においては道徳(Moral)との関連から説明される。しかし、この宗教における道徳は功利主義の歴史に絡め取られることで世俗化されてしまった。脱魔術化された合理的な近代社会においては、もはや天国や地獄といった観念にも信憑性が伴わなくなる。これらの影響が波及することで、近代社会ではもはや聖と俗のコード機能不全となったのである。

近代社会宗教的なコミュニケーションにおいては、聖と俗のコードで肉付けされてきた超越内在コードが、言わば裸の状態で構成されることになる。だが宗教システムからして観れば、このコードを露出したままにしておくことは許されない。超越内在コード主題化してしまえば、無論コードそのものが否定される可能性が高まってしまう。このコード否定されれば、もはやそこから宗教的なコミュニケーションは生み出されない。宗教システムオートポイエーシスを継続させるためには、例えばその否定者を「悪魔」と認識して破門にすることによって、このコードに対する否定可能性を外的環境へと排除しなければならない。一方、超越内在コードへと肯定的に言及する観察者もまた、宗教システムにとっては不都合となる。を愛する者が超越の世界に言及するのは、宗教的なコミュニケーションの一種なのかもしれない。だがそれでは内在の世界で内在超越区別することに伴うパラドックスが顕在化してしまうことになる。宗教システムオートポイエーシスを継続するためには、このパラドックス脱パラドックス化し続ける必要がある。故に宗教システムは、肯定的であったとしても、超越内在コードに対する言及は控えなければならない。例えばの定義を抽象的な語り得ないものとして記述する教義を形式化することによって、超越への具体的な観察を不可能にするのは、宗教システムの存続を可能にする技術の一つとなっている。

とはいえ機能的に分化した近代社会では、宗教システムの外部に位置する様々なサブシステム宗教コード観察してしまう。例えば社会学や文化人類学などといった学問システムは、容赦なくこの超越内在コード観察してしまうだろう。したがって宗教システムが隠蔽してきたパラドックスは、いつでも暴露される可能性が伴うことになる。宗教システムの存続は困難極まりない。

問題解決策:「機能志向」と「遂行志向」の区別

超越内在パラドックスが様々なシステムから観察されるようになると、宗教システムの存続は困難極まりない課題となる。しかし実際、宗教システムは消滅していない。ルーマンは、この世俗化された近代社会において宗教システムが完全に消滅しない理由を独自の角度から説明している。ルーマンによれば、徹底的に世俗化された近代社会では、宗教システムは「機能志向(Funktionsorientierung)」から「遂行志向(Leistungsorientierung)」へと移行することになる。ここでいう機能志向とは、機能システムが社会(Gesellschaft)との関連から自らの作動を営むことを意味する。一方で遂行志向とは、機能システムが他の機能システムとの関連から自らの作動を営むことを意味する。

機能志向宗教的なコミュニケーション形式化するのは、伝統的に「教会(Kirche)」であった。一方、遂行の役割を担うのは「奉仕(Diakonie)」である。確かに1960年代になると、世俗化によって、社会の全体に対する教会の関与度が急激に低迷したとされている。これは教会という組織システム構成員となる信仰者が減少したことに結び付いている。

しかし、こうして信仰者たちの現象しても、宗教的なコミュニケーションは途絶えなかった。ルーマンは、その理由を社会奉仕に見出している。教会信仰者たちが激減する一方で、社会奉仕への関与者たちが増加したことによって、宗教的なコミュニケーションオートポイエーシスの空白が埋め合わせられたのである。

問題解決策:「包摂」と「排除」の区別

この奉仕宗教的なコミュニケーションとなるのは、理由の無いことではない。それは「包摂(Inklusion)」と「排除(Exklusion)」の差異に関する社会学的な分析に関連している。

ルーマンによれば、社会学における「包摂(Inklusion)」の議論は、「排除(Exklusion)」への考慮を怠っていた。機能的な分化を果たした近代社会は、事実上全ての人格包摂する許容能力を用意している。ここでいう包摂とは、個々の人格が社会的な配慮を受ける機会を意味する。個々の人格は自身の関心や欲求や期待に応じて全ての機能システムに参加することができると想定されている。また個々の機能システムも、全ての人格包摂することを建前としている。それぞれの機能システム意味論には、「人権」などのような概念に象徴されるように、包摂の条件に関する主題が貯蓄されている。したがって問題となるのは、如何にしてこの包摂可能性を条件付けることでより良き包摂を実現していくのかだけである。

だがこのように見立てるだけでは、現実に生じている人格排除に盲目的となってしまう。「建前」を理想化すれば、排除問題は既に解決済みであるかのように錯覚してしまうだろう。しかし排除問題は単に隠蔽されているだけに過ぎない。ルーマンによれば、近代社会排除は、複数の機能システム否定的に結合することで形式化される。ある機能システムから排除された人格は、別の機能システムでも排除されるようになってしまうのだ。だから不法滞在者たちには社会的な援助を受ける機会が無い。彼らには選挙権も無く、子供に公教育を受けさせることも間々ならない。特定の機能システムから排除された人格は、社会的な配慮を受ける機会を喪失するのである。

近代社会機能システムによる包摂排除はパラドクシカルな方法で遂行されている。機能システムは全ての人格包摂するように想定している。しかし実際、機能システムは自らの要求に合致しない人格排除している。多くの個々人は、出生の認定と身分証明書を持たずに、いずれの学校教育も受けずに、いずれの定職にも就かずに、法廷にもアクセスできずに、そして警察を呼ぶ能力すら持たずに、生活しなければならない状況を強いられている。他方では、政治システム、経済システム法システム、科学・学問システム教育システムマスメディア・システム芸術システム宗教システム医療システム、家族システムなど、ありとあらゆる機能システム包摂されることを可能にした人格も偏在している。ある人格包摂は、ある排除された人格の犠牲の上で成り立っている場合もあろう。

与党と野党、支払いと非支払い、所有と非所有、合法と違法、真と非真、より良いとよりい、情報非情報、美と醜などのような二値コードが適用されるコミュニケーションは、どのような形式であれ、機能システムとして作動する。故に排除された人格は、言わばこの二値コードにおける排除された第三項となる。機能システムが特定の人格排除する場合、言わばその人格を素通りする形で二値コードが適用されていくのである。それ故、包摂排除問題となる場合、包摂排除区別は個々の機能システム二値コードが適用される前段階のメタ・コード(metacode)であると言える。

問題解決策:形式としての「寄付」

宗教システム機能システムとしての特徴の一つは、包摂力が比較的高いということだ。ルーマンによれば、通常ある機能システムから排除された人格は、他の機能システムにおいても排除されてしまう。例えば経済システムから排除されたために支払い能力を喪失させた人格は、教育システム教育を受けることができなくなる。法システムで弁護士を雇うこともできなくなるだろう。政治システム法システムから排除されることで不法滞在者となってしまった人格も、同じように、経済システム医療システム包摂されなくなってしまう。一方、これに対して宗教システムにおいては、他の機能システムから排除された人格でも、比較的容易に包摂することができる。金銭を持たない人格であれ、経歴を持たない人格であれ、極端に言えば無法者であっても、信仰心をもつ人格であれば、宗教システム包摂することができるのだ。

宗教システム宗教に関わる組織システムは、その手段と動機を社会的な援助へと集中させることができる。実際、貧困者に対する救済には宗派を超えて長い歴史がある。日本では「寄進」や「布施」などといった形式で「寄付」が奨励されてきた。貧困者の救済のための「寄付」という意味論は、イスラム教では「サダカ」や「ザカート」として語り継がれ、仏教では「喜捨」として知られている。キリスト教に基づいた「慈善団体」は、社会福祉の制度化に多大な貢献を果たしている。世俗化は、宗教を消滅させたのではなく、宗教的な救済形式を組み替えたのである。

東日本大震災によって実施されることとなった様々な募金活動を観れば、このルーマンの抽象的な分析にも現実味を以って接することができるだろう。3.11の災禍は、地震と津波と電気に関する「科学的な専門知識」を構成してきた科学・学問システム盲点を突いた。自然災害は規定不可能な複合性社会システムに突き付けてきた。こうして、規定不可能な複合性を規定可能な複合性に変換するという宗教の参照問題が発現することとなった。超越内在コードが意図せずして構成されることで、寄付という遂行形式での宗教的なコミュニケーションが発動したのだ。

とはいえ宗教は、手段と動機を社会奉仕に集中させることができるというだけであって、他の機能システム役割を肩代わりすることはできない。寄付金を支払えば、それは宗教的なコミュニケーションではなく、経済的なコミュニケーションとなる。その寄付金を如何にして配分するのかを決めるのは、政治システムである。世俗化された世界では、もはや宗教に政治を制御することはできない。故に宗教システムが社会奉仕を遂行するためには、他の機能システムとの連携を成立させなければならなくなる。しかし機能的に分化した近代社会には、中心や頂点が無い。全体を統一する象徴が無い以上、個々の機能システム同士の連携を成立させるのはありそうもないこととなる。故に宗教システム遂行志向期待外れに終わる可能性が高い。この期待外れが大きければ、遂行志向を維持することが困難になる。

問題解決策:象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての信仰

遂行志向宗教システムは不安定化を余儀無くされる。そこでこの不安定性に如何にして対処するのかが、宗教システムの課題となる。直ぐに思い当たるのは、宗教システムにおける象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア存在だ。コミュニケーション・メディアならば、宗教的なコミュニケーションの接続可能性を確保してくれるだろう。

超越性という規定され得ない複合性偶発的に主題化されると、宗教的なコミュニケーションは解釈の必要性に迫られる。例えばかつての共同体は、天災、疫病、飢餓などのような超越的なショック体験によって、それまで習熟してきた生活世界を幾度と無く剥奪されてきた。この超越的なショック体験がそう何度も続くようでは、共同体はその驚異的な過剰刺激に困惑してしまう。宗教システムはこの規定され得ない複合性を規定可能な複合性に変換するために動員された。そのために必要となったのが、解釈である。原初的な社会では、聖俗の区別を用いた儀式によって、この解釈が実践された。つまり超越的なショック体験を聖なるものの顕現として解釈することによって、超越的なショック体験は日常的に頻出する俗なる出来事から区別されるという解釈を可能にしてきたのである。

社会進化に伴い、徐々に「宗教教義学(Religiose Dogmatik)」が、この解釈機能を担うようになった。この意味宗教教義学は、宗教の脱儀式化を果たした。それは儀式の跡継ぎである。宗教教義学は儀式同様に、あらゆる「意味」の中に構成されている。それは言語によって一般化される「ノー」という否定の管理機能を有している。儀式は、リズムを刻みながら生成消滅する出来事や固定観念の形成によって、否定排除を可能にしてきた。これに対して宗教教義学は、否定禁止に着手する。宗教教義学主題化された未規定の複合性に関する「答え」を導き出すために貢献する。教義は、その「答え」を否定することを許さない。宗教教義学は、いわば自己言及的に、かつて宗教教義学的に導き出された「答え」を再解釈し続けていく。無論この自己言及は、外部環境を自己自身から区別することを介して実践される。ならばこそ宗教教義学は、宗教的なコミュニケーションを安定化させることを可能にした。

ルーマンによれば、宗教教義学の中心的な主題となるのは、「信仰(Glaube)」である。信仰なくして真の宗教はなく、信仰なくして義認はなく、信仰なくして秘儀の恩寵はない。神学者たちも、専ら「正しい信仰」の保持とその追体験宗教性を見出してきたという。ただし宗教的なコミュニケーションにおいては、個々人の心理システム信仰しているか否かは問題とはならない。いずれにせよ信仰は、宗教的なコミュニケーション構成されて初めて実現する。たとえ如何に心の底から信仰していたとしても、コミュニケーションによって観察されない限りは、信仰しているとは見做されない。逆に言えば、信仰者として観察されれば、それだけで信仰というコミュニケーション構成されるのである。したがって信仰は、その内容を問わない形式として機能する。

内容を問わない形式であるが故に、信仰者の内面への期待信仰者として観察されることへの期待には、常に期待外れが伴う。しかし宗教教義学は、超越性に関する「答え」を幾度となく再解釈し続けていくことで、この形式としての信仰を規範的に期待してきた。そのためにこの形式としての信仰は、象徴的に一般化されたのである。これに連なり宗教教義学は、象徴的に一般化された期待形式としての信仰に倣うことで、信仰によってのみ義とされる教義の中に信頼できる信仰を見出すこととなった。この信仰という形式は、それまでの信仰に対する期待外れを隠蔽すると同時に、無数にあり得る信仰の在り様を予め限定してくれる。そしてこの概念は、宗教的なコミュニケーションに参加する人格たちが信頼しているという仮定に基づき、コミュニケーション・メディアとして機能することとなる。

したがって、宗教システムにおける象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア信仰である。信仰は、他のコミュニケーション・メディア同様に、期待外れの隠蔽による規範的な期待を可能にする。ただし信仰コミュニケーション・メディアとしての機能を発揮し得るのは、宗教的なコミュニケーションの参加者がその宗教信仰しているという仮定が信頼される場合に限定される。例えば聖書が出版される以前のキリスト教では、信仰告白などといった伝統によって、この仮定が信頼されていた。この伝統においては、信仰者は自らの信仰をしばしば途轍もない苦労の下で証言してきた。そうした苦労をあえて受け入れるからこそ、その信仰告白は信頼するに足る信仰として信頼されてきたのである。一方、宗教改革以降においては、事態は一変する。信仰を受容した者は、教会の権威に屈服したからではなく、より個人的な自己選択によって信仰している者として観察されるようになった。宗教的なコミュニケーションに参加する信徒たちの自主性が重視されるようになったのである。尤もこの局面においても、「何を主題信仰しているのか」が宗教的なコミュニケーションにおける重大な主題であることに変わりは無い。

この関連において、信仰と動機は分かち難い関係にある。信仰は、超越内在区別を世界の内在形式化させるメディアだ。それは世界に内在する諸人格に、超越という未知なる外部への期待を抱かせると共に、それを追い求めるように諸人格を動機付ける。信仰の継続には動機付けが必要だ。ただしこの場合の動機付けは、単なる内発的な動機付けだけを意味する訳ではない。宗教心理学的に観れば、信仰との関連から語られる動機は、同時に外発的な動機付けを含意している。動機は、自他共に理解可能であり、また皆からよく理解されている選択の根拠である。それは言語的な事実や社会的な事実に依拠している。だから動機は、単に信仰の心的な原因なのではない。動機は信仰における宗教的なコミュニケーション上の主題ともなり得る。例えば「正しい信仰」に関する宗教的なコミュニケーションが成立したならば、以後その「正しさ」へと信仰者たる人格は動機付けられていく可能性が高い。こうして主題化した動機の在り様が、次なる動機付けを方向付けるのだ。

言い換えれば、動機付けられた信仰は、後続の信仰を動機付ける。だから信仰は、信仰それ自体を再帰的に制御できなければならない。さもなければ、信仰コミュニケーション・メディアとしては機能し得ないだろう。無論この動機付けは、心的な現象であるばかりか社会的な現象でもあるために、他の社会的な現象による影響を被ることになる。だから信仰によって得られる動機にせよ、信仰を生み出す動機にせよ、多かれ少なかれ儘ならぬ限定条件下で構成されているのである。

機能的等価物の探索:免疫システムとしての通過儀礼

信仰という象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアが十分に機能しているのならば、宗教的なコミュニケーションもある程度の安定性を獲得する。しかしながら、注意しなければならないのは、コミュニケーション・メディア機能的な分化を決定付ける道標に過ぎないということだ。確かに機能システム機能的な分化を成立させるためには、コミュニケーション・メディアの徹底的な差異化が必要になる。各コミュニケーション・メディア間の差異が曖昧なままでは、機能的な分化は完結し得ない。しかし、このように述べただけでは、機能的な分化を完結させた機能システム同士の関連性が不明確なままだ。事遂行志向宗教システムに関しては特に、他の機能システムとの関連から、システム作動の不安定化に向けた対策を講じなければならない。

ここで視点を移して観ると、ルーマンが記述した免疫システム理論は、大きな手掛かりを残している。この免疫システム理論の視点から観れば、宗教システムの不安定性に対する対応は、免疫機能によって果たされる。元来免疫システム理論は、危機的状況におけるオートポイエーシスが如何にして可能になるのかという問題設定の下で導入された理論だ。ルーマンが提唱した社会システムの「免疫機能(Immunfunktion)」を担う「免疫システム(Immunsystem)」という抽象的な概念は、宗教との関連においても重要な手掛かりとなる。

免疫機能システムオートポイエーシスを脅かす問題に直面した場合に動員される。とはいえ、この免疫機能をパーソンズが言う意味での「機能要件(functional requisite)」と混同してはならない。機能要件はシステムの存続に必要不可欠な機能を含意する。しかし免疫システムは、予め構造が仮定されているシステムの存続に携わるというよりも、むしろシステム危機に対する適応的な構造変動に携わることで、存続の負担を軽減しているのである。

念のため付言しておくと、ルーマンの社会システム理論における「免疫システム」という概念は、類推や隠喩として導入された概念ではない。等価機能主義方法では、そもそも類推や隠喩は採用されない。こうした概念操作では、類似するものばかりを関連付けようとする誘惑に駆られてしまうからだ。ルーマンによれば、生命システムに限らず、免疫機能は普遍的な現象である。それが偶然にもこれらのシステムの作動において早期に発見されたというだけのことなのだ。それ故にルーマンは、免疫システムという概念を抽象化することで、生命システムにおける免疫機能社会システム心理システムにおける免疫機能比較しているのである。

心理システムの免疫システムとしての情動

社会システム免疫システムは、心理システム免疫システムとしての「情動(Gefühle)」と比較することで、より判明となるだろう。例えば生存の危機に直面すると、心理システムオートポイエーシスも継続不能になり兼ねない。その時、断末魔の恐怖や不安は、心理システム免疫機能を担う情動の一例となる。これ以外にも、例えば愛への没入が該当する。それは、不意に他者への自己献身を方向付ける。だが、他者は心理システム環境に位置する。故に他者へ没入した心理システムは、システム自身と環境との差異を確保できなくなる。それは、自己言及で成り立つシステムオートポイエーシスを継続し得なくなることを言い表している。

システムオートポイエーシスを継続するためには、こうした危機適応しなければならない。つまり、通常のシステムから自身を脅かす危機に対処するシステムへと変異するために、改めてシステム環境差異を有意味的に再構成する必要があるのだ。

しかし、ここで問題となるのは、この区別偶発的であるという点だ。システムには、多種多様な意味を選択することができる。だが選択肢が過剰であれば、視野狭窄に陥る。存続の危機が目前に迫る状況では、意味の選択肢を吟味している余裕は無い。何よりも時間が足りないのだ。そこで、予め選択肢を限定しておくことが必要となる。つまり、存続の危機に陥った場合に「意味」の選択肢を限定するために機能する「構造」が必要となるのだ。それが免疫機能となるのである。

構造的な選択肢の限定によって、オートポイエーシス危機に立たされた心理システムは、膨大な選択肢に迷わず速やかに「特定の情動」を発動させることができる。この「特定の情動」が、危機的状況における「特殊な心理システム」となる。言い換えれば心理システムは、オートポイエーシスを破綻させる寸前に、心理システムとしての情動環境差異構成する「意味」を即座に付与することによって、それまでパラドックス化していた差異を隠蔽するのである。危機的状況が治まるまで、免疫システム心理システム機能的等価物となるのだ。

構造期待意味形式再帰的に関連しているのであった。「特定の情動」を発動させるべく構造を変動させるためには、期待という限定技術形式を駆使して膨大な選択肢を捨象しなければならない。また「特定の情動」に見合う構造変動が済まされると、新たな構造は既存の期待意味形式に影響を与える。何故なら構造機能するからこそ、特定の期待を冗長的に選択し続けることが可能になるからだ。したがって、ある心理システム免疫システムとしての情動を発動させた時、その心理システムが依拠できる期待意味形式は、「特定の情動」の構造を前提とした場合に冗長的に選択できる期待意味形式に限定される。言い換えれば、この時心理システムが依拠できるのは「特定の情動」に対応した期待のみなのである。

依拠し得る期待意味形式が限定的であるこの情況は、システムオートポイエーシスを尚不安定にする。何故なら、依拠した期待期待外れに終わる可能性があるからだ。通常の意味構成システムならば、たとえ期待外れに陥っても、規範的な期待認知的な期待構成することができる。だが免疫システムを発動させている場合、依拠し得る期待が限られているために、期待外れを隠蔽することができなくなる。そうなればシステムオートポイエーシスを途切れさせて終い兼ねない。免疫機能が不要になって初めて、システムは平常のオートポイエーシスを再開できるようになる。

心理システムにおけるこの情況は、しばしば社会システムにも影響を与えることがある。双方のシステムは確かに自律的だ。しかし、期待構造に依拠する「意味」を構成するシステムであることに変わりは無い。もし社会システムがこうした「特定の情動」に対応した期待のみに依拠して外部言及を敢行したのならば、心理システム同様に、その社会システムもまた不安定化するだろう。

それ故、心理システム免疫システムを発動せざるを得ない情況に直面した場合、しばしば社会システムもまた免疫システムを発動せざるを得ない情況に直面する。無論この逆の連鎖もあり得る。一個人が生存の危機に陥り恐怖や不安の情動を発動させている時に、その周辺に位置する社会システムが平常なコミュニケーション構成できているとは考え難い。また同じように、ディス・コミュニケーションが伴っているにも拘らず、誰も怒りや悲しみのような情動を発動させないというのも考え難いのである。

社会システムの免疫システムとしての闘争

心理システム免疫システムとしての情動に関する等価機能分析は、社会システム免疫システムとしての「闘争(Konflikt)」を観察する上でも妥当する。社会システムは、オートポイエーシス危機に立たされると、予め構造として準備していた特定の免疫システムを発動させる。ルーマンによれば、社会システム免疫機能を担う代表的なシステムは「闘争」である。その具体例は、論争や競争や紛争だ。その一方で、過度な闘争によって社会システムオートポイエーシス危機的状況に陥った場合には、法システム免疫機能を担うという。

ルーマンに倣い大別するならば、闘争が生じるのは二つの場合である。第一に、先行するコミュニケーション矛盾するコミュニケーションが生じた場合である。そして第二に、矛盾についてのコミュニケーションが生じた場合である。ここでいう「矛盾(contradiction)」とは、パラドックスではない。矛盾パラドックスは別物である。単純化して言えば、矛盾とは、両立不可能な命題が二項対立を引き起こしている状態を意味する。例えば「redは日本語である」という命題は、単に矛盾しているだけである。一方パラドックスには、矛盾性に加えて、無限後退のような循環性や自己言及性も帯びている。「この文は間違いである」となれば、矛盾のみならず、パラドックスも派生する。

ヘーゲルの弁証法との差異

この闘争の前提となる矛盾という概念は、ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルの弁証法で把握される「テーゼ」と「アンチテーゼ」の関係を描写しているように思えるかもしれない。実在は対立物との矛盾によって定義される。故にその実在を考察するには、対立物との関係を考慮しなければならない。それが弁証法的な方法だ。この点で言えば、矛盾に基づいて闘争を把握するルーマンの姿勢は、ヘーゲルのそれに一致しているかのように思える。しかしヘーゲルの弁証法進歩史観に基づいていることを背景として言えば、両者は全くの別物である。

念のために付言しておこう。ヘーゲル以前の哲学が観念論的に理想を追求し過ぎていたのに対して、ヘーゲルはより現実を直視しようとしていた。それは彼が生きた当時のプロイセンが弱小国であったという経緯と聊か関わってくる。それまでのドイツ観念論者たちは、固定的で、整合的で、観念的な存在として人間を描いてきた。だがヘーゲルの目に映ったのは、むしろ理性的ではない単なる伝統や慣習が蔓延している現実世界であった。それについてヘーゲルは、決して悲観視することなく、この現実の状態は途上なのだと解釈した。そこで彼が導入したのが、時間の経過と共に変異していく「歴史」の概念であった。基本的に彼は、人間の本質は「精神」の自由であると考えた。他者から阻害されずに独立することができるという点で、精神は自由だと彼は考えたのだ。ただし人間はこの本質を未だ達成していない。そこで彼が引き合いに出したのが、「歴史」なのである。ヘーゲルは、歴史とは精神が自由を達成していく過程なのだと言う。

ヘーゲルが言う場合の「歴史」とは、単なる時系列的な物語の編成を意味するのではない。それは近代に向かう社会の進歩や、あるいは近代を徹底する社会の進歩意味する。世界の歴史は自由の意識進歩であると考えるヘーゲルは、ドイツ観念論の完成を決定付けたとされる有名な弁証法によって、歴史の進展を記述した。つまりヘーゲルにとって歴史とは、「テーゼ」、「アンチテーゼ」、そしてこれら双方が止揚されることで成立する「ジンテーゼ」の三段階を経て発展していくのである。

ヘーゲルはこの弁証法を道徳に適用させることで歴史の進展を記述している。彼によれば道徳とは、個人の精神が達成すべきものなのではなく、むしろ国家によって達成されるべきものである。道徳は主観的だ。一方、国家が設定する法は客観的である。ヘーゲルはこの両者の統合体を「人倫」と名付けた。人倫もまた、テーゼアンチテーゼ、そしてジンテーゼの三段階で発展していく。人倫におけるテーゼに該当するのは「家族」である。一方アンチテーゼに該当するのは「市民社会」だ。そして両者が止揚された際のジンテーゼに該当するのが、「国家」である。ここでいう家族とは、共同体の最小単位だ。家族の各構成員は「愛情」によって結び付いている。しかし家族では、個人の独立性が阻害されてしまう。それ故に「自由」も見当たらない。そこで家族のアンチテーゼとして市民社会が登場する。市民社会は、個々人が自由意志で結び付いている状態だ。ここで愛情は、端的に否定される。代替的に、自由が得られる。しかしながら愛情を否定することには喪失感が伴う。それ故に「人間幸福」とは何なのかという疑念が生まれる。そこでこのテーゼとなる家族とアンチテーゼとなる「市民社会」を止揚したジンテーゼとして、国家が導入されることになる。

ヘーゲルにとって、国家は家族と市民社会矛盾した対立関係が止揚されることによって完成するものであった。彼は国家を市民社会や家族よりも高次元の絶対的な存在として解釈していた。こうして国家が完成すれば、人倫も達成されることになる。それ故もはや道徳を追求する必要もなくなる。個人の道徳の達成よりも国家の法律を重視する姿勢には、恐らくは、当時のプロイセンが弱々しい国であるが故に、周辺国の外圧に常に脅かされていたという歴史的な背景が絡んでくるのであろう。そうしたヘーゲルにとって、国家と市民社会差異は自明であった。彼は市民社会を「欲望の体系」と呼んでいる。それは、自己自身の目的を達成するために他人を利用する社会を意味する。こうした個々人の欲望が衝突している市民社会に対して、国家は個々人の利益と全体の利益が一致すると言う。この進歩史観を前提とすれば、近代とは目指すべき場所です。誰にとって目指すべき場所なのかと言えば、それは日本のように近代化に乗り遅れた国にとってだ。

テーゼアンチテーゼの関係は、ルーマンの言うように、矛盾した対立関係に他ならない。この点で言えば、ヘーゲルとルーマンの出発点は類似している。つまり両者の理論は共に「差異」から始まるのだ。しかし、ルーマンの言う意味矛盾した対立関係にある二つのシステムは、必ずしもジンテーゼへと止揚される訳ではない。対立する二つのシステムは、それぞれ偶発的に作動している。止揚される以前に闘争を取り止めてしまうこともあり得るだろう。双方が共倒れになる場合もあり得る。双方のシステムは、必ずしもジンテーゼに部類するシステムへと同一化される訳でもなければ、統合される訳でもない。差異差異のままである。

二項対立の形式としての矛盾

矛盾パラドックス差異を前提に言えば、闘争の発動には互いに否定し合う二つのコミュニケーションが必要になる。その否定は外部言及だ。よってその否定対象の限定にも期待意味形式が関与している。だが片方のシステムにのみ適用可能な意味形式では、相互に否定し合う関係を構成できない。故にこの結び付けに特化した意味形式が必要になる。

この要請に応じるのが、矛盾という意味形式なのである。例えばシステムAとシステムBが矛盾していることを指し示す意味αβがあるとしよう。この矛盾としての意味αβは、システムAが依拠する意味αとシステムBが依拠する意味βを二項対立関係として統合する「象徴」に他ならない。この意味αβは、システムAとシステムBの二項対立関係を構成する一方で、第三項を排除する。つまり矛盾には、排除されし第三項を細部として捨象する「一般化」の機能も帯びているのだ。

この意味αβは、したがって「システムAとシステムBの矛盾した関係」を現実性として顕在化させると同時に、それ以外の否定対象や肯定の余地を可能性として潜在化させる。この矛盾を指示する意味αβに依拠して自己言及を敢行するのが、システムAとシステムBにおける闘争という免疫システムなのである。

この場合の免疫システムは、あくまでシステムAに他ならない。だがこれに伴い、システムBもまた免疫システムとしての闘争を発動させる可能性が生じる。この理由は三つある。第一に、意味αβが構成されたことにより、システムBが意味αβに依拠することが可能になるためである。第二に、システムAの免疫システムとしての闘争が、システムBのオートポイエーシス危険に曝すからである。そして第三に、システムAに否定されることで、システムBが認知的な期待の契機となる期待外れの瞬間に立ち会うことになるからである。例えば一国の政治システム危機に直面すると、他国の政治システムに先制攻撃を仕掛けることがある。これも免疫システムとしての闘争である。すると、その先制攻撃を受けた政治システムも、危機的状況に立たされる。それは極端なまでに期待外れな状況であろう。その政治システムは、自己保全のために、免疫システムとしての闘争を発動させるだろう。こうして戦争が実現するのである。

意味論的に言えば、意味αβが構成されると、意味αと意味βは、互いに機能不全に陥る。何故なら意味αβが現実性として顕在化させているのは、意味αの現実性意味βの現実性が両立不可能であるという現実だからだ。意味αがある限り、意味βを選択することは負担である。それは、意味βに依拠するシステムBのオートポイエーシスが負担になるということだ。かくしてシステムBも、免疫システムを発動せざるを得なくなる。システムAが免疫システムを発動させ続ける限り、意味αβも構成され続ける。結果的に、システムAによる闘争システムBを巻き込むのである。

対立するシステムを考察する上で注意しなければならないのは、闘争とはシステム内での出来事だということだ。それぞれのシステム自己言及的なシステムである。確かにシステムAは、システムBと敵対しているだろう。システムBもまたシステムAに敵意を向けているのかもしれない。だが、システムAが認識するシステムBは、システムAの内的環境に位置付けられた<システムB>に過ぎない。システムBが認識するシステムAも、システムBの内的環境に位置付けられた<システムA>なのだ。実際に闘争する相手がいる場合にも、システムは<仮想敵>と闘うのである。

したがって矛盾という意味αβに依拠するシステムAは、内的環境を舞台として、<システムB>との矛盾した対立関係を構成する。システムBについても同様である。この動向により、双方のシステムは不安定化する。それはいずれか一方が自身の<仮想敵>との闘争に敗れてオートポイエーシスを瓦解させるまで続く。仮に双方が同時的に<同士討ち>となった場合も、その余波が残存する場合もあるだろう。例えば国家Aと国家Bの核戦争という闘争が双方の全滅という形で終結を迎えたとしても、その放射能汚染によって、他の国家も巻き添えとなる可能性もある。巻き添えとなった国家から観れば、それは外的要因による破壊であるかのように思える。しかしそういった場合でも、「社会」という包括的な社会システムの内的な出来事であるという点では変わりはない。システムはいずれにせよ、「外敵」と闘う訳ではないのである。

問題解決策:コミュニタスのリミナリティ

宗教システムオートポイエーシスが継続困難な状況に陥った場合、宗教システム免疫システムとしての闘争を発動させる。我々はこの免疫システムとしての闘争との兼ね合いから、信仰宗教の副次的な産物と成り下がってしまった儀式を再評価することになる。儀式は、宗教教義学が後継者として現われる以前から、否定性の制御を可能にしていた。矛盾闘争の状況を左右する。闘争矛盾したコミュニケーション矛盾についてのコミュニケーションとして生じるためだ。それ故に儀式は、宗教システムの内部に闘争を生み出す。

まさにこの宗教システム内部の闘争として例示できるのが、アルノルト・ファン・ヘネップやヴィクター・ターナーが着目した通過儀礼である。儀礼は俗なる内在の世界から聖なる超越の世界への移行を形式化させる。この移行の過渡期において、内在の世界と超越の世界の<境界>に達することになる。

しかし内在超越パラドックスを前提とすれば、儀礼のコミュニケーションであれ、超越の世界に到達することは不可能である。だがターナーに倣えば、通過儀礼は「死」や「殺害」などといった「否定的な隠喩」によって構成されていた。この「否定的な隠喩」は、<内在構成された超越>の内在性の否定を可能にする。

したがって、意味論的に言えば、「否定的な隠喩」はパラドックスの隠蔽技術形式なのである。加えて儀礼は、内在超越の<境界>を強調することによって、内在超越差異を曖昧化する。この<境界>は、内在の世界であると同時超越の世界でもある。故に実際には内在の世界に留まっていようとも、儀礼のコミュニケーション超越の世界に到達できたという錯覚を確保することができるようになる。つまり自身の位置する世界の内在性に徹底的に盲目的にさせてくれるのが、儀礼と言う形式なのだ。

リミナリティ

ターナーに倣えば、通過儀礼は、「死」や「殺害」などといった「否定的な隠喩」から形成されていた。この「否定的な隠喩」は、内在性を否定しているという点では、超越的である。だがそれは内在構成されている。丁度社会システム理論におけるシステムの外部言及が外部に言及している自己への言及であるように、内在世界で構成された超越的な「否定的な隠喩」で指示し得るのは、あくまで内在世界に限られるのだ。とはいえ、限りなく超越世界に接近することならばできる。つまり、内在世界と超越世界の<境界>を指示することならば、内在世界で構成された「否定的な隠喩」にも可能なのである。ターナーは、そうした抽象的な<境界>を「リミナリティ(Liminality)」と呼んでいる。それは双方の世界の間に位置するために、両義的で曖昧な状態にある。

通過儀礼の主体は、このリミナリティ超越性を隠喩として活用することで、超越性の指示を可能にしている。このことの伏線となるのが、アルノルト・ファン・ヘネップの文化人類学的な儀礼研究だ。ヘネップの報告によれば、通過儀礼は、人間が成長していく節々で新たな意味を付与するために機能する形式である。この形式は、まず儀礼の主体を内在的で日常的な現実世界から「分離(rites of separation)」するべく機能する。この「分離」の段階で観察されるのは、象徴の死だ。それは言い換えれば、儀礼の主体にとっての世界がその統合性を失うことを意味する。次いで、ターナーが言う意味でのリミナリティの境界面上に、内在世界の日常性と超越世界の非日常性を混成した「過渡(transition rites)」の状況が構成されることになる。この段階に達すると、「分離」の段階で破壊された象徴は限定されないまま留まることになる。儀礼の主体にとっての世界は統合性を失ったまま曖昧化する。そして最終的に儀礼の主体は、新たに内在的で日常的な現実世界へと「統合(rites of incorporation)」されていく。この段階になると、一旦破壊された象徴は、「再生」することになる。ただし、「分離」の段階で破壊された象徴それ自体がそれ自体として「再生」する訳ではない。この段階で再生するのは、象徴象徴でも、別のあり方でもあり得る象徴なのである。

コミュニタス

儀礼の主体から観れば、「分離」以前の社会システムと「統合」後の社会システムは、別様である。と言うのも、「過渡」直後に伴う「統合」が、往々にして不確定だからだ。それはターナーが述べているように、「過渡」の状況が「コミュニタス(Communitas)」のリミナリティを引き起こしているためである。コミュニタスとは、内在的な社会の構造や秩序が「断片」へと「分離」されることで構成される非日常的な領域を意味する。そこでは、階層的に分化した社会における上下関係が転覆することになる。言わば「無礼講」が許される「祭儀の場」となるのが、コミュニタスなのだ。

宗教的な教義で正統化されていた前近代の文化は、コミュニタスリミナリティを反復的に構成することによって、生活に意味を付与してきた。こうした宗教的なコミュニケーションは、個人が、個人と社会の間に生じる葛藤を体験せずに済ませるための形式となっている。ターナーが述べているように、とりわけ部族社会の加入儀礼や仏教の僧院生活においては、同一的な一日が数週間反復されることになる。そうした儀礼は、厳密に規定された時間に起床し、一定の時間に就寝する。彼らは毎日規定された時間に同じ熟練者から、部族伝承や歌唱や舞踊の指導を受ける。毎日が同一的な日常として反復されている。こうした反復を通じて、儀礼の主体はその反復を規則の如く自明化するようになる。ターナーが儀礼の象徴を<生理学的な現象>と<徳目と呼ばれる規範的な価値>に区別しているのは、この意味においてである。だが、ひとたびコミュニタスで儀礼的な活動のドラマが演じられると、欲望、意志、食欲に関連付いた生物学的な指し示しが顕在化すると共に、情動的な意味が規範的な指し示しに取って代わることになる。

コミュニタスの時間感覚

この儀礼という形式が如何にして闘争宗教的な形式となるのかを確認するためには、コミュニタスに対するターナーの視点が頼りになる。通常通過儀礼は、ある段階から次の段階への転換期に形式化される。ラテン語のritusに由来する儀礼には、もともと秩序化された行為という意味論が帯びていた。複合性偶発性が錯綜する社会においても、儀礼の形式に従うことによって、社会は秩序を保つことができていた。しかし、この儀礼を単なる右肩上がりの進歩史観に基づく発達段階論の一環として見立てる訳にはいかない。ターナーによれば、儀礼はコミュニタスの場である。コミュニタスは、それまでの社会的な地位に基づいた個々人の上下関係が逆転する無礼講の祭りとして機能する。法システムをはじめとした社会構造を以ってしても、リミナリティを発現させたコミュニタス制御することはできない。言わばコミュニタスとは、参加者を近代の社会構造との兼ね合いから脱社会化させる瞬間なのである。

伝統的にコミュニタスは、既存の社会構造との兼ね合いから儀礼の主体を脱社会化させると同時に、コミュニタスを駆使する新しい社会との兼ね合いから再社会化するために機能してきた。そうした再社会化は、反復によって果たされていた。ターナーが述べているように、とりわけ部族社会の加入儀礼や仏教の僧院生活においては、同一の「一日」が数週間反復されることになる。そうした儀礼は、厳密に規定された時間に起床し、一定の時間に就寝する。彼らは、毎日規定された時間に、同じ熟練者から、部族伝承や歌唱や舞踊の指導を受ける。毎日が同一的な日常として反復されている。こうした日常によって、儀礼の象徴が儀礼の主体の内面に徐々に刻印されていくことになるのである。

機能的等価物の探索:リミノイド

ターナーのこうしたコミュニタスリミナリティという宗教的な概念をそのまま現代の宗教コミュニケーションに適用するのは時代錯誤かもしれない。近代における宗教システムは、全体社会のサブシステムとして、機能的に分化している。前近代の宗教システムコミュニタスリミナリティを長期間反復的に維持し得たのは、宗教が中心化していたためだ。近代になると、宗教はその中心性を失う。選択肢は別のあり方でもあり得るようになる。だから、宗教システムのように内在超越区別することにも必然性が無い。儀礼の途中でリミナリティとは別様の主題を取り上げることもできるだろう。

とはいえターナーは、この時代錯誤を回避するための処方箋を用意している。彼は宗教的なリミナリティの現代版を説明するために、「リミノイド(liminoid)」という新概念を提唱しているのである。リミナリティ同様、リミノイドは<境界>を言い表す概念だ。ヘネップのタームに従えば、これらは「過渡」に相当する。しかし、リミナリティが前近代的な宗教における<境界>を意味するのに対して、リミノイドは産業化以降の近代的な宗教における疑似的な<境界>を意味する。リミナリティは、通過儀礼を介して、階層的に分化した社会において権威付けられた関係をコミュニタスにおいて逆転させるために機能していた。これに対してリミノイドの舞台となるのは、言わば社会の裂け目や表面である。社会システム理論的に言い換えれば、リミノイド近代社会の諸々のサブシステムとその外部環境区別する<境界>に接続されているのである。

つまり、リミノイド機能的に分化した社会を前提とする。故にリミノイドには、リミナリティのように、社会の中心として集団を動員するような機能は無い。このことは、リミノイドに対する参入離脱が義務ではなく任意とされることと無関係ではない。リミノイドが位置するのは、近代社会の私的で個人的な余暇の遊戯空間であるとされる。例えばスポーツ、ロック・ミュージック、ポップアート、ギャンブルゲームなどのような余暇は、リミノイド現象の典型的な「形式」に他ならない。

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