「時間」感覚の等価機能主義的な社会システム理論

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派生問題:コミュニケーションは如何にして可能になるのか

システム内外における情報の入出力を否定するルーマンの社会システム理論を採用した場合、一見して情報の送受信で成立しているかのように思える「コミュニケーション」という概念が逆にわかり難くなる。確かにルーマンは、「行為(handlung)」と「体験(erleben)」の区別を導入することによって、コミュニケーション概念を社会システム理論的に単純化して説明している。ルーマンによれば、システムの状態変化や選択がシステム自身に帰属される場合には、それが「行為」として意味付けられる。一方、システムの状態変化や選択が外部環境に帰属される場合には、それが「体験」として意味付けられる。この点で言えば、行為と体験差異自己言及と外部言及の差異に対応付けることができる。

行為と体験区別の前提となっているシステムの状態変化や選択は、瞬時に生成消滅する出来事に他ならない。この出来事が持続する概念として意味付与される際に、行為や体験としての帰属が生じる。ここでいうところの行為や体験は、「個人」の行為や体験であるとは限らない。それは集団の行為や体験であっても良ければ、組織の行為や体験であっても良いだろう。代表取締役の行為として帰属されていた企業の意思決定が後に当該組織それ自体の行為として再帰属されることは、間々ある。

この複雑に洗練化されたルーマンの社会システム理論の観点から観れば、行為や体験は、極めてありそうもない偶発的な社会的現象であると考えられる。確かに、何らかの「行為」によって、集団や社会に何かを「体験」させることは「可能」なのであろう。だがそれは「必然」ではない。全てが偶発的なのだ。

実際ルーマンの理論指し示しているのは、こうしたコミュニケーション一般が非常にありそうもない不確実な現象であるということなのである。しかしこの見解を受け入れた場合、他者と合意形成や共通了解を得るという社会的な営みが視えなくなる。ルーマンの論敵となった巨匠ユルゲン・ハーバーマスは、まさにこの論点から、ルーマンに論争を仕掛けた。

問題解決策:討議による合意形成の「回避」

初期ハーバーマスの「理想的な発話状況(ideal speech situation)」の理論によれば、人間の社会行為は二種類に大別できるという。それは「戦略的行為」と「コミュニケーション的行為」である。戦略的行為は、社会的に成功しようとする動機付けから生まれる行為だ。コミュニケーション的行為とは、人間同士の相互了解を達成しようとする動機付けから生まれる行為である。人間は皆、社会的に成功しようと欲している。そうした人間同士がコミュニケートした場合、貨幣、権力、地位、権威などをはじめとした外的な報酬によって、競争や弾圧が生み出されることになる。その結果として待ち受けているのは、強者と弱者、勝ち組と負け組、正常者と異常者、多数派と少数派などといった諸々の差異なのである。

しかし、我々はしばしば会話を通じた相互了解を達成することで、満足感や達成感を感じ取ることができている。外的な報酬を目指した戦略的な行為が支配的な社会を生きているにも拘らず、人間コミュニケーション的行為による言わば内的な報酬を目指すこともあり得るのである。

ハーバーマスによれば、戦略的行為よりもコミュニケーション的行為が重視されるのは、「理想的な発話状況」という不可避の目的を無意識的に追及しているためである。異なる動機付けに突き動かされている人間同士が話し合いことでわかり合うのは、現実的にありそうもない。だが話し合いわかり合うことを断念してしまっては、人間同士が相互に社会生活を営むことへの動機付けが、戦略的行為への動機付けに限定されてしまう。こうした事態を放置しておけば、弱者や負け組となった者たちの意味喪失状態やアノミー、あるいはアパシーのような問題が蔓延ってしまうことになる。それ故、こうした「理想」を不可避の目的として追求することによって、会話を通じたコミュニケーションに参画していくしかないのである。

理想的な発話状況の成立条件

ハーバーマスは、この「理想的な発話状況」を現実的にするための条件として、次の三つの要因を取り上げている。第一に、「真理性」だ。これは客観的な世界に照らし合わせた上での正確性を意味する。ここでいう真理とは、客観的に存在する世界に関する命題ではない。ハーバーマスが語る真理はいわゆる「対応説」的な真理ではなく、相互主観的なコミュニケーションによる合意形成を通じて決定される「合意説」的な真理なのである。これに加えて第二の条件となるのは、「規範的正当性」である。これは社会的な世界に照らし合わせた上での社交性を意味する。そして第三の条件となるのは、「誠実性」だ。この条件において重要となるのは、内発的な体験を通した上で、その発話が真に迫っていることである。

俗に言う「コミュニケーション能力」が高い人間をハーバーマスの理論で描写するならば、これら三つの条件をそれぞれ満たした上で発話することができる人間が<コミュニケーション能力が高い人間>だということになる。コミュニケーション能力は、「理想的な発話状況」を確立するために必要な構造に熟達していることを指し示す。ハーバーマスの考えによれば、たとえ相互了解における相互主観性がどれほど破綻していても、発話が意図的な嘘で覆われていたとしても、あらゆる発話は真理を指向するという。故に潜在的に可能とされる発話の構造には、「理想的な発話状況」を実現しようとする志向が必ず含意されているというのだ。これによりハーバーマスは、強制なき自由なコミュニケーションから生み出されるより高次の討議が、相互に了解し合う理性的な人間たちの合意形成を可能にすると共に、戦略的行為の帰結として生み出されるような不合意や葛藤に対する合理的な解決策を提示し得ると主張していたのである。

理性的な合意形成

ハーバーマスは、近代社会の共同体が「同一性の危機(identity crisis)」に直面しているという。共同体内部では、期待した通りのコミュニケーションが成立せずに矛盾が浮き彫りになっている。一方、複数の共同体が対外的に関係し合うようになったことで、共同体内部で自明視されていた既存の規範が相対化されてしまう。すると既存の価値は比較の観点となる。言わばそれは批判されるようになる。ハーバーマスは、この「差異」が溢れる状況を危機と観る。そして、この危機に太刀打ちするための<メタ・コミュニケーション>を「討議(Diskurs)」と呼んだ。「理想的な発話状況」とは、この討議において問題化した規範の妥当性に関する「合意(Konsensus)」を形成する上での基準に他ならない。

しかし論敵ルーマンの反論が物語るように、ハーバーマスは、普遍的な妥当性への要求を目指す主体を<理性的である>と妄信していた。だがフランス革命以後に生じたギロチン政治に象徴されるように、<理性的な主体たちの合意形成>が<理性的な合意形成>に結び付くとは限らない。<理性的な主体>たちであっても、非<理性的な合意>を生み出す可能性はある。更に言えば、<理性的な合意>を重視することについての<理性的な合意>も、実現していない。ルーマンの皮肉に満ちた批判を引用しておこう。

「理解することの深刻な問題や明確な誤解が生じている場合、社会システムは合意に到達する議論や理性的な討議の負担をしばしば回避する傾向にある――まさしくハーバーマスの悩みの種である」。
Luhmann, Niklas. (1990) Essays on self-reference, New York : Columbia University Press, p14.

このハーバーマスに対する批判は、次のような問題に関連する。すなわち、「意見の不一致」よりも「合意」が重視されなければならないことについて、全く「合意」が得られていないということだ。

<真の合意>と<偽の合意>の差異

確かに「理想的な発話状況」を考察する際のハーバーマスは、我々が<真の合意>と<偽の合意>を区別できるようになるためには、合意の基準に訴えざるを得ないと考えていた。し方形成された合意が<真の合意>ではない可能性があるとするなら、その合意形成についての合意を形成しなければならないのではないかという疑惑が浮上してしまう。元来「理想的な発話状況」とは、この<合意形成についての合意形成>という無限後退からの脱却の道として想定することもできるだろう。

もとより「理想的な発話状況」とは、コミュニケーション偶発的な外部要因によって阻害されないための仕組みだ。そして「理想的な発話状況」が理想的であるためには、この仕組みの構造それ自体が強制要因として働かないことが条件となる。それは一種の抗事実的に安定化した状況を指している。「理想的な発話状況」を舞台とした場合、コミュニケーション上の役割は原理的に交換可能だ。そうした役割を担う各人は、言動を選択して実践する機会を平等に獲得している。ハーバーマスは、こうした「理想的な発話状況」の上で成り立った合意は全て<真の合意>であると期待していたのである。

これは単なる理想論ではない。この理想が恰も現実的であるかのようであるからこそ、抗事実的に安定化しているのだ。ハーバーマスによれば、現実の討議に参加する主体たちは、コミュニケーションを開始する際に、「理想的な発話状況」を抗事実的な合意として既に形成しているという。そして、そうした合意が形成されていることが前提化していなければ、討議が成立しているという事実すら形成されないというのだ。したがって「理想的な発話状況」は、現実の討議における合意形成を先導する合意形成であるということになる。

しかし、現実的に理想は別のあり方でもあり得るだろう。例えば「戦略的行為」で外的な報酬を追求している者たちの立場に立つならば、「理想的な発話状況」に「合意」しなければならないという道理は無い。外的な報酬を目指すならば、「意見の不一致」は避けられない道となる。それ故、「戦略的行為」を犠牲にしてまで合意形成を重視するという意見に対しては、是非とも「不合意」を表明しておかなければならない。合意形成を目指す努力家たちは、皆その努力こそが不合意を生み出すという矛盾に陥っている。ハーバーマスは、このパラドックスに無頓着であったからこそ、他の異なる社会理論との比較によって、新しい了解達成パラダイムを喝破し得たのだ。

非強制的な了解達成の強制的なコミュニケーション

ハーバーマスの了解達成パラダイムそのものにも、パラドックスが潜んでいる。了解は、強制的ではない。それは事実上の合意を生み出す経験的な過程とは無縁とされる。それはあくまで、妥当な合意形成を目指すコミュニケーションである。妥当な合意形成において基盤となるのは、根拠付けによる動機付けだ。ハーバーマスは、こうした了解概念に倣うことで、偶発性に満ちている近代社会においても理性的に経由される合理性を獲得できると主張している。

しかしこの論考では、根拠付けが伴わないコミュニケーションを度外視することになる。根拠の無いコミュニケーションを度外視しなければならないということに、根拠は見当たらない。根拠付けが動機付けを担うというのならば、根拠の無いコミュニケーションを度外視することにも動機付けは伴わないはずだ。それ故、根拠付けを重視することに関する合意も形成されていないのである。確かに、了解は強制的ではない。だが、根拠付けが伴わないコミュニケーションを度外視してまで理性的な合意を形成しなければならないことについて、合意が形成されていないのだ。これに合意していない観察者から観れば、非強制的なコミュニケーションとして謡われているこの了解達成こそが、強制的に執行されているのである。

このように、「理想的な発話状況」を目指したハーバーマスの合意形成論や了解達成パラダイムに無限後退的なパラドックスを指摘するのは、容易である。

ルーマンは、単に根拠付けが為されずともコミュニケートできるなどという冷笑的な指摘を繰り返している訳ではない。無限後退論法を背景に彼が指摘するのは、<根拠付けの不必要性>という冷笑的な認識ではなく、<根拠付けの不可能性>という冷徹な現実である。この指摘は巨匠ハーバーマスや彼の理論に依拠するあらゆる後継者たちにとってスキャンダルであろう。合意形成に関する合意が形成されない以上、あらゆる合意形成は、別のあり方でもあり得る意見の持ち主を排除する。

とはいえ、合意形成に関する合意形成が必要となるならば、同じ理由で、合意形成に関する合意形成に関する合意形成も必要となるだろう。つまりは無限後退だ。それでも尚合意を形成したいのならば、こうした無限後退に対して、思考停止状態に陥らなければならない。したがって合意形成とは、より良き合意形成を断念した場合にのみ達成される。我々は、これ以上に良い合意について学ばない場合にのみ、合意を達成できるのである。

問題解決策:社会システムと心理システムの区別

ルーマンによれば、社会システム(Soziales System)は自己言及的なオートポイエティック・システムである。<システム自身>と<その外部環境>をシステム自身で区別せよ(Draw a Distinction)。社会は、この差異を自己自身で構成し続けることによって、「観察するシステム」としての「固有値」を得る。オートポイエーシスの諸要素はコミュニケーションに他ならない。言い換えれば、社会は<コミュニケーション>と<非コミュニケーション>の区別コミュニケーションによって導入し続けるシステムであると言える。

この社会システム構造上の前提にあるのは、もう一つの自己言及的なオートポイエティック・システムである心理システム(Psychischen System)との差異だ。ここでいう心理システムとは、人間の「意識」や「思考」を諸要素として関連付けている。心理システムは、「意識」や「思考」によって<意識>と<非意識>の区別や<思考>と<非思考>の区別を導入し続けるシステムであると言える。

この社会システム心理システム差異を前提とすれば、社会は人間から成り立っているのではない。人間は、少なからず心理システムに関して言えば、社会の外部環境に位置する。社会システムは、人間に「観察されるシステム」ではないが、人間を「観察するシステム」ではある。確かに人間社会システムに影響を与えることは可能だ。だが、社会システムがどのようにその影響を受けるのかは、社会システム自身が決定する。だから時には、人間社会システムの「蚊帳の外」となる場合もある。「いじめ」のようなコミュニケーションや「対岸の火事」を描写するマス・コミュニケーションは、このことのわかり易い好例であろう。

制御メディアのコミュニケーション形式

一方ハーバーマスは、コミュニケーション自己言及的な作動が人間を置き去りとしたまま突き進んでいくというルーマンの分析を、簡単には受け入れなかった。実際、こうした社会システムコミュニケーション心理システム思考区別する理論は、「理想的な発話状況」におけるコミュニケーション的行為を目指すハーバーマスにとって、不都合である。

元来、彼がこうした発話状況のモデルとして念頭に置いていたのは、精神療法における精神療法医と患者のコミュニケーションであった。精神療法が実施されている最中では、患者は自らの人格やアイデンティティに対して批判的かつ反省的な眼差しを送ることが可能になる。ハーバーマスによれば、この批判と反省が、システムによって強制されているコミュニケーションの「形式」を打ち破るというのだ。

だからハーバーマスは、ルーマンが説明する自己言及的なシステムとしてのコミュニケーションコミュニケーション的行為とは関係の無い<強制されたコミュニケーション>と見做すのである。仮にルーマンのこの見解が現実的であるとすれば、社会システムコミュニケーション的行為による了解達成に対する人間の志向を無視したまま作動していることになるからだ。

コミュニケーション的行為戦略的行為区別するハーバーマスは、更に貨幣や権力や技術などといった社会システム自己言及的な作動による構成物を「制御メディア」という否定的な用語で定義する。これらの制御メディアは、経済システムの市場と政治システムの行政を拡張させる。そしてこの拡張によって、社会システムコミュニケーション的行為討議の故郷へと侵食していく。それ故に人々は道具的で戦略的な行為を強いられる。その結果として人々は、コミュニケーション的行為が可能にしていた満足感や達成感を感じることができなくなってしまうという。

相互主観的コミュニケーションの言語行為論

ハーバーマスは、論敵ルーマンが指摘した社会システムコミュニケーション心理システム思考の乖離を橋渡しするために、意識と社会を包括する超主観的な言語構造を提唱する。その背景にあるのは、コミュニケーションが相互主観的であるという前提である。彼が言う相互主観的なコミュニケーションとは、言語的なコミュニケーションを可能とする生きた複数の主体が相互に意見や感情を表現することを意味する。

了解とはもとより、こうした表現を他者が受け入れることを前提としている。言語的なコミュニケーションが了解に達する時、合意形成としての真理が非強制的に実現することになるのである。しかしこの言語行為論は、言語の過大評価に依拠する理論だ。ハーバーマスが了解を論じる場合、言語能力と行為能力を持つ主体同士がある言語表現を同一視することを想定している。了解を目指す討議理性的な一体性を形成するという場合、その背景にあるのは、こうした言語構造なのである。

確かに了解志向のコミュニケーション的行為ならば、その発話や行為には相手に対する何らかの要求が含意されているだろう。要求の受け手は、「理想的な発話状況」の三つの条件に従うことで、その要求の妥当性を検証することができる。要求が妥当ならば「イエス」の対応を採り、妥当でなければ「ノー」の対応を採る。こうしたやり取りを繰り返していけば、いずれは相互了解にも到達するかもしれない。

しかし言語は、社会システムコミュニケーション心理システム思考同時内在させている訳ではあるまい。言語は確かに、相互了解のためのコミュニケーション能力を増大させる。だが言語は、同時否定可能性をも上昇させているのである。ルーマンも述べているように、言語は、「ノー」という発言の可能性を助長するだけではなく、「ノー」という発言を隠蔽する可能性も持つ。例えば社会システムコミュニケーション構成される「建前」は、心理システム思考内容を反映させた「本音」と乖離していると同時に、その乖離を隠蔽するべく機能している。

ハーバーマスが主張するように、主観的な世界に対する言明に意図を表明する「誠実性」が問われるというのならば、それはコミュニケーションに関与する人間思考内容を徹底的に検証することを余儀無くする。確かにハーバーマスが言語行為における思考内容を厳密に遡及していけば、幾分かの「虚言」や「芝居」などを発見することができるであろう。単なる表面的な合意形成も発見することも可能だ。しかしそれでは、コミュニケーションの継続があまりにも負担過剰になってしまう。「建前」は、誠実性の検証可能性を犠牲にする代わりに、コミュニケーションの安定化に貢献しているのである。コミュニケーションを円滑に継続させるには、むしろ人間思考内容に盲目的にならなければならない。

ハーバーマスが日常的なコミュニケーション的行為で必要となる意味の明確性や確実性を産み出すことを目指すというのならば、もはや言語行為だけでは不十分だということを認めざるを得ない。たとえ理性的な合意形成が達成されたとしても、その合意の意思表示が嘘か真かを判定するには、その後の<合意形成というコミュニケーション>についてのコミュニケーション観察していくしかない。コミュニケーションにおける言語の発話者の思考内容を検証するには、別のコミュニケーションが必要になる。コミュニケーションを検証しなければならないとすれば、コミュニケーションの検証についてのコミュニケーションも検証していかなければならない。これもまた無限後退だ。それ故に言語的なコミュニケーションは、このパラドックスを無害化する技術を必要としているのである。

問題解決策:パラドックスの隠蔽技術形式としての「意味」

ルーマンが論じる「意味(Sinn)」は、まさにこのパラドックスを無害化する機能を引き受けている。例えばある観察者がAを認識したとしよう。この場合、その観察者はまずAを定義しなければならない。図式的に言えば、Aを定義するには、非Aとの差異を明確にしておく必要がある。どの範囲までがAであるのかを特定しなければならない。だがそのためには、非Aを事前に定義しておかなければならなくなる。非Aを定義するには、非・非Aとの差異を明確にしておく必要がある。非・非Aとは、つまりAである。Aを定義するには非Aを定義しなければならない。一方、非Aを定義するにはAを定義しなければならない。故にAの定義は再帰的な反復を生む。これは観察者を無限後退に陥れるパラドックスである。

観察者は不可避的に無限後退パラドックスに陥る。しかし、現実的に我々は対象を定義した上で、それを分析することが可能になっている。ルーマンは、この無限後退の処理が如何にして可能になっているのかを「意味」という概念から模索した。それによれば、「意味」は、この無限後退を一挙に成し遂げることを可能にしている。「意味」によってAを指し示している観察者は、非A全体を同時指し示しているのだ。

注意しなければならないのは、非AがAを除いた世界全体であるということである。故にAと非Aの総和が世界全体となる。Aを指し示す者は、でもない限り、この世界の何処かに存在している。その者はAか非Aのいずれかに位置する。Aに対する指示は、Aを指し示すと同時に、Aを含めた世界全体を指し示しているのである。

世界の一部である観察者がAを指し示す時、その指示は、世界の一部から世界の全体への指示だということになる。故にその指示は世界の自己言及である。とはいえ、この自己言及もまたパラドクシカルである。世界が自己に言及するには、非世界を事前に定義しておかなければならない。非世界を定義するためには、世界を定義しなければならない。世界が自己に言及しようとすれば、世界そのものが無限後退パラドックスに陥る。

我々が実際に対象の分析を可能にしているということは、我々が対象を定義する際に陥るパラドックスや世界そのもののパラドックスが無害化されているということである。我々が通常このパラドックスに気付いていないところを見るに、どうやらこのパラドックスは隠蔽されているらしい。

脱パラドックス化の形式

ルーマンは、このパラドックスの隠蔽と無害化を「脱パラドックス化(deparadoxize)」という用語で表現している。そして彼は、こうしたパラドックスの隠蔽と指し示し同時に可能にする概念として、「意味(Sinn)」を理論的に記述した。彼の「意味」の理論は、いわゆる記号論的な「意味(Bedeutung)」とは明確に区別されている。「シニフィアン(signifiant)」が「シニフィエ(signifie)」を指し示す場合、シニフィアンは、自己に言及しない。シニフィアンは、あくまで自己自身を潜在化させる一方で、シニフィエを顕在化させている。故にシニフィアンには、上述した世界全体の無限後退を成し遂げられない。記号には、脱パラドックス化機能は無い。

これに対してルーマンの理論においては、「意味」がこの脱パラドックス化を担っている。Aの意味αが構成されると、その意味αはAと非Aの「差異」を構成する。差異構成するということは、その差異区別される双方を同時構成するということである。例えば意味αは、「Aであること」を明示すると同時に、「非Aではないこと」や「Bではないこと」や「Cではないこと」などを暗示している。つまり意味αは、明示対象であるAと暗示対象である非Aの双方を構成することによって、その総和と等しい世界全体を構成している。もとより「意味」もまた世界全体の一部に他ならない。故にこの構成は、「意味」の自己言及を言い表す。

現実性と可能性の差異

ルーマンは、様相論理学を援用しながら、特にこの明示対象と暗示対象の差異を顕在的な「現実性(Aktualität)」と潜在的な「可能性(Möglichkeit)」の差異として説明している。例えば意味αならば、Aを現実性として顕在化させると同時に、非Aを可能性として潜在化させているのである。この現実性可能性差異に倣えば、我々は対象を定義することが可能になる。Aを定義する者は、Aに意味を付与することによって、無限後退を一挙に果たすことができる。故にパラドックスは一時的に回避される。「意味」は無限後退を一挙に片付けてくれる。そのため観察者は、「意味」に依拠することで、無限後退パラドックスから脱却することができる。

しかしながら、実を言えば、意味αが同時的に構成するAと非Aの総和は、世界全体ではない。何故なら、この世界に意味αがあるということは、非・意味αもあるということだからだ。意味αが構成するAと非Aの総和だけが世界なのではない。Aと非Aの総和の他にも、世界はある。だとすれば、意味αを付与することで無限後退パラドックスを回避した者は、いずれにしても別のパラドックスに陥ることになる。すなわち、意味αの定義と非・意味αの定義を巡る再帰的な反復による無限後退パラドックスである。

しかし、「意味」にパラドックスを隠蔽する機能があるのは、間違いない。たとえそれが偽りの全体だとしても、意味αがAと非Aの双方を同時に世界として構成した瞬間においては、無限後退パラドックスは生じていない。それ故、意味αを付与した者がパラドックスに陥ったのならば、別の意味βを付与することによって、そのパラドックスを再び隠蔽することができるのである。

我々がパラドックスに注意を払わずにいられるのは、絶えず新たな意味を付与し続けているためである。「意味」という概念は、この点でも有用だ。何しろルーマンが記述している「意味」の概念には、形式的で操作概念的な性質が帯びている。それと同時に、彼が語る「意味」は普遍的な概念でもある。それと言うのも、「意味が無い対象」があり得ないからだ。試しに「有意味」と「無意味」を区別してみよう。有意味には、「意味が有る」という意味が有る。一方無意味には、「意味が無い」という意味が有る。意味の有無で区別された双方は、意味が有るという意味で、同一なのだ。したがって、意味が無いものは無い。あらゆるものに意味が有る。

あらゆるものに意味が有るというのは、決して過言ではない。実際社会システム理論では、先述した社会システム心理システムが、「意味」という自己言及的なシステムコミュニケーション意識思考に特化したシステムとして記述されている。逆に言えば、社会システム心理システムを汎化したシステムが「意味」を構成するシステムであるということになる。

意味」とは、偽りの全体像を提示する。もう少し慎重な言葉遣いで言い直せば、「意味」は世界の全体に関する代理表象として機能する。そして社会システム心理システムは、共に「意味」を構成するシステムの一種とされる。ソフトウェア・エンジニアやアーキテクトにも想像が付き易い言い方をするなら、「意味」を構成するシステムコミュニケーションに特化させたのが社会システムで、思考意識に特化させたのが心理システムである。逆に言えば、社会システム心理システムは「意味」を構成するシステムに汎化することが可能だ。

これを前提に言えば、先ほど導入した「建前」と「本音」の区別も有意味になってくる。社会システムには、コミュニケーションを「建前」として構成し続けることによって、コミュニケーションを顕在的な現実として指し示す一方で、人間の「本音」などのような内容を潜在的な可能性として隠蔽することができる。これは、ハーバーマスのコミュニケーション理論からは得られない発見だ。

複合性の縮減

ルーマンによれば、コミュニケーション思考意識を含めたあらゆる出来事は「複合性の縮減(Reduktion der Komplexität)」を介して生起している。偶発性に曝された状況では、可能な選択肢が世界で無数に遍在している。例えば自己言及的なシステムが存続するためには、自己言及に結び付く選択肢のみを選択するように、膨大な選択肢を予め限定しておかなければならない。ルーマンによれば、こうした限定として機能するのが、複合性の縮減なのである。

社会システム心理システムは、出来事を要素とするシステムだ。オートポイエーシス的なシステムは、出来事から出来事構成していることになる。ただしこれらのシステムは、決して出来事を一つずつ構成している訳ではない。システムは、様々な出来事を関連付けることによって、有意味コミュニケーション思考構成しているのである。したがって、システムオートポイエーシス的に出来事構成するということは、複数の出来事の関係を構成しているということになる。システムは、出来事という諸要素を構成すると同時に、諸要素の関係をも構成しているのである。

この関連からルーマンは、「複合性(Komplexität)」を<システムの諸要素>と<諸要素の関係>の差異から考察している。それによれば、複合性が増大するのは、<システムの諸要素>が複数化する場合である。<システムの諸要素>が無数に遍在するようになれば、その関連付けもまた別のあり方でもあり得るようになる。つまり<システムの諸要素>の複数化は、可能な<諸要素の関係>の複数化を招く。<システムの諸要素>が膨大になれば、あらゆる諸要素をあらゆる諸要素と関連付けることは不可能に近付いていく。システムがこうした状況で諸要素の関係を構成するには、ありとあらゆる全ての諸要素を関連付けることを断念しなければならない。つまりシステムが作動するには、<関連付ける諸要素>と<関連付けない諸要素>を区別する必要があるのだ。

<関連付けられない諸要素>は、もはやシステム内の諸要素ではなくなる。それはシステムから外部環境へと排出された排斥物だ。こうして余分な諸要素を外部環境へと排除することによって、システムは<関連付ける諸要素>に集中することができる。システムは、こうして<システムの諸要素>の複数性を抑えることで、<諸要素の関係>の偶発性を低めることができる。この<関連付ける諸要素>の選択が、システムによる複合性の縮減を可能にするのである。

複合性の縮減と複合性の保存

ルーマンは、「意味」による複合性の縮減が、異質な形式で進むと考えていた。「意味」の機能は、複合性を縮減すると同時に、複合性を保存することだという。

そもそも「意味」は、世界が陥る無限後退パラドックスを隠蔽する技術形式として動員されている。Aの意味αが構成されると、その意味αはAと非Aの差異構成する。差異構成するということは、差異化される双方を同時構成するということだ。故に意味αは、Aと非Aを同時構成する。例えば意味αは、「Aであること」を構成すると同時に、「Bではないこと」、「Cではないこと」、「Dではないこと」などを暗示している。つまり意味αは、Aを顕在的に現実化すると同時に、諸々の非Aを潜在的な可能性として暗示している。意味αを付与する観察者は、Aと非Aの総和としての<世界>を指し示すことで、世界全体へのパラドクシカルな無限後退を一挙に果たすことができる。

意味αがAを現実化する場合も、やはり複合性の縮減が伴っている。意味αがAを現実化させることには、何ら必然性が無い。Bを現実化させることも、Cを現実化させることも、Dを現実化させることも、可能であったはずだ。こうした可能な選択肢をAの現実化という選択肢へと限定することで、意味αはAを現実化させているのである。したがって、「意味」は複合性を縮減することで顕在的な現実性構成している。

一方、これと同時意味αは、非Aを潜在的な可能性として暗示している。この非Aには、B、C、Dなど、数多の選択肢が含意されている。非Aとして暗示されている対象は、Aとして顕示されている対象に比べて、複雑(複合的)なのである。したがって、「意味」が潜在的な可能性を暗示する場合、複合性が縮減されているとは言えない。

つまり意味αがAと非Aを同時構成するということは、比較複合性が縮減されたことで生起しているAを顕示すると同時に、比較複合性が縮減されていない非Aを暗示するのである。言い換えれば意味αは、Aを生起させるための複合性の縮減を実行すると同時に、非Aとなり得るBやCやDなどの複合性をそのまま保持しているのである。だから意味機能は、複合性の縮減複合性の保存を同時に実行することなのだ。

複合性の落差としての「差異」

この「意味」の機能を前提とすれば、「意味」を構成するシステム差異構成するというのは、複合性の落差を構成することに等しい。つまり意味αは、Aという縮減済みの複合性と非Aという保存済みの複合性同時に提示するのである。

これを前提とすれば、意味αに依拠するシステムAは、外的環境複合性を縮減することで作動する。システムAは、<システムA>という縮減済みの複合性と<内的環境>という保存済みの複合性同時構成することになる。システムは、外的環境複合性を縮減する一方で、<内的環境>には徐々に多大な複合性を保存していくことになる。言い換えれば、システムは外部の複合性を縮減すると共に、内部の複合性を増大させていく。

故に作動を継続させているシステムの諸要素とその関係は、もはやシステム自身でも把握し切れないまでに複雑となる。こうなれば自己言及の対象を決定することそのものが負担になってしまう。そのためシステムは、システム自身の複合性を縮減するという課題に直面する。しかしそれは、システム自身の内部に複合性の落差を生み出すということである。それは、言い換えれば、システムの内部に差異をもたらすということでもある。それ故に、複合性自己言及的な縮減はシステムの「分化(Differenzierung)」を派生させるのである。

問題解決策:社会システムの機能的分化構造

パラドックスの隠蔽技術形式としての意味は、単にパラドックス化脱パラドックス化言葉遊びとして記述されている訳ではない。後述するように、ルーマンの意味論は、社会構造との関連から記述されている。

「多くの場合、パラドックスを脱パラドックス化する形式は、社会的な受容性に左右される。そして、そうした条件は、社会における社会システムの変異によって変化する。これらの条件は社会構造に依存している。そしてそれ故に、これらの条件は歴史的な条件となる。」
Luhmann, Niklas. (1988). The third question: the creative use of paradoxes in law and legal history. Journal of Law and Society, 15(2), 153-165., p.154より。

ルーマンによれば、社会システムは「機能的に分化した社会(der funktional differenzierten Gesellschaft)」として区別される。機能的に分化した社会とは、一種の社会構造である。それは、経済システム、学問システム、政治システム法システム教育システム、家族システム医療システム芸術システム宗教システムマスメディア・システムなど、それぞれの機能に特化したサブシステムへと分化した「近代社会(Die moderne Gesellschaft)」に他ならない。これは、近代化に伴い、社会システムが直面した問題があまりにも複合的で複雑化したことに起因する。特定の問題設定に対する問題解決策を提示するサブシステムへと分化することによって、それぞれの問題設定を前提とした機能に注力できるように構造化されたのだ。

近代社会機能的な分化という社会構造を前提にすれば、理性的な合意による一体感を重視するハーバーマスは更に不利な立場に立たされる。近代社会は中心や頂点を喪失させた社会である。社会システム心理システムの同一化以前に、まず諸々の機能的なサブシステムの同一化すら不可能になるのだ。

しかしハーバーマスも、こうした同一化を断念していた訳ではなかった。彼は、制御メディアには否定的な立場を表明していたが、マスメディアに関しては部分肯定していた。ハーバーマスによれば、マスメディアは「公共圏(Öffentlichkeit)」における相互主観性拡張させる。そして、機能的に分化した近代社会でも尚、マス・コミュニケーションは共通意識を形成するという。

ここでいう公共圏とは、了解志向のコミュニケーションが成立する場を意味する。そしてここでいう共通意識は、主題や意見に基づいて分類され、集積される集合的な意識だ。この共通意識マスメディアを介して明示化されると、それ自体が他の公共圏に対して公的に開かれた公共圏を実現することが可能になる。社会には、ローカルな公共圏、グローバルな公共圏、文学的公共圏、科学的公共圏、あるいは政治的公共圏など、様々な公共圏のネットワークが形成されるというのだ。ハーバーマスは、こうしたネットワークの部分に位置するそれぞれの公共圏が包括的に交差することによって、社会の全体を把握する集団的な一体感が形成されると主張する。それにより社会全体は、社会それ自体を知ることが可能になるという。

だがハーバーマスは、やはり理性的な合意形成に夢中になっていたようだ。だからこそハーバーマスは、マス・コミュニケーションに通じる公衆の公共圏啓蒙主義時代の出版ジャーナリズムに到底追いついていないという事態に、アレルギー反応を起こしてしまうのである。

ハーバーマスの批判の矛先は、放送をはじめとするマスメディアの権威主義的で中央集権的な序列に向けられる。これに対してハーバーマスは、次のような区別を設定することで、処方箋を講じていた。それは出版や新聞をはじめとした制御メディア形式的なコミュニケーション・メディア区別である。前者は、公共の場における合理的な対話から理性的な合意形成を志向しつつ、その内容を伝達するメディアである。後者のメディアは、市民の理性的な合意形成を制度的に補強するのではなく、形式的なコミュニケーション構成するコミュニケーション・メディアである。ハーバーマスは、この後者のメディア合意を等閑視する制御メディアであるが故に、世論として認める訳にはいかないのだという。

しかしメディアや世論の全体が合意形成の信者である必要は、全く無い。合意形成の信者になることへの合意が形成されていない以上、「意見の不一致」はいずれにせよ伴うであろう。だから合意形成信者たちは現実に落胆する。そうなれば、もはや現存する世論は「意見の不一致」が避けられない不安定な社会を嘆くための要員でしかなくなってしまうだろう。

問題解決策:主題の貯蔵としての文化

機能的に分化した近代社会に対するハーバーマスとルーマンの「意見の不一致」は、近代社会の諸文化主題とした場合にも顕著になっている。ハーバーマスは、尚も合理的な合意形成を目指した合理的なコミュニケーション的行為によって文化を把握しようとする。これに対しルーマンは、「意見の不一致」が伴っても尚存続可能な文化概念を意味論の観点から提供している。だがハーバーマスは、このルーマンの形式主義的な意味論近代社会文化的な価値を一掃するほどの極端な理論であると批判する。しかしながらハーバーマスの文化論では、例えば対抗文化やサブカルチャーのような既成の文化とは相容れない別様の文化を十分に説明することができない。

ルーマンによれば、コミュニケーションについてのコミュニケーションという自己言及機能的に方向付けてくれるのは、「主題(Themen)」と「貢献(Beitragen)」の差異である。あるコミュニケーション主題は、そのコミュニケーションが特定の貢献として成立するべく、そのコミュニケーションの連関を方向付けている。例えば「マスメディアの偏向報道」が議題として主題化すれば、コミュニケーションはその主題に対する意見提示へと方向付けられるだろう。無論それは、合意形成へと方向付けられている訳ではない。主題に該当するならば、意見を対立させても構わないのである。芸能人が「嫌なら観るな」と主張するのも、「マスメディアの偏向報道」が主題化しているためなのだ。

この主題貢献意味論に倣えば、コミュニケーションの継続を可能にする上で、合意形成が必須となることはあり得ない。「意見の不一致」が伴おうとも、主題さえ冗長的に指し示されていれば構わないのだ。そしてこの主題の冗長化を可能にしているのは、「文化(Kultur)」である。ルーマンはこの関連から、文化を「主題の貯蔵」として把握している。そして、そうした主題の貯蔵がとりわけコミュニケーションのために保管されている場合に、それを「意味論(Semantik)」と呼んでいた。

意味処理規則としての意味論

意味論は、主題の貯蔵であると同時に、意味処理規則の貯蔵でもある。それは、未知なる不確定な対象に「意味」を付与する際の規則を提供する。意味論に依拠する社会システムは、そうした対象を解釈することができる。未知なる不確定な対象は、既知の類型的なパターンによる秩序付けや習熟されている主題に喩える隠喩を利用することで処理される。こうした諸形式の総体が、意味論なのである。

あるシステムから観て重要で保持する価値のある意味論は、そのシステムにおける文化の一部となる。文化はこうして複数の主題や複数の意味処理規則を貯蓄していく。飽きられ忘れ去られている主題でもない限り、そうした主題の一つ一つはそれぞれコミュニケーション貢献を方向付けていく。より多くの主題を貯蔵している文化の中には、それだけコミュニケーション貢献を方向付ける条件を増加させている文化もあろう。より多くの意味処理規則を貯蔵している意味論は、未知なる不確定な対象に対応する選択肢を増やしてくれる。フロイト派の文化論者たちが気に掛けるように、仮に我々が文化から抑圧や強制を感じるとすれば、それは大方こうした文化による方向付けや規則化が心理システムの趣旨に適合しない場合なのである。

文化と規範の差異

こうしたルーマンの形式的な文化概念は、パーソンズの文化概念を彷彿とさせる。パーソンズの有名な定義によれば、文化は様々にある有意味象徴が一定のコードに従って形成されるシステムと、象徴の有意味性に直結する行為から成り立つ。文化は我々が価値を選択する場合の基準を提供する。パーソンズによれば、社会構造は内面化され制度化された規範的な文化の様々なパターンから成り立つ。

この場合の「規範」という概念は、全く以って形式的な意味での規範である。ルーマンが定義する文化は、パーソンズ流の文化概念と同じように、規範的な意味内容」を有している訳ではない。文化が貯蓄している主題は、規範的に肯定される貢献のみならず、規範的に否定される貢献をも形式的に受容している。文化には別段、皆が一律に従事しなければならない規範内容など無い。文化を前提にコミュニケートする者たちは、相互主観的に意見を一致させなくても構わない。文化は、特定の主題についてのコミュニケーションをあるべき合意形成へと導く訳ではない。

また文化は、文化が提供する主題についてのコミュニケーションがあるべき合意へと達しなくても、存続することができる。例えば「アイドルブーム」という主題を貯蓄した文化が「アイドルブーム」そのものに対する否定的な貢献となるコミュニケーション形式化しても、「アイドルブーム」の文化そのものは存続し得るのである。無数に遍在する複数の文化のうち、どの文化が生き残るのかは、全く以って不確定だ。それは進化論的な展望による長期的な観察を以ってしか明らかにはならない。

「この関連性は、意味として生起し、成功した意味の多様性と文化的な選択によって進化していくであろう。この意味の進化は、複合性の増大へと帰結するように観える」。
Luhmann, Niklas. (1990) Essays on self-reference, New York : Columbia University Press, p84.

論敵ハーバーマスは、進化論的な展望に委ねられるルーマンの形式主義的な意味論が、文化的な価値を一掃するほど極端な理論であると批判した。ハーバーマスから観れば、ルーマンの理論では、文化的な再生産に希望を見出すことができなかったのである。ルーマンが「主題の貯蔵」として文化を定義するのに対して、ハーバーマスは「知識の貯蔵」として文化を定義した。それは専門組織文化理性的な日常実践の文化を架橋するコミュニケーション的行為の「合理性」を重視した文化論だ。しかし、合意形成を主軸とする彼の文化論では、例えば麻薬文化ギャンブル文化などのように、専門組織文化からも理性的な日常実践の文化からも逸脱した文化を捉えることができなくなる。対抗文化やサブカルチャーは、巨匠ハーバーマスの盲点として伴っていたのだ。

システムと生活世界の差異

ルーマンの社会システム理論によって追い詰められたハーバーマスがコミュニケーション的行為を「救済」するために望みを託したのは、「システム」と「生活世界(Lebenswelt)」の区別であった。

人間が長らく生活世界に安住してきたのは、外部環境の不確定性に対処する負担を軽減するためだ。人間は、コミュニケーション的行為を通じて外部環境知覚することで、人間的な負担を軽減してきた。人間が伝達する音の中には、一方ではフィードバックされるものもあれば、他方では無に帰するものもある。この音のフィルタリングは、やがて少しずつコミュニケーション構造形式化させてきたのである。

ところが、ハーバーマスの主張によれば、人間が築き上げてきた生活世界は、システムによる植民地と化している。ハーバーマスは、メディア的な世界、権力的な世界、道具的な世界、そして戦略的な世界を「システム」として定義する。一方「生活世界」は、心優しき了解を目指した人々の触れ合いの場である。それは、人々が連帯や合意を目指す領域だ。システム生活世界は、互いに異なる合理化過程で発達してきた。システムが準拠するのは、目的合理的な行為だ。生活世界は、コミュニケーション的行為に基づく。両者は異なる合理化過程で形式化されているために、決して弁証法的に止揚されることはない。

もとより生活世界では、専らコミュニケーション的行為に着手する人間たちが、批判可能な妥当性の要求に対して賛否の態度を選択することによってのみ、了解を達成することが可能だと考えられている。このように想定することで、生活世界は「意見の不一致」に伴う危険を防いでいるというのだ。ハーバーマスによれば、了解は行為の調整メカニズムである。文化の再生産、社会的な統合、そして社会化機能を果たす生活領域に位置付けされる了解の概念は、コミュニケーション的な技術によって拡張される。無論この了解概念は、組織によって媒介されることもある。組織によって合理化されることもあるだろう。しかしハーバーマスは、了解概念を制御媒介で置換することは不可能であると断言する。故に了解概念が技術化される可能性についても、ハーバーマスは否定することになる。

システムによる生活世界の植民地化

言語行為論を敢行するハーバーマスは、ルーマンが既に「システムによる生活世界の植民地化」を既成事実として容認していると非難する。それ故ハーバーマスは、制御メディア貨幣や権力に限定した上で生活世界に定着させることが、現実世界の制度的な問題であると主張する。ハーバーマスから観れば、制御メディアに可能なのは物質的な再生産に制約されている。制御メディアを了解による行為調整メカニズムの機能的等価物として強引に採用すれば、意味喪失状態をはじめとした社会病理を招き兼ねないと危惧する訳だ。

この関連からハーバーマスは、更にルーマンが依拠するシステム理論そのものが生活世界を等閑視する理論であると批判する。ハーバーマスによれば、システム理論は<生活世界を含めた社会的な統合>と<システムにおける統合>を機能的に等価なものとして描いてしまう。それ故システム理論は、社会システムにおける複雑性の増大が生活世界の犠牲によって可能になっているという点に、盲目的なのだと言う。

機能的に分化した各サブシステムは、それぞれの価値に基づいて、自律的に無数の社会的な現実を構成する。だがハーバーマスから観れば、それは生活世界の合理化を前提とした上で成り立っているのである。そしてこの植民地化は、文化の再生産を阻害することになる。結果としてそれは、意味喪失状態の引き金となるというのだ。

専門組織と日常生活の理性的な実践

ハーバーマスが主張するように、仮に生活世界コミュニケーション的行為システムを支えているのだとすれば、相互了解に意味を見出した人間が、社会の構成員として重要な位置を占めていることになる。

しかし、ルーマンが記述する現実は、これとは全く逆の事態なのだ。生活世界システム区別を使用した場合、生活世界コミュニケーションも、システムコミュニケーションも、「意味」を付与する人間とは無関係にその作動を遂行していく。人間思考内容の検証とコミュニケーションを両立すれば、コミュニケーションの負担が増大してしまう。この社会的な現実を突き付けるルーマンのシステム理論に依拠してしまっては、ハーバーマスが美化する生活世界コミュニケーション的行為をありそうもないものと見做してしまう。

生活世界を純粋無垢なる領域として擁護したければ、社会のコミュニケーションコミュニケーション的行為意味を見出す人間とは無関係に作動してしまうことの責任を「システム」に「擦り付け」なければならない。そしてそれだけではなく、生活世界コミュニケーション的行為人間思考内容とは無関係に実行されてしまう可能性を指摘するシステム理論そのものを、生活世界から斥ける必要がある。

理性批判者という「容疑」

それ故ハーバーマスが生活世界を擁護するために排除したのは、システムだけではない。ルーマンのシステム理論もまた、生活世界から締め出されることになる。ハーバーマスが擁護する生活世界とルーマンのシステム理論が相容れない関係にあるのは、彼のシステム理論が、生活世界理性的な日常生活の理性的な実践に意味がありそうもないという社会的な現実を事も無げに解き明かすためなのである。日常生活の理性的な実践に意味が無いことを知った者は、それとは別様にもあり得る<脱日常的な理性批判>への動機を強めてしまう。これではコミュニケーション的行為の魅力が損なわれる。だからこそハーバーマスは、理性批判者フリードリッヒ・ニーチェの後継者としてのルーマン像を描き、ルーマン理論を批判するのである。

実際、ハーバーマスが日常生活の理性的な実践との兼ね合いから描写していた文化的近代は、偶然にしては出来過ぎているほどに、ルーマン理論とは相容れない形となっている。ハーバーマスからすれば、近代化と共に拡張された知の体系を担う科学・学問システムにおける専門組織文化生活世界で受容されるためには、日常生活の理性的な実践における文化との接点を強調していかなければならない。

知の生産とその吟味を担う専門組織文化は、確かにコミュニケーションに支えられている。ハーバーマスによれば、それらのコミュニケーションは、知の類型と合理性の契機を分化させていくのである。専門組織文化が知の類型を分化させていくのならば、日常生活の理性的な実践は、知の妥当性を検証する反省的なコミュニケーションとなる。専門組織文化合理性の契機を分化させていくならば、日常生活の理性的な実践におけるコミュニケーションは、妥当な知を行為に適用させる言語行為の形式となる。

コミュニケーション的行為の合理性

ハーバーマスによれば、専門組織文化と日常生活の理性的な実践の文化を架橋するところに、「コミュニケーション的合理性(Kommunikative Rationalität)」が成立する。コミュニケーション的合理性とは、相互主観的な了解と承認を志向する理性だ。この理性は、初めからコミュニケーション的行為の関連と生活世界構造の中に肉体化していた理性である。

コミュニケーション的合理性が生じるためには、文化的な生活における自明な事柄、直観的に把握できる集団的な連帯感、そしてこうした自明性や連帯感をノウハウ(know-how)として包括している社会化された個人の能力が必要となる。コミュニケーション的合理性が相互主観的な結合力を可能にするために兼ね備えているのは、言語行為の状況ごとに特化した生活世界の「資源」である。ここでいう資源は、妥当性要求における知識の貯蔵としての文化人間関係や連帯感を生み出す正統に秩序付けられた社会、そして相互了解過程で同一性を確保する能力を兼ね備えた人格意味する。

コミュニケーション的合理性は、その資源に準拠した上で、合理性の査定を可能にするという。ハーバーマスのように、知識がコミュニケーションによって媒介されていると考えるならば、合理性を査定することになるのは、責任能力を持つと共に、相互主観的な承認を志向した妥当性要求に準拠する能力を持つ相互行為の関与者たちになる。コミュニケーション的合理性は、この査定水準を命題の真理性、規範的正当性、誠実性、そして美的な調和を直接的あるいは間接的に論証するその手続きに求めるという。こうして査定されるコミュニケーション的な合理性は、強制なき自由な合意形成の力を兼ね備えている。ハーバーマスによれば、この合理性を前提とした会話に参加する関与者たちは、もともと主観に囚われていた意見を合意形成へと合理的に動機付けられるために克服していくという。

しかしながらコミュニケーション的合理性は、近代化の過程から、発展すると同時に捻じ曲げられることになった。了解志向に構うことの無い戦略的行為が錯綜するそれぞれの機能的なサブシステムは、コミュニケーション的行為で実行される生活世界における日常生活の理性的な実践を浸食することになる。

したがって、こうしたコミュニケーション的合理性が宿るのは、生活世界コミュニケーション的行為以外にあり得ない。コミュニケーション的合理性を宿らせたコミュニケーション的行為合理性を水準通りに査定することで、初めて専門組織文化と日常生活の理性的な実践の文化が架橋可能になる。

逆に、そうしたコミュニケーション的行為に失敗している状況では、専門の文化が日常生活の理性的な実践を置き去りとしたまま突き進むことになる。それこそルーマン理論物語るように、専門組織の「形式」的なコミュニケーション構成する機能的なサブシステム生活世界の日常を生きる人々の思考内容を置き去りにしていく訳だ。

それ故に専門組織文化が担う知の体系は、如何に拡張されようとも、生活世界における日常生活の理性的な実践を困難にするほどの複雑性を兼ね備えてはならない。ハーバーマスがルーマンの理論それ自体を生活世界から締め出そうとするのは、この脈絡からである。

実にハーバーマスが否定するのは、社会システム心理システム区別を前提としているが故に、システム理論があまりにも多くの課題を派生させてしまっていることである。確かにこの区別を強調するからこそ、ルーマンは両者の境界に位置する意味システムの作動を重視せざるを得なくなる。「意味」というシステム観察するとなれば、システム外部環境差異を基軸に、様々な概念を思考し直さなければならない。徹底的に抽象化された諸概念は過剰刺激であるために、読者を視野狭窄に陥れさえする。ハーバーマスが等価機能主義的な概念の抽象化に基づいたルーマンのシステム理論がもたらす利益を複雑性の程度が低い生活世界から排除しようとしたのは、社会システム理論が記述する知の体系があまりにも高度に抽象的であるが故に、日常生活の理性的な実践への具体的な方向付けを喪失しているためなのである。

問題解決策:「相互行為」と「組織」と「社会」と「運動」の区別

しかしこのルーマン理論それ自体に対するハーバーマスの批判は、偏見に満ちている。何故ならルーマンが導入したのは、システム生活世界区別とは全く何の関係も持たないシステム外部環境差異だからだ。

ハーバーマスはルーマンの社会システム理論生活世界を生きる我々の日常生活から締め出そうとしていた。しかしルーマンの理論はむしろ積極的に日常生活を含めた様々なコミュニケーションを分類していたと言える。このことは彼が機能分化構造とは別の軸で導入した「相互行為(Interaktion)」、「組織(Organisation)」、「社会(Gesellschaft)」、そして「運動(Bewegungen)」の区別からも伺える。

この区別においては、「社会」が最も包括的な社会システムとなる。「相互行為」と「組織」は、この「社会」の内部で分出した社会システムだ。一方で「運動」は、「社会運動」や「抗議運動」のように、機能的に分化した社会社会構造と対立する立場を主張する。この意味で「運動」は、「社会」の内部に位置しているにも拘らず、自らを「社会」の外部に位置付けることで「社会」に対立しようとする矛盾した社会システムとなる。

ルーマンは、この相互行為組織、社会、運動区別近代社会機能的な分化とは別の分類として導入した。とはいえこの分類は、機能分化構造の分類と根深く結び付いている。相互行為は、機能的に分化した社会を含めた社会システムの原初的な形式として発現している。組織システムは、それぞれの機能システムが直面する偶発性や不確実性の負担を軽減する機能を担っている。運動は、一方でこの機能的な分化という社会構造に抵抗する立場を主張する。そして社会は、これら全てを包括した概念である。

相互行為システム

相互行為は、「存在(anwesend)」と「不在(abwesend)」を区別する形式に特化した社会システムである。相互行為とは、例えば学校における「学級活動」のように、コミュニケーションに参加する者たちが居合わせていることで成立するコミュニケーションシステムなのである。この存在と不在の区別は、マルチン・ハイデガーの存在論的差異とは無関係である。ルーマンが記述する社会システムはあくまで「意味」を構成するシステムだ。故にこの区別もまた「意味」の一形式に他ならない。

参加者が居合わせるためには、参加者同士が相互に相手を他者として知覚していなければならない。言い換えれば、参加者は互いに他者を知覚すると共に、他者が自分を知覚していることを知覚しなければならない。ルーマンは、この「知覚知覚(Wahrnehmung der Wahrnehmung)」を「反省的な知覚(reflexive Wahrnehmung)」と呼び、相互行為の成立条件として記述している。知覚知覚に基づく限り、相互行為言語的なコミュニケーションとして成立するなどという道理は無い。例えば「無視をすること」もまた知覚知覚が無ければ生じ得ない相互行為である。

組織システム

組織は、目的を追求する計画を決定するためのコミュニケーションシステムである。尤も、組織目的を達成するシステムではない。組織とは、単に目的を追求するシステムなのである。こうした決定を方向付けているのは、「地位(status)」をはじめとした形式である。例えば学校という組織における教育者は、カリキュラムに基づいた授業を決定することで、学生の単位の取得を左右することができる。少なからず卒業する意志のある学生ならば、単位の取得状況次第で、次の学期に履修する講義の数を調節せざるを得ない。学校のように教育に関連した組織システムは、教育者の地位によって、決定を形式化していくのだ。そこで計画されるのは、進学や就職のための準備や、被教育者の人格形成である。こうした組織というシステムオートポイエーシス的である以上、環境からの刺激にはあくまで自律的に反応する。環境からの刺激に反応する場合、組織構成員を調節することで反応するのである。例えば教師が授業で諸々の「ハラスメント」を行なっていたとすれば、犯人となる構成員を特定し、警告され、遂には懲戒免職となる。たとえ組織であっても、そのを償うのは人格なのである。そしてそのように決定するのも、組織なのだ。

組織機能的に分化したサブシステムとしての機能システムと協働する関係にある。例えば科学・学問においては「学校」や「研究機関」が、教育においては「学校」や「教育機関」が、経済においては「銀行」が、政治においては「国家」が、法においては「裁判所」が、マスメディアにおいては「テレビ局」や「新聞社」が、それぞれ対応している。

組織機能は、ハーバート・アレグザンダー・サイモンが述べるところの「不確実性の吸収(absorption of uncertainty)」にある。組織は意思決定を構成する。この意思決定が、別のあり方でもあり得る選択肢を否定すると同時に、特定の選択肢だけを指し示す。機能システムは、組織の意思決定に従事することで直面している不確実で膨大な選択肢を吟味することの負担から免除される。だから、例えば汚職が発覚しても、「国家」という組織の政治家が辞職することによって、政治という機能システムの不安定化を解消することが可能になる。

運動システム

運動は、こうした組織機能システムに対立する社会運動や抵抗運動構成する社会システムである。これは、晩年のルーマンが『社会の社会』において、相互行為組織、社会に次ぐ第四の社会システムとして定式化したシステム概念だ。運動相互行為ではない。もし相互行為だとすれば、それは単なる抗議デモや集会に留まってしまう。また運動組織とも異なっている。確かに政治や政治的な専門組織運動を先導する場合もある。だが一方ではデモや集会にのみボランティア精神で参加する者たちもいる。つまり運動は参入類脱可能なのである。

とはいえ運動は、機能システムとの関連から観てみると、極めて曖昧なシステムであることがわかる。社会運動は、資本主義機能的な分化などといった社会構造に対立する立場で主張する。だがそれ自体は、社会という包括的な社会システムの一部に他ならない。だから社会運動がメタの視点で社会の全貌を見渡し隠された問題を見抜いているというのは、社会運動の錯覚に過ぎない。「緑」の人々が陥ったパラドックス象徴されるように、社会運動問題視する問題を解決するためには、結局機能システム組織システムが必要となってしまう場合もある。確かに社会運動もまた自己言及的なシステムだ。だがしかし、それは極めて自己を確立し難いシステムなのである。

コミュニケーション的合理性の根源的偶発性

以上のような社会システムの分類により、ルーマンの社会システム理論生活世界の日常生活を射程範囲にすることができないという嫌疑は晴らされるだろう。相互行為組織運動は、我々の日常生活の様々な状況を記述している。そしてこれらのシステムは、いずれも機能的に分化した「社会」と関連付いている。

とりわけ相互行為は、絶え間なく中断することもできれば、新たに再開することもできる。構成員の存在と不在の区別さえ導入できれば、幾らでも反復できる。ただし相互行為は、直ぐに消滅してしまう。そこには持続性が無い。相互行為は生成消滅を繰り返す。故に、無限後退を一挙に果たす代理表象を可能にするような「意味」の構成は、別の持続性を有したシステムに委ねている。最たる例が、「社会」だ。言い換えれば、「社会」の意味論上の選択が相互行為を方向付けているとも言える。

しかし一方で、「社会」は相互行為の結果として構成されたシステムでもある。何故なら相互行為は社会の部分だからだ。したがって意味論もまた相互行為による方向付けを得ている。言わば「社会」とは、相互行為が成立する機会を方向付ける度合いに応じてそれ自体も変異するエコ・システムなのである。したがって、「社会」の選択と相互行為の選択は、相互に条件付け合うと考えて良い。こうした関係を把握するためには、やはり「社会」と相互行為差異を常に念頭に置く必要がある。

「社会」と組織の関係もまた相互依存状態にある。「社会」の機能分化によって問題領域が分類されていなければ、組織はそもそも何の解決策についての意思決定を下すべきなのかを判断できない。組織が意思決定を構成しなければ、「社会」は「不確実性の吸収」に肖れない。

同様に運動も、「社会」の内部で「社会」の外部に自らを位置付けようと奮起することで、やはり「社会」との関連を持ち続ける。運動は、「社会」の機能システム組織システムを第三者の視点から検証することで、機能分化による問題領域の分類において盲点となっている潜在化した問題を抽出することができる。運動は、言わば「社会」の警報機のようなものだ。

ハーバーマスの話を鵜呑みにするのならば、社会にはまず社会の構成員となる主体があるということになる。そしてそれぞれの主体がコミュニケーション的行為討議によって、内発的に関与することになる。妥当性要求に対する態度を検討することによって、コミュニケーションの関与者たちを満足させる形で、集団的な同一性が形成されるという。言語行為を駆使して見出される主体の同一性と集団の同一性の一致した状況は、その同一性が理性的なるものであるという確信を与えてくれるという。

しかしながら、機能的な分化を遂げた近代社会には、同一性の軸となり得る中心は無い。「社会」は様々な機能システム分化しているだけではなく、様々な相互行為組織運動にも分化している。コミュニケーション的合理性で専門の文化と日常生活の理性的な実践の文化を架橋しようとも、現実は何も変わらない。偶発性に曝されている不確定な社会では、そもそも「理想的な発話状況」の条件にも、妥当性要求の根拠付けにも、形成された合意にも、従事する必然性が見当たらない。故に合理的な合意形成も、精々社会システム偶発的な作動に過ぎないのである。こうした状況から出発せざるを得ない以上、コミュニケーション的合理性を宿らせたコミュニケーション的行為に望みを託すことなどできない。

むしろ合理性の考察は、脱中心化した社会を前提として進めていかなければならない。ルーマンは尚も、この考察を日常生活の理性的な実践に忙しい生活世界の住人たちにはお気に召さない方法で進めている。彼がここで採用したのは、等価機能主義的な分析方法だ。つまり彼は、達成されている合理性が別のあり方でもあり得る可能性合理性を追求する努力そのものが別のあり方でもあり得る可能性、その努力の前提こそが別のあり方でもあり得る可能性、あるいはそもそも何故合理性の達成がありそうもないものとしてあり続けるのかを理解するところから、考察を進めているのである。こうした偶発性を考慮することで、分化している個々のサブシステムは、より合理的な問題解決の定理が獲得できるか否か、獲得可能ならば如何にして可能になるのかを観察することが可能になるというのだ。

問題解決策:システム合理性

この等価機能主義的な方法を前提としているルーマンのシステム理論は、合理性概念を「システム合理性(System- rationalität)」として観察することになる。ルーマンによれば、システム合理性形式化するのは、環境との差異を確保することでオートポイエーシスを継続しているそのシステムが、<システム>と<環境>の区別システムの内部に導入する場合である。それは言い換えれば、システムが<システム>と<環境>の双方を一括して同時的に観察するということだ。自己言及的でオートポイエーシス的なシステムは、世界を<システム>と<外部環境>に区別することによって、<システム>として存続するのであった。故に環境とは、世界におけるシステム以外のあらゆる領域である。逆に言えば、<システム>と<環境>の統一体は、<世界全体>だということになる。それは「意味」による代理表象に他ならない。

これを前提にすれば、<システム>それ自体に対する自己言及と<環境>に対する外部言及を同時的に遂行する場合、システムは世界を通常よりも幅広い視野で眺めていることになる。例えば自己が他者と合理的に合意を形成する場合ならば、自己は、常に<自己の意見>と<他者の意見>を同時観察しなければならない。<他者の意見>に盲目的になり、<自己の意見>だけに固執するようでは、合理的な合意は成り立たない。合理的な合意を形成するためには、自己は<自己の意見>に対する自己言及と<他者の意見>に対する外部言及を同時に遂行する必要がある訳だ。

しかし社会システム理論的に言えば、システム合理性は理想郷に過ぎない。何故なら、システムが世界全体を観察することは不可能であるためだ。世界全体はあまりに複雑過ぎる。世界全体をシステム観察するには、<システム観察する世界全体>と<その盲点となる世界全体>を区別しなければならない。システムは、<盲点>に盲目的になるからこそ、<観点>の認識を可能にしているのである。あらゆる観察は必ず盲点を派生させる。

だとすると、合理性が達成されている場合や合理的に動機付けられている合意が形成されている場合などというのは、現実の環境や現実の世界全体の出来事ではないのである。それはシステム自己言及構成されているシステム内の出来事に過ぎない。そのシステムの外的環境に位置する他のシステムから観れば、そうした合理性の達成や合理的な動機付けが合理的であるとは限らないのである。だからこそ合理性は別のあり方でもあり得る。

システム合理性という概念が告げるのは、合理性は常に理想郷だということだ。コミュニケーション的合理性を宿らせたコミュニケーション的行為の関与者たちが合理的に動機付けられた合意の形成へと志向している場合や、実際に合理的に合意を形成している場合があるのだとすれば、それはそのコミュニケーションシステムが純然たる外的環境に対して盲目的になっているためなのである。

注意しなければならないのは、このシステム合理性の概念が、「恣意」を認めさせ、我々を「ポストモダンへの入り口」に立たせるものなのではないということだ。もとより、理性を重視することに必然性が無いように、これを殊更強調することで「ニーチェを継ぐポストモダニスト」を自称することにも必然性はあるまい。社会システム理論の視座から観れば、近代社会システムとポストモダンのシステムを対比することには、必然性が無い。極端に言えば、双方を同一視することすら可能なのである。近代社会自己言及的な社会システムだ。故に現代社会に世界全体の統一的な記述や万人普遍の理性が欠落しているとしても、それは近代社会自己言及的に進化したことによる帰結なのである。

システム合理性の実現は困難極まりない現実があるにせよ、システム合理性を追求する姿勢は視野の狭いコミュニケーションを回避することを可能にする。と言うのも、システム合理性意識してコミュニケーション展開していけば、その社会システムは、<システム>それ自体に対する自己言及と<環境>に対する外部言及を同時的に遂行することになる。その場合、システムは世界を通常よりも幅広い視野で眺めていることになる。

外部言及の限定技術形式としての「期待」

システムがより広い視点や視野で学んでいくためには、システム合理性を確保することが望ましい選択となる。だがシステム合理性には閉鎖的な印象が付き纏う。と言うのもシステムは、如何に合理的に振る舞おうとも、所詮はシステムの内部で構成された<システム>と<内的環境>しか観察することができないからだ。外的環境それ自体はシステム盲点なのである。

ここで問題となるのは、自己言及的なシステムが如何にして外的環境の対象に対する外部言及的な観察を可能にするのかである。大方、学習対象というのは外的環境に位置する。だが、自己言及的なシステムには、環境に関与することができない。故にシステムは、あくまで自己言及の枠組みで外部に言及しなければならない。言い換えれば、システムの外部言及は、外部に言及している自己に言及することで成立する。

社会システム心理システムは、外部に言及している自己に言及する際にも、「意味」に依拠する。システムは、システムの内部に<システム>と<環境>を同時構成する。システムが外部言及を実行するということは、システムシステム内の<環境>に言及するということである。システムが外部に言及する場合、外部環境それ自体ではなく、自己の内部に構成されている擬似的な<外部環境>こそが外部言及対象となる。

だが、こうした外部言及対象は無数に遍在している。そうなると、可能な外部言及対象を限定する必要がある。ルーマンによれば、この限定を担う意味を特に「期待(Erwartungen)」と呼んでいる。期待は、「可能性を捨象すること」に特化した意味形式だ。期待を抱くシステムは、期待意味形式に取捨選択されて残された対象に対して、外部言及を実行する。正確を期することを棄てて単純化するなら、「期待」とは、システム外部環境を知ろうとする発端を生み出す技術であると言えるだろう。

可能な選択肢を限定する選択肢としての「構造」

この期待意味論構成は、オートポイエティック・システムにおける「構造(Struktur)」の形成と再帰的に関連している。社会システム理論的に言えば、ここでいう構造は、可能な選択肢を限定することで、特定の選択肢の冗長的な選択を可能にする。

抽象的に言えば、ルーマンが念頭に置いている「構造」は、膨大な関連付けの可能性を選択的に限定するために機能している。言い換えれば、可能な選択肢の限定的な排除を担うのが、構造である。構造が必要となるのは、システム偶発性に曝されているためだ。観察者にせよ観察対象にせよ、必然的な選択肢は何も無い。可能な選択肢が膨大に溢れている。仮に何らかの選択を何とか実施しても、次の瞬間には、またしても膨大な選択肢に悩まされることになる。しかし、可能な「選択肢」が膨大にあり得るのだとすれば、膨大な選択肢を限定するという「選択」もあり得るはずだ。この選択の限定という「選択」を担うのが、構造なのである。

この構造概念を把握する際に留意しておくべきなのは、ルーマンが社会学者タルコット・パーソンズの「構造機能主義(structural-functionalism)」を批判的に継承した等価機能主義者であるという点だ。パーソンズが定義する機能は、社会の構造を維持するための貢献意味する。彼の言う構造は、比較的変化し難い社会関係のパターンのことだ。これに対してルーマンの機能主義的な理論においては、まず必然的に生じ得る偶発性が前提とされる。偶発性を考慮することが、相対的に不変の構造を仮定することよりも優先されているのである。

それ故、ルーマンの構造概念はパーソンズの構造機能主義的な構造概念とは明確に区別される。彼が説明する構造は、既存の可能な選択の関連性を限定することによって、<選択の限定>としての<限定の選択>を施すのである。可能な選択肢は、既に膨大に溢れている。構造は、この選択を限定するための、<一つの選択肢>に過ぎない。この機能主義的な視点から観れば、構造機能的等価物もあり得ることになる。つまり、選択の限定としての限定の選択を施す、別の選択肢である。

構造は、期待それ自体の冗長的な選択をも可能にしている。一方、期待は可能な選択肢の大多数を捨象する。だから同一の期待が冗長的に構成されれば、それだけ特定の選択肢が冗長的に選択されるようになる。その冗長性が構造形成に資するのである。ある期待から別の期待に切り替えられれば、構造もまた変異する。

したがって、期待構造が結び付くことによって得られる機能は、ある限定された外部言及対象に対する冗長的な外部言及だ。この外部言及の反復は、システムが特定の外部環境習熟して学習していく契機となる。

コードとプログラムの差異

こうした社会構造意味論の関連は、機能的に分化した社会が如何にしてそれぞれの問題領域を設定できているのかも明らかにしている。ルーマンはこの外部言及対象の限定技術形式としての「期待」が特定の選択肢の冗長的な選択を可能にする「構造」と再帰的に関連付いているという前提から、「二値コード(binarer code)」と「プログラム(Programm)」の区別を導入している。

二値コード(binarer code)」とはAと非Aを区別する形式である。二値コード機能は、Aの否定を全て非Aとして回収することを可能にするということだ。これにより、機能システム無限後退を未然に防いでいる。この点、二値コードは「意味」の一形式となる。

機能的に分化したそれぞれのサブシステムは、それぞれ固有の二値コードを使用している。例えば科学・学問ならば、「真(wahr)」と「非真(nicht-wahr)」を区別する二値コードを使用する。このコードにより学問という社会システムは、あらゆる対象を真か非真かという選択を下に言及していくのである。同じように、例えば経済システムならば「支払い(Zahlung)」と「非支払い(Nicht-zahlung)」の二値コードを、法システムならば「合法(recht)」と「違法(unrecht)」の二値コードを使用していく。この二値コードの性質は、「0」か「1」かという形式情報を処理するコンピュータを連想させる性質だ。このバイナリ形式を前提とすれば、ある範囲を「0」と見做したならば、その他の範囲は全て「1」と見做せる。「2」や「-1」などのような無限に遍在する「第三項」は全て捨象することが可能になる。

否定と棄却の差異

排除された第三項を前提とした二値コード論は、二値論理学から距離を取る。二値コード二元論(dualism)的に導入されている訳ではない。確かに、一元論や多元論を気取りながら、素朴に二元論否定するだけでは、<二元論>と非<二元論>の二元論に従うことになる。二元論批判を二元論的に実践してしまう。これではパラドックスだ。二元論から距離を取ろうとする観察者にとって、論理学的な二値性は「否定(Negation)」されるのではなく「棄却(Rejektion)」される必要がある。

否定(Negation)と棄却(Rejektion)の区別を導入した場合、否定とは二値コードの一方の側から他方の側へと境界を横断する作動を意味する。これに対して棄却とは、ある二値コードや二項図式に基づいて導入された問題設定を別の区別観察することを指す。この時、既存の区別によって指し示された選択肢の中からどれを選択するのかという問題は保留となると同時に、新たな区別による別様の選択肢が浮上する。

この棄却という観察は、近代社会における日常茶飯事である。例えば合法と違法の二値コードに従う法システムは、支払いと非支払いという経済システム二値コードを暗に棄却している。貨幣の支払いと非支払いのいずれかを選択したところで、合法や違法の判決が下される訳ではない。多値論理学者ゴットハルト・ギュンターが述べているように、求められている選択を許容しない値は、いずれも一つの「棄却値(rejection value)」となる。

「それ故、その内容を満たすために二値よりも増して必要とされる形態的表象(morphogramm)を、 分離(disjunction)と結合(conjunction)の類比として、『超接合(transjunctional)』のパターンと呼ぶことにしよう。 この形態的表象によって実行される作動は、『超接合(transjunction)』なのである。」
Günter, G. (1962) Cybernetic Ontology and Transjunctional Operations. In G. T. Yovits & G. D. Jacobi Goldstein (Eds.), Self Organizing Systems. Washington D. C: Spartan Books, pp.313-392. Downloaded from www.vordenker.de (Edition:February 2004), J. Paul (ed.) at: http://www.vordenker.de/ggphilosophy/gg_cyb_ontology.pdf. 引用はPDFファイルのpp.32-33より。

ルーマンは、このギュンターの多値論理学セカンドオーダー・サイバネティクス観察概念に組み込むことによって、社会システム理論的に拡張している。ルーマンによれば、機能的に分化した社会では、複数の二値コードが遍在している。ある機能問題領域で導入された区別は、常に別の機能問題領域との関連から棄却される可能性に曝されている。この機能問題領域はそれぞれ固有の文脈を形成している。故に多数の機能システムが交差する社会は、「単一文脈的(mono-contextual)」ではない。社会は、「多値(many-valuedness)」のシステムである。

ギュンター流に言えば、この発想は、二値論理学的というよりは多値論理学的である。ギュンターは、この発想を社会をも含めた世界の全体、すなわち宇宙を例に説明している。

「我々が全体(whole)としての宇宙(Universe)について語る場合、文脈上の存在および共存(co-existence)の単位があらゆる文脈性(contexturalities)によって形式化されているということを、まさにuni-verseという用語によって提示することになる。そうした単位のことを合成文脈性(compound-contexturality)と呼ぶことにしよう。」
Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., pp.5-6.

合成文脈性は「多文脈性(poly-contexturality)」の世界観である。一つ一つの文脈は、確かに二値論理的に構造化されているであろう。それぞれの文脈に適用可能な区別を導入すれば、その区別が、文脈の観察を可能にする。

「もし合成文脈性としての宇宙を想定するのならば、宇宙には無数の二値的に構造化された領域(two-valued structural regions)が存在するに違いない。そうした領域には、相互に並存する部分もあれば、一方が他方に侵入する部分もある。何故なら、我々が指摘した通り、この宇宙の如何なる観測可能な実体も、無限の二値的な文脈の交差点と見做されるに違いないからだ。」
Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., p.6.

もしもこうした文脈の交差点を単一の文脈に帰属させるなら、その交差点は、二値によって連続的に占領されているだけであろう。一方、もしそれが二つの文脈に属するとするなら、その交差点はまだ特定の二値論理に占領されている訳ではないということになる。その交差点は、二つの異なる文脈に帰属されるのかもしれない。文脈が値によって占領されている領域上で交わるという条件が満たされるのならば、一つの値は一つの文脈に属するということになり、他の値は他の文脈に属するということになる。しかし、話はそう単純ではない。

「それぞれの文脈における二値性は、どの他の文脈における二値性とも同じ(same)である。だがこのことは――あえて言わせて貰えば――、文脈Aにおける正の値が、文脈Bにおける正の値と同一(idential)であることを意味する訳ではない。しかし、『同じ(same) 』という意味での同一性(identity)として、異なる文脈に言及すると共に値が変わるのならば、――我々は我々の宇宙がどの文脈でも厳密に二値的な構造を示していることには拘るが――同一性問題に関連して、多値(many-valuedness)のシステムというものを導入することができる。そうした多値のシステムは、我々が我々の思考の媒介物として使用しているであろう多値論理を構成している訳ではないのかもしれない。それは、人間の意識によって生成された思考の法則を説明する訳ではないのであろう。思考過程が進化する心的空間は、閉鎖的な文脈性を構成して、そのようなものとして厳密に二値的であるためである。しかし、そうして投影された多値のシステムは、様々な文脈の相互連関を決定付ける存在論的な枠組みと呼べるようなものを形成する。」
Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., p.6.

仮にこの世界から二つのデータを抽出する場合、いずれにせよ我々はそれらのデータが特定の共通した文脈を共有しているということを発見できるはずだ。そして、それらのデータのうちに、二値論理的に刻み込まれた関連性を発見することも可能である。ただし、いずれのデータも無数の文脈の交差点として見做されることになる。まさに同じデータが、我々が見出していた文脈とは異なる付加的な文脈にも属している可能性否定できない。

ギュンターが強調しているのは、比較するために選択したどの世界の二つのデータも、少なからず一つの共通した文脈を有しているということである。それらのデータの組み合わせが、全く何の文脈的な結合も持たないというのは、不可能なのである。もし仮にそれが可能ならば、そのような場合、二つのデータのうちのいずれか一方は、『この世界には』存在しないということになる。

「別の言い方をすれば、所与の文脈を共有しているいずれの二つのデータにおいても、それら二つのデータによって排除されている第三項のデータが常に存在することになる。」
Günther, G. (1973). Life as Poly-Contexturality. Wirklichkeit und Reflexion, Festschrift für Walter “chulz., p.10.

区別を導入し、二つのデータを関連付けた時、その背後には、その文脈として、排除された第三項のデータが潜在しているのである。

構造としてのプログラム

二値コードはこのように、第三項を排除することで成立している。とはいえ、偶発性に曝されている状況では、二値コードを選択することに必然性は無い。更に二値コードだけでは、具体性に欠ける。例えば真と非真の二値コードだけでは、個別具体的な状況や条件でどのように真や非真を決めるのかがわからない。ある機能システムが特定の二値コードを具体的な局面で冗長的に使用し続けるためには、「構造(Struktur)」が必要となる。

ルーマンは、特にこの機能的に分化したサブシステムそれぞれの構造を「プログラム(Programm)」と呼んでいる。例えば科学・学問のプログラムは「方法(Methode)」と「理論(Theorie)」である。つまり学問は、方法理論を選択肢を限定するための選択肢として選択することにより、個別具体的な状況や条件において真と非真の二値コードを使用し続けることの確実性を高めているのである。同じように、経済においては「投資」や「消費」がプログラムとして機能する。法においては「法律」や「判決」がプログラムとなる。

二値コードは、それぞれ不変である。逆に言えば、二値コードが変わればシステムも変わってしまう。仮に真と非真の二値コードから支払いと非支払いの二値コードへと変化した場合、そのシステムはもはや学問ではなく経済となるのである。これに対して、プログラムには歴史や時代や状況によって変異していく。それは一般に、構造変異として生じる。したがって、プログラム二値コードの使用を方向付ける以上、如何なる二値コード歴史的に相対的だということになる。

こうしたことから、ルーマンの社会システム理論等価機能主義の徹底的に抽象化された数学的思考のみならず、歴史哲学的な内実を求めた意味論の視点からも理解されなければならない。数学的な思考能力が追い付かなければ、確かにそもそも読解することすら儘ならないだろう。一方、意味論歴史変異を汲み取るほどの背景知識が無ければ、ルーマンの理論機能的に再利用したところで、その記述は空理空論であるかのような誤った印象を与えてしまう。

問題解決策:象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア

期待構成するという営みは、システム環境を知る発端を生み出す技術となる。ルーマンは、この期待構成される機構を説明する上で、外部言及対象と関連する諸々の意味構造における「象徴的な一般化(symbolisch generalisierte)」に言及している。

少なからず『社会システム―― 一般理論綱要』の時点でのルーマンは、この象徴的な一般化という概念を二つの文脈から論じていた。一つは期待意味理論の文脈である。もう一つは、パーソンズに由来するコミュニケーション・メディア論の文脈だ。ルーマンが説明する象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアは、「真理(Wahrheit)」、「権力(Macht)」、「貨幣(Geld)」、「愛(Liebe)」、「信仰(Glaube)」などのように、コミュニケーションの接続における「選択(Selektion)」と「動機(Motivation)」を予め方向付けることで、コミュニケーションの成果の不確実性を埋め合わせるべく機能する。この時点でのルーマンによれば、このコミュニケーション・メディアは、学問、政治、経済、家族、宗教などといった機能的なサブシステムへと近代社会分化させる決定的な道標として機能していた。

ルーマンは、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアが何故真理や権力をはじめとした諸概念であるのかに関する根拠については明確にしていない。と言うのも、この社会システム理論等価機能分析によるヒューリスティックな発見探索の結果として記述されているからだ。これは演繹的でもなければ帰納的でもない。発見があればそれで良しとする。

尤も、ルーマンは機能システム象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアを獲得する条件を明記してもいる。学問、政治、経済、家族、宗教などのようなサブシステムがそれぞれコミュニケーション・メディアを利用することができているのは、これらの機能システムが、あくまで自己自身に準拠する過程としてコミュニケーション構成しているからだ。言い換えれば、コミュニケーション・メディア機能が満たされるのは、あるコミュニケーションにおける選択が後続のコミュニケーションにおける前提となる過程に限定される。

逆に言えば、物理的であれ、化学的であれ、生物学的であれ、あるいは意識精神に関与する営みであれ、システムシステム外部環境変異させることを問題設定とした機能システムにおいては、コミュニケーション・メディアは獲得され得ない。ある社会システムにおけるコミュニケーション・メディアはあくまでもそのシステムの内部で構成されている。決してコミュニケーション・メディアは、あるシステム外部環境を接続させるインターフェイスなのではない。だからこそ、医療などのような領域では、コミュニケーション・メディアは発見されないのである。医療は、社会システム外部環境としての人間身体心理システム変異させる機能を担っている。医療という機能システムは、コミュニケーション・メディアによる負担軽減に肖ることなく、医療的な問題を解決していかなければならない。

メディアと形式の差異

このコミュニケーション・メディア論は、専ら近代社会機能的な分化を記述する際に用いられていた。ところが晩年のルーマンは、その大作である『社会の社会』で、このコミュニケーション・メディア論と期待意味理論を明示的に結び付ける概念を導入している。それは、ゲシュタルト心理学者のフリッツ・ハイダーに由来するメディア形式区別である。

このメディア形式区別は、メディア形式の双方が高度に抽象的な関係概念であることを言い表している。端的に言えば、ここでいうメディア(medium)とは、比較的緩やかに関連付いている諸要素の集合である。これに対して形式(form)とは、メディアが提示する諸要素の集合の中から、相互依存性が比較的高い関係にある諸要素を選択することで、緊密に関連付いている諸要素を指し示す。

形態の融解性

更に抽象化して言えば、メディアは、「形態(Gestalt)」が有する凝固した形状を受容する能力と共に、その高度な融解性によって特徴付けられる。このことが意味するのは、メディアが、その形態の範疇において、特定の諸要素から構成されているということである。そしてこの諸要素は、相互に緩やかに結合されている。例えば空気は、気体を緩やかに結び付けているメディアである。空気は、それ自体ではノイズを凝縮する訳ではない。だがノイズを伝達することはできる。我々が時計の規則的な音を耳にすることができているのは、空気自体がその音を鳴らしている訳ではないためである。

これに対して形式は、諸要素の依存関係を集中的に濃縮することで成立する。それは、メディアによって提供される諸要素の選択と集中によって成り立つということである。メディアが緩やかに諸要素を結合するのに対して、形式は緊密に諸要素を結合する。先に例示した空気というメディアに対して、音は形式として構成されていると言えよう。例えば時計の規則的な音は、「リズム」として形式化されていると言える。

<マークされている領域>と<マークされていない領域>の形式

形式を導入するということは、何らかの区別をマークするということである。この「何らかの区別」の選択候補となり得るのが、メディアから提供された諸要素なのである。形式を想定するということは、<マークされている領域>と<マークされていない領域>の差異を前提にするということを意味する。それは、諸区別区別することで、特定の区別を選択するということでもある。言い換えれば、形式はマークされることなしに潜在化している別のあり方でもあり得る区別盲点として位置付けている。

このことは、形式メディア区別にも適用される。形式メディア区別は、それ自体形式としてマークされている。故にこの区別は、何らかの第三項を排除している。しかしながら、この形式メディア区別の自己論理的(autologisch)な推論は、メディアにおいても適用される。形式メディア区別は、メディアとして機能することで、様々な区別形式として導入することを可能にする。実際このメディア形式区別を応用したルーマンは、このメディアによって、知覚メディア言語メディア、そしてコミュニケーション・メディア理論を導入している。これらの理論は、彼自身が記述しているように、別のあり方でもあり得る理論盲点として位置付けることで可能になっている。彼はこれらの理論形式としてマークしていたのである。

メディアとしての言語

メディアが関連付けの候補を提示するのに対して、形式はその関連付けを遂行している。そしてこのメディア形式は、常に同時に再生産されている。例えばコミュニケーション形式化させるメディアとして、言語を想定してみよう。言語は、大量の語と、語の結合規則となる文法から成立している。だがこの場合、語そのものはメディアとしての言語から構成される形式なのではない。語は、言語というメディアの諸要素である。それは、メディアとしての言語を使用する場合に、もうそれ以上解体されない部品として前提化されている。

コミュニケーションを想定した場合、このメディアとしての言語から構成される形式となるのは、文である。文だけが、形式コミュニケーションに変えるからだ。それ故に言語学習は、まず語を学び、文法を学び、最後に文の作成を学ぶといった過程で進む訳ではない。言語学習は、あくまでメディア形式差異を単位としている。言語学習者は、まず形式構成しようと試みる。それがコミュニケーションとして成功した場合には、その形式が利用可能な選択肢として記憶されるのである。こうしてシステムは、選択的に状況に適合していくことで、メディアに関与する能力を高めていく。

メディアとしての記憶

ルーマンは、更にこの形式メディア区別記憶様相論理学的な意味論に応用している。記憶はまず、意味の再活性化を遅延させるメディアである。言い換えれば、緩やかに結び付けられている諸要素の形式による選択を即時的に実行させない点に、メディアとしての記憶機能がある。この記憶というメディア機能していなければ、我々は昨夜の夕食を想起することなどできるはずがない。一方、形式もまた記憶として機能する。と言うのも、形式による諸要素の選択と集中が無ければ、凡そ何も有意味記憶想起することはできないからである。言い換えれば、形式機能することで、想起される対象がマークされた領域として指定される。この時、マークされていない領域は、逆に忘却の対象となる。

メディア形式区別は、このように、記憶機能様相論理学的に記述することを可能にする形式である。このメディア形式区別メディアとして活用するなら、潜在記憶意味論もまた様相論理学的に再記述することが可能になるであろう。

メディアそれ自体は、知覚の対象にはなり得ない。知覚される対象となるのは、常に形式である。形式メディアによって提供された諸要素を緊密に結び付けることで構成されている。メディアそれ自体は極端に忘却され易い。何故なら反復的に知覚されるとするならば、それは常に形式であるためだ。

形式メディア区別の自己論理的な推論は、記憶との関連においても同様に実施されなければならない。上述した言語の例のように、メディア形式は相対的な関係概念であるが故に、あるメディアによって構成されている形式が、別の形式にとってのメディアとして機能する場合もある。記憶との関連で言えば、ある形式としての想起内容が、過去体験知覚する上でのメディアとして機能することは間々ある。そしてこの知覚内容記憶されることで、それが新たな形式としての想起構成するメディアとして機能し得るようになる。したがって強固で濃密な記憶とは、言わば記憶形式形式への再導入(re-entry)によって結実している。言うなればそれは、想起形式排除された第三項がどれほど多いのかによって逆算できるのかもしれない。

場合によっては、形式から形式へと辿っていくことは不可能ではないだろう。だがこの逆を遡及することは万が一にも不可能である。想起という形式からそのメディアを辿ろうとすれば、<メディアメディア>に対する無限後退を実行することになってしまう。もしこの無限後退が可能であるとするならば、我々はここにおいて、全てを想起していることになってしまう。もし全てを想起できたとしても、それは形式としてマークされた領域に過ぎない。マークされていない領域は、依然として潜在化している。だから、究極的なメディアには到達不可能なのである。

マクルーハンのメディア論との差異

こうしたルーマンのメディア概念は、「メディアメッセージだ」と主張するマーシャル・マクルーハンのメディア概念に相当する。マクルーハンによれば、あらゆるメディア経験を新しい形式に転換する力を持つ能動的な隠喩である。マクルーハンは、この「転換子(Translators)」としてのメディアが更に「メッセージ(message)」でもあるという。

ここでいうメッセージとは、発話の「内容(contents)」や情報などではない。彼の言うメッセージとは、人間関係やコミュニケーションの方向性と機能変異させる力である。彼はメディアが有するメッセージを社会・文化的な規模、速度、あるいはパターン変異させる力として定義しているのである。彼がこの独特な定義でメッセージを論じるのは、理由の無いことではない。と言うのも本来メッセージとして解されている「内容」が、メディア同士の関係のために潜在化しているからである。あるメディアは、別のメディアを包括(contain)する。活字というメディアは書き言葉というメディアを包括し、書き言葉というメディアは話し言葉というメディアを包括する。

したがって、このマクルーハンにおけるメディアメッセージの関係は、ルーマンにおけるメディア形式の関係に等しい。ただし、双方のメディアの扱い方は微妙に異なっている。マクルーハンとは異なり、ルーマンの場合は、メディアの社会・文化に対する人間知覚や感覚を介した影響力だけではなく、メディアからコミュニケーションへのより直接的な影響力まで視野に入れているのである。

象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとの接続

忘れてはならないのは、ルーマンの場合のメディア概念は、形式よりも先行して存在している訳ではないということだ。むしろ双方は「差異化」によって同時的に構成される。例えばコンピュータ広告などといったメディアは、確かに形式化可能なコミュニケーションを限定する。しかし、そうしたメディアそれ自体がコミュニケーションを形作る訳ではない。「アーキテクチャ」や「アドテクノロジー(Ad Technology)」がメディアの一つであるとしても、それら自体がコミュニケーションを生み出せるはずがないのだ。逆にコミュニケーションの方が、そうしたメディアに「型」を押し込んでいると言える。

それは「地面」と「足跡」の関係と同じだ。「地面」が無ければ「足跡」は付かない。「足跡」は「地面」に依存している。だが「地面」という範囲では、「足跡」は自由に付けられる。そして、「地面」と「足跡」の関連は、「足跡」が付けられて初めて成立している。「足跡」と非「足跡」の「差異」が構成されると同時に、「足跡」と「地面」の「差異」が構成される。そしてこの「差異」こそが、「足跡」と「地面」の関連を保証しているのだ。

実際、この比喩を裏付けるかのように、『社会の社会』においてルーマンは、このメディア形式区別に依拠することで、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアや、『社会システム―― 一般理論綱要』で登場した情報や知識の普及や伝達を可能にする「伝播メディア(Verbreitungsmedien)」を、期待概念や構造概念と関連付ける図式で再整理していた。

「我々が『コミュニケーション・メディア』と言う時には、常に作動におけるメディアの回路基板(medialem Substrat)と形式の『差異』を使用するということを述べている」。
Luhmann, Niklas. (1997) Die Gesellschaft der Gesellschaft, 1 Bande Frankfurt/M, Suhrkamp, S.195.

ルーマンのいう象徴的な一般化の概念を取り上げるならば、この晩年の図式を見過ごすことはできない。

象徴と一般化の差異

このメディア形式区別に基づけば、ルーマンが「象徴(Symbol)」という概念を元来の意味に回帰して使用していた背景も判明となろう。彼によれば、象徴とは記号などではなかった。それは「習熟(familiarity)」に関わる自己言及的な「形式」である。

この<形式としての象徴>は、既存の習熟した世界の中で、<習熟した諸要素>と<習熟していない諸要素>とを区別する。そしてこの形式としての象徴から構成された<習熟した諸要素>が「メディア」としての<習熟した世界>として立ち現われることによって、新たな象徴形式化される。言い換えれば、先行的に形式化されていた象徴は、後続の<象徴>を形式化させるためのメディアとして機能するのである。形式機能比較的相互依存性の高い諸要素を指し示すことであるならば、形式としての象徴は、相互依存性が比較的高いより習熟した諸要素を統合する形式だということになる。

一般化(Generalisierung)」もまた諸要素を処理する形式である。それは、多数の諸要素を効果的に取り扱うための形式である。言い換えれば一般化とは、個別具体的な状況の細部を捨象する形式なのである。例えば我々は、図書館に所蔵されているものの大多数が「本」であることを知っている。それぞれの「本」の「タイトル」や「筆者」や「概要」などといった個別具体的な細部を気にすることなく、我々はそこに「本」が所蔵されていると説明することができる。それは図書館に所蔵されているものが「本」であると一般化されているためなのである。

以上のことを前提とすれば、象徴的な一般化とは、習熟されていないような諸要素を捨象すると同時に、比較的関連性の高い複数の習熟した諸要素を統合する機能を有した形式だということになる。期待による外部言及対象の限定は、この象徴的な一般化を前提としている。と言うのも世界では、外部言及対象が無限後退パラドックスに陥るほどに複数化しているためである。予め膨大な諸要素を捨象すると同時に、複数の諸要素に一つの複合的な統合体と見做して言及できるようにしておかなければ、外部言及は不可能になるのだ。この点で言えば、象徴的に一般化されている意味形式は、「真理」や「権力」や「貨幣」や「愛」に限らず、社会の至るところでメディアとしての機能を引き受けていることになる。

「人格」という形式

システム構造期待意味論、そして象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアを前提とすれば、社会システムがある人間心理システムによって構成されている「意識」や「思考」を主題としたコミュニケーション構成するというシステム作動が如何にして可能になっているのかが、漸く判明する。ルーマンによれば、それは「人格(Persönlichkeit / Person)」という形式によって可能になっている。

ここでいう「人格」とは、心理システムでもなければ、人間の全体でもない。人格とは、あくまで社会システム構成物である。人格は、その人格によってのみ果たされ得る行動に関する諸期待を関連付けることで纏め上げられる概念である。他者から観れば、誰もが人格だ。我々が他者に対する外部言及を実行する場合、コミュニケーションによって認識される他者は皆人格である。ある人間人格であるために必要となるのは、その人間心理システム身体を手掛かりとして、その人間自身による諸期待や他者による諸期待がその人間に関連付けられることで纏め上げられることである。より多種多様な諸期待に結び付けられている者は、それだけ複合的な人格を有していることになる。

この<形式としての人格>は、「役割(Rolle)」概念からも区別されている。ルーマンによれば、<形式としての役割>は諸期待間の然るべき関連性を確認するための抽象的な視点を提供する。役割そのものは、個々の人格が達成し得る事柄に見合うように調整されている。だが人格の既定に比べれば、役割の既定はより特定的であると共により一般的でもある。役割において問題となるのは、ある人間の行動の中で常に役割として期待されている一面に限られる。人格においては、その人格によってのみ果たされ得る行動に関する諸期待の関連性が重視されるのであった。一方役割においては、必ずしも人格の代替不可能性が重視される訳ではない。子供から観れば、「母親」という人格は代替不可能だ。しかし子供から観ても、「育児」という役割を担う人格は代替可能なのである。それ故に人格役割区別されなければならない。

社会システム人格役割構成すると、心理システム環境変異する。心理システムは、人格役割に方向付けられる形で自己言及的に作動することができる。その一方で心理システムは、自身の期待人格役割で纏め上げられた期待差異を直視することで、ストレスを受けることもある。例えば「母親」という人格や「育児」という役割期待されている女性でも、寝不足であれば、休息を取るべく期待するだろう。だがその女性は、「母親」という人格や「育児」という役割によって、子供から期待されてしまう。とりわけ他に「育児」という役割を引き受けてくれる人格が不在である場合、その女性は「母親」として「育児」を引き受けざるを得ない。この時女性の心理システムは、休息を取るという期待、「母親」という人格で纏め上げられた期待、そして「育児」という役割で纏め上げられた期待に曝されることになる。これでは期待のそもそもの機能である外部言及対象の限定が果たされない。かくして女性の心理システムは不安定化してしまうのである。

社会構造と人格

精神病理や精神疾患などのような心理学精神分析学の主題を社会学的な問題設定に再記述する文脈で、この人格役割区別を導入していた。この区別は、彼が早くからこの社会的な状況と精神病理の関連付けに着手する上で導入された形式である。パーソンズによれば、「精神的な健康(mental health)」と「精神的な病理(mental illness)」は、制度化された役割を遂行する「人格(Personality)」の能力との関連から定義された状態である。ここでいう人格(Personality)は、心理学的な概念ではなく、あくまでも社会学的な区別の導入によって規定された概念として論じられている。それによれば、人格は社会的な目標や文化的なパターンの内部化に準拠することで具体的な振る舞いを制御することを目指した機構である。

パーソンズは、この人格概念を背景として、健康と非健康医療社会学的に定義する文脈で、「役割(role)」と「課題(task)」の区別を導入している。役割は、集合体としての社会システムに対する個々人の参加を組織化するシステムである。役割という概念は、人格社会システムとの間で形成されている接合部分を前提とした双方の「相互浸透(interpenetration)」に対する視点を構成している。

パーソンズの「相互浸透」概念が意味しているのは、複数のシステムが双方向的に親密な関係を結ぶことである。役割とは、それを担うことで、他者や集団と相互に親密な関係を築き上げることができる概念なのである。一方で課題は、役割に比して比較的細分化されている。それは役割のサブシステムとしてより特化している。一つの役割は、異なる複数の課題の集合として分析することができるだろう。課題は、生物が環境相互行為するように、物理的(Physical)な世界で個々人の接合部分における行為の水準を規定する。

課題は役割のサブシステムだ。この場合のサブシステムは、役割や個人がその役割を遂行する上での人格に関わる幾つかの諸機能を遂行していく身体的(Physical)な作業の集合として定義される。コミュニケーションにおける各手続き意味は課題の水準に関与している身体的な手続きによって十分に定義される訳では決してない。そうした手続きは、課題の概念にのみ関与している訳ではなく、ある種の重要な課題の範疇(categories)やその諸要素(components)を構成している。

パーソンズは、この役割と課題の差異を前提とすることによって、身体的な病気は課題遂行(task-performance)能力の欠如を表す用語として定義できると主張している。その一方で、精神病理は役割遂行(role-performance)能力の欠如に対応するという。ここでいう課題遂行とは、身体的な場面において、いずれか特定の課題を指している訳ではない。そうではなく、むしろ課題の範疇に対応する。病気は、個別具体的な課題の遂行を妨げるというよりは、そうした課題と関連付いている他の課題を含めた複数の諸課題の遂行を妨げるのである。

逆に言えば、身体的な健康は、この状態を回避している場合に成り立っている。社会学的に定義するなら、それは価値ある課題を有効に遂行していくための最適な能力の状態と言える。同様に考えれば、個々人の精神的な健康は、役割遂行能力を発揮すると共に、他者や集団との相互浸透関係を結んでいる場合に成立していることになる。

しかしこう述べただけでは、役割や課題の遂行能力を如何にして獲得するのかが不透明の留まる。この問題を不透明にしたままでは、病理の状態と健康の状態を比較したところで、その一方から他方への状態遷移過程がわからないままだ。

形式としての社会化

パーソンズの社会システム理論内在して考えるなら、役割や課題の遂行能力は「社会化(Sozialisation)」によって獲得されている。社会理論的に言えば、社会や集合体が期待するように期待するのは、社会化された人格である。逆に、社会や集合体が期待するように期待しないのは、社会化されていない人格であるということになる。単純化して表面だけを観るなら、社会化されているか否かは、個々人が周囲の期待通りに振る舞えるか否かに左右される。

エミル・デュルケム以来の社会学に従えば、社会化とは世代から世代へと文化的な価値を伝承することである。そして特に意図的に施される社会化が、「教育」だということになる。またパーソンズによれば、社会化という概念は、社会の構成員との接触を契機として徐々に社会的な役割を全うするべきとする価値や動機付けを内面化していく過程を意味する。したがって社会化されていない人格とは、こうした価値や動機付けを内面化していない人格だということになる。

この関連からパーソンズは、ルネ・フォックスと共に、ベトナム戦争でショック体験した兵士たちの病理を切欠として注目されるようになった「脱社会化(desocialization)」という概念にも論及している。脱社会化とは、専ら一度社会化された社会の構成員がその社会性を喪失することで成立する。脱社会的な存在には、脱社会化される以前の社会化された振る舞いを実行することができない。パーソンズらの概念規定に従えば、脱社会化は社会的な役割を全うするべきとする価値や動機付けを喪失することを意味する。

それ故にパーソンズらは、病気により社会的な役割を全うする能力を剥奪された病人たちが、完全に社会化されてはいない家庭内の子供たちに良く似ているという。教育システムで未熟な存在として観察されている子供たちは、社会的な役割を全うする義務や責任から免除される代わりに、「社会化されるべき子供」としての役割を背負うことになる。これと同じように病人たちは、通常の役割から免除される代わりとして、「再社会化(resocialization)」のための「病人役割(sick role)」を引き受けなければならない。病人たちは、通常の社会的な役割の義務を担わないという役割を全うし、大人しく治療・看護される役割を引き受け、回復して復帰する義務を背負い、そして医療システム専門家たちと協力する義務を守らなければならないのである。

相互浸透概念の再記述

しかし社会システム理論的に言えば、こうした社会化概念では一方通行の入力を自明化してしまう。オートポイエティック・システムに入力はあり得ない。そこでルーマンは、社会システム心理システム差異を前提として、社会化概念を再構築した。そしてこの関連からルーマンは、パーソンズも言及していた「相互浸透」概念を精密に再記述してもいる。

ルーマンの社会システム理論に基づけば、社会化とは、言わば社会システムへの対応を余儀無くされた心理システムが、その社会システム習熟していく形式意味する。とはいえそれは、社会システム心理システムが同一化していく過程を言い表す訳ではない。ましてやそれは、「白紙」の状態の子供の「精神」に何かを書き込むことを意味するのでもない。社会化が結実していようとも、双方のシステムは別様のオートポイエーシス展開していくだけだ。より厳密化して言えば、社会システム理論を前提とした場合の社会化とは、人間心理システムと、その制御を受けている身体挙動が「相互浸透(Interpenetration)」を介して形式化される過程に他ならない。

ルーマンによれば、相互浸透とは、複数のシステムが互いの作動を自らの作動の前提として選択している関係を意味する。この関係の一例となるのが、社会システム人間の関係だ。確かに社会システムは、自己言及的なシステムとして、<コミュニケーション>についてのコミュニケーション形式化していく。だがそのためには、人間の有機体が構成する生命活動や人間意識が、不可避的な前提条件となるのだ。つまり、生命システム神経システム心理システムなど、人間構成している諸々のシステムが作動している場合にのみ、社会システム自己言及的な作動を形式化させ得るのである。

またこの関係は、逆の場合も成り立つ。相互浸透関係は相互に前提化し合う関係であるためた。それ故、生命システム神経システム心理システムなど、人間構成している諸々のシステムもまた、社会システムの作動を前提とした上で、自ら自律的に閉鎖化された作動を織り成している。そして、この時において心理システムに伴う変異こそが、「社会化」なのだ。

これを前提とすれば、社会化は、教育システムに限らず、どのような社会システムを前提とした場合も実現し得る。例えば資本主義的な経済システムとの関係から社会化されている心理システムは、資本を利用することで利益を上げて、更に資本を増やしていくことに赴くだろう。リヴィッカ・ワイス・バー・ヨゼフのように、「国境」や「地域」というわかり易い空間的な区別に依拠した場合も、同様の見解を導くことができる。一方の社会から他方の社会へと「移住」すれば、以前の社会との関係では脱社会化されるが、移住先の社会との関係では再社会化されるのである。

しかし再社会化は、第一の社会化とは異なっている。ピーター・マキューによる価値の概念を使用した説明に倣うなら、再社会化の対象は、以前の社会化信頼していた諸価値と新しい社会で信頼されている諸価値との矛盾に葛藤を感じてしまう。脱社会化人間の行動を根本的に変異させる。マキューが重要視している「根本的な変異(Radical change)」は、旧い価値による行動の方向付けを新しい価値による行動の方向付けへと置換することで生じる。その変異には摩擦も伴う。それが矛盾を生み出すのである。

再び社会システム理論に依拠するなら、もともと相互浸透関係は冗長的な関係だ。相互浸透関係にある複数のシステムは、互いに互いの冗長性を観察できなければならない。したがって、この関係を結ばれている複数のシステムは、相互にその構造を対象とした外部言及を実行する。構造は、期待再帰的な関係にある。期待構造化を方向付け、構造が同一の期待への冗長的な準拠を可能にする。したがって、社会化された心理システム構造は、相互浸透関係にある社会システム構造を前提としている。そして、心理システムが依拠する期待は、その社会システムの依拠する期待を前提にしている。もし社会システム期待外れに陥り構造が不安定化してしまえば、相互浸透関係にある心理システムにも不安定化の影響が波及する。だから社会化されている心理システムは、その社会システム期待が成就するように、期待するのである。

だが脱社会化は、その脱社会的な存在がかつて携わっていた価値や規範や社会的な秩序が崩壊してしまったからこそ発生する。だからこそ脱社会化は、アノミー(anomie)、疎外(alienation)、混乱(disruption)、脱組織化(disorganization)などと遠からず隣り合わせで描かれてきたのである。そうした破局的な崩壊の事態では、相互浸透関係も断ち切られている。再社会化は、まさにこうした破局を垣間見た脱社会的な存在を社会に復帰させるべく伴う。

しかしこの場合の復帰先となる社会は、崩壊から再生したそれまでの社会であるとは限らない。移民先の社会のように、全く新しい社会である場合もあろう。もとより脱社会化は価値観の根本的な変異を伴わせる。それまでの社会へと強引に復帰させることで再社会化させようする試みは、むしろ再社会化を働き掛けるシステムとその対象となるシステム矛盾した対立関係を顕在化させる可能性がある。その矛盾は、マキューも十分想定していた通り、再社会化を巡る闘争へと発展する可能性もあるだろう。

規範的期待と認知的期待の差異

期待構成象徴的な一般化再帰的な関係にある。一方では象徴的な一般化が、期待構成を方向付けている。と言うのも、期待が外部言及対象を限定する場合には、特に個別具体的な情況の細部を捨象する一般化機能が必要になるからだ。他方で所与の期待は、逆に象徴的な一般化を方向付けている。何故なら象徴的な一般化の対象となる諸要素は、外部言及の射程範囲となるシステムの<内的環境>にも遍在しているからだ。メディア形式の法則で諸要素を統一する場合も、一般化の兼ね合いから細部を捨象する場合も、外部言及が必要なのである。期待構成象徴的な一般化は相互に依存しているのである。

期待象徴的に一般化されている諸要素の再配列を促すのは、主にその期待期待通りの結果を生み出していない場合である。一般化によって細部を捨象している以上、その外部言及が個別具体的な状況に即した厳密な観察を可能にするはずがない。もとよりその外部言及対象は、システムの内部で構成された疑似的な対象だ。故に、その外部言及が期待通りの成果を生み出すのは、極めてありそうもないのである。

期待に依拠した外部言及は、期待が成就する可能性期待外れに終わる可能性を派生する。ルーマンによれば、システムがこうした期待外れに直面した場合に見せる反応は、二つに区別できるという。それは、「規範的な期待(Normative Erwartungen)」と「認知的な期待(Kognitive Erwartungen)」である。

規範的な期待は、所与の期待期待外れに終わったという事実を隠蔽する機能を持つ。それは期待それ自体を一般化させることによって、その期待期待外れに終わる可能性を些末な問題として捨象するのである。例えば、教師の権威を規範的に期待している生徒は、その教師の授業が期待外れでも、その教師の権威に期待し続けることができるだろう。

一方、これに対して認知的な期待は、期待外れとなった期待それ自体を隠蔽する。それと同時に、象徴的な一般化の対象となる諸要素を再配列することによって、新たな期待構成する。例えば期待外れの教師を垣間見た生徒は、その教師の授業ではなく予備校の講師に期待することができる。こうして外部言及の方向転換を促すのが、認知的な期待なのである。学習が実現するか否かは、この期待外れを直視した場合に、方向転換を可能にする認知的な期待構成されるか否かに懸かっている。

しかし、規範的な期待に抵抗するのは、困難極まりない。専門家専門組織が規範的に期待され続けているのは、権威や資格や免許や学歴などといった形式象徴的に一般化されているためである。つまりこうした形式を有さない一般市民が捨象されているためなのだ。

ただし、象徴的な一般化が成り立ったからと言って、直ぐに専門家人格信頼されるようになる訳ではない。象徴的な一般化習熟に関わる。だが習熟(Vertrautheit)は、「信頼(Vertrauen)」とは明確に区別される。習熟は、過去の事前に習熟されていた諸要素を前提とした上で、習熟された諸要素と習熟されていない諸要素の差異構成する。これに対して信頼するというのは、未来リスク(risk)を背負うことを意味する。

人格的な信頼とシステム信頼の差異

我々が専門家という他者の人格信頼する場合に前提となるのは、その他者が自由な行為能力を有するであろうという一般化された期待である。ルーマンは特にこの場合の信頼を「人格的な信頼(Persönliches Vertrauen)」と名付けていた。

例えば我々が人工知能研究の第一人者たちを人格的に信頼する場合、その研究者や学者がその役割を全うしてくれるという期待一般化していることになる。学者を信頼する者たちは、その学者が真なる知識を提示してくれると期待するのだろう。だが期待外れの可能性は避けられない。我々は皆異なる価値を抱いている。それぞれの人格が様々な価値観を抱いていれば、合意形成はおろか、その存在を承認することさえできなくなるかもしれない。仮に万が一御用学者たちが真なる知識の価値よりも利権の価値を重視しているのならば、その学者たちは、一般市民による人格的な信頼を裏切ることになるだろう。

御用学者に裏切られたとすれば、一般市民は、恐らく落胆するだろう。だがそれは、御用学者という人格に対して落胆しているということである。それ以上ではない。つまり一般市民は、御用学者という人格に不信感を募らせることはあれど、御用学者の人格構成してきた機能システムとしての学問や組織システムとしての大学に絶望し切ったわけではない。

別の身近な例を挙げてみよう。我々は人格信頼できない場合でも、その人格の背景にある社会システム信頼することは可能だ。店のレジでお札を余分に提示すれば、お釣りを貰える。その店員の人格に全く習熟していない場合でも、経済システムの支払いを介したコミュニケーションには信頼を寄せることができる。

あるいは教育システム構成する経歴もまた、人格それ自体への信頼の埋め合わせとして機能する。確かにIPA情報処理推進機構などのような組織システムが「応用技術者試験」をはじめとした様々な<形式としての資格>を構成すれば、その資格の機能によって、企業の採用担当者やアサインメンバーを選別するマネジャーたちは、人格選抜の負担を軽減できる。たとえその資格が入社後の活躍を学歴程度にしか保証していないとしても、人格選抜の負担軽減に肖れるのならば、資格は外部言及対象として習熟されるだろう。だがそうした<形式としての資格>が担保しているのは、決して選抜者の人格に対する信頼ではなく、ただ単に社会システムによって構成された経歴概念それ自体への信頼に過ぎない。

ルーマンは、こうしたシステムそれ自体に対する信頼を「システム信頼(Systemvertrauen)」と呼んでいる。システム信頼もまた未来リスクと関わっている。システム信頼する観察者は、それまで作動し続けたのだから、これからも作動し続けるだろうといった期待を抱いている。だがそれはリスクを背負うことを意味する。偶発性に曝されている以上、日存続しているシステムが明日破綻する可能性は大いにあり得るのである。

こうした関連から、我々はルーマンと共に、更に「信頼(trust)」と「確信(confidence)」とを区別しなければならない。この信頼確信差異は、ルーマンがリスク社会学に導入した「リスク(Risk)」と「危険(Danger)」の差異に対応している。リスクは、自身の選択によって派生すると想定される未来問題である。これに対して危険は、リスクを想定することに伴う盲点としての問題だ。リスクという概念は、未来問題が自身の選択の帰結として生じる可能性指し示している。だからリスキーな選択には、責任が伴うのである。しかしながら危険という概念は、未来問題が自身の選択とは無関係に生じる可能性指し示している。それ故に危険とは、ある意味で不条理な現実を言い表しているのだ。リスク計算可能であるのに対して、危険計算不可能である。リスク未来の顕在的な問題だ。一方危険は、未来の潜在的な問題なのである。

信頼は、あくまで未来リスクを背負うことを意味する。逆に言えば、信頼しないというのは、信頼することに伴うリスクを放棄するということだ。だがそれが可能になるのは、リスクのみならず、信頼することで得られる利益をも放棄する場合に限られる。一方、これに対して確信は、危険な状況を生み出す。何のリスク計算していない盲目的信頼は、確信に等しい。だがリスク計算し尽くしたという過信も、盲点としての危険問題を派生させてしまうという点で、やはり確信なのである。多かれ少なかれ我々は、確信せざるを得ない状況に立たされることがある。期待外れの可能性に盲目的になることで決断していくしかない局面も、多々あるだろう。盲目的になること以外に、リスクを無視すること以外に、他にどうしていいのかがわからない場合には、確信するしかないのだ。

問題解決策:構造的な結合

こうした信頼問題が顕在化するのは、とりわけ象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアが不足している場合である。と言うのも、科学・学問、経済、政治、法などのような様々な問題領域に特化した機能システムが、これらコミュニケーション・メディアによって形式化されているからだ。とりわけ経済や政治や法が機能不全になれば、そのリスク危険は人類規模にも発展するだろう。それは我々の存続を脅かす。

社会システム理論では、この生命の危機的状況を見据えるかのように、その埋め合わせとして、「生命システム(lebende Systeme)」の構造が引き合いに出される。前提として、社会システム心理システム構造的に結合している。そして心理システム神経システム形式メディア差異によって関連付いている。つまり、神経システムの作動をメディアとした上で、心理システムの「意識」や「思考」が形式化されるということだ。そしてこの神経システムは、更に生命システム構造的に結合している。

ここでいう「構造的な結合(Strukturelle Kopplung : Structural coupling)」とは、複数のシステムが互いにメディア形式差異で関連付いている状態を意味する。社会システム心理システム構造的に結合しているのは、社会システム心理システム形式化させるメディアであると同時に、心理システムもまた社会システム形式化させるメディアになっているということだ。システム構造は、外的環境に位置する別のシステム構造と潜在的に関連している場合がある。その関連性は緊密である場合もあれば、緩やかである場合もある。専らその関連性が顕在化するのは、双方のシステムが相互に刺激し合う場合だ。この関連性をルーマンは構造的な結合と呼ぶ。

ソフトウェア・エンジニアやアーキテクトにもわかり易い表現で言えば、この構造的な結合には、コンポーネント図のアセンブリコネクタのようなインターフェイスが介在している。例えばルーマンは、社会システム心理システム言語を介して構造的に結合しているという。社会システムは、心理システムがどのような意識思考や表象を構成しているのかがわからない。心理システム言語を処理することによって、漸く社会システムも大まかにその内容を知ることができる。一方心理システムは、考えていることを口に出して言語化することで、ある程度社会システムコミュニケーションを方向付けることができるようになる。双方は言語を介して相互に刺激し合うことが可能になる。ただし、一方が他方を制御できる訳ではない。確かに言語を介せば、一方から他方へと刺激を与えることで攪乱することは可能だ。だがオートポイエティック・システムは自律的なシステムである。故にその刺激の攪乱によってどのように影響を受けるのかを決めるのは、あくまでその刺激の受け手となるシステムなのである。

この構造的な結合という概念が指し示すのは、オートポイエティック・システムのある程度の開放性である。だがこの開放性は、自己言及的なシステムにおける閉鎖性とは全く矛盾しない。システムは、システム環境差異を拠り所としている。構造的に結合している他のシステムから刺激を呈示されれば、受け手となるシステムの外的環境変異することになる。そうなればシステムは、システム自身とその新たに変異した外的環境との差異を確保しなければならない。ここにおいてシステムは、システム環境差異を再構成することになる。だがその差異は、システム内で構成された差異だ。したがってその差異は、<システム>と<内的環境>の差異なのである。この<内的環境>は、新たに変異した外的環境とは必ずしも一致する訳ではない。だがこの<内的環境>と<システム>の差異システムの内部で再構成されたことによって、その<内的環境>と<システム>を包括しているシステムもまた再構成されたことになる。したがって、システムと外的環境差異もまた再構成されたことになるのである。

生命システムの構造としての身体

神経生物学者のウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラのオートポイエティック・システム理論を参照すれば、生命システム構造は「身体(Körper)」であることがわかる。ニューラルアンサンブルのネットワークによって構造化された神経システムは、この生命システム身体構造的に結合することによって、心理システム知覚形式化させるメディアとして機能している。社会システム心理システムと同様に、生命システムもまた、オートポイエーシス的な作動を継続している。生命システムは、遺伝子というコードに基づき、自律的に作動の閉鎖性を保持していく。

生命システムがオートポイエティックな作動を停止させれば、その生命システムで成立していた人間は死ぬことになる。生命システムが作動を停止させれば、その破局的なショック効果構造的な結合を介して神経システムへと波及していく。言い換えれば、生命システムが死ぬということは、神経システムも死ぬということだ。

死人に口は無い。コミュニケーション構成できるのは、生きた人間のみである。死んだ神経システムから心理システム構成されることは、のところはまずあり得ない。仮にこの地球上の全ての心理システムがその作動を停止させれば、心理システム構造的に結合している社会システムもまた作動を停止させることになる。したがって生命システムの作動は、社会システムが存続するための基盤を提供しているとも考えられる。

しかしルーマンは、こうした生命システムの作動で社会を基礎付けようとはしなかった。彼の理論編成からすれば、生命システム社会システム外部環境に位置する。そして社会システムの存続を可能にしているのは、社会システムに他ならない。自己言及的でオートポイエーシス的なシステムとしての社会は、コミュニケーションという出来事を要素として構成されている。生命システム身体は、あくまでこの社会システムの自律的な作動の前提でしかない。無論生命システムの側から社会システムに影響を与えることも可能だろう。だがその影響を如何にして受け入れるのかは、社会システムが決めることなのである。別の言い方をすれば、生命システム社会システムの必要条件であって、十分条件ではない。この十分条件を満たし得るのは社会システムだけなのだ。

共生機構と象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアの関連

このルーマンの理論を前提とすると、人間身体コミュニケーションに影響を与えるという当たり前の事実が、逆にわかり難くなるように思えるだろう。だがその代わりとしてルーマンは、様々なコミュニケーション・メディア身体との関係に関して、新しい比較の観点を導入してくれている。如何なるコミュニケーション・メディアも、象徴的な一般化だけから成り立つ訳ではない。コミュニケーションに参加する諸人格は、共に身体的で有機体的な存在であるという事実に基づいた制約を受けている。それ故コミュニケーション・メディアの成立は、身体を有する生命システムの共生的な条件にも左右される。そこでルーマンは、この象徴的な一般化生命システムの共生との関係を記述するために、「共生機構(Symbiotischen Mechanismus)」という新たな概念を提唱するに至った。

あらゆるコミュニケーション・メディアは、共生機構を促進させていく。と言うのも、諸々のコミュニケーション・メディアは、それに対応する機能システムコミュニケーション形式化させていくと同時に、その機能システムに関連する組織相互行為に舞台を提供するからである。例えば象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディアとしての愛は、家族という機能システムコミュニケーション形式化させる。結婚という制度がこれにより成立すれば、組織システムとしての家族が作動し始めることが可能になる。愛し合う者たちの生命システムは、こうしたシステムの作動によって、共に暮らすことになる。幾多の相互行為が生み出されるだろう。この意味コミュニケーション・メディアは、共生の空間時間を提供することによって、共生機構を育んでいくのである。

構造の「非」意味論的な機能的等価物としての「共生機構」

こうした生命システムの共生は、一方でコミュニケーション・メディアの成立を方向付けることができる。生命システムが有する情報処理能力の条件と制約は、あらゆるコミュニケーション・メディアの成立に共通の前提条件となるだろう。例えば酸素の無い場所では、愛を育む前に窒息してしまう。既に取り上げた極端な例を繰り返せば、あらゆる生命システムが死に絶えてしまえば、もはやコミュニケーション・メディアに成立の余地など無い。他方でこうした共生は、それぞれのコミュニケーション・メディアに独自の影響力を持っている。例えば家族システムの愛の場合には、「性的関心(Sexualitat)」が特殊な関連性を持っている。学問システムの真理の場合ならば、「知覚(Wahrnehmung)」が重要となる。経済システム貨幣の場合には、「身体的な欲求(körperliche Bedurfnisse)」を充足させるために支払いが実行されるということが前提となる。政治システムの権力の場合には、身体に対する「暴力行為(Gewalt)」が特別な意味を持つことになる。

それぞれの機能システムは、生命システムと独自の共生機構を結んでいる。とはいえこれらの共生機構は、それぞれ比較することができる。生命システムの共生を無視することはできない。これはどの共生機構についても言えることである。真理の問題においては、何が知覚されるのかという点を無視することはできない。同様に権力の問題においては、物理的な暴力を行使することが許される正統な能力の所在を無視することはできない。

コミュニケーション・メディアによるコミュニケーションに対する方向付け>と<共生によるコミュニケーションに対する方向付け>が合致している場合、コミュニケーション比較的安定化することになる。逆にこれらの方向付けが合致しない場合、コミュニケーションは不安定化する。例えば一国の総理大臣が体調不良に陥れば、それだけで政治システムコミュニケーションは異常事態に直面してしまうことになる。如何に総理大臣に権力が集約していようとも、総理大臣の身体機能不全に陥れば、簡単には権力を発揮することができなくなる。

安定したコミュニケーションを持続させたいのであれば、共生による方向付けに依拠することが望ましい選択となる。このことは、偶発性に曝されている状況においては、特に言えることだ。と言うのも、共生による方向付けは、膨大に溢れている可能な選択肢を限定する上で有用だからである。この意味で共生による方向付けは構造機能的等価物となる。例えば機能的に分化した近代社会では、階層的に分化した社会の身分制度に基づく構造は崩壊している。我々の誰もが、もはや自由に結婚することが可能になった。だがそれ故にこそ愛のコミュニケーション偶発性に曝される羽目になる。その時、性は礎として、あるいは愛の証として、重要な方向付けとなる。肉体関係を持った相手を遠慮なしに特別視できるというのは、結婚相手の候補を限定する上で有用になる訳だ。

こうした共生機構は、意味構成の過程よりも高次の水準で作用する。と言うのも生命システムは、「意味」を構成するシステムである社会システム心理システム外部環境に位置するためだ。だから共生機構は、近代化の過程で階層的な分化から機能的な分化へと社会構造変異した場合にも、比較的影響を被らずに済んだのである。愛のコミュニケーションにおいて性が特別視されていたのは、近代の結婚制度が確立される以前からであった。生命システムの共生は「意味」を構成するシステムから独立している。故に共生機構は「意味」を構成するシステムだけから成る象徴的な一般化からは厳密に区別されるのである。そしてこの共生機構は、構造とは別のあり方でもあり得る方向付けから意味構成の選択肢を限定することができる。だから象徴的な一般化に携わる「意味」の構成システムは、この共生機構による選択肢の限定を前提とすることで、コミュニケーション・メディア形式化を促進させることもできる。

社会システム心理システムから観れば、生命システムの共生は有用である。だが社会システム心理システムには共生機構の全てを制御できる訳ではない。だから社会システム心理システムは、言わば無理を承知で、生命システムに共生するようにと訴え掛けている。そうした訴えは、端的に自己充足の禁止によって実行されている。例えば性を愛の証とするのであれば、それぞれの生命システムに自慰行為を控えて貰わなければなるまい。性的欲求を充足されてしまえば、性交への情動も伴わなくなる。これは、愛というコミュニケーション・メディア共生機構に基づいて形式化させようとしている社会システムからすれば、不都合極まりない。だから自慰を嘲笑の的にすることや、タブー視することには、一定の「意味」がある。

愛における自慰の禁止などのような共生機構上の都合は、他の機能システムにおいても見出せることだ。例えば貨幣の場合、誰もが自給自足で生活していけるのであれば、もはや貨幣を交換していくことの意味が薄れていくだろう。権力の場合における物理的な暴力についても、同様のことを指摘できる。権力者が自分自身に物理的な暴力を行使すれば、自壊するばかりで、もはや統率する組織の秩序を維持することはできなくなる。真理の場合には、長らく主観的な証明でしかない研究活動が軽視されてきた。自分本位の結論は教義(Dogma)であって、真理ではないとされる。誰もが知覚し得る客観的な証明を介さなければ、誰も納得できない。

共生機構という概念が指し示しているのは、生命システムの共生という土台の上で、象徴的な一般化という意味構成が加わることによって、初めてコミュニケーション・メディアが特定の機能を発揮し得るようになるということである。言い換えれば、生命システムとの共生機構は、意味論的に観れば、象徴的に一般化されたコミュニケーション・メディア形式化させるメディアなのである。

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