「時間」感覚の等価機能主義的な社会システム理論

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問題設定:時間の観察は如何にして可能になるのか

時計が告げる以上に詳細な「時間」を感じ取ろうとする者は、この「時間」という概念が極めて移ろい易い不確実な感覚に基づいていることを痛感せざるを得なくなる。過去現在未来へと連続的な線分として流れていくという時間概念は、既に説得力を失っているのだ。

や我々は、こうした線分としての時間概念に対する反対意見が、かつてアウグスティヌスによって提出されていたことを思い出さなければならない。アウグスティヌスによれば、およそ在るのは全て「現在」である。ただしこの現在は三つに区別することができる。つまり現在には、<過去についての現在>、<現在についての現在>、そして<未来についての現在>があるのだ。アウグスティヌスによれば、この<過去についての現在>が記憶に結び付き、<現在についての現在>は直感に結び付き、そして<未来についての現在>が期待に結び付くという。

問題解決策:近代科学

アウグスティヌスを抜きにすれば、時間という概念が自覚されるほどに明確な観察の対象になったのは、近代科学が創始された後のことであった。近代科学以前の時間概念においては、例えば日没と共に「夜」という時間が訪れると言った具合に、時間は個別具体的な出来事の推移から認識されていた。これに対して近代科学以降の時間概念は、時計の針がただ時を刻んでいくように、時間それ自体が独立変数として測定されるようになる。

決定的な契機となったのは、ガリレオ・ガリレイによる自由落下運動の研究だ。彼の研究方法においては、距離と速度時間との関連で記述されることになる。だが時間の経過それ自体がそれ以外の概念から影響を受けることはあり得ない。このことが、彼の方法の大前提であった。彼のこの研究方法は、後にアイザック・ニュートンの物理学によって受け継がれることになる。つまりこの時点で時間という概念は、時間以外のあらゆるものと無関係に流れていく概念として定着したのである。

ニュートンが絶対的に独立した概念として定義したのは、時間だけではなかった。彼は空間をも絶対的な概念として定着させたのである。彼によれば、空間は本質的に空間以外のあらゆるものと無関係で、不動のままである。ニュートン以来、長らく我々は、まず初めに空間時間存在を前提としていた。我々が事物を観察する際には、この絶対時間と絶対空間の中の事物を対象としていたのである。しかしマックス・プランクが黒体放射に関する実験結果を提出し、アルバート・アインシュタインが特殊相対性理論を提唱して以来、徐々にこれらの想定は破綻することになった。

プランクの測定結果が言い表していたのは、原子が不連続な跳躍の形式で光を発しているということである。原子が光を発するのは、丁度振り子が揺れる場合と同じようになる。プランクによれば、原子は振動する電荷から成り立っている。光が照射されると、原子のエネルギー含有量も変異する。その変異は不連続に起こる。ある原子が吸収放出する光のエネルギーには最小値がある。この最小エネルギーこそが「量子」である。この関連からプランクは、不連続性こそが自然の根本的な性質であると主張した。量子論が創出されたのは、この時である。

時を同じくして、アインシュタインが特殊相対性理論を提出した。彼の相対性理論は、空間時間の相対性を記述する理論だ。ただし、ここでいう「相対性」という表現は読者に注意を要している。アインシュタインがこの理論を記述する上で前提にしていたのは、精確な物理学上の法則は全て「絶対的」であるという仮定だ。彼が絶対的な法則として提示していたのは、真空における光の伝道速度に他ならない。光は、どの時間のどの空間から観測しても、分速約1800万kmの速度で伝道していく。それはどの光源から発せられた場合も変わらない。つまり光の速度は絶対的なのである。

しかしそれ以外の観測は、全て相対的だということになる。物理学者ゲーザ・サモシがわかり易く解説しているように、ある自動車の速度が40kmだと述べても、観測者は絶対的な事実を述べたことにならない。何故なら、その観測者が別の自動車からその自動車を観測していれば、その自動車の速度は、観測者が乗車している自動車の速度次第で相対的に変化してしまうからである。しかしながらこの世界には、観測者が動作していようと静止していようと、観測すれば正確な結果へと至ることを保証してくれる物理法則は無い。仮に自分が完全に静止していると考える観測者がいたとしても、その認識は錯覚に過ぎない。観点の規模を大きくして観れば、我々は絶えず自転している地球の真上に位置している。その意味で言えば、静止している観測者などいない。だが平地を走行している自動車と比較するならば、座っている観測者は相対的に静止していることになるだろう。しかし絶対的に静止しているとは言い切れない。これは空間に関する一例だが、無論時間にも該当する。

派生問題:時間感覚の観察は如何にして可能になるのか

しかし一方で、神経生理学や精神物理学の間では、「時間感覚(Time sensation)」の歪みという事象が何度も報告されている。例えば自動車に轢かれそうになった瞬間に起こる「スローモーション(slow motion)」の現象は既に有名な話になっている。危機的状況でショック体験を受けた者の心理システムは、ある典型的な異常状態を伴わせる。神経科学者ピーター・ツェーらの報告によれば、我々が知覚する時間の長さは、脳の瞬間的な情報処理率に依拠している。脳の情報処理率は、「型破りな(oddball)」注意対象に遭遇した場合に、急激に上昇するという。脳内の情報処理率が急激に上昇した場合、神経システムはより多くの情報を処理することになる。

デイヴィット・イーグルマンの詳細なレビューで指摘されているように、多くの精神物理学的な報告が冗長的な刺激で時間知覚が縮減するという解釈を提示していることは、特筆すべきことである。刺激が冗長的であれば、心的な時間間隔が縮まるのである。我々は、習熟した出来事や慣れ親しんだ状態を知覚する場合には、時間が直ぐに過ぎ去っていくかのような感覚を持つ。逆に生命の危機を脅かすようなショック体験のように、既存の秩序や固定観念を打破するような出来事や状態に遭遇した場合には、心的な時間感覚拡張されることになる。毎年同じような日常を繰り返していれば、年を取るごとに、1年が短く感じるようになるだろう。波乱に満ちた非日常を体験していれば、その1年は長く感じるのかもしれない。交通事故に遭遇した者がその瞬間に垣間見るスローモーションの世界も、この一例であろう。

とはいえ、時間の経過が長く感じるからといって、スローモーションの現象が本当に起きているのかはわからない。それはもしかすると、後から想起した場合に、そのように感じてしまうだけなのかもしれない。その者は、その出来事から異常に長い時間知覚しているのではなく、その出来事記憶を異常に長かった時間として想起している可能性もある。そこでイーグルマンらは、ショック効果を呈示する自由落下アトラクションを利用した人体実験によって、この真偽を確かめようとした。

被験者となるダイバーたちは、45メートル以上の地点から、ノーロープバンジーを行なう。下部に設置されてあるネットに落下するまでの約3秒の間に、ダイバーたちには時間の長さを知覚して貰うことになる。落下を終えたダイバーたちには、ストップウォッチでどの程度の長さの時間を感じたのかを計測して貰う。すると、実際の滞空時間よりも平均して36%ほど長い時間を感じ取ったという結果が得られた。

落下中のダイバーたちは、「知覚クロノメータ(perceptual chronometer)」という腕時計型の実験装置を装着していた。その画面には、次々と異なる数字が点滅して表示される。点滅速度は徐々に高まる。そして遂には認識不可能なまでに加速化していくという。落下中のダイバーたちの時間感覚が歪むことで、時間の経過を遅く感じるようになると仮定してみよう。この場合、如何に通常の認識可能な速度を上回る速度で点滅していようとも、ダイバーたちはその数字を視認することができるはずだ。

そこでイーグルマンらは、落下直後のダイバーたちに、自分が画面上で見た番号を回答して貰うことにした。だが結局、ダイバーたちの認識能力が増大したという結果は得られなかった。つまりこの研究から言えるのは、落下中の被験者たちの意識の中では、時間の経過が遅くなるというスローモーションの現象は発現していないということなのである。

このように結論付けてしまっても、ダイバーたちが実際の滞空時間よりも約36%ほど長く時間を感じ取ったことの説明が付かなくなる訳ではない。ダイバーたちが通常よりも長く時間を感じ取ったのは、その出来事から異常に長い時間知覚したからなのではなく、その出来事記憶を異常に長かった時間として想起しているためなのである。長く感じたという被験者たちの報告は、後から振り返ると長く感じるということなのであって、実際に時間が減速した訳ではないのである。

このことを説明するためにイーグルマンは、記憶の「密度(density)」という概念を取り上げている。彼によれば、恐怖体験をはじめとしたショック体験に直面している者の脳内では、扁桃体が異常に活性化することになるという。すると、海馬体をはじめとした他の部位で処理されている通常の記憶に加えて、別様の記憶が生み出されるという。その記憶は通常の記憶に比して豊か(richer)であると同時に、濃密(denser)でもある。これは、扁桃体の活性化を起因とした「通常よりも濃密な記憶の形成(denser-than-normal memory formation)」に他ならない。

ここでイーグルマンが述べている記憶の密度とは、言わば蒐集される記憶の新鮮味を含意している。我々は初めて体験する出来事ほど、高密度な記憶として蒐集していく。だから子供は、大抵の出来事を濃密な記憶として蒐集していく。子供にとって、大抵の事柄は新鮮なのである。逆に老人は、多くの出来事体験してしまっているために、中々新鮮味のある出来事には直面しない。だから老人が新たに蒐集した記憶は、子供が新たに蒐集した記憶に比して、密度が低いのである。

イーグルマンによると、濃密な記憶であれば、それだけ想起時間を費やしてしまうという。だから我々は、濃密な記憶となった出来事想起した場合に、実際に起きた出来事よりも長く続いたかのように錯覚してしまうというのである。だとすれば、常日頃から濃密な記憶蒐集し続けている子供は、老人よりも日常の時間を長く感じていることになる。逆に言えば、新鮮味の無い日常を送り続けている老人ほど、一年の経過が速く感じてしまうということになる。

こうして「時間」という概念を観察しようとすれば、我々は一つの根本的な逆説に直面することになる。時間感覚は恐らく、老若男女で千差万別である。故に時間感覚を定義するためには、自身の主観的な感性を反省した上で、普遍的に妥当する時間概念を特定していく必要がある。だが一方で、客観的な視点から時間概念を論じれば、各人の時間体験内容を度外視することになる。こうした困難に対処するためには、一般性や普遍性に対する視点と個々人の体験に対する視点を同時に確保する方法が必要となる。そしてその方法に準拠した上で、個々の時間感覚やその体験一般化した理論を記述することにより、初めて時間を定義した上で論じることができるのである。

問題解決策:等価機能主義

そのための「方法(Method)」と「理論(Theory)」として、私はドイツの社会学者ニクラス・ルーマンの「等価機能主義(Äquivalenzfunktionalismus)的な社会システム理論(Sozialsystemtheorie)」を推奨したい。ルーマンの「等価機能主義(Äquivalenzfunktionalismus)」は、非常にシンプルな思考技術だ。簡単に言えば、この方法は、次の5つのステップによって成り立っている。

  1. 問題を設定する。
  2. 問題設定を前提とした上で、その解決策として役立つ既知の選択肢を活用する。
  3. 問題設定を前提とした上で、その解決策として役立つ未知の選択肢を探索する。
  4. 探索して発見した新たな選択肢を既知の選択肢と比較する。
  5. 比較した上で、特定の選択肢を問題解決策として実践する。

このように表現すると、非常に簡単で、尚且つ当たり前の思考技術であるかのように思える。しかし、この既知の選択肢、未知の選択肢、比較、そして特定の選択肢といった概念を詳細に説明するなら、これが只事ではないということがわかってくると思う。

機能的等価物の比較可能性

等価機能主義は、複数の「機能的等価物(funktionalen Äquivalenten)」の「比較(Vergleich)」を経由して、特定の問題解決策を選択して実践していく。

ここでいう「機能する」というのは、単に問題の解決において有用であること、役立つこと、メリットがあるということを意味しているに過ぎない。そして、「機能的に等価である」というのは、特定の問題設定を前提とした上で、その問題の解決に際して同様に機能していることを意味している。選択肢Aと選択肢Bが機能的に等価となるのは、特定の問題Xの解決に、双方とも有用で役立ちメリットを発揮している場合のみだ。

注意しなければならないのは、任意の問題解決策を恣意的に羅列しても、機能的等価物を提示したことにはならないということだ。例えば「イチローよりも早く走ること」が問題である場合、自動車と飛行機は機能的に等価と見做せる。だが「空を飛ぶこと」が問題である場合、自動車と飛行機は機能的に等価ではない。自動車には飛行することができないためだ。このように、あくまで同一の問題の解決に役立つことが、機能的等価物の条件となる。

等価機能主義者が比較を実施する場合、ブレインストーミングした結果浮上してきた選択肢や恣意的に羅列した選択肢を比較する訳ではない。あくまで、特定の問題設定を前提とした上で、その解決に資する機能的等価物比較のみを着眼とする。

概して、等価機能主義者は、無数に遍在する複数の選択肢を「機能」概念で分類する。等価機能主義においては、特定の問題設定を前提とした上で、「機能的等価物であるが故に比較可能な選択肢」と「機能的等価物ではないが故に比較可能ではない選択肢」とを区別することが重視される。この問題設定機能的等価性を前提とした選択肢の選択を特に「機能分析(Funktionsanalyse)」と呼ぶ。

目的志向と問題志向の差異

長らく機能主義は、「機能」概念を「達成されるべき目的」として「定義」する傾向から逃れられなかった。しかしこのように定義してしまうと、それは事前に予期されて、意図された目的の達成に資する処理や振る舞いだけが「機能」であるという、視野の狭い結論に至ってしまう。

これに対して等価機能主義は、因果関係や目的手段の図式を前提とした機能概念ではなく、数学的な機能概念を推奨している。「機能(function)」という概念を数学的な「関数(function)」として捉えることによって、視野の狭い目的意識から距離を取っている。

機能(function)」を「関数(function)」として捉えることは、ソフトウェア・エンジニアやデータサイエンティストから観れば、特に新しい発想ではないだろう。しかしこれがアルゴリズムデータ構造の話ではなく、あくまで社会現象やコミュニケーションに関する話であることを念頭に置けば、この発想の射程の広さが実感できるはずだ。

等価機能主義を形作ってきた社会科学のとりわけ機能主義的社会学では、目的論に束縛されない機能概念が追究されてきた。例えば社会学者タルコット・パーソンズは、ある行為が複合的に構成された一つのシステム統一体を存続させるために貢献する場合に限り、その行為を機能と見做した。パーソンズが定義するシステムとは、行為についてのシステムであった。それらの行為は相互に依存し合う関係にある。そしてその相互依存関係によって、システム環境に対して相対的に不変なパターンを維持し得るようになる。あらゆる行為は、それが含まれているシステムの存続に貢献することによって、一つの機能を有するようになる。この場合、行為は単なる原因なのではない。システムのためにこそ行為したという点で、それは結果にもなり得るのだ。

しかしパーソンズのようにシステムの存続に対する貢献として機能概念を捉え、それを認識論の現場で応用したところで、結局のところ因果関係を事後的に説明しているに過ぎない。ある行為が実行された原因はシステムが存続するためであると考えることもできれば、システムが存続しなければならなくなった結果としてその行為が実行されたとも考えることができる。いずれにせよこの機能概念は、因果論的な科学の方法論を要求していることになる。

因果論的な方法を採用した場合に陥ってしまう誤謬となるのは、原因と結果の関連付けから生じる問題だ。原因と結果は一対一の関係として成立している訳ではない。多くの原因から一つの結果が起こり得る場合もあれば、一つの原因が多くの結果を引き起こす場合もある。結果から原因を説明することはもはや不可能だ。特定の原因と特定の結果の間に不変の関係を見出そうとしても、成功するはずがない。何故なら、そうした関係についての別様の可能性排除することができないからだ。諸原因と諸結果の組み合わせは、想定できるよりも遥かに膨大な数となる。仏陀にはじまる原始仏教徒たちが見出した「因縁」という用語が物語るように、<一切>が<一切>と関連付いている可能性すら、我々は排除できない。

したがって、因果論的な方法に準拠する観察者が特定の原因と特定の結果の関連付けを確定させるには、それ以外の別のあり方でもあり得る可能性を原理的に排除しなければならない。言い換えれば、因果関係を論じた場合の結論は、その結論とは別の可能性から目を逸らした場合に成り立つ。因果論とは、視野が狭い者たちによって選択された理論だということになる。

数学的な機能概念が社会科学に取り入れられた歴史的背景

この論点から等価機能主義者ルーマンは、機能概念を因果論の束縛から解放することになった。ルーマンは、自身の等価機能主義的な方法を記述する上で、未開社会の慣習や儀礼を観察したことで有名な文化人類学者マリノフスキの機能分析を引き合いに出している。

マリノフスキの分析によれば、儀式の機能は、情緒的に対応困難な事態に適用するという問題を参照することで説明されている。飢餓という破局に満ちた当時の世界は、とても安定した情緒を保ち続けるほど安定した生活世界ではなかった。これに対して儀式は、その集団において正しいとされる行動の可能性や必要性を形式的に定義してくれる。その形式は、集団に共通の行動を促すことによって、その集団の団結心を高めてくれるのである。

ルーマンは、このマリノフスキの機能分析を例示することで、機能分析機能を説明している。機能分析機能とは比較可能性を拓くことにある。機能の分析者は、個々の分析対象を抽象化した上で関連付ける。その抽象化における観点は、また別の対象を分析できるように視野を拡張してくれる。

マリノフスキが儀式の機能を情緒的に対応困難な情況への適応にあると言う場合、それによって参照されている問題の解決策として、他に何があり得るかという問いを暗に仄めかしている。それは言わば、儀式の機能的等価物可能性に我々の注意を引いている。この場合、儀式の機能的等価物として、ユーモアや現実逃避などが挙げられるだろう。

こうした機能的等価物比較において重要となるのは、特定の原因と特定の結果との間の法則のような尤もらしい関係を確定させることではない。むしろ不確実な結果の観点から、より確実な原因の機能的等価物を発見することこそが重要になる。

ルーマンは、この機能的等価物という概念を機能主義の脱因果論を果たす上での鍵として捉えていた。彼は機能を結果を生み出す原因としてではなく、むしろ物事を規定する「意味図式(Sinnschema)」として記述した。この意味図式は、機能的等価物同士を比較する領域を組織化している。個々の事象は個別具体的に生起しているが故に代替不可能であるかのように思える。だが等価機能主義の観点から観れば、そうした個々の事象もまた一定の意味図式を共有する限りにおいて代替可能で比較可能な関係を構成する。

「抽象化」の機能

以上の機能概念は、ルーマンも述べているように、数学的な機能概念に基づいている。機能とは、字義通り「関数(Funktionen)」に他ならない。関数は入力される引数次第で異なる結果を出力する。ある引数が入力されて実行している場合でも、その関数は、別のやり方で機能する可能性排除している訳ではない。入力される引数が別の変数となるのなら、無論<入力された引数>と<実行処理>とを「原因」と「結果」の一対一の関係として認識することは許されない。

関数がそうした別様の可能性排除せずに作動し得るのは、その関数自体が抽象化されているためだ。そうして抽象化された複数の関数観察するアーキテクトなどのような観察者ならば、設計時にどの関数を利用することで機能要件を満たすべきかを比較することができる。プログラマならば、既に特定のシステムの中で機能している関数を別様の機能的に等価関数に代替することによって、リファクタリングを実践することもできるだろう。

システム機能を数学的な「関数」として把握できる設計者は、入力値と出力値との間に伴う「別の組み合わせの可能性」を考慮に入れることで、「拡張性(extensibility; scalability)」の高いシステム設計することを可能にする。以後の運用との兼ね合いからシステムの一部を置き換えて性能を向上させる仕組みや、ソフトウェアの部品を追加することで機能を増やす仕組みを可能にするには、因果論的に特定されている因果関係が数学的な機能概念においては特殊事例(use case)の一つに過ぎないと想定しておかなければならない。

機能的関係が因果関係の特殊事例なのではなく、因果関係こそが機能的関係の特殊事例であると言える。この発想の転換は、等価機能分析に色濃く反映されている。等価機能主義は別のあり方でも可能な問題解決策の探索を重視する。しかしこの脱因果論的な方法は、原因から結果の仮説を設定する「仮説検証型の思考回路」や理由から結論を組み立てていく「演繹的な思考回路」とは区別される。その一方で、この徹底的に抽象化を重視する方法は、個別具体的な事例に関する経験則の蓄積によって一般化可能な真理を見出す「帰納的な推論」とも異なっている。あえて位置付けるのであれば、等価機能分析問題解決策の探索発見を重視するヒューリスティック(Heuristik)な方法であると言える。探索して発見があれば、それで良いのだ。

機能的等価物の機能的等価物

等価機能主義的に機能的等価物の代替可能性を強調し過ぎれば、論理学で言うところの「無限後退」に陥る可能性を指摘されてしまうだろう。つまり、ある選択肢と代替可能な機能的等価物があるのならば、その機能的等価物機能的等価物にまで視野を広げなければならないという訳だ。そうして機能的等価物探究し続ければ、遂には等価機能主義それ自体の機能的等価物にまで注意を払わなければならなくなる。

そうした批判の妥当性否定するつもりはない。しかし、等価機能主義的な方法機能は視野を拡張させることにのみある訳ではない。この方法は「選択と集中」に基づく決断の精神においても援用することができる。つまり、機能的に等価な選択肢を捨象する際にも、この等価機能分析機能する。理由は単純だ。選択肢Aと選択肢Bが機能的に等価であることを確認したのならば、後はどちらを選択しても良いからだ。ダーツで決めても良い。サイコロを振っても良い。どちらを選択するにせよ、既にメリットや有用性は等価であることがわかっている。

偶発性の必然性

等価機能主義的な思考技術は、このように、「選択の負担」も軽減してくれる。ただし、この選択の背景にあるのは、一種のパラドックスである。あらゆる選択者が遭遇する根本的なパラドックスは、「偶発性必然性」という一言に要約される。ここでいう「偶発性(Kontingenz)」とは、単なる「偶然性」ではない。様相論理学的に言えば、この概念は「不可能性必然性同時否定した状態や状況」を意味する。ある選択肢を選択することが偶発的である場合、その選択肢を選択することは可能ではあるものの、必然ではないということになる。

必然性可能性、そして偶発性といった様相概念は、アリストテレスが論理学に導入して以来、後の論理学に多大な影響を与えた。様相論理学は従来の二値論理学とは区別される。二値論理学は真と偽の差異を論じる一方で、様相論理学は様々な様相概念を論じる。例えばアリストテレスの『命題論』によれば、必然性とは<否定の不可能性>として定義されている。一方、可能性とは否定の非必然性として定義される。アリストテレス以降も、イマニュエル・カントの主観的認識論的な様相論理学を、フリードリッヒ・ヘーゲルが客観的存在論的な様相論理学を、それぞれ展開している。それぞれが様々な意味付けを行なってきた。だが偶発性必然性と不可能性同時的な否定であるという点に関しては、ルーマンに至るまで基本的に大きな変化は無かった。

様相概念は元来事物それ自体の在り様として記述されていた。だがこれに対しカントの超越論的哲学における様相論は、「私」という認識主観と対象との関係として位置付けられている。カントは、「私」が知覚するということに、現実性という様相概念を新たに割り当てることによって、「私」とは区別される外的な対象の存在論様相論理学の分析対象として記述できるようにしたのである。興味深いことに、カントの様相論は時間論的でもあった。知覚経験可能性は、他ならぬ時間による制約を受けているためだ。時間は、可能性の範囲を限定しているとも言える。

カントが認識主観との関係から様相概念を記述したのに対して、ヘーゲルはより客観的な現実との関連からそれを記述している。それは<可能的>と<現実的>の差異によって明示される。ヘーゲルによれば、可能的であるということは、起こることもあれば起こらないこともあるということを意味する。一方現実的であるというのは、現に起こっているということを意味する。現実的なものというのは、常に可能的なものが現実化したものであると共に、偶発的なものでもある。現に起こっていることというのは、現に起こらなかった可能性もある。故に現実化した事象の全ては偶発性を兼ね備えている。しかしながらヘーゲルによれば、一方で現実的なものは常に必然的でもあるという。何故なら、可能性の諸条件が守られさえすれば、それはいつでも必然的に現実化し得るためだ。そのためヘーゲルの様相論理学は現実における偶発性必然性矛盾によって特徴付けられる。

ルーマンの様相論は、認識主観との関連でもなければ、現実的なものとの関連でもない。あくまで等価機能主義との関連から記述される。ルーマンが偶発性を取り上げる場合、それが等価機能主義における問題設定問題解決策と密接に関わっていることが、大前提となる。とりわけ機能的等価物の分析においては、この偶発性概念はパラドクシカルな意味を帯びてくる。機能的等価物可能性を前提とした場合、あらゆる問題設定問題解決策は<偶発性必然性>というパラドックスに直面する。偶発性とは、確かに必然性否定した状態を意味する。しかしながら、あらゆる出来事や状況、状態が偶発的であるとするなら、偶発性それ自体が必然的に生じているということになる。こうした<偶発性必然化した状況>とは、必然的なものが何もない状況に等しい。逆説的に言えば、「必然的なものが何もない」という状態が、それ自体必然的となっているのだ。

問題解決策:社会システム理論

こうして偶発性とそのパラドックスを直視するルーマンの等価機能主義的な思考技術を支えていたのは、徹底的に抽象化された理論であった。ルーマンは、理論を記述することによって、関連する概念を抽象化し続けた。この抽象化の狙いは、ソフトウェア・エンジニアやアーキテクトがオブジェクト指向設計デザイン・パターンを実践する場合の意図と非常に類似している。等価機能主義における抽象化の意義も、特定の問題設定において機能している問題解決策を別の問題設定においても機能するように、その「再利用可能性(Reusability)」を高めることにある。

ルーマンが抽象的な理論として採用していたのは、「社会システム理論(Sozialsystemtheorie)」であった。「社会システム理論」は、ソフトウェア工学とも縁のある「サイバネティクス(Cybernetics)」の理論等価機能主義的に拡張した理論としても位置付けられる。

サイバネティクスのキー概念としてのフィードバック

このサイバネティクスと我々の研究開発の実践の現場とを関連付けるキー概念は、「フィードバック(Feedback)」であると言える。ユーザー・インターフェースで何かを入力するエンドユーザーも、コマンドラインで何らかのコマンドを入力するエンジニアも、既にシステムによる「フィードバック(Feedback)」に慣れ親しんでいる。

システムに何かを入力すれば、別の何かを出力する。このインプットとアウトプットの間にあるスループットがフィードバックと無関係ではないことは、Webサイトの設計実装に何度か携わっていけば、経験則として把握できるようになるだろう。

一方、アドテクノロジーの配信アルゴリズムビッグデータのレコメンドエンジンなどのように、Webサイトの構築経験程度では想像も付かないほどに複雑なシステム設計する場合、この「フィードバック」という概念を強調して設計していくことが大きな課題になる。何故なら、このI/Oの中間で動作しているフィードバックこそが、アルゴリズムを「ブラックボックス」として捉えられるほどまでに複雑な様相を呈しているからだ。

サイバネティクスのフィードバック理論

サイバネティクス(Cybernetics)」という概念を提唱したのは、数学者であり工学者でもあったノーバート・ウィーナーだ。この用語は、ギリシア語の「操舵手」を意味する「キベルネテス」に由来している。ウィーナーはサイバネティクスを『動物と機械における制御と通信の科学(Communication and Control in the Animal and the Machine)』と定義した。それは我々人間と呼ばれる存在を含めた動物を一種の機械として見立てることで、自己の制御情報の通信をはじめとした様々な営みを概念として記述できるようにする理論である。

第二次世界大戦後にこの概念が提唱されて以来、サイバネティクス理論家たちは動物や機械の概念モデルを構築してきた。例えば「フィードバック・ループ(Feedback Loop)」や循環的な因果関係を前提とした自己制御の機構が概念的に記述されることによって、コンピュータ設計や産業ロボットの開発に多大な影響を与えた。サイバネティクスの影響範囲となったのは、設計や開発だけではない。一方では政治学や経営学の間でも、この概念は注目を集めていた。と言うのもサイバネティクスは、「制御(control)」という概念に関するモデルを提供していた。制御する側と制御される側の関係を記述するサイバネティクス理論は、指導や統率の技術を求める政治学や経営学に一つの理論的な基礎を与えていた。

フィードバックとフィードフォワードの差異

サイバネティクス的なシステム制御機能には二つの形式がある。それは「フィードフォワード(Feedforward)」と「フィードバック(Feedback)」だ。フィードフォワード的な制御は、予測に基づく制御である。これに対してフィードバック的な制御は、結果に基づく制御となる。

フィードフォワード的に作動するシステムは、予め計画された通りに自己を制御する。もしこれにより予測された通りの結果が得られたのならば、システムはそのままの作動を継続するだろう。

その好ましき結果がとりわけシステムの能力増強や強い動機付けとなり得る場合には、そのフィードバックは「ポジティブ・フィードバック(Positive Feedback)」と呼ばれる。一方、逆に結果が好ましくない場合には、軌道を修正する必要がある。そうした結果はシステムの作動を揺るがす攪乱となる。それはシステムにとって否定的な結果であるという意味で、「ネガティブ・フィードバック(Negative Feedback)」と呼ばれる。

グレゴリー・ベイトソンが説明しているように、サイバネティクス理論システムの特定の状態が現に起きた理由や原因を記述しているのではない。この理論の記述は否定的な婉曲話法となっている。言い換えれば、サイバネティクス理論家たちは、「別のあり方でもあり得る現象」を踏まえた上で、「如何にして起きている通りの現象が実際に起きたのか」を記述している。それは実際に起きた現象を直接記述しているのではなく、実際には起きなかった現象との「比較」から現に起きた現象の特性を見極めようとする。

端的に言えば、サイバネティクス理論は「比較」の観点となる。この比較の観点から紡ぎ出された概念モデルは、実際に起きて観察対象となった現象とは類似していながらも観察することが困難極まりない現象を説明する上でのメタファーとしても機能する。我々が「ブラックボックス(black box)」と呼ぶコンピュータ構造的な複雑性をサイバネティクス的なシステムとして把握し得るのは、こうした概念モデルの機能的な単純化から恩恵を受けてきたためだ。

サイバネティクスの限界

しかしながら如何に精巧に組み立てられた概念モデルを以ってしても、サイバネティクス的な理論には遂に説明し切れなかった論点がある。それは「システムは如何にして現実として構成され得たのか」という究極的な根源に関する説明だ。

コンピュータのように、目に見える物質が現実化される仕組みを説明する分には、さして問題とはならないだろう。それは大方、アーキテクトが抱える設計問題となる。しかしながら他方で、生命や心、あるいは社会などといったシステムが現実化される過程を説明する際には、限界が視えてくる。と言うのも、この類のシステムは常に、気付いた時には既に<構成>されているか、あるいは「創発的な進化(emergente Evolution)」を遂げているためだ。

例えば社会学者タルコット・パーソンズが「万人の万人に対する闘争」という自然状態から出発した哲学者のトマス・ホッブズを取り上げる場合には、諸個人が功利的に行為する中で「社会システムの秩序は如何にして可能になるのか」を問題視していた。だがこの問題設定は「社会システムが実現している」という既成事実を暗に自明視している。この社会学的な問題設定サイバネティクスを適用しても、既成事実としての社会システムの作動の実態を観察するだけに留まってしまう。故に「如何にして社会システム設計できるのか」というのまま残る。

セカンドオーダー・サイバネティクスの「固有値」

このを解明するには、ネオ・サイバネティクス理論家であるハインツ・フォン・フェルスターまで待たねばならなかった。彼は「固有値(Eigenwerte)」という数学的な概念を用いることで、このの解明へと迫った。ここでいう固有値とは、システム関数の回帰的なネットワークが構成される中で、後続する作動や演算の出発点となる一時的に安定した状態が生み出される現象を指す。

単純な例を挙げておこう。例えば次のような再帰的な関数は、固有値構成する。

function eigenwerte ( x ) {
    y = (x/2) + 1;
    print(y);
    eigenwerte (y);
}

この関数を実行すると、引数Xを2で割って1を加えるという処理が再帰的に実行される。実際に実行させてみればわかることだが、その計算結果は徐々に2へと収束していく。注意して欲しいのは、ここで引数となるxの初期値が何であれ、それが実数であれば、最終的には2へと収束していくという点だ。どれほど膨大な実数を入力しようと、最終的には2となる。この関数にとっての2という数値が、固有値と呼ばれる概念となる。関数eigenwerteは、最終的には2という固有値を獲得して、それを出力し続けるという意味で、安定的に動作することになる。

この関数eigenwerteにおいては、初期値xは偶発的だ。xに「必然性」は無い。10を入れることも、74を入れることも、12923439などといった数値を入れることも「可能」だ。初期において、この関数が出力する数値は、出力する度に変異している。この意味でこの関数に秩序など観られない。だが最終的には2を冗長的に出力し続けるようになる。

「観察するシステム」と「観察されるシステム」の差異

フェルスターは、この固有値という数学的概念を持ち出しながら、生命や心、知能や知性、あるいは「社会」などといったシステムが、「ノイズから秩序」を生成するかの如く、最終的には自律的に安定化するまでのメカニズムに迫ろうとした。確かに、初めは無秩序にも思えたeigenwerteという関数が次第に2を安定的に出力するに至るプロセスには、何処か「ノイズからの秩序」を連想させるストーリーが感じられる。このメカニズムに迫ろうとする彼にとってのキー概念となったのが、「観察するシステム(Observing System)」という概念だ。

観察するシステム」は、「観察されるシステム(Observed System)」ではない。「観察されるシステム」は、ソフトウェア・エンジニアが言うところの機能要件や非機能要件が外部の環境から付与されている「他律的なシステム」に過ぎない。これに対して「観察するシステム」は、そうした機能要件や非機能要件などといった動作の条件を自己自身で構成する自律的なシステムと考えられる。

ウィーナーのサイバネティクス的な理論で記述されるシステムは、皆「観察されるシステム」であった。かつてのサイバネティクス理論家たちが論及するシステムは、その理論的な視点に依拠した観察者によって記述されたシステムであった。それは、観察者の視点が観察対象となるシステムの外部に位置していることを意味している。これに対してフェルスターの「観察するシステム」は、観察者の視点がむしろシステムの内部に位置することを告げている。

システムと外部環境の差異

重要なのは、この固有値計算を可能にする機能(function)が、「自己言及的(Selbstreferentiellen)」になるということだ。実際、上述したeigenwerteという関数(function)は、eigenwerte自体に言及して、再帰的に呼び出している。これは、言い換えれば、関数eigenwerteが、<関数eigenwerte自身>と<それ以外の外部環境>とを「区別」しているということを物語っている。

システム自身>と<その外部環境>をシステム自身で区別せよ(Draw a Distinction)。これこそが、自律的な「観察するシステム」に求められる最大の機能要件である。フェルスターが論じた「システムの内部における観察者の視点」の正体は、システムの内部において、<システム自身>と<その外部環境>の「差異」を構成する「区別」の視点に他ならない。

だがここでいう<システム自身>と<その外部環境>のそれぞれは、共に当のシステムそれ自体の「部分」である。ここで、システム「全体」の内部に「部分」としての<システム自身>が包含される事態が言い表しているのは、その「部分」としての<システム自身>が、システムの「全体」に対して肉薄するということである。そして、多値論理学者ゴットハルト・ギュンターも述べているように、事再帰に至っては、「部分」が「全体」を凌駕し得るのである。

「それ自体の中心を伴った自己反省のシステムは、システムとその環境との『境界を引く(drawing a line)』能力がなければ、現に作動しているように作動することは不可能であろう。これは、全体としての宇宙には不可能なことである。このことから我々は、次のような驚くべき結論に到達する。すなわち、宇宙の諸部分は、宇宙全体よりも高度な再帰能力を有しているのだ。」
Günter, G. (1962) Cybernetic Ontology and Transjunctional Operations. In G. T. Yovits & G. D. Jacobi Goldstein (Eds.), Self Organizing Systems. Washington D. C: Spartan Books, pp.313-392. Downloaded from www.vordenker.de (Edition:February 2004), J. Paul (ed.) at: http://www.vordenker.de/ggphilosophy/gg_cyb_ontology.pdf. 引用はPDFファイルのp.58より。

そしてこのシステム再帰という観点は、兼ねてよりルーマンが人間の心理や社会をシステムとして把握しようとした際に行き着いていた自己言及性の観点でもあった。

神聖なる水準

セカンドオーダー・サイバネティクスにおける固有値概念は、システム関数の回帰的なネットワークが構成される中で、後続する作動や演算の出発点となる一時的に安定した状態が生み出される現象を指す。この安定状態が、システムの一時的な拠り所となる。ダグラス・ホフスタッター流に言えば、この固有値が、秩序の「神聖なる水準(inviolate level)」として機能する。それは、システムの存続を脅かす不安定性に耐久し得る秩序である。

ホフスタッターは、この関連から音楽における「図」と「地」の関係を指摘したことがある。例えば旋律と伴奏の区別は、そのまま「図」と「地」の差異に対応する。旋律は、伴奏に比して、注意の前面に位置付けられる。「リズム」の表裏もまた、「図」と「地」の関係を構成する。音符を、「一と二と三と四と」という拍子で数える時、旋律の音符はほとんど数の上に対応付けられる。「と」のところには割り当てられない。しかしこの図と地の関係は反転する場合もある。注意深く強調するように、「と」の上に旋律の音符が対応付けられる場合もある。

ホフスタッターの指摘において特筆すべきなのは、バッハのバロック音楽との関連である。バッハの音楽においては、異なる行が、上でも、下でも、中間でも、皆「図」として機能する。そのリズムの中では、「図」と「地」の区別が、「図」の内部へと再帰的に導入されている。この意味で、バッハの音楽再帰的なのである。とりわけ『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ』や『無伴奏チェロ組曲』は、二つ以上の音楽の流れが同時的に進行するように設計されている。彼は独奏楽器に重音奏法を担わせる。ある声部をリズムの表に、また他の声部を裏に、二つの異なる旋律が交互に出入りして相互に響き合うように演奏する。

ホフスタッターも注意を促すように、バッハの音楽複合性はこの程度ではない。『不思議の環』、すなわち「もつれた階層(Tangled hierarchy)」が物語っているのは、終了地点に到着したと思いきや、それが上位あるいは下位の水準での出発点に位置付けられるかのような、「無限(infinite)」の概念である。その様相は、再帰的な自己言及の「リズム」として形態化している。

基底的自己言及と過程的自己言及と反省の差異

ルーマンは、この固有値や『不思議の環』といった概念をより精密化することで、自己言及の概念を三つの形式区別している。

第一に、「基底的自己言及(basale Selbstreferenz)」である。基底的自己言及とは、<要素>と<関係>の差異に基づいた自己言及である。この基底的自己言及自己言及の最小限の形式となる。基底的自己言及の場合、<自己>として指し示されるのは、システム内の<要素>に他ならない。システムが基底的な自己言及を実行する場合、<自己>は<要素>の<関係>が組み替えられることで作動していく。意味構成システムの<要素>となるのは、<出来事>だ。とりわけこの<出来事>という<要素>の<関係>から<コミュニケーション>が構成される場合に、その意味構成システム社会システムとなる。一方、<出来事>という<要素>の<関係>から<思考(Gedanke)>が構成される場合、その意味構成システム心理システムとなる。

第二の自己言及形式となるのは、「過程的自己言及(prozessuale Selbstreferenz)」である。過程的自己言及とは、<要素>となっている<出来事>の「事前」と「事後」の区別に基づいた自己言及である。この場合に構成される<自己>とは、<出来事>の「事前」と「事後」を区別する要因ではない。そうではなく、<自己>とはこの区別によって構成される「過程」なのである。「過程」としての<自己>が構成されるのは、システムの選択肢が増大する場合だ。例えばコミュニケーションという<出来事>としての<要素>の<関係>から構成される社会システムは、「過程」に他ならない。二者のコミュニケーションであれば、一方の反応についての他方の期待と他方の反応についての一方の期待を通じて方向付けられている。

この過程的自己言及は「再帰性(Reflexivität)」を生じさせる。システムが<自己>言及的である以上、この「過程」としての<自己>もまた言及の対象になり得る。「過程」としての<自己>に言及するのは、「過程」としての<自己>の一部に他ならない。それ故に社会システム再帰性が生じた場合は、コミュニケーションについてのコミュニケーション構成される。同様に心理システムの場合は、思考についての思考が生じる。この再帰性によって、システム過去の<自己>や未来の<自己>に言及することが可能になる。心理システムの場合であれば、既に思考したことについて思考することや、これから思考すべきことを思考することができるようになる訳だ。

最後に、第三の自己言及形式となるのは、「反省(Reflexion)」だ。反省は、システム環境差異に基づいた自己言及意味する。反省の場合、<自己>とはシステムに他ならない。反省という自己言及によって指し示されるのは、環境から差異化されたものとしてのシステムである。基底的自己言及過程的自己言及は、それぞれこの反省を前提とした上で実行される。基底的自己言及で把握される<要素>としての<出来事>はあくまでシステム内での<出来事>に限られる。環境出来事とは、ここでは何の<関係>も持たない。過程的自己言及で把握される事前と事後の差異も、あくまでシステム自身の過去未来に限定されている。

オートポイエーシス概念

一方、神経生物学者のウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラは、フェルスターが論じた「システムの内部における観察者の視点」という概念を徹底的に追究することで、「オートポイエティック・システム(autopoietischen Systems)」という概念を提唱するに至った。

従来の神経科学においては、外部の環境から送り込まれる情報は、ほとんど全て視床を経由して入力されると考えられていた。例えば中枢神経システムの網膜から大脳皮質へと伝達される神経刺激の経路は、視神経を介して、脳内に深部にある視床を通過する。この視床における視神経構造を担うのが外側膝状体(lateral geniculate: LGN)である。視床は大脳皮質への入り口(gateway)である。ただし視床は外部の環境からの情報入力の時だけ機能している訳ではない。大脳皮質からのフィードバックも、この視床を経由するのである。

しかしマトゥラーナと共にオートポイエティック・システム理論を記述したヴァレラは、この関連から従来の解釈とは一線を画した独自の認識論を展開している。ヴァレラの詳細な検証によれば、LGNにおけるニューロンが受け取っている情報のほとんどは、視覚野(VC)、上丘、視床下部、そして網様体(MRF)を含めた脳内の他の中枢から伝送されている。網膜から送られてきている情報は、全体の20%未満に限られている。我々の視覚は、そもそも網膜から情報が伝達されたから成り立っているのではない。

ここからマトゥラーナ=ヴァレラ説は、非表象主義的な視点によって、驚くべき結論を展開していく。神経システムは、「自律的な認知システム(autonomous cognitive system)」に他ならない。活発で、自己更新的な構造集合を有したシステムは、環境との構造的な結合歴史を通じて作動する。外的な環境から送られてくるあらゆる情報は、システムの内的な脈絡(internal coherences)によって処理される。神経システムは、「作動の閉鎖性(operational closure)」を有する。神経システムは、そのままの状態で入力された外部の情報をそのまま受信するのではない。外部の環境情報システム内部の自己調節的な活動とその内部モデルに結び付けるために、神経システムはあくまで内的な情報処理を遂行するのである。神経システムと外部の環境との間に、入出力の関係など一切あり得ないのだ。

したがって神経システムは、オートポイエティック・システムなのである。その作動形式は、神経アンサンブルの脱組織化と再組織化を絶え間なく進行させているニューラル・ネットワークの構成によく表れている。例えば感覚細胞や筋肉・分泌細胞は、環境による特定の物理的な刺激に対する特定の反応を規定している。確かに外的な環境観察者は、この刺激と反応の図式を利用することで、特定の入力から特定の出力を導くことができるのかもしれない。しかし感覚細胞と分泌・運動細胞の境界で作動する個々のニューロンは、環境の細胞システムや局所的な物質の移動には影響を与えない固有のルートを経由して、関連する二つの細胞システム間の物質の転送や、関連する二つのニューロン間の電気的な刺激の交換を可能にしている。

神経システムによるこのニューロン・ネットワークの構成は、元来、環境から制御できる類のものではない。神経システム外部環境に位置する我々から観れば、テレビを視聴しているということは、視聴覚刺激から映像や音声が表象されていることを意味する。しかし神経システムそれ自体は、神経システムの内部で構成されているニューロン・ネットワークを通じたある種の感覚と分泌・運動の関連性を維持しているに過ぎない。神経システムには、視聴覚刺激も、映像や音声の表象も、無関連なのだ。

オートポイエーシス概念の抽象化と再利用可能性

念のために付言しておくと、オートポイエーシスとは、もともとはマトゥラーナとヴァレラが生命システムの作動を説明する際に提唱した概念であった。これに対してルーマンは、このオートポイエーシス概念を抽象化することで、自身の問題設定において再利用している。つまり、人間の心理や社会というシステムが「如何にして可能になるのか」という問題設定を前提とした上で、その解決策としてオートポイエティック・システム理論を再利用したということだ。

だがマトゥラーナとヴァレラにとって、心理システム社会システムの作動は二次的な問題に過ぎなかった。だからルーマンがオートポイエーシス概念を自らのシステム理論に組み込もうとした際には、それが不用意な類推や隠喩であると批判した者たちもいた。しかしルーマンは、この概念を類推や隠喩として導入していた訳ではなかった。ルーマンによれば、生命システムに限らず、オートポイエーシスは普遍的な現象となる。それが科学・学問の歴史上偶然にも生命システムの作動において初めて発見されたというだけのことなのだ。

オートポイエティック・システムの作動形式

オートポイエティック・システムは、純粋な自己再生産によって存続するシステムだ。システム外部環境における情報の送受信は遮断されている。だからこそシステムは根本的に自律的に作動することができている。これは、オートポイエティック・システムという概念が、外部環境の要因からフィードバックを得ようとするかつてのサイバネティクス的なシステム概念とは根本的に異なることを意味している。

尤も、オートポイエティック・システム環境からの情報を受け付けないというのは、語弊があるかもしれない。精確に注釈すれば、オートポイエティック・システムは外部の情報からの影響は受ける。だが「その影響をどのように受けるのか」は、完全にシステム自らが決める。実際、例えば私がTwitterで「人工知能」という言葉を投稿することで他のエンドユーザーの視覚に刺激を与えることはできるだろう。だがその刺激を受けた相手の心理システムが、どのような「人工知能」を連想するのかについては、その相手が自分自身で決めることだ。私には、相手の心理状態を制御することはできない。

問題解決策:スペンサー=ブラウンとルーマンの区別

ある理論の前史を振り返る時、我々は一種の誘惑に駆られてしまう。その理論に一定の基盤を与えた別の理論存在しているという事実を知った者は、その基盤としての理論妥当性をも検証しなければならないという認識に突き動かされてしまうのだ。

しかし、基盤としての理論妥当性を仮に検証できたとしても、それを基盤とすることで記述された当の理論妥当性が検証されたことにはならない。逆に、基盤としての理論の誤謬を指摘する程度では、それを基盤にしている理論の誤謬を指摘できるという保証は得られないだろう。我々が認識すべきなのは、むしろ理論そのものとその基盤としての理論との「差異」である。理論区別されなければならない。無論、<既に記述されている理論A>と<別の理論Bの基盤として再記述された理論A>との間にも差異が伴う。理論の記述は区別の記述に他ならない。

ルーマンの理論観察する場合でも、上述した但し書きは例外とはなり得ない。彼の理論の前史を単純に振り返るなら、数学者のジョージ・スペンサー=ブラウンが記述していた『形式の法則(Laws of Form)』の存在に気付けるだろう。確かに、ルーマンの著作には至る所にスペンサー=ブラウンが登場する。上述した「指し示されていない状態(unmarked state)」と「無(Nichts)」の差異もまた、スペンサー=ブラウンによって記述されていた。しかしながらルーマンは、スペンサー=ブラウンの記述を単純に反復して記述している訳ではない。ルーマンがスペンサー=ブラウンを引き合いに出す場合、それは<記述についての記述>であり、再記述なのである。したがって、ここで一旦スペンサー=ブラウンとルーマンの区別を導入することによって、ルーマンの社会システム理論を補足しておくことにしたい。

形式の法則における二つの公理

スペンサー=ブラウンの『形式の法則』は、「形式(Form)」についての代数学的理論である。彼の代数学は、まず空間に「区別(distinction)」を設けるところから開始される。区別するというのは、例えば二次元的な空間平面上に円を描くことによって、空間を二つの領域に分断する営みである。言い換えれば、区別とは境界を設定するということだ。区別が導入された空間においては、区別された一方から他方へと横断することなしに、一方から他方への移行は許されなくなる。スペンサー=ブラウンの算術では、この区別によって境界が設定された領域に、区別されていることを指し示す「┐」が付与される。スペンサー=ブラウンは、この境界をマークする営み一般を「形式」と名付けた。

スペンサー=ブラウンは、この区別形式の定義を想定した上で、「呼び出しの法則(the law of calling)」と「横断の法則(the law of crossing)」という二つの公理を提示した。「呼び出しの法則」とは、二度目の呼び出しによって得られる値が、一度目の呼び出しによって得られる値と等価であるという法則だ。実際、同じ事物を二回指し示したところで、結果的にマークされている事物はその事物一つ限りである。だから一度目の呼び出しにせよ、二度目の呼び出しにせよ、得られる値はその事物についての値なのである。

一方の公理である「横断の法則」とは、二度の横断によって得られる値が、一度の横断によって得られる値と異なるという法則である。この法則によれば、一方の側から他方の側へと境界を横断してから、更に他方の側から一方の側へと境界を横断した場合、最終的には横断する前の状態に戻ることとなる。つまり、同じ境界を二度横断するということは、横断しないことに等しいのである。

原初の差異

スペンサー=ブラウンの『形式の法則』は、「無(Nichts)」に対して「指し示された状態(marked state)」と「指し示されていない状態(unmarked state)」の区別を導入することによって、言わば「無」から「有」を開始させようとする。スペンサー=ブラウンはこの関連から意識的にその著書の冒頭で『老子』の「無名天地之始」を引用している。「無名」とは名前によって指し示すことに他ならない。名前を付与することによって、「無」が指し示された領域と指し示されていない領域へと区別される。そうして区別された空間に設定された境界が、内部と外部の差異を確保することで、その領域内部に秩序をもたらす。この天地開闢に等しい区別の導入は、仏教における「空」のようなもので、それを把握することが「解脱」へと結び付く。

スペンサー=ブラウンが記述した「指し示し(indication)」の代数学的算術は、世界における原初の差異のみならず、意識や志向における根源にも言及している。フッサールが明示したようなノエシスノエマ区別に先行するように、「区別せよ(draw a distinction)」こそが、意識根源的に従事せざるを得ない命令なのだ。

こうした根源的な命令となる第一の区別(the first distinction)が原初の差異として確保されることで、スペンサー=ブラウンが「原形式(the form)」と呼ぶ概念が生誕する。原形式は、あらゆる存在者存在がそこにおいて実現可能となる全体世界を意味する。言い換えればそれは、「宇宙(universe)」のようなものだ。それは存在論的差異よりも優先して導入されるべき区別形式に他ならない。

スペンサー=ブラウンからルーマンへの「横断」

ルーマンの理論は、このスペンサー=ブラウンの『形式の法則』から多大な影響を受けている。だが彼は、スペンサー=ブラウンの理論を鵜呑みにして借用していた訳ではない。例えば彼が「圧縮(condensation)」の形式に言及する際には、「呼び出しの法則」に対する批判的な態度が伺える。

ここでいう「圧縮」とは、二度目以降の呼び出しによって得られる値が一度目の呼び出しによって得られる値と等価であるという理由から、二度目以降の呼び出しによって得られる値を言わば捨象してしまう操作を意味する。記号的に表現するならば、┐┐=┐として、形式を単純化する操作を「圧縮」という。圧縮の対概念となるのが、「再認(confirmation)」だ。再認とは、記号的には┐=┐┐となる。つまり、一度目の呼び出しによって得られた値から、圧縮によって捨象されていたであろう二度目以降の呼び出しの値を推論する操作を再認と呼ぶ。

ルーマンは、この圧縮再認形式に対して批判的な立場を表明している。彼は、区別を用いた指し示しが反復される時、単なる区別以上の価値が生まれるという。と言うのも区別とは、区別された双方の間に、非対称な関係を構成するためである。区別された一方は、何かしらの「意味」において、他方よりも優位な関係にある。それが反復されるということは、その一方の領域に形成されている優位な性質がより頻繁に目に留まるようになるということだ。ルーマンによれば、この世界においては、意味の変更なしに二度以上指し示される対象など無い。むしろ同一の区別が反復されることによって、その一方の領域に帯びている優位な性質に対する慣れ親しみが生み出される。我々が様々な状態や状況に習熟することができるのは、それが反復されているためである。

スペンサー=ブラウンの記述では、区別された双方の間で可能となる横断は、恰も事前に実行されていた指し示しを打ち消すかのように作用する。これに対してルーマンは、境界の横断が、指し示しを打ち消すのではなく、ただ横断前に位置していた側に立ち返る可能性を保持した上で実行されると考える。何故なら区別とは、境界を設定する営みだからである。対象Aと非対象Aの境界を設定するということは、明示的であるにせよ、暗示的であるにせよ、Aと非Aの双方を同時的に指し示さなければならないということだ。たとえ非Aの側からAの側へと境界を横断するとしても、非Aへの指し示しが打ち消される訳ではない。非Aへの指し示しは、暗示的に続いている。だからこそ境界横断後には、また非Aへの境界横断が可能になるのである。

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